回廊の中で 【巻3 針の少年】

魔法の迷路・「回廊」に挑み続ける女性、灯火志義(あかり・しぎ)は、回廊にいる〈誰か〉の一人、ジルダゼラミとの対話に成功。ジルダゼラミは回廊から解放された。
もう一人の〈誰か〉、フウを救ってほしいと頼まれた志義は、引き続き回廊に入っていく。
少しずつ集まる重要な手がかりと、友人たちの助力も加わり、志義は確実にフウに近づいている。

※「︙」マークから目次を通して各章にスキップできます。
※「★★★」マークが節(話)の切れ目の目印です。章の切れ目≠節の切れ目なので注意。

1,新発見

★★★

――見えなくても、ある。それは事実なんだよ。

回廊の入口で〈こだま〉を聞き、志義は走り出す。
何度か聞いた、同じ少年の声。

「フウに違いない。今なら居る」

時間が掛かると解っていながら右ルート、即ち中心部への「必着ルート」を選んだのは、気まぐれで道が変えられてしまう可能性が否定できない左ルートを怖がった為だ。

その不安感は、どうやら相手に伝わっていたらしい。

志義が中心部に着いた時、空間は無人であった。

「微妙な心の揺らぎまでも、会わずして見抜く力を持つのか……」

現在、唯一の回廊管理者たるフウは、どこまで不思議な能力を得ているのか。

今更心の動揺を隠しても無駄だと思い、志義は冷静になろうとする常の癖を止め、大きく溜め息をついた。

それでも、志義の観察眼は無意識で働いた。

「回廊の道、16本」

中心部を囲む道の数である。

「え、16?」

彼女にとって、大発見だ。

「ジルダゼラミの空間は、17本だったはずだ。どういう事だ」

空間をよく見てみる。
ジルダゼラミの中心部と比べて、やや小さい印象がある。

「中心部が変化するのか。――あるいは、中心部が2つある、とか!」

どちらだろう、と考える。
志義が信じられたのは、後案だ。

「そうであるならば、中心部には、ジルダゼラミの空間とフウの空間の2種があり、どちらに辿り着くかは、来る側には選べない、という事か。
この推測通りなら、私が居るここはフウの物」

天井を見上げ、志義は叫んだ。
「私は決して逃げない。姿を見せて。私に会って」

回廊の中にまだフウは居ると思い、聞こえている事を願った。

反応らしき何事かは起きない。

背負った小さめの鞄から、腕の長さで切った青い毛糸を出す。

「これを置けば、私が来た事に必ず気付くだろう」

呼びかけが聞こえていなかった場合の、保険である。
中心部の中央の床に、目立つように置いた。

志義は適当に選んだ道から回廊を出た。

本格的な秋の風が、涼やかに竹林を抜ける。
頭上の空は、幻想的な紫に染まった。

★★★

回廊を去った志義と入れ替わるように、フウが中心部に戻ってきた。

「回廊の中には、誰も居ないな」
フウはほっとした表情になる。

途端に、険しい顔つきに一変した。

中心部に、見慣れぬ物体がある。
青い毛糸である。

左手で拾い上げ、
「一体、誰が」
と呟いた。

目は、一つの道に注がれる。

「あの人だ。この3年間、回廊で最も数多くやってきた、あの女性に違いない。
それにしても……」

毛糸をぎゅっと握り、焦点の合わない黒い瞳に、遂にこの空間に辿り着いた人物の影を描いた。

「あの氷の心のジルダゼラミを解放させるなんて。あの人は、一体何者だ」

暫くその場に佇んでいたが、ゆっくりと床に座り、抱えた膝に顔を埋めた。

フウが右手を挙げた。

突如、短い針が出現し、彼を囲んで回り始めた。
針は勢いよく回転を掛けてフウ目掛けて飛ぶ。

急に挙げた手を顔の前に翳した。
針は彼の体すれすれで止まる。

力が抜けたように手を下ろすと、針は全部消え去った。

「やっぱり駄目だ……。できない」

目を開けて顔を起こす。
悔しげにも悲しげにも見てとれる。

視線が、左手にある毛糸に注がれた。
「そろそろ、彼女に会って話してみるのもいいかな」

フウは仰向けに寝転んだ。

「果たして、彼女はまた来られるかな」

2,消したい思い出

★★★

「これだから、『誕生会』なる物は」

あからさまな溜め息を何度もついて、絞るように志義は言った。

10月18日。
今日は志義の19歳の誕生日だ。

打ち合わせた誕生会は、志義が譲らなかったチーズケーキがとてもおいしかった事以外、全ての約束が破られ、派手な宴と化した。

店員もが加担者になったこの宴は、貸切状態(本当はただ他の客がいないだけ)のカフェの中に広い空間を設け、康太と真貴也がダンスを披露する、というだけなのだが、志義に言わせれば、

「くどい。しつこい」

康太と真貴也の特技の発表会でしかない。

本格的なヒップホップダンスに、花鈴や店員等が歓声を上げる中、主役であるはずの志義はチーズケーキを見つめたまま暗い顔をしていた。

(あの時の物は、どこで手に入れていたのか……)

深い思い入れのあるあれとは全く違う品であるが、味は似通っている。
ただ、その思い出があった場所と、今居る場所は遠く遠く隔たれている。

(同じ物ではないはずなのに)

「ねえねえ、たった今思いついた」

康太が真貴也と共に、志義と花鈴が居るテーブルに戻った。

「何を」
面倒くさそうに志義は返事をした。

きらきらした目付きで、康太は言った。

「来週、四人で回廊に行こうよ」

志義が顔を上げる。

「四人で」
花鈴が意外そうな声で、志義の代わりに聞く。

「賛成」
真貴也。
「そろそろ、みんなと行きたいなって考えてたんだ」

「私は……ええ、行くわ」
花鈴も答えた。

「志義はどうするの」
康太が催促する。

(1人で行く時とは違った成果が得られるかもしれない)

「分かった。全員で行こう」
暗めの表情を取り外して、志義は言った。

「ようし、決まり。来週、回廊の前で集まろう」
康太は言いながら、またも広場へ行く。

「真貴也、やろうぜ」
「おう」

店員が曲を掛けようとする。

志義が立ち上がった。

「私、帰る」

回廊の事よりも。
自分の誕生日の事よりも。
友の歓迎よりも……。

頭に浮かび始めた忌まわしい記憶を再び封印する為には、独りでなければいけない。

志義は、一刻も早く家の自室に籠りたかった。

3-1,茶色の異空間

★★★

回廊の入口の前に、志義が最初に来た。

「今日は居るか。あるいは、大勢を嫌って現れないか」

志義にとって、友3人を連れての今回は、賭けである。

1人で行くからこそ、相手は一対一として自分と向き合う気を起こす、と信じてきた。
実際に瑠希――ジルダゼラミは自分とだけの対話を受け入れた。

瑠希の話では、〈フウ〉という人物は1人である。
回廊に居る時も孤独を好むらしいではないか。
そんな相手に、複数人を伴うのは、卑怯とさえ感じた。

それでも志義がこういう手を選んだのは、1人で行っても、まだフウに会えなかったからである。
志義は手法を変えて挑む勇気を振り絞る事に決めた。

「早いな、志義は」
康太の声。

康太と真貴也と花鈴が一緒に来た。
7日ぶりに会う。

「この前は、大騒ぎして、ごめん」
真貴也が言った。

志義が好まない行事を強行したせいで志義がへそを曲げた、と思っているらしい。

(確かにその通りでもあるんだが)
と思いつつ、

「私こそ、みんなの気持ちを考えもせずに」
謝った。
それが最善だと信じた。

「志義は悪くないわ」
と花鈴が慌てて言う。

「さあ」
康太が手を打って場の空気を変える。
「回廊に入ろう」

四人は康太を先頭に、志義、真貴也、花鈴の順に回廊へ足を入れた。

「まず、どっちに行く」
志義。

最初の二つの分かれ道だ。

「左」
康太。
「より不可思議な可能性がある方が良いな」

「なるほど」
真貴也が感心げに言う。
いつも手当たり次第の使い方しかしないからだろう。

「私はどちらでも構わないわ」
花鈴はまだ恐る恐るといった感じだ。

左ルートを暫く進む。
緩いカーブが続く。

いきなり、回廊ががたがたと揺れ出した。

「なんだなんだ、地震か」
真貴也が転びかけながら叫ぶ。

「回廊が歪んでいる」

志義が落ち着いて辺りを見回して言った。

志義の当たりだ。

道が歪み、捩れ、天井もぐにゃりとうねる。
床の振動が激しい。
四人はその場にしゃがみこんだ。

前触れ無く真っ暗になった。
何も見えない。

数秒で明るくなった。

しかし、目の前にあるのは。

「これだよ! 俺が迷った迷路は」

真貴也の大声は、新たに現れた、目にした事の無い大空間に反響した。

四人が今居る場所は、水色の回廊ではない。

全てがテラコッタのような色の、別の場所だ。

四人は、両側を背丈より高い壁で挟まれた道の上にいる。

「真貴也、これは迷路だ、と言ったね」
志義が聞く。

「うん、そうなんだ。どこまで歩いてもこんな景色。天井はずっと高いし。壁は必ず真っ直ぐ。入り組んでいて、本当に迷路。自分で出口に着いた事は無い」

真貴也が言いながら跳ねる。
この面々で最も背の高い真貴也の頭の先さえ、壁の上辺に届かない。

志義は「必着ルート」上の壁を登るのと同じにして、壁を蹴り、いとも簡単に壁の上に立った。

「ああっ、ずるい」

迷路から自力で脱出できなかった真貴也にすれば、志義の身体能力は喉から手が出る程に欲しいものだろう。

「こりゃいい。志義、何が見える」
康太は嬉しそうに見上げて、志義に呼びかけた。

空間は想像以上に広大だ。どこまでも壁の仕切りだけでできた迷路がある。

反対を向いて、志義は驚いた。
「向こうはもっと大きな壁がある」

花鈴が適当に見つめるのと同じ方向を指して、志義が言う。

「大きな壁?」
と康太。

「大きい建物の外壁みたいな感じ。そこまで直線で大体30メートルかな」

「ほかには」
花鈴が聞く。

「壁の左に階段がある。螺旋階段だ。その上に、張り出した部分があって、展望台っぽい」

(!)

志義は目を瞠った。

張り出した部分に、人影を見つけた。
人は、後ろに下がるようにして姿を隠した。

「どうした」
真貴也が、黙った志義を心配した声で尋ねる。

「人がいた、ような……」

(もしや、フウか)

3-2,幻術世界の中

「とにかく、進もう」
康太。
「志義、上からならどっちに行けばいいかわかるだろう。案内してよ」

「分かった」
志義は目の前の課題に集中する事とした。

志義は壁を歩き、康太と真貴也と花鈴は道を走る。
志義が「右へ」「前へ」と指示を出す。

この方法は上手くいった。
簡単に迷路を脱出して、螺旋階段の前まで着いた。
緩やかな右カーブを描く、大きな階段だ。

「段数もけっこうありそう」

真貴也は体力がある方ではない。
張り出し部分との高低差を見て、少々落胆気味だ。

「行きましょう」
花鈴。
「上から見れば、何か手掛かりがあるはず」

横並びで階段を上っていく。

最上段は、やはり張り出し部分に繋がっていた。

「ここは迷路の端っこか」
康太が張り出し部分の端まで行き、見下ろす。

(あの人はどこへ)

先程見た、確かにここにいたはずの人物は、いない。

三人が広い空間の方ばかり眺める中、志義は張り出し部分と巨大な壁の接着する方を見た。

そこに、4つの扉が並んでいる。
扉には取っ手がある。
左端から取っ手を掴んでみた。

動かない。
見せかけだけの扉だ。
2番目も、3番目も同じだ。

「ねえねえ、あの辺、なんかありそう」

三人はまだ反対を探している。
志義はそちらを三人に任せる事にした。

4番目の扉。
取っ手が回った。
開く。
これは本物だ。

中は、回廊と同じ水色の狭い空間であった。
狭い階段が下へ伸びている。

志義は階段に足を踏み入れた。
100段で階段は終わり、目の前は壁で塞がれている。

「これだけか、まだあるか」

壁を凝視する。
すると。

壁が透明に透ける。
向こうが見えた。

「私達が、居る?」

水色の道の途上に、志義等四人が倒れている。

「今までのは。この自分は、何だ」

壁は透けたり濁ったりを繰り返す。
見えるのは同じ物だけだ。

「もしや、これが幻術」

(そうならば、向こうに見える私達が本体で、ここにいるのは、本体が見ている夢、即ち幻術世界)

志義は壁を思い切り叩いた。

壁がぐにゃぐにゃと歪み出した。

意識が遠のく。
「出られるはずだ、これで。幻術を解いた」

意識が、切れた。

 、、、、、、

目覚めると、志義は床に倒れた状態だった。
隣に、康太と真貴也と花鈴も居る。

志義は起き上がった。

「康太! 真貴也! 花鈴! 起きて」
呼ぶと、三人は目を覚まし、起きた。

四人とも立ち上がる。

「一体、何だったんだ。広い方を見てたら、急に眠くなって……」
真貴也が混乱を隠さない声で言った。

「幻を見せられたんだ」
志義が言うと三人は目を丸くした。

「誰が私達に」
と花鈴。

(そうだ)

誰が幻術をかけたのか。

(今なら居る)

「先に行く」
とだけ叫んで、志義は走り出した。

自分が向かう先が中心部に通じているかは分からない。
これは左ルートだから。
できれば右ルートへ戻りたいが、そんな時間は無いだろう。

とにかく進む。
それ以外の手は無いものと、志義は考えた。

3-3,究極の選択

一本道が延々と続き、分岐点は現れない。

どのくらい走ったのか。
体力自慢の志義の息が切れ始めた。

(もう、居ないのか)
直線上の奥に、光具合の違う点が見えた。
近くなるにつれ、それがアーチ天井の出入口に見えてきた。

「中心部」
志義はアーチ部分を潜り抜けて、止まる。

確かに、ここは中心部と同様の空間であった。

「あっ!」

頭上に、人が浮いている。
その人は、回廊の水色の中に溶け込んでいるかのようだ。

全身を回廊と同色の衣服で包み、巻き髪までもが同じ色である。
足に履物は無い。
背丈は志義と同じか。

空中の人が、志義に声を掛けた。

「必ず来ると信じていた。君は僕を裏切らなかったね」

「その声は」

間違えようがない。〈こだま〉そのものである。
良く響く、深みのある声だ。

「あなたが、フウね」

志義が聞くと、少年は頷いた。

フウが床に降りた。
そこが中心部の中央だ。

柔らかい微笑を湛えながら、フウが言った。

「どうやって僕の幻術世界から抜け出したのか、聞かせてくれるかい」

「やはり、あれは回廊とは別の、幻だったか」

「そうだよ」
フウ。
「回廊の中にあんな迷路は存在しない。僕が作り出した夢幻だ」

志義は1歩前に出た。

「私はあの世界で、仕切り状の壁に登り、巨大な壁と、展望台のように張り出した部分を見つけた。
私が案内しながら、康太と真貴也と花鈴と共に迷路を抜けた。階段を上って、展望台に着くと、巨大な壁に4つの扉があって、1つずつ開くか試した。右端の扉が開き、中の階段を降りた。
行き止まりの壁に映る本物の私達を見て、あの世界が夢だと考えた。
壁を叩いたら、あれを脱していた」

志義が説明すると、フウは目を閉じ、深い吐息を聞かせた。

「見事だよ。あの広場に辿り着けた者は過去にいなかった。無論、その先の過程もね。
君は幻術の不完全な部分を当てた。僕の力を使わずに、あの世界を壊せたんだ」

「私のみの努力ではない」
志義は言う。
「友の力は大きい。私だけで挑んでいたら、ここであなたに会えなかった」

「その、友だとは思うが」

遠慮がちにフウが切り出す。

「回廊内にまだ居る。僕は、君一人だけと話したい」

(どうする)

友か、目の前の人か。
努力の成果を取るか、友情を取るか。

友情を取れば、彼との話は消える。
彼との時間を取れば、友情は終わるかもしれない。

(どうする)

「決めたかい」
フウが聞く。
彼は待たされるのを好まないようだ。

志義は決めた。

「あなたと話す。三人を出しても構わない」

フウが両手を組んだ。

聞こえないはずの、康太と真貴也と花鈴の悲鳴が耳に届いた感じがする。

ぎゅっと目を閉じて、志義は謝る。

(ごめん。みんな、ごめん)

目を開けると、フウが手を解いた所だった。

「これで回廊は空になった」

回廊の外に弾き出された友三人の事を思うと、志義の心は手で握り絞られるが如く痛んだ。

友を傷付けた。
そして、私はまたも友を失った、と。

3-4,問答

「さて、何から話そうか。君の問いには何でも答えるつもりだよ」

穏やかにフウが言った。

その途端、中心部と道の間に、壁が浮かび上がるように現れた。
ジルダゼラミの空間での時と同じく、ここも閉鎖された。

志義は気持ちを切り替えた。
きりっと顔を上げ、質問を頭に並べる。
聞きたい事は既に用意してきた。

「私に声を、〈こだま〉を発したのは、フウなのか」

頷くフウ。どことなく嬉しげだ。
「届いていたんだね。あの言葉が」

「なぜ私に。それとも、私以外の人にも聞こえたのか」

「聞けたのは君だけのはずさ。『聞きたい』という強い意志、僕等に会いたいという強い願いのある君だけが。僕は言葉を送ってみたくなったんだ。どんな反応をするか、とか」

(割と素直に答えてくれそうだ)

「中心部に来るのはこれが初めてではない。回廊に来る回数は200回を超えた。何度も行っても、あなたは今日まで姿を見せる事は無かった。ジルダゼラミも同様だ。彼女に会えたのは偶然だった。私に会おうとしなかったのは、なぜ」

「僕の場合、理由は大きく分けて2つある。回廊にそもそも居ない時と、誰にも会いたくない時。ジルダゼラミは常に回廊に居たが、必ず中心部に留まる訳ではない。僕と同じように孤独を好む傾向があった」

「回廊には色々な子供達が来たはずだ。どうやって会わないようにできた」

「この中の事は大体解るのさ。どこの辺りに何人いるか、とか。でも、僕等にも限界はあってね。3つ4つの部分で同時に起こる事を全て詳しく監視できるとは限らないんだ」

「私が頻繁に回廊に入ってやっていた事も分かっていたのか」

「ああ。大方は」

(殆ど私の行動を把握していたのか)

回廊の〈誰か〉、即ちジルダゼラミとフウが、顔を合わせた事が無い自分を知っている状態が長かったと、ここで志義は初めて知った。

「中心部が2つあると私は考えたが」

「よく気付いたね。そうだ、中心部は2つ存在する。ジルダゼラミが常に居た空間と、僕が住んでいるこの空間だ。ただ、外から来た者がどちらに着けるかは僕等にも予測できない」

「回廊の道を変えていたのはあなた達なの」

「その通り。中心部に来られないように道を変化させていたのさ。僕とジルダゼラミにはそういう力がある。
しかし回廊は何しろ広い。僕等の感覚が及ばない時だってある。そんな時に限って、誰かが中心部に来てしまうんだ。君以外の者は全員がそうやって偶然にここへ辿り着いた。
君は、僕等の力が決して及ぶ事のできない唯一の道を見つけたんだ。故に必ず中心部へやってこられたのさ」

「孤独になりたくて回廊を変化させているのは分かった。だが、回廊に来る子供達を外へ弾き出すのはなぜ。回廊は広いのだから、そのままでもいいんじゃないの。中心部に来られてしまったのなら、自分が移動するとか」

「この回廊は僕等にとっては家なんだ。家に勝手に入ってくるやつらを許さないのは当然だろう」

「ならば、どうして入り口を塞いでおかない」

「できるならやってるさ。それが無理なんだよ。回廊は僕等が作ったのではないからね」

「誰? 誰が回廊を作った」

「知っていれば最初に言った。僕を含めて、誰も知らないよ」

殺風景な空間での2人きりの問答は、志義が矢継ぎ早に質問を飛ばすので切れ目が無い。
またフウも間を置かずに答えを返した。
まるでそれらを読んでいたかの如く。

(回廊を作ったのは、誰)

今までに何度かは考えたが、あまり気にしてこなかった事に触れて、志義の思考が一旦は止まる。

回廊は誰が作ったのか。

(もしや、またも魔法使い、とか……。いや、それはあり得ない!)

嫌な記憶が蘇り始めたので、志義は回廊製作者の話題を捨てた。

「道を変えたり、攻撃をしたりする能力はどうやって身に着けた」

「回廊に居る間に、いつの間にかそういう力を持つようになったんだ。僕にも訳が分からないよ。ジルダゼラミもそうだった。回廊に来るまでは何の力も持っていなかったのに、突然、魔法みたいな不思議な力を得た。僕も彼女も、得た力は使いこなせるようになった。道を変化させられる能力は重宝しているよ」

「道を変化させられて、外へ追い出すこともできるならば、子供達を攻撃する理由はどこにある。偶然に来る子供達に罪は無いでしょう」

フウの顔から笑みが消えた。厳しい表情だ。

「罪は、有る者と無い者がいる。無罪の人には何もしない。問題は罪のある方、ジルダゼラミが雲母瑠希だった頃を木っ端微塵にしたやつらだ。彼女に残虐非道な仕打ちを何の痛みも感じる事無くやりやがった最低の人間だ。人間とも呼びたくはないね。やつらは、どこからともなく彼女の行方を嗅ぎ付けて、また苦しめてやろうとここへわざわざ〈遊びに来る〉んだ。
ジルダゼラミは僕にとっては姉弟みたいなものさ。彼女を傷付けに来るやつらには容赦しない」

「怪我をして回廊から出てきた人達の多くが10代後半だという噂に限られるのは、瑠希を知る人間ばかり攻撃した為か」

「そうだろうね」

言い終えた後、フウはふっと顔を緩め、最初と同じ笑みを戻した。

(笑ってない。笑ってなどいない)

志義は気付く。

優しげに微笑んでいるように見えるフウだが、彼の目は、全く笑っていなかった。
何を考えているのか、何の感情を抱いているのかすら解釈できない目をしている。

3-5,信用

(彼が答えてきた事柄に偽りは無さそうだが、フウは自身の事をほぼ何も語っていない)

フウが、あえて自らの事を口に出さないようにしているかに感じ取れた。

「あなたはいつからここに居るの。なぜ居るの」

この問いに彼は答えなかった。

(やはり、手強い)

フウは徐に体を横に向けた。

「僕は解放されない。僕はここに残る」

志義はきょとんとなった。
「なぜ、そんな事を言う」

答えは返ってこない。

自分から目を逸らして天井を見上げるフウを見たまま、志義はこの空白を使って何を聞くべきか考える。

(回廊の謎の大方は、先程の問答で解けた。私が知りたいのは、さらに先の、フウ本人の事柄だ。彼自身について聞き出せれば)

「フウが自身の事を語るまで、私は帰らない。外の日が暮れ、夜が更けたって帰らない。あなたが口を開くまでは」

機敏な動きでこちらに振り向いたフウの顔は明らかに驚きで満ちていた。
が、それも束の間、フウの目が曇った。
顔を別の方へ向ける。

「君には僕の気持ちなんて解らないよ」

と言うと同時にフウが左手を払った。
その手から湧き出るかのように数十本もの短く太い針が現れ、志義へ勢いよく飛んだ。

志義は素早く右に大きく跳んだ。
針は直線に飛んでいた為、1本も掠らない。

その様子を横目で観察するフウ。

(私を試している)

灯火志義という人は信用に値する人間か、否か。
攻撃されて逃げたらそれまでの事。
残るなら、信じても良い可能性も出てくる。

そういう考えを彼はしているのだろう。

志義は体勢を立て直すと、フウの正面に来て、真っ直ぐ立った。

(私は逃げない)

あえて声に出さずに、心の内から訴えかける。

(逃げるものか。どんな攻撃をされようとも、去るつもりなど無い)

構えたままの手を下したフウが、ようやく志義の目を見据えた。
志義もフウの目を注視する。

元々無音の中心部が、例えようもない静寂に包まれる。

先に視線を外したのは、フウだった。

「正直だね、君は」

やや下の角度に向く首を重たそうにしながら、フウは1つ溜め息をついた。

「君だけには打ち明けるよ」

諦めとも取れる言い方をした。

(私の決意は伝わったのか)

志義はまだフウの真意を分かりかねていた。

フウが顔を上げた。

「本当に僕の心を理解できる、と思う?」
微かな希望を含ませた響きを持たせてフウは言った。

志義が頷く。
「あなたの話を聞かせて。何から話しても構わない」

フウも頷いた。
少し斜めに体の向きを変え、静かな口調で話し出した。

3-6,フウが知る瑠希

「まずは、ジルダゼラミの事から話そう。僕と同じ家に5年間も住んでいたのだから。ジルダゼラミが君に心の内の全てを語ったようだから、僕から言う事はそれ程多くはないが。
志義が知った通り、ジルダゼラミの正体は、実在の少女、雲母瑠希だ。瑠希は14歳の時にこの回廊に現れた。そう、ジルダゼラミとなって。彼女は死ぬ事に失敗した。体は物理的に傷付いて植物状態となり、ぼろぼろになった魂だけが生霊という形をとって回廊にやってきて、あのようになった。瑠希は、自分を破壊したやつらへの復讐のみを生き甲斐とし、本当に復讐だけをやって、5年を過ごした。
想像できるかい。瑠希が受けてきた痛みを。苦しみ続けてきた日々を。彼女は体のあった時代を生き地獄と呼んだ。死後の世界だけが天国に見えた、とも言った。
僕は決して許さない。彼女をあれ程までに傷付けたやつらを。瑠希を、回廊の綱の檻の姫・ジルダゼラミに変えてしまった悪人どもを」

秀麗な顔が怒りで険しくなる。
目に光が入らず、底恐ろしくなるような雰囲気だ。

志義はフウから立ち上る負の気流を、ただ冷静な感覚で落ち着いて受けた。
染まり切らず、ただし彼の感情や思考を受け取り、あるままに頭に入れた。

(彼も、私や瑠希と同じに、中途で話を遮られるのを嫌うはず)

という見解に立ち、言葉を挟むのは止めた。

「ジルダゼラミという名は瑠希が自分で付けた。まともな形で生きてもいなければ、死んでもいない、中途半端な狭間の存在として。
ジルダゼラミを最初に『綱の檻の姫』と呼んだのは僕さ。彼女が回廊に現れた時、既に綱の囲いはできあがっていた。あれは彼女の心が生み出した。心そのものだ。全てを嫌い、全てを拒絶し、全てに怒りと憎しみを抱く、ジルダゼラミとしての全容を物語っている。
彼女が来るまで、回廊に居たのは僕だけだったから、初めは僕も戸惑った。帰る場所が無い存在なのだと分かったから、ここに留まるよう勧めたんだ。安心したからか、綱の檻の柱の数は減ったけれど、あの三角錐の辺になる部分だけは決して消えなかった。志義が彼女に会うまでは。
彼女を回廊から解放しても、それで瑠希の憎しみの数々が消える訳じゃない」

「そんな事はとうに分かっている」

つい、志義は言葉が出た。

「きっとそう言うと思ったよ」

志義の横槍に嫌な顔はせず、フウは反応した。

「憎しみは消えない。でも、瑠希は志義の力でかなり楽な気持ちになれたはずだ。そうでなくてジルダゼラミが元に戻れようか。彼女の真っ暗闇の世界に光を差し込ませたのは君だ。
君がどうやって瑠希を解放させたのかはもう知っている。志義の、心をぶつけるような言葉の連なり。それが彼女の頑なになってしまった心を揺り動かした、という事を。僕はあの場とは別の場所から、成り行きを感じ取っていたんだ」

「全てを」
と志義が聞く。

「全てを」
フウは言った。

「本当に驚いた。何を言ったところで、彼女には響かないだろうと思い込んでいた。
瑠希にはあの後、会ったのかな」

「会った」
志義。
「随分と前向きな考え方になったと、私の方がびっくりした」

「それなら良かった。暗い心を引きずっていたら、あの世界では生き辛いなと心配していた。過去から目を離す時間が増えてほしいと願い続けていたんだ」

(家族同然の関わりだったんだな)

フウが瑠希の存在を自らの生き甲斐にしていたのであろうことが、ここまでの話で分かった。

フウは今度はゆっくりと脚を動かし、歩いた。
どこかへ向かうのではなく、ただ中心部の中を思うままに歩いているようだった。

志義はフウが言葉を発するのを待った。
慌てて何かを聞かないよう、心を静めながら。

3-7,孤独と思考

「回廊は、孤独になるには最適な場所だ。中心部にたまに子供達が辿り着いたとしても、それでも、外の世界より一人でいられる時間を長く確保できる。
僕はあの日以来、どうしても人に会いたくなくて、回廊に住んで暮らしているんだ」

歩みを止めずにフウが話す。

「7年前の今頃の季節だ。僕が世界で最も大切にしたい人が死んだ。僕の祖父だ。
祖父は、僕が気付くより前から、僕の面倒を見てくれた。僕にとっては唯一の身内で、たった一人の親でもあった。祖父は僕に厳しく、そして優しかった。
僕は……じいさんが大好きだった」

言葉の終わりに、フウは右手で顔を覆った。
その隙間から一粒の雫が頬を伝うのを、志義の目は捉えた。

フウは急ぐように袖で目元を拭った。
腕を下ろすと、更に遅い動きで歩く。
志義を見ず、どこか遠くの山の上の雲を眺めているような眼差しで、今は狭く感じる中心部を踏み締めている。

「じいさんがいなくなってから、僕は完全に一人だった。家族も、友も、誰もいない。僕は本物の孤独を味わった。
誰とて僕の思う事感ずる事など分かろうとも知ろうともしなかった。単純に『かわいそう』としか、字面のままにしか考えなかった。
下手な哀れみより、精一杯の心からの励ましの方がずっと為になるのに」

彼の声が低音に変わった。

「僕はジルダゼラミと同じ理由でここに在る訳ではないんだ。自分が居ても居なくても世の中は回っていく。だから僕は回廊に居るんだ。少なくとも、この回廊は僕の存在を必要として受け入れてくれるからね。
独りでいる事に苦は無い。寧ろ気楽だね。誰にも気を遣わずに済むし。何より、孤独に物事を考えている方がずっと落ち着くんだ。多少心が荒れても、自力で静められるつもりだから」

次に志義の視界に入ったフウの目に、初めて感情が滲んでいた。
哀愁の色だ。

「生きてたって、無力な僕には残せる物なんて何も無い」

そんな事無い、と志義は叫びたかったが、堪えた。
フウの話を遮ってはならない。

志義の気遣いを知るか知らぬか、フウはようやく自分の思考を言葉とした。

「どれだけほかの人の困難を見聞きしても、自分の悩みや困難がちっぽけに見えてこないんだ。他人の哀れな話を聞くと自分も沈んだ気分になる。そのまま立ち直れないんだ。
悩んでも仕方のない事で悩んでしまう。不安になり出すと止まらない。先が見えなくなってしまう。一度でも不安になり始めると引き摺ってしまう。僕は不安の塊なんだ。他人と自分を比べては、『自分は駄目だ』と落ち込む。その繰り返しさ。
僕がいるというだけで場の空気が悪くなる感じがしてならない。まるで僕を排除したがっているかのように。
かと言って、逃げ場もない。この回廊と、もう一つの別の世界以外には。僕は別世界に行く勇気が無い。仕方なく選んだのが、ひとまず生きたまま逃げられる回廊だ。僕が命を保つ事を許してくれる場所として」

口ぶりは思いついたまま言ったかに聞こえるが、内容はきっちりと纏められている。
幾度も頭の中で反芻させてきた事柄なのだろう。
となると、フウはこのような考え方を――7年以上も続けてきたという事になる!

(瑠希が言っていた『危険』の意味が、分かった)

フウが、もし、思い切る勇気と行動力を得てしまったら……。

志義には、フウが選びかねない最悪の手段を瞬時に予測できた。

(全て聞け。思い留まらせる話をする為に)

僅かな空白に、志義はこれだけの事を巡らせていた。

また、フウが言葉を発した。

「誰かに相談しろ、と言われても、僕にはできない。
例えば友達。気持ちが軽すぎる。こっちは真剣に話してるのに。軽い冗談に変えてしまおうとするんだ。それに加えて、話を直ぐに人にばらす。僕は誰も信じられなくなったよ。
僕には未来が見えない。ちっとも明るくない。真っ暗だ。光は無い。希望も夢も無い。したい事さえ思い浮かばない。今、具体的に何をすべきなのか見当もつかない。
僕は何もできない。やれない。あるのは無力感と、心に抱えた傷だけだ。
毎日が単調で、退屈で。こんな日々の繰り返しに、何の意味があるんだろうか。生きているのがしんどいよ。こんな事ばかり考えつく自分を、どうしたらいいか、分からない」

俯きながら、尚も足を止めずに歩き続けるフウ。

「僕の心は、とうの昔にぼろぼろになってしまったよ。僕は生きていて本当に価値があるのかな。価値が無いなら、自分を終わらせたい。自分の手で……。
僕は駄目な人間だ。僕なんかは世の中に要らない人間さ」

しっかりとした足取りで、フウは無言で中心部を一周すると、志義の前方で止まった。

3-8,言葉の嵐

「初めて、胸の内を明かすことができたよ。……もう思い残す事も無い。僕は、ジルダゼラミと同じ失敗はしない」

そう言うとフウは両腕を広げた。

志義の脳裏に閃光が走る。
彼の思惑に感付くのに、時間など要らなかった。

「やめろ」

と志義が叫ぶと同時に、フウの上方に夥しい針が出現した。
針の悉くが彼めがけて飛ぶ。

「フウ、お前は生きろ!」

志義は中心部に反響する程の大音声を上げながら、床を蹴って突進する。

針より、志義が速かった。

志義は走る勢いを、腕を通してフウにぶつけ、ありったけの力で突き飛ばした。

フウは宙を切って中心部の壁に叩き付けられた。

凶器は志義を襲った。

体中に針が突き立った志義は、声を発する事も無く、ばさっと音を立てて床に倒れた。

フウが顔を起こした。
目に飛び込んできた光景に、
「あっ」
と小さく声を上げ、目を瞠った。

体中、至る所に血を滲ませ、身動ぎ一つしない志義。

フウが手を横に動かして、針を消した。

「……」

言葉が出ないまま、フウは体を立て直した。

志義が微かに動いた。
時間をかける。
両手を床につき、上体を起こし、膝を立て、志義は立ち上がった。

「フウ、希望ってのはね、生きてりゃどこかで必ず見えてくるものなんだ」

指から血が滴る。
無傷で済んだのは顔面だけだった。

その顔をフウに向けると、志義は歯を食い縛りながらも笑ってみせた。

更に大きく見開かれたフウの両目が、志義に釘付けになる。

踏ん張って立っていると、笑みが徐々に引いていく。
肩を左手で押さえて、息を整えている間に、志義の頭の中は言いたい事でひたひたになった。

その言葉の嵐を、志義はためらうのも忘れてそのまま口から出した。

「お前は今死んだら幸せか?
違うだろ。お前は死んじゃいけない。生きる価値が分からないなら尚更だ。生きる価値は、生きていく中で探し、気付いて見つける物なんだ。私はそう思う。生きる価値を探る事自体が生きる事でもあるんだ。
譬え絶望のどん底で、もう死ぬしかないと思ったとしても、生きる事を放棄したら、現世で為せるはずの事々が何一つ為せなくなる。価値を見つける事も、思い悩む事も全て含めて。
今、フウは生きてるから、こうして悩んで、痛みを感じて、更に、解ってもらえた喜びを噛み締める事ができる。違くないでしょう。
だけど、死んだら、それさえできなくなる。フウ、これだけは解ってほしい。フウは、フウとして今を生きるだけで、ただそれだけで、十分に価値がある」

志義から目を逸らさぬようにして、フウが立ち上がる。
顔色から、衝撃を受けているのが一目で分かる。

志義の話す姿は、きっと誰が見ても痛々しく映るだろう。

でも、志義にはそんな事はどうでもよい事だ。
志義は語る事のみに集中し、フウの瞳を捉え続けた。

「世の中の人は皆、自分が生きた証を残す為に必死に努力している。それも生きる目的だ。
ただ、本当は、生きていられるだけで幸せなんだ。今を生きているというのは当たり前じゃない。特別な事だ。私達は、生きたくても生きられなかった人々の分をも精一杯生きる義務を持つ。そう簡単に生命を捨ててはいけない。
生きていれば必ず、幸せを感じられる時が沢山ある」

自分一人の思い込みの考え、筋の通っていない論であると、志義は気付いている。

(この人にまで死なれてたまるか)

という思いだけがあり、その気持ちが志義の口を勝手に動かした。
声が少々掠れても、つっかえない。
文面をなぞるよりもすらすらと文章が出てくる。

不思議だ。
志義はそれを不思議と思いつつ、その感じは心の別室で感受しているようであった。
そのくらい志義の心は一種の分裂状態を起こしている。

「あなたが今すべきなのは、生きて、この世に在る事。目の前の暮らしから目を逸らさずに生活する。それは容易い事ではない。それ故に、単調とさえ思える毎日にも意味が生まれる。もっと、今を真剣に生きなきゃ。今が充実していなければ未来も充実しない。人は『今』しか生きられない。未来は『今』という形になって届けられてくる。
回廊の中の生活は、表向きは快適に感じても、心の奥底では満足していない。そうでしょう」

反論しないフウ。

「あなたが悩み苦しんでいる事は、あなただけが特別に悩まされている訳ではない。誰もが一度は悩むだろう事柄に、真正面から向き合い過ぎているだけだ。苦しみや悩みは他人と比べてはならない。
あなたは自分の短所や欠点ばかりを見る。あなたはもう欠点や短所を見なくていい。自分の良い所、長所を探そう。必ずあるし、沢山出てくる。
分からないと言うのなら、私が教えよう。あなたの素晴らしい長所を」

志義が自らに課すルールでは、「あなたは……」で始まる文は禁句である。
その主語で話ができる程には自分は相手の全てを知らず、相手を鋭く傷付けるおそれのある極めて危ない言葉だと志義は思っている。
しかし、今はあえて使った。

フウに自覚を促す為だ。
フウに何としても気付いてもらいたいのだ。
彼は既に志義の言う事に思い当っていたという事実に。

「フウの長所。あなたはとても優しい。人の心を察するのが上手い。人並以上に勇気がある。独りでいる事に強い。あなたには思いやりがある。誰よりも人を気遣う事ができる。あなたはとても素直。あなたは正義心が強い。悪に屈しない強さを持つ。
ほら、こんなに見つけられた。あなたは駄目な人間なんかではない。もっと自分を肯定して良いんだよ。
本当に駄目な人間なんて存在しない。一人だって欠けてはいけないんだ。フウも掛け替えのない一人だ。
人は居ても居なくても同じなどという事はあり得ない。フウは居て良い。居なきゃいけない」

瞬きも減ったフウの目から、さっと涙が落ちた。

回廊の中で 【巻3 針の少年】

回廊の中で 【巻3 針の少年】

命の価値なんて分からなくても、生き続けろ!

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • ホラー
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2026-04-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1,新発見
  2. 2,消したい思い出
  3. 3-1,茶色の異空間
  4. 3-2,幻術世界の中
  5. 3-3,究極の選択
  6. 3-4,問答
  7. 3-5,信用
  8. 3-6,フウが知る瑠希
  9. 3-7,孤独と思考
  10. 3-8,言葉の嵐