真紅の禁戒 第1部
私を愛してくれたのは、軽蔑されているひとたちだった。否。軽蔑されるべきひとたちだった。従って、私はかれ等を愛した。
──シャルル・ボオドレール
Ⅰ 薔薇貞節守護宣言
恋愛、禁止。
わが戒律。うら若き”我”と久遠と匿名に林立する”わたし”とを縛る、肉体と魂との不可視の契り。かの俗悪にして聖なるものにさずけられた、至高のくるしみ。使命への一途なる貞節。いわく、わが意志による孤独の守護への同意。
復唱しよう。恋愛、禁止。
わたしは祈ってもいるのだった、いつやそれ、淋しさと愛への渇望に磨きぬかれて、果ては睡る水晶どうように純化されんことを。さればそれ、わたしは微笑でもって、他者へあけわたすのみなのである、恰もこどもが綺麗な石を、愛するひとのてのひらへ、そっと手渡すようなきがるさで。
そう。わたしは、アイドル。それが不可能であると知るがゆえに、ファンなるひとびとへの奉仕の美へむかう義務を負う。
天上の音階を駆け昇る高貴なる妖婦にして、俗なる海の底に身をうずくまらせる聖女なる職業。わたし、この俗のきわみにのみ宿りえる聖性を、こころから求めている。他者をよろこばせ、娯しませたいという心の根本来の一途にして素朴な感情の迸りに従うこと、みずからをその”商品性”に徹しさせるひたむきな努力こそが、わたしの使命の第一条件なのである。
アイドルとは、仮面としてのガーリーなコスチュームに純粋へ剥がれて往こうとする魂を蔽い、ファンにすらそれを売淫することを拒む、あまりにもピュアにしてコケティッシュな、瑕だらけの生のうごきをいう言葉だ。
*
齢、二十二。扨て、どこから語りはじめよう。
わが憧憬との邂逅──それから、語りはじめようか。
少女時代。いまであってもそうなのだけれども、わたしには一日一日が、ただ生存にせいいっぱいであった。
当時、なにがわたしにそうさせているかすら解らず、おそらくや、この世界の空気のようなものがわたしの躰には合っていないのではないかという自己憐憫めいた訝りが、「この推測は果して真であるか偽であるか、この苦しみは善か悪か、この感情は美であるか醜か」、そう、絶え間なくわたしに問いかけていたのだった。
正しく、美しい、善い世界。
誤っている、醜い、悪いわたし。
色彩の異なり、罅割れ浮きあがり乖離してゆく、わたしに対立する世界と、疎外者としてのわたし。世界より迫る”リフジン”という名の敵との、死への渇望必至の闘い。そんな二元的な世界観を現実に適応する為にもったのが、少女時代のわたし。いまにもわが身を呑みこもうとする死の誘惑からひっしで躰をひきはなすうごきに、わたしは疲れ果てていたのだった。
病んでいる。そう想ってもらって、差し支えない。わたしはわが病状の報告を、いまここでつまびらかにする意思はない。わが病の報告をするのならば──シモーヌ・ヴェイユの真白と、シャルル・ボオドレールの漆黒を偏愛しており、その色彩は、自己無化という意味において互いが上方と下方という矛盾をもちながらも、色彩学の通例どおりおなじものだと想っている。亦、それ等はいつや相克の裡で交叉し、なんらかのおそろしい観念を暗示させるであろうという予感をもっている。”青”の公理へ往かんとし、”真紅”の本性を吐きだしたいという妄念に苛まれ、”黒”の病める少女衣装に身を包み、そして、”ましろ”の美をなによりも怖れる。
それで、いったん説明を終えよう。
高校生になるまで友達なんていなかった、ダンゴムシ、それくらいだった。かれ等、よわくて惨めったらしく、リフジンに押しつぶされる弱者さながらに住処は石の下、些細なことでうずくまるように丸まって、やはり、わたしのファンの男のひとに似ている。握手会で、ほんのすこし怒ったふりをしたらあたふたして平謝りする、わがいとおしきファンたち。愛らしい、そうも想うのだ。けれどもわたし、こういう男を恋愛対象にはみられない。優しくても、勿論よわさをもっていてもいいけれど、背をおおいかぶさるような巨きな愛と信頼に身をゆだね、心と心に結われてみたい。
そんな少女であったわたし、テレビを見ていて、ひとりの女性アイドルが目にはいる。ヘアスタイルは当時に限ってはアイドルらしくしていたものの、その吐き捨てるような口調、まるでアイドルとは想えないようなぼそぼそと籠った低音の、まったく媚を偽装る気の伝わらない、しかし、暗みの籠る色香が鋭く迸るようなそれであった。恰も暴力の兆、銀の音立て硬くかたく薫るよう。
「清楚な女子は染まってない? 莫迦じゃないですか、そんなのは男性の願望の投影ですよ。わたしの考えでは、清楚というそれは、無疵のものにいう言葉ではないですよ」
その言葉に、透明に焦がれ、だんだん汚れて往くみずからを責めていたわたし、息をのんだ。
そのアイドル、その荒んだ言葉に反し、淋しいほどに透徹した眸をして、こういったのだった。
「清楚とは、瑕を負いつづけて、磨き剥いてゆくものです。不純を引き離し、削ぎ落して立ち現れるもの、それが純粋性です」
水樹晶。
“プラトニック・スキャンダル”という、元々地下で活動していた女性アイドルグループの、人気最高メンバーにしてイメージ最低──褒めている──の問題児。
どこか暗みが輝いていたような二〇一〇年代後半を、まるでアイコンとして象徴されるようなアイドルの一人。おおくされていた偏見的な見方──不器用、失言多し、態度悪し、社会不適合者、生きる力がよわそう、あふれでる教室の外れ者感、アングラでしか生きられない異端者がまちがえて表で光を浴びてしまい、きっと睨みつけるも滲み出る人見知りオーラ、それが後光と射すような凄まじい場違い感、その割に我がつよく、空気は読めるのか読めないのか、思い遣りはあるのかないのか判断不能──この辺り、ファンは買いかぶりすぎであるかもしれない──、発言は基本的にマイノリティな価値観による攻撃的なそれ、きらわれることを恐れない衒学性、根は優しくて繊細だけれど誤解されやすい──これは主にファンがいうが、わたしだってそう信じている──。
そんなイメージで売っていた彼女、いつの時代も一定数存在する、生きづらさを抱えた病める少年少女たちにカリスマ的人気を誇った、メジャーアイドルであった。国民的アイドルであったか否か。支持率・好感度という尺度をもってすればおそらくそうとはいえないであろうが、しかし、露出の頻度やカリスマとしての周囲の持ち上げ方は、はやファンのわたしからみても過剰といえる程であったかもしれない。
「あれはセックス・ピストルズのシド・ヴィシャスの人気に似ているんですよ」
とあるアイドル評論家が、そう書いているのを読んだ。
「自分自身でしかいられない、いわば、パーソナリティをつくれない。社会的な人格を構築できないんです。そうじゃないかもしれないけれど──シドもそうじゃなかったしね──すくなくとも、そういうブランドイメージをもっている。歌もダンスも下手でしょう、ただ、正直なパフォーマンスをするでしょう。あのひとはあのひとでありつづけることで商品価値が宿って、一種のイタいとみなされるひとたちに勇気を与えるんです。まあ、パンクではあると思いますよ。引退したらパンクバンドを結成して、作曲も楽器もできないボーカリストとして食っていけるんじゃないですか」
引退したら──わたしはこの言葉のつづきを、はや、読むことができない。
当時のプロフィール。まだ、グループにいた頃のもの──彼女、メジャーデビューして一年で脱退したのだ──卒業ではない、脱退だ。そう主張していた──。
名前:水樹晶
身長:162センチ
好きなアーティスト:JSバッハ、ワーグナー、フォーレ、シド・バレット(かれがいた時のピンクフロイド)、ニルヴァーナ、ブラック・フラッグ、Pファンク、灰野敬二、ヤニス・クセナキス、ジョン・ケージ、ジャニス・ジョプリン、ビル・エヴァンス、キース・ジャレット、Ms.Machine
尊敬する人物:いない
仲のいいメンバー:いない
好きなファッションスタイル:皮膚の外側に興味ない
将来の夢:生き抜けたらいいな
五年後のあなたはなにしてる?: アイドルはやってない
ファンに一言:応援してくれてありがとう 表以外で関わらないで
学校に一人はいそうな、ぽつんと机に座り、ヘッドフォンをつけ周囲を拒絶した印象の、教室に馴染めない、しかし内に淋しさと過剰な自意識を抱えた少女が、その熱情を劣等感と炎と膨れる自意識込みで迸らせたような、そんなキャラクター。
思春期の自尊心、劣等感、淋しさ、怖れ、そんなものが複雑に混合し、罅割れ揺れる玻璃青花のように不安定な印象の、きんと蠱惑めくあやうさを帯び、けだし此方へ刃先を向ける、銀の硬質な香気を散らす言葉たち。それが至極クールにみえたのは、彼女が、美しかったからだろうか。
否。否。否。ルックスなんかじゃない、水樹晶は、ステージの上で、どこまでも格好よかったのだ。primitiveな、いわく”人性”の根源よりわき昇る幼稚な衝動──「インチキに埋れて生き損なってんじゃねえよ!」とでもいいたげな、破壊的で率直なパフォーマンス、たしかにアイドルというより、パンクロッカーみたいだった。しかしその売り方、大人の作為が夥しく介入したものであり、彼女はそれを拒絶し、ソロアイドルになったというのが定説である。
「けっきょく、わたしはソロになっても、アイドルにしかなれませんでした」
この”アイドル”という職業への侮蔑を連想させる発言は、当時インターネットで話題・問題視された。
そう、彼女はアイドル、大人たちにしっかり商品として加工され、メディアにいいようにわるいように印象操作され、水樹は、そのイメージと自意識との──そしておそらくや、”彼女固有の理想”との──乖離にくるしんで、たびたびインタビューで死にたい気持を暗示するようになり、さすれば”メンヘラ”、”構ってちゃん”だと揶揄され、SNSでは「そんなに言うならはやく×んでみろよ」というような書き込みが蔓延し──許さない、わたしは、ぜったい許さない──、そうして、あたかも律義に約束を果たすように、丁寧に死の縁へ寝返りを打ち、死の欲望にいっせいにたたみこまれるように舞い墜ちて、投身自殺を果たした。
*
ブログタイトル:ご報告
遺書
わたし、不良なんかじゃありません。
スクールカースト底辺の、英雄なんかじゃありません。
インチキを告発するホールデン少年さながらの、ナードなロックスターでもありません。
ただ、幾ら工夫し無理に装っても社会にぜったい馴染めない、純粋な愛と正直なやさしさに憧れる、ひとりの、病的に内気で臆病なエゴイストでしかないのです。嘘をつきたくない、正直に生きたい、(優しくなりたい)、これ等はほんとうだけれども、わたしがそれを歌うたび、ファンはわたしの闇と怒りだけをみて高揚・喝采し、それ以外のひとびと、それこそがインチキだと罵るときがある、たしかにいい齢をしたわたしのそれには幼児めいた不気味さが籠るのは自覚しているけれども、わたしには、その自他より為される批判に耐えうる、靭い神経がないのです。
生きているだけで、神経が痛い。一瞬だって、のがれられない。
いうなれば、自殺の理由はまさにそれ。痛くて、いたくて、耐えられないので、死ぬことにします。逃げ。弱さ。甘え。どうか、それ等だけでわたしの死を片づけてください。どうぞ、全的に軽蔑してください。それだけが、わたしからのお願いです。
わたし、シモーヌ・ヴェイユみたいに、勁く、勁しく、かよわく、美しく、さながらに、紗の砂はらはらと零れるがように、しんとしずかなましろの寝台に横臥わるがように、死にたかったのに。美と善の落す翳の重なる領域に、かのひとの捧げ花のような骸、うっすらと月光を浴びて、幾らかのそれを星のようにほの青く反映さえして、屹度横臥してあったのありましょう。剥ぎ落されたましろい光。まっさらに剥かれた音楽。そが闇へ閉ざされんとするまっくらな死は、はや、めざめの黎明を月影より真の月が昇らせるがように、上澄とし浮ばせたようであったことでしょう。…
お父さん。
お母さん。
そして、弟よ。
けっして、断じてあなたたちにわたしの死の責任があると想わないでください。ひとの人格をかたちづくるのは産まれもっての気質と環境との相互関係に宿る相性にもあるとわたしはかんがえている、意思によるものは自我のうごきであると想うけれどもそれの存在の有無・全貌のうごきいわくわたしには不可解、いわばどうにもならないものと意思によりどうにかなるが不可視にして発見しづらいものとの不可視の条件下にあるのがそのひとそのひと固有の性格、いたみ。従って例えわたし自身であっても、わが身がここまで苦しむわけを明瞭に識ることはできないのです。
唯、ひとには各々の不可視の苦痛があり、それは他者にはけっして理解できず癒すことすら不可能であり、わたしに生れついたわたし固有のそれは、すべて抱え込むにはまるでわたしに向いていなかった、そういうことではないかしら。
信じて。
わたしは、あなたたちに、せいいっぱい愛されていました。愛されていました。こんなにも愛されながら死をえらぶ内気な性格に閉ざされたわたしは、もしや、受けた愛を自覚するメカニズムをフィジカルに所有たないのかもしれません。
さようなら。
わたし、アイドルですらなかったようでありました。
傀儡としてわたしの翳を売淫しただけの、人間になるまえの何か、わけの解らない、肉と観念の混合と乖離の、肉塊の付着した一つの神経であったようでありました。
──水樹晶公式ブログ、最終更新日の日記全文
*
もっとも彼女の遺志を裏切った者、それはファンたちであった。
ファンはこの自死を、嘗ての夭折したロックスターのそれ等と重ね合わせ、どこまでも、どこまでも純粋な生と死であったと祀り上げたのだった。死後につくられたファンサイトは、「宗教のにおいしかしない」「ファンの書き込みが病んでいる」からとして、一部では「閲覧注意」とされている。
一度だけ読んだことがあるのだけれど、ファンの男性たちの、まるで死美人の裸体を淫らなる意欲で舐めまわすような視線で「美少女アイドル・水樹晶の悲愴な死」という美麗にすぎるまでに装飾し塗りたくられた観念を眺めまわし弄るその眼差は、おなじファンであるわたしをして、劇しい嫌悪の感情へと駆らしめた。
若しほんとうに水樹を愛そうとするのなら、その生き方の一領域の善性を信じるのなら──現実を、塗らないで。その本性まで、いたみながら、剥いてください。
純粋さとは、穢れをじっとみつめうる力である。
かのシモーヌ・ヴェイユのあらわした、世にも美しく硬質で強靭、それの促す生のうごきにおいて脆くも柔らかい領域をむきだしにするような箴言を大切にしていたのは、水樹晶、嗚そのひとであったのに。
*
わたしは水樹に、”晶ちゃん”に、誤解によって命を救われていたのだった、「病んでいるひとの味方をする病んでいるひと」という評価をしばしば受けていた彼女が与えたイメージ、いわく、「社会不適合者でも、死にたい気持をもっていても、そのひとらしく頑張っていたらかっこいい! 事情がある人間の必死で生きる姿って可憐じゃん! 病んでるのって個性じゃん! わたしの生きたい生き方を生きていい、わたしの闘いたい闘いを闘っていい、わたしの愛するうごきでわたしの愛したいものためにうごいていいんだ!」という印象に、自殺を延期されてもらっていたのだった。励まされていたのだった。
水樹のおかげ、水樹のおかげでわたしは生き抜き、シモーヌを知って、虚無を起点と踏み虚ろに赫う城へ腕ふり立ちあがる勇気、わたしの”わたし”を生きようと走る或いは佇む勇気がえられ、そうして、くるしみたい苦しみをくるしめる歓び、まるでわが肌と神経でいたみを伴い知ったのだった。
されど、水樹の自殺を知って数日後の話、死んだように睡り学校をさぼっていた十七歳のわたしは、真夜中、あたかもなにかに操作されたように脚をうごかし、無思考のまま、部屋のベランダからわが身を突き落としていたらしい。その後もしばらく記憶はない、気づいたら精神病院の保護室のなか、其処で静かにしずかにしていたために、一週間経ったら閉鎖病棟へ。
そして、まるで故郷を喪った憐れなるエルフといっても信じてしまうような、浮世ばなれしてふしぎな淋しさをただよわせた優しい患者さん数人と仲良くなったり、やたらとひとあたりの柔らかい医師やこころ優しき看護師さんたちと話す日々を経て、二つの診断名がついた。
わたしはこれ等の精神医学用語を、けっして、文学の主題にしない。人間を洞察するうえでの素材としない。そのひとを見よ。そのひとを大切にしたいのならば、そのひとに出逢う迄、なにひとつ決めつけるなかれ。わたしよ、他者を目的として見ることのできるまで、佇め。俟て。
三か月後、満期をもって退院。
わたしは高校を辞め、十八と偽らせてもらいコンセプトカフェで働いて貧しい家にお金をいれながら、亦、アイドルオーディションへの交通費などを調達できなかった為に、十八になれば短期で身売に自己を投じたりしながら──誰にもいわなかった──、地下アイドルの面接を受けつづけた。
「アイドルなんてさ、」
と、当時の友人がいったことをおぼえている。
彼女、わたしが辞めた高校の同級生で、社会で活躍する向上心をもちだしていて、だんだん、わたしとは話が合わなくなってきていたのだ。何故って自殺未遂以来、わたしははや、観念的な意味ではあるが「下降したい」としか欲求しなかったから。ある種の、退行への欲求。堕落だ、堕落。重力に従い墜落して往きながら、理不尽に背を圧しつけられて、そのなかで、魂の鎌首をぐいともちあげ、まるで翔べない翼はためかせて天へと昇る筋力を鍛えあげる、そして、全我の重量を掛け蒼穹を見据え、どうにか、美と善の落す翳の重なる処、あかるめようとしていたのだから。水樹晶。かのひとのように。
わたしは、水樹のうごきを、模倣しようとしていた。
「商品じゃん。大人にいいように利用されていうこと聞いて、男ウケのいい嘘のパッケージ貼られて、若さと性を売るだけでしょ。商品になりたいの? 若さと性的魅力を消費されたいの? わたしは、価値あるものを作り出す側になりたいけどね」
「商品?」
わたしはふだん大人しい、気弱だ、しかし、激情を抱え込んだ、いわゆる、情緒の安定しない人間である。ある起爆剤を踏まれれば、たたみこむように反駁を打つ者だ。
十八歳、武装様式は”地雷系”──いつや爆発いたします。
「わたしは、商品でいい。純粋な商品性に徹したい。わたしの願いと推測にすぎないけれど、ひとを喜ばせたい、娯しませたい、これは、人性より迸る素直な気持であるかもしれないの。おぼえてる? わたしたちの愛情のはじまりは、だいすきなひと──それは多くの場合親であるけれど──喜ばせて、喜んでいる顔がみたいという、一途なそれではなかったかしら? わたしは、感情と行為、現象をすべて優しい光で一途に透したい。不可能ではあるけれど、そうであるからこそわたしのめざす生き方がそれであるの。そのためにうごくこと、うごきつづけること、それをしつづけることだけがわたしを自殺からひきはなし、そのうごきつづける躰こそが、わたしは人生に負けていないのだという身体的な証明になりえるの。
わたしはほかのひとびとと同様に、たくさんの悪を享けた、暴力を受けた、理不尽なそれだった。わたしが一途な優しさを行使できなくなったのが、わたしは不幸であるという証拠なのかもしれない。検討は必要だけれども。悪を受ける。だからこそそれを他者へ投げつけたいという欲望をもった、けれどもそれでは悪は連鎖する、連鎖するでしょう? 悪を享けて、理不尽な暴力を引き受けて、そのうごきによって水晶を瑕に磨いて、引き離して、純粋さって闘いだ、無疵のそれなんかじゃない、その光の水晶を他者へ一途なる音楽に徹して明けわたしてから消えること。
それが、わたしの夢なんです。不可能と知るから、わたしはこれをするんです。商品、上等です。使ってください、どうぞ、わたしを使用してください。魂だけはけっして売らないけれど、肉に属すものであればなんだって売りましょう。そんな、気持です」
彼女はこちらを見もせずにストローをくわえたまま静止し、「ふうん」とだけいうと、
「うん、それがなおちゃんの夢なんだね。全然否定する気ないよ。いろんな生き方あるよね。多様性の時代だもん。でも自分のこと不幸って喚くのはみっともないよ、与えられたもので幸福なんだって自覚して、その配られたカードで、せいぜい芸能界で成功できるよう頑張んなさいね。まあ、わたしは河原乞食なんて御免だけど。あとさ、メサイヤコンプレックスって言葉、ウィキペディアでいいから調べた方がいいよ」
わたしたちは、亦と会わなかった。
*
十八歳と七か月、漸く、地下アイドルグループの面接の選考を通った。
わたしは、憧憬のうごきを身振と模すことを義務として引き受けなければならない。神殿は蒼穹であり、あるいは現実の理不尽という冷然非情の風景。理想と現実──それはあたかも、双頭の女神ともいえるだろう。教会は、千の書物と水樹晶グッズに溢れたわが部屋のオタク領域──死者の記憶の一群が刻まれている、厳粛なめざめる墓場。
レッスン。ほどほどの、厳しさ。会社に従属させようとする意思は伝わるが、運動のレベルとして大したことはない。従順な練習生として育て上げようとする一方で、幾分ぎこちのない、一種愛らしいうごきでデビューさせようとする事務所の意図を感じる。ここに拘りはない。どちらでも、構わない──いや、わたしは運動神経がわるいから助かった。
そのデビューを目指すグループのコンセプトは「アッパー&ダウナー→クラッシュ」、曲調はハードコア・パンクとグランジ・ロック、サイケデリック・ミュージックのミックスを基調とし、しかしメロディはポップでメロディアスなそれを志向、衣装のデザインに少女らしさはみいだされるものの、破けていたりどぎついペイズリー柄だったりしていて、いわく、”病みカワ”以外は部屋着の学校ジャージしか所有しないわたしには、よくわからない感じである。しかしこのコンセプト、もしや、わたしに世にも調和するそれであるかもしれない。
そう。年齢や身体のそれでなく”概念”の意味における”少女”、わたしいわく”概念-少女”とは、劇しく炎ゆる激情と蒼ざめた憂鬱を抱えこみ、その混濁の挙句、何らかのものを閃光と貫き破壊せんとする危険な存在。そして、パブロ・ピカソがそういったように、産まれもっての芸術家である筈だ。裏切らない。わたしの心から墜ちた領域にあるわたしの根、心に睡る水晶の領域、いわく、”わたし”をけっして裏切らない。その貞節をさえ守護すれば、わたしたちはみな芸術家であり、その決意とうごきとを殺さないかぎり、少女は”少女”として、勁く勁くなりえるのである。
果てに素直な心情に従って、澄む光のいきれを毀せるようになるならば、はや、詩人的といっていいかもしれない。
ところで、”少女”なる言葉を解体し、幻想・理想をモデルに縫い合わせ再構築して、さればそれ、”虚数”として追究してみよう。何故虚数と云えるかというに、それは実在しないものであるが確かに宿ると信じられるにあたいすると判断されることにくわえて、聖性という、赫う城へ到達するという不可能への推論を投げるために目的のための道具として必要とする、天上に浮ぶ金属質の豊穣かな砂漠ともいうべく概念であるから。そして、虚数は実在しないが、たしかに、在る。不在として、たしかに、在る。それはふしぎに、”愛”という概念の存在性と一致するようにも推測される。
扨て、”少女”という身体的状態・心理的状態を成立させるためには、先ず前提として、高貴性というものを必要とする。異論に関心はない。しかしその高貴性というのは身分や社会的価値等外部から与えられたそれでなく、ただ産れもったそれを守り抜こうと、心身ともにズタズタになっている状態をいう。純粋さを守護し、汚れつづけるそれを瑕に磨いていく狂おしい勇敢なうごきをしつづけられている、これが、概念的な意味における”少女”の条件である。”少女”の魂から高貴が香気と昇るという性質は、もしそのひとが”少女”であるならば、屹度本能的に識っているであろう。湧きあがる無辜ともみまがわれる激情は、他者の善性を信じ抜きたいという甘ったれたそれであり、ごくごく自然に、愛という不可解きわまる狂気的な名辞に美しい夢をもつ。恋愛と愛を区別することを全身全霊で拒み、愛を実現し立証する恋愛の他いっさいのそれを恋愛だと認めず、その余りを嫌悪、のみならず唾棄さえする──ここに、”少女”特有の冷酷性がみいだされえる。「ほんとうに大切なことは目にみえない」、当然きわまるものとして、”概念-少女性”はそれをすっと心の根から理解する。
わたしは”わたし”として生きたい。
少女性の意味においては”primitive”の最底辺、概念-少女性の意味において”fictional”の極北──綾織られること不可能な双方を織り重ねる、その結果のわたし、それこそが、”わたし”。従って、わたしは”わたし”へ墜ちつづける。
其処まで底まで根まで墜落、”我”を匿名と久遠の林立させうるかもしれぬ”わたし”へと、一途に堕として往きたいのです。
“紗”の音を立て砂と抛り、”希”みをいだき、真直ぐに、真剣に堕落して往く所存である。
このうごき、このうごきに血とともにかよう光と音楽の共同舞踏(舞踊)、それ果たして、高貴でなくてなんであろうか? 有機に宿りえる高貴とは、優しさに出発した勇気のうごき、そこより薫る鮮血と純化された体液の深紅なる香気をいうのである。
聖性、血と綾織り肉駆ける
これは、うごきつづけるということを使命とするわたしにとり光であり、けだしわたしを刻み撥ねさせる音楽である。わたしにとりうごきつづけるということは、わたしを自殺の誘惑から跳躍させつづけるということだ。そのほかに、わたしを自殺からひき離す方法は、いまのところは発見されていない。光と音楽の共同舞踏、乃至共同舞踊。即ち美しい夢、換言すれば”詩”がそれにほかならぬ。
労働者に必要なものは、パンでもバターでもなく詩と美である。
──シモーヌ・ヴェイユ
少女とは、わが魂を天上のうつしみとして翳とわが胸に抱き、けがれることを怖れ、そうして、既にしてけがれた部分をどこまでも嫌悪する。剥ぎ落そう、剥ぎ落そうと四苦八苦する。純粋。優しさ。勁さ。闘い。素直に生きて、優しくて、愛らしい戦士に、たとえば、魔法少女のようなものになってみたいのです。そのためであるならば、何処までも、どこまでも戦い抜くのが概念-少女だ。
*
【概念-少女的倫理学の問題】
社会人と概念-少女を両立させる生き方を続けるための行動の選択方法を、命題として示せ。あなたの選択する行動は、Xとして指定せよ。
【誤りの例】
Xをしなければならぬ、と外的なものから要請されている。故に、それをしなければならぬ。──不可
Xをわたしはしたい。故に、それを社会的義務よりも優先し、Xへの欲求に従って行動する。──不可。
【正答】
Xをしたいのは”わたし”であると、既にして注意深く考慮した。その考慮に結論をつけることをせず、注意力をつねに働かせると決意している。
Xをするために、現実社会との折合を吟味し、自らの社会的義務からけっして逃げることなく、前提として注意ぶかい思索とくるしみを重ねつづけている。従って、それをしなければならぬ。──同意。
Ⅱ 戦闘同意手続終了
戦闘、同意。
その戦闘を開始するには、先ず手続を経ねばならない。
【同意書】
・世界に在る鋼の巨人、「理不尽」に従属しながらも、わが美と善を抱き決してそれから手を離さないうごき──理不尽に斃れ、くびもとをそれにぐっと圧しつけられながらも、魂の鎌首を全身全霊で挙げつづけながら美をみすえ、善くうごきつづけるというくるしみをひきうけ、もしそれができなかったとき、絶対に自己を赦さず批判の鞭を与えて亦おなじうごきにもどる──その行動を、絶えずしつづけることができますか?──同意。
・肉の裡に火を炎やし、その肉をうごかすに伴って、現実へ波のように「わたしはこう生きたい」という詩(夢)を打ち寄せ、そのたびに社会との折合を吟味して、社会貢献をしながら変えられるところは変え、創意工夫しつづけるという、勇気ある有機のうごきをしつづけることができますか?──同意。
・それが果して有意味であるか、みずからを良い方向へ導くか、まるで不可解の混沌のなかで生を台無しにする覚悟でそれに賭けんとする、脱落と墜落と失墜のうごきをできますか? 投げやりに愛する対象としての不可解へ、幻の絶対的な城へ腕を振り跳びつづけることに同意できますか?──同意。
・自殺しないことを約束しますか?──同意。
これ等のうごきは、芸能界という理不尽きわまる環境で、世にも稀なほど充実している。すなわちわたしの孤独とエゴイズムは、社会というものをわが理想の生き方をするための手段にしえるのだ。わたしが理想主義的で自己愛のつよい人間であるということは、ここではっきりと読者に伝えることができるし、亦わたしはそれを報告する義務があるとわたしにより判断されている。
わたしはこの物語の形式をとった散文により、こんなわが病状を観念的・物語的なかたちでつまびらかに報告しようとする者である。
*
ところで、遅ればせながらも自己紹介。
わたし、その名を「鈴木なお」、公私ともに愛称は「なおちゃん」で、みずからによってつけられた芸名、我ながら少女趣味的潔癖の薫るようなそれ、「紗希なお」であります。この苗字は水樹の遺書にある失望の”紗”の砂と、そこへとび立たんとする”希”望からとったそれなのです。わたしはこんな自分の趣味を、透明なものへの憧れのみられる病める感性のようなものを、如何にもかわゆらしいものだと想ってもいる。
サイトのプロフィールに書かれてある座右の銘は、「きちんと生きて、きちんと傷つく」。今更の、自己紹介である。
つまりは、創と記す如く丁寧に、概念-少女性的倫理に照らし浄く正しく、然るべく疵を負っていかねばならぬ、そう戒めている人間がわたしだということである。
傷負わぬ頑丈な防衛を背に負うのが大人であるのなら、わたし、大人になる気はさらさらない。わたしは、神経をまっさらな状態へ剥きたい、”悪”をまるで肌に徹していたみへ純化して、神経の隅々までそれを感受して、踏み外して了った人間の偽の悪い本性に──それの主な対象は、ほかでもないわたしのそれにしなければいけない──、まるで世界をはじめて訝しげに眺める落ちてきた幼児のように、なんらそれの正体を決定せず、「どうして?」と愕きつづけ、慄き、傷つき、その正体とあらゆる条件として無数に存在する原因を注意ぶかく思慮しつづけ、されば一度死にぞこなったわたし、その背にましろの”uniform of snow”──澄む淋しさと見紛うほどに、清む死を照りかえすそれ──さっと羽織るように負って、ひとのこころの風景の、切なくも林立する透徹した美を夢みなければいけない。
エミリ・ディキンソン、わたし、貴女が好きなの。ご存知?
されば美をみすえ、善くうごく。
憧れへ、迸るままに”舞踊”する。
心の底から一途に歌い、現実という仮の主人へ弓を吹き、理不尽を舞踊り、いつや、月夜に”舞踏”する。
わたしの仕事は、アイドルである。足場なくファンに求められる虚像を演じ、ファンの喜びを増やし、悲しみを減らす職業だ。
わたしは愛玩の道具である──と云うとぞっとする程自虐めくけれども、しかし、わたしのような疎外感を所有した人間、そして、「人間の尊厳」というものが自己にあることを全く実感しえない人間にとって、自己と観念的な憧れを繋ぐ媒介となる”世間”なるものと、どうにか関係するための道具というのが何らかの仮面に自己を合わせることであるとわたしは考えていて、その虚栄性・演技性のようなものは殆どの職業、そして社会生活に必要とされるといえないだろうか。花。そうともいえる。職業とは、そのひとと社会を仲介させるある種媒介道具だ。一人格の花としての利用だ。わたしは職務にわたしの心身のシステムを合わせ思考とフィジカルを最適化させ、概念-少女性的な訝りと違和感を失わせる気はさらさらないが、だからこそその違和を銀に締め、背骨にわななかせ、その背骨を銀の倫理としての硬質な芯へと変容させ、労働なるものを全力でやるつもりだ。
わたし、その猫かぶりな仮面をさいごのさいごに不合理と砕き割り飛翔させるうごき、それこそが「愛のうごき」ではないかしらと、とわに疑いつづけている者だ。
わたしはわたしを実験台とするこの生き方を、この拙くも過剰な文体に折りたたんだ、炎ゆるように慎ましき内面戦争の叙事としての散文を、そのような結末にしてみたい。
聴いて。
セックスなんかの話じゃない。わたしの推測では、愛のうごきとは、もしそれがあるとするならば、”わたし”により、すべての装飾と肉を脱がせ、対象へ全的に投げださせるそれである。
わたしへの注意。わたしの純粋への悲願はわたしのみに適用させねばならず、いうなればみずからを純粋少女王国へと変容させる作業でもあるが、その純粋への意欲をもし集団へ適用させるならば、わたしはどこまでも国家主義的となりえるであろう。従って、わたしは孤独でありつづけなければいけない。孤独でありつづけなければいけない。わが孤独少女王国に、この純粋への志向を閉じ込めるのだ。純粋孤独主義。わたしは、それだ。
わたしは、みずからを、王国へ装飾しようとする。女王様は、燦り耀く”月硝子城”。
すべてを脱ぎ肉からも脱獄した人間がそれでもなお人間であるということ、それを立証する為に、わたしは、死ぬ迄を生きる。ひとの善心を信じるために、死にたいほどのくるしみに抵抗する。生き抜く。わたしが生き切ろうとするのは、生きることそのものが祈りであるからだ。
わたしを世間と関係させるものは演技であり、仮面であり、それは淋しいことであるかもしれないけれど、しかし、わたしがこれまでしていたことと何ら変わりはない筈である。ということは、実はわたし、アイドルが性に合っているのかもしれない。
*
アイドルの仕事とは、表面を美しく磨き、愛してくれるひとびとの喜びへの奉仕に徹し、自己を「商品」に剥いて往けばいくほど逆説的にその生き方が商品性から離れて往くという点において、ある種の芸術家のそれに、よく似ているよう。
「名声なぞ欲しくない、俺は大衆に迎合しない」とうそぶく、孤高の思想家ぶった堅物のそれよりも、みずからを戯画と示した芸術家の、内奥の領域を瑕つけ磨きぬかれた商品を、わたしは愛する。
何故といい、けだしそれこそが天へ投げ放って銀の瞼を剥がし、仮の神なるものを引き摺りおろしえる作物であるから。
ボオドレールの詩編、『カインの末裔』。わたしはカイン。カインに奉仕しようとするカイン。仮の神へ弓噴く背徳の俗悪人。即ち、わたしはアイドル。ファンなるひとびとへ役立とうとする、俗悪の美。
*
デビューお披露目に遡ろう。
2020年7月6日。夕暮。
クリスマスイブを誕生日とするわたしは、まだ十八歳。其処は地下劇場であった。
ややしか高さのないステージに、別のアイドルグループを推す男性たちが百人程度、なんだか壁は煤けていて、男性たちの熱っぽい体臭がステージの裏にまでむっと香り、如何にも「地下」の偏見どおりといおうか、アングラな領域だという感じがした。わたしは”俗悪-美”を愛好しているので、むしろこの雰囲気は望ましい。抑々わたしはなぜかしら、体臭というものへの嫌悪をふしぎともたない。肉と心は、べつの問題だという古くさい考え方で生きているからであろうか。
わたしたちは二番目だった。既にデビューしている一番目のグループがステージに上がり、観衆がわっと歓声をあげる。ここに立ち歓声を浴びた人間というものは、忘れることの不能な強烈な歓びをえるらしい。脳内から夥しいドーパミンが迸るのであろう。わたしはなるたけ心のうごきを脳内物質で推測するよう気をつけている、それは心というものがきわめて100%に近く化学物質であると捉えているからであり、そして、残りのミクロ単位の「肉体ではない領域」をいつや発見するためである──じつはわたしはそれを、心の底ではきっと無いだろうと思っている──。
わたしは前述の歓びをえてはならぬ。従って、わたしはそれから”わたし”を守護するために、銀を注ぎこまれた背骨をきっと立たせ、ひとの背にレリイフとし構築されその聖性を表面に月影と浮ばせた突起、世にも美しい線を意識してその場にいるありとある人間と意識のなかで林立、そして、着せられた奇妙奇天烈にして悪趣味きわまりない衣装に躰を防御し、悉くを撥ねかえす決意にふたたび身をかためた。
一応、伝えておく。この自己への過剰な美化を、わたしはまったく信じてもいない。わたしの心を機械(メカニズム)的なコジツケとしてわたしの生きたい生き方をするために変容・操作・誘導させるための、一つの機械(カラクリ)がこれなのである。注釈。わたしは、人間の心とはすべて物質的な機械であるというような考え方を、わたしに対してだけは、ぜったいに是認しない。
「ドキドキするね」
と、ひと懐っこく愛嬌があるが幾分マイペースが過ぎてわたしを時々辟易とさせるメンバー──彼女のアイドル的パーソナリティは、大方これを活かすべきだと想われる、普段からかなり可愛い──、小河春子先輩が、緊張のしすぎによる笑みを浮べながら、わたしに話しかけてくる。
やや悪いようにいってしまったけれど、当時、わたしを除いて三人のメンバーのなかで「話してて楽しい」とわたしに感じさせてくれたのは、小河春子のみである。
「はい、わたしステージに上がるの初めてです。春子さんも、やっぱり緊張するんですね」
と、ふだんの習慣どおりに嘘をつかないように注意しながら、なるべく本心と言葉を通らせるように、しかし、相手への失礼のないように軌道を修正させて話す。わたしの平常の会話は、きわめて理念的であると想う。
小河春子は、以前別のアイドルグループで活動していたために、同学年ではあるが先輩である。従って、彼女に対しては敬語で話すのが社会人としての礼儀となる。
「するよー。久々だし、なんか膝破けすぎだし。やだなあ」
小河のスキニーには、ダメージが幾らなんでも入りすぎている。それにピンクと黒のストライプのカットソー──然り、少女的というよりも、女児的なものを想起させる──、黒髪は眉までの前髪をそろえたツインテール。小柄で童顔だが体型のバランスのいい彼女に、よく似合っている。
翻ってわたしの衣装はわたしを美しく装飾するには、わたしの骨格というものを理解していない。イエローベース春の肌の色にも合っていない。不服。わたしには自分はファッションセンスがあると自負することはけっしてできないが、ふだんわたしの美意識と独自研究によりアレンジされた「病みカワ(兵器としてのそれはむろん嫌悪の対象であるけれども、わたしは「地雷」という言葉の暗みの火花散るセンシティブな字面・音韻をどちらかといえば愛好しているほうである、が、”系”で括ることは概念少女的倫理に反しているため、よっぽど自虐的反抗をしたいとき以外は”病みカワな感じ”という言葉を使用することにしている、わたしはふだんどちらかといえば無口なほうであるが部屋で書き殴る文章においては春子の何倍も喋りすぎていて、これはしばしばブログの書き方に指摘されてきたわたしの性格の傾向でもあろう、だがわたし自身より湧く正直な気質がありとある方向より射す自意識に揺らめき、この横にぶれていきながら劇しいグラフをえがくような文体を迸らせるのであるためわたしはこれに従うほかはなく、されば…自制)」を愛好しているために、「わたしには似合っていない」と殆どいいきれるのである。
一文で服装を表現する。使用済みの古びた真赤な風船をむりに膨らませて、素肌の脚が木のように突き出ているみたい。
「そろそろステージです」
扉が開け放たれた。わたしは愛していない男たちに躰を投げだすように跳びこみ、そして”わたし”を何ひとつ明け渡さない決意に、心の貞節を硬く固めた。…
*
二階堂奥歯、『八本脚の蝶』。
その夜。わたしは高揚と自尊心向上を毀し、恰も浄化させるようにこれを真夜中に読み耽った。「精神の浄化」という、不潔きわまりない概念を懸命に批判しつづけながら。わたしの自意識は、まるでいつもわたしの四方八方を鏡面で覆うように、外側にある。
わたしはこの書物を、水樹晶のブログで知った。危険な悪書。けだしそれであった。というのも彼女の言葉は、ある意味においてわたしを殺したのだから。はや以前のわたしにはもどりえない迄にわが身を砕き、破壊した。わたしはけだしそれ故にこの書物に惹かれたのだった、絶世の殺意がこもり、ともすれば真白な爪で鋭く読者を剥ぎ殺すような言葉を、わたしは欲する。
穢してください、利用してどうぞ。
毀してください、壊して、いいよ。
その悉く、わたしの”わたし”は撥ねかえすから。
わたしはあなたの発情材じゃない。
奴隷のようにわたしを堕とす「現実の理不尽」、それこそが、”わたし”を炎やす発火材である。
盛りのついた不幸こそ、わたしをうごかす原動力。炎えあがってやるのです。つよく。冷たく。硬く。青々と。
低潔に、なりたいのです。
低潔に、なりたいのです。
わたしが縛られ嬲られ躰を利用され尽くしてみたいというのと──強調。性欲の話ではない──、われわれを性的に搾取しようとする男性の欲望を是認しないということは、けっして矛盾しないのである。なぜってわたしに、躰なんていらなかったのだから。躰があるということが、不気味きわまりないのだから。
躰と魂の関係、それ、いわく不穏。
次なる読書。
ポーリーヌ・レアージュ、『O嬢の物語』。
レッスンしていきましょう。今宵は、以上。おやすみなさい。
*
しかし眠れなかった、わたしは昔からぐっすり眠ることができないのだけれども、今宵は、さらに目が覚めていたのだった。
わたしは恋愛をしてはいけない人間であると、ずっと、ずっとそう想いこんでいた。
わたしには恋愛の資格がないのだ、わたしはひとを愛しえないし、わたしはひとから愛を受けるにあたいしない。
こんな意識は病める自意識を所有するうら若きひとびとが往々にしてもちやすいものであり、勿論われわれは恋愛をしえる人間に成長しえるし、或いはその病める精神の領域の治療を、自己によってだってすることができる。
わたしは読書を好むほうであり、この問題を理念的な働きでもって克服するために、古典恋愛小説等でさまざまな恋愛を追求することにかぎらず、愛についての(いくぶん胡散くさい)思想書、愛しえる人間とは如何なる人間かというような新しい研究の論文、「生き辛さを克服する本」のような平易なものも含めれば、幾百冊かくらいは読んできたと想う、そして、次のくるしい言葉がわたしの眼前にどぎつく明瞭とさせる働きを齎したのが、それ等の読書経験・思考経験であるにすぎなかったのだった、わたしは次の言葉を突き付けられるたびに身を折るようなせつなさに苛まれる、そのために幾度も、いくどもわが身を変えよう、考え方を代えようとこころみたのだけれども、しかし、そのぐらつく情緒の点のうごきですらも、わたしのこのまるで戒律めいた公理のような言葉を、厳然として屹立させることを促すのみなのだった。
つぎの言葉というのは、これである。
わたしにとっての「ひとと愛し合いえる生き方」は、わたしにとっての「わたしじしんの生きたい生き方」と対立・相克し、それ等は、絶対に両立しえない。
すべては、ここに尽きる。
幸福を与え合う生き方というものを、みずから不幸に佇み不幸面する決意をしたエゴイストに、できるわけがないのだ。
わたしの恋愛論を披歴するつもりであるけれども、どうか、これを”純粋性”による言葉ではなく、根源の”幼稚性”より昇る叫び、或いは、それが余りに観念的な表現にすぎるのならば、「歌」として読んでほしい。お希い。お希いだよ。
純粋だね、だなんて、わたしは、絶対に云われたくない。わたしにとって、純粋という言葉は、なによりも重いのだから。
純粋、そして愛という言葉は、わたしにとって、抱えるだけでも耐えかねて了う程なのだから。
わたしは”恋愛”というものを、なによりも特別で他と隔てられた恋人という対象を信じ、真剣に大切にし合う関係それのみにおいて適用できる、きわめて厳密な状態のみを指す、きわめて限定的な名辞であると考えている。
神秘と高貴の領域が馥郁と洩らす、ある種人間にとって最高度の情念の発露にして、最底辺の魂を揺らし合う素朴な関係を云う言葉だと考えている。
愛の和訳。「御大切」。
サン・テグジュペリという、平凡きわまることしか書いていない小説家(これは小説家として最高のつよみである)の言葉。「ほんとうに大切なことは、目にみえない」「愛するとは、お互いを見つめあうことではない。おなじ方向を向くことだ」
殆ど俗説。愛すると信じるは、おなじこと。
これ等の言葉はわたしにとって至極当然のものであり、このほかである筈もない。
なぜと云いわたしは、それを「当然である」と内的に判断するからである。そうではないかもしれない、けれども、そうであってほしい。悲願。唯、根拠はそれだけだ。
わたしには人間にとっての──飽くまで人間の中だけの──絶対的な道徳観念が、すべての人間のこころにじつは組み込まれているような、そして、それは人間にははっきりと捉えられるくらいに突き詰めたり辿り着くことはできない、けれども其処へ向かおうとすることはできるような、其処の風景を刹那だけ幻視することはできるような、其処で響く音楽を聴くことはできるような、そんな気がしている。
そして、広義におけるそれであろうと、愛というものは、やはり、善いものになりえると想う。くわえて、善いものへ導き、誘い込み、軌道を整わせ、化学変化させないと、ほんとうは、”愛”とは云えないと想う。
真紅の情念と青の理念と綾織る、美と善の落す翳の重なる処、其処に、愛の影が陰翳されているような、其処より昇るamethystのためいきこそが愛と呼ばれうる、そんな予感がわたしにある。
不合理性。直観性。わたしはこれ等を軽蔑するひとびとは、けっきょく真実には辿り着けないのではないかと、倨傲にも、無謀にも、考えているのだ。
すくなくとも、恋人を大切にしなければ、その関係性に対し”恋愛関係”という名辞を与えることを、わたしにはできない。
そのほかの恋愛を、わたしは、殆ど搾取と支配と性愛諸々への欲心による、たかが生命の重力に従われて為される、とりわけ悪いものではないがけっして神秘と高貴の領域にない、たとえば食欲のままに食べすぎている様子とそうとおくはない領域にあるものではないかと、なかば本気で疑っている。
恋愛関係という、非法的な約束。その関係における、不倫行為。わたしは他者のそれ等に関心はないが、ぜったいに、是認できない。
ひとを、大切にする。
わたし──わが身に「人間の尊厳」というものを直観的に認められないという自己意識を投影している──はこの主題によって、生涯を台無しにしてきたといっても過言ではないと想う。
他者を大切にできないわたしを批判することを、他者を大切にするといううごきをすることに多大な思考を費やし多大な実践をしてもなにひとつこれという心・行為がわたしじしんに発見されえないわたしを批判することを、ほかの何よりも優先させてきたと、わたしは一種自恃をもって云うことができる。わたしの唯一の劣等感こそが「他者を大切にできないこと」であり、換言すればわたしはわたしの理想、”つよくてやさしいひと”の逆なのである。
ひとを、愛せない。
年齢-少女期、こんな悲劇のヒロインぶったインチキのべったり貼りつく言葉で自己をいくぶん見紛っていたけれども、注意ぶかくわたしじしんをみつめるならば、「わたしは他者を大切にできない」というのが正確にちかい言い方なのではと、現在考えている。
そして、わたしはついに、「自己無化」というおそるべき主題と邂逅したのだった、否、これ迄のわたしのIDOLへわたしじしんによって名付けられたあらゆる余剰な名辞、「純粋な愛」「無償の愛」「自己犠牲」「滅びの美学」、そのような偽りの名辞をいたみをともなって貼っては削り、いちどは恐るおそる「アガペー」と名付けひとには不可能であると泣きながら決定し貼ってはふたたび劇しい力で爪により削り、ようやく、「かのような生と死のうごきとは、”自己無化”という名辞を与えられないことはないのではないか」と、渋々と、注意ぶかく、この名辞のまっしろな怖ろしさに慄きながら推測として成り立ちえると判断して了ったのだった。
わたしは、自己を抛る生き方を、志向する。
自己を抛る生き方というのは、すくなくとも自己と他者との関係性において成立する「他者を大切にする」という人間関係の状態を、自分自身を当てはめさせ適用させることを不可能な状態へ自己を追い込むという宿命が伴って了うのではないか。
そして、わたしは自己を愛するようにしか他者を愛しえない種族であると思う。それが人間というものなのか、そうではないのか、わたしには判断する資格がないのだけれども。なぜってわたしは、わたし以外の人間に試しに代わってみることはできないのだから(嗚、わたしの生涯の悩みの一つは、これ)。
即ち、わたしにとり「恋人という対象を大切にする」というのが”恋愛”という関係を成立させる条件であるならば、わたしがわたしじしんとして生きつづけるかぎり、わたしは絶対的に恋愛不能者であることがここで明らかになる。
したがって、“自己無化へ向かう”という生き方を自己に課したわたしは、恋愛不能者でありつづけなければならないのだと結論させざるをえないのである。
2020年、7月7日、午前三時。
スコット・フィッツジェラルドいわく、魂の真暗闇の時刻。
恋愛、禁止──同意。
わたしの魂から、蕾の儘の”期待”という前のめりなよろこびが、劇しくも静謐ないたみによって、剥がれる音がした。俗悪な音楽、乾きざらついたましろの風景──悲痛によって欲しいものを奪われ削がれたようなわたしの顔が、わたしの眼前に赫々とした。欲しかった。欲しかったのだ。わたしは、恋愛が、欲しかった。なによりも愛され、愛してみたかった。断念。失念。こんなものがわたしをつよくやさしい人間に導くだなんて、どこにも保証はない。ただ、賭ける。一生涯を。それだけであった。
生涯とは一刹那であり、それがやがて無に侍り直されるという意味において、それは永遠という全体と一致するのではないだろうか。
わたしは暗みの眸を吸われるように凶暴な瞳孔のみひらいた貌で、ベッドのうえ、唯、閉ざされた自己愛と独善の飛沫のようなかわいた涙ばかりが流れることをのみ、それをこの決意による吐血だとし、自己に赦した。
自罰志向。わたしはこのある種与えられたネガティブな性情を、克服するのではなく、利用してポジティブな感情・行為を構築しようとしているのだろう。なぜわたしがそれを選ぶか。きっと、この性情は治療できるものではないと、たとい治療できたって、その方法はわたしの生きたい生き方を歪めるんだからしたくない──と、諦めているからではないかしら。
わたし、他者と深く関わることで、相手を傷つけることが、なによりも怖い。のちの自己卑下に、もはや耐えられる気がしない。だから、恋愛が怖い。そう、たぶん、根底の病はこっちなの。共感して。共感してください。お願いだから、わたしはほかの人間とおなじなのだって、わたしに思わせてください。
ごめんなさい、もう、やめたつもりだったのに。
けれども──わたし、ある種、獲得を放棄したの。だから、もう、手くびなんていらない。
*
シモーヌ、わたしを赦さないで。
Ⅲ 少女戦闘粗相報告
わたしはわたしをこのむひとびとに、「生きろ」と強要してきたのだった、「堕ちてでも生きようとする」という命の孕む俗悪な美しさを、まるで謳いあげてきたのがわがアイドル活動でなければならぬとわたしは戒めてきたのだった、恰も、独善で殴るように、弓を吹くが如く凶暴な気持で、喉から劇薬のこもる爆弾を投げ放つように──生きろ、と。わたしはそんな自己の不潔さ、誤り、悪性にきもちわるさで慄きながら、だからこそその苦痛をも背負い、為そうともしていたのだ。
つよさ。
唯、それを賛美しつづけてきたつもりだ。
だが、わたしは「死にたがりやで内気で臆病だけど、急に破天荒になる情緒不安定・社会不適合者アイドル」として、「かわいそうだね? かわいそうだね?」と、精神の意味をふくめ疵をいとおしげに舐められるように消費されつづけたのだった、それはたしかにわが身が負うべき責任であるけれども、わたしに勇気づけられる者なぞすくなくとも暫くはだれひとりいなかったのではないかという訝りは、わたしに現実の厳しさを実際に歩いてみて肌で感じさせたのであり、それはわたしの生の目的には、ある種適う結果であったことだろう。
ところで、なにかをてのひらによって獲得することを断念しようとする人間にとり、”てくび”という観念には、恰も月光に射し貫かれ透明性へ純化させるというような詩的イマージュを託される。これが自傷への欲心と直接的に結びつきえる詩的推論であるか否か、わたしには判断の資格をもちえないのだけれども。
デビュー直後にはじめたSNSのDM欄は、「パパ活どうですか?」というお誘いで埋まり、その数は数十程度のフォロワーをうわまわりもしていて、頻繁にpenis──わたしが何故斯く名詞でこの肉体の一領域を書いたのかを察してほしい──の画像が刃のように抛りなげられ、それの所有者達は、いわゆる”捨て垢”と呼ばれる足のつかないアカウントを使用していたのだった、わたしは性欲を撲りつけるようにぶつける無礼な態度そのものよりも、その卑怯性にこそ苛立ちをおぼえたのだった。堂々とマイナンバーカードを差しだし写真を撮らせ、「性行為をしてください」と直接頼みこむならば、まだこのような嫌悪は生れえなかったであろう──名誉のために加筆。それでもわたしはしない。
わたしは身売りをしていたけれども、それをしえたのは──グレーではあるものの──その行為が法的な関係にのっとり法人を介して行われる皮膚と粘膜のレンタルビジネスに過ぎないと、そう解釈していたからである。労働におけるそれと個々を介して行われる非法的な売春には、明らかな差異がある。法人を介す性行為を交わすわたしと客とは、魂の意味に限定すれば、冷たい蔽いを辷らせるのみの関係であったのである。そうであるから、わたしはそれに耐えられたのだ。
人格の、モノ化。わたしはその着想をなによりも追究し、恰も肉のみにおけるうごきによって模倣する所存であるけれども、その仮面と食い入ろうとするもけっして融合することのない肉体の下では、それをなによりも拒絶しつづける決意だ。
わたしにとり、”仮面”とは肉体質で花のような柔質性をもって外界へうでをのばす職業的パーソナリティに近いものであるけれども、”肉体”とは、恰も銀製のそれのように硬質な拒絶性を所有していなければいけないわが本質的性格へあるという自恃へわが身を誘導させねばならない──不可能(泣き笑い)。
そのような義務を自己に強いること──これは飽くまでわたしの志向する生を身体へ投影された観念的なイマージュであり、実際にそのような人間が存在しえるかどうか、まだわたしには判断しえない。
わたしは現場に入ってそこから離れる迄の労働時間のほかでは、ぜったいに、アイドルをしなかった。断言する。自負である。抑々、それはわたしという肉体的器官の構造上不可能であったのだった、なぜと云い、わたしの過剰な自意識は至るところから不可視の消費という視線が刺さっている自己が在るという意識をするだけで、肉を裂きたくなる程狂いそうになるのだから。脳裏で、謝罪がとまらなくなるのだから。
わたしがアイドルという労働に肉体を対峙させた際、それに促される精神が産み落としたのはけだし”失念”であった。わたしたちの甘えた期待を撥ねかえす、現実の理不尽という壁の冷然硬質性の。わたしたちの意志をいっさい考慮せずに、不可視の領域からこつぜんと一方的に飛来し精神にべったりと張りつく、”他者”という肉体のいとおしくも生温かい粘着質性への。
これを求めていたのだ──と、わたしは、恰も戦士が打ち震えるが如くの気持であった。
人間社会でわたしという一人間が生きるという現実がこれであるならば、そのなかで生きることがわたしという一人間にとって苦痛であるというのがこの現実であるならば、わたしは、神経のすみずみに迄そのいたみを奔らせたい、現実という硬質な理不尽から発せられる暴力を、わが肌で丁寧に几帳面に被りたい。なぜって、それが現実なのだから。それはわたしの、罰せられたいというある種宿命的な淋しい悲願と、手を結びえるのだから。そのなかでみつかる人間の良心というものを、細心な注意力によって捜しだし、恐るおそる峻別・推測しながら、それ等が何処かに在るという神話を、とわに信じていたい。
そう。わたしは当時、自己を善くみまがい、その内ではファンの殆どを軽蔑し、一部を憎んでさえいたのだった。
軽蔑。嗚。唯これをのみ、わたしは軽蔑しなければいけなかったのに。
されどわたしがここまで性的対象として舐め腐った態度をとられるのも、デビューお披露目の際のわたしのパフォーマンスがおおきな原因の一つでもあるだろう。それはわたしが負わねばいけない責任であると、いささか不服ではあるけれど認めざるをえまい。
というのも、わたしはデビューステージで「処女ですかー?」と客に煽られ、躁がしき激情が迸り激昂して、その場で上着を脱ぎかれへ力一杯投げつけて、下着のようなインナーだけの姿をさらし、「キサマ黙れや! 阿婆擦れビッチやけどなんか文句あるんかオイ! 女舐めてんじゃねえよ、クラすぞてめえ!」と怒鳴り散らしたのだ。
ちなみにこの挿話は動画込みで「修羅アイドル、紗希なお。出身は福岡県」とあまりに差別的な情報が(たしかに「クラす」はわたしの出身地の方言である)ネットで投稿・拡散され、グループがすこしネット界隈で露出しはじめた頃にこれに関する投稿がふたたび話題となって何万という「いいね」が付き(いわゆる、当時の言い方で”万バズ”)、それは伝説になり、わたしたちがのちに売れた原因の一つとして説明できるという推測が、おおくのファンによって考察されている。
*
デビューお披露目への遡りを、再び行う。
「はじめましてー!わたしたち、本日デビューのアイドルグループ!」
と、「やさぐれピュア喫煙キャラ」としてのパーソナリティーを確立させるため奮闘しているリーダーの橋本綾が声をかけ(彼女は女性ファンがおおく、わたしに羨みを感じさせる)、わたしたちは四人揃って、
「サイケデリック・ロンリーガールズです!」
と、自己紹介。
この、まったくもってネーミングセンスの欠けた、キッチュともいえぬ単なる俗悪でしかない名称は、メジャーデビュー直前に当然改名された。
されどわたしにとっては、けっこう気に入っている名称でもあるのだった。「サイケデリック」とはドラッグをやった際の幻惑を示す形容詞であるために、「不合理的」というむりな訳もできないことはないけれども、その後の「ロンリー」という孤独を指す言葉の響きは、いわずもがな「論理」という作業性の高い孤独な思考の路と音韻が結びついていて(ここは異論をみとめる)、如何にもわたしの已むにやまれぬ意欲を指すのに相応しい言葉であると思われる。
不合理で孤独な散文詩人、観念的論理少女──わたしは、其処へゆこうとする、概念-少女にならなければいけない。
「一人一人、自己紹介いたしまーす!」
と、高い声でかわいらしく云った直後、こつぜんとアンニュイな表情をかたちづくり、煙草をくわえる橋本。ハイライト。火をつけ、一服し、斜めから流し目をみせつけ、幾分エロティックなためいきのような声をからめて煙を吐きだす。数秒、無言。ファンは呆然、やや引いている模様である。
嗚。地下特有の雰囲気であった。
「あれ、なんだっけ? あ、橋本アーヤです、よろしく~」
不愛想で掠れている、地声よりもさらに低めの声。
わたしは当時彼女とは全く話が合わず交流が殆どなかったのだけれども、耳を真赤にさせて頑張っている橋本の姿に、わたしは人-性の可憐さを感じ、想わず茫然となった。
彼女の服装はオーバーサイズの白いノースリーブに、当時流行していた某セクシー系ブランドの部屋着の雰囲気がある起毛したホットパンツ。足元はドクターマーチンに黒の靴下。髪はあえてカールのかかったバサバサのアンニュイな黒髪ボブ、痩せていて関節がめだち骨が華奢、くわえて170近い長身の彼女がやると、部屋デートの雰囲気がある服装ながらも、どことなくロックな雰囲気である。
アーヤという名前は本名の綾からとっているが、この云い方は「2000年代の不良アイドルや歌姫のイメージでいこう」という完全に「Y2-K」の流行にのろうとした意欲で、プロデューサーに一方的につけられたのだった。「ダサ」、とかれがいなくなってから漏らしていたのを聞いたことがある。のちにブログで「ほんとは、ファンにはあやちゃんって呼ばれたいんだけどな」と書いたところ、それを書いた彼女の真意や作為性は不明であるが、「キャラつくってるけど、ほんとうはピュアで甘えん坊なのがかわいい」と話題になり、急激にファン数を増やした。
「次!」と叫ぶ橋本。
小河春子がマイクをとる。
「はじめましてー!グループでかわいいを担当してます、野苺春子です!苺だいすきー!」
わかりやすいキャラ設定、文面だけでも伝わりやすい、発言のアイドル的なかわいらしさ。小顔、小柄、背丈に対して細長い手足、華奢、童顔、微睡む猫のそれのような垂れ眼の大きな眼、こぢんまりとした鼻と口許、いわゆる、美少女顔。「圧倒的ヴィジュアル」とも評されていた、アイドルとして完成された抜群のルックス。やはり以前もアイドルをやっていただけあって自己紹介は完璧であり、ファンは安心して歓声をあげている。アイドル活動中もつねに恋人が二人以上いつづけ、一瞬でも切らしたことがないことを、かれ等は知らない。
「次―!」
愛らしい声を出しながら、秋津澪にマイクを渡す。
歓声が、やや静まった。春子先輩の紹介時の観衆の火のような期待がやや翳り、とくに野次もなく、恰も澪の自己紹介を終えるのを待つようなアトモスフィアが、一波の緊張感を伴って淡く漲ったようだった。
「秋津澪。二十歳です。みんな、わたしたちのことよかったら応援してくださーい!」
綺麗な発音。礼儀正しき身振り。だが、それだけだった。覚えてもらうためのポジションのアピールすら、なかった。
歓声はあった。けれども、はじめてそこでまばらな拍手が起きたのだった、それは拍手という礼儀の音楽で時間を埋めないと、やや不穏な穴が穿たれるような予感を、ひとびと全体が察知したからではないかとわたしには訝られた。
秋津澪は、美しくない。
否。ほとんど、いまの流行の顔立ちに照合させると、かなり魅力に欠けていた。骨格こそ日本人女性の集合値的なそれであったし、努力して脂肪の乏しい体型を維持していたけれども、こうしてアイドルとしてステージに現れた際、先ずひとの受ける印象はルックスの魅力の乏しさであった。これはメジャーデビューしても尚彼女に付きまといつづけた評価であり、その後の言動の変容は、のちに物語ろうと予定している。
当時わたしは彼女と会話することはほとんどなかったが、ほかのひとたちと話している感じでいうと、かなり社会的性格を意識していると云おうか、なにか本性を晒すことを怖れているかのような緊張感がまわりへも伝わってくるような、おどおどとした礼儀正しいコミュニケーションをするひとであった。何故あの性格で、アイドルになろうと想ったのだろう──小河と橋本がひそひそとそう話しているのを耳にしたが、そんな疑問が出てもおかしくはないと、わたしにだって想われたのだった。
告白しよう。
わたしのような美への権力意志をつよくもっている人間にとって、彼女の容貌には軽蔑にあたいするという已むにやまれぬ直感がうごいたし、それに血の毛が引くおもいで自己嫌悪、概念-少女的倫理に照合させその差別意識をどうにかこうにか剥ごうとしていたのだけれども、それは至極難解なことであった。
わたしはつぎのような安堵すらえていたのだった──秋津がいるおかげで、わたしは、グループでもっとも美しくないというポジションからのがれられた。嗚、よかった。なんて発想なの。頬を蔽うような、自己嫌悪。
わたしの、「美しくありたい」という欲心は、優越への意欲を起点とする。それのない自己の美への欲望がありえるのだろうか? 要検討。
少なくとも、わたしのそれは美醜という権力構造でうえへ昇りたいという欲心であり、下を内心でなじりたいという欲心が裏にあるような気がして、もしこれが人間に付属される性質の一つであるのならば、わたしはそれへ冷然な戦慄をおぼえる。「美しくありたいと欲望するのに醜い人間へ全く軽蔑心を向けない」という心の状態を、わたしには想像すらできないのだ。そして、このわが心になんらかのピラミッドをつくって自分の立ち位置を意識し、下への残酷な気持を所有せざるをえないという性質から、果してわたしはのがれうるのかと、つねづね自己に問いかけているのがわたしという病める概念-少女の本体である──何故って、概念-少女とは”どうして?”という素朴な問と妥協的な関係を結ぶことがないから。
わたしはそれをなべて放棄し自己を投げ棄てたいと志向する人間であるけれども、あきらかにわたしの内部にあるピラミッドの頂点には、『幸福の王子』の燕が燦爛としている。その山へ、「青空」というあっけらかんとした冷然の王子の美しさが──幸福の王子のものとはまったくもって異なるそれが──、反知性主義的な雰囲気すら放つおそろしく幼稚な眸の光を照らしながら、軽蔑するように降り被さっている。その青空という風景には、”共感”という曖昧模糊なる意味を孕む薄明の一切が欠けている。このあっけらかんとした陽気なくらみの印象は、恰もオディロン・ルドンの描いた「キュクロプス」のそれに酷似しているようだ。
価値尺度の放棄・無効化がひとを優しさへ導くなんて、わたしにはとうえい思えない。
わたしはこのような自己の矛盾に裂かれるような嫌悪を感じており、秋津澪を「醜い」と書くことは、わたしじしんの性質の醜さをけだしわが身に突きつける。この文章を書き残すのは、けっして読者への誠実さではないことをここに告白しておこう。わたしはわたしに対し、「わたしはみずからの悪を注視できている」という慰めを与えるためだけに、これを書いたのである。
かのシモーヌ・ヴェイユは、「純粋とは、穢れをじっとみつめうる力である」と書いた。されどわたしには、その視線とは自己を否定しきれない人間の弱さであり、「みつめて自覚しているからゆるされているんだ」という自己との対決における妥協にも容易に転じえるような気もする。
「次にいかせていただきます!」
ふしぎなくらいに過剰な敬語が、漸くわたしの順番をうながした。極度の緊張状態。火のように炎えるわたしの躰の疎外と、ひとびとという冷たい全体の対比を意識する。その間にある、肉体という絶対的な境を悲痛な迄に感じる。わたしは、大勢の視線が刺さっている自己を意識するだけで、その場から逃げだしそうなくらいにパニックになる気質を有している。
マイクをとる。
「あ、あ…」
冷汗が出て、うまく発語できない。喉に、なにかが絡まる。隠すべきわたしの本性的な叫び、それだろうか。本性。そんなものはわたしのかんがえでは無数にあるのだけれども、そのなべてをわたしには許容できないのだから、わたしの喉の中はいつも何かが犇き、醜い観念が蠢いている。
「えっと」
声がへんに掠れていることに、恐怖をおぼえた。最初の声が魅力的でなかったら、可愛くなかったら、このあとわたしを好きになってくれるひとなんて、ひとりもいないかもしれない。そんな不安な切迫がわたしを一種躁がしき高揚へとみちびいたが、その急激な加速を与えたわたしの感情の正体とは、けだし、そんな自分じしんへの怒りによるものなのだった。
殆ど、怒声であった。
「あああああ!紗希なおです!透明になりたいです!よろしくおねがいします!」
けらけらと笑う客もいたし、あたたかい偽装り笑顔で拍手するひともいる。わたしたちグループのお披露目自己紹介は、あきらかに終末に向かって魅力が引き下がり、わたしの順番で歪に轢き縮んでいる。
「緊張しないで―!」
そう云ったひとがいて、
「あ、ありがとうございます」
と云ったが、おそらく、声がちいさすぎて隣の秋津にすらききとれなかったであろう。わたしはわなわなと震え、視線は泳ぎ、口許はだらしなく半開きであった。すなわちここで明らかになるのは、この状態でわたしの感受性が集中しているのは、わたしの躰の像であるということである。
そのタイミングだった。
「コミュ障キャラかわいい!処女ですかー?」
わたしのすべてのフィジカルを押し揺るがすような、青々とスモーキーな火が惑溺した。炎ゆる陰翳に翳された肌が──肉という境界線が──破れた。
わたしはマイクを叩き落し、ぶくぶくと奇妙に膨れた上着を破るように脱ぎ男へ殺意のままに投げつけ、ほとんどキャミソールだけのような姿で怒りに顔を歪ませ、どっと昇る衝動に身をまかせ喉を膨らませた。それは歌だった。「わたしはそれを是認しない」という歌だった。…
*
「まあ、いいよ。そういうキャラでいけば?」
楽屋でプロデューサーに謝ると、そっけなくそう返された。
「やってしまったものは戻せないし、俺はけっこうおもしろいと思ったよ」
「ありがとうございます」
「そこで感謝するのはおかしいけどね」
「なおちゃん、かっこよかったよー」
お気楽な表情と声色で、雰囲気をやわらげてくれる春子。
彼女の何もかんがえてなさそうでマイペースな言動は、わたしの感じる範囲では、ふしぎと周囲いったいの和を壊したことが一度もない。中庸な傍若無人ともいえるそのコミュニケーションにおける基本的態度は、おそらくや保守的な計算の賜物であり、いたましいほどに外界への感受性がつよすぎる故であるような気もする。賢い。それを、すごく感じる。彼女はまさに外にばかり視線をむけているようにわたしには感じられ、わたしのような惨めったらしい自意識との格闘を知ったならば、「なんでそんなことするの? みんなで笑えて楽しく生きられたら、それでいいじゃん」というような、まるでマノン・レスコーがするような軽蔑すらなき軽視を与えてくれるのではないかと、当時はかってにも想像していた。
ひとにはそれぞれそのひと固有の痛みがあり、不可視のそれへ決定というかたちで裁いてはいけない。そう理念的にはかんがえていたのだけれども、そのときの彼女の印象は、まさに「頭の良さとコミュニケーション能力で、折に触れ計算だかく自由を獲得してきた、わたしのような観念的思考を全く必要としない、ほどよく自己中心的で愛されキャラの女の子」というものである。
ぶりっこ。それは、そうである。
橋本綾が、わたしの肩に手をかけて、声をかける。
「大丈夫? まあ、わかるよ」
わたしは彼女のほうを向いた。困ったような顔だけれども、目元の柔らかさが、わたしへのあたたかい感情を連想させる。
橋本は、人相がいい。
造形は冷然な整い方をしているが、顔つきがやわらかく、やつれているようにみえる力のない表情のうごかしかたをするけれど、それがむしろクールに映しながらも、「内心は優しいんだろうな」、とおもわせる雰囲気を醸し出す。写真だと冷たく見えるけど、動画のほうがかわいいよね、といわれるタイプである。
わたしは、わたし以外になってわたしを見ることが、すごく怖かった。パフォーマンス中のわたしが映る動画を見て、ふと目元に降りる暗い翳りや、神経質な印象の口許の引き攣りが、わたしの性格の欠点を、暗示しているように感じて了う。うごきだって運動神経のわるさ丸出しだし、口はひらかれ眼元が疲れきり、息の荒いわたしなんて、可愛くもなんともない。顔を両手で覆いたくなるような切なさを、いつも感じる。はやく整形手術代を貯めてアイプチを卒業したかったし、されどそんなことで、わたしの精神的な問題からくる雰囲気は消えやしないだろう。
「アイドルって、可愛いと思われることが仕事だし、男性の”あの子可愛い”って感情にはだいたい性欲あるし、いまの立場なら、ある程度は受け容れなきゃ。でも気持ち悪いのはわかるよ、わたしだって腹が立った」
「そうですよね」
「でもさ、わたしはあの反応可愛いと思ったよ。テレビだと問題だけど、わたしたち超地下だし、アングラだし、まあ、大丈夫。大丈夫だよ」
そういって、はらりと淋しい印象の笑みを浮べ、亦肩を叩いて、更衣室へ向った。
わたしは、橋本綾に、なりたかった。
自分のことばかり凝視して、そうでないなら在るかも判らぬ観念的世界ばかりに視線を向けて、そのあいだにある他者との関係性、或いは社会への意識が希薄で、自責というかたちで良心の存在を確認した気になって、自分と自分が不断に会話しているわたしなんかとちがって、他者の切なさにさらりと気づいて、ふっと手をのばし、とりわけよろこびの報酬もえないまま消えて往く、橋本のような優しいひとになりたかった。人間観が独学的にすぎるわたしの目には、彼女は、もはや人間に可能な範囲で”利他的”にちかい人間に映ることも多かった。
秋津は、わたしに話しかけない。そっとしておこうというつもりだろうか。まだ、彼女がなにを考えているのか、まったくもって解らない。
「ねえねえ、なおちゃん。今度一緒に遊ぼう! 買い物行きたいな~」
「え? いいんですか?」
嬉しい。口許がにまにまと緩んでくるのを感じる。わたしは、地下アイドルの面接に受かったタイミングで、漸く上京した。まだ、東京に友達はいないし、地元にも、連絡を定期的にとりあう友達はいなくなった。
「なおちゃんの私服大好きなんだぁ。病みカワかわいいよね! 一着そういうのもほしいなあ」
「絶対似合うとおもいます!春子先輩、ふりふりやリボン似合うし」
わたしは、わたしを褒められるより、服を褒められる方がよっぽどうれしいタイプである。わたし自身には自信がないけれども、わりと、だいすきなお洋服たちを、自分のセンスでコーディネートし、頭でイメージした理想を具現化するセンスには自信がある。それがファッション的にハイレベルかどうかには関心はないし、他者にどう映るのかもいまいち気にしていないけれど、わたしは、わたしに愛される服装を表現できる。人工的に概念-少女装飾を施すことができる。ええ、ほんとうに。少女とは、飽くまでfictional な生き物であるのですから。
「じゃあ、行けそうな日わかったら、連絡するね」
わたしはずっと楽しみにラインを待っていたのだけれども、そのまま春子は約束を忘れてしまったようだった。いや、もしかすると、そもそも約束というものを守る性格ではないのかもしれないし、約束と思ってもいなかったかもしれない。彼女のほかのいろいろな言動から、そう推測してしまう。
小河春子は、誠実ではないような気がする。くわえて、どこか不良っぽい。
Ⅳ 博愛少女批判詩論
植物を摘めない女の子──幼少期のわたしは、それだった。
植物に擬人的な痛覚を連想し、「なおちゃん、お花摘んでみなさい」といわれれば、「お花さん痛い痛いするよ」と泣きだすような子供だった。
花のようであれ、という客体を強いるような言葉に、美しくあることを求める言葉に、若者はしばしば反発する。フェミニストの多くは、女性に対するそれを断固是認しない。されどひとがひとのなかで生きるとは、一種おのれを、程々に、中庸にバランスよく花にすることであると想う。他者と綾織られるためには、なんらかの花的な態度が必要であるとおもう。
倫理の美しさとは、おおく花の美でもあると想う。
いまや、わたしは花を摘み、頬へこすりよせていとおしい気持にうっとりとし、つまりは搾取し、その植物の生命をいたみつけることに対し、最早罪の意識はない。それは、はや麻痺して了っている。
友達のいなかった小学生時代、ダンゴムシと遊んでいたわたしは、一度蜘蛛の巣にひっかかった生きたバッタを泣きながら助けたことがある。バッタなんて触りたくなかった、わたしはあの顔が苦手で、殆ど恐怖症にちかい感情がある。視られているということを、極度な迄に突きつける顔だから。されどわたしは食べられて了う運命にあるバッタが可哀想で、それをゆびで摘まんで外したが、さすれば「蜘蛛さんが食べ物なくなっちゃう」と感じ、すぐさま泣きだし、先ずは葉っぱをひっかけ、「牛さんじゃないし、葉っぱは食べないんじゃないかな」とかんがえた末、木の実の殻を割って、柔らかい中身を糸にひっかけて「これで大丈夫」とご満悦、亦、ダンゴムシたちと遊んだ。淡いちからで軽く触れ、かよわいかれ等が傷つかないように、細心の注意をしながら。
当時、わたしはお肉が食べられなかった。動物さんが可哀想、理由はそれだけであった。
いま、わたしは花を踏める。我が生きているということで間接的にうまれうる、かぎりなく不可視にちかい他者たちのいたみの上で生き、食事し、睡眠をとるということに神経が耐えられる。バッタを外すことなんて何の意味もなく、この世のかずかずの暴力は夥しく、それは可逆的で複雑に綾織りグレーな現象であり、一つ一つの存在を言葉や法で否定しても仕方がないということを、理念的に、そして神経的に識っている。
嘗てのわたしの優しさは、けっして褒められるものではない。それを大人がもって了っていたら、むしろ足枷でなりえて、”大人の優しさ”の一つである社会的な他者貢献を、むしろ阻む感覚に転じえないのだから。たしかに、精神病院にはそんなひとが何人かいたのだった、”小鹿物語”に比喩させるならば、小鹿を撃ち殺せず、うずくまって自責しつづけ、気付くと心を病ませて了った、行動の悪を怖れる慎ましきひとたちが。
されどわたしは──人-性が産れもって孕む道徳に照合させれば、花を摘めない当時のわたしが一面的には正しかったのではないかという淋しい訝りに、身を折る夜がある。
*
四人、レッスン後に事務所で弁当を食している際、わたしはあることに気が付いた。
秋津はご飯を残しがちであり、それはわたしたちのような容姿を重視される職業の人間にはめずらしくないだろうと感じてとりわけ注目していなかったのだが、彼女、肉を全く食べないのである。宮沢賢治みたい。そう感じたのだけれども、わたしのような『よだかの星』に共感しすぎる人間にとって、それはどちらかといえば好意を感じさせる。とはいえ、わたしは宮沢に、同族としての嫌悪をも感じるのである。
わたしは、この世から自殺がなくなるまでは幸せにはならないと、ある種自恃と、そんな自己への激しい嫌悪をもって、決意している。
これはかれの、「この世から不幸な人間がなくなるまで、自分には幸福にはなる資格はない」という独善的な言葉に酷似していることをのちに知った。そして、ほかならぬヴェイユも亦おなじことを云い、そして、水樹がこれをブログで引用していたことものちに知った。
──いいひとになりたいんだね、悪い自分がえがかれた自画像を見ることに、自意識が耐えられないんだね。
自己嫌悪の他者への投影。そんな冷たい厭味が生れるわたしの心は、醜い。
「澪さん、お肉嫌いなの?」
小河は性格上秋津にも気負いせず──しているかもしれない、いや、多分むしろかなり気を遣っているが、彼女は「気を遣っていない風に気を遣う」という高度なコミュニケーションが得意なように思えてきている──話しかけるため、意図しているのかしていないのかは不明だが、彼女が完全に孤立しないような助け船を出している。秋津に対してだけ「さん」付けなのはすこし気になって了うが、しかし、それも試行錯誤の結果であるような気もする。ほんとうに小河春子のこういう言動は、わたしたち全体にとって救われるのである。
橋本は、思い遣りはあるのだけれどもどこか他者に無関心といおうか、お節介じゃないといおうか。自他境界がきれいに引けている、そうともいえようか。
秋津に用事で話しかけられた際はこまやかに優しい態度をとり対処もきちんとしているし、独り困っていたら絶対に「どうしたの?」「こうするよ」とフォローするのだけれども、おそらくやふたりは会話の相性がすこぶる悪く(わたしと橋本も正直合わない)、彼女に負担を掛けないように意識していたら、おのずと会話も少なくなりがちという状況になっているような気がする。どことなく面倒くさがりやで打算的な一面がちらりと見えるときもあるような、そんな気もする為に、わたしは橋本を美化しているきらいもあるかもしれない。
けれどもやはりわたしは希って了うのだ、橋本のようになりたい、と。
全体がそういう状況なので、秋津がもっと仲を深めたいのならば、今回も会話がつながるように愛想よく返すのがいいのだろうとわたしには判断されるのだが、彼女は、
「いえ、気にしないでください」
と、丁寧ではあるものの不愛想な口調で、いつもどおり会話を打ち切るのである。
その後は暫くだれも話さず、「わたしが云えたことじゃないけれど、秋津は女性社会で巧くいかないだろうな」とかんがえていた。
食べ終わり、事務所内にある別室で給料をいただく。
壁にはこれが貼ってある、「恋愛禁止」。
小河春子はこれを見る時、どんな気持ちになるのだろうか。
わたしなんかは既に欲しいものがスマホのメモにリスト化されてあり、「冨原眞弓様が御翻訳なされたシモーヌ・ヴェイユ著作集全巻とアナスイのコスメとアンナ・カヴァンの持っていないハードカバーの本全部と、後まだ見付けられていない三つめのお気に入りの香水と、きゃあフランシス・クルジャンはどうしようかなー!…」とあきらかにすべて買えば給料の数十倍が無くなる物欲的想像で頭がいっぱいになり浮き立っていたのだけれども、秋津は幾分暗さすら感じさせるうしろめたげな顔で礼儀正しく封筒を受けとり、それをすかさずアウターのポケットに入れていた。
プロデューサーは、多分、秋津のこういうところが嫌いだ。時々、秋津の悪口をわたしたちに話すから。
「なに買う?」と小河が橋本に話しかけ、
「えー、マッサージ機かなあ。あとゲームの課金。まずはアイコスのタバコをストック」
「銃で撃ちまくるやつ?」
「銃で撃ちまくるやつ」
「マッサージ機とかゲームに課金とか、ファンにはいえないやつー」
「リアル女子なんてこんなものよ」
「わたし飲み代でカードの支払い残ってるからそれかなー、この前の男たちわたしたちの分払ってくれなくてさあ。セックス誘われてけど、そんなんとするわけないじゃん。イケメンならありかもしれないけどいなかったし」
「それこそファンにはいえないやつー」
と楽しそうに会話するのを尻目に、秋津は黙って帰る準備をする。彼女は、こういう会話が苦手そうにみえる。
橋本はパフォーマンスとしては紙巻タバコを吸うが、ふだんは周囲への配慮でアイコスにしている。
春子が一度紙巻タバコを吸っているところを、目撃したことがある。そこで吸っちゃいけない、そんな場所だった。わたしがいるのに気付くと、ふっと悪戯っ子めいた笑みを浮かべて、──もうやめたつもりなんだけどね、たまに吸っちゃうの。中学の時、悪い子たちと仲がよくてね、と説明した。
──いまはいい子だよ。
と咥えタバコのまま、手でハートをつくった。そこが喫煙所ではないことへの言及はなかった。
話しながら、だんだん表情が乾いていくのを見て、はらはら何かが毀れるような笑みに変わって往くのをみて、わたしは、「そうなんですね」という相槌のほか何もしないでおこう、わたしはそれ以外の言葉・態度を差しだして、その相槌以上の効果を上げる能力をもたないだろうから、と判断した。
愛らしい愚かさ、なんだかんだ好かれる程度にしか不快を与えないマイペース、ほどよい不良感、そんな印象を当時受けていた。
事務所で、わたしははやくパルコと大型書店に行きたくてしょうがなかったので、小河に「何買うー?」などと話しかけられても素っ頓狂な声で返事しながら、内心では「あれも買いたい、これも買いたい」とうわの空。
事務所を出て、運動をしたので先ずは美容成分の入ったプロテインを買おうとおもい、コンビニに寄る。秋津がレジに並んでいた。仕事上の仲間であるし、べつに嫌いという感情もなかったために挨拶をしようとしたが、彼女が加熱式タバコだけを数箱買ったあと(このグループ、喫煙者が多すぎるが、地下アイドルにはもしや喫煙者が多いのだろうか)にレジの募金を箱ごと開け、釣りと封筒の残りをねじ込んだのを見て、わたしは話しかける権利を自身にみとめられず、黙ってドリンクのコーナーへ向った。
ふと外をみれば、秋津が喫煙所で加熱式タバコを吸っている姿がみえた。かろやかな真顔、乾いているために一種爽やかにすらみえる、淋しい顔。
わたしは先刻の彼女の行動に、呆然としていた。
*
わたしの買い物は際限がなかった。
ところで──わたしは接続詞フェチであり、同時に人体への愛好という意味において(即ち、性的な欲望という意味ではない)関節フェチでもあるのだけれども、”ところで”という”話題の転換””比較対象をもちだす際の切り返し”をおおく意味する接続詞をかなり愛好しており、これが文章に発見されやすいのはわたしの基本となる思考の道筋をいやおうなしにわたしに突きつけるように想われる、というのも恣意的な”ところで”の多用はみずからの思考への絶えない注釈意識を露呈させ亦さまざまな価値尺度を知識としてだけ所有しそれ等に自縄自縛になっているわが身の状態を晒すからである、云う迄もなくこのようなダッシュを用いる注釈の多様も亦自意識の過剰によるものである(自制)──人間が現実を愛するには現実の醜さに跳躍して参入し、必然としてのいたみを享けながらそれを愛するために躰と思考をうごかさなければならないように想われ、亦、殆どおなじ意味において、女性が男性という属性で男性一般を愛するには”男性の現実”をその儘に余計な装飾をしないかたちで愛そうとわが身をうごかさなければならないのではないかと訝られる。
むろんすべての女性にはそれをしないという権利が与えられている筈であり──少なくとも、与えられるべきである──、従ってこの社会においてわたしたちは”男性をその儘には是認しない”という云わば権利にも似たものを所有している筈だという推測をえられうる。わたしたちはたとい男性優位社会に在ろうと、他者から如何なる非難を受けようと、認めたくないものを認めない、云うなれば肌のうちにうけいれず”皮膚の外側”という距離を保ち──水樹晶の言葉を想い起こす、然り、ファッションとは飽くまで皮膚の外側である。わたしの考えでは、DANDYISMとは衣服を血とともに肌へ食い入らせる必要があるため、わたしたちにとっての服装はけだしファッションではなく武装様式であり、自分自身を示す国旗であり精神への戒めなのだ──、「あなたはそうなんですね。然り。むろん、存在、肯定。そこにいて。わたしこれ以上あなたには接近しませんので、わたしの身振と表情からある種殺気として放つアトモスフィアによって、この拒絶心を察してくださいます?──これが男性の多くには通じない──そうわたし、身体的な意味においても、精神的な意味においても、それをわたしの内には容れませんわ、絶対に。絶対に。つまりはわたし、あなたの考え方や欲や躰を吟味し考慮し正体を探ることすら拒絶する立場でありますのよ、それでよろしくて?(よろしいに決まっている)あ、たとえ身体へ比喩させた精神の意味であろうとも、あなたの御肌をわが身へくっつけたら、あなたの行為を否定しますわよ(よろしいに決まっている、どうかそうであれ)」という態度が肯定されるのである。
わたしはこの態度はけだし少女らしいそれであるとは想われるし、とりわけ美しくもないが醜いものだとも感じられないのである。たしかにわたしは過激で、攻撃的なところがある。だが、この立場に立つ権利を、ぜったいに奪われたくないのだ。
前述の態度はきっと”男性”の部分にさまざまな属性を代入させえるし、それは現代の時代性と一見反しているようでもあり一見優等生らしく従属させているようにも考えられる。
男と女の愛情。それはもしあるとするならば、当人にとって特別なひと同士の、個人と個人による他と隔てられた特別性という概念の介入する関係性、くわえて永い信頼関係が必要であるのかもしれない。積み重なるものかもしれない。そうであるならわたし、それ、とっても素敵だと思いますわ。
嗚。けれども、わたしは、もっと様々な属性に寛容になりたい。否。他者に優しくなりたい。
ここで、怖ろしい問題が立ち上がる。
わたしは、”人-性”を愛するためにうごくことを、わたしの義務とし背に負わせている筈である。
亦わたしはアイドルとして、男性のファンをも包含して是認し大切にするために躰と精神を酷使させるという生き方を選択した筈である。
だが、わたしは、「認めたくないものを認めない」という幼稚な倫理を、自己に課してうごいているのである。
この問題は、わたしにわたしの生き方の破綻の未来を既に予感させている。否。既に、わたしの詩的にして不合理な言葉が、それを”成立されえない”と、詩的理論に従い結論させている。
そういうわけで──わたしの買い物は際限がなかったのである。
*
家族の幸福を謳う看板。
ライト。白い光。裏返る眼球。無化。わたしの躰はパルコに在って、わたしの心は其処に無かった。
「一緒に死にましょう」
と、母は幼少期のわたしに言ったのだった。
わたしはそれを、全力でこばんだ。死に物狂いで包丁をもった母に抵抗し、一種凶暴な気持で突き飛ばし、「いやだ、いやだ」と泣き喚きつづけたのだった。
わたしは、そのとき、死にたくはなかった。母の夫、いわゆる、わたしと血のつながりのあるその男は、わたしたちにしばしば暴力をふるった。荒れた高校で数学教師をやり、気の弱い男は不良の生徒たちから舐められ暴行も受けたりしていて、傷ついたプライドを、身体的によわいわたしたちふたりへの征服で補っていたのかもしれなかった。
かれは京都大学の数学科を卒業し、大学院でも研究をつづけていたのだけれど、わたしが生れたことで大学院を中退せざるをえなくなり、結婚というしたくもないものに縛られ、研究者の夢を絶たれたらしかった。
わたしはその実情を深く知らないし、ほんとうに研究者になれなかったのがわたしのせいなのかどうかを、もはや知りたいとも思わない。ただ、かれはそう云いながらわたしを殴っていたのだから、かれはそうかんがえていたのだろうと、冷たくかんがえるのみである。
母は、元来精神におけるかなしい病をわずらっており、その事情が、男性に生活を頼る生活を、彼女じしんに一種ゆるさせていたのかもしれなかった。母はわが身を安定した生活に置くために、あたかもいそぐようにわたしを妊娠し、男と婚姻の関係を結んだのだと、半狂乱で幾たびかわたしに説明した。
そしてその果ては、わたしとの心中未遂であったのだった。
わたしの激しい抵抗に耐えかねたのか、母はさみしげな顔をして、包丁を落し、恰もおのれだけが被害者であるかのように、しっとりと湿度のたかい身振と声色で泣き臥していたのだった、その際も亦、わたしは「お母さんごめんね、ごめんね」と泣きながら機嫌をとろうとしていた。
わたしは大人の情緒の変化が怖くてこわくてたまらなかったし、それは、いまでもわたしをくるしめる悪癖となっているように想う。この習性が、他者へわたしを恰も優しい人間であるかのようにみせかけていることが時々あるようにもおもえ、そのたびに、「騙してごめんなさい、ごめんなさい」、と頭で謝罪しつづける。
わたしにとり謝罪はもはや趣味であり、おそらくや赦されたいという自分への利益のためのみに為される、さみしい習性なのである。
高校生をしながらアルバイトをやり、給与はすべて母にとられ、家事もずっとわたしがやりつづけていた。うちは、体調が不安定なわたしのバイト代と生活保護のほか収入がなかった。いま、母は社会保障を増やしてもらい独り暮らしをしてもらっているけれども、家を出る夢が叶ってせいせいするという気持にはふしぎとならず、家庭のことを考えれば母への罪悪感のようなものがいつだって胸をうずまく。
毎朝、わたしが社会生活をするために起床すれば、うごけるタイミングになるまで起きることができない母を見る。いつも、ぐったりと斃れるように眠っている。
お母さん。
あのとき、一緒に死んであげられなくてごめんね。
毎朝、毎朝そんな気持にさいなまれる。
その、わたしじしんによっても如何にも奇妙なそれであるとみなされる想念は、わたしの脳裏からひき離されることはない、生存は、わたしにとり罪ぶかい。気持ち悪い。不気味だ。たくさんの条件を自己に掛けなければ、わたしは、わたしの存在を是認できない。
わたしに一種勇猛な意欲でわたしに課せられた戒律に、崇高であったり高潔である意欲はなにもない。けだしわがよわさと他者と関わることへの極端な臆病さ、くわえて病的な習性との馴れ合いによるものがそれであるのだ。
わたしはパルコの通路の端へ、わが身を身分に相応するようなかたちで追いやり、虚しきわが物欲と消費を、割れてさみしく飛沫を洩らす桃の身さながらに脹れる買物袋を床に置いて、唯、茫然としていた。茫然としていた。
わたしはいつの頃からか、自分のことで、泣くことができなくなった。
わたしはわたしによって苦しめられている自己をうえから俯瞰し、憐れみもせず、唯、冷然とみはなしているような気持で、時々嘲うような気持で、ふだんを生きている。
*
あるレッスン日、春子と橋本綾が時事ネタについて楽しそうに話していて、やがてその話題は、某国の紛争の話へうつった。
わたしはそういう話が苦手なので耳を塞ぎたいくらいの気持、しかし、そういう「繊細さ」を衒い「聞きたくありません」と伝えることの一種の暴力性、いわれた側への不快感をおもって、何も言わないようにしていた。のちの対立だって怖くもある。わたしははやり回避的なところがあるし、消極的でもある。
正直にいえば、わたしはそういう話を平然とできるふたりの心の一領域に対して、差別意識がある。それを払拭できないでいる。その差別意識だって暴力性の一種だと知っているわたしの意識は、即わたし自身への差別意識にもさいなまれる。なるべく聞かないようにしていたから会話の文脈は解らないけれども、時々その話題で笑顔をみせる春子に対して、「信じられない」というような軽蔑心すらわいてしまう。
暴力と暴力は綾織り、可逆的で、暴力と被暴力はダスティな陰影をのたうたせるよう、即ち、世界は不可視の暴力に満ち満ちているような気がする。わたしは、それの連鎖をせめて自己の内で断ち切るためにヴェイユ思想に縋っているようなところがあるが、その思想への尊敬心そのものがたくさんの暴力をわが裡で生みだしつづける。わたしのふたりへのこの感情だってむろん暴力であるし、亦、わたしには発見されていないそれが夥しいことに叫びだしたくなるような心地になることも少なくはない。わが固有の戒律に従って社会的行動を選択するには、深い注意力をともなわなければならない。そして、その選択に正しいものなんて存在しえないのではないかとも思われるし、わたしなんかにそれを判断する能力はないという前提はつねに必要となるであろう。
隣にいる秋津が、俯いてふるえていた。様子が、おかしかった。わたしも亦、胸がざわついてくる。
「大丈夫?」
わたしが泣きそうな情緒で伝えると、
「…はい」
というだけ。
顔をてのひらで覆い、わなわなと震えつづけていて、机に涙がぽたぽた落ちてきた。
唖然としているふたりに、「そういう話題苦手なひともいるから、いまやめましょう」と伝える。
「うん、わかった。ごめんね、気をつけるね」
と罰がわるそうな橋本。
春子はすこし不満げだったが、とくに嫌味をいったりはしなかった。黙り込んで、スマホを見始めるだけ。
「繊細なんだねえ」と薄ら笑いを浮べる可能性もややあると懸念していたわたしは、彼女へのわたしの解釈に罪悪感をもち、「わるく想ってごめんね」とおもった。
わたしは、こういう場面で、ひんぱんに嫌味をいわれつづけてきた。戦争教育で泣き崩れたときから、「優しいひとアピール」「友達もできなくせに」「自己中のくせに優しい自分に酔ってるだけ、気持ちわるい」そう、何度いわれてきたことであろう。だから、なにがなんでも秋津澪の味方をしたかった。
秋津が、殆ど過呼吸の状態になる。わたしは閉鎖病棟でこの状態のひとを何度も見てきて、同情心でうつったこともあって、すこしトラウマになっているから、わたし迄パニックになってきた。
「大丈夫? 大丈夫?」
秋津の背中をさする。過呼吸にくわえ、うわ、うわっ、ううっ、という呻きが時々きこえる。
「ごめんなさい!」
とくぐもる声で叫んだ後、彼女は部屋から飛び出していった。
平常な情緒ではないのはわたしもそうだったけれども、こういう時こそ、概念-少女倫理的に行動を決定しなければいけない。少し考え込んだ後、秋津澪のところへ向かうことにした。しかしそうすれば春子と橋本へなんらかの負担を与えることは想像できたので、なにかフォローをしなければいけない、なにか、「あなたたちは悪くないですよ。わたしが勝手に行動するだけです」というような言葉を差し出さなければならない、しかし言葉が想いつかなかったから、「行ってきます」とだけ伝えて、秋津を探しに行った。
廊下の隅でしゃがみこみ背を負っていた秋津は、ものすごい声で泣きじゃくっていたから、見つけることは難しくなかった。
「ごめんなさい! ごめんなさい! わたしのせいで雰囲気が悪くなりましたよね! ごめんなさい!」
つられて、わたしも大泣きの顔になる。
「大丈夫、大丈夫だよ。秋津さんみたいなひとはいるよ。全然わるい性格じゃない、わるい性格なわけないよ。わたしの知っているひとでそういうひと何人もいるけど、わたしにとって素敵な性格のひとばかりだよ」
「うわっ、うわっ、うう、あああ」
落ち着くまでずっと秋津を抱き締めていた。わたしの不潔な同情はわたしに涙を流させ、それが、秋津澪のTシャツを濡らした。こんな時でもわたしの自意識はわたしの不潔さや半端さを嘲笑っている、わたしは、そんな自分が大嫌いだ。清んだ優しさを一途に注げない自分が、大嫌いだ。
わたしは、昔から、内心だけの場合も多いけれど、外れ者の味方ばかりしてきた。
学校に友達が一人もいないひと。話しかけても、いつも追い出されてしまうようなコミュニケーションしかできないひと。不潔で暗い顔をしているひと。いじめられっこ。ダンゴムシ。
そして、わたしなんかを推してくれる、わがいとおしきファン。わたし、きっと、ファンのことを愛せていない。
数十分経って秋津が落ち着いてきた。すこしだけだけれども、安堵した。
「ごめんなさい」
「ごめんなさいって言わなきゃいけないこと、秋津さんはしてないよ。ありがとうでいいよ」
「ありがとうございます」
顔をくしゃくしゃにして、
「こんなことしてくれたの、鈴木さんが初めてです」
と言ってくれた。
「…どうして、戦争なんてあるんでしょうか」
と、ぽつりと呟く秋津。このような”どうして?”には、少女性が宿りえるとわたしは考えている。
「うん、うん」
相槌だけすることにした。
わたしは外へ行って、しばらく歩いたらベンチがあったから、そこに座った。秋津はすこしだけ微笑むようになってきていて、それが嬉しかった。
「鈴木さんって、本を読んでいることが多いですよね。なにを読まれているのか知りたいんですけれど、愛読書とか聞くと、困っちゃいますか? いや、教えなくても大丈夫ですよ! いやだったらごめんなさい!」
秋津らしい、丁寧すぎる、舐められやすそうにも感じられる、こちらを恐れているようないいかた。けれども、わたしは、プロデューサーのような言い方で非難されるようなコミュニケーションの仕方では、ないとおもう。不器用ながらも気を遣ってくれる、そんなふうにわたしに感じられることも、けっしてすくなくはない。
この質問にどう答えるか、すこし、考え込んでしまう。わたしの愛読書は、暗みのある危険な悪書がおおい。その逆に、あまりに透き徹ったがゆえのおそろしさ、不安を張りつめたような書物もおおい。
双方とも、いっしょに働く仲間へ告白するには、その後の関係に支障が出かねないほどに印象がわるいだろう。
「星の王子さま、とか?」
星の王子さまも大好きです、サン・テグジュペリだって大好きだけれども、もっと、もっと好きな作家は、べつにいるの。
「え! え! 星の王子さま! え!」
ぱあ、と星空のように照りかがやくようなあかるい表情へ、秋津のふだんの暗いポーカーフェイスがすさまじく変容する。わたしは、ここでかなり驚いた。
秋津澪って、こんな顔をするんだ。
「星の王子さまいいですよね! わたし、キツネが大好きなんです。”もしぼくを飼いならしたら、ぼくたちにとって、相手が特別な存在になるんだ”って言葉、すごくすごく好きで。よくないですか?」
秋津の表情やあかるい声色につられたのもあるが、こんなに近くに似た感性と趣味をもった人間がいたことで、わたしの情緒は、一瞬で躁がしく飛びあがったのだった、あたかも、うさぎが跳ねるようなスピードで。
しばしば驚かれるが、わたしは数秒で情緒がいれかわりえる性格をしており、話し相手が自己を卑下することをいうときゅうに顔をくしゃりとゆがめ泣き出したかとおもうと、その後十秒以内に立ち直り、自分のジョークにけらけら笑っていたりする。
「わかる、キツネかわいいよね! わたし、星の王子さまでキツネが大好きになったんだあ! 狼王ロボでオオカミ大好きになったし、犬はつねに全部かわいいし、イヌ科に生まれたかったくらいイヌ科が大好きでさあ、あ! 話変わっちゃった。え、わたしたち、じつは共通点ある?」
同じテンションで話し出すわたし。
え! と嬉しそうな、あどけない驚き方。目をおおきくみひらき、くちもとがおおきな笑いをかたちづくる。
そうなんだ──と、わたしは先ほどの高揚がすぐに沈むのを感じる。
この子、ほんとうは、素直すぎるんだ。ふつうに生きていくには、素直すぎて、無防備すぎるところがあるような気がする。わたしは知っている、こんな素敵な性格の人間が、おおくの社会的な環境と相性がわるく、苦しんでしまいがちであるということを。
秋津澪って、いたましいほどに、こっちがくるしくなるほどに、素直なのかな。
「うれしい! うれしいです! じつはわたし、鈴木さんのことがずっとずっとひととして好きで、だからほんとにうれしい!」
腕をかるくぱたぱたさせた。いまにもジャンプしそうなくらいに喜んでいる。あ、すこし踵があがった。こういうひと、精神病院の閉鎖病棟にいたな。そう想いだした。わたし、そのひとたちが大好きだった。
彼女の表情を説明するうえでは、どうしてもかわゆらしいオノマトペを使わざるをえない。美文調をかなり意識しているこの小説では、正直使いたくない気持もあるのだけれども、しかし、使わざるをえない。使わせていただこう。
ほわほわ! と表情がふんわりし、口元をゆるゆる~とさせ、ぴょん! と眉をあげる。
わたしのことが、ひととして好き。そうだったんだ、わたしはうずくまるような自責に苛まれる。わたしは、秋津澪のことを、こうして話すまで、えたいのしれないひととして、アイドルとしてわたしよりも魅力が低い存在として、下に見ていたような気がするから。
「秋津さんは、愛読書とかあったり、好きな作家いたりする?」
「えっとですね」
とはにかんだようにかわゆらしく微笑み、考え込むようにうつむいて、ちらりとピュアな印象の黒目を向ける。きらきら、と眸が照ったような印象。表情が綺麗。けれどもこのひとの美しさに気付くひとは、きっとすくないのだろう。
「…哲学者のシモーヌ・ヴェイユが、大好きなんです」
息を呑んだ。秋津が、さらにつづける。
「でも、どちらかというと──え、どうしよう、言うの恥ずかしいなあ…」
もじもじとしたあと、普段無表情の彼女なのに、いいえ、いいえ、おそらくや、これまで偽装りわらいをどうしてもできなかったからこそ守られてしまったような、淋しいほどに無垢な印象の、”ああ、この子がシモーヌ・ヴェイユを好きになってしまうのって、わかっちゃうな”、そう思わせるような、どことなく浮世離れした雰囲気の、はっとするように綺麗な愛らしい表情で、こういったのだった。
「わたし、シモーヌ・ヴェイユが好きな自分が、好きなのかもしれません。三つ編みにした黒髪を垂らして、白いブラウスに地味な色のカーディガン、品のあるロングスカートを身に着けて、清純らしい服装をしてるけど、じつは清純とは程遠いくらいに芯がつよくて、優しい反骨精神をもっていて、なにか赦せないことをいわれたら、たとえば、”もっとお洒落しなよ、女なのに”とかいわれたら、”いやよ!”って言い返すような、そんな昭和の文学少女、哲学少女、そんなふうに、自分のことを想えてくるんです。
休日はそんなファッションをしているから、髪は染めずにずっと長くしていて、カラーされていたりパーマがかかっているヘアスタイルも素敵だし、すすめられるし、してみたいともおもうけれど、自分では、黒髪ストレートロングが信条なんです。あ! あと、宮沢賢治と吉本隆明が…」
「友達になろう!」
わたしは叫んだ。
「え、え、え! え!…はい!」
かわいい。
わたし、こういう子、ほんとうに好き。
わたしは、秋津澪のことが、だいすきになってしまった。だから、だから、わたしたちグループが有名になってからの彼女のくるしみが、挫折が、受けつづけた不当な暴力が、わたしには耐えられない。この先、きちんと書けるかどうか、その自信もない。
ブス。
ひとの容姿に、たったカタカナ二文字で「無価値」と烙印づけるこの言葉を、わたしは、ぜったいに是認しない。自分に対してだって、わたしは、ぜったいに使わない。
わたしは、カタカタ二文字から四文字の蔑称を、けっして是認しない。わたしがメ××ラ? かってに、言っとけ。
*
【プロフィール】
名前:橋本アーヤ
身長:167センチ
好きなアーティスト:尾崎豊、椎名林檎
尊敬する人物:両親
好きなファッションスタイル:カルバンクラインとロック系
将来の夢:女優さん
五年後のあなたはなにしてる?: 映画で主演したい
座右の銘:うーん、ない
ファンへ一言: 推して。以上
名前:野苺春子
身長:152センチ! 小さいのがコンプレックス…
好きなアーティスト:かわいい女性アイドルはみんなだいすき♡
尊敬する人物:野苺春子
好きなファッションスタイル:ピンクと純白、オフショルでフリルがついてるトップス、袖長めのふんわりしたアウター、下は絶対スカート♡
将来の夢:一緒に見つけよ?
五年後のあなたはなにしてる?: もっと愛されてる
座右の銘:全身全霊全時間アイドル主義
ファンへ一言: 愛して?
名前:秋津澪
身長:159センチ
好きなアーティスト:ヨルシカさん
尊敬する人物:秘密です
好きなファッションスタイル:カジュアル系です
将来の夢:考え中です
五年後のあなたはなにしてる?: なんらかのかたちで働いているとは思いますが、できればアイドルを続けたいです
座右の銘:ほんとうに大切なことは目に見えない
ファンへ一言: ひとりでも推しになってくださる方ができるよう、精一杯頑張っていきます。どうかよろしくお願いします!
名前:紗希なお
身長:153センチ
好きなアーティスト:永遠に水樹晶
尊敬する人物:人間をそのひと単位で尊敬しない主義
好きなファッションスタイル:武装様式の話なら地雷系ですが?
将来の夢:つよくてやさしいひと
五年後のあなたはなにしてる?: 生きて歌ってお前を愛してる
座右の銘:きちんと生きて、きちんと傷つく
ファンへ一言:だから死にたい人間が貞節をもって生きてる姿はロマンチックなんだって、それだけでほかのすべての命のうごきと同様に俗悪な美しさがあるんだって、ずっとずっとオレはいっていますが? なに?
真紅の禁戒 第1部
読んでくれてありがとうございました。ぼくは主人公を絶対に生き抜かせるので、ぼくたちも生き抜こうね。