バンカラのあの人

転校先になじめない私の、ほろ苦い初恋物語。

慣れない北国に転校した私。窮地を救ってくれたバンカラの彼に近づきたくて必死に受験勉強するが……。

 寒い寒い冬がようやく終わった。私は十四歳、中学三年生になったばかりだった。
 この町へ越してきたのは一月、生まれ育った東京と比べて別世界ほど冷え込む厳冬の時期だった。降った雪はそのまま地面に分厚くたまり、陽に照らされて解けても完全に消えることはなく、スケートリンクのようなアイスバーンになって、冬道に慣れない私をひどく恐怖させた。
ファンヒーターを付けていても、厳しい寒さは部屋の床からしみだして鈍い霧のように私の下半身を覆っていた。学校の教室も例外ではない、汗が噴き出すほどに頭は火照るのに、上履きの足は常に氷のようだった。最高気温がマイナスの日であっても、ジャージに一枚フリースを羽織っただけで登校するクラスメイトは、私の憂鬱には無関心だった。寒いだけで気持ちが塞がるだなんて、寒気に洗われて育った彼らには理解の外だったのだろう。
 そう、私は憂鬱だった。慣れない土地でこのまま高校受験だなんて、幼馴染たちから一人切り離された土地で高校生になるだなんて、頭上の雪雲と同じぐらい暗く重たいものが、肩から腰からのしかかってくるみたいだった。
なかなかクラスになじもうとしない私に、級友たちもすぐに関心を失くした。今にして思えば、虐めや仲間外れにならなかったのは僥倖だったと言えよう。私はどのグループにも属さず、誰と連れ立って登下校したりもせず、でも必要な会話のときだけにこやかに話して、お茶を濁すように過ごしていた。

 その牧場のことを聞いたのは確かMさんからだった。私の自宅からツーブロックほど離れた宅地の外れの外側に、小さな牧場があるというのだ。夏は牛を放牧していて、ウサギやヤギもいて、二三頭の馬もいる。冬場は広い草刈り場が地元の幼稚園児や低学年の子供たちのためのそり遊びやスキーの無料コースになる。そのときは「ふうん」と受け流しただけだった。慣れない寒さの中で学校に行く以外に外出したくはなかったのだ。
 だが三月になりアスファルトの上からはようやく雪が消えた。借家の紅葉の根元からはあどけない福寿草がたぱっちりと目を開くかのように顔を出した。空は眠たく近くなり、雲は白磁から綿菓子に変わった。私の下半身を覆っていた鈍い霧はようやく消えて、代わりに空を飛んでいるかのような解放感が満ちて行った。
 四月に入ったばかりのある春休みの日、私はまだダウンのコートに分厚い靴下と言う格好のままぶらりと家を出た。学校へ行く以外で外出したのは三ヵ月ぶりだった。
 私はMさんから教わった道順をたどって牧場へとたどり着いた。驚きだった。宅地から本当にちょっと外れたところに行くだけで、まるで山の奥に迷い込んだかのような景色が広がっていた。ナラやクヌギや松が生い茂り、丘の下の宅地を覆い隠していた。遊歩道の内側のガードレールの下は一面のまきばになっていた。今はまだ枯れ草ばかりに見えるが、その下の方からはたくましい下萌えが勢力を拡大し始めるところだった。
 乾燥したクマザサは、まだ去年からの枯筋の入った葉を吹く風にガサガサと言わせていた。夥しい鳥の鳴き声が間近に聞こえた。それは楽しい掛け合いのように響いていた。
 まだ牛はいなかった。所々に日除けのために植えられているという桜の木が、剪定もされない自然状態で枝を伸ばしている。よく見ればナラやクヌギに混じって、様々な種類の桜の木があった。その花芽は盛春への希望に満ちて、パンパンに膨らみつつあった。
 私は道なりに真っ直ぐと歩いて行った。Mさんによれば遊歩道は分かれ道無くグルッと円環していて、最後は最初に入ってきた上り口に戻ってくるという。私は揚げ雲雀の様な解放感に満ちて、運動不足の胸をハアハア言わせて急こう配のアップダウンを歩いた。
 階段を降り小さな谷間に道が差し掛かる。池があり、やがて小さな柵に囲まれた小屋があって、ウサギの姿が垣間見えヤギの鳴き声がした。そしてその隣の大きな柵の中に、馬が三ぼうっとたたずんでいた。私は思わず近寄ってみた。誰もいないところで馬を見るのは初めてだった。それまでの私の経験では、幼稚園の時に動物園のポニーに載せてもらったことがせいぜいだったのだ。
 私は思わず柵の一番こちら側に立っている茶色い一頭に近づいてみた。馬は嫌がるでも警戒するわけでも無く黙って私を見つめている。その黒い瞳はしっとりと濡れて優しげだった。私は思わず手を伸ばして馬の黑い鬣を撫でようとした。
 その途端、今まで従順そうに私を見つめていた馬が歯をむき出しにして私のベージュのコートの袖にかみついた。腕自体は噛まれていない。馬は意図的に私の衣服だけをとらえたのだ。
 「ねえ、離して」
 私はうろたえて腕を引っ張った。馬は強力なあごで噛みついたまま狂暴に私を見つめて馬鹿にしたように鼻息を吐いた。痛いわけではない。だが身動きが取れなくなった。いくら強く引っ張っても、いくら懇願しても、馬は私のコートの袖を離そうとはしなかった。一分が経ち二分が経ち、私の焦りは深まっていった。まきばの上の青空を風が吹き渡り雲が流されてゆく。私と馬たち以外、ここには誰もいない。私はたった一人で馬に立ち向かわなくてはならない。
 五分ほど恐怖に耐えていたころだったか? 不意に砂利道にカランコロンという不思議な足音が近づいて来た。私は助けを求めるように振り向いた。そこにいたのは奇妙な制服姿の少年だった。
 彼は高校生ぐらいに見えた。制服の種類自体は一般的な黒い詰襟だったが、それはビリビリに破け、何度もほつれをはぎ合わせているせいで黒と言うよりも灰色に見えた。頭にはやはりつぎはぎだらけの角帽をかぶり、腰には白い絞りの手ぬぐいを垂らし、足元はまだ肌寒いのに素足に歯の高い下駄といういで立ちだ。カランコロンと言う足音は、その下駄が発していたものだった。
 肩をいからせて歩いていた彼は私と馬を認めると、「おっ」と言うように足を止めた。人のよさそうな黒い瞳が力強くきらめいた。その日焼けした頬や顎には無精ひげが伸ばされていた。
「まずいな」
 彼はそう言って、急いで私と馬の所へと近づいた。そして私の袖に喰いついた馬の頭を強く殴って「しっしっ! 」と声を張った。馬はようやくしぶしぶと言った調子で私の袖から口を離した。私は彼の足元にへたり込んでしまった。
 「大丈夫だった? 怪我はないか? 」
 彼はそう言って私の背中をポンポンと叩いた。私は涙ぐみながら黙ってうなずいた。
 「馬はな、人を見るんだ。弱い子供や女性には強く出る。時々ああやってからかって遊んでいるんだ。全く質が悪い。立てるか? 」
 そう言って彼は私を立ち上がらせた。
 「コートは大丈夫か? 」
 私はのろのろと自分の袖口を見た。馬の歯形がはっきりと残っていたが、唾液でべたべたしている以外破れやほつれはないようだった。
 「クリーニングに出したら大丈夫そうだな。どうせもう冬物をしまうタイミングだ。これから今日ぐらい暖かい日が増えるから、もうこんなダウンなんか必要ないぜ」
 彼はそう言って私の前で真っ直ぐに背筋を伸ばして歩きだした。私も何だか言葉に詰まって何も言えないままその後ろに付いて歩いた。途中梅の蕾がほころんでいるのが見えた。仙境のような杏の森も見た。それはわずか十五分ほどの道のりだった。私は永遠にまきばが尽きなければいいと思った。だがゆるやかな上り坂の末にやがてまきばの上り口に戻り、彼は手を振って去って行った。私はろくにお礼も言えないまま、黙ってそのつぎはぎの背中を見送った。

 「バンカラ」という言葉を聞いたのも、確かMさんからだった。戦前からの気風を受け継ぐ応援団員が、代々継承される詰襟と角帽、下駄姿で学校生活を送っているという。私は何処の高校の人たちなのかをさりげなく訊いた。
 「I高だよ」
 とMさんは言った。私は家に帰るとすぐさま検索して、その高校のことを調べた。私はアッパーパンチを食らった気分になった。県内で一番偏差値の高い高校だった。成績を二割上げなければ合格など叶わない。
 その日から私は猛勉強を始めた。授業の時間に髪をいじったり居眠りするなんてとんでもない。十分休憩のときにも抜かりなくメモを取り、塾に通い、タブレットとも疎遠にして、マンガもアニメも断ってひたすらに勉強した。I高では今は女子も応援団に入ることが出来る。彼と同じ部活に入ることが出来るかもしれない。ひたすらそれのみを夢見て、私は睡眠時間を削った。
 夏休みもどこへも出かけず、せっかくの紅葉は通学時に見上げる庭木だけ、あれほど憂鬱だった冬の寒さへの抵抗感も忘れて、私はとうとう偏差値を二十あげた。
 迎えた受験を何とか突破して、私は晴れて入学の日を迎えた。
 入学式のとき、新入生を歓迎するために、壇上に件の応援団員たちが上った。皆彼と同じようにつぎはぎの詰襟を着て手ぬぐいを下げ、ぼろぼろの角帽を被っていた。ちらほらと女子生徒も混じっていた。私はときめきに貫かれながら彼の姿を探した。
 彼は壇上にはいなかった。
 私はやっと気づいた。彼はきっと去年の三年生だったのだ……。パンパンに膨らんだ期待と恋心は一瞬にしてしお垂れて涙に濡れた。その日はどうやって家まで帰って来たか覚えていない。

 結局私は地味な文芸部に入った。周りはみな頭の良い人たちばかりで、通うごとに劣等感に打ちひしがれた。私は失った恋の残骸とともに、塩辛い学校生活を送った。
 実りのなかった恋ではあるが、私の人生の方には大きな続きをもたらした。勉強を頑張り進学校に入ったことで将来への展望は開けた。私は地元の大学の農学科に入り獣医を目指している。私の袖に嚙みついた馬のような動物にもたくさん触れた。今ではもう恐れられることはあっても、馬や牛に舐められるやわな少女ではない。
 大学のキャンパスにほど近く、私の母校がある。イチョウの並木の下をつぎはぎの詰襟を着た無精ひげの学生が下駄を鳴らして歩いているのをたまに見かける。その度にわたしははっとして彼の顔を見つめる。きっと私を助けてくれた彼はもう立派に成人し、どこかの町で働いているはずだ。もうぼろぼろの詰襟は着ずに髭も剃っていることだろう。
 それでも私の想い出の中の彼は、いつまでも下駄を鳴らして歩く「バンカラ」の男くさい少年のままなのだ。
 今でも、彼を思い出すたびに胸の中には、カランコロンと言う足音が幻のように響いて来るのである。
                   了             

バンカラのあの人

バンカラのあの人

転校先になじめない14歳の「私」の、ほろ苦い初恋物語。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-04-15

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