私のおばさん
あたしの家は三人暮らしだ。ただ、どこにでもあるような三人家族とは少し違う。
あたしの家は三人暮らしだ。
ただ、どこにでもあるような三人家族とは少し違う。
たぶん、一般的に言う三人家族というのはお父さんとお母さんの間に子供がいるような家庭だと思う。
あたしの家にはお父さんはいるが、お母さんがいない。
その代わりにちっちゃいおばさんがいる。
どれくらいちっちゃいかと言うと、ラグビーボールくらいの大きさしかないのだ。
おばさんは体型もラグビーボールみたいで太っちょだ。テレビの前のクッションがおばさんの特等席で、いつもそこにお尻をかきながら寝そべっている。たまに音を立てておならもする。お腹が空くとビールと枝豆を所望して、まるでおっさんみたいなおばさんなのだ。
このちっちゃいおばさんはいつからかいた。
きっと、まだあたしのお母さんがいたころにはまだいなかったと思う。写真でしか見たことがないお母さんとおばさんのセットは何となく想像がつかない。
お母さんは、私がまだ「ばぶばぶ」としかしゃべれないころに病気で死んでしまった。もしかすると「ミルクよりコーラが飲みたい」くらいは言えたかもしれないが、とにかくあたしが物心つく前からいない。
お父さんに一度、「このおばさんがあたしのお母さんなの?」と聞いたことがある。そのとき、いつも物静かなお父さんは腹を抱えて笑い出した。
「美咲は面白い子だなあ。こんなちっちゃいおばさんから美咲くらいの子供が生まれるわけないだろう?」
それもそうだ。いや、それならこのおばさんは何なのだ。
「母さんが死んだ一ヶ月くらいたったころに僕が拾ってきたんだ」
おいおい、犬や猫じゃないんだから。
いや、犬や猫だったらまだ良かったのだ。彼らは愛嬌があるし、オナラはするかもしれないがビールや枝豆を要求してこない。テレビも占領しないだろう。
おばさんはちっちゃいだけで、あまり可愛くないのだ。
あたしが中学校から帰ってくると、お父さんがリビングのテーブルでコーヒーを飲みながらノートパソコンを開いていた。
あたしのお父さんは小説家だ。
お父さんは恋愛小説、ミステリー、サスペンス、ファンタジーと色々なものを書く。そして小説にはいつもちっちゃいおばさんとあたしとしか思えない小学生の女の子が登場するのだ。
お父さんの小説は子供にも分かりやすいと評判らしい。
あたしも友達経由で何度かお父さんの書いた小説を読んだことがある。だけれども、お父さんの小説はあたしにはうちの家を描いた日記のようにしか思えず、面白いうんぬんの前に気恥ずかしさが勝って読めたもんじゃなかった。
例えば、こんな話がある。
晩ご飯のとき、おばさんがあたしのお皿に肉じゃがのニンジンをこっそり乗っけてきたのだ。おばさんほどではないが、あたしもニンジンが嫌いだ。
「これおばさんのニンジンでしょ。自分で食べてよ!」
「なんのことだか」
おばさんは知らんぷりをしてビールを飲みながら枝豆をぷちぷち食べていた。
あたしはむっとしておばさんのお皿にニンジンを戻す。するとおばさんは逆ギレしたのだ。
「誰がアンタのオシメ変えてあげてたと思ってるの! ニンジンを食べるくらいのことしてくれてもいいじゃない!」
あたしはじぶんよりもずっと小さい(たぶんあたしが赤ちゃんのときも)おばさんにオムツを替えてもらっていたという事実に、かっと顔が赤くなった。
「そ、そんなの嘘!」
「嘘じゃないわよ!」
「お、お父さん! 嘘でしょ?」
今まで黙ってあたしたちのやり取りを眺めていたお父さんは「そうだったかもしれない」と小さく微笑んで言う。
「ほら見なさい!」
「うわああああああ! ままならねえええええ!」
私はおばさんを両手で抱え上げると、思いっきり上下にシェイクした。するとおばさんは抵抗して私の手に噛みついてきた。
「いてぇ!」
あたしはびっくりしておばさんを投げ出す。
おばさんは放物線を描いて宙を舞ったあと、テーブルの上に落下する。ガシャーンと音を立ててビールの缶が倒れ、その日の晩ご飯を台無しにした。
こういうおばさんとあたしのエピソードは読者にウケているらしい。あたしはそういう世間のことが全く理解できない。あたしと世間の笑いのツボは違うのだと思う。
「ただいま」とあたしはお父さんに言う。
「おかえり」
お父さんは少しだけ私に目を向け、すぐに作業へと戻る。
おばさんは定位置のクッションに横になりテレビを見ていた。テレビはかなり音量が大きく、どう考えてもお父さんの仕事の邪魔だ。
あたしはリモコンを操作してテレビの音量を下げる。
「何すんのよ!」
おばさんは声を荒げて憤慨してくる。
「お父さんさんの邪魔でしょ。ヘッドホンでもしなよ」
「私はみのさんの生の声が聞きたいの!」
「だったら実際に収録現場見に行けばいいでしょ。あら、ごめんなさい。おばさん家から出れないんだっけ?」
おばさんの存在はあたしの家族の間の秘密となっている。どういうわけかはよく知らないが、昔からそうだった。
「この前の数学のテスト二十点だったのにえらいほえるわね、美咲ちゃん」
げ。何でそれを知ってるんだ。広辞苑の間に挟んで隠しておいたはずなのに。
「あんた馬鹿ね。あの人が小説書くのに広辞苑でよく言葉調べてるの知らないの?」
あたしはテーブルのお父さんを振り返る。お父さんはにっこりとした笑みをあたしに返した。……怒ってないよね? お父さん優しいもん。
「何よ! おばさんのくせに! このチビスケ!」
「美咲だってその年の人間の女の子にしては色々発育不足じゃない。それといい加減ツインテールはやめたらどう? 中学生の髪型じゃないわ、それ」
「これはあたしのトレードマークなのよ。おばさんもその変なパーマ辞めたら? 昭和の主婦みたいでダサいよ」
「これは地毛なのよ!」
あたしとおばさんは「うー」「がー」と唸りながら睨み合う。
そんなやり取りもお父さんの小説のネタとなっていた。それをあたしたちが知るのは、お父さんの小説の次の新刊が出るときだった。
ある日、あたしとおばさんはケンカをした。
いつものことじゃないか、とお父さんの小説の読者は思うかもしれないが、今回のケンカは今までのものとはちょっと違った。
おばさんが家を出て行ってしまったのだ。
発端はちょっとしたことだった。
おばさんがお父さんの小説にケチをつけたのだ。
「アンタの小説って面白みがないわね。登場人物のキャラクターも似たりよったりなものばっかりだし、話の躍動感もないどこかで見たことのあるようなものだらけ。きっと私や美咲がいなかったら話の一つも作れないんでしょうね」
今思うと、それはおばさんなりのお父さんへの助言だったのかもしれない。
お父さんの小説は確かにジャンルの違いはあるものの、似たような話ばっかりだった。何せいつもあたしとおばさんが出てくるのだ。たまには違う挑戦もしてみろよ、とあたしも思うことが多々ある。
ただ、そのときのあたしはおばさんの言い方にカチンと来た。
たまたま、学校の友達にお母さんがいないことを馬鹿にされたからかもしれない。それとも、おばさんのケチに困ったように笑うだけのお父さんに何か言い返して欲しかったのかもしれない。
とりあえず、むかついたのだ。
「何よ。おばさんなんてあたしたちの家族でもないくせに家にいついちゃって。何もしないでテレビ見てビール飲んで枝豆食べるだけ。お父さんの小説のモデルにもなれないなら、家から出て行ってよ。っていうか出て行って。目障り」
するとおばさんは泣き出す寸前のような顔をしたあと、「分かったわよ!」と言って開いていたリビングの窓から庭を駆け抜けてどこかに行ってしまった。
あたしは呆気に取られた。おばさんが外出する姿なんて初めて見たからだ。
「お、お父さん。あれ大丈夫なの?」
「分からない」
お父さんは少し苦い顔をして言う。どこか、あたしを責めるような表情だった。
それから一週間経っても、おばさんは帰ってこなかった。
あたしの心配は最高潮に達していた。
迷子になってないだろうか。車に轢かれてぺしゃんこになっていないだろうか。排水溝に挟まって動けなくなっていないだろうか。野良犬に食べられていないだろうか。どこかの研究所に連れて行かれて解剖されていないだろうか。
嫌な想像はどんどん膨らんでいく。
だけれどもあたしはお父さんにおばさんを心配している心の中を悟られたくなくて、「ビール代が浮いた」「テレビがゆっくり見れる」「家が静かになった」とおばさんがいなくなってどれだけせいせいしたかということをぶつぶつ呟いていた。
すると、お父さんはあたしに静かに聞いてきた。
「美咲にとって、おばさんってどんな存在なんだい?」
あたしはお父さんの質問の意味が理解できず、たじろく。そもそもそんなこと考えたことがなかったのだ。小さいころから家に当たり前のようにいるおかしな存在としか言いようがない。
「お父さんにとっておばさんはなんなの?」
「家族かな」お父さんは真顔だった。
「お母さんの代わり?」
「違うよ。お母さんの代わりなんて僕には存在しない。でも僕にとっておばさんはかけがえのない家族なんだよ。そこにいるだけで安心する、そんな存在だ。だからおばさんがいなくて僕はとても悲しい」
「それに小説のネタにも困るしね」と最後にお父さんは冗談っぽく笑って言った。
「だから美咲。おばさんを探して来てくれないか? これは僕の一生のお願いだ」
そんなことに一生のお願いを使っていいのかよ、なんてあたしは言わない。黙ってうなずいて、「見つかるまで帰ってこない」と宣言して家を出た。
意外にもおばさんはすぐに見つかった。
おばさんの去った方向に向かって歩いていたら、いつもは小屋で静かにしている近所のゴールデンレトリバーが所在なさげに地べたに寝そべっているのが見えたので、ちょっと覗いてみたのだ。
すると、おばさんが犬小屋の中で体育座りしてぼーっとしていた。独房に入れられた囚人がちょうどこんな感じかもしれない。
「おばさん。迎えに来たよ」
そうあたしが声をかけると、「なんだい。ドックフードも悪くないって思ったころだったのに」とおばさんは口を尖らせて犬小屋から出て来た。
「私がいなくて寂しかった?」
「別に」あたしは笑う。「嘘。少し寂しかったよ。家族って大事なんだなあ、といい勉強になりました」
するとおばさんは破顔して「私もだよ」と照れ臭さそうに言った。
一週間を犬小屋で過ごしたおばさんは犬臭かった。
なので、家に帰ると私はおばさんと一緒にお風呂に入った。思えば、おばさんと一緒にお風呂に入るのは始めてだ。おばさんのパーマ頭をシャンプーで洗ってやるとよく泡立った。
洗面器に入れたお湯に浸かりながら、おばさんは一週間ぶりのビールを飲んでくつろぐ。そんなおばさんを見て私もどこか安心した。
「美咲はお母さんが欲しいと思ったことはあるかい?」
おばさんがあたしに突然聞いてくる。
「まあ、あると言えばあるけど。なんで?」
「いや。今さらだけど、私を母親の代わりだって思ってくれてもいいんだよ?」
何だか、おばさんは偉そうだった。顔が赤いのは恐らくアルコールとお湯に浸かったせいだろう。
あたしは答える。
「ねーよ」
この言葉はお風呂によく反響した。
あたしにとっておばさんはおばさんなのだ。
私のおばさん