『サヤームの鈴 ―日本人村の軍師になった男―』
第一章 アユタヤの町娘
1.不採用
「ああああ、また没なのか……俺ってやっぱ才能ないのかなぁ……」
レックは湿り気を帯びたシーツの上で、絞り出すような溜息をついた。
昨晩、歴史資料の山を前に力尽き、カーテンも閉めずに寝落ちした報いだ。
乾季特有の暴力的なまでの朝陽が、安アパートの薄い窓ガラスを透過し、容赦なく網膜を焼きにくる。
バンコクの朝。
地平線から昇ったばかりの太陽が、林立する高層ビルの鏡面に反射し、街全体が巨大な電子レンジに放り込まれたかのような熱を発し始めている。
レックは、寝ている間に無意識に蹴り落としたタオルケットを探す気力もなく、皮を剥かれたエビのようにベッドの上で丸まっていた。
“ビーッ”
枕元でスマートフォンのバイブレーションが、死刑宣告を告げるブザーのように震えた。
レックは舌打ちをしながら、目ヤニの付いた顔で画面を弄る。
『レック様。今回の持ち込み企画は残念ながら採用致しませんでした。貴作は史実の裏付けこそ正確ですが、ドキュメンタリーとしての「人間への洞察」、そして観客の魂を揺さぶる「ドラマ」が決定的に欠けています。次回の応募をお待ちしております』
大手出版社、そして映像制作会社からの、テンプレ回答に少量の毒を混ぜたような不採用通知。
鳴かず飛ばずのドキュメンタリー作家のレックにとって、これはもはや朝食前の恒例行事だった。
日本留学時代、彼は狂ったように日タイ交流史の研究に没頭した。
戦国時代の余波を受け、新天地を求めてサヤーム(現在のタイ王国)へと渡った浪人侍たちの足跡。
その情熱を映像に昇華しようともがいてきたが、現実は無情だ。
「記録としては優秀だが、物語がない」
その評価は、レックという人間の生き方そのものを否定されているようだった。
「有希、また、駄目だったよ。情けねぇな、俺って……」
重い体を引きずり、洗面台へ向かう。
鏡の端には、浅草の雷門の前で微笑む二人の写真が貼られていた。
有希。
日本留学中のレックを支え、そして不慮の事故でこの世を去った最愛の女性。
彼女を失ってから、レックの時間は止まったままだ。
彼は「撮影者」としてレンズを覗くことで、世界から一歩引いた安全圏に身を置き続けている。
自分の人生という名の「ドラマ」を動かす勇気を持てず、過去という名の泥濘(ぬかるみ)に足を取られていた。
“ビーッ”
再びスマホが鳴る。
今度は配達アプリのアラートだ。
「ちっ、今度は何だよ……」
画面には「カオトム(タイ式粥)1点。至急配送」の文字。
歴史への情熱とは対極にある、日銭を稼ぐための過酷な現実。
レックは無造作に「受ける」を押し、英国のロックバンドの名前が入ったTシャツを頭から被って部屋を飛び出した。
外に出れば、そこは“天使の都”という美名とは裏腹な、交通渋滞の地獄だった。
社会の急成長にインフラが全く追いついていない。
排気ガスの熱気に包まれながら、レックは大家からタダで借り続けているオンボロの125ccバイクを操り、車と車の間のわずかな隙間を縫うように走らせる。
ふと、頭上を走るBTS(高架鉄道)の車両広告が目に留まった。
『アユタヤ世界遺産祭りに行こう! 400年前の息吹が今、蘇る』
「アユタヤか……嫌味かよ」
排気ガスの煙に巻かれながら、不意に記憶の底が疼いた。
資料室の埃っぽい空気の中で読み耽った、アユタヤ王朝時代に存在した日本人村の記録。
(日本人村の頭領・山田長政。そして、異国の地で散った日本人義勇兵。……あの時代、奴らは間違いなく、今の俺には想像もつかないほど強烈な「ドラマ」を生きていたはずだ)
「この週末、行ってみるか」
この閉塞感から逃げ出せるなら、行き先はどこでもよかった。
“ビーッ!”
「なんだよ、いったい!」
後ろのピックアップトラックからの鋭い警笛。
信号はいつの間にか青に変わっていた。
レックは「すまない」と軽く左手を挙げ、エンジンの不規則な振動を股ぐらに感じながら、熱気に満ちた交差点を右折していった。
その鍵束には、かつて有希と揃いで買った、古びたハローキティの鈴が、チリリと小さく鳴っていた。
2.歴史の断片
その週末。
レックは、今にも息絶えそうなオンボロバイクで、通称アジア・ハイウェイと呼ばれる、国道一号線を北へとひた走っていた。
バンコクの喧騒を抜け、景色がコンクリートの壁から鮮やかな緑と起伏のない平坦な田園風景へと変わる頃、空気の質が微妙に変化した。
アユタヤ ― バンコクの北約70キロに位置する地方都市である。
*
14世紀から18世紀にかけて、東南アジア随一の国際都市として繁栄した王都。
中国、日本、ヨーロッパ諸国との交易で栄え、世界有数の貿易拠点として名を馳せた。
しかし17世紀後半、宿敵ビルマ軍の侵攻により徹底的に破壊され、アユタヤ王朝は滅亡した。
壮麗を誇った宮殿や寺院は炎に包まれ、街は廃墟と化した。
現在のアユタヤは、周辺に工業団地が広がり、多くの日系企業が進出し、自動車産業をはじめとするアジアの生産拠点の一角を担っている。
かつての栄華を物語る、朽ち果てた遺跡群は「アユタヤ歴史公園」として整備され、ユネスコ世界遺産に登録されている。
*
太陽は天頂にあり、地面を白く焼き付けていた。
時が止まったように、熱い空気だけが耳を圧迫している。
遠くの雲の上を飛ぶ、ドンムアン空港発のジェット機のエンジン音がエコーのようにこだまする。
レックは、白い門壁に「日本人村」の看板が掛けられた入口でバイクを止め、入場料の50バーツを払い、長時間の運転でしびれるお尻を摩りながら、歴史展示館へ向かって歩き出した。
子供用のサッカーグラウンド程度の広さの“跡地”には、今では「日本庭園」のような様相に様変わりしていたが、日本人が住んでいたような当時の家屋跡もなく、無機質な建物の土産物が一軒あるだけだ。
ただ中央の広場には「アユチヤ日本人町の跡」という石塔があり、涼し気な木陰には休憩所が設けられている。
観光客はまばらで、そのほとんどは日本人観光客と思われた。
また、日本ブームにのった日本好きのタイ人の若いカップルが、園内にディスプレイされたレプリカの鳥居や提灯、商店街のアーケードにあるような樹脂製の桜の木の前でSNS用の写真を撮っている。
日本人村は、チャオプラヤ河の左岸に面して存在したらしいが、現代に至ってもこの付近で日本人が使っていたと思われる生活用品などが出土した話は聞いたことがない。
チャオプラヤ河の反対岸にはポルトガル人村や、イギリス人村、オランダ人村などがあったとされ、当時、アジア随一の貿易で栄えた、国際色豊かだった当時の王朝の名残だろう。
レックは首にかけたカメラの重みを感じながら、河沿いまで歩くと、舳を少しもたげた「ロングテールボート」(เรือหางยาว)が爆音を上げながら河の中央を遡っていくのを見た。
「煩いなぁ‥‥当時のアユタヤにはこんなやかましい舟などなかったはずだよな……」
そう呟きながら、サヤームの高級武官の衣装に身を包んだ「山田長政像」に一礼をして、小さな祠に線香を立て、賽銭箱に20バーツ紙幣を一枚入れて、歴史展示館へと足を踏み入れた。
冷房の効いた館内の静寂が、火照った肌に心地よい。
「ふぅ…まずはここでゆっくりと涼みながら、夜まで時間を潰そうか……」
ロビーの壁には、今夜開催される『アユタヤ世界遺産登録35周年記念』の巨大な広告幕が垂れ下がっていた。
黄金にライトアップされた遺跡を背景に、歴史劇の役者たちが象に跨り、剣を振り上げている。
「幻想的な光と音のショー」という文字。
「……35周年か。当時のアユタヤは、こんな演出がなくても、街全体が黄金に輝いていたんだろうな」
レックは皮肉混じりに独りごちて、奥へと歩を進めた。
壁に沿って並ぶ日タイ交流の年表。
その先には、波を切り裂く朱印船の模型や、貿易の品々、泥の中から引き揚げられた日本の陶磁器、そして鈍い光を放っていたであろう錆びた武士の刀が、静まり返った空気の中で整然と並んでいる。
そして、山田長政の肖像画。
(山田長政……沼津の六尺(駕籠かき)からサヤームの上級官位「オークヤー・セーナーピムック(戦の神)」にまで登り詰めた男。だが、最後は王位継承の争いに巻き込まれ毒殺された。……結局、歴史の歯車には勝てなかったんだよな……)
レックは肖像画の鋭い眼光と、しばし視線を合わせた。
正確な知識は、時として残酷なほど冷笑的な視点を生む。
彼にとって歴史とは、すでに結末が記された「不動の遺跡」に過ぎなかった。
だが、その一角。
特別展示の小さなガラスケースの前で、レックの足が止まった。
「……なんだ、これ」
そこには、茶褐色に変色し、所々が虫食いになった一通の手紙の断片があった。
四百年近く前の日本人町で書かれたとされる、未投函の恋文。
手慣れた筆運びの草書体だが、一文字一文字に、祈るような力強さが宿っている。
レックは無意識にガラスへ顔を寄せた。
日本留学で叩き込まれた古文書の読解力が、掠れた崩し字を意味へと変換していく。
『……長政様……村の皆は、北へ逃れる準備を整えております……どうか、ご無事で……』
そこまでは、迫りくる戦乱の予感を伝える悲劇的な恋文だった。
しかし、結びの一文を目にした瞬間、レックの心拍が跳ね上がった。
『――未来(さき)から来た男に、この奇なる猫の鈴を託されました。彼は今、私の隣で、貴方の影となって戦っています』
「未来から……来た男?」
あり得ない。
四百年前の人間が、決して記すはずのない言葉。
その困惑を切り裂くように、ジーンズのベルト通しに引っ掛けたバイクの鍵束が、意志を持ったかのように激しく震えだした。
チリリッ、チリリリリッ!
有希との形見であるはずの、キーホルダーに付いた色褪せたキティちゃんの鈴。
それが、館内の静寂を突き破らんばかりの、鋭く、高い音量で鳴り響く。
「うわっ、なんだよこれ!」
レックが慌てて鈴を手で押さえた瞬間、資料館の床が、底なしの泥沼のように深く沈み込んだ。
視界が急速に歪み、展示品の色が溶け出して、巨大な渦となって彼を飲み込んでいく。
意識が遠のく中、耳の奥で、確かにあの懐かしい声が響いた気がした。
「有希……有希なのか?」
3.四百年前の陽光
「……うぁ……」
強烈な眩暈(めまい)と、吐き気に襲われ、レックは地面に突っ伏した。
鼻を突くのは、排気ガスの臭いではない。
焼けた土、むせ返るような水の匂い、そして、得体の知れない獣と香辛料の香り。
ゆっくりと目を開けたレックは、その光景に言葉を失った。
目の前にあるのは、資料館のタイルではない。
硬く踏み固められた乾いた土の道だ。
そしてその寺壁の先にそびえ立つのは、崩れかけた遺跡ではなく、金箔が陽光を浴びて神々しく輝く、威風堂々とした巨大な寺院――ワット・プラシーサンペットだった。
屋根には色鮮やかな釉薬を塗った瓦が並び、回廊の柱には緻密な彫刻が施されている。
かつてレックが「不動の遺跡」と切り捨てた死の風景は、今、極彩色の命を宿して彼の網膜を灼いていた。
「嘘だろ……。これ、幻覚か?」
フラフラと立ち上がったレックの横を、象を連れた男たちが悠然と通り過ぎていく。
周囲を行き交う人々は、上半身を裸にしたタイの民や、奇妙なほど見覚えのある装束に身を包んだ人々だ。
マゲを結い、腰に刀を差し、筒袖の薄手の着物に半袴。
「日本人……?」
間違いない。
それは江戸時代初期、関ヶ原を生き延び、傭兵としてサヤームへ渡ってきた日本人たちの姿だった。
「おい、そこの不審な身なりの男! 止まれ!」
鋭い日本語の怒号が響いた。
振り返ると、三人の男たちが刀の柄に手をかけ、レックを包囲していた。
彼らの眼光は鋭く、全身から本物の殺気が漂っている。
胸元に”Who”と書かれたTシャツとジーンズというレックの姿は、彼らの目には異端の極みに映ったに違いない。
「お主、何処からまいったのか。キリシタンのならず者か、それともビルマの密偵かっ!」
「あ、いや、俺は……俺はただのドキュメンタリー作家で……」
パニックに陥りながらも、レックは必死に日本語で答えようとした。
だが、現代の日本語は彼らには通じていない。
「えーと、あのー、ここでこのアクションカメラで動画を撮って、SNSに上げて・……そのぅ」
言葉の端々に混ざる現代語が、さらに彼らの警戒心を煽る。
「お主……それは南蛮語か? 訳の分からぬ口を叩くな。斬り捨てて検分するぞ!」
一人が刀を抜き放った。
白刃が午後の陽光を反射し、レックの網膜を刺す。
(死ぬ。俺の人生、こんなところで、何の意味もなく終わるのか――)
レックが絶望に目を閉じた、その時だった。
「待ってください! その方は……その方は、私の知っているお方です!」
凛とした、しかしどこか焦燥を含んだ声が響いた。
レックが恐る恐る目を開けると、一人の娘が男たちの間に割って入っていた。
抜き放たれた白刃を、臆することなくその身で遮っている。
南国の強い陽射しを浴びて輝く、濡れたような黒髪。
そして、意思の強そうな大きな瞳。
「……有希?」
レックの口から、無意識にその名が漏れた。
外見は、亡き恋人に驚くほど似ている。
だが、その佇まいはもっと力強く、大地に根ざした野生の美しさを湛えていた。
彼女はレックの異様な風体を一瞬だけ凝視したが、すぐに男たちを睨みつけ、言い放った。
「この男は、私が預かります。長政様に伝えねばならぬ大事な役目を持って、遠方から参ったのです。……刀を収めてください」
娘のあまりに堂々とした物言いと、長政様という名に、浪人たちは毒気を抜かれたように顔を見合わせた。
ハナの視線が、レックの腰で静かに鳴り続ける「キティの鈴」に一瞬だけ釘付けになる。
「お立ちなさい。……死にたくなければ、私について来なさい」
娘はレックの腕を無造作に掴み、強引に立たせた。
その手のひらは驚くほど熱く、レックの知る有希のそれよりもずっと固い「今を生き抜く者の手」をしていた。
そう、彼女こそがあの「恋文」の主――日本人二世の娘、ハナであった。
レックはまだ知らない。
この「有希に似た娘」による咄嗟の嘘が、彼を単なる歴史の傍観者から、血煙の舞うアユタヤの「運命の不条理」に巻き込まれていく、長い旅の始まりであることを……。
『サヤームの鈴 ―日本人村の軍師になった男―』