百合の君(103)
大噛山の石段は、相変わらず急峻だった。若い頃でさえつらかったのだから、脚に傷を負った今の穂乃にとって大変なのは当然だった。頭領なのに仲間から遅れがちになる穂乃に、あざみは寄り添って歩いた。
「あなたにはこの間から、情けない所ばかり見られているようです」
しかしあざみにとっても決して楽な道ではない。呼吸を整え一拍置いてから返事をした。
「情けないとは思っていません。私とは見て来た景色が違うのだから、仕方のない事です」
苔で滑った穂乃をあざみは支えた。いつの間にか、穂乃とあざみと旬の三人しかいなかった。穂乃は過ぎし日のことを思った。おばあさんと登った時には、珊瑚殿はまだお腹の中だった。命の神秘を感じ、強くなろうと誓ったが、私はあれから本当に強くなったのだろうか? 蟻螂に、浪親様に守られている小娘のままではないのだろうか? 杉の木は二十年以上経っても変わっていない。この旬が育つのも、乱れた世のままなのだろうか?
熊笹の葉擦れの音が拡大されて響いて、穂乃は振り返った。実物を見るのは初めてだったが、陰にいるのが何かすぐに分かった。狼だ。視線の先には旬がいる。
気付いた瞬間、穂乃とあざみの視線が合った。あざみは慌てて向き直り背中の旬を隠そうとしたが、無駄だった。すでに三、四頭に囲まれている。あざみの表情からいつもの落ち着きが消えていた。
穂乃はまた言い知れぬ怒りを感じた。旬に向かって狼が飛びかかると、穂乃はそのまま石段を落ちるような勢いで振りかぶった。
穂乃の拳は、狼の鼻っ面を殴りつけた。毬でも放つようにその毛むくじゃらは宙に浮き、石段を転げ落ちた。そして振り返ると、残った狼に向かって思いっきり睨みつけた。
狼は去った。あざみは驚いたように穂乃を見ていた。言葉が出ないようだった。高い杉の木の、上の方だけがざわざわと鳴っていた。
「さすが、ですね」
穂乃は最初、何がさすがなのか分からなかった。しばらく息の乱れたまま、あざみと見つめ合って、ようやく山で刈奈羅兵相手に戦っていた事だと思い至った。
その時、鬱蒼と茂る杉林の隙間から光が溢れ、砂苔の星のような葉の細部に至るまで、くっきりと照らし出すのを穂乃は見た。世界が広がった。いや、それは自ら狭めてしまっていた世界が、元の大きさに戻ったのかもしれなかった。自分にできることは、もっとたくさんあるのだ。
「怪我はありませんか?」
狼の鼻の水分なのか、涎なのか分からないが、ぬらぬらした液を穂乃は拭った。よくあんな事ができたものだと今さら思う。
「ありがとう、ございました」あざみは頭を下げた。「申し訳、ございませんでした」
「見て来た景色が違うのですから、当然のことです」
穂乃は汚れた手ぬぐいをその場で捨てようか少し迷い、懐に戻した。
百合の君(103)
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