雪の娘
1
銭湯を出ると、雪が降っていた。
雪国生まれの彼には、雪と呼ぶにも歯痒いほどの頼りない雪片たちだが、それでも暮れも押し迫って、ようやくの初雪である。
――今夜は雪見酒だ。
連日の酒席でさんざん胃を荒らしているにもかかわらず、性懲りもなく角の自動販売機でカップ酒を買いこみ、哲夫はアパートに戻った。
雨ざらしの階段を上り、がたのきた扉を開けば、先だってのボーナスで買いこんだ温風ヒーターが、ぬくぬくと六畳一間を温めているはずだ。
しかし、彼は階段の途中で気が変わり、アパートから少し離れた、住宅街の小公園に足を向けた。
ベンチに腰をおろし、出来そこないの味醂のような二級酒を舐めていると、顔が湯上がりの火照りを取り戻し、濡れたままの髪は、逆に氷のように冷えてゆく。
頭の中が、しんしんと冴え返ってくる。
哲夫は思った。
――去年の冬は、よかったな。
ヒーターを買う余裕はなかったが、里子と二人で布団にくるまっていれば、充分に温かかった。実際は冷たかったのかもしれないが、それでもやはり、温かかった。
思わずカップを一息に飲み干し、哲夫は立ち上がった。
いつまで悔やんでいても仕方がない。ひとりになったおかげで貯金も増えはじめたし、この都会でこうして大過なく暮らしていけるだけでも、幸せというものだ。
哲夫は公園のはずれのくずかごに、カップを投げ入れた。
――とにかく里子は、彼ではなく、草間を選んだのだ。
田舎者らしい純朴な顔に、若さに似合わぬ年寄りじみた頬笑みを浮かべながら、彼は小雪の中を歩きはじめた。
アパートに着くまでのわずかな間に、雪は霙に、そしてただの冷たい雨に変わってしまった。
ようやく酒が頭まで回ってきたらしく、茫洋とした気分で階段を昇っていくと、かすかに電話のベルが聞こえてきた。
どうやら、彼の部屋で鳴っているらしい。
彼は歩調を変えなかった。
勤め先は仕事納めを終えているし、こんな夜更けに電話をかけてくるような親しい知り合いもいない。急いで出たところで、どうせ間違い電話だろうし、のろのろと上りきるまでに、やんでしまうだろう。
しかし、ベルは延々と鳴り続けた。
誰とも話したくない気分だったが、その切迫した響きにある期待を抱いて、哲夫は受話器をとった。
「はい。森本です」
返答はなかった。
かわりに、男の荒い息づかいが聞こえてきた。
期待した相手ではなかった。
激しい懊悩のさなかを思わせるその息づかいは、ときたま何か言いかけるようにとぎれ、しかし言いだすきっかけが掴めないのか、また切羽つまった呼吸に戻る。
哲夫は思った。
――あのときと同じだ。
次の言葉は『里子を俺に譲ってくれ』――いや、それはもう半年前に終わった。
「どうした、草間」
数瞬の沈黙の後、答えが返った。
『……親父を殺した』
他人の言葉を繰り返すような、抑揚のない声だった。
哲夫は動揺を抑えて訊ねた。
「里子はどうした。家にいるのか」
『里子は……溶けた』
嗚咽まじりに、草間は言った。
『……溶けちまった』
2
――最後にこの家を訪ねたのは、何年前だったろう。
草間邸の重厚な門構えに少々気後れしながら、哲夫は思った。
何年ということはない。わずか一年前である。その日も確か雪が降っていた。彼は里子の肩を抱いていた。里子は彼のコートの下で、いかにも時代劇に似合いそうな木造の門を見上げながら、忍者屋敷忍者屋敷、と、ころころ笑っていた。
実際、草間邸は古く、明治初期から昭和も深い今に至るまで、その面影を変えていない。千葉の一等地にありながら戦災にも遭わず、また常に豊かであったため、敷地を削られることもなかった。
無論、住人の生活様式の変遷につれて、屋内の機能はその時々の望ましいものに改められ、今は華やかな洋間なども加えられているが、外観は江戸の武家屋敷そのものである。
なけなしの懐中をはたいて乗ってきたタクシーの音を聞きつけたのだろう、門の横手の潜り戸が開き、女中らしい少女が顔を出した。
哲夫が名のると、少女はべそをかいたような顔でうなずき、彼の先に立って、庭の暗い木々の間を、小走りに母屋に急いだ。後ろから大声でもかけたら、即座に卒倒してしまいそうなほど、脅えきっているようだ。
木の間隠れに近づいてくる屋敷の明かりも、かつて頻繁に遊びに訪れていた頃と同じ明かりでありながら、なにか陰鬱な色合いに見える。
しかし、なぜか哲夫は、しだいに落ち着きを取り戻してきていた。
庭に満ちている樹木の香りのせいかもしれない、と哲夫は思った。
常に目まぐるしく変わり続ける街の雑多な臭いに、このところ慣れきっていたためか、久々に味わう樹木の香りは、どんな刺激よりも彼を冷静にした。
それは屋敷に入ってからも同じだった。
幾星霜を経てきた、木造家屋の匂い。
人々の生活の匂いを、石のように閉じこめることなく、しっとりと吸いこみながら自らも生きている、そんな匂いである。
哲夫は、廊下に立ちこめはじめた生臭い血の匂いよりも、古い屋敷そのものの奥深い匂いに、多く感応しはじめていた。
少女に従って、母屋の廊下を幾度も左右に折れ、知っているところはあらかた過ぎたと思うころ、哲夫は、かつて突き当たりだった廊下の端に、新しい扉が出来ているのを知った。
その先は、若夫婦のために増築されたと覚しい、洋風の離れだった。
草間は仕事帰りらしい背広姿のまま、寝室の古風な椅子にうずくまり、哲夫を待っていた。
その足元には、草間の父親が仰向けに倒れていた。
父親は厚手のバスローブだけを纏い、はだけた腰の下から薄黒い陰部が覗いていた。
そして、肩口から脇腹にかけて袈裟懸けに切り裂かれた傷があり、その傷は、血糊の奥に骨や内臓が見えるほど深かった。
周囲の絨毯は、赤い沼の面のようだ。
「悔やんではいないぞ」
草間は青白い顔を上げて言った。
「俺は、断じて悔やんじゃいない」
哲夫は、一応形ばかり、草間の父親の上に屈みこんだ。
無論、とうに息絶えている。
生前顔を合わせるたびに、こんな俗物の父親ひとりの家で、どうして草間のような潔い男が育ったかと不思議に思ったものだが、やはりそんな顔で死んでいた。
哲夫は、椅子の横に投げ出されている日本刀を一瞥した。
以前、母屋の座敷に飾られていた記憶がある。
しかし見た目は同じでも、今、その鞘の中は血に塗れているのだろう。
「君と親父さんに何があったか、僕は知らないし、興味もない」
哲夫は言った。
「里子はどこだ」
「……里子……こんな、馬鹿な」
「溶けた、と言ったな」
「……信じられん。しかし、美津江も……確かにそう見えたと」
草間は救いを求めるように、扉の前で震えている少女に目をやった。
「本当に、溶けちゃったんです」
美津江と呼ばれた少女は、かぼそい声を震わせながら言った。
「私がバスルームを覗いたら、奥様、泣きながらシャワーの栓を回して……湯気の中で……まるで、氷が溶けるみたいに」
哲夫は、少女の指先に従って、寝室に隣接するバスルームを覗いた。
ロココ調、とでもいうのだろうか、その広さも装飾も、彼にとっては風呂場の概念を超えていた。
「どうやら君のほうが頼りになりそうだな」
哲夫は少女に言った。
「その時、里子はバスタブの外にいた? それとも、中?」
「……中だったと思います」
「よし。君はありったけの、そうだな、大きめのポリタンクがいい。そんなもので、蓋の閉まるものならなんでもいい。あるだけ持ってきてくれ。あと、バケツもほしいな」
「は、はい」
「それと、ポンプだ。庭の池の掻い出しに使うような、大きい電動ポンプがあればいいんだけど――ないだろうな」
「……はい」
「じゃあ、小さい手押しポンプでも」
少女が慌ただしく立ち去ると、哲夫は、まだ呆けたように座っている草間の傍らに立ち、その肩に手を置いた。
「親父さんをなんとかしてやれ。何があったか知らないが、死んだら仏様だ」
草間はうなずき、ベッドの毛布を剥ぐと、父親の死体を包みはじめた。
草間は無表情に父親の死顔を見つめながら、独り言のように呟いた。
「……夜の接待が、客の都合でキャンセルになって、珍しく早く帰った。玄関に入ると、いきなり奥から里子の悲鳴が聞こえた。駆けつけたら、親父が里子に……里子を守るつもりだったんだ」
哲夫が想像したとおりのようだった。
「殺す気はなかった。……いや、殺したかったのかもしれん。ずっと昔からな」
それもまた、哲夫が以前から感じ取っていたことだった。
草間の語気に、しだいにこもりはじめた感情と、顔に浮かびはじめた憎悪の色を、哲夫はむしろ好ましく思った。
人に戻ってきている――。
それまでの、ただ端正なマネキン人形のような顔は、ふだんの情熱的な草間を知っている哲夫にとって、かえって底知れず不安だった。
草間は不安げにバスタブを見返った。
「しかし、里子は、いったい……」
「――雪娘の話を知っているか?」
「雪娘……あの昔話か?」
「ああ。――ある冬の晩、二人きりで暮らしている老夫婦のところへ、ひとりの女の子がやってくる。子供のなかった夫婦は、喜んで娘を迎え入れ、実の子のように育てる。しかし娘はどんな寒い晩でも、けして風呂に入らない。心配した老夫婦が、なだめすかして風呂に入れてやると――。外国にも、確かアンデルセンだったか、焚火で溶けちまう話があったな」
「馬鹿な。それは童話だ。御伽噺だ。第一、里子は間違いなく九条家の娘だ。戸籍も見ている。絶対に養子なんかじゃない」
「でも、君は昔の里子を知らない。僕は生まれた時から知っている」
草間が父親をベッドに安置し終えた頃、美津江が両手に大ぶりのポリ容器と、灯油用のポンプを下げて戻ってきた。資産家だけに、使用人も舶来の電動小型ポンプを使っている。
「容れ物は、まだ物置に色々あります」
「どんどん持ってきてくれ。草間、こっちだ。手伝ってくれ」
哲夫たちは湯舟の残り湯を、容器に移しはじめた。
「こぼすなよ」
「……思い当たることがあるのか?」
草間に訊ねられ、哲夫は忙しくポリ容器を残り湯に沈めながら、問い返した。
「君は、里子と風呂に入ったことがあるか? いや、そりゃ夫婦ならあることはあるだろうが、実際、里子が熱いシャワーを浴びたり、湯舟に入るのを見たことがあるか?」
草間は答えられなかった。
反論の糸口を探すように、じっと考えこんでいたが、しばらくすると、みるみるその顔に疑念と驚愕が浮かんだ。
哲夫は黙々と作業を続けた。
草間と美津江もそれを手伝う。
やがて残り湯は、容器やバケツや洗面器では、さらえない浅さになった。
哲夫はポンプを使って、残り湯を吸い上げた。
最後はタオルを絞る形で、できる限り容器に移す。
残り湯は思ったより少なかったが、それでも十数本のポリ容器を満たした。
三人がかりでそれらをステーション・ワゴンに積み終えた時、時計はすでに夜半を回っていた。
ワゴンのキーを入れた哲夫に、草間は言った。
「言われたとおり、手配しておいた。昔、お前と何度も遊びに行った、銚子の冷凍倉庫だ。俺の名を出せば、すぐに入れてくれる」
そして、傍らに立っている美津江を、顎で促した。
「美津江、君も彼と一緒に行け。実家の近くで降ろしてもらうといい」
どうやら落ち着いたらしいな、と哲夫は思った。
顔色はまだ青いが、いつもの精悍な面差しを取り戻している。
美津江はそんな草間を不安げに振り返りながら、助手席に乗りこんだ。
哲夫は草間に言った。
「何か事を起こすのは、明日の午後からにしてくれ。それまでに方をつけたい。邪魔を入れたくない」
「承知した。……里子を、よろしく頼む」
「なんとかしてやれると思うが……」
哲夫は少し口ごもったあと、静かに、しかしはっきりと告げた。
「もう君には返さない」
「……ああ」
草間は、背後の黒い屋影を振り仰ぎながら、
「ひとりでなんとかするさ」
哲夫は、ゆっくりとクラッチを繋いだ。
3
市街を抜ける頃になって、ようやく哲夫は運転の勘を取り戻した。
就職に備えて免許は取っていたが、結局、自前の脚と電車で足りるルート営業だ。自家用車を持つほど働きはなく、レンタカーを借りるような贅沢も、ほとんどしたことがない。
深夜とはいえ、幹線道路の交通量は少なくない。当の彼が冷や汗をかくような場面も何度かあったが、助手席の美津江は顔色ひとつ変えず、思いつめた瞳を、じっと正面に向けたままだった。
前を見ているわけではあるまい、と哲夫は思った。おそらく、ずっと後ろを見続けているのだ。
信号待ちの間に、哲夫は訊ねた。
「……草間に惚れてたの?」
屋敷にいた間は、動転しながらもしっかりと御家大事につかえている、気丈な娘に見えていた彼女だが、薄暗いルームランプの下では、どこにでもいるような、はたち前の脆い少女に見えた。
「……そんなんじゃありません。どうしてですか」
「なんとなくね。第一、目の前で主人が若旦那に斬り殺される、若奥様は風呂場でお湯になってしまう、普通ならとっくに逃げだしてるところだ」
「あんな人、主人でもなんでもありません。死んで当たり前の人です」
美津江はあっさりと言い捨てた。
「前からも時々、若奥さんにいやらしいこと言ったりしてたんです。私、知ってるんです。ついこの間だって……。若旦那様は当たり前のことをしたんです。惚れてるなんて、そんなんじゃありません」
やれやれ、この子もテレビの必殺物を見て育った口か、と哲夫は思った。しかし、むきになって草間への心情を否定しているところなど、まだかわいらしい。
「私、やっぱり戻ります」
哲夫は聞き流して、車を発進させた。
「それは草間が望まないと思うよ」
美津江は答えず、それきり黙りこんでしまった。
やがて草間に教えられた、美津江の実家のある町に入った。
外房線のターミナル駅に近い商店街だったので、幹線道路の標識に従い、迷わずにたどり着けた。
「そろそろ降りてもらうよ。このあたりでいいのかな」
哲夫は車を歩道に寄せた。
「私、降りません」
小さいが断固とした声だった。
「やれやれ」
哲夫は溜め息混じりに言った。
「これ以上君につきあってる暇はないんだがな」
「お願いです。連れてってください。奥さん、本当にお化けだったんですか。森本さん、本当に奥さんを助けてくれるんですか」
「お化けってのは、ちょっとひどいな」
「お化けでもなんでもいい。とっても優しかったんです。今までいろんな家に行ったけど、誰よりも優しかったんです。私、奥さんがもとに戻れるまで、帰りません」
情というより、依怙地に見えた。
それよりも今は、説得している暇が惜しい。
「ま、いいか」
曖昧な微笑を見せて、哲夫は車を出した。
一二六号線を走行する間、美津江が訊ねてきた。
「森本さんは、どうしてそんなによくご存知なんですか、奥さんのこと」
事情を少しでも知っている人間なら、たぶん口にするはずのない質問だ。
確かに、哲夫が草間邸を頻繁に訪れていた頃、この娘を一度も見たことがない。
「……答えなきゃいけないのかな。ちょっと言いにくいんだな、色々と」
「……私に、あんなことを訊いておいてですか」
哲夫は苦笑した。確かにこの場合、美津江に理がある。
「君はいつ頃から、あそこで働いていたの?」
「奥さんがお輿入れになった時です」
それならば、何も知らなくて当然だった。
「まあ、端的に言えば、草間と結婚する前、里子は僕といっしょに暮らしていたんだ」
美津江は黙りこんだ。
信号ひとつ分の間を置いて、言葉が返った。
「……すみません」
「なんのなんの、さっきの不躾な質問のお返しとしちゃ、軽いジャブってとこかな」
「奥さん、浮気しちゃったんだ」
「浮気じゃないよ。本気。現に草間とちゃんと結婚したし、その後、僕とは一度も会ってない」
「でも、森本さんを裏切ったんでしょ?」
哲夫は不思議に痛みを感じなかった。
むしろ美津江の、あまりに無防備な世間擦れの無さに、一種驚嘆の念を覚えた。
かつて草間の家で見知った女中という職業の女性たちが、押しなべて、なにか要領のいい耳年増といった印象だったからかもしれない。
「……里子が僕より草間を愛するようになって、それでも僕といっしょに暮らしていたとしたら、それは、僕と草間と自分の全員を裏切ってることになるんじゃないかな」
美津江はまたしばらく考えこんでいたが、やがてぽつりと答えた。
「……そうですね」
「まあ、正直言って、僕はそっちの裏切りを続けてくれてた方が、まだありがたかったのかもしれない。でも、それは結局、里子をいちばん苦しませる――なんて、綺麗事さ。実は未練たっぷりだから、こうやってジタバタしているわけだ」
「森本さん、お人好しなんですね」
ただの無神経なのか、それとも褒めているつもりなのか、美津江の口調からは読めなかった。
「でも……やっぱり、好きなら無理矢理でも引き止めれば良かったんです」
確かに、それが人間らしい人間なのかもしれない。
しかし哲夫のこれまでの来し方にとっては、執着や情熱といった感情よりも、ただ淡々と生きていくことのほうが優先事項だったのである。
あえて美津江に話すつもりもなかったが、哲夫は栃木北部の山間、貧しい雑貨屋のひとり息子として育ち、同郷の里子は、広大な山林を所有する旧家、九条家のひとり娘だった。ふたつ年下のその可憐な娘を、哲夫は幼い頃から見知っていたが、当時はただ『良い所の子供』として、いささかの羨望と共に瞥見しているだけだった。
やがて小学校入学直後、両親が相次いで流感で亡くなり、哲夫は千葉の叔父一家に引き取られた。その転校先の同級生が、草間だった。陰陽対照的な性格からか、かえって馬が合い、草間が学区外の名門私立中学に上がってからも、親交が続いていた。
しかし哲夫の高校卒業を前に、今度は叔父夫婦が交通事故で急逝してしまい、哲夫は身一つで世間に放り出される形になった。
奨学金やアルバイトで学費を捻出し、なんとか公立大学の夜間部に籍を置いたものの、結局、目標だった公務員への道は遠く、生活のため、下請電装品会社の営業職に就かざるを得なかった。
それでも口に糊はでき、僅かながら貯金もできる。食うや食わずの幼時に比べれば、遙かに上等とも思えた。
里子と再会したのは、夜間部在学中、県人コンパの席である。
里子が思いきったように話しかけてくるまで、哲夫は、その華やかな後輩が旧知であることに気付きもしなかった。その後も、哲夫から積極的に近づいたわけではない。やはり里子の方が、彼の穏やかな性格を慕ったのである。
しかし同郷同学といっても、里子は無論昼間部であり、高級女子学生マンション暮らしのお嬢様である。対する哲夫は、将来の見通しも立たない、安アパート暮らしの根無し草にすぎない。
就職後、哲夫は真摯な気持ちで何度か里子の実家を訪ねたが、一度として、まともな待遇を受けられなかった。そして仕送りを断たれた里子は、駆け落ち同様に、哲夫の部屋に転がりこんだ。
そんな縺れた状況の中で、哲夫は里子を連れて草間邸を訪れ、せめて旧友の祝福と、一時の慰撫を得ようとしたのである。
誰が悪かったわけでもない。
人の真の心は、当人にさえ規制できない。
草間は良い男だ。
里子は良い女だ。
人が人を思慕することの重さは、哲夫自身も良く解っている。
そして草間家と九条家の縁組であれば、どこからも横槍は入らない。哲夫がそれを受け入れ、また九条家が、娘の同棲歴に口を閉ざしている限り。
さらに、里子が雪であることを、自身と哲夫以外の誰も――当の九条家の人々でさえも、悟れない限り。
「……でも、いつから奥様が、ああいう方だって、知ってらしたんですか」
美津江が、今度はずいぶん遠慮がちに訊ねてきた。本当は、それが一番知りたかったのだろう。
「それは、今夜の方がついたら教えてあげよう」
哲夫は答えを保留した。
「もし方がつかなかったら、それは君が知っても仕方のないことだ」
4
草間に教えられた銚子港の冷凍倉庫は、埠頭沿いの黒い壁のような建物群の中で、一つだけシャッターが半分上がり、暖かい明りを漏らしていた。
クラクションに応じて、シャッターがさらに上がりはじめた。
小柄な作業服姿の老人が現れ、哲夫たちの車を倉庫内に誘導する。
仕分け用の作業場に降り立つと、哲夫は老人に頼んだ。
「後ろのタンクの中身を、全部冷凍室の方に入れたいんです。それから、中身が全部入るくらいの、ドラム缶でもなんでもいいんですが……」
作業場には、両側にまとめられた何列もの台車以外に荷物らしい物はなく、魚介類の匂いもさほど強くはなかった。
寒々とした空間の突き当たりの壁に、数個の金属製の扉が、等分の間を置いて並んでいる。
哲夫は老人に従って、いったん横手の通用口から裏に回り、雑多な箱や廃材などが積んであるプレハブの物置から、広口のドラム缶を一つ運び出した。
導かれるまま、最右端の冷凍室にドラム缶を据え、車からポリ容器を運ぶ。
美津江もそれを手伝った。
零下の気温のためか、室内の床や壁の染みからも、まったく臭気は感じられなかった。
金属製の棚やドラム缶に素手で触れてしまうと、そのまま皮膚が貼りついてしまう恐れがあるので、哲夫と美津江は、老人から作業用の手袋を借りていた。
容器の残り湯はすでに冷めていたが、それでも盛んに白い湯気を上げた。
厳冬を知らないらしい美津江が、なにか困惑したように、しきりに小鼻を蠢かせた。
鼻孔の内で鼻毛が凍ってゆく、そのぱりぱりとした感触に、哲夫は確かな郷愁を覚えた。
室内は、両側の棚にも通路にも、海産物はまったく見当たらなかった。幅は自分のアパートの部屋と同程度だが、奥行きは数倍あるだろう。
「わざわざ空けていただいたんですか?」
「若旦那の話だと、何か温かいものを運びこむという話でしたからな」
老人は二人の作業を手伝いながら答えた。
「なあに、もともと予備の冷凍室です。たいした物は入っちゃいません」
「夜分にすみませんでした。こんなわけの解らない仕事に、おつき合いさせてしまって」
「まあ、若旦那と哲夫さんの悪戯には、昔もずいぶん苦労しましたからな」
哲夫は狼狽してしまった。
確かにそれらしい記憶はあるのだが、今親しみ深げに笑っているその老人の顔を、どうしても記憶から呼び起こせない。
「もうお忘れでしょう。お二人がまだ小学校の頃ですから」
「……すみません」
ドラム缶の三分の二ほどで、残り湯は終りになった。
美津江は歯をかちかちと鳴らしながら、錆や油膜の浮いた水面を、不安そうに見つめている。
「さあ、車で待とう」
「……見てなくて、大丈夫なんですか?」
美津江の問いに、哲夫ではなく老人が答えた。
「何が始まるのかは知りませんが、その前に凍えちまっちゃあ、埒が明かんでしょう」
作業場に出ると、老人は冷凍室の扉を閉めながら、哲夫に訊ねた。
「鍵はどうしましょう」
「開けておいていただけますか。時々覗くことになると思うので」
「じゃあ、私はまた二時間ほどで全室チェックに来ますが、何かあったらそこの内線で呼んでください。事務所に繋がりますんで」
老人は通用口から引き上げていった。
哲夫と美津江は、車に戻った。
「さて、ここで終ってくれるならいいんだけど、先があるかもしれない。ちょっと一眠りさせてもらおう。君も寝てたほうがいいよ」
哲夫は腕時計のアラームをセットして、シートをリクライニング・ポジションに倒した。
腕組みをして、シートに背中を預ける。
後部座席の美津江も、無言でそれに従ったようだ。
やがて、微かな寝息が聞こえはじめた。
こちらの寝息を密かに窺う美津江の気配を感じて、哲夫は内心苦笑しながら、眠ったふりを続けた。
やはり彼女も眠ってはいなかったらしい。
美津江はそっと車を抜け出すと、冷凍室に向かった。
哲夫は美津江が扉の中に消えるのを見届けてから、ゆっくり車を降りた。
先ほど扉を閉めてから、まだ二十分もたっていない。庫内での水の冷え具合までは見当がつかないが、残り湯の表面に、氷が張りはじめた程度だろうか。
哲夫は遠慮なく扉を引いた。
庫内の美津江は、明らかにドラム缶を押し倒そうとしていた。
「……しかしまあ、直情的というか、後先を考えないというか」
美津江は一瞬硬直し、それからおずおずと振り返った。
今にも冷や汗を流しそうな顔に、それでもぎこちなく笑顔を浮かべている。
「……奥さんが、気になってしまって」
白い息が、まるで煙のように濃い。
哲夫はいつもの素朴な頬笑みを崩さず、しかし冷ややかに言った。
「次のチャンスは、ないよ」
美津江は眉をひそめた。
「……何のことですか」
怪訝そうな顔ではない。むしろ反感の色が濃かった。
哲夫は訥々と後を続けた。
「あまり暑いと溶けてしまうような娘が、よく半年も君たちの家で暮らせたものだと思わないかい? 僕はひと月ももたずに、僕の部屋に戻ってきてくれると思っていた。まったく、里子はつくづく頭がいいよ。まあ、それほど草間のそばにいたかった、ただそれだけなのかもしれないけど……ちょっと、くやしいけどね」
「……それは、そうですね。でも今、チャンスとか、何とか」
美津江の口調に、さらに反感が籠もった。
この娘は、本来罪を犯すだけの穢れがない、と哲夫は思った。穢れのない人間が犯す罪は、陽の下の影ほどに明白だ。
「君がまさか、始めからあんな成り行きを予想していたとは思わない。でも、草間が早く帰れるようになったことを、君は知っていたんじゃないのか? あいつの仕事ぶりは、僕も良く知っている。どんなに里子を大切に思っていたかもね。せっかくの早い帰りを、里子に知らせないはずはないんだ。しかし今夜、里子はあいつを出迎えなかった。そしてあの家で、外からの電話を初めに受けるのは、たぶん君だ。君はそれとなく、そう、たとえば、草間の親父さんに電話とは逆のことを伝えたりすれば、君にとって望ましい、なんらかの進展が期待できるわけだ」
美津江は唇を震わせながら言った。
「……何をおっしゃっているのか、解りません」
「草間に電話して、訊いてみるかい?」
美津江は黙りこんだ。
「そもそも、たとえ何があったとしても、里子があんな現場にうっかり身を置くはずがない、ってことだよ。よほど気を許した相手に、うまく状況を隠されでもしない限りはね」
それ以上の断言は不要だろう――唇を噛みながら顔を伏せる美津江を見て、哲夫は言葉を切った。
「奥さんなんて……奥さんなんて……」
うつむいたまま、小さく呟いていた美津江が、突然、身を躍らせた。
「――いなくなっちゃえばいいんだ!」
子供のように叫びながら、そのままドラム缶を押し倒す。
円形の蓋のような氷の板が、水といっしょに勢いよく奥に流れた。
それは滑るのをやめた瞬間、水と共に床に凍りついた。
美津江は荒い息をつきながら、床に膝を落とした。
そのまま床に凍りつきかねないので、哲夫は慌てて美津江の腕を掴み、引き立たせた。
美津江は口をきつく結んで、哲夫を見上げた。
もうどうなってもいい、そう言っている目だ。
しかし哲夫はなんの気負いもなく、変わらぬ微笑を浮かべていた。
「次のチャンスはない、って言っただろう」
美津江の目が、大きく見開かれた。
寒気で蒼白だった顔が、さらに真っ白になった。
哲夫も、気配で悟っていた。
里子は――すでに背後に立っている。
しかし、振り向いた哲夫の目に映った里子は、まだ霧のように薄く、輪郭も定かではなかった。それでも顔のあたりに、懐かしい目鼻立ちが見てとれた。
「……やっぱり、山に戻らないと、駄目かな?」
里子の霧はゆっくりとうなずいて、白布のようにたなびきながら、哲夫の前に回った。
怯えきっている美津江の肩に、霧の手が触れた。
美津江は訝しげに、小首を傾げた。
霧は、明らかに微笑している。
哲夫はドラム缶を起こしながら、美津江に言った。
「恨み辛みがあるくらいなら、君はとっくに凍え死んでるよ」
まだ不安げな美津江に、里子の霧も、穏やかにうなずいて見せた。
「さて、出ようか。こんな所に長居していたら、それこそ美津江さんが凍っちまう。里子にその気がなくてもね」
哲夫はためらう美津江の手を引いて、扉に向かった。
5
東北自動車道を北上する間に、東の空が白みはじめた。
しかし、空はどんよりと雪雲に覆われている。
哲夫は那須インターで高速を降り、いったん那須高原方面への県道に入った。
銚子の倉庫で冷凍室を出てまもなく、里子の霧は見えなくなってしまったが、それは気温が上がったためだけのことだ。すでに意識の戻った里子の気配は、常に助手席に漂っている。
哲夫は里子の今後よりも、むしろ後部座席で黙りこくっている美津江のほうが、ずっと気になっていた。
当初はひとつ手前の西那須野塩原インターから、国道四〇〇号に降りようと思っていたのだが、これから美津江を帰宅させるとすれば、黒磯駅で降ろした方が、那須塩原で新幹線に乗り継ぎやすい。
「今なら、まだ君は引き返せる。駅まで戻ってもいいんだよ。何も見なかったし、何も知らなかった。それで、いいんじゃないか?」
倉庫の作業場でも何度か忠告したのだが、美津江は頑なに口を閉ざしたまま、車に乗りこんでしまった。そして今回も、返事はない。
――処置なし、というところか。
哲夫はインターから北西に十五キロほどの、深山湖方向に道を折れた。
そこに至る山道は、秋には紅葉狩りなどで賑わう観光地だが、冬場の雪道のこと、ほとんど車の流れはない。それでも轍は踏み固められており、チェーンは巻かないで済んだ。
しかし深山ダムを過ぎて、南北に細長いダム湖の東岸を抜けてしまうと、あとは細々とした林道が、福島県側に向かって続くだけだ。雪がなくても二輪の通行さえ不自由な山道で、無論、冬期は閉鎖されている。
林道に上る手前の簡略な閉鎖ゲートも、三十センチほどは雪に埋もれていた。
哲夫はそこに車を残して、金柵の横をすり抜け、雪道を歩きはじめた。
ほどなく里子の姿が、また白く横に漂いはじめた。
冷凍室にいたときよりも、幾分はっきりしているようだ。
そして美津江も、少し離れて黙々と後をついてくる。
「帰れなくなるよ」
哲夫がわざと投げやりに声をかけると、美津江はふてくされたように答えた。
「……帰り道がわかりません」
やっと口を開いてくれた――哲夫は軽い安堵を覚えた。
この娘は、昨夜、帰る道も行く道も、自ら閉ざしてしまったのだ。それならば、今進んでいるこの山道が、誤った道とも限らない。
里子はまだ言葉を人に伝えられるほどには回復していないようだが、おそらく同じことを考えているのだろう。
哲夫は黙々と歩き続けた。
小一時間も歩いた頃、雪が舞いはじめた。
綿のような牡丹雪だった。
どんな雪が降りはじめるのか、それは哲夫にとってはどうでもいいことだったが、少なくとも美津江には幸運のはずだ。この雪ならば、これ以上気温は下がらない。凍える前に、あの山に入れる。
しばらく前から、哲夫たちはすでに林道を外れ、冬枯れた樹林の斜面を登っていた。
里子の霧が、不意に活気を帯びた。
哲夫たちの先に流れ、さらに樹木の間を遠ざかる。
故郷の森を気配で感じたのだろう。
やがてまた嬉しげに戻ってきた里子に、哲夫は優しく言った。
「先に行っておいで。僕たちも、じきに着けるよ」
里子はこくりとうなずいて、霧の尾を引きながら、木の間隠れに消えていった。
哲夫は美津江を振り返った。
さっきよりもさらに遅れ、すでに気息奄々で、雪から足を引き抜く力さえ、満足に残っていないようだ。
哲夫はそこまで引き返し、美津江を横から支えた。
「せっかくここまで来たんだ。ここで君が寝てしまったら、僕もさすがに気が引ける」
美津江は拒みもうなずきもせずに、哲夫のなすがまま、その腕を背中に迎えた。
美津江を丸々運び上げる形で、さらに林の斜面を登り続ける。
やがて斜面は勾配を失い、平坦な針葉樹の森になった。
結局、戻ってきてしまった――。
哲夫は諦観でも喜びでもない、岩清水のように澄んだ気持ちで、奥深い雪の森に歩を進めた。
昨夜まで自分が根づいていた都会の喧騒が、一場の夢にすぎないように思われた。
下請電装品会社の、うだつのあがらない営業職。去ってゆく恋人。いつの間にかすっかり馴染んでしまった、本来自分には不要なはずの、温風ヒーターの温もり。公園で、独りであおるカップ酒。
それらは確かに、生きていることの実感でもあったのだが――。
哲夫は、今自分が運んでいる美津江という少女に、それらの夢の名残を感じていた。
やがて森の奥に、ひときわ太い杉の大樹が見えてきた。
その根元で、里子がこちらに手を振っている。
降りしきる雪の中で、黄色いダウン・ジャケット姿が、しっかり人として存在している。
哲夫も手を振り返したが、隣の美津江は不審げに眉をひそめた。里子のいでたちに、見覚えがなかったからだろう。確かにこれまでの経緯を考えれば、むしろ裸体の、人ならぬ物の出現を予想していたはずだ。
腰の引けている美津江を引き摺るようにしながら、哲夫は里子に近づいていった。
「大丈夫?」
屈託のない哲夫の笑顔に、里子ははにかんだような微笑を返した。
「うん……ありがとう」
美津江はそんな二人を前に、どんな顔をしていいか解らないのだろう、むっつりと黙りこくっていた。
そして、ふと、その大木の根元の窩に目を落とした時、全身を棒のように強張らせた。
どこにそんな力が残っていたのか、美津江は哲夫を突き飛ばすように退いた。
それからあわただしく後ずさりしようとして、雪に足をとられ、尻餅をついた。
美津江の視線は、その樹木の大きな穴に、釘づけになっていた。
窩の中では、外に立っている哲夫と里子と同じ姿の男女――哲夫と里子が、寄り添うようにうずくまっている。
その二人は、安らかな寝顔の頬を互いに触れ合わせたまま、白く凍りついていた。
あの時のままだ――と、外の哲夫は思った。
この森の雪は夏にも融けない。
永遠に融けないのかもしれない。
「あなたたちは、いったい、なんなの!」
美津江は絶叫した。
哲夫が上からさしのべた手を、毒虫ででもあるかのように激しく振り払う。
自分は、いったい何者なのだろう――。
哲夫は自分でも戸惑いながら答えた。
「……名乗りようがないんだ。名前がない。昔から、ただこの山に居ただけなんだから」
そう答えるしかなかった。
「この娘は少し違うけれど、まあ、似たようなものだ」
並んで立っている里子が、黙ってうなずいた。
美津江は雪に腰を落としたまま、怯えきった顔で後ずさりを始めた。
「誤解のないように言っておくけど、その二人は、去年僕たちが見つけたときには、もう眠ってしまっていたよ。この山に迷いこみ、こんなふうに眠りについて、そのまま逝ってしまえる人間はめったにいない。よほど次の世を求めていたのか、それとも――よほど今の世に未練がなかっただけなのか」
美津江はぎくしゃくと痙攣するように、二組の二人を見比べている。
なぜこの少女は、これほど怯えているのだろう――。
哲夫は少々、不可思議に思っていた。
彼にしてみれば、むしろ美津江の常に発散する生々しい感情のほうが、よほど怖いくらいだ。
人であれ雪であれ、娘というものは、本当に不可解な存在だ。
「――どちらにしても、僕は人の世界というものを一度生きてみたかった。この娘も、そう思っていた。だから、その二人の姿と思い出を借りて、山を下りた。もっとも、思い出の方はもう曖昧だったんで、ずいぶん苦労したけどね」
美津江は目を丸くしたまま、じりじりと後ずさりを続けていた。
そして不意に身をよじり、一散に斜面の方に逃げ出した。
哲夫と里子は、遠ざかる美津江の姿を、黙って見送っていた。
舞い降りる雪は、さほど多くはないし冷たくもない。
しかし、すでに疲弊しきった人間が、これから無事に山を下りきれるはずはない。
それでも、それは彼女が自分で選んだ道だ。
里子が哲夫を振り返った。
「……色々、ありがとう」
憂いを帯びた瞳は、すぐに伏せられた。
「でも……ごめんね」
声に心苦しさが滲んでいた。
「やっぱり、草間の所に帰るの?」
昨夜はもう返さないと言ったものの、それは結局、哲夫ひとりの願望にすぎない。
「ええ。あの人は、一人では生きていけないもの」
――帰したくはない。
森を出るまでの悠久に近い歳月、その娘は常に快い森の一部だった。
そして、人として生きたわずかな歳月の半分を、六畳一間で寄り添いながら過ごした。その間、あの奇妙に過剰な、しかしけして不快ではない肉体としての交情もあった。
それでも哲夫は、黙って車のキーを差し出した。
里子も黙ってそれを受け取り、美津江を追うように歩きはじめた。
哲夫は無言のまま、その後ろ姿を見送った。
森の彼方に小さく見えていた美津江の姿が、不意に消えた。
下り斜面までには、まだ間があるはずだ。
おそらく、そこで力尽きたのだろう。
里子は、そのあたりに行き着くと、いったん歩みを止め、粛然と足元を見下ろしていた。
それから雪に膝を落とし、しばらく手を合わせていたが、やがて立ち上がり、再び歩きはじめた。
見送り続ける哲夫の耳に、不意に、山の音が響いた。
『――お前は行かないのか、木精よ――』
懐かしい山霊の声だった。
それは声というより、山そのものの意識の響きだった。
「僕は、少々くたびれてしまいました。しばらく休もうと思います」
『――それがいい。ゆっくり眠れ――』
哲夫はその響きに、清冽な禊を感覚した。
里子が彼方の斜面に姿を消すと、哲夫はひと息に、すべての緊張を解いた。
次の瞬間、彼は薄緑色の風となって宙に巻き上がっていた。
軽やかに螺旋を描きながら、その大樹の幹を巡り、頭上の枝々をめざす。
雪を被った常緑の群葉の隅々にまで、心のままに自らを拡散する。
哲夫であることを捨てて、本来の自分に――根の窩に眠る二人を抱きながら、深閑とたたずむ杉の巨木に還ってゆく。
その広がった意識の隅で、森のはずれの、小さな雪の盛り上がりが視界に入った。
美津江の形の雪から、ゆらゆらと白いものが立ち昇った。
山霊に捕らわれた生命の名残が、また別の自然に結晶しようとしている。
すでに人としての記憶を失い、途方にくれたように揺らめいている白い娘に向かって、森のそこかしこから、いくつもの白い女たちが流れはじめた。
ようこそ、新しい雪の娘――。
そっとつぶやきながら、木精は眠りに落ちた。
〈了〉
雪の娘