『ドリアン山の最後の二等兵』~桃色の寺の菩提樹の下で~

『ドリアン山の最後の二等兵』~桃色の寺の菩提樹の下で~

第一章 火炎樹と赤土

第一章 火炎樹と赤土

 タイの雨季のスコールは、まるで空そのものが崩れ落ちてくるかのようだった。

 二等兵・相沢義信は、ぬかるみに足を取られながら山道を登っていた。

 軍靴の底はすでにすり減り、踏み込むたびに赤土が滑る。

 背嚢は軽い―軽すぎた。

 中には湿った握り飯の一塊と、空になった弾倉が一つ入っているだけだった。
 
 大日本帝国陸軍の南方軍部隊は壊滅した……
 
 夜明け前の空襲―炸裂する爆音。

 燃え上がる椰子の林。

 逃げ惑う兵士たち。

 そして――気がつけば、相沢は一人だった。

「ナコンナーヨック兵站地へ集結せよ!」

 中村軍曹の声が、まだ耳の奥に残っている。

 命令は簡単だ。

 生き延びて、そこへ辿り着け。

 それだけだった。

 だが、どこが東で、どこが西なのかさえ、もう分からない。
 
 前方の真っ赤に咲き誇った、火炎樹の森が揺れる。

 相沢はとっさに小銃を構える。

「……相沢か」

 現れたのは中村軍曹だった。

 顔は土と血で汚れ、左腕には包帯代わりの布が巻かれている。

 だが、その目はまだ死んでいなかった。

「他の者は何処でありますか!」
 
 相沢は問いかけたが、軍曹は答えなかった。

 ただ首を横に振る―しばらく無言で歩いた。

 湿った風が、腐った果物のような匂いを運んでくる。

 やがて、若い兵士が木の根元に座り込んでいるのが見えた。

 西田だった。

 銃を抱えたまま、虚ろな目で空を見ている。

「もう……日本には帰れませんよね」

 誰にともなく呟く声は、ひどく乾いていた。

「連合国の奴らに捕まったらどうなるんですか」

 中村軍曹は答えない―その沈黙がすべてだった。

 西田はふらりと立ち上がり、拳銃を取り出した。

「やめろ!」

 相沢が叫んだ瞬間、乾いた音がジャングルに響いた。

 名も知らない白い小さな鳥が一斉に飛び立つ。

 西田は、ゆっくりと前に倒れた。

 相沢はその場に立ち尽くした。

 戦争とは、敵に撃たれて死ぬものだと思っていた。

 だが今、目の前で死んだのは敵ではない。

 恐怖だった。土を掘った。素手で。

 爪の間に赤土が入り込み、血がにじんだ。それでも掘り続けた。

 埋め終えた頃には、夕暮れが迫っていた。遠くの山肌に、不思議な線が見えた。

 まるで誰かがジャングルを切り裂いたような、真っ直ぐな道。

「……あれは」

 中村軍曹が低く言う。

「日本街道(ถนนญี่ปุ่น)だ」

 相沢は、その言葉の意味をまだ知らなかった……。

第二章 白骨の日本街道

第二章 白骨の日本街道

「日本街道-ถนนญี่ปุ่น-だ」

 中村軍曹はそれだけ言って、先に歩き出した。

 道へ近づくにつれ、空気の匂いが変わった。

 腐葉土の甘い湿気に混じって、どこか焼けたような、古い汗のような匂いが漂ってくる。

 赤土は踏み固められ、丸太が横に渡されている。

 所々に石が積まれ、崩れかけた側溝の跡も見えた。軍用の道路だと、相沢にもすぐ分かった。

「ここを通れば兵站地に出られるんですか?」

 問いかけると、軍曹は小さく首を振った。

「もう使われていない。前に進出した時、現地の村人を集めて作らせた道だ、今では白骨街道だがな」

 その声には、疲労よりも重い何かが滲んでいた。

 相沢は足元を見た。赤土の間から、半分白骨化した人骨や、錆びた空薬莢が顔を出している。

 相沢が空の薬莢を拾い上げると、手の中で冷たく光った。

 誰かがここで撃ち、誰かがここで倒れたのだ。
 
 ふと、風が吹いた。
 
 鬱蒼としたジャングルの奥から、低い呻き声のようなものが聞こえた気がした。

 相沢は思わず振り返る。だが、そこには闇しかない。

「……聞こえましたか?」

「何も聞こえん」

 軍曹はそう言ったが、その歩調は少し早くなっていた。

 道は緩やかに山を巻いて続いている。

 両脇には切り倒されたまま朽ちかけた巨木が横たわり、白く乾いた幹が月明かりを反射していた。

 まるで骨の列のようだった。
 
 相沢の腹が鳴る。
 
 昼から何も食べていない。

 背嚢の中の握り飯はすでに腐りかけているだろう。

 だが、それでも食べるしかない。
 
 口に運んだ瞬間、酸っぱい匂いが鼻に抜けた。

 吐き気をこらえながら噛み砕く。
 
 その時だった。
 
 遠くに、かすかな灯が見えた。
 
 相沢は立ち止まる。
 
 闇の中に、橙色の点がいくつも揺れている―焚き火だ。

 人の気配だ。

「村かもしれん…」

 中村軍曹が呟いた。

 相沢の胸が高鳴る。

 食べ物。水。屋根。

 生き延びるためのすべてが、あそこにあるかもしれない。

 だが同時に、別の感情が喉元まで込み上げてきた。

 西田の白い顔。銃声。熱い赤土。

 ――俺は、生きるためなら何でもするのか。

 風に乗って、強烈な匂いが流れてきた。

 腐った果物のようで、どこか甘い。

「……ドリアンだ」

 軍曹が言う。

 灯はゆっくりと近づいてくる。

 いや、こちらが近づいているのだ。

 やがて木々の隙間から、高床の家と、裸足の子供の影が見えた。

 その瞬間、犬の激しい吠え声が夜を裂いた……。

第三章 沈黙の村

第三章 沈黙の村

 犬の吠え声は、まるで甲高い銃声のように鋭く夜を裂いた。

 灯が一斉に揺れる。

 子供の影が走り去り、家々の木戸がばたばたと閉まる音がした。

 相沢は思わず立ち止まった。

 目の前にあるのは確かに「村」だった。

 だが、そこには歓迎の気配など微塵もない。むしろ、見えない壁のようなものが張り巡らされているように感じられた。

 中村軍曹が低く言う。

「銃は下げろ。撃つな!」

 相沢は小銃を握り直したまま、ゆっくりと歩を進めた。

 高床の家の下には、干された野菜や籠がぶら下がり、赤土の地面には家畜の糞が乾いて白くなっている。

 どこからともなく、あの強烈な甘く腐ったような匂いが漂ってくる。
 
 ―ドリアンだ。
 
 腹がまた鳴った。

 視界の端が暗く揺れる。空腹は、もはや痛みではなく、思考そのものを削り取っていく。

 その時だった。

 ぎしり、と木の軋む音がして、一軒の家の階段の上に人影が現れた。

 細い腕。長い髪。月明かりに照らされた顔はまだ幼い。

 若い女性だったー彼女は相沢たちをじっと見つめている。

 恐れているのか、怒っているのか、それともただ観察しているのか分からない、静かな目だった。

 やがて彼女は高床の踊り場から木の階段をゆっくりと降りてきた。

 犬はなおも吠え続けている。どこかの家の奥で、老人の咳き込む声がした。

 若い女は相沢の前で止まると、手に持ってきた竹の水筒を取り出した。

 無言で差し出す。言葉はない。

 相沢は戸惑った。 

 受け取っていいのか。

 罠ではないのか―そんな考えが頭をよぎる。

 だが喉は砂のように乾ききっていた。
 
 震える手で水筒を掴み、一気に飲む。
 
 ぬるい水が体の奥へ落ちていく―涙が出そうになった。
 
 顔を上げた時、彼女はまだそこにいた。

 その背後の闇の中に、いくつもの目が光っているのに気づく。

 村人たちだ。誰も近づいては来ない。ただ遠巻きに見ている。

 中村軍曹が小さく呟く。

「……覚えているんだ」

 何を、と聞き返そうとした瞬間、相沢の視線が家の褪せた木柱に止まった。

 古びた傷跡が刻まれている。刃物で削ったような跡だ。

 日本語だった。

 ――昭和十八年 陸軍第三工兵隊

 相沢の背筋に冷たいものが走る。

 ここは、ただの村ではない。

 ここは当時、徹底抗戦を試みた日本兵たちが物資や武器輸送のために、村人たちを強制的に酷使して作らせた街道だった。

「日本街道」……村人たちは皮肉を込めてそう呼んでいた。

 その時、再び腹が鳴った。強く。恥ずかしいほどに。

 相沢の視線は、彼女の背後に吊るされた籠へと吸い寄せられる。

 中には白い米と、まだ生きている鶏がいた。

 喉の奥で何かが軋む。

 ――生きるためなら。

 その考えが、静かに形を取り始めていた……。

第四章 納屋の闇

第四章 納屋の闇

 女は水筒を取り上げると、何も言わずにくるりと背を向けた。

 そして数歩進んでから振り返り、タイ語で呟いて手のひらを小さく動かした。

 ――ついて来なさい。

 その仕草だけで、意味は分かった。

 相沢と中村軍曹は顔を見合わせる。

 罠かもしれない―。

 だが、このまま闇の中に立ち尽くしていれば、体力は持たない。

 犬の吠え声も、いつまでも続くだろう。

 彼女は家の裏手へ回り込み、納屋の前で止まり軒先を指差す。

 そこには竹で組んだ簡素な床があり、古いござが一枚敷かれていた。

 雨を避けるには十分な場所だ。

 彼女は二人の顔を順に見て、軽くうなずいた。

 ――ここで休みなさい。

 言葉はないが、その意図ははっきりしていた。

 相沢が小銃を肩から下ろし、竹床に腰を落とす。

 瞬間、全身の力が抜けた。

 骨の中まで湿気が染み込んでいるようだった。

 中村軍曹はまだ立ったまま、周囲を警戒している。

 だがやがて諦めたように息を吐き、相沢の隣に座り込んだ。

 彼女はそれを確認すると、納屋の横の木戸を開けて中に入り、振り返ることなく扉を閉めた。

 バタン―乾いた音が夜に響く。

 それきり、出てこなかった。

 静寂が戻る。

 遠くで虫が鳴いている。時折、ドリアンの実がどさりと落ちる鈍い音がした。

 相沢はござの上に仰向けになった。

 星が見えた。南の空は低く、見慣れない星座が滲んでいる。

「……助かったぁ」思わず呟く。

 だが中村軍曹はすぐに答えなかった。

 長い沈黙のあと、低い声が返ってくる。

「助けられたと思うな」

 相沢は顔を向けた。

「ここはな、日本街道の村だ。あの娘の親も、祖父も、あの道で働かされたはずだ」

 闇の向こうに、昼間見た赤土の道が浮かぶ。

 朽ちた丸太。錆びた薬莢。

 胸の奥がざらついた。

 強烈に腹が鳴る。

 今まで何度も鳴ってきたが、これは違う。

 体の内側から何かが崩れ落ちていくような感覚だった。

 視線が自然と納屋の隙間へ向かう。

 暗闇の中に、ぼんやりと白い袋の形が見えた。

 米だ。

 その手前で、鶏が羽を震わせている。

 相沢はゆっくりと起き上がった。

「どこへ行く?」

 軍曹の声が背中に刺さる。

「……小便であります」

 自分でも驚くほど平静な声だった。

 竹床を降りる。

 赤土が冷たい。

 納屋の壁に手をつくと、木がしっとりと汗ばんでいた。

 ――生きるためだ。

 その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。

 そっと扉に触れる。鍵はかかっていない。

 遠くで、再びドリアンの実が落ちた……。

第五章 震える指先

第五章 震える指先

 納屋の扉は、わずかな力で開いた。

 ぎぎっ、と軋む音がして、相沢は思わず息を止めた。

 背後で中村軍曹がこちらを見ている気配がある。

 だが、もう振り返らなかった。

 中は真っ暗だった。
 
 湿った藁の匂いと、家畜の体温のようなぬるい空気が満ちている。

 手探りで一歩踏み込むと、足元で何かが動いた。

 羽ばたき…鶏だった。

 相沢の心臓が跳ねる。

 目が慣れてくると、壁際に積まれた白い袋が見えた。

 昼間、視線を吸い寄せられたあの米だ。
 
 喉の奥がひりつく。――これを持っていけば、生き延びられる。

 西田の顔が浮かぶ。

 土の中に消えていった若い戦友。
 
 中村軍曹の声が、頭のどこかでまだ響いている。
 
 兵隊である前に人間であれ。
 
 相沢は目を閉じた。
 
 そして次の瞬間、袋の口に手を突っ込んでいた。
 
 米は乾いていた。
 
 指の間からさらさらと零れ落ちる。
 
 夢のような感触だった。
 
 背嚢を開き、両手で掬って詰め込む。
 
 止まらない。止められない。
 
 その時、足元で鶏が激しく暴れた。
  
 コケッ――!!
 
 甲高い鳴き声が闇を裂く。
 
 相沢は反射的にその首を掴んだ。
 
 細い骨が指の中で震えている。
 
 ――殺せ。
 
 どこからともなく声がした気がした。
 
 相沢は歯を食いしばり、力を込めた。
 
 ぐしゃり、と嫌な感触が伝わる。
 
 羽が顔に当たった。
 
 温かい何かが手の甲を濡らす。
 
 静かになった。
 
 相沢はしばらくその場に立ち尽くしていた。
 
 胸が激しく上下する。
 
 だが空腹は、むしろはっきりとした輪郭を持って彼を支配していた。
 
 背嚢を担ぎ直し、扉へ向かう。
 
 開けた瞬間だった。
 
 外に、誰か立っていた。
 
 月明かりの中に浮かぶ細い影。
 
 ほんのりと香り高い線香の香りが漂ってくる。
 
 彼女は何も言わない―ただ相沢の手元を見る。
 
 ぶら下がったままの鶏の死体。
 
  米で膨らんだ背嚢。
 
 その目には、驚きも怒りもなかった。
 
 ただ、深い憐れみにも似た赦しと慈悲のようなものが宿っていた。
 
 相沢は何か言おうとした。
  
 だが喉は閉ざされたままだ。
 
 次の瞬間、背後から腕を掴まれた。
 
 中村軍曹だった。

「……やってしまったな」

 低い声だった。
 
 遠くで犬が吠え始める。

 別の家の戸が開く音がする。

 村が目を覚まそうとしていた……。

第六章 赤い川

第六章 赤い川

 犬の吠え声は、すぐにいくつも重なった。

 闇の中で戸が開く音が続く。

 誰かの怒鳴り声。足音。乾いた咳。

 中村軍曹は相沢の腕を強く引いた。

「行くぞ」

 相沢はうなずいた。

 だが彼女から目を離せなかった。

 彼女はゆっくりと瞼を閉じ、小さく俯き静かに立っていた。

 責めるでもなく、許すでもなく。

 その沈黙が、何よりも恐ろしかった。

 二人は納屋の裏手から畑へ滑り出た。

 露に濡れた草が足に絡みつく。

 背嚢の中の米がやけに重い。

 夜明けは近かった。

 東の空が白み始め、山の稜線が浮かび上がる。
 
 村のはずれを流れる小川の方へと、自然に足が向いた。
  
 喉が焼けるように渇いていた。
 
 相沢は膝をつき、水面に手を差し入れた。

 水はぬるかった。

 そして、妙な匂いがした。

 鉄のような、生臭い匂い。

 水を掬い上げようとした手が止まる。

 薄明の中で、水の色がはっきりと見えた。

 濁っている。いや――赤い。

「……軍曹」

 相沢の声は掠れていた。

 上流から、何かが流れてくる。

 最初は流木かと思った。

 だが違う。黒く膨れた腹。折れ曲がった脚。

 数頭の馬だった。

 眉間を一発で撃ち抜かれた軍馬の死体が、ゆっくりと水に押されて回転している。

 腹の裂け目から、まだ乾ききらぬ血が川に溶け出していた。

 そのたび、水面がゆらりと赤く染まる。

 悪臭が風に乗って村へ流れていく。

「……終わったはずだろうが」

 中村軍曹が低く呟いた。

 戦争は終わった。

 そう知らされたのは、もう何日前だったか。

 それでも命は、こうして撃ち抜かれ続けている。

 相沢は立ち上がれなかった。

 流れていく馬の体に、見覚えのある焼印が見えた気がした。

 かつて自分たちが荷を運ばせ、鞭を入れ、共に山を越えた馬。

 名前さえ付けなかった命。その血が、いま村の水を染めている。

 背嚢の中で米が擦れ合う音がした……。

第七章 胸に残る戦争の傷

第七章 胸に残る戦争の傷

 遠くから、人の声が近づいてくる……。

 最初に聞こえたのは、泣き声だった。

 中年の女の声だった。

 それは怒鳴り声でも罵声でもない。

 ただ、腹の底から絞り出すような低い嘆きだった。

 小川の下流から、村人たちが集まってくる。
 
 裸足の子ども。鍬を握った老人。肩を震わせる女たち。

 誰も相沢たちを見ていなかった。

 皆、川を見ていたー赤く濁った流れ。

 そこに引っかかるように止まった軍馬の死体。

 膨れた腹がゆっくりと揺れ、腐臭が朝の空気に広がる。

 老父の一人が水面に石を投げた。

 ぱしゃり、と鈍い音がした。

「もう飲めぬ……」誰かが呟いた。

 別の老婆が両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちる。

 水瓶が転がり、空しく乾いた音を立てた。

 この川は村の命だった。

 畑を潤し、米を炊き、祈りの前に口をすすぐ。

 そのすべてが、いま止められている。

 戦争は終わったというのに。

 中村軍曹は相沢の腕を掴んだまま、動かなかった。

 逃げることも、隠れることもできたはずだった。

 だが、足が動かなかった。

 相沢も同じだった。

 背嚢の重みが、急に現実味を帯びる。

 中で擦れ合う米の音がやけに大きく聞こえた。

 その時だった。

 あの彼女が人垣の向こうに現れた。

 昨夜の女だった。

 彼女はゆっくりと歩いてくる。

 村人たちの間を抜け、まっすぐ相沢の前まで来て止まった。

 相沢は目を逸らせなかった。

 赤い流れ。腐った命。

 彼女は、自分の胸に手を当てた。

 そして、相沢の胸を指差した。

 言葉はいらなかった。

 ――あなた達の戦争は、まだ此処にある。

 そう言われた気がした。

 遠くで銃の安全装置を外す音がした。

 はっきりと英語と分かる声が聞こえて来た。

 連合国軍の兵士たちが、村へ下りてくるのが見えた。

 二人は素早く村人の陰に隠れてその場を離れた……。

第八章 バンカー下のバナナの木

第八章 バンカー下のバナナの木

 犬の声が重なり、イギリス兵たちの怒号がジャングルに響く。

 中村軍曹は相沢の腕を引いたまま、畑を突っ切った。

 足元の芋の蔓が絡みつく。背嚢の米が跳ねる。息が上がる。

 走った―ただ走った。

 方角も分からないまま、木々の密な方へ、追手の声から遠ざかる方へ。

 やがて地面が傾き始めた。

 登りだった。

 草が低くなり、赤土が露出し、足の下で石が転がる。

 丘だ。

 相沢が気づいた時、すでに軍曹は駆け上がっていた。

 頂が見えた。
 
 そこに、バンカーがあった。土嚢を積み上げた簡素な陣地。錆びた砲台。

 そして——人影。

 数人の日本兵だった。

 擦り切れた軍服。落ちくぼんだ目。だが銃だけは、まだ構えていた。その銃口が、相沢たちに向いた。

「撃つな、味方だ!」

 中村軍曹が叫んだ。

 兵士たちの銃口が下がる。

 誰かが息を呑む音がした。

 バンカーの中は異様だった。

 空薬莢が膝の深さまで積もっている。食料の痕跡はない。水筒はすべて空だ。

 若い将校が立っていた―少尉だった。

 年は相沢と変わらないか、もっと若いかもしれない。

 顔に表情がなかったが目だけが、

 爛々と燃えていた。

「まだ私たちの戦いは終わっていないのであります!」

 将校は言った。

 その時、エンジン音が聞こえた。

 遠く、低く、しかし確実に近づいてくる。

 東の空に、機影が見えた。

 連合国軍のスピットファイアだった。

 二機 - 翼を傾けながら、丘の稜線に向かって降下してくる。

 バンカーの機関銃が火を噴いた。

 轟音。硝煙。土嚢が揺れる。

 だが英軍機は怯まなかった。

 丘の斜面に向けて、パラパラと機銃掃射が走る。

 赤土が跳ね、石が砕け、乾いた音が連続する。

 まるで、弾丸を惜しむかのように掃射は止んだ。

 そして——二機はそのまま上空を通り過ぎ、西の空へ消えていった。
 
 静寂が戻る。

 中村軍曹は土嚢から身を起こした。

 そして仁王立ちになり、消えていく機影に向かって、大声を張り上げた。

「撃ってみろ、クソ野郎!!なぜ俺を撃たぬ!」

 声が丘を転がった。

 ジャングルの鳥が一斉に飛び立った。

 相沢は軍曹の腕を掴んだ。

「軍曹!中村軍曹!」

 軍曹の体が震えていた。

 怒りではない、憎しみでもなかった。

 ただ、何か巨大なものが体の中で崩れ落ちているような、そういう震えだった。

「もう、行きましょう!」

 相沢は低く言った。

「ここにいても、もう——」

 軍曹はゆっくりと振り返った。

 その目が、相沢を見た。

「我々に何処へ行けと言うのか……俺は…」

 何かを言いかけて、口を閉じた。

 二人はバンカーを離れ、丘を降り始めた。

 十歩ほど進んだ時だった。

 背後で、カチッと金属音がした。

 相沢は振り返った。

 あの若い少尉だった。

 手榴弾を取り出し、ゆっくりと胸に当てていた。

「おいっ——!」 

 相沢が叫んだ。

 軍曹が相沢の腕を掴んだ。

 強く。

 相沢は動けなかった。

 将校の目が、一瞬だけ相沢の方を向いた。

 恐怖ではなかった。

 不思議な達成感を宿した目だった。

 乾いた音がした。

 爆発で千切れた上半身だけが、丘の斜面を滑り落ちて来た。

 相沢は目を閉じた。

 否、閉じきれなかった。

 丘の上で、鳥がまた飛び立った。

 中村軍曹は相沢の腕を引いた。

 今度は優しく。

 父親が子供を連れるように。

「敬礼!」

 声は低く、二人は若い将校の亡骸に静かに脱帽し頭を下げた。

 二人は丘を降りた。

 振り返らなかった。

 振り返れなかった。

 麓にはバナナの木が数本、濃い緑色の房を垂らし陽光を浴びていた……。

第九章 中村軍曹の告白

第九章 中村軍曹の告白


 ドリアン寺への道は、相沢が想像していたより近かった。

 村の中央の「日本街道」を抜けると、山肌に沿って石段が続いていた。

 苔むした段差を一つ越えるごとに、村の犬の声が遠くなる。

 連合軍の足音も、川の赤い匂いも、少しずつ薄れていく。

 山肌の上に、ピンクの壁が見えた。

 中村軍曹は一段一段を確かめるように登った。

 左腕の包帯は黒ずんでいた。傷は膿んでいる。

 相沢には分かっていた。

 軍曹自身も分かっているはずだった。

 本堂の前で、軍曹は立ち止まった。
 
 扉は開いていた。中から線香の煙が流れ出してくる。
 
 金色の仏像が、薄暗い堂内の奥で静かに光っていた。
 
 軍曹はボロボロの軍靴を脱いだ。
 
 相沢も倣った。

 石の床は冷たかった。

 二人分の軍靴の音が消えると、堂内はひどく静かになった。

 虫の声さえ遠い。

 軍曹は仏像の前に座った。

 正座ではなく、あぐらをかいた―疲れ果てた老人のように。

 相沢はその隣に腰を下ろした。

 しばらく、何も言わなかった。

 線香の煙が二人の間をゆっくりと流れた。

 やがて軍曹が口を開いた。

「相沢……」

「はい」

「俺はな……」

 そこで一度、言葉が止まった。

 仏像の目が、二人をまっすぐ見ていた。

 金色の、静かで穏やかな目だった。

「この道を作っていた頃のことだ」

 日本街道-あの赤土の道。

「一人、殺した」

 相沢は息を呑んだ。

「戦闘ではない。命令でもない」

 軍曹の声は低く、乾いていた。

 感情を押し殺しているのではなく、もう感情そのものが擦り切れているような声だった。

「夜中に、一人の男が逃げようとした。村の男だ。若かった。俺より若かった」

 線香の灰が、音もなく落ちた。

「追いかけた。追いついたよ。そして……怖かったんだ」

 相沢は軍曹の横顔を見た。

 皺の深い、泥と血で汚れた顔。

 その目が、仏像をまっすぐ見ていた。

「逃げられたら困る、じゃない。ただ怖かった。暗い森の中で、自分が何者か分からなくなる気がした。だから、息をしなくなるまで殴った。止まらなかった」
 
 風が堂内を通り抜けた。
 
 蠟燭の炎が揺れる。

「名前も知らん。顔は覚えている。今でもな…」

 軍曹はそこで初めて相沢の方を向いた。

「お前に話したのは、誰かに聞いていてもらいたかったからだ。墓まで一人で持っていくには、少し重すぎた」

 相沢は何も言えなかった。

 言葉を探したが、見つからなかった。

 ただ、うなずいた。

 それで十分だった、と思いたかった。

 軍曹は再び仏像に向き直った。

「相沢…」

「はい」

「お前はここに残れ」

 命令の口調だった。

 最後の、命令だった。

 相沢は背筋を伸ばした。

「……それは?」

「命令だ」

 軍曹は立ち上がった。

 ゆっくりと、しかし迷いなく。

 履物を履かずに、石畳の境内へ出て行った。

 本堂の前の石段の途中で立ち止まり、振り返らなかった。

 外の光の中に、その背中が溶けていく。

 相沢は動けなかった。

 仏像だけが、たおやかに中村の背を追う。

 金色の目で、静かに。

 そして乾いた一発の銃声がした。

 鳥が飛び立つ羽音がした。

 それきり、静かになった……。

第十章 最期の命令

第十章 最期の命令

 相沢はしばらく、動かなかった。

 銃声の余韻が石の壁に吸い込まれ、線香の煙だけが変わらず揺れている。

 立ち上がれなかった。

 立ち上がってしまえば、扉の外へ出なければならない。

 出てしまえば、軍曹の死を自分の目で確かめなければならない。

 確かめてしまえば、自分が一人になる。

 だから動かなかった。

 どれほど時間が経ったか分からない。

 やがて、足音がした。

 軽い足音だった。

 草履が石を踏む音。

 相沢は顔を上げた。

 老いたタイ人の僧侶が立っていた。

 橙色の袈裟をまとい、剃り上げた頭に汗の粒が光っている。

 小柄な体で、相沢を見下ろしていた。

 目が合った。

 老僧は何も言わなかった。

 ただ、相沢の軍服の上から下まで、ゆっくりと視線を動かした。

 それから、外を指差した。

 相沢は立ち上がった。

 膝が笑った。

 石の床が冷たかった。

 扉の外に出ると、午後の光が目に刺さった。

 境内の菩提樹の木陰に、軍曹は倒れていた。

 俯せに、右手に拳銃を握ったまま。

 血は思ったより少なかった。

 赤土の上に、黒く小さな染みができているだけだった。

 老僧が相沢の隣に立った。

 両手を合わせ、目を閉じた。

 唇が動く―タイ語の経文だった。

 相沢には意味が分からない―だが音の輪郭だけは聞こえた。

 低く、一定で、波のように繰り返される声。

 相沢も手を合わせた。

 言葉は出なかった。

 軍曹の顔が見えた。

 目は閉じていた。
 
 苦しんだ形跡はなかった―ただ眠っているように見えた。

 だがそれは嘘だと、相沢は知っていた。
 
 眠りとは違う―もっと遠い場所へ行ってしまった顔だった。

 老僧の経文が終わった。

 静寂が戻る。
  
 老僧は相沢を見た。
 
 何かを問うような目だった。

 それから、寺の本堂を指差した。

 相沢にその意味が分からない。

 逃げれば生き延びられるかもしれない。

 だがその先で、自分が何者になるのか分からなかった。

 寺の石段に、掃かれていない落ち葉が、朝の風に揺れている。 

 相沢は老僧の方を見た。

「……ここに、いさせてください」 

 初めて自分の意思で言葉を選んだ。 

 老僧は静かに頷いた。

 相沢が日本語で何と言ったかも気にしないように……。

第十一章 橙色の袈裟

第十一章 橙色の袈裟

 袈裟(けさ)は、思ったより軽かった。

 (だいだい)色の布を体に巻きつける作法を、老僧は言葉なしで教えた。

 手で示し、相沢の手を取り、布の端を折り込んだ。

 軍服は境内の隅で燃やされた。

 煙が細く立ち上り、風に流れ、ジャングルの上へ消えていった。

 相沢は煙を見送りながら、自分が今何をしているのか、正確には分かっていなかった。

 命令だから従った―軍曹の最後の命令だから……。

 それだけだった―信仰ではなかった。

 悟りでもなかった。

 ただ、他に行く場所がなかった。 

 その夜、老僧は相沢に一枚の葉を差し出した。 

 バナナの葉に、白い米と魚の欠片(かけら)が乗っている。 

 相沢は受け取った。

 米を口に入れた瞬間、喉が締まった。 

 ここの村から盗んだ米のことを思った。 

 奪った鶏のことを思った。 

 細い骨が指の中で震えた感触が、まだ手のひらに残っている気がした。

 飲み込んだ―飲み込むしかなかった。

 翌朝から、相沢の新しい時間が始まった。

 夜明け前に起き、本堂を掃く、線香に火を入れる。

 老僧の後ろについて石段を下り、村へ托鉢(たくはつ)に出る。 

 托鉢の(はち)を胸の前に抱え、下を向いて歩く。 

 村人たちは黙って米や食物を入れた。

 相沢の顔を見て、立ち止まる者もいた。

 それが誰であるか気づいた顔もあった。

 だが、誰も声を上げなかった。

 連合軍は三日後に村を去った。

 その間、誰も寺にいる相沢のことを話さなかった。

 相沢はそのことを、後になって知った。

 あの女性が口を閉じていたのか、村全体が沈黙したのか、相沢には分からなかった。

 ただ、橙色の衣をまとった見知らぬ僧侶として、相沢は村の朝の中に溶け込んでいた。

 言葉は通じなかった。

 だが托鉢は毎朝続いた。

 米が鉢に落ちる音が毎朝した。

 それだけが、相沢と村をつなぐ細い糸だった……。

第十二章 水面の如く

第十二章 水面の如く

 季節が変わった。

 雨季が終わり、乾季の風がジャングルを乾かし、またスコールが戻ってきた。

 相沢は石段を掃き続けた。

 タイ語を少しずつ覚えた。

 最初に覚えた言葉は「ขอโทษ(コートート)」——すみません、という言葉だった。

 次に覚えたのは「ขอบคุณ(コープクン)」——ありがとう、だった。

 老僧はプラ・アーチャンと呼ばれていた。尊師、という意味だと後で知った。

 彼は相沢に経文を教えなかった。教義も説かなかった。

 ただ、毎朝同じ時間に起き、同じ順序で掃き、同じ道を歩いた。

 繰り返しの中に、何かがあった。

 相沢にはまだそれが何か分からなかった。

 ある夕暮れ、托鉢から戻った相沢は、境内の端に人影があるのに気づいた。

 長い黒髪の女性だった。

 ずいぶん久しぶりに見る顔だった。

 彼女は仏龕(ぶつがん)の前に花を供えていた―白い花だった。

 未だに彼女の名前を知らない。

 相沢は立ち止まった。

 近づくべきか、引くべきか。

 彼女はただ手を合わせ、目を閉じていた。

 相沢も、その場で手を合わせた。

 二人の間に、言葉はなかった。

 ただ夕暮れの光の中で、二人が同じ方向へ向かって立っていた。

 それだけだった。

 やがて彼女は花を整え、小さく会釈をして立ち上がった。

 驚きも、怒りも、許しも、その目にはなかった。

 波一つない水面のように静かに時間が流れた。

 相沢はその目を、何年経っても忘れなかった……。

第十三章 ドリアンの風に消えて(最終章)

第十三章 ドリアンの風に消えて(最終章)

 老僧・相沢義信が死んだのは、二〇一五年の四月の乾いた朝だった。

 ピンクの寺の本堂で、仏像に向かって座ったまま、息が止まっていた。

 発見したのは若い見習い僧だった。

 肩を揺すっても動かないと気づいた時、青年はただ静かに手を合わせ、鐘を一つ鳴らした。

 音が山に響き、村へ下りていった。

 人が集まってくるのに、時間はかからなかった。

 村の老人たちは皆、相沢のことを知っていた。

 タイ語を片言しか話せないまま、五十年近く石段を掃き続けた、あの日本人僧侶のことを。

 托鉢に来るたびに深く頭を下げ、米一粒こぼさず受け取り、雨の日も風の日も同じ顔で歩いた男のことを。
 
 棺は村の大工が作った。

 花はジャングルの縁から摘んできた白いものを使った。

 読経が始まると、ドリアンの実がどさりと落ちる音がした。

 誰も笑わなかったが、誰かが小さく微笑んだ。

 プラ・アーチャンはとうに死んでいた。

 相沢が師と呼んだ老僧は、相沢が寺に来て十二年目の乾季に静かに逝った。

 その後、相沢が寺を守った。
 
 日本から人が来たことは、一度もなかった。

 家族がいたかどうか、誰も知らなかった。

 相沢自身も、語らなかった。

 ただ一度だけ、死の数年前、村の子どもに問われたことがある。

「なぜここにいるの?」

 相沢はしばらく考えてから、片言のタイ語で答えた。

「誰かに、聞いていてもらわなければならないことがあるから……」

 子どもには意味が分からなかった。

 大人たちにも、正確には分からなかった。

 だが誰も、それ以上聞かなかった。

 葬儀が終わり、人々が山を下り始めた頃。

 境内の端に、一人の老女が立っていた。

 村の者は皆知っている顔だった。だが誰も声をかけなかった。

 老女は仏龕の前に白い花を一輪供え、古びた布の包みを置いた。

 そしてゆっくりと手を合わせ、目を閉じた。

 どれほどそうしていただろうか。

 布の色はもう分からないほど褪せていたが、丁寧に何度も折り直された跡がある。

 老女はその包みを指先で整え、もう一度だけ手を合わせた。

 風が吹いた。

 布の端がめくれた。

 中から現れたのは、錆びた鉄の認識票だった。

 日本語が刻まれていた。

 若い見習い僧がそれを拾い上げた。

 意味は分からなかったが、人の名であることだけは分かった。

 裏には、乾いた赤黒い染みが残っていた。

 老女は村へと続く坂道を降りて行く。

 途中で一度だけ立ち止まり、振り返った。

 ピンクの寺――掃き清められた石段。

 仏像の静かな金の目。

 そして――老女は目を閉じた。

 ただ風だけが、甘く香ばしいドリアンの匂いを運んでいった。


(完)

『ドリアン山の最後の二等兵』~桃色の寺の菩提樹の下で~

『ドリアン山の最後の二等兵』~桃色の寺の菩提樹の下で~

「命令だ。お前はここに残れ――」 一九四五年、終戦間近のタイ。敗走する二等兵・相沢義信は、かつて日本軍が現地民を徴用して建設した「日本街道」の傍らで、剥き出しの憎悪と飢餓に直面していた。 生き延びるために盗みを働き、殺生を犯す相沢。しかし、彼を見つめる一人の村の娘の瞳にあったのは、断罪ではなく底知れぬ「慈悲」だった。共に逃げ延びた中村軍曹は、かつて道を作った際に犯した殺人を相沢に打ち明け、桃色の寺院で自らの命を絶つ。 一人残された相沢に下された、軍曹の最期の命令。それは「僧となってこの地に留まること」だった。 名前を捨て、橙色の僧衣に身を包んだ相沢は、かつて略奪した村から托鉢で米を恵まれ、言葉を失ったまま五十年の歳月を石段の掃除に捧げる。なぜ彼は帰国せず、タイの山奥で掃き清め続けたのか。

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-03-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一章 火炎樹と赤土
  2. 第二章 白骨の日本街道
  3. 第三章 沈黙の村
  4. 第四章 納屋の闇
  5. 第五章 震える指先
  6. 第六章 赤い川
  7. 第七章 胸に残る戦争の傷
  8. 第八章 バンカー下のバナナの木
  9. 第九章 中村軍曹の告白
  10. 第十章 最期の命令
  11. 第十一章 橙色の袈裟
  12. 第十二章 水面の如く
  13. 第十三章 ドリアンの風に消えて(最終章)