軍事論文

第一話 世界の刀剣歴史図鑑

世界の刀剣歴史図鑑。この本は刀剣類。槍。斧。ランス。ポールアームなどの刃物武器図鑑である。ハーピー・J・S・ウィザーズ著だ。

古代エジプト古王国時代では兵士は軽装備で盾と弓と槍と斧を装備している程度だ。

だが、後期には初期板金鎧とチャリオットと刀剣類が重視されるようになった。合成弓もだ。

古代ギリシア人は優秀な剣を作ったが、あくまでも乱戦用のサブウェポンだ。

ローマ人とケルト人が刀剣類を重視した。

ローマのグラディウス。ケルト人が槍や斧とともに使ったガリア大剣だ。

アングロサクソン人は主に槍と斧とスクラマサクスという鉈で戦い、剣は高級品だった。

ヴァイキングの場合は剣はもう少し重要だ。

主に槍で戦い、両手斧で重装甲を叩き割り、乱戦では片手剣と片手斧で斬り刻み、その他に投げ槍と弓矢と棍棒なども利用する。

中世の騎士の時代だが、よくロングソードと呼ばれる片手剣は実際はアーミングソードと言う騎士の片手剣だ。

ルネサンス期になると板金鎧に対する対抗策として片手半剣ロングソードと両手剣が有効利用される。

中世から17世紀初頭にかけてヨーロッパでは多種多様な長柄武器(ポールアーム)が製造された。これは歩兵の主力武器である。バルディッシュ。ビル。パルチザン。ハルバード。パイクなどだ。

だが、パイク兵は乱戦に備えて刀剣類とメイス。組打ちに備えて短剣類でも武装していた。他の長柄武器兵も同じだろう。

ルネサンス期にはエストック。ファルシオン。大剣ツヴァイハンダーも有効利用される。ランツクネヒトは喧嘩剣カッツバルゲルを乱戦用に装備。

レイピアは実は護身用や決闘用だけではなく、近世初期に歩兵剣としても利用されている。火器によって軽装化したからだろう。

17世紀前半の歩兵剣は乱戦用。やがて銃剣が登場し、歩兵剣の役目は無くなる。

だが、17世紀の騎兵の主な武器は剣。16世紀後半から槍騎兵をピストルと剣の騎兵が駆逐したのだ。

18世紀になると騎兵の武器は剣からサーベルへと移行する。

ジャコバイトの乱ではスコットランド軍がマスケット銃の射撃後にハイランダーチャージで大剣クレイモアと片手剣と盾と戦斧での突撃でイングランド軍を苦戦させたが、カロデンの戦いは湿地帯だったためにハイランダーチャージを生かせずにイングランド軍の歩兵のマスケット銃と銃剣とわずかに残った長槍パイク兵と騎兵のサーベルと砲兵隊に敗れた。

ナポレオン戦争は軍服が華やかだが騎兵が刀剣を振るう原始的で野蛮な血祭りが繰り広げられた。胸甲騎兵はこの時代の最強の騎兵だ。また、この時代に槍騎兵も復活して胸甲騎兵の次くらいに猛威を振るっている。

アメリカ独立戦争でも騎兵のサーベルと少数の槍が使われたが、アメリカ軍は騎兵戦が当時は得意ではなかった。だが、勝利した。

19世紀後半の南北戦争になると歩兵の銃剣と騎兵のサーベルと槍による傷は全体のわずか2%に過ぎないが、騎兵のサーベルは実際の殺戮以上に心理的威圧効果があると言う説を目にしたことがあるが定かではない。

だが、その後の19世紀後半のクリミア戦争、普墺戦争、普仏戦争、植民地戦争ではサーベルと槍の活躍の機会は割と多かった。

無論、近世海軍の狭い船ではカトラスとハンガーと斧と短槍などがピストルと並ぶ主力武器である。

そして第一次世界大戦で騎兵とサーベルと槍は99.9%が時代遅れとなる。

武士は平安鎌倉時代は弓矢。南北朝室町時代は弓矢と太刀と薙刀と大太刀と大薙刀と長巻と大鉞と金砕棒。

戦国時代は槍と弓矢と鉄砲と投石を重視した。

すなわち南北朝と室町時代は日本刀がメインウェポンの一種なのである。幕末は市街地戦では打刀と手槍がメインウェポン。野戦では新式火器の時代だ。

中国では刀と槍と剣と棍が四大武器とされ、両手剣は約2000年前に取り入れられた。双手剣とあるが、恐らくは春秋戦国時代だろうか。

明代には刀剣類よりも長柄武器と打撃武器が重視されたとあるが、おそらくそれは明代初期の話だろう。なぜならば明代初期は鎧が重装化していたからだ。だが、火器により鎧は軽装化して倭寇から輸入した日本刀も重視される。

なんと1933年にも大型の刀と銃を持った部隊がいたが、恐らくは塹壕戦用だろうか?

北アフリカの刀剣はイスラム式だが他のアフリカでは独自の刀剣が生み出された。

近世インドは火器と歩兵が主力だ。
そして殺傷力の高い刀剣類の数々が作られた。両手剣や戦斧や槍もある。

古代ギリシアとエジプト古王国は刀剣をサブウェポンとしていたが、ローマとケルトガリアは刀剣類を重視した。

中世末期とルネサンス期において片手半剣と両手剣はパイク兵に対する重要な対抗手段となった。

斧槍ハルバードは中世とルネサンス期が全盛期だったが使用にあたってどの程度の練度が必要かは諸説ある。

パルチザンとグレイブも中世末期以来は有効な武器だったが少なくとも18世紀には使われていない。

16世紀と17世紀はパイク兵とビル兵が押し合う光景が良く見られた。

槍は有史以前から戦に使われた。

戦斧バルディッシュは扱うのに剛力が必要なので威力はともかく汎用性は斧槍ハルバードよりも低そうだ。

15世紀末期の下馬騎士は戦斧ポールアックスも好んだ。

その他の大鎌を改良した長柄武器なども農民兵には有効な武具だった。

ハンガーと言う剣は18世紀の歩兵剣だが、既に銃剣があるので海戦でより効果的だったのではないだろうか。

イングランド内戦でも騎兵は主に刀剣類を用いた。一部の騎兵は槍を使った可能性がある。

近世はブロードソードとサーベルが併用された時代でもある。

ルネサンス期にピストルと剣の騎兵によって槍騎兵は廃れたが、ナポレオン戦争で復活した。

騎兵槍を使いこなすには剣やサーベルよりも多くの練度を要した。
恐らく、だからこそ日本南北朝時代も太刀打物騎兵と薙刀打物騎兵が同時に存在したのだろう。

17世紀から19世紀の騎兵用刀剣には直剣も曲刀もあり、相手に重傷を負わせられた。

そして17世紀後半から19世紀には歩兵の主な武器はマスケット銃と銃剣だ。

近世海軍ではカトラスと斧と短槍などは理想的な武具だった。

日本刀の刀剣類としての完成度は海外では高評価だが現代日本人からの評価は過小評価気味だ。それは現代日本人が本を読まず、ネットのまとめサイトで情報収集しているからだろう。そして歴史上、唯一の実戦を忘れた民族だからこそ刀剣類を過小評価する唯一の民族なのだろう。

武士は刀や薙刀だけではなく、袖絡という武具も戦場で使うことがあった。薙鎌という武具もだ。

日本史に比べると中国史と世界史は刀剣類と長柄武器と打撃武器の種類が多種多様だがそれは日本人よりも中国人と西洋人と中東人とインド人と遊牧国家人の方が「合理的」ということを示しているのだろう。

昔の日本人の非合理性が現代になって更に糸を引いてきたわけだ。

軍事論文シリーズ第一話 終わり。

第二話 武器の歴史大図鑑

武器の歴史大図鑑。リチャード・ホームズ著だ。

この本は古代メソポタミアから紀元後1980年代以降にわたる武具と軍事の変遷である。

戦いは文明よりもはるか昔から存在した。ヒト科の祖先が戦争をしていたのである。

火薬兵器は15世紀から存在感を増したが、すぐに主役になったわけでは無く、17世紀ではマスケット銃兵に守られ、19世紀やナポレオン戦争時代の騎兵はサーベルを使っていた。

21世紀でさえ、刀剣類と槍の子孫の銃剣が装備品の必須武具だ。

歴史家たちは17世紀前半の変化が軍事革命と言えるほどであったものかを議論しているが、火薬兵器の登場自体は重大な出来事ではあった。


投石機に耐えられたコンスタンティノープルもウルバン砲に砕け散った。

1525年のパヴィアの戦いではマスケット銃兵が騎兵を撃退した。

火器が量産可能になることは大規模な軍隊の編成を意味した。槍や剣や弓矢などよりも人間を素早く兵士に仕立て上げられるからだ。

20世紀にはいると一度、軽視された防具が再び、見直されるようになった。ケブラー製ヘルメットとボディアーマーはその名残である。

この本ではヨーロッパや中国と共に日本の刀剣類が紹介されているが確かに品質が良い。

世界の刀剣職人は日本の匠の技を称賛するが論文を書かせてもらっている私が興味があるのは日本刀の精神性ではなく、それでいかに人を効率よくぶっ殺せるかだ。

ヨーロッパと日本の中世において鎧や弓矢や刀剣など戦士と武具に装飾美が追及されたらしい。

モンゴル弓騎兵は一斉に矢を放ち、敵が反撃を退避する前に退避して、主力の槍や刀剣を持った重騎兵を向かわせる戦法だが、元寇でその戦法を利用できたかは疑わしい。

16世紀に種子島銃が伝来して以来、日本もヨーロッパと似た戦術を取るようになったが、日本人は鉄砲の命中率を重視する個人主義の為にマッチロックガン。ヨーロッパは個人の命中率よりも集団火力を重視したためにフリントロックガンへと移行した。

13世紀からイングランド人が広く使う様になったロングボウはスコットランドやフランス軍に対し、威力を発揮したが、結局、百年戦争に敗北しているし、ナポレオンの活躍を見ると現代日本人の評価とは裏腹にフランスとは中々に戦争に強い国なのではないかと筆者は考える。

クロスボウは中国では漢帝国では既に使用されており、ヨーロッパでは古代マケドニアにその原型が見られ、十字軍以降に普及している。ローマもカバリスタなど大型弩を使った。

だが、16世紀後半以降にはクロスボウは戦場から姿を消したために三十年戦争を描いた漫画「イサック」の大量クロスボウ使用と大量騎兵槍使用は歴史考証の間違いだ。

ギリシア人とローマ人はファランクスやレギオンの密集隊形に不向きな為に斧の使用に消極的で限定的な使用だったが、ゲルマン人はフランキスカという斧をぶん投げてから短い槍や剣や別の手斧でとどめを刺すのが常套戦法だ。それは彼等が弓兵不足だったからである。

ヴァイキングの第一の武具は槍だが、第二は重装甲を叩き割る戦斧だ。第三が乱戦用の片手剣や片手斧。その他に投げ槍や弓矢や投石紐なども使う。無駄な武具など無い。

斧槍ハルバードの様に改良されて中世でも大量使用された戦斧もある。

刀剣類が真価を認められたのは紀元前30世紀に青銅が使われるようになってからだ。

ギリシア重装歩兵は優れた刀剣を作ったがあくまでも乱戦用のサブウェポンに過ぎなかった。

重視したのはローマ人とケルトガリア人とダキア人あたりだ。もしかしたらピクト人あたりも重視したかもしれない。あとは海の民だろうか。

中世ヨーロッパでは始めは鎖帷子をぶった斬って打撃を与えるためにアーミングソードは分厚かった。だが、14世紀からプレートアーマーが使われるようになると新型の片手半剣ロングソードは鎧の隙間をハーフソードで突き刺し、殺戟でメイスの様に殴り、軽装甲の相手は普通にぶった斬る方向へとバランス良く進化した。


16世紀から17世紀には火器による軽装化で歩兵がレイピアを使うようになった。

ヨーロッパ以外では14世紀日本の刀剣類とイスラム世界とインド世界の刀剣類の品質が良かった。

オスマン帝国は騎兵に力を入れた為に優れた曲刀を作った。

ムガル帝国のタルワールは後にヨーロッパに影響を与える。

しかし、火器の発展に従い、刀剣類も長柄武器も打撃武器もほとんどが無用のモノとなっていくが、ヨーロッパでは騎兵武具として刀剣類が長く使われた。

20世紀には流石に刀剣類は儀礼用だ。

短剣類はアフリカの投げナイフやインドのジャマダハルなど独自の真価も遂げている。他の武具類と同様に。

17世紀にはレイピアと組み合わせて乱戦用に用いられた。

17世紀後半以降に短剣類から歩兵のマスケット銃と並び主力装備となる銃剣が生まれた。

ギリシアの槍襖ファランクスは有名だがそれよりも先にシュメール人がファランクスを利用していた。

マケドニアのファランクスは強力だがあくまでも重騎兵の長槍が主力だ。

それからローマの台頭により長槍は廃れ、再び、復活するのは中世ヨーロッパ13世紀だ。

メイスはご存じの通り、板金鎧に対する有効な武具として使われた。
一部の説では板金鎧には打撃も斬撃もほとんど通用しないために、ウォーピックのような武具で貫通させるか、鎧の隙間をハーフソードやアールシェピースやエストックで突くか、強力なクロスボウや火器を用いる方が合理的と言う説もある。

14世紀以降の長柄打撃武器は農具から発展したものが多かったために農民兵の主力武器でもある。

長槍パイクはスペイン方陣テルシオでは銃兵の発砲を支援する盾となった。

長槍パイクは斧槍ハルバード以上に汎用性が高く、例えば1302年のコルトレイクの戦いでは長槍パイクと短槍とフットマンズフレイルで農民兵がフランス騎士団を打ち破っている。

斧槍ハルバードは一般には使用には熟練が必要とされるが諸説あるのでその真偽は不明である。だが、騎士を斬る。突く。落馬させる。殴るなどパイクの次に汎用性が高かった。

東ヨーロッパの一般的な戦斧バルディッシュは歩兵武具以外にも騎兵武具やパイク兵の代わりに使われたが、使用には剛力を必要としたためにハルバードより威力は高くとも汎用性は低かったのではないだろうか。

騎士にはウォーハンマーが特に人気があった。板金鎧に対する有効武具だ。
火器の重要性に従い、長柄武器と打撃武器は姿を消すが、18世紀と19世紀にはスプントゥーンという短槍が士官階級には使われた。
16世紀後半にピストルと剣の騎兵によって廃れた槍がナポレオン戦争時代に槍騎兵部隊の装備として使われるようになった。
筆者の独自調査ではナポレオン戦争時代の最強騎兵が胸甲騎兵。第二がこの槍騎兵ではないだろうか。

だが、第一次世界大戦においては胸甲騎兵も槍騎兵も時代遅れだ。

火薬がどこで発明されたかは定かではなく、中国、インド、アラビア、ヨーロッパと諸説あるが、いつ発明されたかについては13世紀という説が有力だ。

まずは原始的な手銃。それも二人がかりで発砲するようなモノなど。

そして火縄銃。火縄銃は効果的な兵器だが、火縄の火が消えやすく、扱いにくくもあった。

ホイールロックガンは火縄銃を駆逐するには至らなかったが、騎兵拳銃の普及を促した。片手拳銃だ。

次はマッチロックガン。火打石式銃である。命中率と射程こそ火縄銃より低いモノの火が消えにくく、集団戦に向いており、連射力と火力の向上にも役立った。

次は雷管式の銃。パーカッションロックガンである。19世紀の主力兵器だ。これの命中率と連射力は19世紀後半の騎兵に大打撃を与えた。

だが、騎兵の拳銃とカービン銃も雷管式により連射力を増すこととなる。

19世紀後半から連発式の小銃の改良も進み、機関銃や自動式拳銃なども発明された。

機関銃は1883年のマキシム機関銃が原型とされているが筆者のうろ覚えでは確か中世だか近世だかのヨーロッパか中東あたりでその出来損ないが発明されていた。

19世紀後半の植民地戦争でも機関銃は威力を発揮したが、その本領発揮はやはり第一次世界大戦だ。

マキシム機関銃と火砲が第一次世界大戦を支配したのだ。

一方でフランス軍はホチキス機関銃を使うなどバリエーションも多少ある。

第一次世界大戦末期には塹壕戦用に短機関銃すなわちサブマシンガンが発明されたが、接近戦以外では有効な威力は発揮していない。

塹壕戦では狭いので歩兵の銃剣よりもスコップや棍棒やナイフやナックルダスターなどが有効だった。

現代ではアサルトライフルの劇的な進化により、短機関銃は護身用以外の軍事的価値は認められなくなるだろう。遠くない時期に拳銃と同じ扱いだ。アサルトライフルは他のどの火器よりも改良が進められているとこの本には書いてあるが一方で現代戦において死傷者のほとんどは火砲によるモノであり、アサルトライフルによる死傷者は僅かにすぎない。それでも敵軍の拘束用と最終的な制圧にはアサルトライフルが不可欠なのだ。

故に日本南北朝時代には日本刀の負傷率が高いが、戦国時代には負傷率が低いからと言って戦国時代の日本刀を役立たずと決めつけられないのと理屈は同じである。

防具のもっとも古い原型は動物の皮だ。そして青銅や鉄製の鎧が現れ、ローマ帝国では初期板金鎧のロリカセグメンタータが使用されたが、ローマ帝政後期には鎖帷子を使用し、他の歩兵も軽装化した。

鎖帷子は15世紀まで西ヨーロッパにおける防護具の主流だ。

遊牧民族と中国人と日本人はスケイルアーマーとラメラーアーマーを利用した。中でも日本の大鎧は品質が良い。

15世紀のクロスボウ、ロングボウ、火器による攻撃に対し、騎士は板金鎧を使ったが、16世紀以降には徐々に甲冑は使われなくなる。火器による軽装化だ。これはヨーロッパだけではなく、中国と日本でも見られる現象だ。インドと中東と遊牧国家の事情は私は知らないが恐らく、同じなのではないだろうか。

だが、19世紀まで胸甲騎兵など部分的な胴体鎧は騎兵を中心に使われている。

20世紀にはケブラー素材の防弾衣で防具が戻って来た。

先史時代には戦争はあっても「軍隊」は無かった。戦士たちの時代だ。

最初期の軍隊はやはり紀元前30世紀のシュメールとエジプトである。

シュメールのチャリオットはロバなので実用性が無かった。

シュメール都市はアッカドのサルゴンによって征服される。

サルゴンは世界最古の帝国を築いた人物であり、複数の武具と複数の兵科を組み合わせて運用した。

そして鋳造技術の真価により、メソポタミア人の戦斧が両刃になり、殺傷力が増し、金属製の兜がより普及する。

エジプト新王国はチャリオットと合成弓を導入し、鉄製の頑丈な刀剣も導入した。この刀剣は短剣や斧と並び、重要な武具だ。剣盾兵がいたのだから。

アッシリア人は鉄槍騎兵や投石兵、弓兵などで敵軍に大打撃を与え、攻城技術も発展させ、大量虐殺を行った。

騎兵と弓兵の活躍はスケイルアーマーの使用を促した。

アッシリア人はチャリオットも運用している。

ペルシア人は大帝国を築き、不死隊や盾の壁や短槍や弓騎兵などで戦ったが、それ以外にも諸民族の多武装兵酒を利用した。剣以外にもウォーピックも利用した。

だが、ギリシアの土地に彼等の軍隊が向かなかったことと多民族ゆえの士気と練度の低さがギリシアのバランスを欠くファランクス部隊に敗北する。

ギリシアの土地は騎兵に向かなかったが、それでも補助勢力としては騎兵隊と軽装歩兵がファランクス以外にも使われるようになった。

アレクサンドロスのマケドニア軍は騎兵不足というギリシア軍の弱点を上回っており、むしろ、マケドニア式ファランクスよりも重騎兵が主力でその他にギリシア式ファランクスや軽装歩兵や軽騎兵も運用した。

こうしてアケメネス朝ペルシアを滅亡させ、マウリヤ朝インドにも勝利したが、後継者時代のマケドニア軍は弱体化し、ローマに敗北することとなる。

ローマ帝国の強さの秘訣はまず一つに大規模な戦力を常に補給できたことだ。時折、王政時代からケルトやカルタゴ、パルティアやゲルマンやダキアなどに大敗することもあったが、その度に大規模戦力を補充している。

とはいえ、東の大帝国である漢帝国よりは兵力が少ない。

筆者の独自調査では漢帝国は大規模兵力と騎兵隊に優れ、ローマ帝国はそれに次ぐ大兵力と重装歩兵の戦力と兵の練度と工兵と兵站に優れるとされる。

ローマ軍は共和政時代から大規模な会戦を得意としているが、パルティアには苦戦した。機動力で劣ったからだ。パルティア軍とのローマ帝国の戦争はローマがパルティアの城塞や首都を何度も陥落させ、パルティアはローマを決戦に持ち込ませない互角の戦いとされるが、最近、ぱら読みした本によれば国力的には所詮、パルティアもローマの敵ではないとされている。

ローマが兵の練度と士気と優れた装備。パルティアが騎兵の機動力というわけだ。

ローマも帝政後期になると弱体化するが、ゲルマン人に敗れたとは言え、中世にはビザンツ帝国として更に長期間、強国として君臨する。滅ぼしたのはオスマン帝国だ。

中世前期のフランク王国は騎士の源流の一つとされるが長剣と斧と槍など以外にも後の騎士とは違い、騎士が弓矢を使った点で合理的だ。

フランク王国が崩壊したころにはヴァイキングが攻め寄せ、重い長剣と軽い投げ槍と重い刺突槍と幅広刃の戦斧などでヨーロッパを荒らしまわった。

だが、イスラム帝国はヴァイキング以上にヨーロッパの脅威と化した。

確かに合成弓と槍と機動力に優れた曲刀の騎兵隊は脅威だがそれ以上にイスラム教によって士気が高まったことが原因であり、その勢力は広がった。

メソポタミアでは弓矢と槍が主力武器だが、古代エジプト人が合成弓を使用したのは明らかでもアッシリア人の弓矢については定かではない。

メソポタミアの初期のロバの実用性の低いチャリオットも後には軍馬で改良された。

古代エジプトにおいてはヒクソスとの戦により、兜と鎧と剣がより広く使用されるように武具が改良され、更にチャリオットで弓兵は高い機動力を得た。

古代ギリシア人の主力武器は槍ドリュである。直剣と曲刀は乱戦用のサブウェポンであり、騎兵武具でもある。

ギリシアファランクスの戦闘力が高かったのは主として旺盛な士気によるモノだ。

シュメールで初使用されたファランクスの槍襖は正面攻撃力と防御力は非常に高いが、機動力と側面防御力に欠ける欠点がある。だからこそ軽装歩兵などの補助が必要なわけだ。

ローマ軍は一般的に古代世界最強の軍隊とされる。重装歩兵は投げ槍ピルムと短剣グラディウスでジェノサイドを行ったが、グラディウスは刺突だけではなく、首や手足を斬り落とすことにも優れていた。

そしてローマの槍は三種類。

第三列のハスタ。

騎兵槍のランケア。

大小の投げ槍ピルムである。

ギリシアではスパルタ以外ではあまり激しい訓練は行われなかったが、ローマ軍では訓練が厳しく、軍律も厳格だった。

ケルト人は前述の通り、ケルト大剣、すなわちロングソードを重視しており、他に槍や戦斧や弓矢や投石紐や投げ槍も使った。ガリア戦記を読んだら剣も投擲していた。

アングロサクソン人とフランク人は主に槍と斧と鉈のスクラマサクスを主武器としており、剣は高級品だった。投げ槍や投げ斧も使った。

初期のヴァイキングは軽装備だったが、11世紀以降は鎖帷子をよく装備した。
剣と斧の品質が優れていたが、他に槍や投げ槍や弓矢など様々な武具を使った。
やり
中世ヨーロッパの盛期において鐙は馬上での槍や剣や斧やメイスなどを振りやすくした。騎兵の時代だが、はっきり言ってヨーロッパは一番人気のある中世が一番弱い。

ノルマン人は歩兵の弓矢と騎兵の槍突撃でイングランドの盾の壁と両手斧を打ち破った。
ハロルド王はノルマン人の弓矢を目に受けてから騎兵の剣でトドメを刺された。

中世ヨーロッパでは城塞建築が進んだが、それでも騎士が重要戦力だ。

十字軍は重い鎖帷子で重装甲したがイスラム帝国軍は軽い鎖帷子が中心の軽装甲で合成弓で十字軍に大打撃を与えた。

維持にコストがかかる騎士の補助は歩兵の役目を増やすことであり、その為に騎士が下馬騎士として槍と盾、剣と盾、斧と盾、メイスと盾で戦った。

ちなみに筆者の独自調査では中国では槍や刀剣類や大斧と盾の併用は見られてもメイスの盾の併用は確認できていない。

農民には短時間の訓練で戦力となれる長柄武器が重宝された。

中世後期のプレートアーマーは見た目ほど重くはなく、転倒しても普通に起き上がれるが、スタミナの消耗は激しい。そしてその華やかなプレートアーマーこそが15世紀から16世紀における騎士の時代の終わりなのだ。

モンゴル軍が軽騎兵を主力としたのか重騎兵を主力としたのかわからないが、軽騎兵は悪路でも突破できたために人類史上、第二位の大帝国を築き上げた。
だが、ローマの様な政治安定を築くことはできず、帝国の支配はそこまで長続きしたわけでもなかった。

明帝国は15世紀前半には手銃ハンドガン竜騎兵部隊を持っていた。

火器が本当に重要な役割を果たしたのは中世後期だ。

ウルバン砲がビザンツ帝国を滅亡させ、フランス軍も火砲の有効利用でイングランドに勝利した。

ブルゴーニュ公国を破ったスイス傭兵は長槍パイク兵と手銃ハンドガン兵の部隊だ。

16世紀において騎士は時代遅れでありつつもギリギリまだ重要戦力だ。

中世ヨーロッパの剣には片手剣アーミングソード。片手半剣ロングソード。両手剣ツーハンデッドソード。歩兵剣ショートソード。バゼラードやブロードソードなど非常に多くの種類があるが種類が多すぎて専門家でも意見がバラバラだ。

日本刀は品質が良いがヨーロッパと中国の刀剣よりも種類が少ない。中国人は刀剣類をただの武具兵器と見なしており、日本人の様に神秘崇拝はしなかった。

そして刀剣類が乱戦用として重要ならばその後の組打ちは短剣類だ。ちなみに斧や打撃武器も乱戦用に使われる。

軽装甲には刀剣類が。重装甲には斧と打撃武器が有効と言えるだろう。

ヨーロッパの長柄武器と打撃武器に関しては騎士は片手用の乱戦用のサブウェポンの打撃武器を重視して、歩兵は名ウェポンの様々な農具から発展した長柄打撃武器のメインウェポンを重視したと言える。

アジアでも長柄武器と打撃武器は白兵戦で絶大な威力を発揮したが、やはり火器によって時代遅れとなった。
18世紀や19世紀になってもヨーロッパとは違い、何も変えずに長柄武器と打撃武器を大量装備したままの軍隊があったが、時代遅れの甲冑を利用し続けたからなのかもしれない。

モンゴル帝国の武具だが主に軽騎兵の合成弓と銃騎兵の槍だ。だが、一部の説では重騎兵が日本南北朝時代の様な大太刀の様な刀を運用したという説がある。あとは乱戦用に剣と刀と斧とメイスと棍棒とウォーピックを多用し、その他に投げ槍と投げ縄を運用したのは間違いない。

中国では漢帝国の時代に騎兵戦に向かないとして剣が刀にとって代わられたが、モンゴル人が剣を多用した理由は不明である。

クロスボウは確かに貫通力に優れた強力な武具だが、訓練に時間がかかる欠点を差し置いてもロングボウは連射力と威力と射程により優れており、クロスボウに優位に立った。

アステカ人など南アメリカ人は黒曜石や木製の槍や片手剣や両手剣や長柄両手剣や斧などで武装したが、西洋人が火砲とマスケット銃と長槍パイクと剣盾兵ロデレロと短剣と騎兵隊と戦闘犬を連れてやってきたらあっという間に蹂躙された。その他に疫病の被害も受けた。鉄と火薬と疫病と騎兵がいかに強いかがわかる。

前述の通りにプレートアーマーには剣の斬撃の他にもメイスの打撃にも強い耐性があり、強力なクロスボウや火器などでないと打撃を与えられないという説もある。

16世紀前半までに近世の火砲の威力は明らかとなっていた。
イタリア戦争は初めてマスケット銃と火砲が大規模に使用され、その威力を見せつけた戦争だ。

原始的な火縄銃のアルクビューズは16世紀から17世紀に広く使用され、1520年代にはマスケット銃が登場するが、これは一般的な火縄銃よりも重く、杖で支える必要があったが、威力は高かった。

だが、16世紀前半ではまだ長槍パイク兵の突撃も主な戦術である。

近世においてオスマン帝国はヨーロッパに並ぶものが無い優れた軽騎兵部隊を有していた。

中国明帝国では鳥銃の他に原始的な連発銃が使用された。

日本でも江戸時代に原始的な連発銃が試作されている。

日本戦国時代の織田信長の鉄砲の三弾撃ちは鈴木眞哉と藤本正行が否定し、それに平山優が反論して、やはりあったのではないかという流れだったのではないか確か。うろ覚えだが。

17世紀後半になると長槍パイクが姿を消し、銃剣に取って代わられる。

銃兵が自ら護身して火力を増やした方が合理的だからだ。

17世紀後半には火縄銃マスケットではなく、フリントロックマスケットが主流となる。

薬包の導入もあり、銃兵の火力増強に寄与した。

17世紀にはカラコールと言うピストルをぶちかまして反転する騎兵戦が一時的に普及したが、これはスイス傭兵の様な火器の割合が少ない長槍中心の軍隊には効果的でもマスケット銃の割合が高い軍隊には無力であった。

そこで17世紀の終わりにピストル射撃からの抜剣突撃に移行した。

だが、16世紀後半にピストルと剣の騎兵は槍騎兵をほぼ駆逐してもいる。

18世紀には剣(ブロードソード)の代わりにサーベルが騎兵の主力武器となる。

中世を通じて大半の歩兵用刀剣は軽く扱いやすかったが、両手剣は扱いにくくも板金鎧に対する対抗策や長槍パイク兵や斧槍ハルバード兵に対する対抗策として利用された。

ルネサンスからの火力増強は歩兵を主力としたが16世紀の刀槍、17世紀の剣は騎兵の主力武器であった。

歩兵は乱戦用にレイピアと短剣を併用した。

ドイツ傭兵ランツクネヒトの主な武具は長槍パイクと斧槍ハルバードと大剣ツヴァイハンダーと乱戦用の喧嘩剣カッツバルゲルと火器のアルケブス銃とクロスボウだが、その他にも一部の兵士はボアスピアという槍を使用した。

初期の武士は何よりも騎射戦だったが、源平合戦ころから馬上太刀打ちと組み討ちと徒歩の太刀打ち戦と薙刀戦が増加した。

南北朝室町には徒歩兵の弓矢と騎馬武者の太刀と薙刀がメインウェポンとなり、その他にも大太刀や大薙刀や長巻や大鉞や金砕棒と言った剛力の武具と少数の槍が使われる。

戦国安土桃山時代には主に徒歩武士の多種多様な持槍がメインウェポンとなり、騎馬武者の槍は補助だ。足軽の長柄槍や鉄砲ですら武士を補助して敵軍を拘束する為の補助勢力だ。刀は乱戦用のサブウェポンとなる。実は安土桃山時代に大太刀が再び、流行したという説もある。

近世のインドや中東では優れた曲刀が見られる。

斧槍ハルバードは主に兵士の武具であり、戦斧ポールアックスが下馬騎士の武具だ。

スイス傭兵は槍襖崩しに斧槍ハルバードと片手半剣ロングソード。イングランドでは鉈鎌ビル。ランツクネヒトは斧槍ハルバードと大剣ツヴァイハンダー。スペインでは剣盾兵ロデレロが使われたという違いがある。

インドで時代遅れの斧とメイスが使われ続けた理由はヨーロッパとは違い、鎧が使われ続けたからだ。両手剣の使用もそれなのかもしれない。

中国では弩が発明されたが、アジアの主力武器兵器は合成弓だ。

ヨーロッパは槍の文化。アジアは弓矢の文化とも呼ばれる。

アジアの防護具は鎖帷子とプレートを組み合わせた者もあるが、これは軽量でプレートアーマーよりも合理的と言う説がある。

日本の大鎧などの甲冑はスケイルアーマーの一種で品質が良いが、見栄えも重視していた。

19世紀付近だがアメリカ独立戦争でアメリカが台頭し、ナポレオン戦争でナポレオン・ボナパルトが横隊と縦隊と散兵を組み合わせて、砲兵隊の威力も見せつけた。

更にナポレオン軍は進軍が早く、騎兵隊も強く、特に胸甲騎兵がヨーロッパ最強だ。

だが、訓練されていない兵士が増えたことなどと、敵軍がナポレオンの戦術を学習したことでナポレオン戦争はナポレオンの敗北に終わる。

19世紀前半の戦争はナポレオン戦争と大して変わらない。

だが、19世紀後半の南北戦争ではライフル銃の火力と砲兵の火力に寄り、刃物武具の効果は限定的となる。歩兵の銃剣と騎兵のサーベルと槍による傷は合わせて2%だが、騎兵のサーベルが負傷率以上に心理的威圧効果があったという説や騎兵銃のリボルバーと連発式カービンがあるので騎兵隊の存在もまだ無視すべきではないだろう。

その後の普墺戦争、普仏戦争、植民地戦争では騎兵のサーベルと槍は中々に活躍するが、歩兵隊の雷管式銃と砲兵などからの打撃も受けている。

また、植民地戦争では機関銃が威力を発揮することもあった。

19世紀になると中国でも刀剣類など白兵武具は主に儀礼用になったが、完全に使われなくなったわけでは無い。

インドの刃物武具はトップクラスの殺傷力を持つ恐ろしい武具だ。例はククリ刀など。

例えばナポレオン戦争ではサーベルと槍による負傷者は多いが、歴史上、銃剣の負傷者はほとんどいない。

実のところ、銃剣とは銃兵の護身用と銃剣突撃の威嚇用だ。

19世紀後半には銃剣突撃も騎兵突撃と同じく軍事的価値が下がるが、第一次世界大戦でも銃剣突撃と騎兵突撃で無謀に死亡した連中がいた。

そして大英帝国のインド支配によりいよいよインド亜大陸でも長柄武器と打撃武器の代わりに火器が重要視されるようになる。

ズールー族は火気使用の他にも投げ槍と槍と棍棒で恐るべき白兵能力を見せつけたが、結局はヨーロッパの火器に敗北した。

インディアン戦争ではアメリカ先住民の弓矢はアメリカ軍の不安定な火器よりも威力を発揮し、斧や棍棒などの原始的な白兵武具でも威力を発揮したが、アメリカ軍は歩兵がほとんど役に立たなかったので騎兵の銃とサーベルと槍を生かして勝利した。

オーストラリア先住民の武具もヨーロッパの火器の前には無力であった。

ウェリントンが「屑野郎」呼ばわりした階級のレッドコートもナポレオン軍の胸甲騎兵を銃撃で阻止したし、イギリス軍の騎兵隊も奮闘した。

さて、古代と中世と近世と19世紀が終わり、現代日本人が「ネトウヨ的火力戦争で一番好きな世界大戦以降の近現代」だが筆者は大して興味が無いので「雑に終わらせる」

第一次世界大戦では機関銃と火砲と鉄条網と毒ガスと塹壕戦と戦車が威力を発揮。第二次世界大戦では更なる戦車戦といよいよ航空戦が繰り広げられた。

日本に核兵器が落とされ、冷戦時代は核戦争が危ぶまれていたが、起きなかった。

現代の戦争だが、航空戦力、誘導兵器、通信技術が発達したにも関わらず、戦場を支配するには地上部隊の戦車やアサルトライフルや機関銃などが必須だ。

そしてテロや内戦などでは銃だけではなく、鉈や山刀で大量の虐殺者が出ている。

いつの時代も新式兵器だけで勝てるというわけでは無いと言うことだ。

軍事論文 第二話終わりだが、その前に次の予告。

第三話 ツッコミどころ満載の三冊「刀と首取り」「戦闘報告書が語る日本中世の戦場」「図解近接武器」

どこら辺がツッコミどころ満載かと言うと鈴木眞哉氏が広めた日本刀不要論と遠戦志向は俺からすれば「突っ込みどころ満載」平安鎌倉時代は日本刀はサブウェポンとして役立ち、南北朝室町時代はメインウェポンとして役立ち、戦国安土桃山時代はサブウェポンとして役立ち、幕末は市街地戦のメインウェポンと野戦の限定的な武具として役立った。遠戦志向も彼が主張するほど顕著ではない。図解近接武器は武器の解説があまりにもファンタジーでステレオタイプなので創作の役には立つが、学術的な価値はほとんどないということである。

第三話 ツッコミどころ満載の鈴木眞哉氏

第三話 ツッコミどころ満載の三冊「刀と首取り」「戦闘報告書が語る日本中世の戦場」「図解近接武器」

前者の二冊は鈴木眞哉氏が日本刀不要論を世に広めた二冊だ。図解近接武器は新規元社の本である。著者は大波篤司氏だ。

では前者から。

まず刀と首取りのデータは古い。戦闘報告書が語る日本中世の戦場の方が氏の研究では最新結果だ。

戦闘報告書が語る日本中世の戦場のデータの方が「日本戦国時代の研究には役立つ」(南北朝時代の研究にはアンチ効果)だから戦闘報告書が語る日本中世の戦場の戦場の南北朝と戦国時代前期と戦国時代後期と戦国時代全体の負傷率データを述べてからトーマス・コンラン氏の南北朝の負傷率データなど様々に述べさせてもらおう。


戦闘報告書が語る日本中世の戦場の南北朝時代負傷率(1333年から1387年まで)

弓傷が86.06%。

切り傷(刀傷と薙刀傷が主と思われるが鉞もあるかもしれない)9.64%

槍傷1.55%

石傷2.58%。

その他傷0.17%。

負傷者数は581人だ。

つまりこの時点で「逃げ上手の若君」における「南北朝時代の石傷は刀傷よりも多い」は「読者を唸らせるためのパフォーマンス」だとわかるのだ。

戦国時代前期(1467年から1561年まで)負傷者は747人。

矢傷61.18%

槍傷18.74%

石傷16.20%

切傷3.21

刀傷と太刀傷0.67

戦国時代後期(1563年から1638年)こちらは「死傷者」が825人。

鉄砲傷45.21%

槍傷20.61%

弓傷17.33%

石傷8.97%

刀傷と太刀傷6.42%

薙刀傷0.85%

切傷0.36

その他傷0.24

お分かりいただけだろうか? 戦国時代後期になると「槍傷と刀傷が増えている」「そこそこには刀傷もある」この時点で少なくとも「戦国時代後期の日本刀不要論」「遠戦志向」は「破綻した」

鈴木眞哉は首取りの機会が増えたから槍傷と刀傷が増えた。刀の出番は戦国時代は槍を失った場合の護身用と首取りと市街地戦や城内戦など閉所戦と平時の護身用だけだと語るが、刀剣類の基本データを忘れている。それは「乱戦用のサブウェポンだ」

古来より世界各地で刀剣類とは長柄武器の後の乱戦用のサブウェポンとして使われてきた。軍事史家を名乗っておきながらそんなことも知らねーのは「吹き飯者」である。

ちなみにガチ甲冑合戦という企画では戦国時代の乱戦は起きず、槍戦と脇差と短刀による組打ちと鉄砲などの遠距離戦だけであったが、この模擬合戦も「疑問が残る」

なぜならば平山優氏の「検証長篠合戦」もしくは「長篠合戦と武田勝頼」のどちらかに宣教師パードレ・ガスパル・ヴィレラの記録が残っているからだ。その他の文献にもパードレの記録は載っている。

シンプルな答えだ。

弓矢から槍から剣の順番で合戦では武具が実際の合戦でも京都の模擬合戦でも使われたということである。

そして鈴木眞哉氏は平安鎌倉時代において刀剣の殺傷率は9%ぐらいと語るが源平合戦以後、騎馬の太刀打ち戦と組み討ち戦と下馬の太刀打ち戦と薙刀戦が増えたことは樋口隆晴氏など多くが指摘している。確か近藤好和氏も。

それによれば馬を弓矢で射てから相手を押し倒して太刀と短刀でトドメを刺すということだ。鈴木眞哉氏の言及が負傷率なのか死傷率なのかは覚えていないが、トドメのサブウェポンとして死傷率が9%あれば役立たずではないだろう。

戦闘報告書が語る日本中世の戦場の戦国時代全体の「死傷者」1572人。1467年から1638年。
矢傷が38.17%
鉄砲傷が23.73%
槍傷が19.72%
石傷が12.40%
刀傷と太刀傷が3.69%
切傷が1.72%
薙刀傷が0.45%
その他傷が0.13%

確かに刀傷は少ないが乱戦用のサブウェポンなどこんなモンではないだろうか?



ではトーマス・コンラン氏の南北朝期合戦の一考察を引用しよう。

日本社会の史的構造の一文。南北朝期合戦の一考察。ちなみに近藤好和氏の中世的武具の成立と武士など他の本にも引用されているのに広まらないのは現代日本人の知的怠慢と言わざるを得ない。

南北朝時代の負傷率(1333年から1394年)統計データ数は721人の負傷者と鈴木眞哉氏よりいくらか多いが、明らかにデータの内容が異なる。

しかもトーマス・コンラン氏の研究の方が先だと言う話も聞いたことがあるので鈴木氏の南北朝データは「捏造」の可能性すらがある。

「弓傷が73%」

「切傷が25%」

「槍傷が2%」

「石傷が1%」

明らかに太刀と薙刀が主力武器の一つとなっている。

ちなみにトーマス・コンラン氏も戦国時代には日本刀はほとんど使われなくなると反論しているが、戦国時代前期はともかく、後期は当てはまらないのが丸わかりである。

そして樋口隆晴氏の図解武器と甲冑を引用しよう。

鈴木眞哉とトーマス・コンランはいずれも弓傷が多いことを強調しているが、南北朝時代において弓傷が多くとも敵を撃退する効果が高いのは太刀や薙刀や大太刀や長巻などを装備した打物騎兵と打物歩兵の攻撃だ。

これは戦国時代にも当てはめることができるのだ。

弓傷と鉄砲傷が多くとも、メインウェポンの槍と乱戦用の刀で敵軍を撃退するならば「負傷率」「死傷率」だけで「全てを図ることはできない」

はい「論破完了」

の前にこの人は戦闘報告書が語る日本中世の戦場でコンラン氏の論文を引用しておきながら、肝心の南北朝負傷率データは隠している。太刀と薙刀がメインウェポンだったと何が何でも認めたくないのだろうか?(笑)


では次は「図解近接武器」だが、別の本なので次の話で論破しようと思う。やはり意図を変えた。軍事論文第三話終わり。

第四話 ツッコミどころ満載の図解近接武器

さて、では図解近接武器 著者「大波篤司」のツッコミに移らせてもらおう。

まずは剣VS刀(西洋剣VS日本刀)である。

要は西洋剣は鈍器の鉈の様なモノで日本刀は剃刀の刃物のようなモノだから互角だという話だ。


「吹き飯者である」

まともな軍事文献を読めば「日本刀は僅かに切れ味が西洋のアーミングソードより高い」「強度も高い」だが「アーミングソードも普通に人間の腕を斬り落とせる」ことがわかる。

長田龍太氏の中世ヨーロッパの武術とその続編をお勧めしよう。というかこの本は「アーミングソード」のことを「ロングソード」と書いている(笑)


次は斧VS剣である。

すなわち斧は重量バランスが悪いが威力が高い。剣は重心が手元に近いので扱いやすいので互角。

ここはそんなにケチをつけるところではないが、後の西洋の斧に関する記述にケチをつけておこう。メイスの方が合理的なので騎士のサブウェポンとしては少数派となった。

吹き飯者である。マーティン・J・ドアティ氏の図説中世ヨーロッパ武器防具戦術百科をお勧めする。片手斧は騎士に好まれた武具の一つだ。

次は槍VS剣。

要は槍の方が圧倒的にリーチが長いから有利。だが、閉所での戦闘では剣が有利。

「確かにそうだろう」

「一面的に見ればな?」

世界各地の軍事文献や特に中国武術の「中国武術史 先史時代から十九世紀中期まで」を読むことをお勧めする。

中国軍事史では剣盾兵と刀盾兵が槍兵に対する有効なカウンターとして使われたのだ。

そしてこの文には両手剣は重いので槍に対して不利とあるが……前述の中世ヨーロッパの武術とその続編。図説中世ヨーロッパ武器防具戦術百科。中世騎士の武器術、中世の騎士武器と甲冑騎士道戦闘技術などの中世軍事文献では「片手半剣と両手剣は長いが以外にも取り回しが良いなどの理由で長柄武器に対する有効なカウンターの一つ」とされている。

そして長巻は日本刀のバリエーションなので槍や長柄ハンマーほどに応用が利かないとあるが……武器と防具日本編に用途が広いことが書いてあるのにそれを引用した著者は独自解釈で糞の様な文章を付け加えやがった。

斧やメイスはどうやって携帯する? ではほとんど手に持って運ぶとか書いてあるが、中世ヨーロッパの武術シリーズなどまともな西洋軍事文献を読めば騎士が腰のベルトに乱戦用のサブウェポンとして斧やメイスを携帯し、馬上では馬に装着していたことが丸わかりである。

ショートソードとグラディウスは歩兵のサブウェポンだ。

「ハァ?」

ショートソードは確かに中世ヨーロッパのサブウェポンだ。だがグラディウスはローマ重装歩兵のメインウェポンだよ。どう解釈したらそんな頓珍漢になるんだ「莫迦野郎」

最後に「斬馬刀」とかいう武器についてだ。「日本にはそんな武器は無いが中国にはあるぞ」とツッコミたい。

中国漢代において斬馬剣という長巻みたいな大剣兵が存在した。

だが、この著者は大太刀を適当に斬馬刀とごっちゃにして雑に語ってやがる。

こういうのがあるから大太刀や長巻が「戦国時代などの漫画で斬馬刀」などと呼ばれたりするのだ。「群青戦記など」

ツッコミ終わり。


軍事論文 第四話終了。次からはもう少し、軽めに引用できる本を軍事論文に選ぶかも。新規元社の他のシリーズとか。

第五話 武器と防具日本編

軍事論文第五話は新規元社の武器と防具日本編だ。古い本なので内容が怪しいところもあるがそこは仕方がない。初心者がまず手に取る本としては悪くないとは思う。

では行ってみよう。著者は戸田藤成。

古墳時代の主力武器は矛と剣と直刀と弓矢。うん、オーケーだ。
そして鉄鏃による一斉射撃が始まる。なるほどね。

奈良時代から鎌倉時代は騎射戦が主力。

奈良時代の場合は歩兵かそれとも騎兵が主力なのかはわからんが、平安時代以降は間違いないな。
武士階級が出現し、馬上から斬り下ろす日本刀が出現したとあるが日本刀の反りは馬上戦用と言うよりは近藤好和曰くただの斬撃力と打撃力の強化用だ。

南北朝時代になると徒歩の斬撃戦と槍と薙刀が多く用いられるとあるが、やはり説が古い。馬上太刀打ちと馬上薙刀と徒歩の弓矢戦が主だ。下馬戦もあるが。槍はあまり用いられていない。

戦国時代になると弓組や槍組などの足軽の集団戦が中心とあるが樋口隆晴氏曰く、武士の徒歩槍があくまでも主力だ。

日本において打撃武器は他の武器が発達しない時代では主力武器だが剣や矛など殺傷力の高い刃物が出現すると補助武器へと変わる。大体当たっているだろう。

だが、南北朝時代には金砕棒と鉞が重宝された。とはいっても実はこの時代の大太刀と大薙刀の流行は20数年間で終わっており、大薙刀は大太刀以上に使用例が少なく、金砕棒と鉞はもっと少なく、槍の使用例も少ない。

鉞と金砕棒と槍は大太刀と大薙刀以上に南北朝では使われていないのだ。

大太刀、大薙刀、鉞と金砕棒と槍の順番で使用率が低くなるので主力兵器は弓矢と太刀と薙刀だ。

日本安土桃山時代に大太刀が再び、流行したとこの本にはあるが真偽は定かではない。

あくまでも日本南北朝時代の主力武器は弓矢と通常の太刀と通常の薙刀だ。長巻がどの程度使われたかはわからないが、太平記には長巻の名前は載っていなかった。

室町時代以降は打撃武器は下火となる。戦闘がスピード化してくるからだ。

打撃武器の利点は重装甲の上からでも骨を砕けるところ。弱点はとにかく重い。

まずは棒。ただの棒だ。棒は武術の心得が無い者でも簡単に利用できるが、鎧武者相手には刀剣類と同じく鎧の急所を突く必要がある。

棒には槍折の名もあり、乱戦にならない限りは槍が折れてもそのまま棒として戦う方が有利なのだ。

南北朝時代に防備の軽装化で棒が主力武器として使われたとあるが、防備の軽装化については疑わしい。ならばなぜ大太刀や金砕棒までもが利用されたのだと言う疑問がある。

次は金砕棒。金砕棒には完全木製と木星に鉄を張り付けたモノと完全金属性があるが完全木製でも六角棒などと呼ばれるようにとにかく重いのが難点だ。

しかしながら重装甲相手には有効であり、太刀や槍よりも乱戦では威力を発揮した。

金砕棒の初登場は大太刀と同じく鎌倉時代後期だと考えられる。

戦闘の集団化とスピード化の中で金砕棒は姿を消した。

乳切木。日本のフットマンズフレイルだ。とはいっても日本の戦場ではわずかに殻竿による負傷が見られるが、この武具は江戸時代の個人戦用だ。

斧と鉞。斧と鉞は微妙に形状が違うが、鎌倉時代から盛んに使われ、南北朝時代には全盛期だ。金砕棒と同じく、城門破砕にも威力を発揮した。

話は変わるが、日本戦国時代でも少数の兵士が鉈と斧で甲冑を叩き割った。

だが、厳密には日本では中国や西洋の様に厳密な戦闘用の斧が作られておらず、あくまでも農具と工具からの発展とのことだ。

戦国時代には斧は小型化し、野陣の設営や防御柵の破壊用として使われた。ちなみに通常の打刀も防御柵の破壊用として使われたので要は日本刀は人斬り包丁であると同時に「鉈」なのだ。

掛矢。これはいわゆる木製ハンマーだ。西洋ではモールという同じようなモノが戦場利用された。

だが、日本におけるこれは対人用よりは建築用や土木用や破壊用具だ。玄翁も同じように利用された。

投擲武器だが、この本に捕捉させていただくと日本南北朝時代ではなく、日本戦国時代に手投げと投石紐でよく投石が有効利用された。

ただの投石は熟練度がいらないが、弓矢よりも飛距離が低い。

投石紐を使えば、飛距離が伸びて場合によれば弓矢を上回るし、投石は甲冑にも有効だが、投石紐だと熟練にある程度の時間がかかるというジレンマがある。

西洋や中近東では青銅器時代から17世紀まで投石紐が主力武器だったとあるが流石に17世紀に投石紐という説はどうなのだろうか。

メソポタミア、ペルシア、ギリシア、ローマでは投石兵の地位は弓兵と同じであり、ギリシアの投石紐兵はペルシア兵の2倍の飛距離を保っていたらしい。

投石杖は日本にもあるが戦場ではほとんど用いられなかった。

西欧では古代ギリシアローマ時代から中世まで攻城戦に良く使われた。

打根という手突き槍の様なモノもあるがこれも戦場では補助武具。

手突矢はもう少しサイズがデカく、太平記にこれで戦場で活躍した武将の記録が残っている。戦場の主力武器ではなく、江戸時代には護身用として利用された。

手裏剣は忍者が使用したが射程距離が短いのでこれは憶測だが毒を塗ったりしたのではないだろうか。

いよいよ長柄武器だ。戦場の主力兵器だ。

弥生時代後期には矛が使われていたが、青銅製から鉄製へと発展した。筆者は弥生時代は槍だと思っていたので再確認ができた。

平安鎌倉時代には薙刀が主力武器となり、戦国時代には槍が主力武器となる。

南北朝以後は薙鎌、熊手、袖絡など多種多様な長柄武器が使用されるがこれは樋口隆晴氏曰く、戦闘に参加する共同体が増えたからとのことだ。

足軽は長柄槍だけではなく、持槍部隊もいた。

武士にも個人単位で西洋のパイクの様な長槍を使った人がいたようだが個人の剛力ならば考えられる話ではある。

古代の矛は片手武器で盾と組み合わせるが、鉤矛の場合は両手武器となる。

南北朝時代には姿を消す。

手矛という武器は戦国時代にも使われた記録がある。

素槍はシンプルな持槍だ。両手で突き出すので矛よりも殺傷力が高く、日本戦国時代の主力武器だ。
第一に鎌槍や十文字槍に比べ、穂が軽く、第二に操作が簡単。第三に余計な鉤などがついていないので閉所でも使用できる場合があるのだ。

武士の表道具とされた「持槍」は「素槍」だ。

菊池槍は南北朝時代の穂先が短刀の槍だ。

威力を発揮したケースもあるがトーマス・コンランの説ではそこまでリーチは長くなく、斬撃力は太刀に劣ると図説戦国時代武器防具戦術百科に書いてある。
貧乏人の薙刀代わりだったとの事だ。

鎌槍は片鎌槍や十文字槍など複数の種類があるが、リーチは素槍より短くとも鎌を活かしたテクニカルな戦ができるので扱いこなせればタイマンでは有利である。しかし、扱いには技量を要する。

長柄槍は西洋のサリッサやパイクに匹敵する足軽の主力武器だが中国でも同じような長槍が使われたケースはある。ここら辺は武器と防具中国編にいくらかデータが載っていたはずだ。

主な用途は殴り倒す。突き刺すこともある。地面に固定して騎馬武者を撃退する。槍襖での前進といったところだ。
槍組足軽は集団行動なので勝手な個人行動を行うと斬首されたが、乱戦では打刀や脇差を抜くなどそうも言ってられないだろう。

だが、樋口隆晴氏の図解武器と甲冑曰く、あくまでも戦国時代は武士の持槍が主力武器だ。

鍵槍は鎌槍と似たようなモノだが、戦国時代後期から頻繁に使われ始め、関ヶ原、大阪冬の陣、夏の陣では戦場で使われた槍の8割から9割がこれだったという説もあるが本当ならば素槍が鍵槍に取って代わられたということであろう。

大身槍は要は大太刀バージョンの槍だ。槍の穂先が長く、大太刀や金砕棒などと同様に威力が高い。斬撃力も刺突力もあるが、とにかく重いので熟練者の武具だ。

管槍は管を使い、刺突力を極端に高めた槍だ。戦場での汎用性は素槍に劣るが個人の格闘用としては優れている。

弭槍は弓矢に取り付けた槍だがあくまでも護身用なので威力は低い。雑兵物語にはこれで敵を刺してから打刀か脇差を抜いて手足を切りつけろとある。漫画「センゴク」の最初のボスキャラ「山崎新平」は弭槍の使い手だが、あれはフィクションであり、弭槍に人間の首を刎ねるほどの威力は無い。

竹槍に関してだが、戦国時代までは農民も鉄砲やボロ刀など各自武具を所有していた。だが、江戸時代にはこれが彼等の武装のシンボルとなる。

薙刀は南北朝時代の戦場において太平記に強大な威力を示している。樋口隆晴氏は薙刀が南北朝最強の白兵武具と主張し、トーマス・コンラン氏は大太刀が南北朝最強の白兵武具と主張する。

平安鎌倉時代にも薙刀は強大な威力を発揮した。

長巻は大太刀の改良版だが、薙刀よりもリーチが短く、刃は細いが、刀身がデカいために通常の薙刀よりは剛力型の武具だ。故に薙刀よりは使いづらい。

戦国時代には長巻や大太刀を持った力士兵がいた。

長巻は薙刀や槍などの補助武具として使われたのだ。

熊手は平安時代から水上戦と攻城戦の補助武具に使われた。

薙鎌は源平合戦で登場し、陸戦でも水上戦でも補助兵器として利用された。

鎖鎌は非常に技巧的な武具で威力も間合いにも優れるが扱いが非常に難しい。

いよいよ直刀や日本刀など刀剣の章である。

弥生時代後半には鉄製の剣が普及したとあるのでやはり弥生時代から鉄の戦は行われていたようだ。

大いに鉄剣は威力を発揮したとの事だ。

古代の直刀は盾と組み合わせて奈良時代日本などでは直刀と盾の兵士がいたが、乱戦用だろう。

だが、武士も時折、手盾を片手に持ち、もう片方の手に太刀か薙刀を持ち、突撃することがあったのだ。

剣は弥生時代中期から古墳時代中期までが全盛期だが、その後は直刀に取って代わられる。剣もまた盾と組み合わせる武具だ。

直刀にはその装飾の種類で多くの分類があるが中でも飾り気の少ない黒作太刀は壬申の乱の騎兵隊の主力武器として活躍した。

蕨手刀は東北の一部地域の刀剣だ。

毛抜型太刀は日本刀の完成前夜とされている。

太刀は片手でも両手でも触れる最初期の日本刀であり、平安鎌倉時代はあくまでも補助兵器だが、源平合戦のころから頭角を現し、南北朝時代には薙刀と並ぶ主力武具となる。

南北朝時代は通常の太刀と薙刀も巨大化していたために実質は大太刀と大薙刀が主力武具と呼んでもそれはそれで間違いではないのかもしれない。

室町時代は通常サイズの太刀と薙刀が主力武具であり、馬上太刀打ち以外に下馬戦が増えた。

筆者は大昔に平家物語と太平記をパラ読みしたが、確かに大太刀は平家物語でも戦場で大いに活躍していた。確か平家物語は鎌倉時代の戦闘様式が反映されていると近藤好和が指摘していたのでそういうことなのかもしれない。

前述の通りにそこそこにでかい太刀と薙刀も大太刀と大薙刀も南北朝の20数年間で流行は終わるが安土桃山時代に大太刀が再び、流行したことを裏付けるような文献が笹間良彦の「イラストで時代考証2 日本軍装図鑑上」だ。

打刀。こちらはあくまでもサブウェポンだが、南北朝時代から弓兵の護身用などに用いられた。抜刀しやすいので敵の鎧の急所を狙いやすいのだ。

戦国時代には主に槍で戦をして最後の乱戦で決着をつけるのが打刀だが、槍や刀の前に鉄砲や弓矢だけで敵う軍が退却することもあっただろう。

戦国時代後期には特に鉄砲の火力増加によりその傾向は強まったのではないかと私は考えたが、その一方で戦国時代後期は刀傷と槍傷が増えてもいる。

脇差は乱戦でも組打ちでも閉所でも使えるサブウェポンだ。

短刀は組打ちに便利なサブウェポンだ。

今度は飛び道具の章だ。

まず丸木弓だが、完全な木製弓だ。これは武士時代以前の主力武具兵器だ。

奈良時代には弩。いわゆるクロスボウもよく利用されたが、騎射戦に向かないなどの理由で廃れた。

世界的な傾向として弓矢は短弓と長弓に大別され、長弓は東南アジアの密林地帯が主流。短弓は大陸の遊牧民族が主流だ。

合成弓は平安時代中期頃に登場するが大体は武士の登場と同じだろうか。

合成弓は平安鎌倉の騎射戦の主力武具である。

弓胎弓という弓矢は戦国時代末期の強力な弓矢である。

弩は射程と威力に優れるが、動く標的に対する命中率が低く、騎射戦に向かない。

それに平安時代の騎射戦は割と近距離から弓矢をぶち込んでいたので弩の威力もいらないということで廃れたのだ。

弾弓は石を飛ばす弓矢で暗殺武具として使われることがあった。

いよいよ鉄砲など火器だ。

鉄砲伝来はポルトガル人の他に倭寇だか誰かという説があったはずだ。

どこの国でもそうだが火器は大規模な兵力の運用に役立つ。扱いが簡単だからである。

種子島銃だがこれに対抗すべく作られたとされる当世具足は戦国時代後期のモノだ。一方で鉄砲は日本戦国時代の防備に軽装化を与えたという説もある。

信長の鉄砲三弾撃ちは前にも書いたが鈴木眞哉と藤本正行が否定して、平山優が再反論で肯定する形だったはずだ。

そもそもの話、武田勝頼側もそれなりの鉄砲を持っていたことと戦国時代における白兵突撃は他の国と同様に愚策ではないことを平山優は主張している。

うろ覚えだが、まず、平山優曰く、鉄砲などの遠距離戦のあとに槍戦が行われ、側面から刀で斬りつけるのだとか。

戦国時代後期になると槍足軽よりも鉄砲足軽の方が多くなり、敵軍の拘束の役割が移行したことがうかがえる。

そしてやはりこの本によれば鉄砲によりそれに対応した当世具足が登場する一方で鉄砲足軽などは軽装化した様だ。

連発式火縄銃。

これは江戸時代の試作品であり、幕末に利用されなかったことはそこまで有効ではないのだろう。

馬上筒は大阪の陣でわずかに利用された西洋のピストルにあたるものだ。

抱え大筒は鉄球を発射するので破壊力は高いが、兵士に対する殺傷力は通常の火縄銃とあまり変わらない。

だが、棒火矢と言う焼夷弾や千人殺しという散弾のバリエーションもある。

石火矢は西洋から輸入した青銅の大砲だが当時は野戦が多く、この火砲は機動性に欠けており、破壊力はあっても殺傷効率は火縄銃に劣り、あまり広まらなかった。

棒火矢という焼夷弾は不発に終わることも多く、信頼性は低かった。

火矢を用いた記録自体は日本書紀にまでさかのぼることができる。

焙烙火矢は安土桃山時代の手榴弾だ。

防具は実用的ならばそれで良いが、西欧や中国よりも日本では美術的な価値が求められた。そして中世武士時代以降はほとんど手盾が用いられなくなった。

弥生時代後期には革製や麻製や藤つるや鉄製の甲冑が登場する。

古墳時代の甲冑はほとんどが鉄製だ。

奈良時代には綿甲と革甲が流行する。

短甲は古代日本の歩兵用の胴鎧だ。古代ギリシアやローマのモノと似ている。トーマス・コンランは武士の甲冑についてだが「手足をあまり守れなかった」と書いている。

桂甲は古代日本の騎兵鎧。短甲よりも防御性能は高い。

大鎧は平安末期から鎌倉時代にかけて全盛期を迎える。

胴丸と腹巻は中世の軽装歩兵鎧だが近藤好和が時代による名将の逆転が起きていることを指摘している。

そして南北朝時代には太刀打物騎兵などの主力武具として小具足と共に重装化して用いられる。太刀や薙刀や大太刀などを使った打物戦に向く機動性と打物に対する防御力の両立だ。

腹当は更に軽量な歩兵鎧。戦国時代の話だが大半の足軽はろくな鎧をつけていなかったと書いてある本がある。

当世具足は戦国時代の一般的な鎧の様に思われるが、実際は戦国時代後期の鎧だ。

南北朝と戦国の間の室町時代に鎧の量産化による刺突に対する防御性能の劣等があり、それが槍の普及を促したという説を樋口隆晴氏は提供している。

御貸具足というのは戦国時代の足軽向けの量産甲冑だがロクな奴がなかったらしい。

御貸刀は十分に人を殺せるがボロ刀。御貸槍や御貸弓などのシリーズも当然あり、斧や鉈や鳶口や鎌などを持たせられる場合も。

そして御貸刀が足りない時は手木という適当な木の棒を支給される場合もあった。

ちなみに御貸刀は鈍器としても利用される。

日本の兜は戦場で目立つことを重視した武士の兜が有名だ。後で報酬をもらう際に目立ちたかったのだろう。これは南北朝時代に大太刀や鉞などで派手に敵を叩き割ったり、戦国時代に派手に大身槍で突き刺すのと同じニュアンスを含むのではないだろうか。

手盾は平安時代以降はほとんど姿を消す。

馬鎧は馬の機動力を鈍らせるので儀礼的な意味合いも強かった。

残りの章は忍者道具と江戸時代の捕者道具なので割愛する。

軍事論文第五話 終わり。

第六話 武器と防具中国編

軍事論文第六話は武器と防具中国編 篠田耕一著の考察だが、不安点がある。

それは一通り読んだ結果、日本語文字入力で漢字変換しにくい武具が大量にあると言うことだ。

なのでかなりカタカナやぼかした表現を使うかもしれない。

では一応、書いてみよう。

刀や槍の様な火薬を使わない兵器は冷兵器。火器は無論、火器と呼ばれる。

中国には武具を間合いで分類する方法があり、遠距離武具ほど有効だからだ。

長柄武器は戦場の主力なので格闘兵器。刀や剣などの短兵器は乱戦用の護身用の防御用なので護身兵器と呼ばれる。

中国の軍隊は大規模であり、隋では113万もの軍隊が送られることもあった。ヨーロッパではこれほどの大軍はナポレオン戦争までは見られなかった。

中国で本格的な鉄の生産が始まったのは戦国時代の事だ。

漢帝国以降に本格的に鉄製武具が普及した。

中国で製鉄技術が世界で最も早く進歩したのは古くから進歩できるだけの第一は炉、第二はふいごの発明、第三は木炭に変わって石炭の使用という技術的進歩があったからだ。

鉄と並んで中国の兵器生産に大きく貢献したのは竹だ。

竹は矢と弓と弩の素材としてよく使われただけではなく、長柄武器の柄や初期の火器の発明に大きく貢献した。

中国でも刀剣類はバリエーションが多いが、重装甲の敵に有効ではないこととリーチが短いことから軍事での地位は低い。

戦場では刀剣類は攻撃よりも乱戦用の護身兵器として使われるのが普通だった。

例外は森林の中、市街地、軍船の上での白兵戦での閉所での戦闘と盾と組み合わせた場合だ。

盾と組み合わせた刀剣類は長柄武器に対抗する有力手段だった。

春秋時代から漢帝国にかけて剣がよく利用されたが、漢帝国では騎兵戦により向く刀が剣に取って代わった。

唐帝国と特に宋帝国では長柄刀が重騎兵に対抗する為に大流行した。ちなみに宋帝国では大剣も地味に使われている。モンゴル重騎兵が日本南北朝時代の大太刀の様な武具を使用したという説もある。

宋帝国では刀剣類の価値は重装甲により、低いが、明帝国以後は火器による軽装化により、価値が高まった。特に倭寇から伝わった日本刀すなわち倭刀が大流行した。

長柄刀の起源は前漢の斬馬剣(長巻みたいな大剣)だ。重装甲兵への対抗策だ。

唐帝国で発展し、宋帝国では長柄刀は重装甲兵に対抗する為に大流行する。

特に宋帝国では大斧と共に主力兵器となった。

明帝国以後も長柄刀は使われるが火器の流行により、重量のある長柄刀は戦術的価値が落ちていく。

朴刀は中国の大剣だ。長巻にも相当する。宋帝国から清帝国末期までよく使われた。

唐帝国ではハク刀という長柄刀が使われ、宋帝国ではトウ刀というモノも使われ、明帝国で二郎刀という長柄刀が使われた。

剣は両刃の刀剣類だ。

盾と組み合わせる以外にも鉤と組み合わせて敵の槍などの長柄武器を封じ込めることもあった。

中国ではほとんどの兵器がただの道具扱いだが剣と火砲だけが例外で銘柄が付けられた。

チャリオット兵には護身兵器、歩兵には重要兵器。東南部の水軍が多い地方ではより重要な兵器それが剣だ。

戦国時代には鉄製の剣が製造されるようになり、双手剣という大剣も使われた。

漢帝国で剣は騎兵戦に向かないために廃れるが、モンゴル族は乱戦用のサブウェポンとして刀と斧とメイスと棍棒とウォーピックと共に何故か、剣をよく利用した。

直刀は漢帝国から流行する。刀は剣よりも折れにくく、製造コストも低いので歩兵も騎兵も乱戦用に刀をよく使うようになる。

直刀が実戦に使用されたのは南宋が最後だ。恐らくはより分厚い柳葉刀の方が当時の重装甲には向いていたからであろう。

南宋の後は柳葉刀が短兵器の主流となる。

刀のバリエーションは非常に多いが、曲刀は古くから中国の南方で使われていた。山岳地帯戦と船戦が多く、接近戦でも工具としても重要だったのだ。

唐で曲刀が流行するようになるが、兵士がやや重装化してきたことと関係があるのかもしれない。隋帝国のころから少数の打撃武器が使用されている。唐帝国でも少数の打撃武器が使用されている。

宋帝国で曲刀が大流行したのは重装甲に対抗する為であろう。恐らくは一般的な柳葉刀だと思われる。

倭刀がいつ苗刀になったのかはこの本には書いていない。

長い倭刀は長柄武器と互角に戦うことができたので大剣は長柄武器に対する有効策らしい。日本でも中国でも西洋でも。

それは倭寇の戦闘から明らかだ。

倭寇は大太刀や長巻で明軍の長柄武器の柄を斬り落として火縄銃以上に恐れられたために倭刀が輸入され、薙刀タイプはどこかの護衛兵が使い、大太刀タイプは鳥銃兵の護身用かつ騎兵の軍馬を薙ぎ払う用に、中型の倭刀は盾と投げ槍と組み合わせ、短刀タイプの用途は不明だが、倭刀は北方のモンゴル族との戦争に有効利用された。

明軍の倭寇の大太刀や長巻に対する対抗策は穂先が複雑に絡んだ長柄武器の使用と片手剣と盾と投げ槍の兵士と火器の兵士など複数の兵科を組み合わせる陣形だ。

ちなみに倭寇は槍や薙刀や通常の刀も使ったが、火縄銃もかなり恐れられた。

中国においても打撃武器はやはり重いと言う欠点があり、重装甲兵に有効で耐久性が高く、生産コストも低いという長所がある。護身用の兵器の世界でも刀剣類の次に評価が高い。頑丈だからだ。長柄武器もあるが、重いので短兵器が多い。その為に刀剣類よりは実用性が高いが、長柄武器ほどではなく、戦場では割と脇役で主役としては短命だ。

古代において金属が武具に使われるようになると打撃武器は間合いと取り回しが長柄武器と刀剣類に劣る為に姿を消す。

魏晋南北朝時代からわずかに使われるようになり、宋帝国から元帝国において鎧の重装化でよく使われた。

明帝国においては火器による軽装化で打撃武器の地位は低くなる。

中国ではただの棒を棍と呼ぶ。兵器として高く評価されており、宋帝国で兵器として様々な強化棍棒が流行する。

鉤棒という強化棍棒も宋帝国に流行した。、

中国では強化棍棒のことを棒と呼ぶ様だ。

杵棒も宋帝国でよく利用された。

錘は中国のメイスだが筆者の独自研究では何故か、ヨーロッパの様に盾と併用された記録が無い。中国で盾と併用されたのは槍などの長柄武器と大斧と刀剣類だ。

錘にはヨーロッパと同じく、長柄武器タイプと短兵器タイプがある。

錘は宋帝国と元帝国でよく利用されたが清帝国でもなぜか、二刀流の双錘が軍隊の正式兵器となっている。

狼牙棒は西洋のモーニングスターに相当する武具であり、春秋戦国時代にシュというモーニングスターが使用されていた。狼牙棒が本格的に登場したのはやはり宋帝国だ。

狼牙棒も長柄武器タイプと短兵器タイプがあり、重騎兵が好んで使った。だが、宋帝国は騎兵が弱いことでも有名である。

鉄鞭や鉄カンは中国の短兵器の打撃武器だ。将校が個人戦用に持つ武具であり、軍全体の主力兵器ではない。

二刀流で使うこともある武具だが、唐帝国で登場し、騎兵が愛用した。

中国で多節棍が初めて使われたのは春秋戦国時代であり、守城戦用に大斧と共に使用されていた。

多節鞭は多節棍よりも攻撃がかわしにくく、暗器としても使えるが、打撃力は落ちている。

大斧は中国における最強の斧だ。

主に狙うのは軍馬の足か人間の胸である。

南宋の初期に大斧や長柄刀の様な斬撃と打撃のダメージを同時に与えられる重装歩兵が出現し、どうしても歯が立たなかった金の騎兵隊を強弩や長槍と合わせて打ち破っている。

ちなみに宋帝国の軍隊は弱いことで定評があるとこの本には書いてある。

大斧や鉞も16世紀から17世紀にかけて明帝国の火器による軽装化で利点を失って廃れた。

板斧は短兵器の斧であり二刀流で使う場合もある。ちなみに刀剣類も二刀流で使う場合がある。

斧はやはり宋帝国で兵器として復活した。

拐は中国のトンファーだ。拐は明帝国以後に武具として使われた。

明帝国は初期には重装化したために長柄武器と打撃武器も多様化している。

清帝国は長柄武器も刀剣類も打撃武器も多様化するが、19世紀には下火になる。

鉤は前漢に登場し、刀や剣と組み合わせたり、二刀流で使い、槍などの長柄武器を封じ込めたり、坑道内の白兵戦用の武具として使われた。

草鎌は農具の鎌を武具に転用したもので槍鎌は長柄武器タイプだ。鎌は主に明帝国よりも後に武具として利用され、清帝国では軍隊の正式装備だが既に火器が主力装備になっていた。

長柄武器は中国でも6mなどに及ぶものが登場しており、長槍パイクはどこでも有効らしい。

チャリオット戦では戈が主力だが、それが廃れると戟と矛が主力になる。

戟が唐代に廃れた理由は重装甲に効果が中途半端なのと多機能な為に製造コストがやや高いからだ。

唐帝国は軽槍騎兵の時代だ。隋帝国は長矛重騎兵の時代だ。

明帝国では槍に加えて、サン、ハ、トウ、サ、倭寇対策のロウセンという防御力の高い新式の長柄武器がよく利用された。

戈は日本南北朝時代で鉞のように利用された説を近藤好和が提唱している。貫通力は高いだろう。

矛は槍の先祖だ。チャリオット兵も歩兵も騎兵もよく利用した。

ヒは中国戦国時代の穂先が剣の矛の様な幻の長柄武器だ。

槍は三国時代に諸葛亮が初めて発明したと言われる。彼はその他にも連弩の発明や名刀の大量製造などを行っており、一般的な名将よりはハードウェアの将軍であったという説を目にしたことがある。

槍は隋帝国から唐帝国において兵器の王となる。中国においては刀と剣と長柄刀と棍にも「百兵のナントカ」みたいな称号が槍と同様に付けられており、兵器の基礎扱いだ。

これ以降、槍は19世紀に火器が冷兵器を駆逐するまで兵器の王として君臨するのだ。

サクとは長矛だ。

主に騎兵用であり、魏晋南北朝時代に初めて登場する。だが、歩兵に長槍パイクの様に使わせることもあった。

中国の長槍パイク方陣が有名でないのは気になるところではある。中国軍事分野が日本史と世界史に比べ、人気が無いからだけかもしれないが。

鉤鎌槍は宋帝国において全盛期を迎え、攻城戦や守城戦によく利用された。

戟はチャリオット兵も歩兵も騎兵も良く使い、長柄武器タイプと短兵器タイプがある。短兵器タイプは二刀流もしくは盾と組み合わせるのだ。多機能な武具である。そのことを考えると西洋の斧槍ハルバードもやはり東欧の戦斧バルディッシュに比べると単純な破壊力では劣っているのだろう。

戟は戦国時代以降に大流行するが、多機能がたたり、それぞれの部位の攻撃力が中途半端になり、製造コストもやや高いので唐帝国以降に槍にその座を奪われる。

方天戟という特殊な戟は宋帝国において利用された。宋帝国は日本史における南北朝時代の様なモノかもしれない。大太刀や大薙刀や大鉞や金砕棒や長巻や大型化太刀や大型化薙刀の重火力武具の時代ということだ。

サンは明帝国の頃から使われたショベル状の長柄武器だが中国の武具は時折、重量が48kgなどありえない重量に誇張されていることがある。

ハは農具から発展した長柄武器で明帝国で使われた。

トウは日本の十文字槍の様な長柄武器だ。明帝国でセキケイコウが有効活用した。

叉はフォーク状の長柄武器であり明帝国でよく利用された。

狼筅は枝を残した竹を武器として使った長柄武器であり、セキケイコウの倭寇の大太刀や長巻に対する対抗策だ。

弓矢に対する防御にも威力を発揮する。

明軍はこれを広く利用した。

筅槍は竹を柄に使い、枝を4,5本を柄に残した槍だ。

穂先が斬り落とされにくく、高い防御力と拘束力を持つ。

狼筅は防御力が非常に高いが、重くて扱いにくく。殺傷力は低かった。

そこで枝を少なくして操作性と攻撃力を高めたのが筅槍だが、その代わりに防御力が低下して弓矢を防ぐことはできなくなっている。これは明末期から清初期に出現した。

ソウは金属の爪をつけたような長柄武器だ。この手の武具は唐帝国から始まり、他にも銅拳やコンテンセツなどバリエーションがある。

射撃武器は火器以前は最も重視された兵器だ。

弓矢や弩の隊列VS騎兵隊は今日では対戦車ミサイルVS戦車のテーマとなっており、そういえば筆者が愛する騎兵隊は戦車に取って代わったのだなと再認識した。

弓矢は単純弓、強化弓、合成弓に分けられるが、中国では主に合成弓が使われた。

騎兵は短弓。歩兵は大型弓を使うことが多い。

弩とは異なり弓矢は熟練度を大きく必要とする。

だが、弩や火器の連射力の低さの補助としても使われた。

チャリオット時代から弓矢はよく使われ、北方遊牧民族の騎射技術はいつの時代も中国にとっての脅威だ。

唐の軍隊では弩の装備率は2割だが弓矢は全軍装備だ。

モンゴル騎兵は大小の矢を使い分け、大型矢は殺戮用、小型矢は攪乱用だ。彼等が剣やメイスなどを使うのは弓矢を射尽くした後だ。

明代に火器、特に鳥銃やロケット矢の発明により弩は戦場から姿を消すが、弓矢は清帝国末期まで戦場で使われた。

弩は既に戦国時代には使われていた。弩は北方や西方の遊牧民族の騎射に対する有力な対抗兵器だ。騎射よりも有効射程が長いのだ。日本では弩は古代以外はあまり使われていないが。ヨーロッパでは十字軍以降に普及しており、マケドニアとローマでも大型弩が見られる。

弩は魏晋南北朝時代における重騎兵の出現に大きく影響を促した。

宋帝国が最も弩に力を入れた。宋帝国の敵軍は重騎兵が主力なので強弩が求められたのだ。

弩の欠点は連射力の低さだ。なので長槍と強弓と強弩と非常に強力な弩と騎兵隊を組み合わせた方陣が用いられたのだ。

個人用の連弩は三国時代に本格的に発明されたが、威力が低いので毒を塗ることが推奨された。

一応、それ以前にも戦国時代や前漢でも有効利用されている。

床子弩は西洋のバリスタに相当する大型弩だ。全盛期は宋帝国である。南宋の末期にモンゴル人が改良した投石機と火器で大型弩を駆逐した。

中国宋代においては個人用の極めて強力な弩が発明された。

弾弓は日本でも一部、使用された弾丸を発射する弓矢や弩の事だ。暗器として使われた。

投げ槍は北宋、モンゴル族、明帝国と清帝国で使用された。

投石機は機動力が無いので攻城戦と守城戦用だ。

後漢末には使用されており、ローマ軍の様な砲兵隊とでも言えるのだろうか。

隋や唐では様々な投石機が発明され、宋帝国でもだ。モンゴル族はイスラム教徒からおもりを使った投石機を輸入し、攻城戦を苦にしなかった。その他にもモンゴル族は各地から鎖帷子や刀剣類などを輸入している。

元帝国のころに火砲が出現し、投石機はやがて姿を消す。もっとも明帝国で火砲に交じって投石機が使用されたケースもある。投石機は天候に関係なく使用できたからだ。

旋風砲は向きを自在に変えられる投石機だ。

襄陽砲はおもりを使って発射する投石機だ。

このおもりを使った投石機が宋帝国を滅亡させた。

中国の攻城戦のイラストは長柄武器を持った歩兵が進撃し、刀と盾の兵士が城門に張り付き、火災塗れの様子だ。弓矢も無論、飛び交っている。

中国では攻城戦が無数に行われた。国民党と共産党の内戦でも行われた。

巣車はゴンドラ。テンゴウ車は盾を持った車。雲梯ははしご付き車。フンオン車は屋根付きの防御車。衝車は装甲攻城塔。サイモン刀車は刀を植え付けた車。攻城槍と守城槍も使われ、狼牙ハクは棘付きの巨大物質を叩き落す。マンは多人数を護るための大型の盾。シツレイはまきびし。拒馬槍は騎兵を防ぐための障害物の槍。カンバコウは落とし穴。ヤフクコウカは設置型の罠の弩。

火器だが1燃焼盛火器。火炎放射器系統。2爆発性火器。手榴弾系統。3投射性火器。火砲や銃の様に射出するものの三系統に分けられる。

火器はすぐに槍や刀などの冷兵器に取って代わったわけではなく、19世紀まで冷兵器は活用された。

恐ろしいことに第二次世界大戦でも騎兵突撃の例がある。

火薬がいつ発明されたかは諸説ある。

五代十国時代には火器が利用され、最初の火器は槍を使った火炎放射器だ。

宋帝国では三系統の火器の全てが登場している。世界で初めて弾丸を発射する突火槍も発明されている。

元帝国も火器を有効利用した。

明帝国は軍の主要装備が冷兵器から火器に変わる過渡期だ。明帝国の中期には6割の兵士が火器と共に刀や棍棒などの短兵器を持った。

中でも銃や火砲が主力となっていく。

だが、火器が主力の明帝国と騎兵が主力のオイラート軍はどちらも勝敗を喫している。

1411年だが明帝国はベトナム遠征軍において東南アジアが自分たちよりも優れた火器を持っていることを発見した。

日本は戦国時代以前は火器のレベルは極めて低かった。

1520年にポルトガル人によってフランキという火砲が伝来。

中国において16世紀に鳥銃という火縄銃が主力兵器となる。倭寇から伝えられたのだ。倭刀と同じく導入されたと考えられる。

最後はオランダ人から紅夷砲という高い威力を持つ火砲が伝えられたのだ。

猛火油キは五代十国時代から使われた火炎放射器。

火槍は南宋からの槍を使った火炎放射器。

震天雷は手榴弾。金軍や元軍が利用しているが、モンゴル軍を跡形もなく爆破したという記録がある一方、元寇では殺傷力がさほどではないなど威力にグラデーションがある可能性がある。
明帝国でもよく使われた。

毒薬煙毬は毒ガス弾だ。

万人敵は明末の焼夷弾である。地雷も明帝国で使用された。

水雷は水中の罠の火器だ。明帝国で使用されたが信頼性が低かった。

元帝国の青銅火砲は世界で最も古い火砲であり、野戦ではなく攻城戦でおもり式投石機と併用された。

明帝国の火砲は初期から非常に重視され、中国における剣と同様に銘柄が付けられた。その他の兵器はどれもただの道具だ。

フランキはヨーロッパから伝来した火砲であり、連射力に優れていた。

紅夷砲は明末から清の火砲であり、射程と威力と砲身の寿命がそれまでの火砲よりも優れていた。ヨーロッパから輸入されたものと中国で独自製造されたものがある。

虎ソン砲は明帝国のセキケイコウが倭寇対策に鳥銃への対抗策として散弾を撃ち出した機動性の高い火砲だ。

突火槍は宋帝国の火炎と弾丸を発射する火器だ。

火銃は年代が明らかなモノとしては最も世界で古い銃だ。
手銃ハンドガンの一種である。元帝国の銃だ。

神鎗は鳥銃以前の明帝国の火器で猛毒を浸した散弾を20発ほど発射した。

十眼銃は明帝国の10発連続発射の銃だ。

五雷神機は明帝国の多連装銃器だ。日本でも江戸時代に似たようなモノが試作されている。

拐子銃は明帝国の連発銃。

鳥銃はヨーロッパから伝来したとか倭寇から伝来したとかの説がある火縄銃だ。
命中率が高いが連射力は低い。なので弓矢が補助として使われた。

大型の鳥銃はタイ槍と呼ばれ、日清戦争まで使用された。

火箭は13世紀ころに発明されたロケット矢だ。

一窩八箭は32発の火箭を同時発射する為の装置だ。明帝国の兵器である。

神火飛鴉は鳥の張りぼてに火薬と火箭を詰めた弾道ミサイル。火龍出水は木製の龍の張りぼてに火箭を詰めた多段式ロケットだ。どちらも明帝国の兵器だ。

そして暗器だ。ありとあらゆるモノが暗器となり、熟練すれば槍や刀を打ち破ることもできる。

表面上の威力は槍や刀などに劣っても奇襲効果があるのが利点だ。

閉所や平時では長柄武器どころか刀剣類も使用に邪魔な時があるので戦場とはグラデーションなのだ。故に暗器の需要がある。

ヒ首は西洋のダガーだ。短剣類だ。片手持ちや二刀流や投げたり、毒を塗ったりする。

飛蝗石は投石の事だが中国では戦場で投石が利用されたという話をあまり聞かない。弓矢と弩が重視されたからだろうか?

圏はリング状の刃だ。

ガビシは短剣の一種とも言える。

ダッシュヒョウは投げナイフだ。

抽箭はバネを使って短い矢を発射する暗器だ。

柳葉飛刀も投げナイフ。

飛叉は投げる為の小型の叉。

飛ニョウはシンバルを刃として投擲する暗器。

擲箭は投げ矢。

金銭ヒョウは硬貨を投擲武器運用。

鉄カンランはオリーブの実の形をした護身用の投擲暗器。

鉄笛は鉄の笛で殴る。

幡は鳥の形をした接近戦の攻撃力も防御力も高い暗器。

鉄尺は長い鉄製物差で殴る。

飛架叉は短剣の様な三又の護身用武器。

ヒョウ刀も投げナイフ。

天コウヘキ水扇は護身用の扇。

中国における防具の主流はラメラーアーマーだ。中国ではプレートアーマーは登場していない。宋から16世紀明帝国は20kg以上もあるラメラーアーマーが使われた。

火器が主な兵器となった明末清初期の16から17世紀にはラメラーアーマーよりも綿甲のコートオブプレーツと、ブリガンダインで軽装化したのだ。

大雑把に鎧の変遷を見ると戦国時代から三国時代までは割と軽装。魏晋南北朝時代から重装化し始め、唐帝国や宋帝国が最も重装化した鎧が見られる。明帝国以降は軽装化する傾向にある。

皮甲。革製の甲冑だ。17世紀まで鉄製の鎧の代わりに安価な鎧として使われた。戦場における兵士の重装化はグラデーションがある。

秦帝国の鎧は主に胴体を防御している。

筒袖鎧は三国時代から魏晋南北朝時代の鎧で手足は防御していないが防御性能が高く、弩でも中々貫通できなかった。

リョウトウ甲は魏晋南北朝時代の鎧で重騎兵はこれで重装甲して長矛と弓矢と刀を持った。だが手足は防御していない。

明光鎧は魏晋南北朝時代から唐帝国に流行した鎧で歩兵にも騎兵にも広く使われ、腕と足のカバー範囲が広がった重装鎧だ。

歩人甲は宋帝国の鎧でイラストを見ると意外と手足は抜けているが説明文にはほぼ全身を覆った中国で最も頑丈な鎧の一つとある。

綿甲は綿や絹の中に鉄のメイルを仕込んだほぼ全身を覆う鎧で冷兵器にも火器にも高い防御力を誇る明代と清代の鎧だ。

鎖子甲は鎖帷子で手足の防御はザルの様だ。明末の17世紀までよく使われたが、ラメラーアーマーより防御力は低い。

藤甲は藤を編んだ明帝国の鎧で軽く、防御範囲も狭いが冷兵器には十分な防御力があり、盾と組み合わせられた。だが、火器には弱く、寒冷地にも向かない。

紙甲は唐帝国から明末の17世紀まで使われた鎧で紙と布の鎧だ。火器には防御効果が高いが、刀や槍など冷兵器に対する防御力は低い。

盾は火器にも防御効果があり、個人用と地面に設置する盾がある。長く広く使われたと考えられる。

軽車とはチャリオットだ。殷代から漢帝国初期までは軍隊の主力だ。紀元前16世紀から紀元前3世紀までの話である。

ヘンソウ車と正ソウ車は明帝国の野戦用の防御用の車だ。

馬甲は馬鎧であり、魏晋南北朝時代以降に全盛期を迎え、明帝国の火器の普及で廃れる。日本よりも馬鎧の使用率が高いのが中国の様だ。

軍事論文 第六話 終わり。次は戦闘技術の歴史1古代編でも題材に選ぼうかどうしようか?

第七話 戦闘技術の歴史1古代編

戦闘技術の歴史1古代編の論文を書かせていただこう。著者はS・アングリムやP・G・ジェスティスなど複数人いる。
戦争は万物の父であり、万物の王である。
古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスが書き残した有名な格言だ。
古代中近東と地中海世界の人々には戦争は生活の一部であった。
戦の勝利は上流階級に富をもたらした。
古典期のギリシアや共和制ローマでは戦争は義務だけではなく。市民としての特権とアイデンティティの象徴でもあった。
ローマの支配による平和「パクス・ロマーナ」も要は「ローマによる支配」だ。戦争が絶えたわけではない。
ポリュビオスは戦場の経験のない者にはまともな歴史は書けないと語るが、その理屈だと現代日本では誰一人としてまともな歴史が書けないことになる。
19世紀末まで戦争は歴史研究の中心だったが、西洋などでも20世紀に入るとその軍事史研究は学問のわき役となった。
第一章は歩兵の役割
第二章は騎兵戦車など
第三章は指揮と統率(以前読んだ際はここがよくわからなかった)
第四章は攻囲戦
第五章は海戦。
で終わりである。

第一章だが古代から19世紀まで歩兵軍団は大半は二種類に分けられた。
1急襲部隊。白兵武具や射程の短い火器など。
2少し射程の長い射撃武器部隊。
この時代に最強とされたギリシアとローマの軍団は1の急襲部隊に重点を置いていた。
ファランクスは前述の通りに槍襖をシュメールでギリシアより先に運用されていた。
武器のほとんどは青銅製の槍と斧と短剣であり、質は悪かった。
古代エジプトの様々な武器はナイフや石と木で作ったメイスや剣や槍などだが刃は全てが銅製か青銅製である。
シュメールの槍襖ファランクスの他にも槍と斧を持った軽装部隊が側面を担当した。
古代エジプトはヒクソスの侵入を受けてから機動力の高いチャリオットと合成弓と質の高い青銅剣や青銅斧などの三つの軍事進化を遂げた。
古代エジプト歩兵は弓兵とナフトゥ・アア(急襲部隊)に分けられ、ナフトゥ・アアは穂先の幅が広い槍、青銅の短い斧、木製の盾などで武装した。
ズールー族のイクルアという柄が短く刃の大きい槍に似た武具を身に着ける者もいた。
カデシュの戦いのころになるとナフトゥ・アアは布製の鎧を身に着けることが普通になった。
青銅製の斧に変わってコピシュという鎌剣が登場したが、一部では鎚斧(メイスアックス)も用いられた。
歩兵の戦術は弓兵が一斉射撃し、ナフトゥ・アアが投げ槍を投擲して、隊列を乱した敵にコピシュとメイスアックスで接近戦を挑んだ。
エジプトのシェルデン人など海の民の傭兵は歴史上、最初の剣と盾による戦いを専門とした部族だが槍と盾の兵士もいたと考えられる。
海の民の戦いは一騎打ちが重要な役割を果たした。
アッシリア人はヒッタイト人以上に鉄を広く利用した歴史上、初の民族である。
鉄製武具は青銅製よりも優れていた上に大量生産が可能であった。
領土拡大期のアッシリア軍は大規模なチャリオット兵と騎兵隊を備えていたが、攻撃の要は歩兵隊であった。
槍兵の盾の背後から弓兵が援護したのだ。
バビロニア支配下の後の復活したアッシリアだが、弓兵と盾兵が共に行動をしている。
オーバーハンドで使う突き槍と丈の短い鎖帷子もあった。
投石兵もおり、それぞれの兵科が共同して戦っていた。
アケメネス朝ペルシアだが、軍勢が240万だの24万5000人だのかなり諸説あるが、その大規模軍勢はかなり多くが能力の低い、あまり役に立たない兵士であった。
その為、小規模ながらも練度の高いギリシアやマケドニアの軍勢に敗北を喫した。
歩兵の最前列にはスパラバラという中世のパビスに似た大盾兵がいた。
その背後から弓矢を射かけたわけだ。
このスパラバラを持った隊長は後続の弓兵を護るために2mの槍を持っていた。
また、後のペルシア軍は全軍の歩兵隊がウォーピックを装備していたという説もある。
後続の弓兵たちはファルシオンで応戦したが、ギリシアの槍には敵わずマラトンの戦いなどで敗走した。
合成弓を使う部隊やギリシア兵とあまり変わらないリュディア兵などもいた。トラキア人傭兵もいた。トラキア人は投げ槍と鎌状両手剣ロムパイアと盾で武装したと考えられる。
その後、ペルシア軍は重装歩兵不足を補うためにクルド人やミュシア人を雇い、ギリシア人も雇い、ファランクス部隊の他にもペルタスタイも組織した。
カルダカとかカルダケスとか呼ばれる傭兵部隊もおり、投げ槍と弓矢と青銅製の戦斧で武装したと考えられる。
親衛隊は不死隊と呼ばれ、2mの槍にリンゴ型のおもりをつけ、弓兵もいたが、鎧は青銅の鋲で補強した薄い板状の皮であり、ギリシア兵よりも軽装部隊であった。
古典期ギリシアの軍隊は規模が小さく、戦術も未熟だ。
にもかかわらずアケメネス朝ペルシアに圧倒的な勝利をファランクスで以て収めたのは兵士の高い士気が要因である。
ミュケナイ文明の頃のギリシア人はチャリオットの上から投げ槍を投擲して別の槍と長い剣で戦う戦士文化だったが、古典期には兵士文化となる。
ギリシアのポリスという共同体では政治参加が義務付けられた。
スパルタではギリシアでも唯一の厳しい軍事訓練が課された。
スパルタどころか民主的なアテネでさえ、17歳から59歳の男子市民は必ず兵役につかされた。
したがってギリシアファランクスとは召集兵にはありえない愛国心と士気があった。
市民の平等主義というわけだ。
ギリシア重装歩兵の装備はホプロンと言う主に青銅製の円盾だ。
青銅製のすねあてや胴鎧も大量にあるが、胴鎧はきわめて高価なので一部の兵士が身に着けただけだ。
主な武具は1.5mから2.5mのドリュという鉄製の槍でそこまで長さがペルシア兵と変わらないことがわかる。
サブウェポンはコピスと言うククリ刀に似た曲刀とクシポスという木の葉型の直剣で乱戦用だ。
サブウェポンの刀剣類は追撃戦と退却戦でも使われた。
ファランクスはホプロンの形状と隊列からして右半身の側面が弱点であった。
鍛え抜かれたスパルタ軍もこの弱点には怯えた。
ファランクスには常に正面攻撃力のみの狙いがあったわけではなく、スパルタファランクスなら意表を突いた急襲攻撃、すなわち、どの方向にもファランクスを素早く向けなおすことができた。
テルモピュライの戦でもこの戦術を運用した。
クナクサの戦いではスパルタファランクスがペルシア軍の左側面に攻め込むと同時に自身の隊列に隙間を作って鎌チャリオットを回避した。
更にスパルタ人は戦場から4.8kmまで敵を追跡したのち、素早く戦場に戻り、敵軍の騎兵部隊を撃退した。
すなわち、ギリシアファランクスとはローマンレギオンほどではないかもしれないが攻撃力だけではなく、柔軟性と機動力にも富んでいた場合があったかもしれないのだ。
だが、アテネなど他のファランクスがどれほどの機動力を持っていたかは不明である。
それでもファランクスによる一般的な戦法は敵との単純衝突であった。
スパルタだけでなく各国のギリシア軍隊が軍歌を口ずさみ、士気を上げた。
テーバイ軍のファランクスは深さが50列と極めて重厚であったためにスパルタファランクスでも踏み潰された。
ファランクスで何よりも重要なのはファランクスの隊列の深度と兵士の士気なのだ。
ペルシア戦争当時のファランクスは槍のリーチの長さが2mから3mと書いてあるのでペルシア軍よりも少し長いと言えるかもしれない。
鎧は布製の同鎧に鱗上の金属片だ。
これでアケメネス朝ペルシア軍よりも重装備だと言うのだから古代軍がいかに中世ヨーロッパ後期軍に比べて軽装なのかがわかる。
ギリシアのファランクスは攻撃を受けやすい側面を護るために騎兵隊と投げ槍ペルタスタイ部隊が投入され、テーバイ軍は深度を増した斜線陣を組み、マケドニア軍は重騎兵を主力とし、後継者時代には重騎兵を主力としながらも戦象を戦争に投入した。
マラトンの戦いではウォーピックと思われる戦斧を装備したサカ族がギリシア軍の一部を敗走させたが、最終的にはギリシア軍の勝利となった。
トラキア人のペルタスタイのロムパイアと言う長柄鎌状両手剣は接近戦用の護身用だが、片手でも扱え、一太刀で人間の首を刎ね、馬の脚の腱を斬るほどの威力があった。しかし、長物の特性上、森の中で扱うのには向いていないとの記録もある。
ペロポネソス戦争では投げ槍部隊や投石部隊や弓兵部隊など軽装歩兵部隊の重要度が増した。
だが、軽装歩兵は攻撃力が低いのでスパルタ軍を敗走させた時も大量の矢玉を必要とした。
これは軍事革命とは程遠いモノだとこの本には書いてある。
しかし、この「ゲリラ戦法」というモノは20世紀のベトナム軍やチェチェン人軍にも活用されている。
ちなみにイフィクラテスの重装歩兵だが、マケドニアよりも早くに防具の軽量化と盾の小型化と3.6mの長槍の導入とサブウェポンには大型の剣を持たせた。
これがマケドニアに与えた影響は決して小さくないとこの本には書かれている。
フィリッポス2世はマケドニアにおいて「軍事革命」を起こした。
つまり職業軍人を育てるために完全武装で厳しい訓練を行わせたのだ。
マケドニア式ファランクスの両手槍サリッサの長さは6mから7mが後継者時代以前の全盛期の長さだ。弱体化した後継者時代には無駄に長くなる。
槍が長い分、リーチが長いのは当たり前で、両手持ちなので攻撃力が高いが、中にはギリシアファランクスよりも攻撃力そのものは低いが、防御力が高いとする説もある。
機動力はギリシアファランクスに劣ったと考えられ、補助部隊としてギリシアファランクスや後にはローマ重装歩兵の真似部隊も用いられた。
このマケドニア式ファランクスは究極の押し合いと言われ、上方に構えた後列の長槍は弓矢などを防ぐ効果もあった。
不整地での戦闘用に短槍や投げ槍と剣で戦う訓練も受けた。
マケドニアファランクスは強力だが、安定性に欠けていた。決して隊列を乱してはならないと兵士たちが教えられていたからだ。
ヒュパスピスタイというマケドニアの別の歩兵隊は精鋭部隊のギリシアファランクスだと考えられる。
マケドニアファランクスの機動力の不足を補うモノだろう。
ヘタイロイ重騎兵はキュシトンという長槍を装備したが、サリッサよりは少し、短かった。
マウリヤ朝インドやその前の古代インドの軍隊だが歩兵と騎兵とチャリオット兵と戦象兵からなる。
戦象に弓矢や投げ槍を持った兵士を持った兵士が乗り込んだ。
歩兵もまたマケドニア軍と同じく職業軍人であり、二種類に分けられる。
一つは1.4mの大弓兵で毒矢を放つ。
もう一つは投げ槍兵と槍兵だ。
だが、裕福な兵士以外は甲冑をつけておらず、サブウェポンとしてアシヤシという大剣と大型木製棍棒を備えていた。
そして戦象兵の不安定さが故にマケドニア軍に敗北を喫することとなる。
投げ槍兵の攻撃を受けた結果、あっさりと戦象兵が暴走して味方の軍を踏み潰し始めたのだ。
いよいよ共和制ローマの軍団である。
ローマ軍は極めて早い時期から槍と共に剣を重要視していたようだ。
エトルリア人から投げ槍と短剣の戦術を受け継いだという説もある。
山岳民族サムニテ人との戦でローマンレギオンを取り入れたとかあるいは第二次ポエニ戦争からとかいう説があるがはっきりしない。
始めは槍を主武器としたローマンレギオンで第二次ポエニ戦争で短剣グラディウスを取り入れたのではないかと私は考えたこともある。
ローマンレギオンの第三列はハスタという長槍を主武器とし、騎兵はランケアという軽い槍を主武器とし、長剣スパタも持った。第一列と第二列の主武器が大小の投げ槍ピルムと短剣グラディウスだ。
ローマ軍は大体、ご存じの通りに極めて厳しい軍事訓練を行ったために装備と士気は極めて強固であった。
ケルトガリア人もケルトロングソードや槍などを盾と組み合わせて主武器としたが、個人戦文化の為にローマのグラディウスに脇腹を突き刺されて、敗北した。
ちなみにローマのグラディウスは切断にも優れた武具であり、ケルト人との戦でもマケドニアとの戦でも斬撃力が大いに恐れられている。
ローマ人が剣術を重要視したのはギリシア人よりも個人主義で男らしさを尊ぶからとのことだが、軍全体はどう見ても集団戦術のジェノサイドの塊だ。
ピュドナの戦いでは始めはリーチの長い後継者時代のより長いサリッサが優位に立ったが、次第に陣形が崩れ、ローマンレギオンに蹂躙され、刺し殺され、斬り殺された。
同じような戦が三回ぐらいはあったとうろ覚えだが記憶している。
またローマ騎兵は弱いと言われるが長田龍太の説によれば弱くない時期もあったとか。
ローマを苦しめたパルティアのカタフラクトは長田龍太氏曰く、あまり大したことはなく、真の脅威は軽騎兵にあった。その後の別の民族のカタフラクトとの接触が原因で後期のローマ軍はカタフラクトを取り入れたとの説もある。
パルティア軍も国力ではローマの敵ではなかったとする説もある。
とはいえ、東方には漢帝国と言うローマ以上の大規模軍隊がある。
前述の通り、筆者の独自研究では漢帝国は大規模軍勢と騎兵の強さが強み。ローマ帝国軍は装備と士気と重装歩兵の戦闘力と兵站と工兵の強さが強みと言う説がある。
マリウスの軍制改革により、ローマ軍は市民兵から職業軍人へと変わった。
重装歩兵の全員が投げ槍ピルムと短剣グラディウスで武装したが、そもそも投げ槍ピルムは通常の槍としても使える汎用性の高い武器だ。
アクアエ・セクスティアエの戦いではゲルマン軍は粗悪な鉄でできた槍を主武器としたために、またろくな甲冑を身に着けていなかったために、ローマ軍の練度の高さの為に、大敗北を喫した。
その他のゲルマン軍は槍の他にも投擲用の二種類の槍とガリアの大剣を利用した様だ。
キンブリ族はローマ軍を大敗させたこともあるが、最終的にガイウス・マリウスに征服されたようだ。
いよいよ帝政ローマの軍隊である。
装備自体はあまり発達しなかった。
槍は次第に軽量化され、剣は短くなった。
だが、次第に鎖帷子から初期板金鎧のロリカ・セグメンタータへの移行が行われる。
とはいっても胴鎧だ。古代でよくある。
支援軍だが、ローマ軍団兵に比べ、二流の装備であった。
弓兵や投げ槍兵や投石紐兵など投擲兵が中心だが、他の本の情報によれば投げ槍と剣の兵士や槍兵や一時的に東方の重武装に対抗する為に棍棒や斧やツルハシを利用したこともわかる。
だが、グラディウスも東方のラメラーアーマーに対し、隙間から突き刺すので有効と言う説もある。
ローマ帝国末期だが、ローマ軍団の士気の低下と練度の低下が起きた。
それでも少なからずの軍隊がまだローマンレギオンを採用していたと長田龍太氏は語る。
しかしながら遠戦志向となり、防具も軽装化し、敵軍も大体の歩兵が軽装化、槍と投げ槍と投げ矢が主な武具となり、剣も短剣グラディウスから長剣スパタへと変わり、敵と距離を取って戦うようになったが、それでも大体の場合は蛮族軍に対し、優位に立つことがまだできた。中世のビザンツ帝国も強国である。
いよいよ騎兵などの章だ。
前述の通りシュメールのロバチャリオットは実用的ではない。馬のチャリオットになってから実用的になる。
チャリオットに必要だったのは戦車の軽量化、扱いやすい動物(つまり馬)そして機動性の向上だ。
これらが為された結果、紀元前20世紀から紀元前10世紀にかけてチャリオットはヨーロッパ、西アジア、北アフリカ、中央アジア、中国でも使われるようになった。
チャリオット兵がよく使った弓矢は合成弓だ。合成弓はチャリオットと組み合わせて初めて本格的な威力を発揮した。
チャリオットの戦闘力を前に近東の文明国は例外なく、チャリオットを入手しようとした。
大量のチャリオットを持つしか他国に対する有効手段が無くなったのだ。
だが、チャリオット兵には莫大なコストがかかった。
鎌戦車はペルシアの発明だが、あまり効果を発揮しなかった。
チャリオットの用途は歩兵の輸送にも使われた。
ヨーロッパでもっとも長く、チャリオットを使ったのはケルト人で紀元前3世紀まで使い続けた。
紀元前1世紀にユリウス・カエサルにチャリオットで対抗しようとした記録もある。
ケルト人はチャリオット上から投げ槍を投げつけてから長剣を抜いて歩兵として戦った。
騎兵と言う可能性があるのにチャリオットが使われた理由とは理由の一つ目は社会の特質だ。
インディアンは初めて馬を見てから2,3世紀のうちに優秀な不正規騎兵になった。
インディアン社会とは違い、古代の初期の社会は定住農耕社会だったことだ。
理由の二つ目は乗馬が技術的に練度を要したことだ。
問題は他にもあり、古代の馬は現在のポニーサイズなのだ。
故にポニーサイズだから日本で騎兵戦術が通用しないと言う鈴木眞哉説の一部は通用しない。
無論、乗馬を覚えたら圧倒的な優位に立った。
紀元前10世紀頃、あちらこちらで騎兵がチャリオットにとって代わり始めた。
始めて騎兵を取り入れたのはアッシリア軍だ。
アッシリアと戦争をしていたメディア軍はパルティアンショットを使えた可能性がある。
紀元前5世紀前後の特筆すべき騎兵民族はスキタイ人、ペルシア人、ギリシア人だ。最古の騎馬民族はキンメリア人だ。
スキタイ人は合成弓と木の葉型の槍と3mを超える槍と直剣と戦斧と投げ矢で武装していた。
サルマティア人は重騎兵と弓騎兵でスキタイ人の軽騎兵を蹴散らした。
アケメネス朝ペルシアでは槍歩兵と槍騎兵と弓騎兵と弓歩兵が組み合わされていた。
だが、ギリシア重装歩兵の甲冑と盾には弓騎兵が通用しなかった。
当初のギリシア諸国家は騎兵を全く用いなかった。
しかし、馬の名産地が大量にあったために紀元前5世紀頃から用い始めた。
ギリシア騎兵を構成していたのは愛国心に燃える貴族階級であり、軽騎兵や重騎兵として働いた。
ギリシア騎兵は槍の柄の根元に鉤をつけてもう一つの槍の代用にした。
いざ戦となればギリシア騎兵はファランクスの補助軍団として働いた。
マケドニア重騎兵のヘタイロイの槍の長さは3mと書いてある。
柄の根元にも穂先が取りつけられてあり、投げ槍としても使えた。
余談だが、筆者は過去にとある著者のマケドニア軍からナポレオン時代まで戦の本質は変わらないという説を信じ込んでマケドニア軍やローマ軍などはナポレオン軍と互角に戦えると勘違いしたことがある。
その著者はアレクサンドロス大王信者だった。
実際は集団ならば胸甲騎兵が歴史上の最強騎兵部隊らしい。
ギリシア兵もマケドニア兵も騎兵として盾を使うことはあまりなかった。
ペルシア騎兵も同じだ。
盾は騎兵のバランスを危うくするからだ。
紀元前4世紀にはケルトに盾を持つ騎兵が登場し、ケルトに遅れる事、二世紀足らずでギリシア騎兵も盾を持つようになった。
第二次ポエニ戦争のカンネーの戦いではヌミディア騎兵の活躍もあり、ローマ軍はハンニバル・バルカとカルタゴ軍に大敗した。
槍と投げ槍(ソリフェレウムという槍を含む)とファルカタというサーベルを持ったヒスパニア騎兵は歩兵としても戦えた。
ガリア騎兵はガリア歩兵と同様に槍と長剣で武装し、盾は馬に乗せた。
ヌミディア軽騎兵は投げ槍騎兵や軽槍騎兵だったと他の本には書いてある。短剣類も装備していた。
ローマ軍は様々な騎兵を集めたが、この騎兵の多種多様さこそがローマ軍は騎兵が弱い説の嘘だという説をどこかで目にした。
ヌミディア軽騎兵やダルマティア軽騎兵やヒスパニア騎兵やサルマティアの両手槍騎兵部隊もいた。
更に東方には弓騎兵部隊がおり、遂には甲冑で完全武装したカタフラクトやクリバナリウスが登場する。
だが、帝政初期には騎兵は投げ槍と両端に穂先を持つ槍と盾で武装するのが標準であった。
騎兵の装備はガリア式だがガリア騎兵も多かった。
紀元前最後の四世紀間でガリア人は兵士の装備と馬術を飛躍的に発展させた。
ロリカ・ハマタという鎖帷子やスパタという長剣や頑丈な盾などだ。
ローマ人たちは騎兵部隊の効率維持のためには努力を惜しまず、歩兵としても戦う訓練を受けさせたとこの本にはあるので本当にローマ騎兵は強いのかもしれない。
紀元前1世紀頃のローマ騎兵は槍がメインウェポンだが歩兵として戦う場合は剣を使った。
カルラエの戦いではパルティアンショットと重騎兵がローマ軍を敗走させた。
ローマ軍にとって幸運なことはほとんどが騎兵部隊のパルティア軍は攻囲戦が苦手であり、山岳地帯では自由に動けないことだ。
ローマ軍によるパルティア軍の攻略法は投げ槍で重騎兵を苦しめ、重騎兵の援護が十分でない弓騎兵も苦しめ、パルティア軍の野営地を夜襲することだ。
パルティア軍はローマの街の攻囲をしようとしても大変危険なことであった。
投石部隊を増やすこともローマ軍にとっては有効手段であった。
最後にはローマ軍は支援軍騎兵の弓騎兵と3世紀のカタフラクトを作った。
ササン朝ペルシアはパルティア軍と似たり寄ったりだが、攻囲戦に備えて大規模な歩兵部隊を持っていた。
その他にローマを西から圧迫する存在としてはサルマティア人、ダキア人、ピクト人がいたが、中でもゲルマン人の存在が大きかった。
ゲルマン騎兵も初期の質の悪さから改良されていく。
後にはヴァンダル族が北アフリカに剣と投げ槍などで武装した騎士貴族を支配階級とする王国を作った。
トラヤヌス帝のダキア遠征では槍や長剣を持ったローマ騎兵がダキアの剣と盾や鎌状両手剣ファルクスなどの歩兵部隊と対峙している。
フン族は典型的なステップの遊牧民族であり、合成弓を用いたが、鏃は骨製だった。それだけではなく、剣と投げ槍でも猛烈な攻撃をしかけた。
フン族の馬は粗食に耐えることができた。
紀元前2世紀頃のカタフラクトは槍を主武器とする一方で弓矢も持ち、剣とメイスも持ち、両手剣も使用していた。
戦象はアフリカのシンリンゾウとインド象が戦闘に使われ、ラクダはヒトコブラクダとフタコブラクダが戦闘に使われた。
戦象は敵の戦列を乱すことや要塞攻撃にも使われた。
戦象の問題点はコストがかかることと何よりも暴走しやすいということだ。
だが、筆者の独自調査では近世インドでも戦象は使われている。戦象の起源と本場はインドらしい。
ラクダは軍馬よりも粗食に耐えられ、持久力もある。
だが、欠点の方が遥かに大きい。
砂漠の動物であるために降雨の多い地域に対応できず、軍馬の持つスピードと機動性も無かった。
さて、いよいよ作者が以前、読んだ際によく理解できなかった
第三章 指揮と統率だ。
古代の指揮官にとって戦場での指揮は事実上、不可能と冒頭にある。「戦場の霧」が原因だが、これは「戦争学」や「クラウゼヴィッツの戦争論」でもよく触れられるところだ。
弁舌やカリスマ性と言った個人の資質と命令を明確に伝える能力は常に指揮官の助けとなった。
通信は古代から重要だ。
ラムセス2世やコンスタンティヌスは命令を広めるために他人の声を必要とした。
大声が重要なのだ。
現代の軍集団の機構は古代軍隊に起源がある。
兵站は古代世界では重労働だ。
兵士個人の知識も彼が死ねば失われてしまう。
才能のある兵士は指揮官から学ぶこともできた。
正直、筆者は「見て覚えろ」という言葉は嫌いだ。
実戦の前に簡単な訓練が実施された。
ギリシアやローマでの話だ。
ギリシアの兵士はオリンピックでも鍛え上げて、後継者時代には初期クロスボウの訓練も受けて、ローマの兵士はマルスの野で馬術やその他の技術を競った。
食糧の問題とは別に兵員補充の失敗で敗北を喫した将軍も少なくない。
通信だが、指揮と統率を合わせて、

軍事論文

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  • 随筆・エッセイ
  • 中編
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2026-03-29

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  1. 第一話 世界の刀剣歴史図鑑
  2. 第二話 武器の歴史大図鑑
  3. 第三話 ツッコミどころ満載の鈴木眞哉氏
  4. 第四話 ツッコミどころ満載の図解近接武器
  5. 第五話 武器と防具日本編
  6. 第六話 武器と防具中国編
  7. 第七話 戦闘技術の歴史1古代編