時の向こうに祖父がいた
二〇二〇年の五月、宮津の畑に住んでいた伯父が亡くなった。
新型コロナウィルスが猛威を奮う時節がら、近親者だけの慎ましい見送りとなった。
葬儀場の畳に穏やかな表情で横たわる伯父を見て、二十数年前のことを思い起こした。当時、私は大学四年生で京都の新聞社への就職が決まったばかりだった。
「郷土に根ざした仕事に就くならば、府内のここらもよく知っといたほうがええだろう」
おじはそんな言葉を私にかけて、海辺のドライブに誘ってくれた。私が軽自動車の助手席に乗り込むと、伯父の愛犬キキがうれしそうについてきて自らも後部座席に乗り込んだ。
向かった先は日置から養老、伊根、さらに少しすすんでカマヤ海岸や経ヶ岬、袖志の辺りまで。丹後半島の東半分の海岸線をざっと往復するようなルートだった。伯父は時折車を路肩に停めては、海岸から見える島や岬を指差し、それぞれにどんな謂れがあるのか朴訥な口調で語ってくれた。うなずきながら聞く私の様子を、ちゃんと覚えておけよ、とばかりにキキが傍らから見つめていた。
幼い頃から幾度となく訪れた丹後の海だ。しかし慣れ親しみすぎたがゆえに、かえってこの地域を深く知ろうとする機会がなかった。おじの語りを聞きながら改めて北丹後の魅力的な風土に目を見開かされた思いだった。
そのドライブのさなか祖父の時衛(青霞)が遺した創作ノートが処分されずに残されていることをおじから聞かされた。かつて祖父が暮らしていた離れの二階に保管しているが、「いずれ忘れられ朽ちてしまうのだろう」と伯父は寂しそうに笑った。
祖父もまた一生涯を丹後の山深い里で過ごした人物だった。農作業や養蚕、冬になれば和紙の紙漉きといった仕事の合間に日々のあれこれや季節ごとに移り変わるぐるりの風物を俳句や短歌に詠み込み、書き残していた。いずれはできの良い句歌を選んで本にまとめたいと言っていたそうだ。しかし、そんな想いを実現させる前に祖父は交通事故で帰らぬ人となってしまった。昭和五〇年代のことだ。
私の脳裏に、中学生の頃の記憶がよみがえってきた。法事の場で伯父たちが祖父の遺作について話し合っていた情景だ。本人の遺志を継ぎ作品集をまとめあげたい気持ちは山々だが、さてどうしたもんだろうか、といった会話だった。句歌はノート数十冊にびっしり書き込まれており、それらを一つひとつ吟味して編纂するのは、かなりの労を要する作業らしい。まだ子どもだった私が興味を抱き「じゃあ、僕がやってみようか」なんて口を挟むと、伯父たちは顔を見合わせ「ほんの小さな冊子でもええから、いつかお前がやってくれたら助かるわぁ」と大笑いした。
伯父の死後、ことあるごとに祖父のノートのことを思った。食事や入浴中も、あるいはトイレの中でさえ幻影がチラついた。さては、おじが「あとはお前に託したぞ」との思いを伝えているのではないだろうか。そんな気さえした。
そして、ある晴れた秋の日曜日。私は墓参りを兼ねて、改めて丹後の畑へと向かった。
祖父が暮していた離れの二階に上がるとノートの在処はすぐにわかった。整理された書棚に古いアルバムや文書類が保存されていた。なにぶん祖父の死後四十年以上が経過しているのだから、赤茶けてボロボロになったノートが見つかるものと想像していた。しかも長年使われなかった古い木造の部屋だ。湿気を吸って黒黴に覆われていたり、ページが張り付いたりしていてもおかしくはない。
しかし、そこにあったのは綺麗に整頓された遺品の数々だった。こまめに空気を入れ替え、掃除もされていたのだろう、目立った埃すらなかった。律儀な性格だった伯父や伯母、そして従姉らがこれらの品々を守ってくれたに違いなかった。
ノートの表紙には実直そうな文字で「わたしの歌日記」とタイトルが記され、年代別に整えて置かれていた。ページを開くと、紙はさほど古びておらず、色褪せや劣化もあまり進んでいなかった。そこにはまるで、つい数年前に書かれたかのような鮮やかな万年筆の文字がいきいきと踊っていた。
冴え渡る空にまたゝく冬の夜の
星を見上げて暫し佇む
それは半世紀の時をこえて届くメッセージだった。五十年前の祖父の息づかいが、現代の私の呼吸と共鳴した。私は祖父の傍らに立ち、肩を並べて凍つる星空を眺めているような錯覚に陥った。白い息の向こうに冬の星座や銀河が輝いていた。
別のノートを開くと、祖父が家族とともに収穫の喜びに打ち震えている光景が見えた。
高原の山田の早稲は豊穣の
秋を讃えて黄金波打つ
彼らの前には大地を渡る風にうねる稲穂の波がつづいていた。透きとおった空に無数の赤とんぼが群れ飛んでいた。
創作ノートは許可を得て持ち帰り、作品のチェックと句歌集の編纂を始めた。
昭和三十八年から五十三年までしたためられた数十冊に、肉親にとっては宝石のような作品がぎっしり詰め込まれており、一字一句引き込まれるように目を通した。
祖父の何気ない日常がそこには描かれていた。ノートを一冊ずつ紐解く日々は、句歌の形に凝縮された約二十年間をともに過ごした時間だった。昭和の山里に生きた祖父と令和の今を生きる私の「こころ」が出会い、シンクロした特別な体験だった。
時の向こうに祖父がいた