あの子のぶんまで
一生忘れない記憶。
これを書くのに30年近い時間が必要でした。
今、ようやく書くことができるようになりました。
あの日、病院の窓から見えた暮れゆく町の情景は、きっと生涯忘れないだろう。
一九九八年の夏。妻が生後一カ月の長男を検診に連れて行った日のことだった。
突然、職場にかかってきた一本の電話。呼び出された病院で主治医から告げられた長男の病名は、HLHS(左心低形成症候群)という聞き慣れないものだった。生まれつき左心室と左心房が十分に育たない、原因不明で極めて稀な先天性疾患だという。
主治医の先生は丁寧に説明をしてくれた。心臓の左心系が小さいため全身に血流をしっかり行き渡らせることができず、極めて危険な状態にあること。治療のために新生児期から幼少期までに三度もの心臓の大手術を受けなければならないこと。
冷静な声で語られる言葉を聞きながら、私は窓の外に広がる街並みを見つめていた。ゆるやかな下り坂に沿って続くビルや家々が、沈む夕日に照らされて赤く輝いている。聞かされている話の恐ろしさとは裏腹に、穏やかで美しい日常がそこにはあった。息子に降りかかった災いはあまりに現実離れしていて、どこか遠い世界の出来事のようにも感じられた。
その後、妻とどのように帰宅したのか、まるで覚えていない。あの夜、私たちは何を話し、何を食べたのだろう。
初めて実感が湧いたのは故郷の両親に電話をしたときだった。初孫の病の報せに受話器の向こうの両親は動揺を隠せなかった。自ら淡々と説明を繰り返すうち私の胸の奥に押し込めていたものが一気に崩れ落ちた。
――なぜ、うちの子がこんな目に。
感情は止めどもなくあふれ出し、そのまま突っ伏してしまった。
私が二十八歳、妻が二十七歳のときの出来事だった。
当時、HLHSの治療ができる病院は限られており、長男は新宿区の大学病院へと転院することになった。
最初の手術は三週間後に予定された。私たちは夜間の緊急呼び出しにも対応できるよう求められ、ボランティア団体が新宿区内で運営する患者家族滞在施設に入室した。私はそこから職場に通い、妻は朝から夜まで病院に詰める生活が始まった。
転院先には重い心臓疾患を抱えた子どもたちとその親がいた。
ややもすれば心が深淵の底に引き込まれそうな毎日。でも、みな励まし合い、希望と笑顔を忘れずに過ごしていた。
私たちにとって一日の光は、NICU(新生児集中治療室)で息子に会える面会時間だった。昼と夕方各三十分ずつ。私もできる限り夕方の面会に間に合うよう職場を早めに出させてもらった。
手指を消毒し、エプロンを身につけて、ようやくNICUへの入室が許される。
あっという間の三十分。けれど親子三人で過ごすその時間は何よりも尊いものだった。
私たちは交代で赤ん坊に触れ、小さな手にそっと指を差し出す。すると息子はぎゅっと握り返してくれる。
まだ生後一カ月と少し。視界もぼんやりで親の顔もきっとわかってはいないだろう。それでも決まった時間に優しく触れる妻と私の温かみを、息子なりに必死に感じ取ってくれていた気がする。
やがて手術の日がきた。
折しも台風の直撃を受け交通は麻痺していた。それでも何とかタクシーをつかまえ病院へ向かった。
手術の直前、わずかな面会が許された。
そのときの息子は生後二カ月になったばかりの赤ん坊なのに、まるですべてを悟ったような表情をしていた。親である私たちでさえ及びもつかない落ち着いた表情でこちらをじっと見つめていた。その焦点のあった瞳には私たちの顔がはっきり見えていたのだと確信している。
「がんばろうね」
声にならない妻の励ましに送られて、息子をのせた小さなベッドはゆっくりと手術室へ運ばれていった。
手術の結果はつらいものとなった。
術後の負担に小さな息子の体は耐えられなかった。
NICUでは抱いてやることさえできなかった息子を、妻はひしと抱きしめたまま帰宅した。
翌日、代々幡の斎場で焼いた息子の体は小さな小さな欠片となった。
あまりに深い喪失感にしばらく私たちは上を向くことさえできなかった。簡単に崩れてしまう幸せの虚しさ、儚さを思い知った。妊娠、出産から看病と全霊で闘い続けた妻は体調を崩し、自らも病院に搬送された。
しかし、いつまでもふさぎ込んでいるわけにはいかなかった。私たちは、それでも生きていかなくてはならない。毎日、沈んだ顔では天国の息子も喜ぶわけがない。
私たちは、ある晴れた日に高い空を見上げて一つの決心をした。
「あの子のぶんまで幸せになろう」
そして、あの子が生まれた日に与えてくれた喜びをずっと忘れずにいよう。
悲しい日から二十七年が経つ。
私は五十五歳になり、妻は五十四歳になった。
あの子の後に授かった二人の子も、もう成人した。
今、私たちはとても幸せで穏やかな日々を過ごしている。
そう、あの子のぶんまでも。
あの子のぶんまで