馬鹿と煙
なぜその日、屋上に向かったのかはわからない。
爽やかな空気でも吸いたかったのか、単なる気まぐれか、それとも屋上で何か良い気分に浸りたかったのか。そのどれもが当てはまっていたかもしれないし、どれも当てはまっていなかったかもしれない。
とにかく僕は、皆が部活に行ったり家に帰ったりする放課後に、普段誰も来ない屋上に向かい、屋上へと繋がる扉を前にして「あ、屋上の扉って鍵とかかかっていないんだ」とか、高校3年生になった今更思いながら、その扉を開けた。
春の気候を胸一杯に吸い込み、暖かな太陽を身体いっぱいに浴びながら、大きく身体を伸ばす。想像以上に晴れやかな気分になった一方で、何か焦げるような焼けるような煙の匂いが鼻についた。
屋上には先客がいた。塔屋に隠れて見えなかったが、座って伸ばしているであろう脚先の上履きだけが少し目に入った。回り込んでみると、一人の女子生徒が座り込んでいた。その手には、タバコ。先ほど鼻についた匂いの正体はこれだとすぐにわかった。
タバコを持つ彼女はこちらをチラリと見ると、悪びれる様子もなくまた前を向いた。その横顔に声をかける。
「何を……しているの?」
「んー。なんだと思う?」
その女子生徒からの逆質問に、僕は戸惑った。タバコを吸っているのは見るからに、でもそれを言ってしまうと、それが確定してしまう気がして、言うことが憚られた。
戸惑っている僕を揶揄うように、彼女は薄く笑った。
「タバコ吸ってるの。見たことある?」
僕は再び戸惑う。
「見たことはある……けど、吸っている人を見るのは初めてかも」
「マジ? ご両親とか吸わないの?」
「二人とも健康志向だし、たぶん吸わない人だから」
「ふーん」
そう言うと、彼女はタバコを口に咥えた。当たり前のように行われたその動作に、僕は驚いて、気がついたらタバコを取り上げていた。
彼女は驚いたように目を見開いた後、鋭く僕を睨みつけた。
「何すんの、返して」
僕の額からは汗が流れ出ていたし、さぞかし不細工な顔をしていただろうと思う。だけど、言われたとおり返してあげようとは思わなかった。そして「あ!」と声を出す。
「蔵前さん! 蔵前さんだ、よね?」
彼女は蔵前菜緒さん。今年から同じクラスになった女子生徒で、3年A組に所属している。顔をよく見て思い出した。
蔵前さんは、「はぁ?」と言いたげな顔をして、「はぁ?」と言った。
「まさか、気付いてなかったの?」
「ご、ごめん」
彼女には申し訳ないと思ったが、僕と蔵前さんが同じクラスになったのは今年が初めてのことだった。ただでさえ人の顔を覚えることが苦手な僕にとって、まだ春のこの時期にクラスメイトの顔と名前を一致させるなんてことはできっこない。咄嗟に名前が出ただけでも褒めてほしいくらいである。
しかし、そんなことは蔵前さんからすると知ったことではなく、長い髪をかき上げて溜息を吐いた。
「ショックだなー。私はそっちのこと覚えてるのに。犬山夏希……ワンちゃんって呼ばれてたっけ?」
「そうだけど……やめてよ、そう呼ぶの」
昔から背が低かった僕は、苗字からワンちゃんと呼ばれることが多かった。犬は好きでも犬扱いされることに快くは思わず、しかし嫌がれば嫌がるほど周りは面白がってそう呼んできた。最近は諦めて受け入れてきたところだった。
蔵前さんはどこからかタバコの箱を取り出して、新しい一本を口に咥えた。ライターに火をつけ、タバコを吸い始める。白い煙を吐きながら。
「嫌だったんだ。ごめんごめん。じゃあ、なっちゃんとかならいい?」
と、尋ねてきた。
タバコを吸う一連の動作が妙にカッコよくて魅入ってしまっていた僕は、蔵前さんの言っている言葉への理解が遅れた。
「……え、あぁ、なっちゃんならまぁ……。じゃなくて!」
蔵前さんから取り上げたタバコを左手に持ち替え、余った右手でもう一度蔵前さんのタバコを取り上げる。蔵前さんは軽く睨んで、諦めたように溜息を吐いた。
「はいはい。今日は吸いません、吸いませんよー」
「今日はじゃなくて、未成年は吸ったらダメでしょ!」
僕の至極真っ当と思われる指摘に対して、蔵前さんはニヤッと笑う。
「なっちゃん、知らないんだ。私、三回留年してるから、二十歳だよ」
「……嘘だ」
蔵前さんの言葉にそれだけ返す。蔵前さんのニヤニヤは止まらなかった。
「嘘じゃないよ。一年生の時に一回、二年生の時に一回。三年生の時に一回で、二十歳。何なら今年で二十一歳。タバコを吸ってもいいって法律で決められてるの」
確かに、噂で何回か留年している先輩がいるということは聞いていた。それが僕たちと同じ学年になることも知ってはいたが、蔵前さんのことだとは知らなかった。クラスが初めてになったなんて当然だった。学年が今まで違ったのだから。
「それなら……」
と口にしたところで、ん? と思い当たる。
「そもそも、学校の敷地内が禁煙でしょ」
学校の敷地は全面禁煙。タバコを吸うのは先生でも許されておらず、屋上だけ治外法権になっている訳もない。二十歳だろうが関係ない、学校で吸っているのがダメなので、没収したところで文句を言われる筋合いはない。
僕の言い分に、蔵前さんは少し考えた。そして、素直に頷いた。
「それもそうだ。じゃあ、なっちゃんの前で吸うのはやめとこ」
「どこでも吸わないでよ」
蔵前さんは非常に面倒臭そうな顔をする。しかし、どう考えても間違っているのは蔵前さんだ。これも、文句を言われる筋合いはない。
やれやれとひとまず諦めて話題を逸らそうと考えたのであろう蔵前さんは、疑問を口にする。
「で? なっちゃんはこんなところに何しに来たの? まさか、私がタバコを吸うのを止めに来たわけではないでしょ?」
何をしに来たのかと聞かれると、なぜ向かったのかはわからないという最初の思考に戻る。なんとなく、きまぐれ、気分。いろいろな言い方はあるが、結局のところ。
「たまたま……かな」
おそらく、考え続けたところで答えは出ないだろう。それなら、スッパリと奇遇で割り切った方が早い。
蔵前さんはわかりやすく溜息を吐く。
「はー。たまたまね。そのたまたまのせいで、私の癒しのひとときは奪われた訳だ」
「そんなことより、灰皿とか持ってない? タバコ捨てたいんだけど」
どうやら、蔵前さんの嫌味はマトモに聞かない方が良さそうだ。それよりも今は、両手の指が摘む、ジリジリと短くなっていくこのゴミをどうにかしたい。
蔵前さんは「なんなんだよ、もう……」とボヤきながら、水の入ったペットボトルを差し出した。その中には、既に何本かのタバコが入っている。
遠慮なくタバコをその中に入れる。そして入れてから、ふと気になりスマホを取り出した。
「何してんの?」
蔵前さんの質問を無視し、スマホを操作する。そして、画面を蔵前さんに見せつける。
「タバコ、ペットボトルに捨てたらダメじゃん! リサイクル出来なくなる!」
蔵前さんが目を細めて見ている画面には「タバコの吸い殻は灰皿に。ペットボトルに入れてはいけません」というようなことが書いてある。どうも、ペットボトルは汚れていると燃えるゴミになるんだとか、タバコと仕分ける作業が発生するんだとか、そういうことらしい。
蔵前さんは「あぁ〜」と間延びした声を出した。
「まぁ、そうだろうね。なんとなく良くなさそうとは思ってた」
「なら止めないと」
「そんなの止めれるやつが、タバコ吸わないでしょ」
蔵前さんの反論は今までで一番説得力を帯びていた気がした。確かにそれで止めるとは思えないけれど、放置する訳にもいかない。
「にしても、なっちゃんはいちいち調べて私のやることにケチつけて」
「ケチって言わないでよ」
「それだけ調べるのが得意ならさぞ勉強もできるんでしょうね」
小馬鹿にするような蔵前さんの言葉に、僕は少し顔を暗くする。蔵前さんは少し焦った顔に変わった。
「あ、もしかして勉強苦手?」
「まぁ、成績はちょっと悪いけど、それが? 何か問題でもある?」
今度はこちらが棘があるような言葉遣いになる。しかし、そのことに対しては蔵前さんは何も気にしていないようだった。平然と答える。
「別に、成績がいいとか悪いとかどうでも良くない? そんなんで人の価値が決まるなら、私どうなんの。三留年よ」
どうでも良い、という言葉に、僕は逆に拍子抜けたような顔になる。
今まで成績のことを散々馬鹿にされたり、叱られてきた僕にとって、蔵前さんの気楽さは新しい価値観だった。胸が救われるような思いになる。それと同時に、まったくの他人だと思っていた蔵前さんが少し身近に感じた。
「蔵前さんも、成績が悪くて留年を……?」
「いや、普通に出席が足りてない。勉強はできる」
裏切られた。やはり蔵前さんは住む世界が違う人間だ。
露骨に肩を落とした僕に対し、蔵前さんは前髪を少し触りながら。
「それじゃあ、放課後にでも私がここで勉強教えてあげようか?」
と提案した。僕は顔を上げる。
「い、いいの?」
「まぁ、授業出てないところもあるからわからないかもしれないけど、大体は教科書見れば理解できるし。去年勉強したところもあるから、いけるっしょ」
蔵前さんは胸をドンと叩く。それに対して僕は少し狼狽えた。
「いや、そうじゃなくて。癒しのひとときなんでしょ」
今日が終われば、蔵前さんは癒しの場所を別に移すと思っていた。僕がまた来ないとも限らないし、そうなれば僕はまたタバコを取り上げるだろう。タバコは吸わないで欲しいが、そのことを煩わしく思われても仕方ないとは思っていた。だから、ここで蔵前さんとここで会うのは
しかし蔵前さんはきょとんとした顔をした。
「そうだけど、別になっちゃんもいて良くない?」
「いても、いいの?」
「誰か喋る相手いた方が楽しいし。ま、タバコは黙認してもらうけど」
「タバコはダメだよ」
くっくっく、とまるで揶揄うように笑う蔵前さんの言葉は、嘘があるようには思えなかった。
そうか、また来ていいのか。
それがなんだか、認められたような気がして嬉しかった。
次の日の放課後、僕は勉強道具をカバンに詰めて屋上へとやってきた。
これで揶揄われただけだったらブチ切れて帰ろうと思っていた僕は、ブチ切れのパターンをいくつか用意しながら扉を開けた。
相変わらず春の気持ちいい陽気。冬の残寒もなく、勉強をしていても外気による不快感はないだろう。外で勉強することなんて今までなかったが、こういう日を勉強日和と言うのだろうと思った。
昨日蔵前さんがいた塔屋の陰を覗き込む。そこには、タバコを吸いながらスマホを眺める蔵前さんがいた。
「お、ちゃんと来たじゃん」
蔵前さんも僕に気がついてニヤッとしながら声をかけてくれる。その声を無視して、僕は蔵前さんに近付きタバコを奪い取った。
「タバコ、ダメ」
「はいはい。ちぇ、一本くらい吸えるかと思ったのに、勿体無い」
蔵前さんは床に置いていた吸殻入れであろう携帯灰皿を開いて、僕に差し出した。少し驚きながらも、そこに取り上げたタバコを捨てる。
「持ってたんだ、携帯灰皿」
「まぁね。常にペットボトル持ち歩いてる訳じゃないし、いつでもポイ捨てできる訳じゃないしね」
「しないでよ、ポイ捨て……」
それと、今吸っていたタバコを素直に諦めたことにも少し驚いた。捨てたタバコは、タバコの長さの基準があるのかは知らないが、少なくとも昨日吸っていたタバコと比べても、そこまで短いタバコではなかった。まだ吸い始めてそこまで時間は経っていなかっただろう。タバコを吸う人は、ギリギリまで吸うものだと思っていた。だからこそ、勿体無いという言葉が漏れたのだろうが。
「で? 勉強、何がわからないの?」
ハッと意識が戻った僕は、蔵前さんが先に床に座っていたことに気がつく。スカートにも関わらずドカッと胡座をかいている男前な蔵前さんの前で、床にタオルを敷いてお淑やかに正座した。
「一応、持ってきたのは数学と英語」
僕は鞄から2つの教科書を取り出す。幾何学模様のようなものが表紙に書いてある数学の教科書と、青色を基調として複数人が笑顔で走っている英語の教科書だ。
「あー、助かるわ。国語が苦手だから教えてとか言われたら、何教えればいいかわからなかったもん。教えやすい教科で安心した」
そうだろうと思って、国語は避けた。ついでに、暗記が多そうな日本史や地学も教えるのは難しいだろうと思って、どうせなら教えやすそうなものを選んだつもりだ。ちなみに、選びはしたがわからないというのも本当だ。授業を受けるだけで頭痛がしてくる。
「高校の授業に入ってから、全くわからなくなって」
「あー、なるほどね。なら、数学からいこうか」
蔵前さんは自分のカバンをゴソゴソと漁ったかと思うと、大量の問題集を引っ張り出してきた。学校の授業用ではなく、僕が解くために別で用意してくれたらしい。しかし、それらの問題集は高校生用ではなく、中学生や小学生用のものも混ざっている。
「蔵前さん? これは?」
「私が昔持っていた問題集。持って来れる分は持ってきた」
「小学校のとかもあるけど?」
バカにしてる? と続けようとした僕だったが、蔵前さんの真剣な表情を見て言葉を止めた。決してそんな心算ではないと、その顔を見ればハッキリ分かったからだ。案の定、蔵前さんはそのままの表情で説明し始めた。
「勉強が苦手って言ってたじゃん。そういう時って、どこかで躓いて苦手なまま知識が積み重ねられてないことが多いわけ。数学や英語は特にね。だから、どこで躓いたかを探すことを優先した方がいいよ。いきなり高校の内容やっても、土台がないから積み上げたものがガタガタになっちゃうしね」
蔵前さんのおっしゃる通り、小学校の算数の頃からなんとなく苦手意識があり、苦手だと思うと理解がしにくくなって、そのまま中学校に突入した。苦手はなかなか克服できる気がせず、高校になると難易度が跳ね上がり、もう今では「苦手」どころか「できない」という頭になっている。まさに、ガタガタの土台に新しいことを積むことができない、という蔵前さんの言ったことそのままだ。
それをそのまま伝えると。
「それじゃ、まずはその「できない」潰しからいこうか」
と蔵前さんは問題集を選別し始めた。
しばらく一緒に問題を解いていくと、なぜ数学ができなかったのかが鮮明になっていく。
計算、特に掛け算と割り算が苦手で計算が遅い。しかし、授業は先々と進んでしまうため、ちょっと苦手なまま進み、できたという感覚の前に終わってしまう。
図形問題も同じで、なんとなく覚えてはいても理解はできていない。だから授業でやった時はちょっと問題を解けても、テストになると理解できていないから応用が効かない。それが僕の数学の弱点だった。
蔵前さんにそれらの弱点をつらつらと挙げられたとき、僕は消えてしまいたい思いだった。
「なんか、ごめん……」
「え? なにが?」
できの悪さに対する謝罪が口から漏れ、しっかりと蔵前さんの耳に届いてしまう。何に謝られたのか本当にわからない顔をしている蔵前さんを見ながら、視線を少し逸らす。
「なんか、そもそもの計算が苦手でって、教えてもらう以前の問題で、恥ずかしいやらなんやらで」
「いやいや、数学苦手な人間の、大半のきっかけは計算でしょ。別に恥ずかしいことでもなくない?」
蔵前さんの中には、勉強ができない=恥ずかしいの感性はないのだろう。僕にとっては勉強ができないというのはそれだけで恥ずかしいことなので、蔵前さんの考えがよくわからない。
ただ、そんなことは本当にもうでも良いと思っている蔵前さんにとっては、もう今の話は終わったことになった。
「それじゃ、とりあえず計算をいくつかやってみようか。慣れておかないと、高校の範囲もやるのはしんどいからね」
蔵前さんはそう言うと、問題集からいくつかの問題を抜粋してくれた。それらの問題は、僕が苦手としているところから得意としているところまで混ぜられており、できないという感覚だけでなく、なんとなくここならわかるというものも、蔵前さんに教えてもらってわかるようになったというものも含まれていた。的確にやりやすく、学びにもなる選抜の仕方で、僕以上に僕の学力を理解しているということに驚いた。
「蔵前さん、先生とかなれるんじゃない?」
あまりにも自分を見透かされているかのような感覚に陥った僕は、思わずそう口にしていた。蔵前さんは苦笑いをしながら。
「なれると思う?」
と聞いてきた。一瞬意味がわからなかったし、その後に思った意味が正しかったのかわからなかったが、とりあえず謝っておいた。
「ごめん、無理だと思う。あんまり品行方正じゃないし……」
「うーわ、失礼。でもなっちゃんのそういう無遠慮で正直なところいいね。好き」
蔵前さんから安易に放たれる好きというワードに、安易にドキッとしてしまう。しかし、どうせ大した意味はないと思い直し、溜息を吐く。こんなことでいちいち動揺していたら、おそらくこの人とは渡り合っていけないのだろう。
「でも実際、将来どうしたいとかはないの? なれるかどうかはさておきでもいいし、やりたいこととかさ」
「将来かぁ。教師じゃなければなんでもいいかなぁ」
「えぇ、根に持った? それとも、ちょっと気に障った? それならごめん」
品行方正じゃないと言ったのがそんなに嫌だったのだろうか。だとしたら申し訳ないことをした。
だが、そんな僕の心配を他所に、蔵前さんは少し哀しそうに笑った。
「なっちゃんが悪いんじゃないよ。それより、計算さっさと解いちゃってよ。早く終わらせてタバコでも吸おうよ」
「吸わないよ、僕は。いや、蔵前さんも!」
単純な僕は、その日の勉強だけで蔵前さんと仲良くなれた気になった。
数日後の教室での国語の授業中。
お爺ちゃん先生の子守唄のような古文の朗読と教室に入る陽射しが多くの生徒の船を漕がす中、お腹が空いて眠くもならず、もうすぐ昼休みだなぁなんて呑気に考えていた僕は、ふと蔵前さんの席を見た。
特に何か意味があって見たわけじゃない。今日も勉強会できるのだろうかとか、蔵前さんもこっちを見ていたりしないだろうかと思って見たわけではまったくないのだが、なんとなくふと目をやった。
蔵前さんは窓際の一番前の席で、外を眺めていた。その斜め後ろの席の僕のことなど当然微塵も気にもかけてはいない。それはまぁ、授業中だから当然だし、こっちも気にかけて見たわけではないから、別にいいんだけども。
しかし、今日一日蔵前さんを観察していて、わかったことがある。
蔵前さんは、友達があまりいない。休み時間に声をかけられることもほとんどなく、今日はずっと外を眺めているだけだった。基本的には何を考えているかわからずただ外を眺めていたが、たまに不思議なことに人差し指と中指を口元に持っていっては、グーパーグーパーとして解いてを繰り返していた。何故口元に手を持っていっていたか、深くは考えないことにした。
そして、授業を聞いていない感じを出しておきながら、ちゃんと聞いている。僕が朝一番の授業で、数学の先生に当てられて答えを間違えた問題を、次に当てられた時にしっかり正答していた。
蔵前さんと勉強会を始めてから少しの日数が経っているが、その間だけで蔵前さんが頭の良い人だということは僕はよくわかっていた。しかし、クラスの人たちはそうばかりではなく、蔵前さんが頭の良さを覗かせると「おぉー」と仄かに沸き立った。どうせ間違えるんだろうなと思われている僕の時とは大違いである。
他にも、蔵前さんを観察していて幾つかわかったことはあるが、一番の発見は。
使っているリップクリームが、僕と同じものだということだ。
「今日の授業中のあれ、私好きじゃないね」
その日の勉強会、僕が計算問題を解いていると、暇潰しのように蔵前さんは呟いた。
何のことかわからなかった僕は、一旦計算する手を止めて首を捻る。
「あれって?」
「数学の、さ」
蔵前さんは少し言いにくそうに言葉にやや詰まりながら、そう言った。蔵前さんが遠慮気味に話すのも珍しい。しかし心当たりがない僕は数学の時間にあったことをそのまま言葉にした。
「蔵前さんが正答して、クラスが騒ついたこと? 確かに、失礼かもしれないけど、皆は蔵前さんのことをまだよく知らないだろうし、素直に凄いなって思ったんだろうから、そんなに目くじら立てなくても」
「そっちじゃなくてさ、その前の」
蔵前さんの指摘に、その直前のことを思い出す。そういえば、僕が答えを間違えていたんだった。いつものことすぎて忘れていた。
「え、あ。そっか。ごめん。せっかく教えてくれてるのに、成果が出なくて」
勉強会を始めてから毎日のように数学をやっているにも関わらず、僕は授業の答えを間違えた。そのことを責められているのだと気がつくのに時間がかかってしまった。
謝罪と共に頭を下げると、珍しく慌てたように蔵前さんは手と首を横に振った。
「あぁ! 違う違う! なっちゃんが悪いんじゃないよ! 勉強なんて間違えてなんぼだし、屋上でやってる勉強だって授業とは別の範囲で直接関係がないところだし、そんなことで怒ったりしないって!」
違ったようだ。気がつくのに時間がかかった上に、謝る内容を間違っていた。テストならバツが続いて焦るところだ。
「そうじゃなくて、私が言ってるのは、なっちゃんが間違えた時のクスクス笑う人がいる感じ。なんか、勉強できないことを笑うのって、腹立たない? 間違えるのなんて、何も悪いことじゃないのに。あいつら、テストで満点取ってんのかってーの」
蔵前さんはちょっと怖い声になりながら、僕のことで怒ってくれた。笑われるなんていつものことだったので、間違えたことを恥じつつもそのこと自体は記憶にも残っていなかった。蔵前さんが蒸し返さなければ気が付かなかったのに、とは流石に言わなかった。
声はドスが効いてて怖いが顔は頬を膨らませて可愛く怒る蔵前さん。急に歳上に見えなくなり、クラスメイトとして、ある程度付き合ってきた友達として妙な親近感が湧いた。
蔵前さんは僕の顔に気がついたようで、顰めっ面で睨みつけてくる。
「ちょっと、なっちゃん。何笑ってるの」
「え? 笑ってないよ」
「笑ってるよ! ほら、さっさと計算解いて!」
手が止まっていたことを忘れていた僕は、改めて計算問題に向き合いながら口を動かした。
「蔵前さんは嫌がるかもしれないけど、やっぱり教師向いてると思うよ、僕は」
「学生時代にタバコを吸ってるやつのどこが」
確かに、蔵前さんは学校のルールを守っていないかもしれないけれど。
「でも、勉強できないことは恥ずかしいことじゃないとか、人のことを笑う相手に対して怒ったりとか、そういう、人間ができてるって感じのさ。そういう考え方とかって、身につけようとして身につくことじゃないきがするし。蔵前さんはそうやってご両親に大切に育てられたんだって、わかる気がする」
「……そっか」
蔵前さんの表情が少し曇った。その表情の変化は視界に捉えていたはずなのに、しかし、蔵前さんと距離が近くなって嬉しくなった僕の口は止まらなかった。
「うちの親は放任主義だからさ。僕がこんなに成績が悪くても何も言わないし、大学とかもどこに行くとか全然気にしないし。そもそも大学に行けるかどうかもわからないけど。だから、自分のことを構って気にしてくれる親っていいなって思うんだよね」
日頃、僕が思っている親への不満がとめどなく口から溢れてくる。蔵前さんなら聞いてくれる気がして、大変だねって言ってくれる気がして、誰にもあまり話したことがない話を話すことができる相手ができたことが嬉しくなって。一息に話した後に、蔵前さんの顔がより暗くなっていたことに気がついた時には、遅かった。
蔵前さんの返事は、今までのどれよりも暗いトーンであった。
「どんな親が嫌かなんて、その人にしかわからないよ」
「え?」
蔵前さんはカバンからタバコの箱を取り出す。一本箱から出したタバコを口に咥えて火を点け、これみよがしに煙を吐き出す。その動作を止めなければいけないのに、僕は何も言うことができなかった。取り上げてダメだと言うには、蔵前さんとの距離を感じすぎてしまった。
「なっちゃんはさ、そりゃ自分の親がもっと構ってくれたらって思うんでしょ。いろいろ話して口を出してくれて、そういう親が良いって。自分のことを鬱陶しいくらいでも気にかけてくれる親がいいって、そう思うんだ。でもね。それが良い親かどうかなんて、なっちゃんにはわからないよ。なっちゃんはそういう親を持ったことがないんだから。そういう家庭で育ったことがないんだからさ」
蔵前さんの言い方は、刺々しかった。その棘が一本一本、僕の胸の辺りに刺さっていく。痛みで呼吸が速くなっていくが、蔵前さんも止まらない。
「私だってなっちゃんの親がどんな人なのか、なっちゃんがどんな育ち方をしたかなんてわからない。下手にそっちの方がいいとかこっちの方がいいとか、そんなこと言えないよ。だからこそ、なっちゃんだって私がどんな育ち方をしたかなんてわからないよね。なっちゃんは私のこと何もわかってない。わかるなんて簡単に言わないでよ」
煙を口から出す蔵前さんに、消え入るような声で「そんなつもりじゃ……」としか言えなかった。別に怒らせたかった訳ではない。あなたのことを十分に理解しているというつもりもない。ただ、蔵前さんは素敵な考え方の人だということを伝えたかっただけだ。僕にはハッキリと想像できていないが、素敵な考えに至るまでに色々な人から影響を受けたのだろうと。それが、傷つけることだなんて想像もできていなかったけれど、ただ、嬉しく思って欲しかっただけなのだと。
でも、今更何を言ったところで蔵前さんには届かないような気がしてしまった。タバコを目の前で吸う蔵前さんは、別の世界の人のように感じてしまった。その距離を感じてしまったことを、僕の表情から、仕草から、眼から蔵前さんも感じたことだろう。
「なっちゃんがそこまで深く考えて言った訳じゃないってのはよくわかってるよ。そこまで深く考えられないでしょ。なっちゃんにそんなつもりがないってわかっていても、言い返せないなっちゃんに一方的に言葉をぶつけることに躊躇いなんてないよ、私は。こんな人間が、相手を傷つけることをなんとも思わない人間が先生に向いてると思う?」
蔵前さんは立ち上がり自分のカバンを肩にかけると、再び大きく煙を吐いた。
「今日は帰るわ。ごめんね」
「蔵前さん、ごめん……」
蔵前さんはタバコをその場に捨てて立ち去る。僕の謝罪が届いていたかはわからない。ただ、僕の言葉はタバコの煙のように空中で消えてしまった気がしてならなかった。
それから、蔵前さんは屋上に来なくなった。
僕は一応毎日、蔵前さんが置いていった計算ドリルを、いつか返さなくてはと思いながらも屋上で解き続けていた。
わからないところはかなり減ってきた。最近は、毎日勉強をしているからか、勉強に対する抵抗も減り、授業も聴きやすくなった気がする。それもこれも、僕ひとりではここまで絶対に至ることはできなかった。すべて、蔵前さんが丁寧に教えてくれたからだ。
僕がこうして毎日のように屋上に来て勉強をしているのは、いつか蔵前さんが来てくれるんじゃないかと期待してしまっているから。ある日、ひょっとしたら顔を覗かせて、「この前はごめんね」って言い合える日が来るかもしれないから。いや、言い合えなかったとしても、僕が一方的にだとしても、謝って和解できる日が来るんじゃないかと思ったから。その一瞬の思いを逃さないためにも、ここにいなければいけないと思ったから。
教室では、蔵前さんは授業には出席していたが、休み時間になるとすぐにどこかへ姿を消していた。そして、次の授業が始まると同時にふらっと戻ってくる。追いかけることもできただろうけど、それはしなかった。たぶん、蔵前さんはそれを望んでどこかへ行っている訳ではないと思ったから。
だんだんと日差しが強くなり、外で勉強するにも仄かに暑くなってきたある日。僕はいつものように屋上で勉強をして、部活をしている生徒たちもまばらに帰りだし、今日も蔵前さんは来なかったなと思いながら蔵前さんにもらって一周が終わった計算ドリルの復習を終わらせた。いつか蔵前さんがきた時に「終わらせたんだ、偉いじゃん」と褒めてもらいたくて、毎日計算ドリルは持ち歩いていた。
だんだんと日が長くなってきたなと思いつつ屋上から三階へと降りる階段。踊り場から、蔵前さんの後ろ姿を見つけた。
「くら……!」
声をかけようとしたところで、別の人影があることに気がつき、必要がないかもしれないのに咄嗟に姿を隠す。何を焦っているんだ僕は、と思いながら階段の陰から覗き込むと、蔵前さんの正面には生徒指導の三宅先生が立っていた。
三宅先生は怒るような呆れたような、なんとも言えない表情で腕を組んで仁王立ちをしていた。僕なら萎縮して背中が丸くなるであろうところを、蔵前さんは背筋を伸ばしながら堂々と向かい合っている。
「蔵前、お前またタバコを吸っていたそうじゃないか」
三宅先生の言葉に、自分のことではないのに背筋がヒヤッとする。荷物検査で不要な荷物を意図せず持ってきてしまっていた時のような冷や汗が流れ出てきた。
「なんのことですか」
「惚けたって無駄だ。見たってやつがいるんだよ、お前がタバコを吸っていたところ」
蔵前さん、別のところでタバコを吸っていたのか。僕と勉強していた期間はまったく吸っていなかった。あの間は、よほど我慢していたのだろう。
三宅先生は溜息をつきながら目を細める。
「蔵前。お前のことは先生たちも気にかけているんだ。成績優秀なのに、授業に出ない。今年はようやく真面目に授業に出たかと思ったら、タバコだ。もう次留年する手はない。どうしたって卒業しないといけないんだ」
蔵前さんのことは後ろ姿しか見えていない。だけど、三宅先生の言っていることはわかっていても反応を見せようという気が感じられないのはとてもわかった。微動だにしない蔵前さんの想いは正面から見ている先生にはよりわかったのだう。さらに深い溜息を吐く。
「親御さんとは話しているのか?」
無反応を貫き通していた蔵前さんの肩がびくりと揺れる。それが動揺だということは誰の目にも明らかなほどに。
三宅先生はその反応を見たのか見ていないのか、言葉を続ける。
「ご両親ともに教師だろう。お前にも、教師になってもらいたいと常々話しておられるじゃないか。その期待に応えるなら、ちゃんと卒業して大学で勉強しないとダメだ。タバコなんてもってのほかだ。先生たちだって、娘を頼みますなんてしょっちゅう言われているんだ。放っておくわけにもいかないんだよ」
僕は、蔵前さんが何故あんなにも教師になりたくなかったのか、ようやくわかった。
蔵前さんは、教師になる道なんてのは僕と会う前から、ずっと前からあったんだ。むしろ、その道しか用意されなかったと言っても良いくらいなのだろう。ご両親に教師になるよう言われ、先生たちからも教師になるために目をかけられ、ずっと、誰からも見張られながら教師になるように育てられてきた。その上、両親からは教師に育てるよう先生に圧力をかけられる始末。そんな蔵前さんが、他のことをやりたい、教師になりたくないと考えても不自然なことではまったくない。
それに対して、僕はなんて言った。教師に向いているなんて、軽々しく、本当に軽々しく言ってしまった。
それは、僕からすれば最大限の褒め言葉のつもりだった。だけど、蔵前さんからすれば逃れることのできない呪いの言葉のように感じたのではないだろうか。それも、一度拒否して遠ざけようとしてくれたのに、僕がもう一度話に出してしまった。怒られて当然だ。
僕は、本当に蔵前さんのことを何もわかっていなかった。何もわからずに、蔵前さんの地雷を踏み抜き、傷ついていた身体をさらに傷つけてしまったのだ。
蔵前さんの背中は急に小さく見えた。前、別れた時にはあんなに遠く大きかった背中が、今は手が届きそうなほど近くて小さい。
「いいか、蔵前。最近はちゃんと授業に出ているが、タバコは辞めろ。煩わしく思うかもしれないが、お前のことを考えているからこそ言うんだ。やりきれない思いとかもあるだろう、わかっている」
三宅先生がそう言った瞬間、僕は弾かれたように走り出していた。階段を数段すっ飛ばして蔵前さんの元へ向かう。
「先生に、蔵前さんの何がわかるんですか!」
蔵前さんの腕に抱きつきながら、僕はそう叫んでいた。自分でも思っていた以上の声量の叫びが出て、三宅先生は驚いたように目を見開いた。しかし、もっと驚いていたのは蔵前さんだった。
「なっちゃん……!?」
「な、なんだ、犬山か。ビックリさせるな。それよりも、お前、先生に向かってなんて口を……」
「先生は、蔵前さんが何に悩んでいるか、本当にわかっているんですか? 蔵前さんから聞いたんですか? 蔵前さんが、やりきれないからタバコを吸っているって言ったんですか? 蔵前さんが教師になりたいって言ったんですか? 目指したいから指導してくれって、言ったんですか? そうじゃないなら、簡単にわかるなんて言わないでください!」
この前の、蔵前さんを傷つけたあの時の僕に言いたい言葉を、先生にぶつける。ただの八つ当たりかもしれない。蔵前さんは望んでいないかもしれない。だけど、今の先生の言葉を蔵前さんの胸の中に残すのは、間違っているということだけは、それだけはわかる。
三宅先生はどうすればいいのかわからないような狼狽え方をするが、進路指導の先生だけあってすぐに平静を取り戻す。
「犬山には関係のない話だ。そもそもタバコを吸うのを辞めろという話で……」
「なら、僕が辞めさせます。蔵前さんが吸わないようにさせるし、一緒にいる間はちゃんと見ておきます。辞めさせたいという想いは僕だって一緒です。でも、そもそもタバコを辞めさせるという話なら、蔵前さんの進路は関係ないじゃないですか。蔵前さんが教師を目指すように言われていなければ、タバコを吸っても良いんですか? 高校を卒業できなくても良いんですか?」
「そういうわけでは……」
三宅先生がしどろもどろになる。僕の服を、蔵前さんが後ろから摘んだ。
「なっちゃん、もう良いよ」
「良くないよ! この前、僕に言われた時に良くないってしたのは蔵前さんでしょ! なら、誰から言われたって、これは蔵前さんにとって良くないことなんだよ! 相手が先生だからって、関係ない!」
僕の勢いに、蔵前さんも先生も圧倒されてしまったようだ。少し引いているのがわかる。僕自身、自分がこんなにも人のことで怒ることができるんだって知らなかった。自分のことでさえ、こんな熱量をもって怒ったことはなかったかもしれない。
「どうして、そこまで……」
蔵前さんの呟きに、僕は自信を持って返す。
「蔵前さんのことが、好きだからだよ! 蔵前さんともっと話したいから、仲直りしたいから、嫌な想いをして欲しくないから!」
僕の言葉に、蔵前さんは先ほど以上に驚いてみせた。三宅先生は「何を馬鹿な……」と呟いた。
僕は、先生をキッと睨みつける。
「なにかおかしいですか? 僕と蔵前さんが出会って日が浅いから? 蔵前さんが年上でタバコを吸うような人だから? それとも」
一息で話して無くなった身体の酸素を補給するため、僕は一度大きく息を吸った。
「僕が女だから。同性だったらおかしいですか?」
おそらく僕は涙目になっていただろう。別に泣くつもりだった訳ではないが、感情が爆発してしまい、悲しい訳でもない涙が溢れ出そうになる。
僕の言葉を聞き、顔を見た三宅先生は言葉に詰まり、しばらく思案した後に、今までで一番大きく息を吐いた。
「わかった。先生が悪かった。だが、タバコは認められんからな。犬山が辞めさせるという言葉を信用して、今回は見逃してやる」
非を認めて背筋が悪くなった先生に、蔵前さんは「はい」とだけ小さく返した。
「それと犬山。お前は人の進路を心配している場合じゃないぞ。自分の進路を一番に考えるように。お前のお母さんだって、先生に個別に相談に来るくらいには心配しておられるんだ」
「お母さんが?」
あの放任主義で、僕のやることなんて何も気にしていないような人が? 先生に個別に相談していたなんてまったく知らなかった。胸の辺りが暖かくなると同時に、蔵前さんに言っていた自分の言葉を取り戻せないことが恨めしくなる。僕は蔵前さんだけでなく、一番長く一緒に過ごした自分の親のことさえわかっていなかったらしい。
「それじゃあ、今日は二人とも帰るように。蔵前、余計なことを言ってすまなかったな」
「いえ……。先生の言うことも尤もだし、言いたいことは、なっちゃんが言ってくれたので」
三宅先生は僕たちに背を向けて廊下の向こうへと消えていく。その場には僕と蔵前さん、そして一抹の気まずさだけが残された。
居た堪れなくなった僕は、先生が立ち去った方へとゆっくり歩いていく。
「それじゃ、僕もこれで……」
「ねぇ、待ってよなっちゃん」
蔵前さんが僕の腕に抱きついてくる。心臓が飛び跳ねて、「ひゃ!」という情けない声が漏れる。
「私のこと好きなんだ? 初耳だけど?」
蔵前さんの顔は見ることができないが、その声がからかい調子だと言うことだけは耳だけでもよくわかった。
僕は顔を真っ赤にしながら答える。
「そ、そりゃ言えないでしょ! さっきだって、そんなこと言うつもりじゃなかったのに、つい勢いで……!」
「ふーん、言うつもりはなかったのに、つい漏れちゃったんだ。へぇー?」
チラリと見ると、露骨にニヤニヤとする蔵前さん。恥ずかしさが限界になって腕から振り払う。蔵前さんも再び無理に抱きついてきたりはしなかった。
蔵前さんは少し早足に私の前を歩く。その後ろをついていくと、ボソリと呟くように。
「ありがと、庇ってくれて」
と言った。僕は。
「……ううん。この前はごめんね、勝手なことばっかり言って」
と言う。
「まったくだよ。あーあ、なっちゃんのせいで傷付いちゃったし、コンビニでアイスでも奢ってもらおうかな」
「それで許してもらえるなら……」
お小遣いはいくら余っていただろうか。流石にアイスを買うくらいは残っているか。その程度の額で納得してもらって、再び勉強会ができるなら安いものである。
蔵前さんは笑顔で振り返った。
「えへへ、やった。じゃ、一番高いやつね」
その笑顔はとても眩しくて、歳上だからとか大人っぽいからとか関係なく、ただ一人の人として、素敵な笑顔だなと素直に思った。
「なっちゃんの方が、教師に向いていると思うよ」
「え?」
見惚れていた僕の横に並んだ蔵前さんはありえないことを言った気がした。僕が、教師に向いている?
「それは、何の冗談?」
揶揄われているのだと思ったが、そうではないことは、蔵前さんの真剣な表情でわかった。彼女が真剣な表情をするときは、嘘やお世辞は言わないのだ。
「なっちゃんは馬鹿だけど、馬鹿の気持ちは馬鹿にしかわからないし。でもなっちゃんはこれからどんどん賢くなっていく。そうしたら、賢い人の気持ちもわかるようになるよ。で、どこかの誰かさんが言っていたけど、人のために怒ることができるのは教師に向いているんでしょ? ぴったりじゃん」
おおよそ自分が教師になるほど賢くなる未来は見えなかったが、蔵前さんがそう言ってくれるのならば、きっとそうなのかもしれない。蔵前さんは僕のことを、僕よりもずっとわかっているのだ。
それに、本当に教師になれるかどうかは、今はさして重要なことではない。
「勉強は、ずっと蔵前さんが教えてくれるんでしょ?」
僕にとって何よりも大切なのはそこだった。わからない勉強を教えてくれて、教師になった時に隣にいるのが蔵前さんでなければ、僕にとって意味がないのだ。
蔵前さんの返事は、至極単純だった。
「もちろん」
天にも昇るようなその答えがあれば、僕には十分すぎるほどだった。
馬鹿と煙