永遠にお前に殉じたい
暗闇に 燃ゆる想ひぞ 爆ぜるとき 戀の嵐が 二人貫く Andalucía
田舎田舎と
都衆は言えど
しなの良いのが
小諸節
通りと言う通りにぶら下げられた幾百、幾千の提灯が、丁度女性の口紅よろしく真紅に染まろうかと言う夕闇迫る時刻の頃、今日も今日とて一人の歌うたいが赤ん坊を背負った母親からの頼みで「小諸節」を三味線を奏で乍ら朗々と歌っていた。
母親は何も、自らが信州の生まれで、故郷での日々の記憶に浸りたいが為に「小諸節」を
歌って欲しいと男に頼むのではない。
男が歌う「小諸節」を聴くと、背中の赤ん坊が穏やかな表情を垣間見せ、演奏が終わる頃にはすっかり寝入ってくれるからである。
すいませんねぇ、何時も何時も。
懐から取り出した財布の中から、文字通り僅かばかりの「投げ銭」を男に手渡すと、男は其れをゴツゴツした両手で受け取り乍ら、なあに、持ちつ持たれつって事よ、と呟き、さあ、もうすっかり夜だ、家の者〈もん〉が心配するだろうから、さっさと帰〈けぇ〉ってやんな、と母親の帰宅を促した。
男は母親が子沢山で、連れ添ってもう十数年になる旦那と共に何時も忙〈せわ〉しなさげにしている事を良く知っていた。
其れでは又いずれ。
母親は男に向かって深々と御辞儀をするや否や、今夜の夕餉〈ゆうげ〉を拵え終えたばかりの旦那と子供達が待っている我が家へと向かって早歩きで進み始めた。
ホント人が良いんだねぇ、アンタって子は。
「投げ銭」を財布に収めたのち、柱に凭〈もた〉れかかった状態でひと仕事終えた後の一服をしようと男が紫煙を口に咥えると、つい先程迄長椅子に腰掛けて歌に聴き入っていたらしい、此の界隈では「朝顔のおりゅう」と言う綽名〈あだな〉で知られる姐御肌の女性が擦ったばかりの燐寸の火で男の紫煙に火を点けた。
此のおりゅうと言う女性は、男が赤ん坊だった頃から男の事をよっく存じ上げており、男に歌と三味線を仕込んだ張本人でもあった。
お前さん程の腕がありゃ、今日はあっちのお座敷、明日はこっちのお座敷とお聲が掛かっているだろうに、そんな話にゃ一瞥〈べつ〉もくれてやらず、こんなトコロで人助け。
人が良いにも程があると心配したい位だよ。
火を消したばかりの燐寸を塵箱に投げ捨てたのち、挨拶がわりと言わんばかりに浴衣姿のおりゅうが捲し立てるのとは対照的に、男は淡々とした表情で、良く言うだろ、泣く子と地頭にゃ勝てぬって、と言い返し、紫色の煙をぷかぷかと吹かしてみせた。
ふっ、当節流行りの「慈善事業」かい。
まあ良いさ、幾ら私が餓鬼扱いしてみた所で、アンタもとうに二十歳を過ぎた良い年齢の大人だ、手前〈てめ〉ぇの道は手前ぇで切り拓くのが一応の筋、精々野垂れ死にしない程度に歩いてご覧。
そう言っておりゅうは、年増の美人らしい綺麗な首からぶら下げたがま口の中から十枚ほどの札びらを取り出したかと思うと、其れを男の着物の懐へ勢い良く且つ素早く捩じ込んだ。
そしてひと言、何かありゃ何時でもウチに転がり込んで来な、そいじゃあばよ、坊や、と男に告げてから、鼻唄まじりに人混みの中へと消えて行った。
全く、あの女〈ひと〉は風みたい、否、風其の物と言えるお方だな。
おろしたての下駄ですっかり吸い終えてしまった紫煙の火を揉み消した男は、そんな事を胸の内で呟き乍ら紫煙の吸い殻を塵箱の中へ捨てたのち、河岸を変える意味も込め、大通りへ向けてのっそりと歩き始めた。
祭りの時期が近付いている所為〈せい〉もあるのか、道行く人々の顔と言う顔、格好と言う格好はすっかり色めきだっており、つい此の前暖簾を潜った居酒屋にて、連日履き物やらお飾りやらが飛ぶ様に売れるお陰で、こちとら大助かりだ、と言う露天商達の会話が男の耳に入って来た、なんて事があったかと思えば、馴染みの蕎麦屋の二階にて、絵に描いたような文武両道の學生諸氏が「これからの世の中」とやらに就て熱く議論をする様を横目で見た、と言う事もあった。
兎にも角にも、世の中全体で浮き足立っている。
男の眼〈まなこ〉には、そんな風に世間が映っていた。
そうこうしている内に人混みはとうに薄れてしまい、此の季節独特の青葉が生い茂る樹々と白壁とが立ち並ぶ屋敷町の方へとやって来た。
そもそも此の辺りは御一新の頃迄殆ど人が居着いていなかった、文字通り辺鄙〈へんぴ〉極まりない場所にしか過ぎなかったのだけれども、法外な迄の土地の値の安さが人伝てに広まる様になって以降、開発に次ぐ開発があれよあれよと進んで行き、結果今日〈こんにち〉の様な立派な屋敷町が出来上がったと言う歴史を持っているのだが、其の様な歴史を持つ町の片隅に、広さにして凡そ猫の額程の男の住処〈すみか〉があった。
男の名は奈良岡黒曜。
先祖は代々の三河武士で元禄の頃より武蔵国に移り住み、戊辰の役の際にはかの新選組副長・土方歳三義豊と行動を共にし、激戦に次ぐ激戦を経て五稜郭の戦いにて新政府軍の捕虜になったと言う中々どころでは無い血筋なのだった。
お帰〈きゃあ〉りなせぇまし、旦那〈だぁんな〉様。
山の鴉の鳴き聲に折り重なる様にして時刻を告げる遠寺の鐘の音が鳴り響く中、僅かばかりの大きさの門を黒曜がひょいと潜ると、つい先程迄、古女房の照子と共に台所に立って黒曜の夕餉を調理していたと思われる弥吉が黒曜を出迎えた。
弥吉は黒曜が此の世に生を授かる前から奈良岡家に仕えている使用人で、奈良岡家の事なら其れこそ隅から隅迄把握していると言う実に観察力の高い人間であった。
今日〈きゃう〉はどんの辺り迄。
ひと月前、町の雑貨屋で購入をして来たばかりの金盥〈だらい〉いっぱいの水で履き物を脱いだばかりの黒曜の足を綺麗に洗い乍ら弥吉が質問をすると、黒曜はひと言、今日はちょいと足を伸ばして「遼遠閣」の辺り迄、と答えつゝ、弥吉から手渡された朱色の手拭いで顔と手を丁寧に拭き取った。
「遼遠閣」とは所謂物持ち相手に通人好みの実にこざっぱりとした料理を提供する三階建ての料理屋の事で、黒曜は「遼遠閣」の御主人からお聲が掛かる度に其処へ足を運び、物持ち達が、日頃まるで将棋の駒を動かすが如く資産運用に回している大金〈おおがね〉は勿論の事、大層な料理とも恐らく一生涯無縁な日々を過ごしていくに違いないと思われる
長屋住まいの者達の薬代やら何やらを、其の端正な顔付きに相応しい涼しい顔で稼いで来るのであった。
そうりゃ御苦労様でごぜぇました。
お腹〈なきゃ〉の方も随分〈ずーぶん〉お減りになったでしょうから、たんとお上がりになってくだしぇましな。
済まねえな、何時も何時も。
黒曜の足に付着をした水滴を綺麗に拭き終えた事を確認した弥吉が、用済みになった金盥の水をざぶんと言う音を勢いよく立てつゝ処理をし終えた事を確認した黒曜は、生憎の裸銭で申し訳ねぇが、と言った風な言葉と共に
おりゅうから捩じ込まれた札びらを両手で弥吉に手渡した。
勘の鋭い弥吉は此の札びらの出処がおりゅうからである事を直ぐ見抜いたが、其の様な素振りは一切見せる事無く黒曜に対して白髪混じりの頭〈こうべ〉を深々と垂れると、几帳面な性格の人間らしく、素早く其の場で札びらを綺麗に畳んでのけるや否や、懐から取り出した革財布の中へそっと仕舞い、コロコロと言う蟲の音が聴こえて来る中、今一度御礼の言葉を述べた。
帰宅後の黒曜は先祖の位牌が据えてある仏壇に手を合わせた後、弥吉と照子と共に夕餉の時間を過ごすのだけれども、常に会話の流れを作るのは弥吉以上に耳聡い照子の役割であり、主人である黒曜は出来立ての料理を口にし乍ら、照子の話に耳を傾けたり、時に口を挟んだりするのが彼等の日常であった。
大分〈でぇぶ〉ええ時刻〈ずぃこく〉になりんしたが、此れからの時間〈ずぃかん〉、お出掛〈きゃ〉けになりますか?。
三人で食事の後の片付けを済ませた直後、弥吉が黒曜にそう聲を掛けると、先祖代々大切に扱って来たとされる漆塗りの立ち鏡の前で外出用の服装に着替え始めていた黒曜は、鏡越しに弥吉の方へと視線を向け乍ら軽くひと言、あゝ、そんな所だ、と返事をし、視線を今一度自身の服装へと戻した。
おぉ、今夜はよう星〈ほすぃ〉が見えますなぁ。
玄関に於いて所謂仕事用では無く、外出用の下駄を黒曜に履かせたばかりの弥吉の聲に釣られる様にして黒曜が自らの頭上をフッと見上げると、空気が澄んでいる事も手伝ってなのだろうか、何時もであれば其れ相応の距離を感じる星々も、今宵は手に取って誰かへの贈り物にしてしまえるのでは、と言った具合の錯覚をついしたくなる程、良く光り輝いていた。
お戻りは明日で?。
うん。
久し振りに何も考えず、ぶらぶら歩きをする積りだ。
ぶらぶら歩きも結構でごぜえますが、変なのに絡まれねぇ様、お気をつけくだせぇまし。
「あそび」を覚えたばかりの小僧っ子ならまだしも、俺ももう立派な大人だ、そう無闇矢鱈と厳〈いかめ〉しいツラを曝け出す様な真似は出来ねぇよ。
黒曜は其の場で快活な笑い聲を響かせるや否や、そんじゃ留守を頼むぜ、とひと言添えてから、奈良岡家の家紋が特徴的な提灯を片手に、普段行き来をしている大通りとは又別な大通り目指してせっせと歩き始めた。
時刻が時刻なお陰もあろうか、日中は始終聴こえて来る鳥の囀〈さえず〉りもすっかり絶えてしまい、小川の流れる音がやけに響く中を黒曜が大通り近く迄やって来ると、「光の海」と呼ぶに相応しい煌々と輝く世界が其処には広がっていた。
此の大通りは通称「ギヤマン通り」と呼ばれる地域で、其の名の通り、硝子細工をはじめとした舶来品を扱う商人達が競い合う様にして軒を連ねており、同時にハイカラな雰囲気溢れる西洋館の見本市とでも言うべき場所であった。
当然其処で暮らす人々の其の殆どは、果てしなき海の向こうから此の極東の地迄やって来た商魂逞〈たくま〉しい者達で、酒場で働く女性達の顔付き一つとっても、精悍〈かん〉さに溢れている様に思えてならなかった。
暫くすると黒曜の足は、「ギヤマン通り」の中でも中華系の人々が商賣に勤しむ場所へと向き始め、チャイナ服と香水を身に纏った見目麗しい女性達からの「誘惑」を上手くあしらい乍ら、二階建ての酒場「白蘭」にやって来た。
日本語と大陸の言葉を両方扱う案内人に誘われ、酒場の中に其の健脚を踏み入れると、如何にも大陸風味の酒と食事、そして紫煙の香りが鼻腔を擽り、慾望の渦が眼に見える様であった。
お客様、先ずはお酒になさいますか?。
其れとも直ぐにお料理を御運びいたしましょうか?。
奥まってはいるものの、一応酒場全体が見渡せる席へと案内された黒曜に対し、そんな風に聲を掛けたのは、黒曜同様、嘗ては武士の身分に其の身を置いた一族の出と思われる大層品の良い口の利き方の人物だった。
一先ず酒と其の肴になりそうな物を持って来てくれ。
料理は其の後だ。
黒曜が紫煙を口に咥え乍らそう答えると、かの人物は素早く擦った燐寸の火で黒曜の咥え紫煙に火を点け乍ら、そっとひと言、畏まりました、と言って燐寸の残り火を勢いよく吹き消した。
気が回るな。
不意の出来事に黒曜が思わず其の両の眼〈まなこ〉を丸くさせたのに対し、良くやっている事なので、と返事をしてから軽い足取りで
酒場の奥へと消えて行った。
燐の香りがまるで残り香の様に其の場に漂う中、黒曜は紫色の煙越しにかの人物の後ろ姿を眼で追いかけ乍ら、自身が小さい童〈わらべ〉だった時分、おりゅうが昼寝の前に読み聞かせてくれたおとぎ噺に登場をした姫君の様な人物が本当に居たとは、とこゝろの奥底でそっと呟いた。
其れから暫くして、酒と其の肴が別の人物の手で運ばれて来たのだけれども、こゝろ奪われてしまっている姿を見られては、と思っていた黒曜は気落ちする所か、寧ろ安堵の念すら抱いた。
そして手酌をし乍ら、おりゅうが番度〈ばんたび〉自身の事を子供、否、小僧扱いしてのける理由を改めて悟った。
此の様な何とも言えぬ感情を抱いている時の肴は実に良く喉を通り、酒は腹に溜まるものである。
ふと自身の居座っている朱色の円卓を見渡してみると、酒瓶は空になっており、肴も喰い尽くしていた。
ではそろそろ料理を平らげて今晩の宿探しに繰り出そうかしら、と自身の手元に置いてある真鍮〈ちゅう〉製の鈴〈ベル〉を鳴らそうと右手を伸ばした瞬間〈とき〉、ガシャンと言う、鈍いそして酷く不釣り合いな音が酒場の中央から聴こえて来た。
其処には顔を黒覆面で隠した三人組の強盗が居て、三人とも鋭利な刃物を其々手に持っていたのだけれども、首領と思われる人物の腰には手品でも御馴染みの青龍刀がぶら下がっており、自分達に手向かいする人間は容赦無くぶった斬ってしまおうと言う訳である。
迂闊には手が出せない。
かと言って手を拱〈こまね〉いている訳にも参らぬ。
一旦円卓の隅に身を隠し、さて如何対処しようかと思案をしていると、首領が陣取っている円卓の上に、華奢なカタチをした照明器具が吊るされている事に気が付いた。
大きいのを仕留めさえすれば、後は幾らでも料理が出来てしまえる。
幸いにして自分の周りには遮蔽〈しゃへい〉物が多い事を良い事に、強盗達との距離をじりじりと詰めていった黒曜は、懐に隠していた回転式拳銃「ウェブリー自動排莢式リボルバー」を素早く取り出すや否や、皆んな伏せろ!、と大聲で叫び乍ら、左手を己が心臓の部分に添えた状態で弾丸を照明器具目掛けて発射をした。
鎖で繋がれた其れは弾丸が炸裂した瞬間、爆発音にも似た大きな音を発しつゝ地上目掛けて一気に落下をし、間一髪照明の下敷きになる事を避けた首領は思わず呻き聲を上げ乍ら
其の場を離れようと必死に虚空を掴む素振りを見せたが、黒曜に正面から顔面を容赦なく蹴り飛ばされてしまい、呆気なく突っ伏してしまった。
が、首領が倒された位で潔く諦める様な輩ならば態々此の様な場所で派手に強盗行為を働く筈も無く。
二番手の男は手負いの獣が暴れてみせるが如く、刃物を持って黒曜に突っ込んで来た。
悪あがきは良しやがれってんだ!。
転がっていた椅子を掴んだ黒曜は、其れで二番手の男目掛けて勢いよく振り下ろして男の勢いを止めると、顔面と胸部に其々一撃ずつ当て身を喰らわせる事に成功をした。
普段幾ら鍛えてはいても、身の丈六尺一寸の大男に当て身を喰らわせられれば一たまりも無い様で、二番手の男は当て身を喰らわせられた途端、身体が吹っ飛んでしまい、あっという間に酒場を仕切る男達によって捕縛されてしまった。
其れを見せつけられた三番目の男は手に持っていた刃物はおろか、此の後〈のち〉、然るべき隠れ家にて山分けをする筈だったのだろう「今晩の稼ぎ」すらほっぽり出して其の場を逃げようとしたものの、かの人物の飛び膝蹴りと後ろ回し蹴りをモロに喰らって、支えと魂を喪失してしまった人形の様にぐにゃりと崩れ落ちた。
やるな、あんた。
居ても立っても居られないとばかりに、かの人物の側へと駆け寄り、懐から取り出した手拭いを用い、かの人物の額に浮かんだ玉粒程の汗を拭う黒曜の姿、其れは宛ら女帝に仕える臣下の様に人々の眼には映った。
皆〈みな〉にとって大切な場所を野暮な連中に穢されるのが厭だった。
ただ其れだけの事です。
中性的な聲色でかの人物はそう答えると、黒曜の手をぎゅっと握り締め、すくっと立ち上がった。
いやはや、実に美しい光景ですな。
正にあなた方は紳士淑女の鑑だ。
そう言って黒曜とかの人物の事を誉めそやしたのは、事の行く末を二階席から「観覧」していた酒場の支配人且つ此の辺りの「顔役」である竜籟弦〈らいげん〉と名乗る青年実業家だった。
お陰で助かりましたよ。
人間、幾ら普段から用心をばしておりましても、不意打ちと言うのは如何も苦手なモノでして。
秋の紅葉を髣髴とさせる真紅の絨毯が敷かれた階段を、見るからに舶来品である事が想像可能な象牙のステッキ片手にツカツカと降りて来るや否や、籟弦はそっと呟いた。
宜しければ二階で御口直しの場を設けさせていただきたいのですが。
見ての通りひと段落いたします迄には少々時間がかかりそうですし。
籟弦からの「御誘い」に対し黒曜は、此方のお方もお連れしても構いませんかな、とかの人物の手をさり気なく取った。
ええ、どうぞ。
英雄に華は付き物、と昔から申しますしな。
黒曜は籟弦が「承諾」の意味を含んだ笑みを浮かべた事を確認するや否や、では、御言葉に甘えて、と言い乍ら、御面倒と思うかもしれないが、一献お付き合い頂きたい、と言葉を添えると、かの人物はたったひと言、仕方ない、と呟き、黒曜の手を強く握り返した。
案内された場所は普段「応接室」と呼ばれる部屋で、会話が外に漏れ伝わらぬ様、壁の造りもしっかりとしたモノに仕上がっていた。
本来であればワタクシの執務室にでも御通しをすべき所なのですが、いかんせん書類が山積みになっていたりと忙しのう御座いますからして、此方へ御案内させていただきました次第で。
籟弦自ら包丁を握り、林檎の皮を器用に剥き乍ら、椅子に腰掛けたばかりの「招待客」へ向けてそんな事を話してのけると、籟弦の身の回りの世話をするのが主な役目と思われる白髪混じりの老人の手によって、紺碧色のグラスに葡萄酒が手際良く注がれる様子をじっと見据え乍ら黒曜は、恐縮ですな、事を収める為とはいえ、お店のモノを毀〈こわ〉してしまったにも拘らず、と返事をし、先ずはひと口、と言う籟弦の言葉と共につい先程運ばれて来たばかりの炒り豆をボリボリと頬張った。
備品は取り替えが効きますが、人の生命〈いのち〉と店の信頼は幾ら悔やんでも悔やみ切れぬモノ。
ただ其れだけの事です。
其れに恩人を何の歓待も無しに送り出したなどと謗〈そし〉られるのは、此処で働く者達にとっても大変な不利益に繋がります故。
成程、一理ありますな。
では、今宵の出逢いに。
皮を剥き終えた林檎を手際良く小皿に盛り付けた籟弦が、両の手を老人から差し出された麻色の手拭きで綺麗にしたのち、蝋燭に火を灯すが如く、グラスを高々と掲げると、黒曜とかの人物も其れに倣い、前述の言葉をそっと添えてから渇きを覚え始めた喉へ、葡萄酒を勢いよく流し込んだ。
如何ですかな、葡萄酒の御味は。
此の席の為に用意された葡萄酒は、籟弦が直に味の吟味を行った上で仕入れていると言う自慢の逸品で、言葉の調子にも自信有り気な様子が良く表れていた。
香りも味も、大変心地良う御座います。
部屋に案内されて以来、会話よりも口に物を入れる事に集中をしていたかの人物がそう答えるや否や、其れは良かった、と籟弦は柔和な笑みを浮かべ、側の椅子に腰掛け乍ら、宜しければ二杯目も、と言葉で無く目線で促した。
あゝ、物の弾みとは言え、今宵は実に呑んだ喰ったをした訳だが、何だか罰が当たりそうで思わず身震いしちまうぜ。
籟弦が設けた酒宴の幕が降りたのち、見目麗しい籟弦の召使達の案内で、来客用の裏口から黒曜とかの人物が外へと出るや否や、用意された人力車に乗り込み、一路、宿屋が連なる久住町〈くじゅうちょう〉へと向かったのは、夜ももうだいぶ良い時刻であった。
ふっ、意外に肝っ玉が小さいのだな、そんな風に大きな形〈なり〉をしていて。
懐から取り出した扇で自身の顔へ向けて風を送ると同時に、くだけた調子でかの人物が言った。
逆にお前さんは堂々とし過ぎて、おっかねぇ位だよ。
私もお前同様、あのお方の御言葉に甘えた迄の事だ。
置かれた立場に変わりはねぇってか。
黒曜が口に紫煙を咥えると、かの人物は、そう言う事、と付け加えてから、擦った燐寸の火で紫煙に火を点け、再び顔を扇ぎ出した。
紫煙の香りが風に揺られ、気怠げな夜の闇の中に刻を告げる遠寺の鐘が鳴り響く中、後もう少しで御目当ての宿に着こうかと言う段になって、おう、此処で停めてくんな、と黒曜は車夫に聲を掛けた。
旦那、ええんですかのう。
こねぇにも戴いて。
つい先頃三人目の赤ん坊が生まれ、いよいよ稼がねばならぬ身体らしい四十絡みの車夫が黒曜から此処迄の料金に加え、此奴を何かの足しにしてくんな、と裸銭の御祝儀を受け取り乍らオロオロした素振りを見せると、黒曜は、ひと言、良いってコトよ、じゃ、身体にゃ気をつけるんだぜ、と、小柄な割にがっちりとした車夫の両肩〈りょうけん〉をポンと叩いた。
旦那がええんってんなら、構いはせんが。
ま、次の機会があれば、そん時は遠慮のうお聲掛けしてくだしぇましな。
被っていた笠を脱ぎ、黒曜とかの人物に対して深々と最敬礼をした車夫は、気を引き締める意味も込めて、草履の紐と笠の顎紐を強く結び直すと、車を元来た道へ方向転換し、其の儘夜の闇の中へと勢いよく消えて行った。
どうせなら車で乗り込めば良かったものを。
右手に持っていた扇を懐にグイと押し込んだかの人物が呆れ顔で呟くと、目立つのは御呼びが掛かった時だけで結構毛だらけ猫灰だらけ、と黒曜は戯〈おど〉けてみせた。
そういや、お前さんの名前〈なめ〉ぇを聴いちゃいなかったな。
なんだ、もう口説く気か、人の事。
あたりきしゃりきの車引き。
木蓮。
其れが私の名前だ。
ぶっきらぼうな口振りだった。
苗字は?。
小早川〈こはやかわ〉。
小早川…。
どっかで聴いた苗字だな。
あ、まさか酒倉の元締の。
道理で酒の良し惡しに詳しい訳だ。
なんだ、其の間抜け面。
ウチにツケでも溜めているのか?。
莫迦言え。
ありゃ、何時の事だったかしらん。
そうだ、豆腐屋のお梅婆さんの所に四人目の孫が出来たってンで、日頃の御礼方々、御祝いの口上でも述べようと出向いた時、偶々席を共にする事になったお前さんのお袋様に頼まれたんだ。
そろそろウチの娘を片付けてしまいたいンだが、一つ会って品定めしてくンないか、アンタみたいな世間慣れした人間の眼を通してってよ。
で、如何だった?。
品定めをしてみて。
ついひと月前に建て替えられたばかりの橋の欄干にひょいと腰掛け、挑発気味に黒曜に問うた木蓮の表情は、箱入り娘とは思えぬ程に艶っぽく、黒曜のこゝろを騒つかせるのに充分であった。
が、其処は黒曜とて海千山千の人物、其の挑発を受けて立つと言わんばかりの涼しき口振りで、まだ夜は長いんだ、もうちっと試させてくんねぇ、と言ってひょいと木蓮の身体を抱き抱えた。
そして木蓮の顔をじっと見据えつゝ、蟲の音の如く囁く様に、こう言った。
末永く頼むぜ、と。
其れに対し木蓮は、平然とした面構えで、しっかりと付き合え、私の我が儘に、と言い返した。
互いの肌と吐息は、酒を口に含んだ時以上に火照っていた。〈終〉
永遠にお前に殉じたい