終わりなき神話 愛の記憶
本作は、終わりなき神話長編小説が戦闘、神話的、SF的な部分を強くしているので、より恋愛的な方向性を強くした作品です。
元々、ムーライトノベルズような書いたのですが、こちらで公開することにしました。
『太陽の恋 1』
『太陽の恋 1』
―人間だった頃―
午後の街は、静かな音で満ちていた。
商店街の奥にある小さなレコード店。壁一面に並ぶ古いジャケット。埃の匂いと、ビニールのかすかな甘い匂いが混ざり合い、時間がゆっくりと沈んでいく場所だった。
男は、棚の前で立ち止まった。
名はアポロン。
それはまだ、神でも何でもない。人間として生きていた時代の名前だった。
彼は一枚のレコードを探していた。
タイトルは「クローズ」。
旋律だけを聞いたことがある。どこで聞いたのか思い出せない。ただ、その音だけが心の奥に残り続けていた。
指先でレコードの背表紙をなぞる。
見つからないらしい。
「すみません」
店員に声をかける。
「『クローズ』というレコードを探しているんですが」
店員は端末を確認し、少し困った顔をした。
「申し訳ありません。入荷記録はあるんですが、在庫はないようですね」
そうですか、と言いかけたときだった。
「え?」
近くで小さな声がした。
振り向くと、一人の女性が立っていた。
長い黒髪。薄いグレーのコート。少し驚いたように、彼を見ている。
「……もしかして」
彼女は言った。
「『クローズ』、探してるんですか?」
アポロンは眼を細めた。
「知っているんですか?」
「ええ、わたしもそれ、探してるんです」
思わず顔を見つめる。
「どこで知ったんです?」
女性は少し照れたように笑った。
「ネットです。誰かが上げてた旋律だけの動画。すごく綺麗な曲で……それで、どうしてもちゃんと聴きたくて」
楽しそうに話すその表情に、アポロンは興味を持った。
音楽の話をする人間は多い。
だが、彼女の言葉には、純粋な喜びがあった。
「あなたも?」
彼女が聞く。
「同じ理由です」
アポロンは淡々と答えた。
ほんの少し沈黙が流れる。
レコード店の奥で古いジャズが流れている。
「もしよかったら」
彼女が思いついたように言った。
「この近くに喫茶店があるんです。そこで、もう少し話しませんか?」
誘いは、自然だった。
アポロンは戸惑いの気持ちもあったが、頷いた。
喫茶店は古い店だった。
木のテーブルと、柔らかい照明。コーヒーの香りが静かに漂っている。
二人は窓際の席に座った。
「まだ自己紹介まだでしたね。わたしはミキです」
彼女は笑顔で言った。
「アポロン」
名前を告げると、ミキは少し笑った。
「本名ですか?」
「そうですが」
「神様の名前ですよね」
彼女はコーヒーカップを手に取りながら言う。
「知っていますか?」
「もちろん。音楽の神様でもありますよね」
アポロンは少しだけ笑った。
「音楽の神」
「だから、音楽を探してるのかなって思いました」
ミキは楽しそうに言った。
二人はそこから、音楽の話をした。
古いレコード、好きな旋律、街で聞いた音。
話は尽きなかった。
時間は、静かに流れていく。
「ミキさんは、日本の人ですか?」
アポロンが率直に聞く。
「はい。でも今はアメリカに住んでます」
「仕事で?」
「看護師をしています」
アポロンは少し驚いた。
「大変でしょう」
「看護師はどこの国でも大変です。でも好きなんです」
と彼女は楽し気に笑った。
「人のそばにいる仕事だから」
その言葉を聞いたとき、アポロンは不思議な感覚を覚えた。
人のそばにいる。
その言葉が、妙に心に残った。
窓の外では、夕方の光が街を包み始めている。
二人は気づけば、何時間も話していた。
音楽の話、旅の話、世界の話。
ミキは時々、くすくす笑った。
「不思議ですね」
彼女が言う。
「初めて会ったのに、こんなに話してる」
アポロンも頷いた。
確かに不思議だった。だが、それが嫌ではない。
むしろ、心地よかった。
このとき、アポロンはまだ知らなかった。
この出会いが、自分の運命を変えることを。
人間という存在を、これほど深く理解するきっかけになることを。
ただ彼は、目の前で微笑む女性を見ていた。
ミキ。
彼女の名前を、静かに心の中で繰り返していた。
『太陽の恋』2へ続く
『太陽の恋 2」
2
―人間だった頃―
店を出たとき、夜の空気は昼よりも少し冷えていた。
街の灯りが路地を静かに照らし、遠くから車の音がかすかに聞こえる。レコード店の前で、ミキはコートの襟を少し引き寄せた。
「ずいぶん長く話しましたね」
彼女が笑う。
アポロンは腕時計を見た。確かに何時間も経っていた。しかし不思議なことに、時間の重さはほとんど感じなかった。
「退屈ではありませんでしたか」
「まさか」
ミキは首を振る。
「こんなに音楽の話をしたの、久しぶりです」
二人はゆっくり歩き始めた。夜の街は昼よりも静かで、空気が澄んでいる。
「普段は病院ばかりで」
ミキは言う。
「忙しいんです。アメリカの病院って、想像以上に慌ただしくて」
「アメリカに住んでいるんですね」
「夢だったんですよ、海外で生活するのが」
アポロンは彼女の横顔を見た。街灯の光が、黒い髪を柔らかく照らしている。
「あと一週間で戻ります」
ミキはそう言った。
その言葉を聞いたとき、なぜか胸の奥に小さな違和感が生まれた。理由は分からない。ただ、その一週間という時間が妙に短く感じられた。
川沿いの道へ出ると、風が少し強くなった。
「星、見えますね」
ミキが空を見上げる。
アポロンも空を見た。人間の眼で見る星は、どこか遠く、静かだった。
「アポロンさん」
「はい」
「あなた、ちょっと変わってますよね」
突然の言葉だった。
「そうですか?」
「うん」
彼女は笑う。
「なんていうか……普通の人と話してる感じがしない」
アポロンは答えなかった。ある意味、正しかったからだ。
「でも」
ミキは続ける。
「嫌じゃないです」
その言葉と一緒に、彼女の視線が彼に向けられた。
彼女の眼はとても柔らかかった。
二人は川のそばのベンチに座った。
夜風が静かに流れる。
「寒くないですか?」
「少し」
ミキは笑った。
そのとき、ふとした動きで二人の肩が触れた。
ほんの一瞬の接触だったが、ミキは少し驚いたように顔を上げた。
「ごめんなさい」
沈黙が落ちる。
ミキの髪が風で揺れ、ほのかな香りが漂う。
アポロンは自分の心臓がわずかに速く動いていることに気づいた。人間の身体は、時々理解できない反応をする。
ミキはゆっくりと彼を見た。
「アポロンさん」
「はい」
「もし……」
彼女は言葉を少し迷わせた。
「もし、また会えるなら」
アポロンは静かに言った。
「会いましょう」
ミキはほっとしたように微笑んだ。
そのとき、彼女の指が彼の手に触れた。
今度は偶然ではなかった。
柔らかな手。温かな体温。
アポロンはその感触を静かに受け止めていた。
しばらくして、ミキは小さな声で言った。
「……ホテル、すぐ近くなんです」
彼女の手はまだ彼の手の上にあった。
アポロンはその手をそっと握り返した。
ホテルの部屋に入ると、静かな空気が広がっていた。窓の外には街の灯りが揺れている。
ミキは少し照れたように笑った。
「なんだか、不思議ですね」
「何がです?」
「今日初めて会ったのに」
彼女は少しだけ肩をすくめた。
「こんなふうに一緒にいるなんて」
アポロンは答えず、彼女を見ていた。
ミキはゆっくりとコートを脱ぎ、椅子に掛けた。彼の前に立つ。視線が合う。
少しの沈黙。
やがて彼女は静かに服を脱ぎ始めた。
躊躇いはあった。だが、その動きはどこか自然だった。
柔らかな光の中で、彼女の肌が静かに現れる。
ミキは少し恥ずかしそうに笑った。
「……こういうの、久しぶりで」
アポロンは近づき、彼女を抱き寄せた。
二人の肌が触れ合う。
温かな体温が伝わってくる。
「人って、こんなに温かいんですね」
彼は思わずそう言った。
ミキは少し驚き、優しく笑った。
「当たり前ですよ」
彼女の腕が彼の背中に回る。
二人はゆっくりとベッドに倒れ込んだ。
唇が触れる。ミキの身体には熱い物が込み上げてきた。頭が真っ白になっていくのが分かった。
夜は長く、静かに続いていった。
『太陽の恋』3へ続く
『太陽の恋 3」
『太陽の恋 3』
朝、わたしは先に眼を覚ました。
カーテンの隙間から柔らかな光が差し込んでいる。静かなホテルの部屋。遠くから車の音が小さく聞こえるだけだった。
隣にはアポロンが眠っていた。
わたしは少しだけ身体を起こし、彼の顔を見つめる。こんなふうに誰かの寝顔を見るのは、久しぶりだった。
不思議な人。
昨日、レコード店で出会ったばかりなのに、まるでずっと前から知っていたような気がする。
わたしはシーツを少し胸まで引き上げた。身体にはまだ彼の体温が残っている。
昨夜のことを思い出すと、少しだけ頬が熱くなる。
何度も抱き合い、何度も笑った。まるで時間が止まっているみたいだった。
わたしはそっと手を伸ばし、彼の指に触れる。
その瞬間、アポロンの眼がゆっくりと開いた。
「おはよう」
低く静かな声だった。
「おはよう」
わたしも笑う。
「よく眠れました?」
アポロンは少しだけ笑った。
「久しぶりに」
その言葉がなぜか印象に残った。
わたしはベッドから降り、窓のそばに立つ。朝の街がゆっくり動き始めていた。
「今日、何か予定あります?」
振り返って聞くと、彼は少し考えてから言った。
「ありません」
「じゃあ」
わたしは笑った。
「一日だけ、東京を案内します」
それから数日、わたしたちはほとんど毎日会った。
レコード店を回り、古い喫茶店でコーヒーを飲み、夜は静かなバーで音楽を聴いた。
ときどきホテルの部屋で過ごした。
抱きしめられると、なぜか安心した。彼の腕の中にいると、世界の音が遠くなる。
アポロンはあまり自分のことを話さなかった。
でも音楽の話になると、信じられないほど詳しかった。
「どうしてそんなに知ってるの?」
ある夜、わたしは聞いた。
彼は少し考えてから言った。
「長い時間、聴いてきたから」
その答えは、どこか冗談のようでもあり、本気のようでもあった。
アメリカへ戻る日が近づくにつれ、わたしは少しだけ不安になっていた。
この人は、どこか遠くへ行ってしまいそうな気がしたから。
ある夜、わたしたちは窓の外の夜景を見ていた。
「ミキ」
アポロンがわたしの名前を呼ぶ。
「はい?」
「あなたは、今の人生が好きですか」
突然の質問だった。
「好きですよ」
わたしは少し笑った。
「忙しいけど、嫌いじゃない」
彼は静かにうなずいた。
少し強引に、わたしを抱き寄せた。
その抱きしめ方が、なぜか少し強かった。
「どうしたの?」
「……いえ」
その夜も、わたしたちは長い時間を一緒に過ごした。
まるで別れを惜しむみたいに。
でも、そのときのわたしは、まだそれに気づいていなかった。
ある朝、わたしが眼を覚ますと、部屋には誰もいなかった。
ベッドの隣は空いている。
バスルームも、リビングも、静まり返っていた。
「アポロン?」
返事はない。
テーブルの上に、一枚の紙だけが置かれていた。
そこには短い言葉が書かれていた。
――ありがとう。
それだけだった。
わたしはしばらくその紙を見つめていた。
理由も、説明も、何もない。
ただ、彼はいなくなっていた。
それから何年も経った。
わたしはアメリカに戻り、また病院で働いている。
忙しい毎日。
患者の声、機械の音、夜勤の疲れ。
普通の生活。
でも、ときどき思い出す。
あのレコード店。
あの喫茶店。
そして、あの夜。
今でも、時々レコードを探すことがある。
『クローズ』
あのとき、見つからなかったレコード。
もし、またどこかで見つけたら。
そのときはきっと、彼のことを思い出すだろう。
名前だけを残して消えた、不思議な人。
アポロン。
あの人は、本当にただの人だったのだろうか。
そんなことを、ときどき考える。
でも答えは、きっともう分からない。
『太陽の恋』 完
『戦の女神の恋』
1
――神になる前の時代
エーゲ海から吹く風は、春でも少し冷たかった。
アテナは小さな作業机の前で、細い金属線を曲げていた。
真鍮の輪に、銀の糸を編み込む。細かな模様が形を作っていく。指先は慣れたものだった。
彼女の仕事は工芸だった。アクセサリーや小さな装飾品を作り、観光客の多い店に卸す。古い神殿の近くの店で売られることも多く、神話をモチーフにした作品は特に人気だった。
窓の外には、白い石造りの街並みが見える。遠くにはアクロポリスの丘も見えていた。
アテナは作業を止め、机の横に置いたノートパソコンに眼を向けた。画面には、開いたままの論文ページが表示されている。
タイトルは奇妙だった。
「宇宙文明と神話の相関性――神々は宇宙に存在するのか」
思わず苦笑が漏れた。
「ずいぶん大胆な題ね」
だがページを閉じる気にはならなかった。
書いたのは、ギリシャの大学に所属する研究者らしい。名前は
ペトロ・カリディス。
文章は真面目だった。神話を単なる伝説として片付けるのではなく、人類が宇宙文明と接触した記憶なのではないか、と考察している。
オリュンポスの神々。雷を操るゼウス。海を支配するポセイドン。知恵の女神アテナ。
アテナはその名前の部分で、少しだけ指を止めた。
「わたしと同じ名前」
別に珍しいことではない。この国では、神の名前は普通に使われる。
それでも、何となく胸に引っかかるものがあった。
論文は続いていた。
もし宇宙に知性が存在するなら、人類の神話は単なる想像ではない可能性がある。
古代人はそれを神と呼んだ。
今、人類はようやく宇宙へ手を伸ばし始めている。
アテナは腕を組み、椅子に深く座った。
奇妙な感覚だった。
この論文を書いた男は、どこか本気だった。夢想ではない。本当に宇宙に何かがあると信じている。
神々の存在を、信じている。
アテナはしばらく画面を見つめていたが、ふと小さく息を吐いた。
「少し話してみようかしら」
自分でも理由は分からない。
ただ、その論文を書いた人物に興味が湧いた。こんな真剣に神を語る人間がいるのか、知りたくなったのだ。
彼女はキーボードに指を置いた。
メールフォームが開く。
しばらく考え、短く打ち込む。
『あなたの論文を読みました。とても興味深い内容でした。神々が宇宙にいる可能性について、もう少し詳しく聞いてみたいです。』
送信ボタンの上で、指が一瞬止まる。
自分でも少しおかしく思えた。
知らない研究者に、いきなりメールを送る。それも神の話について。
「変に思われるかしら」
だが次の瞬間、アテナは肩をすくめた。
別に構わない。返事が来なければそれまでだ。
彼女はクリックした。
メールは送信された。
そのままノートパソコンを閉じようとしたとき、通知音が鳴った。
アテナは驚いて画面を見た。
こんなに早く?
メールを開く。
文章は長かった。驚くほど熱量があった。
『メールありがとうございます。論文を読んでくれた人がいるのは嬉しいです。神話は単なる物語ではないと私は思っています。人類が宇宙を理解できなかった時代の記録かもしれない。』
読み進めるうち、アテナは思わず笑っていた。
この男は、かなり熱心だった。
神話の構造。古代文明。宇宙物理学。
すべてを結びつけて語っている。
夢物語のようでいて、どこか理論的でもある。
メールの最後に、こう書かれていた。
もしよければ、大学に来ませんか。直接話した方が早いと思います。コーヒーくらいなら出せます。
アテナは画面を見つめた。
ゆっくりと椅子にもたれた。
「大学……」
外では夕方の光が街を染めていた。エーゲ海の風が窓を揺らす。
アテナは再び画面に視線を戻した。
ペトロ。
宇宙を語る男。
神々を信じている研究者。
彼に会ったら、何を思うだろう。
アテナは小さく笑った。
「いいわ」
返信を書いた。
『行ってみます。神について、あなたが何を考えているのか聞いてみたい。』
送信を押す。
その瞬間、アテナの胸の奥に、ほんの小さな期待が生まれていた。
それはまだ、恋ではない。
好奇心だった。
2へ続く
『戦の女神の恋』
2
大学は街の中心から少し離れた場所にあった。
白い建物が並び、石畳の道の両側にはオリーブの木が植えられている。海からの風が静かに葉を揺らしていた。
アテナは入口の前で少し足を止めた。
自分でも少し不思議だった。ただ論文を読んだだけの男に会いに、わざわざここまで来ている。
「変なことしてるわね」
小さく笑ってから建物に入る。
研究室の番号はメールに書かれていた。
廊下を歩いていると、扉が半分開いた部屋があった。中で誰かがパソコンに向かっている。
「ペトロ?」
声をかけると、男が顔を上げた。
思っていたより若い。三十歳前後だろうか。黒い髪が少し乱れていて、眼は驚くほど真剣そうだった。
数秒、二人は黙って見つめ合った。
先に口を開いたのは彼だった。
「あなたが……メールの?」
アテナはうなずいた。
「アテナよ」
その名前を聞いた瞬間、彼の眼が少しだけ大きくなった。
「本当に?」
「え?」
「いや……」
彼は照れたように笑った。
「論文でアテナの話を書いていたから」
アテナもつられて笑った。
「そうみたいね」
空気が少し柔らかくなる。
ペトロは椅子を引いた。
「どうぞ。座って」
研究室は散らかっていた。机には本や論文が積まれ、壁には宇宙の写真や古代遺跡の図が貼られている。
アテナは椅子に座り、周囲を見回した。
「宇宙と神話……本当に両方研究してるのね」
ペトロは少し恥ずかしそうに肩をすくめた。
「変わり者って言われるけどね」
「どうして宇宙に神がいると思うの?」
彼は少し考えてから答えた。
「人類の神話は、あまりにも似ているから」
彼はホワイトボードに簡単な図を書いた。
雷を操る神。海の神。戦いの神。知恵の神。
「文明が違っても、似た神が出てくる」
ペンを置き、アテナを見る。
「もし宇宙文明が昔から地球に関わっていたなら?」
アテナは黙って彼を見つめた。
真剣だった。
本気で信じている。
夢を見る子供のようでもあり、研究者のようでもある。
「面白い考えね」
「信じてくれる?」
アテナは少しだけ笑った。
「全部は。でも、嫌いじゃない」
それだけで彼は嬉しそうだった。
二人はそのあと長く話した。
宇宙。神話。文明。人類の未来。
気づけば外は暗くなっていた。
ペトロが時計を見て驚く。
「もうこんな時間だ」
「お腹空いたわ」
アテナが言うと、彼は笑った。
「近くにいい酒場がある」
夜の街は昼とは別の顔を見せていた。
石造りの通りに灯りがともり、人々の笑い声があちこちから聞こえる。
酒場は小さく、木の扉が古びていた。
中に入ると、ワインと料理の香りが漂う。
二人は奥の席に座った。
赤ワインが運ばれてくる。
グラスを軽く合わせる。
「宇宙の神に」
ペトロが冗談めかして言う。
アテナは微笑んだ。
「宇宙の神に」
ワインは少し強かった。
だが会話は止まらなかった。
ペトロは楽しそうに語り続ける。
宇宙。星。遠い文明。
時々、アテナの顔を見つめる。
その視線に、彼女は気づいていた。
グラスを置いたときだった。
二人の指先が触れた。
ほんの一瞬。
だが互いに引かなかった。
アテナはゆっくりと彼を見た。
ペトロの呼吸が少し乱れている。
「……アテナ」
彼女は何も言わない。
ただ静かに顔を近づけた。
唇が触れる。
最初は軽く。
だが次の瞬間、キスは深くなった。
ワインの香りが混ざる。
時間が少し止まったようだった。
離れたとき、二人は少し息をしていた。
ペトロが小さく言う。
「うち……近い」
アテナは数秒黙っていた。
それから静かに立ち上がる。
「行きましょう」
夜の風が少し冷たい。
だが彼の家へ向かう二人の間には、もう別の熱が流れていた。
3へ続く
『戦の女神の恋』
3
――わたしが去る朝
彼の部屋に入った瞬間、空気が変わった気がした。
外の夜の冷たさとは違う、閉じた空間の熱。ワインの余韻と、さっきまでのキスの続きを求めるような沈黙。
扉が閉まる音が、小さく響いた。
アテナはゆっくりと室内を見渡した。本、机、星図、ベッド。
ここで何が起きるのか、もう分かっていた。
それでも、逃げる理由はなかった。
「……少しだけ、静かね」
そう言うと、ペトロが近づいてくる気配がした。
振り向くより早く、腕が背中に回る。
抱き寄せられる。
その強さに、わたしは一瞬だけ驚いた。
人間の力。
けれど乱暴ではない。確かめるように、離さないように、抱きしめてくる。
胸が触れ合う。
互いの鼓動が、はっきり分かる距離。
「アテナ……」
その声は、酒場のときよりも低く、熱を帯びていた。
わたしは答えない。
ただ、彼の胸に手を当てた。
心臓が速い。
こんなにも、分かりやすく感情が動く存在。
その事実が、どこか愛おしかった。
顔を上げると、すぐ近くに彼の眼があった。
逃げ場はない。
わたしは少しだけ息を吸って――
自分から唇を重ねた。
最初は触れるだけ。
けれどすぐに、彼の腕に力がこもる。
キスが深くなる。
呼吸が混ざる。
わたしの背中をなぞる手が、ゆっくりと下へ滑っていく。
その感触に、思わず身体が反応した。
「……っ」
声が漏れそうになるのを、わたしは飲み込む。
彼はわたしの変化に気づいたのか、さらに優しく、けれど確かに求めてくる。
唇が離れ、首筋へと移る。
温かい吐息。
肌に触れる感覚。
その一つ一つが、妙に鮮明だった。
人間の感覚は、こんなにも細やかなのか。
わたしは眼を閉じた。
抗う理由が見つからない。
服がゆっくりと外されていく。
布が肌を離れるたびに、空気が触れる。
少し冷たいはずなのに、身体は熱を帯びていた。
彼の手が、素肌に直接触れる。
その瞬間、わたしは小さく息を吸った。
「きれいだ……」
またその言葉。
けれど今度は、さっきよりも近く、深いところで響いた。
わたしは彼の肩に腕を回した。
人間の身体。
温かくて、不安定で、強く求めてくる。
ベッドに倒れ込む。
視界が揺れる。
彼の重みが重なる。
逃げようと思えば逃げられる。
けれど、わたしは動かなかった。
むしろ――
彼を引き寄せた。
「……来て」
自分でも驚くほど自然な言葉だった。
その一言で、彼の動きが変わる。
遠慮が消える。
だが乱暴にはならない。
求めながらも、確かめるように触れてくる。
肌と肌が重なる。
体温が溶け合う。
呼吸が乱れていく。
わたしは彼の名前を呼びそうになって、やめた。
代わりに、彼の背中を強く掴む。
それだけで十分だった。
夜は短かった。
情熱は何度も波のように押し寄せ、そのたびに身体と意識が揺れる。
人間の感情は、こんなにも激しいのか。
こんなにも――
満たされるものなのか。
やがて、すべてが静まる。
わたしたちは同じベッドの上で、息を整えていた。
彼の腕の中で、わたしはしばらく動かなかった。
この時間が終わることを、どこかで理解していたから。
朝。
光で目が覚める。
わたしは静かに身体を起こした。
隣で彼が眠っている。
昨夜とはまるで別人のように、穏やかな顔。
その無防備さに、少しだけ笑みがこぼれる。
わたしはベッドから降り、窓の前に立った。
裸のまま。
朝の光が肌をなぞる。
昨夜の余韻が、まだ身体に残っている。
指先で、自分の腕を軽くなぞる。
そこには確かに、彼の記憶が残っていた。
わたしは振り返る。
ペトロを見つめる。
ゆっくり近づき、ベッドの横に座る。
手を伸ばし、彼の頬に触れる。
温かい。
生きている温度。
「……不思議」
小さく呟く。
人間は弱い。
けれど、こんなにも強く、誰かを求める。
宇宙のことを考えながら、こんなふうに愛する。
わたしはしばらくそのまま手を置いていた。
だがやがて、静かに離す。
ここにはいられない。
分かっている。
わたしは立ち上がり、服を身につける。
一度だけ、彼を振り返る。
起こそうとは思わなかった。
言葉を交わせば、きっと迷う。
だから――何も残さない。
扉を開ける。
外はもう明るい。
わたしはそのまま歩き出した。
振り返らない。
空の向こうへ。
帰るべき場所へ。
――
彼はその後、わたしを探した。
けれど見つからない。
残ったのは、名前だけ。
アテナ
ある日、彼は画面の中の女神を見つめていた。
その眼に、わたしを重ねながら。
『戦の女神の恋』 完
フレイヤの誘惑
# フレイヤの誘惑 Ⅰ
街に降り立った瞬間から、空気が変わっていた。
石畳の通りを歩くだけで、人々の視線が彼女へ集まる。カフェの男たちは会話を止め、店先で煙草を吸っていた若者は、火を落としたことにも気づかない。信号待ちの女は恋人の腕へ身体を寄せ、通りの向こうでは、さっきまで口論していたらしい男女が突然抱き合っていた。
フレイヤは何もしていない。
ただ歩いているだけだった。
白いワンピースの裾を揺らし、午後の光の中を静かに進んでいく。その金色の髪に風が触れるたび、街の熱は少しずつ上がっていくようだった。
彼女は小さな店でアイスを買い、公園のベンチへ腰を下ろした。周囲では子供たちが遊び、噴水の水音が静かに響いている。
アイスを一口舐める。
人間の食べ物は嫌いではない。神々の宴にはない、不完全な味がするからだ。
「やっぱり君だったか」
声が聞こえた。
フレイヤは視線だけを横へ向ける。
細身の男が、いつの間にか隣へ座っていた。
黒いジャケット。長い指。笑っているのに、どこか信用できない眼。
ロキだった。
「ずいぶん普通に現れるのね」
フレイヤが言うと、ロキは肩をすくめる。
「普通じゃないのは君の方だよ」
彼は顎で街の方を示した。
「君が現世へ降りてきただけで、愛の指数が跳ね上がってる」
「愛の指数?」
「そう。ほら、周りを見てごらん」
フレイヤはゆっくり視線を巡らせた。
通りの向こうで、カップルがキスをしている。カフェの奥でも、若い男女が額を寄せ合い、駅前では恋人同士らしい二人が強く抱き合っていた。
公園の空気そのものが、少し熱を帯びている。ロキは笑った。
「君のせいだ」
フレイヤはその光景を見つめ、そして楽しそうに微笑んだ。
「いいじゃない」
彼女はもう一口、アイスを舐める。
「愛って素敵よ」
その言葉を聞き、ロキは小さく吹き出した。
「相変わらずだな」
「何が?」
「人間が好きすぎる」
フレイヤは答えなかった。
だが否定もしない。
彼女は人間が嫌いではなかった。愚かで、弱く、すぐ傷つく。それでも愛を求め続けるところが、妙に美しく見えることがある。
噴水の水が光を反射する。
風が吹き、フレイヤの髪が揺れた。
その瞬間、公園の向こうで若い男が突然恋人を抱き寄せ、激しくキスを始めた。
ロキが笑う。
「ほら、また一組増えた」
「いいことじゃない」
「現世の恋愛統計が狂うんだけど」
「細かいわね」
ロキは呆れたように空を見上げた。
「だから神々は嫌なんだ」
フレイヤは最後の一口を食べ終え、立ち上がった。
「どこ行くの?」
「散歩」
「また誰か人生狂わせる気?」
「失礼ね」
そう言い残し、彼女は歩き出す。
ロキはベンチに座ったまま、去っていく背中を眺めていた。
「……いや、本当に失礼じゃないんだけどな」
小さく呟き、苦笑する。
フレイヤは街を歩き続けた。
夕方が近づき、人通りはさらに増えていく。レストランからは料理の香りが漂い、書店の前では学生たちが議論をしている。
そのときだった。
誰かが通行人とぶつかる音がした。
「あっ……すみません!」
大量の本を抱えていた男が、バランスを崩して転びかける。
持っていた本が歩道へ散らばった。
周囲の人間は迷惑そうに避けていく。誰も拾おうとはしない。
フレイヤは立ち止まった。
男は細身で、冴えない印象だった。黒髪は少し乱れ、眼鏡もずれている。服装も地味で、明らかに街の空気から浮いていた。
「ああ……」
彼は情けなさそうにしゃがみ込み、本を拾い始める。
そのうちの一冊が、フレイヤの足元へ滑ってきた。
彼女はゆっくりとそれを拾い上げる。
表紙には文字が書かれていた。
『ギリシャ神話についての考察』
フレイヤは少しだけ眼を細めた。
興味が湧く。
人間が神々をどう見ているのか、それを見るのは嫌いではない。
彼女はページをめくった。
そこには、愛の女神とは、人類の欲望を象徴した存在である。と書かれていた。
フレイヤは小さく笑う。
「ずいぶん勝手に分析するのね」
男が顔を上げる。
彼女を見た瞬間、動きを止めた。
時間が止まったみたいだった。
フレイヤはその反応を見て、さらに面白くなる。
彼女は本を閉じ、男へ差し出した。
「落としたわよ」
男は慌てて受け取る。
「あ、ありがとうございます……」
声が少し裏返っていた。
フレイヤはその様子を見つめながら思う。
この男。恋を知らない眼をしている。
だからこそ、少し興味があった。
2へ続く
フレイヤの誘惑 Ⅱ
「落としたわよ」
フレイヤが本を差し出すと、男は慌てたように両手で受け取った。持っていた本の山がまた崩れそうになり、彼は危うく膝で支える。
「あ、ありがとうございます……」
声は少しかすれていた。
フレイヤは黙ったまま彼を見ていた。眼鏡は明らかにサイズが合っていない。少し大きすぎるのか、彼は何度も指で位置を直している。黒髪は整っていないし、シャツの袖も微妙に長い。
人間としては目立たない部類だろう。
けれど、その眼だけは妙に真剣だった。
男は本を抱え直し、ようやく彼女の顔をちゃんと見た。
その瞬間だった。
「……フレイヤ?」
彼は思わず、というように口にした。
フレイヤはわずかに眼を細める。
胸の奥が、小さく揺れた。
自分の名前を言い当てられるとは思っていなかったからだ。
周囲の人間たちは、彼女を見れば美しい女だと思う。だが、それだけだ。まさか本当に神の名を口にする者がいるとは。
「どうして、その名前を?」
男はハッとしたように顔を赤くした。
「あ、いや……その」
彼は眼鏡を押し上げる。
「すみません、美しい女神に似ていたもので」
フレイヤは少し黙ったあと、ふっと笑った。
「口が上手いのね」
「そ、そんなつもりじゃ」
「本気で言ってる顔してるわ」
男はさらに困ったような顔になる。
フレイヤはその反応が面白かった。
彼は他の男たちとは違う。欲望に飲まれている感じが薄い。もちろん惹かれてはいるのだろうが、それ以上に、目の前の存在を理解しようとしている眼をしている。
それが珍しかった。
「ねえ」
フレイヤは少し身体を傾けた。
「時間ある?」
男は完全に動きを止めた。
「え?」
「お茶でもしながら話しましょうよ」
夕方の光が石畳へ長い影を落としていた。
カフェは川沿いにあった。古い建物を改装した店で、窓際の席から水面が見える。
フレイヤは椅子へ腰を下ろし、向かいに座る男を見た。
彼はまだ緊張していた。
カップを持つ指が少し硬い。
「そんなに警戒しなくても取って食べたりしないわ」
「してるわけじゃ……」
「してる」
フレイヤは笑う。男は観念したように息を吐いた。
「……ミハエルです」
「フランス系?」
「はい。今はこっちの大学に」
「神話を研究してるのよね」
ミハエルの表情が少し変わる。
緊張よりも、熱が出てくる顔だった。
「ええ。ギリシャ神話が中心ですけど、北欧神話もかなり」
「へえ」
フレイヤは頬杖をつきながら彼を見る。
「そんなに面白い?」
「面白いですよ」
今度の返事は速かった。
「神話って、人類の想像力の集合みたいなものだから」
さっきまで頼りなさそうだった男が、急に言葉を持ち始める。
フレイヤはそれを黙って聞いていた。
「神々って、ただの超越存在じゃないんです。嫉妬もするし、怒るし、愛もする。人間よりずっと人間的なところがある」
「例えば?」
ミハエルは少し考えた。
「北欧神話なら……やっぱりフレイヤとか」
フレイヤはそこで少しだけ笑みを深くした。
「フレイヤって、どんな女神なの?」
ミハエルは完全に研究者の顔になった。
「愛と美の女神として有名ですけど、それだけじゃないんです。戦いとも関係が深いし、死者を導く側面もある」
言葉が止まらなくなる。
「それに神話だと、彼女が歩くだけで神々や人間が魅了される描写がある。欲望とか恋愛そのものを象徴してる存在というか……」
フレイヤは窓の外へ視線を向けた。
通りでは、また恋人同士が抱き合っている。
彼女は小さく笑う。
「迷惑な女ね」
「でも魅力的です」
ミハエルは真面目な顔で言った。
「神話って誇張も多いけど、それでもフレイヤは特別なんです。自由で、美しくて、誰にも縛られない」
彼は少し視線を逸らした。
「……たぶん、憧れてるんだと思います」
フレイヤはその横顔を見つめる。
面白い男。
欲望だけで近づいてこない。神話の向こう側を見ようとしている。
「あなた、恋人いる?」
突然聞かれ、ミハエルが咳き込んだ。
「い、いません」
「でしょうね」
「どういう意味ですか」
「本ばっかり読んでる顔してるもの」
ミハエルは困ったように笑う。
その反応を見ていると、フレイヤは妙に楽しかった。
時間が過ぎていく。
神話の話。宇宙の話。愛の話。
気づけば窓の外は橙色になっていた。
夕陽が川を染めている。
ミハエルはそこでようやく時間に気づいたようだった。
「……もうこんな時間か」
フレイヤは頬杖をついたまま彼を見る。
夕陽の光の中で、彼の横顔は少しだけ大人びて見えた。
彼女は思う。この男はまだ知らない。
今、自分が語っていた女神本人と向かい合っていることを。
3へ続く
フレイヤの誘惑 Ⅲ
カフェを出ると、街は夜へ沈み始めていた。
石畳には昼の熱がまだ少し残っていて、店々の灯りが窓へ滲んでいる。通りでは恋人たちが肩を寄せ合い、遠くから音楽も聞こえていた。
フレイヤはゆっくり歩きながら、隣のミハエルを見ていた。
彼はまだ神話の話をしている。
オーディンの知識への執着。ロキの曖昧な立場。愛の神々が文明ごとに違う姿をしていること。
話している時だけ、彼は妙に生き生きしていた。
普段は目立たない男なのだろう。人混みの中にいれば、誰も彼を見ないかもしれない。けれど言葉の奥には熱がある。何かを信じ続けている人間の熱だった。
「ねえ」
フレイヤが不意に言う。
「まだ帰りたくないわ」
ミハエルは少し驚いたように彼女を見る。
「え?」
「ワイン、飲まない?」
「今から?」
「そう」
彼は困ったように笑った。
「でも、時間も遅いし」
「いいじゃない」
フレイヤは立ち止まり、彼の袖を軽く引いた。
「来なさいよ」
「いや、でも……」
「遠慮するの?」
彼女は少しだけ意地悪く笑う。
その笑みを見た瞬間、ミハエルは言葉を失った。
人間が抗える種類の微笑みではなかった。
結局、彼は何も言えないまま、彼女についていく。
アパートは街の外れにあった。
古い建物だったが、部屋へ入ると空気が変わる。
甘い香りがした。
花のようでもあり、酒のようでもあり、どこか眠気を誘う匂いだった。
ミハエルは靴を脱ぎながら部屋を見回す。
綺麗とは言えない。
服がソファへ投げられ、本が床へ積まれ、机の上には開きっぱなしの雑誌とグラスが置かれている。
けれど彼には、それが奇妙に美しく見えた。
女神の部屋。
そんな言葉が頭をよぎる。
フレイヤは冷蔵庫からワインを取り出した。
「座って」
ミハエルはぎこちなくソファへ腰を下ろす。
グラスが渡される。
赤い液体が灯りを反射して揺れていた。
「乾杯は?」
「何に?」
フレイヤは少し考え、それから笑った。
「愛に」
グラスが軽く触れ合う。
ワインは思ったより強かった。
ミハエルは数口飲んだだけで、身体が熱くなるのを感じていた。
酒のせいだけではない。
部屋の香り。彼女の視線。近すぎる距離。
すべてが感覚を曖昧にしていく。
フレイヤは向かいではなく、いつの間にか隣へ座っていた。
肩が触れそうな距離。
「顔、赤いわよ」
「……少し酔っただけです」
「弱いのね」
笑いながら、彼女はミハエルの髪へ触れた。
その指先に、彼の呼吸が止まりそうになる。
神話を語る時の冷静さは、もう残っていなかった。
フレイヤはその変化を感じ取っていた。
人間は面白い。
知識や理性を積み上げても、触れられるだけで簡単に揺れる。
けれど、それを嫌だとは思わない。
むしろ愛おしい。
ミハエルは何か言おうとしたが、視界が少し揺れた。
「あ……」
身体が傾く。
フレイヤは小さく笑い、彼の腕を取った。
「ほんとに弱いのね」
倒れるようになった彼を支え、そのままベッドへ連れていく。
ミハエルは半分眠りながら、ぼんやり彼女を見上げた。
フレイヤはベッドの端へ腰掛ける。
静かな夜だった。
窓の外では街の音が遠く響いている。
彼女はミハエルの顔を見つめていた。
不思議だった。
神々にも、人間にも、恋人たちにも、欲望にも、これまで何度も触れてきた。愛され、求められ、奪い合われることにも慣れている。
なのに今、胸の奥にある感情は少し違っていた。
もっと静かで、柔らかい。
ミハエルの頬へ手を伸ばす。
指先に少しざらつきが触れる。髭だった。
フレイヤは少し楽しそうに笑う。
「人間って、こういうところがあるのね」
彼は眠そうに眼を細めた。
その無防備さを見ていると、奇妙に心が落ち着く。
フレイヤは身体を屈めた。
彼の唇へ、静かに口づける。
長いキスだった。
激しくはない。
けれど深く、熱がゆっくり溶け込んでいくような口づけだった。
ミハエルは夢の中みたいに、その感触を受け入れていた。
彼女の香り。唇の熱。柔らかな呼吸。
意識が沈んでいく。
フレイヤはしばらく彼を見つめ、それから静かに立ち上がった。
窓の外には、夜の終わりが近づいていた。
朝になった。
ミハエルが目を覚ますと、部屋は静まり返っていた。
身体を起こす。
眩しい朝日がカーテンの隙間から差し込んでいる。
昨夜の部屋とは違っていた。
散らかっていたはずの部屋には何もない。
服も、本も、ワインの瓶も。
まるで最初から誰も住んでいなかったみたいに、綺麗に消えている。
ミハエルはしばらく呆然としていた。
夢だったのか。
酔って眠って、妙な幻想を見ただけなのか。
そう思いかけた時、不意に頬へ触れる。
まだ温かい気がした。
唇にも、熱の記憶が残っている。
ミハエルは窓の外を見る。
朝日が街を照らしていた。
新しい一日が始まろうとしている。
けれど彼は知っていた。
昨夜、自分は確かに何かへ触れたのだと。
人間ではない何か。
神話の向こう側にいる存在へ。
『フレイヤの誘惑』 完
忘却の秋
忘却の秋 1
目を覚ました時、窓の外では薄い灰色の空が広がっていた。
ストックホルムの秋は静かだ。夏の名残はもう消えかけていて、街路樹の葉は黄色と赤へ変わり始めている。朝の光も弱く、どこか世界そのものが眠そうに見えた。
ロキはベッドの上で仰向けになったまま天井を眺めていた。隣では男がまだ眠っている。昨夜、名前を聞いた気もするが忘れた。覚えているのは酒場で出会ったことと、サッカーの話で盛り上がったことくらいだった。男は幸せそうな顔で眠っている。ロキは少しだけ笑った。
人間は面白い。一晩一緒に過ごしただけで、何か特別な意味を見つけようとする。けれどロキは知っている。どんな愛も永遠ではない——神々ですらそうなのだから。
彼は静かにベッドから降りて服を着た。冷たい床が足裏に心地良い。男を起こさないよう部屋を出ると、朝の空気が肺へ流れ込んできた。
街はまだ目覚めきっていない。パン屋が開店準備をしていて、路面電車がゆっくり走っていく。ロキはポケットへ手を入れ、そのまま歩き始めた。行き先はない。昔からそうだった。神々の世界にいた頃も、現世へ降りてからも、どこかへ向かうという感覚が薄い。
風が吹き、落ち葉が石畳を転がっていった。
その時、歓声が聞こえた。広場の向こうで人が集まっている。ロキは興味本位で近づいた。小さなパブの前に大型モニターが置かれ、サッカーの試合が流れていた。平日の昼間だというのに人が多く、熱狂している。叫び声が飛び交い、誰かが机を叩く。ロキはその光景を眺めながら笑う。戦争も恋愛も競技も、人間は本当に熱中する。
その中に、一際大きな声があった。
「違うだろ! そこはパスだ!」
黒髪で日焼けした顔の男だった。身振りが大きく、今にも画面へ飛び込みそうな勢いで叫んでいる。ロキは思わず吹き出した。男が振り返る。
「何がおかしい?」
「いや」とロキは肩をすくめた。「君が監督より真剣そうだったから」
男は一瞬黙り、それから豪快に大笑いした。「確かにな!」そう言いながら手を差し出してくる。
「ロベルトだ」
「ロキ」
握手する。力が強い。
その瞬間から会話が始まった。好きなチーム、好きな選手、歴代最高のゴール。ロキは実際には大して興味がなかったが、人間の熱量を見るのは好きだった。ロベルトは話しているうちにどんどん表情が豊かになる。笑い、怒り、興奮する。まるで感情そのものが服を着て歩いているような男だった。
気づけば試合は終わっていた。周囲の客も帰り始めるが、それでも二人の話は続いている。ロベルトがビールを飲みながら言った。
「お前、変な奴だな」
「よく言われる」
「でも嫌いじゃない」
ロキは少しだけ目を細めた。人間は時々こういうことを言う。何気なく。だが、それが妙に胸へ残る。フレイヤが消えてから、そんな言葉を聞く機会は減っていた——思い出したくない名前だった。
ロキは空を見上げた。雲が流れている。秋の空は、どこまでも高かった。
「また会えるか?」とロベルトが聞く。ロキは答えなかった。代わりに笑った。その笑顔を見て、ロベルトも笑う。まるで約束が成立したみたいに。
夕方になり、二人は駅で別れた。ロキは一人で歩く。街灯が灯り始め、ストックホルムの夜が静かに広がっていく。
ロベルトという男のことを考えている自分に気づき、ロキは苦笑した。人間は感染する——感情という病気を。それが面白いから、何度も彼らの世界へ降りてきてしまうのだろう。
風が吹いた。落葉が舞い上がる。ロキはコートの襟を立て、そのまま夜の街へ消えていった。
忘却の秋 2
ロベルトと別れてから数日が過ぎていた。
ストックホルムの秋はさらに深まっている。木々は色づき、風は冷たくなり、夕方になると街全体が薄い琥珀色に染まる。ロキは相変わらず気ままに暮らしていた。今日は港を歩き、明日は古書店へ入り、気が向けば知らない人間と酒を飲む。誰とも深く関わらない。それが楽だった——そう思っていた。
だが不思議なことに、最近はロベルトの顔を思い出すことが増えていた。あの豪快な笑い方。興奮すると身振りが大きくなる癖。どうでもいいサッカーの話を何時間でも続けられる熱量。神々の世界にはあまりいない種類の人間だった。
その日の夜も、ロキは酒場へ入った。木造の古いバーで、薄暗い照明の下にカウンターの常連客が並び、奥では誰かが静かにジャズを流している。ロキは席へ座り、ウイスキーを注文した。一口飲む。悪くない。だが少し退屈だった。
周囲を見回していた時、隣から声が聞こえた。
「それ、美味しい?」
黒い髪に鋭い眼、革のジャケットを着た女性だった。年齢は二十代後半くらいだろうか。彼女はロキのグラスを見ながら笑っている。
「あたし、飲んだことないんだよね」
ロキは少し面白くなった。「じゃあ飲んでみる?」
「いいの?」
「減るものじゃない」
女性はグラスを受け取り、一口だけ飲んだ。数秒沈黙する。そして顔をしかめた。
「苦っ」
ロキは吹き出した。彼女も笑う。
それだけだった。それだけなのに、なぜか会話が続いた。
彼女の名前はスンヒョンだった。韓国系の家族を持つらしく、仕事の都合でストックホルムへ来ているという。
「あたし酒強いよ」
と突然言った。
ロキは眉を上げる。
「挑戦状?」
「そう聞こえた?」
「聞こえた」
スンヒョンは笑った。挑発的な笑い方だった。ロキは嫌いじゃない。
一時間後、テーブルには空いたグラスが並んでいた。二時間後にはさらに増え、周囲の客が時々こちらを見ている。そして三時間後、スンヒョンは机へ額を押し付けていた。
「負けた……」
「意外と粘ったね」とロキは平然と言う。正確には人間とは身体の構造が違う。飲み比べなど勝負にならない。だがスンヒョンは知らない。
彼女は顔を上げた。
「悔しい」
「また今度やればいい」
「絶対勝つ」
ロキは笑った。その表情を見て、スンヒョンも笑う。負けたのに楽しそうだった。人間は面白い——勝敗より、一緒に過ごした時間を喜ぶことがある。
夜はさらに深くなり、店の客も少なくなっていた。二人はカウンターへ移動し、今度は酒ではなく話をしていた。仕事の話、旅行の話、子供の頃の話。気づけばロキも少し話していた。もちろん本当のことは言わない。神々の話も、世界の裏側の話も。けれど嘘ばかりでもなかった。孤独について、人と別れることについて、失うことについて——そのあたりだけは本音だった。
スンヒョンは黙って聞いていた。途中で茶化したりしない。慰めたりもしない。ただ聞いていた。それが少し意外だった。
「ねえ」とスンヒョンが言う。「ロキってさ」
「うん」
「どっか行っちゃいそう」
ロキは少し笑った。「そう?」
「うん」
彼女はグラスを回しながら続ける。「今ここにいても、心は別の場所にあるみたい」
ロキは答えなかった。図星だったからだ。スンヒョンは肩をすくめる。「ま、あたしの勘だけど」
外へ出ると夜風が冷たかった。二人は駅まで並んで歩く。落葉が風に舞い、街灯の光が石畳へ伸びている。
別れ際、スンヒョンは振り返った。「また飲もう。あたしが勝つまで」
「無理だと思う」
「むかつく」
その言葉に二人とも笑った。電車が来て扉が開く。スンヒョンは乗り込む前にもう一度ロキを見た。ほんの一瞬だけ、何かを確かめるように。そして手を振る。ロキも軽く手を上げた。
電車は走り去る。静かになったホームで、ロキは一人になった。
ロベルト。スンヒョン。数日前までは知らなかった名前。それなのに、もう少し会いたいと思っている。その事実に気づき、ロキは小さくため息をついた。人間は本当に厄介だ。近づけば近づくほど、離れる時が難しくなる。
風が吹いた。秋の匂いがした。ロキはコートのポケットへ手を入れ、そのまま夜の街へ歩き出した
忘却の秋 3
十月の終わりだった。
ストックホルムの空は低く、午後になるともう夕方の気配が漂っている。街路樹はほとんど葉を落とし、風は冬の匂いを運んでいた。ロキは港の近くの遊歩道を歩いていた。海は灰色で、空も灰色で、その境界だけが曖昧に溶け合っている。人間なら寂しい景色だと思うのだろう。だがロキは嫌いではなかった。世界が静かな時、人の心はよく見える。
ポケットの中で携帯が震えた。ロベルトだった。『今夜空いてるか』——相変わらず短い文章だった。ロキは少し笑い、返事を送る。『空いてる』。数分後。『じゃあいつもの店』。それだけだった。
夜になると店にはロベルトだけではなく、スンヒョンもいた。どうやらロベルトが呼んだらしい。
「よお!」とロベルトは相変わらず大きな声だった。
「また酒で負けるために来たの?」ロキが言うと、スンヒョンが睨む。「あたしは今日こそ勝つ」
「前も聞いた」
「今日は違う」
ロベルトが笑い出し、その笑い声につられてスンヒョンも笑う。ロキも笑った。不思議だった。こんな時間は久しぶりだった。神々の世界では得られない時間——誰かと酒を飲み、くだらない話をして、ただ笑うだけの夜。
ロベルトはサッカーの話をした。スンヒョンは仕事先で起きた変な出来事を話した。気づけば深夜になっていた。店の客はほとんど帰り、窓の外では小さな雪が降り始めていた。初雪だった。
ロベルトがグラスを置く。「なあ」珍しく真面目な声だった。
「お前さ」
少し迷い、言葉を探す。
「そのうちいなくなるだろ」
店の空気が静かになった。スンヒョンも何も言わない。
ロキは小さく笑った。
「どうしてそう思うの」
「分かるんだよ」
ロベルトは窓の外を見る。
「お前は最初からそういう顔してる。なんていうかな」と少し困ったように頭をかく。
「ずっとどこか遠く見てる」
スンヒョンも頷いた。
「あたしも思ってた」
彼女はグラスを回しながら言葉を選ぶ。
「儚いとかじゃない。危うい」
ロキは二人を見た。人間は時々驚くほど本質を見る。だから面白い。だから厄介だ。
「心配してくれてるの?」
「当たり前だろ」
ロベルトは即答した。まるで当然のことのように。
その言葉が妙に胸へ残る。何百年も、何千年も、数え切れないほどの出会いを経験してきた。神も、悪魔も、英雄も、王も。けれど人間はいつも同じだ。短い人生しか持たないくせに、誰かを気にかける。失うと分かっていても近づく。その愚かさが、時々眩しい。
夜は終わった。店を出ると、雪が少し積もり始めていた。三人は駅前で立ち止まる。
「またな」
「また飲もう」
とスンヒョンも言う。
ロキは二人を見つめた。返事をしようとして、やめる。代わりに笑った。いつもの笑顔だった。けれど二人は少し違和感を覚えた。まるで別れの挨拶みたいだったから。
翌日、ロベルトは携帯を見ていた。連絡がない。メッセージを送る。返事は来ない。夜になっても来ない。翌日も、その翌日も。スンヒョンにも連絡が届いた。『ロキから連絡来た?』『来てない』。二人はそれぞれ街を探した。バー、港、公園——ロキが好きだった場所。どこにもいない。まるで最初から存在していなかったみたいに。
数週間後、雪が本格的に降り始めた頃、ロベルトはサッカー中継を見ていた。隣の席は空いている。以前なら、くだらない茶々を入れる男がいた。ロベルトは苦笑しながら小さく呟いた。
「馬鹿野郎」
どこにいるのかも分からない。それでも元気でいてほしいと思う。あいつは消えてしまいそうだったから。
一方、スンヒョンはバーで一人飲んでいた。グラスを見つめながら、ふとロキの顔を思い出す。最後の夜の笑顔——あれは別れを決めた人間の顔だった。いや、人間ではなかったのかもしれない。そんな気さえする。彼女は小さく息を吐いた。
「ちゃんと生きなさいよ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
その頃、ロキはストックホルムを離れていた。雪に覆われた北の空を見上げると、夜空には無数の星が輝いている。フレイヤはいない。人間たちもいつか老いる。出会いは終わる。どんな恋も終わる。それでも——ロベルトの笑い声と、スンヒョンの少し乱暴な優しさは、消えずに残っていた。
ロキは静かに笑う。
忘却の秋 完
『ロンドンの夏』
1
ロンドンの空は朝から曇っていた。
デメテルは両手に紙袋を抱えながら歩いていた。週末の買い物を終えたばかりで、パンや野菜、それに紅茶の葉が入っている。通りには多くの人が行き交い、観光客らしい人々が写真を撮り、ビジネスマンたちが足早に横切っていく。そんな光景を見ながら、彼女はいつものように穏やかな気持ちで歩いていた。神々の世界を離れて長い時間が経っていた。今では小さなアパートで暮らし、近所の市場で買い物をし、時々公園で読書をする。人間たちの生活は忙しく、騒がしく、それでいてどこか温かい。デメテルはそうした日常を嫌いではなかった。
その時だった。前方で誰かの悲鳴が聞こえた。振り返ると、一人の老婆が歩道へ倒れている。買い物袋が地面に散らばり、人々が慌てて立ち止まる。だが誰もどうしていいか分からないらしく、遠巻きに見ているだけだった。デメテルは反射的に駆け出した。
「大丈夫ですか!」
老婆の傍らへ膝をつく。顔色が悪く、呼吸も苦しそうだった。その時、別の足音が近づいてきた。
「場所を空けてください!」
低く力強い声だった。黒人の男性が人垣をかき分けるようにして近づいてくる。年齢は三十代半ばくらいだろうか。落ち着いた目をしていた。彼はすぐに老婆の脈を確認し、胸元へ手を当てた。その動きには迷いがなかった。
「心臓発作の可能性があります。救急車を呼んでください」
デメテルは一瞬だけ動きを止めたが、すぐにスマートフォンを取り出した。指が少し震える。番号を押しながら、なぜか胸が高鳴っていた。男性は老婆へ声をかけ続けている。落ち着いていて、冷静で、周囲の混乱に飲み込まれていない。デメテルは救急隊へ状況を説明しながら、その姿を見ていた。
やがて救急車が到着する。老婆はストレッチャーへ乗せられ、病院へ搬送されていった。デメテルも男性も、なぜかそのまま病院へ付き添うことになった。
待合室は静かだった。白い壁、規則正しい足音、消毒液の匂い。二人は並んで座っていた。先ほどまでの緊張が少しずつ解けていく。
「助かると思いますか」
デメテルが尋ねると、男性は頷いた。
「処置は早かったですから」
その声を聞いて、ようやく彼女は安心した。しばらくして医師が現れ、老婆の命に別状はないと告げる。二人はほぼ同時に息を吐いた。それがおかしくて、顔を見合わせる。初めて笑った。
「助かって良かったですね」
「本当に」
病院を出る頃には夕方になっていた。曇り空の向こうから弱い陽射しが差し込み、街を柔らかく照らしている。
「お礼と言うのも変ですが、もし時間があるなら、紅茶でもどうですか」
デメテルは少し驚いた。だが断る理由はなかった。病院の近くの小さなカフェへ入る。木のテーブルと赤い椅子が並ぶ落ち着いた店だった。紅茶が運ばれてくる。湯気が立ち上る。そこで初めて互いの名前を知った。
「アンドリューです。医師をしています」
「デメテルです」
彼女も微笑み返した。その名前を聞いても、彼は特に不思議そうな顔をしなかった。神話の女神と同じ名前ですね、などとも言わない。ただ自然に受け入れていた。そのことが少し嬉しかった。
会話は思った以上に弾んだ。医療のこと、ロンドンのこと、好きな食べ物、休日の過ごし方。気づけば紅茶は二杯目になっていた。夕方の光が窓へ差し込み、店内を黄金色に染めている。デメテルは久しぶりに楽しいと思った。神々とも人間とも違う、ただ一人の男性との会話が。
帰る前、アンドリューが少し遠慮がちに言う。
「もし良ければ、連絡先を交換しませんか」
デメテルは小さく笑った。
「はい」
二人はメッセージアプリのアカウントを交換する。それは本当に些細な出来事だった。
2
それから、毎日のようにメッセージが届くようになった。最初は短いものだった。
「仕事終わりました。今日は救急外来が戦場でした」
「市場で良いトマトを見つけました。ロンドンにもちゃんと美味しい野菜はあるんですね」
そんなやり取りが続くうちに、二人の間の距離は自然と縮まっていった。アンドリューは忙しい人だった。夜勤も多く、急に呼び出されることもある。それでも彼は時間を見つけてはデメテルへ連絡を送ってきた。ある雨の日、彼はこう送ってきた。
「病院の窓から外を見ていたら、あなたが好きそうな空だと思った」
デメテルはその文章を読んで、しばらくスマートフォンを見つめていた。神々の時代にも、詩人や恋人たちは空を見て誰かを思った。人間は何千年経っても変わらない。そのことが、なぜか胸を温かくした。
二人は何度も会うようになった。テムズ川沿いを歩き、古本屋を巡り、小さなレストランで食事をした。アンドリューは落ち着いた人だったが、笑うと少年のような顔になる。その笑顔を見るたびに、デメテルの心は少しずつほどけていった。
ある夜、二人はサウスバンクのバーでワインを飲んでいた。窓の外にはロンドン・アイの灯りが揺れている。
「あなたといると、不思議と疲れが消えるんです」
アンドリューが静かに言った。デメテルはグラスを傾けながら彼を見る。
「医者って、いつも人を支える側でしょう」
「だからかもしれません。誰かと静かに話せる時間が、すごく貴重なんです」
彼の言葉は飾り気がなかった。だからこそ、まっすぐ心へ届いた。
その帰り道、橋の上で風が吹いた。デメテルの髪が揺れる。アンドリューはそっと彼女の髪を耳へかけた。その指先の優しさに、デメテルは自分がもう引き返せない場所まで来ていることを知った。
「寒いですか」
「少しだけ」
彼は自分のコートを脱ぎ、彼女の肩へかける。デメテルは小さく笑った。
「あなたは優しすぎるわ」
「そうですか?」
「ええ。人間にしては」
冗談めかして言うと、アンドリューは不思議そうに笑った。
その夜、二人は自然な流れで彼の家へ向かった。部屋は整然としていた。医学書が並び、窓際には小さな観葉植物が置かれている。デメテルはソファへ座り、静かに部屋を見回した。
「あなたらしい部屋ね」
「つまらないでしょう」
「いいえ。安心するわ」
アンドリューはキッチンで湯を沸かし、紅茶を淹れた。二人でカップを持ちながら、しばらく何も話さなかった。沈黙が苦しくない。それが心地良かった。やがてアンドリューがゆっくりと彼女の手を取った。
「デメテル」
名前を呼ばれるだけで、胸が静かに震える。彼は彼女の眼を見つめていた。急がない。確かめるような視線だった。デメテルはその手を握り返し、静かに頷いた。
キスは穏やかだった。夏の夜の風のように、ゆっくりと重なっていく。彼の唇は温かく、抱き寄せられた時、デメテルは長い間忘れていた安堵を感じた。ベッドへ横になると、窓の外で遠くのサイレンが鳴っていた。ロンドンの夜は眠らない。けれど二人の世界だけが静かだった。
アンドリューは彼女を大切に扱った。急がず、無理をさせず、何度も彼女の顔を見て微笑む。そのたびに、デメテルは人間の愛の柔らかさを知っていく。神々の愛は激しく、永遠を求める。人間の愛はもっと脆く、だからこそ優しい。その違いを、彼女は彼の腕の中で静かに感じていた。
夜が更ける頃、アンドリューが小さく囁く。
「好きです」
デメテルは目を閉じた。そして彼の胸へ額を寄せながら、静かに答えた。
「わたしも」
その言葉は嘘ではなかった。本当に、彼を愛し始めていた。
3
夏は思ったより早くやって来た。
ロンドンにも珍しく暑い日が続き、公園の芝生には寝転ぶ人々が増え、街角のカフェでは冷たい飲み物を求める客が列を作っていた。デメテルは窓を開け放ち、風を部屋へ入れていた。遠くで子供たちの笑い声が聞こえる。平和な午後だった。テーブルの上にはアンドリューから届いたメッセージが表示されている。
「今日は少し早く終われそうです。夕食でもどうですか」
その文章を見つめながら、デメテルは長い間動かなかった。その日は来ると分かっていた。最初から。人間と神では流れる時間が違う。どれだけ近づいても、どれだけ愛しても、その事実だけは変えられない。彼女は窓の外を見た。夏の陽射しが街を照らしている。人々は未来が続くと信じて歩いている。それが少し羨ましかった。
アンドリューと出会ってからの日々が脳裏をよぎる。病院の待合室。初めて飲んだ紅茶。雨の日の散歩。彼の部屋。優しい手。穏やかな笑顔。どれも短い時間だったはずなのに、何百年もの記憶より鮮明だった。デメテルは静かに目を閉じる。そして、小さく息を吐いた。
夕方、病院ではアンドリューが最後の患者を見送っていた。診察室を出る老人へ笑顔を向ける。
「お大事に」
老人も笑って帰っていく。それが彼の日常だった。人を助けること、命を支えること。それは彼の誇りだった。机の上のスマートフォンを見る。返事はまだ来ていない。珍しいな、と思った。デメテルは必ず返信をくれる。忙しい時でも、短い言葉だけは送ってくる。少しだけ胸がざわついた。
病院を出る。空はまだ明るい。彼は彼女のアパートへ向かった。呼び鈴を押す。返事はない。もう一度押す。やはり返事はない。不安が胸の奥で形を持ち始める。管理人へ尋ねると、返ってきた言葉は予想外だった。
「その部屋なら空いてますよ」
アンドリューは聞き返した。
「空いている?」
「ええ。先月から」
理解できなかった。そんなはずはない。昨日まで彼女はそこにいた。管理人は首を傾げている。まるで最初から誰も住んでいなかったかのように。アンドリューは部屋の前に立ち尽くした。風が吹く。夏なのに、妙に冷たかった。
それから何日も探した。よく行ったカフェ、市場、公園、本屋、二人で歩いた川沿い。どこにもいない。連絡もつかない。写真も残っていない。不自然なほど何もない。まるで夢だったみたいに。それでも彼は忘れられなかった。忘れられるはずがなかった。彼女は確かに存在したのだから。
季節が少しずつ進んでいく。夏の終わりが近づく頃には、アンドリューも探すことをやめていた。いや、本当は諦めたわけではない。ただ、受け入れるしかなかった。人生には説明できない別れがある。医師として多くの死を見てきた彼だからこそ、そのことは知っている。
ある日の午後、病院へ若い女性が来た。不安そうな顔をしている。診察室へ入り、椅子へ座る。アンドリューは穏やかに微笑んだ。
「どうされましたか」
その笑顔を見た女性は少し安心したようだった。彼は話を聞く。丁寧に、優しく、いつものように。窓の外では夏の陽射しが輝いている。ふと、その光が懐かしく感じられた。黄金色の麦畑、風に揺れる穂、優しい眼差し。なぜそんな情景が浮かんだのか分からない。だが胸の奥が少し温かくなる。アンドリューは小さく笑った。そして再び患者へ向き直る。
人生は続く。人は出会い、別れ、また歩いていく。彼女はもういない。それでも、彼女が残した優しさは消えなかった。夏の光の中で、アンドリューは今日も人々へ笑顔を向ける。その笑顔の奥には、誰にも語らない一人の女性の記憶が静かに生き続けていた。
『ロンドンの夏』
『雪の訪れ』
1
ロシア極東の港町に冬が訪れていた。
海から吹く風は鋭く、港へ並ぶ漁船には薄く雪が積もっている。灰色の空と灰色の海がどこまでも続き、その境界さえ曖昧だった。
ポセイドンは網の修理をしていた。手は荒れている。指先には古い傷も残っている。漁師として生き始めてから長い時間が経っていた。人間たちは海から魚を獲り、家庭を持ち、老いて死んでいく。そんな営みを彼はずっと見続けてきた。神々の王座よりも、最近はこうした港の方が落ち着く。誰も自分を神とは知らない。それが楽だった。
昼過ぎ。魚を市場へ運んだ帰りだった。歩道は凍っている。通学中の子供たちが笑いながら走り去り、老人たちは肩をすぼめて歩いていた。その時だった。前方で女性が足を滑らせる。
「あっ!」
声と同時に身体が宙へ浮いた。次の瞬間には転倒している。持っていた書類が雪の上へ散らばった。
ポセイドンは無言で近づいた。女性は慌てて起き上がろうとしている。
「だ、大丈夫です」
と言いながら全然大丈夫そうではない。コートには雪が付き、眼鏡も少し曲がっていた。ポセイドンは黙って書類を拾う。女性も拾う。二人で雪の上へ散らばった紙を集める。
「ありがとうございます」
女性はそう言って笑った。明るい笑顔だった。冬の港町には少し似合わないくらい。
「怪我は」
ポセイドンが短く聞く。
「あ、平気です」
女性は立ち上がる。それから少し首を傾げた。
「あなた漁師さんですか?」
ポセイドンは頷く。
「やっぱり」
彼女は嬉しそうだった。
「わたし今日からこの町の学校へ赴任するんです」
そう言って差し出された手を、ポセイドンは少し迷ってから握った。
「アンナです」
「……ポセイドン」
「え?」
「名前だ」
アンナは一瞬驚いた顔をした。それから笑う。
「神様みたいな名前ですね」
ポセイドンは何も答えなかった。
数日後。学校から呼び出しを受けた。正確にはアンナからだった。放課後の教室。子供たちが騒いでいる。ポセイドンは扉の前で帰ろうか本気で悩んでいた。その時、アンナが現れる。
「来てくれた!」
彼女は本当に嬉しそうだった。
「断ったはずだ」
「聞いてません」
「言った」
「聞こえませんでした」
話にならない。アンナはそのまま彼の背中を押した。
「お願いします。子供たちに漁師さんの話を聞かせたいんです」
教室へ入る。二十人ほどの子供たちが一斉にこちらを見る。ポセイドンは後悔した。海の怪物と戦う方が楽だった。
「先生、この人誰?」
「漁師さん!」
「魚捕るの?」
「サメいる?」
質問が飛び交う。ポセイドンは無表情のまま立っていた。アンナが助け船を出す。
「ほら、みんな静かに」
彼女は小さな声で言った。
「頑張って」
ポセイドンは深いため息をついた。
結局、一時間近く話した。話したというより質問攻めだった。魚の種類。海の嵐。船の生活。巨大なタラの話。流氷の話。子供たちは目を輝かせて聞いていた。終わった頃には疲れ果てていた。
「助かりました」
アンナが言う。
「もうやらない」
「またお願いします」
「やらない」
「考えておいてください」
全く聞いていない。
翌日の夜だった。アパートの扉が鳴る。開けるとアンナが立っていた。両手に鍋を抱えている。
「お礼です」
「何だ」
「ペリメニ」
彼女は当然のように部屋へ入ってきた。ポセイドンは止める暇もなかった。部屋の中を見回したアンナが固まる。椅子には服。床にも服。ソファにも服。テーブルには読みかけの本と缶詰。
「……ひどい」
「そうか」
「そうです」
アンナは額を押さえた。ポセイドンは少し考える。怒られているらしい。彼女は勝手にテーブルを片付け始めた。
「座ってください」
「俺の部屋だぞ」
「だからです」
意味が分からなかった。
やがて二人で食事を始める。ペリメニは温かかった。外は吹雪いている。窓ガラスが時折震える。アンナはよく話した。学校のこと。子供たちのこと。昔住んでいた町のこと。ポセイドンはほとんど聞いているだけだった。けれど魚の話になると少し違った。
「冬のニシンは美味しい」
「そんなに違うんですか?」
「脂が乗る」
「へえ」
「海流で変わる」
アンナは楽しそうに聞く。そのうちポセイドンも少しずつ話すようになっていた。気付けば三時間近く経っている。外の雪はさらに強くなっていた。
帰る時間だった。玄関でコートを着るアンナが振り返る。
「また来てもいいですか?」
ポセイドンは答えなかった。答えなかったが、追い返しもしなかった。アンナは笑う。
「じゃあ来ますね」
そう言って去っていった。扉が閉まる。部屋は静かになる。けれど妙だった。さっきまで一人だったはずなのに、今は少しだけ静かすぎる気がした。
ポセイドンは窓の外を見る。吹雪の向こうに港の灯りが見える。そして気付く。アンナという人間のことを、もう少し知りたいと思っている自分に。
2
それからアンナは本当に港へ来るようになった。
最初は週に一度だった。それが二度になり、気付けば学校が終わると当たり前のように姿を見せるようになっていた。
冬の港は寒い。海から吹く風は容赦なく頬を叩き、雪が降らない日でも空気は氷のようだった。それなのにアンナは平気な顔をして歩いてくる。厚いコートにマフラーを巻き、手袋をした姿で船着場へ現れるのだ。
「今日も来たのか」
ポセイドンが言う。
「来ちゃいけませんか?」
「寒いぞ」
「知ってます」
アンナは笑う。その笑顔を見ると、それ以上何も言えなくなる。
船から魚を下ろす作業を眺めたり、漁師たちの話を聞いたり、時には市場までついてきたりする。港の人間たちも次第に彼女を受け入れていった。
「あの先生、また来てるぞ」
「漁師になりたいのかもしれん」
「無理だろ」
そんな冗談が飛び交う。アンナは気にしない。むしろ笑っている。
ポセイドンには理解できなかった。なぜそこまで楽しそうなのか。何もない町だった。冬は長い。娯楽も少ない。海しかない。それでも彼女は楽しそうだった。
ある日、二人は市場からの帰り道を歩いていた。空から細かな雪が降っている。アンナは手袋をした両手で紙袋を抱えていた。
「ねえ」
「なんだ」
「ポセイドンって昔からここにいるんですか」
彼は少し考えた。昔から。その言葉の意味が普通の人間とは違う。
「長いな」
それだけ答える。アンナは頷く。
「そう思いました」
「なぜだ」
「なんとなく」
彼女は雪の降る空を見上げる。
「初めて会った時から、ずっとここにいた人みたいだったから」
ポセイドンは返事をしなかった。それ以上聞いてほしくなかった。不思議なことに、彼女なら本当に何かを見抜いてしまいそうな気がした。
冬は続く。二人は頻繁に会うようになった。外へ出る日もあったが、ほとんどはポセイドンの部屋だった。相変わらず散らかっている。アンナが来るたびに少し片付く。次の日には元に戻る。その繰り返しだった。
「どうして服を床に置くんですか」
「脱いだからだ」
「そうじゃなくて」
「そこに床がある」
アンナは呆れる。ポセイドンは本気で何が悪いのか分かっていない。だがそのやり取りが楽しかった。
ある夜。外は吹雪いていた。窓の向こうでは街灯が雪の中でぼんやりと滲んでいる。アンナはソファに座り、本を読んでいた。ポセイドンは魚網の修理をしている。静かな時間だった。誰も話していない。それなのに居心地が悪くない。むしろ心地良かった。
アンナが本から顔を上げる。
「不思議ですね」
「何がだ」
「何もしてないのに楽しい」
ポセイドンは手を止めた。アンナは微笑んでいる。穏やかな笑顔だった。その瞬間、胸の奥が妙にざわついた。海が荒れる前の感覚に似ていた。何かが変わろうとしている。そんな予感だった。
その夜、アンナが帰ろうとした時だった。玄関まで送る。いつものことだった。コートを着る彼女を見ていると、急に帰らせたくなくなる。理由は分からない。ただそう思った。
アンナも何かを感じたのか、扉の前で立ち止まる。二人とも何も言わない。沈黙だけが流れる。やがてアンナが小さく笑った。
「どうしたんですか」
「いや」
ポセイドンは答えられない。言葉に慣れていない。感情にも慣れていない。海なら分かる。嵐も波も潮の流れも。だが人間の心は難しかった。
アンナは少しだけ近づいた。そして彼の頬へ触れる。冷たい手だった。外を歩いてきたばかりだからだろう。
「顔、真っ赤ですよ」
「寒いからだ」
「そういうことにしておきます」
彼女は笑う。その笑顔を見た瞬間、ポセイドンは負けたと思った。海の神であっても、この笑顔には勝てない。
アンナは背伸びをする。そして軽く彼の頬へ口づけた。ほんの一瞬だった。それだけなのに、嵐よりも強く心が揺れる。
彼女は照れたように顔を逸らした。
「おやすみなさい」
そう言って扉を開ける。ポセイドンはしばらく動けなかった。扉が閉まり、部屋が静かになる。けれど今までとは違う。もう彼女のいない生活を想像できなくなり始めていた。
そのことに気付いた時には。彼はもうアンナを愛していた。
3
二月の終わりだった。
港町は相変わらず雪に覆われていた。春はまだ遠い。海は鉛色で、空もまた同じ色をしている。けれどポセイドンにとって、その冬はこれまでとは違っていた。
朝になると港へ出る。魚を獲る。船を整備する。市場へ魚を運ぶ。何十年も、何百年も変わらなかった生活。その終わりにアンナがいる。学校帰りに港へ来る彼女がいる。それだけで一日が違うものになっていた。
「今日は子供たちが大変だったんですよ」
「何があった」
「教室でカエルを飼いたいって」
「飼えばいい」
「そういう問題じゃありません」
アンナは笑う。ポセイドンも少しだけ笑う。そんな日々だった。
ある夜。二人はポセイドンの部屋で夕食を食べていた。窓の外では雪が降っている。ストーブの音だけが静かに響いていた。アンナはスープを飲みながら言う。
「ねえ」
「なんだ」
「もし学校を辞めたら」
彼女は少し笑う。
「漁師になれますかね」
「無理だ」
即答だった。アンナが吹き出す。
「即答ですか」
「船酔いする」
「それはそうですけど」
二人は笑う。その瞬間だった。ポセイドンは思う。こんな時間が続けばいいと。永遠に。だが永遠を知る者ほど、それが叶わないことも知っている。
数日後だった。港へ向かう途中、異変を知る。学校の前に警察車両が停まっている。人々が集まっている。ざわめきが広がっていた。漁師の一人が言った。
「先生が捕まったらしい」
ポセイドンは立ち止まる。
「誰だ」
「アンナ先生だよ」
世界から音が消えた気がした。
その後の話は断片的だった。学校の資金が消えた。横領の疑い。職員の通報。警察の事情聴取。ポセイドンは何も言わなかった。だが、その日の夜も眠れなかった。次の日も。その次の日も。港へ出ても海が見えなかった。ただアンナのことだけを考えていた。
一週間後。真実は判明する。単純な事務処理のミスだった。別の口座への送金記録を担当者が見落としていた。アンナは無実だった。町中が安堵した。学校も謝罪した。生徒たちも喜んだ。誰もが彼女の帰りを待っていた。
アンナもようやく帰ってくる。雪が降る午後だった。長い事情聴取を終えた彼女は、疲れた顔でバスを降りる。だが少しだけ笑っていた。終わった。ようやく終わった。
まず会いたい人がいた。港へ向かう。きっとポセイドンはいつもの場所にいる。ぶっきらぼうな顔で。何も言わずに。それでも待っている気がした。
アンナは雪の中を急いだ。港へ着く。漁船が並んでいる。いつもの風景。だが何かがおかしい。船がない。ポセイドンの船が。
彼女は漁師たちを見つける。
「ポセイドンは?」
誰も答えない。顔を見合わせる。やがて老人が口を開いた。
「いなくなった」
アンナは理解できなかった。
「どこへ?」
老人は首を振る。
「分からん」
「いつ?」
「三日前だ」
三日前。彼女がまだ事情聴取を受けていた頃だった。
アンナは港を歩く。船着場。市場。倉庫。彼のアパート。どこにもいない。アパートの中は空だった。服もない。本もない。生活の痕跡だけが消えている。まるで最初から存在していなかったように。
夜になる。雪はさらに強くなった。港には誰もいない。アンナは厚いコートの襟を握りしめる。寒かった。けれど帰る気になれない。目の前には荒れる海が広がっている。黒い波が砕ける。風が吹く。雪が舞う。
その海を見つめながら、アンナは初めて理解した。彼は最初からどこか遠くを見ていた。誰よりも近くにいて。誰よりも優しかったのに。心のどこかは、ずっと手の届かない場所にあった。
涙は出なかった。ただ胸が痛かった。海は何も答えない。荒れ狂う波だけが続いている。
アンナは静かに海を見つめる。いつかまた会えるかもしれない。そんな希望すら持てないほど、冬の海は広く、冷たかった。
風が吹く。白い雪が夜の港を覆っていく。アンナはただ一人、荒れる海を見つめ続けていた。
『雪の訪れ』 完
『演劇の心』
第一話 舞台の上の神
イングランドのある小さな町には、古い劇場がひとつだけ残っていた。
大通りから少し外れた場所に建つ、赤い煉瓦造りの建物だった。外壁には長い年月の雨と風にさらされた跡があり、入口の上には手作業で取り付けられた小さな看板が掲げられている。大きな劇場のように華やかな照明もなければ、世界的な俳優の名前が並ぶ巨大なポスターもない。それでも、この町で演劇を愛する人間なら、誰もが一度は足を運ぶ場所だった。
客席は二百にも満たない。
舞台と観客の距離が近いため、役者の呼吸まで聞こえることがある。観客が咳払いをすれば舞台上の役者にも届き、役者が少し視線を動かしただけで、その視線を受けた客は自分のために演技をされたような錯覚を覚える。
その劇場で、ひとりの俳優が人気を集めていた。
ディオニュソス。
白い肌と濃い髪を持った男で、年齢を尋ねられると曖昧に笑って答えを濁す。舞台に立ったときの彼には、不思議な魅力があった。古典劇でも現代劇でも、彼が演じる人物にはどこか人間離れしたところがあり、悲しい場面では観客の胸を締めつけるほど静かな表情を見せる一方、喜びの場面になると、まるで劇場そのものが彼の身体になったかのように空気を変えてしまう。
特に、即興を取り入れた演技を得意としていた。
台本に書かれていない言葉を突然口にすることがある。
それなのに、なぜか不自然にはならない。
共演者が驚いても、彼は笑いながらその場を拾い上げ、観客まで巻き込んでしまう。舞台の上で起きる偶然さえも、自分の味方につけてしまうのだ。
だから、彼の名前を知らない観客でも、一度舞台を見れば覚えてしまった。
その夜も、劇場には多くの客が入っていた。
ディオニュソスは舞台の中央に立ち、客席を見渡していた。
照明を浴びた彼の眼には、数百人にも満たない人々の顔が一人ずつ映っていた。笑っている者、腕を組んでいる者、恋人の肩に寄りかかっている者、膝の上にプログラムを置いたまま真剣に舞台を見つめている者。
その中に、ひとりの女性がいた。
黒い髪と褐色の肌を持つ女性だった。インドにルーツを持つ彼女は、仕事帰りらしい服装のまま、少し前のめりになって舞台を見ている。
名前はハレナ。
彼女は演劇が好きだったが、それ以上に神話が好きだった。
ギリシャ神話について書かれた本を何冊も持っていて、休日には博物館や古い教会、地方の小さな劇場を訪れることもある。神々が人間の姿を借りて世界を歩くという古い物語に、彼女は幼い頃から強く惹かれていた。
その理由を、本人にも完全には説明できなかった。
神話の登場人物が好きなのか、それとも、人間には理解できないほど長い時間を生きる存在が、それでも人間と同じように恋をし、怒り、嫉妬し、笑ったという物語に惹かれているのか。
おそらく、その両方だった。
そして、その夜、舞台に立つディオニュソスを見た瞬間、彼女は奇妙な感覚に襲われた。
初めて見る俳優のはずなのに、どこかで会ったことがあるような気がした。
もちろん、実際には会っていない。
そう思い直して、彼女は小さく首を振った。
舞台上のディオニュソスは、そんな彼女の心の動きなど知るはずもない。
けれど彼は、一瞬だけハレナのほうへ視線を向けた。
その眼が合った。
ほんの数秒だった。
ハレナは反射的に視線を逸らしたが、すぐに自分がなぜそうしたのか分からなくなった。別に恥ずかしがる必要などない。舞台を見ていただけなのだから。
それなのに、胸の奥が妙に騒がしかった。
その後も彼女は舞台に集中しようとしたが、ディオニュソスが動くたびに眼で追ってしまう。
演技がうまい。
そんな単純な言葉では説明できなかった。
彼の仕草には、舞台上で作られたものとは思えない自然さがあった。酒を飲む場面では、本当に酒の香りを知っている人間のようにグラスを持ち、誰かを誘惑する場面では、相手役の俳優が一瞬戸惑うほど自然に距離を縮める。
そして笑うとき、その笑顔には妙な懐かしさがあった。
劇が終わったとき、客席から大きな拍手が起こった。
ディオニュソスは深く頭を下げ、共演者たちと並んで舞台の前に立った。
ハレナも拍手をしていた。
けれど、手を叩きながら、彼女はさっきから胸の中に残っている違和感について考えていた。
ディオニュソス。
その名前を、彼女は劇場へ来る前から知っていた。
ギリシャ神話の神。
葡萄酒と陶酔、狂乱、祝祭、そして演劇にも関係する神。
人間と神の境界に立つような存在として語られることもある。
だからなのかもしれない。
そう自分に言い聞かせた。
俳優の名前がたまたま神の名前と同じだから、神話好きの自分が妙な既視感を覚えただけなのだ。
そう考えれば、何も不思議ではない。
劇場を出ると、夜の冷たい空気が頬に触れた。
観客たちはそれぞれ連れ立って帰っていく。ハレナも駅へ向かおうとしたが、劇場の脇にある小さな通路から人の気配がした。
振り向くと、ディオニュソスがいた。
舞台衣装から着替えた彼は、さっきまで舞台の上にいた人物とは別人のようだった。黒いコートを羽織り、髪を少し乱したまま、壁にもたれて煙草を持っている。ただ、火はつけていなかった。
ハレナと眼が合うと、彼は少し驚いたように眉を上げた。
「まだいたんだ」
「あなたもでしょう」
ハレナが笑うと、ディオニュソスも笑った。
「そうだね。僕はここで働いているから」
「知ってるわ」
「それはそうか」
彼は肩をすくめた。
その仕草が妙に子供っぽく見えて、ハレナは思わず笑ってしまった。
「あなた、本当にディオニュソスって名前なの?」
「そうだけど」
「本名?」
「本名だよ」
「珍しい名前ね」
「よく言われる」
ディオニュソスはそう答えてから、少しだけハレナの顔を見つめた。
「君は神話が好きなんだね」
ハレナは驚いた。
「どうして分かったの?」
「舞台の上から見ていたから。ほとんどの人は僕の演技を見ている。でも君は、僕が演じている人物そのものより、その奥に何かあるんじゃないかって顔をしていた」
ハレナは返事をしなかった。
図星だった。
舞台を見ている間、彼女は確かにそんなことを考えていた。
「……あなた、変な俳優ね」
「よく言われる」
「そればっかり」
彼女が笑うと、ディオニュソスも声を出して笑った。
その笑い方には舞台上の華やかさがなく、もっと普通の、人間らしいものがあった。
ハレナはそのことに安心した。
さっきまで彼のことをどこか現実離れした存在だと思っていたのに、こうして話してみれば、ただの一人の男に見える。
ただの俳優。
そう思おうとした。
「名前、ハレナ?」
彼が尋ねた。
「ええ。どうして知ってるの?」
「受付の人と話していたのを聞いた」
「なるほど」
「君は?」
「あたし?」
「そう」
ハレナは少し考えてから答えた。
「あたしは神話が好きなの。特にギリシャ神話が好き」
「ディオニュソスも?」
その問いに、ハレナは少し笑った。
「もちろん」
「どんなところが好き?」
「難しい質問ね」
彼女は腕を組み、しばらく考えた。
「神なのに、人間みたいなところかな。完全な存在じゃないでしょう。怒ったり、嫉妬したり、恋をしたり、失敗したりする。それに、ディオニュソスは他の神とは少し違う。秩序の外側にいるようなところがあるでしょう」
ディオニュソスの表情から、笑みが少し消えた。
けれどハレナは、それに気づかなかった。
「それに、演劇と関係があるのも面白いわ。古代ギリシャではディオニュソスを讃える祭りと演劇が結びついていたでしょう。だから、あなたがその名前で俳優をしているのが、なんだか出来すぎている気がする」
「そうかな」
「そうよ」
ハレナは楽しそうに笑った。
「まるで本物のディオニュソスが俳優になって、現代のイングランドに現れたみたい」
その言葉を聞いた瞬間、ディオニュソスは黙った。
数千年の時間を生きてきた彼にとって、それはあまりにも正確な言葉だった。
けれど、ハレナは冗談のつもりだった。
「……ごめんなさい。変なこと言ったわね」
「いや」
ディオニュソスはゆっくり首を振った。
「面白いと思っただけだよ」
「そう?」
「うん」
彼は笑った。
そして、しばらく迷ったあとで言った。
「近くにバーがあるんだけど、少し飲まない?」
ハレナは彼の顔を見た。
舞台の上では多くの人を惹きつける俳優。
けれど今、目の前にいる彼は、不思議なほど静かだった。
誘われたことに胸が少しだけ高鳴る。
けれど、それ以上に、もっと彼と話してみたいという気持ちが強かった。
「いいわ」
二人は並んで歩き始めた。
夜の町には細い霧が出ていて、街灯の光がその向こうでぼんやりと滲んでいた。
ハレナは隣を歩くディオニュソスを時々横目で見た。
彼は何も言わず、静かに歩いている。
舞台の上ではあれほど自由に見えた男が、今は妙に物静かだった。
「ねえ」
「何?」
「あたし、あなたのことをもっと知りたい」
そう言うと、ディオニュソスは足を止めた。
ハレナも立ち止まる。
彼は彼女を見つめ、それから、ほんの少しだけ困ったように笑った。
「僕のことを知ったら、きっと退屈するよ」
「どうして?」
「長い話になるから」
「じゃあ、長く話せばいいじゃない」
ハレナはそう言って笑った。
その笑顔を見たとき、ディオニュソスは胸の奥に、遠い昔には感じなかった種類の感情が生まれるのを感じた。
神として世界を歩いていた頃、人間から愛されることは珍しくなかった。
崇拝され、恐れられ、求められ、歌にされ、祈りの中で名前を呼ばれることもあった。
けれど、目の前の女性は自分を神として見ていない。
ただ、一人の男として見ている。
それが、なぜか嬉しかった。
「じゃあ、話そうか」
ディオニュソスはそう言って歩き出した。
ハレナも隣に並んだ。
二人の影が街灯の下で長く伸び、夜の歩道の上でひとつになったり、また離れたりしていた。
その夜、二人は小さなバーの隅の席に座り、演劇の話をした。好きな劇作家の話から始まり、俳優の話、神話の話、そして人間がなぜ物語を作るのかという話へと、会話はどこまでも続いた。
ハレナは話しながら何度も笑った。
ディオニュソスはそんな彼女を見ながら、グラスを指先でゆっくり回していた。
酒の味など、彼にとっては何千年も前から知っているものだった。
それでも、その夜の酒は不思議なほど美味しかった。
理由は分かっていた。
向かいに座っている女性が、時々笑いながら自分を見つめているからだった。
そしてディオニュソスは、そのことをまだ彼女には言わなかった。
自分が本当に何者なのか。
それを話すには、二人はまだ出会ったばかりだった。
ただ、この時間がもう少し続けばいい。
そんな願いを、神である彼は、人間の男と同じように抱いていた。
第二話 神話を観る人
それから二人は、会うことが当たり前になっていった。
最初のうちは、劇場の近くにある小さなバーで酒を飲みながら話すだけだった。ハレナは演劇について話し、ディオニュソスは彼女の話を聞いた。彼女は好きな劇について語るとき、普段より少し早口になる癖があり、興奮すると右手を動かしながら言葉を続ける。その仕草をディオニュソスは面白そうに眺めていた。
ハレナ自身は、そのことに気づいていなかった。
ある夜、彼女がギリシャ悲劇について熱心に話していると、ディオニュソスが突然笑い出した。
「何がおかしいの?」
「いや、ごめん。君があまりにも真剣だから」
「あたしはいつだって真剣よ」
「神話の話になるとね」
ハレナは少しだけ頬を膨らませ、それから自分でも可笑しくなって笑った。
「だって、神話って面白いでしょう。何千年も前の人たちが、世界をどう見ていたのかが分かるもの」
「世界をどう見ていたか、か」
「そう。神様の話をしているようで、実は人間の話なのよ。愛されたかったり、認められたかったり、誰かに裏切られたり、怒ったり、許したりする。神様の姿を借りて、人間自身のことを語っているんじゃないかと思うの」
ディオニュソスはグラスを持ったまま黙っていた。
彼女の言葉を聞いていると、遠い昔の記憶が胸の奥から浮かび上がってくる。
まだ世界に今ほど多くの都市がなく、人々が夜空を見上げながら神々の名を口にしていた時代。祭りの音楽が鳴り、葡萄酒が振る舞われ、人々が仮面をつけて踊っていた頃。
彼は、そのすべてを知っている。
神話として語られる以前の記憶も、神話になった後の記憶も。
けれど、それを彼女に話すことはできなかった。
「あなたはどう思うの?」
ハレナが尋ねた。
「僕?」
「そう。俳優なんだから、物語についていろいろ考えるでしょう?」
ディオニュソスは少し考えてから、静かに答えた。
「人間は、物語の中に自分を置くことで、自分自身を理解しようとしているんじゃないかな」
「それ、すごく分かる」
「でも、ときどき逆になる」
「逆?」
「物語のほうが人間を変えてしまうことがある」
ハレナは黙って彼を見つめた。
ディオニュソスは自分でも不思議に思っていた。
なぜ、こんな話をしているのだろう。
人間だった頃の記憶を持つ神々と違い、彼は最初から自分が神であることを知っている。だからこそ、人間の生活に長く身を置くと、自分のほうが変わっていくことを感じる瞬間があった。
人間の時間は短い。
だからこそ、一日を大切にする。
一杯の酒をゆっくり飲み、誰かと笑い、明日の予定を話し、眠る。
神である自分には、それらを急ぐ必要などなかった。
何千年という時間が、彼にとっては人間の数十年と比べても、それほど大きな意味を持たない。
それなのに、ハレナと過ごしていると、一時間が惜しくなった。
彼女が帰ろうとすると、もう少し話していたいと思う。
次に会う約束をすると、その日が来るまでの時間を意識する。
それは、神として生きていた彼が忘れていた感情だった。
数週間が過ぎた頃、ハレナは一枚のチケットを持って彼の前に現れた。
「これ、今度の土曜日」
ディオニュソスはチケットを受け取った。
「何?」
「劇」
「僕も出るけど」
「知ってるわ」
ハレナは得意そうに笑った。
「でも今回はあなたが出ない劇を見るの」
「なるほど」
「たまには観客になりたいでしょう?」
ディオニュソスは笑った。
「僕は舞台に立つほうが好きだな」
「じゃあ、あたしが隣にいるから」
その言葉に、彼は一瞬だけ返事を失った。
ハレナは何気なく言っただけだった。
けれど、ディオニュソスには、その一言が妙に嬉しかった。
土曜日、二人は小さな劇場を訪れた。
ロンドンの中心部から少し離れた場所にある古い劇場で、客席は百人ほどしかない。壁には過去の公演のポスターが何十枚も貼られており、受付の女性が二人に笑顔で挨拶をした。
ハレナは席に座ると、開演前から楽しそうに舞台を眺めていた。
「こういう劇場が好きなの」
「どうして?」
「役者と観客が近いから。大きな劇場も好きだけど、ここだと役者の表情がよく見えるでしょう」
「君は役者の表情を見るのが好きなんだね」
「ええ。言葉より先に感情が出る瞬間があるから」
ディオニュソスは彼女の横顔を見た。
舞台を見つめるハレナの眼は、いつもより静かだった。
劇が始まると、彼女はほとんど口を開かなかった。
笑うところでは小さく笑い、悲しい場面では眉を寄せ、役者が何かを言いかけて言葉を飲み込む場面では、わずかに身体を前へ傾ける。
ディオニュソスは舞台よりも、隣にいる彼女を見ていた。
彼女は物語を観ている。
ただ眺めているのではない。
登場人物の感情を自分の中へ入れている。
それが分かるから、彼は彼女の横顔から眼を離せなかった。
やがて劇が終わり、客席から拍手が起こった。
ハレナも拍手をした。
「どうだった?」
ディオニュソスが尋ねると、彼女は少し考えた。
「最後が好き」
「最後?」
「主人公が何も言わないでしょう。あそこ」
「ああ」
「あの沈黙が、一番たくさんのことを言っていたと思う」
ディオニュソスは笑った。
「君は本当に変わった見方をするね」
「そう?」
「うん。でも好きだよ」
ハレナは彼を見た。
その瞬間、二人の間に少しだけ沈黙が生まれた。
ディオニュソス自身も、自分が何を言ったのか分かっていた。
けれど、取り消すつもりはなかった。
ハレナは視線を舞台へ戻し、少しだけ笑った。
「……ありがとう」
その日の帰り、二人は手をつないだ。
最初に手を伸ばしたのはハレナだった。
劇場を出たところで彼女が自然に彼の手に触れ、そのまま指を絡めた。
ディオニュソスは少し驚いたが、手を離さなかった。
むしろ、彼女の手を包むように握り返した。
冬の終わりに近い夜で、彼女の指は冷たかった。
「寒い?」
「少し」
「手、冷たいね」
「あなたが温かいのよ」
「そうかな」
「そうよ」
ハレナは笑った。
二人はそのまま歩いた。
それからというもの、二人はさまざまな劇場へ足を運んだ。
古典劇も見た。実験的な小劇場も見た。ほとんど観客のいない昼公演にも行ったし、夜遅くまで続く舞台を見たこともあった。
ハレナは劇場へ行くたびに、その作品について話した。
ディオニュソスは、彼女の話を聞くのが好きだった。
彼女は決して知識をひけらかすような話し方をしなかった。神話について詳しくても、それを人に押しつけることはない。知らない作品に出会えば素直に驚き、気に入らない作品には子供のように首を傾げる。
そんな彼女を見ていると、ディオニュソスは自分が演技をしていることさえ忘れることがあった。
ある日の夕方、二人は劇場の近くのカフェにいた。
窓の外では雨が降っていた。
ハレナは温かい紅茶を両手で包みながら、古い神話の本を読んでいた。
「また神話?」
「ええ」
「飽きない?」
「飽きないわ」
ハレナは本から眼を上げた。
「むしろ、読めば読むほど分からなくなるの」
「分からなくなる?」
「同じ神様でも、地域や時代によって話が違うでしょう。性格も違うし、名前の意味も違う。それなのに、どこか似ている部分がある。人間って、どこに住んでいても似たようなことを考えるのかなって思うの」
「たとえば?」
「愛とか、死とか、嫉妬とか、孤独とか」
ディオニュソスは静かに彼女を見つめた。
「それから、神様に会いたいっていう気持ち」
彼女は冗談めかして笑った。
「もちろん、あたしは実際に会いたいわけじゃないけど」
「そう?」
「そうよ。もし本物の神様が目の前に現れたら、たぶん怖いもの」
「どうして?」
「神様って、人間とは時間の感覚が違うでしょう。こっちが一生懸命愛しても、向こうにとっては一瞬かもしれない。そんな相手を好きになったら、きっと辛いわ」
ディオニュソスの指が、カップの縁で止まった。
ハレナは気づかないまま、本を閉じた。
「でも、神様が人間を好きになることもあるのかもしれないわね」
「あると思う?」
「分からない」
彼女は少し笑った。
「でも、もしそうだったら、神様も大変ね」
「……そうだね」
ディオニュソスは小さく答えた。
その夜、二人は別れるとき、いつもより長く立ち話をした。
ハレナは帰ろうとしたが、何度も振り返った。
ディオニュソスも、そのたびに笑って手を振った。
彼女の姿が角を曲がって見えなくなったあとも、彼はしばらくその場所に立っていた。
神である彼には、別れというものが本来、それほど恐ろしいものではなかった。
人間が去っても、また別の時代に出会うことができる。
国が滅びても、新しい国が生まれる。
都市が消えても、その上に別の都市が建つ。
時間は、彼にとって永遠に続くものだった。
それなのに。
ハレナと別れた夜だけは、胸の奥に小さな不安が残った。
いつか、この時間が終わる。
そのことを、彼は初めて現実のこととして考えていた。
数日後、彼の出演する舞台があった。
ハレナは客席に座っていた。
ディオニュソスは舞台の上から彼女を見つけた。
照明の向こうにいる彼女が笑っている。
その笑顔を見た瞬間、彼の中に不思議な喜びが広がった。
演技をするためではない。
観客を楽しませるためでもない。
ただ、彼女に自分を見てほしいと思った。
その気持ちが、演技の一つ一つに自然と入り込んでいった。
舞台が終わると、彼は楽屋へ戻った。
しばらくして、ハレナが入口に現れた。
「今日、すごくよかった」
「いつもそう言うね」
「だって本当だもの」
彼女は笑いながら近づいた。
「あなた、舞台に立っているとき、別人みたい」
「そう?」
「ええ。でも、今日は少し違った」
「何が?」
「分からない。でも、なんだか楽しそうだった」
ディオニュソスは答えなかった。
彼女には分からない。
舞台から見えた彼女の顔が、彼を喜ばせたことなど。
神としてではなく、俳優としてではなく、一人の男として彼女に見られたかったことなど。
「ハレナ」
「なに?」
「今度、僕の部屋に来ない?」
言ってから、彼自身が少し驚いた。
ハレナも一瞬だけ眼を丸くした。
けれど、やがて柔らかく笑った。
「いいわ」
その返事を聞いたとき、ディオニュソスの胸の奥で、何かが静かに動いた。
それは神としての力ではなかった。
もっと人間らしく、もっと弱く、そして失うことを恐れる感情だった。
彼はまだ、その名前を口にすることができなかった。
ただ、ハレナと過ごす時間が終わってほしくないと思っていた。
永遠を知っている神が、限りある一人の女性との時間を惜しんでいた。
第三話 最後の幕
ハレナがディオニュソスの部屋を訪れた夜、外では細い雨が降っていた。劇場から彼の住む古い集合住宅まで歩いてくるあいだ、彼女は何度か傘を持つ手を持ち替え、濡れた歩道に映る街灯を眺めながら、これから自分がどんな時間を過ごすことになるのだろうと考えていた。これまで二人は何度も会っていたし、酒を飲みながら長い時間話したこともあったが、劇場の外で彼と二人きりになると、どうしても少しだけ緊張する。ディオニュソスは舞台の上では観客の視線をすべて自分に集めてしまうほど存在感のある男なのに、二人きりになると不思議なくらい静かになり、こちらが話しかけるまで何も言わずに微笑んでいることがある。その沈黙が嫌なのではなかった。むしろハレナは、その沈黙の中に、舞台の上では決して見せない彼の素顔が隠れているような気がして、もっと知りたいと思うようになっていた。
階段を上がっていくと、目的の部屋の前に着いた。ハレナが小さく息を整えてからチャイムを鳴らすと、すぐに内側から足音が聞こえ、ドアが開いた。
「来たんだね」
「来るって言ったでしょう」
ディオニュソスは笑った。舞台衣装ではなく、白いシャツに黒いズボンという簡素な服装だった。髪も普段より少し乱れていて、舞台の上で見る彼とは別人のように見える。それなのに、ハレナは顔を見た瞬間、やはり彼だと思った。どんな服を着ていても、どこにいても、彼には人の眼を引きつける何かがある。
「どうぞ。狭いけど」
部屋へ入ると、ハレナは思わず笑った。狭いというより、物が多かった。壁際には演劇の本が積まれ、床にも読みかけらしい本が何冊か置かれている。窓際には空になったワインボトルが並び、古いレコードプレーヤーの横には葡萄酒の入った瓶が一本だけ残っていた。
「あなた、本当にこういう生活してるのね」
「どういう生活?」
「本とワインに囲まれて暮らす生活」
「俳優らしいでしょう?」
「むしろ神様らしいわ」
ハレナがそう言うと、ディオニュソスは一瞬だけ彼女を見つめ、それから声を立てて笑った。
「君はまだその話をするんだね」
「だって、名前が名前だもの」
「僕の名前を決めたのは僕じゃないよ」
「それでも面白いわ。ディオニュソスという名前で俳優をしていて、しかも神話が好きな女と付き合っているんだから」
その言葉を口にしてから、ハレナは少しだけ黙った。付き合っているという言葉を、まだ二人の関係を説明するために使ったことがなかったからだ。ディオニュソスも気づいたらしく、少し驚いたように眉を上げたあと、何も否定せずに笑った。
「そうだね」
それだけだった。
けれど、その短い言葉が妙に嬉しかった。
ディオニュソスがワインを二つのグラスに注ぎ、ハレナに渡す。彼女がグラスを受け取るとき、指先が彼の指に触れた。ほんの一瞬の接触だったのに、二人ともすぐには手を離さず、互いの顔を見た。ハレナが先に小さく笑い、その笑顔につられるようにディオニュソスも笑った。
「乾杯する?」
「何に?」
「分からない」
「じゃあ、今夜に」
「いいわね」
グラスが静かに触れた。
その音を聞きながら、ハレナは窓の外へ眼を向けた。雨はまだ降り続いている。道路を走る車のライトが濡れた路面に伸びて、夜の町全体が薄い水の膜に包まれているように見えた。
「こうしていると、普通の人みたいね」
「僕は普通の人だよ」
「本当に?」
冗談のように言ったハレナだったが、ディオニュソスはすぐには答えなかった。
彼はグラスの中のワインを見つめていた。その眼には、いつもの舞台で見せる明るさがなかった。何か遠いものを思い出しているような、それでいて思い出してはいけないものを見つめているような表情だった。
「普通じゃないところもあるかもしれないね」
やがて彼はそう言って笑った。
「でも、君といるときくらいは普通でいたい」
ハレナは何も言わなかった。ただ、テーブルの上に置かれていた彼の手に、自分の手を重ねた。ディオニュソスの指がわずかに動き、その手を包み込むように握り返す。彼女はその温かさを感じながら、胸の奥にゆっくり広がっていくものが何なのかをもう分かっていた。
その夜、二人は長い時間話した。ハレナは子供の頃に祖母から聞いたインドの神話の話をし、ディオニュソスは古代ギリシャの劇場について語った。彼はまるで実際にそこにいたかのように当時の劇場の構造や観客の様子を語ったが、ハレナはそれを単なる知識の豊富さだと思っていた。話が進むにつれて二人の距離は自然に近づき、気づけばハレナの肩が彼の肩に触れていた。どちらも離れようとはしなかった。
「ねえ、ディオニュソス」
「うん?」
「あなたは、恋をすると人はどうなると思う?」
突然の質問に、彼は少し考えた。
「時間を気にするようになる」
「時間?」
「その人と一緒にいる時間が短く感じるし、別れている時間が長く感じる」
ハレナは黙って彼を見た。
「それ、あなた自身のこと?」
「たぶんね」
そう言ったディオニュソスの眼を見ていると、ハレナはもう何も尋ねる必要がないような気がした。彼女はゆっくり身体を近づけ、彼の肩に手を置いた。ディオニュソスも彼女の腰に腕を回し、しばらく互いの顔を見つめたあと、自然に唇を重ねた。
最初は確かめるような口づけだったが、離れてからもハレナは彼の眼を見つめ続けた。彼女の呼吸が少し速くなっていることに気づいたディオニュソスが、何かを言おうとして口を開きかけたとき、ハレナのほうから再び顔を寄せた。今度の口づけは長く、互いの気持ちを確かめるように続いた。ディオニュソスの手が彼女の背中へ回り、ハレナも彼のシャツを指先でつかむ。何度か唇を重ねるうちに、言葉よりも身体の距離のほうが二人の気持ちを正確に伝えるようになり、やがて二人は静かな部屋の中で互いを抱きしめた。
その夜、二人は恋人になった。
翌朝、ハレナが目を覚ましたとき、窓から差し込む薄い光が部屋の床を照らしていた。彼女はしばらく何も言わずに隣で眠るディオニュソスを見つめた。舞台の上では多くの人々を魅了する男が、今は無防備な顔で眠っている。その姿が妙に愛おしく感じられ、ハレナは手を伸ばして彼の髪に触れた。するとディオニュソスが眼を開け、眠そうに彼女を見た。
「おはよう」
「おはよう」
「ずっと見てた?」
「少しだけ」
「恥ずかしいな」
「あなたにも恥ずかしいことがあるのね」
ハレナが笑うと、ディオニュソスも笑った。
その笑顔を見た瞬間、ハレナはこの時間が続けばいいと思った。昨日より今日、今日より明日がもっと近くなっていけばいい。劇場の帰りに一緒に歩き、カフェで話し、彼の部屋でワインを飲み、何でもないことで笑う。そんな生活が、いつまでも続くような気がしていた。
それから二人は、以前にも増して頻繁に会うようになった。ディオニュソスが出演する日はハレナが客席に座り、休みの日には二人で別の劇場へ出かけた。ハレナは彼の演技を見ることが好きだったし、ディオニュソスは舞台から彼女を見つけることが好きだった。何百人もの観客がいる中でも、彼には彼女の姿だけがすぐに分かった。
ある夜、ディオニュソスが舞台の上から客席を見渡すと、いつもの場所にハレナがいた。彼女は少し笑いながらこちらを見ている。彼は台詞を言いながら、その笑顔を見ていた。
その瞬間、彼は神であることを忘れた。
舞台の上にいるのは神でもなければ、永遠を生きる存在でもない。ただ一人の男であり、好きな女性に見てもらいたいと思っている俳優だった。
公演が終わったあと、楽屋へ来たハレナは、いつもより興奮した様子で彼を見た。
「今日のあなた、すごくよかった」
「いつもそう言うね」
「今日は本当に違ったもの」
「どこが?」
「楽しそうだった」
ディオニュソスは少し黙った。
「楽しかったから」
「何が?」
「君がいたから」
ハレナは照れたように眼を逸らした。
「そういうこと、平気で言うのね」
「本当のことだから」
ハレナは笑いながら彼の腕を軽く叩いた。
そんな何気ない日々が、いつまでも続くように思えた。
しかし、ディオニュソスは知っていた。
終わりが近づいている。
神々の世界から、彼を呼ぶ声が聞こえ始めていた。最初は遠い風のようなものだった。それが日を追うごとに強くなり、人間の世界に留まり続けることが難しくなっていく。彼はそれを誰にも話さなかった。ハレナに伝えれば、彼女は理由を尋ねるだろう。そして、理由を話せば、自分が何者なのかを明かさなければならなくなる。
それだけはできなかった。
彼女が自分を神としてではなく、一人の男として愛してくれたことを知っていたからこそ、最後までそのままでいたかった。
ある夏の終わりの日、二人はいつものように劇場へ向かった。
ハレナは彼の腕に手を絡めながら、次に観たい舞台について楽しそうに話していた。ディオニュソスは彼女の話を聞きながら、ときどき笑っていたが、心の中では別のことを考えていた。
今日が最後になる。
そう思うと、ハレナの声を一言も聞き逃したくなかった。
彼女の横顔を、少しでも長く見ていたかった。
劇場の前に着くと、ハレナは彼の腕から手を離し、入口の前で振り返った。
「じゃあ、終わったら待ってる」
ディオニュソスは彼女を見つめた。
「うん」
「今日は何を食べる?」
「君が決めていいよ」
「じゃあ、前に行ったところ」
「分かった」
ハレナは笑って劇場へ入っていった。
ディオニュソスはその背中を見送った。
何か言わなければならないと思った。
さよならを言わなければならない。
けれど、声が出なかった。
彼はしばらく入口の前に立ったまま、彼女の姿が人の群れの中へ消えていくのを見つめていた。
そして、自分も楽屋へ向かった。
その夜の劇場は、いつもより客が多かった。ハレナは客席の中央近くに座り、開演を待っていた。彼女は何も知らない。いつものようにディオニュソスが舞台へ現れ、いつものように観客を笑わせ、そして公演が終われば二人で食事に行くと思っていた。
開演を知らせる鐘が鳴った。
客席の照明が落ちる。
幕が上がる。
けれど、ディオニュソスは出てこなかった。
最初の場面が終わっても現れない。
ハレナは不安になり、何度も舞台袖へ視線を向けた。
やがて代役の俳優が現れた。
客席のあちこちから小さなざわめきが起こったが、劇はそのまま続けられた。
ハレナは理解できなかった。
何か事故があったのかもしれない。
体調を崩したのかもしれない。
それなら、どうして誰も説明しないのだろう。
彼女は膝の上で手を握りしめた。指先が冷たくなっていくのを感じながら、それでも席を立たなかった。きっと途中から出てくる。きっと何か理由がある。そう思いながら舞台を見続けた。
けれど、最後までディオニュソスは現れなかった。
幕が下り、観客が一人、また一人と席を立っていく。
ハレナは動かなかった。
劇場の中から人の気配が消えていくにつれて、彼女の胸の奥にあった期待も少しずつ消えていった。最後に残ったのは、理由の分からない寂しさだった。
やがて客席には彼女一人だけになった。
舞台にはまだ薄い照明が残っている。
ハレナはゆっくり立ち上がり、舞台の前まで歩いていった。
そこは、彼が何度も立っていた場所だった。
彼女は舞台を見上げた。
「ディオニュソス……」
名前を呼んでも、返事はなかった。
それでも、彼女はしばらくその場を動かなかった。
やがて、彼が以前言っていた言葉を思い出した。
――僕は、君の前ではただの僕でいたい。
あの言葉が本当だったのなら、今どこにいるのだろう。
ハレナは胸の前で手を握った。
「あなた、本当に……何者だったの?」
答えはなかった。
ただ、舞台の照明が静かに消えていった。
その瞬間、ハレナはなぜか理解した。
彼はもう戻ってこない。
事故でも病気でもない。
誰かに連れ去られたわけでもない。
もっと遠い場所へ帰ってしまったのだ。
それがどこなのかは分からない。
けれど、最初から彼の中には、自分の知らない世界があった。
ハレナは眼を閉じた。
涙が頬を伝ったが、拭おうとはしなかった。
「さよなら」
声は震えていた。
「……ありがとう」
それだけ言って、彼女は舞台を見つめた。
そしてゆっくりと劇場を出た。
外には夏の終わりの夜が広がっていた。
冷たい風が頬を撫で、遠くで車の音が聞こえる。
ハレナは歩きながら、何度も後ろを振り返った。
けれど、ディオニュソスは現れなかった。
その頃、遠く離れた場所で、彼は人間の姿を終えようとしていた。
神としての姿へ戻りながら、彼の心にはハレナとの記憶だけが残っていた。
初めて出会った劇場。
神話の話をした夜。
何度も一緒に観た舞台。
雨の日のカフェ。
彼女の手の温かさ。
そして、最後に聞いた声。
彼は戻ろうと思った。
一度だけでも戻って、彼女に本当のことを話そうと思った。
けれど、やめた。
もし戻れば、別れをさらに長引かせるだけだ。
人間の時間は短い。
その短い時間を、自分が永遠の存在として引き延ばしてはいけない。
ディオニュソスは眼を閉じた。
彼の頬を風が撫でた。
その風の中に、遠い人間の世界の匂いが混じっているような気がした。
「ハレナ」
彼は静かに名前を呼んだ。
それは、神としての言葉ではなかった。
一人の男が、愛した女性に向けて最後に残した言葉だった。
ハレナは知らない。
自分が愛した男が、本当に神だったのかどうか。
これから何年経っても、その答えを確かめることはできないだろう。
けれど、彼女の記憶の中には、確かに一人の男が残った。
舞台の上で笑い、神話について語り、ワインを飲み、彼女の手を握った男。
そして、ある日突然、何も告げずに消えた男。
もしかすると、いつかハレナは誰かにこの話をするかもしれない。
小さな劇場に、ディオニュソスという俳優がいたこと。
その男は不思議なほど神話に詳しく、舞台の上では誰よりも自由で、舞台を降りると寂しそうな眼をしていたこと。
そして、自分はその男を愛していたこと。
けれど、その話を聞いた人間は、きっと笑うだろう。
そんな人が本当にいたのかと尋ねるかもしれない。
ハレナは、そのたびに少しだけ笑うだろう。
そして、答えない。
ただ、心の中で思う。
あの人は、たぶん本当に神様だった。
それでも、あたしにとっては、神様ではなかった。
ただ、一人の男だった。
自分の隣で笑い、自分の手を握り、自分と同じ時間を生きてくれた男だった。
その記憶だけは、誰にも奪えない。
ディオニュソスは神々の世界へ戻った。
ハレナは人間の世界に残った。
二人の時間は終わった。
けれど、物語だけは終わらなかった。
人間が誰かを愛した記憶は、時間が過ぎても消えない。神々でさえ忘れることのできない人間との出会いがある。そして、永遠を生きる者にとってはほんの一瞬だった時間が、一人の人間にとっては一生の中で決して失われない記憶になることがある。
ディオニュソスが最後に舞台へ立たなかったあの夜、ハレナは彼を失った。
けれど、その夜からずっと、彼は彼女の中で生き続けた。
そしてディオニュソスもまた、神々に囲まれた永遠の時間の中で、ときどき人間の世界を思い出す。
小さな劇場。
舞台の照明。
客席に座っていた一人の女性。
自分の名前を聞いて笑った声。
そして、別れの夜に聞いた「ありがとう」という言葉。
神にとって、人間との恋はあまりにも短い。
けれど、その短さこそが、その恋を永遠にすることがある。
ディオニュソスは今も、神々の世界で葡萄酒を飲んでいる。
その杯を傾けるたびに、遠いイングランドの小さな劇場を思い出す。
そして、誰にも聞こえない声で、あの日と同じように彼女の名前を呼ぶ。
ハレナ。
その名前だけは、永遠を生きる彼の中から消えることがなかった。
『演劇の心』 完
『戦場にあった恋』
『戦場にあった恋』
第一話 戦場の医師
朝から、遠くで砲撃の音がしていた。
この場所では、それが珍しいことではなかった。大きな爆発音が聞こえるたび、初めて来た人間は肩を強張らせ、窓のない建物の中にいても空の様子を確かめるように天井を見上げる。けれど、何日か過ごしているうちに、その音は時計の音に似た存在になっていく。午前中に何発、午後に何発、夜になれば少し遠くなる。人間は恐ろしいものにまで生活のリズムを見つけてしまう。
それでも、その音が完全に日常になることはなかった。
爆発の振動が地面を伝わるたび、診療所にいる人間たちはほんの一瞬だけ動きを止める。誰もが音の方向を確認し、自分たちのいる場所に何かが飛んできていないことを確かめる。その確認が終われば、何事もなかったように仕事へ戻る。
それが、この場所で生きるということだった。
診療所として使われている古い倉庫には、朝から人が絶えなかった。
壁には以前の砲撃によってできた亀裂が走り、窓ガラスのほとんどは割れている。窓の外には土嚢が積まれ、その向こうには乾いた大地が広がっていた。風が吹けば細かな砂が舞い上がり、建物の中へ入り込んでくる。床を掃除しても数時間後にはまた砂が溜まるため、誰もそれを気にしなくなっていた。
ジークフリートは朝からほとんど休まず働いていた。
「次の患者を入れてくれ。さっきの人はどうなった」
声をかけながら、彼は手袋を交換していた。
「出血は止まりました。呼吸も安定しています」
「よし。なら一時間ごとに確認してくれ。熱が上がったらすぐ知らせてくれ。それから、あの家族は」
看護師が奥を指した。
「奥で待っています」
「分かった。後で俺が話す。たぶん本人たちはまだ状況を全部理解していないから、説明するときは一気に話さないでくれ。こういう場所に突然連れてこられると、頭の中が現実に追いつかなくなるんだ。医学的な説明を正確にするのは大事だけど、それと同じくらい、相手が今どこまで理解できているかを見ることも大事だから」
ジークフリートはそう言いながら、使用済みの手袋を外した。
声は明るかった。
疲れているはずなのに、患者に話しかけるときには必ず笑顔を見せる。冗談を言うことも多い。周囲のスタッフからすれば、それは彼の性格なのだと思われていた。
しかし、その笑顔の裏側に何があるのかを知る者は少なかった。
その日、午前の診療が始まってから一時間ほど経った頃、診療所の外から慌ただしい足音が聞こえた。
「患者だ」
誰かが入口へ向かって叫んだ。
ジークフリートは振り返った。
「状態は」
「爆発に巻き込まれた。脚に重傷。かなり出血している」
「担架をこっちへ。急いで。ただし走らないでくれ。揺らすと余計に悪くなる」
入口から二人の男が担架を運び込んできた。
その上に横たわっていたのは、若い兵士だった。
二十代前半に見える。迷彩服には砂と泥が付着し、呼吸は浅く、顔色も悪い。片方の脚は爆発によって大きく損傷していた。
ジークフリートの表情から笑みが消えた。
「こっちに移す。三、二、一」
周囲のスタッフと息を合わせ、患者をベッドへ移す。
「名前は分かるか」
患者は重そうに眼を開いた。
「アディル」
「アディル。俺の声が聞こえるなら、眼を開けていてくれ。眠くなっても眠らないでくれ。今から俺たちは君の身体を調べる。痛いこともある。でも、できるだけ痛くしないようにするから、怖がらなくていい」
「脚が」
アディルの視線が自分の身体へ向かおうとした。
ジークフリートは患者の視線を遮るように顔の位置を少し変えた。
「今は脚を見なくていい。アディル、俺を見てくれ。そう、それでいい。脚のことは俺たちが見る。君が今することは、俺の声を聞いていることだけだ。痛かったら痛いと言っていいし、怖かったら怖いと言っていい。強がる必要はない。ここでは誰も君に強い人間になれとは言わないから」
アディルの唇が震えた。
「死ぬ」
ジークフリートは一瞬だけ彼の眼を見つめた。
簡単な言葉で安心させられる状況ではないことを理解していた。助かると断言することもできない。だからこそ、彼は逃げずに患者の眼を見た。
「それを今から俺たちができるだけ遠ざけるんだ。だから、死ぬかどうかを今から決めつける必要はない。君が今考えるべきなのは、俺の質問に答えることだ。名前は」
「アディル」
「年齢は」
「二十三」
「二十三か。俺より若いな」
ジークフリートは少し笑った。
「まだ人生の途中だ。こんなところで終わらせるのは、俺としても気分が悪い。だから、もう少し付き合ってくれ」
アディルは苦しそうに笑った。
「変な医者だ」
「よく言われる。俺としては褒め言葉だと思っている」
ジークフリートが処置を始めた。
その瞬間、乾いたシャッター音が響いた。
彼の手が止まった。
もう一度、音がした。
ジークフリートは顔を上げた。
診療所の奥、壊れた窓から入ってくる光の中に、一人の女が立っていた。
首からカメラを下げている。
短い髪。日に焼けた肌。砂埃で汚れたジャケット。細身だが身体の動きには躊躇がなく、戦場に来た人間特有の警戒心を隠そうともしていない。
ジェミニタだった。
彼女はファインダーを覗きながら、ジークフリートと患者を撮っていた。
ジークフリートの声が鋭く響いた。
「やめろ」
怒りが声に出ていた。
単純な写真への嫌悪ではなかった。目の前の患者が、自分の意思を示せない状態で記録されることへの苛立ちがあった。
ジェミニタはカメラを下ろした。
それでも逃げなかった。
「写真を撮るなということですか」
ジークフリートは患者から眼を離さなかった。
「そうだ。少なくとも今はやめてほしい。俺が怒っているのは、写真そのものが嫌だからじゃない。君が撮った写真が、この人間の意思とは関係なく、誰かの記録として残されてしまう可能性があるからだ。今この人は、自分がどこにいるのか、これからどうなるのかさえ十分に分かっていない。そんな状態の人間にカメラを向けるのは、俺には少し早すぎると思う」
ジェミニタはカメラを胸元まで下げた。
けれど、その眼には納得していない色が残っていた。
「でも、戦場で写真を撮るなら、こういう瞬間を撮らなければ意味がないでしょう。全部が終わってから、きれいになった顔だけ撮っても、何が起きたのか伝わらない。私は兵士の死体を面白半分に撮っているわけでも、怪我を見世物にしたいわけでもありません。ここで何が起きているのかを、そこにいない人たちへ伝えるために来ています」
「その気持ちは分かる」
ジークフリートは意外なほど早く答えた。
「分かるからこそ言っているんだ。俺は報道そのものを否定しているわけじゃない。むしろ必要だと思っている。ここで何が起きているのかを外の人間が知らなければ、戦争は遠い国の数字のままになる。死者が何人、負傷者が何人、避難した人が何万人。そんな数字だけが並んで、人間が消えていく。君がそれを人間の顔に戻そうとしていることくらい、俺にも分かる」
ジェミニタは彼を見つめた。
「だったら、どうして止めるんですか」
彼女の声は少し強くなっていた。
自分の仕事を否定されたくないという気持ちが、その声に混ざっていた。
「今撮らなければ、この人の今は残らないからです。あなたは、この人が助かると思っていますか」
「助けるために治療している」
「助かると断言できますか」
ジークフリートは答えなかった。
その沈黙を見て、ジェミニタは彼の答えを理解した。
「できないんですね」
「できない」
ジークフリートは患者へ視線を戻した。
「だからこそ、俺はこの人を写真に残すことより先に、生きている状態へ戻したいと思っている」
「もし助からなかったら、この人の最後の時間を知る人間は誰になるんですか」
ジークフリートはゆっくりジェミニタを見た。
怒りは残っていた。
けれど、その怒りは彼女を責めるためのものではなくなっていた。
「そこなんだよ。君が言っていることが間違っているとは思わない。俺だって、死んでいった人間を忘れたくないと思っている。何年経っても名前を覚えていたいと思うことがある。でも、ここにいる患者は、写真を撮られるために来たんじゃない。生きるために来ているんだ。そこを忘れたくない」
ジェミニタは黙って彼を見ていた。
ジークフリートは続けた。
「それに、君はさっきからこの人の脚ばかり撮っている」
ジェミニタは少し眼を伏せた。
「そう見えたんですか」
「見えた。俺は医者だから、そこに眼が行く。君が撮った写真が悪いと言っているんじゃない。ただ、この人の人生を傷ついた脚だけで表現してほしくないんだ。この人は今、脚を失うかもしれない。でも、この人の人生全部がその脚だったわけじゃない。家族がいるかもしれない。好きな音楽があるかもしれない。子供の頃に誰かと喧嘩したこともあるだろうし、笑ったこともあるだろう。兵士になる前に別の夢を持っていたかもしれない。それなのに写真の中で、地雷で脚を失った兵士という一つの情報だけになってしまったら、俺は嫌なんだ」
ジェミニタはしばらく彼の顔を見ていた。
やがて、少しだけ口元を緩めた。
「あなた、ずいぶん話すんですね」
ジークフリートは一瞬きょとんとした。
緊張した状況の中で、そこを指摘されるとは思っていなかったらしい。
「今そこを言うのか」
ジェミニタの口元に笑みが浮かんだ。
「さっきからずっと話しているから」
「そりゃ喋るさ。説明しないで怒鳴るだけだったら、ただの感じの悪い医者だろ。俺は患者にもスタッフにも、できるだけ状況を説明するようにしている。分からないことが一番怖いからな。何が起きているのか分からないまま治療台に寝かされるのは、相当怖い。だから俺はできるだけ話す。冗談も言う。説明もする。くだらない話までしてやる。患者が俺の声を聞いている間だけでも、ここが戦場じゃなくて病院だと思ってくれれば、それだけで少しは違うから」
ジェミニタは彼の顔を見た。
「それで、いつも笑っているんですか」
「笑っていたほうがいいだろ」
「あなた自身が怖いときも」
ジークフリートは一瞬だけ答えなかった。
患者の傷を確認しながら、ゆっくり息を吐いた。
「怖いよ」
声が少し低くなった。
「俺だって怖い。爆発音がすれば怖いし、患者が運ばれてきたときに助からないかもしれないと思うこともある。手を動かしながら、この人を助けられなかったらどうしようと思うこともある。それでも患者の前では笑う。俺が怖い顔をしていたら、患者はもっと怖くなるからな」
「自分のためでもありますか」
「それもある」
ジークフリートは苦笑した。
「ずっと真面目な顔をしていたら、たぶん俺のほうが先に壊れる。だから笑う。患者を安心させるためでもあるし、自分にまだ大丈夫だと思わせるためでもある。医者だって人間だからな。何でも平気な顔をしていられるわけじゃない」
ジェミニタは黙っていた。
彼女はカメラを見下ろした。
最初は、この男を頑固な医者だと思っていた。
けれど今は違った。
怒っているのではない。
目の前の人間を、最後まで人間として扱いたいのだ。
ジェミニタはカメラを下ろした。
「分かりました。今は撮りません」
「ありがとう」
「でも、撮るのをやめるとは言っていません」
ジークフリートは小さく笑った。
「そこは君の仕事だからな。ただ、次に撮るなら、あの人の顔もちゃんと入れてくれ。傷だけじゃなくて、その人が生きている顔を撮ってほしい」
「あなたの写真も」
「俺」
ジークフリートは少し眉を上げた。
「あなたも、この場所にいる人間でしょう」
彼は少し考えた。
「まあ、いいよ。ただし、格好よく撮ってくれ」
ジェミニタは初めて声を出して笑った。
「注文が多いですね」
「せっかくならいい写真がいいだろ」
二人の間に、さっきまでとは違う空気が生まれた。
ジークフリートは患者へ向き直った。
「アディル、聞こえるか」
「聞こえる」
「よし。今から少し痛いことをする。嫌なら嫌だと言っていい。ただ、俺たちは君を助けるためにやっている。だから怖くても俺の声だけ聞いていてくれ」
「分かった」
「偉い。じゃあ始めるぞ」
治療が再開された。
ジェミニタはカメラを胸元に抱えたまま、その姿を見ていた。
しばらくすると、ジークフリートは患者に話しかけ始めた。
「アディル、君は酒を飲むか」
「少し」
「そうか。じゃあ退院したら俺と飲むか」
アディルが薄く眼を開いた。
「医者と」
「医者だって酒くらい飲む。ただし、君が生きて退院したらだ。これは約束だぞ」
アディルの口元に小さな笑みが浮かんだ。
「分かった」
「よし。約束したからな。勝手に破るなよ。俺は約束を破る患者が一番嫌いなんだ」
アディルが弱々しく笑った。
ジェミニタは、その光景を見つめた。
彼女は少しずつ理解していた。
この男は、ただ陽気なのではない。
笑うことによって、目の前の人間を現実へ繋ぎ止めようとしている。
戦場では、恐怖が人間をどこかへ連れていってしまう。
身体はここにあるのに、心だけが遠くへ逃げてしまう。
だからジークフリートは話す。
名前を聞き、年齢を聞き、家族の話をし、くだらない冗談まで言う。
その人間がまだ一人の人間としてここにいることを、本人に思い出させるために。
治療が終わる頃には、アディルの意識は安定していた。
ジークフリートは汗を拭いながら長く息を吐いた。
「よく頑張ったな」
アディルは眼を閉じたまま答えた。
「酒」
ジークフリートは思わず笑った。
「覚えているのか」
「約束した」
「そうだったな。じゃあ、生きてくれ。飲む約束をしたんだから、ちゃんと生きて退院してくれ」
アディルは小さく笑った。
ジークフリートも笑った。
ジェミニタは、その瞬間だけカメラを構えた。
今度はジークフリートも止めなかった。
シャッター音が静かに響いた。
その写真には、負傷した兵士と、そのそばで笑う医師が写っていた。
けれどジェミニタが本当に残したかったのは傷ではなかった。
傷を負いながらも生きようとしている一人の人間と、その人間を生かそうとしている一人の医師。
二人が同じ時間の中に存在している、その事実だった。
それから数日が経った。
ジェミニタは戦場のあちこちを歩き、写真を撮り続けた。
避難する家族。
水を運ぶ少年。
壊れた家の前で立ち尽くす老人。
医療物資を運ぶスタッフ。
診療所で働くジークフリート。
彼女は彼を撮ることが増えた。
患者に笑いかけている姿。
治療の合間に椅子へ座り込んでいる姿。
誰もいない診療所で窓の外を見つめている姿。
食事をしながらスタッフにくだらない話をしている姿。
そのたびにジークフリートは文句を言った。
「また俺か。君、俺の写真だけで一冊作るつもりじゃないだろうな」
「まだ足りないくらい」
「そんなに撮ってどうするんだ」
「分からない。でも、撮っておきたい」
ジークフリートは少し照れたように笑った。
「それは困ったな。俺は写真映りがいいから、君が離れられなくなったんじゃないか」
「自分で言う」
「誰も言ってくれないからな」
ジェミニタは笑った。
最初は互いに警戒していた。
けれど、いつしか二人は診療所の中で互いの姿を探すようになっていた。
それが友情なのか、仲間意識なのか、それともまだ名前のついていない別の感情なのか、その時点では二人とも知らなかった。
ただ、ジェミニタが危険な場所へ向かうとき、ジークフリートは必ず声をかけた。
「無茶するなよ。写真が撮れなくなったら意味がないんだからな」
ジェミニタは笑って答えた。
「あなたも死なないで。あなたがいなくなったら、ここの患者が困るでしょう」
ジークフリートは少し眼を細めた。
「それだけ」
ジェミニタは一瞬だけ彼を見た。
何を言えばいいのか考えるように、唇をわずかに閉じる。
「それだけじゃない」
彼女はそれ以上を言わなかった。
ジークフリートは、その背中を見送った。
彼女が何を言わなかったのかを考えていた。
けれど、その答えを追いかける時間はなかった。
次の患者が運び込まれてきたからだった。
第二話 戦場の二人
その後、ジェミニタとジークフリートは、いつの間にか互いの仕事を邪魔しない距離を覚えていた。
最初の頃、ジェミニタが医療テントへ入ってくると、ジークフリートは必ず彼女の存在を意識した。カメラを構える彼女を見るたび、患者の顔を撮らないように注意しなければならないという警戒心が先に立った。
けれど何日も一緒に過ごすうち、その警戒心は別の感情へ変わっていった。
ジェミニタは、ただ戦場を撮っているわけではなかった。
瓦礫の前で泣く母親を撮るときも、銃声が響くなかで食料を運ぶ老人を撮るときも、負傷した兵士の手を握る子供を撮るときも、彼女はカメラを向ける前に必ずその人物を見るようになった。
撮るべきかどうかを眼で判断しているのだと、ジークフリートにも分かるようになった。
ある日の午後、二人は小さな村へ向かう車に乗っていた。
夜明け前から遠くで砲撃音が続いていた。医療班には、村の診療所が攻撃を受け、負傷者が複数いるという連絡が入っていた。
ジークフリートは医療道具の入った箱を膝の上に置き、揺れる車内で包帯や止血剤の数を確認していた。
向かい側では、ジェミニタが窓の外を撮影していた。
道路の両側には焼けた建物が続いている。
かつて店だったと思われる建物の壁には弾痕が残り、屋根の一部が崩れていた。
それでも人々はそこに住み続けていた。
壊れた壁に布を張り、瓦礫を片付け、僅かに残った家具を使いながら生活している。
ジェミニタはしばらくカメラを構えていた。
やがてシャッターから指を離した。
「今日は撮らないんだな」
ジークフリートが声をかけた。
ジェミニタはカメラを膝の上に置いた。
「撮っても、同じ写真になる気がしたの。壊れた建物、焼けた車、銃を持った兵士。そういう写真はもう何度も撮ったし、世界中の人間が何度も見ている。だから今日は、あの人たちが何をしているのかを見ていたい」
ジークフリートは少し笑った。
「それは俺も同じだな。怪我をした人間を毎日見ていると、最初は一人ひとりの傷が全部違って見える。でも、何週間も続くと、傷の種類ばかり覚えてしまう。銃創、爆発による裂傷、火傷、骨折、感染症。医者としては必要な知識なんだけど、それだけを見ていると患者が人間ではなく症例に見えてくるんだ」
彼はそこで言葉を止めた。
窓の外へ眼を向ける。
焼けた家の前で、一人の老人が壊れた椅子を直していた。
ジークフリートは、その姿をしばらく見ていた。
「だから俺は、患者にくだらない話をすることにしている。昨日食べた飯の話とか、昔見た映画の話とか、故郷の天気の話とか。本当なら治療とは関係ない。でも、あれをやっていると、俺自身が患者を一人の人間として見ることを忘れずに済むんだ」
ジェミニタは彼の横顔を見た。
「だから、いつも笑っているの」
声には少しからかうような響きがあった。
けれど眼は笑っていなかった。
ジークフリートは、そのことに気づいた。
「たぶん、それもある」
彼は少し考えた。
「ただ、笑っているから平気だと思われるのは困る。俺だって怖いし、腹も立つし、治せなかった患者のことを家に帰ってから思い出す。笑顔というのは、俺にとって感情がないという意味じゃない。むしろ逆なんだ。感情がありすぎるから、そのまま全部受け止めていたら仕事ができなくなる。だから笑う。患者にも笑っていてほしいし、自分にもそうしていたい」
ジェミニタは返事をしなかった。
カメラを持つ手に少しだけ力が入った。
彼女は自分にも似たところがあると思った。
写真を撮っている間は、目の前の現実を記録することだけに集中できる。
けれど夜になり、撮影した写真を確認すると、その一枚一枚に人間の顔が戻ってくる。
村へ到着すると、二人はすぐに動き始めた。
診療所の中には負傷者が集まっていた。
床には血液が染み込み、薬品の匂いと汗の匂いが混ざっている。
外では人々が負傷者を運び続けていた。
ジークフリートは到着して数秒もしないうちに医師の顔になった。
患者の状態を確認し、看護師に指示を出し、別の患者へ移る。
その合間にも、患者へ声をかけていた。
「痛みが強いと思うが、今から処置する。怖がっていい。怖くないふりをする必要はない。俺もこういう場所で平気な顔をしているけれど、本当は毎回怖い。だから君だけが怖がっているわけじゃない」
患者が苦しそうに眼を閉じる。
ジークフリートは、その手を握った。
「俺の顔を見ていてくれ。傷を見る必要はない。俺の顔を見ていればいい。治療が終わるまで、くだらない話をしていてもいい。君が話したければ、俺はいくらでも聞く」
少し離れた場所で、ジェミニタはその姿を撮影していた。
今度はジークフリートも何も言わなかった。
彼女が患者ではなく、治療をする医師の姿を撮っていることが分かっていたからだ。
日が暮れるまで、二人はほとんど休まなかった。
夜になってようやく医療班が簡単な食事を取る時間ができた。
建物の外に出ると、遠くの空が赤く染まっていた。
まだどこかで火災が続いているらしい。
夜空には星が見えていた。
けれど、その美しさを素直に楽しめる場所ではなかった。
ジェミニタは缶に入った酒を飲みながら地面に座っていた。
ジークフリートも隣に腰を下ろした。
「今日は何枚撮った」
「数えたくない」
「写真家なのに」
ジェミニタは少し笑った。
「医者が患者の数を覚えていないのと同じよ」
ジークフリートは声を出して笑った。
「それは結構ひどい例えだな。でも分かる。俺も今日は何人診たか聞かれたら答えられない。名前なら覚えているけど、人数になると分からなくなる」
ジェミニタは缶を持ったまま彼を見た。
「名前を覚えているの」
「できるだけ覚える。忘れたくないからな」
その言葉を聞いたジェミニタの眼が少し伏せられた。
彼女も同じだった。
写真を撮るのは、忘れたくないからだった。
戦場で見た人間が、数字や記事の一行に変わってしまうことが嫌だった。
「あなたも、忘れたくないんだ」
ジークフリートは彼女の顔を見た。
「君もそうなんじゃないか」
ジェミニタは少し眉を寄せた。
「何が」
「写真を撮る理由だよ。戦争を記録したいんじゃなくて、人間を忘れたくないんじゃないかと思っている」
ジェミニタはすぐには答えなかった。
図星を指されたからだった。
これまで彼女は、自分は事実を記録しているのだと思っていた。
けれど撮影した写真を後から見返すと、銃や戦車よりも、そこに写っている人間の表情ばかりが記憶に残っていた。
「そうかもしれない」
ようやく彼女がそう言うと、ジークフリートはそれ以上追及しなかった。
二人の間に静かな時間が流れた。
気まずい沈黙ではなかった。
戦場にいる人間には、言葉を必要としない時間がある。
何を言っても現実は変わらないと分かっているからこそ、隣に誰かがいるという事実だけで支えられることがある。
ジェミニタは空を見上げた。
しばらく星を眺めてから、隣にいるジークフリートを見た。
「あなたは、怖くないの」
ジークフリートは彼女の顔を見た。
その問いが、単純な恐怖への質問ではないことを理解していた。
「怖いよ」
即答だった。
「怖いから笑うんだと思う。俺は勇敢な人間じゃない。勇敢な人間なら、こんなところで笑っている必要なんてないだろ。俺は怖いし、死にたくないし、できれば安全な場所で酒を飲んで、くだらない映画を見て、朝になったら普通に仕事へ行きたい。だけど、ここにいる人たちを置いて帰ることもできない。だから残っている。それだけだ」
ジェミニタは彼を見つめた。
その顔には、いつもの軽い笑顔がなかった。
それでも彼は穏やかだった。
ジェミニタは、そのとき初めて、ジークフリートの笑顔が単なる癖ではないことを理解した。
それは彼自身が壊れないための方法だった。
同時に、目の前にいる人間を人間として扱い続けるための方法でもあった。
数日後、二人は再び危険な地域へ向かった。
途中で銃撃が始まり、車両が急停止した。
周囲から銃声が響き、土煙が上がる。
ジェミニタは反射的に車外へ出ようとした。
ジークフリートが彼女の腕をつかんだ。
「今は出るな。撮りたい気持ちは分かるけれど、君が撃たれたら俺が治療しなければならなくなる。そうなったら俺の仕事が増えるから困る」
ジェミニタは呆れた顔で彼を見た。
「こんなときまで冗談を言うの」
声には苛立ちがあった。
けれど、本当は怖かった。
自分が撃たれることよりも、隣にいるジークフリートまで巻き込まれることが怖かった。
ジークフリートは彼女の顔を見て、そのことに気づいた。
「こんなときだから言っている。俺が黙っていたら、君も怖くなるだろ」
「もう怖いわよ」
ジェミニタは正直に答えた。
ジークフリートは少しだけ笑った。
「なら、少しだけ俺の話を聞いていろ。俺は昔からよくしゃべるんだ。うるさいと言われることも多い。でも今だけは我慢してくれ。俺がしゃべっている間は、少なくとも君は銃声だけを聞かなくて済む」
ジェミニタは彼の顔を見た。
その言葉が胸に入ってきた。
「本当に変な医者ね」
「よく言われる」
銃声が遠ざかるまで、ジークフリートは本当に話し続けた。
くだらない映画の話をした。
故郷の話をした。
昔飼っていた犬の話をした。
最後には学生時代に大きな失敗をした話まで始めた。
ジェミニタは、その話を聞きながらカメラを膝の上に置いていた。
この男は戦場で人間らしくいるために、これほど多くの言葉を必要としている。
そう思うと、不思議な親しみが胸の奥に生まれた。
それから二人は、互いを仲間と呼ぶようになった。
正式な約束があったわけではない。
危険な場所では互いの位置を確認する。
負傷者が出れば同じ場所へ走る。
食事があれば自然に隣へ座る。
ジェミニタが戻らなければ、ジークフリートは落ち着かなくなった。
ジークフリートが長時間戻らなければ、ジェミニタはカメラを持ったまま入口を何度も振り返った。
それぞれが相手を心配していることを、二人とも分かっていた。
ただ、それを恋愛と呼ぶには、まだ戦場の日々が長すぎた。
ある夜、二人は医療テントの裏で酒を飲んでいた。
その日は特に多くの負傷者が運び込まれ、二人とも疲れ切っていた。
ジェミニタは普段より酒を飲み、ジークフリートも珍しく自分から酒を追加した。
「明日も朝から仕事」
ジェミニタは缶を見つめながら言った。
「分かっている」
「なのに飲んでいる」
「君も飲んでいるだろ」
「私は写真家だからいいの」
「それなら俺は医者だからいい」
二人は顔を見合わせた。
しばらく互いの顔を見ていたが、やがて同時に笑った。
その笑いは、戦場で聞くにはあまりにも普通のものだった。
だからこそ二人には必要だった。
しばらくして、ジェミニタはジークフリートの肩に寄りかかった。
ジークフリートは何も言わなかった。
ただ、彼女が離れようとしないことを感じながら、静かにその肩を支えた。
ジェミニタは彼の体温を感じていた。
戦場では、明日というものが確実に存在するとは限らない。
だからこそ、今日隣にいる人間の存在が妙に大きく感じられることがある。
彼女は自分がジークフリートを好きになっていることを、その夜になって初めて認めた。
その感情を認めると、胸が少し怖くなった。
戦場では、人を大切に思うこと自体が恐怖になる。
失う可能性が生まれるからだった。
ジークフリートも、彼女の髪に触れたとき、自分が彼女を単なる仲間として見ていないことを悟った。
二人は言葉で確認しなかった。
確認してしまえば、明日という不確かな時間に責任を持たなければならない気がした。
その夜、二人は身体を重ねた。
それは戦場の恐怖から逃げるためだけのものではなかった。
生きていることを確かめるように相手の存在を感じ、明日のことを考える余裕がないからこそ、今ここにいる人間を大切にしたいという感情が重なったものだった。
朝になれば、二人はまた医師と写真家に戻らなければならない。
ジェミニタは薄暗いテントの中で眼を覚ました。
隣ではジークフリートが眠っていた。
彼の顔からは、普段の笑顔が消えていた。
眠っていると、彼は驚くほど普通の男に見えた。
ジェミニタはしばらくその顔を見つめた。
昨夜までとは違う距離にいることが、不思議だった。
やがてジークフリートが眼を覚ました。
彼は眠そうに眼を細め、ジェミニタの顔を見ると、少し困ったように笑った。
「おはよう」
ジェミニタはすぐには返事をしなかった。
彼の顔を見ていた。
昨日までとは何かが違っている。
その違いを言葉にすると、今までの関係まで変わってしまうような気がした。
ジークフリートも同じようだった。
彼はいつものように冗談を言おうとしたが、ジェミニタの顔を見ているうちに、その言葉を飲み込んだ。
外から医療班を呼ぶ声が聞こえた。
新しい患者が来たのだ。
ジークフリートは立ち上がった。
ジェミニタもカメラを手に取った。
二人は、それぞれの仕事へ戻った。
けれど、その日から二人の間には以前とは違うものが残った。
仕事の合間に眼が合えば、どちらからともなく少し笑う。
危険な場所へ向かうときには、相手がいることを確認する。
夜になれば、同じ場所へ戻ってくる。
戦争が終わる気配はなかった。
それでも二人は、その戦場の中で互いの存在を頼りにしていた。
このときはまだ、二人とも知らなかった。
この時間が、やがて写真の中にしか残らなくなることを。
第三話 写真の中の男
ジェミニタの任務終了が決まったのは、朝の医療班ミーティングが終わった直後だった。
数日後には現地を離れ、いったんアメリカへ戻ることになる。
その知らせを聞いたジェミニタは、手にしていたカメラを胸元へ引き寄せたまま、しばらく何も言わなかった。
帰国できることは、本来なら喜ぶべきことだった。
危険な地域から離れ、家に戻り、熱いシャワーを浴び、静かな部屋で眠ることができる。
それなのに、胸の中には喜びより先に、妙な空洞が生まれていた。
視線を上げると、少し離れた場所でジークフリートが患者のカルテを確認していた。
彼はまだ、その話を知らないらしい。
ジェミニタは彼のところへ歩いていった。
「私、数日後に帰ることになった」
ジークフリートは書類から顔を上げた。
一瞬だけ眼を見開いた。
驚きが表情に出ていた。
けれど彼はすぐに口元を緩めた。
普段の笑顔だった。
ただ、ジェミニタには、その笑顔が少しだけ固いことが分かった。
「そうか。決まったんだな」
彼は手にしていた書類を机の上へ置いた。
ジェミニタは彼の顔を見つめた。
もっと何か言ってほしかった。
帰るなと言ってほしいわけではない。
ただ、自分がいなくなることを少しでも残念に思っていると、彼自身の言葉で聞きたかった。
「それだけ」
ジェミニタは少し眉を寄せた。
自分でも子供っぽいと思った。
けれど、期待していた反応と違ったことが寂しかった。
ジークフリートは彼女の顔を見た。
その表情から、彼女が何を感じているのか察したようだった。
困ったように笑いながら、頭を軽く掻いた。
「いや、違う。そういう意味じゃない。俺は今、何を言えばいいのか考えていたんだ。君が帰ることは当然だし、無事に帰ってほしいとも思っている。でも、帰ってほしくないという気持ちもある。両方本当だから、どちらを先に言えばいいのか分からなくなった」
ジェミニタの表情が少し和らいだ。
胸の奥にあった緊張が、わずかにほどけた。
「最初からそう言えばいいのに」
「俺はいつもそう言われる。説明が長いってな」
ジークフリートは笑った。
今度の笑顔は少しだけ自然だった。
ジェミニタも笑った。
ただ、眼にはまだ寂しさが残っていた。
「私も、帰るのが嫌になってきた」
その言葉を口にした瞬間、自分でも驚いた。
ジークフリートは黙って彼女を見た。
その眼差しがあまりにも真剣だったため、ジェミニタは少し視線を逸らした。
「ここにいると危険だし、疲れるし、毎日ろくなことが起きない。それなのに、帰るって決まったら、ここで過ごした時間が全部終わってしまう気がしてきた」
ジークフリートは彼女の話を聞きながら、何度か小さく頷いた。
「俺も同じだよ」
声はいつもより低かった。
「ここで起きたことを忘れたいと思う日もある。でも、ここで会った人間まで忘れたいとは思わない。君もその中にいる。だから君が帰ると聞いて安心しているのに、同時に嫌なんだ」
ジェミニタは何も言わなかった。
胸の奥が熱くなっていた。
自分だけがこんな気持ちになっているのではなかった。
それが分かっただけで、少し救われた。
それからの数日間も、仕事は続いた。
ジェミニタは写真を撮った。
ジークフリートが患者の手を握っている姿。
医療道具を整理している姿。
誰かを笑わせようとしている姿。
疲れ切って椅子に座っている姿。
ふとした瞬間に見せる寂しそうな横顔。
彼女は以前より多く彼を撮影するようになった。
ある夕方、ジークフリートがそれに気づいた。
「最近、俺の写真が増えていないか」
冗談めかした声だった。
ただ、眼には少し照れがあった。
ジェミニタはカメラを下ろした。
「嫌」
ジークフリートは少し眉を上げた。
「嫌とは言っていない。ただ、俺なんか撮って面白いのかなと思っているだけだ」
「面白いから撮っているんじゃない」
ジェミニタの声が少し弱くなった。
その言葉を口にするのは、思っていた以上に恥ずかしかった。
「じゃあ、何のために撮っているんだ」
ジークフリートは笑わずに尋ねた。
ジェミニタは彼を見つめた。
しばらく答えられなかった。
指がカメラの側面をゆっくり撫でている。
言葉にしてしまえば、自分の感情まで認めることになるような気がした。
「忘れたくないから」
ようやくそう言った。
ジークフリートの表情から笑みが消えた。
彼は視線を落とし、少しだけ息を吐いた。
「そういうことか」
声には照れと寂しさが混ざっていた。
「だったら、あまり格好よく撮らないでくれ。帰ったあとに写真を見て、実物より良かったと思われたら困る」
ジェミニタは吹き出した。
「あなたは最後までそういうことを言うのね」
「そういうことを言わないと、俺まで泣きそうになるからな」
彼は笑っていた。
けれど、眼の奥には涙をこらえているような光があった。
ジェミニタは笑いながら、胸の奥が締めつけられるような痛みを覚えた。
この人も別れを怖がっている。
そう思った。
最後の日の朝、ジェミニタは荷物をまとめた。
カメラ機材を確認し、バッテリーをしまい、記録媒体を整理した。
荷物はすべて準備できていた。
あとはジークフリートに別れを言うだけだった。
医療テントへ向かおうとしたとき、外から慌ただしい声が聞こえた。
負傷者が運び込まれてきた。
ジークフリートがすぐに立ち上がった。
ジェミニタは入口に立ったまま、彼を見た。
彼も彼女に気づいた。
一瞬だけ眼が合った。
その眼に、何かを言いたそうな色が浮かんだ。
ジェミニタも同じだった。
今しかない。
そう思った。
けれど、次の瞬間には担架が運び込まれてきた。
ジークフリートは患者のもとへ走った。
彼の顔から私的な感情が消え、医師としての集中した表情へ変わっていく。
ジェミニタは、その姿を見ながら胸の奥で迷っていた。
呼び止めたい。
名前を呼びたい。
伝えたいことがある。
けれど、目の前には苦しんでいる人がいる。
彼を自分のために止めることはできなかった。
ジークフリートも一度だけ彼女を振り返った。
その顔には、別れを言えないことへの申し訳なさが浮かんでいた。
ジェミニタは小さく笑った。
泣きそうになるのを隠すための笑顔だった。
「ジークフリート」
彼がこちらを見た。
「ありがとう」
それだけを言った。
ジークフリートは少し眼を細めた。
彼女の言葉の意味を理解したのだろう。
彼は患者の処置を続けながら、僅かに頷いた。
それが二人の最後の会話になった。
ジェミニタは医療テントを出た。
外へ出ると、乾いた風が頬を撫でた。
彼女は一度だけ振り返った。
テントの入口からジークフリートの姿は見えなかった。
それでも彼女の耳には、彼の声が残っていた。
患者を励ます声。
看護師に指示する声。
くだらない冗談を言う声。
自分に向けられた声。
ジェミニタは、そのすべてを胸の中にしまい、車へ乗り込んだ。
アメリカへ戻ったあとも、日常はすぐに戻ってきた。
街は平和だった。
人々は普通に歩き、店では音楽が流れ、夜になれば建物の窓に明かりが灯った。
ジェミニタはその景色を見ながら、戦場との違いに戸惑っていた。
あまりにも静かだった。
あまりにも普通だった。
自宅でパソコンを開いた。
撮影した写真を整理するためだった。
画面には大量の画像が表示された。
焼けた建物。
避難する家族。
負傷者。
医療テント。
その中に、ジークフリートがいた。
ジェミニタの指が止まった。
ジークフリートが患者に話しかけている写真だった。
彼は笑っていた。
ジェミニタは、その写真をじっと見つめた。
戦場では何度も見た笑顔だった。
けれど今見ると、その笑顔の奥にあるものまで分かるような気がした。
恐怖。
疲労。
悲しみ。
それでも人を安心させようとする意思。
彼女は次の写真を開いた。
またジークフリートだった。
さらに次を開いても彼だった。
患者を診ている。
医療道具を整理している。
疲れた顔で座っている。
こちらを見て笑っている。
誰もいない場所で遠くを見ている。
ジェミニタは椅子に深く腰を下ろした。
自分の写真フォルダには、彼の写真があまりにも多かった。
「こんなに撮っていたんだ」
誰もいない部屋で、その声だけが響いた。
翌日、ジェミニタは国境なき医師団へ連絡した。
ジークフリートと連絡を取りたいと伝えた。
しかし、現地スタッフの安全とプライバシーに関わるため、個人的な連絡先を外部へ渡すことはできないと説明された。
電話を切ったあと、ジェミニタはしばらく動かなかった。
腹が立ったわけではない。
理由は理解できていた。
戦場で働く人間の情報を簡単に外へ出せないことも分かっている。
それでも、どうしても寂しかった。
せめてもう一度、声を聞きたかった。
彼が無事なのか知りたかった。
あのとき言えなかった言葉を伝えたかった。
ジェミニタはパソコンへ戻った。
画面には、ジークフリートの写真が表示されていた。
彼は笑っている。
ジェミニタは、その顔を見つめた。
戦場で出会ったとき、彼女はこの男を変な医者だと思った。
重傷者を治療しながら冗談を言う。
怖い状況でも笑う。
誰かが死ぬたびに苦しむ。
それでも翌朝には、また患者の前で笑っていた。
今なら分かる。
あの笑顔は、何も感じていない人間の笑顔ではなかった。
感じすぎる人間が、自分自身を壊さないために選んだ笑顔だった。
ジェミニタは眼を閉じた。
あの夜のことを思い出した。
隣に座って酒を飲んだこと。
彼の肩に寄りかかったこと。
何も言わずに互いの存在を感じていた時間。
翌朝に眼を合わせたときの彼の顔。
ジェミニタはゆっくりと眼を開いた。
写真の中の彼は、何も知らない顔で笑っている。
「また会いたい」
彼女はそう呟いた。
返事はない。
当然だった。
それでも、その言葉を口にすると少しだけ楽になった。
ジェミニタは写真を消さなかった。
ジークフリートの写真も、戦場で撮った他の写真も、そのまま保存した。
彼女はまたカメラを持って仕事へ出ることにした。
次にどこへ行くのかはまだ決まっていない。
どんな人間を撮ることになるのかも分からない。
それでも、シャッターを切るたびに、あの戦場で見た人々を思い出すだろう。
その中には、必ずジークフリートがいる。
彼女のパソコンには、今日も彼の写真が表示されていた。
笑っている。
少し疲れている。
それでも患者のほうを見ている。
ジェミニタは画面に手を伸ばした。
写真に触れることはできない。
それでも指先が画面の前で止まった。
彼女は小さく笑った。
今度の笑顔には、戦場で無理に作っていたものとは違う、静かな寂しさがあった。
会えなくても忘れない。
連絡先が分からなくても、彼がどこかで誰かを救っていると信じる。
それだけでいいと思えるようになるまでには、まだ時間が必要だった。
ジェミニタはパソコンを閉じず、そのまま机を離れた。
画面の中には、最後に撮ったジークフリートの写真が残っている。
戦場から遠く離れた部屋の中で、その写真だけが、あの日々が本当に存在したことを証明していた。
『戦場にあった恋』 完
『旅する世界で恋をする』
第一話 海から来た男
海の向こうには、まだ見たことのない世界が広がっている。アテンは幼い頃から、そんな話を聞くたびに胸を躍らせてきた。どこまでも続く青い海、その先にある異国の町、見慣れない衣服を身につけた人々、耳にしたことのない言葉、食べたことのない料理。そうしたものを自分の眼で確かめることが、彼にとって何よりの楽しみだった。故郷に腰を落ち着けて家を持ち、毎年同じ季節に同じ畑を耕す暮らしも悪くはないのだろう。しかし、アテンには、一つの場所にとどまり続ける自分の姿を想像することができなかった。
クレオパトラがエジプトを治めていた時代、地中海を行き交う船は、さまざまな土地の人々と品物を運んでいた。アテンは船乗りとして生まれたわけではなかったが、若い頃から港で荷を運び、船の修理を手伝い、必要とされる仕事を引き受けながら各地を渡り歩いてきた。彼の身体は、重い荷物を持ち上げ、荒れた甲板で踏ん張り、長時間の労働を続けるうちに、自然と筋肉質になっていた。日に焼けた肌には細かな傷がいくつもあり、腕や肩には、これまで運んできた荷物の重さを物語るような厚みがあった。
仕事の腕には自信があったが、アテンは自分を立派な男だと考えたことはなかった。稼いだ金があれば仲間たちと酒を飲み、船乗りが語る海の話に耳を傾け、時には自分が訪れた土地の出来事を大げさに語って皆を笑わせた。喧嘩が起きれば腕力で相手を押さえ込むこともあったが、わざわざ争いを探して歩くほど暇ではない。彼にとって、世界を見て回ることは競争でも冒険の自慢でもなく、ただ毎日を面白くするための自然な生き方だった。
その日、アテンを乗せた商船はギリシャの港町に入った。海は穏やかで、沖合には何隻もの船が浮かび、帆を畳んだ船員たちが岸へ渡る準備をしていた。船が岸壁に近づくと、陸から荷役人たちの声が飛んできた。船員たちは綱を投げ、岸にいた男たちがそれを受け止めて船を固定する。やがて板が渡され、積み荷を降ろすための人々が忙しく動き始めた。
アテンも仲間たちとともに荷下ろしを手伝った。木箱には陶器や布、乾燥させた食料などが詰められており、なかには一人では持ち上げられないほど重いものもあった。額に汗を浮かべながら作業を続けていたアテンは、隣で働く男が箱を持ち上げる際に足を滑らせたのを見ると、すぐに腕を伸ばして支えた。
「おい、気をつけろ。そんなところで転んだら、箱より先にお前の腰が壊れるぞ」
男は顔をしかめながら体勢を立て直し、アテンの肩を軽く叩いた。
「お前は口だけでなく腕もよく動くな。あとで酒をおごってやる」
「その言葉を忘れるなよ。お前が忘れたら、俺が酒場までついていって思い出させてやる」
周囲の男たちが笑った。アテンも声を上げて笑い、再び箱に手をかけた。こういう時間が好きだった。誰もが汗をかき、腹を空かせ、仕事が終われば酒を飲む。生まれた土地も話す言葉も違うのに、重い荷物を持ち上げるときの苦労や、仕事を終えたときの解放感には、さほど大きな違いがない。アテンはそうした瞬間に、人間が世界のどこにいても同じように生きていることを感じていた。
荷下ろしが終わったのは、太陽が高く昇った頃だった。アテンは仲間たちと別れ、町の市場へ向かった。船に戻るまでには時間があり、せっかく初めて訪れた町なのだから、港の周辺だけを見て帰るのはもったいない。市場ならば、この土地で暮らす人々の様子もわかるだろう。彼は腰に下げた小さな袋を確かめ、腹を満たすものを探しながら、人々の間を歩いていった。
市場は港にも負けないほど賑やかだった。石造りの建物が並ぶ通りには布や陶器、香辛料、果物、乾燥した魚などが売られ、商人たちは客を呼び込むために大声を張り上げていた。荷物を抱えた男たちが人混みを縫うように歩き、子供たちは大人たちの隙間を走り抜ける。どこかでロバが鳴き、別の場所では客と商人が値段を巡って言い争っていた。市場全体が一つの生き物のように動いている。
アテンは売り物を眺めながら、時折店の主人に話しかけた。知らない土地を訪れたときには、地図を眺めるよりも、そこに暮らす人々と話をする方が面白い。どこから品物が運ばれてきたのか、何がよく売れるのか、最近町でどんなことが起きたのか。そうした話を聞いているだけで、その土地の姿が少しずつ見えてくる。
魚を売る店の前を通りかかったとき、アテンは足を止めた。
店先には大きな籠や浅い木箱が並び、銀色の鱗を光らせる魚が種類ごとに置かれていた。店の主人は若い女性だった。日に焼けた腕を動かしながら魚を並べ、目の前で値段を尋ねた客に、遠慮のない調子で言い返している。
「あんた、その値段でこの魚を買えると思っているのかい。海まで自分で泳いで取りに行ってきたら、もっと安くしてあげてもいいよ」
客の男は呆れた顔をしたが、女性が笑いながら魚を袋に入れ始めると、結局は代金を払った。近くで見ていた人々も笑い、女性は受け取った硬貨を袋にしまいながら、次の客へ声をかけた。
「ほら、次は誰だい。今日はいい魚が入っているよ。食べずに帰ったら、明日の朝まで後悔することになるからね」
アテンは思わず笑った。
女性は彼に気づくと、腰に手を当てて顔を向けた。明るい眼には、初めて見る男に対する警戒よりも、何を言い出すのか楽しみにしているような好奇心が浮かんでいた。
「あんた、さっきから何を笑っているんだい。魚を買う気があるなら歓迎するけれど、見物だけなら場所代を取るよ」
「魚屋が見物人から場所代を取るのか。そんな話は初めて聞いたぞ」
「ここはあたしの店だからね。何を取るかはあたしが決めるのさ」
「なるほど。なら、世界で一番高い魚屋かもしれないな」
「あんたが世界中の魚屋を知っているなら、比べてみればいいじゃないか」
女性は胸を張った。アテンは声を上げて笑った。彼女の言葉には、相手を打ち負かそうとする険しさがなかった。客をからかい、自分もからかわれることを楽しんでいる。市場の人々が彼女の店先に集まる理由が、アテンにはすぐにわかった。
「俺はアテンという。港で荷運びをしている。今日、この町に着いたばかりなんだ」
「ファティーだよ。あたしはここで魚を売っている。見ればわかると思うけどね」
「それはわかる。だが、あんたが町で一番よくしゃべる魚屋かどうかは、まだわからない」
「だったら明日も来ればいい。毎日来れば、そのうちわかるさ」
ファティーは悪びれずに言った。アテンは、彼女の顔を見ながら、こんなふうに人を笑わせる女性は久しぶりだと思った。船の上では男たちと冗談を言い合っていたが、彼らの笑いには、仕事の疲れを忘れるための荒っぽさがあった。ファティーの笑顔はそれとは少し違っていた。彼女は商売の苦労も、暮らしの厳しさも知っているはずなのに、それらを理由にして人生を楽しむことをやめてはいなかった。
アテンは魚を一匹選び、値段を尋ねた。ファティーは少し考えるような顔をしてから、彼の身体を上から下まで眺めた。
「あんた、ずいぶん身体が大きいね。船で働いていると言ったけれど、魚を運ぶのにも困らなさそうだ」
「重い荷物ならいくらでも運べる。魚だって、籠ごと持っていけるぞ」
「そんなことをしたら、明日の商売ができなくなるじゃないか。あんた、案外考えなしだね」
「籠を持ち上げる前に、店の主人に許可を取るくらいの分別はあるさ」
ファティーは笑いながら魚を包んだ。アテンは代金を払い、受け取った包みを片手で持ち上げた。彼が立ち去ろうとすると、ファティーは背中に向かって声をかけた。
「アテン、明日も港にいるのかい」
彼は振り返った。
「船が出るまではな。しばらくはこの町で仕事をすることになりそうだ」
「だったら、明日も来なよ。今日の魚がうまかったら、明日はもっといい魚を売ってあげる」
「今日の魚がまずかったら、どうするんだ」
「そのときは、あんたの舌がおかしいんだよ」
市場の人々がまた笑った。アテンは片手を上げて応え、通りの向こうへ歩いていった。魚を買っただけのはずなのに、彼の心には妙に明るいものが残っていた。
その様子を、少し離れた場所から見ている男がいた。
市場の一角で商人たちに指示を出していたアマラは、腹の出た身体をゆっくりと動かしながら、ファティーの店を眺めていた。年齢はすでに初老に差しかかり、顔には長年の商売で身につけた狡猾さが刻まれている。高価な布をまとい、指には装飾品をはめていたが、その身なりとは裏腹に、他人に対する態度は粗野だった。市場の場所や商売上の取り決めを管理する立場を利用し、商人たちに自分の意向を押しつけることを当然だと考えていた。
ファティーは、アマラにとって気に入った女だった。彼女の明るさも、物怖じしない性格も、彼は自分のそばに置けば面白いだろうと考えていた。だが、ファティーは彼の贈り物を受け取ろうとせず、食事に誘っても断り続けていた。アマラは、それを自分への拒絶とは受け止めていなかった。彼女が強情を張っているだけで、いずれ自分の力を理解すれば態度を改めると信じていた。
そこへ、見知らぬ大男が現れたのである。
アマラは、アテンがファティーと笑い合っている様子を見て、眉間にしわを寄せた。商売の話をするだけならともかく、二人はまるで以前からの知り合いのように楽しげだった。ファティーが他の男と親しげに話すこと自体が気に入らなかったが、相手が見慣れない旅人であることも、彼の機嫌を損ねた。
アマラは部下の一人に短く指示を出すと、ゆっくりとファティーの店へ向かった。
「ファティー、ずいぶん楽しそうじゃないか。商売をする時間に、よそ者と話し込んでいる余裕があるとは知らなかったぞ」
声を聞いたファティーの表情が、ほんのわずかに変わった。彼女はすぐにいつもの笑顔を浮かべたものの、先ほどまでの気軽さは消えていた。
「あら、アマラ。あたしは商売をしていたんだよ。魚を買ってくれる客と話をするのも仕事のうちさ」
「客なら客らしく、買うものを買って帰ればいい。市場でいつまでも騒がれては困る」
アマラはアテンに視線を向けた。相手の身体つきを確かめるように眼を細め、頭から足元まで眺める。
「お前はどこの者だ。ここは誰でも好き勝手に振る舞っていい場所ではない」
アテンは魚の包みを持ったまま、落ち着いて答えた。
「港で働いている。今日は魚を買いに来ただけだ。店の主人と話をするのに、あんたの許可が必要だとは知らなかったな」
アマラの顔が険しくなった。周囲の商人たちは手を止めないふりをしながら、二人の様子をうかがっていた。誰もがアマラの性格を知っていたからこそ、余計な口出しを避けようとしているのだった。
「この市場には決まりがある。決まりを守れない者には、ここで商売をする資格はない」
「俺は商売をしていない。荷を運んでいるだけだ」
「ならば、余計な口を出す必要もないだろう」
アマラは吐き捨てるように言い、ファティーへ向き直った。
「お前もだ。客を相手にするのは構わんが、相手を選べ。市場の秩序を乱すようなことがあれば、売り場を変えてもらうことになるぞ」
ファティーは口を開きかけたが、アテンが先に言葉を返した。
「魚を売る場所を変えるかどうかは、魚が売れているかどうかで決めればいい。客が笑っていたからといって、商売の邪魔になるとは思えないがな」
「よそ者が、この市場のことを知ったような口を利くな」
アマラの声には明らかな怒りが混じっていた。アテンは相手の身体を見て、わずかに肩をすくめた。腕力で押し通すなら、目の前の男に負ける気はしなかった。しかし、ここは初めて訪れた町であり、ファティーもこの市場で暮らしている。自分が一時の怒りに任せて騒ぎを起こせば、困るのは彼女かもしれない。
「わかった。俺は仕事に戻るよ。魚も買ったしな」
アテンはそう言って、ファティーに軽く手を上げた。彼女は何か言いたそうな顔をしていたが、アマラの前では何も口にしなかった。
アテンが市場の通りへ消えると、アマラはファティーを見下ろした。
「お前は、ああいう男と関わらない方が身のためだ。わしはお前のことを考えて言っている」
「心配してくれなくてもいいよ。あたしは自分のことくらい、自分で考えられるからね」
「強情を張るのもほどほどにしろ。お前の商売が続けられるのは、この市場があるからだということを忘れるな」
アマラは言い残し、取り巻きを連れて立ち去った。ファティーは彼の背中を見つめ、握っていた布をそっと置いた。普段なら、どんな相手にも冗談を返す彼女だったが、アマラに対してだけは違った。彼の言葉は、単なる嫌味では済まない。市場で暮らす人々にとって、売り場を失うことは生活そのものを失うことに等しかった。
しばらくして、近くの店で働く年配の女性がファティーに声をかけた。
「あまりアマラを刺激しない方がいいよ。あの男は、自分の思いどおりにならないと何をするかわからないからね」
「わかっているよ。でも、あたしが何も言わなければ、あの男はいつまでも自分が正しいと思うだろう」
ファティーは笑顔を取り戻そうとした。だが、その表情には、いつもの快活さだけではない疲れが浮かんでいた。
その日の仕事を終えたアテンは、港へ戻る途中で市場を振り返った。魚を売る女性の姿が、頭から離れなかったのである。彼女の明るさは、何も知らない人間の無邪気さから生まれたものではなかった。生活の苦労も、面倒な人間関係も、思いどおりにならない現実も知ったうえで、それでも毎日を楽しもうとしている。だからこそ、あの笑顔には人を引きつける力があるのだろう。
アマラという男が何者なのか、アテンにはまだ詳しいことはわからない。ただ、あの男が現れたとき、ファティーの表情が変わったことだけは覚えていた。自分には関係のない町の揉め事として忘れてしまうこともできる。明日になれば港で働き、船が出れば別の土地へ向かう。それが、これまでのアテンの生き方だった。
それでも、彼は翌日も市場へ行こうと決めていた。
ファティーともう一度話したいと思ったからだ。魚を買うためだけではない。彼女がどんな暮らしをしているのか、なぜアマラを前にすると表情を変えるのか、もっと知りたかった。
翌朝、港には穏やかな風が吹いていた。船員たちが出航の準備を始めるなか、アテンは仲間に声をかけ、仕事を終えたあと市場へ向かうつもりだと伝えた。仲間の一人は、魚屋の女にでも惚れたのかとからかったが、アテンは笑い飛ばした。
「惚れたかどうかは、まだわからないさ。まずは魚がうまいか確かめないとな」
「魚の味を確かめるのに、毎日通う必要があるのか」
「うまい魚なら、毎日食べても飽きないだろう」
男たちは声を上げて笑った。アテンも笑いながら市場へ向かったが、心のどこかでは、自分が魚の味だけを確かめようとしているわけではないことを理解していた。
市場に着くと、ファティーはすでに店先で魚を並べていた。彼女はアテンの姿を見つけると、まるで待っていたかのように顔を上げた。
「あんた、本当に来たんだね。昨日の魚が気に入ったのかい」
「魚も悪くなかった。だが、店の主人が世界一高い魚屋なのかどうか、まだ確かめていないからな」
「それなら、今日は昨日より高い値段をつけてあげるよ」
「ひどい話だな。俺は客だぞ」
「客だからこそ、特別扱いしているんじゃないか」
ファティーは笑った。アテンも笑い、店先に並べられた魚を眺めた。朝の光が銀色の鱗に反射し、市場には人々の声が満ちていた。二人の会話は、昨日の続きのように自然に始まった。
ファティーは、アテンがこれまで訪れた土地について尋ねた。彼はエジプトの港で見た船や、異国の商人たちが持ち込んだ珍しい品物、海の向こうで聞いた風変わりな習慣について語った。時には話を面白くするために少し大げさに話し、ファティーが疑わしそうな顔をすると、ますます身振りを交えて説明した。
「本当なのかい、それ。あんた、話を大きくしているんじゃないだろうね」
「俺が嘘をついていると思うなら、いつか自分で確かめればいい」
「そんな遠くまで行くお金があれば、まずは店の屋根を直すよ」
ファティーは店の上を指さした。屋根の一部には古い布が張られ、隙間から日差しが差し込んでいた。アテンはそれを見て、笑いながら言った。
「なら、俺が屋根を直してやろうか。荷運びだけじゃなく、修理も得意なんだ」
「あんたに頼んだら、屋根を直す代わりに店ごと持ち上げられそうだね」
「それも面白そうだ。魚を売りながら町を歩けるぞ」
ファティーは腹を抱えて笑った。近くの商人もつられて笑い、朝の市場に明るい声が広がった。
アテンはその笑顔を見つめていた。彼はこれまで多くの港を訪れ、さまざまな人と知り合ってきた。酒を酌み交わした仲間もいれば、仕事を終えた翌日に別れ、二度と会わなかった人もいる。それでも、別れはいつも自然なものだった。船が出れば、彼は次の土地へ向かい、そこでまた新しい人々と出会う。それで十分だと思っていた。
しかし、ファティーと話していると、いつものように次の場所へ向かうことだけを考えるのが難しくなった。彼女が市場で過ごす日々の話を聞いていると、その町のことをもっと知りたいと思う。どの店の主人が頑固なのか、どの路地においしい食べ物があるのか、誰が困っていて、誰が人を助けているのか。彼女が当たり前のように語る町の出来事が、アテンには新しい世界のように思えた。
遠い土地へ行くことだけが、世界を知る方法ではないのかもしれない。自分が通り過ぎるだけだった町にも、そこで生まれ、働き、笑い、苦労しながら生きている人々がいる。ファティーは、そのことを彼に教えているようだった。
市場の向こう側では、アマラが部下に何かを命じていた。彼は時折こちらを見ており、二人が親しげに話している様子を気に入らないということが、遠くからでもわかった。
アテンはその視線に気づいたが、今度はすぐに目をそらさなかった。アマラがどれほど市場で力を持っていようと、ファティーが誰と話すかまで決められるわけではない。もっとも、彼女がこの町で生きていく以上、単純に反発すれば済む話ではないことも、アテンには少しずつわかり始めていた。
ファティーはアテンの視線を追い、アマラの姿を見つけた。彼女は一瞬だけ口を閉じたが、すぐに魚を並べ直し、何事もなかったように客を呼び始めた。
「今日は、どの魚にするんだい」
彼女の声は明るかった。
アテンは店先に並んだ魚を見渡し、それからファティーの顔を見た。
「そうだな。あんたが一番うまいと思う魚をくれ」
「任せておきな。あたしの選ぶ魚に間違いはないよ」
ファティーは胸を張り、魚を選び始めた。
アテンは彼女の隣で、市場を行き交う人々の姿を眺めた。港の向こうには船があり、その先にはまだ知らない世界が広がっている。彼はいつか、この町を離れるだろう。海の向こうへ渡り、新しい港で仕事を探し、また仲間たちと酒を飲みながら笑うに違いない。
それでも今は、この市場にいることが楽しかった。
彼の旅は、まだ終わらない。だが、これまでの旅では出会ったことのない何かが、この町にはあるような気がしていた。
第二話 市場を支配する男
ギリシャの港町に朝が訪れると、市場は昨日と変わらない賑わいを取り戻していた。魚を運ぶ男たちが荷車を押し、商人たちは店先に商品を並べ、焼きたてのパンの匂いが通りを漂っている。海から吹く風には塩の匂いが混じり、沖合では商船が帆を広げる準備を進めていた。人々はそれぞれの仕事に追われ、昨日どこかで起きた揉め事など、もう忘れてしまったかのように動いていた。
アテンは朝から港で荷運びをしていた。大きな木箱を肩に担ぎ、船から岸壁へ、岸壁から倉庫へと何度も往復する。額から汗が流れ落ち、上着はすでに汗で重くなっていたが、彼は苦にする様子もなく働いていた。荷物を降ろすたびに仲間へ冗談を飛ばし、力自慢の男が重い箱を持ち上げようとすれば、横から手を貸して競い合う。仕事の最中であっても、彼にとっては仲間と笑い合う時間の一部だった。
「アテン、お前はいつまでこの町にいるつもりだ。船が出るまでと言っていたが、そろそろ次の船の話も出ているぞ」
同じ船で働く男が、荷物を降ろしながら尋ねた。
「まだ決めていない。次の船がいつ出るかにもよるな」
「お前が行き先を決めずにいるなんて珍しい。いつもなら、まだ見たことのない土地があると聞けば、荷物をまとめて飛び出していくじゃないか」
「見たことのない土地なら、ここにもあるさ。港だけ見て町を知らずに出ていくのは、魚を食べずに骨だけ眺めるようなものだろう」
仲間の男は怪訝そうな顔をしたあと、何かを察したように笑った。
「なるほど。魚屋の女か」
「仕事に集中しろ。箱を落としたら、俺がお前を担いで運ぶことになるぞ」
アテンが笑いながら肩を押すと、男は大げさに腕を振り回して抗議した。二人の笑い声が倉庫に響く。アテンは普段どおりの調子を崩さなかったが、仲間に言われたことを否定しきれない自分にも気づいていた。ファティーに会いたいという気持ちは、昨日よりも確かに強くなっていた。
仕事を終えると、アテンは市場へ向かった。
ファティーの店は、すでに多くの客で賑わっていた。彼女は籠から魚を取り出して並べながら、客の注文を聞き、値段を巡って言い争いになりかけた男を笑わせていた。近所の商人が店先を通りかかると、彼女は仕事の手を止めずに声をかける。誰かが荷物を落とせば拾うのを手伝い、子供が母親とはぐれて泣いていれば、仕事の合間に声をかけて安心させる。忙しいはずなのに、彼女の周りにはいつも人が集まっていた。
アテンが近づくと、ファティーはすぐに気づいた。
「あんた、今日は遅かったね。魚が売り切れてしまうところだったよ」
「それは困ったな。俺のために一匹くらい残しておいてくれてもいいだろう」
「昨日も来たからって、特別扱いされると思ったら大間違いさ。商売は公平にやらないとね」
「その公平という言葉は、値段を高くするときにも使うのか」
「もちろん。高い値段を払える人には、高い魚を売ってあげるんだよ」
ファティーは笑いながら、魚を一匹選んだ。アテンは代金を払ったが、すぐには立ち去らなかった。彼女が次の客を相手にしている間、店の端に置かれた籠を持ち上げ、通路の邪魔にならない場所へ移動させた。
「ちょっと、何をしているんだい」
「ここに置いておくと、人が通るたびにぶつかるだろう。俺が持っていった方が早い」
「あんたは客なんだから、そんなことをしなくてもいいんだよ」
「客だからこそ、店が商売しやすいようにしているんだ。次に来たとき、籠に足を引っかけて転んだら、魚を買うどころじゃなくなるからな」
ファティーは呆れたように彼を見たが、すぐに笑顔になった。
「あんたは本当に変わった男だね。世界中を旅しているくせに、こんな小さな店のことまで気にするんだから」
「世界中を旅しているからだ。どこへ行っても、誰かが働いている。俺はその人たちのおかげで飯を食べられるんだから、少しくらい手伝ったって損はないさ」
その言葉に、ファティーは一瞬だけ真剣な表情を見せた。彼女は、アテンがただ気ままに世界を歩き回っているだけの男ではないことを、少しずつ理解し始めていた。
その日の午後、二人は仕事の合間に港を歩いた。ファティーは店を近所の女性に任せ、短い休憩を取ることにした。港の岸壁には船が並び、船員たちが積み荷を運んでいる。アテンは遠くに見える帆を指さし、あの船がどこから来たのか、どんな品物を運んできたのかを説明した。
「海の向こうには、本当にそんなにたくさんの町があるのかい」
「あるさ。港によって人々の顔も、着ている服も、食べるものも違う。商売の仕方だって違うんだ。ある町では値段を決めるまでに何度も話し合うし、別の町では一言で決まる。船乗りたちの間でしか通じない言葉だってある」
「面白そうだね。あたしも一度くらい、海の向こうを見てみたいよ」
ファティーは水平線を眺めた。彼女は生まれてからずっとこの町で暮らしてきた。市場の人々の顔を知り、魚がよく獲れる季節を知り、潮の匂いで天気の変化を感じ取ることもできる。ここは彼女の生活そのものだった。だが、遠い土地の話を聞くと、知らない世界を見てみたいという気持ちが胸の中に広がることもあった。
「いつか行けばいい。船に乗るだけなら、そんなに難しいことじゃない」
「そう簡単に言うけど、あたしがいなくなったら店はどうするんだい。魚は勝手に売れてくれないし、あの近所の連中はあたしがいないと値段を決めるだけで日が暮れるよ」
「それなら、帰ってきたときに、みんながどれだけ困ったか聞けばいい。お前がいないと商売ができないと言われるくらいになれば、立派なものじゃないか」
「そんなことを言われたら、あたしは一生帰れなくなるよ」
二人は笑った。ファティーは遠い海を見つめながら、自分がこの町を好きな理由を考えていた。海の向こうへ行ってみたい気持ちはある。それでも、自分が帰ってくる場所として、この市場を失いたくはなかった。
その頃、市場ではアマラが商人たちを集めていた。
彼は市場の場所代や売り場の割り当てを管理する立場にあり、その権限を使って商人たちに無理な要求を押しつけていた。逆らう者には場所代を引き上げ、売り場を人通りの少ない場所へ移し、時には商売に必要な許可を遅らせる。アマラにとって、市場は人々が働く場所である以前に、自分の力を示すための場所だった。
腹の出た身体を揺らしながら、彼は商人たちの前に立った。
「来月から場所代を引き上げる。港からの荷が増えているのだから、市場もそれに合わせて整備しなければならん。文句がある者は、別の場所で商売をすればいい」
商人たちの間に不満の声が広がった。もともと利益の少ない商売をしている者にとって、場所代の値上げは生活を圧迫するものだった。しかし、アマラに逆らえば売り場を失うかもしれない。誰もが不満を抱きながら、はっきりと口にすることを避けていた。
アマラは、その沈黙を自分への服従だと思っていた。
彼の視線がファティーの店へ向いた。ファティーは市場の人々と親しく、困っている者がいれば手を貸し、商売がうまくいかない者には魚を分けることもあった。そんな彼女がアマラの言いなりにならないことは、彼の自尊心を傷つけていた。彼は何度も彼女に贈り物をし、食事に誘い、自分のそばに来るよう求めてきた。しかし、ファティーはそのたびに断っていた。
アマラは、彼女が自分の立場を理解していないのだと考えた。自分が市場でどれほどの力を持っているのかを思い知らせれば、いずれ態度を変えるに違いない。
翌日、ファティーの店にアマラの部下がやって来た。
「アマラ様からの伝言だ。お前の売り場は来月から移動になる。通路の整備が必要だそうだ」
ファティーは魚を並べる手を止めた。
「どこへ移るんだい」
「市場の奥だ。場所は後で知らせる」
「市場の奥だって。あそこは人通りが少なくて、魚を売るには向いていないじゃないか。通路の整備なら、ほかにも場所があるだろう」
「決まったことだ。文句を言っても変わらない」
男はそれだけ告げると、足早に立ち去った。
ファティーはしばらく、その背中を見つめていた。売り場を移されれば、今までのように客が集まるとは限らない。魚は鮮度が大切で、売れ残ればその日の収入が減る。場所代まで引き上げられれば、生活を続けることさえ難しくなるかもしれない。
近くの店で働く女性が心配そうに近づいた。
「あの男、とうとう本気になったようだね。アテンという旅人と話しているのを見てから、ずっと機嫌が悪かったんだよ」
「アテンは関係ないよ。あたしが誰と話そうと、あの男に決められることじゃない」
「もちろんそうさ。でも、アマラは自分が気に入らないことを許せない男だ。あまり逆らうと、あんたの商売だけじゃ済まなくなるかもしれない」
ファティーは返事をしなかった。彼女は周囲の人々が心配してくれていることを知っていたし、アマラがどれほど厄介な男なのかも理解していた。だが、だからといって、彼の望むとおりに振る舞うつもりはなかった。
その日の夕方、アテンが市場へやって来ると、ファティーはいつもより口数が少なかった。客には笑顔で応じていたものの、客が途切れると、すぐに考え込むような表情になった。アテンは魚を買い、代金を払ってから、彼女の顔を見た。
「何かあったのか」
「別に、何もないよ」
「その顔で何もないと言われても、信じられないな。昨日はあれだけしゃべっていたのに、今日は魚としか話していないじゃないか」
「魚の方が人間より素直なときもあるんだよ」
ファティーは笑おうとしたが、いつものようにはいかなかった。
アテンは店の端に立ち、彼女が仕事を終えるのを待った。客がいなくなり、並べていた魚を片づけ始めた頃、ファティーはようやく事情を話した。アマラが売り場を移すと言い出したこと、場所代を引き上げようとしていること、これまで逆らった商人たちが苦しい立場に追い込まれてきたこと。彼女はできるだけ淡々と説明したが、その声には怒りと不安が混じっていた。
「この市場で暮らすのは、楽なことばかりじゃないよ。魚が獲れない日もあるし、値段が下がってしまうこともある。でも、そういうことなら仕方がないんだ。海が荒れたなら、みんなでどうにかするしかない。ところが、アマラは自分の機嫌ひとつで、人の暮らしを変えようとする。あたしは、それが許せない」
アテンは黙って聞いていた。
彼は、アマラを殴って黙らせることならできるかもしれないと考えた。自分より身体の大きな男はそう多くない。力で押さえ込めば、少なくとも目の前でファティーを脅すことはできなくなるだろう。しかし、それで問題が解決するとは思えなかった。アマラが市場で持つ権限は、拳で壊せるものではない。自分がこの町を去ったあと、ファティーがさらに厳しい立場に追い込まれる可能性もあった。
「アマラが何をしているのか、もう少し詳しく知る必要があるな」
アテンが言うと、ファティーは顔を上げた。
「あんた、何かするつもりなのかい」
「何もしないで出ていくのも気分が悪い。俺は旅人だから、この町の決まりを全部知っているわけじゃないが、あの男がやっていることが本当に正しいのか、それくらいは調べられるだろう」
「これは、あたしの問題だよ。あんたまで巻き込むわけにはいかない」
「俺が勝手に首を突っ込むんだ。あんたが責任を感じる必要はないさ」
ファティーは彼の顔を見つめた。彼女は助けを求めたつもりではなかった。自分の苦労を誰かに話したところで、現実が変わるわけではないと思っていたからだ。それなのに、アテンは彼女の話を聞き流さず、何ができるのかを考え始めていた。
「どうして、そこまでするんだい」
アテンは少し考えた。
「最初は、あんたと話すのが楽しかったからだろうな。今もそうだ。あんたが毎日笑っているのを見ると、俺まで気分がよくなる。だから、その笑顔を誰かに無理やり奪われるのは、あまり面白くない」
ファティーは何か言い返そうとしたが、言葉が出てこなかった。彼女は顔を背け、魚を入れた籠を持ち上げた。耳が少し赤くなっていることに、アテンは気づかないふりをした。
翌日から、アテンは市場の人々に話を聞き始めた。港で働く仲間たちの中には、この町で何年も仕事をしている者もいた。彼らはアマラが市場でどのように振る舞っているかを知っており、場所代の徴収が公平に行われていないことや、彼に逆らった商人が不利な扱いを受けたことを話してくれた。
アテンは市場の商人たちにも声をかけた。最初は誰もが警戒していた。旅人である彼には、いずれ町を去るという気楽さがある。残される自分たちの生活を理解しているのかと疑う者もいた。
「お前は船に乗れば、いつでもここから出ていける。だが、俺たちはそうはいかないんだ」
年配の商人が、低い声で言った。
アテンはその言葉を否定しなかった。
「そのとおりだ。俺はここで生まれたわけでもないし、ずっと暮らしていくわけでもない。あんたたちの苦労を、全部わかったようなことは言えないさ。ただ、あんたたちが一人ずつ黙っていたら、アマラはいつまでも好き勝手をするんじゃないかと思ったんだ」
「声を上げたら、売り場を失うかもしれない」
「一人で声を上げれば、そうなるかもしれないな」
アテンは市場を見渡した。商人たちは互いに顔を見合わせている。誰もが、自分だけが不利益を受けることを恐れていた。アマラの力は、まさにその恐れによって支えられているのだろう。
「だが、あんたたちが同じことをされていると知ったらどうだ。誰か一人が困っているときには助けられなくても、何人もの商人が同じ問題を抱えているなら、話は違う。俺は、この町の人間じゃないからこそ、少し離れたところから見ることができる。あんたたちが何を失いたくないのか、話を聞かせてくれないか」
年配の商人は、しばらく黙っていた。やがて、彼は小さく息を吐いた。
「ファティーには、何度も助けられたことがある。家族が病気になったとき、あの女は売れ残った魚を分けてくれた。金を払えなかったこともあるが、何も言わずに持たせてくれたんだ。あの女が困っているなら、何かできることがあるかもしれない」
その話を聞いていた別の商人も、少しずつ口を開いた。ファティーが普段から人々にしてきたことは、本人が思っている以上に多くの人の記憶に残っていた。商売がうまくいかないときに励まされた者もいれば、子供の面倒を見てもらった者もいた。彼女は自分が特別なことをしているとは考えていなかったが、その何気ない行動が、周囲の人々とのつながりを作っていたのである。
アテンは、協力してくれる人々とともに、アマラがどのように場所代を決めているのかを確かめた。すると、同じ広さの売り場であっても、商人によって求められる金額が違うことがわかった。アマラに従順な者には比較的安い場所が与えられ、逆らった者には理由をつけて高い負担を押しつけていた。売り場の移動も、通路の整備という名目とは関係なく行われている場合があった。
こうした事実が少しずつ明らかになるにつれ、商人たちの不満は、個人的な愚痴から共通の問題へと変わっていった。これまでは自分だけが狙われていると思っていた者たちが、ほかの商人も同じ扱いを受けていると知り、互いに話をするようになったのである。
アマラは、その動きを察知した。
ある日の昼過ぎ、彼は取り巻きを連れてファティーの店へやって来た。周囲の商人たちは手を止め、何が起きるのかを見守っていた。アテンも店の近くにいたが、すぐに口を挟まず、アマラが何を言い出すのかを待った。
「ファティー、お前は最近、ずいぶん勝手なことをしているそうだな。市場の決まりを無視し、よそ者と組んで商人たちを扇動しているという話を聞いたぞ」
ファティーは腕を組み、正面から彼を見返した。
「あたしは魚を売っているだけだよ。商人たちと話をするのが扇動だというなら、あんたは市場の人間が互いに口をきくことまで禁じるつもりなのかい」
「言葉を慎め。お前がこの市場で商売を続けられるのは、誰のおかげだと思っている」
「魚を獲ってくる人がいて、運んでくる人がいて、買ってくれる客がいるからだよ。あたし一人で商売をしているわけじゃない。あんたが思っているほど、市場はあんた一人のものじゃないんだ」
周囲から小さなどよめきが起きた。ファティーは普段から気の強い女性だったが、アマラに対してここまで正面から言い返すことはなかった。彼女自身も、口にした言葉の重さを理解していた。それでも、これ以上黙っているつもりはなかった。
アマラの顔が赤くなった。
「お前、自分が何を言っているのかわかっているのか。わしに逆らえば、ここで商売を続けられなくなるぞ」
「それなら、どうしてあたしだけを狙うんだい。場所代の額が人によって違うことも、逆らった商人の売り場が急に移されることも、みんな知っている。あたしだけの問題じゃないんだよ」
アマラは周囲を見回した。商人たちは、以前のように目を伏せてはいなかった。誰もが不安そうではあったが、互いの顔を確かめるように立っていた。
アテンが一歩前に出た。
「この人たちは、あんたが何をしてきたのかを知っている。今までは一人ずつ黙っていたから、あんたも自分のやり方を続けられたんだろう。だが、同じことをされている人間がこれだけいる。全員を黙らせるつもりなら、これまで以上に大変になるぞ」
「お前は、よそ者のくせに何様のつもりだ」
「俺はアテンだ。港で荷を運んでいる。ただ、それだけの男さ」
アテンは落ち着いて答えた。
「俺には市場を支配する権限もないし、あんたの立場を奪うつもりもない。だが、あんたが商人たちに公平な決まりを守らせる立場にいるなら、まず自分が公平に振る舞うべきじゃないのか」
アマラは怒りに任せて何かを言おうとしたが、周囲の商人たちが次々に声を上げ始めた。
「わしの売り場も、何の説明もなく移されたんだ」
「場所代の額を、あんたの気分で変えられては商売にならない」
「通路の整備だと言っていたのに、移動させられた店の前には何も変化がないじゃないか」
それぞれの商人が、自分の経験を語り始めた。これまで一人では言えなかったことが、次々と口に出されていく。アマラは声を張り上げて黙らせようとしたが、誰も以前のようにすぐには従わなかった。
彼の支配が一瞬で消えたわけではない。市場の取り決めを管理する立場は残っており、商人たちの生活もすぐに楽になるわけではなかった。しかし、彼が一人ずつ脅して従わせることは、以前より難しくなっていた。商人たちは、これからは不当な要求があったときに互いに知らせ合い、必要であれば市場の有力者たちにも訴えることを決めた。
アマラは、その場で何もできなかった。取り巻きに囲まれながら、怒りを隠そうともせずに立ち去っていった。去り際にアテンを睨みつけたが、アテンはその視線を受け止めたまま、何も言わなかった。
騒動が終わると、市場にはしばらく静けさが残った。やがて、誰かが小さく笑い始め、別の商人が冗談を口にした。緊張していた人々の表情が少しずつ和らぎ、仕事へ戻る者たちの声が聞こえてくる。
ファティーは、店の前でアテンを見つめていた。
「あんた、ずいぶん面倒なことをしてくれたね」
彼女の口調はいつものように軽かったが、眼にはまだ騒動の余韻が残っていた。
「面倒なことをしたのは、俺じゃなくてアマラだろう」
「そういう意味じゃないよ。あんたが来てから、毎日何かしら起きている気がするんだ」
「それなら、俺がこの町に来る前から、何かが起きていたんだろう。俺が知らなかっただけさ」
ファティーは彼の顔を見て、やがて笑った。笑顔には安堵があり、疲れもあった。彼女は長い間、アマラの機嫌を損ねないように気を配りながら商売を続けてきた。今回の騒動によって、すべての問題が解決したわけではない。それでも、彼女一人が耐え続ける必要はなくなった。
「ありがとう、アテン。本当に助かったよ」
「俺が全部やったわけじゃない。あんたがこれまで人にしてきたことが、みんなを動かしたんだ。あんたが誰にも親切にしていなかったら、あれだけの人が集まってくれたかどうかわからない」
「そうかな。あたしは、困っている人がいたら手を貸していただけだよ」
「それが大事なんだろう。本人は大したことじゃないと思っていても、助けられた方は覚えているものさ」
ファティーは少し黙ったあと、彼の手を取った。彼女の手には魚を扱ってきた者らしい小さな傷があり、指先には働き続けてきた日々の跡が残っていた。アテンは、その手を握り返した。
「少し歩かないかい。今日は、魚を売ることばかり考えていたくないんだ」
「もちろんだ。だが、帰る頃には腹が減っているだろうな」
「そんなことを言っているから、あんたはいつまでたっても子供みたいなんだよ」
二人は市場を離れ、夕暮れの港へ向かった。海面には赤みを帯びた光が広がり、岸壁に繋がれた船がゆっくりと揺れていた。遠くでは船員たちが仕事を終え、酒場へ向かう準備をしている。アテンはその様子を眺め、いつか自分も再び船に乗るのだろうと思った。
ファティーは、彼の横顔を見つめていた。
「あんたは、いつかこの町を出ていくんだろうね」
「そうだな。まだ見ていない土地がある。海の向こうには、知らないものがいくらでもあるから」
「そうだろうと思ったよ。あんたは、ここにずっと留まるような男じゃない」
ファティーは笑った。けれど、その笑顔の奥には小さな寂しさがあった。アテンはそれに気づいたが、何も言わなかった。自分が旅を愛していることは変わらない。ファティーと過ごす時間が楽しくなればなるほど、いつか訪れる別れを考えずにはいられなかった。
「でも、今はまだここにいる」
アテンは海を見ながら言った。
「船が出るまでは、まだ時間がある。だから、それまではこの町をもっと知りたいと思っている」
「この町を知るなら、あたしに聞けばいい。市場のことなら、誰よりも詳しいからね」
「それは頼もしいな。世界一高い魚屋の案内なら、きっと間違いないだろう」
「まだそんなことを言っているのかい」
ファティーは笑い、アテンの腕を軽く叩いた。彼も笑い返した。
しばらく二人は、港に打ち寄せる波の音を聞いていた。ファティーは市場で暮らす日々を語り、アテンは海の向こうで見てきた景色を話した。彼女は彼の話を聞きながら、いつか自分もその景色を見てみたいと思った。アテンは彼女の話を聞きながら、遠い土地だけではなく、この町にもまだ知らないことがたくさんあると感じていた。
その夜、アテンは船へ戻る道すがら、ファティーの笑顔を思い返した。彼女が笑っている姿を見ると、自分まで楽しくなる。彼女が困っていると、何とかして助けたいと思う。これまで出会った人々にも親しみを感じたことはあったが、彼女に対して抱いている感情は、少しずつ違うものへ変わり始めていた。
ファティーもまた、店を片づけながら、アテンのことを考えていた。彼はいつか去っていく旅人だ。それでも、自分の話を聞き、勝手に決めつけず、必要なときには力を貸してくれた。彼と話していると、今まで当たり前だと思っていた毎日の景色が、少しだけ違って見えるのだった。
市場の通りには夜の静けさが降り始めていた。アマラとの問題は、まだ完全に終わったわけではない。これから先も、商人たちは自分たちの生活を守るために、さまざまな困難に向き合わなければならないだろう。
それでも、ファティーはもう一人ではなかった。
アテンもまた、ただ次の港へ向かう日を待つだけではなくなっていた。彼はまだ、その変化に名前をつけてはいなかった。けれど、海の向こうに広がる世界と同じくらい、目の前にいる一人の女性のことが気になり始めていた。
夕暮れの港で交わした言葉と、握り返した彼女の手の感触が、いつまでも心に残っていた。
第三話「水平線の向こうへ」
アマラが市場の商人たちを思いどおりに動かせなくなってから、数日が過ぎた。
市場の朝は相変わらず早かった。夜明け前の港には漁船が次々と戻り、船員たちが魚の入った籠を肩に担いで石畳の道を歩いていく。荷車の軋む音、値段を交渉する声、魚を洗う水の音が入り交じり、まだ陽の差し込まない市場の通りには、潮と魚と濡れた木材の匂いが満ちていた。
変わったことがあるとすれば、商人たちが以前よりも遠慮なく声を上げるようになったことだった。市場の使用料について説明を求める者が現れ、帳簿を見せるように迫る者も出てきた。アマラが不機嫌そうな顔で通りを歩いていても、以前のように誰もが口を閉ざすわけではない。彼が立ち止まれば、商人たちは互いに顔を見合わせ、必要ならば何人かで一緒に話をするようになっていた。
もちろん、それだけで市場が公平になったわけではなかった。アマラは依然として市場の管理に関わる権限を持ち、気に入らない相手には嫌味を言い、細かな規則を持ち出して圧力をかけた。人間は一度手にした権力を、そう簡単には手放さないものらしい。
しかし、少なくとも彼は、ファティーを好きなように脅すことが難しくなっていた。
その朝、アテンが市場に姿を見せると、ファティーは魚を並べながら彼を見つけ、いつものように明るい声を上げた。
「遅いじゃないの。もう朝の魚は半分売れちゃったわよ」
「わたしが来るまで残しておいてくれるという話じゃなかったかな」
「あたしは魚屋よ。あんた専属の魚番じゃないんだからね」
「それは残念だ。昨日の夜から、ここの魚を買うために何も食べずに待っていたのに」
「嘘おっしゃい。港の食堂でパンを食べているところを見たって、隣の店のおじさんが言ってたわよ」
アテンは大げさに胸を押さえ、裏切られた人間のような顔をした。ファティーは声を立てて笑い、隣で野菜を売っていた女も、二人のやり取りを聞いて顔をほころばせた。
アテンは市場の仕事を手伝うことが増えていた。魚の籠を運び、壊れかけた台を直し、時にはファティーの代わりに客の相手をした。値段の交渉はあまり得意ではなかったが、客がしつこく値切ってくると、魚を一匹ずつ数えながら、いかにその魚が立派であるかを延々と語るので、相手が根負けして代金を払うこともあった。
「お客さん、この魚は今朝、海から上がったばかりなんだ。昨日まで海の底で何を考えていたかは知らないが、少なくとも今朝までは元気に泳いでいた。身も締まっているし、焼けばいい匂いがする。これを安く売れと言われたら、わたしだって漁師に顔向けできない」
「魚が何を考えていたかなんて、どうでもいいんだよ」
「そうかな。わたしは大事だと思う。命をかけて泳いできた魚なんだから」
「お前、魚のために値段を上げるつもりか」
「いや、値段はファティーが決める。わたしは魚の名誉を守っているだけだ」
客は呆れた顔をしながらも、結局は代金を払って魚を買っていった。ファティーは客が去ると、魚を並べ直しながらアテンの腕を軽く叩いた。
「あんた、本当に口だけはよく動くわね。荷物を運んでいるときも、それくらい力を抜いていればいいのに」
「口を動かすのと腕を動かすのでは、使う筋肉が違うからね」
「その筋肉は、ずいぶん丈夫そうだけど」
ファティーは彼の腕に目をやり、からかうように笑った。アテンはその視線に気づいていたが、わざと気づかないふりをして、空になった籠を持ち上げた。
彼女と一緒にいる時間は、いつの間にか、アテンにとって一日の中で最も楽しみな時間になっていた。
彼はこれまで、さまざまな土地を歩いてきた。知らない町に着けば、まず仕事を探し、働いて食べるものを手に入れ、土地の人々の話を聞いた。見たことのない建物や習慣に出会うたび、世界にはまだ知らないものがいくらでもあるのだと感じた。だからこそ、一つの場所に長く留まることを考えたことはなかった。
ところが、ギリシャのこの港町では、朝になるとファティーの顔を見たくなり、夕方には彼女がどんな一日を過ごしたのか知りたくなった。明日も同じ場所へ来ることができるとわかっているのに、別れるときには、まるで何かを置き忘れてきたような気分になる。
旅をやめたいわけではなかった。ただ、旅を続けることと、誰かのそばにいたいと思うことが、必ずしも同じ方向を向いているとは限らないのだと、彼は初めて知り始めていた。
昼を過ぎたころ、ファティーが売り台の下から小さな包みを取り出した。布にくるまれたパンと、オリーブ、それに焼いた魚の切り身が入っていた。
「今日は、あたしのお昼を一緒に食べなさいよ」
「いいのかい。魚を売る商売なのに、わたしが食べたら売り上げが減るんじゃないかな」
「その口を閉じていれば、少しは食費が浮くと思うわ」
二人は市場の裏手にある低い石壁に腰を下ろした。そこからは港の一部が見え、沖には帆を畳んだ船が何隻も浮かんでいた。太陽は高く、海面には細かな光が散っている。遠くで船員たちが荷を積み替え、誰かが歌を歌いながら綱を引いていた。
ファティーはパンを割り、半分をアテンに渡した。
「あんた、ここへ来る前はどこにいたの」
「いろいろな場所だよ」
「それは知ってる。そうじゃなくて、最後にいたところ。どんな町だったの」
アテンはしばらく考えた。説明しようとすれば、いくつもの町の風景が頭に浮かんだ。乾いた土地に立つ日干し煉瓦の家々、見渡すかぎり砂に覆われた道、異国の言葉が飛び交う市場、夜になっても人々が集まって酒を飲む港。どの場所にも、その土地でしか出会えない人間がいた。
「暑いところだった。水が貴重で、旅人はいつも水袋を気にしていた。市場には香辛料が山のように積まれていて、遠くから来た商人たちが、値段を巡って一日中喧嘩をしていたよ」
「ここだって似たようなものね。違うのは、あたしの市場には香辛料より魚が多いってことくらい」
「それに、ここには魚のことを誰よりもよく知っている店主がいる」
「あら、ようやくわかったのね」
ファティーは得意げに顎を上げたが、すぐに表情を和らげた。
「でも、あんたはどうしてそんなに旅をするの。帰る場所はないの」
その問いに、アテンはすぐには答えなかった。
帰る場所がないわけではない。だが、そこへ戻れば何もかもが元どおりになるという場所を、彼は持っていなかった。人が生まれ育った土地を故郷と呼ぶのなら、彼には故郷と呼べる場所がいくつもあり、同時に、どこにもないような気がしていた。
「帰る場所を決めてしまうと、まだ見ていない世界が気になるんだ。知らない町があって、そこで暮らしている人たちがいて、わたしの知らない話をしている。それを考えると、どうしても先へ行きたくなる」
「じゃあ、世界の端まで行ったらどうするの」
「そのときは、端の向こうがどうなっているのか調べるよ」
ファティーは笑ったものの、やがて彼の横顔をじっと見つめた。
「本当に、どこまでも行ってしまう人なのね」
「そういう性分なんだと思う」
「困った性分だわ」
彼女はそう言ってパンを口に運んだ。声はいつもの調子だったが、目だけは海のほうを向いたままだった。
アテンは、その横顔に何か言葉をかけようとした。けれど、何を言えばよいのかわからなかった。自分がいつまでここにいるのか、どれほど先まで旅を続けるのか、彼自身にも決められなかったからだ。
その日の夕方、市場で一つの騒ぎが起きた。
アマラが数人の男を連れてファティーの売り台へやって来たのである。彼は手に帳簿を持ち、まるで自分が市場の秩序そのものを背負っているかのような顔をしていた。
「ファティー、お前の使用料が不足している。明日までに支払わなければ、ここで商売を続けさせるわけにはいかない」
ファティーは魚を並べる手を止めた。
「不足していないわ。先週、あなたのところの帳簿係に確認してもらったもの」
「そのときの計算が間違っていたのだ」
「では、その計算を見せてちょうだい」
アマラの顔がわずかにこわばった。周囲の商人たちも仕事の手を止め、様子をうかがっている。以前なら、彼が声を荒らげただけで、誰もが視線をそらしていただろう。しかし今は、野菜売りの女も、魚を仕入れに来た漁師も、彼の話を黙って聞いていた。
「お前は管理者に指図するつもりか」
「自分のお金がいくら必要なのか知りたいだけよ。それが指図になるのなら、あなたの帳簿はずいぶん不思議なものね」
近くで誰かが小さく笑った。アマラはその声の主を睨みつけたが、笑いはすぐには消えなかった。
彼はファティーに近づき、声を低くした。
「お前が最近、誰に守られているつもりなのかは知らないが、よく考えたほうがいい。あの男はいつかいなくなる。港に流れ着いた男が、いつまでもお前のそばにいると思うな」
その言葉は、ファティーの胸に深く刺さった。
アマラは、彼女が何を恐れているのかを知っていたのだろう。あるいは、彼女の表情を見て、ただ傷つけるために言っただけかもしれない。どちらにしても、彼の言葉は、彼女自身が考えないようにしていたことを正確に突いていた。
アテンはファティーの隣に立った。
「不足しているというのなら、帳簿を見せてほしい。計算が正しいかどうか、一緒に確かめよう」
「お前には関係のない話だ」
「彼女に金を払えと言っているのだから、金の話だろう。わたしは数字なら少しはわかる。もっとも、魚の数を数えるのと同じくらいのものだけどね」
アマラは鼻で笑った。
「よそ者が市場の仕組みを理解したつもりか」
「理解できていないから、説明してほしいと言っているんだ」
アテンは穏やかに答えた。相手を挑発するために声を荒らげることも、腕力を見せつけることもしなかった。彼が求めているのは、誰が強いかを決めることではない。アマラが隠しているものを、人々の前に出させることだった。
そのとき、野菜売りの女が前へ出た。
「うちも同じことを言われたよ。先月払ったはずの金を、もう一度払えと言われたんだ」
続いて、陶器を売る老人が口を開いた。
「わしの店は、理由も説明されずに場所を移された。移転先の使用料は、前より高かった」
漁師の一人も、自分の支払いの記録を持っていると申し出た。商人たちは、それぞれの帳簿や受け取った木札を持ち寄り始めた。ひとりひとりの不満は小さくても、並べてみれば無視できない数になった。
アマラは、彼らを黙らせようとした。しかし、今度は誰か一人を怒鳴りつければ、ほかの者たちまで口を開いた。彼が使ってきた威圧は、商人たちが互いに孤立していることを前提にしていたのである。
「この市場の管理について、責任者に話を通すことにした。帳簿も支払いの記録も、全部持っていけばいい。正しい請求なら、何も困ることはないだろう」
アテンがそう告げると、アマラは顔を赤くした。
「お前が勝手に決めるな」
「決めているのはわたしじゃない。みんなが自分の払った金について、説明を求めているんだ」
ファティーも一歩前へ出た。
「あたしも、自分の商売を続けたいだけよ。あなたの気分ひとつで場所を奪われたり、払ったはずのお金をもう一度請求されたりするのは、もうごめんだわ」
その声には恐れが残っていた。けれど、恐れているからといって、引き下がるつもりはなかった。
アマラは周囲を見回した。彼を支持する者はほとんどいなかった。連れてきた男たちも、商人たち全員を相手に騒ぎを大きくすることは望んでいないようだった。彼は帳簿を抱え直し、何か言い返そうとしたが、結局、低い声で捨て台詞を残して立ち去った。
その後、商人たちは市場の管理を担う上役に連名で申し立てを行うことを決めた。アマラの行為がすべて明らかになったわけではないし、翌日から何もかもが変わるわけでもない。それでも、複数の商人が記録を持ち寄り、同じ問題を訴えることになれば、管理する側も簡単には無視できない。
ファティーは、騒ぎが収まってからようやく深く息を吐いた。
「ありがとう、アテン。あんたがいなかったら、あたしはまた一人で言い返して、余計な問題を起こしていたかもしれない」
「君は一人でも言い返していたと思うよ」
「そうかもしれないわね」
彼女は笑ったが、すぐに真面目な顔になった。
「でも、あんたがいてくれると、少しだけ怖くなくなるの」
アテンは返事をする代わりに、彼女の手を取った。ファティーは一瞬驚いたように彼を見たが、手を引こうとはしなかった。魚を扱ってきた彼女の指先には、小さな傷がいくつもあり、掌には仕事でできた硬さがあった。アテンは、その手が毎日どれほどの仕事をしてきたのかを知っていた。
「わたしが何かをしているというより、君が一人で戦わなくてもいいようになったんだと思う」
「それでも、あんたがいてくれてよかった」
ファティーは静かにそう言った。
その日の市場が閉じるころには、騒ぎのことは通りのあちこちで話題になっていた。誰かがアマラの顔を真似して笑い、別の誰かが帳簿の数字を見直していた。ファティーの売り台にも、いつもより長く客が残り、彼女を励ます言葉をかけていく者もいた。
夕暮れになると、アテンはファティーの荷物を運ぶのを手伝った。二人は売り台を片づけ、残った魚を保存用の籠に移し、濡れた床を水で流した。仕事が終わるころには、港の向こう側に夕日が沈みかけ、船の帆が赤銅色に染まっていた。
「少し歩かないか」
アテンが誘うと、ファティーは布を肩に掛け直した。
「今日はあたしが案内するわ。いつも港ばかり見ているんだから、たまには町のほうも見なさいよ」
二人は市場から離れ、石造りの家々が並ぶ道を歩いた。通りには夕食の支度をする匂いが漂い、戸口では子供たちが遊んでいた。年老いた男が椅子に腰掛けて壊れた網を繕い、若い女たちが水甕を抱えて共同の井戸から戻ってくる。遠くからは楽器の音が聞こえ、酒場の前には仕事を終えた男たちが集まっていた。
ファティーは道を歩きながら、この町のことを話した。どの家に気難しい老人が住んでいるか、どの酒場の主人が酒を薄めて売るか、どこのパン屋が朝早くから店を開けるか。彼女の話には、地図には記されない町の姿があった。人々の癖や小さな失敗、何年も前の喧嘩、誰かが誰かを助けた日のこと。そうしたものが積み重なって、一つの町ができているのだと、アテンは思った。
「君は、この町のことを何でも知っているんだね」
「何でもじゃないわ。知らないことだってたくさんあるもの」
「それでも、君がここを離れたら、町の半分くらいは困るんじゃないかな」
「大げさよ。魚を買う人が少し困るだけ」
「その魚を売っている人がいなくなれば、困る人はもっと多いと思う」
ファティーは返事をせず、少しだけ歩く速度を落とした。
二人は町の外れにある小さな高台へ上がった。そこからは港が一望できた。停泊する船の間を小舟が行き交い、岸壁では荷役の男たちが最後の荷を運んでいる。海の向こうには、夕日を受けた水平線が長く伸びていた。
アテンはその景色を見つめた。見慣れた海のはずだった。これまで幾度も船に乗り、いくつもの港を離れてきた。出発する朝の騒がしさも、岸壁が遠ざかるときの感覚も、彼は知っていた。それなのに、この町の港を眺めていると、いつもとは違う重さが胸の奥に生まれた。
「アテン」
ファティーが彼の名を呼んだ。
「あんた、いつまでここにいるの」
彼は水平線から視線を戻した。
「まだ決めていない」
「本当に」
「ああ。仕事もあるし、君と話しているのも楽しい。急いで出ていく理由はないよ」
ファティーはうつむき、履いているサンダルの先で小さな石を動かした。
「そういう言い方は、ずるいわね。いつか出ていくことは決まっているのに、まだ決めていないと言われたら、あたしは待っていてもいいような気がしてしまう」
アテンは、彼女の言葉を聞いて胸が痛んだ。
「君に、待っていてほしいとは言えない」
「どうして」
「わたしは、いつ帰ってくるのか約束できないからだ。次の町で何が起こるのかも、どこへ行くことになるのかもわからない。君に、いつ戻るのかもわからない人間を待っていてくれとは言いたくないんだ」
「じゃあ、あたしが待ちたいと言ったら」
ファティーは顔を上げた。その目は、昼間に市場で見せた強いまなざしとは少し違っていた。怒っているわけでも、泣いているわけでもない。ただ、アテンがどう答えるのかを、まっすぐに見つめていた。
「それでも、わたしは簡単に約束できない」
「そう」
ファティーは小さくうなずいた。しばらく二人の間に沈黙が続いたが、やがて彼女は自分からアテンの手を握った。
「あたしはね、この町が好きなの。ここで魚を売って、知っている人たちと話をして、明日も同じように働く。貧乏だし、嫌なことだってあるけれど、あたしは自分の暮らしが嫌いじゃないのよ」
彼女は港のほうへ目を向けた。
「でも、あんたの話を聞いていると、知らない世界を見てみたいと思うこともある。あたしが一生この町から出ないとしても、あんたが見てきたものを、もっと聞いていたい。砂漠の町も、遠くの市場も、知らない人たちの暮らしも。あんたが旅をする理由を、少しだけわかった気がするの」
アテンは彼女の手を握り返した。
「わたしも、君の話をもっと聞きたい。この町のことを、まだ何も知らないからね」
「それなら、明日も来なさいよ」
「明日も」
「そう。明日も、その次の日も。あんたがここにいる間は、あたしの魚を買いに来ればいいわ」
「魚を買うだけでいいのかな」
ファティーは彼の顔を見て、いたずらっぽく笑った。
「それ以外に、何かあるの」
アテンは答えなかった。代わりに彼女を引き寄せ、そっと口づけをした。
ファティーは驚いて目を見開いたが、すぐに目を閉じた。二人の背後では、町の灯が一つ、また一つとともり始めていた。港から吹いてきた風が彼女の髪を揺らし、遠くで船員たちの笑い声が聞こえた。
口づけが終わると、ファティーは彼の胸を軽く押した。
「いきなり何をするのよ」
「君が明日も来いと言ったから、今日のうちに返事をしておこうと思って」
「そんな返事の仕方があるもんですか」
彼女は怒ったふりをしたが、頬は赤くなっていた。
「もう一度したら、今度こそ怒るわよ」
「それは困ったな」
「本当に困っている顔には見えないわ」
ファティーは笑い、今度は自分からアテンの頬に口づけをした。彼は意外そうに彼女を見たが、彼女はすでに顔をそらしていた。
「これでおあいこ。帰りましょう。明日も仕事があるんだから」
彼女は歩き出した。アテンはその隣に並び、二人は町の灯の中へ戻っていった。
それから数日は、穏やかに過ぎていった。
アマラの帳簿については、市場の管理を担う上役が調査を始め、商人たちの支払い記録と照合することになった。すぐにすべての不正が明らかになったわけではなかったが、少なくとも、アマラが一人の商人を狙って使用料を増やしたり、説明もなく売り台を移動させたりすることは難しくなった。彼は相変わらず不機嫌そうに市場を歩いていたものの、以前のようにファティーの前に立ち、好き勝手な条件を突きつけることはなくなった。
ファティーは自分の売り台を守った。アテンにすべてを任せるのではなく、ほかの商人たちと相談し、帳簿をつけ、支払いの記録をきちんと残すようになった。アテンが助言をすることはあったが、最後に決めるのはいつも彼女自身だった。
彼は、その姿を見るのが好きだった。
自分が彼女を助けたと思っていたのに、実際には、彼女が自分の力で立ち上がっていく姿に、何度も励まされていた。アテンは旅先で多くの人間に出会ったが、誰かの生き方をこんなにも身近に感じたことはなかった。
朝、市場へ行けばファティーが待っている。昼になれば、二人でパンを分け合う。仕事が終われば港を歩き、彼女が知らない土地の話をせがみ、アテンは彼女の知らない町のことを話す。時には些細なことで言い合いになり、次の瞬間には二人で笑っていた。
その日々は、いつまでも続くように思えた。
しかし、港町には船が来る。船が来れば荷が運ばれ、人が降り、また別の人が乗り込んでいく。船乗りたちが次の航海の話を始めれば、旅人は次の土地を考える。アテンもまた、そうした人間の一人だった。
ある朝、彼が港の荷役を終えて水を飲んでいると、以前から知り合いだった船員が声をかけてきた。
「アテン、次の船に乗る気はないか。明後日、東へ向かう船が出る。途中でいくつかの港に寄るらしい。仕事もあるし、食事も出るそうだ」
アテンは水袋の口を閉じた。
「どこまで行くんだ」
「まずは島々を巡って、それから先の港へ向かう。詳しいことは船長に聞いてくれ。お前なら荷役でも甲板の仕事でもできるだろう」
船員はそう言って、船のほうへ歩いていった。
アテンはしばらくその場に立っていた。船に乗ることは、いつもの彼なら迷うほどのことではなかった。仕事があり、知らない土地へ行ける。彼が旅を続けてきた理由が、そこには揃っていた。
だが、今は違った。
市場へ行けば、ファティーがいる。彼女はきっと、いつものように魚を並べながら彼を見つけ、遅いと文句を言うだろう。昼には一緒に食事をして、夕方には町を歩くかもしれない。そんな光景が、彼の頭には自然に浮かんだ。
それでも、船の出発を見送る自分の姿は想像できなかった。
アテンはその日、いつもより遅く市場へ向かった。ファティーは彼の姿を見ると、すぐに何かを察したようだった。
「何かあったの」
「船が出るそうだ」
ファティーは手にしていた魚を置いた。
「いつ」
「明後日」
市場の音が、二人の間から遠のいたように感じられた。実際には、商人たちは声を上げ、客は値段を尋ね、荷車は石畳を走っていた。何も変わってはいない。ただ、二人にとって、明後日という日付だけが、それまでとは違う意味を持ち始めていた。
「そうなの」
ファティーはそれだけ言って、魚を並べ直した。手元が乱れ、同じ魚を何度も動かしていることに、自分でも気づいていないようだった。
「まだ、乗ると決めたわけじゃない」
アテンは言った。
ファティーは手を止めた。彼の言葉に、期待してはいけないと思いながらも、期待が胸の中に生まれたのだろう。彼女はゆっくり顔を上げた。
「乗りたいの」
アテンは答えに迷った。彼女に嘘をつきたくはなかった。
「乗りたいと思っている。まだ見ていない場所があるからね」
「そうよね。あんたはそういう人だもの」
ファティーは笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「この町にずっといてほしいなんて、あたしが言うことじゃないわ。あんたは旅をしているときが、一番あんたらしいんでしょう」
「でも、君と離れたくないと思っている」
その言葉を口にすると、アテン自身が驚いた。自分の気持ちを認めることは、船に乗るかどうかを決めることよりも難しかった。
「ここに残れば、君と一緒にいられる。君が魚を売るのを手伝って、毎日同じ市場へ通って、知っている人たちと暮らしていく。それも、わたしには魅力的なんだ」
「だったら、残ればいいじゃない」
ファティーは、思わず口にしたようだった。言った直後、彼女は唇を噛んだ。
「ごめんなさい。そんな簡単な話じゃないわね」
「簡単ではないね」
「でも、あたしは、あんたに残ってほしいと思っている」
ファティーはアテンを見つめた。
「あんたがいなくなったら、朝になっても市場へ来る人を探してしまうと思う。魚を運ぶのを頼もうとして、もうここにはいないんだって気づくかもしれない。昼になったら、あんたが知らない町の話をしてくれたことを思い出すでしょうね。そういうのは、嫌よ」
彼女の声は少し震えていた。それでも、泣いてはいなかった。彼女は自分の気持ちを隠さずに伝えようとしていた。
「それでも、あんたを引き止めるために、ここに残れとは言いたくない。あんたが見たい世界を、あたしのせいで見られなくなるのは嫌だから」
アテンは、彼女の言葉を聞きながら、自分がどれほど彼女を大切に思っているのかを改めて知った。彼女は自分を必要としてくれている。それでも、自分のために彼の旅を奪おうとはしない。彼女自身の暮らしを守りながら、彼が選ぶ道も尊重しようとしている。
「君は、強い人だね」
「強くなんかないわよ。あんたが行ってしまうと思ったら、今すぐ魚を全部投げ捨てて、船の前に立ちはだかりたいくらいなんだから」
アテンは笑った。ファティーも、つられて少し笑った。
「それをやったら、船員たちが困るだろうね」
「そのくらい困らせてやりたいわ」
その日は、二人とも仕事に集中できなかった。夕方になって市場を閉めても、すぐに別れることができず、港へ向かう道をゆっくり歩いた。船の出入りを知らせる声が響き、海鳥が岸壁の上を旋回していた。
アテンは船を見つめた。
「わたしは、明後日、あの船に乗ろうと思う」
ファティーはうなずいた。目を伏せたまま、しばらく何も言わなかった。
「そう」
「君に会えてよかった。君と過ごした日々を、わたしは忘れない」
「忘れないなんて、簡単に言わないでよ。人は遠くへ行けば、いろんなことを忘れるものだわ」
「そうかもしれない。でも、忘れたくないと思っている」
ファティーは顔を上げた。夕暮れの光が彼女の頬を照らしていた。
「あたしも、あんたのことを忘れないわ。少なくとも、魚のために長々と話をして、お客を困らせた男のことは、簡単には忘れられそうにないもの」
「それはよかった。わたしも、魚を売るのがうまくて、気の強い女性のことを忘れずにいよう」
「気が強いのは余計よ」
二人は笑った。笑いながら、どちらも、別れが近づいていることを知っていた。
出発の前日、ファティーは市場で一番大きな魚を一匹選び、アテンに渡した。
「これは何だい」
「明日の船で食べなさい。船の食事がまずかったら、あたしの魚を思い出せばいいわ」
「君の魚を食べたら、ほかの魚が食べられなくなるかもしれない」
「そうなったら、あたしに感謝することね」
彼女は笑っていたが、その魚を渡す手は、いつもより強く彼の手を握っていた。
アテンは魚を受け取り、代わりに小さな布袋を彼女に渡した。中には、これまでの旅で手に入れた珍しい貝殻がいくつか入っていた。遠い海の浜辺で拾ったものもあれば、異国の港で誰かにもらったものもある。どれも高価な品ではなかったが、一つひとつに、彼が歩いてきた場所の記憶があった。
「これは、わたしが旅をしてきた場所の一部だ。君がここにいながら、知らない海を想像できるように」
ファティーは袋の中を覗き込み、貝殻を一つ取り出した。白い表面には、細い筋が幾重にも刻まれていた。
「きれいね」
「海辺によって、拾えるものも違うんだ。砂の色も、波の音も、潮の匂いも違う。もし君がいつか旅をすることがあれば、同じ海は一つもないとわかると思う」
「いつか、ね」
ファティーは貝殻を袋に戻し、大切そうに握りしめた。
「そのときは、あんたが案内してくれるの」
アテンは彼女を見つめた。
「もし、また会えたなら」
「約束はできないのね」
「できない。でも、会いたいと思っている」
ファティーは長いこと彼の顔を見ていた。それから、ゆっくりとうなずいた。
「それなら、それでいいわ。あたしも、会いたいと思っているから」
出発の朝、港はいつも以上に騒がしかった。船員たちは荷を積み込み、船長は出航の準備を急がせていた。帆は風を受けられるように整えられ、甲板では水甕や食料の位置が確認されていた。岸壁には、旅立つ者を見送りに来た家族や仲間たちが集まっていた。
アテンは荷物を肩に掛け、船へ続く板の前で立ち止まった。
ファティーは、少し離れた場所に立っていた。いつもの仕事着の上に薄い布を羽織り、髪を後ろでまとめていた。彼女は泣いてはいなかったが、笑ってもいなかった。
アテンは彼女のもとへ歩いていった。
「市場へ戻らなくていいのかい」
「今日は、ほかの人に任せてきたわ。あたしが一日いなくても、市場はなくならないもの」
「それは安心した」
「でも、あんたがいなくなるのは、ちょっと困るわね」
ファティーはそう言って、彼の胸を軽く叩いた。
「ちゃんと食べるのよ。仕事をさぼらないこと。知らない町へ行っても、人の話を聞くこと。あんたはすぐに余計なことを言うから、喧嘩を売らないように気をつけなさい」
「ずいぶん注文が多いね」
「あたしは魚を売る商人よ。品物を渡すときには、説明をつけるものなの」
「なるほど。では、わたしからも一つだけ」
アテンは彼女の手を取った。
「自分の店を大切にしてほしい。君が守ってきた場所だから。それから、誰かに無理を言われたときは、一人で抱え込まないこと。君の周りには、君を大切に思っている人たちがいる」
ファティーはうなずいた。
「わかっているわ。あたしはもう、一人じゃないもの」
彼女はその言葉を口にしてから、少しだけ笑った。
「それに、あんたがいなくなったら、あたしの魚を褒める人が一人減るだけだわ。市場には、ほかにも客がいるんだから」
「それなら、わたしが戻ってきたときには、魚が全部売り切れているかもしれないね」
「そうなったら、残念だけど帰ってもらうわ」
「ずいぶん厳しいな」
「商売は厳しいのよ」
二人は笑った。しかし、笑い終わると、もう言葉が続かなかった。
船員がアテンを呼んだ。出航の時刻が近づいていた。
アテンは彼女を抱きしめた。ファティーは彼の背中に腕を回し、しばらく離れようとしなかった。彼の胸に顔を寄せると、潮と木材と、港で働く人間の汗の匂いがした。彼女がこれまで何度も嗅いできた、港の匂いだった。その匂いを、彼女はきっと長く覚えているだろうと思った。
「行ってらっしゃい、アテン」
彼女はようやく顔を上げた。
「行ってくるよ、ファティー」
彼は彼女の額に口づけをし、船へ向かった。
板を渡る途中で振り返ると、ファティーはまだそこに立っていた。彼女は片手を上げた。アテンも手を上げて応えた。船に乗り込むと、船員たちが最後の準備を始め、岸壁と船をつないでいた綱が解かれていった。
船がゆっくりと岸を離れた。
最初はわずかな隙間だったものが、少しずつ広がっていく。岸壁にいる人々の姿が小さくなり、建物の輪郭が重なり、港の音が風の向こうへ遠ざかっていった。ファティーは動かなかった。彼女は船が沖へ向かうのを見つめ続けていた。
アテンもまた、船の端から港を見つめていた。
これまでにも、彼は何度も港を離れてきた。出発のたびに、新しい土地への期待が胸を満たした。今も、水平線の向こうには知らない世界が待っている。見たことのない町があり、出会ったことのない人々がいて、聞いたことのない物語がある。彼はそれを知りたかったし、これからも旅を続けたいと思っていた。
けれど、今度の出発は、これまでとは違っていた。
彼の後ろには、帰る場所と呼べるかもしれない町が残っている。市場の隅に魚を並べる女性がいて、彼が冗談を言えば笑い、時には呆れ、時には真剣な顔で話を聞いてくれる。彼女は彼を引き止めなかった。自分の暮らしを守りながら、彼が旅を続けることを認めてくれた。
そのことが、彼の胸を温かくし、同時に痛ませた。
船がさらに沖へ進むと、港は海岸線の一部となり、やがて町全体が遠くの景色に溶け込んでいった。アテンは手を下ろし、懐にしまった小さな布を確かめた。ファティーからもらった魚は、船の食料を扱う場所に預けてある。あとで仲間たちと分けて食べるつもりだった。
彼は水平線を見つめた。
世界は広い。まだ見ていないものがあり、まだ知らない人がいる。彼の旅は終わらないだろう。いつか別の港で、別の海を見つめる日が来る。そこで彼はまた、誰かと出会い、知らない話を聞き、次の場所へ向かうのかもしれない。
それでも、ギリシャのこの町で過ごした日々は、ほかのどの土地とも違う記憶として残るだろう。
ファティーは、船が見えなくなってからもしばらく岸壁に立っていた。やがて潮風に吹かれ、肩に掛けた布を直すと、市場へ戻る道を歩き始めた。仕事は待っている。魚を仕入れ、売り台を整え、客と値段を交渉しなければならない。明日も朝は早い。
市場に戻った彼女は、売り台の下からアテンがくれた貝殻の袋を取り出した。白い貝殻を一つ手のひらに乗せ、耳に当ててみる。そこから本当に海の音が聞こえるわけではなかった。それでも、彼女には、遠い海の波が寄せては返す音が想像できた。
ファティーは貝殻を袋に戻し、仕事に取りかかった。
彼女はこの町で生きていく。アテンは海の向こうへ進んでいく。二人が再び出会うかどうかは、誰にもわからない。約束はなかったし、戻る日を記したものもなかった。ただ、二人は互いに、もう一度会いたいと思っていた。
船の上で、アテンは新しい風を受けていた。
彼は旅を続ける。知らない土地へ行き、そこで働き、人々の話を聞き、世界がどれほど広いのかを確かめていく。その旅の途中で、彼はきっと何度もギリシャの港町を思い出すだろう。市場に響く声、石壁に腰掛けて分け合ったパン、夕日に染まる海、そして、魚を売りながら笑っていたファティーの顔を。
水平線の向こうには、まだ見ぬ世界が広がっていた。
彼が後にどれほど遠くまで旅をしようとも、あの町で出会った一人の女性のことだけは、簡単には忘れられないだろう。
完
終わりなき神話 愛の記憶