【TL】泣いてください、お嬢様
男側一人称視点+ヒロイン三人称視点/SM共存年上美青年執事/不憫お嬢様ヒロイン/苛烈妹/
1
桜子(さくらこ)お嬢様の御御足(おみあし)が、ふと私(わたくし)の手から離れ、私の頬を蹴りました。桃色に塗装された爪が私の皮膚を裂いたようでした。
「ヘタクソ」
私は立ち上がりました。
「申し訳ございません」
「綺麗にして」
私はお絞りで桜子お嬢様の御御足を拭きますと、ボディクリームを塗り込みました。
「梅子(うめこ)姉サマがいる……」
桜子お嬢様がお呟きになり、私は手を止めてしまいました。そして顔を上げたのです。桜子お嬢様は窓を眺めていらせられました。その目は遠く、私の存在をすでにお忘れになっているようでした。
「梅子お嬢様に用がお有りなのですか」
梅子お嬢様はこの松竹林殿(しょうちくりんでん)家の血を引かない長女でした。しかし実子の桜子お嬢様は次女なのですから、思うところはあるはずです。
「お前には関係ない」
私は桜子お嬢様にストッキングを履かせますと、お部屋を出ました。
◇
梅子は自身に与えられた庭園「白梅献香園(はくばいけんこうえん)」から出ようとしたところだった。
彼女はこの庭を気に入っていた。松竹林殿家へ養女に来た直後に桜子が生まれた。喜ばしいことだった。しかし養父母たちはそうとう気を揉んだようだ。妹の誕生の際に贈られたのがこの白梅献香園だった。
空は青く、庭の木々も青々と茂り、瑞々しい葉が朗らかな日の光を返している。
真っ白に塗られた木製の門を開けると、少し離れた場所に色濃い影が佇んでいた。麗らかな景色をそこだけ人型に切り抜いたかのようだった。
彼女は思わず後退る。
「梅子お嬢様、お迎えにあがりました」
世話係の周百木(すももぎ)だ。ダークカラーの服装が彼女の視界から彩度を奪う。
梅子はたじろぎながらおそるおそる、周百木の冷ややかな目を見上げた。
周百木の頬に赤い糸くずが付いていた。彩りに欠けたこの者唯一の差し色になっている。しかしこの男に彩りは必要ないのかもしれない。彼は月の下で照り輝く氷刃のようだった。人相ばかりではない。凛とした目元にしろ、真っ直ぐ通った鼻梁にしろ、薄い唇にしろ、この管理者の気質をよく顕している。
けれども彼女は、無愛想な執事に添わっている色を見詰めてしまった。
「私の顔に何か?」
「あ、あ、……いいえ。赤い糸が付いているようですわ」
周百木は松竹林殿家の血を引かない長女が疎ましいようだった。眼差しがそう告げている。偽物に仕えていることが屈辱なのだろう。
「梅子お嬢様」
周百木の語気は変わらない。しかし梅子には分かる。誤った。
「は、はい……」
「梅子お嬢様は今、"いいえ"とおっしゃいましたね。ですが、私の顔には糸が付いておりました。それでは答えは"はい"であるはずですね。"はい"か"いいえ"か、はっきりしてくださいませ。そのような曖昧な態度では困ります」
「あっ、ご、ごめんなさい……」
「梅子お嬢様は松竹林殿家の長女なのです。いずれはこの家を取り仕切らなければならないお立場。ご自覚をお持ちください。梅子お嬢様の指示ひとつで、この家のみならず、政界が、財界が、官界が、或いは学界さえも傾いてしまうのです。一瞬の判断の誤りで大恩ある旦那様、奥方様、桜子お嬢様が路頭に迷うかもしれないのですよ。言葉は正しくお使いください。初等部時代の国語の先生をお呼びいたしましょうか」
「あ、ご、ごめんなさい。わたしが悪かったです。これから気を付けます」
周百木の眼から棘が抜ける。だがまだ疑っているようだった。
「糸、取りますね」
梅子は背の高い執事の頬に手を伸ばした。しかし執事は屈みもしなかった。そして彼女の手を恭(うやうや)しく握る。
「梅子お嬢様。他人に触れるときはまず許可を取る必要がございます。私はまだ返事をしておりませんでした。梅子お嬢様は私を卑しんでいらっしゃるのですね。今はこの場にいるのは梅子お嬢様お1人と、執事1匹しかおりませんので構いませんが、松竹林殿家の長女ともあろう御方が公で職業差別など許されません。私は構いませんが、しかし執事とのコミュニケーションも社会性を学ぶ大切な場でございます。態度を改めていただけますか」
周百木は梅子へ手を返す。
「そ、そんなつもりは……」
「言い訳は不要です」
「ごめんなさい……」
彼女は俯いた。同じやり取りを昨日も一昨日も一昨々日も繰り返している。
「取ってくださらないのですね。私の指導に臍を曲げてしまわれたのですか」
「いいえ……周百木の指導はいつも正しいもの。触りますわ」
「はい。取ってくださいませ、梅子お嬢様」
彼女は周百木の頬に触れた。赤いものは糸くずではなかった。薄皮が破れ、血が滲んでいたのだ。
「周百木、これは傷だわ」
「傷……?」
「痛くないの?」
「はい」
梅子は親指で赤い線をなぞる。周百木の目が眇(すが)められ、彼女は手を離した。
「痕が残ってしまうかもしれません。よく洗って、薬を塗らないと……」
「傷痕が残ると困るのですか」
「残らないほうがいいわ」
常々、周百木から言われていることだ。庭に忍び込んだ野良猫を抱き上げることも赦さなかったのは彼だった。吹き出物や気触(かぶ)れについても、彼の管理と予防は徹底していた。それは松竹林殿家の人間に対してのみ適用される価値観なのだろうか。
「こちらは桜子お嬢様がお付けになった傷です。マーキングかもしれませんが、梅子お嬢様の手でお消しになりますか」
「え……」
「桜子お嬢様の付けてくださった傷を、梅子お嬢様は消してくださろうとするのですね。私が桜子お嬢様からどのような追及を受けるか、お考えになることもなく」
梅子は頬の傷を見る。ただの事故ではないというのか。この執事の口振りからして、妹が故意に付けたというのか。
「いくら桜子様でも、人の顔に傷を付けるのは良くないわ。わたしが注意してきます」
「いいえ、梅子お嬢様。"注意"とは何のつもりでございましょう。まるで桜子お嬢様より仁徳(ひと)ができているかのようなおっしゃりようですね。そのような驕りが、いずれ松竹林殿家、そしてその他使用人たちを路頭に迷わせることになると私は常々申し上げているのです。桜子お嬢様の付けた傷が何故痛みましょうか! 私は桜子お嬢様の付けてくださったこの傷よりも、日頃の私の憂いと厚意が、まったく梅子お嬢様の御心(みこころ)に届いていなかったことのほうが、痛んで痛んで、今まさに疼いて仕方がありません」
梅子は口を半開きにしながら、弾むような息を繰り返した。
「余計なことを言ったわ。ごめんなさい。桜子様にもたいへん失礼でした。申し訳なく思います」
「ここで謝ったところで、桜子お嬢様には届きません。桜子お嬢様の人格を陰で愚弄なさったこと、是非、桜子お嬢様ご本人の前で謝られてください」
「分かったわ。周百木の傷を消そうとしたことも含め、今から桜子様に謝ってまいります」
梅子は嫌になった。浅慮な自分が嫌になってしまった。家庭教師を幾人抱えても、松竹林殿家の血を引かない身では、何を学ぼうとも、何を叱れようとも、笊(ざる)で水を汲むようなものなのだ。水垢すら残らないのだ。
妹の部屋に辿り着くと、周百木がノックをして許可を取った。開かれた扉を潜る。妹を真正面に捉えると、梅子は床に膝を下ろし、上体を伏せた。
妹は椅子の肘置きで頬杖をついて窓を眺めていた。姉の来訪にまるで興味がないようだった。
「桜子様、わたくし……桜子様が周百木に付けた傷を、勝手に治そうとしてしまいました。そして桜子様が周百木に傷を付けたことについて、桜子様に注意をしようだなんて身の程を弁えないことをしようとしたのです。申し訳ありません」
妹は徐ろに窓から目を切り離した。そして梅子のほうを向く。
「は?」
低く短く切った声は、視線からすると周百木に向けられたようだった。
「なんだ、周百木。その傷をヴァタシの所為だと思っているのか。ヴァタシが付けた傷だって、梅子姉サマにそう教えたのか」
桜子は一度組んだ脚を下ろした。そして椅子から立ち上がる。
梅子の背筋は氷を詰め込まれたようだった。
「はい。こちらは桜子お嬢様が私にお与えになったマーキングだと申し上げました」
「思い上がるな、クソオス! 勘違いも程々にしろよ。それでなんだ? 梅子姉サマに、2人で悪口を楽しんでいたと、ヴァタシに報告させて、仕返しのつもりか?」
桜子は周百木の周りを練り歩いた。
「ち、違います!」
「梅子姉サマには訊いておりませんのよ――周百木! てめぇがはっきりしねぇから、梅子姉サマの手を煩わせただろうが。なぁ、どうなんだ? 仕返しのつもりか? ヴァタシの悪口は楽しかったかよ、なぁ?」
桜子は周百木の顔を覗き込むと、その頬を張った。乾いた音が室内に谺(こだま)する。
「暴力はよして! 暴力はダメよ、桜子様! わたしの所為なんです。わたしが勘違いしてしまったんです! お願い、周百木を赦して……」
「梅子姉サマがああ言ってるぞ、周百木……鞭打ちで赦してやる。上着を脱げ」
◇
ああ……! 梅子お嬢様!
私は聳(そそ)り勃つ陰茎を扱きました。 鞭で打たれた私を見詰める潤んだ瞳を思い出すと、私の上下運動する手は速度を増しました。桜子お嬢様に赦しを乞う声は麗しく、どんな不作の土地ですら花畑にしてしまいそうでした。それでいて梅子お嬢様は、私を不作にするつもりなのです。私という生命を根刮ぎ搾り取る気でいらっしゃるのです。私の熱は他者の内側の体温と交わることなく、外気に触れて死滅していくのです。この快楽! 梅子お嬢様は私の遺伝子の殺人犯なのです。私を孤独という極楽浄土に突き堕とした妖女なのです。
桜子お嬢様の鞭のひとつひとつが私を炙り、私の出汁という出汁が梅子お嬢様の荔枝(ライチ)のような肌に振り注ぎ、淫らな叫び声を上げるのです。
梅子お嬢様……! 梅子お嬢様……! 梅子お嬢様……!
赦しを乞い、義理の妹の脚に縋り付く梅子お嬢様! 髪は床に擦れて絡み、乱れ、とても成人した淑女とは思えないほどの泣き喚きぶり!
私は膨張しきった逸物の根元を締め上げました。
梅子お嬢様は残酷な御方なのです。
私に怯え、私を嫌がりながら、私に慈しみを注ぐことをやめられない、憐れな女なのでした。それでいて、私は今日、白梅献香園で見てしまったのです。梅子お嬢様が、庭師の杏珠郎(あんじゅろう)といやらしい接吻に興じているところを。梅子お嬢様という清楚な女性が、舌を絡ませ合って粘液を交換する汚らしい行為に耽溺していたのです。
そして庭師の汁を体内に残し、匂いと体温を纏わせ、何食わぬ顔で私を慈しんでいたのです。舌を絡ませ、口水を啜り合う猥褻行為など、露ほども知らぬ表情(かお)をして、私の頬を撫でていったのです。
「梅子お嬢様……! 梅子お嬢様………っ、ふぅぅ………!」
私の手は猛り狂う熱を鎮めるのに必死でした。しかし私の目蓋の裏には、鞭打たれる私を庇おうとする梅子お嬢様と、庭師に身を委ね、口腔を暴かれていた梅子お嬢様とが交互に点滅して、私の血潮をさらに沸き立たせるのです。
「んぉっ、梅子お嬢様……っ♡」
私は梅子お嬢様にまだ虐められていたかったのです。掌で扱くのをやめ、親指と人差し指で輪を作りました。まるで梅子お嬢様のようです。まるで梅子お嬢様なのです。不義理な行いで私を悦ばせた直後には、成熟した肉体を持て余し、庭師に媚びて私を落胆させるのです。そして私を落胆させながら、清楚と無知を装って、少女を演じ、私の前では泣いて傷付いて見せるのですから。
「梅子お嬢様……、ああっ、梅子お嬢様………!」
背中の傷が私を昂らせました。触れる面積を減らした手淫がもどかしく、私は腰を突き上げました。世界中の誰にでもこの姿を見られても構いません。しかし梅子お嬢様にだけは見せられない、私の浅ましい姿。けれどももし梅子お嬢様が、何かの機(はず)みで、私のこの惨めな自涜を目にしたとき……そのときに、私は梅子お嬢様の爪先に平伏すことができるのでしょう。今すでに私は梅子お嬢様の前に平伏しているというのに。
ああ、梅子お嬢様……もし庭師が理性をかなぐり捨てたとき、男が口吸いで満足できるはずがないのです。あの庭師が貴女様の口の中を漁っているとき、あの庭師の股ぐらを見てごらんなさい。貴女様の劣情に血潮を漲(みなぎ)らせ、剛直を作っていたに違いないのです。梅子お嬢様は布の一枚一枚を破かれ、裸に剥かれ、その身体を真っ二つに裂かれてしまうのですよ。
私の陰茎は透明な汁を次々と分泌していました。そして私の指の輪の滑りを良くするのでした。
日に焼けた筋肉質な腕に組み敷かれ、私を呼んでも、私が梅子お嬢様の味方をするとは限らないのです。私は貴女様の呼ぶ声を聞かなかったことにして、人語を解する野生動物の生臭い一本角に串刺しにされて喪失と汚辱に泣き叫ぶ貴女様を前に腰を振ることしかできなくなってしまうのかもしれないのですよ。
「ぉっ、んっ……っ梅子お嬢様……! 梅子お嬢様♡」
私も獣の一匹(ひとり)。桜子お嬢様のおっしゃるとおりの"クソオス"。梅子お嬢様……貴女が私に助けを求めたところで、私は同じ穴の狢(むじな)――いいえ!
同じ穴の豺狼(さいろう)の庭師を蹴散らすことができましょうか。私は食い散らかされた梅子お嬢様の骨まで完食せずにはいられないハゲタカです。庭師と無理矢理に結ばれた痕跡に滾(たぎ)り、貴女様の悲しみと拒絶を夢想し、もう一度貴女様の嫌悪を再現してしまうのかもしれないのですよ。
そして私はそのときの梅子お嬢様の泣き濡れた顔を想像したのでした。白梅献香園で手折られた一輪の花……
「梅子お嬢様………、梅子お嬢様……! 出します………っ♡!」
私は起き上がり、蹲(うずくま)り、掌に精を吐き出しました。梅子お嬢様……もし私が、これを膿だと偽り、病だと申し上げれば、貴女様は私を労ってくださるのでしょう。いいえ、いいえ、梅子お嬢様。貴女様は庭師のこの膿汁を知っているのではありませんか。匂いと味、その温かさと粘り気までご存知なのではありませんか。
◇
指が縺れた。ほんの一瞬の隙があった。音を外す。
「ごめんなさい……」
梅子はピアノの先生を見上げた。ばつの悪気な顔と目が合う。時間が止まっている。ピアノで間違えることは珍しいことではなかった。だが今日は、いつもとは違うのだ。
梅子はおそるおそる、壁際に控える周百木を見遣る。
「梅子お嬢様。今日まで何をしていらっしゃったのです。練習するお時間を取れませんでしたか」
靴音もなく、周百木がピアノへ歩み寄る。先生は梅子と周百木を交互に見て、半歩後ろに下がった。
「ご、ごめんなさい……」
「ピアノの先生も、忙しい合間を縫ってレッスンをしてくださっているのですよ。敬意が足らないのではありませんか。松竹林殿家の長女ともあろう方が、他者に敬意を抱けないようでは困ります。何故間違えたのですか」
弾く鍵盤は分かっていた。ただ一瞬、指の開きが足らず、弾きそびれた。
「指が、」
「指が? 指の不調ですか。それは大変です。整形外科の予約を入れなければなりませんね」
梅子は鍵盤を見下ろし、固まる。本当に指が動かなくなってしまった。
「練習が足らず、指が動きませんでした」
「ピアノの先生に謝ってくださいませ。私からもお詫び申し上げます」
周百木は床に膝をつくと、上体を伏せ、頭を下げた。
「このたびは、私、周百木(すももぎ)李里(りさと)の監督不行き届きにより多大なるご迷惑をおかけしました。誠に申し訳ありません」
ピアノの先生が周百木を宥めている。
「先生、ごめんなさい。練習時間を増やします」
「梅子お嬢様。練習時間を増やすばかりで、中身が伴っていなければ意味がないのですよ」
「はい……」
周百木は梅子の隣に立った。
緊張感が彼女の手に枷を嵌めていた。間を置かず、鍵盤を弾きそびれる。
時間が止まる。窓辺の木から飛び立つ小鳥が呑気だった。
「手を出してください」
「はい……」
梅子はスカートで手汗を拭ってから、周百木に手を渡す。
乾いた音がピアノよりも鮮明に室内に響き渡った。
「先生に申し訳ないと、本当に思っていらっしゃいますね」
「はい」
「口先ばかりのように思えます」
「………申し訳ございません」
「私に謝られても困ります。次間違えたなら、梅子お嬢様にはこの手は不要と見做しても構いませんね」
梅子は周百木を見上げた。一体何を言い出すのか。粘こくも冷たい汗が全身から噴き出した。
「そ………んな………」
「両手を使えることに感謝して生きなければなりません」
梅子は白梅献香園にいた。小さな噴水のオブジェが見える、ガゼボが彼女の気に入りの場所だった。
包帯の巻かれた手を抱き締める。薄荷を思わせる軟膏の匂いが鼻に染みた。
執事から叩かれたことはなかった。周百木は明らかに憤っている。不出来な主人にとうとう見限りをつけたのだ。
松竹林殿家は、正当な血を引く妹が継ぐべきなのだ。
父母に話し、周百木を担当から外すのが、互いにとって良い道なのだろう。
そして跡継ぎにならないと決めたならば、松竹林殿家からは出ていかなければならないのだろう。だが彼女には心残りがある。この白梅献香園と――
「ご機嫌麗しう、梅子お嬢様」
梅子は顔を上げた。道を作る垣根の陰から庭師が顔を出した。
「杏珠郎、おはよう」
日焼けした肌は日光を照り返している。庭師は嵌めたばかりの軍手を外し、座る梅子の前に跪く。
「おはようございます」
庭師の顔が綻ぶ。真珠のような歯が輝いた。
太陽も青空も白い雲も忘れていた梅子に、日の光が差し込む。それでいて白塗りのガゼボの屋根が、彼女に褪せた影を作っている。小鳥の囀(さえず)りが耳を通っていった。
梅子は包帯の巻かれた手を後ろに回そうとした。しかし遅かった。
「その手はどうなさったんです?」
彼女は嘘を用意しておかなかった。この準備の悪さは、さすがに周百木も報われない。
「ちょっと失敗してしまって」
「何を?」
「色々と……でも、見た目はこんな有様ですけれど、大したことはないのよ。大袈裟なくらいで……」
「骨ですかぃ」
「ううん。ちょっと擦り剥いちゃっただけ……」
もはや隠す必要はなかった。包帯の巻かれた手を抱く。叩かれ続け赤く腫れた箇所を繊維越しに撫でた。
「痛いな」
梅子は庭師の顔を見詰め、首を傾げる。
「擦り剥いちゃったんじゃ、痛いですな」
「う、うん……ちょっとだけ。ちょっとだけね」
患部は冷感軟膏と相俟って、圧迫しなければ痛みはない。清涼感が疼きを際立たせるだけだ。しかし梅子の尻をガゼボに留まらせるのは、この手の内に起こる灼熱感ではない。
「周百木に迷惑をかけてしまって……あんまり、向いてないのかも」
「周百木サンが?」
「う、ううん。わたしが」
「何に?」
「ピアノ……好きでやらせてもらってたけれど、才能なかったみたい。へへへ……」
庭師は立ち上がった。
「ピアノは好きだから弾く」
梅子は庭師を見上げた。
「――で、良くね?」
梅子は笑みを作る。
「ピアノの先生は、忙しい合間を縫ってレッスンしてくださっていますし、周百木も多忙ななかで、わたしを精一杯、教育しようとしてくれてるから……遊びじゃダメよ」
庭師は黙った。
梅子は庭師から目を逸らした。
「ごめんなさい。せっかく慰めてくれているのに……」
庭師も雇い主の娘を前に、話を振らずにはいられないのだろう。しかし梅子には、この庭師しか、自由な言葉を赦されていない。この庭園を出れば松竹林殿家の長女としての言葉になる。
「梅子お嬢様はよく頑張ってる。これは慰めじゃない」
梅子は庭師の琥珀色の瞳を覗き込む。また彼の優しさが目の前にちらつくのならば、振り払うことはできない。
杏珠郎の身体が前にのめる。梅子の唇に柔らかなものが触れた。弾み合って離れていく。
包帯のなかの炎症が脈を打った。
「口先ばかりだから、頑張ろうって決心もできないの」
「有言不実行、上等」
「周りに迷惑をかけてしまうわ」
「いつもどおりで大丈夫。大丈夫だ。大丈夫だから」
木を伐り、花を植える腕が梅子の身体を包む。
「杏珠郎……」
干したての布団のような匂いと、晴れの日の木々の匂いと、逞しく咲いた花の香りが混ざっている。
足音がガゼボに近付いてきていた。
杏珠郎の温もりが離れていく。庭園にいても、松竹林殿家の長女と庭師になる。
梅子の憩いの場に黒く塗り潰したような人影が現れる。
「梅子お嬢様。お迎えにあがりました。時間を過ぎております」
「今行きます、周百木」
【TL】泣いてください、お嬢様