【TL】泣いてください、お嬢様
男側一人称視点+ヒロイン三人称視点/SM共存年上美青年執事/不憫お嬢様ヒロイン/苛烈妹/強制過食/嘔吐/男喘ぎ
1
桜子(さくらこ)お嬢様の御御足(おみあし)が、ふと私(わたくし)の手から離れ、私の頬を蹴りました。桃色に塗装された爪が私の皮膚を裂いたようでした。
「ヘタクソ」
私は立ち上がりました。
「申し訳ございません」
「綺麗にして」
私はお絞りで桜子お嬢様の御御足を拭きますと、ボディクリームを塗り込みました。
「梅子(うめこ)姉サマがいる……」
桜子お嬢様がお呟きになり、私は手を止めてしまいました。そして顔を上げたのです。桜子お嬢様は窓を眺めていらせられました。その目は遠く、私の存在をすでにお忘れになっているようでした。
「梅子お嬢様に用がお有りなのですか」
梅子お嬢様はこの松竹林殿(しょうちくりんでん)家の血を引かない長女でした。しかし実子の桜子お嬢様は次女なのですから、思うところはあるはずです。
「お前には関係ない」
私は桜子お嬢様にストッキングを履かせますと、お部屋を出ました。
◇
梅子は自身に与えられた庭園「白梅献香園(はくばいけんこうえん)」から出ようとしたところだった。
彼女はこの庭を気に入っていた。松竹林殿家へ養女に来た直後に桜子が生まれた。喜ばしいことだった。しかし養父母たちはそうとう気を揉んだようだ。妹の誕生の際に贈られたのがこの白梅献香園だった。
空は青く、庭の木々も青々と茂り、瑞々しい葉が朗らかな日の光を返している。
真っ白に塗られた木製の門を開けると、少し離れた場所に色濃い影が佇んでいた。麗らかな景色をそこだけ人型に切り抜いたかのようだった。
彼女は思わず後退る。
「梅子お嬢様、お迎えにあがりました」
世話係の周百木(すももぎ)だ。ダークカラーの服装が彼女の視界から彩度を奪う。
梅子はたじろぎながらおそるおそる、周百木の冷ややかな目を見上げた。
周百木の頬に赤い糸くずが付いていた。彩りに欠けたこの者唯一の差し色になっている。しかしこの男に彩りは必要ないのかもしれない。彼は月の下で照り輝く氷刃のようだった。人相ばかりではない。凛とした目元にしろ、真っ直ぐ通った鼻梁にしろ、薄い唇にしろ、この管理者の気質をよく顕している。
けれども彼女は、無愛想な執事に添わっている色を見詰めてしまった。
「私の顔に何か?」
「あ、あ、……いいえ。赤い糸が付いているようですわ」
周百木は松竹林殿家の血を引かない長女が疎ましいようだった。眼差しがそう告げている。偽物に仕えていることが屈辱なのだろう。
「梅子お嬢様」
周百木の語気は変わらない。しかし梅子には分かる。誤った。
「は、はい……」
「梅子お嬢様は今、"いいえ"とおっしゃいましたね。ですが、私の顔には糸が付いておりました。それでは答えは"はい"であるはずですね。"はい"か"いいえ"か、はっきりしてくださいませ。そのような曖昧な態度では困ります」
「あっ、ご、ごめんなさい……」
「梅子お嬢様は松竹林殿家の長女なのです。いずれはこの家を取り仕切らなければならないお立場。ご自覚をお持ちください。梅子お嬢様の指示ひとつで、この家のみならず、政界が、財界が、官界が、或いは学界さえも傾いてしまうのです。一瞬の判断の誤りで大恩ある旦那様、奥方様、桜子お嬢様が路頭に迷うかもしれないのですよ。言葉は正しくお使いください。初等部時代の国語の先生をお呼びいたしましょうか」
「あ、ご、ごめんなさい。わたしが悪かったです。これから気を付けます」
周百木の眼から棘が抜ける。だがまだ疑っているようだった。
「糸、取りますね」
梅子は背の高い執事の頬に手を伸ばした。しかし執事は屈みもしなかった。そして彼女の手を恭(うやうや)しく握る。
「梅子お嬢様。他人に触れるときはまず許可を取る必要がございます。私はまだ返事をしておりませんでした。梅子お嬢様は私を卑しんでいらっしゃるのですね。今はこの場にいるのは梅子お嬢様お1人と、執事1匹しかおりませんので構いませんが、松竹林殿家の長女ともあろう御方が公で職業差別など許されません。私は構いませんが、しかし執事とのコミュニケーションも社会性を学ぶ大切な場でございます。態度を改めていただけますか」
周百木は梅子へ手を返す。
「そ、そんなつもりは……」
「言い訳は不要です」
「ごめんなさい……」
彼女は俯いた。同じやり取りを昨日も一昨日も一昨々日も繰り返している。
「取ってくださらないのですね。私の指導に臍を曲げてしまわれたのですか」
「いいえ……周百木の指導はいつも正しいもの。触りますわ」
「はい。取ってくださいませ、梅子お嬢様」
彼女は周百木の頬に触れた。赤いものは糸くずではなかった。薄皮が破れ、血が滲んでいたのだ。
「周百木、これは傷だわ」
「傷……?」
「痛くないの?」
「はい」
梅子は親指で赤い線をなぞる。周百木の目が眇(すが)められ、彼女は手を離した。
「痕が残ってしまうかもしれません。よく洗って、薬を塗らないと……」
「傷痕が残ると困るのですか」
「残らないほうがいいわ」
常々、周百木から言われていることだ。庭に忍び込んだ野良猫を抱き上げることも赦さなかったのは彼だった。吹き出物や気触(かぶ)れについても、彼の管理と予防は徹底していた。それは松竹林殿家の人間に対してのみ適用される価値観なのだろうか。
「こちらは桜子お嬢様がお付けになった傷です。マーキングかもしれませんが、梅子お嬢様の手でお消しになりますか」
「え……」
「桜子お嬢様の付けてくださった傷を、梅子お嬢様は消してくださろうとするのですね。私が桜子お嬢様からどのような追及を受けるか、お考えになることもなく」
梅子は頬の傷を見る。ただの事故ではないというのか。この執事の口振りからして、妹が故意に付けたというのか。
「いくら桜子様でも、人の顔に傷を付けるのは良くないわ。わたしが注意してきます」
「いいえ、梅子お嬢様。"注意"とは何のつもりでございましょう。まるで桜子お嬢様より仁徳(ひと)ができているかのようなおっしゃりようですね。そのような驕りが、いずれ松竹林殿家、そしてその他使用人たちを路頭に迷わせることになると私は常々申し上げているのです。桜子お嬢様の付けた傷が何故痛みましょうか! 私は桜子お嬢様の付けてくださったこの傷よりも、日頃の私の憂いと厚意が、まったく梅子お嬢様の御心(みこころ)に届いていなかったことのほうが、痛んで痛んで、今まさに疼いて仕方がありません」
梅子は口を半開きにしながら、弾むような息を繰り返した。
「余計なことを言ったわ。ごめんなさい。桜子様にもたいへん失礼でした。申し訳なく思います」
「ここで謝ったところで、桜子お嬢様には届きません。桜子お嬢様の人格を陰で愚弄なさったこと、是非、桜子お嬢様ご本人の前で謝られてください」
「分かったわ。周百木の傷を消そうとしたことも含め、今から桜子様に謝ってまいります」
梅子は嫌になった。浅慮な自分が嫌になってしまった。家庭教師を幾人抱えても、松竹林殿家の血を引かない身では、何を学ぼうとも、何を叱れようとも、笊(ざる)で水を汲むようなものなのだ。水垢すら残らないのだ。
妹の部屋に辿り着くと、周百木がノックをして許可を取った。開かれた扉を潜る。妹を真正面に捉えると、梅子は床に膝を下ろし、上体を伏せた。
妹は椅子の肘置きで頬杖をついて窓を眺めていた。姉の来訪にまるで興味がないようだった。
「桜子様、わたくし……桜子様が周百木に付けた傷を、勝手に治そうとしてしまいました。そして桜子様が周百木に傷を付けたことについて、桜子様に注意をしようだなんて身の程を弁えないことをしようとしたのです。申し訳ありません」
妹は徐ろに窓から目を切り離した。そして梅子のほうを向く。
「は?」
低く短く切った声は、視線からすると周百木に向けられたようだった。
「なんだ、周百木。その傷をヴァタシの所為だと思っているのか。ヴァタシが付けた傷だって、梅子姉サマにそう教えたのか」
桜子は一度組んだ脚を下ろした。そして椅子から立ち上がる。
梅子の背筋は氷を詰め込まれたようだった。
「はい。こちらは桜子お嬢様が私にお与えになったマーキングだと申し上げました」
「思い上がるな、クソオス! 勘違いも程々にしろよ。それでなんだ? 梅子姉サマに、2人で悪口を楽しんでいたと、ヴァタシに報告させて、仕返しのつもりか?」
桜子は周百木の周りを練り歩いた。
「ち、違います!」
「梅子姉サマには訊いておりませんのよ――周百木! てめぇがはっきりしねぇから、梅子姉サマの手を煩わせただろうが。なぁ、どうなんだ? 仕返しのつもりか? ヴァタシの悪口は楽しかったかよ、なぁ?」
桜子は周百木の顔を覗き込むと、その頬を張った。乾いた音が室内に谺(こだま)する。
「暴力はよして! 暴力はダメよ、桜子様! わたしの所為なんです。わたしが勘違いしてしまったんです! お願い、周百木を赦して……」
「梅子姉サマがああ言ってるぞ、周百木……鞭打ちで赦してやる。上着を脱げ」
◇
ああ……! 梅子お嬢様!
私は聳(そそ)り勃つ陰茎を扱きました。 鞭で打たれた私を見詰める潤んだ瞳を思い出すと、私の上下運動する手は速度を増しました。桜子お嬢様に赦しを乞う声は麗しく、どんな不作の土地ですら花畑にしてしまいそうでした。それでいて梅子お嬢様は、私を不作にするつもりなのです。私という生命を根刮ぎ搾り取る気でいらっしゃるのです。私の熱は他者の内側の体温と交わることなく、外気に触れて死滅していくのです。この快楽! 梅子お嬢様は私の遺伝子の殺人犯なのです。私を孤独という極楽浄土に突き堕とした妖女なのです。
桜子お嬢様の鞭のひとつひとつが私を炙り、私の出汁という出汁が梅子お嬢様の荔枝(ライチ)のような肌に振り注ぎ、淫らな叫び声を上げるのです。
梅子お嬢様……! 梅子お嬢様……! 梅子お嬢様……!
赦しを乞い、義理の妹の脚に縋り付く梅子お嬢様! 髪は床に擦れて絡み、乱れ、とても成人した淑女とは思えないほどの泣き喚きぶり!
私は膨張しきった逸物の根元を締め上げました。
梅子お嬢様は残酷な御方なのです。
私に怯え、私を嫌がりながら、私に慈しみを注ぐことをやめられない、憐れな女なのでした。それでいて、私は今日、白梅献香園で見てしまったのです。梅子お嬢様が、庭師の杏珠郎(あんじゅろう)といやらしい接吻に興じているところを。梅子お嬢様という清楚な女性が、舌を絡ませ合って粘液を交換する汚らしい行為に耽溺していたのです。
そして庭師の汁を体内に残し、匂いと体温を纏わせ、何食わぬ顔で私を慈しんでいたのです。舌を絡ませ、口水を啜り合う猥褻行為など、露ほども知らぬ表情(かお)をして、私の頬を撫でていったのです。
「梅子お嬢様……! 梅子お嬢様………っ、ふぅぅ………!」
私の手は猛り狂う熱を鎮めるのに必死でした。しかし私の目蓋の裏には、鞭打たれる私を庇おうとする梅子お嬢様と、庭師に身を委ね、口腔を暴かれていた梅子お嬢様とが交互に点滅して、私の血潮をさらに沸き立たせるのです。
「んぉっ、梅子お嬢様……っ♡」
私は梅子お嬢様にまだ虐められていたかったのです。掌で扱くのをやめ、親指と人差し指で輪を作りました。まるで梅子お嬢様のようです。まるで梅子お嬢様なのです。不義理な行いで私を悦ばせた直後には、成熟した肉体を持て余し、庭師に媚びて私を落胆させるのです。そして私を落胆させながら、清楚と無知を装って、少女を演じ、私の前では泣いて傷付いて見せるのですから。
「梅子お嬢様……、ああっ、梅子お嬢様………!」
背中の傷が私を昂らせました。触れる面積を減らした手淫がもどかしく、私は腰を突き上げました。世界中の誰にでもこの姿を見られても構いません。しかし梅子お嬢様にだけは見せられない、私の浅ましい姿。けれどももし梅子お嬢様が、何かの機(はず)みで、私のこの惨めな自涜を目にしたとき……そのときに、私は梅子お嬢様の爪先に平伏すことができるのでしょう。今すでに私は梅子お嬢様の前に平伏しているというのに。
ああ、梅子お嬢様……もし庭師が理性をかなぐり捨てたとき、男が口吸いで満足できるはずがないのです。あの庭師が貴女様の口の中を漁っているとき、あの庭師の股ぐらを見てごらんなさい。貴女様の劣情に血潮を漲(みなぎ)らせ、剛直を作っていたに違いないのです。梅子お嬢様は布の一枚一枚を破かれ、裸に剥かれ、その身体を真っ二つに裂かれてしまうのですよ。
私の陰茎は透明な汁を次々と分泌していました。そして私の指の輪の滑りを良くするのでした。
日に焼けた筋肉質な腕に組み敷かれ、私を呼んでも、私が梅子お嬢様の味方をするとは限らないのです。私は貴女様の呼ぶ声を聞かなかったことにして、人語を解する野生動物の生臭い一本角に串刺しにされて喪失と汚辱に泣き叫ぶ貴女様を前に腰を振ることしかできなくなってしまうのかもしれないのですよ。
「ぉっ、んっ……っ梅子お嬢様……! 梅子お嬢様♡」
私も獣の一匹(ひとり)。桜子お嬢様のおっしゃるとおりの"クソオス"。梅子お嬢様……貴女が私に助けを求めたところで、私は同じ穴の狢(むじな)――いいえ!
同じ穴の豺狼(さいろう)の庭師を蹴散らすことができましょうか。私は食い散らかされた梅子お嬢様の骨まで完食せずにはいられないハゲタカです。庭師と無理矢理に結ばれた痕跡に滾(たぎ)り、貴女様の悲しみと拒絶を夢想し、もう一度貴女様の嫌悪を再現してしまうのかもしれないのですよ。
そして私はそのときの梅子お嬢様の泣き濡れた顔を想像したのでした。白梅献香園で手折られた一輪の花……
「梅子お嬢様………、梅子お嬢様……! 出します………っ♡!」
私は起き上がり、蹲(うずくま)り、掌に精を吐き出しました。梅子お嬢様……もし私が、これを膿だと偽り、病だと申し上げれば、貴女様は私を労ってくださるのでしょう。いいえ、いいえ、梅子お嬢様。貴女様は庭師のこの膿汁を知っているのではありませんか。匂いと味、その温かさと粘り気までご存知なのではありませんか。
◇
指が縺れた。ほんの一瞬の隙があった。音を外す。
「ごめんなさい……」
梅子はピアノの先生を見上げた。ばつの悪気な顔と目が合う。時間が止まっている。ピアノで間違えることは珍しいことではなかった。だが今日は、いつもとは違うのだ。
梅子はおそるおそる、壁際に控える周百木を見遣る。
「梅子お嬢様。今日まで何をしていらっしゃったのです。練習するお時間を取れませんでしたか」
靴音もなく、周百木がピアノへ歩み寄る。先生は梅子と周百木を交互に見て、半歩後ろに下がった。
「ご、ごめんなさい……」
「ピアノの先生も、忙しい合間を縫ってレッスンをしてくださっているのですよ。敬意が足らないのではありませんか。松竹林殿家の長女ともあろう方が、他者に敬意を抱けないようでは困ります。何故間違えたのですか」
弾く鍵盤は分かっていた。ただ一瞬、指の開きが足らず、弾きそびれた。
「指が、」
「指が? 指の不調ですか。それは大変です。整形外科の予約を入れなければなりませんね」
梅子は鍵盤を見下ろし、固まる。本当に指が動かなくなってしまった。
「練習が足らず、指が動きませんでした」
「ピアノの先生に謝ってくださいませ。私からもお詫び申し上げます」
周百木は床に膝をつくと、上体を伏せ、頭を下げた。
「このたびは、私、周百木(すももぎ)李里(りさと)の監督不行き届きにより多大なるご迷惑をおかけしました。誠に申し訳ありません」
ピアノの先生が周百木を宥めている。
「先生、ごめんなさい。練習時間を増やします」
「梅子お嬢様。練習時間を増やすばかりで、中身が伴っていなければ意味がないのですよ」
「はい……」
周百木は梅子の隣に立った。
緊張感が彼女の手に枷を嵌めていた。間を置かず、鍵盤を弾きそびれる。
時間が止まる。窓辺の木から飛び立つ小鳥が呑気だった。
「手を出してください」
「はい……」
梅子はスカートで手汗を拭ってから、周百木に手を渡す。
乾いた音がピアノよりも鮮明に室内に響き渡った。
「先生に申し訳ないと、本当に思っていらっしゃいますね」
「はい」
「口先ばかりのように思えます」
「………申し訳ございません」
「私に謝られても困ります。次間違えたなら、梅子お嬢様にはこの手は不要と見做しても構いませんね」
梅子は周百木を見上げた。一体何を言い出すのか。粘こくも冷たい汗が全身から噴き出した。
「そ………んな………」
「両手を使えることに感謝して生きなければなりません」
梅子は白梅献香園にいた。小さな噴水のオブジェが見える、ガゼボが彼女の気に入りの場所だった。
包帯の巻かれた手を抱き締める。薄荷を思わせる軟膏の匂いが鼻に染みた。
執事から叩かれたことはなかった。周百木は明らかに憤っている。不出来な主人にとうとう見限りをつけたのだ。
松竹林殿家は、正当な血を引く妹が継ぐべきなのだ。
父母に話し、周百木を担当から外すのが、互いにとって良い道なのだろう。
そして跡継ぎにならないと決めたならば、松竹林殿家からは出ていかなければならないのだろう。だが彼女には心残りがある。この白梅献香園と――
「ご機嫌麗しう、梅子お嬢様」
梅子は顔を上げた。道を作る垣根の陰から庭師が顔を出した。
「杏珠郎、おはよう」
日焼けした肌は日光を照り返している。庭師は嵌めたばかりの軍手を外し、座る梅子の前に跪く。
「おはようございます」
庭師の顔が綻ぶ。真珠のような歯が輝いた。
太陽も青空も白い雲も忘れていた梅子に、日の光が差し込む。それでいて白塗りのガゼボの屋根が、彼女に褪せた影を作っている。小鳥の囀(さえず)りが耳を通っていった。
梅子は包帯の巻かれた手を後ろに回そうとした。しかし遅かった。
「その手はどうなさったんです?」
彼女は嘘を用意しておかなかった。この準備の悪さは、さすがに周百木も報われない。
「ちょっと失敗してしまって」
「何を?」
「色々と……でも、見た目はこんな有様ですけれど、大したことはないのよ。大袈裟なくらいで……」
「骨ですかぃ」
「ううん。ちょっと擦り剥いちゃっただけ……」
もはや隠す必要はなかった。包帯の巻かれた手を抱く。叩かれ続け赤く腫れた箇所を繊維越しに撫でた。
「痛いな」
梅子は庭師の顔を見詰め、首を傾げる。
「擦り剥いちゃったんじゃ、痛いですな」
「う、うん……ちょっとだけ。ちょっとだけね」
患部は冷感軟膏と相俟って、圧迫しなければ痛みはない。清涼感が疼きを際立たせるだけだ。しかし梅子の尻をガゼボに留まらせるのは、この手の内に起こる灼熱感ではない。
「周百木に迷惑をかけてしまって……あんまり、向いてないのかも」
「周百木サンが?」
「う、ううん。わたしが」
「何に?」
「ピアノ……好きでやらせてもらってたけれど、才能なかったみたい。へへへ……」
庭師は立ち上がった。
「ピアノは好きだから弾く」
梅子は庭師を見上げた。
「――で、良くね?」
梅子は笑みを作る。
「ピアノの先生は、忙しい合間を縫ってレッスンしてくださっていますし、周百木も多忙ななかで、わたしを精一杯、教育しようとしてくれてるから……遊びじゃダメよ」
庭師は黙った。
梅子は庭師から目を逸らした。
「ごめんなさい。せっかく慰めてくれているのに……」
庭師も雇い主の娘を前に、話を振らずにはいられないのだろう。しかし梅子には、この庭師しか、自由な言葉を赦されていない。この庭園を出れば松竹林殿家の長女としての言葉になる。
「梅子お嬢様はよく頑張ってる。これは慰めじゃない」
梅子は庭師の琥珀色の瞳を覗き込む。また彼の優しさが目の前にちらつくのならば、振り払うことはできない。
杏珠郎の身体が前にのめる。梅子の唇に柔らかなものが触れた。弾み合って離れていく。
包帯のなかの炎症が脈を打った。
「口先ばかりだから、頑張ろうって決心もできないの」
「有言不実行、上等」
「周りに迷惑をかけてしまうわ」
「いつもどおりで大丈夫。大丈夫だ。大丈夫だから」
木を伐り、花を植える腕が梅子の身体を包む。
「杏珠郎……」
干したての布団のような匂いと、晴れの日の木々の匂いと、逞しく咲いた花の香りが混ざっている。
足音がガゼボに近付いてきていた。
杏珠郎の温もりが離れていく。庭園にいても、松竹林殿家の長女と庭師になる。
梅子の憩いの場に黒く塗り潰したような人影が現れる。
「梅子お嬢様。お迎えにあがりました。時間を過ぎております」
「今行きます、周百木」
2
◇
ピアノの先生が私の前に立っていました。
梅子お嬢様はピアニストを目指していらっしゃるのだから、配慮のある指導は不要だと申し上げたのは私でございました。その件についてお話があるとのことでした。
「やりすぎです、周百木さん」
「険しいプロフェッショナルの道には痛みも必要なのではありませんか。少なくとも松竹林殿(しょうちくりんでん)家では、何を目指すにも痛みと恐怖が必要なのでございます」
「梅子さんの手はピアノを弾くために健やかであるべきです。それを叩くなんて、鍵盤を弾けなくなったら、元も子もありません。私は生徒を叩くために先生になったのではありません。そういうことならば――」
云々、かんぬん。この先生には、梅子お嬢様の美しき旋律が分からないのでした。本当にこの方はピアノを他人に教えられるほどの腕前と感性なのでしょうか。
桜子お嬢様の許しさえあれば、私がピアノを梅子お嬢様に教えて差し上げられたというのに……
いいえ、私がもしピアノを梅子お嬢様に教えるなどということが起きれば!
あの漆黒の牙が、梅子お嬢様の嫋(たお)やか極まりない細指を噛み砕いてしまうでしょう。そしてあのマシュマロのような御肌ごと、飴玉のような関節を舐めしゃぶり、食い破り、骨片のひとつとて残さないのでしょう。
いけない、そのようなことは………
ああ……♡
◇
食が進まなかったが、正面に座す妹の奥に周百木(すももぎ)の姿が見え、梅子(うめこ)はパンを口に入れていく。
「姉サマ」
梅子は妹へ顔を上げる。
「はい……」
「その手はどうなさいましたの」
梅子は思わず、執事を一瞥してしまった。
「転んでしまって……ご心配をおかけして、すみません」
「訊いただけですわ」
妹は振り返った。
「周百木、ヴァタシの姉サマを転ばせるだなんて、アナタの管理はどうなっているの」
「は、桜子お嬢様。梅子お嬢様がおっしゃられていたことは嘘でございます。ですからその件について、私(わたくし)が申し開きできることはございません」
梅子は喉が縊れた。口に入れ、咀嚼しているものが呑み込めなくなった。
「梅子姉サマが嘘を? オマエ、姉サマごとヴァタシを愚弄するのか」
「事実でございます、桜子お嬢様」
桜子は正面の梅子を向いた。
「どうなんですか、梅子姉サマ」
周百木に叩かれ、叩かれ、叩かれた。しかしそれは圧倒的な練習不足と、ピアノに対する軽視の所為だ。周百木が悪いのではない。だがここで事実を言えば、周百木が悪いことになるのだろう。
「あ、あ、あの……でも………わたしが、悪……くて……」
「どちらが悪いかはまず説明を聞かないことには、ヴァタシには分かりませんわ、姉サマ。事実はどうなのですか」
「あ、あ、あ…………」
正しい周百木を悪者にして、桜子に言い付けるべきなのか。梅子は周百木の意思を窺おうとする。
「ご、ごめんなさい……」
「それは、言えないという意味での謝罪でよろしいですか、姉サマ。周百木、姉サマに何があったの」
「は、私は梅子お嬢様がピアノのレッスンに真摯に向き合ってくださらなかったので、怒りに任せ手をあげてしまったのでございます」
「執事の分際で、姉サマに手を上げたのか。クソオスの分際で?」
「は」
桜子は食卓に上がっていたらりんごにフォークを突き刺した。果汁が飛び散る。そして彼女はりんごを口に運んだ。フォークを舐め上げる。周百木は桜子の行儀違反に怒らない。
「手を出せ、周百木」
「は」
桜子は周百木の手を、食卓に置いた。
「手袋は外せ」
「は」
周百木は素手を晒した。四角形の手の甲に、細長い四角形が5つ伸びているようだった。骨の隆起が、普段のこの執事の印象とは不釣り合いだった。
「あっあっあっ、桜子様………ッ、何を……」
桜子の振り上げた銀色が、周百木の手の甲に埋まった。
梅子は目を見開いた。銀色と周百木の肌の境目が、徐々に赤色で見えなくなっていく。
「何を! ああ! 周百木!」
梅子は立ち上がった。長いテーブルを回っているうちに、桜子はフォークを引き抜いていた。そして血塗られたカトラリーは、純白のテーブルクロスを汚した。
「ごちそうさま。反省なさい、周百木。ヴァタシの姉を叩くということは、松竹林殿(しょうちくりんでん)家に糞を塗りたくるのに等しい」
周百木は4つ小さな穴の空いた手をテーブルに置いたまま、食堂を出ていく桜子の姿を目で追っていた。
「なんてこと……なんてこと……わたしの所為だわ!」
「落ち着いてくださいませ、梅子お嬢様。はしたのうございます。松竹林殿家の長女ともあろう方が、この程度のことで取り乱すとは嘆かわしい! 血を眺めながら食事を摂れるような淑女でなければ、社交界ではやっていけません。いい機会です。梅子お嬢様。私のこの傷を観ながら、完食なさってくださいませ」
「何を言っているんですの……」
手の甲の穴は作り物なのであろうか。しかし今でも傷からは血が噴き出している。テーブルクロスに赤い染みを作っている。
「梅子お嬢様。私は身を粉にして松竹林殿家に尽くさなければならないのです。ですが梅子お嬢様は、私のこの忠誠を慮ってはくださらないようですね」
梅子は眉を顰めた。おそらく周百木は正しいのだ。しかし正しさにこだわりすぎている。
「それでも貴方は怪我をしているわ! 早く手当てをしなきゃ!」
「梅子お嬢様は、この食事を作ってくださった料理人たちや、農家、酪農家、販売会社やその他流通に関わった方々の努力や熱意を無駄にするおつもりですか。世界には食べたくても食べられない人たちもおります。この国であっても、戦争中は餓死する人たちのなんと多かったことか、まさか梅子お嬢様は学ばなかったわけはありませんね」
梅子は冷ややかな執事の目を覗いていた。ここで職務を全うしなければ、それこそ桜子に厳しい注意を受けるのだろうか。
「ダメよ、周百木」
梅子は執事の傷付いた手をテーブルから持ち上げた。そして桜子の席にあった未使用の紙ナプキンで傷の周りの血を吸い取った。
「はやく洗わなきゃ……来て、周百木。お願いします」
「なりません、梅子お嬢様。私に媚びようとしても無駄です。私は梅子お嬢様が完食なさるまで、ここを動きません。私の手の運命は、梅子お嬢様に懸かっているというわけです」
周百木は血塗れの手で白の手袋を嵌めた。布はすぐさま色付く。彼には痛覚がないようだった。壁際に控えていたときと変わらない所作で梅子と対峙する。
「周百木……」
「召し上がってください、梅子お嬢様。私の傷の手当てなどという一見すると善行に託(かこ)つけてお食事から逃げようというのなら、そうは問屋が卸しませんよ」
「わたし、そんなつもりじゃ……」
「早くお召し上がりくださいませ。厨房係に深夜まで働かせるおつもりなのですか」
傷は作り物なのではなかろうか。梅子は汚れた手袋を見下ろした。
「私が食べさせなければならないようですね。お座りください」
しかし白い布は赤く濡れていく。
「お座りください! 犬でもできることですよ。何故お座りにならないのです。梅子お嬢様。鈍間はいけません!」
食堂に怒号が響く。周百木は自身の痛みよりも、松竹林殿家に尽くそうとしているのだ。
周百木を苦しめているのは手の傷か? 否、梅子だ。
「ごめんなさい……周百木の言うとおりにします」
◇
私は梅子お嬢様の口に千切ったパンを押し込みました。そして窒息しないよう、クラムチャウダーを流し込みました。
「は………はっ………っぅう、……」
梅子お嬢様は目を潤ませ、胸元を撫でていらっしゃいました。普段の倍はお召し上がりになっているのですから、梅子お嬢様のお腹はそろそろ限界を迎えるようでした。
「梅子お嬢様、どうなさったのですか。ペースが落ちておいでですよ。厨房係の勤務時間も無限ではないのです。そして私の夕食の時間が、これではどんどん遅れてしまいます。夕食が遅れたならば、睡眠時間も削れていくというわけでございます。梅子お嬢様はご存知ないかもしれませんが、執事とは知的労働だけではないのです。肉体労働でもあるのです。私の睡眠時間が削れ、私が健康を損ない、棺に納まったときは、梅子お嬢様、私が教えたとおり、きちんと松竹林殿家の長女として生きていくのですよ」
梅子お嬢様はまったく私のお話を聞いてくださりませんでした。膨れたお腹を抱え、必死に呼吸をしていらっしゃいました。
ああ……私が召し上がらせたパンと肉で、梅子お嬢様はまるで妊婦のように腹を膨らませている……私と梅子お嬢様の子といっても過言ではない! 私は梅子お嬢様の熱と柔らかさを知ることなく、梅子お嬢様を孕ませてしまったのです。
「梅子お嬢様、こんなに腹を膨らませて、だらしのないことこの上ない。まさか、子を宿していらっしゃるわけではありませんよね。松竹林殿家の長女として、家柄も血筋もご人格も相応(ふさ)う相手でなければ、梅子お嬢様と子を成すことは赦されませんよ。相手はどこの何方(どなた)ですか。まさか、あの庭園で起きたことではないでしょうね!」
「は………はっ………ぅう………誤解ですわ。わたし、何も………」
「ではこのだらしのない腹の膨らみは何ですか」
「た、食べ過ぎて………しまって………」
梅子お嬢様の目は虚ろで、お口を開くのも一苦労という有様でした。
「筋肉が足らないのです。腹筋を鍛えてくださいませ。明日から筋トレを予定に入れておきましょう」
「………はい」
「庭園の休憩時間が無駄なので、そちらに充てましょう」
私はステーキの肉を切り分け、梅子お嬢様の口に捩じ込みながら、潤んだ瞳を覗き込みました。あまりにも美しい黒曜石がさらなる深みを持って濡れているのでした。
「お返事が聞こえませんよ、梅子お嬢様。あの庭園で休むのは禁止です。わざわざ外へお出にならなくても、十分お休みできますでしょう」
梅子お嬢様の眉が歪みました。私がその可憐な唇に放り入れた肉塊を噛むのも忘れていらっしゃいます。
「梅子お嬢様。"はい"か"いいえ"か、はっきりなさってください。桜子お嬢様も先程、梅子お嬢様の曖昧な態度に困惑し、憤激していらっしゃったでしょう。私の手に一体どれほどの穴が空けば、梅子お嬢様は満足なさるのです」
「庭園は……わたし、どうしても……」
梅子お嬢様の口は、まだ喋れるほどの余裕があるようでした。私はパンを千切りました。そして梅子お嬢様の残飯処理用のお口に押し込みました。
「ぅ………っく、ぅ………」
しかし窒息してはいけません。オレンジジュースを流し込んで差し上げました。
「もぅ………もう、食べられないわ……」
しかし梅子お嬢様はまだ召し上がれるはずなのです。梅子お嬢様はまだ召し上がれます。私は甘美な悲鳴について聞こえないふりをいたしました。哀れな梅子お嬢様。苦しみに耐え、悲しみに耐え、なんという崇高な御方。私の腰のものは、パンを千切り、肉を切り分け、スープを掬うたびに角度と硬度を持ってまいりました。
「まだ残っております。梅子お嬢様のために屠殺され、解体されていった牛さんの苦しみが分かりますか」
私はステーキを小さく切り、梅子お嬢様のお口に運びました。
「周百木………」
「このアサリも、一体何のために死んでいったのか、想像力を働かせなくてはなりませんよ」
「そのことではないわ……庭園は……わたしには必要です……」
私はこのとき、腹の底から湧き上がる笑みを我慢できていたでしょうか。梅子お嬢様は淫らにも、あの庭師とのいやらしい時間を必要としていたのです。なんという健気(けなげ)な生き物なのでしょう。なんという無防備な御方なのでしょう。梅子お嬢様が必要だとおっしゃるのならば、それはつまり、何としてでも取り上げなければならないということなのです。
「では、筋トレはどこの時間に充てるのです。ピアノの練習は倍にするという約束でした。小中の国語の復習もするというお話でしたね。一体どこが削れるのですか」
梅子お嬢様は顔を歪めて肉塊を呑み込みました。そして閉じた睫毛の麗しい反り返りから、はらはらも涙を溢したのです。
「お願いします……全部いただきますから……庭園は……わたしに必要なんです……」
梅子お嬢様は目元をお拭いになり、それから止まっていた手を口元とテーブルの間で往復しはじめました。私はまだ合意もしていないというのに、可憐な梅子お嬢様のなんという鈍臭さ。なんという愚かさ。私の腰の猛りは布ばかりか、このテーブルさえも押し上げてしまいそうでした。
「ぅ………ぅぐ…………っん、」
梅子お嬢様は口元を押さえ、3つ目のチーズパンを完食なさいました。そして2杯目のオレンジジュースで胃へと押し流したようでした。
「梅子お嬢様……ご立派です。さぁ、まだステーキが1切れと、パスタとソテーもございます。フルーツの盛り合わせは最後にいたしましょう」
すでにステーキは一口大に切り分け、パスタもまた一口大に巻いて差し上げました。あとは梅子お嬢様が口に入れ、咀嚼し、呑み込むだけでした。
「全部、いただきます……全部………」
まったく、梅子お嬢様は強欲な御方です。あれも欲しい、これも欲しいと、家名を笠に着て、すべての欲求を満たすおつもりなのです。なんという恐ろしい女なのでしょう。
梅子お嬢様は所在なく壁を凝らし、顎を動かしていらっしゃいました。
「梅子お嬢様。食事を作ってくださった方々や、食材を提供してくださった汎(あら)ゆる命に、敬意が足りていらっしゃらないようです。ひとつひとつ、食と向き合い、手間暇を想う。それが命をいただくということですよ。そのように残飯処理のように召し上がられては、食への冒涜です」
「美味しいです……とても……」
冷めた牛ステーキの脂は固まって、白く濁っていました。脂身のあまりお好きでない梅子お嬢様は、私が脂身を口元へ運びますと、りんごを齧り、ソテーを平らげにかかりました。
普段の3倍近く召し上がっている梅子お嬢様の息遣いは荒くなっていらっしゃいました。そして私が小さく切った脂まみれの肉を一度に3切れ口に入れたとき、梅子お嬢様の胃はとうとう限界を迎えてしまったのです。私はあわよくば、そうなればいいと思っていただけであって、確信していたわけではありませんでした。
梅子お嬢様は陸に揚げられた魚のように身をのたうたせたかと思うと、今度は轢き潰されたカエルのような音を喉から漏らし、片付いていたテーブルは一転、梅子お嬢様の戻し物に彩られてしまったのです。まだ大した消化にもかけられていない今晩の夕食だったものたちが、純白のテーブルクロスに帰還していったのです。
梅子お嬢様の小さなお口と小さなお歯で懸命に噛み砕かれたものたちが、梅子お嬢様の血肉になれることなく、戻し物として私の目に触れている。なんという残虐。なんという官能。私は生々しい梅子お嬢様の体内の匂いを嗅ぎました。清々楚々とした梅子お嬢様の華奢なお身体にも、私と同じグロテスクな匂いの汁が秘められているのです。美しい! 私はまだ職務中でした。しかしもし、梅子お嬢様がこの食堂からご退室したならば、私は今ここで、夕食を摂ってしまったに違いないのです。
「梅子お嬢様……」
私の声は嗄れておりました。梅子お嬢様の胃酸の香りを吸い上げ、身の内が焦げたのでしょう。
「げ…………ぅ、げぅ………ぅっ、」
梅子お嬢様は口元を押さえながら、何度かに分けて一度お腹にお納めになったものを戻してしまわれたのです。次から次へと梅子お嬢様は、私に新鮮な香りを嗅がせたのです。そして生々しい彩りを私の目の前に晒したのです。
「神聖、清潔な食堂で、なんという粗相を……」
梅子お嬢様の上目遣いは涙で満ち満ちていらっしゃいました。それは生理的な涙だったのでしょうか。戻し物を私に見せた羞恥の涙だったのでしょうか。約束のひとつと守れない悔しさの涙だったのでしょうか。
「ごめんなさい………ごめんなさい……」
「これでは完食したとは言えません。庭園での休み時間は、筋トレのみならず死んでいった牛さんやアサリさんの追悼に充てられるべきです」
「あ、あ…………の、で、でも………」
戻し物の付着したドレスは、梅子お嬢様のどのような装いよりもお美しく、麗しく、艶冶(えんや)でございました。私はここできっちりと己を律しなければ、その戻し物を一掬いし、舐めてしまうかもしれませんでした。
「そうでございましょう。異論がございますか。梅子お嬢様には感謝の気持ちというものが皆無です。それでは困ります」
「けれど……これは………」
「これは何だというのです。悪阻(つわり)でございますか。産婦人科の予約を入れなければなりませんね。あの庭園で浅ましいことをなさり、腹を膨らませ、悪阻によってあらゆる命を冒涜しているのであれば、やはりあの庭園が危険なのです。違いますか、梅子お嬢様。"はい"か"いいえ"でお答えくださいませ」
梅子お嬢様は大きな眼を煌めかせ、顔をお伏せになってしまわれました。梅子お嬢様……梅子お嬢様………
「人と話をするときは、顔を上げるのが最低限の礼儀というものです、梅子お嬢様」
梅子お嬢様はその小さな色の白いお顔をお上げになりました。私の小鳥! 水膜の輝く黒真珠のなんという妖しさ。私は梅子お嬢様の胃酸の香りに鼻粘膜を灼かれながら、一生その光沢に目を奪われていたかったのです。そしてその眼差しの棘々しさに、私は溜息も忘れ、苦しみに喘ぎました。
「"いいえ"……」
梅子お嬢様は眉尻を下げ、形のない金剛石(アダマス)を惜しげもなく垂れ流しました。人々はあのようなプラスチックめいた透明の石ころを求めて、非常に愚かなものです。人類が求めるべき輝きはここにあるというのに。そして人類は! 梅子お嬢様が悲しみに暮れ、嘆き干乾びるよう、追い詰めるべきなのです。生ける宝石がここにあるのです! 馨(かぐわ)しく柔らかなオパルスに気付かず、何故、あの小さな石ころを買い求めるのか。愚かだ!
「"いいえ"? "いいえ"とは何に対してでしょうか、梅子お嬢様」
「わたしにはあの庭園が必要です………取り上げないで……」
梅子お嬢様の幼気(いたいけ)な唇は、戻し物を浄(きよ)めるためか、まるで水飴を啜ったようによく濡れていらっしゃいました。私が舐め取って差し上げたい。私が……梅子お嬢様がアリジゴクに中身を吸い尽くされたアリの死骸のようになるほど……中身を食べられてしまったブドウの皮のようになるまで……梅子お嬢様の五臓六腑を貪り尽くしたいのでした。梅子お嬢様は私にとって尊いキビヤックだったのです。
「梅子お嬢様はお約束を破るのがお得意のようですから、ご自身がどのような条件でお約束をなさったのか、お忘れのようですね。それとも私を侮っておいでなのですか」
梅子お嬢様は自覚がおありなのか、ないのか、私を睨むそのお姿はジャンガリアンハムスターのようで、私は握り締め、頬擦りし、口に入れてしまいたくなりました。そして抱き締め、その胸で捻り潰したくなってしまったのです。ああ、梅子お嬢様がもしジャンガリアンハムスターに化ける日が来たら、その時、私は梅子お嬢様を殺めてしまわずにはいられないのでしょう。世界にファンタジーが存在しないくてよかった。世界に呪いというものが、魔法というものが、輪廻転生というものがないことに、私は感謝せねばならなかったのです。この無味乾燥した真理こそ、梅子お嬢様という甘美で雅な存在と釣り合いがとれ、私を悪人にせずに、同情と共感すべき殺人犯に仕立てあげずに済むのでした。
「お約束の条件は完食でございました。完食でございます。こちらの戻し物をふたたび完食なさるおつもりですか」
私は梅子お嬢様の体内で形成された宝石(ゲムマ)を眺め回しました。梅子お嬢様の頬は、まるで梅子お嬢様の内側に潜む紅玉(ルベウス)を透かすようでした。
「そ………んな………」
「もし本当に庭園が大事ならば、この機会を逃すことなく、喜んで完食なさるものです。梅子お嬢様にとって庭園はその程度のご認識なのです。然程、大切になさっているわけではないのでしょう。ただ私に反抗なさりたかった。それだけのことでございましょう? そのようなご気分なら、私は謹んで膝を折り、額を擦り付け、梅子お嬢様に何十回、何千回と赦しを乞いました。牛さんやアサリさんがこのような末路を辿るためにお亡くなりになったかと思うと、私は夜も朝も眠れません。梅子お嬢様を、そのような命とお金の浪費家に育ててしまったかと思うと……私はあらゆる食材、あらゆる生命に腹を切り、首を括って詫びねばなりません!」
梅子お嬢様の艶(あで)やかな薄ピンク色の唇が歪みました。私に読心術があったならば、私は梅子お嬢様の今の心情を読み取れたというのに。そして吐精したでしょう。人の手を借りて卵を受精させる鮭のオスのように、欲望と本能の汁を撒き散らしていたのでしょう。その一滴がどうか梅子お嬢様の目に触れないかと、その肌に降りはしないかと切望しながら。
「わ………分かりました。完食します、今から……、」
梅子お嬢様のお声は震え、掠れていらっしゃいました。私がその白魚に擬態したような御首(みくび)を絞めあげさせていただくときも、そのようなお声を漏らしてくださるのでしょうか。梅子お嬢様が、実は柘榴石(グラナタス)の化身でおありだったことを世間に、私に暴露なさいながら、そのような嬌声で私に抗うというのでしょうか! そのとき、本当に首を絞められているのは梅子お嬢様なのでしょうか。いいえ、私です。私は梅子お嬢様の御首を圧(へ)し折る前に、憤死するのです。沸き立つ血潮の猛烈な巡廻を前に、私の肉体が耐えることはできないのです。今でさえ、戻し物を召し上がるとおっしゃる梅子お嬢様に、私の巨大な血豆は破裂を宣言しようとしているのですから。
けれども私の極楽浄土絵図は完成に至りませんでした。
3
◇
食堂の扉が叩かれると、周百木(すももぎ)の双眸からは熱が消えた。
「どうぞ、お入りください」
梅子もまた、開かれる扉に目をやってしまった。
「失礼しまぁす」
ふざけた髪色に髪型の人物が、執事の様相で入ってくる。非常勤(アルバイト)の執事見習いだ。
「梅子お嬢様はお食事の最中です」
周百木の一睨みを浴び、梅子は怯んだ。その眼差しはつまり、食べるのが遅いと言っているのだ。
「はぇ……梅子お嬢様ではなく、周百木先輩に用があるんですが……」
非常勤の執事見習いはあからさまに周百木に対し、ばつの悪そうな表情を見せた。お前が苦手である、と顔に書いてある。
「私(わたくし)に一体何の用があるのです」
非常勤の執事見習いは忙しなく食堂を見回していたが、軈(やが)て周百木の手に目を止めた。
「うっわ、周百木先輩、大丈夫すか、それ。何があったんすか。ヤバくないすか」
ひとつ気付けば、さらに気付く。
「ってか変な匂いしません?」
非常勤の執事見習いは鼻を鳴らし、食卓を見遣った。
「え、ちょ……、お嬢様、吐いたんすか」
「富士赤城(ふじあかぎ)!」
周百木が叫んだ。野太く、地を潜るように低い。名を呼ばれた若者よりも梅子のほうが肩を震わせた。
「はぇっ!」
「梅子お嬢様は、お食事中です。落ち着いてください。埃が舞うでしょう。それはそれとして、用件は何ですか」
「ああ、そうっした、そうっした。桜子お嬢様がお呼びですよ。桜子お嬢様の按摩のお時間ってこと、忘れてません?」
周百木は胸元のポケットから手帳を取り出した。
「予定にはありませんね」
「じゃあ思いつきじゃないっすか。とにかく、呼んでましたよ。激おこでしたけど何したんすか」
富士赤城とかいう梅子とそう年の変わらない若造は鼻とも喉も判じられない器官を空吹かせ、失態を犯したらしき先輩を嘲笑っている。
「今は手が離せないとお伝えください」
「桜子お嬢様に呼ばれてんすよ? たとえ便所でうんこの切れが悪くても手を離して行く案件じゃないすか。ここは代わります、梅子お嬢様のゲロの始末でしょ? 早く行ったほうがいいっすよ……今度は八つ裂きにされちまいますって、ほら……!」
富士赤城は周百木の背に回ると、親しげにその背中を押した。
「梅子お嬢様の前で、下品です」
「ゲロはゲロ、うんこはうんこっすよ、先輩」
「後片付けは待ちなさい」
「"ゲロはすぐ片付けろ、お嬢様の目に汚物を曝すな"って前、先輩言ってましたよね? まぁ、ゲロとは言ってませんでしたけど」
「梅子お嬢様は戻し物を完食するとおっしゃっているのです」
「狂ってますねぇ!」
富士赤城は鼻で笑い、周百木を扉まで押す。
「待ちなさい」
「早く行ってくださいよ。オレが桜子お嬢様に怒られるんすよ。嫌っすよ、1ヶ月素手便所掃除。先輩は八つ裂きだと思うんすけど」
そのうちこれ見よがしに後輩に触れられたところを叩(はた)くと周百木は自ら扉へと歩き出した。
「梅子お嬢様、それではお約束はお守りください。富士赤城、梅子お嬢様をよろしくお願いします。失礼します」
恭しい一礼をして周百木は退室する。
富士赤城というのは雇い主一族よりも周百木を畏れているらしかった。大きな溜息を吐く。
「あ、あの………吐いてしまったものをすべて食べ切るというのは――」
「ああ、気にしなくていいすよ、そんなの。桜子お嬢様がおっかなくて自分でも何言ってんのか分からないんでしょ、どうせ……あっ!」
富士赤城は両手で口を押さえた。桜子が誰の妹であるか思い出したのだろう。
「いやぁ! 桜子お嬢様はほら、頭が良すぎますから、凡人ではなかなか、気が回りませんで……」
「でも……あの、周百木と約束があって……」
「ボーナス増やせとか? ヤバいすね、あの人。まぁいいや。部屋帰ってください。あとは嫌ですけど片付けときますから」
富士赤城はテーブルに積まれた手拭き用のタオルを広げる。
「いいわ、自分でするわ。わたしが吐いたものだもの……」
梅子がそのタオルに手を伸ばすと、富士赤城は躱してしまった。
「それバレるとオレが怒られるんすよ。素手便所掃除っすよ、素手便所掃除。衛生観念ヤバくないすか」
しかし彼の目の前のテーブルには、吐瀉物が落ちていた。皿とカトラリーを覆い、テーブルクロスに染みを作っている。
「梅子お嬢様は風呂でも入っててください。汚れてんじゃないすか」
何も知らない執事見習いが衛生的危険物に手を伸ばしている。汚れた皿の端を持ち、熱い手拭いで集めている。
「やっぱり申し訳ないわ……」
「いいですって、いいですって。梅子お嬢様のゲロ掃除より、野郎共の便所を素手で掃除するほうが何倍も嫌っすから」
「それは誰が決めているの? 改善してもらえるようにわたしから頼んでみます」
「ええ! ホントっすか。梅子お嬢様ってば話分かるわ~。頼むっすよ、頼むっすよ。マジで。桜子お嬢様っすよ、桜子お嬢様」
「分かったわ。桜子様に、ご相談してみます」
◇
クソガキ!
握り締め過ぎた私の手からは次から次へと血が漏れ出ました。手袋では堰き止めきれず、廊下に垂れているようでした。
桜子お嬢様に呼ばれた件についてはこの際、仕方がない。しかし時機というものがございましょう。何故、梅子お嬢様が今まさに、ご自身の戻し物を召し上がろうとするその時に、あの野良犬は侵入してくるのか。
私が桜子お嬢様に八つ裂きにされるときは、あのクソガキも一緒でなくてはなりません。私の"夕食"を横取りしたハイエナ糞野郎。
私は桜子お嬢様のお部屋に着き、扉を叩きました。
「桜子お嬢様、周百木が参りました」
桜子お嬢様が入室の許可をくださったたに私は扉を開きました。桜子お嬢様はソファーに座っていらっしゃいました。座面に伸ばしていた脚を組み直し、梅子お嬢様なら3時間説教し、反省文は400字詰め100枚は書かせておりました。
「たいへんお待たせしました」
桜子お嬢様は風船ガムを噛んでいらっしゃったようでした。
「脱げ」
私は言われたとおり、ジャケットを脱ぎ、ネクタイを外し、ウエストコートを脱ぎました。インナーも脱ぎ、上半身を裸にしてからスラックスに手を掛けました。
「下はいい。汚いものを見せるな、クソオス」
「は。失礼いたしました」
桜子お嬢様は私の裸体を凝らしていらっしゃいました。
「ピアノの教師が辞めていったぞ。お前の所為だな」
「は。申し訳ございません」
「てめぇの言い訳も聞いてやろう」
「弁解の余地もございません。すべて私の責任でございます」
「てめぇの責任なのは分かりきってる。何があったかって訊いてんだよ、カス。体罰を強要したってのは本当か」
「はい」
桜子お嬢様はソファーからお降りになりました。そして私の傍までいらっしゃいますと、お口からガムを取り出し、私の手の穴にお貼りなさいました。
「姉サマにどうしろって言ったんだ、てめぇは? なぁ、おい、ヴァタシにできるか、それを」
「とんでもないことでございます。梅子お嬢様は松竹林殿(しょうちくりんでん)家の長女であられる御方です。生半可な指導はよろしくありません」
「ほぉ……? じゃあ、その執事のてめぇも、生半可な執事じゃダメだな? 覚悟を見せろよ。土下座しろ」
「は」
私は桜子お嬢様の命じるとおり、額を床に擦り付けました。
「言え。"私は松竹林殿家のブタでございます"」
「私は松竹林殿家のブタでございます」
「ブタ」
桜子お嬢様は私の手をお踏みになりました。細いピンヒールがガムを突き破り、私の手の穴に入り込みました。これが梅子お嬢様の御手(みて)だったら……いいえ、梅子お嬢様のことですから、御手を踏まれ、傷を貫かれることよりも、この場に居合わせることのほうがおつらいはずでした。目に涙を浮かべて悲鳴を上げ、私の手を取って桜子お嬢様を非難するのでしょう。
梅子お嬢様……! 何故この場にいらっしゃらない。私がくだらない約束をしたからだ! 梅子お嬢様! 戻し物の完食など必要ありません。私の"夕食"が減るだけです。梅子お嬢様! 梅子お嬢様……! ああ……♡ 私の手を慈しみ、痛みと傷を想像してお嘆きください、梅子お嬢様……!
「私はブタでございます」
屠られ、毛は梅子お嬢様の垢を削ぎ落とすブラシに、肉は梅子お嬢様の歯に食い千切られ、あの水晶(クリスタロス)のような酸に溶かし、原型すらも失い、梅子お嬢様の血肉になる! ブタとはなんと小憎らしい生き物なのでしょう。羨ましい! 桜子お嬢様、私を八つ裂きにして、梅子お嬢様のお食事に、ほんの一片で構わないのです、私の肉片を出してくださいませんか。
梅子お嬢様に食べられてしまったら、私は……♡
「息が上がってるぞ、気違い。痛ぇのか」
桜子お嬢様の御手が私の髪を掴み、頭を持ち上げました。
「恐悦至極に存じます」
桜子お嬢様は私の手の穴からヒールをお抜きになりました。穴は先程よりも大きくなり、止め処なく血が溢れ出しました。おそらく骨も折れているようです。これは梅子お嬢様の所為でございます。梅子お嬢様がピアノを上手にお弾きにならなかった所為でございます。私が憎いあまり、桜子お嬢様に私を攻撃させようとしているのです。
梅子お嬢様の憎しみの湖に映る私……幸せです。梅子お嬢様に憎まれるたび、私は桜子お嬢様に踏まれ、蹴られ、唾を吐かれるのです。そして実際にそのようなことになるなどとは微塵も想像していなかった梅子お嬢様はご自身の罪の意識に向き合えず、憎き私に憐れみと慈しみを向けてしまうのですね。愚かな梅子お嬢様……私の股間のバターロールは、この体温で焼け焦げ、マーガリンを吹き溢してしまいそうです。
「お前の制服は今日から裸エプロンだ、恥知らず」
私の後頭部に布が掛かりました。何という御慈悲。何という赦し。梅子お嬢様の前で、肌を曝してもいいという許可が降りるなんて。
◇
梅子は足元を見詰めていた。ガゼボの作る陰は濃く、辺りには花の匂いが漂い、蝶がひらめいているというのに、彼女は快晴に後頭部を向けていた。
「ご機嫌麗しゅう、梅子お嬢様」
庭師の声が降るが、彼女は顔を上げられなかった。
「梅子お嬢様……? 具合悪ぃん?」
庭師が傍で跪(ひざまず)く。梅子は首を振った。
「杏珠郎(あんじゅろう)」
「どうしたのさ」
「ごめんなさい、杏珠郎。しばらく、ここには、来れなくなっちゃうの……」
梅子はゆっくりと杏珠郎の目を覗いた。大きな吊り目は猫を思わせる。日焼けした肌からは太陽と花の香りがする。
「何かあったん?」
庭師の身体が前にのめる。
「ちょっと、失敗続きで……ちゃんとしっかりしなきゃいけないから」
赤みの残る手に、熱い手が重なった。厚みがある。長く、骨太な指に包まれる。
梅子の眉が弛緩する。
「ここは良くなかったか?」
「ううん、違うの。ここは優しすぎちゃって、甘えちゃうから……ちゃんと、"松竹林殿家の長女"にならないといけないの」
四叉のフォークが肌に突き刺さる光景が梅子の脳裏に甦る。ピアノを上手く弾けなかったために、代わりに執事が罰を受ける。手を叩かれるだけで済んだのは、周百木の優しさだ。
「重く考え過ぎた。潰れちまうぞ」
「ううん。ちゃんと真面目に考えてなかったの。周百木も怒ってる。これじゃあ周百木が報われないわ。杏珠郎、楽しかった。でもちょっとだけお別れね。なるべく早く戻ってくるわ。その間、このお庭をよろしくね」
長居をするだけ尻が重くなる。決意をしたつもりで揺らいでしまう。妥協してしまうだろう。そして周百木の苦悩を増やすのだ。責務を果たす能がない人間は、約束を守るしか術(てだて)がないのだ。周百木は暗にそう言っているに違いない。
梅子はベンチから立ち上がった。庭師の無骨な手が彼女の腕を掴む。
「庭はいい。庭はオレが管理するから。そうじゃなくて……良いのかよ、これで?」
「頑張らないといけないから。いつもいつも、甘えちゃってて、昨日とうとう、周百木が怪我しちゃったの。もう誰も傷付けたくないし……ちゃんと真人間にならないと、本当に誰からも見放されちゃう。杏珠郎、ありがとうね。貴方と過ごせてとても嬉しかったわ。すぐ戻って来られるように頑張るわ。この庭が大好きだもの」
庭師は腕を引き寄せる。鍛えられた胸板に彼女は凭れ掛かっていた。日溜まりと、愛され育った花の香りが鼻腔の奥で膨らんで消えていく。
「"梅根性"って言葉もあるからな。部外者がとやかく言えることじゃなさそうだし……ま、部外者なりに、梅子お嬢様はよく頑張ってるって言葉は送っとく」
梅子は庭師の腕の中で力を失ってしまった。しかし立たなければならないのだ。
梅子は庭を出た。露出狂と化した執事が佇んでいた。朝に会ったときは驚いた。だが何も言えなかった。自身の無能ぶりが、仕事熱心な周百木の真摯な心を打ち砕いたに違いない。どれほど骨を折り、どれほど身を粉にして働けども、松竹林殿家の長女が凡愚の域を出ないのだ。気が狂うのも無理はない。
周百木は手には白手袋、下半身にはレザーのボクサーパンツ、そしてフリルのついたロングエプロンを首から一枚掛けているだけの出で立ちだった。それでいて頭髪と革靴は平生(へいぜい)と変わらないのだ。
「寒いのに待たせてしまってごめんなさい……」
「はい。予定の45秒、遅刻です」
「本当にごめんなさい。すまなく思っています。本当よ」
「他者(ひと)の内心だと分かりません。真心は形にすることですね」
「反省文を書きます」
「反省文というものは、覚悟(こころ)を入れ替え、改善するためにあるのですよ。徒(いたずら)に時間と黒鉛と紙を浪費するために書くものではありません。梅子お嬢様、もう少し、事の本質というものをご理解なさってください。一体今まで何枚の反省文をお書きになったのですか。それでも尚、学ばず繰り返し、枚数ばかり増やすのは何故なのですか。私はそれほど難しいことを求めているでしょうか。礼儀を守ってください、時間を守ってください、敬意を持ってください。この3つを叶えることが、それほど難しいことですか。もし難しいのであればはっきりおっしゃってくださいませ。精神科に行き、知能検査を受けましょうか。それとも心療内科へ行きましょうか」
梅子はぼんやりとエプロンを視界に納めていた。何を着ていようとも、着ていなかろうとも、周百木は周百木だ。印象は変わらない。
「どうしてできないのか、わたしにも分かりません……」
何故、冷徹な態度の裏に強い熱意のある執事を壊してしまったのか、梅子には分からなかった。何故それほどまでに役立たずの能無しなのか、彼女は自身に最も問いたかった。だが答えられるだけの能もまた持っていなかった。
「敬意と礼儀が足らないからです。常に人を見下し、甘えているからではないですか」
梅子にそういうつもりはなかった。蔑み、侮っているつもりはなかった。だが所詮は"つもり"なのだ。客観的な評価はそうなのだ。傍で見ている周百木の目はおそらく正しい。見誤りもしない。周百木が嘘を言うはずはないのだ。「忠義」が靴を履いて歩いているような男なのだ。その必要がない。
「わたしはどうしたらいいのでしょう……わたしはどうしたら真人間になれるのですか。わたしはどうしたら、誰も傷付けずに済むの……」
執事のフリルとエプロンが翻る。
「私に従ってくださいませ。私は松竹林殿家にならば殉じることも厭いません。私に従ってさえくだされば、梅子お嬢様は今からでも、清廉潔白の高貴な淑女になれるのでございます」
「周百木に従うわ。わたしのような落ちこぼれにはそれしかないもの……」
壊れた執事の目が眇(すが)められる。
「周百木、わたしを見捨てないでくれてありがとう……わたしのような穀潰しに、まだ目を掛けてくれてありがとう……」
気の狂った執事の薄い唇が釣り上がる。
「感謝は行動で示してくださいませ、梅子お嬢様。言葉では何とでもおっしゃれます。行動という負担なく、言葉のみで支払うために、梅子お嬢様は誤解されてしまうのです。皆、梅子お嬢様は口先ばかりの怠け者だと口を揃えて申しておりました。ピアノの先生も言っておりました。梅子お嬢様のレッスンはするだけ無駄ですと……それならば、自分のコンクールのために頑張りたい、有望な生徒のために時間を割きたいと……辞めていかれましたよ」
梅子は咳の発作が起きたかのような衝撃を胸に受けた。この執事に手を叩かれたときの、ピアノの先生の顔が目蓋の裏に浮かび上がった。険しい表情と、空気中の埃と埃、気体という気体が棘となって毛穴を刺す感触も、肌が覚えている。
「辞めて……しまわれたの………?」
「はい」
「申し訳ないことをしたわ。本当に、申し訳ないことを……」
もし弾き間違いなどしなければ、ピアノの先生は辞めずにいたのだろうか。周百木は壊れることなく、今この時も無彩色の装いでいたのだろうか。否、役立たずの迷惑行為はそれひとつではない。積み上げて積み上げて積み上げ、今この時、瓦解したのだ。
「迷惑かもしれないけれど……感謝の手紙を書きたいわ」
「迷惑かもしれないとお思いなら、書かないことです。迷惑かもしれないとお考えなのに、何故、感謝を押し付けるのです。ニ度も三度もピアノの先生に甘えるおつもりですか。梅子お嬢様のほうが目上のお立場なのです。弁えてくださいませ。ピアノの先生がどれだけ梅子お嬢様と、今後一切関わりたくないと思っても、感謝の手紙を受け取ったならば返信に苦心することになるのですからね」
梅子はピアノの先生の重苦しい話し口を思い出していた。
「そうね……周百木の言うとおりです。わたしはなんて……考えが甘いのかしら……」
「梅子お嬢様は軽率なのでございます。剰(あまつさ)えお頭(つむ)がよろしくないのです。さらに申し上げますと、その目は節穴なのでございます。お口に至っては出任せばかりでございます。私どもめは立場が弱いのでございますから、梅子お嬢様が考えなしの気紛れでご発言されたが最後、私どもは笑顔を繕い、はい、はいと合意をするほかないのです。梅子お嬢様はご自身の強者性と加害性に無頓着なのでございます。客観視というものをしていただかなくてはなりません」
「ええ、ええ、そのとおりですわ……」
正しい指摘だ。梅子は分かっている。けれどもダムが決壊したような正論の濁流に、彼女は押し流しされ、胸を圧迫されていた。
「またそのように、大して理解もせず、やり過ごすためだけの素直さをお見せになる」
「分かっているわ。周百木の言うことは正しいって。わたしは愚かでした。無知でした。軽率でした。そして驕っていたのも確かです。これからはきちんと考えて行動します。それが最善なのか、そうでないのか……相手の方に無理をさせていないか、そうでないか……」
梅子は胸を押さえた。今日は腹も痛い。胃が荒れている。朝飯の一杯のホットミルクはすべて消化に回ったというのに、灼けるような感じがあった。
「旦那様と桜子お嬢様とが新しいピアノの先生を選出してくださるそうです。次は、パワーハラスメントは一切おやめになることです。お料理の先生も、囲碁の先生も辞めさせて……本当はピアノもおやめになりたいのですか。そうならそうとおっしゃっていただければ、旦那様と梅子お嬢様に私がそうお伝えいたします」
料理も囲碁も、梅子からやめたいと言ったことはなかった。やめたいと思わなかった。だが何の前触れに気付くこともなく、先生は辞めていってしまった。
「早い段階でお伝えくださいませ。旦那様も桜子お嬢様もお忙しく、先生方もまた多くの生徒を抱え、お忙しい身なのです。"わたしは松竹林殿家の長女であるぞ"などという傲慢はおやめになることです。傲岸不遜こそ成長の最大の敵なのですからね。梅子お嬢様のような、すでに人格と気質が驕慢に染まりきった方に対処を申し上げても仕方のないことでございますが……」
「善処するわ……善処します……必ず」
「出来もしないことを"必ず"と結ばれるのが無責任だというお話をしているのです。伝わりませんか、お嬢様!」
執事は叫んだ。爛々とした目が梅子を射抜く。気が狂えども、忠義を尽くし、松竹林殿の長女を教育することに命と魂を燃やしているのだ。
梅子を後退った。そしてどこまでも愚かな自身が嫌になった。
「ごめんなさい……この謝罪は本当よ。けれどどう行動に移していいのか分からないの……わたしは莫迦で……これは責任逃れをしたいから言うのではないのよ。わたしの小さな脳味噌では、限界があるみたいなのです……何をしても周りに迷惑をかけてしまうわ。やはりわたしは真人間にはなれないのです。真人間になれる能がなかったのです。わたしはどうしたら……」
梅子の目から丸いものが落ちていく。
「梅子お嬢様……」
執事が跪く。そして布に包まれた指が目元を拭う。
「私は梅子お嬢様が憎くて申し上げているのではありません。松竹林殿家と梅子お嬢様が愛おしいために、心を鬼にして申し上げているのでございます」
「分かっているわ。周百木はいつでも、家とわたしを守ってくれています。けれどわたしはそんな働き者の優しい周百木に、何ひとつ報いることができないの。ごめんなさい、周百木。ちゃんと行動で示したいのに……」
落伍者に付き従い、とうとう魂を破壊された執事にも、まだ一縷の理性の輝きが残っているようだった。しかしそれすらも、このままでは摘み取ってしまうのだ。
周百木は哀れな執事だ。
4
◇
梅子お嬢様は裸エプロン制服をあまり気に入ってはくださいませんでした。羞恥に顔を尖晶石(スピナ)の燦光のように染めるかと思いきや、その黒い真珠(マルガリートゥム)は私を避け、爪先ばかりを凝らしていらっしゃるのです。しかしそれもまた私を意識している証拠でございましょう。私の素肌が、梅子お嬢様の網膜に映っているのです。梅子お嬢様の視神経は、私の肌理(きめ)という肌理を梅子お嬢様の内部に送り込んでいらっしゃるのです。
ああ………梅子お嬢様……!
私の黒光りするレザーの肌着の下では、私の赤光りする卑猥な棒切れが涎を垂らして芯を作っておりました。この皮革は羊(ラム)のようでした。それはつまり、梅子お嬢様ということです。よってこのレザーの下着は梅子お嬢様なのです。梅子お嬢様が皮を剥がれ、今や、私の生臭い股間を覆い、守ってくださっている。
感激(ハレルヤ)!
けれど、何故桜子お嬢様は、私に肌着をお与えになったのでしょう。私は梅子お嬢様になら、男の穢らわしい柔らかなところを見せられるつもりでした。私は梅子お嬢様になら、男を縦に引っ繰り返したときの腿の狭間の情けない膨らみを見せても構わなかったのです。むしろ、梅子お嬢様の網膜に映してくださるのならば、私は他の有象無象にもこの肌を見せる覚悟を持っておりました。そして梅子お嬢様に叩かれ、躾けられるためだけに存在している尻肉を開き、梅子お嬢様の黒曜石(グラスラバ)に私の小星(アステリスク)を灼き付けていただきたかった。
梅子お嬢様……ああ………貴女様の眼差しが、この肌を這うたびに、私はレザーの肌着に隠れたものを扱かれる思いでした。だというのに梅子お嬢様、貴女様はまったく私の肌を避け、焦らしてばかり。
梅子お嬢様、梅子お嬢様、梅子お嬢様……私は貴女様が庭園で最後の憩いに身を委ねている間、何度この肉棒を触ってしまおうかと思ったことか。
梅子お嬢様……私の素肌を躱し、今は服を着た庭師と、悍(おぞ)ましい戯れに耽っていらっしゃるのですね……
貴女様が悪いのです、梅子お嬢様……私のこの正装に気付きもせず、服を着た者だけを人間扱いする! 残酷な御方だ、貴女様という方は……
私の肌着の中身は新たな心臓を得たかのようでした。私を経由した梅子お嬢様の愛撫を求め、私を急かすのです。二重の鼓動に苛まれた私は猛烈な肉欲に勝ることができませんでした。私は屋敷の最上階西側に駆け上がりました。この棟のこの階は人気(ひとけ)がありませんでした。掃除員たちも毎回は立ち寄らないのです。しかしながら、ここは私の憩いの場でございました。何故ならば白梅献香園(はくばいけんこうえん)を見下ろせるからです。桜子お嬢様の「桜花幽香園」の5分の1ほどしかない庭園が、窓いっぱいに切り抜かれているのです。私はこの窓ガラスに――いいえ、梅子お嬢様と庭師が悪行に手を染めた庭目掛け、膿汁を扱き出すのが決まりでした。
一擦りで私は果ててしまいそうでしたが、それではいけないのです。私は私の手を経由した梅子お嬢様の手淫を味わわなければならないのでした。しかし私には堪えられませんでした。昨晩も梅子お嬢様の黄水晶(シトリーナ)の妖しい光彩と芳醇な香りを肴に歓を尽くしたのですが、梅子お嬢様を前にした私は、あればあるだけエサを食う狗と変わりがありませんでした。
私はガゼボの屋根の下にいる恐ろしい悪魔と化した梅子お嬢様を見透かしました。庭師と抱き合わい、唇を寄せ、最後の別れとばかりに肌を合わせているに違いないのです。ナメクジの交尾のように絡み合い、縺れ合っているに違いないのです。楚々とした顔で、男の肌に見慣れぬ振りをして、貴女様という方は、庭師に対しては薔薇の一輪を惜しげもなく曝しているのでしょう!
私は手袋を外しますと黒光りの肌着の中に手を差し入れました。穴の空いた手で摩擦するほうが気持ちが良いのです。
「ああ……梅子お嬢様……」
私は窓ガラスに頭を寄せ、必死に梅子お嬢様の玩具棒を扱きました。手の穴が痛みました。梅子お嬢様がお与えになった、崇高な痛み! 私は梅子お嬢様を想像し、手と胸を痛めるのです。しかし陰茎の快楽を前にしては些末なことでした。梅子お嬢様に殺されていく何億匹の私の子……貴女様は殺人鬼だ。そして私の永遠のご主人様なのだ。
「梅子お嬢様……梅子お嬢様………、梅子お嬢様……!」
"梅子お嬢様"。その響き、その字面、その口当たり、すべてが猛毒と同等の媚薬なのでした。私はただの射精マシーンであり、自涜人形でした。
「梅子お嬢様………っ、んお、ぉオ♡」
私は腰を前後に震わせました。関節の転がりを感じました。梅子お嬢様は私を苦しませるのです。私を生涯童貞として運命付けた、呪術師なのです。
噴き上げた粘液が窓に当たり、小さな円を描いて、線を引きながら下に落ちていきました。
梅子お嬢様に徴兵されたかのような私の哀れな息子たち、娘たちの片鱗が、白梅献香園を汚すのです。
◇
梅子は昨晩、非常勤の執事見習いとの約束を思い出した。周百木(すももぎ)に一言かけると、妹の部屋に案内される。
「梅子お嬢様が、桜子お嬢様にご相談があるとのことで参りました」
梅子は妹の部屋に踏み入った。妹はソファーに座り、爪を磨いては、窓辺で艶を確かめていた。
「なんですの、姉サマ。ご相談って」
五指を広げ、妹は一本、一本、爪を上目遣いで眺めている。
「あ……あの、執事見習いたちの罰則の件でございます……」
「執事見習いの罰則? なんですか、それは」
桜子は周百木を睨んだ。
「は。執事見習いには――」
「お前には言ってない。姉サマ、罰則とはなんですか」
「素手でお手洗いの掃除を行うのだと聞いておりまして……不衛生ですから、どうか、せめて、清掃用具の使用を認めていただきたくて……」
「姉サマがそう言うのならそうなのでしょう。分かりました。認めましょう。いいな、周百木。大体、誰がそんなことを決めた」
「先輩方、主に――」
周百木よりも20年、30年も上の老執事の名が挙がる。
「ジジイどもか。そんな陰湿なのはお前かと思ったぞ。お前はメスみたいに根性が捻ん曲がっているからな」
「は」
「クソオスが」
「は」
「そこで土下座でもしてろ、カス」
「は」
桜子は蹲(うずくま)った周百木から目を移す。
「姉サマ。このクソオスがピアノの先生を辞めさせてしまったので、新しいピアノの先生を探しています」
周百木に庇われたのだ。しかし甘えていてはいけない。責任を取れと周百木は何度も言っていた。
「周百木の所為ではありません。わたしの練習が足らなかったものですから、ピアノの先生が呆れてしまわれて辞めてしまったのです」
妹の目が、床に臥している裸人を注した。
「周百木から聞いたのか」
「はい」
桜子は宙を見渡した。そしてソファーから立ち上がった。周百木の前まで躙(にじ)り寄る。
「下着を脱げ」
「は」
周百木は土下座の体勢のまま、レザーのボクサーパンツを尻から落とし、膝まで下ろすと、交互に足から抜いていく。
梅子は肝を潰した。冷静沈着な執事の燕尾服に覆われていた全裸のが見えてしまった。視覚情報を遮断するべきだというのに、彼女は口元を押さえ、男の角張った尻を見詰めてしまった。
「悪い執事にはお仕置きしなきゃいけねぇよなぁ?」
桜子のハイヒールが尻に横蹴りを食らわせる。
「ああ……! いけないわ、そんなこと! 周百木、下着を穿いて!」
「穿くな、クソオス」
周百木は2つの矛盾する命令に戸惑っているに違いない。
「桜子様、わたしが悪かったのです。赦してください、周百木を赦してください!」
「こんな野蛮なクソオスに姉サマが慈悲を向けることはありません。周百木、立て」
「は」
周百木は立ち上がった。羞恥の色はなかった。執事というものは、職務ならば恥辱さえ感じ取らないというのか。
「お前はこの状況を喜んでいる。その証拠を見せてやれ」
「は」
完璧な執事は梅子へ身体を向けた。腿の半ばまで伸びるフリル付きのエプロンが、腰の辺りで引っ掛かり、立体感を持っていた。
梅子は、その引っ掛かりを見ていた。エプロンが乱れている。
執事のエプロンの乱れは、桜子が直すようだった。違った。彼女はエプロンを捲くった。
梅子は目を剥いた。執事の腰から生えた突起部が腫れている。杏珠郎(あんじゅろい)もそうだった。抱き合ったときに、時折、腰のものが腫れ上がっていた。男性はそうなのだろう。保健体育で学んだ。しかし腫れ上がりすぎではなかろうか。人体に許された膨張率を越えていはしまいか。
「びょ、病気なのではありませんか……? あ、あ、あの……」
昨日の出来事を思い出してみろ。手の甲に穴が空いた。そこから悪い菌が入り、腰に回り、今、腫れ上がっている!
「お医者様に診せないといけないわ。周百木、いいわね? お医者様を呼んで、いいわね?」
「いいえ、梅子お嬢様。こちらは勃起というものでございます。男性が興奮状態になりますと、このように陰茎の海綿体というスポンジ状の組織に血が集まり、内圧が上昇するために起立してしまうのです。保健体育で学びませんでしたか」
執事の腰の中心で居丈高に振る舞っている肉棒は持主の解説に首肯していた。
「学びました。けれどそれにしても膨らみすぎよ……」
捻挫や骨折でも、これほど腫れ上がるものか。
「興奮と言ったな、周百木。何に興奮しているんだ? 言ってみろ」
執事の眩耀(げんよう)を携えた視線が真っ直ぐに梅子を捉えた。助けを求めているのだ。余計なことをしたために、周百木を窮地に立たせてしまった。その責任も取るべきだと彼は訴えているのだ。
「あ、あ、桜子様……周百木だって人間ですもの……」
感情が伴わず、肉体が反応することはあるだろう。梅子にもある。そしてそのために執事を怒らせ、ピアノの先生を辞めさせてしまったのだ。
「奴隷の分際で梅子姉サマに庇われて、プライドはねぇのか」
「私は女性を前にすると勃起してしまうのでございます」
血走った眼が梅子に助けを求めている。お嬢様の所為だと言っている。
「はっ! 女性? てめぇは母親にも妹にもこの汚ぇ棒おっ勃たせんのか。なぁ!」
桜子の手が腫れた棒を叩いた。周百木は梅子を向いたまま、眉を緩め、冷徹な目を虚ろに溶かしていた。無能な長女を頭を悩ませ、夜も眠れないと彼は言っていた。彼は限界なのだ。
「ああ、よして……! 桜子様……周百木を虐めてはいけないわ……!」
「私はお嬢様に裸体を見られ、興奮しているのでございます」
「いいのよ、周百木。いいのよ、そんなことを言わなくて!」
品性の塊のような周百木が、性器を露出し、平然としていられるはずがないのだ。
「私は、梅子お嬢様と桜子お嬢様に勃起したペニスを見られ、興奮しております」
「ケツ穴も見せてやれ」
「は」
周百木は梅子に背を向けた。そして前に屈んだ。尻を高く上げる。梅子は腕や首や顔とは異なる質感の男の底部を目の当たりにした。
執事の白い手袋が自身の尻を割る。
「あ、あ………嫌よ………」
梅子の視界は波を打った。
身体が跳ねた。胸が一度、大きく痛んだが、全身に溶けていく。視界が拓けていた。白い天井が広がっている。
梅子は起き上がる。衣擦れの音があった。
「起きたかぃや、お嬢様」
四方を囲うカーテンが開かれた。無彩色の服装に身を包んだ巨躯が現れた。太い首と分厚い胸板、岩石のような尻を、かろうじて括れた曲線を持つ腰が繋いでいる。松竹林殿(しょうちくりんでん)家の抱える執事隊の1人だ。褐色の肌に金髪が、どこか軟派な雰囲気を漂わせる。屋敷のなかで姿を見たことはあるが、梅子は実際に関わったことはなかった。
「あの……わたし……」
「桜子お嬢様の部屋でぶっ倒れたんだって? 大変だぃな」
大柄な執事はベッドの端に腰を下ろした。軋む。
妹の部屋……
腹の中に鉛玉が爆誕した。右に左に転がっている。
「あ………周百木……周百木が、周百木が大変なの……」
ベッドから飛び起きたところを、丸太のような腕が伸びて制した。
「あの人が大変なのはいつものことだろうがよ。それより飯食えるかぃ」
飯。梅子は怯んだ。雑巾絞りされるような痺れが胃に走る。
「あまり……食欲がなくて……」
「朝飯は何をお召し上がりで?」
「ホットミルクを一杯いただきました」
「それだけかぃや?」
「はい……」
ぴんっ、と額を弾かれる。
「そら倒れるわな。卵粥作ってあるから食いやっせ」
巨体が尻を上げる。沈んでいた分、ベッドが浮いた。梅子は慌てた。そして分厚い胸元で張り詰めたジャケットの名札を読んだ。
「山方(やまがた)さんっ……」
「お、名前を覚えていただけているとは光栄ですわ。どうも、山方(やまがた)千撰(ちえり)でごぜぇます」
「お粥は要らないわ。吐いてしまいそうですし……」
「腹の具合が悪いのかぃや、お嬢様」
「そうではないのですけれど……昨日、吐いてしまって……」
山方は厚みのある唇を尖らせ、眉を吊り上げた。獅子のような男だった。
「昨日の担当は、周百木 御大(おんたい)でしたっけね」
「はい……」
「なんで吐いたのに医務室寄らなかったんで? 名簿にねぇんだが、書き忘れか? あの人が、珍しいわな」
「ただの食べ過ぎですから……欲を張ってしまって……恥ずかしいのですけれども……」
山方は眉を上げたり、目を見開いたりして、訝しむ態度を隠さない。
「だから、病気ではなくて……」
「まぁ、作っちまったから召し上がってくださいや、お嬢様。何か腹に入れておきませんと、またぶっ倒れなさいますよ」
山方の大きな図体がカーテンに消えていく。
吐いてしまったらどうしよう。
吐いてしまったらどうしよう。
吐いてしまったらどうしよう。
吐いてしまったなら、吐いてしまったものも食べなければ、悪だ。すべて食べ切らないことは世間に対する裏切りなのだ。
釜のすりきり一杯、鍋のすりきり一杯の量だったとき、果たして、完食できるのか。
「は………は…………は………、は………」
昨晩のように、腹の破裂するような息苦しさに耐えられるのだろうか。陸で溺れるような重苦しさと、胃酸の香りが腹と鼻にある。
「はー………っ、はー……っ、はー……っ……」
まだ何も口にしていないというのに、昨晩の圧迫感が上半身を前後から押し潰す。
「何かあったんで?」
カーテンが開かれ、獅子のような面構えと羆のような体格の男が戻ってくる。
「はーっ………はーっ………はーっ……」
シュロの葉を思わせる大きな掌が梅子の背中を撫でた。体温と摩擦の熱が、腹の鉛玉を消していく。
「お粥、いただけません………何も食べられないんです………何も……」
「最近、グミとクッキーしか食べない生活が女子の間で流行ってるっ本当なんだな」
梅子は首を振った。そういう流行りの有無は知らないが、グミもクッキーも食えそうになかった。
「食べちゃ、ダメなんです……食べられないから……」
完食。周百木が耳の内側から囁いている。
「スプーンの一口も無理なんで?」
「吐いてしまったら……困りますから……」
「吐いたら掃除すればよろしいのでゎ」
「一口ならいただけるかも――」
『一口ならいただけるかもしれません? 困りますねぇ、梅子お嬢様。そういう曖昧な態度が一番困るんです。松竹林殿家の長女ですよね。血が繋がってないからって甘く考えてません? 松竹林殿家の資産食い潰しといて? 周百木御大の教育はどうなってるんだか。それとも梅子お嬢様が特別お頭(つむ)がお悪いんで?』
「――あ、いいえ。すみません、ごめんなさい。いただけそうになくて。申し訳ないです……」
「ま、吐きそうなところで残せばいいんじゃないですかね」
「そんなことをしたら、お米農家さんや鶏さんに悪いわ」
山方は厚い唇を引き結んだ。そして牛の頭蓋骨すらも噛み砕いてしまえそうな顎を撫でた。
「そんな小学生みてぇな教育(カンジ)なんです?」
「わ、わたしは松竹林殿家の長女ですから……」
山方は嗤うのだろう。金食い虫だと内心で嘲っているはずだ。梅子は目を瞑る。
「まぁ、米農家も多少の米を捨てるのは想定済みだと思いますけどね。米農家になったことないので知りませんけど」
『梅子お嬢様は、やはり自己中心的な御方ですね。卵粥を作って待っていた山方の気持ちはひとつもお汲みにならないとは……私の教育は間違っておりましたか。いいえ、私そのものが間違っていたのでしょう。そうでございましょう、梅子お嬢様。梅子お嬢様は私のすべてを否定なさりたいのですものね。私が梅子お嬢様に代わり、切腹して山方に詫びましょう』
「ご、ごめんなさい……せっかく作ってくださったのに……」
『詫びるのならば行動で示せとあれほど申し上げたでしょう、梅子お嬢様』
梅子はベッドから降りた。
「あの、お詫びに、食器を洗います」
山方は首を竦めた。眉間に皺を寄せ、鼻翼を凹ませた。
「………何故?」
「え……あの、申し訳ないと、思ったから……」
「なんでお嬢様が食器洗うんで?」
「お詫びの気持ちは行動で示すよう、周百木に教わったものですから……」
「周百木御大が……」
カバの首も食い破れそうな顎が半開きになって固まった。
「何か変なこと言われてねぇですよね? 裸になれとか、変なところ舐めろとか……」
「言われておりません……」
隕石のような手が金髪を掻き乱す。
「あの人は土下座ばっかしてるから、頭ぶつけ過ぎて頭がおかしくなってんのさ」
「あっあっ、それは、違うんです。いつもわたしが迷惑ばかりかけてしまって、周百木はいつも言っているんです。わたしといると頭がおかしくなる、自分の常識を疑うしかない、類を見ない落ちこぼれだ、気が滅入るって……だから周百木の所為ではなくて、わたしの所為なんです。土下座ばかりしているのも、わたしが余計なことをするたびに、桜子様からわたしを庇ってくれて……」
山方が目を見張り、歯を剥いて、鼻梁を吊り上げる。
「へ、へぇ~………で、梅子お嬢様はそれについてどう思ってるんで?」
「周百木に迷惑ばかりかけて、申し訳なくて……真人間になりたいのですけれど、わたしにはその器すら持ち合わせていないみたいで……もうどうしたらいいか……どうしてわたしは周百木を傷付けてしまうのでしょう……」
梅子は手を揉みくちゃにして、俯いた。山方ならば答えを持ち合わせているかもしれない。
「離れてみるといいのでゎ? 周百木御大がそんな梅子お嬢様と離れたがっているんなら……」
梅子は山方の琥珀色の目を見据えてしまった。周百木と離れたら……周百木と離れたら、堕落が待っている。人を人とも思えない、破綻者になってしまうのだろう。ただでさえ、周百木という矯正装置があってさえ、人を見下し、敬意を抱けず、思い遣りのない人間になっているのだ。周百木と離れたならば、それこそ、修復不可能なほど落魄(らくはく)するに決まっている。
視界が滲む。
「周百木と離れるのは無理よ……人間がダメになってしまうわ………」
彼女は目頭を押さえた。指の狭間を縫って涙が落ちる。
「じゃ、まぁ、ずっと周百木御大のかわいい"推しぬい"やってればいいんじゃねぇですか。あーしは首突っ込む気ないんでね。帰ってくれや。この家がどうなろうがアルバイトには知ったこっちゃねぇやな」
山方の手が梅子の腕を鷲掴み、医務室の外へ放り出す。扉が閉まった。
梅子は涙を拭いて妹の部屋に戻った。周百木は相変わらず全裸にエプロンを掛け、首に真っ赤なエナメルの首輪を着けていた。四つ這いになって、鞭の跡も完全には消えていない背中に桜子を乗せて室内を闊歩している。執事という馬に乗っている桜子は、板状の電子機器を指で擦っていた。
「梅子お嬢様、おかえりなさいませ」
梅子は惨めな執事の姿から目を逸らす。
「ご迷惑をおかけしました……」
「梅子姉サマ。新しいピアノの先生が見つかりました」
梅子よりも先に、周百木が振り返った。自身の背に乗った桜子を振り向く様は、宛(さなが)ら己の尾を追う犬猫のようだった。
「そうですか……お手間を取らせました。ありがとうございます」
「どこかのバカ狗が勝手に辞めさせないように連携を取れるようにしておきますから、安心してピアノに励んでください」
桜子は不安定な椅子から立ち上がった。
「それで、周百木。昨晩、テーブルクロスとカトラリー2組、皿が3枚、食堂から消えたそうだがどこに行ったか分かるか」
昨晩。食堂。皿……
梅子は生唾を呑んだ。胃液が迫(せ)り上がってきているようだ。
「はい」
「どこへ消えた」
「私が回収し、処分いたしました」
「何故」
「吐瀉物がかかりましたので」
「誰が吐いた?」
「梅子お嬢様です」
桜子に一瞥され、梅子はたじろいだ。空気が一瞬にして乾き、鑢(やすり)と化して肌を擦る。
「本当ですか、姉サマ」
「は、はい……わたしが、吐いてしまって……」
「クソオス、お前、何故それをヴァタシに報告しなかった」
「桜子お嬢様の御手を煩わせることではないと判断いたしました」
桜子は草毟りよろしく、人間椅子の髪を掴んだ。
「感染症だったらどうする」
「過食による嘔吐だと、原因は明確でございました」
「本当ですか、姉サマ」
執事の首は後ろへ曲がっていた。
「あっあっあっ、本当です。でもあの、それは、わたしが、食事に対して、不誠実だったからで、あの……」
「てめぇお得意の教育(モラハラ)か、カス。おい」
「はい。私が梅子お嬢様に完食を迫りました」
「クズが」
桜子は執事の腹に足を引っ掛け、仰向けに倒した。
「桜子様……周百木……!」
5
◇
梅子お嬢様のご覧になっている前で、私(わたくし)は桜子お嬢様に仰向けに転がされてしまいました。転がされたのか、私が自ら転がったのか、私にも自分自身のことだというのに判断がつきませんでした。梅子お嬢様が私の痴態をご覧になることは、私にとっての危機でございました。その後の私は梅子お嬢様のお望みになる"完璧な執事"ではいられないのでございます。その後の私というのは、発情した狗ころなのでございます。陰部を突出させ、腰を振りたくることをやめられない狗なのでございます。梅子お嬢様の爪先に平伏し、千切れるほど尾を振り回し、腹を曝すだけの狗なのでございます!
「腐った汁を出せ」
エプロン越しの私の勃起した陰茎に桜子お嬢様のハイヒールがお乗りになりました。私は脚を閉じるどころか開き、桜子お嬢様の硬い御御足(おみあし)の裏と尖ったヒールに屹立を押し付けたのでございます。
「いけないわ、いけないわ、桜子様……、」
梅子お嬢様が傍にお駆け寄りくださるものですから、私の聳(そそ)り勃った棒はさらに充血するのでした。桜子お嬢様はお気付きになったに違いありません。圧迫が強くなったのでした。
「姉サマ、下がってください。そうでないと、汚れてしまいます」
桜子お嬢様は鎖を引っ張りました。私の首輪に繋がるものでした。私は上体を擡(もた)げ、桜子お嬢様の憤激に満ち満ちた眼差しと、梅子お嬢様の慈愛と悲哀に満ちた瞳を見比べました。梅子お嬢様にこの劣情を知られるわけにはまいりませんでした。私はまだ梅子お嬢様のお望みの"完璧な執事"でいなければならないのです。しかし私の陰茎はその予定を崩そうとするのでした。
「だめよ、桜子様。こんなのは虐待ですわ。人を踏むのは良くないことだもの……」
ああ……梅子お嬢様………私の女神。私の聖母。私の天女。なんと擬態の上手い方なのか! しかし貴女様は悪女なのでございます。死刑執行人なのでございます。俎板に横たわる私に、包丁を振り下ろす料理人なのでございます。私にそのような嬌声を聞かせ、桜子お嬢様の靴裏で私を果てさせようという魂胆でいらっしゃるのでしょう。そして私に恥をかかせようというのでしょう。ああ……梅子お嬢様、私は貴女様が私に与える羞恥ならば喜んで拝受します。私は喜んで、"完璧な執事"の仮面を脱ぎ捨てましょう。貴女様のために作り上げ、貴女様のために崩されていく私という自我! 崩壊は梅子お嬢様の嬌声と同等の艶(あで)やかさを持っていることでしょう。
早く私を打ち壊してくださいませ。私を自由にしてくださいませ。私を世間や肩書という柵(しがらみ)から、規則から、解き放ってくださいませ。
「このクソオスはこれが幸せなんです。そうだろう、なぁ?」
「幸せでございます………幸せでございます………このような極上の幸せが他にありますでしょうか……」
私は梅子お嬢様を眺めました。黒瑪瑙(オニュクス)を嵌め込んだ大きな目が、私の瞳に入り込むように角度を合わせました。小さな唇は珊瑚(コラリウム)で彩ったようで、白翡翠(ネフラス)と見紛う歯が覗けました。嬌声を出すことしかできない、可憐なお口を見ますと、私の下腹部は若い10代半ばの少年のように焦燥に駆られるのでした。
「桜子様、ダメ!」
梅子お嬢様は正当な血筋の桜子お嬢様に負い目がおありのようでしたが、しかし私を助け出そうと、桜子お嬢様の足を退かしたのでした。さらにはエプロンを捲くり、私の熱(いき)り勃つペニスに手を添えるのでした。
「熱……っ」
梅子お嬢様……私のこの激情が届いているというのですか……? 貴女様に焼かれ炙られ、煮て茹でられた私のこの体温が、貴女様に……?
ところが梅子お嬢様は私の熱串を取り落としたのです。私を奈落の底に投げ捨てるかのようでした。二度と這い上がることなく、小蜘蛛の糸すら垂らさぬぞとばかりに、私を千尋(せんじん)の谷といわず万尋にも億尋にも奥底深くへ突き落とし、捻り潰すかのようだったのです。
「こんなに腫れてしまって……」
それなのに私を拾うのもまた梅子お嬢様の冷たい御手でございました。けれども搗(つ)きたての餅のようでもございました。梅子お嬢様の指は私の堕楽棒を撫でました。途端に私の眼交(まなか)いは白く爆ぜたのです。それはまさに、私の肉棒の中で起こった澎湃(ほうはい)が視覚情報として顕れたに違いありませんでした。こうなると、後は最早、私は海綿体を収縮させるだけのたんぽぽでした。綿毛を散らす戦略すらも選べない哀れな種の残り滓でした。
「んぉ………っ、お嬢様………っ、射精いたします………、!」
私は梅子お嬢様の手に包まれたまま放精してしまっていたのです。
◇
梅子の手に、粘度を持った液体が飛び散った。手にした腫れ物が、肉体の持主とは別に息切れしている。そしてそのたびに粘液が肌に絡む。
「え……」
重量のある巨大なミミズが指の上で跳ねている。
「ぁ……ああ………」
眉目秀麗、冷静沈着な執事の顔は平生(へいぜい)の固結びを解いていた。栗の蜜煮に似た目はどこを見るでもなく茫乎としていた。正しさと倫理、道徳を吐くための厳格な唇からは上擦った声が漏れている。
尋常ではない。
健全ではない。
梅子の肌が毳立っていく。
「は………ん………っ、ぅう……梅子お嬢様………」
長い睫毛が重げに伏せ、一息を以って持ち上げられる。その奥に潜む円火窓は梅子を灼いた。
「あ…、………あっ………」
梅子は目を逸らした。そして息をしなくなった巨大ミミズを薄い腹に落とした。ミルクソースと見紛う濁り汁が、割れた筋肉の溝に沿ってゆっくりと形を変えていた。
「膿んでしまっているわ、周百木(すももぎ)……」
声は掠れきり、消え入る。執事の、人として大切な、男として象徴的な器官は膿んでいるはずなのだ。何らかの炎症を起こし、白血球の死骸を噴き出したのだ。周百木は怪我をしていたのだ!
梅子はアゲハチョウの止まりそうな睫毛を見下ろしてしまった。いちごを食らった後のような唇に気付いてしまった。
膿を吐き出した性器を、どう手当てするべきなのか、否、否、否、手当てが必要なのかどうかさえ、彼女の考える力は消え飛んでいた。
「姉サマ、手を洗ってくることですね」
「で、でも、でも……て、手当てしないも………周百木の、アソコが壊れちゃうわ………」
「このグズはいつもどおりです」
一度下ろさせたハイヒールが膿の炸裂した男性の器官を踏んだ。
「ぉ、ふぅ……」
「お医者様に診せなきゃダメ……」
「いいえ、姉サマ。このクソオスは、梅子お嬢様を"生殖相手(オンナ)"だと思っているのです。"性交相手(オンナ)"だと思って、生殖可能個体(おとこ)らしく生殖機能(おとこ)をアピールしているのです」
この執事から、男性に間違われたことはない。いつでも「松竹林殿(しょうちくりんでん)家の長女」、「淑女」と女性を象徴する表現をされていた。妹は違うのだろうか。
「カッコいいぞ~、クソオス」
妹は足を乗せるだけでは済まなかった。その膝に肘を掛け、前のめりになって執事を見下ろしていた。
「ぐ……っ」
繊細さを混在させながらも精悍(せいかん)に整えられた執事の眉が歪む。
「いけないわ、いけないわ、桜子様!」
梅子はハンカチーフを取り出した。膿を出してもまだ腫れている患部を包んだ。多量の膿が詰まっているようだった。
「んぁ……っ」
執事の身体が戦慄いた。
「周百木、痛いの? 周百木……! 周百木――」
白く濁った粘液は水ですぐに落ちた。粘つきもぬるつきも残さなかった。しかし肌は、冷水で忘れさせてはくれなかった。周百木の膿の温かさが皮膚に染み込んでいる。普段は厳粛な執事が常温に置かれたバニラアイスクリームよろしく貫禄を失うその様もまた目蓋の裏に染み込んでいる。そしてその細部を認めるたびに腹の奥で熱が蠢く。
洗い流さなければならない。周百木もそう望んでいるはずなのだ。弱みを見せるのを厭うに決まっているのだ。周百木は冷凍庫に大切にしまわれた氷漬けのバニラアイスクリームでなければならないのだ。そして周百木もそのような眼差しを向けられていたいに決まっているのだ。
「だめ………だめ、だめ…………」
梅子は手を洗った。洗い続けた。洗い続けなければならなかった。泡が滲みる。けれども執事の飛ばした熱雫の形が可視化できないインク汚れとして遺っているのだ。
冷水を当てた。流水の圧でも周百木の熱が消えない。火傷してしまったのだ。低温火傷を負ったに違いない。或いは化学熱傷だ。周百木の膿に灼かれている。日頃の周百木からは想像のつかない野性的な青臭さを思い出すと、彼女の膝は芯を失うようだった。
人肌用に薄められたアルカリ性では洗い落とせない。
「どうして……」
たわしが目に入る。彼女は干乾びた毬栗(いがぐり)で粘り気の残像を擦る。
消えない。
「節水! 節水、節水、節水! 節水しろぉ~?」
廊下の手洗い場の壁から巨大な陰が現れた。
「ごめんなさいっ、!」
梅子は水栓を捻った。そして濡れた手を後ろに隠した。
「梅子お嬢様じゃないですかぃ。体調は? 戻ったんで?」
医務室にいた山方(やまがた)千撰(ちえり)だった。彼と話したのが遠い昔に感じられた。
彼は金髪を撫で上げ、溜息を吐く。
「あ……は、はい。ご心配をおかけして、申し訳ありません……」
「ずっと水流して、どうしたんで? 水道管の故障かと思いましたよ。火傷ですかぃ」
「えっと………その……分からないんですけれど……ズキズキしてしまって……」
「診せてみやっせ」
この肌の細胞のひとつ、ひとつが沸騰するような違和感を取り除くことができるというのか。
差し出した梅子の手は、彼女も初めて知るほど凍えていた。
「痛いんですかぃ?」
「痛いわけでは……ないのですけれど……」
「火傷ですな。唾つけときゃ治りましょう」
山方はろくに見てもいなかった。彼の焦点は廊下に投げ捨てられていた。梅子は思わず、巨大な上体を支えている腰を見下ろしてしまった。上等な無彩色の布が、照明を照り返している。折り重なった前立てが曲線を描いている。男性というものは、まるでそこに何も入っていないかのように振る舞っている。器用だ。巨大な器官が生えているなどとは微塵も思わせない。
「山方さん」
「なんです」
「あ………あの、………あの、その…………相談が………ありますの……」
山方は鼻梁を引き攣らせる。だが俯いた梅子には見えなかった。
「へぇ」
「そ、その………お、お、お、男の人の………アソコについて、相談があって……」
「アソコってどこです? フーゾク?」
風俗史に用はない。
「ち、ちが………くて…………その…………お、お、お、男の人の、お、お、おち、………おちんちん………について……」
山方は獰猛げな眉を中心に寄せる。
「やっぱフーゾクのことで?」
「ち、違います。風俗史のことではございません。その………お、おち………お、おちんちんに、膿が詰まってしまうことは、その……あるのでしょうか?」
これは周百木のためなのだ。大事な質問なのだ。
「そ、その……お、おちんちんが大きく腫れ上がって……膿が詰まってしまったら、どうしたら、いいのでしょう………?」
「………セクハラですかぃ?」
「え?」
「梅子お嬢様。セクハラは良くありませんぜ。周百木 御大(おんたい)には黙っといてやりまさぁ。考えを改めるんですな」
「本当に、お、おちんちん……から膿が出てしまって……」
「誰のからで?」
周百木は、知られたくないだろう。
「そ………、それは………」
「梅子お嬢様は、男のカラダに興味があるんですかぃ」
梅子は目蓋を屡瞬(しばたた)かせる。
「あ………えっと………あの………」
「いうても年頃ですもんね。周百木御大がめちゃくちゃ反対するでしょうけんども、カレシの一人や二人、まぁ、欲しいでしょうね?」
山方はすでに梅子に横面を曝していた。
「い、いいえ……そんなことは………」
「いいですって、いいですって。あーしの周りもサカりのついたサルみたいなもんですからね」
「あの、違くて……本当に……」
「とりあえず火傷の処置をしましょうや。そんな感じだから、周百木御大に"焼き"入れられるのでしょう」
そうだ。周百木の膿に、この手は灼かれてしまった。知られているのなら、隠す必要もない。
「ど、どうして周百木だと分かったの?」
梅子は爛れてしまった箇所を見下ろした。石鹸と陸の海栗の赤みに紛れている。
「はぃ?」
「どうして周百木だと分かったの……」
「………梅子お嬢様に"焼き"入れられるのは周百木御大の他に誰がいるんで?」
元は野性的らしき眉を体裁よく整えた眉が跳ねている。
「そうなんです。周百木の………その……お、お、お、おちんちん……の腫れ物は、どうしたらいいんでしょうか」
「……」
山方は梅子の手首を鷲掴むと医務室へ引っ張っていった。彼は普段は常駐医の座る丸椅子に腰を下ろした。座面とそれを支える軸が軋んだ。
「周百木御大に何かされたんです? たとえば、裸を見せられたとか……」
「はい。周百木は裸でした」
褐色の巨手が金髪を掻き乱す。
「梅子お嬢様は、人に裸を見せちゃいけねぇって教わりましたよね?」
「はい……」
「梅子お嬢様も、周百木御大に裸を見せるようなことをしたんですかぃ」
「そんなっ! わたしはそんなことしていません」
「では、周百木御大が一人で、裸になっていたと?」
「そうです」
山方は溜息を吐いた。
「それで、周百木御大の"赤黒く生臭い巨大な棒状のところ"から膿が出たんですな?」
「はい……わたしが触れた瞬間に、あんなにいっぱい………きっと痛い思いをさせたわ。けれどどうしていいか分からなくて……」
執事の腹に飛び散った膿汁が脳裏に浮かんだ。高い粘度を帯び、形を持って皮膚の上に広がっていた。
梅子は震えた。執事の固結びの解けた顔が甦る。腹の奥で静かな鼓(つづみ)が打たれ、深く響く。
「放っておいていいと思いますよ」
「放っておいたら、病気になってしまうんじゃないかしら。本当にたくさん、飛び散ったのよ。お胸の辺りまで……」
「放っておいて問題ありませんよ」
「けれど……とても腫れていたのよ。わたしの腕よりも、とっても大きく……」
山方は事務机に頬杖をつき始めた。事の重大さが伝わっていない。
「あっあっ……周百木、苦しそうでしたのよ。顔も赤くして、涙を溢れさせて……」
彼女の鼻先に人肌色の掌が突き立った。
「もう教えてくださらんでよろしい」
「でも、あの……」
「平気です、男の人は」
「平気なの?」
「平気です。よくあることです。男は夜な夜なそこを赤黒く巨大にして、生臭い膿を飛び散らせてるんで……」
同じ人間だというのに、身近にいる執事には、否、男性というものには、不可思議な生態があるようなのだ。周百木だけではない。養父にも、養父の老執事・棗にも、目の前に座るこの大男にも、庭師にも……
「まぁ……そうなの……? わたし、大騒ぎをしてしまったわ、はしたない……」
「そういうこった。御手を拝借。手当てをしたらさっさと部屋に戻って寝るこってすな」
山方は丸椅子から立ち上がると、梅子の赤くなった手に軟膏を塗る。
「このことは周百木御大にちゃんと話さなきゃならんのですが、構いませんね?」
『梅子お嬢様はいつもいつも、後先をお考えにならない』
「ええ……ごめんなさい。悪かったわ……」
「梅子お嬢様はあざといですな。被害者ぶっておけば相手を悪者できる。いい戦略です」
「そんなつもりじゃ……」
「責めたんじゃねぇです。感心してるんでさぁ。女性的で、フェミニン。たいへん、淑女らしい。ただ、大学でもそれだから、ご友人のお一人も作れないんじゃねぇんですかぃ」
山方の厚い唇が弧を描く。
「本当に、悪いと思ったから……」
「いいです、いいです、言い訳は。さて、あーしはそろそろ退勤しませんと」
山方の手際の良い片付けの音を聞きながら、梅子は爪先を見下ろしていた。そして己の出過ぎた行動を他人事のように振り返っていた。周百木は言うのだろう。後先を考えろ、他者を慮れ、と。何をするにも選択を誤り、思考は遅れをとる。何かをするたびに周百木に、その他大勢に迷惑をかける。
何もしないのが正解なのだ。
友人はいないのが、正解なのだ。
「部屋まで送り届けたほうがいいですかぃ」
「平気よ。自分で帰れるわ」
片付けを終わらせたらしき山方はネクタイを緩め、今すぐにでも帰りたいという有様だった。
「手当てしてくれてありがとう。お疲れ様でした」
梅子は医務室を出た。
明日、山方から話を聞いた周百木に叱られるのだろう。何故、立ち止まらなかったのだろう。何故、考えなかったのだろう。
足取りは重い。
◇
梅子お嬢様………梅子お嬢様………梅子お嬢様………私の梅子お嬢様………!
私は梅子お嬢様のハンカチーフを鼻から離すことができませんでした。私たち使用人に支給される物品に使われる市販の洗剤とは違う香りが染み付いていました。洗濯班がひとつひとつ手洗いしている柔らかさが私の鼻先を包み、馨(かぐわ)しい石鹸の匂いと、微細な繊維には馥郁(ふくいく)と梅子お嬢様が溶け込み、私の脳と肉体を支配するのでした。
私は決して精力的な男ではありませんでした。梅子お嬢様と出会う前の私は、寝食を忘れて淫欲に溺れるなどということはありませんでした。決まった時間に食事を摂り、決まった時間に就寝する生活を送っていたのです。仕事で疲れた身体では夕食と入浴をするので精々だったのです。しかし梅子お嬢様と出会ってからは……私の肉体と生活は狂ったのでした。食事も睡眠も私を満たしてくれなくなったのです。空いた時間の読書すらも手につかなくなったのでした。梅子お嬢様に出会ってから、私を満たすものは梅子お嬢様と自涜だったのです。若い頃でさえ週に1日どころか10日1度、あるかないかという頻度が、毎日に変わりました。毎日朝と晩に自涜をしなくては、私の身体は次々と脈動を伴って欲望を訴えかけるのでした。まるで学生時代の欠落を補うかのように。当時の友人たちを苛んでいた煩わしさが20代もそろそろ後半というところになって私の身に降りかかってきたのでした。
私の身体はたった数時間の我慢がすでに禁欲の扱いになってしまったのです。けれどもそれでいて、ただ異性の豊満な肉体と艷やかな髪によって私の欲望は勢いづくのではありませんでした。
梅子お嬢様…… このたった一人の私の支配者のために私の感度は頗(すこぶ)る高くなってしまったのです。私の肉体は火照りやすくなり、私の生活という生活は一色に染まってしまったのでした。
私は梅子お嬢様の小さな御手を思い出しながら灼熱棒を扱きました。精の失禁を見られてしまったのでした。あの悦びをまたここで再現することはできないのでございましょう。あの極上の悦びは二度と味わえないのでございましょう。けれども私の業の深い肉棒は覚え込んでしまったのです。恐ろしい快楽を知ってしまったのです。
梅子お嬢様の慈愛に満ち満ちた御眼(おまなこ)、困惑に震える花唇、私の忌まわしい裸鼠を慰めた玉骨! 私は克明に記録した偉観を思い起こしたのです。
梅子お嬢様………私の汚らしい粘液が貴女様の粉雪でできた御手に触れた時、貴女様は何を考えたのでしょう。私の体内で作られた生臭さは、貴女様のその儚い鼻のなかに届きましたか……梅子お嬢様……今や私は、梅子お嬢様のお爪の艶が一度照るだけで果ててしまいそうなのです。
私の牡串は鎮まることを知りませんでした。実用性を兼ねた天然の玩具を見つけた子供のようでした。いいえ、そのような終わりの見えるものではございません。この果てのない焦燥は、動物ならば、個体数を増やすための設計に忠実な頃合いのものでした。私の青春は遅れてやってきたのです。私は片輪でした。稚拙でした。私は白痴だったのです。あまりにも長い玄冬でした。すでに目の前に迫る朱夏に至るまでに、この肉体は愚かな遅延を取り戻さなければならなかったのです。
梅子お嬢様……私にこのような残酷な牡の営みを教えてくださるなんて、貴女様はなんという邪悪な御方なのでしょう。私という自我はただ種を撒き散らすしか価値のない肉体に閉じ込められていた幻想だったのです。何故、ヒトのオスというものは粘液を発射する際に、快楽を伴うのか。梅子お嬢様、貴女様はご存知でしょうか。貴女様の苦痛と困惑について、低みの見物を致すためなのでしょうか。梅子お嬢様、貴女様は私が快楽の虜囚になることを嘲笑っていらっしゃる!
ただ繁殖を促すために与えられた宿命を徒に消費する私の生命を嗤っていらっしゃるのでしょう。
梅子お嬢様……梅子お嬢様………
「ぉ………っ、梅子お嬢様………っ」
私は無我夢中に擦り上げた手遊び棒から、梅子お嬢様にかけてしまった汚い汁を迸らせました。梅子お嬢様の映る液晶画面に飛び散り、ベッドに横になった梅子お嬢様の華奢な御姿を隠してしまったのです。
梅子お嬢様………寝姿までお麗しい……今すぐに叩き起こしてしまいたい……梅子お嬢様……
私の肌に……他者の身体に無許可でお触れになったことを、まだ指導しておりませんでした。梅子お嬢様には松竹林殿家に相応しい淑女になっていただかなくては。
【TL】泣いてください、お嬢様