詐・カラシイ

 おば様。
 ぼくは、邪悪です。
 ご存知ですか? 実にじつに邪な魂をぼくは秘めているのです、おば様。機嫌のよい時にかぎるなら、柔らかな物腰で慎ましく笑みを浮べているひとだと云っていただくことが多いのですけれども、その内奥、ずっしりと密度のある黒蛇のたうつ如くの邪悪がひっそりと棲んでいる、紛うことなくそれがぼくという人間であるのです。わが身はその重みを抱え込むにはまるで向いていません、何故と云い、ぼくはその心に抵抗し改善のため形状を変容させようと良心を働かせること甚だ覚束なく、その邪悪な蛇とするする愛撫しあっているような自覚さえあるのですから。ぼくは邪悪です、と、上から俯瞰し視線を粘液にすべらせるようにわが罪さらり平然と書きえるのが、その証拠ではないかしら。
 “Se carasserer”
 仏蘭西語で、「愛撫する」という意味なのは、英語教師の貴女ならばご存知でしょう。
 この頃、ぼくは文学への趣味が高じて仏蘭西語に凝っているのです。いや、のらりくらりと進んでは休憩し、気付けば前の勉強内容の殆どをわすれ、亦はじめからやるようなきがるさでやっているに過ぎないのですが、この、日本人の耳には過度に気取ってきこえる、ダイヤモンドのカットさながらに硬質な響きを光らせる「ス・カラ」の発音、それに追い縋るまるでバニラ・シガレットの吐息曳く「シイ」の余韻に頬を寄せる安息、それ、さながら別れ際の恋人の踵の影にキスをするような甘ったるさ、気恥ずかしさ。そう想いませんか? こういう経緯で、ぼくはまるでぼくに安住して了っているのですよ、おば様。

  *

 先日、ぼくは友達を失いました。
 ぼくはかれを口汚く罵っちまい、恰も古い友人であるが故に知るかれの傷へ刃を突き立てるが如くの言葉を選びました。ぼくは情緒的には錯乱に近い状態でありながら、細心の注意を払ってもっとも残酷な言葉を精緻なゆびづかいでとりだして、外科手術にも似た冷然な手捌きで毒にぬらぬらと照るメスをかれの心に刺したのです。そこが古傷だと識っているが故に。かれがその言葉を至極怖れていると識っているが故に。
 肺が痛い。どうやら、ぼくは煙草を吸いすぎているようです。圧迫されたような、膨張に痛むような感覚があります、時々、激痛火の如く奔り抜ける。怖いですね。然しぼくは、久坂葉子を模して煙草なしに書かなくなったら──あのダウナーでやさぐれた灰のかかる蔓に秘められた硬質な少女性には、どうも頽廃に憧れる少年少女の心の琴線を刺激するものがあるようです──ほんとうにそれなしには書けなくなったたちでありますから、ここで、一端手をとめます。あす、亦つづきを書こうと想っています。

  *

 病院はしんと緑に静まったように閑静なところにありましたが、時々、毀れこぼれおちる情念さながらの鮮明な花が咲いていて、それひっそりと涙を落すような印象、或いは狂乱が瞳孔をひらくような象徴がされているように想われることがありました。
 ふ、そんなささやかな音が立ったようです。それはふだん明るく振舞う鶴のように淋しげなひとが、魂の華奢さを暗示させる道化人が眼差をふっと憂いに沈ませる、それをみとめた時のわれわれの情緒のもたらす音のようでもありました。
 それというのは後ろめたげに茎の背を葉群の奥へ反らせた先に咲いている紫の菫の花があったのでありまして、ぼくはそれを一種残酷な気持のままに茎のほうから引っこ抜いてしまったのですが、それを花だけの状態に千切って、噎び泣きたくなるような心情でうずくまるように背を折りまげ、しろく硬化してゆくわが背骨を想い、ぼくにはその菫は病院から盗んだという罪悪のあるが故に、芸術のようなものだと感じもいたしました。
 どこかの作家が書きました。菫の花は、芸術です。真紅と青を綾織らせた、柔らかい美です。それを盗むのが、表現です。
 ぼくはそれをうす重たく被さる空へ抛りましたが、空圧によわい形状をした菫の花はたいして舞い上がりもせず重力に従って、ざらついた土へ落ち横臥わりました。ゆびについた紫の染みはぼくにはヤニのそれのようにいとおしく、翳に濡れたようなゆびさきを匂うのは、まるで後ろめたい悪戯の高揚をもたらすようでした。…

  *

 ぼくは一年前の悲しい恋愛を終え、亦ふたたび、精神病院の入院病棟で知り合った年上の女性と恋愛関係にありますが、然し、ぼくは彼女と恋人どうしになった刹那に恋が冷め果てたのです、自己本位にも。それは彼女のその時の表情故でありました、あの期待に潤み熱の漲るような眸は、どうもぼくのこのみではないようであります。それをぼくなぞに向けるという浅はかさに、わが身は耐えかねて了ったのです。
 ぼくは酷い男なんです、というのも、ぼくはいま働いているところにいる夏木さんというひとに片想いをしているのです、それをしながらの恋愛なのであります。それは元の職場に戻った後に始まったものでもなくその前からでありまして、追憶より仄かに薫り曳くささやかな恋──それは年上の女性と知り合ってからも、幾分くらいは残りつづけたものでありました──それが炎えあがり身を折るが如くになったのは、つい最近のことでございます。
 えたいのしれない口惜しさ、苛立ち、轟々と唸る空白のような劇しい淋しさがぼくにございます。それは理不尽というものに対するそれ等であることは共通していますでしょうが、ぼくはそれへの対処を拒んでもいるのです、何故と云いぼくの「わたし」を歪めうるなにものかを許容しそんな言説に含まれた状態で「わたし」を重力に落してしまえば、いったいぼくのような野原を四つ足で彷徨うやつれた抒情詩人に、なにを書くことがありましょうか?
 ぼくはぼくを理不尽に従属させ、「わたし」をけっして言葉に追従させず、唯自分じしんの言葉を求めてきたつもりです。疵つき擦り減ってゆくぼくを想うのはわが身に自恃を積雪させたのであり、ようよう我の声がささやかに、やがては口さえきかなくなったことに安息すらえていたことがございました。その努力故にぼくは所謂臆病で受け身、大人しい人種だとみなされており、以前の臆病ではあるものの好戦的なエゴイストのぼくは余り外へ出なくなり、なにを云われても謝り、どんな命令にも従い、さすれば点のような視線を呆然と泳がせる風景に黒く穿たれたような一頭の奴隷ができあがりました。当時バッハを聴いた日にはいまにも平伏してすべてを投げだしたくなるような心持に駆られていて、しかしそれは自己を無へ飛ばしてしまいたいという現代の生き方に反するものでありましょう。ぼくの滾る血はやがて黒々と固着して心臓をがしと脚を蟠らせるようになり、心臓は生きる意欲の欠損した血を供給し、うずくまり涙すら出ぬ幾夜を約束想い起こし想い起こしやりすごすだけの日々、心的状況をいえばこんなところでありましょうが、そういう経緯で入院をしたのであります。
 退院したのはついこのまえ、冒頭の事件はそのすぐあとでした。

  *

 今夜は筆がのります。くたばっちまうまでは書きましょう、ぼくの邪悪を、怒りを、口惜しさを、憧れを。
 と書くと、どっとのしかかる倦怠。終えましょう。気分屋のぼくにはこんな書き方しかできないのです。
 セ・カラシイ。セ、カラシイ。実に、じつに気が利いている。”賢(さか)しい”響きでしょう、そう想いになりませんか?

  *

 ぼくの初めての恋人は、それはそれは気の利く、思考の明晰な、男を夢中にさせることお上手でけだし賢しき女のひとでした。彼女は氷のような冷然な光でぼくを打つかと想えば、火のような憎悪にくるみとるようにぼくのとろむ淋しさを抱きとめるのでした。ぼくは、必要とされているという錯覚に完全に陥っていたのです。
 ぼくは彼女の情緒にまるでふりまわされ、別れて暫く経てば彼女を憎むまでになりましたが、気付くと、ぼくは当時の恋人になんだか似てきたようであるのです。
 彼女は苦しんでいるひとでした、彼女はぼくに頼り、寄りかかって愛の言葉をささやき、ぼくはそれに支配的な恋ごころでこたえたのでした。弱く、慎ましく、ひかえめで、卑屈な可憐さに満ち、されど火の獅子の如き魂を抱えていた彼女、甘えられる相手に激しい暴言を吐き、浮気をし、ぼくは気弱さと惚れた弱みゆえに恋人に云いかえすことすらできませんでした。果して、彼女はそれにぼくのような自責をしているのかしら?
 いま、彼女への怒りが社内での我慢と結びつき、蟠って、いいえ、いいえ、ひとのせいにして了うのです、ぼくはひとのせいにして了うのです。どうも、そういう悪癖を巧く対処できません。天命だとか、いろいろ事情があるからスルーせよとか、そういう言語がいまいち解らない。原因を解明して、白黒すっきりと説明したいという意欲がつよく、しかしこういう情緒のときはまるで逆恨み、ひとのせいにして了う。白黒はっきりつかないと知っているから、いつまでもみずからの悪を考え込み、病んで了う。会社で奴隷の心情であった入院前は徹頭徹尾自責亦自責の人間でありましたが、それ、ころりとうらがえったようであります。最早、どうにも誰かを攻撃したいという、低劣な悪質な気持になって了っています。それがあろうことか優しい友人へ向ったのだとしたら、とんでもない当てつけでありましょう。自卑。自卑の念に苛まれ、うずくまるばかりです。
 たとえば、その病への対処を調べます。じっくりと読みます。ぼくの文学的態度を、侵すものばかり。ぼくは独自の道徳改善、性格改善を行います。そこに、自己否定がどうしても介入、いいえ、出発点すらそれであるのです。ぼくは、わが身を、まるごと壊したい。
 おば様。
 あなたは、この自卑、悶え、変わりたいという気持の葛藤、これらの気持を解ってくださるでしょうか?

  *

 菱山は、「ひとの自尊心や自意識を許さないタイプ」、といっては余りにいいすぎでありましょうか、しかし、ぼくにはそういう云い方をしても仕方がないと想われるのです、ぼくは幼少期より稀代なる倨傲さを所有しておりますから、自画自賛はあたりまえ、卑屈な言動、けっきょくは尊大さのうらがえし、或いは世俗の通説へ逆説をむけ「おまえらからすればぼくはこうなんだ」とでもいいたげな嫌味なそれ、文体からも伝わるとおり脹れあがるアンスリウムの如き自意識を抱え込んでおります、菱山にはそれが、不潔で不潔で耐えがたかったのでしょう。ほかには例えば天狗になった芸能人、鏡で服装を直す若者、皆みんな許せないというような態度をとっておりました。
 ええ、菱山というのは友人です、ぼくが暴言を吐いた、そのひとです。
 菱山のひとの自尊心を許せない感情というのは、うらをかえせば、みずからの自尊心を許せないからだということになるでしょう、そうでない場合もあるでしょうが、かれと数年ぼくが友達であったのですから、なんとなしにそれが想像しえるのであります。
 なんとなし、と書くと、なにも書けていません。ぼくはこの手紙を文学的なそれにしようと企んでおります、ここに、一条の人性の真実が暗みとして引き揚げることができるなら、それでいいと考えております。ぼくにとり他者とは時に人性追求の実験対象になりえます、ええ、酷い人間でしょう。そしてぼくにとってのわが身とは解剖手術の実験台であり、病状報告の素材であり、血塗れの手により掴まれ投げだされた人性の宿る、唯一にぼくによって細部を推測しえる領域です。ぼくは企み・思惑の邪推激しき心理をすいすいと脳裏で泳がせて、恰も自意識を疵にのたうたせるのが趣味のような男、こういう心のうごきというのは、やめようとしてやめることなぞできやしません、ご存知でしょう? 何故って貴女も亦、文学が好きでいらっしゃる。
 それならば独りで自分と話していればいい、ひとにその牙と血塗れのうでを向けるなと貴女は云うかもしれません、云わないかもしれませんが、ぼくがこれまでの貴女の話しぶりから想像して、そう会話をシミュレーションいたしました。それに反論致します。
 ぼくは「人間は、みな、同じものだ」という酒場の無頼どもの息のような言説をまるで支持、他者への邪推と自己への批判等を素材に推論・類推等を重ねみずからの肉を実験台に置いて実験、心の状態の推移を観察、されば人間というものをまっさらへ剥けえるのではないかと考えている、さすればそれを、作品にしたいともくろんでおります。それが、ぼくの人生の第一の目的なのであります。しかし、どうでありましょう、こう書くと「俺はモラリストきどりの生粋の人間性追求者で、それよりも優先すべきものは俺にはないのだ、だからその仕事を為すために他者をすら実験材料とみなしている、だからひとを大切にすることができないのは仕様がないのだ」といいたげでありますが、ええ、一面から云わせればそのとおり。亦更に狡いことには、前述のうごきというのは後付のコジツケでもあるのです。
 ぼくは、自己否定をしている。それが、ぼくの文学の素材だから。その自己への暴力に、痛みを感じている。苦しみにより心は荒み、何故俺だけが、という低劣な意欲が生れ、それに従って、他者に自己否定をさせたいという悪の意欲が生れる。俺とおなじ苦しみを苦しめという、人間のもっとも低劣で荒んだ心のうごきに、まるでにゅると辷るように従っちまったのがここで書いている出来事なのです。そのうごきを定めづけているのが、わが文学的態度であると。
 自覚しろ、おまえの真実の悪に。そう、心を撲っちまったのです。
 われながら怖ろしい、低劣だ、ぼくは、そう考えて了います。人間の真実の悪。様々な人間に発症する、様々な表象の仕方。それをこの手に一握だけでも掴んでいると己惚れているがゆえに──ええ、ぼくはそれを掴んだと幾たびも思い喝采いたしましたが、その悉くが亦ぼくによって撤回されつづけているのです──、ぼくは他者へ、心中において人格非難のようなものを為して了います。俺はちょっと物事を考えている方だという自惚れ、それがございます。他者の心の悪なんて解らないのに、ぼくは、それを為す。想えばこれは両親と初めての恋人に屡々やられていたこと、想ってもいない悪の心を決めつけられる邪推に非難を受けるのは、たしかに日々の日常でありました。ぼくは自己を憎み、にくみ、人間を信じようとし、そして、心理小説書きを志した。
 従って、ぼくが菱山へ「あいつはみずからの自尊心や自意識を許さないタイプ」だと書いたことに秘められる本音は、ぼくじしんその気持がある程度は解る、みずからの人生や現在に至る心の推移を逆算していけばおなじものが見付かるから、というかってな邪推によってつくったこれを、復讐のように突き付けてやりたい、おまえが俺を傷つける数々の言葉は、こんな意欲で──むろん、わが推測に過ぎません──吐かれていると自覚して欲しいというもの──おそらくや、そういう感情の順序によって推測されるでありましょう。
 菱山は、ひとを軽蔑してはいけないといいます。悪口はダメだといいます。俺はしていない、したこともないとものしずかに豪語します。軽蔑にもさまざまな定義があるのである種のそれは実現しえるとはぼくも考えますが、かれのわが身を安全圏に立たせ時代風潮の風を纏い、ぼくの風刺的言語を「それをいわせる心が誤りだ、悪だ」と指摘します。ぼくにはそれがむしろ背をぐんと伸びあげてぼくの首根っこを掴み、正しい自分を信じてわが身を卑しめる侮りそのものに想えました。まるでぼくを裁判にかけるかのような態度を感じ、いくら考えても菱山が軽蔑をまったくしない人間であるという風には想えませんでした。
 菱山がたとえばひとの自慢を「気持わるい」と断じ、悪口をいわないと自負しているのは、ぼくには矛盾のようにしか想えません。心の内の苦痛は物凄いことでありましょうが、それは「正しく善い自分」という自画像が先にあり、しかしその根では自己そのものに不信があり、そうであるからその壮麗な自画像を必要としていて、それが疵つけばすぐさま心に蔽いを張りはじめる。背がふるえている。かれには自己への恐れがある、それを注視しない勇気のなさは、感受性の鋭さも原因の一つでありましょう。いたみを感じやすいのだ。かれは自尊心と自意識の怖ろしさに対し激しい恐怖がある、けだしその肥大の仕方はともすれば加害だ。かれは「正しく善い道徳」を守る自己を大切にし、それから克服できていると錯覚している、或いは「俺には軽蔑という感情が生れついてない」とさらり云ったこともありました。かれには「穢れ」への嫌悪がつよすぎるほどにある。無機的な光を愛し、体臭の欠損した数学に夢中になり、理知的な仏蘭西語の文法に玻璃細工の幾何学をみる、これ等はむろん良く美しいものではありますけれども。菱山はどうもイノチを怖れているようでありまして、生あたたかい血と肉に対し嫌悪をもち、肌を粟立たせるようなところがある。ひとの如何にとび出るか判らない意欲を不安がり、みずからの推測できる言動をする他人に安心をえるようなところがある。
 かれには世界が、かれの怖れるであろう風景、どす黒い肉と真赤な血のどろどろに入り混じり迸り跳ねのたうち飛沫の粘膜を外部へ放出させようとするひとの体内のように見えていて、それを地獄だと感じている。こういう人間は、生きていることが後ろめたいのです。それは、じつは菱山の慎ましさ、優しさゆえでもあるのです。
 かれは、ものや他者の心の形状を変えることを怖れ、そして、申し訳なく感じる人間だ。それはかれが、優しいからです。傷つけることが、できないのです。否、意地悪な云い方をいたしましょう、傷つける自己を発見することにも、耐えられないのです。だからかれ、その時その時の問題から自己を切りはなします。傷つけていない自己のイメージを、守ろうとします。であるから、ぼくと菱山の云い合いであるのに、ぼくと道徳どうしのみの問題をつくりあげ、それを上から断罪する。それがむしろおおくのひとの心をくるしめるということを、見据えることはできていない。かれのわが身への過剰な忖度は、たとえばぼくたちへの思慮深い寛容さとして現れることがありますが、ぼく等の抱える猛獣がすこしでも爪を立てれば、パニックになる。
 菱山によって固定されたかれの硬質な世界観は、ぼくのような傲慢さ、非難にみるも無残に砕かれる軟らかい質感であり、けだしダイヤモンドのそれに似ている。切りはなされカッティングされたダイヤとは、たしかに、個人の道徳に似ている。
 菱山は、うごきを怖れる。わが身がうごいて、その結果傷を負うことに消耗をしすぎる。傷を与えることに傷を負いすぎる、それによって、「正しく善い自分」が揺らぐからでありましょうか。けだし生きるとはうごくということで、抑々がかれ、憐れなことには、生きていたくないという人間だ。ぼくは死にたい人間であり、かれは生きたくない人間で、これは殆ど真逆といってもいいかもしれない。死にたい人間とは、死ぬほどに我がままに生きなければいけないという心の内奥からの声があるひとであり、その自己本位な義務に耐えかねているだけであるようだ。しかし出発点の人性は屹度おなじであるでしょう、おば様、そうお考えになりますか? あなたの見解もおききしたいのです。
 有機が不潔の泥とみえる菱山は、みずからの根がそれであることを恐怖している。現実という実態がそのままの血と泥と体液の河であるという一面的な観方があることに慄いている。
 ぼくが指摘したかったことを観念的にいえばこれだ、菱山という肉を、世界という肉に抉りこめ、やりたいことをやれ。ぼろぼろに疲弊せよ、エゴを世界という肉体に打って、打って、然り、やりたいことをやって生きるのは困難だ、だが君は一度でいいからそれをしてほしい、わがエゴを大切に抱いて無我夢中にうごいてほしい。叩くんじゃない、折り合いをつけようとしながら、他者と繋がろうとしながら、それでもエゴを抱きつづけて、射しちがう覚悟で世界へ自分自身を身投させるのだ。そして、もし双方が熔けあい互いの形状が変容する一刹那があれば──それは殆ど感じえないものであるかもしれないし、幻想そのものでもあるけれども──、ひとたび還ってみるがいい、みずからの肉体の海に。炎の燈される、湿り穢れた生臭いぬるさに。イノチが肉体と相克し綾織るこの稀有なうごきに、俗悪の美をみいだせるかもしれない。人間が生きていることは、美しい。美しいと、想えるかもしれない。それは如何にも不合理で、引きうけるべき苦しみは無意味であるから。菱山。おまえは、美を愛している。そうだろう。
 ぼくは、人格を非難なんてせずに、こう云えばよかったのだ。こう云えばよかったのだ、泣き喚きながら。はや、ぼくの元にはいない君へ、叫んでみせる。
 感情の価値以前に、おまえの躰は、美しいんだ。
 だって、そんなに綺麗な眸をしている。しずしずと昇る水晶の優美な香気が、しゃなりしゃなりと眸に水波をうつろわせている。人体は平等に美しい。うごくために発達した身体はしなやかだ。きみの身振りは綺麗な弧をえがいてするりと旋回、そしていつもやさしげに、ぼくの顔を覗き込む。教えてくれ。なにが間違っている? なにが、悪い?
 自分を愛し自尊心を育てることへの抵抗はある種の優しい弱さに由来するかもしれないが、かれは自尊心を細分化できていないのだ。ぼくはそれを、ここでは語らない。
 肉欲はけだし加害だ、どこまでも他の肉に侵入しようとし、破壊しようとし、滅ぼそうとし、だが、それすらも肉の孕む切なさであるような感覚がぼくにある。悪の心の存在そのものを、否定しないでほしかったのだ。躰を信じることができれば、現実とのぼこぼこ形状を打ち合う相克の裡で、その推移を幾らでも工夫できる。善く、善くうごこうとする。美をみすえて。それが生きるといううごきで、うごくという生き方だと、ぼくは考えている。
 ひとに付属したやさしい気持の大きく純粋なおまえの肉体は、ある一領域に限って云えば、或いはある一面から眺めれば、信じるにあたいするに、決まっているのだ。勇気とは舟を漕ぐ有機のうごきであり、有機とは勇気を櫂とする。その出発点が優しさであるなら良いと想われるけれども、菱山にはそれが既にたっぷりとある。そして、かれ自身充分に充分にうごいてきた、それが無駄なものだっただなんてぼくはいわない。菱山は、努力家だ。良心が頗るつよい。断言する。断言できる。唯、不信であった。変容を、避けて、避けて通ってきた。現実を変容させるうごきへの賛美は、たしかに強者の理論として怖ろしいものへ導く可能性をはらむ、だが、美をみすえれば、善くうごくことに徹すれば──しかし、どう転ぶかも判らぬのが人生であり、そのなかで生きることが生の俗悪-美であり、果敢なさであり、それとまるっと対決するという荒療治が、菱山を救ったのではないかと、そう想いもするのです。
 おば様。
 ぼくは、おば様に語り掛けているという意識を喪失しておりました。

  *

 かれには随分に不安定なところがあって、いつ自殺するかわからないようなあやうさがあって──それ故にぼくは最後までつよく云いかえすことが殆どできず、亦苛立ちが積みあがったのです──幾たびも一年前後の引きこもりをやり、おそらく、自分の真実というものを誰よりも怖れていたがゆえでしょう。どうしても正々堂々とした自己批判ができない人間といいましょうか、鏡を眺め一点の染みすらも認められない態度を心の問題に転化したようなひと、度々わが好戦的な風刺をする性格を「そういう性格はダメだ、そういう発想をする時点でひととして間違っているよ」と窘め、ぼくの欲心を「絶対に想ってはいけないことだよ、その感情は間違っている」と裁くので、苦しくて苛立ち、「お前だってこういうところがある」といいかえすのですが、かれは断じてそれを認めず、「違う、偏った感覚と考え方のおまえだけがそう想っているんだ」と一言云い張って話すのをやめる、身体的に比喩させれば、背をふるわせひっしで自分の認めたくない領域を視ないよう目元を掌に蔽う、そんな印象がかれにありました。それはぼくには腹立たしく想うことが多かったのですが、やはり、いたましくも想えました。
 たしかにこんなぼくの他者への攻撃性は頗る悪質、その対処を亦文学と思想に縋り研究しておりますが、どうにも、見つからない。ぼくが心理小説書きとしてのぼくでありつづけながら病気を治す方法が、見つからない。
「おまえのその言葉は、俺には不快だから聞きたくない」
そう、いってくれればいいのです。そうであれば、ぼくのようなろくでもない性格の人間は、納得をするのだ。もう、云わなくなるのだ。あのときも、逆上しなかった。再三云いますが、ぼくたちふたりの関係の問題であるのに、かれはかれの開催する裁判所の関係者にわが身をいれない。いつでも事件は、かれの外にあります。ぼくの心と道徳の関係性のみを語り、ぼくの心の状態を否定するのです。ぼくは、現在の心を存在そのものを否定されることが、辛い。自己否定家のぼくでありますが、いまある心を、否定してはいけません、そう想う。その心をどういう軌道にのせ、どううごかしてゆき、いかによりよきかたちへ変容させるかといううごき、或いはその意欲の有無に本人の責任が宿ると想うのであり、それを工夫しながら擦り合わせて生きていくというほか、人間によりよき人間を求める方法はないのではないかしら。現在の心の存在を否定されても、どうしようもない。
 ぼくは、かれを罵りえたという低劣な状態を、対処し変容させなければいけない。
 こう書いてくると、暴言を吐いたぼくにだって言い分・事情があるんだと言訳染みますが、確かにそのとおりです。しかし、この手紙の全体の構成における一つの効果を与える要素として、ぼくはこの文章を外せないと考えております。この手紙の全的な表象こそが、わが邪悪さだ。幾らでもひとから批判できうるように書こうと、ぼくは試行錯誤して書いているのだ。そしてこんな自己批判も自分の欠点を自覚しようとしているからなのだという煩いうるさい自己への注釈も、亦それであるのでしょう。
 ぼくは、かれを侮辱し、かれは、ぼくの元から去りました。
 これだけが、物語です。
 あとのすべては、注釈です。
 なぜってこの手紙は、病状報告書でありますから。
 ぼくはかれが恋しい、なぜってぼくの話を聴いてくれたのはかれだけであり、いつも励ましてくれて、文章を読んでくれ褒めてくれた。ぼくにあんな風な思い遣りをくれたのはかれだけであり、菱山は、まぎれもなく優しいひとだったのです。その怖れからくる思慮を、他者への思い遣りに重ねえるひとで、ぼくとちがって、むろんひとから愛されておりました。
 よりよき人間になりたいという悲願がぼくにもありますが、その願いはたびたびぼくの文学に裂かれます、ぼくという肉と、文学という肉との争いは、前述の現実の相克とやや重複した状態で炎が宿りえますが、しかし、人間関係はようよう崩壊してゆき、立派な人間から、ひとを幸福にする人間から、ぼくは更に離れていったようです。ぼくは誰だって大切にすることができないようです。ぼくは自己を大切にしないという態度を、信条にしちまいました。幻想への執着を、約束しちまいました。ぼくはひとを大切にできない。自己を砕き血を流すのをみて歓ぶことを、はやぼくにはやめられない。ぼくにはやめられない。だが、否、であるからこそ、そのうえで、やさしくなりたい。その人性の状態で実現しえるやさしさというものを追究し、一条でいいから零してみたい。それは、不可能だ。であるのに、ぼくはそれをするのだ。ただ、過程の血しぶきを整然と明瞭に言語化して、人間の哀しいサガを深めたいがために。否。ほんとうの、ほんとうの気持は──つよくて、やさしく、ひとを大切にできる人間に、なりたかったのだけれども。
 文学を抱き締めるぼくと、より善き人間になりたいぼくというのは、すでに引き裂かれちまいそうです。なぜってぼくの淋しき文学とはけっきょくは愛の追究であり、であるのにもかかわらずぼくの文学が、他者とわが身を引き離しているのですから。
 こんなことは認められた作家だからこそ本来は云えるのでしょうが──ぼくは、文学をやるのなら、人間を、やめなきゃいけないのでしょうか?
 おば様。あなたは、こんなぼくをどう御思いになられますか?


  返信
 自己へのセ・カラシイ。それが、凄まじい。どう御思いになるって、そう想いますね。
 久しぶり。
 相変わらず、自分と自分とのお喋りの恥部晒しのような文章ですね。
 わたしはいま東京に住んでいて、東大卒の研修医と結婚して、かわいい子供がいます。かれはとても優しくて、余裕があり、わたしに女らしい気持をあたえてくれるひとです。いちいち自分の欠点を並べて相手を気まずい気持にさせたりしないし、仏頂面で周りを見てすらいないあなたとちがって、素直な優しさによって他者へおのずと手をのばす心遣いがあります。悲しみを振り撒くのでなく、喜びを分け与える優しさと余裕があります。たしかにわたしは以前そういう余裕がなく、愛情を欲していて、他者をふりまわしてしまっていましたが、かれと結ばれて幸福になり、あなたの言葉には一切共感できなくなってしまいました。
 でも、なんのカモフラージュ、或いは詐称なのかしら。まさか親戚への手紙を間違えて送ったと思っていたのですが、わたしに向けて書いたのですね。悪意の周到、邪推の蛇、自己憐憫の鬼ですね。どうせ、小説的効果も狙ったのでしょう。
 年下のわたしに”おば様”なんていうのやめてくれる? あなたの元友人と結婚しただけでしょう。そんな不気味な呼び方される筋合いは、ありませんけれど。
「同じ苦しみを味わえ」というような心のよわいひとのジタバタな侮辱なんて、わたしの生活には自他含めいまありませんから、すこし驚きました。
「ぼくを罵った後に、あなたはここまで自己を苦しませましたか」
 そう、あなたはわたしにメッセージしていますね。罪悪感を、与えたいのですね。いったい、克服する気ほんとうにある?
 答え。いいえ。
 あなたいわく、自己を苦しめるから、他者を苦しめるんでしょう。下らない執着心を克服するどころか、それに青くさい意味をもたせていると、それを自覚しているとアピールしているんでしょう。しかも、なに? あなたの人生観までご披露、身の程を知りなさい。偉そうなことを云いたいのなら、ちゃんと人間として偉くなりなさい。まっとうな人間なら、そんな生き方をしません。そんなふうには、考えません。したいのなら、かってにしなさい。嫌われていなさい。誰からも相手にされない人間でいなさい。どうか加害者でいつづけてください、わたしたちは、あなたを相手にしません。
 この手紙も、冷たくわたしの眼を辷ったみたいなもの。打たれなかったわ、あなたの文章。胸を打たなかった、あなたの人間洞察力アピール芬々のビョウジョウホウコクショ。もう、連絡してこないでください。あなたにとっては初めての恋人でも、わたしにとっては、昔旅の途中にみた、翳りを帯びるわたしにとってだけ素敵な湖のようにみえていて片足を突っ込んでみた、実質臭い水たまりのようなもの、すぐさま足を引っこ抜いて綺麗に洗い、つぎの彼に購ってもらったシャネルのハイヒールを履いたので、殆ど覚えておりません。現在のわたしには、幸福と、憩いと、大学の英語講師というひとから認められる仕事がある。愛がある。与え合うそれがある。あなたみたいな男は気付いてくれなかったけれど、こんなわたしにも、余裕のあるウィットに富んでいるところがあるって、かれは褒めてくれます。
 ご披露しましょうか? 喉から手が出る程にあなたが欲しがっている、小説的効果を差し上げましょう。あなたの詐りのお手紙は、文学の為に魂を傷つけるという名目の自尊心・自意識への愛撫は、あなたの地方の方言いわく──セカラシイ。以上。

詐・カラシイ

詐・カラシイ

短編小説

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-03-11

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted