回廊の中で 【巻1 志の灯】
離島の竹林の中にある、魔法の迷路・「回廊(かいろう)」。18歳の女性、灯火志義(あかり・しぎ)は、自身の負の過去を隠しながら、回廊の様々な謎を解き明かそうと通い続けている。
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序章 『始まり』
その町には、〈回廊〉と呼ばれる物があった。
それは、とにかく変な回廊なのである。
皆が共通して言う事には、その回廊には屋根があって、床があって、壁があって、入口が確かにある。
行き止まりがあり、扉もあって、坂があって、天地が引っ繰り返るような捩れた道がある。
まるで迷路のようなのだ。
更には、〈中心部〉と呼ばれる空間が存在すると言う。
これはそこに運よく辿り着けた者だけの証言だ。
しかし、それらの者達は口を揃えてこう言うのだ。
「絶対行くな、魔物がいるぞ」、
「怪我させられて、はじかれて、外に出されちゃうんだ」、
と。
よくよく聞くと、中心部、というか、沢山の道が集まっている円い空間に着いて、そこには17か18かというくらいの少年または少女がいて、綱や紐みたいな物か針みたいな物で攻撃されて、気が付くと出口、いや入口に戻ってきてしまっている、と言っている。
血の出るほどの傷を負った子もいるとか。
だから行くな入るなと警告している。
こんなおおごとは事件じゃないか。
ところが大人は、この不思議で危険な回廊は「無い」と言う。――見えないのだ。
彼らには、ぐるぐると目の回るような渦巻き下がりの広場しか目に映らない。
もちろん、入れない。広場を突っ切る事もできる。
それ故か、大人達は、回廊の事を、子供達の空想か言い訳だと思い込んでしまうのだ。
でも、回廊が確かにあるのだ。
この町の未成年の人なら、誰もがそれを知っている。
それだけではない。神も幽霊も信じない人も、幼い心の22歳も、怪我して回廊から出てきたのであった。
そんな、訳の分からない回廊に、一人で黙々と立ち向かう者がいる。
皆が知る事の無い瞬間に、その者は、回廊に関する真実を掴もうとして、戦っていた。
1,志の灯
★★★
ある年の、夏。
その女性――志義(しぎ)は、今日も回廊を眺めていた。
西の空に、燃えるような夕焼けが見える頃である。
(今日こそは、中心部を見つけられるだろうか)
静かに、しっかりと燃える青い炎を思わせる、光を和らげて放つ目。
(とにかく、行くのみ)
志義は意を決した。
回廊に入る。
小ぶりな黒の鞄から、赤い毛糸玉を取り出す。
その糸を、道標になるように垂らして、中を進んでいく。
志義の、201回目の挑戦が始まった。
最初に二つの分かれ道、右に曲がる。
次は階段、数えると300段、かなり急な上り。
その上に3本の分かれ道、中央を選ぶ。
50メートル程行くと、壁に道を阻まれた。
しかし、志義はふっと笑う。
そこにある仕掛けを知っているからだ。
この壁、下から持ち上げる事が出来る。
壁は軽い。潜って通る。
今度はくねくねと曲がる道。長い。
通り切ると、前方に道が5本。
「どの道を選ぶべきか」
迷う。
志義はこの5本、全て通った事がある。
その結果は、いずれも行き止まり。
それでも、志義は行く気だ。
「よし、これだ」
彼女が指すのは右端の道。
早速進む。
だが、直ぐに、壁が道を隙間なく塞ぐ所に着いた。
壁を押したり、色々と試す。
壁はうんともすんとも言わない。
手立てが無い。
「仕方ない。今日は引き揚げよう」
今日の志義には、これ以上の探検をする時間が無い。
毛糸を回収しながら、来た道を引き返す。
入口に戻れた。
日は殆ど暮れている。
「帰るか」
志義は呟いた。
★★★
灯火志義(あかり・しぎ)は、回廊のあるこの町に住む、18歳の女性である。
半端無く根気強くて、身体能力はずば抜けている。
本人は自分にそれ以外の取り柄は無いと思っている。
志義は、ありふれた女の子ではなかった。
どこに在っても常に異端児であった。
そのせいで散々苦労したが、そんな自分自身について、志義は後悔していない。
(ありふれた個性なんて)
志義は思う。
(馬鹿馬鹿しい)
一方で、彼女が短所として自覚する冷静さと思慮深さは、良い方に人の支持を得た。
そして彼女の味方になった者だけが、彼女の優しさと包容力に気付き、驚くのである。
この町には3年前に引っ越してきた。
回廊の噂を耳にしたのは、越してきて直ぐの事であった。
かなり興味を持った志義は、それから頻繁に回廊に入るようになった。
★★★
回廊とは一体どのような物なのか。
回廊は、住宅街の中の、広い竹林の中央にある。
いつから在り、誰が何の為に作ったのか、なぜ回廊と呼ばれるようになったのか、詳しい事は分からない。
一言で言えば、『魔法の迷路』である。
上空から見れば、かたつむりの殻のような形。
真横から見れば、高さは3メートルも無い低い建物。
全体の色は薄い水色。
入口が一箇所のみ有り、扉などは無く、常に開いている。
内部は、様々な形状の通路がある。
照明も窓も無いのに、いつもとても明るい。
通路、即ち道は、絶えず変化している。常に同じ道があるのではない。
その上、外観からは想像できない、普通に考えればこの建物の中に収まるとは思えないような、階段や坂などが出現する。
ただ、入口を入ると同じ距離の位置に二つの分かれ道がある事だけは変わっていない。
回廊は殆どの子供には見え、入れる。
大人の殆どには見えず、入れない。
ここまでの情報は、少なくともこの町の子供なら誰でも知っている。
志義は更に、これまで200回余りの回廊探検の経験を、細かく分析していた。
それによると、入口直ぐの分かれ道を左に行く(左ルート)と、いつの間にか入口に戻ってきてしまう、というパターンが多い。右の道を行く(右ルート)と、行き止まりが多い。
右ルートは道の変化が少なく、左ルートは頻繁に道が変化する、という事にも気付いた。
中途で引き返すと、元来た道ならその道で、別の道ならもっと短距離で、必ず入口に戻れる。
行き止まりを作る壁は、いくつかは押すなり引くなりとどうにかすれば、開けて先へ進めるようだ。
そして、〈中心部〉と呼ばれる空間が存在する、という話。
志義はまだ、一度も中心部に辿り着いた事が無い。
だが、数々の噂と体験談の共通点の多さから、間違い無く中心部は「ある」という確信があった。
2,康太、花鈴、真貴也、〈誰か〉
★★★
今、志義は大通りを歩いている。
(私は招かれざる客という事か)
200回も入って、それでも中心部への手掛かりさえ掴めない。
志義は心底悔しがった。
そんな感情を、やや猫背気味の姿勢が表している。
「よう、志義。今日も回廊に入ったのか」
彼女の後ろから陽気な声を掛けてきたのは、志義の数少ない友人の一人、鳴康太(なり・こうた)だ。
丸顔で小柄な16歳は、志義の険しい顔を晴れさせようと、にいっと笑った。
康太はいつでも明るい。彼が落ち込んでいる姿を見た者は殆どいないらしい。好奇心旺盛で、回廊にしょっちゅう入る。
「20歳までに回廊の謎を解く」
のが目標だとか。
「入ったよ」
背筋を伸ばして、志義が言った。
「今日は何か収穫したか。成功でも、失敗でも」
康太が聞く。
志義は肩を落とした。
「全然駄目。今日もいつもと同じ、行き止まりだ」
ふと、志義は思い出す。
志義と康太の初対面は、回廊の入り口だった。
3年前のある日、志義が入口に立っていると、康太が隣に現れた。
――あんたにも見えるんだ。俺もだよ。この回廊は誰が見ても不思議だよなあ。
そう言いながら回廊に入り、暫くすると中から出てきて、
――あれえ?
と笑っていたのだ。
その日以来、二人は友となった。
康太の変な顔まで浮かんできて、志義は思わず笑ってしまった。
「何笑ってんだよ」
透かさず突っ込む康太、志義の笑顔を見てほっとした顔になっている。
「いや、ちょっとね……。それより、康太も回廊に行ったんでしょ。どうだった」
話を相手に振ってごまかす志義。
康太は笑い顔で額に手を当てた。
「いやあ、参ったよ。左の道に行ったんだけどさ、10分も経たないで戻ってきちゃってさ。朝だったから、学校には遅れないで済んだけど。最近、ずっとこんな調子だ」
康太は志義のような細かい分析はしていない。ほぼ直感だけを頼りに、謎解きに挑んでいるのだ。
「幸運だか、不運だか」
それを知る志義はこう言って、微笑した。
(この調子では、20歳までに解き切れないよ)
こんな志義の心中に、康太は気付かない。
「それからさ――おっ、花鈴(かりん)が来た」
濃茶の波打つ髪が目立つ少女が、横断歩道を渡って近付いてきた。
園池花鈴(そのいけ・かりん)である。志義の友人、17歳。
何やら複雑なオーラを放っているかのような空気を纏っている。
これはよく誤解を招く第一印象で、彼女が見かけほどに複雑な人間でない事を、志義はよく知っている。
(結構シンプル)
と志義は評する。
「やっぱり。また回廊に入ったんだ。これで何百回目」
志義の隣に来た花鈴が、にこやかに聞いた。
「201回目。花鈴は図書館に何百回目」
志義が自然な笑顔に変わる。
「そんなの、忘れたわ」
温かみのある笑い顔で花鈴が答えた。
「回廊の本が出ればいいのにね」
本の虫みたいな彼女らしい冗談も飛び出した。
「もし、本があったとしても、私は自分の足で回廊を探りに行く」
笑顔のまま、真面目な返答をする志義。
「それじゃあ、その方針を貫き通したら」
花鈴も笑ったまま言う。
花鈴も、志義の性格をよく知る。
志義が有言実行型、且つ不言実行型だという事も。
「俺、俺も志義と同じだよ。やっぱり、自分の目で見て確かめたいもん」
俺を忘れるなよ、とばかりに康太が言った。
ふふっと花鈴が笑う。
「二人とも、すっかり回廊オタクね。――あっ」
左の道を指す花鈴。志義と康太もそちらを見た。
紙連真貴也(かみつれ・まきや)が現れた。
志義と同い年、ひょろりと背が高く、面長。どこからでも彼だと直ぐ分る。
真貴也が駆けてきた。なぜか、三人の後ろに回る。
それから、「わっ」といきなり大声。
三人は特に反応しない。いつもの事だからだ。
彼の不可解な行動も、慣れてしまえば驚く事は無い。
そんな真貴也が呆れられつつも皆に受け入れられている一因に、思い掛けないタイミングで飛び出す名言らしきものがあった。
真貴也が発する言葉は、たまに誰かを感心させている。
「無視かいっ」
当てが外れた真貴也はへらっと笑った。そのまま三人の後ろを歩く。
「それよりさあ、志義。中心部の魔物には会えたのか」
彼もまた、迷路に入る感覚で回廊に行っている。
今、真貴也は珍しく、自身は興味の無いはずの話題を口にした。
「居るのは絶対に〈魔物〉じゃない」
志義は真顔で抗議した。
★★★
回廊の中心部には〈誰か〉が居るらしい。
それも、一人ではなく、何人かが。
回廊そのものの不思議さと同じくらい謎な事として、この町の子供達の間で話題になっている話だ。
その〈誰か〉は、回廊に入る人を攻撃してくる、と言われている。その為、〈誰か〉を指して〈魔物〉と呼ぶ者も少なくない。
だが、〈誰か〉はどうやら人間のようだ。
少年だとも、少女だとも言われるが、真相は全く不明。
〈誰か〉が回廊の道を変化させる、回廊を操っている、という噂もある。
中心部を見つけ、〈誰か〉に会って話をしたい。
それを最も強く望んでいるのが志義だ。
全ての真相は、彼らに直接会って、腹を割って話せば、解き明かされる。
志義はそう信じている。
それだけでなく、中心部の人物自身の話も聞きたいのだ。
彼らが何を考え、なぜ回廊に居るのか。そこを特に知りたがっている。
志義は、このような理由で、根気強く回廊に入り続けて、中心部を探しているのである。
その姿は、何も知らぬ者には、やみくもに時間をつぶすだけの、将来の夢も無さそうな愚かな若者、としか映らないだろうが。
しかし、そんな事は承知の上だ。
志義は秘めているのだ。
私こそ回廊に立ち向かわなければならない、と思うに値するだけの〈意志〉を。
3-1,はじき出し
★★★
5日後。朝から青空が広がる。
朝早くから、志義は回廊の入口に立つ。
作戦を練るなら、現場の方が頭が冴える、と考えたからだ。
竹林を抜けた風は、熱気を忘れてきたかのように涼しい。
葉と葉が擦れる音と共に、土を蹴ってくる足音が聞こえた。
「よっ、志義。お先に」
まだ何も考えついていない志義の横を、真貴也が走っていった。
後ろから康太も駆けてくる。
二人はその勢いのまま、回廊に吸い込まれるように入った。
「よし、決めた。二人を追ってみよう」
志義も回廊に入った。
二人を見失わないよう、走る速さを上げる。
前方の二人は、最初の分かれ道を左に進んだ。
「ああ、だから左は駄目だってば。全然学んでない」
左ルート、それは奥に行きにくい道、のはずだ。
志義はややがっかりした。
というのも束の間、思い直した。
左ルートは道がよく変わるのだ。
偶然にも中心部に辿り着ける可能性がある。
志義は二人を追い続けることにした。
左ルートを行くのは1か月ぶりだ。
でも、前回と道が異なる事に気付くのは遅くなかった。
いきなりジグザグに折れ曲がっていたから。
次は狭い直線。
その次は幅の広い、緩い左カーブの下り坂。
何もかもが前回と違う。
真貴也と康太は止まりもせずに、どんどん先へ行ってしまう。
カーブがきつくなり、蛇行する形になる。
志義は直ぐに二人を見失ってしまった。
十字路に出た。
どの道にも二人の姿は無い。
「うわあっ!」
真貴也と康太の声だ。左から聞こえた。
「一体何があった」
左の道へ行く。
十数メートルで、丁字路に着いた。
左右とも、幅が2メートルの長い直線の道がある。
そこにも真貴也と康太はいない。
「どういう事。確かに、この辺りで声がした」
十字路に戻ってみる。
二人の気配さえ感じなくなっていた。
その時、志義の脳裏に、ある噂話が浮かんだ。
「まさか」
慌てたように、志義は来た道を走って引き返した。
今日は毛糸を使わなかったが、自分が通った道は覚えている。
入口に着く。
そこには、康太と真貴也が転がっていた。
「機嫌が悪かったのかな。はじかれちゃったよ」
あははと笑って、康太が明るく言う。
「何があはは、だよ。思いっきり吹っ飛ばされたってのに」
真貴也が腰をさすりながらぶつぶつと言った。
「何がどうなったの」
志義が二人に聞く。
立ち上がりつつ、康太が説明した。
「丁字路を曲がったら、なぜか入口があったんだよ。戻ろうとしたら、なんにも無いのにばんって体を飛ばされて、こんな状態」
「俺も康太と同じ」
真貴也も立った。
「やはり、そうか……」
呟く志義の頭は、先程浮かんだ噂話で満ちる。
(中心部に居る〈誰か〉は、機嫌が悪い時、回廊の道を変化させて、回廊に入ってきた人を追い出す。それでも入ろうとすると、魔法か何かを使って、外へはじきだす。――この噂の通りなのだろうか)
康太がさっき言った事も、これを踏まえている。
(機嫌については何とも言えないが、二人が追い出された事は事実。道は、きっと〈誰か〉が操作して変化させたに違いない)
志義は振り向いて回廊を見た。
回廊が「入るな」という空気を発しているかのように感じる。
(今日は無理そうだ、探検は)
回廊に背を向けた志義は、談笑中の二人に言った。
「私はもう帰る。あんた達はどうする」
「えっ、志義はもう行かないの」
康太が言った。彼はもう何度か入るつもりだったらしい。
それが顔に出ている。
「二人とも弾き出されたのだから、私が行っても同じでしょ。別の日に出直す」
「俺も、今日はもういいや」
真貴也は、〈ただの迷路〉で痛い目に遭った事がかなり気に障ったようだ。
「真貴也もかよ」
康太。
「んー、じゃあ、俺も帰ろうっと」
志義と康太と真貴也は、回廊を後にした。
気温が急激に上がっている。
竹林を通る風が生温くなった。
(回廊は一体何の為にある。中心部に居る人達は何を感じているのだろう)
志義はずっと考えていた。
3-2,ジルダゼラミ
★★★
その頃。
回廊の中心部には、一人の少女が居た。
長身で、腰より長い真っ直ぐな黒髪が目立つ。
服装は、灰色無地の服と、同様の平たい靴。
顔色が良くない。
切れ長の黒い瞳は鋭い光を絶やさない。
彼女こそ、回廊の中心部に居る〈誰か〉の一人、ジルダゼラミである。
彼女を閉じ込めるかのように、三角錐の辺を模った太い綱があった。
綱はゆっくりと回転していて、彼女が動けば共に動いた。
ジルダゼラミは常にこの綱の三角錐の内側に身を置く。
これ故、彼女は〈綱の檻の姫〉とも呼ばれる。
「疲れた……」
宙に浮いていたジルダゼラミが床に降りた。
崩れるように座り込む。
顔を伏せ、目を閉じた。
呟いた通り、表情は疲れ切っている。
先程まで、ジルダゼラミは、回廊にいた人全員を追い出す為に、持てるあらゆる能力を駆使していた。
それは彼女にとっては、体力よりも気力を大量に消費する行為だ。
ジルダゼラミがぱっと目を開いた。
上げた顔は疲れを滲ませつつも、ぴしっと引き締まっている。
眼光がぎらつく。
警戒心と恐怖心と嫌悪感が綯い交ぜになった空気を発する。
「私は――」
ゆっくりと、ジルダゼラミが立ちあがった。
「――そう簡単には散らないんだから」
どたばたという足音が聞こえ、大きくなってくる。
中心部に続く沢山の道の内の一本からだ。
ますます険しくなるジルダゼラミの顔。
「来やがった」
音がする道の方を睨みつけてジルダゼラミが言った。
間もなく、中心部に4人の少年が来た。
18歳くらいだろうか。
この世代に多く見られる、薄気味悪い曇り声で笑っている。
ジルダゼラミが宙に舞った。
それと同時に、右腕を大きく横に動かす。
すると、中心部内に何本もの太い綱が現れ、少年等目掛けて勢いよく飛んでいった。
「うっ、うわっ」
綱は少年等の腹部に鋭く叩き込んだ。
その勢いで四人は仰向けに吹っ飛び、床に叩きつけられた。
四人の顔からは笑みが消えた。
「くそっ、こいつ」
一人が立ち上がり、ジルダゼラミに向かって走った。
手を伸ばし、彼女の足に触れようとする。
綱の檻の中に手を差し入れようとした瞬間、檻の隙間に見えない膜があるかのように手が阻まれた。
びんっという音が鳴り、少年は弾かれ、再び床に転がった。
「お前、まさか――」
別の少年が叫ぶのを遮って、ジルダゼラミが左手を払った。
細くて長い綱が現れ、四人に巻き付いて拘束した。
身動きが取れない彼等はばたんと床に倒れた。
「何をする気だ」
少年が吠えた。
ジルダゼラミはその言葉を無視し、少年等に近付いて見下ろした。
彼女の表情を目にした少年は怯えた目つきになる。
「私が元々誰だったか気が付いた? これからあの日の分の罰を与えてやるから覚悟しな」
他の三人も怖がる感情を曝け出した。
一人、勇気を振り絞っています、とばかりに言い返した。
「違う。俺達はあいつに命令されて、仕方なく――」
「言い訳なんか聞きたくない」
ジルダゼラミは右腕を斜め上に振った。
四人の少年は中心部から通路へ吹っ飛んだ。
「お前等も変わりなく同罪だ。二度と私の目の前に来るな」
両手を前に振りおろすと、壁が出現して、通路と中心部とを隔てた。
腕を外に開くと、壁が消えた。
通路にいたはずの少年四人まで消えていた。
ジルダゼラミが、少年等を回廊の外へ弾き飛ばしたのだ。
彼女が気を休める暇も無く、背後からどたばたと足音。
振り返ると、今度は9歳くらいの子供が5人、中心部に着こうとしていた。
「あんた達も、来なくていい」
左手を高く掲げる。
子供達のいる道が真っ暗になり、何も見えなくなる。
ほんの数秒で明るく戻ったが、子供達はいない。
これは、道を変化させて、子供達を入口に帰したのである。
ジルダゼラミの能力。
回廊の道を自由自在に変えられる。
空中に浮く。
綱を、手を触れずに操る。
この3つの力が、ジルダゼラミを守った。
「もう、誰も来るな」
床に降りたジルダゼラミは、静かに蹲った。
4,経験談
★★★
志義が202回目の回廊探検をした日の、翌日。
「よおし、これで4人全員揃ったな」
と康太。
志義、康太、真貴也、花鈴は、行き付けのカフェ『ひだまり』の前にいる。
「よおし、って、康太ったら。私達、ただカフェでお茶するだけなのに」
口元を手で隠して笑う花鈴。
「いいじゃん、花鈴。笑わなくたって」
康太が恥ずかしそうにもごもごと言った。
「早く入ろうぜ。暑くてばてそうだよ」
真貴也が音を上げた。
今は午後3時。
かんかんと照りつける太陽はまだ傾かない。
四人はカフェに入った。クーラーが程良く利いている。
この日の四人の格好は。
志義。黄緑色の7分袖のプルオーバー、濃紺のストレートジーンズ、白地のスニーカー。
花鈴。白地に小花柄の半袖のブラウス、茶色のクロップドパンツ、白いサンダル。
康太。青い半袖のTシャツ、カーキ色のカーゴパンツ、青地に赤い線が入るスニーカー。
真貴也。濃い灰色のシャツ、ベージュ色のチノパンツ、黒いスニーカー。
四人の私服は、いつも大体このような組み合わせである。
康太と真貴也はアイスコーヒーを、志義と花鈴はアイスティーを注文した。
今日の話題は、いつも通り、回廊の事で始まる。
康太と真貴也の、経験が全く生きていない探検失敗談がさらりと終わったところで、志義が切り出した。
「あのね、みんなに聞きたいんだけど」
「なあに?」
と真貴也。
「回廊での事で、最も印象が強かった体験を教えて」
「それなら」
まず康太が答える。
「あの出来事は、忘れようにも忘れられないよ。一度だけ中心部っぽい所に着けたんだ。男の子がいたんだよ。声を掛けようとしたら、目の前が急に真っ黒になって、気が付いたら、入口に戻されてた」
興奮した感じで、早口にしゃべり切ってしまった康太。
この説明では、志義は納得できない。
「一気に言わないで、もう一回、丁寧に教えてよ」
三人の、分かりません、という顔にようやく康太は気付いた。
「ごめんごめん」
今度は普段通りの、聞き取り易い話し方になる。
「もう2年くらい前かなあ、その出来事は。回廊に入って、左に曲がって、一本道を一気に走っていったら、沢山の道の入口がある、円い所に着いたんだ。そこが中心部だよ、きっと。
それで、そこに、俺と同い年くらいに見える男の子、いや少年って言うべきかな、彼が居たんだ。全然知らない人だった事しか覚えてないな。格好とか、顔つきとか、思い出せない。
で、話しかけようとしたら、少年が腕を高く揚げたんだ。そしたら、見える物全部が真っ黒になった。明るくなったら、目の前は入口さ。少年はどこにもいない。
そんなとこだよ。ああ、もう一回、中心部に行ってみたいなあ。そんで、そこにある物、居る人を見極めたいよ」
康太は欲しい物の幻を見ている人のような顔になった。
他方、真貴也は目を丸くし、志義と花鈴は驚いた表情で顔を見合わせた。
「康太が中心部に行った事があるなんて、初耳だ。俺は一度も行けなかったのに」
真貴也は羨ましそうな目で康太を見る。
「康太、その会えた少年は何か言わなかった」
志義が常の口調で聞く。
今現在、回廊を探っているかの如き心境で。
「いいや、何も言わなかった。本当に、しゃべってみたかったよ」
康太は悔しそうな顔をしてコーヒーをすすった。
(康太は、中心部に着けた。しかも、〈誰か〉に会っている)
「次、真貴也は」
志義が真貴也に顔を向ける。
うーん、と少し考えてから、真貴也が言った。
「インパクトのある話はなんにも無いな。回廊は迷路みたいで楽しいから、しょっちゅう入るんだけど。最近の回廊は、弾かれたり、飛ばされたり、荒々しいな」
(真貴也は、中心部に着けず)
「花鈴はどう」
志義が花鈴に聞く。
ぴた、と花鈴の動きが止まった。
その話が自分に向けられるのを恐れていたかのように。
俯き、暫く押し黙っていたが、周りが自分の発言を待っている事に改めて気付くと、花鈴はようやく言葉を発した。
「私……実は、回廊が嫌いなの」
予想から完全に外れた言葉に、真貴也と康太は「ええっ!」とつい声が出た。
一方、志義は真顔を崩さない。
静かな目で花鈴を見る。
康太が、先程の言葉が現実に出た物である事を自身に分からせた顔で、聞いた。
「何で、嫌いなの。面白いじゃん、回廊」
花鈴は目を閉じた。
「私、やられたの。中心部だと思える場所に辿り着いた時に」
目を開けた花鈴は、思い出を頭の引き出しから手繰り寄せて、ゆっくりと話した。
「誰もいない中心部で、いきなり現れた細い綱で頬をびしって叩かれた。何回も。血が滲んだ程よ。私は一目散に逃げた。綱は追ってはこなかった。気付いたら出口、じゃなくて入口に着いてたの。――それからは一度も回廊には入ってないわ。
私に攻撃を仕掛けてきたのは、きっと女の子よ。そんな感じがしたの。姿は見ていないけど、あんなふうに激しく襲ってくる相手が、康太が言っていた静かそうな少年だとは、どうしても思えないのよ」
「花鈴は、そんな目に遭っていたのか……。それじゃあ、回廊が嫌いになるのも無理はないよ。ごめんな、聞いちまって」
顔の前で両手を合わせて康太が言った。
「ううん、気にしないで」
花鈴が慌てて言う。
志義は、花鈴が今の話を、康太と真貴也が心配する程には苦痛にしていない事に直ぐ気付いていた。
「もう少し、それについて聞いてもいい」
一応、志義は確認を取る。
「ええ、いいわ」
迷いも無く、花鈴は答えた。
「その出来事は、いつの頃にあった」
志義。
「5年前よ」
花鈴、即答。
「5年前!」
声を揃えて驚いたのは真貴也と康太だ。
「ええ。忘れそうで、覚えているもの」
「もう一つ」
志義は更に尋ねる。
「回廊に入ってからの道と、逃げて帰る時の道は、同じだったか違ったか」
「たぶん、違うと思う」
今度は少し間が開いた。
「行きより帰りの方が、ずっと短く感じたわ」
「なるほど」
志義は考える。
(花鈴は中心部に着けて、攻撃された。その時も道は変化している。――〈誰か〉は、中心部に姿を見せるとは限らない。その上、〈誰か〉は何人かいる。その内の一人は5年以上前から回廊に居る)
「志義は? 志義はどうなんだ。5日に1回は回廊に行ってるペースだろ」
真貴也が志義に話を振った。
康太と花鈴も志義に顔を向けた。
「ええと」
志義、自分にも番が来るとは予想できなかった。
それでも、そんな事は表に出さず、普段通りに言った。
「前回、真貴也と康太もいた時、初めて、人が回廊の外に弾き出されるところに居合わせた。私自身は、弾かれた事も、無理矢理外に出された事も経験してない。中心部には、一度も行けた事が無い」
「えええっ!」
三人が声を上げた。びっくり仰天、という表現がぴったり合う。
「志義は、もう何回も着けてたと思ってたよ」
康太が身を乗り出した。
「行けていたなら」
志義が語気をやや強める。
「こうして、みんなからわざわざ聞かない。中心部に行く為には、少しでも多くの情報を集めて、分析して、参考にしなきゃ」
康太が体を引っ込めた。
「そこまでしても、中心部ってのは現れてくれないのか。そんなら、俺があてずっぽうに回廊に入るやり方で、もう一回あの少年に会うなんて到底無理だ」
「そういう事」
志義。
「康太、ようやく理解したね」
「全然気付いてなかったよ」
恥ずかしそうな照れ笑いをして康太が言った。
「それを踏まえて、これから回廊に行ってくるよ」
「もう4時を過ぎたぞ。康太、本気か」
真貴也はこの後、学校がある。康太についていく事はできない。
「本気だって」
康太も真貴也の予定は知っている。
「志義、回廊を出たら電話して結果を教えるよ」
「分かった。右の道を行ってみな」
さりげなく助言する志義。
「うん、分かった」
と康太。
「じゃあ、明日、また会えそうなら会いましょう」
いつの間にか花鈴は、他の三人のやり取りを、いつものように微笑んで見ていた。
飲み物を飲み干すと、四人はカフェを出て、解散した。
5,壁と幻
★★★
3時間後。志義の自宅の電話が鳴る。
「康太だな」
志義は電話に出た。
「もしもし、灯火です」
「志義。康太だ。今日は凄かったよ。今までで一番長い回廊探検だった」
興奮冷めやらぬ感じの声が、電話口から聞こえてくる。
「ほらね」
志義が微笑む。
「右ルートの方が長く進めたでしょ。それで、どうだった」
「最初を右に曲がった途端に長い上り階段。3本の分かれ道は真ん中にした。壁があったんだけど、持ち上げる事ができて潜れたんだ。その後にくねくねした道があって、五つ道があった所は左端を通った。下り階段を下りて、真っ暗なトンネルを通ったら、壁に当たった」
康太が説明した道順は、志義が知るルートの一つとぴたりと合っている。
「その壁はどうしても動かなかった。――そうそう、2メートルくらいの高さで、上だけに隙間があったんだ。俺にはあの壁は登れないよ。ジャンプしても壁の先は見えなかった。だから、諦めて引き返してきた」
志義は、壁の様子までは覚えきれていなかったので、康太の話を元に、思い描いてみる。
「その壁の、上の隙間って、どのくらいあった」
「結構幅があったし、高さもあった気がするなあ。もしかしたら、壁の上に立てるかもしれないよ」
思い描けた壁を脳内でよく見ていると、志義に考えが浮かんだ。
「志義、何かひらめいたのか」
さすがは志義の友。電話越しでも彼女の様子を感じ取る。
「その壁、登ってみよう」
志義は思いついた事をそのまま言った。
「え! 登れるのか」
自分で「登れない」と言っていたのを忘れて、康太が言った。
「試してみないと分からないけどね。今度、回廊に行ったらやる」
「頑張れ」
康太の、わくわくしている、純粋な応援の声が聞こえる。
「じゃあ、また。ありがとう、康太」
「またな」
志義は電話を切った。
今、志義は「今度」と言ったが。
(康太が行ったルートは、最も時間が掛かる。余裕のある日でないと試せないな)
豊富な情報分析がある志義だからこそ、行く日に迷うのであった。
★★★
どんよりとした曇り空の日。
用事を済ませた志義が、
(ちょっとだけ時間がある)
という事で、回廊の側に行ってみると。
真貴也が、回廊に1歩目を入れようとするところだった。
「真貴也、これから入るの」
真貴也が大層驚いた顔をして振り返った。
「びっくりさせるなって。そうだよ。これからまた行くんだ」
今日の真貴也は学校も仕事も休みだ。
「また、って、今日は何回目なの」
志義。
「4回目だ。んじゃ、10分で出てくるから、そこに居てみてよ」
回廊から早く出られたら勝ち、というゲームを一人でしているみたいだ。
真貴也は回廊に駆け込み、直ぐに姿が見えなくなった。
言われた通り、志義は真貴也を待った。
「本当に出てこられるの」
10分より短い時間で回廊から出た事は、志義にもある。
ただ、それは情報を殆ど持たない初期の頃の事。
二月もすると、十分に探検しようとすれば10分で脱出するのは難しくなった。
1年前にこの町に引っ越してきた真貴也については、回廊探検歴の初期、とも呼べなくはないが。
20分が経過。
真貴也は出てこない。
「これは、完全に迷ったな」
苦笑いして、志義は回廊に入った。
回廊の中は、迷宮のように入り組んでいる、と思われる。
今の真貴也のように、道に迷ってしまう人はよくいて、珍しい事ではない。
それでも、大抵は1時間か2時間で入口に戻れる。
これも、〈誰か〉の仕業ではないか、と志義は考える。
どこに真貴也がいるのか分からないので、志義はとりあえず左ルートを選んだ。
「真貴也! 返事しろ!」
と大声で呼びかける合間に、
「回廊の〈誰か〉さん、真貴也を見つけさせて」
と壁に向かって言い続けた。
やはり、左ルートは様変わりしていた。
ジグザグの道は無く、何も障害の無い緩いカーブが長く続いた。
その道を10分くらい歩くと、道の中央に立ちつくす真貴也の姿が見えた。
「真貴也、見つけた」
志義が駆けた。
「志義」
安堵の表情で真貴也が叫んだ。
「ああ、よかった」
真貴也。
「自分がどこにいるのかさえも、分かんなくなっちゃってたんだ」
側に来た志義に真貴也が言う。
「引き返せば直ぐ出られる。さあ、こっちだ」
志義は真貴也と共に、自分が来た道を歩いた。
「あのさ」
真貴也が話し出す。
「俺、さっきまで、壁も床も天井も茶色い所にいたんだ」
「何、それ」
珍しく志義が驚いた顔をした。
「そんなの、見た事も聞いた事も無い」
回廊についての、真相の定かではない噂話にさえ、「茶色」という言葉が出てきたのを聞いたことは一度も無かった。
「本当なんだってば。今居る水色の回廊と同じように迷路みたいで、天井がかなり高くて、空間を壁で仕切っただけ、みたいな感じでさ。で、また気付いたら、こっちにいたんだ」
「夢でも幻でもなくて」
志義の言葉で、真貴也は分かったぞ、という顔をした。
「幻、それだ。きっとそれだよ。あんなに大きい空間が回廊にあるはず無いもんな。噂で聞いたんだ。中心部の〈誰か〉は、訳の分からない魔法みたいな力をいっぱい持ってる、って。その力で、俺に幻を見せたんだ。そうかあ、それだ」
真貴也は一人で勝手に納得してしまった。
幻、と言った志義はというと、納得どころか、ますますはてなが浮かぶ。
(本当に、幻を見せる技、幻術なんてここでも有り得るのだろうか。真貴也が言った通り、〈誰か〉はそういう能力も持っているのだろうか)
入口が見えた。真貴也は走って外に出て、深呼吸をした。
志義も走り出そうとした。
その時。
――僕達を、見捨てないで。
何かが、言葉を発している。
回廊の中で、である。
それが志義には聞こえた。
はっとして立ち止まり、後ろを振り返った。
そこには誰の姿も無い。
「今のは、一体……」
何者かの声の反響、即ち〈こだま〉、だろうか。
初めての出来事に、志義が動揺する。
先程の声のようなものは、もう聞こえなかった。
「どうした。早く出なよ」
外から真貴也が叫んだ。彼には全く聞こえなかったらしい。
志義は再び入口に向かって、歩いて外に出た。もう一度、回廊を見る。
何も起こらない。
「俺、今日は懲りた。帰るよ」
真貴也が先に竹林に姿を隠した。
(あれは、さっきのは、一体何だったのだろう。――まさか、〈誰か〉の声?)
あれこれ推測するが、その場では解明できそうにない。
志義は思考を止めた。時間が無くなってきたからだ。
雨がぽつぽつと降り出した。
志義は鞄から折り畳み傘を出して、差した。
雨脚が強まりそうだ。志義が早足で竹の間を通っていった。
★★★
その少年は、一人、考え事をしていた。
回廊の中心部で、宙に浮いたまま仰向けに寝転ぶ。
腕は頭の下に組み、左足を曲げている。
少年は、薄い水色の服を全身に纏い、裸足だった。
巻髪までもが薄い水色だ。
目の色は真っ黒で、顔の表情は優しくも険しくも見える。
「彼女の名は志義か……。君ならきっと、自力で中心部まで来られるよ」
回廊の全てを把握する事ができるこの少年の名は、フウ。
回廊に居る〈誰か〉の内の一人である。
志義に〈こだま〉を送ったのは彼だった。
「あの真貴也という人も、康太という人も、志義の友なのか。この二人には、あまり来てほしくないな」
真貴也を〈幻術世界〉に送り込んだのも彼の仕業だ。
この日は誰一人、中心部に来なかった。
フウはその事をつまらないと思いつつも小さく喜んだ。
この少年は何よりも孤独を好んだ。――それが、空しい事だと解っていながら。
フウが起き上がった。宙に浮いたまま胡坐をかく。
上を見上げて、
「今日は確か満月だったかな」
と呟いた。
「今日は見に行こうかな、満月」
フウは中心部から姿を消した。
6-1,ヒエラルキー
★★★
「あの丈夫な花鈴が、心労で倒れるなんて、ただ事じゃないぞ」
花鈴が学校を1週間も欠席している理由を知った志義、康太、真貴也は、全く同じ事が口に出た。
そして三人は、花鈴の許可を得て、家まで見舞いに行く事にした。
「真貴也、その箱の中身は、もしかしてケーキ?」
「ブルーベリータルト。花鈴が一番好きなやつ」
「お前の実家はケーキ屋だもんな。気が利くじゃん」
「おーい、二人。花鈴の家はここだよ」
話しながら目的地を素通りした康太と真貴也を、志義が呼び戻す。
チャイムを鳴らすと、花鈴の姉が出た。
彼女は花鈴より5歳年長だ。
「三人とも、よく来たね。妹はこっちの部屋に居るよ」
案内された部屋に入ると、10日ぶりに会う花鈴が、精いっぱいの笑顔で迎えた。
「雨の日なのに、わざわざ来てくれてありがとう。嬉しい」
まだ笑顔を作れるエネルギーがある事に、志義達はほっとした。
「はい、これ、ご希望の品」
真貴也から受け取った箱の中身に、花鈴は歓声を上げた。
「このブルーベルータルト、大好き! 甘酸っぱい、あの独特の味が最高なのよね」
花鈴はテーブルに並べた皿にケーキを乗せる。
早速、四人で味わった。
「花鈴、調子はどう」
と、志義が切り出す。
花鈴は俯いて答えた。
「はっきり言うと、良くないの。学校の人間関係が、日を追うごとに乱れていくんだもの。誰の手にも負えない程に悪くなってしまったし。私は強がって耐えていたけど、それも束の間。遂に、心も体も悲鳴を上げたわ」
「学校、そんなに酷いのか」
と康太。
「ええ」
花鈴。
「私、もうくたくた。他人の揉め事に、これ以上関わりたくない」
「今は自分の事で手一杯でもいいんじゃない。人は誰だって停滞する時期があるんだから」
真貴也が言った。
「真貴也、良い事言うなあ」
感心したのは、康太。
花鈴は、1つ大きな溜め息をつき、こう続けた。
「今どきの学校は駄目ね。教師も、同級生も、他の大人も、全然当てにならない。――学校って、勉強だけする所なの? 私は、そうであってほしくないって、毎日思いながら、頑張って通っているんだけど」
「その通りだよ」
康太。
「俺が行く学校も。生徒同士の関係が滅茶苦茶になっても、誰一人、力を貸してくれない。今の社会はどうかしてる。誰も声を上げないし、救いの手を引っ込めちまうし」
「今の生徒同士のいざこざはさ」
真貴也が話す。
「いじめも含めて、大人の助太刀無しには解決できなくなっちゃってるんだよな。だから、大人が見て見ぬふりをすると、ますますこじれていくんだ」
志義は花鈴に聞く。
「そもそも、どうして花鈴のクラスは乱れてしまったの。温厚で平和な学級だと有名なはずだったよね」
「それがね」
花鈴。
「中学校からの流れみたい。いじめられっ子だった3人の生徒が、いつの間にか、ヒエラルキーの最上位に入ってて、自分達をいじめた子達のグループを掻き回して壊していくの。私はどのグループにも入れてもらえなかったのが幸か不幸か、攻撃の的にならないようなんだけど……」
花鈴が言った〈ヒエラルキー〉の語は、この町の若者たちの間で急激に流行っているものの一つであった。
要するに、生徒同士の間に、縦の序列ができているのである。
花鈴のクラスは、序列の入れ替えなどに伴う喧嘩の連鎖で、纏まらなくなったのだ。
「何てこった」
目を閉じ、深刻そうな声で志義は言った。
「うわあ、怖い。本当に酷そうだ」
言葉通りの顔をする康太。
暫くしてから真貴也が、
「いじめられた人の苦しみが、一生消えないってのは本当なんだよなあ……」
と呟いた。
志義は目を開けた。
「休んだのは正しい。逃げて休むが勝ち。無理して通う必要なんか無い。勉強は後からでもどうにかなる。あなた自身の心と体の安全の方が大切だ」
花鈴が志義を見て頷いた。
「ありがとう。――さあさ、もう暗い話は止めにしましょう。楽しい事を喋って、元気にならなくっちゃ」
かなり無理のある笑みだ。
6-2,力説
「志義、あの詩はもうできたの」
「うん。書いてみた」
志義は趣味で詩をよく作る。
花鈴はその詩を読むのが好きなのだ。
鞄からノートを出し、開いてテーブルに置いた。
「俺達も読みたい」
と康太。
「今度はどんな内容かな」
康太と真貴也が、花鈴と共にノートを覗く。
題は、『叫び』だ。
≪
たとえ あなたが 心を開いてくれなくても
わたしは 今日も 待ち続ける
たとえ あなたの傷が深くても
わたしは そばに 居続ける
どんなに 悲しみが 大きかろうと
悲しみは薄れていくと 信じている
あなたの苦しみを
わたしに語ってほしい
日が暮れ 夜が更けても
聞き続けましょう
頑なに腕を 振り払われても
わたしは その手を握り続ける
絶望のどん底に 落とされても
夢を 希望を 自分を捨てないで
あなたの つらさがわかります
あなたの 怒りがわかります
あなたの 嘆きがわかります
あなたの 痛みがわかります
あなたの あの美しい笑顔が
また 見られる時が来るまで
わたしは ずっと 願い祈る
あなたが 解き放たれますように
あなたに逢えて よかった
心から 感謝 感謝している
≫
「私、感動した。とても素晴らしい詩だと思う」
花鈴が目をきらきらさせ、今日初めての自然な笑顔で褒めた。
他方、康太は文学通の如き批評をする。
「うーん。やっぱり、詩としては長すぎる。韻の用い方も中途半端で、技術的に良くないな。言いたい事を詰め込み過ぎ。もっと削ぎ落として、核心部分を際立たせなきゃ」
両極端な意見に困り、志義は真貴也にも聞く。
「どう思う」
頭を掻きながら、真貴也が言った。
「内容の良し悪しとか、体裁とか、細かい事は俺は分かんない。でも、なんだか、回廊の〈誰か〉に向かって呼びかけてるみたいな詩だなあ、なんて思った」
「そんなつもりではないんだけど」
と否定する志義をよそに、花鈴と康太は納得という顔をして、話を続けてしまう。
「確かに。中心部に居る人物は謎だらけ。どんな過去を背負っているのか。そもそもなぜ回廊に居るのか。志義は知りたくてうずうずしてるもん」
康太が言うと、
「そうね。きっと、志義ならこんなふうに呼びかけるわ。この詩の通りの姿勢なら、〈誰か〉さんも応えてくれそう」
などと花鈴が言う。
「でも」
真貴也。
「最近というか、ずっと回廊は荒々しいぜ」
志義も含めて、四人は少し考える。
「これは私の想像にすぎないけれど」
花鈴。
「彼等は、私と同じように苦しい事があって、停滞しているのかも。その苦しみを、回廊で発散させているんじゃない? 〈誰か〉さんも、苦労や辛さがあるのよ」
「そうだなあ」
康太。
「あんなにも、回廊に来た人々を攻撃したり、はじいたりするんだから、きっと、深い憎しみとかで、もがいているんだろうな。そうだとしたら、誰かが助けてあげないと」
いきなり、真貴也が身を乗り出した。
「何言ってんだよ、そんな訳ないよ」
志義達は呆然。
「本当に助けを求めているのなら、どうして、俺も康太もはじかれるんだ? 志義が中心部に辿り着けないのはなぜだ。花鈴が攻撃されたのは? ほら、そうなんだ。〈誰か〉は何も求めちゃいない。俺達の有り様だけ見ても、そう言えるだろ。十分な証拠になるだろ。来る者は拒み、去る者は追い立てる。そんなやつに手を差し伸べたって意味が無いよ。徒労だよ」
真貴也の力説に、康太と花鈴は黙ってしまった。
志義はそうではなかった。
「あんたは、拳の表面しか見ていない。本当に大事なのは、握った手の中身だ」
びっくりするほど冷静な声音だ。
「私達が回廊の〈誰か〉達に冷遇されても、その事イコール救いを欲していない証拠とはならない。人を信用していなければ、譬え手を差しのべられても、そう簡単には握らないものだ。
私には覚えがある。孤独に闘っている時の、心の壁の何と厚い事か。今の花鈴の状態が正にそうだ。そうでしょう?」
はっきりと花鈴は頷いた。
「でも、志義と、康太と真貴也、それに姉を、私は信じているわ」
と、付け加える。
志義は続ける。
「花鈴はこのような心境故に、私の詩に共鳴したのだと思う。
人の心を開かせる為には、根気と信頼が必須だ。真貴也のような考えをする人は大勢いるが、そのような考えこそが、結局人を苦しめ、追い詰める。
詩に書いたように、待ち続けるしかないんだ。腹を割って話をするには、忍耐と覚悟が要る。
昔から私は、それを心掛けている。誰に何と言われようと、私は自分のやり方を貫く。それが、私が信じる最善の策だ」
聞き手三人は志義の話を遮らない。
彼女が、中途で話を遮られる事を心底嫌うのを知っているからだ。
「回廊に居る人が助けを求めているのなら、その助け人に、私がなる」
真貴也は反論をしなかった。
部屋に掛かっている音楽が鳴り止んだ。
CDが止まったらしい。
「あら、止まった」
と言って花鈴が立ち上がったので、回廊の話はそこで終わりとなった。
(ありがとう、花鈴)
自分が空気を悪くした、と思った志義は、花鈴の機転に心から感謝した。
再び、音楽が流れる。
花鈴好みのクラシック音楽だ。
「俺はロックの方が好きだな。クラシックは、どうしても眠くなっちゃうんだ」
真貴也が欠伸を隠しながら言う。
「そうなの。私は逆よ」
「俺はジャズが好き」
いつものように、すんなりと話題が変わる。
今は、各々が好きな音楽の話でわいわいと盛り上がる。
笑いで部屋が満たされた。
その間、志義は専ら聞き役であった。
長居になる前に、志義は帰る事にした。
真貴也と康太もそうした。
志義は花鈴の手を握り、
「人間は叩けば伸びる鉄ではない。焦らずに、しっかり療養、だよ」
と、強く言った。
「うん」
花鈴も強く頷いた。
「みんな、ありがとう。今日は久々に楽しい気分になれたわ。気をつけて帰ってね」
花鈴に見送られながら、志義達は帰路に着く。
雨は、まだ止まない。しとしと、降り続く。
「回廊の人が、泣いてるみたい」
真貴也が呟いた。
十字路で、別れた。
志義は右へ、康太と真貴也は直進した。
「志義と花鈴の絆は凄いよ。決して切れないんだろうなあ」
真貴也が言うと、
「絆って言葉は、そもそも、切れない縁の事を言うんだよ」
康太が知識で返す。
「縁、か。縁と言えばな……」
後ろを振り返る二人、志義が帰った方角を見る。
「志義と回廊も、縁だな。腐れ縁だ」
ぼそっと真貴也が言った途端に、康太は吹き出した。
7-1.声掛けと〈こだま〉
★★★
翌朝。暑いのに、秋を思わせる色合いの青空だ。
志義が真っ先に向かったのは、やはり、回廊だ。
格好は、いつもと同じ。
今日は、左ルートを行く。前もって決めていた。
ある作戦を試すのだ。
入口では止まらず、ずんずん進む。
最初の分かれ道を左に進むと、直ぐにジグザグの道が現れた。
「また、変わってる」
前回、康太と真貴也を追った日は、緩いカーブから始まったはずだ。
作戦開始。
壁をこんこんと叩き、はっきりとした声で言葉を発する。
「中心部に居る〈誰か〉さん! 居るんでしょ。少しでいいから、返事をして」
「姿を見せて。一度でいいの」
「名前を教えて。あなたはきっと〈誰か〉と呼ばれたくはないはずだ」
自分でも奇異だと思いつつ、この声は〈誰か〉が必ず聞いている、と考えていた。
「中心部はどこ? 私はそこに行きたい。もう200回は来ているんだから、そろそろ着きたい」
(あれ、今のは愚痴かな)
と志義は反省する。
直線の下り階段、50段。
右カーブの緩い上り坂。どんどんカーブがきつくなる。
最後は螺旋状になった。
頂上は、狭い直線の道が続いていた。
次は左カーブ。
この間も、志義は喋り続けた。
声が枯れそうになる。喉が乾燥してきた。
これまで、〈誰か〉からの返事はなく、音は自分の足音のみ。
志義は遂に口を止めた。
そこは丁字路。
右は行き止まり、左は急な上り階段。
「この方法も、駄目か」
引き返す決心がついた。
振り返り、来た道を目が捉えた。
――私はそう簡単には散らないんだから。
回廊の中に、何の前触れも無く響き渡った。
澄み切った、鋭い、高い音程の声。
恐らく、女性の声。
志義は驚き、辺りを見回す。
人影は無く、気配も無い。
直ちに冷静さを取り戻した志義は、
「これはきっと、〈こだま〉、〈誰か〉の声だ」
と口に出した。
「でも、私の呼びかけに答えたのではない」
向きを変え、階段を駆け上る。100段。
幅が5メートル程の道に出る。
前方は壁が塞いでいた。でこぼこしている。
壁を押す。
窪みに指を掛けて横に引く。
常の如く試してみた。
壁はびくともしない。
「進めない」
志義は呟いた。
――君が中心部に来るのを待っているよ。
また、〈こだま〉だ!
今度の物は、先程と同じ声ではなかった。
声変わり前の少年の声、であろうか。
とても深みがあって、独特の空気を作り出しそうだ。
(あ! これは)
先日、回廊で迷った真貴也と共に入口を出た時。
その時に聞いた〈こだま〉と同じ声だ。
声の主は、姿を現さない。
志義の驚きは、先程よりも遥かに大きかった。
なぜならば、
「今のは。私に呼びかけた?」
そのように受け取れる内容だった。
いきなり、回廊が薄暗くなった。
首を巡らすと、来た道がぐにゃりと捩れて、渦を巻くように回転するのが見えた。
回転が解けると、そこには。
「入口が!」
明らかに、外の景色が見える、入口だ。
反対方向は壁があり続ける。
ほかに道は無い。
「帰るしか、無いって事なのか……」
目の前で回廊が変化する。
こんな体験は、初めてだ。
仕方が無いので、志義は入口へ歩き、回廊の外に出た。
何度振り返っても、回廊は壁で塞がれ、中に入る隙を見せない。
(そう見えるのは、自分だけか)
志義は腕時計を見た。
時間の余裕が無い。家に帰って、学校に行く支度をしなければ。
「必ず、必ず、中心部に辿り着いてやる」
込み上げる物を上手く消化できないまま、志義は叫んだ。
駆けた。
竹林を、竹にぶつからないよう走った。
ただ、無意識だった。
頭の中は、悔しさと呼べる感情で満ち満ちている。
ふと、志義の脳裏に浮かんだ。
(少年の声の〈こだま〉の言葉では、私が中心部を探しているのを知っているかのような中身だった)
歩く歩に替え、考えを整理する。
(いったい、彼等は何者なのだろうか。どうして、私の意図を把握済みのように言ったのだろう。
それと、女性の声の〈こだま〉は、あの言葉の意味は何なのだろう)
元々細い目元が、更に細くなっていった。
7-2,応戦
★★★
志義が回廊に入って喋り通しでいた頃、中心部では事件が起きていた。
10代後半と思しき6人の少女等が、左ルートで、中心部に向かってずかずかと歩いていた。
全員、流行りの格好である。
無論、あの人物が気付かないはずが無い。
中心部のジルダゼラミは覚悟を決めた顔になる。
「こうとなれば、戦うしか手は無い」
ジルダゼラミは床から宙に跳び上がった。
間もなく、一本の道から少女等が来た。
それぞれが、両手にバケツを持っている。
バケツの中身は、泥だ。
びりびりと空気が張り詰めている。
空気を裂いたのは、六人の内の一人の叫び声だ。
「ほら! やっぱりアイツよ」
「この死に損ないめ」
少女等は一斉に、ジルダゼラミ目掛けて泥をぶちまけた。
ジルダゼラミは、咄嗟に腕で顔を庇った。
びんっ、と強い音が空間に響く。
ジルダゼラミは無害であった。
綱の檻の隙間は透明な壁となって泥を弾き、彼女を守ったのだ。
「そんな馬鹿な」
最も背の高い少女がショックを隠さない顔で叫ぶ。
更に、別の少女が顔を強張らせながら言い捨てた。
「お前なんかこの世に要らない。お前なんか、今度こそ死んじまえ」
腕を下ろしたジルダゼラミの表情を目にした少女等は、急に余裕を失くして、後退りを始めた。
それは、この少女等が今まで見た事の無い、憤怒の形相である。
切れ長の目は、恐ろしい憎悪のみで満ち溢れる。
「自分の手で殺す気も無いくせに、『死ね』と簡単に言うな」
ジルダゼラミの雷が落ちる。
「私はそう簡単には散らないんだから」
鋭い声が回廊中に反響し、ますます恐怖の風を吹き荒らす。
「7年過ぎれば時効だなんて思うんじゃない。今の私になら何をしても許されるなんて考えるんじゃない。私は一度だってあんたたちのしでかした事を忘れた日なんか無いんだから。あの日々の分の報いを受けるがいい」
少女等は慌てて逃げ出そうとする。
ところが、先程まで開いたままだったはずの、中心部に続く道の全てが、壁で閉ざされている。
少女等は中心部に閉じ込められた。
逃げ場は、無い。
「出して。出しなさいよ」
壁を乱暴に叩いたり蹴ったりする六人。
「そうはいかない」
低く静かな、少年の声がした。
次の瞬間、中心部に突然、フウが宙に姿を現した。
「フウ!」
驚いたジルダゼラミが声を上げた。
フウが腕を垂直に素早く挙げた。
天井近くに、無数の針が出現する。
それらはフウが腕を下ろすと同時に動き出し、指差した少女等に向けて全て飛んでいく。
「きゃー!」
全身に針を浴びた六人は悲鳴を上げた。
針は刺さると直ぐに消え去ったが、少女等の肌や衣服に点点と血が浮かんだ。
よほど痛いのだろうか、六人とも床に倒れ込む。
すかさずジルダゼラミが左腕を横に払い、六本の綱を出した。
彼女が手を組むと、綱はそれぞれ少女等に絡みついた。
綱は首まで達して、じわじわと絞めた。
「くっ、苦しい……」
「お前等が過去にしてきたのは、それと同じ痛みと苦しみを与える事だ」
再び怒りの色を見せるジルダゼラミ。
「ジルダゼラミ、そのくらいにしておけ」
少女等の顔から血の気がどんどん引いていくのを見て、フウが言った。
ジルダゼラミは渋々、組んだ手を解いた。
綱が消え、息ができるようになった少女等は床に伏せたまま咳き込んだ。
「昔みたいに、ちょっとしたおふざけ、で済まさせる時代は終わった。今でも過去の了解が通ると思うのは大間違いだ」
冷然と言い放ってから、ジルダゼラミはフウを見た。
「どうするの」
「もういいだろう」
フウが左腕を高く掲げた。
中心部と道を隔てていた壁が全部消えた。
次いで、その腕を横に大きく動かすと、突風に煽られたかの如く少女等が道まで吹っ飛んでいった。
「二度と――」
フウが言いかけると、
「――私の前に顔を出しに来るな」
ジルダゼラミが続きを一息で言って、腕を挙げた。
少女等のいる道が真っ暗になる。
明るさが戻ると、少女等はいなかった。
回廊の外にはじき出されたのである。
ぐったりとした様子で、ジルダゼラミは床に降りた。
「回廊から、全員追い出して、フウ。私、もう疲れて動けない。頭にもきまくったし。一人になりたい」
「分かった」
フウは全神経を集中させて、回廊内の様子を探る。
ある地点に、一人の女性が居るのを感じ取った。
その気配は、フウにとってはもはやお馴染みと言ってよかった。
フウはジルダゼラミを見た。
彼女は床に大の字になって荒い息をしている。
その近くの床には、少女等が投げ付けた後の泥がまだ残っている。
回廊の中を探っているあの女性がいる方角を向いて、フウが呟いた。
「君が中心部に来るのを待っているよ」
「待ってない」
とジルダゼラミが反応する。
「いいから、早く追っ払って」
手を組み、フウはいつものように回廊を変化させた。――今日は仕方なくそうした。
回廊から人の気配が無くなった。
「これで誰もいなくなったよ」
再びジルダゼラミを振り返りながら、フウは優しく言った。
小さい声でジルダゼラミが言う。
「泥は私が片付ける。ここは私の空間だから。
フウ、今回も助けてもらってしまった」
「いいんだよ。君が困っている時には、いつでも力になるから」
微笑んで、フウはぱっと姿を消した。
中心部には、ジルダゼラミの荒々しい息遣いだけが響いていた。
8-1,壁とからくり
★★★
その日、志義は一日がかりで回廊探検をするつもりでいた。
(時間はたっぷりある。今日は何度でも挑める。
まずは、康太が言っていたあのルートからだ)
上に隙間がある壁で行き止まる、右ルート最長の道筋。
志義は回廊の前で歩を止め、背負う小さな鞄を目で確かめた。
一言「よし」と声に出してから、回廊に入った。
最初の分岐点を右へ。
曲がりもある、300段の急な上り階段。
志義は体力に自信がある。
息も切れず、脚もさほど重くならない。
特に何かを考える事はせずに、黙々と進んだ。
3本の別れ道。
「ここは、中央だ」
ポケットから小さなノートとペンを取り出し、こまめに道順を書き留めておく念の入れよう。
行く手の壁、これは持ち上げて潜り抜ける。
くねくねと曲がりうねる道。
続く5本の分かれ道は。
「康太は、左端を選んだ」
入った途端に、緩やかな下り階段。
知らなければ踏み外すだろう。
「――198、199、200。ここもこんなに段数がある」
明るいはずの回廊内では珍しい、真っ暗な道。
壁に手を当て、そろそろと慎重に進む。
暗い道の先にある明るい道とは、くっきりと境界がある。
そこから少し直進すると、例の壁に着いた。
志義は壁を見つめる。
高さは、彼女の背丈より頭2つ分程高いので、約2ートル。
その上に、1メートル弱の空きがある。
横幅は、背丈の2倍。
壁の横に隙間は無い。
色は水色。
まず、壁を押してみる。びくともしない。体当たりも効果無し。
壁に窪みが無いので、引く事はできない。
この先を知る手段は、一つだ。
「それにしても、なぜ、康太に言われるまで、壁を登るという発想が無かったのだろう」
思わぬ落とし穴だと感じて、志義はこれまでを悔しんだ。
直ぐに、気分を切り替え、下調べに掛かる。
跳ねて、壁の上に触れる。
3回やった。これは壁の厚みを測る為だ。
掌の長さより先がある。
10センチメートル以上あるのは間違いない。
「壁の上に立つのは可能だ。一気に行くぞ」
志義は壁から距離を取ると、思い切り走った。
壁を蹴って体を上方へ持ち上げ、手を壁の上に置き、勢いが落ちる前に右脚を上げた。
足を壁の上に置くのと同時に左脚も上げる。
いとも簡単に、志義は壁に乗った。
「やった。登れた」
笑顔が弾けた。
「さて、壁の先は」
道がある。緩い左カーブの道。
全てが水色になっている。
壁を降りかけて、志義は一旦止まる。
「降りる前に、探ってみよう」
横の壁まで動き、壁を叩く。
右と左と、2回試す。
音が違う。
右はこんこんと高く鳴り、左はぺたぺたと響きが無い。
「何かがあるなら、右だ」
右の横壁を隈なく見ると、指を掛けやすい窪みがあった。
「まさか」
指を掛け、強い力で引く。
ばたん、と、壁の一部が取れた。
取れた壁の所には、空間がある。
真っ暗で、人一人が腰を屈めれば通れるかという通路だ。
先は分からない。
「こんな所に隠し道が」
驚いたままの頭で考える。
(目立たない通路を設けるくらいだから、こちらにこそ何かあるはずだ)
志義は通路に入る。
自分の姿を確かめる事さえできない暗闇の中、腰を低くしたまま進む。
通路は思いの外、長い。
次第に腰と背中が痛くなった。
四つ這いに替えた。
通路の先は塞がれている。
叩くと、壁というより、厚い木の板の感触だ。
いつものように試していると、塞がりが横にずれて動いた。
引き戸だ。
通路から出た所は、広い道の途上である。
普段から見慣れた、天井・壁・床全てが水色の、とても明るい道だ。
左右に開けている。
先程の暗い通路は、床から頭1つ分くらいの高さにあった。
「どっちに行こうか」
ノートに記録してから、志義は左を選び、走った。
直進。天井が徐々に低くなり、背丈と同じになった。
行く手に、またも壁。大きな窪みが沢山ある。
指を窪みに掛けて、横に引いてみる。
動いた。重い。
ずずず、と右に引き、人一人がやっと通れる隙間を作った。すり抜ける。
「回廊の壁は、完全な行き止まりではない物が多いな。からくり屋敷みたいだ」
回廊内の空調は快適だ。
今の気候が残暑である事を考えると、助かる。
「暑さをかわす場所に子供達が使う、という噂も頷ける」
壁から数歩に、右巻きで、下りの螺旋階段がある。
ここが最上段らしい。
階段の中央に柱が通っている。
階段の周りは壁が覆う。
左手で壁を探りながら階段を下っていく。
50段目。肩の高さの壁の音が高い。
「ここにも何かある。隠し戸か」
予想は大当たり。
壁と同色で分かりにくいが、取っ手が折り畳まれている。
取っ手を持って引くと、扉が開いた。
急な下り坂。
触ると、つるつるとよく滑る。
トンネル付きの滑り台を連想させた。
底は見えない。
だが、度胸も備える志義の事、坂に体を入れ、足から滑り下りた。
案外短く、あっという間に平らな床に着地。
この道は、天井がとても高く、幅は狭め。
再び、走る。
道はうねり、幅がころころ変わる。
天井の変化については、高すぎる為によく分からない。
8-2,確信
前方から、足音が聞こえる。
志義は止まった。
直ぐに、14歳くらいの少年3人が走ってきた。
至って普通の子供に見える。
彼等の顔は青ざめ、慌てている。
志義は胸が高鳴った。
回廊内で人に出会うのは、康太と真貴也以外では初めてである。
(回廊に入った子供達か。あるいは、〈誰か〉と関係のある人物か)
少年達は、視界に志義が入ると
「おっ」
と叫んだ。
そのまま、速度を緩めずに走り過ぎようとする。
「ちょっと待って」
と志義が呼びかけた。
少年の一人が、志義と擦れ違いざまに言った。
「ジルダゼラミにやられた」
少年達は行ってしまった。
逃げているかにも見えた。
「ジルダゼラミ?」
(聞いた事の無い単語。文脈からすると、名のようだ。――もしかして、中心部の〈誰か〉の名か)
志義は駆けた。
行く手は、天井が湾曲してアーチ状になっている。
道と、アーチ天井の先は光加減が異なる。
つまり、あの先は別空間だ。
アーチ天井部分を駆け抜けた所で、志義は止まった。
「ここは……」
天井が半球状の、ドーム型の空間だ。
上は遥かに高く、床は平ら。
床と壁の境は、先程通過したのと同形のアーチ状の部分がずらりと並び、一つ一つ壁で仕切られ、そのそれぞれが一つの道となって続いている。
全てが薄い水色で統一されている。
空間には、何も無い。
「回廊の中心部だ。間違い無い」
根拠の無い確信だが、こう思うまでに志義は迷わなかった。
中心部に居るはずの〈誰か〉は、居ない。
人の気配がしない。
「たまたま今居ないだけかも」
通ったアーチの真下に鞄を置いてから、空間の中央に立ち、待ってみる。
10分。誰も来ない。
20分。まだ誰も現れない。
床に座ってみる。
厚くも寒くもないのに、汗がじわりと染み出してくるのを感じた。
30分。全く気配が無い。
空間内を歩いてみる。
40分経った。
結局、〈誰か〉は現れなかった。
腕時計を見る。
もう昼と呼べる時間だ。
「時間が無い。帰らなきゃ」
志義は諦めた。
鞄を拾い、その先に続く、元来た道を戻る。
ノートに道順を記したのは大正解だ。
うろ覚えの道筋を、ノートで確かめて回廊内を歩く。
回廊の外に出ると、むわっと暑さが襲った。
「中心部に行く為に、これ程の苦労をしなくてはならないとはね」
振り向いて、入口を見ながら言った。
(達成感と、悔しさ、か……)
自分の内に渦巻く、もやもやの正体を当てる。
中心部に辿り着けた嬉しさ。
3年越しの目標達成。
一方、最終的な目標の、〈誰か〉に会う事は叶わなかった。
「中心部に居るはずの〈誰か〉さん、いつでもいい、私の前に現れて」
回廊に向けて叫んだ声は、竹林を抜けて涼んだ風に乗せられて、どこかへ消えた。
9,不変の絆、不変の道
★★★
翌朝、志義は花鈴の家の前に来た。
昨晩、花鈴から電話があり、
「2週間ぶりに学校に行くの。不安だから、付き添ってもらってもいい?」
と頼まれたのだ。
ドアが開いて、制服姿の花鈴が出てきた。
深い黒の制服が花鈴をより大人びて見せ、戻ってきた例のオーラらしき空気が、彼女に更に謎めいた雰囲気を持たせる。
不安げな表情の花鈴の目に志義が映ると、花鈴は笑顔を覗かせた。
「待たせて、ごめん」
「大丈夫。ゆっくり行こう」
二人は並んで歩き出す。
「きちんと休めた? 復帰が早すぎると思うけど」
「もう平気。十分休めたし、元気も取り戻せたから。心配かけちゃって悪かったわ。でも、気に掛けてくれて嬉しかった」
花鈴は、思った事をはっきりと表現する。
「志義に似せたの」
と、以前言っていた。
「志義の言葉が、私に力をくれたの」
だんだん自然な笑顔に変わっていく花鈴。
「そうだわ。志義、昨日も回廊に行ったって言ってたでしょ」
「うん」
「どうだったの」
「やっと行けた。中心部を見つけられた」
志義が声を明るくして言った。
「本当に! おめでとう」
「そんな、大袈裟な」
志義以上に喜ぶ花鈴に、志義は戸惑う。
「花鈴は『回廊嫌い』って言ってたのに」
「私が直接関わるのは確かに嫌だけど、ほかの人が頑張るのは応援する。良い事があって喜ぶなら、私も喜びたい。特に、あなたと」
花鈴はさらりと言った。
「なかなかできないよ、そういうの」
真面目な声に戻って志義が呟いた。
「中心部には、何があって、誰がいたの」
「それがね」
志義は昨日の光景を頭に蘇らせた。
「何も無いし、誰もいないし、空っぽと言っていい。途中で男子に会ったけれど、その人達はたぶん回廊に遊びに来ただけだ」
志義は中心部に着くまでの行程を話した。
「そんなに大変だったのね。私が中心部に行けた時は――10分もかからなかったはず」
「花鈴が進んだのは左ルートだったのかな。道がひっきりなしに変化するから、短時間で着ける道を通ったかも」
「なるほど。じゃあ、志義の行ったルートは、いつも変化しないのかしら」
「まだ分からない。私が進んだのは、きっと右ルートの一部だろう。何度か試してみないと」
「あの〈誰か〉が、居なかったのね」
花鈴は志義の様子からがっかりした気分を隠している事を感じ取ったようだ。
「会えなかった。絶対居ると思ったんだけどな。常に居る訳ではないらしい」
「きっと〈誰か〉は存在するわ。私が襲われたのは幻じゃないもの」
「そうだね」
学校の門が見えてきた。
「志義、もう直ぐ誕生日ね」
「え? あー、そうだ」
花鈴に言われるまで、志義は自分の誕生日を忘れていた。
1ヵ月後の10月18日。
志義は今年のその日で19歳になる。
誕生日は、カフェ『ひだまり』で祝う事にしている、志義、康太、花鈴、真貴也の四人である。
「またあのド派手な誕生会はやめよう。カフェでチーズケーキ頼むだけでいいからね」
と、志義が釘をさす。
門の前に来た。
「ありがとう、志義。私、頑張るから」
「頑張り過ぎないでね」
志義は構内に入る花鈴に手を振った。
いつも花鈴は後ろ姿が勇ましい、と志義は思う。
「本当に強い人だ、花鈴は。私も見習いたい」
志義は鞄を持ち直し、仕事先へ向かう道へ歩いていった。
★★★
この半年間、仕事と学校を両立させている志義。
残暑は体に思いの外疲れを溜め込ませていた。
体調と時間の余裕を考えた結果、どちらの用事もない日を選んで回廊に行くようにした。
回廊では、中心部に着けた時と同じ道筋を通る事を繰り返した。
道は変化していない。
毎回、中心部に着けた。
5回、同じ事ができたところで、志義は信じた。
(間違いない。このルートなら必ず中心部に行ける)
ただ、5回とも、〈誰か〉どころか誰にも会う事ができなかった。
〈こだま〉も聞けなかった。
「どうして誰一人として中心部に現れない。『待っている』という話は嘘だったのか」
少年の声の〈こだま〉を思い出し、志義は5回目(通算210回目)の回廊探検を終えた時につい口に出した。
竹林の中を歩いていると、真貴也と会った。
「どうしたんだ。珍しく落ち込んでるじゃん」
理由を言う余裕もなく、志義はただ
「まあね」
とだけ答えた。
「回廊なんて、そんなもんさ」
落ち込む原因をあてずっぽうに言ったような真貴也。
真貴也は人の負の感情に寄り添うのが苦手だ。
そのまま、真貴也は回廊へ行った。
志義は街中の道路に出ると、ふと思った。
(真貴也に、あのルートは見つけられまい。――もしかしたら、あのルートを知っているのは、私だけ)
特別な秘密を握った気がして、志義はちょっとだけ明るい気分になった。
10,それぞれの考え
★★★
秋が急にやってきた。
志義の誕生日は6日後。
いつもの面々が『ひだまり』に集う。
誕生会の相談だ。
「派手じゃなけりゃいいんだろ。せっかくの、一生に一度の19歳の誕生日なんだ。10代最後だぞ。今回もやろうよ」
康太は誕生会で特技を披露するのが最も楽しみなのだ。
「分かったよ」
とうとう志義が譲った。
(毎回のようなどんちゃん騒ぎみたいになってしまうのだろうか)
普段と違って悪い方に考えてしまう志義である。
「それにしても、なんで志義は絶対にチーズケーキでなきゃいけないの」
真貴也に聞かれても、
「秘密だ」
と、そっけなく答えた。
「そうそう、回廊の方はどうなった」
康太が聞いた。
回廊探検で目覚ましい成果を挙げてから今日まで、康太には会っていなかった。
秋は学校行事が多く、康太も例外なく忙しいのだ。
また、真貴也としっかり話すのも久々だ。
「花鈴にはもう言った事なのだけれど」
回廊の中心部に辿り着けた事。
そこでの様子。
中心部まで確実に行けるルート。
丁寧な説明に、康太と真貴也が聞き入る。
「凄いじゃん。さすが、志義」
と康太。
「でも」
真貴也。
「あんたが求めている物は、肝心な物が掴めていないじゃないか」
「言う通り」
志義は認めた。
「これを踏まえて、なんだけど」
三人の目が志義に向く。
「なぜ、回廊の〈誰か〉は、私の前に現れてくれないのか。みんなに考えてもらいたいな、って思った」
「何だ、そんな事か。色々と粘って待って、それでも〈誰か〉は来なかったんだろ。ほら、この前、俺が言った通りなんだ。来る物を拒んでるんだ。攻撃されたり、はじかれたりしないだけ、ましじゃないか」
雑とも取れる真貴也の理由からは、やはり〈誰か〉に対して良い印象を全く持っていないのが分かる。
「恐らく」
花鈴。
「何度も行くにもかかわらず会えないのは、志義を含めて、誰にも会いたくない、って事じゃない? 人と離れる為に回廊に居て、誰かが来たら追い返す、と考えれば、辻褄も合うもの。志義が悪いのではなく、志義を特別な存在の人だと思っていないから、こういう結果になったのだと思う」
大筋は真貴也と同じだが、花鈴なりに緻密に分析してあり、納得し易い。
康太は。
「きっと、〈誰か〉はシャイなんだよ。回廊という特殊な場所に居続けているんだもんね。人と会ったり喋ったりすること自体が苦手なのかもね」
単純だが、有り得ない話ではない。
「なるほど。みんなの意見は相違点がはっきりしているね。私が〈誰か〉に会えない理由が、この中にありそうだ」
さっぱりした口調で言ったつもりだったが、康太は志義が落ち込んだと勘違いしたようだ。
「大丈夫だよ。志義の情熱は〈誰か〉にも伝わってるって。その内、会えるよ」
「ありがとう」
素直に励ましを受け取った志義。
「私、絶対に諦めない」
「逆に、諦めてくれた方が、魔物にはありがたいのかもしれないぜ」
「ちょっと! 真貴也、それは無いでしょ」
真貴也の発言に花鈴が抗議した。
「だってさあ」
冷静になれよ、とでも言わんばかりの苦い顔をして、真貴也は言う。
「志義の行動は、相手にとってはしつこいだけ、って可能性も大なんだぜ。いっそ、潔く手を引いたらどうだ」
黙ってしまった花鈴に代わって、真貴也に勝負を挑んだのは康太である。
「俺は、真貴也の主張に負けないよ。何度だって挑戦する。回廊の〈誰か〉に対しても。なあ、志義、あんただって、ここまで来て引き下がるのは嫌だろう?」
真貴也に言った後、志義を見た康太の眼力が強い。
白熱する三人の討論を、志義は周りが想像するほど熱を入れて見てはいなかった。
冷静にそれぞれの意見に耳を傾けていた。
志義は徐に、言葉を選んで言った。
「もちろん、私も挑戦を止めない。誰に何を言われようとも。これは私の戦いだ」
「私は」
花鈴が立て続けに言う。
「志義の味方よ。康太の意見にも」
とうとう真貴也は黙った。
カフェの天井を仰ぎ見て、溜め息を何回かついた。
「もうっ、三人とも、勝手に回廊探ってろ。――俺はただの迷路だと思って入るから」
投げ遣りな感じで呟いた。
「あー、そうだ。もう一つ、言おうと思ってた事を忘れてた」
場の空気が間違いなく悪くなったのを悟って、志義は話を少しだけずらした。
康太と花鈴がまた志義に目を戻す。
真貴也も気になったのか、顔を正面に戻した。
「回廊で声を聞いたんだ。中心部ではない、道の途上で。人が側に居て喋ったのとは違う。回廊の中に反響する、姿が見えない人の言葉なんだ。私は勝手に〈こだま〉と呼んでいる」
「なにそれ。初めて聞いた。何で今まで黙ってたの」
真貴也が興味を持ったらしく、目を丸くした。
「黙ってたのではなくて」
志義。
「言う機会が無かっただけ。隠したんじゃない」
「どんな言葉を言ったんだ」
わくわくした調子で康太が聞く。
志義は、今までに聞こえた三つの〈こだま〉を言う。
「どういう意味かな、『散ったりしない』って」
首を傾げた康太。
「相手から『待っている』と言われたなら、話が変わってくるよ。さっきは言い過ぎたみたいだから、ごめんな」
真貴也はぺこりと小さく頭を下げた。
「本当に『見捨てないで』という気持ちで〈誰か〉さんが言ったとしたら、きっと志義が〈誰か〉さんに会える日は近いわ」
花鈴が嬉しそうに言った。
ちらと目に入った時計の針が指す時刻に驚いて、志義は言った。
「私が話題を回廊にばかり向けてしまったから、もうこんな時間。ごめんね、たかが回廊の事で……」
康太と花鈴と真貴也は顔を見合わせ、志義の方を向き、笑った。
「あなたから『たかが回廊』なんて言葉が出てくるとは思わなかったわ。私達にとって、回廊はとても重要な場所よ。この友情が生まれたのも回廊のおかげだもの」
花鈴が言うと、康太と真貴也も賛同の頷きをした。
「謙遜や卑下は全然要らないわ。志義は志義のやり方で、回廊と関わり、私達と仲良くしていけば、それで大丈夫なのよ。ちょっとやそっとでは壊れない回廊のような絆が私達四人の間にはあるんだから」
「俺達はみんな、本気で志義を応援しているよ。俺達の絆のルーツとも言える回廊の謎を、必ず解いてよ」
康太が彼らしい笑顔で言う。
真貴也も、少々照れながら、
「まあ、頑張れ。期待してるぜ」
ともごもごと言った。
これらの反応に志義は驚いた。
彼女にとっては思い掛けない、想定外と言っても過言ではない、優しい心遣い。
それも、意識したり、わざと即席で作り上げた物ではなく、至って自然な反射の如く飛び出てきた言葉、表情なのである。
(これが、絆という物か……)
志義の心に、喜びが溢れる。
バケツに注いだ水が満杯になるように、心に嬉しさが溜まっていく。
「みんな、本当にありがとう。私、みんなの期待に必ず応える。頑張って、必ず結果を出す。回廊の謎を、全て明らかにしてみせる」
志義の表情も、柔らかい、自然に飛び出す笑顔になった。
カフェを出て、それぞれ帰る。
道路を歩く志義は、いつもと同じに考え事をする。
(何が何でも〈誰か〉に会う。回廊の謎も、〈誰か〉の謎も、両方解き明かす)
改めて、回廊探検の目標を思い起こす。
(応援は貰っても)
更に、意思を固めていく。
(回廊の謎は、自分一人で解かなければ。これは私独りの努力でしかできないはずだ。皆が頼りにならないのではなく、〈誰か〉との対話は一対一であるべきだからだ。私の覚悟が試されている。灯火志義という人間の全てが問われている)
自分でハードルを上げているのは分かっている。
しかし、志義には、これらの行動が、ただの遊びではなく、使命だと思うべき理由があった。
理由の大本は――具体的に思い出したくない。
志義は足を速めた。
(やるしかない。私だけの力で)
【巻1 志の灯 終わり】
【巻2へ続く】
回廊の中で 【巻1 志の灯】