本の虫と青い春達
ふるさとは遠くにありて思うもの
青春は大人になってそれに気づくもの
どちらも確かにそこにあったのに、離れてからその存在を認識する
只中にある時は、毎日を生きることで精一杯なのだ
大声を出しそうになるのを寸前でのみこんだ。古い本を収納している書庫兼物置に鍵がかかっていないことにも驚いたが、その中で行われていたことにも度肝をぬかれた。
路仁は頭の整理が追いつかない。重なっていた二人の顔が離れた。一人は見たことがある生徒で、もう一人は、生徒数が多いこの高校では、初めて見る顔であるが大層な美少女だ。美少女はずりあがった制服のシャツをさっと下ろして呟く。
「空気読んでよね」
こちらがのぞいたように言われてむっとする。場をわきまえないのはどっちだと高校生相手に、言いそうになるが、努めて何も見ていないかのように冷静を装う。
「鍵を閉めるから出てください」
興をそがれて不服そうな美少女を男子生徒が促して、横をすりぬけて出て行こうとする。
女生徒の髪の芳香が鼻をくすぐる。また違う香りはまさかこの男子生徒からだろうか。
ここは何か一言言うべきかもしれないが、二人のあまりにも勝手知ったる態度に言葉が出てこない。
路仁は、今日の図書委員がカウンターにいないから探していた。男子生徒は早川という苗字で、今日の図書当番だった。
早川は書庫のカギについている土産物と思われる年代物のキーホルダーの輪の部分を指にかけてくるくるまわしている。
「それここの鍵だね。どうして持っているのですか?」
「こういうのは職員室にあるものかと思っていましたが、カウンターのひきだしの中にありました。鍵も開いてました」
早川は落ち着いた声で答えた。
「だからって勝手に入ってはいけない。それにカウンターが無人じゃないか。もう一人はどうしたの?」
誰も利用者がいない図書室には路仁と、早川と女生徒だけだった。
「2年生なら知りません。僕に押し付けてどこか行きました。オトモダチが呼びに来ました。僕よりもっときわどいことしてるかも」
「探してきてくれませんか?その間僕がここにいます」
早川はあからさまに面倒くさそうな表情をした。
「行かなかったらさっきのこと言いつけますか?」
早川が前髪を下ろしながら尋ねる。さっきまで額を出していたが、眉の位置より長い前髪をおろし、めがねをかけるととたんに幼くなる。
「あの2年生、図書委員が楽だからってなったそうです。評判が悪くて、呼びにいってお楽しみの最中だったら僕、ボコボコにされてしまうかも」
女生徒がくすりと笑う。お楽しみを邪魔されたのは彼らも同じで、黙り込んだ路仁を見て溜飲を下げたようだった。
早川は言葉遣いは丁寧だが、こちらを軽く見ているのがありありと分かる。
学年一の成績で、進学校の秀才たちと毎回全国模試で競い合ってはだいたい上回るという。こんな美少女と逢瀬とは、路仁はさきほどの光景を思い出して、軽くめまいがする。
「私が呼んでくる」
「女性にそんなことさせられない。やっぱり僕が行きます。先生、さっきのことも2年生が仕事放棄したことも内密にしてくださいね。そうしたらこの鍵をそこらへんに置いていたことも黙っておきます。」
交渉してくる小賢しさ。その鍵をそのへんに置いていたのは路仁ではない。先週、この高校に出向してきたばかりだ。早川は交渉成立とばかりに、探しに出て行こうとする。
女生徒は昂った気持を翻弄されて、焦れたように早川のジャケットの裾をつかんで離そうとしない。
「待ってるからね。早く帰ってきて。あんなのほっとけばいいのに」
「先生、僕が帰るまで彼女の相手をしてください。ああ、誤解しないでください。話相手ってことです。あはは。先生違うこと考えましたか?」
とうとう大きな声を出しそうになった路仁の口元に、早川は人差し指を立てて微笑んだ。
「お気持ちは分かりますが、女性の前で大きな声は出さないでくださいね。怖がらせたく
ないので」
路仁は、早川を見送るしかなかった。女生徒は名残惜し気に図書室のドアが閉まっていくのを見ていた。そして、路仁がそこにいることを髪の毛の先ほども気にしていないようで、その豊かに波打つ髪を気だるげに振って、立ち去ろうとした。
「どこ行くの。待っているんじゃないのかい?」
先ほどの早川を見つめる甘えたような目とは正反対の底冷えのする視線を向けて彼女はつんとして答えた。
「ここで待つなんてひとことも言っていませんけど?先生とふたりきりなんてぞっとします」
もはや何も言うまい。路仁は出向辞令をなぜ断らなかったのかと後悔した。
薄暗い利用者のいない図書室。病休の学校司書の代理だが、この状況ならしばらく図書室を開けていなくても支障はないのではないだろうか。あの二人に違う用途に利用されるのを見るしかない本たちが哀れだった。
「先生」
今度は何事だ。路仁がのろのろとカウンター内にある椅子に腰を下ろしたとたん声が降ってきた。先ほどの彼女とは違う女生徒が覗き込むように路仁に声をかけた。
一年生の吉野は、図書室のとなりの空き教室を書道部と共有している文芸部員だった。他の部員はまったくといっていいほど来ていなくて、部として機能しているかもあやしい。
「部長・・早川君ですが、帰ってこなくて。帰ってもいいのだけど、本でも読もうかと思って、でも電気がチカチカして暗くて怖くて・・」
確かに電灯がすでに虫の息だ。
「ごめんなさい。すぐ交換しますね。ちょっと在庫を見てくるから」
吉野はいったんはこくんとうなずいた。
「でも、先生はここにいないといけないんですよね。図書委員もいないみたいだし。私が行ってきます。どの型か教えてください」
吉野のまじめさに路仁はほっとする。ここの生徒は、早川達のような不機嫌で横柄で無礼な子どもたちしかいないかと思っていた。吉野のような生徒がいるならまだ救われる思いだった。
「ありがとう。では、これと同じものをって事務の先生にもらってきてください。」
取り外した電球を吉野に渡すと、はい、と答えて事務室へ向かった。ぱたぱたと小さな足音が遠ざかっていく。たった30分ほどでこの高校のさまざまな生徒の側面を見せられて、路仁はぐったりと疲れてしまった。
しばらくすると、吉野と早川と2年生の図書委員が戻ってきた。早川は幸いにもぼこぼこにされずに済んだようだが、先ほどの不遜な態度はそのままに不満を分かり易くあらわにしている。
「先生、なぜ吉野に使い走りさせているんですか?」
「早川、私が行くって言ったの。そもそも早川がいなくなるのが悪い」
「だって、僕は2年生を探しに」
「とにかく、私が行くって言ったから、先生に文句を言うのはやめて。早川達が悪い」
吉野の毅然とした口調に、早川も、少しガラの悪い2年生も返す言葉がない。カスミソウのような小さな花弁の花をを連想させる吉野に、早川が一目置いているのが面白い。
先ほどの女生徒は咲き誇るバラか牡丹かユリか、とにかく大輪の花だ。女子力が段違いだ。だが、その分かりやすさより、吉野には秘めた良さがまだまどろみの中にいる。
女子高生を比較する、そんな思考が頭をよぎり路仁は頭の中で、自分の頬を殴った。
早川と2年生が協力して電灯を交換している。吉野はぱっと明るくなった書棚を見届けると、路仁に頭を下げた。
「帰ります。先生、さようなら」
「本借りませんか?」
「また来ます。もう部活も終わりですから。先生、明日もいますか?」
「僕は週に2回だから明日は来ません。普段は市の図書館にいます。ここにはない本もたくさんあるからそっちにも来てくださいね」
吉野はこっくりとうなずいて、もう一度さよならと言って帰っていった、早川を咎めるところなどしっかりした口調とは裏腹に、仕草はまだまだ子どもらしい。
早川にしてもあの女生徒にしても、なんといっても自分より一回り年下だ。早川が、路仁と吉野のやりとりをちらちらと伺っているのを感じる。吉野が来たばかりの❝図書館の先生❞と親しくなるのが、気に入らないらしい。
そう考えると、早川もこの2年生も、先ほどの女生徒も変わらないと路仁は第一印象を改めようとしたのだが、早川の言葉で、やはり少しでもそう思ったことを撤回しようと心に決めた。
「先生、女子高生にデレデレしていないで電灯を受け取ってください」
2年生はまたどこかに姿を消してしまっていた。
「調子はどうですか?先生、昨今の高校生は?」
職場での数少ない心許せる友人の細川蒼澄が話しかけてくる。コピー用紙を一箱抱えて、その後ろ姿を頼もしそうに見上げる女性職員がついてきている。
路仁は印刷室の扉を開けてやりながら「まあなんとか」と答える。
会議の資料を印刷しに来たという。路仁は今日は市役所勤務の日で、久しぶりに蒼澄の顔を見た。
蒼澄は今日も今日とていい男だ。髪型がこの前と違う。髪をなでつけて後ろに流しているが、一房にも満たない髪の毛たちが秀でた額にかかっているのが、意図的か忙しさか何とも絶妙に似合っている。
よく言えば親しみやすく、悪く言えばひとたらしの蒼澄のさわやかな笑顔の裏に、隠された真意を読み取ることは難しい。パソコンに詳しいとか、重いものを率先して持つとか、高いところのものを簡単に取るとか、蒼澄がやると何でも様になり、された方は蒼澄に好意を持つ。
同じことをしても相手から疑り深い顔をされる者もいるのに、人間はとかく不公平で現金な生き物だ。
そんな人の裏表を知っている蒼澄だが、路仁のことは評価している。腹蔵なく打ち明けることのできる友人とみなしているし、期待を裏切られたことはない。いつだって歯がゆくなるほど人がいい。
彼を本庁舎にいないからといって、能力がないのではと見る者に対しては、路仁がどれだけ市民に丁寧に応対をして、大事に蔵書を扱い、図書館と隣接する公民館の施設管理を一手に引き受けて安全を守っているかを見てもいないのに、とその相手の蒼澄の中での評価は一気に下降する。
蒼澄は同僚に好かれ、後輩に慕われ、先輩や上の覚えもめでたい。しかし、その実、自分の歓心を買おうとなれなれしく近づいてくる同期や後輩、あらをさがしてやろうと手ぐすね引いている上役に囲まれていると、誰にでも態度を変えない路仁の誠実さがよけい際立つ。
気の弱い者には年上、年下問わず、失敗をあげつらい、相手によってあからさまに態度を変え、自分が通りかかると途端に豹変する同僚にへきえきしている。少し親切にしただけで特別視されていると誤解されてしまうと路仁に愚痴をこぼすこともある.
まさに今、印刷室にいる女性職員がそんな人で、久しぶりにあった友と話したいが、追い払うわけにもいかない。蒼澄は基本的にすべからく女性には優しく、を心がけている。
相手に事欠かず、恋愛は楽しいが、決して手当たり次第に遊びたいわけではない。次こそは、といつも思う。
相手を間違えると嫌味に取られかねない贅沢な悩みだが、路仁は高性能に生まれついたゆえの悩みに口を挟まずに耳を傾けてくれた。そして、それを他人には絶対に言わない。
気が回りすぎるて時々疲れてしまうことや、本当は人の目が気になる弱みも、路仁になら話せた。一度、本当に好きな人がいたとき、その恋の悩みを思い切って、打ち明けると、その人に近づくことができるように動いてくれた。結局、その思いは実らなかったが、路仁に対して一番感謝していることかもしれない。
「久しぶりの高校はどう?」
「守秘義務だから言えません」
「ろじんのその顔でだいたい察するよ。あの高校って、樹凪君が行っているはずだ。がんばれ、ろじん先生」
蒼澄は輪転機を操作しながらそう教えてくれた。
宇野樹凪、最後に会ったのは中学に入学したころだろうか。蒼澄の初恋の女性の弟。同じ初恋の相手に二度目の恋をした。真剣な片思いは、思いを告げることもできなかった。
長いまつげに縁どられた物憂げな瞳が印象的で、夜半の雲から顔をのぞかせる煌々と輝く月のような人だった。何が言いたいかというととびきりの麗人だということで、彼女は祖父母の経営する洋食店の調理師をしている。胃袋も心もつかまれた彼女目当てのお客が絶えないという。
しかし、厨房からほとんど出ることがなく、店の中でも姿を見るのがまれな存在だった。それがさらに興味をかきたてるのだろうか、蒼澄はそんな者の中にまざるのが嫌だと言いながら、足しげく昼食時に通いつめていた。
もう高校生か。樹凪と初めて会ったのは、彼が12才くらいの頃だった。子どもながら完成された顔立ちをしていた。自然な栗色の髪をなびかせて走る樹凪は、まわりの子どもをどんどん追い抜いてそのまま空へ駆け上がってしまいそうだった。
見た目の甘さに反して、きわめて不愛想で辛口な子で、心を許すまでに時間がかかる。蒼澄にも路仁にも警戒心をあらわにしていたのも今となってはかわいらしい思い出だ。
姉とともに図書館に来てもじっとして本を読むのは性に合わないのか早々に飽きて、偶然居合わせた友達と遊びだして、職員に叱られることが常だった。
(大きくなっただろうな)
樹凪はとても目立つ少年になっていた。蒼澄から聞いたのか向こうからたずねてきた。体操服姿でたった今までグラウンドを10週してきたと、頬を上気させている。
「すごく足が早くて陸上クラブの期待の星なんだ」
蒼澄は失恋した後も何かと樹凪を気にかけていた。樹凪も姉では埋められないものを兄のように構ってくれる蒼澄に求めていたのかもしれない。
「すげえひさしぶりにきた。入学式のあとの学校案内以来だ」
あいさつもなくぺたりぺたりと入ってくる。ぞんざいな言葉遣いよりもさらに磨きのかかったその美貌よりも驚いたのは早川と一緒に現れたことだ。二人は小学校入学以来の無二の親友らしい。早川の名前は「ときつ」というが、樹凪は早川を「ときっつあん」と呼ぶ。
そして、樹凪は自慢の友人として早川をほめちぎる。あいつはすごい。もっと上を狙えるのに自分と同じ高校に来てくれた、これといった特色のない普通科高校の平均点を一人で押し上げている。先生より教え方がうまい。優しいし、見てくれも実は悪くない。自分は早川がいれば友達はいらないと言い切る。
実際、樹凪はかなり目立つ容姿だが友人に囲まれているのをその後、校内で見ることがなかった。一人でぼんやり景色を眺めているか、早川と話しているかどちらで、たまに別の生徒と話しているなと思えば、吉野とだったりする。
樹凪と早川と吉野は、それぞれひとりぼっちで、常に行動を共にはしない。しかし、3人が何かの拍子に一緒になると、まるできょうだいのように、とても楽しそうにしている。
「修学旅行とか行かないよ。金ないし。家の人は行けってうるさいけど、名所めぐりやおいしくないごはんとかいらねーって感じ。」
来年は修学旅行か、楽しみだねというと樹凪は一笑に付す。
「今は行くか行かないか選択できる時代なんだ。ろじん先生の頃とは違うよ」
「いっちゃんに告白したい女子が泣くぞ。行けばいいのに」
そう早川が、茶化すと、樹凪は勘弁してくれと耳をふさぐ。
「それ聞いたらますます行きたくない。ときっつあん、行かないんだろ。じゃ、俺もいかなーい」
高校生活とか、青春とか、思い出とか、そういうものにまったく無頓着にいられるのは若さからだろうか。キラキラと反射する青い春に執着するのは、もうそこへ戻ることのできない大人たちの諦めることや我慢することに慣れたその習性かもしれない。
過去を振り返ってもその過去がきれいとは限らない。過去を懐かしんで戻れないことに傷つかないですむようにと。
樹凪は路仁がいるときだけ図書室に来るようになった。樹凪がいるときは利用者が心なしか増える感じがする。
「これ、ときっつあんのお父さんが書いた本だ」
樹凪が何気なく手にした小説を見て、路仁は仰天したが、かろうじて冷静にうなずいた。
吉見奏介、稀代の人気作家が早川の父親だった。確かまだ40才前だったはずだが、若いころに父親になったと何かの記事で読んだことがある。
「ときっつあんは父親のこと言われるとめっちゃ機嫌が悪くなるから気をつけて。ろじん先生だから教えたんだ。本の感想とかサインほしいとか言ったらだめだぞ」
樹凪は彼の小説を読んだことがないらしい。高校生で有名な文学賞をとり、華々しくデビューした後は、尽きることなく新作を発表し続け、ドラマや映画化されるものも多数ある。見た目のよさもあって、小説以外にも注目を浴びることもある。
路仁はゴシップはともかく彼の作風は好きだが、早川にとっては父親の何もかもが厭わしいらしい。
「お父さんはしょうもない人だけど、やりかたはともかく、ときっつあんのことを溺愛してる。別れた奥さんに何でもあげるから息子だけは置いていってくれって土下座したって。ときっつあんが何でもできるから甘えてんだよな。おっさんのくせに手がかかる。世間はもてははやすし、実際気前もいいし優しい。よく言えば赤ちゃんみたいにまっさらで純粋だろうけど、ただの何もできない若作りのおじさんだ。あんたが親らしくなくて、ときっつあんは誰を頼りにすればいいんだって言いたい。若い今の奥さんもいるのにりんちゃんにも色目を使ってほんとむかつく。りんちゃんは相手にしないけどな。ざまあみろってんだ」
りんちゃん、は樹凪の育ての親であるが、親友が嫌うなら自分も悪口を言う。樹凪はとても手厳しい。
早川のあの冷たい表情と人をくったような態度は、父親の影響なのだろうか。早川は秀才だが、優等生ではない。反抗はしないが従順でもない。職員室で先生たちがこぼしていた。授業を聞いていないようでちゃんと理解はしていて、その質問の鋭さにとっさにこたえきれず翌日に回答することにしたと苦笑いしていた。
あの日以来、図書室を彼女との逢瀬に使うことはしなくなったが、隣の文芸部の部室には頻繁に彼女が来ている。演劇部看板女優の美少女と、表向き冴えない1年生の早川にどんな接点があったのかは分からないが、熱を上げているのは彼女のほうで、よく彼女が機嫌を損ねて部室を飛び出していく。
早川はしばらく追いかけずに、時間をおいてからゆっくりと彼女を探し、ぐずぐず言っている彼女を手を引いてのぞきこむように話しかけているのを見かけた。彼女もしばらくは不機嫌を演じるが、早川が決定的な口説き言葉を言ったところで、仕方ないなあとにっこりするという遊びに似た痴話げんかを繰り返している。
それかと思えば、同級生の吉野と一冊の本をめぐって話し込んでいるときもある。吉野と話しているときの早川は、3年生の彼女を翻弄する蠱惑的な表情とは別人だ。
彼女にはあまり見てほしくないほどの優しく慈しむまなざしなのだ。吉野がその本について、おそらく感想を述べているのを静かにうなずいて聞き役に徹している。
早川が浮気者でないのは、吉野と3年生の彼女との距離感で察するのだが、早川にとって吉野は性別を超えた大切な友人であることは間違いない。
路仁は新婚だが、女性関係にはとんと疎い。だが、早川はもしかしたら、心の中はかなり揺れ動いているのではないかと想像する。
早川の学校とは違う一面を見たのは、学校と市役所との二重生活にも慣れた頃の夕方だった。
早川が私服姿で買い物をしていた。自分の分だけの買い物でないことは一目でわかる。ショッピングカートを押しながら食材を吟味しているが、ちゅうちょなく高めの食材を選ぶところを見ると経済的な裕福さがうかがえる。
早川も会いたくないだろうと、避けながら店内を歩き回っていたが、思わぬところで出くわしてしまい。路仁はあたふたと言い訳を探す。早川はつまらなそうな顔をしている。
「先生、探偵になれませんね。バレバレなんですが」
「早川君の買い物はすごい量だね」
「呼び捨てでいいですよ。いつもはネットスーパーを利用してますが、頼み損ねたものを買いにきたつもりがあれこれ目についてしまって」
「そうか。えらいな。車に乗せようか。持って帰るのはたいへんそうだ」
早川が目を眇める。路仁はたじろいだ。学校でのやり取りから、不審がられていると感じる。しかし、大量の重い買い物袋を持って帰らずにすむという誘惑には勝てなかったようだ。
「お言葉に甘えます。荷物を乗せてもらえますか。僕は自転車で来ているので」
そう言って、リュックサックから小さなノートを取り出し家までの経路図を書いてよこした。さらさら書いたにしては明瞭な分かりやすい地図でこんなところでも早川の聡明さを感じ取れる。
「すぐに追いつきますので、すみませんが、待っていてください」
早川はそう言って風のような速さで自転車を漕ぎだした。回り道をしながら、たどりついたのは、瀟洒な一軒家で、早川が門の前で待っていた。築何年だろうか、古風な趣のさすがは人気作家の家だ。立派な書斎があるに違いない。
「ありがとうございます」
前髪を上げて額を出した私服姿の早川は、洗練されていて自分のスタイルをすでに確立していた。
「先生、これってただの親切じゃないですよね。」
きちんとお礼も言えるのに、次に出てくるのは皮肉めいた問いかけ。路仁は早川が哀れになった。おそらくそれは早川が最も嫌うことだろう。
大人が何か親切にしてくれるときは何かしらを期待されているのが普通だと思っている。父親のまわりにいる人品卑しからぬであろう大人たちに囲まれて育ったが、その裏にある見たくないものまで見せらられてきたのかもしれない。
早川の背後にある家はどこか時が動いていなくて、早川が心から安らげる場所でないような気がする。早川のパーソナルスペースなはずなのに、早川には家にいる気安さが感じられないのだ。
「❝ただの親切❞だよ。早川に何ができるっていうの?自分で何か得たことがある?自分のものは何も持っていない親の保護下にいる君みたいな子どもに要求するほど僕は困っていない。君が重たいものを持っていて気の毒だから手伝った。君はかわいそうだと思われているんだ」
早川が唇をかみしめている。何か言い返そうと考えをめぐらせている。路仁は早川の気持をかき乱すつもりだった。大人げないが、きっと早川には大人の余裕よりも、大人げなさをぶつけるほうが慣れていないはずだと考えた。
一方で後悔していた。樹凪の言葉を思い出していた。成績もよく、きれいな恋人もいて、経済的にも裕福な恵まれた子どもだが、早川には絶対的に足りない何かがあり、自分でも気づかない寂しさを抱えているように思えてしかたない。そんなわずか16才の子どもに何を言っているのかと。
はじける若さの光がもたらす影が濃い。早川の子供らしさはどこに留まっているのだろうか。
早川がくっくっと笑い出した。彼女や樹凪、吉野といるときは白い歯を見せて笑うこともあるが、早川はあまり笑顔を見せない。笑う姿が貴重だが少し気味が悪い。笑顔にさえもブレーキがかかっている。
「早川、すまない。でも本当に荷物を運んでやりたかっただけなんだ。素直に受け取ってほしい」
「素直に、ですか。先生は・・本当に、呆れるくらい良い人なんだ。僕、大人の親切を額面通りに受け取っていいことなんてなかったんですよ。先生のまわりはきっと、善意は善意、悪意は悪意なんでしょうね。僕もそんなところにいたい」
「早川、君はまだ子どもだ。でも、とても賢いから世の中はもっと広いって知っているだろう?大人がこうだと決めつけて、何でも分かったふりをしていたら本当にずっとここにとどまることになるよ。何が君の行く手を阻んでいるかはわからない。君のことは何も知らない。でも、君はいい子だよ、道はいくつもある。僕がそう思っていることは知っていてほしい」
早川が何か言おうとしたが、それは幼い声に中断された。
「にーちゃ!ただいまー」
母親と3~4才の男の子が帰ってきた。早川が再び抑揚のない声音で紹介してくれた。
「父の奥様と、弟です」
そう紹介された女性は何とも言えない顔をして小さく会釈をして男の子を連れて家に入ってしまった。それだけで早川の家族の関係性が推測できてしまう。
早川の母親にしては若すぎるし、二人の間に母子としての交流はほぼないように見えた。
「父の妻」と紹介するのは彼の精一杯の現状への抵抗だろう。決して認めていない意志を感じる。男の子は母親の手をふりほどくと早川にとびついてまとわりついている。兄に抱きつき早川もそれをうけとめている。この二人には確かに兄弟の情がある。
「弟の由維です。由維、にーちゃの先生だ。ごあいさつして」
「はやかわ ゆいです。よんさいです」
指を4本出せずに、ふっくらした手のひらをひろげてみせた。路仁はその手にかるくタッチする。
「ゆいくん、こんにちは」
「あのね、にーちゃはおはなしがうまいんだよ。ほいくえんにあるえほんよりずっとおもしろいおはなしをしてくれるよ」
早川が苦笑いして弟を制するが、弟は構わず話し続ける。一番好きなお話と怖かった話、とどんどん出てくる。もうおしまい!と早川が弟を抱き上げる。
一人で大量の買い物、視線を合わせない父親の妻、手がかかる有名作家の父親、兄を無条件に慕う幼い弟、一応平均的な家族の体を成しているが、早川のことを世話してくれる人はいるのだろうか。
「僕はそろそろ帰るね。ゆいくん、お兄さんと図書館にも来てね。お兄さんのお話もいいけど、図書館にも面白いお話の本がたくさんあるよ」
「せんせいはがっこうのせんせい?」
「ふだんはあの大きな図書館にいるんだよ。せんせいは仮の姿」
「にーちゃ、行きたいな」
「ママに聞いてからね。おうちに入って手洗いとうがいをしよう。先生、荷物をありがとうございました。さようなら」
早川は弟を抱っこしたまま家の中に入ってしまった。ゆいのばいばーいという声も静かに閉められた扉の向こうに消えて行った。
短い間で、早川の印象はずいぶんと変わった。車を発進させるとき、早川の家の日光がよく当たりそうな部屋に人影が揺れた。おそらく父親の吉見奏介だろう。有名な作家がどのような日常を送っているのかは知らないが、今日は家にいるようだ。
父親は息子を溺愛しているというが、呼吸をしていないようなその家は幼い由維がいなければ、明かりもつかないままかもしれない。それくらいひっそりしていた。
路仁が高校へ派遣されるのは年度末まで、新年度には新しい学校司書が配置される。週に2回しか行かないし、授業をすることもないのだから、早川に接する時間は限られている。
そうやって、たまに早川を見かけても、あの時の表情をもう見せることはなかった。
前髪を重そうに下ろして、めがねをかけて、廊下の端を歩いている。気をつけて見ていないと大勢の生徒にまぎれてしまう。
年上美人の彼女は、あれこれと早川に頼みごとができる唯一の相手だった。演劇部の脚本を早川に依頼して、毎日のように様子を見に来る。そうやってうつつをぬかしていると下級生や他の部員に主演を奪われるぞと思われるが、彼女は天性の演技力と気の強さで、誰にもその立場を譲ってはいない。
早川は彼女が読みやすいように、言い回しを少し変えてみたり、発声練習に付き合う。
一度早川が彼女のお腹に手を当てているのに出くわして、路仁は今度は今度はついにひゃあと妙な声を出してしまった。早川は涼しい顔をしている。
「腹式呼吸ができているか確認していました」
その手がどこに動くか想像しているであろう路仁を嘲笑した。頬が赤くなるのを早川には悟られたくない。一方の彼女はまたも路仁に邪魔をされて、はなはだ機嫌が悪い。文化祭が近づいていて、3年生はそれで引退する。最後の舞台なのに、だいじょうぶなのだろうか。
「先生、ほんと間が悪いですね。それとも意図的ですか?野暮すぎます。顔赤いですよ、うぶだなあ。」
やはり、ただの腹式呼吸の練習ではないではないか。
「文化祭に来てくださいね。演劇部のレベルは高いですよ」
さっさと話を変えて悪びれる風もない。
「そうらしいけど、みんなと練習しなくていいんですか?」
路仁の言葉に、彼女が嫌味をかぶせる。
「先生がのぞきに来なかったらもう少し練習できたのにね。」
まあまあ、と早川が彼女の顎のあたりを猫の喉元のようになでる。だから、それをやめろ、と路仁が怒鳴る前に彼女は路仁をねめつけてこの前と同じようにつんとして、教室を出て行った。
買い物を手伝ってから早川の路仁に対する態度は少し親しさをあらわすものに変わったが、からかうような口調は相変わらずだ。
「先生、うちの部に寄っていきませんか?」
早川に誘われるままついていく。どうも早川少年は食えない生徒だが、兄としての優しい表情を思うと、憎めなくもある。
吉野は真剣に紙と向き合い、書道部員たちも文化祭で展示する書に取り組んでいる。早川だけが何もしていない。
「早川は何もしないのか?」
「吉野が絵手紙を展示してくれます」
吉野はそれでいいのか?吉野は路仁に気づくとぺこりと頭を下げた。早川が言うことには慣れているのか肩を軽くすくめる。
吉野があとでそっと教えてくれたが、早川は文芸部としては、何もしないが、演劇部の脚本やバンドクラブのための作詞などで忙しいらしく、それも相手側からの依頼であり、早川の人脈と多才ぶりに驚かされる。
樹凪によれば、入学当初から文化系クラブの先輩方に目をかけられる早川は、中学の文化祭で先生を完全に蚊帳の外に追いやって準備をしたクラス対抗の劇が大層完成されていた上に、問題作だったという。その中で悪役を演じた樹凪は目を輝かせて自慢した。
「みんなみることに熱中しすぎて、動画も写真もとることを忘れていたんだ。それくらいすごかったんだ。その場にいた人しか記憶していない。その時のみんなの顔ときたら・・ときっつあんはすごいんだ」
脚本は早川が全て回収し、処分してしまい一冊も残っていないという。そんな奇矯なふるまいをしたのはその一度きりで、それ以外は特に目立つこともなく、問題を起こすこともない秀才だったため、その行動も不問に付された。
彼女とのやりとりを見せつけるかと思えば、校内で会っても挨拶もしない、それでいて今は文芸部の部室に誘う。
家族の前では頼れる長男、優しい友達、夢中にさせる恋人、鼻持ちならない秀才の生徒、慣れあうことのない暗めの同級生、疲れないだろうか。つかみどころのないところも彼の一部に過ぎないのだろう。
吉野は展示するべき絵手紙をほとんど仕上げていた。絵手紙とは、はがきサイズの紙に絵を添えた手紙の一つであり、花や野菜など身近なものを絵にして、伝えたい言葉を短く添える。使用する道具の制限はないそうで、吉野は書道部に借りた筆で輪郭をとったものに色鉛筆で色をのせていく。
花や野菜のほかに動物の絵もあった。吉野が図書館で探していたのは、これに書くための材料探しだったのかと、路仁は吉野の画力に感心する。
彼女の性格が垣間見えるきっちりとしているが、どこかほのぼのとした素朴な絵に、短めの言葉を筆書きする。
吉野の次の作業は、和綴じでノートを作ることで、すでに20冊ほどが積み上げられている。白い紙を二つ折りにして、和紙のような質感の少し厚めの紙を表紙と裏表紙にして、端に4か所穴をあけて端を糸で綴っていく。一冊作るのに1時間ほどかかる。
「見に来てくれた人にご自由にどうぞって使ってもらおうと思います。」
「吉野~お金をとろうよ。材料代もかかっているだろう?」
早川は手伝いもしないのに不満げだった。
「百均でそろえたし、おばあちゃんもきれいな紙を分けてくれたからいいの」
「なおさらだよ。おばあさまにお供えの一つでも・・」
「おばあちゃんは元気です。早川の無礼者」
吉野は手を止めずに言い返す。
「お気持ちをどうぞってしたらどうかな。入れてくれても入れなくてもいいじゃないか。ただで持っていくのを躊躇する人もいるかもしれない。吉野さん、すごいね。とてもきれいにできている。吉野さんにこんな才能があったなんて」
「先生、吉野の何を知っているっていうんですか?」
気色ばむ早川を無視して、吉野は頬を染めてぺこりとする。吉野のぺこりとするくせはたいへん愛くるしい。
「早川の知らないことたくさんあるよ。何もしないくせに先生にやつあたりしない!」
早川は気まずそうに「いっちゃんのとこ行ってくる」と部室を出て行った。
「先生、だいじょうですよ。いつもの光景なので。」
書道部員たちが笑っている。どうもこの女子たちのくすくす笑いがいくつになっても苦手だ。居心地が悪い。この部室は圧倒的に女子が多い。早川はよくここに平然といられるなと感心と同情の両方を禁じ得ない。
「吉野、僕も手伝っていいかな?」
路仁は、目玉クリップで束ねた紙の端に穴を開ける。
穴を開けてしまうと、同じ要領でA4紙を4等分して紙の束を固定し、束の1辺に工作用ボンドを薄く均一に塗り厚めの色紙を表紙としてしっかり貼りつけると胸ポケットに入るサイズのメモ帳になる。吉野は路仁の手つきをじっと見つめている。のりがかわくまで辞書を何冊も重石にして窓際に置いておく。
「先生、すごいですね」
「司書の講習で習ったんだ。簡単だよ。電話でメモをとるとき使ったりね」
「就職したら、電話とるのが最初の仕事ってほんとですか?」
「そういう職場も多いかな。そういう時、近くにメモをとれるようにして置くとあわてなくていいよ」
吉野は、固定電話をみたことがないという。子どものころから家になかったそうだ。このさき、吉野が大人になって就職したころには、各課に固定電話がある光景は、生まれて初めて見るものかもしれない。吉野が作った和綴じノートと一緒に置かせてもらうことにした。
「吉野さんはどうして文芸部に入ったの?」
「早川部長に誘われました。」
「そうか。文芸部は楽しい?」
「はい。最初は何をしたらいいか分からなかったけど・・。友達もできたし今は楽しいです」
「早川部長はどう?」
「先生やみんなから見たら変わり者で扱いづらいって思われてるみたいだけど、実際、たまにいじわるなことも言うし、頑固だし、ちょっとついていけないことを言う時もあるけど、ほんとはすごく優しいです。私、早川といると、自分のことを少し認めて好きになることができます。」
吉野の話し方は同年代の女子と比べたら朴訥としている。声も小さく自信のなさが垣間見える。
しかし、しっかりと耳を傾けてくれる相手がいれば、自分を表現する事が怖くなくなるだろう。早川にとって、吉野はそうしてあげたくなる対象なのだと思う。
早川がどこまで吉野に本音を言っているか分からないが、少なくとも親友の樹凪と同じくらいに思っているのは確かだ。そう思うと年上美人の彼女が気の毒に思えてくる。
吉野は、路仁に和綴じノートを一冊くれた。手伝ってくれたお礼に、と。渋い茶色のノートだった。黒柿、という名前の茶色だと吉野が教えてくれた。
「この色がいいかなと思いました。先生の落ち着いた感じにあっています。」
「ありがとう。使うのがもったいないな。」
「使ってください。誰かに使ってもらいたくて作りました」
「大切に使ってくれる人に持って帰ってもらいたいね」
吉野が伏し目がちにうなづいた。初秋とはいえ、まだまだ暑さの残る教室に傾きかけた太陽の光がまっすぐにさしこんでいた。
文化祭当日、路仁は有休をとって、訪れていた。自分の卒業した高校ではないが、懐かしい気持でいっぱいになる。
クラスごとの展示、ステージ発表、ちょっとした模擬店も用意されている。高校生なりの工夫に彩られていた。
保護者や卒業生も訪れ、生徒数が多い校内はいっそうにぎわっていた。
書道部は曲にのせて大作を仕上げる書道パフォーマンスのため中庭に移動していた。吉野も早川も樹凪も手伝いに駆り出されている。特に男子は貴重な力仕事、盛り上げ要員なのだ。
路仁は一人、部室にいた。部室の前の廊下に長テーブルを置き、吉野の絵手紙と、手作りノート、書道部員たちがそれぞれしたためた作品を展示している。奥まった場所にあるため訪れる人は少ない。
路仁が片づけをしていると、声高に女子のグループが近づいてくる気配がした。何か袋を開けているのかがそごそ音がしている。
「これは?」
「絵手紙と手作りのノートね」
「上手ね。ノートも可愛い」
「そう?ここだけお年寄りの趣味の展示みたい。知っている?吉野幸玖っていう子が作ったのよ」
上手ね、とほめた女子は友人の反応に慌てて追従する。
「ほんと、おばあちゃんみたい。吉野さんらしい。落ち着きすぎてるっていうか」
「でも、あの子、二人の男子と時々つるんでて、手玉にとっているって噂よ」
「そうそう。よく宇野君のとなりに立てるよ。あの顔で」
「早川君とはいいんじゃない。もさい二人でお似合いよ。部室で二人で何してるんだか」
「やだ。書道部もいるのに?」
「想像しちゃった。絵面が汚いわ」
きゃははと笑いあう。女子のあの笑い方、心がすうっと冷たくなるような笑い方。通り過ぎた後に急に笑い出すのも不快だった。自意識過剰と言われても不快なものは不快だ。そしてその気持をそのままにして引きずる自分にもいらだつ。
注目をひこうとことさらに大声で笑い手をたたいてはやすのが突き刺さる。
息をつめていた路仁だったが、廊下に出て行って女生徒たちと対峙する。彼女たちは一瞬ひるんだが、相手が路仁と分かるとすぐに平静に戻る。つんとあごを上げたり、肩をそびやかし腕組みをして路仁を見上げる。変なことをして悲鳴をあげられたら路仁が悪いことになる。
「作品の感想は人それぞれだ。だけどその人までおとしめるのはいけない」
「うわあ、立ち聞き?いやらしい。本人に言っていないからいいじゃないですか。思ったことに制限かけるんですか?あっちだって言っているかもしれないのに」
「吉野さんはそんなことしない」
「へえ。先生もああいう子がいいんですね。どういうとこがいいですか?吉野さん守備範囲広いんですね。どんな手を使ったのかな」
「いいかげんにしなさい」
「はあい。すみません。お邪魔しましたあ」
女子たちが殊勝を装って立ち去っていく。気持ち悪いーと忍び笑いをもらしながら。
お気持ちをいれてもらおうと置いた箱の口にはお菓子の袋がねじ込んでいた。
それを片付けて、路仁がふと長テーブルの上をなでると、吉野が作ったノートが減っているような気がした。それに気づいたのと、早川が息せききって走ってきたのは同時だった。手には吉野が作ったノートを何冊か持っていた。ノートはずぶぬれになっていた。
「先生、ノートはあと何冊ですか?」
「さっき僕が数えたときは20冊あった。もうここには5冊しかない。」
「じゃあ、あと15冊か」
早川は手洗い場でノートを見つけた。ノートにたたきつけるように水が出たままになっていた。
「ノートを全部回収しないと。吉野が戻るまでに。どうしよう、先生。どこにあるんだ」
「早川、落ち着いて。気に入って持って行ってくれたのかもしれないよ。僕も探すから」
早川の目にはうっすらと涙が浮かび、額には汗がにじんでいる。こんなに焦っている姿を見るのは初めてだ。
「本当ですか。一緒に探してくれますか」
「当然だ。吉野さんが一生懸命作っていたのを知っているからな」
樹凪に事情を話すと、美しい顔を憤怒で歪めて、舌打ちしながら壁を蹴った。樹凪は水滴がまだ落ちているノートを握りしめた友人の肩をがっしりと抱いた。
「ときっつあん、心配するな。俺たちで見つけよう。先生、その女子どいつですか?」
樹凪の鋭い目と口調に、路仁は口をつぐんだ。
「覚えていない。彼女たちはもういい。まずは探そう」
あの子たちがやったとしたら、許せないことだが、証拠がない。
「できるだけさがそう。やみくもに探したってだめだ。持ち去った人間の行きそうなところ、考えそうなところ・・・」
「ああもう、じれったいな。こんなことするやつの考えなんて分かるかよ」
もっともなことを言って、樹凪は駆け出して行った。早川は青白い顔をして立ち尽くしている。先ほどまで今にも走り出していきそうだったのに。
「早川、だいじょうぶか。行こう」
連れだって階段を降りる。路仁はまだ何か思いにふけっている。階段を踏み外さないか心配だ。
「もし、吉野がこんなのを見つけたら・・」
「早川、吉野は分かってくれる。こんなことされても強くあってくれると信じている。できるだけ見つけてあげよう。それにさっきも言ったけど、気に入って大切にしてくれるかもしれない。見つからなくても仕方ない。吉野さんの目に触れなければいいんだから」
早川がぎり、と路仁をにらみつける。路仁の言い方があまりに楽観的でお人よしに思えたのだろう。
「早川、君は優しいね」
吉野への思いを自分が言葉にするべきではない。思いを言葉にして伝える権利は当人にしかない。早川は自分で意識していないようにしているが、吉野のことが好きで大切なのだ。
「吉野の一生懸命さを尊重したいだけです。僕のきつい言葉で一度泣かせたことがあります。あの時ほど自分の口を呪ったことはない。吉野みたいな子が泣くようなことあっていいはずがない」
「分かるよ。さあ、気合を入れてさがそう」
早川は純粋な部分を皮肉に隠して、傷ついているのに気にしていないふりをしている。達観しているようで常に自問自答をしながら大人になるための濁流を懸命に泳いでいる。
大勢でごったがえす校内での捜索は正に雲をつかむ作業だった。そしておそらくなくなったノートをすべてみつけることはできなかった。
「俺たち、何やってるんだろうな。見つかるわけないじゃん。くやしいな」
樹凪はさすがにくたびれていた。糸が切られてばらばらにされて資源ごみの中で見つかったのはずいぶん後だった。吉野の目に触れることはなかったが、大切に使ってくれる人の手にも渡らなかった。
路仁は、今も吉野がくれたノートを大切にとっている。子どもが生まれたら写真をはるために使おうと思っている。
路仁が作った簡易な手作りのメモ帳はそのままで、吉野が丹精込めて作った和綴じのノートが持ち去られどうなったか分からない。
吉野は誰かが気に入って持って行ってくれたのかなとうれしそうに言う姿を、路仁は正視できなかった。あの色とりどりのノートは、彼女の慎ましさや優しさそのものだった。
早川も樹凪も不気味なほど平静を装っていた。
吉野は、女子たちの陰口や自分を値踏みする目を知っていたのかもしれない。彼女が部室や図書室に居場所を求めて短い休み時間でもやってくるようになった。
少しでも違う場所の空気を吸って、深呼吸をしてまた戻っていく。決められた日にしか学校に行くことのない路仁は普段の吉野がどれほどひとりぼっちなのかうかがい知ることができない。
吉野が孤立していやがらせをされていると路仁が確信したのは何か大きな荷物を先生に頼まれのか、運んでいるところを見かけたときだった。
男子と女子が数名たむろしているところを通りかかった。吉野は廊下の端を目を伏せて通り過ぎようとしていた。女子たちが急に追いかけっこをはじめ一人が吉野にぶつかった脈絡もなく追いかけっこを始めたことも不自然だし、吉野をめがけてそちらへ寄ったとしか思えない逃げ方だった。
ばさりばさりと紙が数枚落ち、吉野が荷物を置いて紙を集める。しゃがんだ無防備な後ろ姿の腰のあたりや、スカートからのぞくふくらはぎをみんなでちらちらと見ている。
吉野がまたよっこいしょと荷物を抱えあげた。
「持ってあげよーか?」
男子の一人が軽い調子で声をかける。吉野の肩がびくりと震える。「だいじょうぶ」とだけ短く答えて、それ以上何も言われないように足早に過ぎ去る。
少し離れたところで彼らはどっと笑い声をあげる。吉野に向けられたものなのか仲間内で冗談が出たのか分からないが、吉野の顔は真っ白だった。
「吉野さん、手伝うよ」
たまらず路仁は、無遠慮で冷たい笑い声から守るように吉野と彼らの間にすべりこむ。彼らは路仁を見るとまた意味もなく笑いながら向こうへともつれながら去っていった。
何もしていない。それどころか持ってあげようかと声もかけた。だが、そこに友情や思いやりはない。何もしていない彼ら咎めることはできない。そんな自分がふがいない。
黒い塊に見える彼らは常に誰かの足をひっかけようとする。それが仲間であってもノリの悪い者は平気で揚げ足をとってころばせるのだろう。自分の立ち位置を守るために。
集団になったり、相手に顔が見えないと、皆大人も子どももわけもなく強くなったように感じる。獲物を見つけると引き裂いて飲み込んでおいしい養分以外は吐き出す。おいしい部分とは、その獲物の心だ。心を喰う。例えば誹謗中傷して相手の傷つく様子が最高のごちそうなのだ。その時は自分の優越感が満たされる。みんながやっている、が後ろめたさを払拭する。
それ以前に、何も考えていないかもしれない。ただ目の前の石ころをたわむれに蹴ってどこまで飛ぶか競ってみるようなそんな遊びの延長。
吉野のつぶらな目には光がなかった。あんなに楽しそうにノートを作って、早川や書道部の友達と話していたのはついこの前のことなのに。
自分に何が言ってやれるだろう。何をしてやれるだろう。吉野のように一人で耐えている子がこの世界には大勢いる。
吉野はまだ1年生。彼女には学校を辞めるという選択肢を持っているようには見えなかった。吉野は今のところ体調不良以外は学校を休んでいない。
吉野は名前を幸玖(さく)という。玖は美しい玉や石の意味がある。掌中の珠のような、そしておそらく「幸せであれ」と願って両親がどれだけ愛情をもってつけた名前であることか。そんな両親を失望させたくないと思っているから、というのは想像でしかないのだが。
路仁が思いに沈んでいると吉野が「先生」と呼びかけて我にかえる。
「先生は気づいていますよね。でも、みんなには言わないでください」
「吉野さん、僕は」
「何にもしなくていいです。だいじょうぶです。慣れているから。どうにもできないことは我慢するしかない。いつか飽きられるまで」
打ち解けたつもりだった。しかし、ほんとうのところ信頼など勝ち得ていなかった。短期間来ているだけの図書館の先生と波風立てずにうまくやっていただけ。優しい子なので、はっきりとは言わないが、関係に線を引いている。何もしてくれるわけではない外面のいい大人だとも思われている。自分は浅はかだった。人の心というのはこちらから見るよりずっと垣根が高い。
「吉野さんに僕は何もしてあげられないのかな。こんなきれいなノートをくれて親切にしてくれたのに。吉野さんが耐えているのを知っていて任期がきたら帰ることしかできないのかな。僕はそんなに頼りないかな」
「先生が何もしてくれないなんて思っていないです。誰かが私のことを心配してくれているだけでじゅうぶんです。あっという間の3年間です。約束してください。みんなに言わないって」
早川や樹凪が信頼して大切にしている理由が分かる。少ないが彼女を応援し友人であり続ける子たちもいるに違いない。しかし、そんな人たちにも何も告げずに一人で耐えている姿は健気でもあり、痛ましい。
「一人で抱えていけるのかい?」
「はい」
「ほんとに?僕、もうじきいなくなるんだ。だからほんとの気持ちを吐き出してみないか?」
「・・・。そうですね。もう来られなくなるから、一回だけいいですか。本当はすごく怖い。中学の頃もこんなことがありました。何回目であってもやはり悲しいです。私の何がよくないのか。目の前で橋がくずれてあわてて引き返そうとすると来たはずの橋もなくなっているような気持です。でもがんばります。今までが夢で、今が私の現実だって思えばいいんです」
吉野は本を胸に抱きしめて、自分に言い聞かせるように話す。痛くない、痛くないと言い聞かせていたら、いつの間にか痛みがひいていく傷のように。
「吉野さん、それは君の現実じゃない。そんなこと思うものじゃない。僕は職員室で先生に言うよ。こんなことやはり許せない」
「やめてください!」
吉野の悲鳴のような声がぴり、と耳に刺さる。
「言ったら私、先生にセクハラされたって言います。いやならやめてください。ごめんなさい。先生までまきこみたくない。分かってほしいんです。お願いです」
吉野は荷物をすべて一人で抱えると、かなり無理をして速足で行ってしまった。取り残された路仁はその小さな背中をもう追うことができなかった。
泣いてくれたらいいのに、泣いて助けてと言ってくれていいのに。どうしてこういう状況に置かれている子は助けを求めないのだろうか。
セクハラされたと言われるのが怖いのではない。恨まれてもいいから言うべきだ。これ以上、あの子が傷つかないように。破っていい約束があるとすれば、これではないだろうか。
路仁が吉野と対面で話したのはそれが最後だった。路仁は吉野との約束を破り、担任教師に一連の出来事を話した。
「分かりました。様子を見ておきます」
その一言で話は終わってしまった。必ず、必ずですよ、と路仁は念押しをした。先生は笑顔ながらも少し迷惑そうに生返事をした。
「様子見」、便利で安易な言葉で片付けられている気がした。きっと、本当に「様子見」しかしないだろう。その証拠に吉野から「セクハラ」で訴えらえることもなかった。
その高校での最終日は実にあっけなかった。学校集会であいさつをさせられ初めて見る生徒から小さな花束をもらった。
大勢の生徒の中に早川も吉野もまぎれてしまい、樹凪だけがそっと手をふってくれた。
路仁の職場である図書館に早川が訪れたとき、路仁は目をみはった。顔は腫れてあざができている。唇も切れている。手当はされているが、生々しい傷跡が目立つ。手にも包帯がまかれている。どうしたのかと聞いたがあいまいな笑みを浮かべられた。弟を連れて児童書のコーナーに来ていた。
「せんせい、きたよー」
由維がまた手を出してくるので、軽くタッチをする。
「先生、ごぶさてしています」
「もう、先生じゃないから。早川君、元気か?」
「元気です。万事順調です」
とてもそうは見えない痛々しい傷が痛むのか、早川は口元を手で押さえている。趣味のよいシャツを着て、きっちりと首元までボタンをとめている。おそらく体にも傷があるのだろう。
普段はその仕立てのよいシャツを着崩していることが多い。それがかえってエレガントに見えるから相当に着こなしがうまいことがうかがえる。
「ここの蔵書は充実していますね。学習室も静かでいいですね」
絵本のコーナーにはプレイマットを敷きつめて親子がくつろいで本を探せるようにしている。毎朝、職員が交代で消毒を行い、いつも清潔をこころがけている。由維はそこをころころと転がりながら置いているぬいぐるみたちと遊んでいる。
「本の世界は無限。ここにある本から世界が広がっていく。心の中はどこまでも自由で、現実では行けないところにも自由に行けるって教えてくれたから、僕は本が好きなんだ。現実にはがんじがらめでも、心までは縛られないって登場人物たちが教えてくれる」
「そうですか?所詮現実を生きる人間に都合よく作られた人たちでしょう。そいつらの胸先三寸で生き返ったり、死んだり、何かをさせられる。でも、先生の考え、嫌いじゃないです。先生みたいな大人がきっと読書のすばらしさを誰かに伝えて、それに救われる人がいるはずです。身勝手に作られた登場人物たちでも、同じ境遇にある人に勇気を与えるかもしれない」
早川は由維に注意を払いながら、由維のために本を選んでいる。早川は父親の影響で作家という人たちには厳しいが、やはり本を読むことが好きなのだ。本に目を落とす姿は静謐さに包まれている。
「どんなに他人が、心の中にまで介入してきても、絶対に開けられない部屋があって、そこに本当の自分がいれば、少々心をかき乱されても平気でいられます。こんな傷なんてどうってことない」
多くは語らないが、早川は心にも体にも少なからぬダメージを負っている、それなのに彼はどこまでも強く冷静であろうとしている。
「そうだ、先生、これをどうぞ」
早川はきちんと封筒にいれた写真を手渡した。新聞部が文化祭新聞を作った際に学校の様々な場所で、撮った一枚だった。早川、吉野、樹凪、路仁が4人で写っている。吉野と路仁が作業をしているところを二人がのぞきこんでいる。
「新聞部の友人に焼き増ししてもらいました。ご笑納ください。僕らみたいなしょうもないガキどもがいたって思い出してくれたら」
「僕は初日に、来たことを少し後悔したよ。でも、去ってみれば、君たちはどうしているかって気になってばかりだ。楽しかったんだ。君たちを見ていることが。ありがとう。忘れないよ」
絵本を何冊か借りた二人を、路仁は見送る。その時、早川の携帯電話が着信を知らせて震えた。失礼、と断り早川は画面をタップする。短い返事をして、すぐに切った。
「母からでした」
一度、家の前で会った女性、早川の母親にしては若かった。そして「父の妻です」と紹介されていた。ついに「母」と呼ぶようになったのか。
「僕の実の母です。父と離婚して5年近くなりますが、こうやって今も僕の人生の中に居座っています。そして父の仕事上のパートナーであり続けています。作家さん・・父のことですが、あの人は母がいなければ今の地位を保つことはできません。父と母のおかげで僕は経済的には何不自由なく大きくなりました。母の存在は今の妻を不安にさせていますが、僕の知ったことではありません。弟のことは大事ですが、僕の家庭が明日壊れてもなんら不思議ではない。どうしてかな。先生にこんなこと言うなんて。どうにもならないことなのに」
親でもなく親戚でもなく学校の先生でもない。まったくの他人よりは少し知っている大人だからこそ言える。翌日には忘れてくれるような相手にしか思いを言えないが、早川は誰かに聞いてほしかったのだ。路仁は何と言ってやればよいか、正解が見つけられない。
早川は正解が欲しいわけでも慰めや励ましが欲しいのでもないと言うように、自分のことを他人のことのように話した。
「早川、僕はいつでもここにいるから、気が向いたらおいで。僕に遠慮なんかしなくていいんだよ。君と話をしたいんだ」
早川の口が「はい」と動いた。その返事にはいつか見たものよりも心がこもっていた。
それから、早川は、図書館に定期的に来るようになった。年上の彼女とは続いているようで、受験生の彼女につきそって学習室にこもることもあった。まじめに勉強しているようで路仁は安心した。
二人が連れだって席を離れると、実はひやひやして、あてどなく館内を巡回してしまっていた。早川は彼女がいないときに、隣り合わせた他校の学生と思しき女の子たちに勉強を教えたりして感謝され、連絡先を交換しかけて、戻ってきた彼女を怒らせることもあり、油断ならない。
どうすればそんな自然に話せるのか。女の子たちがわざと消しゴムなどを落として古典的なきっかけを作っているのは明らかだが、早川はそれに気づかないかのように、ひざまづいて落ちたものを返し、すぐに親し気な会話に持ち込んでしまう。
朴念仁には真似できない。知的な雰囲気である上におしゃれで紳士的、ガツガツしたところがなく余裕があり、そういった男の子に惹かれる女子たちにはたいそう人気だった。同じ高校の制服の子たちが来るとさっさと席を立ってどこかへ行ってしまう。噂を聞きつけて見に来た彼女たちが肩透かしをくう様子は皮肉なものだった。
年度末、路仁は人事異動で、図書館から本庁へ異動することになった。異動の希望なしを出していたのにと路仁は内心動揺を隠せない。異動なしで一生図書館司書のままでいられるとは思っていないが、それにしても・・と引継ぎや片付けに身が入らない。路仁が異動しても施設管理のための人員はくるが、司書には補充がないらしく、同僚たちもぶつぶつと言っている。
「お客様ですよ~」
事務室から出ていくと、早川、吉野、樹凪がそろっていた。この3人が揃っているのを見るのも久しぶりだ。一年生の頃の面影を残しながらそれぞれに成長していた。あれから吉野はどうやって乗り越えたのか、でもここに3人で来るということは、高校生活をがんばったということなのだろう。自信にあふれているとは言えないが、吉野には強さが加わったようだ。
「ご無沙汰しています。卒業しました。卒アルができたので、受け取った帰りです。」
「おめでとうございます。もうすぐ定時だから待っていてくれる?お祝いにごちそうするよ」
3人は、勢い込む路仁に苦笑いしながらもうなずいて、一旦去っていった。
「ろじん先生、あの男の子は宇野樹凪君ですか?もう高校卒業、早いなあ。でも挨拶に来るなんてかわいいですね」
後輩の詠夏があわただしく退庁の準備を始めた路仁に声をかける。
「すっかり、大人になっちゃんたんだよな」
「ろじん先生、おいてけぼりですね」
へへ、と詠夏が笑って、後片付けを手伝ってくれる。妻に連絡をしなければ。路仁は、定時が待ち遠しかった
彼らの高校の卒業アルバムは「卒業アルバム製作委員会」という有志で作成される。その年によって熱量が違う。学校が契約している写真業者からデータをもらい載せる写真を選定し、再び業者によってアルバムに仕上がる。
料金の交渉、ページ数、配置、表紙デザインまで生徒が担う。最後のページに製作委員会の名前の中に確かに吉野の名前があった。吉野はさまざまな葛藤を乗り越え、多くの生徒が面倒だと思うアルバム製作委員を引き受けた。
自分クラスの全員ができるだけ載るように、最低一枚でも、とがんばったと、吉野は微笑んだ。
少子化とはいえ一学年10クラス近くいるアルバムは分厚く重みがある。それでも片隅に写っているだけの生徒もいるが、吉野はそういう自分と同じような境遇の生徒の気持を考えながら写真と格闘したのだろう。
あれから辛くなかっただろうか。きっと一人で耐えていたのを、吉野を挟むように座る早川と樹凪が支えたと思いたい。吉野は名前と同じで今からきっと咲く。太陽に誘われるように。吉野は、語学に興味があり、いろんな国の絵本を翻訳してみたいと、外国語大学に進学する。
樹凪は推薦で体育科のある大学へ進学する。
「就職するつもりだった。でも家族が行けっていうんだ。うちの家、誰も大学出がいなくて行ってほしいんだって」
ぶっきらぼうだが、とても家族思いの樹凪は期待に応えようと進学を決めたと同時に奨学金を申請し、家を出ることにしている。すでにアルバイトをしながら引っ越し準備をしているので、休みの日がめったにない。
「これで、りんちゃんが俺のことをあまり気にせずよくなるんだ」
りんちゃん、樹凪を育てた姉、樹凪が気にするのは昔も今もりんちゃんだけだった。いつまでもそばにいたいという思いを断ち切るようにぼそりと言った。
早川が進学する大学名に、路仁は彼の聡明さなら当然だろうと思う反面、人知れぬ努力に思いを寄せる。学習室で彼は閉館の時間まで勉強していた。そんなときの早川は誰も声がかけられないほどに集中していて、紙をめくる音とペンが走る音しかせず、無風状態に厳しささえ漂っていた。早川もまた、大学進学と同時に一人暮らしを始めるという。
「よくお父さんや由維が了承したって思う。でも潮時だよな」
これ、使い方あってんのかなあと樹凪が呟く。
「父には何も言わせない。遅いくらいだよ。父には妻もいるし、もっと若い恋人もいるようだし、元妻という仕事上のパートナーもいる。あの人は自分を崇拝してくれる女達がいればいいのだよ。みんなあの人の関心を得ることをいまだに競い合っている。あの人はいい年してそういう女たちのせめぎあいを高みから見物して楽しんでいる節さえある。去っていかない程度に餌を与えてね。女たちがどれだけ神経をすり減らしているか知っているはずなのに。僕はもう親たちの恋愛事情を見るのは飽き飽きだ。弟はかわいそうとは思うけど彼の成長を待っていたら、いつになるか分からない」
そこにたどり着くのに早川なりに悩んだのかもしれないが、目の前の早川は冴え冴えとした言葉で、いとも簡単に家族を残していこうとしている。
「それに、僕があの大学に行くことは両親は内心喜んでいるはず。彼らは行けなかったから」
早川は時々一人だけで図書館を訪れることがあった。そんな時、路仁は仕事の合間をぬってあれこれと話しかけた。最初はうっとおしいそうな早川だったが、少しずつ話をしてくれるようになり、胸の内を語るようになった。
語りながらも早川は、どこか他人事のように淡々としている。自分のまわりにいる大人たちは小説の登場人物で、自分はそれを眺めているとでも思わなければ、ここまで生きてこれなかったのかもしれない。
将来の夢とか自分の境遇とかをあまり考えないようにしていると言った。
それは、考え出すと自分の足かせになっているものをうとましく思わないといけない。うとましいのは自分の親であり、弟である。結局は心の奥では、どうしようもない親たちを完全には見捨てられないのだと。
子どもの頃から、賢いねと言われてきた。だからその通りふるまう。実際、俯瞰した見方ができるようになった。理解したふり、納得したふりをしていれば、むなしくはなっても心が痛むことはなく、抗うことや期待することをしなければ野山にほうりだされることはない。
結局、本当の困窮やせっぱつまった生活を知らないお坊ちゃまはどんな苦労をしてもそこから脱出しようという気概がない限りは、大人の庇護下で、悟った風に生きていくしかないのだ。
早川の心の支えは家庭にはなかった。友達が心の支えだった。だが、彼らとて本当に分かってくれるわけではない。簡単に人の心など分かるわけがない。自分でさえも分からないのだから。しかし、分からないなりに友達はぶつかってきてくれた。親たちはそれさえしない。
「先生、ありがとうございました」
路仁はきょとんとした。何に対しての感謝かはかりかねた。
「いいんだよ。今日はお祝いなんだから、僕がごちそうするよ」
とりあえず言ってみると早川はあはは、と声を出して笑った。
「ごちそうさまです。でもそれだけじゃないんです。僕が近くの大学を選ばずに、自分が目指せる最も高い大学に行くこと、家を出ることを決意できたのは先生のおかげなんです」
そんなたいそうなことを言っただろうか。路仁は早川とのやりとりを思い返したが、この聡明な少年の心の琴線にふれるようなできたことを言えたか自信がない。早川は、路仁よりはるかに物知りで、分別があり、常に深い思考をしているうような少年だった。
早川は、路仁の考えを見透かしたように話し続ける。
「僕には、似非知識や見せかけの優しさでコーティングされた小賢しい教訓なんて必要ないです。先生と話した時間全てが背中を押してくれました。先生がいつも心配そうに言葉を選びながら話してくれる姿がおもしろくて・・・自分の好きな仕事をしている姿を見ていたら僕もそういうのを探してみてもいいかなって。まだ何も見えてきませんが」
おもしろいというのは誉め言葉かわからないが、早川にとっては心許せる時間だったのであれば、きっと素直に喜んでいいのだろう。
「たぶん僕が本当に先生と呼べる人は、あなただけだと思います。僕はいい生徒じゃなくて先生は不愉快なこともあったかもしれないけど、また会いに来ていいですか?」
「うん。ありがとう。不愉快というより君には驚かされることばかりだったよ。僕にとっても最初で最後の生徒だと思う。がんばるのはこの時ってだけでいいと思うよ。じゅうぶんがんばっていたのを知っているから。いつでも待ってるからね」
路仁は早川の肩に手を置いたあと、きれいにセットされた髪の毛をかきまわしてやった。18歳のもうじき大学生の少年にすることではないかもしれないが、きっとこうしてやるのも最初で最後だと思った。
そんなことされたことおそらくないだろうし、誰にもさせたことないであろう早川は一瞬たじろいだが、表情を悟られまいとしてか初日に見せた皮肉な笑顔になった。
人生が四季だとすれば、青春は四季とは別のもう一つの季節、青くて透き通っているはずが濁っていることもある。青い春が二度めぐってこないとしても、その日々に感じたことは必ず誰の心にもある。何も起こらないようで、ただ毎日を送ることで精一杯だったとしても。
次の『夜長読書の会』のテーマは青春や10代にしようかなと路仁の頭の中は企画が立ち上がりだしていたが、ああ、そういえば僕は異動するんだったと現実に引き戻されながら、引継ぎ文書を作らなくてはと早川に笑みを返しながら考えていた。
本の虫と青い春達