【TL】迷かの蝶、漏り来ての月
意固地奴隷美丈夫/横柄男/Sさせられヒロイン/SM/擬似男同性愛的暴力あり/アジアン世界観/その他未定
1
ダ・パユンはニ家で働いていた。ニ家の女主人の幼い娘の遊び相手になって半年が経つ。
雇い主の娘の手を引き、パユンは街に出ていた。出見世の焼きたての温かい菓子が食いたいのだという。
出見世通りで甘餅を買い、雇い主の娘ニ・タルビョルに与える。
「小さく千切って、よく噛んで食べてくださいね」
小さな手を拭き、白く濁った瞳を覗き込む。タルビョルは盲(めしい)だった。
「うん」
生殖とは模倣を生み出すためにあるのではないのか。しかしタルビョルは、この子の母親の苛烈な気性は受け継がなかったようだ。否、その気性の幼体が、成長途上の肉体のなかに眠っているのかもしれない。
タルビョルを脇にパユンは通りを眺めていた。すると向かいの路地から身形(みなり)のいい人物が現れた。背が高く、肩幅は広く、華のある男だった。綺羅びやか布は官吏を思わせる。後ろに2人侍(はべ)らせている。
官吏らしき男の死角で、出見世通りを子供が走っている。
「あ」
衝突が起きた。子供は手にした菓子を金糸と銀糸の煌めく衣に塗りたくり、地面に尻をついて泣き出した。
「何をする!」
官吏らしき男の従者が前に出た。しかし子供は嗚咽して要領を得ない。
「やめておけ」
上等な風采の男は従者を制すると、子供の前で膝を折る。
「こちらが悪かった。以後気を付ける。君も気を付け給(たま)え」
彼は片方の袖に手を入れ、金子(きんす)を取り出すと、子供に差し出した。
◇
タルビョルは屋敷に教師を呼び、字の読み書きや加減乗除を教わっている。その時間、パユンは時間を持て余す。
女主人フェンガネリが「弟が犬を飼った」と話していた。動物は好きだった。
パユンは屋敷の裏の納屋に向かった。窓から覗けば犬が見えるかもしれない。何色の、どういう形の犬なのか。彼女は空想を膨らませた。そして柔らかな毛を抱く想像に耽った。フェンガネリの弟というのは飽き性で、怠惰な気性の持主だった。いずれは犬の世話が回ってくれば、彼女は嬉しかった。
納屋は屋敷から離れ、林のなかにあった。
木々がざわめきのなかに物音が混ざっている。
納屋から聞こえる。鎖の音だ。犬の動き回る音に違いない。活発な犬なのだろう。タルビョルの好い友になる図像がパユンの脳裏に映じられていた。
林を吹き抜ける風が心地良い。
納屋に着くと、早速窓を覗いた。しかし鎖の音が聞こえなくなっている。気配を悟り、警戒しているというのか。人懐こい犬ではないのだろうか。
パユンが格子の奥に捉えたものは犬ではなかった。犬はいない。代わりに人がいる。納屋の柱に鎖で繋がれている。蹲(うずくま)っている。上半身は裸だった。角張った肉付きは男性のようだ。
彼女は息を呑む。
鎖に繋がれた人間が動く。目が合った気がした。研いだばかりの刃物のような眼差しを受けた気がした。
窓から目を逸らす。
女主人フェンガネリは、弟が犬を飼ったと言っていた。そしてパユンが関心を示すと、その犬は納屋にいると嗤っていた。ニ邸にある納屋を、パユンはここしか知らない。
犬はどこへ消えたのか。
納屋の扉に回った。
犬はいない。人間がいる。鎖の音は何だったのか。野盗が忍び込み、雨風を凌いでいるというのか。けれども外側から閂(かんぬき)が下りている。
パユンはもう一度、納屋を覗いた。鎖に繋がれているらしき人物は、すでに彼女に気付いているようだった。格子と格子の狭間から鋭い視線に射られている。今度は落ち着いて観察することができた。犬はいない。人間がいる。曝された上半身には赤い模様が刻まれている。汚れでも入墨でもない。生傷だ。長い髪が乱れ、顔の大半を覆っている。
まったく見覚えのない男だが、ニ家の雇われ人は出入りが激しい。半年間、タルビョルと遊んでいただけのパユンが全員を全員覚えているわけではなかったし、会っているわけでもなかった。どうせ、犬と遊んでできた傷に違いない。閂が勝手に閉まり、途方に暮れているのだろう。
「あ………あの………」
反応はない。
「……大丈夫ですか」
やはり反応はなかった。
「犬を知りませんか。この納屋にいたはずなんですけれど……」
威圧的な上目遣いが返ってきているだけだった。パユンはたじろぐ。犬はいない。人間はいる。けれどもその人間はニ家の者ではないようだった。或いは捕らえられた野盗で、処断を待っているのではなかろうか。
とても呑気な態度で臨んでいいものではなかった。
屋敷に戻ろうとしたとき、鎖に繋がれた人間は、咳き込みはじめた。手拭いを咬まされているようだ。しかし喉から濁った音を漏らし、腹を波打たせている。
パユンは跳び上がり、納屋の出入り口に回ると、閂を上げてしまった。窓は空いているというのに、蘞(えぐ)みと塩気の混ざり合った異様な匂いがこもっている。
しかし匂いの正体を解明している間はなかった。鎖に繋がれた男は上体を枷の嵌まった腕で支え、見えない拳に腹を殴られている。パユンは布製の轡(くつわ)を外した。直後に床に叩きつけられた胃酸よりも、細く畳んだ手拭いに染みついた赤い汚れに意識を取られた。
この男は何者なのだ。
背を打って胃から物を吐き出す男を、彼女は睨んでしまった。手枷と首枷だけでなく、片足にも鉄球の生(な)った鎖を伸ばしている。厳密な拘束だ。野盗では済まないのではないか。
満足に胃汁を吐き出せたらしい男はパユンを見上げた。散乱した髪から透ける反抗的な瞳は己の悪行を少しも悔いてはいないようだった。
背の高い、肩幅のある男だ。腹回りは引き締まり、日頃から鍛えていたのが分かる。身体中に傷があり、色の白さのために余計に目立って見えた。
しかし、肩で息をしているが警戒は怠らない。悪戯でもすれば、その瞬間に鎖を引き千切り、喉笛に噛みつかれてしまいそうな危うさがある。
パユンは後退って、後ろ手に納屋の扉を開けた。床の上の胃液の匂いが彼女の鼻を刺す。
水を一杯持っていた。彼女は自身の足が何故またこの納屋へ帰ってきてしまったのか分からなかった。どうせ野盗だ。処断される。それは死罪だ。一杯の水を与えるだけ無に帰す。地を血に染めるためだけの水なのか。
けれども力強い目遣いが脳裏から離れない。胃酸の匂いも、雑木林の緑の香りは掻き消してくれない。蘞(えぐ)みと塩気の入り交ざった生臭さもまた、庭に並ぶ洗濯物の香りでは掻き消えない。
閂を上げる手が慄えた。彼女は敢えて物音を立てた。扉を開ける。
納屋の奥で、鎖に繋がれた男は蹲ったままだった。しかし壁際に移っていた。胃液はそのまま、異臭を放っている。何も食べていないようだった。腹を空かしたあまり、盗みに走ったか。けれどもパユンを睨む眼に衰えはない。
「水を持ってきました……」
彼女は一口、水を飲んで見せる。近付くのは恐ろしかった。胃液の傍に器を置く。そして徐ろに後退った。だが、男は体勢を変えることもなく彼女を睨み続ける。
異様な匂いが混ざり合い、パユンもまた吐気を催しそうだ。睨まれ、見詰める。視線を逸らせば、獲って食われるのだろう。
後退り続け、背を打つ。この隙を突いて、獰猛な目付きの男に食われるのだ。しかし鎖と枷がそれを許さない。否、繋がれた男にまるで動く意思がない。
屋敷の庭に戻ると、パユンは身体に小さな白い玉を投げつけられていることに気付いた。次から次へと、パユンに当たる。小石よりも小さく、軽い。淡い色を帯びたそれは彼女の足元に転がっている。
軌道の先を捉えると、屋敷の2階の窓からだった。女主人フェンガネリの弟が投げつけている。霰菓子だ。
「犬、見てきたんか?」
女主人の弟ウバクは口角を吊り上げ、八重歯を見せた。何も知らない者は美男子だ、男前だと言って持て囃すが、所詮はニ家の長男への忖度だ。確かに実際、端麗な顔立ちをしているかもしれない。だがその笑みを見た途端、陰険な面構えに掌を返す。
「あ………い、いいえ………」
ウバクは霰菓子を宙に放り、口で受け取った。
「懐かなくってな。ちょっと躾けてやったら拗ねやがる」
「そ、そうですか。どちらにいるんですか……」
犬に対する関心は今はもうすでに磨り切れていた。
「納屋だよ、納屋。さっき水運んでたろ。恍(とぼ)けんな」
爪先から寒気がした。
「納屋には、犬は………おりませんでした」
「なるほど。忠誠心のないのは犬じゃないってか」
「そ、そうではなく……!」
「まぁ、今は躾直後であんな態度だが、そのうち忠犬になるさ」
「あれは野盗ではないのですか」
「おやおや、野盗だと思って水を恵んでやったのかね、パユンくん。それは困るな~」
涼しげな目元が2階からパユンを舐め回している。
「轡、外してあげたの? 轡も外さず水だけ置いてきた? 意地悪すぎんか」
八重歯がパユンを嗤っている。
「ああ、でも、轡外しちゃってたなら、今頃舌噛み切って死んでたりして。あ~あ、パユンちゃんの所為だ。あれ、高かったんだけど。自決しちゃってたら、パユンちゃんのお給金から天引きな?」
パユンは自害の可能性をまったく考慮していなかった。だがあの眼光を思い出してみると、そうするだけの衝動性を秘めていた。
彼女は納屋へと引き返した。閂を放り、扉を開ける。舌を噛み千切り、床を血塗れにした死骸がそこに横たわっているはずだった。けれども鎖に繋がれた男は相変わらず蹲り、顔を覆う長い髪の隙間から睥睨を向けるのみ。生きていた。胃酸も水もそのままだ。匂いも留まっている。轡にされていた手拭いも落ちている。血が染み込んでいる。
男を見遣る。もう一度轡を咬まされてくれそうにはなかった。パユンが観察するように、男もまたパユンを監視していた。
「ごめんなさい。わたし、あなたのこと、捕まった野盗か何かだとばかり……」
口を塞ぐものは取り除いたというのに、男は返事もしない。否、返事はしている。その眼はパユンを放さない。
「わ、わたしはダ・パユンと申します……」
おそるおそる一歩を踏み出す。男の眦が鋒(きっさき)と化す。足を止める。
彼女は果たして人間を相手にしているのだろうか。言葉も文化もまったく違う、言葉や文化というものさえ持っていない者と相対している心地になった。
「……喋れ、ないんですか………?」
轡は取った。だが、男は睨むばかりで声を発さない。頑強な肉体を持ちながら、健常の身ではないのか。
「…………失せろ」
息切れに紛れた嗄声(させい)は、林のざわめきと聞き間違ったようにも思える。
「そ、その………手当てしないと………手当てをさせてください。その……わたしもウバク様のもとで働いているものですから、きっと………」
女主人フェンガネリに雇われていようが、その弟のウバクに雇われていようが大差はない。ニ家に雇われている。ニ家に雇われた者ならば、仕事仲間というわけだ。
鎖が鳴った。繋がれた男はふらつきながらも身体を起こした。手当てに応じるつもりなのだ。
けれども鎖は甲高い音を立てた。鉄色の蛇は蜷局(とぐろ)を解き、獲物に躍りかかる。
パユンの視界は大きく揺れた。背中を強かに打つ。大きな陰が目の前に迫っている。泥を纏った顔に、激情を燃やした目玉が二つ嵌っている。
息を呑んだ。食い殺される。枷を鈍器に、頭を粉砕される。強靭な腕力で首を圧(へ)し折られるのか。
目を瞑った。直後に鈍い音があった。質量のあるものが叩きつけられる振動が床から伝わる。
目を開けると、鎖で繋がれた男は床に転がっていた。肩にピンが刺さっている。パユンは納屋の扉を見た。ウバクが吹き筒を下ろしていた。
「急所外したんだけど、死んだ? 脆ッ!」
ウバクは臆しもせず鎖の男に近付くと、足で転がした。仰向けにされた男の肩に生えた小さな鉄杭を踏む。
「ぁ、……、っぐ………、ぅ!」
男は暴れた。振り乱した髪から、顔が見えた。しかし泥が塗りたくられ、人相は分からない。
「ああ、生きてた? 痛いなぁ? 痛いだろ? 可哀想に」
ウバクは口角を吊り上げる。パユンは飛び起き、男主人に目を見張る。
「あ、あ、あ、ウバク様………な、何をなさって……」
「躾だよ、躾。人には金で教えなきゃいけない。犬にはエサで、奴隷には痛みで。だろ?」
男は唇を噛み締めていた。手枷が軋んでいる。矢の埋め込まれた肩からは血が細く流れていく。
「ど、奴隷………っ? 奴隷………って………」
「あれ? オレ、奴隷買ったって言わなかったっけ」
奴隷!
パユンは痛みに縮こまる男を凝らした。話に聞いたことはあるが、実際に見たことはなかった。奴隷とは、貴族の世界の話で、遠い地方の話だ。しかしニ家も権門勢家(けんもんせいけ)。奴隷がいてもおかしくはない。
「あ、あ、あ、で、でも、でも………」
「そんな驚くことかよ~? パユンちゃんが来る前にも男奴隷が何人かいたんだよ。でもタルビョルの目が見えないからって悪戯こいたやつがいてさ。連帯責任。みんな殺しちゃった♡」
ウバクは足で隷の泥まみれの顔を撫でた。パユンもまた、泥によって目鼻立ちの分からない男を見遣った。
「顔の好い奴隷はすぐ売れるんだと。だから泥塗りにして、縹緻(きりょう)は籤引きだって。醜男(ブサイク)だったら殺すって姉貴は言ってたけど、君はどうかな~?」
「て、手当てをしないと……」
「はぁ? 雑巾とかいちいち縫って洗って綺麗にするの? しねぇだろ」
「ウバク様……」
「まぁ、おままごとが趣味なら好きにしな? みんなの奴隷だからね。もちろん、パユンちゃんも使っていい」
ウバクは奴隷から足を退けると、落とし物を拾うかのように肉に刺さる鉄芯を抜いていった。血が噴く。
「ど、奴隷というのなら、肩が上がらなくなっては事なのでは………」
彼女の声は震え、舌が縺れていた。
「確かに! パユンちゃんは頭が良いなぁ。聞き分けもいいね」
冷たい掌がパユンの頭に乗った。
「いい奴隷商になるよ。資格とったら?
ハハハ!」
ウバクは哄笑し、帰っていく。
パユンの心臓は早鐘を打つ。自身の呼吸が耳障りだった。
「あなた………大丈夫なんですか」
奴隷だという男は唇に血を滲ませ、膝を曲げていた。拳は白くなって戦慄く。パユンは肩に触れた。その途端、振り払われる。手枷が彼女の前を薙ぎ、距離を作った。
「手当てをしなきゃいけませんよ……」
奴隷というのは、使い捨てで、何でも彼でも命じれば聞くのだという。しかしそのような人間が存在するのだろうか。それは人間なのだろうか。
目の前にいる生き物はパユンには人間に見えた。血は赤く、矢を刺すと血が流れ出る。皮膚が破れたならば、大きさ深さ相応の処置をするものなのだ。
顔に乗った泥が色を変えている。患部周辺も薄紅色に染まっている。
しかし男は起き上がり、鎖を引き摺って壁際へと戻っていく。
「……俺に構うな」
パユンは鎖の男を見ていた。壁に凭れ掛かり、徐々に腰を下ろしていく。しかし床と接する直前になって、彼は寝転んだ。
「具合が、悪いんですか……」
鎖の男の目蓋が降りる。
パユンは湯桶を持って納屋に入った。すでに外は暗くなっていた。
戸を叩き、中へ入る。手持ちの燈火にそう広くない室内は全貌を明らかにする。鎖の男は壁際に寝そべっていた。目蓋を上げる。しかし身を起こすこともなく、入ってきた人物を認めるや否や、ふたたび目を閉じた。
「や、やっぱり、放っておくのは……良くないと思って………」
勉学を終えたタルビョルと遊び、飯を食っている間も、この納屋に繋がれ、閉じ込められた男のことが頭から離れなかった。睨む気力も、手枷を振り回す体力も、もう無いようだった。
「いつから、ここにいたんですか」
応答もない。
パユンは湯桶に手拭いを浸した。勢いが失せたのはちょうどいい。水気を絞った手拭いを身体に当てる。
「……触るな」
パユンは手を引いた。
「ごめんなさい」
所詮は自己陶酔に過ぎないのだ。良心に従ったとて、それが相手のためになるとは限らない。この男がどういう経緯で奴隷になったのか、パユンは知らない。自由を奪われた人間の気持ちなど、到底理解できるものではなかった。
「軟膏はここに置いていきます」
パユンは外套の留具を外した。
「この辺りの夜は冷えますから」
素肌を曝した上半身に、上着を掛ける。
「何が目的だ?」
「……え?」
林から聞こえる夜鳥の囀りではなかった。
「奴隷の世話を焼いて、何が目的だ」
鎖に繋がれた男は目蓋を閉ざしていた。
「目的……?」
夜鳥が鳴いている。深い吐息がその後を追っていた。
「監視なら必要ない」
「監視……」
「"おままごと"の趣味か」
パユンは弱っている男を見下ろした。生きるか死ぬか、奴隷か人間か、その境界にいる者にとって一時的な手当てなど、ただの児戯なのだ。
「はい」
「他を当たれ」
奴隷というものへの接し方をパユンは知らない。
「……そうします」
燈火だけ持ってパユンは踵を返す。
「……さっきは脅かしてすまなかった」
戸を開けたとき、嗄れた夜鳥の囀りが聞こえた。
屋敷に戻ると、赤ら顔のウバクが玄関で待ち構えていた。酒瓶を下げている。
「そんなに犬欲しいなら買ってやろうか?」
酒臭さがパユンの鼻を刺す。
「いいえ……」
「いいぜ、遠慮すんなよ。買ってやるよ。それともオレ様が一夜限り、パユン嬢の舐め犬を務めさせていただきましょうかね?」
ウバクは彼女の行く手を阻む。
「犬はどうだった?」
「犬はおりませんでした」
「まぁ、そのうちきゃんこらきゃんこら四つ這いで、3回回ってワンと鳴くようになる」
パユンは酒気に浮かれた男主人の目を見た。この男は酔っていない。酒臭く、赤ら顔だが、酔っていない。
「あれは人間でした」
「種族はな。しかし人間といえども、男もいれば女もいる。両輪もいれば片輪もいる。肌が白いのもいれば黄色いのもいる。善良なのもいれば、極悪なのもいる。よって名族もいれば、奴隷もいる。違うか」
「けれど……」
「月と太陽を、我々は星とは呼んでやらない。何故だ? 圧倒的な差があるからだ。薔薇と雑草。我々は大葉子(おおばこ)とは呼んでやらない。圧倒的な差があるからだ。だろ?」
ウバクは玄関に飾られていた花瓶から薔薇の1輪を抜き取ると、花を彼女の眼交(まなか)いに突き出した。
「名前を知らないからです」
「あれの名前は、なんだったかな。忘れた。ユギとかいったかな」
ウバクは鼻を鳴らす。
「あの人を、どうなさるおつもりなんですか」
庭番はいる。木樵もいる。炊事班も洗濯班も風呂当番もいる。修繕屋も呼べば来る。金銭の支払いは発生するが人手は足りている。懐かないと言っている奴隷を従わせるより早く事が済み、確実な仕上がりを期待できるはずだ。
「何って、そんなの決まってるだろ。遊び相手だよ」
パユンの眉根に皺が寄る。
「どなたのですか」
「ハハッ! タルビョルのだと思った? タルビョルに男奴隷は近付けねぇよ、さっき言ったろ」
皺は消えた。しかし疑問は消えない。
「オレ様と、姉貴の」
女主人もこの男主人も、遊び相手を欲する年頃ではない。だが、独り身は寂しいのだろうか。女主人フェンガネリのほうは出戻りだ。
「たまにはパユンちゃんも遊んでやるといい。将来の婿のためにな、手練手管には長けておいたほうがいいぜ」
「ど、どういうことですか……」
「ハ……ハハ……閨(ねや)だよ、閨。男の性を知れよって言ってんの」
ウバクは酒瓶を呷るやいな、酒気を吐いて、パユンに嗅がせた。彼女の鼻粘膜が灼けていく。
「処女だろ?」
「……人に話すことではありません」
「いや、処女でいいって。可愛い姪っ子の遊び相手だぜ? 擦れっ枯らしの尻軽女じゃ困らぃな」
ウバクの腕が、パユンの肩に回る。酒臭さと、異性というものに、彼女の身体は強張った。
「あの奴隷に押し倒されて、そのまま犯されたかった?」
「……は?」
「オレ様、悪ぃコトしちゃったかなって思ってたんだよ。縹緻はあれじゃ分からんが、なかなかいい肉置(カラダ)してただろ? ああいうのに無理矢理抱かれて孕まされるのが女の悦びってもんだろうが、え?」
「そ、そうは……、思いません……」
この男には苛烈な姉と盲目の姪以外に、妹も一人いる。彼女たちにも同じことを言うつもりなのだろうか。
「ああ、そう? じゃあパユンちゃんは、オレに感謝はしなきゃいけないってコトだよな。ハハ、オレ様、恩人じゃん。感謝は? なぁ、感謝しろよ?」
「助けてくださってありがとうございます」
「そうだよ。ちゃんと誠心誠意、感謝を示さないと」
肩に乗った手が彼女の胸の上に滑り落ちる。
「あの……」
「オレ様がいなかったら、今頃は無理矢理にオス犬の汚ぇ臭(くっさ)いモノぶち込まれて、メス犬の仲間入りさせれてたんじゃねぇの?」
パユンの乳房が鷲掴みにされる。
「お酒の飲み過ぎです、ウバク様……」
ウバクの掌を剥がし、身体を引き離そうとしたが、男主人は腕に力を入れる。
「一発ヤらせろよ」
酒気が耳を撫で、頬を掠める。
「ウバク様……」
「お給金はずむぜぇ……?」
「お、お酒の飲み過ぎです……」
舌舐めずりが聞こえる。実際、冷たく濡れたものが彼女の頬を逆撫でる。大蛇に巻き付かれている。すでに胴体は肩まで蜷局のなかにいる。
「お酒の、飲み過ぎ………ですから………」
男主人は八重歯の奥で嗤っている。
「ハハっ! オレ様に抱いてもらおうなんざ100年早ぇよ、芋女」
雨音が聞こえた。パユンは布団から出ると、障子を開けた。やはり雨が降っている。庭石が月明かりに染まっている。
彼女は上着を身に纏うと傘を差し、納屋へ向かった。中へは入らなかった。格子状の窓の外側に木戸がある。固くなっていた。戸が軋む。何度か揺すると閉まった。
奥で鎖がきん、と鳴った。
【TL】迷かの蝶、漏り来ての月