イエスタデイ・イエス・ア・デイ
川上詠一 作
1
函館の消印で手紙が届いた。冷たい雨の降る日だった。結婚式の招待状のように真っ白い封筒で、右下の隅が何かで擦ったようにわずかに黒ずんでいた。封筒の表に書かれた僕の名前は配達人の濡れた手指が触れたのか、流れて滲んでいた。
封筒の裏には、イズミの名前が書かれていた。角張った文字で書かれた4つの漢字が、マーチング・バンドの隊列ように完璧な感覚でならんでいた。それは彼女のイメージそのものだった。イズミはいつでもそうだった。隊列はいつも綺麗に隙間なく並んでいて、つけ入る隙はなかった。少なくとも、ないように思わせるだけのものはあった。
部屋の机に向かって封筒を開く頃には、僕はイズミと最後に会った冬のことを思い出していた。八年前のことで、その年の僕は二十一歳だった。八年というのは長い歳月だ。それだけの昔に失われてしまった日々を今こうして離れた場所ではっきりと思い出すことは、到底不可能だった。輪郭はぼやけ、印象派の絵画のようにして、ぼんやりとした色彩だけが僕の頭の中に残っていた。そしてその色は、雪の降った日の遠景によく似ていた。
封筒の中には、一枚の写真が入っていた。それはイズミが写っているわけでも、彼女が撮ったものでもなかった。アンセル・アダムスによって撮られた、有名な、ヨセミテ渓谷のモノクローム写真だ。山があり、河が写っていた。裏に青いボールペンで小さく、「元気ですか?」と走り書きされている。僕はそれを、裏面が見えるようにして机の前の壁にセロハン・テープで貼り付けた。
☆
イズミと最後に会ったときの話をするとして、まずどこから語り始めたらいいのか、僕には分からない。それは奇妙な冬で、雪が降っては止み、地上はそのいつ終わるとも知れないわがままに延々と付き合わされていた。
ひとつの過ぎ去った事実として、僕はあの町を離れて自分のアパートの部屋へ戻ったときに、あまりにも物が溢れている自分の部屋に嫌気が差して、三日間かけてそれらをすべて処分した。
廃品回収業者に電話を掛けて一通りの家具を持っていってもらい、細々としたものは燃えないごみに出した。本は近所の古本屋へ持っていって買い取ってもらった。古い本が多かったので大した値段はつかなかった。見積りの用紙はとても実務的で、それ自体、ある種の文学的な価値さえあるのではないかと思えるほどだった。その内容を僕は今でもよく憶えている。A4サイズの白い紙の右半分に著者や出版社の名前を書き込む欄があり、右側に状態と査定額を書き込む欄がある。がりがりに痩せて折れそうに細い手首をした古本屋の主人は、僕の持ち込んだ本を一冊ずつ丁寧に見て、短くなった鉛筆でその用紙の欄を埋めていった。主人が念入りに見た結果、はじめにジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』が五円という査定額をつけられた。主人の査定によると、たいていの書物はみんな五円であるようだった。ディケンズ、ユゴー、カポーティ、オスカー・ワイルド、ポール・オースター……。あらゆる作家、詩人の本が五円という値段をつけられていった。もっとも高値だったのは一九六九年八月刊のヴォーグUKで、若き日のパティ・ボイドが表紙を飾っているその本には、五〇円という値段がついた。僕は用紙の一番下にサインをし、それらを売り払った。それ以来、僕は本屋へ行くたびに、棚に五円玉が並んでいる様子を思い浮かべてしまう。
☆
部屋の物の大半を売り払ったあとで家に残ったのは、一脚の鉄製のスツールと、ひと組の茶碗と箸、それからニール・ヤングのレコードが一枚だけだった。
2
A「人は海辺のポーチに腰掛けながら海の風景をいつまでも眺めていられるのに、映画館に行くと途端に退屈さに耐えられなくなる。」
B「誰の言葉?」
A「アンディ・ウォーホル。」
A「空想と現実の間には、高いコンクリートの壁がある。みんなそこをよじ登るわけだけど……パスポートを持っている人は楽に行き来できる。」
3
冬だった。片田舎の町を走る私鉄列車の車内は、効かせ過ぎの暖房のせいでむっとした空気をしていた。僕はボックス席の向かい側に、唯一の荷物であるナイロン製のボストン・バッグを置いて一人で座り、単調さそのものである景色が果てることなく続いている窓の外を眺めていた。
曇りっぱなしの窓ガラスの外では少し前から雪が舞っていて、それが車内に、奇妙に押し黙ったような静けさをもたらしていた。旧式の内装をした車内には客の姿はまばらで、ただ列車の走る音だけが、下手くそなガレージ・バンドのリズム・セクションのように響いていた。
窓の外の景色は、二時間ばかりも代わり映えがしなかった。くすんだ色をした冬の畑があり、その向こうにぼんやりと住宅や商店の輪郭が見えるといった具合で、特別なものは何もなかった。時折、遥か遠くから駆け寄ってくるようにして野立ての看板が現れたが、それはその中に躍る景気の良い文句(「入居者募集中!」「高額買取!」)とは裏腹に、みな一様に錆び付いており、陽に焼かれ雨に打たれたまま、ペンキを塗り直してもらうこともなく忘れ去られている様子だった。
僕はそれを見るともなしに眺めていたが、視界の隅に人の気配を感じて車内の通路へ目を向けた。揺れる車内の擦り傷だらけの床の上を小さな女の子がふらふらと覚束ない足取りで、時折座席の肩につかまりながら歩いていた。僕は視線を窓のほうへ戻しかけて途中で止め、ふたたびその少女のことを見た。というのも、少女の髪は僕がこれまでに見たことがないくらいに長く、そして変っわていて、それが僕の目を惹いたのだ。その髪は完璧なシルバー・ホワイトをしていて、腰のあたりまでふさふさとゆったり伸びていた。そしてそれは車内を照らしつける無遠慮な蛍光灯の明かりの下で、朝陽を浴びた新雪のように光り輝いていた。
少女はよろめきながら歩き、僕の向かいの席――僕が荷物を置いていた席――の肩につかまった。高級そうなビロード地をした赤いワンピースを着たその姿は、どこか神聖さのようなものさえ伴っていた。
「こんにちは。」
少女は僕を見据え、表情を少しも変えずに言った。雪の降り積もる音のように静かで、しかしよく通る声だった。
「こんにちは。」と僕は返した。
少女は向かいの座席に置いた僕の荷物をじっと見つめ、言った。
「あなた、旅行しているの?」
「ああ、いや。そういうわけではないんだけど。」
僕は言った。それから、向かいの席から荷物をどかし、持ち上げて網棚の上に置いた。なんとなく少女がそうして欲しそうな顔をしているように見えたし、実際僕が荷物をどかすとすぐに、少女は僕の向かいの席に腰を下ろした。少女は窓の外へちらりと目を遣り、つまらなそうにすぐ視線を戻した。
少女は左手に薄いビニールの袋を持っていて、がさがさと小さな音を立てて、その中に入っている檸檬色の飴玉を一粒つまんで口に入れた。どういうわけか、僕はその仕草のひとつひとつに奇妙な懐かしさを感じずにはいられなかった。
「あなたも欲しい?」
少女は飴玉を一粒、僕に差し出した。僕は受け取り、それを口の中へ入れた。べたべたして、溶かしたチョコレートのように甘い飴玉だった。
「ねえ、この町は好き?」
「どうかな。」僕は言った。
「わからないよ。僕が好きだろうが嫌いだろうが、この町は平気な顔でここに居座り続けるだろうしね。」
「理屈っぽいのね。」と少女は言った。「わたしはこの町が好きよ」
「どうして?」
「だって、他に行くところなんてないんだもの。」
「なるほど。」
僕は言って、窓の外を眺めた。好みの問題は別にしても、ある種の愛着のようなものを僕はこの町に感じていた。何年か履いて馴染んだスニーカーが古くなって、いざ捨てようというときに感じるような種類の愛着だ。
「随分と大人びた喋り方をするんだね。」
僕は少女に貰った飴玉を口の中で転がしながら、言った。
「どうして?」
「ふつう、君くらいの歳の人間は、『あなた』なんて言ったりしないよ。」
「そうかしら。」
少女は首をかしげ、興味無さそうに座席の肘掛けを指でいじった。あくまでも子供の発音で発せられる大人びた言葉は、僕の耳に不思議なくらい居心地よく響いていた。少女の言葉の持つ音はしばらくの間、僕の耳のまわりにまとわりつくようにして居座り続けた。それを吹き消したのは、少女とは真逆の、どこか子供じみた響きを持った大人の声だった。
「こんなところにいたのね。」とその声は言った。僕ははじめ、その言葉は僕に向けられたものであると感じた。顔を上げ視線を上げると、見たところ僕よりもいくらか歳上といった具合の女の人が立っていた。艶のある黒い髪を肩のあたりまで伸ばしていて、黒いタートルネック・セーターを着ていた。声の主は彼女で、その言葉は僕ではなく少女に向けられたものだった。
「べつに、どこへ行こうといいじゃないの。」
少女は拗ねた調子で言い、飴玉を口の中で大袈裟に転がしてみせた。
「そういうわけにはいかないわ。」
彼女は威厳っぽく少女に言ったが、その言葉にはいくらかの困惑と、何かを恐れるような表情が含まれていた。
「さあ、行くわよ。次の駅で降りなくちゃいけないんだから。」
「いやよ。」少女は座席に深く座り直しながら言った。「わたしはここにいるわ。」
女の人は押さえるような素振りでその艶のある髪の毛を触り、僕に視線を向けた。
「ええと、」
僕は一度少女を見て、それから女の人に視線を戻した。女の人はまるで僕のすべてを見透かしているとでもいうような表情で言った。
「この子、預かっているのよ。ちょっとした事情があって。」
「なるほど。」僕は言った。「母親にしては若すぎると思った。」
「それはひょっとして、褒めてるの?」
「ええ。」
女の人は何か考えるような素振りをした。その素振りが終わると、僕らの間にはほんの少し親密な雰囲気が漂っていた。それは彼女にとっての儀式のようなものだったのかもしれない。
「あなたは? 旅行か何か?」
彼女は、網棚の上に置いた僕の荷物を見ながら言った。
「冬の休みで、帰省です。」
彼女は僕の服装を確認するように、上から下まで視線を巡らせた。
「学生なのね。」
「ええ、まあ。」
「何を勉強しているの?」
「ロシヤ語です。」
「ロシヤ語。」と、彼女は口の中で繰り返した。
「ねえ、何か話してみてよ。私、ロシヤ語って聞いたことないわ。」
「ヤ・リュブリュー・ティビャ。」僕は言った。
「どういう意味?」
「アイ・ラブ・ユー。」
「まあ。」と女の人は言い、それから手のひらで顔を扇いだ。
「この列車は少し暑いわね。そう思わない?」
「そうですね。」
「ビールがあればいいのに。」
「どうして?」
「暑いからよ。」
彼女がそう言ったときに、ぐらりと列車が揺れ、彼女はバランスを崩した。僕は席を勧め、彼女は少女の隣に腰を下ろした。少女は退屈そうに窓の外を見つめ、時々気が向いたように僕のことを見た。
「お邪魔じゃないかしら。」
「いえ、退屈してたんです。」
彼女は肘掛けに肘をつき、簡単な自己紹介の言葉を口にした。僕は肘をついた彼女の腕、少しだけ捲り上げられたタートルネック・セーターの袖口から覗く銀色の小さな腕時計を眺めていた。秒針のないその時計は、時を刻んでいるようには見えなかった。彼女はアンナという名前だった。自己紹介で分かったのはそれだけだった。
僕らは駅に着くまで話した。それは話したそばから失われていくような種類の話で、見ず知らずの他人と交わす天気の話だって、僕らの会話と比べたらずっと意味があるように思えるような話だった。少女はずっと黙りこくっていて、アンナさんは時々、少女の顔色を伺うようにして話した。それはまるで、うまくいっていない母娘の演技をお互いにしているかのようだった。駅舎の輪郭が見えてきたころ、アンナさんは言った。
「私たち、ひょっとしたら、ちょっとした若い家族みたいに見えるんじゃないかしら。」
僕は少し考えてから、言った。
「どうですかね。」
列車はゆっくりとした速度でホームへ入り、僕らは別れた。
4
A「ねえ、このあいだ、どうして来なかったの?」
B「急に用事が入っちゃったのよ。」
A「きみが来なかったせいで、僕は二〇分もタクシーの運転手と喋らなくちゃならなかったんだ。」
5
僕とイズミが初めて出会ったのは高校に入ってすぐのことだった。僕らは同じ年に、同じ高校へ入学したのだ。五十音順でイズミの後ろの席に振り分けられた僕は、イズミの背中を見ながら一日を過ごすことになった。十代の少女らしい、黒々として細く繊細そうな髪が紺色のブレザーの襟にかかっている様子は、一種の儚い芸術性さえ感じられた。夏になると彼女のブラウスを透かして、白く健康そうな下着が見えた。その年の夏休みには、僕とイズミは恋人同士になっていた。僕らは卒業するまでその関係を続けた。僕らは一緒になって登校し、休み時間に話をし、週末には隣町まで封切りの映画を観に行ったり、そのまた隣町の遊園地に出掛けたりした。ただひとつ、一般的に言われる恋人同士という関係性において僕らに足りないものがあったとすれば、それはセックスだった。
僕らは高校生だったそのおよそ三年の間、仲の良い兄妹のように毎日お互いにくっついて回っていたけれど、まさしく仲の良い兄妹のように、お互いを性的対象として見ることを恐れるようになっていた。何度も試みたことはあったけれど、いずれの場合も失敗に終わった。あるいは、それはある意味では成功だったのかもしれない。青みがかった奥深い白をしたスクール・シャツのボタンをひとつずつ外してイズミの白い胸に触れたとき、それはもっとも性の意味に近づいた瞬間だった。僕らはそこから先へ進もうとは思わなかった。僕にはイズミの体はぬるま湯を入れたビニール袋のように思えた。少しでも乱暴に扱ったら、どこからか中のぬるま湯が漏れ出てしまう。そしてイズミも僕も、そうなることを望んではいなかった。
「嘘なんだよ、全部。」
いつだったか、おそらく夏のことだったと思う。汗で少し湿ったタオルケットが、僕らの傍らにあったことを憶えているから。一七度目か八度目の失敗のあとで、イズミはベッドの上で半袖のスクール・シャツのボタンを下から順番に留めながらそう口にした。彼女はいつも、シャツのボタンを下から留めた。
「嘘って、何が?」
「あらゆるもの全部。目に映るものも、鼓膜を震わせるものも、全部。映画館のスクリーンに映ってるものとおんなじ。最後にはスタッフ・ロールが流れて……パチン。みんなおしまいよ。」
僕はベッドの隅に腰掛け、イズミの話に肯いた。つけっ放しにしていたラジオから、ジョン・レノンが流れていた。
「ジョン・レノンも嘘?」
「大嘘つきよ。」
イズミはボリュームのつまみを捻った。ジョン・レノンの声は小さくなり、けれど彼は歌い続けていた。
6
僕は家の鍵を開け、中へ入った。帰省といっても、それはただ単に自分の持ち物がきちんとそこにあるかと確かめにきただけと言い換えてしまうこともできた。僕の持ち物というのは築三〇年の一軒家で、そこには今は誰も住んでいない。
僕はブレーカーを上げ、近所のガソリン・スタンドに電話を掛けた。一〇分後に給油車がやってきて、型遅れのトヨタ・ターセルにガソリンを注ぎ込んで去っていった。
辺りはすっかり暗くなっていた。雪は降っていたけれど積るほどではなく、目を離した隙に降るのをやめてしまいそうなくらい弱々しく降っていた。僕は運転席に座ってエンジン・キーを回し、ギヤをローに入れた。ヘッド・ライトに照らされた雪は、その不仕付けな光から逃れるように地面へと舞い落ちていった。幹線道路まで出たところでカー・ラジオに手を伸ばして音楽を流している局に合わせると、時代遅れのヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニューズが流れた。
幹線道路沿いのドライブ・インに車を入れ、終夜営業の食堂のカウンターで茹で過ぎのトマトソース・スパゲティを食べた。煮詰まった酸っぱいコーヒーを飲みながら煙草を立て続けに二本吸ったとき、僕は思い付いて立ち上がり、隅に置かれたピンク色の電話に向かった。市内局番までダイヤルしたところで、自分がはっきりと電話番号を憶えていないことに気が付いたけれど、思い付いたままに四桁の数字をダイヤルすると、それはきちんと目的のところへ繋がった。はじめに彼女の母親が出て、それから彼女が出た。「イズミ?」と僕は言った。彼女のほうはその一言で、僕が誰だか分かったようだった。彼女の声を聞くのは高校を卒業して以来、三年ぶりだった。
「久しぶりだね。帰ってきてるの? もっと早くに連絡をくれればいいのに。」
「いや、今日着いたばかりなんだよ。」
「そう。なら仕方ないね。ねえ、今どこにいるの?」
僕は店の名前を告げた。イズミと話しながら、僕はカウンターの中で退屈そうに皿を拭いている、若いウェイトレスの姿を眺めた。髪は黄色っぽい金髪に染められていて、シンディ・ローパーと張り合おうとしているかのような化粧をしていた。彼女の着ている時代遅れなチェック柄をしたエプロンと彼女のその姿は、どこかとてもしっくりくるところがあった。ひょっとしたら生まれたときからここで――田舎の寂れた終夜営業の食堂で――働いているのではないかと思えるほどだった。
イズミはいくつか近況を話して聞かせたあとで、今からそっちに行く、と言った。僕は電話を切り、席に戻ってコーヒーのおかわりを頼んだ。二〇分もした頃、毛皮のコートを着て赤いローヒール・パンプスを履いた彼女が店に入ってきた。「凍えそうよ。」というのが彼女の第一声だった。
「久しぶりだね。」
僕の隣の席に腰を下ろしながら、イズミは電話口で言ったのとまったく同じ口調で言った。「ちっとも変わってないのね。」
イズミはカウンター越しに、デカフェ・コーヒーとターキー・サンドイッチを頼んだ。若いウェイトレスは返事をせずに、エプロンのポケットから取り出した短い鉛筆で、メモ用紙に注文を書き付けた。
「君のほうは、変わったね。」
僕は言った。イズミにはもう、制服を着て黒板に向かっていた頃の面影はなかった。伸びた髪は綺麗なダーク・ブラウンに染められ、化粧が上手くなって、着ているものの色気は増していた。しかしその結果として彼女は十代の彼女が持っていた、あどけなさのようなものを失っていた。それを彼女が意図的に手放したのか、それとも自然消滅的になくなり、他のものにすり替わってしまったのかは、僕には見当もつかなかった。
「もう三年も経つんだから。何だって、変わるわよ。」
そう言ったイズミの前にコーヒーが出され、ターキー・サンドイッチが出された。
「変わらないものだってあるさ。」
「例えば?」
僕は考えてみたけれど、何ひとつ思い浮かばなかった。彼女は正しかった。何もかも変らずにはいられない。
7
B「お金のない世界を想像してみたこはとある?」
A「あるよ。時間があればいつもそのことを考えるようにしてる。そして大抵の人は、小学校に上がる前くらいまでは、その世界に住んでいたんだ。ある時期になると、みんな引っ越すんだよ。」
8
僕が初めて寝た女の子は、メミという名前の、ピアノを弾くのが上手な女の子だった。僕らはよく吉祥寺の楽器店へ行き、その店でいちばん上等なピアノの前に座り、彼女は僕のリクエストに応えてあらゆる曲を弾いてみせた。
僕らは大学の図書館で出会った。大学へ入って少し経った頃のことで、桜が散り始め、くすぐったい匂いをした風が吹いていた。物語のはじまりにはちょうどいい季節だった。僕は一年で、彼女は二年だった。彼女は人生において、もっとも輝ける年齢だった。
僕らが出会った日は厚い雲が空を覆っていた。厚い雲は何か降らせるわけでもなくた黙って地上を睨みつけていた。昼食を食べたあとの僕は、図書館の隅の席に座って『フランダースの犬』を読んでいた。昼下がりの図書館には人影はまばらで、ひっそりとしていた。
彼女が僕に声を掛ける何分も前から、僕は彼女の存在に気付いていた。彼女のよく履き込まれたレッド・ウイングのブーツが、彼女が歩くたびに大袈裟に図書館の床を鳴らしたからだ。6インチ・ハーフのそのブーツを、彼女はいついかなる時も履いていた。僕はその靴音を聴きながら、ネロの運命を追っていた。遠く昔のアメリカの電線工を思わせるごつごつとした靴音は、椅子に座った僕のところで止まった。
「ねえ、そこはわたしの席なんだけれど。」
僕は本から顔を上げた。彼女は色の濃く残ったリーバイスのポケットに親指を引っ掛けて立ち、僕のことをじっと見ていた。彼女から漂う雰囲気はどこまでも男のそれであるのに、その姿はどこまでも女で、僕はそのことに混乱せずにはいられなかった。
「ねえ、聞こえないの? そこは・わたしの・席なんだけれど。」
「ああ、いや、聞こえるよ。」
「なら、どいてくれないかしら。」
「席なら他にもあるよ。」僕はあたりを見回した。空いていない席を探すほうがずっと難しかった。しかし彼女はあたりを見ることすらしなかった。僕は仕方なく隣の席の椅子を引いた。「例えば、こことか。」
「ねえ、空いている席は他にもたくさんあるわ。わたしだって、それくらいのことは知っているわよ。でもね、そこはわたしの席なの。」
「どうして?」
「どうしてもよ。あなたは赤信号は止まれ、青信号は進んでよろしいとか、そういうことにまで疑問を抱くような人間なの?」
「いや、そんなことはないけど。」僕は言った。「ただ、その席が君のものだっていう理由とか証拠だとか、そういうものがあるなら見たいと思ったまでさ。例えば、どこかに名前が書いてあるとか。」
僕はフランダースの犬を閉じて席を彼女に譲った。彼女は深く息をつき、子供を叱ったあとの母親のような威厳でその椅子に座った。僕は引いたままにしていた隣の席に腰を下ろした。
「あなたは、自分の持ち物にはもれなく全部、名前を書いているの?」
「そんなことしないよ。だいいち、できない。」
「じゃあ、世の中にはあなたの名前は書いていないあなたの物がたくさんあるわけね。」
「まあ、そういうことになるね。」
彼女はジーンズの後ろのポケットから文庫本を取り出し、適当なページを開いた。ロバート・ブラウニングの詩集だった。けれど彼女はそれを読むわけではなく、開いたページを眺めたあとで、それを閉じた。そしてしばらくぼんやりとした目つきで何か考えるような素振りをし、おもむろに口を開いた。
「ひょっとしたら、わたしはあなたのものかもしれないわ。」
僕らは春の終わりから夏の終わりにかけての季節を、フィギュア・スケートのペア競技のようにして一緒に過ごした。僕らは向かい合ってツナ・サラダを食べ、夕方の公園を散歩し、ビールを飲んだ。彼女は少なくとも、常識という度の強い眼鏡をかけて見る限りでは、変わった人間だった。彼女自身、そのことを自覚していたように思う。未来というよりも、どちらかというと過去に希望を持って生きているタイプの人間だった。国分寺にあった彼女のアパートの部屋には、あらゆる種類の本やレコードが棚に収められ、収まらなくなったぶんは段ボール箱に無造作に詰められていた。家財道具はというと、小さな1ドアの冷蔵庫とヘア・ドライヤー、それから小さな机と椅子が一組しかなかった。
彼女はただ存在することだけを生き甲斐にして生きていた。例えば、彼女は赤い表紙をしたB5サイズのノート・ブックを常に持っていて、彼女の身の回りに起きたあらゆることをそれに書きつけていた。本当にありとあらゆることを、だ。罫線すら引かれていない真っ白なページは、彼女の尖った文字で埋め尽くされていた。彼女は息をするのと同じような感覚で、そこに文字を書き足していった。そこには気負いのようなものは一切存在していなかった。電車の中、食事中、ぬるい風呂に浸かりながら……。いつでも書こうと思ったときに、何の躊躇もなく彼女は書いた。それは息をするのと同じように、完璧な無意識のうちに行われていた。そうなれば、数秒おきに意識して息をする人間がいないように、本人にとっては書いていないも同然だった。
その赤いノート・ブックは、彼女自身による彼女自身の完全な記録だった。彼女はそのノート・ブックのページの中に、大きすぎもせずかといって小さすぎもしない、彼女とまったく同じ大きさをした彼女を、真空パックにして仕舞い込んでいた。それが何の役に立つかなんて考えたこともなかっただろうし、実際それは何の役にも立ちはしない種類のものだった。それでも彼女はそのノート・ブックに書きつけることをやめはしなかったし、きっと今も彼女が生きているのだとしたら、その習慣を続けているだろう。
夏の終わりとともに、彼女はぷっつりと姿を消してしまった。どういうわけか、しばらくの間、僕は彼女がいなくなったことに気付きもしなかった。僕はただそれまで通りに、夏の匂いを引きずった季節を生きていた。
彼女がいなくなったことに気付いたのは九月の二週目の水曜日だった。夜の雨のように、その事実は何の前触れもなく僕の頭の中に浮かんだ。僕は中央線に乗って彼女のアパートへ行ったけれど、そこはすでに空き部屋になっていた。大家に彼女の行方について訊ねると、管理会社に訊いてくれと言われ、管理会社に電話を掛けると「そういったことにはお答えできない。」と言われた。
僕は大学の学生課の窓口へ行って彼女のことを訊いてみようと思ったけれど、そのときになってはじめて、自分が彼女について何も知ってはいないことに気が付いた。メミ、という名前ですら、彼女がそう呼んでくれと言っただけで、本当の名前なのかどうか分からなかった。僕が彼女について知っているのは、彼女が牧草のような匂いのするフランス製の煙草を吸っていたことや、考えごとをするときに鼻に軽く触れたりするということだけだった。彼女は雪解けのあとの雪のように、あたかもはじめから存在していなかったかのように消えてしまった。彼女についての僕の記憶は煙のように形を持たず、それが輪郭を手に入れたみたいに、頼りなく覚束なかった。
いくつかの彼女の名残が、夏が終ってからも僕の部屋に残りつづけていた。彼女は文字通りたくさんのものを僕に残していった。透明なビニールの傘、カルティエ=ブレッソンの写真集、フリッパーズ・ギターのアルバム、食べかけのジンジャー・ビスケット……。しかしそれらのものも、まるで扉を閉めていない檻に野良犬を集めたみたいにして僕の手元には居着かず、すぐにどこかへ消えてしまった。一体、いつどこへ消えたのか、考えてみたところで無駄だった。僕が気付いたときにはそれらはもう消えてしまったあとで、僕は彼女なり彼女の残していったものなりがそこに至るまでの内的なプロセスを一切知ることはできなかった。あるいは、こう言うこともできる。
彼女も、彼女が残していったものも、はじめから僕の持ち物ではなかったのだ。
9
B「死んだあとのことなんて誰も知りはしないのに、みんな生きることを賛歌するの。うんざりよ。ひょっとしたら、死んだあとのほうが素晴らしい可能性だってあるのに。」
A「知らないものというのは、恐いものなんだ。」
A「死についてはよく考える。公園のベンチに座ってチーズ・バーガーを食べるときなんかに。」
10
「郵便局の仕事はどう?」
僕らはドライブ・インを出て、僕の車で幹線道路を走っていた。僕らの他に、車は一台も走っていなかった。遠くまで連なって見える信号機だけが、真夜中にもかかわらず驚くべき誠実さで完璧に仕事をこなしていた。雪は止んでいた。あたりに車が走っていないことは分かりすぎるくらい分かっていたけれど、僕は赤信号に当たるたびに律儀に車を停めた。真夜中のヘッド・ライトと静寂の中で、クラッチ・ペダルを踏む感触が妙に心地良かった。
「退屈。」
イズミは言い、ドライブ・インの自動販売機で買った缶入りのコカ・コーラを飲んだ。イズミは高校を卒業したあと、そのまま町の郵便局の仕事に就いた。
「毎日、小包の重さを量ったり、大きさを測るだけ。そんなのって、ねえ、ちっとも魅力的じゃないの。ライ麦畑のはじっこに立って、崖に落っこちそうになる子供たちをそのまま受け流しているような気分がするよ。そういうのを朝から晩まで、一日中やってるの。」
「でも毎日ちゃんと行ってるんだろう?」
「ああもう、うるさい。」
イズミは小声で悪態をついて、車のラジオから流れてくるお喋りなDJの耳障りな声を、ボリュームのつまみを回して聞こえないようにした。それから、僕の質問に答えた。
「行ってるよ、毎日。自慢じゃないけど、遅刻したことだって一回もないのよ。一回も、よ。ねえ、煙草はないの?」
僕はダッシュ・ボードの上に置いていたマイルド・セブンのパックを放ってやった。イズミは一本取り出し、車のシガー・ライターで火を点けた。
「あんなに退屈なところだとは思わなかった。」
助手席の窓をほんの少しだけ開け、煙を吐き出しながらイズミは言った。
「煙草、いつから吸ってるの?」
「さあ、憶えてない。働き始めて、少し経った頃だったと思うけど。でもね、自分では絶対に買わないの。だって煙にお金を払うなんて、そんなの馬鹿げてるもの。」
「まあね。」
そう相槌を打ちながら、僕はかつてイズミが、今世紀最大の発明をしたような顔をして僕に語った話を思い出していた。虹を売って商売にする話だ。町のはずれの小高い丘に土地を買って、虹が出たときに人々から一〇〇円か二〇〇円か、それくらいの小銭を取って、絶好の位置から虹を見せてやるという話だった。「そこでポップコーンだとかよく冷えたセブン・アップだとかそういうものを売って、そうしたらきっと、十分食べていけるだけのお金は稼げるはずよ。」とイズミは言っていた。その話の最大の盲点は、誰も虹を見るためにお金を払ったりなんてしないということだった。ただ、少なくともその頃のイズミは、綺麗な虹を見るためなら誰しも当然それくらいの小銭は出すだろうと考えていた。
「ねえ、虹の話は憶えてる?」僕は言った。
「虹の話?」
「虹を売る話だよ。いつか君が僕に喋った。」
「憶えてないわ。ぜんぜん。」
「そうか。」
僕はクラッチ・ペダルを踏み、ギヤをトップに入れた。
「それじゃあ、もし、東の空に虹が出ていたとして――秋の夕暮れ時なんかにね――それがいちばん綺麗に見える丘が、町のはずれにある。一〇〇円か二〇〇円払うと、そこに入れてもらえるんだ。君は行く?」
「もう、よしてよ。虹の話なんか。」イズミは言った。「そんなのどこから見たって、同じじゃない。それに、ねえ、虹にお金を払うなんておかしな話よ。だって、誰もお金を払って空気を買ったりはしないでしょ? 煙草、もう一本貰うわ。」
イズミはフィルターまで燃えそうに短くなった煙草を車の灰皿で揉み消すと、新しい煙草に火を点けた。
「ねえ、郵便局に勤めてた詩人がいたでしょ、たしか、ええと、飲んだくれの人。名前は、ええと――」
「ブコウスキー。」僕は言った。
「ああ、そう、それよ。その人。」
イズミはそう言ったけれど、それ以上は何も話さなかった。彼女がラジオを切ったせいで、僕らが話さなくなると、車内にはぶるぶると小刻みに震えるエンジン音以外、何も聞こえなくなった。
少し走ったあとで、僕は河沿いに車を停めた。冬の河は、まるで重油が流れているみたいに不気味に黒々としていた。強い風が寒々とした音を立てて車をかすかに揺らした。エンジンを切ると、風の音以外は何も聞こえなくなった。
「ねえ、」とイズミは言った。「あたしのこと、好き?」
「分からないよ。」僕は言った。「今はどうか、分からない。」
「かまわないわ。」
イズミはそう言い、座席から身を乗り出した。イズミの体が近づくと、ヘアー・リンスのやわらかい匂いがした。イズミの唇はかさついていて、さっき彼女が吸ったばかりの煙草の匂いが僕の鼻に抜けた。僕は、シフト・レバーを越えて絡み付いてきたイズミの乳房の下に、身を隠すように潜り込んだ。イズミは僕を助手席へと招き入れた。
イズミとのセックスは、急な坂道を重い自転車で上ることによく似ていた。僕は坂の途中で何度も、途中で自転車を降りて歩いて上ろうという気を起こした。それでも気付いたときにはすっかり上りきって、僕は息を切らした状態で下り坂に差し掛かっていた。
「スウィート・ボーイなのね。」とイズミは言った。湿ったビニール・レザーのシートに肌が触れる感触が不快だった。彼女はもう、ぬるま湯を入れたビニール袋ではなかった。それは今では、甘い蜜を多分に含んだ林檎の実であり、僕がその隅を齧ると、イズミは微かな呻きを漏らした。僕がその甘い実を齧り取ってしまっても、もうぬるま湯は溢れ出てきたりはしなかった。僕はイズミの細い腕に抱かれながら、奇妙な気分になっていた。イズミの匂いが目にしみて、痛かった。
11
僕が生まれたのはベルリンの壁が崩壊した次の年で、父親は北海で獲れた鮭を買い付けてきて、日本の寿司屋に売る会社に勤めていた。母親は僕を生んだときまだ一九歳で、テレビ・ドラマを見る合間に僕を育てた。僕の最初の記憶は、母親の友人数人に囲まれて、彼女たちに順番に抱きかかえられる場面だ。僕はそのようにして、人生のはじまりの一時期を愛玩動物として過ごした。
僕はいわゆる中流階級の家に育ち、特にこれといった悩みもないまま小学校へ上がった。小学校四年の夏に地域のサッカー・クラブに入り、父親は僕をスポーツ用品店へ連れて行き、アンブロのサッカー・シューズを買ってくれた。僕はサッカーが好きだった。なんといってもルールが簡単だったし、ゴール・ネットとボールが擦れる音が良かった。
その年と次の年は、サッカーばかりしていた。僕は自然と足が速くなり、長く走れるようになった。身長は夏の雑草のように伸び、同級生よりもいくらかがっしりとした体格になっていた。
小学六年の夏の、社会科の時間だった。窓の外は照りつける陽射しで眩しく、ベランダでは鼠色になった雑巾がカラカラに固くなって乾いていた。僕らはきっちりと並べられた机に向かって行儀良く座り、徴兵制度について習っていた。教科書には、裸で一列に並び徴兵検査を待つ若者のモノクロ写真が小さく載っていた。
「体が丈夫で健康な人から、兵隊にとられていきました。」
まだ若い担任の教師は教壇に立ち、言った。
「どんな人は兵隊にならずに済んだんですか?」
僕は手を挙げて質問した。「いい質問だね。」と若い担任は言った。
「病気の人や、目や口が不自由な人、それから精神的……つまり、心がぐらぐらと不安定な人は兵隊にはならずに済んだんだ。」
僕はその日のうちにサッカー・クラブを止め、できるだけ心をぐらぐらと不安定に保つように心がけた。いつかまた戦争が起きたときに、兵隊にとられたら困ると思ったのだ。そしてその心がけは、今でも続けている。
☆
高校生の頃に、一度だけそのことを友人に話したことがあった。美術部に所属していて、村上龍ばかり読んでいるやつだった。
「そんな面倒なことをしなくたって、もっと冴えたやりかたがあるよ。」
彼は油絵具のついた白いワイシャツの袖を捲り上げながら言った。
「冴えたやりかた?」
「つまりさ、こういうことだよ。日頃は丈夫で健康に過ごすだろう。そしていざ戦争が始まったら、右手の人差し指を切り落としちまうのさ。一生引き金なんて引けやしない。」
なるほど、それは冴えたやりかただった。
☆
僕は中学校を、活動的ではなかったけれどある程度は模範的な生徒として過ごし、市内の高校へ進んだ。高校二年の正月に、京都の大学へ行っていた四つ歳上の兄が、長く黒い髪をして官能的な腰つきをした女性を連れて帰郷してきた。それで僕は、自分も大学へ進むことに決めた。兄は次の年の正月には別な女性を連れて帰ってきた。今度は、明るい茶髪をした小柄な女性だった。家庭的な人で、うちにいた間、まるで嫁入りしたかのように必要以上にきびきびと動き回った。経緯は忘れてしまったけれど、僕はその人から二千円分の図書券を貰ったことを憶えている。僕はその図書券で、島田雅彦の短編集とマグリットの画集を買った。その本を僕は今でも持っている。
しかし兄は、その家庭的なガール・フレンドを僕らの家に残したまま、忽然と姿を消してしまった。彼女はしばらくの間途方に暮れていたが、一週間も経つと荷物をまとめ、彼女がいるべき場所へと戻っていった。兄のことで家の電話が鳴らされたのはそれからさらに一週間後で、警察からだった。兄は865㏄のトライアンフ・ボンネビルに乗って、対向車線を走るエッソのタンクローリーに突っ込んだのだと聞かされた。遺体の損傷がひどく、それに加えてそのトライアンフ・ボンネビルが盗難車だったために、身元の特定にひどく時間がかかったとのことだった。僕も両親も泣いたが、兄がどうしてバイクを盗んだのか、そしてタンクローリーに突っ込んだのか、それは誰にも分からなかった。
僕が大学へ進むのと同時に、父親はノルウェイの支社に転勤になり、両親はノルウェイに移住した。それまで住んでいた一軒家は僕のものになり、父親は今日も北海で鮭を買い付けている。
12
A「それで、どうなったの?」
B「どうにもならないわ。結局元通り。」
13
数日の間、僕は自分以外には誰もいない一軒家にこもって中国茶を淹れて飲み、ちょっとした料理をつくって食べ、ときどき煙草を吸って過ごした。誰も住んでいない家の中には、生活に必要な最低限のものが残されている以外は、ほとんどものはないと言ってよかった。少しでも文化的なものといったら、居間の隅にぽつんと置かれた棚にエドワード・ホッパーの画集と、それからメンデルスゾーンのレコードが一枚(ただし家中探してみてもプレーヤーは見つからなかった)あるのみだった。
僕はその数日間を完璧な孤独のうちに、それなりに有意義に過ごした。毎朝早くに起き出し、早くから店を開けている近所の商店に新聞を買いに出掛け、家に帰って居間のテーブルでそれを読んだ。世間は相変わらず慌ただしく、新聞にはいつだってぎっしりと、昨日起きたことや明日起こるかもしれないことが書かれていた。話題のない日は一日だってなかった。僕はその紙面と、この数日の間の自分の生活を比較してみないわけにはいかなかった。その数日の間、僕は誰にも知られずに生きていた。いつの間にかまた雪が降り始め、次の日の明け方に積もってからは、その傾向はより一層増したように思われた。
雲は厚い毛布となって町に覆い被さり、孤独な太陽の姿をすっかり隠してしまっていた。空も地面も見えなかった。昼と夜の境目がなくなり、一日中電灯をつけていなくてはならなくなった。あたりは、雪が音を吸い込んでしまったように静まり返り、通りを走る車も、歩く人も見当たらなくなった。雪を被り、しんと静まり返った屋根の下で、僕は次第に退屈さを感じ始めていた。
その日、僕は駅前の喫茶店で濃いコーヒーを飲みながら朝食を食べていた。朝の八時を過ぎたあたりで、店の中にひと気はなかった。窓の外では相変わらず雪が降り続いていて、それは心地よく感じられる範囲を超えていた。風は強く、積もった雪の表面を撫でるようにして吹いていった。
僕はベーコン・エッグを食べながら、よく磨かれた窓ガラス越しに、スーツを着て透明なビニールの傘をさしたビジネス・マンが苦労しながら駅へ向かっていく様子を眺めていた。その様子は、少しばかりちぐはぐな冒険旅行のように見えた。強く吹きつける風や、それに舞い上げられる雪、信号無視のタクシー、点滅する歩行者用信号……。あらゆるものが彼の行く手を拒んでいるように見えた。
僕が向かいの店のシャッターを開ける彼女の姿を見たのは、そんなふうにして圧倒的な健気さを見せて駅へ向かう人々の姿がなくなり始めた頃だった。店の壁に掛けられた時計を見ると、九時になろうとしていた。彼女は列車の中で会ったときとまったく同じ恰好をしていた。肩までの髪と、黒いタートルネック・セーター。僕は店を出て通りを渡り、彼女のもとに歩み寄った。おはようございますアンナさん、と僕が声を掛けるまで、彼女は僕のことに気が付かなかった。そして僕に気が付くと、「あら。」と言った。
「ひどい天気ですね。」僕は言った。
「そうね。」彼女は店を開ける作業を続けながら言った。「でも、雪は降るものだもの。仕方ないわ。」
「ええ。」
僕は傍らに立ち、彼女が店を開ける様子を眺めた。
「こんなところに古本屋があったなんて、知りませんでした。」
「そうでしょう。」
彼女は作業が終ったことを僕に告げるように、手を小さく叩いて鳴らした。
「今年に入ってから、私が引き継いだばかりなんだもの。元々は祖父の店だったんだけれど。長いこと入院していたのよ。だからきっと、あなたがこの町にいた頃は、ずっとシャッターが降りていたはずよ。」
僕は肯いた。
「それでとうとうその……だめだったのね。それで私が店を引き継いだの。何年も放ったらかしだったけれど、幸いにして本は腐らないし、それに親戚中探したって、まともに本を読んでいるのなんて私くらいにものだったから。」
彼女は僕を店の中へ招き入れた。本の上に本が積まれ、さらにその上に本が積まれているといった具合のごく普通の古書店で、乾いた紙の匂いとくたびれた空気が満ちていた。
店の奥まで行くと、旧式のキャッシュ・レジスターを置いた机に向かって、あの変わった髪をした少女が座り、本を開いていた。あの日と同じ、しっかりとしたビロード地の赤いワンピースを着ていた。「お茶を淹れるわ。」そう言ってアンナさんは一段上がったところにある奥の部屋へと消えていった。開いた障子の隙間から、畳張りの部屋が見えた。
「こんにちは。」僕は本に目を落としている少女に声を掛けた。
「景気はどう?」
「良くないわ、ぜんぜん。ふけいきなのね。だれも本なんて読まないのよ。」
少女は本から目を上げ、読みかけのページを開いたまま、机の上に伏せて置いた。『ガリヴァー旅行記』だった。
「それに、この天気でしょ。」少女は首を振りながら言葉を続けた。「今日はひとりだってお客なんてこないわ。」
「僕が来たよ。」
少女は訳がわからないと言った様子で目をしばたたかせたあとで、無理矢理に納得したように「それもそうね。」と口にした。
「退屈してるんだ。何か面白い本はない?」
「そうね、」少女は椅子から降り、僕の脇を抜けて店内の本棚を見回した。少女の身長は、僕の胸ほどまでもなかった。やがて少女はアルミ製のステップ・ラダーを引きずって持ってくると、それを使って棚の一番高いところにある本を一冊取った。
「これなんか、気に入るんじゃないかしら。」
そう言って文庫本を一冊僕に手渡すと、少女はまたステップ・ラダーを引きずって、それを元の場所に戻した。僕は表紙を眺め、最初のページのはじめの三行を読んだ。聞いたことのないタイトルと著者だった。そしてそれは埋もれた名作というわけでもなく、たった三行読んだだけでもそのひどさが十分に伝わってくるような代物だった。
「じゃあ、これを買うよ。」
三〇〇円よ、と少女は言った。僕が小銭を差し出すと、少女は器用にキャッシュ・レジスターを打った。ちょうどそのときに奥の部屋からアンナさんが顔を出し、「お茶が入ったけれど。」と言った。僕は靴を脱いで、奥の部屋へ上がり込んだ。アンナさんは少女にも声を掛けたけれど、少女は伏せた本を手に取り、ふたたび読み始めた。そして「お茶なんて大嫌いだわ。」と、独り言のように口にした。
透き通った薄緑色をした緑茶と、綺麗に切り分けられたカステラを出された。六畳ほどの広さの畳の部屋に、木製の卓袱台と時計付きの赤いラジオ、それから石油ストーブが置いてあるだけの部屋だった。リング状の蛍光管が一本光っているだけで、部屋の中は暗かった。畳は張り替えられたばかりのようで、芝刈りをしたばかりの庭の匂いに似たイグサの匂いがした。アンナさんは僕がお茶に口をつけると自分の茶碗にお茶を注ぎ、卓袱台を挟んで僕と向かい合わせに座った。
「どうせ誰も買わないんだから、お金なんて払わなくてもただであげたのに。」
彼女は僕が卓袱台に置いた文庫本を見て言った。
「いいんです。払いたい気分だったから。」僕は小さなフォークでカステラを切ろうとしたけれど、ぼろぼろと崩れて上手く切れなかった。
「これだけの本に毎日囲まれていると、きっといい気分がするでしょうね。」
「どうして?」
「音楽好きがレコード・ショップでアルバイトをするのと同じ理屈ですよ。」
「本が好きなのね。」そう言って彼女は湯呑みをゆっくり持ち上げて口をつけた。彼女が何でもないふうにしてしたその仕草には、不思議な優雅さと高貴さがあった。
「でもね、」と彼女は言った。「本なんて読んだって、孤独になるだけよ。」
「そうかもしれない。」
僕は煙草に火を点けた。それから、奇妙な間があったあとで彼女が言った。
「ねえ、あなたの話をしてよ。」
「僕の話?」
「そう。どんなふうにして生まれたとか、何を食べてここまで大きくなったとか。」
「たいした話は何もないですよ。」
「それでも、生まれたときから今の姿だったわけじゃないでしょう?」
「たしかに。」僕は肯いた。
14
自分の人生について語ることは、郊外の住宅団地の歴史について語ることとよく似ている。色の褪せ方や小さなひびの入り方に多少の違いこそあれ、同じような建物がいくつも並んでいるあの景色を見ると、僕は養殖場の濁った水の中を泳ぎ回るうなぎの姿を思い浮かべる。そして僕は、自分が養殖物であることを確信する。
15
部屋の隅に置かれた石油ストーブが強過ぎるのか、体が熱かった。アンナさんは空になった僕の茶碗にお茶を注いだ。僅かに開いた障子戸の隙間から、少女がキャッシュ・レジスターの机に向かって『ガリヴァー旅行記』を読んでいる姿が見えた。その姿からは、子供だけが持つ、物事に対するひたむきさのようなものが感じられた。
「また会えるとは、思っていなかったのよ。」
しばしの沈黙のあとでアンナさんが言い、僕は視線を彼女に戻した。
「僕もですよ。たまたま向かいの店でコーヒーを飲んでいたら、アンナさんの姿が目に入った。」
彼女は意味ありげに僕の目を見つめ、それから目を伏せた。そろそろ引き上げ時だった。僕は二杯目のお茶を、茶碗の底に僅かに残して飲み、立ち上がった。
「ねえ。」アンナさんは座ったままで、僕に言った。「また来てくれる?」
「ええ、多分。」
「私にまた、会いたいと思っている?」
「もちろん。」と言ってから、僕は付け加えた。「あなたはすごく魅力的だから。」
「それじゃあ、今夜は?」
彼女は言った。座ったまま僕の見据える彼女の目は、土砂降りの雨に濡れた野良犬のそれによく似ていた。
「いいですよ。」
「七時に迎えにきて。」と彼女は言った。
16
僕は家に帰り、ぬるい風呂に浸かりながら買ったばかりの本を読んだ。本の内容はこうだ。まず、双子の姉妹がいる。両親でさえ見分けがつかないほどそっくりな、ふたりの女の子だ。はじめのうちは両親も苦労してふたりを見分ける方法や区別する方法を考え出そうとしたが、やがて諦めてしまい、ふたりはどちらがどちらなのか、お互いでさえ分からなくなってしまう。しかしそれ自体はさほど重要なことではない(と著者は書いていた)。つまり、同じ柄をした靴下が何足かあったとして、そのうちのどれとどれをペアにしてみたところで結果は同じなのだ。
姉妹は成長し、片方は学校へ行くようになり、友だちができ、やがてボーイ・フレンドもできる。しかしもう一方は家から一歩も出ることなく毎日家事をこなし、夕方になるとクッキーを焼いて、それを食べながら自分にそっくりな女の子と話すことを唯一の楽しみとして生きている。そして、ふたりはそのまま生き続ける。そういったことが、まるで工業用のミシンで無理矢理継ぎ接ぎをしたみたいに出鱈目な文章で綴られていた。
僕は風呂から上がり、水道の水を飲みながらその教訓について考えてみたけれど、何ひとつとして思い浮かばなかった。頭の中にはただ、同じ顔をしたふたりの女の子が二通りの生活を送っていて、陽が沈んではまた昇っている景色がぼんやりと浮かんでいた。陽が沈むたびに彼女たちは眠り、陽が昇るたびに起き出しては、それぞれの生活へ戻っていった。そこに何らかの意味や教訓を見つけることは、僕らが自分の生活に何らかの意味を見出すことと同じくらい困難なことだった。結局僕は、それを見つけることはできなかった。
17
B「何を食べるの?」
A「豚肉。」
A「一番良いのは、ベッドに寝転んでTVを見ていること。どうしてかっていうと、疲れないから。TV越しに人と会えたら、疲れなくていいよね。」
18
雪はまだ降り続いていた。空を陰鬱に覆った厚い雲のかけらのように、雪が舞い落ちてきていた。僕は車のトランクから金属製のタイヤ・チェーンを取り出して、擦り減った前輪に苦労して巻き付けた。アンナさんを迎えにいく途中で、店じまいをしている花屋に寄って白いバラを六本買った。それから、自分でもなぜそうしたのか分からなかったけれど、少し離れた店まで車を走らせて、アーモンド・ケーキを六つ買った。その店に行くために、彼女のいる古本屋の前を一度通り過ぎる必要があった。それでもどういうわけか、そうせずにはいられなかった。
店のシャッターは半分閉じられていた。僕は店の前の路肩に車を停め、白いバラを抱えアーモンド・ケーキの入った箱を持って、シャッターの下をくぐった。照明は落とされていて、古い本の重みが空気に溶け込んだように沈んだ空気をしていた。奥の障子戸は開かれていて、畳の上に座った少女が、透明なグラスに入った水を飲んでいた。僕が中を覗き込むと少女は僕のことに気付き、グラスを卓袱台に置いて向き直った。
「まあ、うれしい!」少女は僕が抱えた白いバラの花とケーキの箱を目にして言った。「わたしのために買ってきてくれたのね!」
僕は花とケーキを少女に手渡し、部屋の中へ上がった。少女はそのふたつを、まるでガラス細工を扱うようにして、注意深く受け取った。しかし僕はそれを、決して少女のために買ってきたわけではなかった。かといって自分のためにというわけでもなかったし、アンナさんのために買ったわけでは、もちろんなかった。自分でもどうしてわざわざそんなものを買いに行ったのか、まるで分からなかった。
「もうすぐ来るはずよ。」
少女はアーモンド・ケーキの箱を開きながら言った。少女はケーキを手で持って食べた。僕は煙草に火を点け、卓袱台の上に置いてあった朝日新聞の日曜版を手に取って、読むともなしに眺めた。
「わたし、アーモンド・ケーキって大好きよ。それに白いバラも。」
「それならよかった。」
「ねえ、何かこの花を生けておくようなものは買ってこなかったの?」
少女はアーモンド・ケーキを一切れ平らげ、今度は白いバラの束を持ち上げて眺めながら言った。
「花瓶のひとつくらいあると思ったんだ。」
「まいっちゃうわね。」と少女は言った。「この家ときたら、花瓶なんてひとつもありはしないのよ。」
「なら、何か代わりになるようなものを探せばいい。」
「例えば?」
「そのグラスとか。」
「これはだめよ。」
「まあ、花が枯れないうちに、何か代わりになるものを見つけたほうがいいよ。」
「そうね。そうするわ。」
少女はそう言って、ふたつ目のアーモンド・ケーキに取りかかった。少女がそれを半分ほど食べ終えた頃に部屋の奥の戸を開いて、アンナさんが姿を見せた。
「待たせてしまったみたいね。」
「そうでもないですよ。」
僕は手に持っていた新聞を4つに折りたたみ、卓袱台の上に戻して立ち上がった。僕らは部屋を出て靴を履き、沈黙している本棚の間を歩いて抜けた。
「少女は?」ひとり部屋に残った少女を振り返って僕は言った。
「留守番よ。」と言って、アンナさんは小声で続けた。「あの子は、独りでいるのが好きなの。」
「そう。」
僕らは半分閉じたシャッターの下をくぐった。外へ出ると、アンナさんはガラガラと音を立ててシャッターを下まで閉めた。僕らは降りしきる雪を髪の毛に少しだけ浴び、車に乗り込んだ。
「どこへ行きます?」
エンジン・キーを回すと、叩き起こされたように、不機嫌そうな音を立ててエンジンが動き始めた。アンナさんはつい数日前にイズミが座っていた助手席のシートに深く座り、言った。
「この道をしばらく真っ直ぐ行って。」
アンナさんの言う通りに車を走らせ、僕らは一軒の店に入った。店の中は暗く、暖房と煙草の匂いがした。年老いた男がカウンターの席に座ってジン・トニックと向き合っている以外には、客の姿はなかった。僕らはカウンターの席に並んで座った。狭い店内の奥には一段上がったささやかなステージがあり、グランド・ピアノが置いてあった。閉じられたピアノの蓋の上にはカクテル・グラスとマルボロの箱が置いてあり、ビリー・ジョエルを意識した細身のウール地のグレー・スーツを着たピアニストは、退屈そうな顔をしながらピアノの椅子に座って煙草を吸っていた。
僕はフライド・ポテトとカンパリ・ソーダを頼み、アンナさんはギムレットを飲んだ。僕が二杯目のカンパリ・ソーダに口をつけた頃になっても、ピアニストは仕事をしようとはしていなかった。かわりに店のプレーヤーから、絞った音量でスタイル・カウンシルが流されていた。
「いい店ですね。」僕は言った。「よく来るんですか?」
「はじめて来た店よ。」
「そのわりには慣れた道案内だったけれど。」
「ねえ、あなたに聞いて欲しいことがあるの。」
彼女は白くほっそりとした指で、空になったグラスの足に触れながら言った。
「実は、あの子のことなのよ。」
「あの子?」
「そう、あの子。」アンナさんは言い、カウンター越しにギムレットをもう一杯注文した。それが出されると彼女はそれには手を付けずに、話し始めた。
「私は、どうして自分があの子を預かっているのか、どうしても思い出せないのよ。」
「どういうことですか?」
「そのままの意味よ。」
彼女はギムレットに口をつけた。
「私はあの子と一緒に暮らしているし、自分がそうしなくちゃいけないということもよく分かってる。でも、どうしてそれが分かっているのかは、まるで分からないの。」
アンナさんはゆっくりと、言葉を切って話した。僕は彼女が言葉を切るたびに、うやうやしく肯いてみせた。どんなふうにしてその話を聞けばいいのか分からなかった。
「つまり、誰からあの少女を預かったのか憶えていないということですか?」
「違うわ。それも確かにそうなんだけれど。誰から預かったのかも、いつから預かっているのかも、あの子が一体全体どんな名前なのかとか、それにあの子を預かる前の自分は何をやっていたのかとか、とにかくそういうことが全部、すっぽり抜け落ちてしまったみたいに思い出せないの。」
僕は湿気っぽくなり始めたフライド・ポテトを口に運んだ。ピアニストは短くなった煙草を揉み消して鍵盤と向かい合い、小品を弾き始めた。それは店のプレーヤーから流れているスタイル・カウンシルと混じり合い、奇妙に居心地の悪くなる音を生み出した。
「それに、あの子を見ていると、時々どうしようもなく恐くなることがあるの。なんだかすべてを見透かされているような……いいえ、違うわ。完璧に磨かれた鏡の向こう側に立って、こっち側を見ているような気になるのよ。」
「なるほど。」と僕は言った。
「ねえ、私だって、あなたほどではないけれどまだ若いのよ。この頃思うのよ。あの子さえいなかったらって。あの子さえいなかったら、私はどこにだって行ってみせるし、何にだってなってみせるわ。」
「じゃあ、どうするんですか。段ボール箱に入れて、道端に捨てるとか?」
僕は冗談のつもりで言ったけれど、アンナさんは笑わなかった。そのかわり、薄くアルコールの混じった溜息を、僕に見せつけるようにしてついた。
「何度もそうしてみたわ。」
「本当に?」僕はいささか驚いて聞き返した。
「本当よ。あの子を車に乗せて――仲の良い母娘みたいに、助手席にきちんと座らせてシートベルトを締めて、よ――遠くの町へ行ったの。二〇〇キロほども走ったわ。もっと走ったかもしれない。いくつか山も越えた。それで、少し歩けば人に見つけてもらえそうな、適当な山道であの子を降ろして、二〇万円ばかりの現金とチョコチップ・クッキーを入れたポーチを斜めに提げさせて、そのまま私だけ帰ってきたの。」
「それで? どうなったんです?」
「どうにもならないわ。二日も経たないうちに、あの子はまるで何もなかったみたいな顔をして、いつもみたいにキャッシュ・レジスターの前に座ってたわ。二〇万円をポーチに入れたままで、本を開いて、チョコチップ・クッキーを食べながら。」
僕が煙草をくわえると、バーテンダーがカウンター越しに大箱入りのマッチを擦って火を点けた。一口吹かして最初の煙を吐き出すと、それで話は一段落したようだった。僕らの間には、それまでとは質の違う親密さがあった。その親密さは、僕らの距離をわずかながら近づけていた。しかし近づけば近づくほど、距離感は失われ、僕らの間にある物事は立体感を失った。
「僕は、よく思うんです。例えば、」僕はアンナさんの目の中を覗き込みながら言った。「古いビルを見たときに、ああこれを建てた人たちはもう今はみんな死んでしまってこの世にはいないんだなとか、古い映画で群衆が映っているシーンなんかがあったとすると、ここに映っている人たちは今はもうみんなこの世にいないんだって、そんなふうに。」
「それとこれと、どう関係があるの?」
「特に関係はないけれど、つまりはそういうことです。」
彼女は相槌を打たずに、ギムレットを飲み干して席を立ち、奥の化粧室の扉の向こうへ消えていった。僕はロシア風リンゴの入ったポテト・サラダを頼んだ。そのあとで、プレーヤーから流れているスタイル・カウンシルを消してくれるように頼んだ。
「ねえ、リクエストには応えてくれるの?」
バーテンダーがポール・ウェラーを黙らせると、僕は奥のステージで眠たげに鍵盤を叩いているピアニストに言った。
「何、何か言ったかい?」ピアニストは曲の途中でぷっつりと演奏を止め、叫ぶように聞き返した。
「曲だよ。何か演って欲しいんだ。」
「何を?」
「歌えるの?」
「少しなら。」
「ビリー・ジョエルはできる?」
「もちろん、できるさ。」
そう言ってピアニストは白いシャツに締めた細身の黒いネクタイを正した。
「じゃあ『ピアノ・マン』を演って欲しいな。」
「あいにくだけど、」ピアニストは両手を揉み合わせ、何か考える素振りをしたあとで言った。「マウス・ハープがないんだ。」
「構うもんか。」僕は言った。「歌ってくれよ。君はピアノ・マンなんだろう。」
ピアニストは自信なさげに視線を泳がせたあとで、しぶしぶ鍵盤に指を載せた。ハーモニカのないイントロは、炭酸の抜けたコカ・コーラのように捉えどころがなかった。歌声はひどく、僕は猫の喧嘩する声を思い出した。歌詞が分からなくなると、「ドンチュノー、ドンチュノー」と歌って誤摩化した。
それでもそれは『ピアノ・マン』に違いはなかった。曲が終った後で僕はピアノの上に置いてあるチップ・ジャーに小銭を放った。ピアニストは額に汗をかいていた。
アンナさんは化粧室から戻り、ふたたびスツールに腰を下ろした。ピアニストは頼んでもいないのに、僕らが居るあいだずっとビリー・ジョエルの曲を演りつづけた。
僕らが店を出るとき、ピアニストは上機嫌で僕らに手を振った。
「また来てくれよ。俺はいないかもしれないけどね。君のおかげさ。デモ・テープを作ってレコード会社へ行ってみようと思うよ。俺も有名になるかもね。」
「フィリップスのテープ・レコーダーを使うといいよ。」と僕は言った。
「なぜ?」
「ビートルズもそうしたからさ。」
僕らは手を振り合って別れた。
☆
「酔って車を運転したことはある?」
僕はトヨタ・ターセルのエンジン・キーを回しながら言った。僕らは店を出て、車に乗り込んでいた。夜の雪は息を潜めるようにして、誰にも見つからないように、ひっそりと降っていた。
「ないわ。」
「それは勿体ないですよ。」
僕はクラッチ・ペダルを踏み、ギヤをローに入れた。タイヤ・チェーンを巻いたターセルは、ゆっくりと走り出した。
「酔って車を運転すると、まるでジェット・コースターです。全部が、あっという間に過ぎ去って行く。いちいちひとつひとつのことなんて見ていられない。向かいを走る車にぶつからないようにするだけで精一杯なんです。僕にあるのは足下の三種類のペダルと、ステアリングだけ。それで、気が付くと知らないところにいる。」
「私は知らないところにいるわ。ずっと。ねえ、あの子のことなんだけど。」彼女はエア・コンの風向きを調節しながら言った。「私と一緒に、あの子を育ててくれないかしら。」
「どういう意味?」
「そのままの意味よ。」
「だめですよ、僕は。休みが終わったら、大学へ戻らないと。」
「一体、ロシア語なんて覚えてどうするつもりなの?」
「どうするつもりもないですよ。ただ、北の果てで雪解けを待っているロシア人の老婆だとか、そういうものに思いを馳せるだけです。」
「私のことは嫌い?」
「そんなことないですよ。むしろ好きな部類に入る。」
「どれくらい?」
「煙草に火を点けたり、流しで急須を洗っているときにふと思い浮かべるくらいには。」
「十分だわ。」
僕らはそれから何も言わず、雪の舞う幹線道路を走った。車のラジオに手を伸ばしてスイッチを入れると、サクソフォーンの鳴る、佐野元春が流れた。
☆
彼女の店の前で車を停めた。アイドリング中のエンジンの小さな振動が、ビニール・レザーのシート越しに僕らを震わせていた。
彼女は車を降りようとはせず、助手席のシートに身を埋めたまま僕のことをじっと見つめた。そして手を伸ばし、僕の頬に触れた。歳上の女の細く冷たい指の感触が、僕の頬から目の奥のあたりへと染み込んでいった。
彼女は僕にキスをしようとして、止めた。彼女が車のドアを開けると、雪に体温を奪われた空気が我先にというふうにして車内へ入り込んできた。彼女がドアを閉めたあとも、それは物言わぬ幽霊のように漂っていたが、やがてエア・コンが送り出す温風に温められて輪郭を失くした。
19
雪はまだ降り続いていた。空を陰鬱に覆った厚い雲のかけらのように、雪が舞い落ちてきていた。僕は車のトランクから金属製のタイヤ・チェーンを取り出して、擦り減った前輪に苦労して巻き付けた。アンナさんを迎えにいく途中で、店じまいをしている花屋に寄って白いバラを六本買った。それから、自分でもなぜそうしたのか分からなかったけれど、少し離れた店まで車を走らせて、アーモンド・ケーキを六つ買った。その店に行くために、彼女のいる古本屋の前を一度通り過ぎる必要があった。それでもどういうわけか、そうせずにはいられなかった。
店のシャッターは半分閉じられていた。僕は店の前の路肩に車を停め、白いバラを抱えアーモンド・ケーキの入った箱を持って、シャッターの下をくぐった。照明は落とされていて、古い本の重みが空気に溶け込んだように沈んだ空気をしていた。奥の障子戸は開かれていて、畳の上に座った少女が、透明なグラスに入った水を飲んでいた。僕が中を覗き込むと少女は僕のことに気付き、グラスを卓袱台に置いて向き直った。
「まあ、うれしい!」少女は僕が抱えた白いバラの花とケーキの箱を目にして言った。「わたしのために買ってきてくれたのね!」
僕は花とケーキを少女に手渡し、部屋の中へ上がった。少女はそのふたつを、まるでガラス細工を扱うようにして、注意深く受け取った。しかし僕はそれを、決して少女のために買ってきたわけではなかった。かといって自分のためにというわけでもなかったし、アンナさんのために買ったわけでは、もちろんなかった。自分でもどうしてわざわざそんなものを買いに行ったのか、まるで分からなかった。
「もうすぐ来るはずよ。」
少女はアーモンド・ケーキの箱を開きながら言った。少女はケーキを手で持って食べた。僕は煙草に火を点け、卓袱台の上に置いてあった朝日新聞の日曜版を手に取って、読むともなしに眺めた。
「わたし、アーモンド・ケーキって大好きよ。それに白いバラも。」
「それならよかった。」
「ねえ、何かこの花を生けておくようなものは買ってこなかったの?」
少女はアーモンド・ケーキを一切れ平らげ、今度は白いバラの束を持ち上げて眺めながら言った。
「花瓶のひとつくらいあると思ったんだ。」
「まいっちゃうわね。」と少女は言った。「この家ときたら、花瓶なんてひとつもありはしないのよ。」
「なら、何か代わりになるようなものを探せばいい。」
「例えば?」
「そのグラスとか。」
「これはだめよ。」
「まあ、花が枯れないうちに、何か代わりになるものを見つけたほうがいいよ。」
「そうね。そうするわ。」
少女はそう言って、ふたつ目のアーモンド・ケーキに取りかかった。少女がそれを半分ほど食べ終えた頃に部屋の奥の戸を開いて、アンナさんが姿を見せた。
「待たせてしまったみたいね。」
「そうでもないですよ。」
僕は手に持っていた新聞を4つに折りたたみ、卓袱台の上に戻して立ち上がった。僕らは部屋を出て靴を履き、沈黙している本棚の間を歩いて抜けた。
「少女は?」ひとり部屋に残った少女を振り返って僕は言った。
「留守番よ。」と言って、アンナさんは小声で続けた。「あの子は、独りでいるのが好きなの。」
「そう。」
僕らは半分閉じたシャッターの下をくぐった。外へ出ると、アンナさんはガラガラと音を立ててシャッターを下まで閉めた。僕らは降りしきる雪を髪の毛に少しだけ浴び、車に乗り込んだ。
「どこへ行きます?」
エンジン・キーを回すと、叩き起こされたように、不機嫌そうな音を立ててエンジンが動き始めた。アンナさんはつい数日前にイズミが座っていた助手席のシートに深く座り、言った。
「この道をしばらく真っ直ぐ行って。」
アンナさんの言う通りに車を走らせ、僕らは一軒の店に入った。店の中は暗く、暖房と煙草の匂いがした。年老いた男がカウンターの席に座ってジン・トニックと向き合っている以外には、客の姿はなかった。僕らはカウンターの席に並んで座った。狭い店内の奥には一段上がったささやかなステージがあり、グランド・ピアノが置いてあった。閉じられたピアノの蓋の上にはカクテル・グラスとマルボロの箱が置いてあり、ビリー・ジョエルを意識した細身のウール地のグレー・スーツを着たピアニストは、退屈そうな顔をしながらピアノの椅子に座って煙草を吸っていた。
僕はフライド・ポテトとカンパリ・ソーダを頼み、アンナさんはギムレットを飲んだ。僕が二杯目のカンパリ・ソーダに口をつけた頃になっても、ピアニストは仕事をしようとはしていなかった。かわりに店のプレーヤーから、絞った音量でスタイル・カウンシルが流されていた。
「いい店ですね。」僕は言った。「よく来るんですか?」
「はじめて来た店よ。」
「そのわりには慣れた道案内だったけれど。」
「ねえ、あなたに聞いて欲しいことがあるの。」
彼女は白くほっそりとした指で、空になったグラスの足に触れながら言った。
「実は、あの子のことなのよ。」
「あの子?」
「そう、あの子。」アンナさんは言い、カウンター越しにギムレットをもう一杯注文した。それが出されると彼女はそれには手を付けずに、話し始めた。
「私は、どうして自分があの子を預かっているのか、どうしても思い出せないのよ。」
「どういうことですか?」
「そのままの意味よ。」
彼女はギムレットに口をつけた。
「私はあの子と一緒に暮らしているし、自分がそうしなくちゃいけないということもよく分かってる。でも、どうしてそれが分かっているのかは、まるで分からないの。」
アンナさんはゆっくりと、言葉を切って話した。僕は彼女が言葉を切るたびに、うやうやしく肯いてみせた。どんなふうにしてその話を聞けばいいのか分からなかった。
「つまり、誰からあの少女を預かったのか憶えていないということですか?」
「違うわ。それも確かにそうなんだけれど。誰から預かったのかも、いつから預かっているのかも、あの子が一体全体どんな名前なのかとか、それにあの子を預かる前の自分は何をやっていたのかとか、とにかくそういうことが全部、すっぽり抜け落ちてしまったみたいに思い出せないの。」
僕は湿気っぽくなり始めたフライド・ポテトを口に運んだ。ピアニストは短くなった煙草を揉み消して鍵盤と向かい合い、小品を弾き始めた。それは店のプレーヤーから流れているスタイル・カウンシルと混じり合い、奇妙に居心地の悪くなる音を生み出した。
「それに、あの子を見ていると、時々どうしようもなく恐くなることがあるの。なんだかすべてを見透かされているような……いいえ、違うわ。完璧に磨かれた鏡の向こう側に立って、こっち側を見ているような気になるのよ。」
「なるほど。」と僕は言った。
「ねえ、私だって、あなたほどではないけれどまだ若いのよ。この頃思うのよ。あの子さえいなかったらって。あの子さえいなかったら、私はどこにだって行ってみせるし、何にだってなってみせるわ。」
「じゃあ、どうするんですか。段ボール箱に入れて、道端に捨てるとか?」
僕は冗談のつもりで言ったけれど、アンナさんは笑わなかった。そのかわり、薄くアルコールの混じった溜息を、僕に見せつけるようにしてついた。
「何度もそうしてみたわ。」
「本当に?」僕はいささか驚いて聞き返した。
「本当よ。あの子を車に乗せて――仲の良い母娘みたいに、助手席にきちんと座らせてシートベルトを締めて、よ――遠くの町へ行ったの。二〇〇キロほども走ったわ。もっと走ったかもしれない。いくつか山も越えた。それで、少し歩けば人に見つけてもらえそうな、適当な山道であの子を降ろして、二〇万円ばかりの現金とチョコチップ・クッキーを入れたポーチを斜めに提げさせて、そのまま私だけ帰ってきたの。」
「それで? どうなったんです?」
「どうにもならないわ。二日も経たないうちに、あの子はまるで何もなかったみたいな顔をして、いつもみたいにキャッシュ・レジスターの前に座ってたわ。二〇万円をポーチに入れたままで、本を開いて、チョコチップ・クッキーを食べながら。」
僕が煙草をくわえると、バーテンダーがカウンター越しに大箱入りのマッチを擦って火を点けた。一口吹かして最初の煙を吐き出すと、それで話は一段落したようだった。僕らの間には、それまでとは質の違う親密さがあった。その親密さは、僕らの距離をわずかながら近づけていた。しかし近づけば近づくほど、距離感は失われ、僕らの間にある物事は立体感を失った。
「僕は、よく思うんです。例えば、」僕はアンナさんの目の中を覗き込みながら言った。「古いビルを見たときに、ああこれを建てた人たちはもう今はみんな死んでしまってこの世にはいないんだなとか、古い映画で群衆が映っているシーンなんかがあったとすると、ここに映っている人たちは今はもうみんなこの世にいないんだって、そんなふうに。」
「それとこれと、どう関係があるの?」
「特に関係はないけれど、つまりはそういうことです。」
彼女は相槌を打たずに、ギムレットを飲み干して席を立ち、奥の化粧室の扉の向こうへ消えていった。僕はロシア風リンゴの入ったポテト・サラダを頼んだ。そのあとで、プレーヤーから流れているスタイル・カウンシルを消してくれるように頼んだ。
「ねえ、リクエストには応えてくれるの?」
バーテンダーがポール・ウェラーを黙らせると、僕は奥のステージで眠たげに鍵盤を叩いているピアニストに言った。
「何、何か言ったかい?」ピアニストは曲の途中でぷっつりと演奏を止め、叫ぶように聞き返した。
「曲だよ。何か演って欲しいんだ。」
「何を?」
「歌えるの?」
「少しなら。」
「ビリー・ジョエルはできる?」
「もちろん、できるさ。」
そう言ってピアニストは白いシャツに締めた細身の黒いネクタイを正した。
「じゃあ『ピアノ・マン』を演って欲しいな。」
「あいにくだけど、」ピアニストは両手を揉み合わせ、何か考える素振りをしたあとで言った。「マウス・ハープがないんだ。」
「構うもんか。」僕は言った。「歌ってくれよ。君はピアノ・マンなんだろう。」
ピアニストは自信なさげに視線を泳がせたあとで、しぶしぶ鍵盤に指を載せた。ハーモニカのないイントロは、炭酸の抜けたコカ・コーラのように捉えどころがなかった。歌声はひどく、僕は猫の喧嘩する声を思い出した。歌詞が分からなくなると、「ドンチュノー、ドンチュノー」と歌って誤摩化した。
それでもそれは『ピアノ・マン』に違いはなかった。曲が終った後で僕はピアノの上に置いてあるチップ・ジャーに小銭を放った。ピアニストは額に汗をかいていた。
アンナさんは化粧室から戻り、ふたたびスツールに腰を下ろした。ピアニストは頼んでもいないのに、僕らが居るあいだずっとビリー・ジョエルの曲を演りつづけた。
僕らが店を出るとき、ピアニストは上機嫌で僕らに手を振った。
「また来てくれよ。俺はいないかもしれないけどね。君のおかげさ。デモ・テープを作ってレコード会社へ行ってみようと思うよ。俺も有名になるかもね。」
「フィリップスのテープ・レコーダーを使うといいよ。」と僕は言った。
「なぜ?」
「ビートルズもそうしたからさ。」
僕らは手を振り合って別れた。
☆
「酔って車を運転したことはある?」
僕はトヨタ・ターセルのエンジン・キーを回しながら言った。僕らは店を出て、車に乗り込んでいた。夜の雪は息を潜めるようにして、誰にも見つからないように、ひっそりと降っていた。
「ないわ。」
「それは勿体ないですよ。」
僕はクラッチ・ペダルを踏み、ギヤをローに入れた。タイヤ・チェーンを巻いたターセルは、ゆっくりと走り出した。
「酔って車を運転すると、まるでジェット・コースターです。全部が、あっという間に過ぎ去って行く。いちいちひとつひとつのことなんて見ていられない。向かいを走る車にぶつからないようにするだけで精一杯なんです。僕にあるのは足下の三種類のペダルと、ステアリングだけ。それで、気が付くと知らないところにいる。」
「私は知らないところにいるわ。ずっと。ねえ、あの子のことなんだけど。」彼女はエア・コンの風向きを調節しながら言った。「私と一緒に、あの子を育ててくれないかしら。」
「どういう意味?」
「そのままの意味よ。」
「だめですよ、僕は。休みが終わったら、大学へ戻らないと。」
「一体、ロシア語なんて覚えてどうするつもりなの?」
「どうするつもりもないですよ。ただ、北の果てで雪解けを待っているロシア人の老婆だとか、そういうものに思いを馳せるだけです。」
「私のことは嫌い?」
「そんなことないですよ。むしろ好きな部類に入る。」
「どれくらい?」
「煙草に火を点けたり、流しで急須を洗っているときにふと思い浮かべるくらいには。」
「十分だわ。」
僕らはそれから何も言わず、雪の舞う幹線道路を走った。車のラジオに手を伸ばしてスイッチを入れると、サクソフォーンの鳴る、佐野元春が流れた。
☆
彼女の店の前で車を停めた。アイドリング中のエンジンの小さな振動が、ビニール・レザーのシート越しに僕らを震わせていた。
彼女は車を降りようとはせず、助手席のシートに身を埋めたまま僕のことをじっと見つめた。そして手を伸ばし、僕の頬に触れた。歳上の女の細く冷たい指の感触が、僕の頬から目の奥のあたりへと染み込んでいった。
彼女は僕にキスをしようとして、止めた。彼女が車のドアを開けると、雪に体温を奪われた空気が我先にというふうにして車内へ入り込んできた。彼女がドアを閉めたあとも、それは物言わぬ幽霊のように漂っていたが、やがてエア・コンが送り出す温風に温められて輪郭を失くした。
20
イズミが訪ねてきたのは、それから数日経った日の昼下がりだった。その日は久しぶりによく晴れた日で、僕は窓辺に椅子を置いて熱い中国茶を飲みながら、雪解けのあとの湿った地面を見ていた。イズミが鳴らした玄関のチャイムは、懐かしい音楽のようにして家の中に響いた。なにしろ、それが鳴らされたこと自体がひどく久しぶりだったのだ。
「まだいたんだ。」
玄関先に立ったイズミは言った。ライム・グリーンをしたジャック・ウルフスキンのウインド・ブレーカーを着て、真っ白なコンバース・ジャックパーセルを履いていた。
「うん。」
僕はイズミを家の中へ招き入れ、中国茶を振る舞った。イズミはウインド・ブレーカーを脱ぎ、丸めてソファの隅に置いた。ウインド・ブレーカーの下には、無地のプルオーバー・セーターを着ていた。彼女はこの前に会った時よりも、随分とこざっぱりとした恰好をしていた。それによって心なしか、彼女の匂いまで変ったように思われた。そして何よりも、僕は彼女の髪について訊かずにはいられなかった。
「その髪は、自分で切ったの?」
「そうよ。」
イズミはそう言って、短く、そして黒く染められた髪に触れた。彼女の答え通り、それは誰がどう見ても自分で鋏を入れたことに疑いの余地はなかった。黒く染め直したせいで、石鹸で洗ったようにごわついていた。けれどそれは不格好というよりもむしろ、それまで彼女が持っていたけれど誰にも見せていなかったものをはっきりと、惜しげもなく見せつけているような雰囲気があった。僕はモノクロの写真に写った、イザベル・アジャーニの姿を思い出した。
「どういう心境の変化?」
僕はイズミに向かい合ってテーブルの椅子に座った。彼女は猫のように舌を出して、舐めるように熱いお茶を飲んだ。
「あたし、おかしいと思ったんだ。つまりね、こういうことなの。髪の毛は放っておいても伸びるでしょう? 爪だって伸びる。でも爪は自分で切れるのに、髪の毛は……少なくとも大抵の人は自分で切らないでしょう? 広い部屋でふかふかの椅子に座って、ジャガーやクライスラーなんか何台も持ってて……そういう、わたしはなんでも自分でできますよっていうふうな顔で偉そうにしている人だって、髪の毛は自分で切らないで誰かに切ってもらってるのよ。そんなのって、ねえ、まるでままごとじゃない。」
僕は曖昧に肯き、彼女に煙草をすすめた。彼女はそれを受け取ったけれど、二口か三口吸って咳き込み、灰皿で揉み消した。まだ長い煙草は、フィルターのあたりでふたつに折れた。彼女はそれをじっと見つめたあとで、言った。
「小説を書こうと思うの。」
「どうして?」
「さあ、よく分からない。でもなんだかこの前あなたと会ってから、そうしなきゃいけない気がし始めたの。つまり、今のあたしにはそういうのが必要なんじゃないかって。」
「なるほど。」
「それで郵便局の仕事をね、辞めたんだ。一昨日の終業時間に所属部長のところへ行って、『今日限りで辞めます』って。気持ちよかったわ。癖になりそうよ。」
「これからどうするの?」
「さあね。アルバイトでもしながら、小説を書こうと思っているけど。」
イズミは言った。その口調に決意めいたものは感じられなかった。それはどちらかといえば、強いられている者の口調だった。
「でも、どうして小説なの?」
「つまりね、小説を書くということは、今までに一度も経験しなかったことを思い出すことだと思うの。新しい過去ってわけ。でも本当のところ、自分でもよく分からない。どうして小説なのかってね。気付いたら、もうそれしか自分には残されていないような気がしたのね。ちっともうまく言えないわ。でもきっと、ホロヴィッツだってどうして自分がピアノを弾いていたのか、うまく分かってなかったと思う。」
僕はイズミの話を聞きながら立ち上がり、冷蔵庫から冷えた瓶のビールを取り出した。
「ともかく、それは君にとって良いことなんだろう?」
僕はグラスをふたつ、テーブルの上に置きながら言った。
「おそらく、いいことだと思う。」
「なら、ささやかな門出を祝おう。」
僕らはビールを注いだグラスを合わせた。厚いガラス同士がぶつかる、鈍い音がした。僕らはふたりで三本のビールを空けた。
「これまでに何か書いたことはあった?」
「全然。一度、中学生のときに作文のコンクールで賞をもらっただけ。図書券をたくさんもらったことを憶えてる。」
イズミは立ち上がり、台所へ行って、ビールを飲んでいたグラスに水道の水を注いで一口飲み、残りを流しに捨てた。
「書こうと決めただけで、あたし、まだ一文字だって書いてはいないの。ちゃんと書けるかどうかだって分からない。」
「書けるさ。」僕は言った。
「どうしてそう思うの?」
「だって、君は小包の大きさを測ったり、速達のスタンプを捺したりできたんだ。文章を書くのだって、きっとそれと同じだよ。何も心配はいらない。」
「そうかしら。」
「そうだよ。そうでなきゃ、本屋にあんなにたくさん本は並ばない。」
「ふむ。」と言って彼女は少しのあいだ考え込んだが、やがて納得したようだった。
「そうだ、君にあげるものがあるんだ。」
僕は部屋の隅へ置いたままにしていた本を手に取った。アンナさんの古本屋で少女から買った本を、僕はイズミに差し出した。
「いつかきっと、何かの役に立つよ。」
「ありがとう。」
イズミは立ち上がり、羽織ったウインド・ブレーカーのポケットに本を入れた。
☆
イズミが帰った頃には、すっかり陽は落ちていた。僕はグラスを洗い、寝室に干していた僅かな洗濯物を取り込んだ。乾燥した冷たい空気の中で、ヘインズの白いTシャツが糊で固めたように固く乾いていた。
21
A「僕は現実に生きているけど、まるで映画館の椅子に座って自分を見ているような気がしてる。僕の身に何が起ころうと、全部他人事なんだ。少しはハラハラするけどね。」
A「現実というのは嘘なんだ。人間が作り出したものだから。」
22
電話が鳴った。
灯りを点けて目覚まし時計を見ると、午前三時だった。僕が受話器を取ると、呼び出し音は間が悪そうに黙り込んだ。
「MK法律事務所ですか?」と声は言った。切羽詰まった感じのする、若い男の声だった。
「いえ、残念ですが、」と僕は言った。「番号を掛け間違えていると思いますよ。」
「番号……掛け間違い……そうか。どうもご親切に。」
僕が何か言う間もなく電話は切られた。僕は台所へ行って水道の水を一杯飲み、ふたたび寝室へ戻った。けれど、まだ自分の体温の残っている毛布の中へ足をもぐり込ませたときにまた電話が鳴った。僕は無視して毛布を被ったけれど、電話の呼び出し音は、時刻を合わせ間違えた目覚まし時計のように、主張めいた音を無遠慮にも高らかに家中に響かせていた。僕はベッドを這い出た。受話器を取ると、一拍間を置いてから声がした。
「MK法律事務所ですか?」
「またあなたですか。」僕は言った。「さっきも言ったでしょう。きっと番号を掛け間違えてるんだ。」
「でも、私はこの番号だと伺ったものですから……。」
「じゃあ、あなたにそれを教えた人が間違えたんでしょう。とにかく、ここは法律事務所なんかじゃないですよ。」
「それでも、この番号だと……。ねえ、急用なんです。急がねばならないのです。」
「とにかく」と僕は言った。「ここは法律事務所なんかじゃありません。それに、もしあなたが正しい番号に掛けたとして、こんな時間には誰も起きて仕事をしたりはしていないと思いますけどね。」
「なるほど、そうですか……。」声は調子を落として言った。
「分かったら、陽が昇ってから正しい番号を聞き直して、それから電話を掛けてください。それじゃあ。」
「ちょっと待ってください。」
耳から離した受話器の向こうで、声は言った。
「でも、それじゃあ、あなたは何者なんですか?」
☆
ベッドに戻ったけれど、眠れなかった。毛布は暑苦しく、部屋は息苦しかった。僕は起き出して、熱いシャワーを浴びて髭を剃った。陽が昇る前の暗い部屋は、真夜中と同じ成分を空気中に含んでいた。僕はナイロンのボストン・バッグに、僅かな荷物を詰め込んだ。
受話器を取ってタクシー会社へ電話を掛けて住所を告げると、部屋のすべての灯りを消してブレーカーを落とし、暗くなった居間のソファに腰を下ろした。タクシーが着たのは二〇分ほど経ってからだった。短いクラクションの音を聞き、僕は立ち上がって部屋を出た。
「駅まで。」
後部座席に座ってそう言うと、運転手はゆっくりと暗闇の中に車を出しながら言った。
「お客さん、始発までにはまだ二時間ばかりありますよ。」
「構わないよ。待つから。」
「待つと言ったって、この寒さですよ。」
「それより、ラジオをつけてくれない?」
運転手はカー・ラジオをつけた。早朝の女性アナウンサーは抑揚のない声で話していた。僕はかすかな眠気を感じながらシートに身を埋めた。アナウンサーの声が遠のき、間があったあとで、囁くようなギター・アルペジオが流れ、弱い風に揺れる枯れ枝のようなジェーン・バーキンの歌声が聴こえた。『イエスタデイ・イエス・ア・デイ』。大昔の歌だ。それは遠い鐘の音のようにして、乾いた空気を震わせた。
昨日……そう、いつもと同じ一日
いつもと変わらず 毎日ひとりぼっちで悲しく過ごす
太陽は私がいなくても沈んだ
突然誰かが私の影に触れた
彼は言った
「こんにちは」
タクシーはアンナさんの古本屋の前を走った。シャッターが降りていて、その古い建物は卵を暖める親鳥のようにして、安らかに、それでいて警戒心を持ちながら眠っていた。僕は駅のベンチに座って夜明けの空を眺め、五時二十五分の列車に乗り込んだ。列車の暖房は効きすぎていた。
23
これで僕の話は終わる。結局のところ僕は何も為してはいないし、冬のはじまりと終わりとで、現実として変わったものは何ひとつなかった。
あの年の冬から今日までの八年間で、僕は二度あの町へ戻った。一度は夏で、もう一度は冬だった。イズミは町を出てしまっていた。アンナさんの店はいつ見てもシャッターが下りていた。一度、シャッターの郵便受けから中を覗いたことがある。店内は暗く、本棚が俯いて居眠りをしていた。半分開いた障子戸の向こうで、少女が水色のピアニカを吹いている姿が見えた。メロディになれない音たちがばらばらに響いていた。僕たちは、何も捉えることができない。
イズミの手紙に、彼女の住所は記されていなかった。僕はイズミの手紙に返事を書き始めた。
お久しぶりです。
僕は元気です。君のほうはどうですか?
ときどき、君のことを考えます――
〈了〉
イエスタデイ・イエス・ア・デイ