アルモア11-12
【第十一話】
【第十一話】
一旦ホテルに戻ってから話の続きをしようと思ったが、十坂本人に断られてしまった。
「今すぐ、説明しろ」
彼女は見るからに苛立っていた。腕を組み、落ち着かなさそうに身体を揺すっている。
「あたしが本当は魔法少女じゃないって……どういう意味だ? そんな訳ねーだろ。目の前で戦うのを何度も見てきただろ」
とげとげしい口調は、隠し事がバレそうになった焦りと思われた。
切り出し方を間違えたかもしれない、と私は早くも後悔した。別に彼女を追い詰めたいわけではない。ただ確認がしたいだけだ。
十坂は隣にいる私から目を逸らし、遠くを眺めていた。その瞳には、湾曲した函館港の光が映っている。
私も顔を逸らし、同じ景色を見た。海風を頬に感じながら、今一度思考を整理する。
彼女は魔法少女ではない。
……やはり、そうとしか考えられない。
東京から遥か北へと旅して、ふと立ち止まった深夜の片隅。途切れた橋の欄干で二人、目を合わせずに隣り合っている。
若干の緊張を含ませながら、私は口を開いた。
「この三日間、あなたの戦闘を近くで見ていて、一つ違和感がありました。あなたは一度も──空を飛んでいません。新幹線では座席の上を駆け回り、盛岡では路地を歩いて私を助けに来ました。過去の戦闘を振り返れば、魔法少女は空を飛ぶのが基本の戦い方だと分かります。去年に中目黒で巨大時計と戦ったときや、私と屋上遊園地で出会ったとき。初めて変身したときもそうでしたね。」
「偶然だ。屋内での戦闘が多かっただけだろ」
「そうかもしれません。しかし決定的なタイミングが一つ。初日、体育館での戦闘です。あなたは私を脅すためにギャラリーへと昇ってきました。──わざわざ梯子を使って。何故あのとき、ぴょんと飛んでしまわなかったのでしょうか? まだ変身は続いていたはずなのに」
彼女は素早く舌を打った。
「特に深い意味があって使ったわけじゃねぇ。それに、今思い出したんだが……盛岡では普通に飛び回って戦ってたぞ。お前が見てねーだけだ」
「SNSにアップされた動画は全て見ましたが、飛んでいるものはありませんでした」
十坂は呆れたように「オタクがよ」と口のなかで笑った。
「……しかし、まぁ。確かに、根拠としては薄弱です。疑念が浮かぶ程度で、魔法少女ではないと指摘するに足りません。なので、もう一つの違和感……。今日のフェリーでの戦闘のことです。あなたは必殺技を打つも青林檎を取り逃がし、魔法をしばらく使えなくなっていました」
「魔法少女にしては弱すぎる、とか言うんじゃねぇだろうな」
「まさか」と笑い飛ばす。「……私がフェリーに駆け込んだとき、子供を庇うあなたは変身を解いていました」
「そりゃあ、魔力を使い果たしたんだから当然だろ」
「しかし、あなたの明かした過去話のなかで、レイさんはこう言っていました。──変身と魔法は別、と」
変身とは、《生への欲望》との契約によって得られる力。可愛らしい装甲を纏い、頑丈さや空を飛ぶ能力などを手に入れる。
魔法とは、十坂自身の力。レイの血を飲んだことで魔力を手に入れて使えるようになった。ブロマイドを燃やしたときのように、変身せずとも使用することができる。
その二つは区別される。彼女自身が昨晩話していたことだ。
「なら、必殺技後に魔法が使えなくなったとしても──変身は維持できるはずでは? 子供を守りたいのなら、わざわざ解く必要は無いのでは?」
十坂が軽く唇を噛んで俯いた。余計なことまで口を滑らせた、と内心で舌打ちしているのかもしれない。
責めるような口調にならないよう気を付けながら、続けた。
「私はこう考えました。──あなたは、そもそも変身をしていないのかもしれない。変身をしていないから、ずっと飛ばなかったのかもしれない」
「変身してねーなら、アルモアの姿をしてたのは何だ?」
「〈示せ幻〉です。一日目に新幹線で戦った時、あなたはデペイズマンに化けていましたよね。つまりその魔法は、服装、顔、さらには背格好まで偽ることができるのです。──ならば。ロリィタファッション、ツインテール、幼い顔、そして小さな背丈。これらを装って、アルモアに変身したように見せかけることも可能でしょう」
彼女がフェリー内へと向かうとき、背中に付いたリボンに手を伸ばしたら指がすり抜けた。あれはきっと、実体の無い幻だったからだ。
「アルモアの姿は、変身ではなく魔法だったのです。だからこそ、必殺技を打った後は魔力が尽きて装うことができず、元の姿に戻るしか無かった……」
私は十坂の顔を覗き込んで目を合わせようとした。しかし彼女は逃げるように身を翻し、欄干へと両腕を置いた。教室で寝たふりをするように顔を隠してしまう。
くぐもった低い笑い声が聞こえる。そこには諦念が滲んでいた。
漆黒のウルフカットが湖風に揺れている。
「……魔法で装っていた、か……。ならよ、例えそうだとしても、なんでそんなことをする必要があんだ? ふつーに変身して戦えばいいだろ」
「あなたはもう変身できないからです」
「できない?」
「えぇ。何故なら──」
私は口をつぐんだ。この先の言葉が、彼女を傷つけてしまうことを分かっていた。
躊躇する私に、伏せたままの十坂が「……言えよ」と小声で促してくる。
私は一呼吸置いて、話し出した。
「──契約違反になるからです。《生への欲望》と交わした契約はこうですよね? 《生への欲望》は力をあなたに授ける。その条件として、あなたは生きた鍵であるレイさんを護る。……しかし、レイさんは死んでしまった」
彼女は条件を守れなかった。
それなのに、また変身して力を使ってしまうのは──契約違反である。
昨晩に過去話を聞いた時点から、ずっと引っ掛かってはいた。しかし変身出来ている手前、私の解釈が違うのだろうと勝手に納得していた。
レイが死んでしまったあの日から、彼女はもう魔法少女ではない。正確には、もう魔法少女になれない。
ずっとアルモアの振りをしていたのだ。
……思えば、新幹線で少女を庇ったときに血を流していたのも、変身をしていなかったせいなのかもしれない。レイの語った変身による恩恵とは、飛翔と、魔法強化と、防御なのだから。彼女は生身のまま攻撃を受けたのだ、彫刻刀を直接突き立てられては、肌が破れてしまう。
それでも。
それを、分かっていても。
彼女は少女を守ったのだ。
彼女はこの三日間戦ったのだ。
「……ありがとうございます」
私が礼を述べると、十坂は自分の腕のなかで溜息とも苦笑ともつかない声を漏らした。
「怒らねーの? ずっと騙してたのに」
「何を怒ることがありますか。ただ、感謝の気持ちしかありません。十坂さんはそんな危険な状態でも、私たちのために戦ってくれました。門をどうにかしようと旅立ってくれました。アルモアの姿だって、戦闘や宣伝に都合がいいだけではなく、周囲の人達を安心させるためですよね? ……アルモアでいることを貫いてくれて、ありがとうございます」
「あっそ」投げやりな声は照れ隠しだろう。「……あんたらしいわ」
推理──なんて高尚なものではなく。
推測、を終えた私は、今一度彼女の方を向いた。その後頭部をじっと見つめる。中身を覗くことができれば、嘘を葛藤もすぐ分かるのに。
この旅で、彼女は何度も私を騙した。
レイがいるかのように振る舞ったり、封筒をこっそり隠したり、アルモアの幻影を纏ったり……。
かつてブロワーが扉越しに言った、「彼女は今日、君一つ嘘をついたよ」なんて警句は所詮序の口だった。十坂を侮ってはいけない。
沢山の嘘は──彼女の纏う分厚い衣装である。
そして、もう一つ。
彼女の吐いた嘘はまだ残っている。
それはきっと、最後の嘘──。
「認める、ということでいいですか? 十坂さんは、やはり変身できないのですね?」
「あぁ、そうだ。あんたの言う通り、変身しちまったら契約違反になる」
彼女が顔を伏せたまま首肯する。観念したのか、素直な物言いだった。
ごうっ、と強い風が一陣吹き抜ける。彼女のスカートや私のシャツがはためく。塩の匂いが鼻へと通った。
私は軽く拳を握った。じっとりと汗ばんでいるのが分かる。
──本題はここからだった。
彼女の心に、また一歩、踏み込まなくてはならない。
彼女の矛盾した言動は、果たしてどちらに傾くのだろう。さらなる拒絶か、あるいは受容か。どんな結果を生むのか分からない。
だが訊かないわけにはいかなかった。
私のために。
彼女のために。
しかし世界のためでは無かった。
「……。あなたは昨晩、《死への衝動》をどう対処するか訊かれて、こう答えていました。──魔導書を用いて《生への欲望》へ呼びかけ、魔力を代償に、門を作ってもらう──と。間違いありませんね?」
「あぁ。言った」
「それを聞いた直後は、成程そんな方法があるのかと感心しました。そして安堵もしました。これなら、《死への衝動》という強大な悪魔をどうにかできるかもしれないと。あなたが戦って傷つくこともないと。……ですが、重要なのはそこじゃありませんでした。その前の──空を飛んで押し返すという点です」
「……」
「門を作る前に、《死への衝動》を向こう側へと押し返さなくてはいけないと話していましたね。……遥か上空にある門の向こうへと押し返すには、変身して空を飛ぶ必要があります。そう──|幻影ではなく、飛行能力を持つ本当の変身が必要になるのです。《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》しかし十坂さんが認めた通り、変身することは契約違反です。条件を果たせなかったのに悪魔の力を使ったら──一体どうなってしまうのか。その代償は何か。……十坂さんなら知っているはずです」
──過去編にて、レイと十坂の分断に成功したブロワーは、しかしすぐには殺さなかった。デペイズマンを使って刺殺さずに、わざわざ契約違反なんて回りくどい手段を取った。
君に見て欲しくなったから──と言って。
あれは脅迫だったのだ。再び変身すれば契約違反を起こし、次は君がこうなる──という。
一気にまくしたてた私は、軽く息を切らした。
彼女は何も答えない。顔を伏せたまま、じっと止まっている。
まるで、介錯を待つかのような態度であった。
「あなたは……」
私は一度深呼吸をして、震える声で言った。
「……──あなたは、最初から、死ぬつもりだった。そ、そのつもりで……この旅を始めたんだ。昨晩の話は嘘です。死ぬつもりは無いなんて……そんなの嘘です。違いますか? 違うなら、違うと、言ってください。お願いします。十坂さん!」
堰を切ったように言葉が出てくる。
「レイを死なせてしまったからですか? 魔法少女としての使命感ですか? ……変身したら死ぬと分かっているのに、どうして《死への衝動》を止めに来たのですか」
早く、早く否定してくれ。
いつものように小馬鹿にしながら、笑い飛ばしてくれ。
そう願いながら、気持ちと思考を吐き出していく。
「どうして、どうして、どうして……! 最初から死ぬつもりだったのに、どうして私を連れてきたのですか……!」
どうして、ではない。
分かっている。
それこそが矛盾した言動の答えだ。
「あなたのちぐはぐな言動は、最初から死ぬつもりだったから……ですね? 私を連れてきたのは、この旅を止めて欲しかったから。だけど止めて欲しくはなかった。恐怖と決意。理性と本能。死への衝動と生への欲望。その二つは同時に存在します。それは私が、何よりも分かっています。このまま死にたいこと、やっぱり死にたくないこと。その二つがずっとせめぎ合っていた。そんな葛藤から、私を連れてきた。ずっと矛盾した言動を取っていた。違いますか!」
「違う」
ようやく口を開いた十坂が、強い口調で否定した。
私は驚いて勢いを失う。
……違う?
何が違う? 何から違う?
脳内が疑問符で埋め尽くされる。
一瞬の静寂。
私は唾を飲みこんだ。彼女の次の一言を、たまらない気持ちでじっと待った。
「……止めて欲しかったなんて……違う。だから連れてきたなんて……違う」
十坂はようやく顔を上げた。
その伏し目がちな微笑みに、私は息を呑んだ。
長い睫毛の下で瞳は潤んだ光沢を持ち、頬は一刷毛朱色に染まっている。
照れたような、観念したような、いじらしい表情。
彼女は唇をさっと湿らせてから、布団を被ったような声でこう囁いた。
「…………ただ、最後に……好きな人と旅行がしたかっただけ」
***********************
「友達と過ごし、学び舎に通い、普通の生活を楽しんで欲しい。それが我の望みだ」
レイとの約束を守る。あたしは、その一心で足を動かした。友達と過ごす、ってのはもう破っちまった。だからせめて、それ以外は。学校に通い、普通の生活を送ることだけは。レイとの約束通りにしなくちゃいけねぇ。だからあたしは必死に足を動かして、その日も高校へ行ったんだ。レイが死んだ翌日だろうと、教室に入ったんだ。
心が鉛のようだった。とにかく身体が重たい。顔を上げることすら億劫だった。廊下で誰かとぶつかったときも、担任がなにか連絡事項を話しているときも、その声は耳をすり抜けていく。音は確かに聞こえてんのに、頭のなかで意味と繋がらねーんだ。だから会話も成り立たねぇ。……もっとも、これまでずっと無視してきたわけだから、特に支障はなかったけどな。
視界の端で、誰かの落としたレシートがひらりと舞う。足元に空き缶が転がってくる。それら全てをレイに空目しては、隈の濃い眼を何度も擦り、彼を探した。そして見間違いだったと分かり、泣き出しそうになるのをぐっと堪える。そんなことを繰り返してた。
そんで四時間目の授業中、あたしはふと思ったね。
──もういいか、って。
そのうち《死への衝動》ーが出てくるらしいけど、別にもう、何もしなくていいか。その終末を知っているのはあたしだけで、どうにかできるのもあたしだけ。でも、いいや。別にいい。やる気がとんと消え失せた。
だって、あたしはレイを死なせてしまった。魔法少女失格だ。なら、これ以上魔法少女らしいことをしたって仕方ねぇ。そんな風に振る舞う資格は無い。
死にたい。
たまらなく死にたい。
このまま何もせず、世界と共にだらしなく死んでやろう。
なんて自暴自棄になったのさ。
……昼休みになった。腹は空いているはずなのに、まったく食欲が沸かなかった。あたしは自分の席で突っ伏したまま、溶けた蝋のような気分で憂鬱に沈んでいた。
すると耳に飛び込んできたのは、いつもの騒がしい声だった。
「アルモアのことをまったく分かっていない!」
隣席で、あんたが声を張ってたんだ。
「確かにアルモアは秘密主義です。敵の正体も、魔法についても、明かしてくれません。でも、だからって、自作自演を疑うなんてどうかしています!」
やらせを疑うのはネットの十八番だよな。アルモアに対しても例外じゃねぇ。敵がどこに現れようと、すぐにアルモアが現れる。つまり最初から知っているのでは? ショーを見せて、配信やグッズで金を稼ごうとしているだけなのでは? という考察とも呼べないなにかが、まことしやかに囁かれてた。
秘密主義はレイの方針だった。彼は、あたしにできるだけ普通の生活をさせたかった。それが裏目に出てしまい、あたしはやらせ説に対して根拠のある反論ができずに困ってた。そのせいで、配信のコメントが荒れることもしばしばだった。
「彼女の言動を見れば、正義の人間であることは明らかです!」
ちらりと腕の隙間から覗くと、机を叩いて熱弁するあんたの姿が視えた。横では小泉がうんうんと頷き、斎藤は勢いについていけずに一歩後退りしてた。
「下らない邪推なんて聞かずに、彼女自身を見るべきだ!」
学生運動の演説みたいで面白かったから、あたしは鼻で笑った。よくもまぁ、あそこまで盛り上がれるもんだ。目の前にアンチがいるわけでも、ましてやアルモア本人でもあるまいに。
それがオタクってことか。
「彼女はずっと! たった一人で! 敵と戦ってきたのです。私たちを助けてくれたのです!」
あたしはまた、顔を隠した。
目を閉じた暗闇のなかに、心に空いた穴の中に、
あんたの声が響いてきた。
「私は、知る限り全て覚えています。アルモアが倒した数多の敵を。彼女が助けた人々を。子供に投げた励ましの言葉を。……積み重ねてきたものは決して消えません。彼女が救ったものは否定できません。ですが、それを分からない連中が心無いことを言うのです。わざわざ配信にまで来て……本当に嘆かわしい。私は、アルモアのことが心配でなりません。本来称賛されるべき彼女が、傷ついてはいないかと。自分は駄目だと思ってはいないかと。もし彼女にまた会うことができたら──私はこう励ましたいのです」
あたしはいつしか、制服が千切れてしまうくらいに自分の腕を掴んでいた。
「あなたは素晴らしい魔法少女です。──と」
とうとうたまらなくなって、勢いよく立ち上がった。机に脚が当たって大きな音が出ちまった。教室中の皆が振り返ってくる。当然、あんたも言葉を止めて、驚いた顔であたしを見上げた。
これ以上、ここにはいられない。
あたしは早足で教室を後にして、女子トイレへと駆け込んだ。個室へと閉じこもり、その場で蹲る。
「うっ……。ぐ、ぅ……っ」
嗚咽を堪えることができなかった。あのまま教室で泣き出したら、すぐにバレてしまっただろうな。どうにか間に合ってよかった。
──あなたは素晴らしい魔法少女です。
あんたの声を胸の中で何度も再生した。それは心臓の鼓動のように、繰り返される度に身体中へ温かい血液を広げてくれた。
拭っても拭っても涙が溢れてきた。本当に、本当に嬉しかった。
レイを失った絶望で見失いかけていたものを、あんたは示してくれたんだ。
あたしは魔法少女としてずっと頑張ってきた。
その積み重ねは消えない。
なら──最後まで頑張ってやろう。
あたしが頑張ったことを訴えてくれるやつがいるんだ。覚えていてくれるやつがいるんだ。素晴らしい魔法少女だと、言ってくれるやつがいるんだ。
そんなの、充分過ぎるほどの理由だった。
……あたしが教室に戻ると、あんたはあれこれ謝ってきた。当然、親しくなるわけにはいかねーから、完全に無視した。
でも、それから……あんたのことを意識し始めた。
あんたが隣にいるから、高校まで来ることができた。心が折れること無く生活を送れた。レイを死なせた絶望に潰されることも、《死への衝動》が現れる恐怖に叫び出すことも無かった。
隣の席にいるだけで、あんたは、あたしのことを救ってた。
それで、どんどん……大事な存在になっていった。
毎朝の挨拶を無視すること、かつては何とも思わなかったのに……。いつしか胸が締め付けられるようになった。
あんたがうっかりアルモアの話題を出したとき、寝たふりをしてニヤけてしまうのを必死に隠した。
──なぁ、五宮。
実はあんたのこと、そこまでタイプじゃないんだよね。本当は、もっとクズっぽいちゃらちゃらしたのが好きなんだ。あんたって小うるさいし、ルールに厳しいし、融通きかなそう。休日とか、一緒にだらだらしてくれなさそう。てかこの三日間で、全然性格合わないのが分かったよな。
……でも。
最期の瞬間を過ごすなら、五宮がいい。
そう思うくらいには……好きだ。
***********************
それは、海風にさらわれてしまいそうなほど小さな声だった。
十坂は蒸気でも上がりそうなくらい顔を熱く染めて、怒ったような表情をしていた。
「…………え?」
私は目を見開いたまま硬直してしまう。
「……す、好き……? 私が……?」
「そう言ってんだろ」
彼女はぶっきらぼうに言いながら、襟足の毛先を弄っていた。
「私が……好き!? ……私が!? 好き!?」
「あーもう、うっさい! 何回も言うな!」
彼女の拳が脇腹へ飛んでくる。結構本気のやつだったので、私は「ぐえ」と変な声を出した。
「ったくよぉー……。わざとやってんのか? 恥ずぃんだよ……」
首をシャツのなかへ引っ込めながら、彼女は唇を尖らせた。
「……私が……?」
まったく信じられずに呆然としてしまう。また嘘をついているんじゃないか、とさえ思った。
彼女の潤んだ瞳が、目線を彷徨わせ、しきりに瞬きを繰り返している、そんな様子を見れば、本気の吐露であると否応なく分かった。
きっと自己肯定感の低さが故である。こんな自分を好いてくれる人間がいるなんて想像したことも無かった。
ただタイプなだけであって、好きではない。
一日目の夜にされたその線引きを思い出す。あの方が、幾分リアリティがあるように思える。
「…………私が好き」
「また言った」十坂が呆れたように息をつく。「そんなに嬉しかったか? なぁ」
何度も呟くことで、ようやく事態が呑み込めてきた。十坂泉凛は私に好意を抱いてくれている。それも、この旅が始まるずっと前から。
あのときのことはよく覚えている。いつも通りに小泉とアルモアの話で盛り上がっていたら、十坂が突然教室から出ていった。とうとう機嫌を損ねてしまったと肝を冷やしたものだ。あれから、彼女はアルモアの話が嫌いで、私にあまりいい印象を抱いていないのだろうなと思っていた。
しかし逆だったとは。
彼女はずっと、隣の席から私に好意を向けてくれていた……。
私は片頬に手を添えた。みるみるうちに体温が上がっていくのを感じる。胸の奥がむずむずとこそばゆい。
こんなにも照れたのは、初めてのことである。
「お、お気持ち……大変嬉しいです。ありがとうございます」
私は頭を下げて、赤くなった顔を彼女から隠した。
そしてすぐ、陰るような気持ちがよぎった。良くないと分かっていても口走ってしまう。
「ですが……私なんかを好いても仕方ありませんよ」
「またか」十坂が舌を打つ。「なんなんだよ、それ。ムカつくんだけど。なんですぐ自分を卑下するわけ?」
「……私は何者でもないですから」
顔を上げると、彼女が睨んでいた。
今度は私が目を逸らす番だった。
「何者でも無いって……。いや、あんたは〝いいんちょー〟だし〝ばんちょー〟だろ」
「そんなものは虚飾です。アルモアのように、成し遂げたことや、自分だけの個性や力なんて……無い」
「そりゃあ、あんたは別に魔法少女じゃないからな」
「つり合いませんよ、あなたと私では……」私は自分を抱くようにした。貼り付けた皮が剥がれてしまわないようにするみたいに。「偶然、隣の席だっただけです。私は何もしていません。ただ、アルモアに憧れて、誰にでも言えるようなことを言っただけです。それは小泉だったかもしれない。それは斎藤だったかもしれない。……私じゃなくても、いいんです……」
つくづく自分が嫌になる。告白されて、出てきた返事がそれか? 自分じゃなくてもいい、なんて。失礼にも程がある。
でも思わずにはいられないのだ。話さずにはいられないのだ。妹が死んだあの日から、冷たい腕がこの首を背後から抱いて、片時も離れてくれないから。
こんなこと言われたら怒るだろう。
そう思って、私は恐る恐る十坂を見た。
しかし彼女は同情するような表情を浮かべていた。
そして、優しい声色でこう言った。
「……何を怖がってんだ?」
私はハッとした。彼女の質問は、言葉の繁茂を掻き分けて一直線に心を掴んだ。
私は震える声で白状してしまう。
「…………空っぽの、自分が怖い……。幻滅されたくない……」
「しねぇよ。こっちから好きだって言ってんだから」
「でも、私は……その好意にどう応えればいい? 何の力になれるというのですか? 何者でもない私は……あなたの代わりに世界を救うことだってできないのに!」
私の叫びに、十坂が答える。
「──傍にいてくれるだけでいい」
心を縛る憂鬱に、亀裂が走ったような気配がした。
「この旅に……着いてきた。一緒に戦った。あたしの昔話を聞いた。フェリーのなかへ駆けつけた。夜遊びに連れてった。恥ずい告白を聞いた。そして──」
彼女は指折り数えながら、私たちの旅を振り返っていく。
たった三日間の軌跡が脳裏に瞬いた。振り返れば、互いを別人にしてしまうほど様々な交流に富んでいると気がつけた。
「──ずっと隣の席だった。どう考えても充分だろ。五宮が何者だろうとなかろうと、どうでもいいんだよ。あたしの傍にいてくれるなら」
今、分かった。
自分が求めていたものが分かった。
それは、番長でも委員長でも才能でも力でもない。
誰かに必要とされることでもない。
──その言葉だ。
ここにいていいと、肯定してくれる言葉。
大袈裟に言えば、生きていていいと思わせてくれる言葉。
その一言が、ずっと欲しかったのだ。
「……ありがとうございます」
私の頬に熱い涙が一筋流れた。慌てて拭いとり、彼女に微笑む。感謝の気持ちで胸がいっぱいになったが、これ以上声を出せばもっと泣いてしまいそうだった。
首に巻き付いた冷たい腕は、いつしか優しく抱いていた。
十坂の矛盾した言動。その正体は死への迷いではなく、私への好意であった。
近寄ってきたかと思えば、突き放す。
突き放したかと思えば、近寄って来る。
親しくなりたいのかなりたくないのか分からない、どっちつかずな態度。彼女はこの旅の間、手のひらを返し続けていた。
それらはすべて、そもそも相手のことが好きだとしたら説明がつく。
好きだからこそ、危険な目に合わせないよう突き放す。
好きだからこそ、相手のことを求めてしまい近寄る。
好きだからこそ、親しくならないようあえて拒絶する。
好きだからこそ、最期くらいは一緒に旅をしたいと望む。
近づきたい本心。親しい人間は作らないという決意。危険に晒す恐怖。傍にいたいという欲望。
彼女は隣で悩み続けていた。
そして今、その葛藤を私に吐露してくれた。心を決めた──というわけではないだろう。揺れ動く感情の振り幅が、この瞬間最大まで振り切ったのだ。もしかすると、この後待ち受けるのは……逆方向への振り切りかもしれない。
私は五稜郭の方を振り返った。滲んだ視界を手で拭ってから、遠くの夜空へ目を凝らす。
闇に紛れた門が浮かんでいる。内側には、今まさに乗り越えようとしているシルエットも薄っすらと視えた。
「あれって……。こちら側に出てきた瞬間、世界が滅ぶのですか?」
「え?」急な質問に、十坂は虚を突かれたように首をひねった。「いや……それは無いはずだ。レイから聞いたのは、奴の全身が現世に降り立った後から、徐々に希死念慮が広がっていくっつー話だった。……でも、時間がかかるってだけで、世界の終わりは確実だけどな。衝動の伝播を防ぐ術なんて、今の人類にはない。地面も壁もすり抜けて、いつか星も宇宙も覆い尽くす」
「では──旅を続けましょうか」
「──は?」
十坂が頓狂な声を上げる。
目を点にした彼女に、私は微笑んだ。自分がおかしなことを言っている自覚はあった。
「最終決戦なんて、もういいですよ。ここから二人で逃げ出しましょう。……今度は海外へ行きましょうか? お金はそんなにありませんけど、きっと何とかなりますよ。世界の終末に背を向けて、地球の裏まで行きましょう」
「……あ、あんた……。何言ってんの……」
十坂がゆっくりと首を振る。
「そんなの、駄目でしょ……。逃げ出すなんて……」
そう言いながら、彼女は口角が上がるのを手で抑えようとしていた。歓喜を隠し切れていない。
「私は……世界を救わなくちゃいけないの。変身して、あれを押し返さないと……」
「しなくていいです。変身なんて、するな」
十坂の両肩に手を置いて、私は一歩近づいた。互いの顔が肉薄する。瞬きすら忘れて真っ赤な顔で硬直する彼女。その瞳を見上げて、これは本気の言葉であると態度で示す。
ごくり、と唾を飲む音が聞こえた。
「私は、あなたに生きていて欲しい」
この瞬間──家族も友も己も忘れて、私は隣人を助けたかった。
告白よりも愚かな言葉を捧げて。
「このまま死ぬまで旅しましょう」
十坂は美しい顔の時間を止めて、しばらく動かなかった。思考の処理が追いついていないようだった。
やがて現実へと戻ってきて、長い睫毛を何度かしばたたかせた。呆然としながら、何故か私の頬を軽くつまんでくる。
「…………なーに言ってんだよ」
十坂が微笑を浮かべる。何かが満ち足りたような、優しい表情だった。
だが、すぐに目を伏せてその顔を曇らせた。唇を噛み、追い詰められたような顔つきとなる。
しばし沈黙が流れた。
私は不穏なものを感じ取り、「……十坂さん?」と呼び掛けた。
すると彼女は目を合わせ、再び笑みを浮かべた。
それは明らかな作り笑いだった。
「ありがとな、そんなこと言ってくれて」
彼女はエナメルバッグに左手を突っ込むと、魔法のステッキを取り出して、その先端を私に向けた。
奇しくも、この旅の始まりと同じような状況となった。
しかし今度は──脅しではない。
「……ごめんな」
衝撃。
白い光。
回転する世界。
暗転していく──意識。
【第十二話】
【第十二話】
消灯された室内のなか、カーテンの隙間がぼんやりと白く光っている。
窓の向こうで、小さな粒のようなものがひらひらと舞っている。
その正体を確かめようと、私は痛む頭を抑えてベッドから起き上がった。ビジネスホテルの一室は、外界と遮断されて静けさに包まれていた。
冷たいガラスに手をついて、見下ろした函館駅周辺の景色には──しんしんと雪が降っていた。
今日は八月十三日の水曜日。お盆休みの始まる日。真夏と表現されるべき今、季節外れの雪が北海道の空に充満している。
時刻は午前七時。しかし空は暗黒だった。星の煌めきすら見当たらず、ただ月明かりだけが冴え冴えと白く差していた。
盛夏の昼前に、突如訪れた雪月夜。
このような現象には強く心当たりがあった。
「……あるはずのないものが、そこにあること」
すなわち魔法だ。
『──現在、五稜郭を中心に、函館市内に避難指示が出されております──』
テレビを点けると、どの局も生中継を行っていた。闇に支配された街の様子が映されている。道路には何台も警察車両や中継車が並び、歩道では住民や観光客が誘導を受けながらぞろぞろと歩いている。その誰しもが振り返り、スマホを掲げながら空を見上げていた。その視線の先へ、テレビカメラがパンする。
門だ。
門が一般人にも視え始めたのだ。
五稜郭の直上に、巨大な額縁がくっきりと浮かび上がっている。なかからは黒い人型が上半身を突き出していた。顔には、羊のような目と角。悪魔がビバリウムへ顔を出したような、恐ろしい光景であった。
『こちらは合成映像などではございません。実際に今、目の前で、大きなマネキンのようなものが空に浮いております。この雪も、その影響でしょうか──』
防災スピーカーから避難を促す声が聞こえる。対象地域を読み上げたり、英語に切り替えたり、途切れることなく流れていた。
道路には次々と立ち入り禁止のテープが張られ、五稜郭の方へ人が近づかないようにされていく。より近くで動画を撮ろうとした野次馬が、警察にたしなめられていた。
街が非常事態に染まっていく。
デペイズマンが現われたときは、アルモアの戦闘を期待する人間が多い。しかし今回ばかりは誰しも大人しく避難していた。かつてないほど大規模な異変や、空から見下ろす巨大な悪魔の姿に、恐れ慄いていたのだろう。
張り詰めた糸のような緊張感が、画面越しに伝わってきた。
と、路上からビルの屋上へと映像が切り替わった。五稜郭近辺を高所から撮影している。
カメラが画格を揺らしながら、五稜郭タワーの屋上へとズームインされていく──。
『えー……視えるでしょうか。あちらに、アルモアの姿が視えます』
私はテレビモニターへ掴みかかるように近づいた。
「……いた」
白とピンクのロリィタファッションを強風でなびかせながら、アルモアが魔法のステッキを高く上げている。
狙う先は勿論──《死への衝動》。
彼女が何かを叫んだ。すると、白く輝く光線が放出され、《死への衝動》の肩辺りに衝突した。
しかし悪魔は特に反応せず、まったくの無傷であった。勢いよく当たった光線は、空しく霧散して消えてしまう。
『あのように、先ほどから攻撃を加えております。今は彼女の勝利を待ちましょう。繰り返しになりますが、近隣の皆様は、くれぐれも五稜郭付近には近づかないようにして下さい──』
カメラはしばらくアルモアの様子を映していた。
彼女は毅然とした振る舞いでステッキを向けたまま、光線や、火の玉や、電撃や、衝撃波など──様々な魔法を《死への衝動》へ発射する。
だが、どれもこれも効いているようには視えない。《死への衝動》は魔法少女の攻撃を黙殺し、自らの腹を額縁からゆっくりと引きずり出している。
アルモアは時折、がっくりと腕を下ろしていた。ずっと上向きにしておくのは疲れるのだろう。一体、どれくらいの時間そうしていたのか。もしかすると、私を気絶させてホテルに運んでから、ずっと──?
彼女は一分と休まず、再びステッキを向けて魔法を打つ。その両腕ががくがくと震えているのが、カメラ越しにも分かった。
まるで祈りのような攻撃であった。
どうか、どうか効いてくれ。これで止まってくれ。そんな必死の思いが伝わるような様子。
だが《死への衝動》は止まらない。ありったけの魔法を撃ち込まれても、その表面に傷すらつかない。幾度と葬ってきたデペイズマンとは格が違いすぎる。
これが本体。
これが──悪魔。
いつの間にか、拳を強く握っていた。さらには震えが止まらない。
理不尽への義憤と、圧倒的な存在への恐怖。
……十坂は、あれにたった一人で立ち向かっているなんて。
自分は彼女に置いて行かれてしまった。二人で逃げ出すという提案を振り切って、彼女は今、あそこに立っている。
その胸中を考えると、胸が締め付けられるような思いとなった。
「十坂さん……」
昨晩のことがフラッシュバックする。彼女の笑顔が、赤い頬が、告白が、頭のなかで鮮明に蘇る。
逃亡が却下されたということは──やはり世界を救って死ぬつもりなのか? もう決意は済んでしまったのか?
──違う。
まだ分からない。
まだ彼女は迷っている。
何故なら、彼女はまだ飛んでいない。タワーの屋上で、遠距離攻撃ばかりを繰り返している。まだ変身していない。まだ必殺技も打っていない。魔法の連続で、どうにかヤツを削り切ろうと奮闘している。
変身せずとも押し返すことができないか、最後まで試すつもりなのだ。
「…………よし!」
私は両手で頬を打ち、自分自身に活を入れた。
立ち上がり、何度か深呼吸をした。恐怖や迷いをゆっくりと吐き出して、身体の調子を戻していく。
行かなくては。
彼女が諦めてしまう前に。
……行ったところで力になれるか? お前に何ができる? 何者でも無いお前に! 無力なお前に!
なんて疑問が耳元で囁かれる。それは私自身の声だった。
首を振って、その声をかき消す。
──傍にいてくれるだけでいい。
彼女がそう言ってくれたのだ。
今さら迷うことはない。
生と死の境界線で彷徨い続ける彼女を、こちら側へ引き留められるのは──きっと私しかいない。
『──あぁ、今! 今、マネキンに動きがありました!』
と、リポーターの切迫した声が聞こえた。
テレビ画面に目をやると、《死への衝動》が左手を大きく上げるところだった。その指先から黒いエネルギーのようなものが発されて、中央に集められていく。
黒いの手の上に、たちまちエネルギーの凝縮体が出来上がった。
五メートルはありそうな大きさの、禍々しく渦巻く球体。
が、瞬きの間に──姿を消した。
音もなく発射されたのだ。
「危ないッ!!」
私とリポーターの声が重なった。
──轟音。
映像が激しく揺れる。グリッチが走る。
非難する人々の悲鳴と、マイクのノイズ。
そしてカメラが立て直されたとき、映されたのは──。
「……ッ!」
タワーの屋上が大破した様子であった。大きくえぐられて、展望階が露出している。瓦礫が崩落し、タワーの直下へと落ちていく。
砂煙が立つなかへ必死に目を凝らすも、アルモアの姿はどこにもない。
胸を衝く焦燥。
最悪の想像がよぎり、私は部屋を飛び出した。
五稜郭タワーの展望二階へと辿り着いた。スプーンで上からえぐりとったように天井の落ちた一角がある。ガラスは潰され、ぽっかりと穴が空いている。
展示されていたであろうタワーの模型や土方歳三のブロンズ像が、無残にも砕けて床に転がっていた。
ここは地上九十メートル。函館の景色が遠くの山並みまで一望できる。崩落によってできた穴から、叩きつけるような風が舞い込んでいる。砂塵で視界が悪かった。
途中でエナメルバッグを拾い上げつつ、彼女を探す。すると半身に瓦礫を被った十坂の姿を見つけた。意識を失くしたためか、幻は解除されて元の姿に戻っていた。
私は慌てて駆け寄った。
「十坂さん……っ! 大丈夫ですか、十坂さん!」
膝をついて抱きかかえる。後頭部に手をやると、髪の隙間から湿った感触がした。出血しているようだ。
私の呼びかけに、十坂が薄目を開ける。
彼女は相手を認識すると、呆れたように息を吐いた。
「……どうやって来たんだよ」
「ひたすら走りました。階段も駆け上がりました」
「この辺りは立ち入り禁止になってるはずだ」
「えぇ。だから、タワーに着くまでは警察と追いかけっこでしたね。元番長なので、サツを撒くのは慣れてます」
「不良がよ」
くっくっく、と十坂は可笑しそうに笑った。そして激しく咳き込みながら、瓦礫を除けて立ち上がる。
ふらっ──と目眩を起こして倒れそうになっていた。私は咄嗟に肩を支えようとしたが、彼女は片手でそれを拒絶してきた。
触るな、と。
そう示した。
「あー……だいぶヤバイな」
崩壊した天井から上空を見上げている。視線の先では、《死への衝動》がもう膝くらいまで出てきていた。重力に引き摺られるような頭も両腕もダランと下げたポーズで、今にも生まれ落ちようとしていた。
「あたし、どんくらい寝てた?」
「恐らく……十五分とか、二十分とかですかね」
「それだけで、こんなに進行すんのか。魔法も無駄打ちじゃなかったってことか。……止めるには無理だったみてーだけど。まったく、強すぎんだろ」
大きな溜息をついて、やれやれと首を振る彼女。そのわざとらしい振る舞いは、自分自身を納得させるためのような気がした。
私に背を向けて、一歩、一歩、と穴に向かって歩き出す。
汗と血とコンクリートで汚れたシャツには悲壮な決意が漂っている。
たまらず、その背中へと叫んだ。
「──十坂さん!」
「やめろ」
説得の気配を感じ取り、十坂が厳しい口調で制する。
だが私は止めなかった。
「逃げましょう! もう充分戦いましたよ! 私と一緒に逃げるんです! だって、あんなの……! 変身したって、押し返せるかどうか分からないじゃないですか!」
「わざわざそれを言いに来たのか。あんた、それでもあたしのオタクかよ? 魔法少女の力なら、押し返すくらい簡単だ」
「お願いです、戻ってきて下さい! 変身なんてしないで下さい! アルモアにはならなくていい!」
「一回拒否られてんのにしつけーな。あたしはもう決めたんだよ」
「でも、ずっと魔法だけで戦ってましたよね。本当は、変身なんてしたくないんでしょう!?」
「ギリまで粘ってみただけだ。……でも、時間切れだな。なぁ聞いてくれ」
彼女は背を向けたまま、顔だけをこちらに向けた。
風でなびく横髪に邪魔され、その眼は視えない。
「ここに来る前──。ホテルで少しだけ仮眠をとった。間抜け面したあんたの横で、ちょっとだけ眠った」
彼女の口元が懐かしむように微笑む。
「そして起きるまでの僅かな間……あんたと地球の裏まで旅したよ。世界中を回ったのさ」
十坂らしくない感傷的な声色。そこに、後戻りできない決定的な気配を感じる。
もう、羽交い締めにしてでも止めてやる。
私は瞬時に思い立ち、駆け出して、彼女へ手を伸ばした。
「……いい夢見れたよ」
そう呟いた十坂は、私の叫び声に聞こえない振りをした。
魔法のステッキを真っすぐ頭上に掲げる。
そして短く息を吸い込み──呟いた。
「変身」
──一言。
たった、一言。
彼女は凛と呟いた。
少女を死に招く一言を。
仮面を被るための一言を。
すべてに引導を渡す一言を。
十坂泉凛は言ってしまった。
すると彼女を中心に、大きな気配が波紋の如く広がった。魔力の無い私でさえ、肌が痺れて鳥肌が立つ。不可視の力に圧されて、思わず腰を抜かしてしまった。
……子供の頃からずっと不思議に思っていたことがある。
魔法少女はなぜピンク色の服を纏うのか?
その答えが今、目の前できらきらと展開されていく。
瓦礫から一メートルほど浮かび上がった彼女の身体は、首から下が純白の光で包まれて、女性らしい丸みを帯びたシルエットを現した。
その裸体を隠すよう、ばさり、と巨大な翼が広がる。
彼女の胸を──腹を──下半身を──いくつもの翼が覆っていく。
そして身体へ定着するにつれて、その境界は曖昧になり、見慣れた衣装へ姿を変えていく。レースやリボンの装飾を目立たせ、パニエでスカートを大きく膨らませた──ロリィタファッション。
翼に蓄えられていた羽毛は、その名残を裾や袖口のフリルに見せていた。
彼女は伸ばしたつま先で軽やかに着地した。厚底のパンプスで、しかし音もなくコンリクートを踏む。
変身はまだ終わっていない。纏った衣装には色彩が無く、真っ白のままである。
──まるで死装束のように。
どくん、どくん、と衣装全体が脈動し始める。意思を持った一つの生物のように蠢いている。次いで、真っ赤な液体が染み込んでいく。根元から端々へ、ゆっくりと注入されるよう漲っていく。
その鮮やかさは血であった。
彼女の血を衣装が吸い上げているのだ。そして本来の白さへ馴染ませることで、あまりに剥き出しだった生命の色はほどよく中和され──可愛らしいピンク色に落ち着いた。
これが答えである。
白き死装束と赤き血液。
その交差点──故に、ピンク。
大きなダブルリボンが背中でキュッと結ばれて、それを仕上げに彼女は変身を終えた。
美しい。
私は絶望を忘れて見惚れた。
彼女はまず、深く息を吸い込んだ。
そして吐き出すと共に、静かな決意に満ちた幼い顔が目を開いた。
眼下に函館市の景色を一望する。月明かりしか視えない夜空の下、深海に沈む海底都市のように街は濃紺に染まっていた。そこへマリンスノーの如く、無数の雪がしんしんと降り続けている。景色から音を奪いながら、緩やかに降り続けている。
ごうっ、と分厚い風が身体を揺らした。細いツインテールが騒がしくなびく。百メートル近い高所であるという現実を、五感に叩きつけてくる。
彼女が見上げた先は──遥か上空。浮かぶ額縁。こちら側の世界へ出てこようとしている、全長百メートルはありそうな体躯を持った黒い巨人。マネキンについた、羊の如き瞳と渦巻く角。今や、足首が引っかかっているだけの状態でぶら下がっている。
「行くな」と声をかけることができないほど、大きなリボンで隠された背筋は覚悟が一本通ったように伸びていた。
ここが旅の終着点。
彼女は少しだけ迷うような間を置いてから、私の方を振り返る。と言っても顔は見せないまま、足元へ目線を落とすだけの躊躇う仕草であった。
「……ごめんな」
最後に私のことを気遣って、されど返事は聞かず、両手を広げて飛び降りた。
自殺めいた行為に肝を冷やす。
呆然としていると、ややあって、一陣の白い風が垂直に駆け抜けていった。
魔法少女が空を飛んでいく。
スカートの裾をはためかせ、高く、高く、飛び上がっていく。
そしてすぐ、下向きになった巨人の頭へと激突した。衝撃で空気が震え、私の鼓膜まで響く。
巨人の圧倒的な大きさに比べたら、アルモアは小さな粒のように視えた。
彼女は渾身の力を込めて、巨人を両手で持ち上げていく。咆哮し、全身全霊の力で押し戻そうとする。華奢で幼い身体に膂力と魔力を漲らせ、最大出力で挑む。
最初の十秒は微動だにしなかった。
だが、ゆっくりと、巨人の頭は動かされていった。合わせて、身体も額縁の中へ戻されていく。枠組みと摩擦しながら、脚が徐々に後退していく。
巨人の身体が門へと戻っていくにつれて、アルモアの勢いが増していく。ロケットがブースターの炎を大きくして成層圏を目指すように、速度を上げていく。
──と、巨人は思い出したように攻撃へと転じた。左手を広げ、頭頂に張り付いたアルモアを狙う。指先から黒いエネルギーのようなものを発して、それを凝縮してから、巨大な黒い弾丸を発射した。
アルモアへと直撃し、爆発が起こる。
私は思わず口を抑えた。その威力は、つい先程見たばかりである。身一つで受けるにはあまりに強力だ。
──だが。
硝煙が霧散すると、そこに無傷のアルモアが現れた。ポーズすら変えず、攻撃を気にも留めないで持ち上げ続けている。
あれが変身による防御力──。
簡単だ、と言ったのは嘘ではなかったのか。
やがて上半身、そして頭までを、額縁のなかへと押し込んだ。
残るは、だらんとぶら下がっている黒い両腕。手のひらが開き、再度エネルギーを溜め始めている。
彼女はその間に浮かぶと、ステッキを振るい、叫んだ。
「〈示せ衝〉ッ!!」
不可視の鉄槌が巨人の手の平を打った。
下から突き上げ、腕全体をひしゃげさせる。
「〈示せ衝〉ッ! 〈示せ衝〉ッ! 〈示せ衝〉ッ! 〈示せ衝〉────ッ!!」
何度も、何度も、衝撃波が走る。
何度も、何度も、函館の空を戦慄かせる。
怒りに任せて殴りつけるように、アルモアはステッキを振り回した。その動きに合わせ、透明な力が巨人の腕に叩きつけられる。指先のエネルギーはたまらず霧散し、手がぐちゃぐちゃになっていく。原形を留めない黒い塊へと化しながら、ひたすらに衝撃を打ち込まれ、釘が木のなかに沈むように──額縁のなかへと強引に押し込められた。
こうして、《死への衝動》は向こう側の世界へと戻された。
私は魔法少女の強さを改めて思い知り、呆気に取られていた。倒すことはできずとも、押し返すだけなら──悪魔相手だろうとここまでのことができてしまう。
本当に、世界を救うことができてしまう。
アルモアが左手をこちらに向けた。すると、私の傍らに転がっていたエナメルバッグがぶるぶると震えだし、独りでにチャックが開いた。
中身を周囲へ散らかしながら、一冊の古びたコプト装丁の本が浮かび上がった。
──魔導書〈トロンプ・ルイユ〉。
引き寄せられるようタワーを飛び出していき、彼女の左手にピタッと収まる。
それを携えながら、アルモアはステッキを掲げた。その先端から光る線が飛び出して、彼女が動かずとも独りでに幾何学模様を描いていく。
あれは……いつもの五芒星か?
いや、違う。
逆だ。
あれは逆五芒星だ。
悪魔との繋がりを断つものではなく、悪魔との繋がるためのもの──。
アルモアはその中心に浮かび、〈トロンプ・ルイユ〉をばららっとめくった。そしてあるページを開いたまま止まり、じっと目を凝らす。
そして知らぬ言語で呪文を唱え始めた。
悪魔召喚の儀式が始まったのだ。
徐々に魔導書が発光し始め、白く照らされたアルモアの顔が読みにくそうに眉をひそめていた。
額縁を起点に、空へ波涛が広がっていく。鼓動のように。足音のように。それは大きくなっていく。
鼓膜が震える。
ぶわり、と鳥肌が立つ。何故か身体が熱くなる。
迫る。
近づいてくる。
何かが──来る。
その門の奥から、巨大な何かが──。
「来たれ──《生への欲望》ッ!」
額縁から──手が突き出した。
鮮血を被ったような、冴えた赤一色。
次いで顔も現れた。人型のマネキンの顔に、鳥のような真円の瞳とくちばしが付いている。とても歪な姿であった。
あれが………《生への欲望》の姿。
私は圧倒されて、ごくりと唾を飲みこんだ。
大きさは《死への衝動》と同じくらいだ。アルモアは指先ほどしかない。
彼(という呼び方で良いのだろうか)は、顔をゆっくりと傾けて、逆五芒星のなかにいるアルモアを眺めていた。
「…………《生への欲望》よ」
アルモアは臆せずに片手を伸ばした。自らの視界のなかで彼を撫でるよう、指先を動かしている。
「二十六年前。この世界を救って下さり、ありがとうございました」
いつもの語尾を封じた丁寧な口調。
《生への欲望》は特に反応を示さず、相変わらず不思議そうな態度でアルモアを色々な方向から見ていた。逆五芒星から一定の距離を保っている。
「今、再び、この世界に危機が訪れております。《死への衝動》は既に追い返しました。やつが戻って来る前に、どうか再び、門を……!」
アルモアが宙で跪いた。
「──《生への欲望》よ。契約を結ばせて下さい。二十六年前と同様に、門を閉じて、悪魔が来れないようにして下さい。その代わり──私を差し上げます。死後、魂を捧げます」
「な……っ!?」
私は愕然とした。
代償として渡すものは魔力だと言っていなかったか?
もしかして、それでは弱いかもしれないと思い、自分ごと……?
この後、変身による契約違反で自分は死んでしまう。だから捧げてしまえ、という考えなのだろうか。
でも、魂の服従なんて……。そんなの、半永久的に続くんじゃないか……?
死して尚、安らぐことができないなんて……!
「……十坂……!」
私は悔しくて歯を食いしばった。
もう、彼女を助けることはできないのだろうか。
彼女はこのまま、我が身を犠牲に世界を救ってしまうのだろうか。
駆け付けたい。
傍に行きたい。
でも私は、空なんて飛べない。
それに行ったところで、既にどうしようもない。
彼女は変身してしまった。契約に違反してしまった。溶けていったレイのように、もう死ぬことは確定している。
更には《生への欲望》と契約してしまった。彼女は悪魔への捧げものとなる。
自分に出来ることは、ここで見ている事だけ。
歯噛みして、拳を握りしめて、無力感に苛まれるだけ。
この光景を目に焼き付けるくらいしか、できない。
私は必死の思いで思考を回し続けた。
なにか、なにか方法は無いのだろうか。
死ぬことの決まった彼女を助ける手段は、なにか──。
「…………《生への欲望》?」
異変を感じ取ったアルモアが頭を上げる。彼の巨大な瞳を見つめて、首を傾げた。
そして魔導書をばらばらとめくる。
「……呪文は合ってるきゅる。契約内容も合ってるきゅる。代償も、魂なら十分なはずきゅる……。──なのに、どうして……?」
彼女は怪訝な表情を浮かべた。
「……どうして、返事が無いきゅる……?」
アルモアは再び契約内容を叫んだ。門を閉じて人間を救うこと。その代償に自らを捧げること。すぐ眼前に迫った悪魔へと訴えかけた。
しかし《生への欲望》は相変わらず無反応で、ただ両手や顔を揺らし続けるばかりであった。
まるで人間の声なぞ聞こえていないように。
「な、なに……? どうしてきゅる……? 何で……? け、契約を結びましょう! あなたはかつて、人間を助けるために門を作ってくれたきゅる! なら、もう一度、それをして下さい! お願いきゅる! 代償なら、いくらでも払うきゅる……!」
アルモアが必死になって呼びかける。
「応えて下さい──ッ!!」
「あっはははははははははは!」
と、少女の笑い声が響いた。
驚いて振り返ると、私のすぐ横に夏香がいた。白いワンピース姿なのに、行儀悪く瓦礫の上であぐらをかいている。
「……ブロワーですか」
「やぁ、お兄ちゃん」
「もう門の向こうに行ったのでは?」
「だけど門はまだ開いてる。僕はここで、君達の戦いを観戦させてもらうよ。世界を味わうなら、こうして人と同じ視点になることが大事だからね」
「……《死への衝動》と共に帰って下さい」
「無理だよ。生じた衝動はどうしようもない。……それよりさ、アルモアを見てよ。あれは傑作だよ」
彼の指した方を見ると、アルモアは一生懸命に契約内容を繰り返していた。何度も魔導書に目を落とし、間違いがないか確認している。
しかし《生への欲望》からの応答はやはり無かった。
そして、その赤い巨人は──ゆっくりと後退していった。
「……ま、待って……!」
アルモアが思わず手を伸ばす。だが《生への欲望》は止まらず、表情の無い顔でじっと彼女を見つめながら。自ら額縁のなかへと戻っていく。
「どうして! どうして、助けてくれないきゅる!? 門を作ったのはあなたなのに! 人間を助けたのは、あなたの意思なのに!」
アルモアは焦燥と不可解の入り混じった表情で叫んだ。
その目線の先で──無慈悲にも《生への欲望》は巨体を消していく、。
やがてくちばしの先端までも、完全に額縁の向こうへ去ってしまった。
「ど、どうして──?」
アルモアが頭を抱えた。彼女の動揺を示すよう、浮遊の制御がぶれてふらふらと危なげになっている。
逆五芒星を描いていた線が、どろりと溶けるように消滅した。
「なんで……!」
人間を救うはずだった悪魔は、アルモアの契約に応えず、元の世界へと帰ってしまった──。
「あっはははははははははは!」
再びブロワーの笑い声が響いた。彼は腹を抱えて転がり回っている。その様子はやはりわざとらしく、笑おうとして笑っているだけのようだった。
そこへ、一閃の光が激突してきた。衝撃音と共に砂塵が舞い上がる。
私は風圧で飛ばされ、床に身体を打ちつけた。
顔を起こすと、アルモアがブロワーへ馬乗りになっているのが視えた。私の隣にいることに気が付き、突進してきたのだ。
「いてて……。危ないなぁ、もう」
「この野郎──ッ」
怒りに顔を染めたアルモアが、ブロワーの胸倉を掴んで強引に引き上げる。妹が乱暴されているようで嫌な光景だったが、流石に止めはしない。
「へらへら笑いやがって……っ! てめぇ、何か知ってんな!? これはどういうことだ! なんで……っ、なんで、《生への欲望》は応えない!? なんであたしの契約に乗ってこない!?」
喋り方が十坂に戻るほど切羽詰まっている。
「だから言っただろう。この戦いは無意味だって。……レイは死んだじゃん」
「あぁ、そうだ。だから、もう一度、門を──」
「やっぱり知らなかったのか」
ブロワーは呆れたように両手を上げた。激昂するアルモアに迫られても、飄々とした態度を崩さない。
「レイの奴は無知だね。〝本体〟からずっと離れていたせいかな? ……あのね、教えてあげる。レイは僕と同じなんだ」
「……同じ……? ど、どういう意味だ」
「ちゃんと自己紹介しただろ? 《死への衝動》の内側に生まれた、《現世へ行きたい》という衝動。それが、僕」
ブロワーがゆっくりと口角を引き上げる。夏香の八重歯が覗き、まさに悪魔のような笑みを浮かべる。
眼前のアルモアへ、相手を取り込んでしまうほど大きな瞳を向けた。
「そしてレイとは──。《生への欲望》の内側に生じ|《人間を助けたい》という欲望。僕と同じさ」
アルモアの顔から血の気が引いていく。
力が抜けて、彼のワンピースから手を離した。ブロワーの明かした事実に衝撃を受け、言葉を失っている。
私も戦慄し、自分の顔が青ざめていくのを感じた。
「レイは死んだ。つまり、《生への欲望》の内側にあった《人間を助けたい》という欲望も、消えた。──故に、《生への欲望》のやつは君の契約に乗らなかった。人間を嫌う習性だけが残り、門を作るなんて面倒なことはしないだろう」
蜘蛛の糸が最後の最後でぷつりと切れたような──絶望。
命綱がどこにも繋がっていなかったと、落下した瞬間に知るような──衝撃。
勝負は最初から決まっていた。
「……そ、そんな……っ」
アルモアが後方へとよろめいて、脱力したように腰を落とした。
「じゃあ、あたしは……!」
幼い戦士の顔に、絶望の色が満ちていく。目を見開き、唇がわなわなと震え出す。
揺れる瞳孔で自らの両手を見つめて、今にも泣き出しそうな声を漏らした。
「あたしは、何のために……っ! 何のために、これまで……っ! 旅も、変身も……! あぁ……っ!!」
「そう、その通り。これまでの全部──」
ブロワーが彼女へ歩み寄る。
身を屈め、今度は自分から顔を近づけた。にっこりと、背筋の冷たくなるような作り笑いを浮かべた。
ちょん、とアルモアの鼻先をからかうようにつつく。
崩れかかった彼女の心へ、トドメを刺すかのようだった。
「──無駄だった、ってことだよ」
空を見ると、額縁から《死への衝動》が再び出てきた。アルモアが叩きのめしたはずの手はすっかり元通りになっており、悠々と枠を掴んで上半身を迫り出し始める。
彼女が死と引き換えに向こう側へと押し込んだというのに……。
死の化身は、再び門をくぐって現世へと出てきてしまった。
無駄、という言葉が私の頭のなかへ響く。
門を閉じる術はもう無い。
最初から、そんなものは無かった──。
「…………はは」
半開きとなったアルモアの口から、乾いた笑いがこぼれた。
「……なにそれ。じゃあ、あたし、変身しなくて良かったじゃん……」
「──まぁ、契約を持ちかけられたタイミングで新しい衝動が発生する可能性もあったけどね。故にデペイズマンを送っていたわけだけど……。ぜーんぜん、そんなこと無かった! あー良かった!」
ブロワーが無邪気な笑顔でブイサインを見せつける。
そしてすぐ、真顔に戻った。
おぞましいほどに空っぽの眼で、十坂を見下ろした。
「君がレイを死なせた時から、勝負はついていたんだ。……可哀想にね」
「……っ!」
十坂の顔が絶望で引き攣った。「あ、あぁ……っ!」怯えるように身を翻し、四つん這いのままばたばたと壁際まで逃げていく。そして、身を守るようにその場で蹲った。
ただでさえ小さな体躯を更に縮めて、何かへ謝罪するかのようなポーズになった。ツインテールの根本を抑えるみたいに、頭を抱えている。
「ご、ごめんなさい……! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……っ!!」
魔法少女はすっかり戦意を失い、ただ世界に怯えて震えていた。
挑発されたなら、怒ったり鼻で笑ったりするのが彼女らしい行動のはずなのに。
「あ、あたしのせいだ……! あたしのせいだぁ……っ!」
もう、アルモアは何もできなかった。
直視に耐えかねるほど憐れな姿に、私の心が締め付けられる。
「だったら……。だったら、変身しなきゃ良かった……! 変身しなければ……もう少し一緒にいられたのに……っ!」
彼女は拳を振り上げ、溢れだす悔しさのまま地面に叩きつけた。
そして叫ぶ。
「全部、無駄だった……ッ!」
「違いますッ!!」
私は反射的に叫び返した。
突然の大声に、アルモアとブロワーがこちらを振り向く。
──無駄、だなんて。
そんなことにはさせない。
絶対にさせない。
させるものか。
「違う、違う……! この旅は、無駄なんかじゃない……」
それを証明するため、私は力強い足取りでブロワーへと歩み寄った。
彼は「なんか怖い顔だね」と言いながら、きょとんと首を傾げて私を見上げる。夏香がよくした表情だったので心がざわついた。
……十坂を死なせない方法を、頭の片隅でずっと考えていた。
私にできることは何か?
私には魔法も変身も無い。
元番長として、人より喧嘩が強い。身体が多少は丈夫である。
委員長として、人より正義感が強い。モットーを掲げて隣人を助けている。
……違う。
そんなのは虚飾である。そう言ったのは自分自身じゃないか。
私。
私にできることは何だ?
私がしてきたことは何だ?
そうだ、私は……。
ずっと──それと一緒にいた。
「ブロワーさん。私と契約しましょう」
「……え?」
ブロワーが虚を突かれて固まった。
私は気持ちを落ち着かせながら続ける。
「契約内容はこうです。あなたが私のなかに入って一体化することを許可します。その代わり、あなたは十坂さんを助けて下さい。死を司る悪魔なら……出来ませんか?」
十坂は悪魔との契約違反で死んでしまう。
人知を超えた悪魔のルールを、何者でもない私がどうにかすることはできないだろう。
──でも、悪魔なら?
悪魔なら、死の運命をどうにかできるのでは……?
ブロワーと私が、探り合うような目つきを交わす。
「そんな契約せずとも、君に憑依できるとしたら?」
「無理ですね。悪魔は、許可が無いとテリトリーに入れない。これはあなたが言ったことです」
「どうして一体化なんだい? 入るだけじゃ駄目なのか?」
「理由は二つあります。一つは、人を生き返らせる代償として憑依では弱いかもしれないから。もう一つは、あなたが世界を味わえるようになるには、憑依ではなくちゃんと人間になる必要があるかもしれないから」
「ふぅん。僕のこと考えてくれたんだ。優しいねっ」
「思っても無いことを言わないで下さい」
ブロワーが愉快そうに口角を上げた。
「……おい待て、さっきから、なに言ってんだ……!」
アルモアが立ち上がり、魔法のステッキをこちらへ向けた。
「今すぐ離れろ! 分かってんのか? そいつは《死への衝動》の一部だ。一体化なんてしちまったら、一生、それが付き纏うんだぞ」
私は受け容れるようにゆっくりと頷いた。
「でも、これで契約違反から救えるかもしれない。あなたと地球の裏までいける」
「だけど……ッ!」
「地球の裏は──きっと日本より空気が綺麗で、星が降るような空が見られるでしょうね」
私の言葉を、アルモアは呆気に取られたように聞いていた。
「甘いものに夢中で、気が付かないかもしれませんが」
と、からかってみても反応がない。
──彼女は考えている。
「でもきっと、色んなしがらみから解放された後なので──思わなくなるでしょう。きっとそのくらい、素敵な景色が見れますよ」
「……あぁ、かもな……」
「そう考えたら、私と彼が一体化するのだって、悪くないとは思いませんか?」
アルモアは苦しげな顔を浮かべ、ステッキを下ろしてくれた。
私は空へ目をやった。《死への衝動》はもう既に腹まで出てきている。一刻の猶予も無い。
「世界はこのまま死んでいきます。どうする術もありません。……なら、最期まで彼女と共にいたいのです」
「僕がそれに乗ると?」ブロワーが試すように目を細める。「にっくき魔法少女を助けると?」
やはり、二つ返事で契約──とはいかないか。人間を嫌う本能が邪魔をするのだろうか。
「……あなたはこの世界を味わいたがっていました。《現世へ行きたい》という衝動そのものだから──ですよね? しかし世界をちゃんと味わうには、人間の目線で、人間として、楽しまなくてはいけない。そうとも話していました」
彼は矛盾した存在だ。
この世界を楽しみたいのに、《死への衝動》を連れてきて世界を終わらせようと思っている。
人間として世界を味わいたい衝動。
人間を嫌う悪魔の本能。
相克した二つの折衷案は──終末旅行。
そこに付け入る隙があると踏んで、私は交渉に挑んでいる。
「あぁ、その通り。僕はなんて悲しい存在なのだろう……」ブロワーが嘆くように手を額にやる。「……でも、こうも言ったよね。完全にこっちの世界へ来たら受肉できるって。だったら早まって君と一体化なんてする必要はない」
「受肉……。詳しくは分かりませんが、人間になれるということですか?」
「いいや。それに近い容れ物を作って、一体化するのさ。レイがやっていただろう?」
「その容れ物で、世界を完全に楽しめる保証がありますか?」
「……」
ブロワーが黙った。両腕をだらんと垂らして真顔になる。どうやら彼は、真剣になる程にどんなポーズも表情を取らなくなるのだろう。
「レイさんの過去話を聞いたとき、一つ違和感がありました。彼はチーズが好きなようですが……レモン風味のものを食べさせたとき、特に美味しいと言ったそうです。しかし本来、猫はレモンの匂いを嫌います」
飼い猫のマツを思い出す。私が知らずに食べさせようとしたのを、妹が慌てて止めたのを覚えている。だからこその知識であった。
「柑橘系の皮に多く含まれるソラレンやリモネンといった成分が毒だからです。……あなた方の言う受肉とは、その程度の再現度なのではないですか?」
ブロワーは演算を始めたコンピュータのようにじっと硬直した。
空へちらっと目をやる。《死への衝動》がもう膝まで出てきていた。
私の心に焦燥が泡立つ。
だが顔には出さないよう気を付けて、交渉を続けた。
ここが正念場だ。
一挙手一投足に、十坂と、世界と、私の運命がかかっている。
私は足元に転がった箱を拾い上げた。先ほど十坂のバッグから散らかされたものだ。
「……これは盛岡の光源社で買ったお土産、『くるみクッキー』です。私の身体を使えば、容れ物の再現度に怯えることはなく、絶対に本来の味を楽しむことができます」
ブロワーが箱にじっと釘付けになる。飢えた獣が肉を前にしたような反応だった。
あと少し。
私は高揚感を隠して畳みかけた。
「それに、同じ感覚を共有する私が証人となりましょう。それは、世界そのものであると」
「……分かった」ブロワーが口角を上げる。「いいよ、契約しよう。まったく君は口が上手いね。折角の終末旅行が人間同伴になるわけだけど……。他の人間は死ぬし、別にいっか!」
「ありがとうございます。十坂さんを助けることはできるのですね?」
「できるよ、多分」
「多分じゃ困ります」
「そうだねぇ……五分五分、かな。勿論、契約違反になって死んじゃうのは嫌だし、精一杯頑張るけどさ」
五分五分……。
契約を交わしても、半分の確立で彼女を救うことはできない。
だが他に方法はない。次の瞬間にも罰が下るかもしれないのだ。
「分かりました。それでもお願いします」
頭を下げると、ブロワーが一歩近づいてきた。
目を見開いた恐ろしい顔で見上げてくる。
「──僕と一体化して、本当にいいんだね?」
暗黒の気配が迫って背中を冷たい汗が伝う。彼は最後に、私の覚悟を試すように脅してきた。
私は一瞬だけ怯むも、すぐに頷いた。
「……はい」
アルモアを振り返る。彼女は両手を後ろにして、瓦礫の穴付近で立っていた。いつの間にか移動している。
緊張した表情を浮かべる彼女に微笑みかけた。
「もう、大丈夫ですから」
「おーけー。じゃ、早速……」
ブロワーが右手を伸ばして、軽く握った拳を私の胸へと当てた。
そして心臓のあたりをノックされる。
「こんこん。お兄ちゃん、入っていい?」
「あぁ。──いいぞ」
彼の指先が、亡き妹の指先が、音もなく私の胸のなかへと入り込んでくる──。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ブロワーは私と一体化すると、まずは大きく息を吸った。
そして思い切り咳き込んだ。当然である、ここには砂塵が舞っている。
「げほっ、げほっ、げほっ……! あー、ちゃんと苦しいなぁ!」
目尻に涙を浮かべながら、彼は楽しそうに笑っていた。
私の身体なので、私まで苦しい。はしゃぐ気持ちは分かるが止めて欲しかった。
「あんた、髪……」
アルモアが驚いた顔で指してくる。私は自分でも確認しようとスマホを取り出した。
「あ、ちょっと。勝手に動くなよ」
ブロワーが私の口で文句をつける。どうやら、肉体の支配権は半々なようだ。
──そうでなくては。
内カメラで自撮りするように、自分の顔を確認する。いつもの金髪センターパートではなく、腰まで伸びた黒髪ロングになっていた。顔つきもなんだか中性的に寄っていて、ぱっと見では男かどうか分からない。
もしかすると、夏香の姿と混ざり合ったのかもしれない。
なんて不気味で趣味の悪い……。
「ほら、ほら。自分の顔なんていいでしょ。早くあれを食べさせてよっ!」
ブロワーがぽいっとスマホを投げさせる。そして、足元に置いていたくるみクッキーの箱を拾い上げた。
勿論、私の意思ではない。ブロワーが勝手にやっている。身体中に糸が張られてマリオネットのように動かされているような、窮屈な感覚だった。
プレゼントを貰った子供の様に、がむしゃらに包装紙を破って中身を取り出す。
「わぁ……!」
長方形のクッキーをいざ目の前にして、彼の興奮が私の心臓を鳴らす。
互いの感情は共有されるみたいだ。だが、考えていることまでは分からないのだろう。
こちらの作戦はバレていないのだから。
そして彼は、手の平に置いたクッキーを貪るように食べていく。私の体で行儀の悪いことをされるのは我慢ならないが、今は黙っていることにする。
ブロワーは一瞬で食いつくし、手の平や口の周りまで名残惜しそうに舐め取った。
そして一筋、涙を流した。
初めての味。
待ち望んだ甘味。
舌が歓喜し鼻が躍る──至福の感覚。
「なんて……。なんて……美味しいんだ……!」
彼の感動が伝わってきて、私はひどく同情した。人間として生まれ、当たり前に享受していた様々な感覚を、彼はずっと天上から指を咥えて見ていたのだ。その飢えがようやく満たされた。幸福感が、心を満たしていく。
「感謝するよ、五宮亨生。君のおかげで、やっとお菓子を食べることができた」
「どういたしまして」
「契約通り、魔法少女のことは助けてあげる。……さて、契約違反の罰が下るならそろそろじゃないかな? 彼女はどこに──」
と、ブロワーが私の頭を勝手に動かして周囲を見回した。
「……あれ……?」
アルモアがいないことにようやく気が付いたようだ。蹲っていた壁際にも、その後移動した穴付近にも、見当たらない。
「どこに消えた……?」
ブロワーがじんわりと焦り出すのが分かった。助ける前に彼女が死んでしまったら、契約が果たせず死んでしまうからだろう。
髪について指摘したのはファインプレイだった。おかげで、自然な流れでスマホを見ることが出来た。私の──ブロワーの視点を、少しの間スマホへ固定することができた。
その後は、実はこっそりと穴から目を逸らしていた。
何故なら。
アルモアがそこから飛び立ち、準備をこっそりと済ませるまで、ブロワーが気が付かないようにするため──。
「──〈示せ衝〉ッ!!」
アルモアの叫び声が空に響く。
ブロワーが、ハッとして宙を見上げる。空を舞う魔法少女が、足首まで出かかっていた死の悪魔へと、再度魔法を打ち込んでいた。
「〈示せ衝〉ッ!! 〈示せ衝〉ッ!! 〈示せ衝〉ッ!!」
魔法でインパクトを発生させ、繰り返し下から突き上げる。その巨躯を額縁のなかへ、再び強引に押し込んでいく。
「……何を……してるんだ? そんなことしても意味無いのに……」
《死への衝動》の下半身が戻されたくらいで、アルモアがこちらを向いた。
その双眸からはもう、絶望の色が抜けていた。
魔法少女らしく爛と輝きに満ちている
ブロワーは私の顔を使って怪訝に眉をひそめた。その表情を見て、アルモアは得意気に笑うと、右手をくいっと上に向けた。
瞬間──光に包まれた。
「……っ!」
全方位から強い光量を浴びせられ、ブロワーは咄嗟に顔を隠した。
目を薄めながら、そっと状況を確認する。
「……なんだ、これ……っ!?」
彼は驚愕と共に周囲を見回した。
三百六十度──。展望階を覆い隠すように、ガラスの向こうで光り輝く線が浮かんでいた。
五芒星である。
巨大な五芒星がタワーの直径を丸々包み込み、私とブロワーを屋外から囲んでいるのだ。
「こんなもの……っ、いつの間に……!」
「あなたが初めての世界に夢中になっている最中です」
ブロワーと私の言葉が口から交互に発される。
サインは無事に伝わったようだ。
ブロワーへ契約を持ちかけたとき、アルモアが「おい待て」と言ってこちらへステッキを向けた。
このとき、私は彼女へこう言った。
──星が降るような空が見られるでしょうね。
星が降る、特徴的なその言葉は、一日目の新幹線でアルモアが言っていた。
事前に描いておいた五芒星を落とすタイミングで。
──甘いものに夢中で、気が付かないかもしれませんが
これは十坂ではなくブロワーについて言ったのだ。
──でもきっと、色んなしがらみから解放された後なので
五芒星で囲うことで、本体との接続を断つということ。
──日本へ戻りたいなんて思わなくなるでしょう。
ブロワーとの繋がりを絶たれた本体が、《現世へ行きたい》とは思わなくなるだろう──ということ。
ブロワーに勘づかれないためには一気に囲む必要がある。だから彼女は、展望階の下で建物ごと包む五芒星をこっそりと用意した。
直接飛んで引く必要が無いことは分かっていた。先ほど逆五芒星を引く際も、彼女自身は動かず、ステッキから伸びて勝手に描かれていた。変身によって魔法が強化されているからだろう。
私はその時間を稼ぐため、盛岡で買ったお土産を使った。案の定、ブロワーは釣られて夢中になった。なにせ二十六年も我慢していたのだ。彼が間抜けだったわけではない。
そして《死への衝動》をもう一度門の向こうへと押し返すタイミングで──階下に隠しておいた五芒星を上昇させ、一気に囲んだ。
星が、昇った。
「ぐ……っ、あぁ……!」
ブロワーが苦しみ始める、床に倒れ込み、ばさりと長髪が広がった。
《死への衝動》との接続が切れ、魔力の共有が突然ストップしたのだ。その影響が出ているのだろう。
彼は私の指で瓦礫へ爪を立てる。そして、憎々しげな声を絞り出した。
「……君……! 悪魔を騙したなっ……!?」
彼が初めて見せた激情に、私は恐ろしさと痛快さを同時に覚えた。きっと、この気持ちも彼に伝わってしまっているだろう。
「──衝動たる悪魔がいなくなれば、その行動をしなくなる。あなたが教えてくれたんですよ、ブロワーさん」
これは、《生への欲望》が契約に乗らなかったことから組み立てた作戦であった。
私のなかへ彼を閉じ込め、五芒星で囲ってしまえば、《死への衝動》は──もう出てこない。
「まさか君が……、委員長なんて呼ばれていた君が……! こんな卑怯な手を思いつくなんてね……っ!」
はっ、と私は十坂の真似をして笑った。
「いいことをしたけりゃ、まず悪いことを知っておけってな。──魔法少女に習わなかったか?」
黒髪が徐々に消えていく。
ブロワーの力が弱まり、元の髪型へ戻ろうとしているのだろう。
「く……っ!」
焦ったブロワーが、穴を目掛けて走り出す。外へ飛び出して五芒星から逃げようというのか。
私は反対にその場で踏ん張った。身体がバランスを崩し、その場に転がる。
ブロワーと肉体の支配権を奪い合う。自分自身とその壮絶な格闘が始まった。彼は這いつくばってでも外へ出ようとする。そうはさせまいと、私は必死に抵抗して動きを封じた。
「止まってください、ブロワー! いいじゃないですか! これで、世界をずっと味わるのに!」
「嫌だ……っ! 人が……っ、人がこんなにいる世界なんて……! それに、それに──」
ブロワーは震える腕を伸ばして、宙に浮かぶアルモアを見た。
そして、悪魔にしては無邪気な言葉を──悔しそうに吐き出した。
「……あいつに、負けるなんて……っ!!」
「〈示せ衝〉ッ!!」
必殺技が放たれた。
不可視の力が《死への衝動》へとぶつかる。空気がひび割れるような衝撃が走る。
黒い巨躯が、大きな風で舞い上げられるように持ち上げられた。
そして、頭部、両腕、両手、と逆再生するように額縁のなかへ戻っていき──。
最後に指先が残った。
アルモアが、片手で「えいっ」と押し込んだ。
──こうして《死への衝動》は再度元の世界へと消えた。
一度目よりもすんなりと済んだのは、ブロワーとの接続が消えたためだろう。もう、こちら側へ来ようとは思っていなかったのだ。
門を閉じることはできなかった。
しかし来ようとする衝動を取り除くことができた。ならば問題無いだろう。悪魔は人間が嫌いなのだから、今回のような事態は滅多にない……と、願いたい。
「……髪、戻ってるきゅる」
アルモアがひらりと飛んできて、目の前に着地した。
私は自身の頭を触る。あの長髪は無くなり、元の金髪になっていた。恐らくブロワーの力が弱まったせいだろう。《死への衝動》が消えてから彼の声はしておらず、身体を動かされる感覚も無い。
だが確かに内側にいる。体内に冷たい気配がある。
「そっちの方が似合うきゅる」
「それは良かったです」
アルモアと笑顔を交わす。
作戦が上手く行き、強い連帯感と喜びが心に満ちた。
この旅があったからこそ、成すことのできた作戦である。無駄なんかではないと証明できたことだろう。
二人で空を見上げると、視線の先で額縁の色が薄くなっていった。静かに空間へ溶けていく。それは視えなくなっただけで、門は開いたままだ。悪魔の世界とこちらの世界は、二十六年前以降と同じく繋がっている。
それはつまり、ブロワーの扱いには十分注意が必要ということで──。
「……もしかして私、一生五芒星のなかから出られないのでは……?」
「大丈夫。ブロワーには〈王冠〉が無いきゅ──」
アルモアの身体がぐらりと傾いてその場に崩れ落ちた。
展望階を囲んでいた線が、パッと霧散する。煌々たる光の後には、再び暗黒の空が広がった。
「十坂さん!」
私は咄嗟に駆け寄るも、どうしていいのか分からず両手を彷徨わせてしまう。
「ぐっ……、あぁ……!」
アルモアは床でのたうち回っていた。体内で蛇が暴れているかのように、苦悶の表情で身体を捩らせたり胸や腰を突き上げたりしている。
今さらか。それとも、示し合わせたのか。
始まってしまった。
契約違反による、生命没収の罰が──!
痒くてたまらないのか、彼女は自身の衣装へあちこち爪を立て、毟り取るように引っ掻いた。その傷から、赤い羽毛がぶわっと溢れだしてくる。そうして更に激しく呻吟するので、周囲へ羽毛が撒き散らされていく。
血に染まる雪へ埋もれていくような光景だった。
「ぐぁ……っ、……ぁぁあああ!」
アルモアが仰け反り、絶叫する。彼女の顔や脚といった肌にも、ざわざわと羽が生えていく。
苦痛に見開かれた両眼を見れば、瞳孔が横長に伸びていた。それは、羊によく似ていた。
「──ブロワー!! どこにいるのですか? 出てきて下さい!」
私が叫ぶと、視界の端で白いワンピースがふわりと踊った。
ブロワーがすぐ隣に現れた。屈みこんで十坂を見下ろしている。相変わらず夏香の顔を借りており、ぶすっと不貞腐れた表情をしていた。
「ちぇっ。人間を沢山殺せるかと思ったのに……」
「ブロワーさん。契約の内容は覚えていますね? 十坂さんを助けて下さい」
「騙したくせによく言うよね」
「騙してなんかいません。ちゃんとこうして一体化したじゃないですか。これから私の身体を使って、クッキーでもチーズでも好きなだけ食べられるんですよ」
「……はいはい。分かった分かった。やりますよー」
ブロワーは面倒臭そうに溜息をつくと、左手をさっと上げた。合わせて、私の左手も動かされる。さっきまでとは違い、いつでも抵抗できそうなほど弱い支配だった。
勿論逆らう必要は無いので、彼の操作に身を委ねる。
ブロワーは左手をアルモアの額へ押し付けた。すると、私の左手は彼女の左胸に押し当てられる。心臓の位置だ。
暴れる彼女を二人で抑えた状態となる。
「いいかい? 僕に出来るのは手を伸ばすことだけ。もう一度言うけど可能性は五分五分だ。何故なら、この世に戻ってくるかどうかは──」
視界がブラックアウトしていく。アルモアに触れている箇所へ意識が引っ張られていく。
彼女を内側へ──自我が、心が、吸い込まれていく。
「こいつ次第だから」
*
────蝉の絶叫が耳元まで迫っていた。
頬をくすぐる草の感覚。蒸したような青臭い匂い。吸い込まれそうな青空と、突き刺すような白い太陽。
身体を起こして周囲を確認する。鬱蒼とした木々に囲まれていた。どうやら天国でも地獄でもない。ここはどこかの森のなかだろうか。
足元に目をやる。私は廃線の上にいた。二本の錆びた鉄棒がひどく熱されて照っている。枕木は長い年月の果て、緑に蝕まれていた。
十メートルほど先に十坂が立っていた。
彼女は私に気が付かないまま、線路の先を目指して駆けていく。
「ま、待って下さい!」
私は慌てて立ち上がると、彼女の背中を追いかけた。
走りながら、これは彼女の原風景なのだと理解していく。十坂が話していた内容と合致する。幼い彼女は、ここで先代の魔法少女が死んでいるのを見つけ、敵から逃れるためにレイと契約した。そう話していた。
彼女の運命が始まった場所である。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
ようやく十坂が立ち止まり、私は追いつけた。
目の前には大きなトンネルが口を開けていた。どれだけ目を凝らそうとも向こう側は視えない。陰っているというよりは、質量のある闇がみっちりと充満しているようだった。
トンネルの前には血溜まり。その中央に、アルモアの死体が横たわってる。
「アルモア……」
私が呟くと、その死体はゆっくりと立ち上がった。鮮血で染まった衣装を重たそうにしながら、十坂の元へ歩み寄る。ツインテールもぐっしょりと濡れそぼり、背中に張り付いていた。
ぱしゃ、ぱしゃ、と厚底のブーツで血を跳ねさせる。
恐ろしい光景だったが、何故だか恐怖を感じない。十坂も同じなのか、近づいてくる魔法少女をただじっと待っていた。
アルモアは十坂の前に立つと、大人びた微笑みを浮かべた。
「……よく、頑張りましたね」
聞いたことのない女性の声で十坂を褒めた。労うように十坂の腰を叩く。
「あ、どうも……」
十坂は何だか照れ臭そうにしながら、ぺこぺこと頭を下げていた。
アルモアが振り返り、トンネルの奥を指す。
「会っておいで」
「え……?」
「彼岸より君が呼び寄せたんだ。多分、《生への欲望》へ何度も叫んだのが効いたんだろう」
十坂は首を捻りながら、言われるがままにトンネルのなかへと進んだ。
彼女の後ろ姿が、水中へ潜っていく様に闇へかすんでいく。
私は胸騒ぎがして駆け寄ったが、透明な壁に阻まれてトンネルのなかへは入れなかった。
「十坂さん! そっちへ行っては駄目です!」
そう呼び掛けたとき、彼女は息を呑んで立ち止まった。
身に余る驚愕でわなわなと全身を震わせている。
何か、とんでもないものを見つけようだ。私は気になって、彼女の視線の先を覗き込んだ。
──そこにいたのは。
「……久しぶりだな。十坂殿」
王冠を被った小さな猫だった。腕を組んで地面に座っている。
「あ、あぁ……っ!」十坂の顔がみるみる輝いていく。「マジかよ……!
……レイ……ッ!!」
十坂は歓喜の声と共に、すぐさま飛びついた。
「うわぁっ!?」
彼女の大きな体が迫ってきてレイが悲鳴を上げる。十坂はお構いなしにぐわっと両手で抱き上げると、頬へ押し付けて強く抱擁した。
「レイっ、レイ! れいぃぃ……っ!! ま、また会えるなんて……!!」
「つ、潰れる……! また死んでしまうぞ……っ! ぐぬぅーーーっ!」
十坂は満面の笑みでレイの全身へ頬ずりを繰り返す。足元も弾み、くるくるとその場で回転していた。大はしゃぎである。その反応から、彼女がどれだけレイのことが大好きであるのか伝わってくる。
レイは顔をしかめながらも、満更でもなさそうにそれを受け容れていた。
「ぬぅ……。まったく、わんぱくすぎるぞ」
レイは想像よりも渋い声で、やれやれと首を振った。
十坂はその振る舞いを見て、我に返ったように顔を離した。両手に乗せたレイを呆然とした表情でじっと見つめる。
やがて──その顔がくしゃりと歪んだ。
「……レイ……ッ」
彼女の双眸から大粒の涙が溢れだした。
「……ごめん……! ごめん、なさい……っ、ごめんなさい……っ! ……あたしは、あなたを守れなかった……っ!! あなたに、ひどいことを言った……!」
十坂が子供のように泣きじゃくり始める。両手をレイの足場としているため、顔を拭うことができない。感情の昂るままに、熱い雫が頬を伝い、ぼろぼろと足元へ落ちていった。
「本当にごめん……っ!! あたしはっ、あなたに……何度も助けてもらったのに……! その恩返しも、出来てないのに……!! あなたを守れなかったんだぁ……っ!」
嗚咽交じりに彼女が懺悔する。
レイが死んだあの日から、彼女を苛み続けた罪悪感。後悔。自責。その肩に圧し掛かっていたものすべて。
親しい人を作れない彼女は、誰かに話すことなぞできなかったのだろう。こうしてありのままに吐き出すことなんて、一切できなかったのだろう。
分かってくれるのは──レイだけ。
そのレイに、やっと、やっと──再会できた。
「代わりに、あたしが死ねばよかったのにぃ……ッ!!」
十坂の叫びをレイは黙って聞いていた。彼は逐一頷きながら、その小さな体に宿した広い心で、彼女の懺悔を受け止めた。
そして落ち着き始めたのを見計らい、
「……また、顔に近付けてくれぬか」
と頼んだ。
十坂が言われた通りにすると、レイは前脚を伸ばして彼女の鼻先をそっと撫でた。
「──君は偉い」
よしよし──と。
レイは優しい声色で、十坂の全てを受け止めた。
彼女は驚いたように目を見開いた。そして涙で濡れたままの顔を、無理に持ち上げるようにして笑顔を作る。
彼の優しさへ応えたい。
そんな必死な思いを感じた。
「……あたし、学校ちゃんと行ってるよ……」
レイは穏やかに目を細め、短く頷いた。
「そうか。偉いな……」
「これからちゃんと、友達も作るよ……」
「頑張るのだぞ。我はいつでも応援している」
「……あたし、あたし……!」
十坂は一度、言葉を探すように口を閉じた。いま、彼に伝えなくてはならないことはなにか。もう二度と言うことの出来ないことはなにか。そういった決断を迫られているのだ。
彼女は、あのとき彼に言えなかったことを、叫んだ。
「あたし、──レイと契約できてよかった! あの日、あの場所にいて良かった! もし時間が巻き戻っても、あたしは絶対レイの元へ行く! レイを助けに行く! レイのために、魔法少女になるから!!」
「……っ」
レイは感極まったように息を吸い込んだ。
「……そうか。それを聞けて、我は嬉しい……」
瞬きをして、ぽつりと涙を溢した。
もう一度、十坂の鼻先を撫でる。
そして、ぴょんと地面に飛び降りた。
「待って!」
十坂が慌てて手を伸ばす。
レイは振り返り、名残惜しそうに口を噛んでいた。
「……そろそろ時間だ。我はもう行く」
「嫌だ! あ、あたしも……! あたしもこのまま、レイと一緒に行く!」
「駄目だ。君は戻るべきだ。……今は、君を待つ者がいるだろう」
十坂がハッとして私を振り返る。ようやく、私がここにいることを認識したようだった。
葛藤を眉間に刻んで、私と、レイを、交互に見ている。
「戻ってきて下さい」私はトンネルの外で手を差し出した。それが私の役目であった。「十坂さん。私は、あなたに生きていて欲しい」
レイはゆっくりと首肯した。
「我もだ、十坂殿」
十坂は強く目を瞑り、その場で俯いた。握った両手が震えている。
何かを飲み込もうとするみたいに、大きく深呼吸をした。
「……分かったよ。あたしは戻る」
彼女は歯を食いしばり、再び涙を零し始めた。最後は笑って終わりたいのだろう。だが嗚咽を抑えようとしても、肩が小刻みに震えて止まらない。
「……レイにもう一度だけ会えて良かった。ここまで来て良かった」
「我も、十坂殿の顔を見れて嬉しかったぞ」レイが微笑む。「……さらばだ」
「うん。……さよなら」
レイがトンネルの奥へと歩いていく。
途中、何度か立ち止まって十坂を振り返った。
その度に十坂はしゃくりあげながら、一生懸命に手を振っていた。
「さよなら! さよなら! さよなら……!」
今度こそ、ちゃんとお別れをするために。
彼の後ろ姿を目に焼き付けながら、最後までじっと見送った。
そして、とうとうレイが最奥の暗闇へと消えたとき──。
「……。…………帰るか」
十坂はさっぱりと泣き腫らした顔で振り返った。
一歩、一歩、と出口へと歩いてくる。その足取りは、徐々に力強いものへと変わっていく。
そして、もう一度差し出した私の手を──掴んだ。
*
こうして十坂は生還した。
彼女が目覚めた後、私たちはすぐにその場から離れることにした。魔力が回復していたので〈示せ幻〉で透明になり、急いでホテルへと戻った。
そして午後三時頃には東北新幹線に乗った。
四時間ちょっと一眠りすれば、もう東京駅に戻っていた。
【エピローグ】
【エピローグ】
九月一日。夏休みが終わり、今日から新学期が始まった。
十坂とはあの日以来会っていない。というか会う手段が無かった。互いにラインすら知らなければ家の場所も知らないのだ。
お盆が過ぎた後も、私はあの三日間の旅へ繰り返し思いを馳せた。彼女と交わした無数の会話や、殴り飛ばしたデペイズマンの感触。盛岡で食べたパンの味や、五稜郭タワーから見下ろした函館の雪景色……。
たった三日。されど三日。短くて色濃い冒険は、何度も心を楽しませた。
「……結局教えてくれなかったね」
始業式から教室へと戻る最中、隣で歩く小泉が恨みがましい眼を向けてきた。
「同じアルモアオタクだと思っていたのに……。本当に、知り合いじゃないのね?」
「旅行中に偶然出会っただけです」
「旅行ねぇ」斎藤がニヤニヤとからかうような笑みを浮かべる。「俺はそっちの方が詳しく教えて欲しいけどな。一体なにがどうなって、あの不良娘といいんちょーがハネムーンしたんだが」
「どうかご内密にお願いします」
「分かってるよ。もし十坂泉凛と二人で旅行したなんてバレたら……クラス中の男がお前を妬むな」
私は苦笑しながら礼を述べた。
……お盆の最終日、斎藤と小泉と私の三人で遊んだ。平和島の屋内アスレチック施設でトランポリンやロッククライミングなどをした。
当然のように色々なことを訊かれた。何故十坂と旅行をしていたのか。どうしてアルモアと共闘していたのか。
だが私は黙秘を貫いた。彼女のためである。魔法少女の正体は勿論、私との関係性も知られたくないだろう。
二人とも、私がなにかを隠していることは何となく察しているようだった。しかし無理な詮索はしてこなかった。いい友人を持ったものである。
「……あ。あれ」
小泉が窓の外で何かを見かけた。
横から覗き込むと、階下にある駐輪場で男子生徒が倒れていた。自転車のドミノに潰され、足首がタイヤに巻き込まれてしまっている。
遅刻してきて、慌てたのだろうか。
──隣人を助けること。
私の脳内にモットーが閃き、考えるよりも先に身体が動いた。
小泉を押しのけて、窓枠を掴む。
「あ、おい──」
驚いて止めようとする斎藤の声を聞きながら、私はぐっと身体を乗り出した。
そして、
「……──大丈夫ですかー!」
大声で呼び掛ける。
男子生徒はハッと上を向き、恥ずかしそうに首を振った。足首を捻ったか、絡まってしまったのか、一人では起き上がれないようである。始業式直後ということもあり、周囲に人もいないのだろう。
「では、今そっちに行きますねー! 少々お待ちくださいー!」
私は身体を引っ込めて、窓枠を手離した。
すると斎藤がぽかんとこちらを見ていた。
「……また飛び降りるんじゃないかとヒヤヒヤしたわ」
「もうしませんよ」
安心させるように斎藤の肩を叩いてから、駐輪場目指して廊下を小走りで駆けていった。
保健室から教室に戻ってくると、ちょうど休み時間が終わるところだった。しかし担任が来ないので、クラスメイト達は好きに立ち歩いて雑談に耽っていた。
今しかない、と思い立って私は横山の元に向かった。
「横山さん」
「お。いいんちょーじゃん。補習、マジで助かったわ」
「……ちょっといいですか?」
と、廊下へ手招く。彼は怪訝な顔をしながらも、お喋りグループから抜けて着いてきた。
「妹さんの様子はどうですか?」
「あー……そういうこと?」彼は合点がいったのか、安堵したように息をついた。「全然大丈夫だ。気を使ってもらって悪ぃな」
「いえいえ。……ところで、横山さんって隣のクラスの飯田さんとお付き合いをされているそうですね? 斎藤さんよりお聞きしました」
「そうだけど。それが?」
「飯田さんから、横山さんが私との通話の後に何をしていたのかお聞きしました」
「え──」
横山の顔が固まる。
私は口を閉じたまま、じぃっと彼の眼を見つめた。何かを探るように、腹に隠したものを引き出すように、真顔で沈黙を演出してみる。
すると横山は、耐え切れずにふっと目を逸らした。
「……くそっ」
追い詰められて舌を打った。それは自白したのも同義の行為である。
「……嘘を、吐いたんですね?」
「いやまぁ、ちょっと思いついただけっていうか……」横山が歯切れ悪く言い訳を述べる。「つーか。あいつも言うなよ、そんなこと……」
「言ってませんよ」
「え?」
「飯田さんは、何も言っていません。私は顔も知りません」
「……」
横山が啞然とする。
──十坂に習った通り、かまをかけてみたのだ。本当にお見舞いに行っていればそう言うだろうし、やましいことがあればバレたと思い白状する。
上手くいって何よりだ。
……否。本当に嘘だったのでがっかりである。
「あのいいんちょーが、嘘を……?」
「嘘をついたのはあなたです」
私の毅然とした態度に、彼は少したじろいた。
「べ、別にいーだろ。お前、人助け好きじゃん」
「これは人助けになりません」
「……はぁ、そう。ま、悪かった悪かった」
彼は手をひらひらさせながら、そそくさと教室へ戻ろうとした。
軽い話題のように扱えば、自分の罪も大したことじゃなくなる。そんな卑怯さが垣間見えた。
「待って下さい。話は終わっていませんよ」
私は苛立ち、彼の腕を掴んだ。
すると横山の眼の色が変わった。
「……は? なに、この手。離してくんない?」
私の手を強引に振り払い、横山は面倒臭そうに溜息をついた。
「あのさ、お前のそういう感じ結構だるいよ。こんなことでマジになんなよ」
彼の突き放した言い方には、もう仲良くする気はないという意思を感じた。
人を騙し、それがバレてしまった。その罪悪感や羞恥から目を背けるために事態の矮小化を狙い、そうはさせない私の人格を攻撃してくる。
こんなにひどい人だとは思わなかった。
……なんて。
なんて──助けがいのある人なのだろう。
「もう行っていいよな? ていうかこんなん、騙される方が悪ぃからな? そんなんでキレてんじゃねぇ──」
──と。
横山の眼がみるみる見開いていく。
「……っ!?」
私を見つめる顔が、なにか恐ろしいものを見たように引き攣った。
「う、うわ……っ」
彼はその場でよろめいて尻餅をついた。茂みから自分を狙う蛇を見つけたかのような反応だった。
「……大丈夫ですか?」
手を差し伸べると、彼はハッとしてそれを弾いた。額には汗も浮かんでいる。
私は困ったような顔をしてから、子供を叱るみたいに言った。
「……ごほん。騙されたことには、別にキレていません。私は──機会損失に怒っているのです」
「は? き、機会……?」
横山の目が点になる。
「補習をサボったことで、隣人(あなた)の勉強する機会が一つ失われました。これは嘆かわしいことです。ですから、今日の放課後は教室に残って下さい。僕が数学を見てあげます」
そう、これこそが正しい人助けである。
「え、いや、そんなん行くわけな──」
と言いかけた横山が、再度恐怖の色を顔に浮かべた。
また、私の眼の奥になにかを見たようだ。
そして。
「──いやっ、行く! い、行くから! ……それでいいだろ?」
「えぇ。来てくれたら、サボりの件も黙っていてあげます」
横山は慌てた素振りで、ばたばたと教室へ逃げていった。
彼がいなくなってしばらくしてから、私は長い溜息をついた。
「…………何かしましたね?」
無人の廊下でぽつりと呟いた。当然、誰も聞いている者はいない。
ただ一人を除いて。
「──ばぁっ!」
突如、顔の前に夏香が降ってきた。ひっくり返ったポーズで、前髪のめくり上がった額が丸っと露出している。
「……ブロワーさん。流石にもう驚きませんよ。この半月で一体何度やられたと思っているのですか」
「えぇ~、つまんないなぁ。びっくりして何もない道で急に叫ぶのとか、阿呆らしくて面白かったのに」
ぐるんと重力通りの体勢となって、ブロワーが廊下に立つ。捲くれ上がった白いワンピースを整えていた。
あの契約で彼と一体化した私は、こうして幻覚を視ながら日々を送っていた。たまに肉体の支配権を渡しては、甘いものを食べさせてやっている。
だが支配権を渡すほど、私の風貌に夏香が混ざって中性的になっていくので──用心が必要だった。
「学校では余計なことをするなと言ったはずです」
「ちょっと睨んで脅かしただけだよ。だって、あいつムカつくじゃん。人間は本当に不快だねー」
「もう二度とやらないように!」
「はいはい。……じゃー、今日の昼飯んときは身体変わってよ? 今日は何を食べよっかなぁー!」
ブロワーは目をキラキラとさせながら、ご飯を夢想して舌なめずりをした。
そんな様子に、今でもたまに夏香本人と見紛う事がある。その頭を撫でようと手が伸びてしまうときがある。
ブロワーと一生を共にするということは、妹が傍に居続けるということだ。ならば、希死念慮を本当に克服できる日など来ないのかもしれない。
──でも、それでいい。
今ではそう思う。
ホームルームが終わった直後くらいに、がらりと扉が開いた。
十坂がいつもの重役出勤をしてきたのだ。教室がさざめき、呆れた声や流石だと褒める声などが聞こえてくる。
担任にあれこれ注意されながら、彼女はむすっとした表情でこちらへ近づいて来る。誰とも目を合わせないように少しだけ俯いて、氷の彫刻みたいに表情を変えない。
「……おはようございます。十坂さん」
私はいつも通りに挨拶をした。
だが彼女もいつも通り無視をして、目もくれずに自分の席に座った。
私は裏切られたような気分に包まれ、がっくりと肩を落とした。
……元に戻ってしまったのだろうか。
彼女にとってあの三日間は、過ぎて見ればどうってことのない経験だったのだろうか。
そんな風に気分を沈ませると、隣からぶつぶつと小さな声が聞こえてきた。
「……まずは目線を合わせる。目線を合わせる……。声はゆっくりと聞こえやすく……聞こえやすく……」
十坂が指折り数えながら、いつか私の教えたことを確認していた。
「笑顔も忘れずに……。笑顔も忘れずに……。そして、挨拶……挨拶……」
私は子供か。
と言いたくなるのをぐっと堪えて、私は何も聞こえていないふりをする。笑いを噛み殺すのが非常に大変であった。
「……──お、おいっ」
ようやく十坂に呼ばれて、私は出来るだけ自然に振り向いた。
午前の青空を背景に、十坂の背筋が伸びている。その横顔はやはり美しい。彼女は頬を赤らめて、ウルフカットの襟足をしきりに撫でながら、緊張した面持ちでこう言った。
「…………お、おはよう…………っ」
私は微笑んで「おはようございます」と言った。
終
アルモア11-12