アルモア4-6

【第四話】

【第四話】


 八月十一日の朝六時。
 カーテンを開けると朝日が差し込んだ。
 たちまち十坂が飛び起きる。
「──はぁ! はぁ、はぁ、はぁ、……」
 汗をびっしょりと掻いて、警戒するように周囲へ目線を走らせている。
「十坂さん、おは──」
 話しかけると、彼女は驚いて飛び退いた。
「──よう、ございます……? どうしたんですか」
「あぁ……。そっか、あんたか……。……レイ、おはよう」
 十坂は心ここにあらずといった感じで、レイ(のいるであろう枕元)を指で撫でた。
 なにか悪夢でも見たのだろうか。
 十坂は買っておいたコーラをがぶっと飲んでから、また布団を被って横になった。
「あ、こら! 起きなさーい!」
「うっさい。寝かせろ……」
「二度寝すると体内のサイクルが乱れるんですよ! ほら起きて起きて!」
「うわぁーっ! いやだぁー!」
 一日の始まりは、駄々を捏ねる彼女を無理矢理起こすところからだった。
 そうして数分間格闘した後、疲れた顔の私たちは並んで歯を磨いていた。まったく、朝から騒がしいものである。
 狭い窓から盛岡の朝をぼうっと眺める。お互い念入りに磨くタイプのようだった。
「悪い夢でも見ました?」
「……まーな。寝つき悪ぃんだよ。不安だし、ヤなことばっか思い出すし」
 彼女は目をじっと細めて、頭を重たそうに左右へ振った。こき、こき、と首の関節が鳴る。
 睡眠を取りたがらないのはそれが原因なのだろうか。
 生活リズムを整えるだけではなくもっと根本的なものを解決しなくては、彼女を安眠させることはできないのかもしれない。
『それでは、今日の天気予報をお伝えします』
 机に置かれた手頃なサイズのテレビから、女性アナウンサーの声が聞こえる。
 二人で振り返り、五稜郭が映るのを待った。
「……出てきてんなー……」
 一瞬だけ映った空には、やはり巨大な額縁が浮かんでいた。
 その縁を、内部から伸びた黒い手が掴んでいる。今にも身を乗り出すかのように。
 少しずつ……出て来ようとしている。
 デペイズマンの〝本体(ボディ)〟が。
「もう手とか視えてますけど……大丈夫なんですか? あと二日と言わず、もっと早く駆けつけて叩いた方が確実だったりしません?」
「それは無理だな。あれはただ視えてるだけで、こっちからはまだ干渉できねぇ。顕現したその瞬間しか攻撃が通らん」
「なるほど。なら、まだ猶予がありますね」
「そ。だから今日も、」十坂が肩を組んで、ずっしりと体重をかけてくる。「だらだら行くぜ」

 十坂の宣言通り、今日は盛岡でだらだらと時間を潰すことになった。〝本体〟との最終決戦前だというのに呑気である。
 お盆前ということもあって、盛岡駅周辺は観光客らしき人々が多く行き交っていた。
「……クソあちぃな」
「……暑いですね」
 突き刺すような日差しに音を上げて、まずは日傘を二つ買った。これは命を守る行動である。
干したばかりの制服が早くも汗ばんでいく。
 スマホで軽く調べてみると、盛岡の観光名所がいくつか出てきた。ひとまずは、盛岡駅から北上川を越えたところにある材木町を散歩することにした。
 橋を渡って交差点を左に曲がると、すぐに材木町のメインストリートだった。歩き始めてすぐ、右手に石像の後ろ姿が視えた。
「おおっ! 宮沢賢治じゃん!」
 十坂が顔を輝かせて駆け寄っていく。足を組んで一休みしている宮沢賢治の像を、あらゆる方向からしげしげと眺めていた。
「すげぇー。なんでここに賢治がいんだ?」
 私も気になって、スマホで調べてみた。
「どうやら、『注文の多い料理店』を発刊した出版社が材木町にあるようですね」
「マジか! 勘で盛岡にしたけど、超ラッキーじゃん!」
 盛岡で一泊したのに特別な意味は無かったらしい。
 少し進むと、今度は左手に白くて大きな建物が現われた。赤い茶碗のようなマークと共に、『光源社』と書かれている。ここが件の出版社らしい。
「なぁ入ろうぜ!」
 飛びついた十坂の後ろ姿に、ぶんぶん振り回す尻尾が視える。彼女のはしゃぐ様子を眺めながら、私も店内へと進んだ。
 敷地内はいくつかの店舗に分かれていた。漆器やガラス製品といった民芸品などを扱う本店をはじめ、雑貨店、資料館、そして喫茶店があった。
 十坂は『マヂエル館』という名を持つ資料館でひときわテンションを上げており、注文の多い料理店の資料や宮沢賢治の直筆原稿などに目を奪われていた。
 中庭を歩くと、オブジェや外壁の洒落たデザインが目を楽しませる。塀には宮沢賢治の短歌が筆文字で書かれていた。
 私は足の向くままに、小さな雑貨店『カムパネラ』へと入った。
 しばし商品を眺めていると、後から十坂がやってきた。
「いやぁ一通り見て来たわ。堪能しちまったぜ」
「十坂さんが宮沢賢治ファンだったとは意外でした。……本、好きなんですか?」
「あぁ。昔の本を読むのって、金かかんねぇからな。図書館とか青空文庫とか……」十坂が髪留めを拾って眺める。「……あたしは特に、文学っぽいのが好きだ。芥川賞候補になったやつは、ブームが過ぎたくらいに借りて大体読んでる」
 彼女は「あっ」となにかを思い出して、肩にかけていたエナメルバッグをごそごそと漁り出した。
「あまり本を読んでいるイメージが無かったです。教室ではいつも、スマホを弄るか寝てるかしてますよね」
「あー、確かに。学校じゃそんな読まねぇかな。図書室はよく行ってんだけど」
 どこか感心したような気分で彼女を見つめる。ウルフカットの髪型ややさぐれた態度からはいかにも読書なんて嫌いそうな不良娘の印象を受けるが、人を見た目で判断してはいけない。
 しかも好みは文学よりの──。
「ほら、これとか。今これ借りてんだよ」
 ひょいっ、とバッグから一冊のハードカバーを覗かせた。
 そのタイトルを見て──私は呼吸が止まりそうになった。
 『夏を泳ぐ月』。
 著者名は──『五宮夏香』。
 それは、私の妹がたった一つ遺した作品であった。
「これ、去年読んでめっちゃ良くてさー。知ってっか?」
「……知っています。何度も読みました。……凄いですよね」
「いやマジで凄い! これ書いたの中学生らしいじゃん? 才能ありすぎだろ!」
 鼻息を荒くする十坂に対して、私はどんな顔をすればいいのか分からなくてぎこちない笑顔を浮かべた。
「ほんとですよね。才能人だと思います」
「もっと別の作品も読みたかったけど、事故にあったらしくてな……。残念だわ。絶対、やべー作家になったのに」
「……残念、ですよね」
 ──妹は事故死した。
 何かがズレて、私の代わりに死んだ。
 本当なら次の本が世に出るはずだった。待ち望む声の多かった本が。
 彼女の替えは利かないのに。
 どういうわけか、替えの利く私が生き残ってしまった。
 薄っすらとした罪悪感が心に忍び寄り、手のひらが汗ばむ。生きていることが申し訳なくなってくる。
十坂に八つ当たりしたいような衝動に駆られ、ぐっと飲み込んだ。
 感動を共有出来て嬉しかったのか、彼女は満足そうな顔で本をバッグへと仕舞った。材木町に入ってからずっとご機嫌である。
 私は十坂の見ていた髪留めを購入した。妹へのお土産にするためだった。
 あのアルモアもお前のファンだったよ。
帰ったらそう伝えよう。

 最後に、喫茶店『可否館』で休憩を取ることにした。
 大正らしいアンティークなデザインの店内では、別の時代まで旅行に来たような気分になれる。カラフルなモザイク模様のステンドグラスが、机や床に美しい光の列を落としていた。
 私はアイスコーヒーを一杯。十坂はそれに加えて、くるみクッキーとアイスクリームを頼んでいた。
「……レイさんの分って頼みますか?」
「あー、どうだろ」十坂が左肩ら辺に目線をやった。「レイ、要るか?」
 彼女はごほんと咳払い、
「──我の分は不要だ」
 と老紳士っぽい喋り方で代弁する。
「気にしてくれて感謝するぞ、五宮殿。すっかり忘却しているかと」
 姿が視えない上に、喋っていても声が聞こえない。確かに存在感は無かった。だが十坂が頭を右に傾けているときがあり、そういう所作を目にすると、王冠の被った小さな猫がそこにいるのだと意識する。
 その後、コーヒーを喫していると、自然と宮沢賢治の話題になった。
「──あたしは銀河鉄道の夜が一番好きなんだよな。ベタだけど」
 彼女はストローを回して多量の砂糖を溶かした。
「物語のあと、カムパネルラに置いて行かれたジョバンニはどんな気持ちだったのかな……」
 彼女はそう呟きながら、グラスに反射した自分をじっと見ていた。
 その眼が、ふいに私へと向けられる。
「──あんたは?」
「授業とか、アニメで知ってるくらいですかね」
「ふーん。でも銀河鉄道の夜くらいは分かるよな?」
「えぇ。……私は、蠍の火の話が好きです」
「あんたらしいな」
十坂が軽く笑い、ストローを咥えた。するするとあっという間に飲んでいく。
「……真っ赤な美しい火になりてーのか?」
「そうですね。もし、蠍の火になれたら……やっと何者かになれるような気がします」

 十坂は『くるみクッキー』をお土産に買った。誰に渡すのかと聞いたら、後日自分で食べるに決まっていると不思議な顔をされた。
 光源社を後にして、材木町を歩いていく。
 毎週土曜には「よ市」という路上市が開催されているそうだが、生憎今日は月曜日のためその盛り上がりに触れることはできなかった。
 また来る……ことはあるのだろうか。
 ──と、スマホの通知画面に大量のメッセージが届いていることに気が付いた。斎藤と小泉と私の三人が入っているライングループからだった。
 二人は、先日撮られたアルモアの動画をいくつも貼り付けており、そこに私が映っていたことに対して説明を求めていた。
「……なんて言いましょうかね」
「なになに?」
 悩んでいると、十坂が横から覗き込んできた。
「あー、成程な。小泉もあたしのオタクだったっけ。ふつーに旅行中に鉢合わせたって言えば?」
「しかし、誰と旅行しているのかと訊かれます」
「あたしって言えばいいじゃん」
 ひょいっと十坂がスマホを取り上げて、勝手にメッセージを打ち込みだす。
「あ、ちょっと!」
「はいっ、送信」
 ピコンッ、とメッセージは送られてしまった。
『十坂ちゃんと旅行中だからでーす!』
 そんなあり得ないメッセージが投下され、グループが一瞬静まり返る。
 そして怒涛のクエスチョンマークが送られてきた。
『十坂さんと旅行中???』『おい、五宮! お前そんな冗談どこで覚えたんだ???』『五宮、家族と旅行してるのが恥ずかしいから言ってるだけだよね???』『当たり前だろ。いくら高二の夏だからって、毎朝挨拶無視する女とアバンチュールするほど馬鹿じゃないよな???』『というか本当だったら、僕羨ましすぎて死ぬんだけど???』
「うわ、全然信じてねー。まぁ当たり前か」
「ちょっと十坂さん! 勝手なことしないで下さい!」
 スマホを奪い返そうとする私の手をかわしながら、十坂は企むような顔つきをした。
 そして。
「あ、そーだ」
 彼女はラインの撮影機能を素早く起動すると、自分と私を収めて──ぱしゃり、と自撮りをした。
 得意気に微笑む十坂と、驚いた顔でバランスを崩す私。
 そんな写真が、グループに送られてしまった。
「な、なんてことを……!」
「ししし……」十坂が悪魔のように笑う。「これなら信じるしかねーだろ。あー、面白れー!」
 十坂からようやくスマホを引ったくり、薄目で恐る恐るグループを見た。
 斎藤と小泉の二人からは、それぞれ一言だけ。
『いいんちょーもついに大人になったんだな』
『五宮、もう君のことを友人と呼べるか分からないよ』
 と返ってきていた。
 また彼女にしてやられたと、私は頭を抱えながらふらふらと材木町を歩くことになった。

 昼食にジャージャー麺を食べた後、私たちはまた散歩していた。
 すると『福田パン』と書かれた看板を見つけた。近づくと、小学校のような見た目の建物が民家に紛れていた。入口からずらりと人が並んでいる。
 スマホで調べてみると、老舗のパン屋であることが分かった。
「なるほど……コッペパンのお店みたいですね。あ、お盆は定休日みたいです。滑り込みセーフですね」
「またもやラッキーだな。よし、行こうぜ」
「え、さっきお昼を食べたばかりじゃないですか。食べすぎはよくありません。三時間ほど空けましょう」
「別にいーだろ! 甘いもんは別腹だ!」
「駄目です! 我慢しなさい!」
「買って欲しいきゅるっ♪」
「はい喜んで!」
 一瞬の変身(アルモア)にやられて、私は列に並ぶことになった。
 やがて店内に進み、大量のメニューに圧倒されながらなんとか注文する。私は人気のあんバターを。十坂はホイップクリームにしていた。
 カウンターの向こうでは、アイスクリーム屋のようにいくつもの具材が缶に入って並んでいた。客から注文を受けてから、掬い取り、コッペパンに挟むのだ。
「ありがとうございましたー」
 パンを片手に、私たちは駅の方向へ歩き出す。
「マジでうめ~~~~~!」
 十坂は行儀悪くも口一杯に頬張って食べていた。
 私はお腹がいっぱいだったので、後で食べようと思いリュックのなかへ仕舞った。
 ぱく、ぱく、ぱく──と十坂はあっという間に完食した。
「あー、クソうまかったぁー」
 と言いながら、丸めた包装をぽいと道路へ投げ捨てる。
「こらァ!!」
 私は身体をリンボーダンスみたいに大きく反らして、地面に着地する前にそれを何とかキャッチした。
「わはは、雑技団みてぇ」
「ゴミを捨てるな! 自分の始末は自分でつけなさい!」
 持ち歩いているゴミ袋へ入れながら、十坂を𠮟りつける。彼女はあまり気にせず「へいへい」と手を振っていた。
 まったく、この人は……。
「あ、そうだ。あれがまだだったな」
「はい? あれ、とは?」
「お礼だよお礼。パン買ってくれたお礼をしないとなぁ」
 と言って、十坂は胸を張った。
 私の脳裏によぎったのは、新幹線での一件。アイスを買ったお礼として十坂がしたことは──。
「け、結構です! 止めて下さい!」
「遠慮すんなって! ほら、ほら、こっち来いよ!」
「ちっ、近づくなっ!」
 私はバッと距離をとった。これから柔道の試合が始まるかのようなポーズで彼女と対峙する。
 じり、じり、と悪い笑みを浮かべた十坂が迫ってくる。
「お礼は大事だろ? いいんちょーさん」
「普通にありがとうって言えばいいだけです! 胸なんて触らせるな! 君はもっと、自分を大事にするべきだ!」
 そうだ、と私は起死回生の策を思いつく。
 胸ポケットから──ブロマイドを取り出した。
「そんなことをするなら……またこれを朗読しますよ!」
「なぁっ!?」
 妖怪を呪符で退けるように、アルモアの写真と恥ずかしいメッセージを掲げる。
「ほら、ほら、どうです!?」
「そ、それは反則だろーが!」
「あなたがアルモアになっておねだりするのも反則ですから!」
「くそー……。──〈示せ火(マリン・フュマージュ)〉!」
 ぼうっ、と火が現れた。
「危なっ!? またこんなことに魔法なんて使って!」
「うるせぇ! 〈示せ火(マリン・フュマージュ)〉! 〈示せ火(マリン・フュマージュ)〉!」
「わ、ちょっ!? 危ない危ない!」
 彼女がやけくそのように火の魔法を放ってくる。私は飛び跳ねるようにしてそれをかわし続けた。
 ──すると。
 事故が起きてしまった。
「熱っ!?」
 魔法を避け切れず、ブロマイドに点火してしまった。思わず手から離してしまう。
あっ、と十坂が声をあげた。
 二人の視線の先で、道路に落ちたブロマイドがぱちぱちと端から燃えていく。
 私は慌てて拾い上げ、角をつまんで振り回した。
幸い、火はすぐに消えた。
 だが──一部が黒焦げになってしまった。
 それはアルモアの直筆メッセージの書かれていた箇所だった。ちょうど燃え痕で黒くなり、消えてしまった。
「……そんな……」
 さぁっ、と血の気が引いていく。指で擦ったり息を吹きかけたりしてみるも、黒いまま変わることは無かった。
 このグッズを手に入れるのに費やした時間や万札が頭の中でぐるぐる回る。そして、このメッセージにどれだけ癒されてきたかを思い出した。
 ふざけすぎた、とまず反省した。いくら身の危険だったとはいえ、彼女の嫌がることをしたり自分の宝物を振り回したりしたのは良くなかった。
 しかし──。
「……謝ってください」
 やり過ぎたのは明らかに十坂だ。私は腹を立て、彼女を睨んだ。
「いくら君にとって黒歴史だろうと、これは私の大切なものです。燃やされるのは許せません」
 十坂は驚いた表情で固まっていた。
 そして困ったように「あ、えっと」と目線を素早く迷わせる。
 そんな動揺した態度を見て、彼女が大人しく謝罪してくれることを期待した。
 だが十坂は──途端に白けたような表情になって、目を逸らした。
「──はいはい、悪かった悪かった」
「……なんですかその謝罪は」
 彼女の投げやるような言い方に、決定的な怒りが疼いた。
「私は、本当に怒っているんですよ! 確かに私もふざけすぎましたが、一言謝るべきです!」
「だから今謝ったろ」
「そんなのは謝罪じゃない。ちゃんと謝って下さい」
「何を必死に」
 と、十坂は鼻で笑った。
 すかした態度に私の苛立ちが増していく。
 彼女はきっと、私が本当に怒っているのだとちゃんと分かっている。自分がやりすぎたことも認識している。
 それでも、わざとへらへらしているのだ。
 きっと真剣になりたくないからだろう。
 この出来事を、今までのようなおふざけの一幕として通過したいのだろう。
 そんな気持ちが伝わってきて、私はどうしても彼女を謝らせたくなった。
「悪いことをしたら謝るのは常識です。誰でも子供の頃に教わるものでしょう」
 十坂の眉がぴくりと反応した。
 口走ってから、失言した、と後悔する。彼女に家族の話題は地雷だ。
 だがもう、矛を引っ込めることができない。私は謝罪せずに睨み続けた。
「どうして誰でもできるようなことができないのですか。ちゃんと謝ればいいだけです」
「なんであんたに、そこまでする必要があんの?」
 十坂の声に苛立ちが宿る。受け流すような姿勢から、徐々に攻撃態勢へと転じていくのが分かった。
 私たちはもう引っ込みがつかなくなっていた。互いの言葉の剣先が、一層相手を警戒させてしまい、ヒートアップが止められない。
「友達にはそうするのが普通です。じゃなきゃ、仲が悪くなりますから」
「昨日も言ったけど、あんたは友達とかじゃねーから」
「じゃあ一体どういうつもりで連れてきたのですか? タイプだのなんだの、馬鹿馬鹿しい」
 十坂は苦々しい顔で軽く唇を噛んだ。
「……あんたとの間に〝仲〟なんてそもそもない。だから、そんな大袈裟に謝罪する必要はねぇ」
「仲なんて……ない?」
 その突き放すような言葉が、昨晩から続く苛立ちに決定打を与えた。
 ──十坂は本当に私を拒絶しているのだな。
 まるで友達のように喋りながら、心のなかで線引きをしている。私のことなんて、本当にどうでもいいのだ。だから迷惑を考えず金を無心できるし、恥ずかしげもなく接触できるのだ。そうとしか思えない。
 明確に意識してしまった他人からの拒絶を、これ以上隣で感じるのは嫌だった。こんな気持ちを抱くのは、やはり期待の反動だろう。我ながら自分勝手である。でも、それはお互い様だ。
「──もう無理です。私は帰ります」
「は?」
 十坂が頓狂な声を上げる。
 私はリュックを前にして、中から封筒を取り出した。まだ厚みのあるそれを彼女に押し付ける。
「差し上げます。最終決戦、頑張ってください。応援しています」
「おい、待て──」
「私は所詮タイプなだけで、おもちゃで金づるなのでしょう?」彼女の言葉を聞かずにまくしたてた。「なら、代わりの人を探せばいいじゃないですか。クラスメイトの誰かを今から呼んでみては? 私より都合のいい人がきっといますよ」
「いや、連絡先知ってるやついねーし……」
 混乱した様子の彼女に封筒を無理矢理持たせてから、私は踵を返した。
 自分はなんて幼稚なんだ、とうんざりしながら歩き去ろうとする。
「……待て! ちょっと一旦止まれって! ──おい!」
 振り返ると、十坂はいつの間にか魔法のステッキを片手に持っていた。
 その先端を私に向けている。
「──忘れたのか? あたしはあんたを脅してんだ。……頭、吹き飛ばすぞ」
 言われて、頭にカッと血が昇るのが分かった。
 どうしてこの人は、こんなコミュニケーションしか取れないんだ。
 私は肩を怒らせながら素早く十坂へ歩み寄り、ステッキを掴むと、自らの額へ押し当てた。

いいですよ(・・・・・)。お願いします」

 目線だけで彼女を見上げる。気味が悪そうに眉をひそめる顔が近くにあった。
 こんなときでも、彼女は美しい顔をしているなと思った。
「……あんた、死にてーの……?」
 私は答えずに、ステッキを握る手に力を込めた。
 それが銃口であることを知りながら。
 じっと睨んでいると、十坂が目線を逸らした。「……離せっ」とステッキを取り上げる。
 私はわざとらしい溜息をついた。
「やっぱり、撃つ気は無いんですね。……まぁ、そうですよね。少女が襲われていたら身を挺して庇うような人ですから、君は。脅迫だって恐喝だって、結局やり切れない」
 十坂は呆気に取られた様子で硬直していた。
「私よりもっと適任がいますよ。……では」
 私は彼女に背を向け、その場を去った。

【第五話】

【第五話】


 十坂に会わないようぐるりと迂回して駅を目指した。
 調べると、盛岡から東京まで新幹線で約二時間。今日中には家に帰れるだろう。
 問題はお金だ。貯金なら先程全て渡してしまった。財布を開くと、千円札が四枚と沢山の硬貨。到底足りない。
 親に連絡して送金して貰うしかないだろう。しかし、なんて説明する? 彼女と喧嘩した? だからお家に帰りたいです?
「……何とも情けない」
 私は大きく肩を落とした。自己嫌悪や後悔で、暗雲が頭上に立ち込めているような気分になる。
 感情の整理がつかず、マップもろくに視ないまま路地を歩き回った。
 駅へ一直線に向かわないのは、本当に帰っていいのかという自問自答が邪魔をするからだった。
「はぁ……」
 溜息をついて、立ち止まる。胸ポケットから焦げたブロマイドを取り出して眺めた。午後の太陽に透かしてみても、もうメッセージは視えない。十坂の弱点であった『大好きちゅっちゅ』はこの世から永遠に消えたのだ。
 私のためではない、誰かに向けたメッセージ。それでも縋るように何度も眺めた。
損失は大きい。十坂の態度を思い出して、また腹が立ってきた。
 まさか、ふざけたやり取りがいつの間にかこんなことに発展するなんて。子供の喧嘩だ。自分が嫌になる。
 ──と。
「しく……しく……」
 すすり泣く声が聞こえた。
 私は耳をピンと立てるように反応する。
 周囲を見回し、声の発信源を探した。すると、民家と民家の間──細長い裏道に目が留まった。
 そっと覗き込む。すると、奥の行き止まりに蹲る人影があった。
「あのー、どうかしました……? ──うわっ!?」
 声をかけてから、私はぎょっとして声を上擦らせた。
 その人影には──髪が無かった。そして人間らしい肌もなかった。ぬめぬめとした青い光沢を持つ、魚類特有の表面である。
 スーツ姿で、顔は魚。感情の分からない丸い眼がつんと上を向いている。
 あからさまなデペイズマンが、素足を抱えて蹲っていた。
「しく……しく……」
 泣き声もよく聞けば濁っている。喉で水を絡めたような音だった。
 私は心臓が落ち着くのを待ってから、深く深呼吸をした。少し生臭い匂いがする。
 デペイズマンが泣いている──だって? 
 彼等にも感情があったのか。なにを悲しんでいるのだろう?
 なんて考えながらすすり泣く様子をじっと見ていたら……私のなかに同情の心が沸いた。
 私のモットーは〝隣人を助けること〟である。
 例え敵であろうと、泣いている隣人を放ってはおけない。
「大丈夫ですか?」
 私は裏道へと足を踏み入れ、魚頭に近づいた。
「なにか困りごとでも──」
 ぐるん、と魚頭がこちらを振り返った。そしてのっそりと立ち上がる。身長は私と変わらないくらい。不気味な魚眼はどこを見ているのか分からず、口は忙しなくぱくぱく動いていた。
「あの……? 言葉、通じますか?」
 魚頭はその場で突っ立ったまま、何もアクションを起こさない。
 私は怪訝な表情を浮かべた。そもそも、彼はこちらを見ているのだろうか。上半身は魚を垂直にしたような姿なので、顔自体は上についている。
 そんなことを考えながら、黒い眼を見る。
 ぬらぬらと濡れてはいるが、涙の痕のようなものは見当たらなかった。
 ……まさか、噓泣きか?
 そう思い立ったとき、背後でぺたぺたという足音がいくつも聞こえた。
 振り返ると、三体の魚頭が出口を塞ぐように立っていた。
 右端の一体が、ぷくぅと頬を膨らませ──近くの塀に緑色の唾液を吹きかけた。それは強い酸性を持っているようで、しゅうしゅうと音を立ててコンクリートブロックを溶かした。
 明らかな脅迫に、私は身をすくませる。
 そして三体が奥へと歩いてくる。背後には嘘泣きをしていた一体がいるので、これ以上下がることはできない。
 ──たちまち四方を囲まれてしまった。
 魚頭たちは喜び合うように、あるいは私をあざ笑うように、べちっ、べちっ、と互いの身をぶつけ合った。
 馬鹿な私は、ようやくこれが罠であることに気が付いて空を仰いだ。

 その後はひたすら待ちの時間だった。
 魚頭たちは言葉を発さず、アクションも起こさず、じっと私の周囲で立っている。
 だが少しでも動こうものなら、頬を軽く膨らませて脅してきた。
 塀と塀の隙間から、通りの様子が垣間見える。裏道の奥まったところをわざわざ注視する人間はおらず、通行人はすらすらと通り過ぎていく。それはむしろ幸運であった。一般人がデペイズマンとの戦闘に巻き込まれるのは危険だからだ。同じ考えで、助けを呼ぶこともしなかった。
 この状況を打開できるのは唯一人。
 つまり、魚頭たちの期待する人物と、私の期待する人物は、一致しているのだった。
「──〈示せ火(マリン・フュマージュ)〉ッ!」
 待ちわびた声が通りから聞こえた。ぼうっ、と炎が沸き起こるのが視える。
 私はパッと顔を輝かせた。だがすぐに俯く。アルモアを──もとい十坂を、どんな顔で出迎えればいいのか分からなくて困ったからだ。喧嘩別れしたばかりである。
 勝手に腹を立てていなくなったと思いきや、すぐさま敵に捕まって助けを待っている、だなんて。
 ……非常に情けない。
「取りこぼしが無いように、一応来たきゅるが……」
 あれこれ考えている内に、アルモアが裏道に現れた。
 通りで何体かとやり合った直後のようで、荒い呼吸に合わせて長いツインテールが上下している。
 魚頭たちに囲まれた私を見て、彼女は信じられないといったように目を見開く。
「……何をしてるきゅるか、お兄さん……」
 私はばつの悪い表情を浮かべる。両手をゆっくりと上げて、「……すみません。捕まりました」と謝った。
 同時に、ほっと安堵の息を漏らす。
 アルモアが来た。つまり、これで解決である。
 黒星なしの魔法少女は登場するだけでこんなにも心強い。
 アルモアは直立したまま動かず、愕然とした表情のままゆっくりと状況を眺めていた。ステッキを胸元で握ったポーズで、ただ呼吸をしている。
 動かない理由は、ここにカメラが無いからだろう。野次馬の誰かが裏道を見つけて撮影を始めてくれるのを待っているのだ。
 何故なら、これはまさに彼女にとって──「お得」な状況だ。
 新幹線で少女を庇ったときのように、一般人の救出と、敵の撃破を、一度に見せつけられるチャンスだ。すぐにまた動画はバズり、チャンネル登録者は増えていくだろう。そんな期待に胸を膨らませているに違いない。
 私がそこまで本気で逃げようとせず大人しくしていたのもこのためだった。無様に捕まってしまいアルモアの手を煩わせるのだから、せめて話題性の一助となりこれを贖罪としようと考えたのだ。
 ──だが。
 事態はそう気楽なものではない、と私は知ることになる。
「……ひ、人質って、こと……?」
 アルモアは怯えたような表情で声を震わせた。
「どうやら、そのようです。誠に申し訳ない」
「……っあ」
 彼女は明らかに緊張した様子であった。
 ステッキを握る手にぎゅっと力が籠る。戦闘態勢ではなく、何かに縋ろうとするみたいだった。華奢な肩を盛り上げて、身を小さくしている。
 私はようやく気がついた。
 彼女は──怖がっている?
「あ、アルモアさん?」
「……いや……っ!」
 アルモアが、ふらふらと二三歩退いた。目の前の光景を拒絶するよう頭を振っている。
 どう見ても戦意を喪失していた。初めて見る魔法少女の弱々しい姿が私には受け容れ難く、頭上に疑問符をいくつも浮かべながらじっと見つめてしまう。
 ──そして「あっ」と理解した。
 彼女は家族を人質に取られたことがあるのだ。弟か妹に重傷を負わせてしまったと話していた。
 それがキッカケで、記憶を消すことで家族と絶縁し、今に至るまで親しい人間を作らないよう徹底している。レイという魔法動物だけを相棒として……。
 ──トラウマだ。
 記憶を消しても、縁を消しても。
 心の傷が残っている。
「わ、分かった……。分かっ、分かったから……っ!」
 アルモアが慌てたようにバッと両手を上げた。その手はかたかたと震えている。
 そしてなんと、魔法のステッキを手離してしまった。
 カランッ──と転がる。
 そんな様子を見た魚頭たちが、計画の成功を称え合うようにばちんばちんと身体をぶつけた。
「な……っ!? なにを、してるんですか……!」
 魔法少女の象徴とも言えるアイテムを自ら放棄した。戦場で銃を捨てるような行為である。ステッキ無しでも簡単な魔法なら出せるだろうが、圧倒的に不利になったのは違いない。
「何をしてるんですか、アルモアさん! ……たっ、戦ってください!」
 自分のせいだ、と湧き上がる後悔を抑えながら私は叫んだ。
「ステッキを拾ってください! 早く!」
「だっ、だって! だって、……ひ、人質が……!」
「私のことはいいですから! 大丈夫です!」
「大丈夫じゃない! 大丈夫じゃ、ない……っ!」
 思い出したくない記憶を閉じ込めるように、彼女は頭を抱えた。瞳孔が小刻みに揺れており、激しい動揺が見て取れる。
「危険なの……っ! あたしは分かってる……! またっ、また、怪我させちゃう……!」
「思い出して下さい! アルモアさんは、こうならないように親しい人間を作らないようにして来たのですよね!? 私は親しい人間じゃありません! あなたがそう言ったんです! だから気にしないで下さい! 普通に戦ってください! あなたの力なら、何事もなく倒せるはずです!」
 例え人質を取られても、彼女ほどの実力なら長年の経験と得意の魔法を駆使して救助も制圧もお手のものだろう。
 だがそれは、人質が親しい人間でなければ、の話だ。
 こんな状況にならないように、彼女は周囲と壁を作って孤立の道を選んだ。これまでずっと孤独を貫いてきた。昨晩も、私を拒絶した。
 だと、いうのに。
「……でも……。でも、でも……!」
 アルモアが首を振り──そう叫んだ。

「──でも、やっぱり無理……っ!」

 悲痛な声と、助けを求めるような眼差し。
 過剰な衣装の奥に隠されていた弱さを、ほんの一瞬だけ覗いてしまった気がした。
 私は息を呑む。
 そして、彼女の矛盾した態度の意味にたちまち気が付いていく。
 ──親しい人間を作らない。
 魔法少女として生きるために選び取った、冷酷な決意。
 けれどそれは、
 ──本当は誰かと親しくなりたい。
 というあまりに普遍的な欲求を殺すに足りなかったのだ。
 だから、求めてしまう。
 求めてしまうからこそ──突き放す。拒絶する。線を引く。
 ……それでも、やっぱり無理だと彼女は叫んだ。
 たった一日傍にいただけのクラスメイトに、過去のトラウマを揺さぶられるほどの情が芽生えてしまったのだろう。
 私は、彼女のことをどこか現実離れした存在──空想上の超人のように捉えててしまっていた。俗っぽい振る舞いに幻滅し、家族を失った過去に同情しながらも──その精神は選ばれた人間として冷たく完成しているのだと。
 だがアルモアは──隣の席に座る、ただのクラスメイトだ。
 私と同じ、高校二年生の子供だ。
 ならば、友達が欲しくて当然だ。我慢できなくて当たり前なのだ。
 たった一日傍にいただけの私を親しく思いかけても──ごく自然なことだった。
 ……そうか。
 彼女は、私と同じなのだ。
 そう考えを改めた途端、まるで仮面が切り替わるように、私の意識は変わっていった。
 私のモットーは〝隣人を助けること〟。
 しかし魔法少女の戦闘には、当然手を出すべきではないと思っていた。選ばれし者の戦いに、何者でもない自分が横入りするなぞ考えもしなかった。
 ──しかし。
 彼女も私と同じなのだとしたら。
 アルモアだって〝隣人〟なのだとしたら。
 モットーに従い、彼女の力になりたいと思う。
 傍観から参加へ。
 俺は態度を改めなくてはならない──。

「──それに触んじゃねぇ」

 魚頭の一体が、地面に転がったままのステッキへ近づいた。その背に、私はドスの利いた声を投げる。
 アルモアがハッと顔を向けてくる。そして、この言葉遣いに首をひねった。
「……五宮?」
「お前らさぁ。こんなせっこいやり方で女の子一人追い詰めてさァ……。恥ずかしくねーのか、クソ野郎」
「な、なに? なんか口調が変きゅるよ? いつもの敬語はどうしたきゅる?」
 あの頃のくせで、俺は両手の指をぽきぽきと鳴らした。何事もかたちから入ろうとする俺らしい仕草だ。
「人質から逆襲されるとは思わなかったのかよォ、生臭ぇ魚野郎がァ──!!」
 叫び、最も近くにいた一体のエラへ腰の入った右ストレートを打ち込む。ぐにゅっとした弾力を手の甲に感じると同時に、魚頭は塀に激突した。
「舐めんなボケカスッ!!」
 暴言と共に、背後にいた二体の頭部へ蹴りを見舞う。彼等は不意を突かれ、反撃の隙無く後方へとよろけていく。
 そして、残りの一体を睨む。不遜にもステッキへ触ろうとした愚か者。
 俺は──飛び掛かった。
「おらァッ!!」
 跳躍し、頭部へと膝蹴り。深々と差し込まれ、魚頭はたまらず地面へ沈みこんだ。
 私は転がるように着地した。素早くステッキを掴むと、アルモアの傍へ小走りで駆け寄る。
 そして、
「……おい。もう手放すんじゃねぇぞ」
 片膝をついたまま、彼女へ差し出した。
「あ、ありがとう……?」
 アルモアは混乱したままステッキを受け取った。何が起こったのか分からず、怪訝な顔つきで俺を見つめてくる。
「……俺の顔になんかついてっか?」
「いや、ちょっとツッコミどころが多すぎるきゅる……。どうしたきゅるか、その喋り方は……」
「うるせぇ。こっちが元々なんだよ」
「え? それって──」
 俺のキャラ豹変ぶりについて、アルモアは愉快そうに訊きたがった。トラウマによる動揺からは戻って来れたようで安堵する。
 だが今は戦闘中だ。
魚頭たちが、ぺたぺたと近づいてくる。
「おい、アルモア! 前見ろ、前!」
「え?」
 そして一斉に、ぷくぅっと頬を膨らませた。
「──アンブレラだッ!!」
 俺の叫びに、アルモアは即座に反応した。
「〈示せ傘(マリン・アンブレラ)〉ッ!!」
 ステッキを柄として、ばさっ……と透明な傘が広げられる。その傘下に隠れさすため、俺はアルモアの頭を掴んで屈ませた。
 間一髪、緑の汚らしい唾液は魔法に阻まれた。不可視の傘の輪郭を現すように、宙でだらだらと垂れている。ペンキをぶちまけた瞬間に時間を止めたような光景だ。
「……ありがとう、助かったきゅる」
 アルモアは感心したように頷きながら、立ち上がった。
 魔法を消すと、ばららっ、と唾液が一斉に地面へ落ちてコンクリートを溶かし始める。
 俺も立ち上がって彼女の傍に立った。
まるで相棒みたいな連携に、心が躍った。
「なんだかよく分からないきゅるが、戦えるってこときゅる?」
 返事代わりに、もう一度拳を鳴らす。
「あんたに合わせるから、好きに動いてくれ」
「流石、私のオタクきゅる」ふっ、とアルモアが微笑んだ。「では──さっさと終わらせるきゅる。〝いいんちょー〟の本性について、聞きたいことが沢山きゅる!」

 いいんちょーの本性。
 それは、令和のこの時代に大変恥ずかしながら──〝元番長〟である、ということだ。

 とにかく愚直な性格に生まれた。それがどうやらいけなかった。
 俺は主人公でありたかった。子供の頃に見た特撮やアニメのヒーローのように、劇的に生きたい。
 だから世界を救おう。
 なんて、本気で考えた。
 まずは身近な世界を救うため、自ら荒れている中学校に入った。
 校内に蔓延るいじめやかつあげといった犯罪行為の数々を憂いながら、猪突猛進して成敗に向かった。悪の芽を一つ一つ潰して回り、拳を振るい続けた。そうすれば、いつか綺麗さっぱり悪は消えるだろうと考えていた。
 同時に、様々な犯罪行為を見て見ぬふりする教員たち体制側のことも憂い、抜本的な改革のため反抗し続けた。そうすればいつか、望む世界が訪れるだろうと考えていた。
 するといつの間にか番長と呼ばれていた。
 偏差値の低い我が母校では、がむしゃらに暴れまくる謎の男を呼ぶいい言葉が見つからなかったのだろう。
 大仰なあだ名だが、ようはチンピラである。
 当時は、番長と呼ばれると何者かになれたような気がして愉快だった。今では恥ずかしくて口に出せない。
 金髪に染めたのも、あだ名に見合うデザインが欲しくなったからだ。トレードマークのようなつもりだったが、今現在まで尾を引くとんでもない黒歴史である。
 番長になった後はいよいよ校外へ手を出し始めた。
「あの学校の奴らは組織的に万引きをしているらしい」
「あの辺にたもろしている奴らは、通りかかった人を恐喝しているらしい」
「だから懲らしめてくれ!」
「お願いします、〝ばんちょー〟!」
 なんてことを後輩から囁かれては、やはり猪突猛進に突っ込んでいった。
 実際にどうだったのかは分からない。俺の性質を見抜いた者が、口先で騙して自分のために利用していた──なんて可能性も、十坂と話したことで頭にチラつくようになった。
 そのときの自分は、本気でヒーローに近づいていると思い込んでいた。
 次から次へと現れるより強い奴を倒すほど、どんどん世界は善くなっていくと信じていた。
 そうしたら、やがて、何者かになれるんじゃないかと……。

 中三の夏。妹が亡くなった。
 五宮夏香。彼女は昔から文章の才があり、中学生ながら新人賞をとって芥川賞候補にまで選ばれた。
 将来を期待されていた彼女は、勘違いしたまま暴れるだけのどうしようもない不良とは天地の差がある存在だった。
 まさしく世界に必要とされている存在。
 なのに、メジャーは彼女に落ちた。隣にいた自分が助かって、隣にいた妹が死んだ。
 そして葬式を終えた後、家のリビングでソファに座ったまま母親が動かなくなった。
 彼女は深夜、ぽつりと言った。

「……どうしてあの子なの……」

 きっとそれはそういう意味じゃない。だがその言葉は本来の意図を越えて、自分自身の気持ちを映す鏡として機能してしまった。
 どうして?
 おかしい。
 何かが、ズレた。
 死ぬべきはあの子じゃない。
 何者でもない自分の方だ。
 母の呟きを聞いた途端──自分のやってきた世直しとか番長とかあらゆることが、急速にむなしく思えてきた。
 そしてその日から、どこかへ誘われるような、空へと吸い込まれるような、妙な感覚に取り憑かれた。

 中三の秋。
 もぬけの殻となった俺は中学へ行くのを止めて、しばらく虚無の日々を過ごした。
 何をしていいのか分からないので何もすることができない。
 この頃は家のなかも散散だった。母親はすべてを放棄して引きこもり、反対に父親は滅多に帰って来ない。ゴミ屋敷になりかけている家の異臭が我慢ならなくて、ゲームセンターへ行き、一日中シューティングゲームをしていた。
 たまに昔泣かせた不良が寄ってきて、番長であると分かっては喧嘩をしかけてきた。だがどうにもやる気になれず、殴られるままだった。最初は意気揚々と拳を振るう彼等も、魂の抜けたように無気力な俺を不気味に思って、やがて鼻白み財布だけ抜き取って去っていった。
 そんな風に金が無くなると、高い場所を目指して歩いた。屋上へ忍び込んだり、無料で入れる展望台に行ってみたり。そうして街ではなく空を見た。吸い込まれるような感覚が、自分を肯定してくれるような気がした。
 アルモアと遭遇したのはそんな最中のことである。
 ある古いデパートの屋上。元々は遊園地だったが、今は老朽化により立ち入り禁止となっている。そこへ忍び込み、いつものように空を見上げていた
 ──と。
 ふわふわとしたシルエットが徐々に近づいてきた。
「どいてどいてー!」
 どぉん、と着地したのは魔法少女だった。テレビやネットニュースなどで見かけたことはあったが、生で見るのは初めてだった。
 次いで着地してきたのは、スーツ姿の男だった。頭部が煙突になっており、もくもくと煙を吐き出している。デペイズマンだ。
 アルモアとデペイズマンは、無人の屋上遊園地を舞台に戦闘を繰り広げた。
 俺は観覧車の乗り場に身を隠しながら見物した。
 正直、とてもワクワクした。
 幼少期に繰り返し見たアニメや特撮を思い出す──。自身の根源とも言えるその高揚感が、灰色だった心へ沁みていく。世界の色を取り戻していく。
 目尻に涙を浮かべながら、俺はじっとショーを見ていた。
「〈示せ衝(スクエア・スタンピング)〉ッ!!」
 やがてアルモアがトドメを刺して、戦闘は終了した。
 俺はたまらず駆け出して、ここから今にも飛び去ろうとしている彼女に訊いた。
「どっ、どうしたら……。どうしたら、あんたみたいになれる!?」
「えぇっ!?」突然話しかけられて、アルモアはびくっと驚いた。「あ、あー……。なんだろう。困ったきゅるなー……」
 振り返らないまま、腕を組んで考え出す。
「そうきゅるねー……。まずは、隣人を助けること」
「り、隣人?」
「あとは、えーと……、あ、ゴミを拾うこと! それと、勉強! 勉強が大事きゅる!」
「隣人、ゴミ、勉強……」
「うんうん、それが大事きゅるよ! ……ふぅー。なんとか良い感じのこと言えたきゅるね。じゃ、そういうわけでー!」
 アルモアは地面を蹴り上げると、空高く飛び上った。
雲の下を浮遊する後ろ姿を見ていると、やがて透明になって消えてしまった。
「隣人、ゴミ、勉強……」
 俺はその三つを何度も反芻した。
 そして帰り道の電車では老人に席を譲り、帰宅したら家のゴミを一晩中拾い集めて掃除し、翌日からは数か月後に迫った高校受験に向けて勉強を始めた。
 すると生活は徐々に好転していった。
 アルモアの言葉は、私を救ったのだ。

 何とか入学した高校では番長という過去を封印し、沁みついた粗暴な喋り方を抑え込むため一人称ごと無理矢理変えた。
 すると〝ばんちょー〟は〝いいんちょー〟になった──というわけだ。

 現代のヒーローは、世界を救う人間じゃない。
 周囲を善くしていく人間だ。
 何者でもない私が主人公に近づくためにはそれしかない。
 だから隣人を助ける。ゴミを拾う。勉強を頑張る。
 そして、魔法少女と共に戦う。

「──〈示せ火(スクエア・フュマージュ)〉ッ!!」
 ごうっ、と激しい炎がステッキから迸る。道路に大きく引かれた五芒星、その中央で積み重ねられた魚頭たちが猛火で包み込まれた。ここだけ見ると、まるで呪いの儀式である。
 彼等の身体が溶けていき、大きな一つの泥のようになっていく。それに合わせて、火も少しずつ弱まっていった。
「う……っ!」
 隣にいたアルモアが突然ふらっとバランスを崩し、私にもたれかかってきた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「うん……。ちょっと、支えてきゅれる……?」
 彼女の脇を抱える。
 そして、この場から去ろうと振り返った。
 騒ぎを聞きつけた野次馬が何人かいて、こちらへスマホのカメラを向けていた。
 アルモアは満身創痍といった状態で、微笑みながらふらふらとサムズアップをした。
 シャッターチャンス、とばかりにパシャパシャパシャと音が響く。
 ──成程、と私は内心で苦笑した。ふらついたのは、この絵を用意するためにわざとやったのか。流石、見せ場を用意するのに抜かりが無い。
 チラりとアルモアを見下ろせば、目の合った彼女はこっそりと舌を覗かせてきた。
 まったく、この人は……。
「これ、預かっておくきゅる」
「え?」
 彼女は私の胸ポケットから例のブロマイドを抜き取ると、返事も聞かずに透明になって消えた。
 とたとたと裏道へと駆けていく足音がする。
 取り残された私は、ぱちぱちと燃える火を振り返った。安全のため、消えるまでここで見張っていたほうが良いだろう。
 ──預かっておく。
 裏を返せば、取りに来て(・・・・・)、ということか。

【第六話】

【第六話】


「まずは……コラーッ!」
 ホテルの部屋に戻った私を待ち受けていたのは怒号だった。
 椅子に脚を広げて座る十坂が、前に立った私をぎろっと睨み上げている。
 中学生のとき、こんな風に職員室でよく怒られたものだ。
「啜り泣いてたから同情して近づいただぁ~? あんたは底なしの馬鹿か! 馬鹿馬鹿馬鹿!」
「馬鹿とは何ですか! 泣いている人間がいたら、声を掛けるのが普通です!」
「相手はデペイズマンだぞ。人間じゃねーだろうが!」
「ですが、たとえデペイズマンでも──」
「デペイズマンでも、可哀想に視えたんか? ……はっ! そんで結局騙されてんじゃねぇか。人質を取ったりするような連中だって発想できなかったか? 昨晩あたしの昔話を聞いたくせに」
「うぐっ……」
 鋭い指摘に私は苦い顔をした。
「もし人質になったらあんたの大好きなアルモアに迷惑かけるかもなって、考えらんなかったか?」
「で、ですが……。しかし……」
 あまりに旗色が悪く、もごもごと口ごもってしまう。
 弱気になった私を見て、十坂は大きな溜息をついた。
「……まぁ、あんたはそういう人だよな。……いいか? 次からは警戒しながら声をかけろ。相手をちゃんと疑え。よく考えろ。善いことをしたけりゃ、まず悪いことを知っておけ」
 その台詞は、確か昨日も言われたはずだ。
「悪いことを知っておく、ですか」
「あぁ。補習の件だってそうだかんな。相手の言うことを盲目的に信じてあげんのが、世のため相手のためになるとは限らねぇ」
「……そうかもしれませんね」
 私は乾いたものを飲み込むように何度か頷いた。
 反射的に言い返してしまったものの、彼女の説教には最初から異論が無い。私の無警戒が今回のピンチを引き起こしのだから。
 番長モードの解禁によって事なきを得たが、より深刻な事態になっていた可能性もあるのだ。
「申し訳ないです。以後、気をつけます」
 私は深々と頭を下げて、正直に謝罪した。
 ふん、と彼女が鼻息を漏らすのが聞こえる。
 自身の単純さ、そしてデペイズマンの狡猾さを思い知った。それと戦い続けてきた魔法少女だからこそ、性格の悪さを身に着けているのだと分かった。
 彼女の性悪は武器なのだ。
 横山の件も、新幹線では反発してしまったが……十坂の意見が正しいのかもしれない。私はそんな風に考え始めた。だが勿論、彼を信じてあげたいという感情が強くて疑いきることはできない。この愚直な性格をすぐに変えることはできないだろう。
 少しずつでいい。彼女の武器を吸収してみよう。
「次から気をつけるなら、許してやる。……それに、助けられたしな」
 顔を上げると、十坂は少し言いにくそうにそっぽを向いていた。僅かに照れている。
「アンブレラなんてよく知ってたな。多分、人前じゃ一回しか使ったことねーぞ」
「オタクなもので。あの状況下では一番の魔法だと判断しました」
「というか、あんた戦えたんだな。あの言葉遣い、もしかして元不良とか?」
「…………はい。中学生のときに」
 私は苦虫を噛み潰したような顔で己の黒歴史を認めた。
 十坂がニヤリと笑い、身を乗り出してくる。
「なるほどなぁ。ずっと気になってたその金髪は、つまり──?」
「……不良時代の名残です」
「高校入るときに戻さなかったのか?」
「脱色が受験までに間に合わなくて……。いっそ完全な金髪にして、地毛だってことにしたんです。両親に土下座して話を合わせてもらいました。それから、嘘を貫くために染め続ける羽目となりましたが」
 ぶはぁ、と十坂が噴き出した。
「ば、馬鹿すぎる……! 黒髪に染めちゃえばいいだけなのに……! おもしろ……!」
 くっくっくっと喉の奥で笑いながら、椅子の上で腹を抑えている。
 私はムッとして頬を膨らませたが、頭を下げた直後なのであまり強く出られない。
「わ、笑いすぎです!」
「くくく……。つーか、学校のこと騙してんじゃねぇか。やっぱり根は不良なんかな」
 彼女の指摘通り、中学生時代に染み付いた不良性は時折私のなかから顔を覗かせる。喧嘩しようと決めたら口調は元に戻ってしまうし、困ったときは暴力の二文字が頭でちらつく。
 今回はそれがうまく働いてデペイズマンを倒すことができたわけだが。
 ひとしきり笑い終えた十坂が、ふうふうと息を整えだした。ウケ過ぎである。
「……デペイズマンと戦えて、しかもあたしの魔法に詳しい、ってわけか……」
 彼女はそう呟くと、腕を組んで何やら考え出した。
 そのまましばし黙ってしまったので、私は困って話しかける。
「……十坂さん?」
「──あぁ、いや。何でもねぇ」
 彼女は頭の上で右手をひらひらと振った。浮かんだ考えを自ら振り払うように。
 一体何を考えていたのか。
 そう問いかけようとしたとき、
「じゃ、あたしは風呂行くから。汗を流してぇ」
 彼女は椅子から立ち上がり、どこかそわそわとしながら着替えをバッグへ詰め始めた。
 まだまだ話すべきことがあるはずだ。私は面食らい、早々に退席しようとしている彼女を止めた。
「え、あの。待って下さい。私はブロマイドを返して貰いに来たのですが……」
「あー、うん。そうだったな。うん」
 彼女は私に背を向けながら、わざとらしい声で返事をした。
 ──まさか、返さないつもりか?
 ステッキによる脅迫が意味をなしていないとバレてしまった今、今度は人質──もとい物質(ものじち)で旅に同行させるつもりか?
 そもそも彼女は、ブロマイドを焼いてしまった件をまだ謝っていない。やっぱり無理と口走っておきながら、拒絶を続けている。
「か、返さないとかは無しですよ。それは大切なものですから」
「分かってる分かってる。──ほらよ」
 身構えた私に、十坂はサッと近寄ってブロマイドを差し出した。
 引ったくるようにそれを受け取る。
「──じゃ、風呂行くわ」
 と言って、十坂は慌てたように早々と部屋を出ていった。
 その耳がほんのりと赤くなっている。
 バタン、と扉が閉まった。
 なんだ……? と、取り残された私は立ち尽くした。
 そして手に持ったブロマイドへ目線を落とす。
 アルモアの生写真。そして黒焦げの下半分。
 何気無しに、くるっと裏返した。すると、サインペンで新しい文字が小さく書かれていることに気がついた。

『ついてきて』

 私は息を漏らすように相好を崩した。十坂の回りくどい感情表現を受けて、こちらまで照れ臭くなる。
 こうして、彼女の脅迫はお願いに変わった。

 夕飯は昨日と同じく私が用意した。十坂は「もっとしょっぱいのが……」などとぼやいていたが、大人しく食べてくれた。
 その最中、彼女にしつこく訊かれるかたちでばんちょー時代の話をした。十坂はさも可笑しそうにけらけら笑いながら聞いていた。
 屋上遊園地で私にモットーを授けたことはあまり覚えていないようだった。確かに、あのときは顔も合わせていない。今の私を形作る教えは、きっとその場しのぎのアドリブだったのだろう。中の人の本性を知った今、本気で言ったとは思えない。
「ごちそうさまでした」
「……ごちそうさま」
 机に広がったゴミを片していると、十坂が両手を宙で彷徨わせていた。手伝いたいが、どう手を出していいのか分からないようだった。しかし、「何をすればいい」と訊くことはできないのだろう。
「……取り敢えず、重ねといてくれますか」
「お、おう。分かった」
 慣れない手つきで取り皿を回収する彼女を見て、私は軽く驚いた。これまでの彼女は、何でも私に任せっぱなしですぐにスマホを弄ったりベッドへ寝転んだりしていたというのに。まさか自分から片付けを手伝うとは! なにか心境の変化があったのだろう。

 ──ブロマイドを受け取った後、私はそのまま部屋で彼女を待った。
 十坂は四十分くらいしてから戻ってきた。不安そうに扉を開けた彼女は、私が室内にいるのを見て微かに表情を緩めた。直接口には出さないが、私が帰らなかったことに安堵していた。
 その顔を見て、私は最後の三日目まで彼女に付き添うことを決めた。
 少しだけ、必要とされ始めたような気がして。

 私たちは夕飯を食べ終わり、ベッドの上でテレビを見る何でも無い時間を過ごした。
 こうしていると、これがデペイズマンとの最終決戦へ向かう旅路であることが嘘みたいに感じられる。〝本体〟の現れる函館を目指す最中は、戦闘を除けば何とも緩やかでだらだらとしていた。まるで、学生がただ旅行しているかのような。
 時刻は午後八時二十三分。
 三日間の旅程に置いて、折り返し地点を過ぎた頃。
 それは唐突に訪れた。

 こんこん。

 と、ノックの音が響いた。
「? はーい」
 ホテルのスタッフだろうか。軽く不思議に思いながら、私はベッドから立ち上がって扉の前へと向かった。
 そして、ノブに手をかける寸前。
「──こんばんは」
 中性的な声が、扉の向こう側から聞こえた。
 得体の知れない不気味さが全身を襲い、ぞわっと総毛立つ。私は熱いものに触れたように、ノブから手を弾いた。
 なんだ……?
 十坂はベッドから跳ね上がり、すぐにステッキを手にした。握りしめ、先端を扉へと向ける。
 狭い部屋のなかで、私たちは扉と対峙した。本能的な警戒を剥き出しにして、次の言葉を待った。
 ごくり、と生唾を飲む。
「そんなに怖がらないでよ。ずっと、会えるのを楽しみにしていたんだ」
 冷たい刃物で背筋を撫でられるような恐ろしい感覚がする。扉の向こうには、一体何がいるというのだ。
 声には聞き覚えがあった。昨日、新幹線のトイレで扉越しに話しかけてきた者だろう。あのときは、確か十坂が嘘をついているとか何とか言っていたはずだ。それを教えに来たのか?
「ねぇ、中に入ってもいい?」
「……駄目だ。絶対に肯定するな」
 十坂が険しい表情で囁く。
「十坂さん、一体どういうことですか。扉の向こうに、何がいるんですか。で、デペイズマンですか」
「……それしかねぇだろ」
「でも、言葉を使ってますよ……」
「……兵士なんかじゃねぇってことだ」
 これまで倒してきた奴らとは違う。
 つまり──〝本体〟がやってきたというのか?
 どうして今? まだ出てくる途中なんじゃないのか? どうやって?
 一体、何が目的で?
「中に入れてよ。折角来たんだからさ。ほら、中に入る許可をちょうだい」
「いいか、耳を貸すな。扉から離れろ、五宮」
 そう言われても、扉の向こうからひしひしと感じるプレッシャーに緊張してしまって動けない。脚が石化したように動かない。
 背中を、たらり、と冷や汗が流れていった。
「悲しいなぁ。僕に会いたくないの? ねぇ、この声に覚えはない?」
「お、覚え……?」
「考えるな!」
 十坂が喝を飛ばしても、動き出した思考は止められない。冷気そのもののような声色を、記憶の棚で参照し始めてしまう。
 声には、強い恐怖と共に──どこか懐かしさを感じていた。
 私はこの声を聞いたことがある?
「ねぇ、会いたいよ。中に入ってもいい?」
「やめろ!」
 記憶が勝手に繋がっていく。考えないようにしても、もう無理であった。
 ──あぁ、そうだ。
 俺はこの声を知っている。誰よりもこの声を知っている。
 毎日聞いていた。毎日思い出していた。どうして分からなかったのだろう。喋り方までそっくりじゃないか。
 正体に気がついた私は気が動転し、前後不覚に陥ってふらふらとよろけた。
 壁にもたれて、頭を抱える。目を見開いて、扉を凝視する。心臓がばくばくと早鐘を打ち、頭の中へ鼓動が大きく響き渡る。
 駄目だ──と叫ぶ十坂の声も聞こえないくらいに。
「中に、入ってもいい? ……──お兄ちゃん」
「………………あぁ、いいぞ」
 そう応えてしまった途端、閉じたままの扉をすり抜けて──少女が現れた。腰まで垂らした黒髪を揺らしながら、音もなく、まるで生えてくるかのように、ぬぅっと迫り出してくる。
 まさしく、幽霊。
 彼女はふわりと床へ降り立った。
「久しぶり、お兄ちゃんっ」
 私の肩くらいまでしかない身長で、こちらを見上げて可愛く微笑む。
 その顔を取り憑かれたように見つめながら──昨日、十坂が語っていたことを思い出した。
 魔法の本質。
 それは、あるはずのないものがそこにあること(・・・・・・・・・・・・・・・・・)
真昼の学校に夜が降りるように、廊下に街灯が立つように、車内で彫刻が売られるように、指先から火が出るように──。

「…………夏香」

 ──死んだ妹が現れるように。

アルモア4-6

アルモア4-6

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-02-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 【第四話】
  2. 【第五話】
  3. 【第六話】