映画『センチメンタル・バリュー』レビュー
古い生家で姉妹が執り行う母の自宅葬。そこに現れた父親が舞台俳優である長女、ノーラに持ちかける映画制作の話。自身の監督復帰作となる大事な作品をこの生家で、「お前を主演に撮る」と言う。自分たちを棄てた人からの信じられないオファー。それを一人の娘として断るのか。それとも、俳優として受けるのか。
①家族が住まう《家》という場所で何世代にもわたって受け継がれるものへの関心と、②同じ《家》の中で生まれ育った子供が異なる価値観を持つようになるのは何故か?という疑問を軸に紡がれるファミリー・ストーリーは父、グスタヴが手掛けた脚本の内容を巡って物語が展開します。
そこに書かれている内容の背景については歴史学者である次女、アグネスを通じて知ることができます。
父の母親、すなわち姉妹から見て祖母にあたる人物は第二次世界大戦中、ナチスドイツの傀儡政権となっていた故郷(ノルウェー)にて反対運動を行った反逆罪で逮捕され、過酷な拷問を受けていた。二年後に釈放された彼女は結婚をして父を出産。家族と幸せに暮らしていたがある日突然、家の中で首吊り自殺を図って亡くなった。
自分たちを棄てて家を出た父親が、自分たちと同じように心の平穏を失っていたという事実はノーラと違い、グスタヴに対して柔和な態度をとるアグネスの大きな理由となるのですが、その一方でノーラ以上の心の傷を負っているのもまた彼女の真実で、仲違いの地雷がそこにしっかりと眠っている。
ノーラは父が家を出て行った後、憔悴し切った母親と幼い妹の面倒を見ながら送る生活に疲れ、ズタボロになっていった気持ちを役という他人を演じることでどうにか自分を保っていた。そのお陰で実力ある舞台俳優になれたけれど、常に不安定な精神状態で仕事に取り組む日々を送っています。棄てられるのが怖くて家族も持てない。不倫関係にあるスタッフとの未来も見えないまま。昔も今も、ずっと一人。その事実を消化できないでいます。
では肝心のグスタヴはというと、実はその現状について劇中ではほとんど描かれません。
今どこに住んでいるのか、恋人はいるのか、最後の作品を撮ってから十数年も空いたのはなぜか。それにあの時、家族を棄てて出て行った理由は?そのことを後悔していないのか?母親が亡くなったことを知った時の気持ちは?等の疑問が彼を見る度に沢山思い浮かぶ。またその内容が家族関係の修復に大事だと思えるのに、それに対するアンサーは映像として一秒も映ってくれない。父親としてのグスタヴはひたすらに謎めいていきます。その結果、私たち観客はノーラやアグネスと共に《映画監督としてのグスタヴ》に付き合うことを強いられるのです。ここが本作の演出上、非常に重要なポイントになります。
題名にあるセンチメンタル・バリュー=思い入れは、客観的には同じものの価値を大きく変えてしまう主観的な判断。その内容も人の数だけ異なるものです。故にその食い違いがあって当たり前。なのに、主観に支えられた思い入れだからこそ、その無理解が関係性に決定的な亀裂を生んでしまう。
この心理的な事実を踏まえた時、ノーラ、アグネス、グスタヴの間にある「父に棄てられた/家族を棄てた」という過去に走る亀裂が決して埋まることなく、少しのすれ違いで拡大するばかりになることが予測できます。その隔たりを埋めるためにいわゆる許しの描写がヒューマンドラマとして必要になるのですが、本作の場合、父であるグスタヴがとにかく《映画監督としてのグスタヴ》であり続けるため、娘として関わろうとするノーラやアグネスとの間で心の融通が生まれません。実際、彼らの仲はすれ違いを深めていきます。関係修復の機会を持てるとしたらそれはもう、彼が撮ろうとする《映画》の中にしかない。
こうして壊れかけの家族が《映画》の中で作り直されるという自己言及の作品、『センチメンタル・バリュー』の構造は完成します。四人目のキーパーソン、エル・ファニング演じる人気俳優のレイチェルもここでやっと紹介できる存在となるのです。
例えば「モデル作品の実写化にあたって、登場人物を演じるべきはモデルとなった本人か。プロの役者か。」と問われれば、十人十色の理由が二者択一の答えに押し込められると想像しますが、本作についてはそうではありません。いい《映画》を撮るという正解に向けて出される答えは一つです。つまり監督、あなたはどういう作品を撮りたいと思っているのですか?この一文に尽きます。つまり思い入れは、彼の脚本に宿っている。
それを炙り出すためにレイチェルが積み上げなければならなかった違和感は、グスタヴが撮ろうとする映画をただの仕事にし、ファミリー・ストーリーとしての本作を殺そうとしていた。その結末を最も許せなかったのがまた彼女だったというのは残酷な脚本で、と同時に非常に誠実な描写として心に残ります。全くの赤の他人で、かつノルウェー人でもないレイチェルだったからこそ、彼女にしかできない立ち回りで最も鋭いグスタヴ批判を行い、事態を大きく動かして、《映画》自体を知的な構造から解き放ったといえるでしょう。
センチメンタル・バリューという言葉に宿る破壊と創造。その風向きを変えてみせたレイチェル。
彼女が去った後で訪れるラストを迎えても、グスタヴはやはり《映画監督としてのグスタヴ》のまま。なのですが、そのスタンスから滲み出るものが真に言葉にならない台詞として最高のフィナーレを飾ります。ノーラをして「会話にならない」と評された父娘のストーリーに相応しい幕がゆっくりと降りていく。それを《あの視点》で観れたのは本当に感動的でした。
本作が第78回カンヌ国際映画祭のグランプリを受賞したのは伊達じゃありません。練られた脚本、素晴らしい俳優陣、物語としての昇華、触れてくる感情と立て続けに起きるフィクションのマジックが導き出した必然です。興味がある方は是非。洋画の不振をぶっ壊す傑作を劇場で楽しんで下さい。
映画『センチメンタル・バリュー』レビュー