キリンが見る夢
180センチ近くある若い女性がかれこれ30分近く、会社員の男性に叱られ続けている。彼はさぞかし溜飲をさげていることだろう。
我が世の春を謳歌しているように見える生意気な若い女が平身低頭している姿は彼にとって最高の見ものだった。常日頃は彼のほうが、人に頭を下げて頭のてっぺんを見せて、女性たちからはいないもののようにされているのだから。
女性の方はこれだけ上背があると、威圧感もあり陰口を言われることはあってもからまれることは少ない。
しかし、弱いものを見つけることに嗅覚がすぐれている者がいる。彼はこの背の高い若い女性が実はおとなしく大きな声に委縮することに気づくと、それから執拗にあらさがしをするようになった。
イリエが別の対応をしていると、他のスタッフを必要以上にほめちぎることでイリエを貶めた。イリエが休みの時は、そそくさと用事を済ませて出ていき、たいそう分かりやすかった。
これで三度目だった。「二度目はないからな」と捨て台詞を言われたのはついこの前のことだ。精一杯気を付けていて、粗相も少なくなっているのに、その会社員が現れるだけで動悸が早くなり冷や汗が出るまでになった。
それほど彼の恫喝めいた❝ご意見❞は、彼女、イリエをますます委縮させた。この際、身長も縮んで見えなくなったしまえばいいのにと「まったく成長がない」「大きななりしてどこをみているんだ」「私はクレーマーではない、正当な要求だ」・・・。
彼は気分がよさそうで、常識を知らないこののっぽの女に言ってやらなければ、という身勝手な正義感に酔っている。こんな時いつも間に入って一緒に頭を下げてくれるオーナーは今日に限って所用で不在にしている。
どうにもできない雰囲気が店内に漂い、言う方も疲れてきているはずなのにむきになって、話の落としどころを見失い、イリエの不手際をあげつらい同じ話を何周もしている。よく聞けばすべて同じ内容だが、長く社会人をしていると同じ話を違う言い回しにする技術も会得するようだった。
しかし、一スタッフのイリエにはただ謝るしか術がなく、早く彼の気が収まることを願うしかできない。先ほどから胃のあたりが空腹の強いときのように痛くなってきた。きりきり、しくしく。
イリエの職場は小さなカフェだった。オーナーのこだわりが満載の小さなカフェだが、北欧風の内装とかわいらしい雑貨と酸味のないまろやかな珈琲のおかげで人気のカフェだ。
表紙のきれいな本を壁に飾るように設置してる。オーナーも穏やかな人物で、そこで働きたいと志願する人は多く、イリエは自分が採用してもらえるとは思えなくて、初出勤の前夜は眠れなかった。
働くスタッフも目利きのオーナーが選んだとおり身ぎれいでさわやかで落ち着いた人たちばかりで、仕事は楽しかった。お客様たちも年齢層が広く、余裕があり、緊張気味のイリエに対しても急かすことなく静かに待ってくれていた。
しかし、時には目の前で口の端に泡をためて、次の攻撃文句を考えているような人がふと迷い込む。そんな彼は背は高いがどこかおどおどしたイリエに目を付けた。
(それにしても今日は長い)
彼の人を責める時の気力は無尽蔵らしく、言葉遣いもぞんざいになり「だからあ」「逆に」とつながらない接続詞を連ねて話し続けている。
ついにはイリエの背が高くて見上げるのが疲れると、イリエにはどうしようもないことをいいはじめ自分は椅子にどっかりと座り、イリエには、目線をあわせるように「ひざまずけ」と要求した。
ここまでくるとその言い分の異常さに周囲はざわめきだすが、イリエは怒鳴られ続け正常な判断ができないまでになっていた。
「私のオーダーはいつも決まっている。二度と間違えないようにひざまずいて復唱しなさい」
動けないでいるイリエに見下ろされる形になった会社員はいらだちをつのらせる。
「そうやってでくのぼうになっていれば、私がもういい、と言うと思っているのか。」
彼は立ち上がりイリエの肩を押してひざをつかせようとした。さすがに同僚たちが一歩前に出ようとしたとき、最近、新しく採用された早川という青年が、テーブルに一服の珈琲を静かに置いた。そして、会社員の注文をそらんじて見せた。
「お待たせいたしました。」
そう言って、イリエを自分の後ろに押しやった。二人とも何が起こったか気づくのが遅れるくらい自然で静かな動作だった。
はたと我にかえった会社員が、そうじゃない、この無能な店員に言って聞かせているのだ。勝手に持ってくるなど非常識だ、とまだ持論を展開しているが、息がとぎれたところで早川青年は静かに話し出した。
「もう30分過ぎています。30分、他のお客様のひとときをあなた様の声が占拠しています。ついでに言えば彼女の就業時間がもうとっくに過ぎています。確かに彼女は何か失礼をしたかもしれません。それについては、お詫びします。しかし、肩を押さえて、ひざまずかせるほどのことでしょうか。それはあきらかな強要です。いきなり膝をついてそこを強く打つかもしれない。場合によってはけがをする。その時点であなた様にも非が生じます。先ほどから聞いていれば、確かに最初のほうはご意見でしたが、後のほうはただの言いがかりです。」
会社員は何だと、とだけ言って次の言葉を探しているが、早川は独り相撲をしている彼を土俵の外から見ている。
「彼女はきちんと謝罪しました。何度も。就業時間を過ぎているのに一言も言い訳をしていない。ここの就業規則には、スタッフの仕事は、店内を清潔に保ち、お客様に丁寧な接客とおいしい珈琲、楽しい時間を提供することとあります。もちろん不手際はお詫びしますが、30分も目的のない話を聞くことは私たちの仕事ではありません。これで三度目だとお聞きしています。私たちの側にも業務を妨害する方に対しては、退店、および再来店をしないでいただくよう求めることができるのをご存じですか?せっかくきてくださったお客様に対して、めったにそんなことをする気はありません。しかし、今、それをあなた様に求めます。今は人手不足で彼女にやめられたら損失です。第一はお客様へのサービスですが、従業員を守り、気持ちよく働いてもらうことが人を雇う側の責任です」
ただでさえ数少ない男性店員の出現に、会社員の目は泳いでうろたえている。
「店長を呼べ」「店長とは知り合いだ」「二度と来ない」「言いふらしてやる」と彼も負けずにさらに大声を張り上げり早川につめよった。早川が両手を後ろに組んで至近距離で会社員と向き合い、顔に唾が飛んでいてもまばたきもしなかった。全てに「ご随意に」で返し続けている。
「店長にはすでに連絡し、確認をとっています。店長もあなた様のことはご存じでした。しかし、あなた様やその後ろにいるであろう同じような考えの方々より、優秀な一人の店員を守りたいとおっしゃっていました。僕はその立派な店長の代理として僭越ながら申し上げています。」
店内の空気は完全に早川寄りになっていた。延々と女性を追い詰める彼にうんざりしていた。
「ご注文の珈琲が冷めてしまいましたね。もう一度淹れなおしましょう。テイクアウトなさいますか。お代は結構です。ご不快な思いをさせたことへの謝罪とさせてください。お帰りはあちらです。そして、二度とのご来店がないようお願いします」
早川は話を打ち切ろうとした。
「客を差別するのか」「侮辱だ」「自分は教えてやっている」「自由な意見も言えないのか」会社員はまだ言い募る。
「学生のバイトか?どこの大学だ?店長にも学校にも言ってやる。」
「僕はこの近くのN大学の三回生です。学部は法学部です。言いつけていただいて構いません。大学の門をくぐることができるなら。僕より腕も弁もたつ友人が大勢います。彼らとも自由な意見をかわしてみますか?」
「口だけ威勢がいいが結局は友達に助けてもらうつもりか?」
「はい。頼もしい友人たちです。僕は腕力には自信がありません。気に入らなければ僕を腕づくでひざまずかせることもできます。それで少しでも気がすむなら。しかし力に訴えたら、それ相応の対応をすると思ってください。僕はあなたのことを覚えました。僕も逃げないしあなたも逃げないでください。それから、そこの防犯カメラが全てを記録していることをお忘れなく。防犯カメラがあろうがなかろうが正当なクレームを言ったのだと周囲を納得させられるのですよね?」
「当たり前だ。間違ったことは何一つ言っていない」
「承知しました」
この近くには大学は一つしかない。誰もが知る有名大学だ。会社員はいまだ強気ながら、疲れたのかもう言葉のストックがなくなったのかのどが乾いたのか珈琲を一気に飲み干してとうとう出て行ってしまった。
やや茫然自失していたが、出ていく間際、イリエをにらみつけることは忘れなかった。
(お前のせいで恥をかかされた)
店内に静寂がもどった。その間に訪れたお客様もかかわりをおそれ、テイクアウトして店を出て行ってしまっていたが、見守っていた人たちからは、ぱちぱちと拍手が起こった。
早川が深々とお辞儀をした。そんな仕草も堂に入っている。
「皆様大変失礼しました。先ほどからこの場にいたお客様にはオーナーから今日の代金はいただかないようにと申しつけられています。このあともごゆっくりお過ごし下だい。」
イリエが飲み干された珈琲を片付けようとすると早川がそれを制した。
「もう交代の時間ですよ。気を付けて帰って」
小声でそういいながら、イリエと目線をあわせた。目線の高さ、身長はイリエのほうがわずかに高い。それなのにまわりから包み込むような表情をしていた。
厨房へ下がっていく早川を追いかけて、イリエは何度もお礼を言った。涙がでるのをこらえた。早川の目がとても優しかったから。
「気にしないで。もっと早く助けられなくてごめん。だいじょうぶかな?このことで、やめないで欲しい。君の働く姿、好感を持っている人のほうが多いよ。」
目を細めて、失礼するね、と早川はイリエのエプロンの紐のねじれをなおした、触れられた紐から熱が伝わってくる。
「私はほんとうにでかいだけで、気がつかない。さっきのお客様がまた来られたらと思うと・・」
早川は目をすがめて、ため息をついた。人差し指をイリエの顔の前にたてて首を横にふる。そんな古臭い仕草がいかにも絵になる不思議な青年だ。
「君みたいに自分を卑下する友人がいる。僕にとってその人はいいところだらけの特別にすてきな人だけど、その自虐だけはどうにかしてほしい」
早川の特別な人が気になり始める。その人のことを話している早川の顔はイリエに向けられるものよりも、もっともっと慈愛に満ちている。
「イリエさんだったかな?イリエさんはその人に似ている。背が高いのは君の美点のひとつだ。それに、君より気配りのできる人はいない。入ったばかりのやつに何が分かるって思っている?ここのオーナーが選んだ時点で君はすてきな人確定だ。またあんなお客がきたら僕に相談して。他のみんなも同じ気持ちだよ。君らしくいて」
毅然とした態度で自分を守ってくれて、素敵だよ、と真顔で言われて、言ってくれた相手に好感を持たずにいられるだろうか。
しかし、早川にとっては、それは日常会話の一つだということをイリエは後になって思い知る。
早川はみんなと楽しそうに会話しているようにみえて、一歩引いてものごとを俯瞰して見ている。誰に対しても平等で自然体な態度なのだ。
今まで、勤務時間が重なることがなかったので、顔もほとんど見たことがなかったが、あるお休みの日、店を外から見たとき、早川が立ち働いていた。昼下がり、三人組の優雅な奥様たちと、旧知の仲のように会話をかわしていた。本日の珈琲豆の説明をしているのだろう。
イリエもできる当たり前の光景なのに、微弱な電流が走ったように胸がつくつくと痛かった。
あの会社員には例外として、どんな相手にも礼儀正しく親切で、その声はとても聞きやすく耳に優しい。居丈高な声とは全く違う落ち着いた低音の声で、接客を行い、同僚たちと談笑をする。秘密めいたところが多く、彼が大学生であること以外何ひとつ分からない。
早川の通う大学は熾烈な受験戦争を潜り抜けた学生たちばかりで、授業料も高額で、特権意識が強いというのが初見の印象だ。気位も高いのかカフェにお客様として訪れてもどこか尊大な態度が多い。たまにスタッフとして採用されても、あまり続かない。
あくせくとアルバイトをする必要のない大学生たち、あまり意識しない「格差」というものをイリエは彼らとの間に垣間見る。
早川もそんな学生の一人かと思えば、彼らとは一線を画している上に一目置かれているようだった。早川を訪ねてくる同級生のお客様は一定多数いた。本当に彼らと早川は同年代だろうか。早川はあまりにも大人びていた。心を許した相手には、我儘を言ったり、自分をさらけ出すことがあるのだろうか。
「高校の頃はださかったんだよ。今もだけど全然もてなかった」
そう謙遜する早川だが、身に着けているものも品質のよいもので、一大学生でここまで洗練されたふるまいは一朝一夕では身につかないと、イリエにも分かる。
明らかな誘いを受けても、相手に恥をかかせないようにしているのか、微笑んでいなすような断り方をするから相手が粘るときもあり、イリエは自分の気の弱さを棚に上げて少しいらいらする。
早川でない男性が言えば、鼻について笑われるような言葉も、彼があの声で言うとさまになるから、本当に不思議だ。よほど言いなれているのかとイリエは顔も知らないその相手を思い浮かべる。
三か月もたつと早川はすでに常連のお客様を獲得してしまっていた。笑顔でおすすめの珈琲とデザートをすすめながら短い世間話も交わす。
相手は、もっと話したそうにするのに、一瞬でお客様と店員の空気に戻してしまう。慇懃さと気安さの使い分けがうまい。
イリエは早川と同じ勤務時間帯になることを願うようになった。あの日、静かに現れて、自分を守ってくれた。一緒に働いていると安心感と少しの緊張感がないまぜになる。
久しぶりに感じる胸の鼓動の煩さは不快ではない。この煩い鼓動が体の中から出てしまって音にのって、早川の耳に入っても、早川はきっと動じない。音楽を楽しむように、笑みをたたえてくれるはずだ。彼が必死に誰かを口説くところなど想像がつかない。
イリエの身長は、日本人女性の平均身長よりはるかに高い。生理がはじまっても、高校生になっても身長が伸びた。いつも集合写真を撮るときは後列の左右どちらかの端。
海外に短期語学研修に行ったとき、初めて自分より背の高い女性を見た。かっこいいとかモデルになればいいのにとか言われるが、可愛いとは決して言われない。
内面と外見の乖離でこうありたいと願う自分の像、イリエはずっと思い描けない。曇って、何の用もなさない鏡を見つめて続けている。少なくともイリエの中では堂々としているのと中身まで自信がみなぎっているのとはまったく一致しない。
「背が高い」はまだ普通だ。「わ、デカイ」とすれ違いざまに言われるのはいつだって心臓が無遠慮に握りつぶされる思いだ。デカイが代名詞のように使われる女性は自分くらいではないだろうか。
「もうすぐつく?そうそう、近くにすごい背の高い女の人がいるでしょ」
と目印にしながら小柄な可愛い女性が携帯電話で話しているのを聞いた時、自分も待ち合わせでなければ、その場から走り去りたかった。
「お待たせー。すぐ分かった。わ、本当に大きいね」
小声でも聞こえている。小柄な彼女と、イリエと同じくらいの背丈の彼氏。彼氏は彼女を抱え込むようにして、無神経な言葉だけを見ず知らずのイリエの心に刻んでいく。慣れているはずだ、すぐ忘れる。
イリエはいつもそうつぶやいて気持ちを落ち着かせてきた。立っていると人より背が高いのが分かってしまうから、座っているようにした。横にも大きいと言われないように太らないように食事も気を付け、両親を心配させた。両親からいくら言われても自分を肯定的にとらえられない。
周りの人は全て心無い人たちではなかった。内面を見てくれる友人たち、いつだって自分の味方の家族、そういう人たちの方が割合的には多い。
しかし、見ず知らずの、または、少ししか親しくないたまたまの同級生たちの正直すぎる言葉に、家族や友人の思いやりさえも否定される。そんな思いをずっとしてきた。付き合う相手は自分より背の高い人、という条件を譲らなかったばかりに、目の前でくだをまいているこの男性がイリエの初めての彼氏であり、傷つけられながらも別れられないでいる。
「バーカ、何聞いてんだ。」
彼氏のお酒の注文を間違えた。人の感情は麻痺する。麻痺することで心の中のやわらかな一点を守ろうとする。あの会社員の暴言や威圧は確かに怖いが、イリエがどこか鈍感になれたのは、彼氏のユウマのおかげといえる。あの会社員には何の感情もわかない。
しかし、ユウマに対してはイリエの大切な気持ちをささげたているという点で決定的に違う。
イリエより身長の高いユウマははじめはとても優しかった。初めて信じられる男性に会えたと思った。
すぐにそれは見込み違いだと気づいた。ユウマは容積は大きいく見えるが口縁は小さな瓶だった。要はいじましい狭量な性格だった。見下ろされて可愛い存在になったかのように錯覚した。初めて自分を女性として見てくれた一見朗らかなユウマが見かけだけの瓶だと理解するまで、イリエは何度も自分に言い訳をした。他に恋愛をしたことがなくても、もう大切にされていないことは分かる。それなのに別れることができないでいた。
「バーカ」は、イリエが持ってきたお酒が自分の思うものと違ったからだった。「バーカ」はユウマのイリエへのあいさつのようなもので、発音的には侮蔑的な響きの「ばあか」である。
「まともに注文もできないのか。こういう場所に慣れてなくて緊張してるの?」
「ごめんなさい、替えてもらってくる」
「バカ。もういい。飲んでやるからよこせ。次間違えるなよ」
恩着せがましく言って、それでも美味そうに飲んでいる。おそらくイリエは間違っていない。
もうかなり出来上がっているからいまさら何を飲んでも同じだろうに。こんなやりとりはいつものことだ。素面ならもっと言われている。イリエは言い返さない。とかくイリエのいうことを認めず、信じず否定することが多い。一言の口答えに三倍返ってくることを覚えているからだ。時に手や足が出ることもある。
背が高いからと言って頑丈とは限らない。男性の本気の力がいかに強いかをイリエは身を以て知っている。
初めて入った店だった。映画で見るようなおしゃれなバーで、ほのぐらい照明が灯り、イリエにはお経にしか聞こえない音楽が流れていた。
「つまみがまずい」
「他のを頼む?」
「お前のことだ。ふん、冗談だよ。」
お前と飲む酒は旨くない。そう言いながらもユウマには友人が少ない。家で飲むことに飽きるとこうしてイリエを誘う。
「もう一杯、同じの」
イリエはうなずいてカウンターへ向かう。カウンターまでお酒を受け取りにいって、思いがけず早川の姿を見つけてしまった。溶け込むようにスツールに座って、何かノートに書いている。
しばらく集中して書き物をしていたが、やがてキリがついたらしくノートをしまうと、すっとグラスが差し出された。
彼の集中力が途切れるのをはかったかのように、女性が彼の隣に座る。イリエの方からは顔が見えない。その間も何人かと挨拶を交わしている。そこだけ時間が止まったようだ。イリエは注文も忘れ、ぼうっとその様子を見ていた。
「イリエさん、こんばんは。」
早川に声をかけられ、あわててドリンクを注文する。
「ここで会えるなんて。見違えたよ。今日も素敵だ」
そういう早川もこしらえすぎず、それでいて完璧な着こなしで、イリエをまぶしそうに見上げている。場慣れしていて少し崩れた中にも品の良さがにじみでいていて、暗い場所なのに、なんだか早川がまぶしくてまともに見れない。
「女性を立たせたままで失礼。座ってほしいけど、一緒に来ている人がいるんだね。」
ユウマにからみ酒をされるくらいなら、早川の隣で、おすすめのドリンクを教えてほしいが、背後にはっきりとユウマの視線を感じてイリエはあいまいに笑い返す。
「知っている人?」
「同じバイト先の方。イリエさん、連れの方を待たせてしまっているね。ごめんね」
隣の女性が尋ねてくる。イリエはグラスを握りしめて、早川に背を向けた。
「にやけちゃって。誰にでもいい顔するんだから」
「知っている人にあいさつするのは当然です」
「嘘。いつもはもっとそっけないくせに。会えてうれしいのバレバレ」
「素直な僕も悪くないだろ?今日は、いつもと違う香水かな?新鮮な香りだ。気づいたのが僕が最初ならうれしいな」
「・・話かえようたってだめだからね。目ざというえに鼻もきいて、いやなやつ」
「君はどんな顔しても可愛いね。僕は耳もいいよ。君の声ならどんなに騒がしくても聞き分ける。さっき君に声をかけたやつらとか他の声はみんな雑音。僕に嫉妬させてるの気づいてる?」
「知ってたの・・?」
「僕の五感は君のものだよ」
どんな顔をして言っているのか。キザすぎて鳥肌がたつような甘い言葉が立て板に水のようにのろのろと立ち去るイリエの耳に流れ込んでくる。
早川でなければ言われたほうが凍り付いてしまうかもしれない。お酒とわずかなつまみだけしか入っていないような胃がもたれている。
今度は間違えなかったらしい。イリエが持ってきたお酒にユウマは何も言わなかった。かわりにじっとりした目でイリエを上から下まで眺めまわした。
「あいつ知り合い?」
早川と話しているところをお酒で濁った目はしっかり見ていたらしい。同じバイト先であることは言わないほうがいいと、長年の経験が言っている。イリエは首を横にふった。
「知らない人。ユウマのところに早く戻りたかった」
早川の真似をしてみる。
「お前に声をかける男がいるとはな」
嫌味で返したが、ユウマはイリエを信じたようで、やにさがっている。早川に背を向けた席でよかった。早川と彼女が仲睦まじくしているところを見なくていい。
「俺はあいつを知っている」
ささいなことでも、ユウマは自分は知っていることを説明したがり、イリエは知らないというとうれしそうにする。饒舌に語りだす。
「あいつはトキツって呼ばれている。苗字は知らない。有名な作家の息子で、そこそこ羽振りがいい。どうせ親の金だろうけど。あいつと話したい奴はたくさんいるからいつも誰かとおしゃべりしている。連れてくるのはあの女だけみたいだけど、その他いろんな女が話しかけてる。どこがいいんだか、あんなひょろっとしたにやけたやつ。女たちも言われて喜んでくねくねしっぽ降りやがって」
理不尽な言葉の暴力から、守ってくれた凛々しいトキツの背中を思い出す。トキツの言葉は理路整然としていた。確かに細身の体格は、相手が手を出したら勝ち目はないように見える。
しかし、たとえ相手が力にものを言わせても、トキツはひるまないだろう。ユウマの言う軽佻浮薄なイメージとは違うトキツを知っている。
おそらくお金持ちなのは本当で、それも代々続くような裕福な家で育ったに違いない。
トキツがスツールから降りる彼女を手伝っている。彼女も慣れたように優雅に降りるが、それでも短い丈のスカートの裾が乱れるのを隠すように彼女をまわりの視界からさえぎっている。ユウマは決してしない行動だった。
トキツと彼女は手をつないで店内を横切る。近くに来るとユウマはイリエに目くばせすると、さも知り合いのように手を振ってみせる。
普段はできないこともお酒の力を借りればできるようだ。トキツも無視することなく軽く頭を下げた。
「こんばんは。ひさしぶりですね」
旧知の友に会ったように柔和に微笑む。ユウマも笑い返したが、口元を歪めたようにしか見えない。
「俺を覚えていてくれたとは。毎晩いろんな方々と楽しんでいるようだから手を振って空振りだったらどうしようかと思った」
ユウマは普段は小心者で、それにもう少し分別がある。ひさしぶりにあった人にまでこんな言い方をするほどお酒に吞まれている。
「覚えていますよ。お酒に強くていい飲みっぷりだと感心していた。今日は調子が悪い?ずいぶん酒に呑まれているね。」
「今日は疲れて酒のまわりが早いみたいだ。優雅な学生さんとは違って忙しくてな。こいつが連れて帰ってくれるからだいじょうぶだ。」
「彼女は楽しんでる?」
「いいんだよ。こいつは。忙しい俺と久しぶりに飲めるからうれしいよな?馬鹿力はあるんだから俺の世話くらいどうってことないさ。気が利かないデカイだけの女だ」
ユウマはイリエを顎で示す。イリエは無理に笑ってうなずく。正しく笑っているだろうか。ユウマはイリエより背が高く、体も厚い。到底イリエが運ぶことはできない。
トキツの眉がピクリとする。何か言う前に隣の彼女がつぶやいた。トキツの前とは違う冷たい声音で、見たくないと言わんばかりにつんと横を向いている。
「かっこわる」
ユウマは、こういう時だけ耳ざとい。
「ああ?聞こえなかったんだけど、何て言ったの?」
色をなして詰め寄りながらもよろめくユウマをトキツが抱きとめた。きっといい匂いがするのだろう。ユウマは驚いて目を見開きながら、鼻がうごめいている。
トキツはすぐ体を離して、今度は親しく肩を抱くと、ユウマはふりほどくことも忘れている。
「せっかくだから、僕ともう一軒行かないか?とっておきのお店を紹介する。料理もお酒も絶品だよ。久しぶりに会ったんだ。僕が奢ろう。」
人気者のトキツが誘うと猜疑心が強いはずのユウマもまんざらでもなさそうに急に相好を崩した。
「えー、やだやだ。トキツ行っちゃやだ」
面白くないのは彼女だ。ユウマとトキツ両方を睨んでいる。
「もうタクシー呼んだからこの人と帰っておいて」
「やだ。いっしょにいく」
「だめ」
トキツは彼女の耳元で何かささやく。彼女が頬を染めてしぶしぶながらうなずく。
「絶対だからね。忘れないで」
「約束。小指一本じゃ足りない」
トキツは、彼女の小さな手をとって5本の指全部をからめて、指切りげんまんとばかりに軽く振って見せたあと、指の間をなぞるようにゆっくり離していった。
トキツは頬を赤らめている彼女にもう一度何か言って、ユウマを店外へ連れ出した。結局ユウマは財布を出すことはなかった。イリエはため息をついて会計に向かうと、すでに支払いはすんでいた。
「帰るよ。追加で何も頼んでないならもうだいじょうぶ」
呆気にとられているイリエを彼女は腕組みして仏頂面で待っている。どこもかしこも甘そうなカップケーキみたいな女の子だ。メスゴボウなどと言われてきたイリエには絶対ないか弱さとかわいらしさ。
トキツがその甘さを確かめるように彼女の手に唇を寄せるのを想像する。それから、トキツは宝物のようにそっとしっかりと抱きしめるのだ。
彼女はミレイという名前で、タクシーの中は彼女の発する甘い香りに満ちていた。運転手は女性で二人が乗ったことをちらりと確認すると淡々と車を発進させた。
しばらくお互い無言だった。暗い車窓にミレイの白い横顔が映る。長いまつ毛は夜も更けているのに上向いている。
「ごめんなさい」
「何が?」
ミレイはつっけんどんで取り付く島がない。トキツに甘える姿とは全く違う。分かりやすいくらい態度が違う。外は昼間のように明るいのに人工的な明るさのせいか何かに囲まれているような景色が広がっている。
トキツとユウマはどこにいるのだろうか。イリエは不安を申し訳なさでミレイに話しかけ続けた。
「二人の時間を邪魔してしまってごめんなさい」
ミレイが舌打ちをしてやっとこちらを見た。世界一可愛い舌打ちだと思った。ものすごく美人だ。もとからの美しさを磨き続けてどこの角度から見ても完璧だ。
「あなたが悪いんじゃないから謝罪は結構。私はあなたの彼に腹をたてているの。器の小さいかっこわるい人。トキツはどうしてあんな人と飲みに行くの?」
吐き出すとミレイの態度はいくぶん軟化した。腕組みも解いた。腕組みは相手と話したくない心情のあらわれと何かの本で読んだ。イリエはミレイの完璧なメイクに縁どられた美しい目をまともに見れず大きな体を縮める。
「否定しないの?自分の彼女を人前で貶めるような下の下の男ね。照れ隠しなの?でもどうせあとでフォローもしないんでしょうね。ぜんぜん恋人同士に見えない」
全部本当だった。本当すぎて苦しい。
「お前みたいなデカイだけの女、俺くらいしか相手がいない」
「お前の良さを分かっているのは俺だけ。」
ずっとそういわれてきた。
「気が変わった」
ミレイはそう言って運転手に行先の変更を告げた。
「このまま帰るなんてありえない。気分悪いから付き合ってくれる?」
そう言って小さな手鏡で顔をチェックする。そんな必要もないくらい美しく艶めいている。明日の予定を頭の中で確認してイリエはうなずいた。
ミレイはトキツより2才年上で高校の先輩だという。胸とお尻はふっくらと張りがあり、くびれた腰、そのほかの部分は折れそうに細い。夜も更けたにもかかわらず、指通りのよさげな豊かな髪がふわふわとなびく。歩くたびにスカートの裾から香りが揺れるようにふりまかれる。周りの目はミレイに釘付けだった。遠慮のない視線にも慣れているのか目もくれない。
まわりにずっときれいだ、可愛いとちやほやされてきて女性に共通する驕慢で生意気な気質、全身色づいているのに言葉や態度では媚びない。そんな女性を征服したい男性の欲をうまく操り、男性がかしづき守りたくなるようなお姫様。それなのにトキツは彼女の気分を損ねてでも、ユウマを連れ出した。
ミレイお気入りのお店は雰囲気も調度品もしつらえも古風で落ち着いていて、ひらひらしたミレイとは少しあわない。客層は一過性の流行よりも自分の好きなものだけを大切にするような感じの人が多い。
「今日はトキツとここに来るはずだったのに」
ミレイは爪先まで抜かりなくきれいだ。反射的に謝りかけたイリエの顔の前にミレイは細い指をかざす。トキツと仕草が重なる。
「もう聞き飽きた。そんな条件反射みたいな謝罪はいらない。ごめんなさいはあなたの癖かしら?ごめんなさいっていえば、その場は収まるだろうからあなたには便利な言葉よね」
ミレイなら嫌味も許せる。そして自分も思ったように言っていいのだと脳が勘違いする。ミレイに恋をしてしまいそうになるのも脳の勘違いだろうか。
「ミレイさんはここにはよく来るんですか?」
「そうね。最初はトキツに連れてきてもらったんだけど、最近は私のほうがお気に入り。意外?」
「はい。正直意外です。もっと騒がしくて軽いところが好きなのかと」
「言えるじゃない。それでいいのよ」
ミレイが初めて笑った。イリエが欲しいものすべてを体現したような美しい女性が初めて見せた笑顔はあどけなくて屈託がない。話してみればミレイは年相応のごく普通の女の子だった。
本当にユウマに対して怒っていただけで、イリエには全く敵意はない。態度は高慢だがそれを上回るかわいらしい話し方をする。
ミレイははなから自信なさげで人の好さそうなこの背の高いイリエを敵視はしていなかった。恋敵として、という意味だった。ごつごつしていて女らしいまろやかさがない。
トキツが何を思ってイリエに親切にするかは分からない。何かが彼の琴線に触れたのだろうが、トキツがイリエに本気になるとは到底思えなかった。
ミレイは以前、トキツを試したくて何人かの誘いにのってみた。トキツは誰にでも親切にしても、意外にも誰とも浮気はしないことを知っている。
高校生の時分に、「女の人は暗いところで見ればどの人も大差ない」とすでに女性とのやりとりに食傷気味のところがあった。
トキツはミレイがどんなにわがままでも決して怒らない。嫉妬しているふりも、ミレイがそうして欲しいのを知っているからに過ぎない。
どんな人と会っても、トキツは何も言わない。トキツが孤独でいたい時は生死さえ分からないまでに連絡がとれなくなるように、線をひかれる時もある。
そうかと思えば、二人でいるときは夢心地の時間をくれて大切にしてくれる。
初めて会ったときはまだ少年だったのに、そのころからずっと引き寄せられて時々苦しくなるのに離れられない。それでもトキツからの「一番好きだよ」「他の人には何も感じない」を信じて、自分にゆがんだ自信を持っていた。この容姿と同じように、自分の気持ちは誰にも負けない。
「彼の前では知らないふりをしていたけど、ほんとうは知り合いでしょ?」
あっさり言い当てられて、イリエは同じ職場であること、先日のことを全て話してしまった。ミレイはあの会社員の話になると「サイテー」、「むかつく」と合いの手をいれながら一緒に怒ってくれた。
「トキツらしい。トキツって無関心なふりしてるけど、結局困っている人を放っておけないの。お兄ちゃん気質。私も何度もトキツに助けてもらった。仕事のせいか変な人に目をつけられることもあるけどいつだってトキツが守ってくれる。」
「ミレイさんはいつからの知り合いですか?」
「高校の時。トキツは一年生だった。トキツは目立たなくて、その上すっごくださかった。女子が誰も見向きもしない。私も最初は眼中になくて・・。でも、お父さんに大人の集まりに連れていかれてたからかちょっと悪いことも知っていて、少し前まで中学生だっとは思えないくらい。クラスでは空気以下だったけど、上級生や他校の生徒からは一目置かれてた。」
ミレイの目元はそのころを思い出しているのか、ほんのり赤くなっている。思い出しているのは健全なことだけではないかもしれないくらい艶っぽい。「ださかった」というトキツ少年が想像できない。
「ほとんどの同級生はトキツのいいところに気づかないまま」
「ミレイさんは特別なんですね。トキツさんの魅力に気づいた最初で唯一の人」
ミレイはそれを聞いてうれしそうだった。ようやく気の利いたことが言えたとイリエは少し安堵した。
それなのにユウマのせいでトキツの時間を台無しにしてしまった。トキツがユウマとの会話を楽しむとは想像もできない。
「トキツさんはだいじょうぶでしょうか。ユウマが迷惑をかけているかも」
「心配ない。トキツは見込みのないことはしないの。どうにかできるって思ったから連れて行ったのよ。悪いけど、彼、トキツの手のひらの上でいいように転がされてもう夢の中かも」
確かに、ユウマはイリエには威圧的で専横的だが、友人が少なく、ましてトキツのような知り合いは皆無だ。
トキツの口のうまさと場の雰囲気に、すでに前後不覚に酔わされているかもしれない。
しかし心配なのは、ユウマがトキツに執着したり友人だと吹聴してトキツに迷惑がかかったらどうしようと思う。イリエに強気なのは、信じて甘えているからであり、自暴自棄になった時が怖い。甘えられる相手に飢えている。飢えた獣はせっかく得た獲物を奪われそうになったらどんなことでもする。
イリエがユウマと別れないのは、ユウマを見限ったとき何をするか分からない恐怖があるからというのも一つの理由であった。
「あなたは彼のどこが好き?きっかけを知りたいわ。まさか自分より背が高いからだけじゃないわよね」
イリエは考え込む。「俺だけ見てろ」と初めていわれたとき、うれしかった。
「ばかだな。気にするなよ」「イリエってけっこう抜けてんだ。かわいいとこあるな」と、笑いながら頭をなでてくれたユウマの太陽のような笑顔が、いつの間にか不機嫌な曇り空になって舌打ちされて、当初の愛情ある「ばか」が、侮蔑しか含まない「バーカ」になった。ユウマがずんずん先を行くその背中しか思い出せない。
常に自分が優位にあろうとするユウマを「この人を理解できるのは自分だけ」とお互いに思い込んで他の者を立ち入らせない恋人関係という孤島で時には背中を向け、時には突き放され、時には抱き合ってそこから動かないでいる。孤島は逃げ場がなく、狭くて一周してお互いのもとへ戻ってしまう。そんな状態。
ユウマが優しくて幸せならいつまでも住み続けたい恋人という孤島。でも今は幸せかどうか分からない。
幸せと言い切れない。それでも自分にはユウマしかいないとも思っている。
「そんなに考えないと出てこないの?もういいわ。なんとなく分かった」
ミレイの呆れたような声で、イリエの思考は途切れた。ミレイは呆れていたが不機嫌さはなかった。ミレイのスマホが着信を告げる。ミレイは画面を見てくすくす笑った。
「思った通り、あなたの彼、いい気分に酔わされてご機嫌で帰ったそうよ」
「また言ってしまうけど、二人の時間を邪魔してすみません」
「今度トキツにいっぱいうめあわせしてもらうから。今日も少しは楽しかったからいいわ。付き合ってくれてありがとう」
「優しくてすてきな彼ですね」
「まあ、おおむねは。完璧な恋人なんていない。八割満足なら十分よ」
Nobody is perfect とミレイは言った。それならユウマにとって、イリエにとって、お互いは何割くらい相手を満足させてあげられているだろうか。
「あと二割はどういうところですか?」
野暮な質問をしているなと思ったが、トキツに夢中に見えるミレイの不安や不満はその二割の部分に集約されている。
優しい物腰、甘い言葉、自分を全肯定してくれて、大切にされて、いい気分にしてくれる賢明で洗練された彼氏。イリエにとっては完璧に近い。
「見た目と一緒で、野暮なこと聞くのね。あのかっこわるい彼氏とお似合い」
ミレイは毒づいたが、その二割に詰め込まれた不満や不安を誰かに聞いてもらいたい本心の方が強かった。
「好きなのは君だけだって言われたらうれしい?」
「はあ、うらやましいです」
「じゃ、愛してるのは誰?いやな女だと思ってくれていいけど、私、可愛いねも好きも愛しているも大勢から言われてきたの。有象無象からのそれはどれも似たり寄ったり。ましてや言わなくても分かるだろみたいな男はたとえ行動やプレゼントがどんなによくても私には価値のない人。トキツから言われる言葉はぜんぜん重さが違う。トキツは愛してる、って今まで一度も言ってくれたことない。私のことが一番って言ってくれる。いつも最後には私が追いかけてくやしいけど、愛してるって言ってほしがったら、優しく去っていくような気がして怖い。だから一番好き、の立ち位置でいいってことにしてるの。みじめでしょ。自分がかわいそうで泣けてくる。泣いているとトキツは抱きしめてくれる。誰が君を泣かせたの?って。あんただよって言ってやると困ったように微笑むの」
頭がぐらぐらくらくらする。なんて贅沢な悩みだろうか。同じ世界に生きているとは思えないくらいきれいなミレイ。その恋愛経験もまったく違う夢物語のようなものばかりだろう。
それとも世の恋人たちはみなこうなのだろか。
ミレイに好きだと言ってきた人たちの中には本当に誠実で、ミレイを幸せにしたいと思っていた人もいたことだろう。それでも、ミレイは、優しいが、とらえどころのないトキツに今も恋をし続けている。
きっとトキツはお願いすればイリエにも「好きだよ」と言ってくれるだろう。その時々で心から「好き」ではあるのだろうが、すぐにしぼむ風船のように頼りない「好き」だ。
そして、トキツはそれに何の責任も感じないはずだ。それだけ分かっているのに、トキツを求める気持ちは止められない。
「トキツは頼まれて歌詞や脚本、詩を書いたりする。歌詞なんてそれはもう甘々。愛してるも好きもキラキラしたきれいな言葉をちりばめているのに、それは架空の誰かが誰かに言う言葉でトキツ自身の口からは決して出てこない。せめて詩の中で愛してると言ってほしいとお願いしても私には詩の一編も書いてくれない。」
自嘲気味の愁いをおびたミレイは息をのむほどに美しい。誰もが見とれる美しさをもっていて、守ってくれる彼氏がいるのになおも満たされない。ぜんぜん足りないとやるせなさに身悶える。
それゆえににじみ出るミレイの色香にイリエは再び酔ってきた。トキツを思いながら、ミレイの魅力に幻惑されるなんて本当に今日のお酒はたちが悪い。
(敵わない。容姿はもちろん、思いの深さも)
何一つ競っていないのに、感じる敗北感。たとえ自分が氷砂糖のように甘くかわいらしく小柄だったとしてもミレイには敵わない。
周りに愛でられ続けてモデルの仕事をして、常に人目をひきつけてなんでも思い通りのように見えても、たった一人からのささやかな一言がもらえない。トキツはきっとミレイを魔法にかけて、楽園に連れて行くだけで、そこから去ろうが、居座ろうが意に介さない。
帰りのタクシーでは話し疲れて二人とも無口だった。自分の分のタクシー代を固辞されて、降りるとき、ミレイは無邪気に「ばいばい」と手を振ってくれた。
タクシーが走り出すとき、ちらりと見えたミレイがスマホを耳にあてていた。彼氏からの電話がうれしくてたまらない恋する女の子の横顔だった。
現実を突きつけられても、やはり本人を前にすると胸が高鳴る。一緒に盃をかわしてもユウマに対してはトキツは何の感想もないようで、連絡先も交換しなかったそうだ。ユウマも酔っていたためか記憶があやふやで、「気持ちよく呑んで、気が付いたら家だった」とそれだけだった。
あの日以来、単なる同僚から、友人といっていい間柄になれたとイリエは思っている。トキツは変わらず親しく話しかけてくれる。誰にでも同じようにだが。
よく寝て朝ごはんもしっかり食べたような快活な雰囲気の時もあれば、夜の気配を残したままの時もある。そのどちらを目の前にしても胸の鼓動が騒がしくなり耳元が熱くなる。
トキツはいくつかのアルバイトを掛け持ちしていると聞くが、家が裕福なのは事実らしく生活に汲々としているようには見えない。トキツのよいところのひとつはさりげなさだった。押しつけがましくない。
それと気が付かないうちにすべて片付けてしまう要領のよさ。トキツといると甘えてもいいと思わせてくれる。
ユウマとはどうやって距離を縮めて恋人になったのかもう思い出せない。初めてではないのに、初恋にはろくな思い出がないものの、初めて恋心に気づいた時のようにイリエはうろうろする心を持て余した。
ミレイと競うつもりはない。自分をわきまえているつもりだった。
しかし、ここのところユウマの機嫌をうかがうような緊張感を強いられる関係に、少し、いや、だいぶ疲れていた。ユウマは特に変化なく、気が向けば優しく、そうでないときはイリエを貶めたりあらさがしをした。相手にしなければすねるし、言い返せば倍になって返ってくる。
恋人とはもっと穏やかな時間があるものではないだろうか。支配と時折見せる愛情表現、ぎりぎりのところで、出てくる謝罪と涙。ユウマには優しいところも可愛いところもある。
長所も短所も認め合うのが恋人だと言われれば何も言い返せない。結局はユウマが正しいと思ってしまう。もっとしっかりして、ユウマが一度でも似合うと言ってくれた服装や髪型をして、ユウマが「マシになった」「悪くない」と言ってくれるのを期待する。
ユウマがイリエをほめる表現はその二つだけ。だが、そういわれるだけでうれしい。それが普通だと思っていた。だが、トキツが人をほめるときはとても直接的で恥ずかしがらない。違う国の言葉のようだ。
トキツは「釣った魚にはさらにごちそうをする」タイプだとイリエは思っている。苦労して手に入れたからこそ逃げないように可愛がり続けるのだろう。
だからミレイは尾びれがリボンに見える金魚のようにきらきらふわふわしている。
アルバイトの塾講師ながら、トキツはかなり優秀な先生でもあった。塾の時間だけでなくもっと一緒にいたいと期待を込めた目で高校生たちが、どこで聞きつけたのか、カフェを訪ねてくるようになった。となりに立つ背の高いイリエなどまったく目に入っていない。
もじもじとしている子には共感を覚えながら、若さがまぶしいなんて思うようになった。
高校生たちが素敵な先生、と見つめる目は濁りがない。トキツの彼女がどれだけの美人か知ってか知らずか若い子は積極的だ。ミレイもこの高校生たちも鈴が揺れて出す音のようにコロコロとした澄んだ響きの声で、トキツに話しかける。トキツは、教え子たちを構いながら、正確にオーダーを通していく。
心が傷ついていく。見たくない。自分はトキツより5センチは背が高い。あんな風に見上げて小さな手を口にあてて恥じらって、トキツ先生の袖をつかんで・・。
自分にはとうていできない。似合わない。サイズの小さなかわいらしい靴をはけないのと同じ。
トキツが自分を凝視するまで、イリエは涙が頬をつたっていることに気が付かなかった。
前の日に、またユウマと喧嘩をした。喧嘩は対等な関係の時につかうものだとすれば、喧嘩とはいえない。
暴言をはかれたあと、誰か知らない人と比べられた。それら全てが頭から離れず、トキツを見ていたらせきとめていたものがあっさりと壊れて涙が流れ出た。
あんなひどいことを言って、時に手荒く扱われるのに、いざ別れようとすると不安でたまらなくなる。
ひとりぼっちのキリンは荒野では生きていけない。宝物のように大切に扱ってほしい。トキツにそうしてほしいのか、ユウマにされたいのか分からない。そんな黒くて苦くてぐちゃぐちゃな気持ちが涙になる。
涙を真珠にたとえることがあるけど、自分のはきっと汚いできそこないの真珠だ。
「イリエさん、休憩に入ろう」
トキツは抑揚のない声に涙はひっこんだ。休憩室でつくねんと立ったままでいると、トキツがいすを持ってきて座るように促す。
「お客様の前で泣いてはいけない」
当然だ。トキツは厳しいことは言っていない。
「すみません」
「何があったかは聞かない。でもそれはお客様には関係ないことだよね。勤務時間内は自分の役割に徹してください」
トキツより先に社会に出た。たいていのことには動じないようになったはずだった。それなのに個人的なことで涙を流すなんて。恥ずかしさと自分へのふがいなさでうつむいているとトキツの手が頭の上にあった。
直接触れてはいないけどじんわり熱が伝わる。そしてぽん、と軽く触れたかと思うと、熱はすぐにひいていった。
「魂が抜けちゃっているよ。戻ってきたかな?」
トキツは営業用の笑顔から、同僚たちと雑談をする屈託のない笑顔に変わっていた
「ここでなら泣いていいよ。見ていたら泣けないよね。出ていくからゆっくり休憩して」
ユウマにさえしたことがない、イリエのなけなしの勇気だった。イリエはトキツのエプロンのひもをつかんでいた。しゅるりをひもがほどけて引き戻されたことにトキツは少々面食らったようだが、おとなしく引き戻されて、座ったままうつむいたイリエを見下ろす形になった。
「し、しごとがあるのは分かっています。でも、もう少しここにいてください。もう泣かないから。泣いてごめんなさい。仕事中に自分をコントロールできなくてごめんなさい。気を付けるから。ここをやめたくない」
泣いたのは不安感という風船が破裂したから。ユウマとの疲れるのに別れられない関係、美人の彼女がいてみんなの人気者で、自分にだけ特別優しいのでもないのに、他の人に囲まれいているトキツを見て言いようのない不安にとらわれる。
ユウマがいるのに、トキツが気になってしょうがない。気になるくらいの話ではない。
(たぶん、きっとあなたのことが好き。)
「イリエさん、落ち着いて、やめたりしなくていいよ。オーナーに告げ口なんかしない」
あたたかい手のひらが頭と肩の上にある。頭の方にある手が遠慮がちに行き来している。なでられている。何年ぶりだろうか。まだ小さかったころ、やはりとびぬけて背の高い父親が頭をなでてくれた。本当は母の膝の上に頭をのせてぐずぐずと愚痴をいう気弱だったのに、外ではその背丈に見合う強くて豪胆な男を演じていた。
「泣いていいよ。泣いても見限ったりしないよ。イリエさんが望むならここにいる。大丈夫だよ。どこにもいかない」
トキツの声は静かな月夜を詠う波の音、平坦で落ち着いている。手と同じであたたかい。
「イリエさんは、ほんとうに僕の知り合いに似ている。しっかり者なのに泣き虫で」
(きっとその人は小さくてかわいらしくて守ってあげたいような人なのでしょう)
そんなひねたことを考えているのをお見通しのようにトキツは頭を撫で続けてくれた。
「イリエさんはがんばっているよ。今日はちょっと疲れているんだ。いつもと違う」
(いつもの私?そんなに違う?いつも見てくれているのかな)
ユウマの暴言と八つ当たりにほんの少しの優しい言葉、トキツの親切と暖かい手。
ユウマを捨てきれなくて、でもトキツのことが好きになっていて、こちらを見てほしくてたまらない。こっけいであわれでみじめ。
「おい、デクノボー、さっさと歩け」
ユウマは、機嫌が悪いとそんなことを平気で言う。買い忘れがあったなと思いながらユウマにせかされて買い物袋を下げてくどくどいうユウマの後ろをとぼとぼ歩く。
いつの間にか同棲していて、まるで夫婦のように二人で買い物に行く。ショッピングではない。生活に必要な買い出しだ。一度思い出したら、違和感しかなく、いい思い出が浮かんでこない。ただ、ユウマのことが怖くてその心模様が天気のように気になる。
ユウマが変わったのは就職してからだ。何か失敗をしてそれから冷遇されていると思い込んでいるのか嫌々通勤している。そのころから暴言が増えた。小突かれる程度だが手をあげられることもある。本人は軽くしているつもりだが、骨に響く痛さがある。絶対に誰にも言えない。
数少ない友人との違いを見せつけられるからか友人と会うことも減った。共通の友人である彼らは言ってくれる。
「がまんするな」
「イリエちゃんを見てたらつらい」
ユウマははじめは彼らのように優しい人間だった。今では、大言壮語を吐いて、小心者でひがみっぽくなった。
思いに沈んでいるとトキツの声に引き戻される。
「イリエさん、ひまなら学祭にこない?気分転換になるよ。地域の人もたくさん来るし、出店もたくさんある。それに僕、ゼミの企画で対談の司会をする。卒業生の俳優とその恩師が対談するんだ。専門的な話だけじゃなく、大学時代の思い出話もするから堅苦しくないよ。」
その俳優はイリエも知っていた。知的な雰囲気の中堅の俳優でドラマや映画だけでなく、教養番組の司会もしている。遅咲きながら最近じわじわと人気が出ている。
「出店も企画もかなり力を入れていて、毎年大盛況なんだ。その俳優さんが宣伝も兼ねて後輩のイケメンも連れてくるから眼福だよ」
イリエはまたユウマの不機嫌な顔を思い浮かべながら、それでもうなずいた。一方で、職場以外でトキツに会えることに心が浮足立っていた。
大学というところは、表面だけ見ると、多くの若者が社会に出るまでに束の間住む楽園だ。高校生までとは違う自由。飲酒ができる年齢とできない年齢の若者が同じところにいて、子どもではないが、完全に大人でもない。校則もクラスという狭いくくりもなく学年の垣根も中高生よりゆるやかだ。ユウマとイリエにはそういう時間がなかった。
ユウマは誘われてしぶしぶ来た体を装っているが初めての大学の学祭の華やいだ雰囲気にきょろきょろと好奇心を押さえきれない。
学祭というから身内のお祭りと思っていたが、まるで地域の一大行事のような賑わいだった。部外者だからと遠慮がちに足を踏み入れたが、まったくの杞憂で、家族連れから高齢者、子どもたち、様々な年代の人たちが楽しそうにしている。
「イリエちゃーん」
ミレイがひらひらと手を振っている。ユウマが、げえっと呟いた。
今日もきれいなミレイは、やはり美形の男女と一緒だった。モデル仲間だと一目でわかる。3人並ぶとそこは違う次元の世界だ。
美しい姿には美しい心が宿るものだろうか。残念ながらそうとは限らないこともあるが、ミレイの友人二人はそんな人たちだった。ミレイと友達であるだけで心の広い人たちだと言える。
「よろしくね。あなたたちすらっとしてとってもかっこいい。素敵なカップルだね」
初対面なのに、心から言ってくれているのが伝わり、ユウマもイリエもくすぐったくなる。兄妹で、二人ともモデルで、外国人の父親と日本人の母親を持つリュウトとリラ。
トキツがそのたたずまいと知性で人をひきつけるのであれば、リュウトはその存在そのものが美しく、人がふりかえる。両親のよいところを受け継ぎ、背も高く手足も長い。手入れされた長めの髪がさらさらと揺れている。
リラも同じくよく寝てよく食べて健康そのものといった美少女だった。生まれつき美しいと謙虚で寛容にもなれるのだろうか。
「ミレイの友達っていうからどんなのが来るかと思ったけどすごくよさそうな人ね」
「なんかひっかかるけど・・。そうよ。すごくいい人そうでしょ。トキツの同僚なの」
「やっぱりトキツ君がらみだ。こんな人とミレイが一から仲良くなれそうにないよ」
「ほんとうにしつれい。」
「だって、ミレイは友達作り下手だもの。相手がそうとう歩み寄らないと。ね、私たちもそうだったよね」
リラがリュウトに話しかける。リュウトはにこにこしている。
「なんでリュウト、今日は無口なの?」
「だって口きいたら頭が悪いってばれそうで。黙ってればいいのにって言われるから。トキツ君に恥かかせたくない。こんなバカと友達なんて思われたら気の毒だ」
「それトキツが聞いたら怒るよ。トキツがいつも言うでしょ」
にぎやかに話しながら、自然とトキツが司会をする会場へ歩みだす。ユウマは学祭の華やいだ雰囲気とリラという美少女の登場にいっときは明るい顔になったが、対談会場へ向かう足取りはのろのろになる。
だいたいにおいてユウマはこらえ性がない。行列や待つこと、じっと話を聞くのが嫌いだ。イリエはユウマの機嫌をとるのに心を砕く。
興味のない対談が退屈であろうというころは、イリエも否定はできない。いかに有名な俳優であろうと特にファンでもない。テレビはユウマが占領しているのでドラマのように続きものはあまり見ない。今日のために出演しているドラマを一話だけ観た。トキツが出るというのでなければ行こうと思わなかった。
ユウマはいつの間にかついてこなくなった。他に興味をひかれるものがあったのかもしれない。
隣に気配を感じるとリュウトが微笑みかけていた。リュウトは背格好や体つきは男性的だが、顔立ちは両性のどちらともいえる不思議な美しい生き物だ。肌はなめらかでイリエよりはるかにきめ細かい。しみもしわもほくろさえないつややかな肌。持って生まれた部分と日々のお手入れの賜物だろう。
きっとくしゃみをしてもあくびをしても半目になっても美しいに違いない。
「彼氏さん、いなくなったね。興味ないから無理もない。僕もトキツくんがいないなら行かないかなあ。トキツ君を確認したら寝ちゃうかも」
リュウトはわざとらしくあくびをした。昨夜どんちゃんさわぎをして眠いらしい。睡眠不足は美容の大敵と言いそうになって、イリエは愛想笑いでごまかす。
「ミレイちゃんと友達になってくれてありがとう」
なぜリュウトからお礼を言われるのか分からず、イリエは言葉に詰まる。
「トキツ君が今日はミレイちゃんに構えないから、相手してくれって言われてね。トキツくんの頼みなら、って。ミレイちゃん、すごい美人だけど我儘だし、自己主張強いし、承認欲求の化け物だし、好き嫌いが激しい。あのくらい強くないと仕事できない世界なんだけどね。時々イラっとするけどトキツ君の彼女だからどこかいいところはあるんだろうなって。まあ、ミレイちゃんに見つめられたら怒れなくなるけど」
「結局はミレイさんと友達なんですね。リュウトさん優しいです」
「そんなことないよ。こいつめーって思うけど、ミレイちゃんは憎めない子なんだ。トキツ君のとなりにいるときは一段と可愛くてさ。トキツ君のためだっら今までつみあげてきたもの全部投げ捨ててしまうかもしれない。ミレイちゃんが自分から声かけて友達になるなんて君くらいだよ。・・初対面なのに僕も君が気にいったって言ったら失礼かな?」
これまでの人生で、短期間に、男性にからデカイなと言われるのではなく、好意的に興味を持ってもらい親切にされることが何度あっただろうか。
リュウトはつり気味の目と眉を下げて薄く笑った。
「そんな困った顔しないで。みんなそうだな。からかっているって思われるみたいだ。僕、勇気出して本気で言っている時もあるのに、みんな驚いて困った顔するんだ。結構傷つくな。自分で言うのもおかしいけど、見た目に自信があるから誰も断らないと思われて、その他大勢になりたくないってさ。そんなこと一言も言っていないし、常に複数彼女がいるなんて嘘を流されたり・・」
「そんなことは・・。私には彼氏がいるので、だからごめんなさい」
「そうだよね。君みたいな可愛い人に彼氏がいないなんてないよね。君があんますてきだから、ついだめもとで言ってしまったよ。困らせてごめんね。でも僕とも友達になってくれるかな?リラもよかったらついでに」
「こらー。きこえてるぞ。ついでって何?」
リラは振り返ってリュウトの肩をゆさぶっている。いたいいたいとリュウトが大げさに左右に揺れている。ミレイはケラケラと笑っている。
「ついでじゃなくても私は私で仲良くなります。大きなお世話。リュウトがまた女の子を困らせているってパパとママに言いつけるから」
「またってひどいな。そんないつもじゃない。僕だって時には本気出す。この人だって時にしか僕は行きません。イリエさん、リラのいうことはまともにきかなくていいからね」
見た目で苦労するのは大なり小なり皆おなじくらいある。人から羨まれる美貌でもそれはそれで苦労もある。リュウトやリラ、ミレイもそれゆえの苦い思い出もある。人知れず努力をしても顔だけと言われることや、美貌を餌にしているとか、足元をみられて対価を要求されることもあった。
イリエは背が高いことで、苦い思いをしてきた。リュウトがおどけながらもほんの一瞬傷ついた表情をした時、イリエは今こそは高身長でよかったと思う。この傷つきやすい美しい3人をいっぺんに抱きしめてあげられる自信があるからだ。
学生、教職員、有名人を一目見たいという物見高い人々で会場は8割がた埋まっていた。
卒論のテーマをもう少し掘り下げようという専門的な内容になると、リュウトは居眠りを始めた。イリエも話の半分も理解できなかった。
ゲストの俳優は思ったより大柄で、若々しい。知的で、気さくで、一気に人を聴衆をひきつける。
もう一人の主役の教授とトキツは現在進行形の師弟の間柄で、教授は退官間近の高齢ながら、万事に明るい印象で、信頼関係が伝わってくる。
それより何よりイリエはやはりトキツから目が離せない。難しい話でも眠くならない。トキツが先輩や教授を前にしても、控えめながらも、うまく話を展開させて、小気味よく進めていく姿にみとれてしまう。
「僕みたいな変わり者を先生は認めて、根気強く指導してくださいました」
俳優がにこやかに応じる。
「そうですか、私も学生時代は人前で話すなんてとんでもないことでした。でも先生が今日みたいにみんなの前で話す役に抜擢してくださって、表現することの楽しさに気づかせてくれました。専門のことばかりでなく、今まで見たことない世界に導いてくださいました。そこから自分ではない人を演じてみたいという思いが強くなったと思います。専攻した学問とは違うところにいるかもしれませんが、先生は来年、退官されるということで今日、対談させていただけ光栄です。」
整った容姿の俳優に比べて、トキツは平凡だった。しかし、トキツのたたずまいや流れるような所作を知っている。軽妙洒脱な話し方で、受け止めたかと思えば受け流す。
懐が深いようで誰も踏み込ませない。彼の内面にある芯の部分に触れようとすれば、先にその手をつかんで指先に口づけをしてそっと離される。相手がぼうっとなっている隙にさらに遠くへ離れて行ってしまう。
つい、トキツばかり見つめてしまうのをミレイやリラに見られないかと二人を見れば、退屈そうにスマホをいじっていた。
「何かご質問はありませんか?」とトキツが会場内を見渡す。トキツと目が合った気がした。拍手に包まれて対談は終了した。トキツは恩師とゲストの俳優をエスコートして舞台から去っていった。
リュウトはまだあくびをしている。寝ていたことを指摘されても首をぐるりと回すだけで悪びれていない。
「トキツ君ってすごいな。あんな退屈な話をひきのばせるんだから。ああ、まだ眠い。コーヒー飲みたい。おなかもすいた」
ミレイとリラはどこかへ行ってしまった。ふわふわと出店を渡り歩いている。思いがけずリュウトと二人になってしまった。リュウトがコーヒーと手作りパンを買ってくれた。
「かっこよかったね。トキツ君のいい声で眠くなったけど、トキツ君のかっこよさはちゃんと見たよ」
リュウトは子どものように正直で率直だ。いいものはいい、好きなものは好き、とはっきりしている。こんなに純粋で、大人たちの世界でやっていけているのだろうか。
「トキツ君は優しい。僕でも分かるように楽しい話をしてくれる。僕も人並みに悩むことがあるけど、そんな時は他の約束をあとまわしにして話を聞いてくれる。今まで僕の味方は家族しかいないって思っていたけど、トキツ君はいつも僕の味方で足をすくわれないようにいろいろな知恵をくれた」
リュウトもイリエと同じようにトキツに助けてもらったことがあると話してくれた。リュウトと飲むコーヒーはイリエの喉と心を潤してくれた。
「でも、もう少ししたらトキツ君は・・・」
リュウトが言いかけたとき、イリエは後ろ襟をつかまれた。
「ここで何してるんだ。」
不機嫌を通り越して、ユウマは怒っていた。ぬるくなったコーヒーが地面に落ちてしみをつくる。
「俺を探しにも来ないでこんなところで男と立ち食いか。いつからそんなご身分になったんだ」
骨がきしむほど腕をつかまれる。爪をたてているのではないかと思うほど痛い。
ユウマはイリエたちについていくのをやめた後。あちこちをぶらぶらしていた。
はじめからしぶしぶついてきたのに、そのうえ、退屈な対談など聞く気はなかった。飽きてきたころ、周りは一人で来ている人も、グループでいる人たちも楽しそうで、孤独が襲ってきた。
自分を誘ったイリエは、自分に構うどころか、連絡のひとつもよこさず、おそろしく見た目の良い男にうっとりしている。
「お前、連絡くらいしろよ。」
「ごめんなさい」と言うしかないイリエの腕をつかんだまま、ユウマは連れて行こうとする。二人になったらさらに怒りをぶつけられ説教をされるのだろう。もう慣れたはずのあきらめと恐怖がイリエの心を満たしていく。
「謝るのはそっちじゃないの?大きな迷子さん。イリエさんは君のママか?手荒なことは感心しないな」
おっとりした口調だが、リュウトがユウマからイリエを引き離そうとした。
「いいんだよ。こいつはこれくらいしたって平気だ。」
そう言ってさらに手に力をこめる。
「痛い。もうどこにも行かないから手を離して。」
「痛いわけあるか。男の前だからってひ弱なふりしやがって。」
いつだって痛かった。人前だからではない。ユウマはどうして、イリエが頑丈だと思うのか。背が高いから?他の女の人より大きいから?
「手を離せ。痛くないわけないだろ。イリエさんを何だと思っているんだ」
「黙れ。顔だけの三下が口を出すな。」
「君、あまり利口じゃないね。野蛮人だから僕の言葉が理解できない?力づくで止めないと分からない?」
「やってみろ」
リュウトがユウマの手をつかむと、ユウマはそれを振り払い、リュウトになぐりかかった。
ユウマがそこまでするとは信じられなかった。リュウトは口調は強いが、暴力には慣れていないようだ。おびえた表情がよぎる。
まともに当たれば、リュウトのきれいな顔に傷がつく。リュウトの仕事に差し支えるかもしれない。手厳しいが兄のことが大好きなリラが悲しむ。自然に体が動いた。
ガツッ・・・
目から本当に火花が散って、口か鼻か分からないが、血の味がした。
正面からユウマの拳を受けた。イリエはくらりと後ろに倒れたが、リュウトがしっかりと抱きとめた。
痛い。初めてなぐられた。こんなに痛くて重い衝撃なのか。鼻血が出て口に流れ込んで生臭くて辛い。痛い。痛い。怖い。怖い。
人垣ができ始める。立ち去ろうとするユウマをミレイとミラが捕まえてめちゃくちゃに叩いている。ユウマは女性といえども、さすがに二人がかりでは手も出せず防戦一方で、ミレイもリラもバッグを投げ捨て白いげんこつでユウマをぽかぽか叩き続けた。
「イリエさん、ごめん。ごめんなさい。どうしよう、こんなに血が。僕のせいだ」
リュウトの白いニットが赤く染まっていた。リュウトのおろおろした声やミレイとリラの金切声に人々が集まっている。頬にかかる温かい水滴はリュウトの涙だろうか。気の優しいリュウト、泣かないで。私は頑丈なの。こんなのどうってことないよ。服が汚れるよ。
そう言いたいが、口の中も切れているのかうまく言葉がでない。ふわりとタオルがかけられる。トキツの香りがした。幾重にも深い、まるで森の中にいるような香り。
トキツが一人でミレイとリラを、ユウマから引き離した。二人の肩を抱いて「落ち着いて」と言い聞かせている。ミレイとリラはきれいな顔を怒りに歪めて、荒く息をしている。
「遅くなってごめんね」
ミレイとリラは泣き出した。目の前で友達が殴られたことは強い衝撃だった。トキツはのろりと立ち上がったユウマと対峙する。
「あんたも俺を殴るか?」
ユウマは自暴自棄で強気だった。こんなに恥をかいたのは初めてだった。トキツは手を振り上げた。空を斬る音がしたが、その手は寸前で止められた。
「この状況を説明して下さい」
ミレイとミラが何かを言いかけるが。、トキツは片手をあげてそれを制した。
「なぐらないのか、こしぬけが」
ユウマはふくれっつらだ。図体は大きいが、自分がしたことをうまく取り繕うこともできない。
「質問に答えて下さい。君は説明する義務がある」
「うるさいな。俺とこいつとの話だ。手が当たったんだよ。たいしたことない。こいつは頑丈だから。なあ?おい?行くぞ、めそめそ泣くな、大げさだな。手当てしてやるから」
震えているイリエを、リュウトがぎゅうと抱きしめた。進み出るユウマの前にトキツが立ちはだかったかと思うと、次の瞬間、ユウマは地面に転がされていた。
トキツが何をしたか分からず、まばたきも忘れ、ユウマはトキツを見上げている。
「何をした?」
「何もしていない。勝手に転んだ。みっともないな。君も頑丈そうだから平気だろう?だが、彼女は違う。この血を見ても、まだそんなことを言うのか?君に彼女に触れる資格はない」
「だから、そいつのことは俺が一番分かっている。あんたにこいつの何が分かる?こいつに気があるのか?こんなの助けて何の得がある?女は間に合っているだろ。こんなデクノボーにまで色目使う必要あるか?」
「僕がいいというまでその汚らわしい口を閉じていろ。」
トキツはイリエの前に膝をついた。ユウマが口を開くが、同時に、何人かに取り囲まれていることに気づいてそれどころではなくなる。
「イリエさんを先に医務室に連れて行かないといけなかった。本当に申し訳ない。リュウトもだいじょうぶか?」
「僕のせいだ。イリエさんがかばってくれた。ごめんなさい。女の人にこんなことを。僕が殴られていたらよかった。」
リュウトのきれいな顔は涙と鼻水で台無しだ。このきれいな人の顔に傷がつかなくてよかった。
「リュウト、医務室に行く間、彼を見張っていてくれるか。友達にも頼んだから。みんな、暴力はだめだ。だが、絶対にここから逃がさないでほしい」
任せとけ、とユウマを取り囲んだ学生たちから声が上がる。ユウマはすっかり意気消沈して、小さくなっている。トキツはそんなユウマと鼻先が触れるほどに近づいた。
「君の名前、なんだっけ?どうでもいい。戻ったらしっかり話をしよう。あくまでも話しあいだ。でも、決着がつくまで終わらないよ。僕の尋問に耐えられるかな。ちゃんと話し合いができるまで、絶対にここから出さないよ」
トキツの目がぎらりとした。ユウマが小さく息を呑む。立ち去る背中を唖然として見送った。
しかし、じゃあ、自分も帰るとはいかなかった。トキツの友人たちにがっちりと脇を固められて動けなかった。
「トキツを怒らせたな。あんた、たぶんここで一発殴られてのびちまった方がましだったって思うことになる。なんで自分が?ってまだ思っているだろ。あんた以外はここにいるみんなが分かっている。あんたの味方は誰もいない」
大柄な青年がユウマの行く手をさえぎる。先ほどユウマがイリエにしたようにその腕をつかんだまま少し気の毒そうに話しかけた。ユウマはこの期におよんでもまだ本当には理解していなかった。
怒ったトキツがどれほど非情に相手を追い詰めるか、ユウマに話しかけた青年はよく知っている。
それははたから見ていれば胸のすくような光景だが、当事者にとってはいつ終わるともしれない悪い夢のようなのだ。青年は、逃がさないようにユウマの腕をつかむのに力をこめた。ユウマが痛い、と哀れな声でつぶやいた。
医務室の前で、トキツはミレイとリラにイリエを託した。
「イリエさん、今日は本当に申し訳ありませんでした。痛みが続くようなら受診して診断書をもらってください。心配しないで。彼に手を出したりしない。騒ぎを起こした経緯を説明してもらうだけだから。・・それから、今言うことじゃないけど、イリエさんが今日を境に、この先のことを考え直したいというなら、力になる。君は幸せになるために違う道に進んでもいい。」
トキツはいつもと同じ柔和な表情だったが、口調は断固としていた。
「じゃあ、行くよ。ミレイさん、リラちゃん。頼んだ」
ミレイが熱っぽい目で、トキツを見送る。ミレイにとって今日のトキツはいつにもましてどきどきさせる。
対談の司会をする知的なところも、弱いものに暴力をふるう悪い奴に対して毅然としたところも、自分に甘い言葉をささやくトキツの違う一面を見たようで、早くトキツがやるべきことを終えて、自分のところに帰ってきて欲しかった。そうしたら、今日は自分がトキツを思い切り甘やかしてあげたい。
部屋に軟禁状態で、トキツと2時間以上向き合ったユウマは、その時間だけで体重がだいぶ減ったかと思われるほどしおれた様子で、大学構内をさまよいながら、帰っていったという。
いつも自分はふられる側だった。理由は様々。「他に好きな人ができた」「思っていたのと違った」「親が反対する」はまだ優しい。はっきりと「背が高いと見下されている気がする」「やっぱり大きな女は生理的に無理」
自分にはどうしようもないことで振られてもどうしたらよいか。自分でふっきるしかない。
初めて自分から別れを告げる。この人を別れたらもう自分には恋人はできないと思っていた。暴言をはかれても、勝手な都合にふりまわされても、時には乱暴に扱われても、この人しかいないと信じていた。好きだった。今もひょっとしたら好きかもしれない。
最初は荒い言葉遣いながらも自分を認めてくれた。女性として扱ってくれて大切にされていると感じた。どうして、何が、悪かったか。ユウマが変わったのか、自分が我慢が足りなくて、ユウマの望む恋人になれなかったのか。未練という言葉は古い言葉のように思っていた。
まだ目が覚めない。もしかしたら別れを後悔するかもしれない。ユウマが他の女性と幸せになって自分が取り残されたらどうしよう。トキツの言うこの先にある幸せに続く道にはユウマはいないのだろうか。
「お前と付き合っていいことはひとつもなかった」
「お前は何一つ俺の思い通りに動かない。気も利かない。今回だって、お前がうまく立ち回ればこんなことにはならなかった」
「だけど、お前がどうしてもというなら、水に流してもいい。その代わり、あの仕事はやめろ。あいつらともう連絡をとるな。俺とのこれまでの時間とこんないっときの行き違い、どちらを選べばいいかお前だって分かるだろ」
けがの心配はしていないようだった。確かにイリエの顔には傷は残らなかった。
トキツには何も言い返せなかったのに、イリエにはなおも強気で、イリエが全て許してくれるとユウマは信じていた。
一言でいい、悪かったと、だいじょうぶだったかと言ってくれたら、イリエの決心はやはりユウマが好きというところに傾いていた。そんな簡単にこの数年間、ともに過ごした時間を切り捨てて、新しい自分の時計の針をすすめることはできない。
「仕事はやめない。今回のことを行き違いというなら行き違ったままでいい。ユウマの希望には添えない」
「俺と別れるってことか?意地を張らないほうがいいぞ。お前はもう少し賢いと思っていた。俺だけがお前を理解できるのに。」
「賢くないかもね。ユウマから見れば愚かな大女かもしれない。でも、このままでは私は本当に心がないデクノボーになってしまう。私は小さくなれないようにユウマの思う彼女にはなれない。付き合ってやってるって、それにすがっていくことはもういや。ユウマはサンドバッグがいなくなるのがいやなだけ。叩きやすい大きさで、痛いって言わない。でも私、ずっと痛かった。悲しかった。怖かった。痛いって泣いたらユウマは冗談で終わらせてきた。それっきりで。私は、どうすればもうそんな思いをしなくてすむかって一人で考えてきた。苦しい思いをしないように一緒に考えるのが恋人じゃないの?」
「それをなんで言わない?俺にそれを感じとれと?なんで俺だけが?」
「叩かれたら痛いって分からない?体の大きさとか男女は関係ないよ。私はずっと先回りしてユウマの顔色を伺ってこれでもがんばってきた。でももう限界。別れてください。別れましょう」
「自分だけがかわいそうって話か。俺だってずいぶん妥協した。」
「うん。私と今まで付き合ってくれてありがとう。もう我慢も妥協もしなくていいよ。自由になって」
ユウマはわかんねえ女だな。察しろよと髪の毛をがしがしかきむしっている。今、ユウマに抱いている気持ちは好き、ではない。かわいそう、という感情に近い。
ユウマと別れたらもう恋人はできないと思っていた。それにユウマを見捨てられないという気持ちもあった。好きだから一緒にいる、から、憐れみ、怯え、あきらめとユウマへの感情は変化していった。
「お前、言いたいことは言ったか?これで別れられるつもりか?まだこっちにもボールがあることを忘れるな」
ユウマが薄ら笑いを浮かべる。ユウマの笑顔は、この薄ら笑いと嘲笑しか最近は向けられなかった。
「見られたくないやり取りも写真もいっぱいある。お前が大切だから今まで誰にも見せなかったけど、こんな女には気をつけろってみんなに知らせないとな。でかい女に抱かれたいって好き者にお前の情報を売り渡してやろうか」
こんなにひどい人間だっただろうか。二人だけのやり取りや写真を思い出ではなく、脅迫の材料にしようとしている。自分にとって、思い通りにならなくなったデクノボーにはもう憎しみしかないのだろうか。
その時、横から手が出て、ユウマはスマホを取り上げられた。近くに控えていたトキツがユウマのスマホを汚らわしいもののように指先でつまんでいる。先日の学祭での記憶がまだ鮮明なユウマの表情から余裕の色が消えた。
「仲間を呼んでたのか。この裏切り者が。二人の話し合いだろう・・痛っ!」
トキツはユウマのスマホの本体の角をその手の甲に力任せに振り下ろした。金属製のスマホの本体を力いっぱい当てたら、かなり痛いはずだ。イリエもスマホを足の爪の上に落として悶絶したことがある。ユウマの手のひらがみるみる紫色に変色する。
「おい、痛いだろうが。返せ」
トキツは無言でもう一度片方の手の甲にスマホを振り下ろした。ユウマがまた、痛い!といって奪い返そうと立ち上がりかけるが、トキツはユウマの肩を押して座らせた。肩の一点を押さえているだけなのにユウマはもう立ち上がれない。
トキツはユウマのスマホを頭より高いところに掲げるとユウマの頭の上に落とした。スマホはユウマの額をかすめて下へ落ち、ユウマがうめいた。
トキツは、またそのスマホを拾い上げると何度も落下させて寸前で受け止める。時には手元が狂ったと言って、スマホは無残に床に落ちる。
ユウマがわめいているが、無表情で何度も繰り返した。何回目かにトキツはユウマにスマホを見せつけた。
「最新の機器はじょうぶだね。傷がほとんどついていない。中はどうかな。画面ロック外してください」
ふざけるな、と言い返すユウマの頬をトキツはそのスマホで軽くたたいた。痛そうではないがトキツの目の奥に嗜虐性を感じ取ったのか、ユウマはしぶしぶ画面ロックを外すと、トキツはまたそれを取り上げた。
「画像データを全部消して。そしたら僕が確認する。君のものだから君が操作して。否やは言わせない。どこかに隠し持ってそれを人目にさらすことがあったら、どうなるか分かっているな。僕は今度こそ容赦しない。本気だ。彼女には甘えが通用しても、僕には通用しない。くやしかったら誰かに泣きついてどうにかしてもらえ。そんな人いないだろうけど。君もどうすればいいか分かるだろう。これ以上彼女に執着するな。自分で消さないなら、僕が今ここで、これを壊す」
なんでこんなやつのために?恩を売ってそいつを自分のものにする気だろう、とユウマはまだ言い募ったが、トキツはスマホ本体の角をユウマの額に押し当てて今までにないくらい冷めた声音で言い放った。
「額が割れる前にさっさとしろ。このデクノボーが」
ユウマはもう何も言わなかった。震える指先がユウマの動揺を物語っていた。
心配ではあったが、今のところ何事もなく、ユウマの姿を見ることはなくなった。ユウマが外出している間に、トキツ達が、ユウマの部屋にあった私物を運び出した。
イリエの部屋にあったユウマのものは全てトキツの友人たちが返しに行ってくれた。ユウマはおとなしく受け取ったとのことであった。
それが済むと、イリエはユウマの連絡先を削除した。ユウマからと思われる見知らぬ番号は受信拒否設定をした。
休みの予定はほとんどユウマとの約束で埋まっていた。しかし、今は休みをもてあましている。
しかし、不思議と孤独でも退屈でもなかった。気まぐれなユウマに呼び出され、あたふたと準備していたのに、今は十分に準備の時間がある。自分の全身を姿見で見た。ミレイが悔しいが自分には似合わない、イリエにこそ似合うと薦めてくれたワンピース。
ユウマは長い髪が好きだった。男みたいに背が高いんだから髪型くらい女らしくしろ、そっちのほうがいい、と言われ、髪を伸ばした。それをミレイ行きつけの美容院で潔くカットしてもらった。
髪が短いと顔が小さく、等身が際立つ。リュウトとリラにうっとりと見つめられた後、せがまれて何枚も一緒に写真を撮った。
トキツが留学すると聞かされたのは、トキツの最後の出勤日のことだった。他のアルバイトとの兼ね合いや就活のためという理由で、退職すると申し出ていたが、イリエたちには何も知らされていなかった。驚きと落胆が同僚たちの間に広がる。数日もすれば、トキツがいないことにみんな慣れるだろうが、ぽかんと穴が空くというのはこういう状態だと思えるほど、何か足りない。
ミレイがぐずぐずと泣きながら、外で会うのはいやだから、家に来てほしいと電話をかけてきた。
泣きすぎた素顔のミレイは、幼く、心もとなく、そしてやはりきれいだった。この涙にぬれた瞳に縋られたら、トキツも心が揺れるだろうと思った。しかし、トキツの出国の日はすでに決まっていた。
それはあんまりではないか。なんて薄情だ。ミレイの気持ちはどうなる。自分勝手すぎる。イリエは初めてトキツに憤った。
そして自分の心もきゅうっとなり、泣きたくなった。ミレイと同じ気持ちだった。自分の気持ちをどうしてくれる。あんなに優しくしてくれて、自分を守ってくれて、ユウマとの別れを後押ししてくれた。短くなった髪にワンピース姿のイリエを見ると、まぶしそうに見てくれた。
「目が覚めるようだ。君はこんなにもきれいだったんだね」
誰にでも優しくて、誰のこともほめてくれるのは知っている。それでも自分が特別だと思われたい。
トキツは、一人で決断し、準備をして、遠いところへ旅立ってしまう。残る者たちの気持ちは分かってるのに、肝心なところで自分を優先して、知らぬふりをする。
ミレイちゃん、ごめんなさい。あとでいくらでも謝るし、絶交されてもいい。トキツ君、あなたの心がどこにあるか知らない、でもどうか断らないで、ほんの少し時間を下さい。
イリエは、深呼吸を何度もして、トキツに電話をかけた。皮肉なことに初めての電話越しのトキツの声が、鼓膜をふるわせた。
この市のシンボルの観覧車は、頂上から市街地を一望できる。市の名前は知らなくても「観覧車があるところ」といえば誰もが知っている。多くの市民の子ども時代の思い出の一つがこの観覧車といっていい。夜には七色かそれ以上の複雑な色の光で彩られる。イリエにとってもお気に入りだった。
多くの恋人たちがこの観覧車で初めてのデートをしたり、告白したり、将来を誓いあう。
きっとトキツも乗ったことがあるし、イリエも何度も乗った。使い古された告白の場所だが、ここしか考えつかなかった。
この観覧車が一周するのにおよそ18分、そのように記載された小さな看板は、風雨で何度もぼろぼろになっては、新しくなった。
みんながほめてくれたワンピースを着て、ベレー帽をかぶったイリエをすれ違う人が振り返る。目的地まであと少しというところで、リュウトとリラと遭遇してしまう。リュウトとリラはどこへ行くかお見通しのようだ。
「だいじょうぶ。会わなかったことにしとくよ。ちょとだけ聞いて。僕の友人は薄情なんだ。せっかく壮行会を開こうとして、主賓のくせに欠席した。誰が誘っても応じない。」
あさっての方向の話をしながら、リュウトはイリエのベレー帽のかぶりかたを整えてくれた。リラはイリエの手をぎゅっとにぎった。
「あの観覧車には魔法がかかるときがある。普段できないことができるらしい。イリエちゃん、がんばって」
心優しい兄妹は、誰にも会わなかったように、立ち去って行った。
この観覧車が頂上に到達するのは約9分、人生で一番長い9分。頂上で思いを伝えて、地上に到達するまでの時間、トキツからどんな言葉が聞かされるか、それは想像通りだった。とても優しい。とても分かりやすい。そしてとてもはっきりしている。
「好きです。困らせるだけって分かっていたけどどうしても言いたかった」
頂上付近で、伝えた気持ち、トキツはいつもと同じ、焦げ茶色の目でじっとイリエを見つめていた。口元は微笑んでいた。イリエのワンピースと同じ色のストールを巻いている。
きっとイリエさんはあのワンピースを着てくると思ったから、とトキツには珍しく照れくさそうだった。
「ありがとう。旅立つ前の最高のはなむけの言葉だ。でも、言葉をもらうだけで僕には何も返せない。ごめん。」
「あの、それは相手が私だから?彼女がいるから?」
「イリエさん、君は本当に素敵だよ。はじめからきれいだったけど、どんどんきれいになっていく。君の幸せを心から祈っている。でも、僕には愛する人がいる。僕が欲しい人、愛したい人はたった一人だと思っている。その人でないなら相手がどんな人でも同じ返事だ。」
ミレイのことだろうか。愛してると決して言ってくれないとミレイは嘆いていた。トキツの与える言葉や態度は時々痛い。この上なく優しく触ってくれ、ささやいてくれるのになぜか痛い。
その甘い痛みを求めてしまうのだから、重症だ。長引く恋の病。
「その人もトキツ君を愛してくれている?」
「どうかな。尋ねたことない」
「どれくらい愛しているの?」
「理解してもらえるか分からないけど、もし、その人ともう一人が溺れていて、一人分しか助ける道具がないとする。今にも沈みそうな体力のなさそうな方を助ける。もう一人には待っていてもらう。僕の救命胴衣を貸すとかしてね。もし、待てなくて沈んでしまったら、それがその人だとしたら、僕はきっと後を追う。溺れたのがもう一人だったら、遺族のために死ぬまで働いて生きて償う。でもその人がいない世界なら生きていたって仕方がない。命をもって償う。その人がまだこの空の下にいるなら、僕は何としても生きるし、いなくなれば生きる意味がない。それくらい愛している。」
観覧車は地上へ近づいている。あと少し。地面すれすれになったとき、ゴンドラの扉が開かれた。
「おかえりなさい」
スタッフが扉を支えてくれている。ぐらりと視界がかしいだ。スタッフの青年が慌てて支えてくれる。
トキツが気づかわしげに見守っている。だいじょうぶです、すみません。とイリエはお礼を言って、彼の手から離れた。トキツも手を差し伸べてくれている。イリエはまた、だいじょうぶ、と言った。少なくとも、今は誰の手も必要ではない。
トキツとは、そこで別れることにした。告白なんてしないほうがよかった。観覧車に乗って二人で食事をして、これからも応援しているって言っておけばよかった。遠い空の下にいる彼を思いながら、また会いたいと思うのも悪くない。
でも、それで自分は前に進んだと言えるだろうか。トキツが望んでいるのは、自分で前に進んでいくことだと言った。過去の中の幸せは幻で、それは今の自分を満たしてはくれない。
道に落ちているパンくずを目印に家に帰った童話の主人公のように、毎日の中で見つけるささやかな発見や希望、明日が待ち遠しい小さな楽しみをひとつひとつ大事に拾い上げていくとその先にある幸せにたどりつくのかもしれない。
今までもこれからも続く日常、今日という日に、好きですと誰かに伝えられた。しかもその人は、自分のために開かれた送別会にも参加せず、誰からの誘いも断っているという。
その中の何人かは、イリエと同じように、しばらく会えなくなるから、最後に一度でも、と勇気を出した人もいるかもしれない。そんな中で、トキツはイリエと会ってくれた。
それはそれはうれしいことで、イリエは自分をほめてやりたいと思った。やっぱり、気持ちを伝えてよかった。思いを受け入れてはもらえなかったけど、トキツは愛する人への思いを簡単に誰かに言うことはしない。
それを聞けただけでもじゅうぶんだと思った。今までの自分に比べたら大した成長だ。
「トキツ君、今日はありがとう。この間のことも感謝しています。気持ちを伝えられてよかった。トキツ君には迷惑な話かもしれないけど。元気でね。トキツ君のことずっと忘れない」
「こちらこそ、ありがとう。迷惑だなんて・・とても光栄だよ。少しでも力になれてよかった。受け身だったイリエさんが、自分から誘ってくれたこともうれしかった。イリエさんだから、最後に顔をみて話したかった。どうか、君らしく、前に進んで。僕もずっと君の幸せを願っている」
そう言って差し出された手をイリエはしっかり握った。トキツが両手で、包んでくれた。
きっとこの瞬間、自分は彼の特別な存在になっている。次の日には、ただの日本での友人の一人だけど、この瞬間だけは、時間を割いてでも会いたい特別な相手になれている。それだけで幸せだと思った。
自分は人を好きになるという感情を忘れていないことを気づかせてくれたこの出会いこそが大切なのだ。
トキツはその半月後に、旅立っていった。ミレイと、もう一人幼馴染の親友とだけ連絡を取り合っているという。イリエにもリュウトにもリラにも大学の友人たちにも、一つの近況報告もなかった。どこの国に留学したかも分からないし、ミレイも教えてくれない。
片思いは、苦しい。思いを受け入れてもらえないことは辛い。どれだけ優しく断られても悲しみはある。そして、その人は遠くへ行ってしまい、会うことはない。
もう恋などできないと思った。誰かを好きになっても受け入れてもらえないかもしれない。
リュウトが真剣な顔で告白してくれた時、どうしても心が動かず、断る言葉を探しているイリエを見つめるリュウトの不安そうに泳ぐ目に、かつての自分を見た。
一人でも幸せを感じられるようになろうと思った。誰かに縛られてその気まぐれな優しさにすがりながら、自分をごまかしていくのは間違っている。心がそこにないのに近くにいるから、とその人と付き合うのは、その時は良くても続かないし、相手にも失礼だ。
街で、トキツによく似た人を見ると目で追ってしまうが、彼のような人はめったに会えない。見た目は十人並みだから姿かたちは似た人はいても、歩き方、たたずまいも、笑顔も仕草も、まとう雰囲気が違う。
ミレイは寂しさから時折誘惑に流されてしまうが、結局はやっぱり違うと一方的に相手をふっている。
そのたびに連絡がきて、イリエは時間の許す限り付き合う。ミレイのわがままも気まぐれもかわいい。トキツはそこを愛でるのだろう。愛しているとは決して言わないが。
いい思い出も、切ない思い出も、そこにはある。ひとりで観覧車に乗ることをもう気にすることもなくなるくらいその観覧車に一人で来た。年間パスをつくってほしいくらいだ。
この観覧車が一周するのにおよそ十八分18分、景色を眺めて考え事をする。何も考えない時もある。眼下にひろがる景色が好きだった。
観覧車のスタッフともすっかり顔見知りだ。時々気づかないふりをしてイリエはもう一周乗ることもある。それを見て見ぬふりをしてくれるのは、一人のスタッフだ。明るみになれば怒られるかもしれないが、そのスタッフは、人懐こい顔で何でも切り抜けてしまいそうだ。
「いってらっしゃい」
彼の名札にはローマ字で❝Kou❞と書かれていた。他のスタッフも❝Masato❞とか❝Kaori❞とかなので名前なのだろう。その名前の漢字を知ったとき、お客が途切れて止まってしまった観覧車がまた動き出すように、イリエの止まった心の一点が動き出す。
キリンが見る夢