語りえない
自分の痛い部分を掘り下げる文章を書いていきたいな。他人にかぶせる批判しかできない人間になりたくない。最後に勝つのは俺だってずっと言っている。最後は荒野に俺が一人でたたずむのだってずっと言っている。そんなことを主張するために、小説はあるのだろうか。人に興味がないのに小説なんて書いてもしかたないだろう。気に入らない相手を叩きのめにしてぶちのめにして息の根を止めるための批評なんて、私はやりたくない。歴史の審判などというたいそうな言葉を持ち出しながら、結局勝ちたいという感情がいやというほど伝わってくる。そんなものではないと思う。私は自分で考えたかった。どこにも自分がおさまる場所がないのなら(これは思い上がりかもしれないが)、自分で考えるしかない。少なくとも私は、気に入らない相手を裁くために本を読んでいない。
語りえないものと、語りえるものの間にずっと興味があった。語りえないものを語ることに、苦しみを伴う時代は長くあったのだと思う。そのような行為に霊性が伴う時代も長くあったのだろう。だが、今もそうなのだろうか。語りえないものをいきなり語る態度に、私はどこかで距離を置きたいと思っているところがある。語りえるものから迫っていきたい。語りえるものを語っていると、馬鹿にされることが多い。そんなことをしてなんになるのだ。わかっていない奴だ。野暮なのだ。わからない人はわからないと言われて終わりだ。語りえないものを語るやり方がすでに常態化している気がした。語りえないものと語りえるものの線引きがしたいという思いは、自分の中にある。もちろん語りえないものも、語りえるものも、そしてその引かれる線も、すべて主観にすぎないし、人それぞれと言われればそれまでだが。
心の哲学とか心身問題とかの類は、もう行き詰っている。語りえないものを語る苦しさと、語りえるものを語る苦しさがある。限界に突撃することだけが、優れた手法とも限らない。本人は限界を極めようとしていながら、自分流の風呂敷で世界を包み込みたいだけだったりする。こういう言い方は自分にも返ってくるのだが。
語りえない世界は広大だ。語りえない世界を縦横無尽に駆け巡るのは楽しいのだろう。語りえる世界の中でうずくまっている人間を小馬鹿にして蔑みたくなるのだろう。語りえない世界に比べて語りえる世界は卑小なものだ。ならば、語りえる世界など、どうでもいいのか。確かに語りえない世界の方が限りがなく可能性も大いにある。しかし、語りえる世界なしで語りえない世界が成立するとは思えない。語りえる世界を掘り下げるのは誰もやりたがらない。語りえない世界に軸足を置きながら、語りえる世界を自分流に統括してしまう方が楽しいし、やりがいもあるだろう。語りえない世界に安住していると、言語表現は粗雑になり、優しさも弱さも失われていくのかもしれない。語りえない世界はみんな大好きだ。だから、私は語りえない世界とは距離を置きたくなる。今の時代は、地味なこと、地道なことが嫌われるように思う。
語りえない