百合の君(97)
障楽二年十二月八日、禽堂矢城のまだ暗い廊下には冷たい、張りつめたような空気が漂っていた。壁や柱が熟練した兵のように整列している。その緊張感は昨夜の軍議よりもむしろ勝っているようで、川照見守隆は一人笑った。
軍議では、守隆はなるべく早く、古実鳴に攻め入るべきだと訴えた。彼にとってはむしろ、もう手遅れともいえるタイミングだった。守隆はできれば蓑原の首が届くよりも早く軍を送り、喜林義郎の首を取るべきだと考えていた。援軍が期待できないのに籠城してもしかたがない。しかし、今水流にはそれが分からないようだった。
「いやあ、敵を攻める、それは結構な事でございますな、お若い川照見殿らしい勇敢なご意見だ。戦なんですからな、そりゃあ攻めるか守るかするに決まっておりますからな、しかし喜林は大軍、攻め寄せる我らを防ぎながら、空き巣になったこの禽堂矢城を攻めることも、可能かと思われますぞ」
「では今水流殿は城に籠って守りに徹するべきとお考えか?」
「守る、それもよろしいが平地に築かれたこの禽堂矢城は高い山の上にあるでもなし、掘と石垣だけで守るにも難し。仁傷三年、百鳥公の籠城戦をご存じか? 安楽独城に籠られた百鳥公は、同盟相手の鷹栖公の援軍が到着するまでとお城に籠られたが、別所の大軍相手にあえなく落城、自害なされた。それにしても川照見殿、そもそも喜林からの使者を斬ったのはいささか早計だったのではござらんか?」
上座の珊瑚が欠伸をした。もうこの話は十回目だった。今水流は議論さえしていれば戦を先延ばしにできると信じているかのようだった。それでも今水流に一定の発言力があったのは、彼が浪親遺臣の長老だったからだ。彼らの力なしに喜林から真津太を守り抜く事は到底できそうもないので、国を守ることを考えているとも思えない老人を好きにさせておいている。いっそのこと彼らがいなければ、ずっと珊瑚に従っていた者だけで一致団結できたかもしれないとさえ、守隆は思った。
厠から戻った守隆は、外に鵯の声を聞き、戸を開けた。海岸に打ち上げられた鰯の死体のように沢山の人が真っ黒くいるのが見えた。
敵襲だ!
守隆は身構え、走り出さんとした。振り返った瞬間、視界の端に、城を囲む一人が妙に拡大されて映って、違和感を覚えた。鎧も兜もつけていない。百姓のようだ。
立ち止り、目を凝らす。一揆というわけでもなさそうだ。何事かを書きつけた板を掲げ、寒空の下それを旗のように振り回している。
「出海は戦をするな!」「もう兵隊に行くのはごめんだ!」
守隆が戸を開けた事に気付いたからか、彼らは叫び始めた。再び違和感があったが、今度は何によってもたらされているのか、分からなかった。原因を突き止めている暇はない。
さっさと黙らせないと、珊瑚が目を覚まし不機嫌になる。
百合の君(97)