カメラレンズ
春が、来た。
私は、その麗らかな日差しの中、地元の防波堤沿いを歩いていた。
こうやって、早朝に散歩が出来ることを、ありがたく思う。ずいぶん回復したものだ。
気持ちがいい。
カモメが群集している。私は、それに向かって提げていたカメラを構える。最新鋭の一眼カメラは、以前のそれよりずいぶんと軽く、散歩にはもってこいだった。
シャッターを切る。カモメは、それを知らずに防波堤で寛いでいた。
私は、モニターで撮った写真を確認する。
自然体の青と、柔らかな白。
あの日、モノクロにしか映らなかった私の世界は、今はこんなにも鮮やかだ。
私は、カメラを下ろした。まだ冷たい海風が、私の頬を撫でた。
少し歩くと、漁港が顔を出す。
今日は、ここに来るために歩いてきた。
漁港は活気があり、様々な声が飛び交う。その朝市を横目に、私は漁港を進む。
直売所の奥に、目当てはある。海鮮丼。
私は食堂に入る。すでにたくさんの先客がおり、私はその人の多さに、目がくらみそうになる。
だけど。負けるな、自分。
今日は、絶品の海鮮丼を食べに来たんだ。
私は案内されると、小さなカウンター席につく。横には、明るい茶髪の女性が座っている。
彼女は、すでに海鮮丼を食べている。ほんの少し横を見ると、その豪快な海鮮丼の姿が目に入る。
注文を入れる。程なくして、海鮮丼は運ばれてくる。
カメラを構える。シャッターを、切る。
モニターには、天然の宝石のような、魚の切り身たちが輝いていた。
絶対、美味しいやつだ。私は、喉を鳴らした。
箸を手にする。楽しみと人の多さに、手が震えた。
その時。私の手から、箸が転がり落ちる。
「あっ」
私は、情けのない声を上げながら、箸の行く末を見ていることしかできずにいた。
一瞬、茶髪の女性と、目が合った。その女性は、スッと身をかがめると、私の落とした箸を拾い上げる。
細い指で、私にそれを差し出した。
「新しいの、使いなよ」
凛とした、でもどこか引っ掛かりのある声で、女性は言った。
「あ、ありがとうございます」
私は、眼鏡を上げながら、小さくそう言った。
女性は小さく笑うと、髪をかき上げて、海鮮丼と再び向き合っていた。
私も、女性に倣って、海鮮丼を頬張った。口の中に、新鮮な海の幸が広がる。
「おいしい」
地元に住んでいながら、今までこのうまさを知らずに生きていたことを、少しだけ後悔する。
「おいしいよね、ここの海鮮丼」
と、女性は私を見て、また笑った。その笑みは、美味と寂寥を湛えているようで、私はそれをまじまじと見つめてしまう。
どこか、私に似ている気がする。
否、一緒にするのも失礼か。私なんて、碌に美容院に行かず、すっかり長くなった黒髪をまとめただけなのに。
彼女からは、パーカーにデニムといったラフな恰好ですら締りを感じた。
「あなたは」
私は、曖昧な問いを彼女に投げる。
「私のことは、ヒトリと呼んで」
彼女、ヒトリは湯呑を傾けると、そう言った。薄桃色のグロスの口角が、上がる。
「私は美都」
私は名乗る。
「早く食べちゃいなよ。後ろも詰まっているよ」
ヒトリは悪戯っぽく、そう言った。なるほど、振り返ると、食堂には長蛇の列ができている。
「少し話そうよ。私は外でコーヒーを飲んでいるから」
ヒトリはそう言うと、立ち上がる。私は、まだ残っている海鮮丼を、一気にかっ食らった。
朝市を抜けた駐車場側。裏手の自動販売機の傍に、ヒトリはいた。
「おまたせ」
私は、ヒトリを眺める。長身。手入れされた髪。薄付きのメイク。どれもが素晴らしいと思えた。
「コーヒー、奢るよ」
と、ヒトリは自動販売機に、小銭を入れた。
「ええっ、悪いよ」
私は思わず静止をする。
「いいよいいよ、気にしないで」
ヒトリはそう言うと、カフェラテを購入する。私に渡す。左手の薬指には、大きなダイヤモンドの指輪がついていた。
「煙草、吸っていいかな」
ヒトリはコーヒーを飲みながら、そう言う。私は小さく頷いた。
慣れた手つきで、青黒い箱から煙草を出す。火を点ける。洗礼された所作。
息を吐いた。春空に、煙がたなびく。
その横顔からは、疲弊を感じてしまう。
諦めに近い、何か。私も、こんな顔をしていた気がする。そう思うと、胸が痛くなった。
「ヒトリさんは」
私はカフェラテを飲むと、声を出した。
「どうしてこんな辺鄙なところへ」
私の地元のここは、公共交通機関もない、辺鄙なところだ。
「私、今ね、美味しいものを食べながら日本一周をしているの」
ヒトリは息を吐きながら、そう言った。
「それで、たまたまここに来たんだ」
そう言って、ヒトリは私の顔を見た。
目線が合う。ヒトリの釣り目から深淵の、何か言葉にし得ない、どす黒いものをそこから感じてしまう。
ヒトリは煙草の火をもみ消す。コーヒーを飲み切ると、大きく伸びをした。
「さあ、どこかまで行こうかな」
と、言うものだから、思わず手を掴んでしまう。
「え」
と、驚いた顔で、ヒトリ。私も咄嗟の行動であったから、驚いて手を離す。
「あの、すみません」
私は、慌てて謝罪をする。
と、同時に頭を上げた。ヒトリが視界に入る。深淵を映し出す双眸は、私を捉えて離さなかった。
「あの」
と、少し間をおいて、私は発声する。
「お写真、撮らせていただいてもいいですか」
私は、首から提げたカメラを指差しながら、言う。
ヒトリはきょとんと、それを見ていた。数秒の間の後。ヒトリは大きな声で笑いだす。
「ああ、面白い」
その勢いと声量に、私は圧巻されながら、ヒトリの明るい茶髪を眺めていた。
「いいよ、お安い御用さ」
ヒトリはそう言う。
「ありがとう、ございます」
私は何だか、急に照れくさくなってしまって、言葉に詰まる。
私とヒトリは、朝市から少し歩く。港の方へ歩く。
「ただの港だけど、ヒトリさんの雰囲気にも合うかな、って」
私は、船たちを見ながら、ヒトリへ説明する。
「立派な船だねえ」
ヒトリは、それをまじまじと眺めながら、私の後ろをついてきている。
しばらく歩くと、船の停留しない、海が見える。
「ここらへんで」
と、私。
ヒトリは、係留するためのフックに足をかける。パーカーを脱ぐと、肩にかけてポーズをとる。
「こんな感じでいいかな」
と、ヒトリ。私はその美しさに、息を吞む。
カメラを、構える。
シャッターを、切った。もう一度、もう一度とシャッターを切る。
「きれい」
と、思わず声が漏れた。
「照れるなあ」
ヒトリは、クスクスと笑った。それにも、シャッターを切った。
「撮れているかい」
しばらくすると、ヒトリは私の元へ駆け寄る。私は、カメラのモニターに、撮った写真を表示させた。
「いいね、写真うまいね」
そこには、等身大で笑うヒトリが映し出されている。ヒトリは、嬉しそうに笑う。
「遺影にできそうだ」
と、ぼそりと言っていた気がするが、聞かなかったことにした。
その後も、ヒトリと私は、写真を沢山撮った。
桟橋。船を背景に。海を背負って。
その一瞬のヒトリは、生き生きと輝いていた。その中に、どす黒い何かが、ファインダー越しに、私を突き刺している。
聞かなかった言葉が、頭をこだまする。
ああ、やっぱり。
私と同じだ。同じ人なんだ。
無邪気に駆け寄るヒトリは、きっとピエロだ。
海の青と、ヒトリのパーカーの白。そのコントラストに、一筋の涙が、勝手に零れる。
「えっ、どうしたの」
ヒトリは、そんな私を見て、声を上げる。
「なんでもない」
ヒトリの、この気持ちに気づいていることを、悟られたくなかった。
「美しすぎるから、泣けてきちゃった」
私は、無理に笑顔を作る。
本心を、言う。
「美都は、面白い子だね」
ヒトリは、そう言うと肩を叩いて笑っていた。
港を一周すると、私たちはまた、自動販売機の元へとやってきた。
ヒトリがコーヒーを買おうとするから、
「今回は、私に出させて」
と、私が百円玉を入れた。
「お、ありがとう」
ヒトリはブラックコーヒーを購入する。
「今日のモデル代、としては安いよね」
私は続けて、カフェラテを購入。
「いいよいいよ、私も楽しかったし」
ヒトリはそう言うと、缶コーヒーを開ける。煙草に火を点ける。
息を吐いた。煙が、伸びる。
「あのさ」
私はカフェラテを一口飲むと、ヒトリに声をかける。ヒトリは、煙を吐きながら、私の方を見た。
「写真を送りたいから、連絡先を交換、しないかな」
手を缶で温めながら、私。
「いいよ、もちろん」
ヒトリは、嬉しそうにスマートフォンを取り出す。
メールアドレスと、電話番号を交換した。ヒトリの本名は、聞けなかった。
聞いたらいけないと、思った。
この距離感が、ちょうどいいと思ったから、そうした。
「ありがとう、美都」
ヒトリはスマートフォンを眺めると、笑っていた。
「私、行くね」
煙草の火を消して、ヒトリは踵を返す。うん、と私はその背中を見送った。
もう二度と会えない。でも、どこかで生きていて欲しい。
そう思って、その背中にシャッターを切った。
二か月後。
私は撮った写真たちの整理をしていた。ヒトリの写真を見て、彼女の存在を思い出した。
それから、ヒトリからは連絡がない。私も、あえて連絡を取れなかった。
遺影にする写真に、してほしくなかった。だから、連絡しなかった。
ヒトリが今、どこで何をしているのかは、知らない。
写真を見た。深淵を覗きながらもはにかむ彼女が、素敵だった。
知らない方がいいことも、適度な距離感もある。
私はそう思い、ヒトリの写真をそっと消した。
カメラレンズ