煙草の煙が、月へ届きそうだった。
 回る視界に目を細めて、健吾は息を吐いた。
 もう、何杯飲んだかわからない。否、何件梯子をしたかも、わからなかった。
 会社を出たときは、空は薄暗いだけだった。しかし、今はどっぷり暗く、肌寒いまである。
「高木、まだいけるかあ」
 同僚の市川は、声を荒げた。拳を高らかに天に突き上げる。
「いいですねえ」
 と、発声したのは、後輩の青木。お前じゃねえよ、と、一斉にどっと笑った。
「で、高木はどうすんの」
 と、改めて市川。健吾は、市川を見やる。
「行く。どこに行くの」
「風俗行くんだよ」
 市川は、下品にもニィッと笑う。左手をO、右手をIにして。
 なんて奴だ。
 五、六人いた仲間たちも、
「ええっ」
 と、声をあげる。
「俺、奥さんに何言われるかわからないから、辞めとくわ」
「もう限界ですわ」
 などと言うと、ぼちぼちと解散の流れになる。
「ちぇっ」
 面白くない様子で、市川は小石を蹴った。
 夜の繁華街。月に照らされた小道に、健吾、市川、青木は取り残された。
「つれねえなあ」
 と、市川。少しすると、後方の青木と健吾を見た。数秒。その場にいた三人は、互いの目を配らせていた。
「おい」
 沈黙を破ったのは、やはり市川だった。
「じゃんけんで負けたやつが、男を売ってる売り専ソープへ、行くことにしようぜ」
 やっぱり、俺も帰ればよかった。
 後悔した。とはいえ、この調子の市川は、もう帰してくれはしないだろう。
「いいっすね、やりましょう」
 青木も青木で、ひどく酔いが回っている様子だ。呂律が、回っていない。
「高木も、こっちに来いよ。じゃんけんだ」
 普段は、仕事を丁寧にこなす人なのにな。人当たりも良く、好かれる人なのに。
 健吾は、ため息を吐くと、ポケットから煙草を取り出した。火を点けると、市川と青木の元へ、三歩進めた。
「覚悟はできたか」
 市川の声が、夜に反響する。灰が落ちる。
「はいっす」
 と、青木。
「おう」
 健吾は、仕方なしに返事をする。
 手を握る。拳に汗がにじんだ。
「じゃん」
 拳を振り上げる。
「けん」
 目を閉じた。
「ぽん」
 拳を下げた。健吾は、ゆっくり目を開いた。
 チョキ。
 市川、青木はグーを出している。
 完全敗北。煙草の火種が、ポロリと落ちた。
 大騒ぎをし、抱き合う市川と青木。
 健吾は、自分のチョキを見つめた。一言も、発しなかった。
 二人は、意気揚々と、ネオンの中を歩く。その後ろを、チョキのまま、健吾はついていく。
「高木はここな。俺と青木は、こっちに行く」
 うたかた。
 そう書かれた看板の元で、市川は、健吾の背中を押した。
「健闘を祈る」
 と、一言余計に添えられると、市川と青木は、大笑いしながら光の方へ消えていった。

一人取り残された健吾。改めて、頭上の看板を見上げる。
 うたかた。
 白地に、黒文字でそう書かれている。暖色灯が三灯、それを照らしている。
 健吾は、視線を落とした。
 風俗は、初めてではない。市川に、こうやって数回、付き合わされているから。
 こんなもんか。そんな感想しか持ち合わせていなかったが。
 健吾は、掌を見つめた。
 別に、相手が女でも男でも、正直、どうでもよかった。興味がない、と言っても差し支えがない。
 故に、今まで、健吾は愛だの恋だのが、理解できずにいた。もちろん、恋人がいたこともなかった。
 朴訥で、流されやすいやつ。
 健吾は、内心し、フッと笑う。ドアに手をかけると、重い扉を開けた。

 薄暗い店内は、清掃が行き届いており、清潔感を感じさせる。
 手早く受付を済ませると、待合に案内される。
 ソファに座り、スマートフォンを取り出す。市川からのメッセージが、入っている。読むと、どうやら市川と青木も、待合にいるらしい。
「六十分、一本勝負な」
 意地の悪い、市川の顔が浮かぶ。
 不意に、右手でチョキを作る。運命を分けた、チョキ。何も、感じなかった。
 その手で煙草を掴むと、オイルの少なくなったライターで、火を点ける。
 息を吐く。煙を燻らす。上を向くと、煙の合間からダウンライトが眩しく、健吾を包んでいた。
 煙草を三、四口喫した頃だろう。人影を感じ、健吾は煙草をもみ消した。
 黒服が、立っている。
「お客様、準備ができました」
 黒服は、そう丁寧に言う。煙草の火が消えていることを確認すると、健吾はソファから立ち上がった。

 短い廊下を渡り、部屋の前へ案内される。黒服から、ごく一般的な注意事項と説明を受ける。健吾は、静かにそれを聞いていた。
 説明が終わると、部屋に通される。シャワーと、簡易ベッドがある、ごく一般的なソープランドの作り。その空間に、きらびやかな男が、立っていた。
 健吾より、二回り小さな体躯。くるくるの栗毛に、大きな瞳。薄い唇には、桃色のリップが添えてあった。暗がりでもわかる、細かいそばかすが目を引いた。その細い体躯は、ベビードールと、布面積の小さな、エロティックなショーツのみをまとって、色気を放つ。
 健吾の眉が、動いた。目を見張る。
「お兄さん、初めまして」
 鈴の鳴るような、発声。
「僕はトモエ」
 トモエは、そう言うと子犬のような笑みを浮かべた。
「健吾。よろしく」
 声が上ずる。
 胸が、鼓動を早める。静まれ。
 トモエは、数歩、健吾に歩み寄る。健吾の手を取った。
 心臓が、さらにやかましさを増す。
「健吾さんね、覚えたよ」
 トモエは、細い指で、健吾の逞しい大きな手を包む。
「まずは、一緒にシャワーへ行こう」
 トモエは、ふわりと笑む。健吾のネクタイに、指をかけた。

 簡易ベッドの上で、健吾は重い瞼を上げた。一応、眠ってはいないようだ。
「健吾さん、時間になるよ」
 トモエはそう言って、体を起こす。乱れた髪を、掻き上げた。
 もう六十分か。
 健吾はコンドームを外すと、脱ぎ捨てた服を拾い上げる。
 服をまとう手は、震えていた。まだ、鼓動は早い。
 何とか着衣を終える。
 トモエはショーツと、透けたベビードールをまとい、立っている。
「今日はありがとう」
 ふわり、笑みが健吾を包み込んだ。健吾の目に、それが焼き付く。
 トモエは、一歩踏み出す。健吾の背中に、手を回す。
「またね」
 タイマーの鳴る音がした。

 支払いを終え、店外へ。夜の寒さが、体の火照りとの温度差を作る。
 路地の突き当りの方では、市川と青木が、手を振っていた。
「おおい、高木。無事かあ」
 深夜一時。しんと静まり返る街に、市川の声だけが、やけに響いた。
 健吾は、急ぎ足で、市川らの方へ向かう。
「どうだったよ。俺は、最高だったぜ」
 ニヤニヤと、健吾の肩に手を回し、市川。
「俺はいまいちでした。初めてのソープだったのにい」
 と、悔しがる青木。
 健吾は黙ったまま、右手をチョキにする。
 小さなあの指の感触が、忘れられない。
「うん」
 とだけ言うと、健吾は目を閉じて笑んだ。
 市川と青木は、それを見、互いに顔を見合わせて、首を傾げあっていた。

 結局。
 当たり前だが、終電を逃した一行は、カラオケで時間を潰し、始発で帰ることになった。
 たっぷりの朝日。アパートへ帰宅した健吾は、シャワーを浴びていた。
 湯がかかる。しなやかな体つきで洗身するあの栗毛が、よぎってしまう。あの笑みが、柔らかさが、脳裏を支配していた。
 そんな思考を振りほどくように、洗髪をした頭を、ぶんぶんと横に振る。タオルで強くこする。
 半乾きの短髪を掻きながら、健吾はベランダに出る。
 若干、頭が鐘打っていた。
 煙草に火を点ける。煙草の焼ける臭いを感じながら、ライターを眺めた。もう、オイルはなかった。
 息を吐く。煙は、ベランダの外へと逃げていった。
 掌を、見返す。チョキにする。
 この大きな手を握った、小さな手を思い出すと、胸がざわついた。
 ジ、と煙草の焼けていく音がする。
 トモエは、他の男とも、ああやって寝ているのだろうか。
 そう思うと、なぜだか、胸がチクリと痛む。
 華奢な体躯。優しい物言い。包み込む柔和さ。今まで会ったどの男より、否、男女よりも魅力的で、脳裏に焼き付いて、離れない。
 健吾は、この感情を表す言葉を、まだ知らなかった。
 ただ、もう一度会いたい。
 それだけは、はっきり理解ができた。気づけば、煙草はすっかり灰になっていた。

 その日は、すっかり雨だった。
 休憩中。喫煙所で煙草を燻らす健吾は、スマートフォンを開いていた。
 うたかた。
 ホームページを眺める。
 きらびやかで、露出の多い衣装をまとう、あどけなさを残した青年たち。そこに、トモエの姿もあった。くるくるの栗毛と、細かなそばかす。
 ホームページから、指名の予約ができるようだ。煙草の煙を、大きく吸い込む。人差し指が、意思を表示しようとした瞬間。
「高木い」
 と、調子のよい声をかけられ、スマートフォンを画面を切った。
 市川。タール数の重い煙草を咥えた彼は、健吾の元へ歩いてくる。
 健吾は、息を吐いた。
「よお、市川」
 灰皿へ、灰を落としながら。
「今日、給料日だろ。飲みに行こうぜ」
 お茶らけた声でそういう市川は、健吾の肩を叩いた。
 健吾は、画面を消したスマートフォンを、ちらりと見た。少し思考する。目を閉じた。ゆっくり市川を見る。
「いや」
 数秒かけて、そう答える。首を横に振った。
「お、珍しい。高木が断るなんて」
 市川は、豆鉄砲を食らったような顔をする。少し悔しそうな顔をすると、市川はほとんど吸っていない煙草の火を、もみ消した。
 健吾の肩をもう一度叩くと、喫煙所から去っていった。
 健吾はそれを見送ると、短くなった煙草の火をもみ消す。もう一本咥えると、新品のライターで、再び火を点ける。
 人の誘いを、断った。
 健吾は、煙草を咥えたまま、スマートフォンの画面をつけた。息を吐く。光は、まばらに健吾の視界に入る。
 人の言うままに、流されてきたのに。
 煙が切れると、トモエの写真が鮮明になる。愛くるしい笑みを浮かべたトモエ。
 今は、会いたい人がいるから。
 健吾は予約ボタンを、タップした。

 夕方になるにつれて、雨足が強くなった。
 いつもなら賑わう繁華街も、今日は人がまばらだ。
 傘を差しながら、健吾は繫華街の奥へ、進む。この角を曲がった、もう少し先。
 うたかた。
 奥まった路地の一角に、ひっそり佇むそれに、迷いなく健吾は入る。
「予約です」
 受付を手早く済ませると、待合へ案内される。
 待合のソファに座る。通勤リュックに入れていた煙草は、ちょうど傘の外だったらしく、すっかり濡れてしまっていた。火もつかないそれを見て、落胆のため息をついた。
 そうしているうちに、以前のように黒服が呼びに来る。
 短くて狭い廊下を行くと、注意事項を黒服が述べる。
「今日は八十分コースですね」
 と、黒服は確認する。
「はい」
 と、健吾。
 会える。そう思うと、退化したはずの表情筋が、少しゆるむ。
 健吾は、部屋に入った。

 トモエは、純白のベビードールと、申し訳程度の布面積のショーツで、そこにいた。
「健吾さん、また来てくれてありがとう。僕、嬉しいよ」
 トモエは、満面の笑みで出迎える。
「トモエ、会いに来たよ」
 健吾は、トモエを抱きしめた。トモエの細い腕が、体に回る。
 これだ。
 安心。安寧。安らぎ。癒し。
 俺が欲しかったのは、これだ。
「健吾さん、会いたかったよ」
 必要としてくれている。
 健吾は、腕に力を込めた。
「シャワー、いこ」
 と、トモエ。
「ああ」
 健吾は、トモエのその薄い桃色の唇にキスをした。

 簡易ベッドに横にした、重いからだを上げる。
 健吾は、トモエのしなやかな指に、大きくて丈夫な自身の指を、絡めた。
「トモエは、他の人ともこんなこと、しているの」
 健吾は、絡め合った手を眺めて、口を開く。
「そうだね」
 と、トモエは目を伏せがちに言う。長いまつげが、影を落とす。
 想定内の解答。当たり前の、模範解答。だが、健吾の胸には、小さな落雷を落とされていた。
 あの恍惚とした顔も。揺れる小枝の腰も。絹の肌も。
 俺だけのものではない。
 他人も知っていると思うと、むずがゆくて仕方がなかった。
 悔しい、悔しい、悔しい。
 健吾は、指に込める力を、強めた。
 嫉妬。
 その一言を、わかってしまった。
 では、嫉妬するということは。
 健吾の思考は、巡る。
 あの鼓動も。高鳴りも。今の嫉妬も。
 独占欲。それは、愛にも似たもの、否、心惹かれてしまっている。完全に。
 売り専の青年に、恋をしてどうする。
 しかし、一度動き出した独占欲は、貪欲になっていく。止められなかった。
「トモエ」
 健吾は、トモエを抱き寄せる。なめらかな肌が、心地よかった。
「俺はどうやら、トモエのことが好きみたいだ」
 腕に抱かれたトモエは、無邪気に笑った。
「あはは、そう思ってもらえて、嬉しいよ」
 トモエは、太い健吾の腕にキスをした。
「トモエも俺だけを見ていて欲しい」
 健吾は、トモエの栗毛に顔をうずめた。
 トモエの動きが、止まった。
「それは、駄目」
 トモエは、健吾の腕を振り払うと、ベッドから降りて立ち上がる。
「だって、あなたは客で、僕は商品。それだけだから」
「でも」
 間髪入れずに、健吾。手を伸ばすが、今まで見たことのない視線で、トモエから見つめられ、手をひっこめてしまう。
「そもそも、あなたは、僕の本名を知らないのに」
 言える言葉も、かける言葉もなかった。
 ただ、タイマーの音だけが、鳴り響いていた。

 会計を終えると、健吾は店を出る。
 雨はまだ、降っていた。あえて、店内に傘は置いてきた。
 雨は、見る見るうちに健吾を濡れネズミにしていく。それが、シャワーのようで、胸が締め付けられた。
 人を想うことは、冷たいんだな。
 健吾は、空を見た。雨は大粒で、遠慮という言葉を、知らないでいる。
 俺は。
 思う以上に、心を揺さぶられることがあることに、気が付いた。
 俺は。
 人に好意を寄せる、そんな感情があることに気が付いた。
 俺は、思ったより朴訥ではないらしい。
 そう思うと、フッと笑みがこぼれた。
 深夜の繁華街。健吾の小さな笑い声が、響いていた。
 雨は、まだ止む気配がなかった。

会社の飲み会。健吾は酔っぱらった勢いで、風俗街にいた。じゃんけんで負けた健吾は一人、男性が相手をするソープへ行くこととなる。そ

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2026-02-16

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