愛、涙、思い

わかってる。わかってる。どうしようも無い事くらい。それでも私はここに来た。
 あの日と同じ、匂いがする。
 あの日と同じ、雨の匂い。
 傘を優しく包むような雨に、心がうずき始める。それを基に誰かの笑顔や、会話や、温もりが、一度に胸に込み上げてきた。
 まだ何一つ、忘れてなどいなかった。
 私の時間は止まったまま。いくら針を巻き戻しても、進むことなど無かった。
 過去に戻れず、未来へは進めない。
 わかってる。知ってる。気づいてる。どうにもならない事くらい。それでも私はここに来た。来てしまった。繰り返すばかりだ。
 私は十字路の曲がり角にしゃがみ込んだ。そこにはいくつかの花束が置かれている。花はまだ枯れていなかった。
 誰かの笑顔が、さっきよりもはっきりと映し出される。目を閉じても消えない。必死に頭を振って目を開けると、もうそこから消えていた。
 私は忘れたいのだろうか。忘れてしまえば、この寂しさも悲しみも無くなるのか。この胸の痛みも、時折襲ってくる怖さも、全部全部消せるのだろうか。
 涙はのんだ。唇を結んで、一輪の花を置く。しかし、抑えることなど出来なかった。いくら唇を噛み切っても、溢れる涙は止まることを知らない。
「どうして……どうして……っ」
 嗚咽とともに声が漏れる。
 返事など無かった。そんなこと分かりきっているのに。それでも止められなかった。胸を締め付け、支配するこの痛みに耐えられなかった。片手で胸あたりを握りしめ、片手は地面に着く。優しい雨が私を包み込んでも、体は冷えていくばかりだった。
 もう一度、声が聞きたい。
 もう一度、笑顔が見たい。
 もう一度、触れていたい。
 もう一度、もう一度だけ。
 そのもう一度さえも、かなわない。かなわない。願いも、神にも、自分にも。
 あなたにも。
 割り切れないこの感情は、いつまで私を蝕むのだろうか。もうこれ以上、巣食う物など無いというのに。
 雨は止んでいないのに、空から日が差し始めた。
 皮肉だ。私の心は、そう呟く。
 地に着いた手に目をやると、数字が目に入った。帰ろう。スカートを軽くで払い、傘をしまいながら立ち上がった。
 雨はすっかり止み、道にはねた雫が光を反射している。花に乗った雫にも、平等に光は当たる。私は一つ、花に向かって頭を下げてから、歩き出した。
 もう今日で最後にしよう。明日からはもうここに来ない。そう何度思っても、またここに来てしまう。
 忘れたくはない。でも断ち切りたかった。いつまでもこうしてはいられない。わかってる。
「わー……やばいやばい。遅刻だよ遅刻」
 一人の女性とすれ違った。そんなに焦っても良いこと無いぞ。まあ、私も人に言える立場ではないが。
 女性は腕時計を焦点にして、スタスタ早足で歩いて行く。危なっかしいなあと思いながら振り返ると、
「「痛っ」」
 という声とともに、女性が尻餅を着いているのが目に入った。さっきの十字路だ。
 ほれ、言わんこっちゃない。
「あ、あのっ…おお怪我はございませんか?」
「えっ、あ、いやそのっつ、だ、へ、平気です」
 どうやら若い男性とぶつかったらしい。二人ともおどおどしている。その様子に心が和んだ。と、同時に、心はチクッと痛む。
「幸せになってね」
 そう一人で呟いて、私は二人に背を向け、また歩き出す。
 あの日の私が、そこにいたのだ。

愛、涙、思い

愛、涙、思い

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-02-03

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