“命ーミコトー” 後編 【連載中】
『命ーミコトー』第一章の続きです。
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大人
自分の家に戻ってから早3日が経ち、その間ミコトの巫女の記憶も見なければ、藤家とも蓮見とも連絡を取っていなかった。あの忙しかった日とは打って変わってあまりにも平凡すぎることに、命は飽き飽きしていた。
連絡を取れないのは訳があるのだ。この、宿題だ。宿題を朝、源造がここまでやれという課題を出して、それを終わらせることができなければ家から出させてもらえなければ、携帯さえ取り上げられているので誰にも連絡を取ることができないのだ。しかも、その課題の量が半端ではないので一日で終わるわけもなくこの3日間こんな状態になってしまっているのだ。
「何で、いきなりこんなに厳しくなったのよ。」
源造は礼儀作法だとかそういうことにはうるさかったが、そこまで勉強のことは言っていなかったはずだ。それがいきなり、3日前から勉強しろしろ言い出したのだ。
そこで、命はふと思い当たった。源造のある一言を思い出したのだ。
『命、少しは月音君を見習え。お前と同い年なのにあんなにしっかりしていて、家のことも勉強のこともしっかりしていて……』
ああ、紛れもなくこれだ。
命は大きくため息をついて机に突っ伏した。
あの父親め、藤家と飲みにでもいったときに色々話して何か影響されてしまったみたいだ。藤家も、一体何を言ったんだか…。
「でもな、そうは言ってもこの状況を何とかしない限りはな…。」
命は机の上に山積みになっている宿題たちを睨んだ。
「命!」
下で蘭子が呼んでいる声がして、命は部屋のドアを開けた。階段の下で蘭子がバッグを持って立っていた。
「なあに?」
「一緒に買い物行かない?」
蘭子は小さく手をこまねいている。とりあえず命は階段を下りた。すると蘭子が命にこっそり耳打ちした。
「命もお父さんに部屋に閉じ込められて勉強していて飽き飽きしているでしょう?
気分転換に外でも出なさい。私の買い物の付き添いだということだったらあの人も文句は言わないと思うから。家を出るまでは一緒で、その後は好きなところに行ってらっしゃい。」
「お母さん…。」
蘭子は茶目っ気たっぷりにウィンクして見せた。
「あとね、これはお母さんからの提案なんだけど、あの課題を終わらせるのなんて一人じゃムリでしょう?私ももう高校の勉強なんてこれっぽっちも覚えていないし。だから、藤家君に手伝ってもらったらどうかしら?」
お父さんもそれなら喜ぶし、と後から蘭子は付け足した。そうだ。藤家さえいれば、あんな課題なんてちょちょいのちょいだ。
命は頷いて蘭子と一緒に家を出た。源造は神主姿で少し疑ったように命のことを見ていたが、蘭子の笑顔には逆らえない。無事、家を脱出することができたのだ。
命は駅前で母と別れた。とりあえず、藤家と連絡を取りたいのだが携帯に情報は全て入っているのでどうしようもない。
「蓮見なら分かるかな。」
今日は平日だし、もしかしたら学校にいるかもしれない。とりあえず命は学校に向かうために、電車に乗り込んだ。夏休みに補習以外で学校に行くのなんてはじめてだ。中学のときも部活には入っていなかったので、学校に行くことなんてなかったし。命は不思議と少しウキウキしつつ、見慣れた駅で降りた。
「あれ、命?」
声がした方を見ると、この地域にしては少し派手な女の子が目に入った。
「美嘉!」
友人の安池美嘉である。最も仲の良い友人の一人だ。命は久しぶりに美嘉の姿を見て、嬉しくなって抱きついた。
「何よ、命!そんなに私に会えなくて寂しかったの?」
「うん!寂しかったよ。」
そう素直に言う命に美嘉は微笑み頭を撫でたが、すぐにここが駅だということに気づき、人目が恥ずかしかったのだろう、無理やり命を引き離した。
「旅行楽しかった?」
「楽しかったわよ。あんたは補習どうだったの?」
「頑張ったよ。それに、すごく頭良くなったんだから。美嘉にも勝てるよ。だって、藤家に教えてもらったんだからね。」
「えっ!?隣のクラスのあの藤家に?」
美嘉は目を丸くして驚いた。その反応に命は大満足で、ニッと笑う。
「あれ?でも美嘉学校に何の用事?」
そういうと美嘉は肩をすくめた。
「新藤先生に呼び出されたんだよね。」
「新藤先生に?何で?」
新藤先生とは数学の先生である。しかし命のクラスの数学の担当は蓮見なので、新藤先生と美嘉は何の関係もないはず。それなのに何で美嘉はその新藤先生に呼び出されたのだろうか。
「あれ?命知らないんだっけ?新藤先生って私のいとこなんだよね。」
「いとこ?」
それは知らなかった。
「いとこなのに新藤先生とかって呼んでるの?」
「私、あの人とは昔からなんかそりが合わなくて、あのわざとナヨナヨしている感じが私にはムリというか…。」
確かに新藤先生は背が小さくて可愛らしい、女らしい先生だ。男子生徒からの人気も高く、贔屓も激しい。自分のことをよく分かっていてうまく利用しているように見える先生だ。命も少し苦手である。それに対して美嘉はサバサバとした性格だから…。
「うん。納得した。」
「でしょう?」
命達はクスクス笑いながら学校へと歩いていった。
学校に着くと、美嘉は盛大にため息を漏らした。どうやら今頃になって、本当に新藤先生のもとへ行くのが嫌になったらしい。
「美嘉、大丈夫?」
「本当に嫌なんだけど…。」
「そんなに嫌なら私もついて行こうか?どうせそんなに急ぐ用事でもないし。」
そういうと美嘉は目を輝かせて命の手を握り、ブンブンと首を縦に振った。
新藤先生は花壇にいるらしい。そこで花の世話を自ら進んでやっているそうなのだ。美嘉曰く、それも計算で、新藤先生は自分のプラスの印象になることしかしないらしい。実際、命は新藤先生とは話したこともないし、あまり会うこともないので分からないのだけれど。あまり人の悪口などは言わない美嘉がそこまで言う人が一体どんな人物であるかは少し興味があった。
「……いた。」
校舎の裏に回ってすぐのところに花壇があった。命達はこっそり壁のところに張り付いて覗いた。そこに暑い夏に似合わず、さわやかに花に水をあげる新藤先生の姿があった。ミニのスカートに白いシャツの襟元を大きくあけていて、何というか、教師らしからぬ格好である。確かに、あれは狙っているのだろう。
「私、何だか少し分かったかも。」
「でしょう?でも何で今日は男子生徒もいないのに……。」
その時、もう一人いるのが見えた。
「え…?」
「ああ、そういうことね。今の新藤先生のターゲットはあれですか。」
そこには腕まくりをして、土をいじっている蓮見の姿があった。
「蓮見せんせぇ?この辺にしておきましょうか。」
間延びした猫なで声で蓮見に笑いかける新藤先生。その姿に命は思わず引きつる。
「そうですね。今日も暑いですからね。」
にこやかに額の汗をTシャツでぬぐいながら蓮見が立ち上がった。すかさず新藤先生は清潔そうなタオルをどこからともなく出してくる。蓮見はどうもありがどうございます、と軽く会釈してタオルを受け取った。その姿をじっと見つめる新藤先生。美嘉の言うとおり蓮見のことを新藤先生は狙っているらしい。そう思うと、命は何だか心にもやもやしたものを感じた。何だか気分が悪い。
「新藤先生と蓮見か。まあ、年も近いし同じ数学教師だからな。」
新藤先生は命達が入学した年に新しく入ってきた先生で23歳。蓮見より一つ年下の先生だ。確かにこう見た感じお似合いな感じに見えなくもないが、命は何だか腑に落ちなかった。
「蓮見!」
気がついたら命は二人の方へ出て行っていた。突然現れた命に二人とも目を丸くした。
「おっ、榊。どうしたんだ?」
蓮見はニカッと歯を見せて笑ったが、新藤先生は少し不満げに命を睨んでいるようだった。その姿に女特有の恐ろしさを感じ、パッと目をそらした。
「いや、あの、藤家の家の住所を教えて貰えないかな、と思って…」
命がそう言うと蓮見は顔をしかめた。
「何のようでだ?それに藤家の連絡先知ってるんだから、直接聞けばいいだろうが。」
「いや、そうなんだけどさ…」
命は蓮見をちょっと、ちょっとと呼び、事の現状を話した。すると蓮見はうーん、と唸った。
「その状況は何かあったときに連絡が取れないから困るな。分かった、俺が親父さんには話しといてやるから。」
「本当!?」
「ああ。でもだからと言って宿題しないとかはなしだぞ。そもそもはお前の勉強への態度が悪いからそんなんだから言われるんだ。一日最低一時間は集中して勉強しろ。そうすりゃ親父さんも文句は言わないだろ。」
命は口を尖らせながら「はーい。」と言った。蓮見が教師らしい、大人らしい最もな正論を言うもんだから…。そんな命を見て蓮見はフッと笑い、大きな手でワシャワシャと撫でた。
「ちょっと!あんたその手でさっき土いじってたでしょうが!」
「何だ。そっから見てたのか、ストーカー。」
「誰がストーカーよ!」
命は蓮見の手を振り払った。蓮見は口を開けて笑っている。良く笑うやつだ。
「蓮見先生。」
その時、新藤先生が蓮見の腕にそっと触れて言った。 新藤先生は蓮見の袖口をくいっと引っ張った。
「もうお昼ですよ。お腹がすいたでしょう?一緒に食べませんか。」
すると蓮見はああ、と呟きながら時計を見た。
「確かに。そう言われればお腹がすきましたね。それじゃあ、榊。とりあえずそれは俺に任せて安心してお前は勉強しろよ。」
「う、うん。」
蓮見は軽く手を上げると、背中を向けて校舎のほうへと向かっていった。新藤先生は命のほうをじっと見て、立ち止まっている。
「榊命さん、だったかしら?」
「はい。…なんですか?」
新藤先生はフッと目を細めて、何だか馬鹿にしたように見てくる。
「蓮見先生はあなただけの先生じゃないんだから、あんまり迷惑かけちゃだめよ?」
教師の仮面をかぶった一人の女の姿だった。命はひどく息苦しくなった。そんな様子の命を新藤先生はフッと笑い、今度は少しはなれたところにいた美嘉に目を向けた。
「安池さん?呼び出して悪かったわね。これからお昼だから、少し待っててくれるかしら?」
「な…!」
美嘉は顔を赤くして新藤先生を見たが、すぐに唇をかみしめた。この女を相手にするのも嫌なのだろう。そして、一息つくと冷静な顔をして言った。
「分かりました。でも、新藤先生がさっき命に言った言葉をそっくりそのままお返しします。私はただの一生徒なので、先生の何者でもありません。先生は大人なんだから、私達高校生よりずっと分かっているでしょう?」
今度は新藤先生が赤くなる番だった。新藤先生は命達二人をジロリと睨むと、蓮見を追うように小走りで校舎へと入っていった。
蓮見が職員室へ向かって廊下を歩いていると、後ろから新藤が追いついてきた。少し息を乱している。
「新藤先生?別にそんなに急いで追いつかなくても良かったのに。」
蓮見がそういうと、新藤は少し恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「すみません。少し、生徒に話がありまして、ね。」
新藤は肩をすくめて言った。微笑んではいるが、内心命と美嘉へのイライラを募らせていた。だが彼女も立派な大人の女である。そんなことはこれっぽっちも出さずに隠していられる。
「もう、いいんですか?」
「ええ。それより、蓮見先生?」
「どう、しましたか?」
新藤が目を細めて笑った。何だか少しいつもの印象とは違う新藤に、蓮見は違和感を抱いた。
「さっきの、榊さん。蓮見先生、たいそうお気に入りのようですね。」
少し緊張した空気の中で何を言い出すかと身構えていた蓮見は、予想外の言葉に胸を撫で下ろし、少し笑った。
「榊ですか?ええ、去年から担任として受け持っていましてね。いや、なかなか面白くて可愛いから、ついついからかってしまうんですよね。」
「教師として、ですか?」
首をかしげて聞いてくる新藤に、蓮見は内心少しドキリとしながらも頷いた。
「そうですか。それならいいんですけど。いや、ね。あのぐらいの女の子って年上の男性に惹かれたりする事があるじゃないですか。学校ではやっぱりその対象は若い男の先生にね。でも、教師と生徒だし、大人と子供。何か間違えがあるなどは絶対に避けなくてはいけませんよね?まあ、蓮見先生に限ってどうはならないでしょうし、安心ですけどね?」
新藤はクスリと笑って、少し驚いたように固まっている蓮見の肩にそっと触れた。
「さあ、蓮見先生?早く行きましょう。」
「あ、はい。」
大人と子供、か。確かに俺と榊は8つも離れているからな。それはそうだろう。分かっている、よく。
蓮見は少しため息をついた。そうして、新藤と一緒に職員室へと向かった。
「命、大丈夫?」
新藤先生が立ち去って、美嘉は心配そうに私の顔を覗き込んだ。私は頷いた。
「全く、女子生徒からあの人評判悪いからね。清々しいほどの男子贔屓だから、全く。」
「…だろうね。」
「あーあ。何で私あの人と血が繋がってんだろう。全く…身内とは思えないよ。」
盛大なため息をつきながら花壇に腰掛ける美嘉を見て、命は少し笑ってしまった。
「あ、笑ったな?全く、笑い事じゃないのに。」
「ごめんごめん。いや、私もあの人ダメだなっと思って。」
「おっ!珍しいね、命がそんなこと言うなんて。」
「そうかな?」
「そうだよ!」
美嘉は力説するように右手をグッと握った。
「ああ、でも蓮見取られると、あんたもね…。」
「え…?」
キョトンとしている命を見て、美嘉は信じられないものでも見たような目で命を見た。
「美嘉、何よその目は…」
「いや。本当にあんたは、本当に分かってないの?」
「何が?」
命はドキリとした。美嘉はじっと命の目をみつめ、軽くため息をついて肩をすくめた。
「分かってて、気づいていないふりしてんのね。自分を守るために。」
美嘉は立ち上がると、ポンと肩を叩いた。
「命。後悔だけはしないほうがいいよ。」
「美嘉…。」
美嘉はニコリと笑うと、「じゃあね」とヒラヒラ右手を振りながら校舎へと入っていった。残された命はぼーっと花壇の色とりどりの花々を見ていた。
「分かってる…?」
確かに、自分の心の中のわずかな変化を内心うすうす気づいてはいる。だけど、それに名前をつけるのが怖かった。
「それに、今はそれどころじゃないし…」
命はそう自分に言い聞かせ、職員室のある窓のほうへチラリと視線をやると、すぐに背を向けて校門のほうへと歩いていった。
海ノ誘惑
「ふぅ…今日の勉強タイム終了ー!」
命はパタンと問題集を閉じた。そして、机の端の方においていた携帯を手に取った。昨日、蓮見は言った通り源造に電話してくれた。命も蓮見に言われたとおりちゃんと一日に最低一時間半(源造との話し合いで30分増えた)勉強することを約束として、携帯も返してもらい、自由がやってきた。どうやら源造は自分が娘の携帯を没収したという事実自体を忘れていたようで、少々あせりながら命の携帯を探していた。
まあ、こうして今現在無事に手元に戻ってきたからよいものを、あの親父め…。
ということで、この携帯は今朝見つかったばかりなのだ。まだ一度も開いていない。携帯を見てみると、有里からのメールが一件と、数えるのが恐ろしいほどの数の藤家からの着信があった。とりあえず、藤家のは心の準備が出来てからにして、有里のメールを見た。長々しい彼とののろけ話の後に、オマケのように今度一緒に海に行こうという誘いが書いてあった。命は「海」という言葉に心引かれて、すぐに有里に電話した。
『もしもーし。』
「もしもし有里!?ゴメン、メール返せてなくて。実は父親に没収されててさ。」
『没収ー?何よー、それ。』
語尾を若干延ばす癖のある有里のゆるい話し方に、命はついつい笑ってしまった。
「で?海の話だけど。」
『そーそー。どう?命と美嘉と私の三人でど?ま、別に人数増やしてもいいけどー。』
「うん!いいね!私まだ今年夏らしいこと何もしてないから、行きたい!」
『あっ、そっか。おばかな命ちゃんは補習組みだったものねー。』
「美嘉と同じようなこといって…悪かったわね。」
有里はこんな頭が悪そうな話し方をする癖して、頭だけはいいのだ。いつも学年十番以内に入っているし。
「で、海!いつ行く?」
『明日。』
「へ?」
予想外の決定事項に変な声が出てしまった。
「有里さん?明日、というのは随分急ですこと。」
『だってー。美嘉にはもう了承もらってるんだよ?それに明後日からは今度はパパたちとヨーロッパ行くからー。』
「よ、ヨーロッパ?」
『そー。避暑すんの、避暑ー。別荘あるし。』
この金持ちめ。軽い感じでヨーロッパとか、別荘とか。避暑地の別荘といえば軽井沢だろうに…。それを、外国ですかい?
『なに、何か用事でもあるの?』
「いや、ないですけど。」
『じゃ、いいじゃない。明日に決定ねー。うちの車が迎えに行くから。』
「ああ、どうも毎回ありがとうございます。」
有里と遊びに行くと、もれなく長い車がお迎えに参上してくれるのだ。嬉しいのやら、困るのやら…。一般庶民の命と美嘉は正直ついていけない。
『じゃあ、また命の家の近くの人がいない薄気味悪い森の入り口らへんに迎えにいけばいいの?』
「あ、うん。そこでお願い。」
『もー、別に玄関まで迎えに行ってあげるのに。』
「いやいや、道せまいしさ。」
というか、家を見られたくないのだが。
『うちの運転手のドライブテクニックだったら大丈夫なのに…』
「はいはい。じゃあね?」
『ばいばーい』
命は盛大にため息をついた。こう感覚の違う人と久しぶりに話すと疲れるな。同じ金持ちでも蓮見とは違うな。まあ、有里はそこが面白いからいいんだけど。
さて、本題はこっちだ。こっちが問題なのだ。命は意を決して、藤家に電話をかけた。
tul…
『もしもし?』
早…。
ワンコールも待たぬうちに藤家は電話に出た。そんなに今ヒマなのか?
「もしもし、藤家?ごめん、何度も電話くれてたみたいで。うちの父親に携帯没収されちゃっててさ。」
『そっか…。良かった。』
藤家がほっとしたような声をだした。どうやら何か心配させてしまったらしい。
「ごめん、心配かけて。」
『いや…』
「でさ、藤家何の用事で電話くれてたの?」
『……』
藤家は少し黙り込んでしまった。
「藤家?」
『ああ……明日って、空いてる?』
「明日?」
明日はつい1分ほど前に有里と約束してしまったばっかりである。
「ごめん、明日は女友達三人で海行くことになってるから、空いてないや。」
『海!?』
ガタンッと電話の向こうで音がした。何かを落としてしまったようだ。
「あの、藤家、大丈夫?」
『ああ、問題ない。え、女だけで海に行くの?』
「うん、そうだけど。」
それが一体どうしたのだろうか。
『危ない。』
「え?」
『危ないよ、榊。海は危険がいっぱいなんだよ。ナンパ目的の男だっていっぱいいるし。』
「大丈夫、二人とも彼氏もちだから。」
『そうじゃなくて!』
珍しく少し藤家は熱くなっている。
『分かった…。』
「え?」
『俺も、一緒に行く。』
「え?海に…藤家も…?」
藤家が海に…?
どうしよう。全く持って想像ができない。あの日の光に浴びたら死んでしまいそうなほどのキレイな肌が、暑い日差しの海へ?あのインドアでひっそりと本を読んでそうな藤家が海ではしゃぐ…?
『ちょっと、榊。何か失礼なこと考えてない?』
「え!?いや、あまりにも藤家と海とが結びつかなくて。」
『俺、榊の中で本当にどういう位置づけにされてるの?』
「あはははは。」
とりあえず笑ってごまかしておいた。それにしても…
「藤家、それ本気?」
『うん。榊を危険な目にあわせるわけにはいかないから。』
「でも、そうすると女三人の中で藤家一人だよ?」
『………』
「しかも、一緒に行く二人の友達、多分思うに藤家の苦手な部類の人だよ?」
『………』
藤家は黙り込んでしまった。
『…んせい。』
「え?」
『蓮見先生も狛としての役割のため、また保護者として同伴という方向でいきましょう。』
「いきましょうって…」
あなたはどんな権限があって、有里じゃないけどそう決めちゃうんでしょうか。
「ま、まあ、蓮見も大丈夫って言うなら別にいいけど。二人とも一人や二人増えたところで何も文句は言わないだろうし。」
『分かった。ちょっと待ってて。』
藤家は電話をブツリと切った。命は藤家の強引さに呆れつつも、携帯をテーブルに置こうとした瞬間、また携帯が震えた。
「ちょっと、早くない…?」
命は苦笑しつつ電話に出た。
「もしもし、藤家?もう蓮見と交渉ついたの?一分も経ってないけど。」
『あ、うん。ちょっと脅したらすぐに。』
「え!?脅したの?」
『……言葉の綾という事で。』
これは十中八九脅したな、と思った。
「はあ、全くあなたって人は。分かった。負けたよ。じゃあ、明日私の家に朝9時集合で。有里の家の車が迎えに来るから。」
『分かった。蓮見先生にも言っておく。じゃ。』
電話が切れて、命は少しニヤニヤ笑ってしまった。明日が楽しみなのだ。海に行くということももちろんその楽しみの一つなのだが、あの二人の中でうろたえる藤家も見ものだ。ついでに、明日蓮見に何て脅されたのか聞いてやろう、と思った。
有里に承諾を得るために連絡すると、有里は大喜びしていた。藤家のことを少し前々から気になっていたらしい。(おいおい、彼氏はどうした)
命は明日遊びに行くためにも、不本意ながら明日の分のもう1時間半勉強を続けることになった。
*
雲ひとつない大空。
打ち寄せる波の音。
太陽にキラキラ輝く白い砂浜。
人々のはしゃぐ声。
その全てが今命を興奮させていた。
「う、う、海だああ!!」
命は今にも駆け出さんばかりに叫んだ。そんな命を呆れ顔で蓮見がポンポンと肩を叩く。
「そうだな、海だな。そんなに嬉しいのか。」
「嬉しいよ!だって、私の周り山ばかりなんだもん。」
別に山が嫌だというわけではないが、何というか、海は「いけてる」感じがするのだ。
「うげ……」
藤家は顔真っ青で車から降りた。命と有里が運転手のドライブテクニックの話をしてたら、運転手が調子に乗ってしまい、散々なことになったのだ。絶叫系も大好きな命は全くもって大丈夫だったし、他の三人も大丈夫だったのだが、藤家はなにぶん繊細だったのだろうか。来るだけでこの始末だ。いつも以上に青空の下が似合わない。
「藤家、大丈夫?」
「あ、ああ…」
「藤家君っ!」
「うっ。」
有里が背後からタックル並みに藤家に抱きついてきた。藤家が車酔いと共に、女嫌いも発生したのだろうか、死にそうなぐらい顔色が悪化している。
「ちょっと、有里。やめなさいよ。全く。どう見たって藤家具合悪そうでしょうが。」
「えー。」
「えー、じゃない!ほら、離れなさい。」
ズルズルと有里は美嘉の手によって藤家から離された。さすが美嘉だ。命は藤家の背中に手をまわして撫でた。
「大丈夫?やっぱり休んだ方がいいんじゃない。」
そう言うと藤家は急にシャキンと姿勢を正した。
「大丈夫。」
そういう顔は相変わらず死人のようだったけど。
「まあ、まあ。とりあえず着替えてこようか。どうせお嬢さんたちは時間かかるだろう。俺達が場所とっとくから。このこっぱずかしいパラソルで。」
蓮見は車から大きなパラソルを取り出してかかげた。松下家のパラソルだ。さすが、金持ちというやつなのか。無駄にでかくて、キラキラしてて、非常に目立つ。これならすぐに見つけられるだろう。
「分かった、じゃあ、後でね。」
命達三人は水着を持って、はしゃぎながら着替えに向かっていった。
蓮見と藤家はまず先にパラソルを立てるために浜辺を歩いていた。目立つ二人に自然と人目は集まるが、二人とも気づいているのか、それとも気づかないフリをしているのか、ただ黙って前だけ見つつ歩いていた。
「先生さ。」
「ん?何だ、藤家。」
蓮見が自分よりも少し背の低い藤家を見下ろすと、藤家は少しきつい視線を送って見せた。
「先生は、俺のライバルなの?」
「は?」
いきなりの藤家の質問に蓮見は持っていたパラソルを落っことしそうになる。
「榊のことだよ。」
しれっとした顔で藤家は言う。蓮見ははあ、と頭をかきながらため息をついた。
「何なんだ、お前はいきなり。」
「だって、先生…。」
藤家は言いかけて、ふと蓮見の顔を見上げた。蓮見は少し俯いていたが、その眼光には強い光があった。藤家はそこで蓮見の心を読んだ。
「俺は、榊のことが好きだよ。榊がたとえ誰を見ていようとね。」
藤家は海を横目で見つめながら言った。
「ねえ、先生、気づいているんでしょう。榊が…。」
「お!ここがいいんじゃないか?」
蓮見は藤家の言葉を遮った。そして藤家の答えも待たずに着々とパラソルを広げて立て始めた。その様子を藤家は複雑な面持ちで眺めていた。
「ま、先生がそうしたいならそうすればいいけど。でも、そうなら俺だって勝手にするからね。」
少し大きめに言った藤家の独り言を蓮見は聞いているのか聞いていないのか、藤家に背中を向けたままだ。
「本当に、大人は汚いな…。」
藤家は最後にポツリと言った。
その頃の私は蓮見と藤家がどうしているかなんて全く知る由もなく、有里を問い詰めていた。
「有里さん…これはどういうことでしょうか?」
「えー、何のことー?」
命は持っている水着を有里の目の前に突きつけた。
「これよ!これ!」
実は、山育ちの命は海に行くなんて本当に小さいときぶりで、学校のプールで使うスクール水着以外に水着を持っていなかったのだ。しかも翌日要り様で、買う時間もお金もなく、ちょうど藤家と蓮見も参加という連絡をした時に有里に相談していたのだ。そうしたところ、有里が「じゃあ、私が何か貸してあげるよ。」と言ったのだ。少々嫌な予感をしつつも、「でも、地味なやつにしてね。」と頼んでおいたのだが…。
「何で、何で真っ赤なビギニなのよ!?初心者なのよ、私は!」
「いやいや、水着に初心者も何もあるのか?」
と、美嘉は冷静につっこんできた。
「えー、十分地味じゃない。すんごく。」
「でも!」
命は有里を見て、その水着姿に黙り込んだ。ピンクのフリフリで、相当素材がいいのだろう、光沢があり、しかも何かキラキラしている。しかもやや面積が小さい。うん、非常に派手である。
「有里は普通と基準が違うんだから、有里に任せた時点でそれは諦めなさい。」
美嘉にポン、と肩を叩かれ、それから美嘉に水着を取られる。
「でも、別にこれは可愛いんじゃない?真ん中にリボンあって可愛いし、水着だからこれくらいで。」
「でしょう?ほらね!私だってちゃんと命のこと分かってるんだから。命に似合うなと思って選んだんだから。」
「本当に?」
「「本当、本当。」」
二人にそう断言されてまじまじともう一度水着を見た。確かにそういわれれば、思ったほど派手でもないかもしれない。今までスクール水着だった命の基準もおかしいのかもしれないし、結局ありがたくそれを着させてもらうことにした。
命は胸をドキドキさせながら三人で蓮見と藤家の待っている場所へと向かった。やはりあのド派手なパラソルのおかげで、すぐに二人は見つかった。まだ、少し恥ずかしいが、二人に大丈夫と保障されたので、これなら見られても大丈夫だ。
ん?これなら…?
誰に私は見てもらっても大丈夫だと思ったのだろう。
「蓮見!藤家くん!お待たせー!」
「本当だ。随分待ったぞ。」
蓮見が腕組みしながら呆れ顔で待っていた。藤家はパラソルの下の日陰に座っている。二人の姿を見て、少し心臓がはねたのを感じた。
「榊…。」
藤家は命の姿を見ると、嬉しそうに微笑み立ち上がった。その姿を見て、美嘉と有里は「ははーん」と笑っている。
「何よ?」
命は二人をジロリと睨んだ。二人ともそ知らぬ顔だ。藤家は命のほうへと歩いてきた。
「ごめんね、藤家。待たせちゃって。」
「いいよ。榊、やっぱり赤が似合うね。」
神々しい笑顔つきでそんなことを言われ、なんともいえない歯がゆい気持ちになった。
「そんなこと…。藤家だって…。」
そこで命は藤家の姿をマジマジと見た。今までいくら想像してみても想像できなかった藤家の姿が目の前にある。やっぱり肌はやけてなくて綺麗だけど、ちゃんとしまっていてひ弱な感じはしないのだな、とか思いながらじっと見てしまう。それに、髪を一つに結んでいて、いつもよりも美しいお顔がハッキリと見えるのだ。
「あんまり見ないでよ、エッチ。」
藤家に真顔でそんなことを言われ、命は赤面してしまう。
「え、エッチって!そ、そんな目で別に私は…」
必死に手をふりながら弁解する命が、弁解する痴漢のようにでも見えたのだろう。みんなに笑われ、命は更に顔を赤くした。
「おいおい、榊いじめもそれぐらいにしろよ。」
「蓮見…。」
蓮見と目が合う。よく日焼けしたこの人は、太陽の下がよく似合う。海でも山でも、野生的なのだろう。いつもは何とも思わないのだが、場所と格好が違うからだろうか、何だか歯がゆい気持ちになる。視線をはずすにはずせないでいると、美嘉と有里が顔を合わせてニヤッと笑う。
「何々、お二人さん。私たちのことは無視ですか?」
「教師と生徒の禁断の愛とかー?」
その言葉に命達二人とも顔を赤くして、バッと顔をそらした。
「馬鹿言わないでよ!どこがそんな風に見えるのよ!」
「そうだ。大人をからかうんじゃない!」
すると、くいっと腕を引っ張られた。振り返ると、藤家が複雑な顔で命を見ている。
「藤家?」
命が首をかしげると、藤家はフワリと笑った。
「俺、海はじめて。早く行こう、榊。」
「うん!」
命は藤家に腕を引かれて海へと走っていった。
「あーあ、行っちゃった。」
有里が蓮見をひじでつっつく。蓮見はじっと二人が行った方を見ていた。
「ああ、行ったな。全く、ちゃんと準備運動もしないで…。」
「えー。蓮見ってこんな所に来ても突っ込むところそこ?もしかしたらカップル成立するかもしれないのにー。」
蓮見の眉毛がピクリと動く。有里は気づいていないようだが、美嘉は横目でその様子を見ていた。
「まっ、いいや。とりあえず私は邪魔しに行ってくるねー?」
そうして有里は追いかけて海へと走っていってしまった。残ったのは美嘉と蓮見。
「安池は行かないのか?」
「先生こそ。」
「俺は保護者の役割でここに来たからな。せいぜい今日は肌を焼くことにするよ。」
「そう…じゃあ、私も行くね。有里が何しでかすか分からないから。」
見ると海で有里が藤家に背後から飛び付いて抱きつき、藤家は硬直していた。美嘉はゆっくり波の方へ歩いていくが、二、三歩行ったところでふと立ち止まり、振り返った。
「先生、隠してるつもりだろうけど。気をつけないとバレちゃうよ。結構分かりやすいんだから。今のところは二人ぐらいしか気づいてないけどさ。」
美嘉はクスリ、と笑って再び背を向けて歩き出した。蓮見はパラソルのしたにズルズルと体を下ろし、頭を抱えてため息をついた。
「どうにかしなきゃな…。」
瑠璃色ノ少女
「こ、ここはどこでしょうか…。」
周りを見ても、先ほどまでの砂浜はなく、岩、岩、岩。しかも人の姿もないし。
「迷子になった…。」
先ほどまでみんなと一緒に遊んでいたのだが、突然トイレに行きたくなったので、三人から離れたのだ。とりあえず一言言ってはきたのだけど。その時、藤家が「ついていこうか?一人じゃ危ないし。」とか言っていたが、さすがに男の子にトイレに付いてきてもらうとかは恥ずかしいので断ったのだ。美嘉に「迷子になるんじゃないよ。」と言われて、笑っていたが。今、その通りになっている。
「あのパラソルもあるし、それに同じ道を歩いていたはずなんだけどな。」
命はとりあえず岩に登ってみた。すると、そこから砂浜が見えた。どうやら反対側に行ってしまったみたいだ。でも、あんなに距離が開くほど歩いただろうか。
「ひっく、ひっく…。」
「?」
どこからともなく泣き声が聞こえてきた。その泣き声の方向に歩いていってみると、岩陰で7歳くらいの女の子が泣いていた。
「どうしたの?」
命が声をかけると、女の子が顔を上げた。目には涙をいっぱいにためている。小さいながら、恐ろしく顔が整っていて、成長すれば相当の美女になるだろう、と思った。
「あのね、お父さんも、お母さんもいなくなちゃったの。」
ああ、この子も迷子なのだ。命は女の子の目の前にしゃがんだ。
「お姉ちゃんもね、お友達とはぐれちゃったの。」
「お姉ちゃんも、一緒?」
そう首をかしげて言う姿は本当に可愛らしく、ついつい頬が緩んでしまった。
「お姉ちゃん、優しいんだね。」
女の子はスクッと立ち上がり、手を伸ばしてくる。
「お姉ちゃん、お名前は?」
「命だよ。」
「みことお姉ちゃん?」
「そう、あなたは?」
命は差し出された手を握り、立ち上がった。
「私、瑠璃。」
「瑠璃ちゃん?」
瑠璃はにっこり笑い、命の手をひきながら歩き始めた。先ほどまで泣いていた女の子とは思えないほど、しっかしりしていて感心する。でも、この子はどこに向かっているんだろうか。
「瑠璃ちゃん、どこに行くの?」
「もうちょっと、もうすぐだよ。」
花のように微笑む瑠璃。秘密の場所に連れて行ってあげると言って、向かっているのだが。
「お父さん、お母さん探さなくていいの?」
「…お父さんもお母さんも見つからないよ。」
ふと、瑠璃が立ち止まり、スッと指差す。指された方向を見てみると、そこには命が住んでいる山の隣にある空狐山があった。
「あそこにね、みんないたの。」
瑠璃は振り返った。だけど、その表情は暗く重たい。とても7歳の少女の顔ではなかった。
「瑠璃…ちゃん?」
「でもね、殺されちゃった。みーんな。あの怖いおじさんに。」
ニタリと瑠璃は笑う。目はつり上がり、先ほどまでのものではない。それに、この感じ。覚えがあった。命は後ずさりしようとするが、ガッと瑠璃は強い力で私の手首を掴んだ。ギリギリ締め上げてくる。
「…っ」
「どうして逃げるの?みことおねえちゃん。」
命の手首を掴んでいないもう片方の手が、首へと伸びてくる。この少女から発せられる殺気に背筋は冷たくなり、足がガタガタ震える。
「榊!!」
その時、後ろから藤家の声がした。藤家のほうへ振り向いた瞬間、瑠璃はグッと手首を引っ張り、恐ろしい力で命を放り投げた。少女の力ではない、人間の力でもない。海へ落ちる瞬間、命の目に飛び込んできたのは、長い髪に黒い尻尾が九つある女の人だった。憎しみに満ちた目が命をじっと睨んでいた。
*
藤家と蓮見は30分以上経っても命が帰ってこないので心配して探していた。美嘉と有里は、もし帰ってきたときに誰かいないとまずいからそのまま待機していた。
「とりあえず、俺は人が多いほうを探してくる。」
そう言って蓮見は人が大勢いてにぎわっている方向へ探しに行ったが、藤家は反対に人のいない方へと探しに行った。
「榊…どこにいるんだ?」
岩がたくさんある所へついた。それでも、姿は見えない。
「もしかして、もっと奥か?」
普通これ以上奥へ行くはずもないのだが、なぜかその時藤家はそう思い、更に進んでいった。しばらく行ったところに赤い水着を着た女の姿が見えた。命だ。もう一人、小さい女の子がいるが…。
ゾクッ
何ともいえない普通とは違うピリピリとした雰囲気があった。それに、少女からは年不相応の殺気まで感じる。藤家は思わずさけんだ。
「榊!」
その言葉に命は少し泣きそうな顔で振り向く。藤家が走りよろうとした瞬間、少女が信じられない力で命を放り投げた。大きな水しぶきがあがり、命は海へと落ちる。そして藤家はさらに驚いた。先ほどまで少女がいた場所に、白い着物を着て、白銀色の腰より下まである髪をなびかせ、黒い尻尾が九本ある女がそこに立っていたのだ。
「九尾の…狐。」
「あら、光ちゃんの後継者じゃない。確か、名前は、月音ちゃん?」
少しつりあがった目を細め、女は笑う。ゾッと寒気が全身に走った。
「お、前…」
怒りと恐ろしさで全身が震える。
「フフフ、色々お話したいところだけど、いいの?このまま放っとくと、この子死んじゃうわよ?」
藤家は、はっと我に立ち返り、急いで海へともぐった。そしてゆっくり落ちていく命の腕をつかみ、抱き寄せて地上へと上がっていった。しかし、そのときにはもう、あの女の姿はなかった。
藤家は命の頬はペチペチと軽く叩いた。
「榊!榊!」
しかし反応はない。しかも、水を大量に飲み込んでいるようだった。藤家は命の胸をグッと押し、水を吐かせようとした。
「榊、悪い。」
そして、命の唇に触れ、人工呼吸をした。しばらく続けていると、
「ゲホッ、げホッ」
命が咳き込み、口から水が出てきた。苦しそうだが、全部出させなくてはいけない。藤家は苦しむ命を押さえつけながらも続けた。全部吐き出すと、命はぐったりとしていたが、少し目を開けると口の動きで「ありがとう」と言った。それからフッとまた意識を失った。
*
気を失っている間、命はまた夢を見ていた。ミコトの巫女の、遠い記憶を…。
「おい!ミコト、待てよ!」
「遅いよ!早く早く!」
ミコトの巫女、陽、光らしい三人の姿が見えた。なぜ「らしい」としているかというと、三人とも十二歳ぐらいの子供の姿だからだ。でも、ミコトの巫女は命の小さい頃とよく似ているし、陽も光も面影があるので、そうだろう。
「今日は隣の山まで探検するんだから。」
ミコトの巫女は随分とはしゃいでいる。
「ミコちゃん、嬉しそうだね。今日初めて脱走成功したしね。」
「そうよ!次いつ抜け出せるか分からないんだから。だからね、普段絶対に行けないところに行こうと思って。」
「それで。『空狐山』へ?」
「そう!あそこには妖狐たちが住んでるんだって。」
ミコトの巫女は楽しそうに言う。
『妖狐』
何かの本で読んだことがある。妖狐にも色々とランクがあって、若い妖狐は尻尾は一つしかないんだけれど、段々ランクがあがるにつれて本数が増えていくとか。
『天狐』は1000年以上生きた狐で神通力を持っていて、様々な出来事を見透かす能力があるとか。『空狐』は更に2000年、3000年生きた狐だ。神通力を自在に操ることが出き、善狐だけがなれるとか…。
「ミコト…知らないのか?」
陽が立ち止まった。ミコトの巫女と光も立ち止まり、不思議そうに陽を見つめた。
「何を?」
「『空狐山』にいた狐の一族はこの間、みんな滅んだんだよ。」
「え!?何で!!」
ミコトの巫女は陽に駆け寄り肩をつかんだ。
「ここの狐が悪さをするから。」
「そんなはずないよ!だって『天狐』や『空狐』は善狐なのよ?悪いことするはずないじゃない!」
「だけど、妖狐も良いやつばかりじゃない。」
ミコトの巫女は押し黙った。ただ涙をいっぱい目にためている。
「でも…じゃあ、誰がそんなことを…?秋継は知っているの?」
秋継…?
陽の本当の名前だろうか。陽は気まずそうに、視線を落とす。陽が言いたくないのだろうと察した光は、ミコトの巫女の肩をポンと叩いた。
「もしかしたら生き残っているやつがいるかもしれない。
きっと、そうだよ。じゃあ、今日はそれを探しに行こうか。」
その言葉に心ひかれたのか、ミコトの巫女は涙を袖でぬぐって大きく頷いた。そうして三人は空狐山へ入っていったようだった。
次にパッと場面が変わった。空が赤く染まっている。三人が少し肩を落としながら、下山している。
「あーあ。見つからなかったね。」
ミコトの巫女がため息をつきながら言った。どうやら、一日探してみても、妖狐の生き残りは見つけられなかったらしい。
「しょうがないよ。」
光がミコトの巫女の肩をポンポンと叩く。その時、カサッと草陰から物音がした。三人とも一斉にそちらを見る。
「何か、いる…。」
ミコトの巫女はそう呟くやいなや物音がした方に走り出した。
「おい!ミコト!?」
陽と光も慌ててその後を追いかける。道のない場所を走っていくうちに広い野原のような場所に出た。ミコトの巫女はそこでふと、止まる。陽と光も追いついた。
「ミコト?」
ミコトの巫女は黙って指差した。その方向に一人の少女が倒れていた。恐ろしいくらいに肌が白く、白銀色の長い髪の毛、瑠璃色の瞳をしていた。その目はキッと三人の方へ向けられていて、憎悪の念を感じる。白い着物には至る所に血がついていて、自身も足に怪我を負っているようだった。
「鬼…?」
「そんな低俗なものと一緒にしないで!」
目の前の女の子が叫んだ。見ると、白い尻尾が一本揺れている。
「人間めっ。」
吐き捨てるように女の子は言うと、顔をしかめ痛みに耐えながら立ち上がり去ろうとする。
「待って!」
光は女の子に駆け寄り、その腕を掴んだ。女の子はビクッと体を震わし、その手を跳ね除けようとする。
「っ!離せ!」
「怪我してるだろう?」
光は瑠璃色の瞳をじっと見つめた。女の子は催眠術にかけられたように全く動けなくなる。少しして、光が離れると、女の子は大きく目を見開き、自分の足元に目をやった。そして、ゆっくりと動かす。
「何を、した…。」
「僕の力だよ。人の傷を癒すことが出来るんだ。」
女の子は戸惑ったような表情で、一歩後ずさった。
「何故、どうして人間が、そんな事をするんだ。」
光はにっこり微笑んだ。
「僕たちは、君の敵じゃない。」
そう光が言うとミコトの巫女も女の子の方へ近づいた。
「私ね、あなたに会いたかったの。」
「私…に?殺しに来たのでなかったら、何をしに…?」
「友達になりたかったの。」
ミコトの巫女は女の子の方へ一歩近づき、抱きしめた。女の子はビックリしたように固まっていた。瑠璃色の瞳が大きく揺れている。
「友…だち…?」
「そう。だめ?」
ミコトの巫女は少し自分よりも背の低い女の子と視線を合わせた。途端に女の子は顔を背けるが、尻尾は大きく揺れていた。
「私はミコト。さっきあなたを治してくれたのが四海。光ってみんなには呼ばれているけれど。それで、後ろにいるのが秋継。陽ってみんなには呼ばれている。あなたは?」
女の子はミコトの巫女の体を押し返し、背中を向けた。そして数歩歩くとまた立ち止まり、少し顔を赤くさせながら振り返った。
「瑠璃…。」
そう小さな声で言うと、女の子は狐になり走っていってしまった。
ミコトの巫女と光は嬉しそうな顔をしていたが、ただ一人、陽だけは複雑な顔で二人の背中を見ていた。
目が覚めたとき、最初に目に入ってきたのは藤家の顔だった。視線を移していくと右手は藤家の両手に握られいる。どうやらここは救護室のような場所みたいだ。一瞬、どうしてこんな所にいるのだろうと思ったが、段々頭がはっきりしてきて、岩部で「瑠璃」という名前の女の子に会ったことを思い出した。そして、先ほど夢の中で会った「瑠璃」のことも。
「榊…?」
命の手がピクリと動いたのか、今まで俯いていた藤家が顔をあげた。
「藤家…。ごめん、藤家が助けてくれたんだよね。ありがとう…。」
命がそういうと、藤家は右手をグイッと引き、そしてそのまま藤家の腕に抱きしめられた。
「え!藤家!?」
「…良かった。」
耳元で藤家の声が聞こえるので、その声が震えていることに気づいた。本当に心配してくれていたのだ。命は藤家の肩に額を乗っけた。
その時勢いよくベッドの周りを覆っていたカーテンが開かれ、蓮見と美嘉と有里の姿が現れ、命はギョッとした。
微妙な沈黙が流れる。
「ごめん。お邪魔しました。」
「ちょっとちょっと!」
美嘉が再びカーテンを閉めようとするので、命は無理やり藤家を引き離し、慌てて三人を呼び止めた。
「大丈夫だったか?」
蓮見がほっとしたような顔で命を見て、ベッドの横のイスに腰を下ろした。
「事情は藤家から聞いたから。」
命にしか聞こえないよう、小さな声で蓮見が言った。
「ごめんね。」
「本当よ。もう、心配かけないでよね。全く、小さい子が落とした帽子を取ろうとして自分が溺れるなんて…。」
美嘉が頭を軽く小突きながら言った。そういう事になっているのか。
「あの、すみません。」
もう一人知らない男の人の声がした。見ると、カーテンの向こうに白衣を着た男の人が立っていた。
「あの人は…?」
「そうそう!一応お医者さん呼んでたんだった。」
「有里、ありがとう。」
「いいえー。じゃあ、私たちは出て待っておきましょうね。」
そう有里は言うと、蓮見と藤家の腕を掴むとカーテンの向こうへ押しやった。美嘉も命の肩をポン、と叩くと出て行った。入れ替わりで医者が入ってきて、イスに腰掛けた。
「え……。」
命は医者をすぐ近くで見て驚いた。
「すみません、では少し見ますね。」
そう言って伸ばしてくる手を命は掴んだ。
「夜琴…?」
そういうと、医者はニコリと笑った。そして、命の目を手の平で覆った。再び視界が晴れた時、そこには白衣を着た夜琴の姿があった。
「よく分かったな。」
「気配で分かるわよ。馬鹿にしないで。」
命がそう言って睨むと夜琴は肩をすくめた。
「あの女の子、瑠璃さんを利用してあなたが私を襲わせたの?」
命がそう聞くと、夜琴は声をあげて笑った。不気味な、嫌な笑い声だった。
「あの女を私が利用している?それならいいが、真実は反対だ。」
「え…?」
夜琴はスッと表情をなくした。
「あの女が私を利用しているのだ。そう気づいた今でも、私はあの女から逃げることは出来ないのだがな。」
夜琴が…瑠璃さんに利用されている?そういえば、封印が解けたとき感じたのは夜琴の気配ではなかった。どちらかというと、海で感じた瑠璃さんの気配と似たものかもしれない。
「あいつは、お前を消すつもりだ。」
そういわれた瞬間、頭を鈍器で殴られたように真っ白になった。指先が冷たくなる。
「何…を…。」
「最終的に行き着く目標は私とあの女とは違うが、途中の過程は一緒だ。私も、お前に消えてもらわなければならない。」
「消える…?」
「死んでもらうということだ。」
衝撃的なことを言われたにもかかわらず、心は嫌に冷静だった。夜琴の目に嘘はなかった、だが、何だか迷っているようにも見えた。
「…でも、あなたは、迷っているの?私を、殺すことに…。」
声が震える。夜琴は眉をひそめ、まるで何かに耐えるように視線を落とした。
「あいつは、お前を想っている。私達がお前を消せば、嘆き、恨み、憎み、同じことが繰り返されるだろう。だが、もう後戻りは出来ないのだ。」
夜琴はゆっくりと立ち、背を向けた。再び命を振り返ったとき、その顔は夜琴のものではなかった。
「榊命さん。その時がくるのは、あなたがミコトの記憶を全て甦らせたときです。その記憶の一つ一つが、いわばミコトの結晶。そのために私はあなたに記憶の花を贈り続けるのです。全てが集まったとき、ミコトは甦ります。その時、ミコトには肉体が必要だ。そのために、あなたは消えることになるでしょう。」
夜琴はそうして静かにカーテンを閉めた。命は抗議することも、引きとめることも、口を開けることさえ、何も出来なかった。
医者が救護室から出てきたとき、蓮見はその男に対して何だか奇妙な感じを受けた。美嘉や有里や藤家が再び部屋に入っていく中、蓮見はじっとその男の姿を目で追っていた。
「あの、すみません。」
気づけば勝手に口が動き、男を呼び止めていた。男は少々驚いたように振り返り足を止めた。
「どうかしましたか。あの女の子なら何も心配はなく、大丈夫ですよ。」
「いえ、あの…。」
蓮見は自分が抱いているこの疑問をうまく説明することが出来なかったが、なぜかこの男を引き止めなければならないと感じたのだ。
「ちょっとお話してもいいですか。」
「いいですよ。」
すると男はそばのソファに腰掛けようとしたので、蓮見は慌てて言った。
「あの、出来ればここではない場所で。」
「……分かりました。」
男はニコリと頷いた。蓮見は、こんな普通な男にどうしてこんなに嫌な感じがするのだろうと、自分でも不思議に思ったが、とりあえず自分の直感に従ってみることにした。蓮見は昔から勘などがいいほうで、外れたことがなかった。
蓮見と男は、先ほどまで命と瑠璃がいたあの岩山の方へ向かった。
「あの、こんな所で一体何の話でしょうか。」
男はいきなりこんな場所に連れてこられたからだろうか。なんだかソワソワとしている。
蓮見は、これから自分が言おうとしていることのあまりの馬鹿馬鹿しさに、泣きたくなった。だが、直感がそう告げているのだ。こんな事、普通ならある訳はないのだが…。蓮見はぐっとこぶしに力を入れた。
「あなたは…、人間ではないですよね。」
そう蓮見が言った言葉に男はきょとんとした。そして、クスクスと手を口元に当てて笑い始めた。
「一体何をおっしゃるかと思いきや、何ですか、そんな風に私をからかうためにわざわざこんな所へ?それに、どう見たって人間でしょう。そうでなければ何だって言うんです。」
「すみません。そうでなかったならいいんですけど…。」
蓮見は引き下がりそうになった。だが、彼の本能が何だか警報を鳴らしていた。
「いや…やっぱりあなたは人間ではない。夜琴…ではないですか?」
男はなおも笑っていたが、蓮見がじっと見つめているとやがて笑うのをやめ、スッと蓮見の顔を見た。
「すごいですね、先生。」
男はパチンと指をならした。するとそこには先ほどの男はなく、長い黒髪に赤い瞳の美しい男が立っていた。
「お前が…夜琴…。」
「驚いたな、蓮見先生。やはり普通の人間ではないだけある。その勘は少しばかり厄介だが。」
そう言ってこころの奥まで観察してくるようなその赤い目を、蓮見は恐ろしく感じた。
「それは…俺を消すと?」
そう蓮見が言うと、夜琴は声をたてて笑った。
「いや。今のところ、その予定はない。計画外の事をしたら、私が消され兼ねないからな。」
計画外という言葉に、蓮見はこの一連の事件がどうやら夜琴一人のものではないことに気づいた。それに、話から推測するに、どうやら夜琴の奥にいる人物が黒幕のようだ。もしかして、藤家が言っていた九尾の狐か?
「ああ、もうそんなところにまで行き着いてしまったのか。」
その言葉に蓮見はバッと顔をあげる。
「なぜ…考えていることが分かるかって?それは俺とお前の繋がりだ。」
夜琴はスッと、白く細い指を前に出し、蓮見の額に当てた。ビクリと蓮見の肩が震える。
「私は割とお前を気に入っている。真っ直ぐで…。」
夜琴は悲しそうに眉をひそめ、蓮見から一歩離れた。
「榊命…私も止められることなら止めたい。だが、もう私にはどうすることも出来ないのだ。」
そう言って肩を落とす姿に、蓮見は何故か懐かしさを感じた。
「夜琴…?」
「警告しておく。無事でいたいなら、あまり詮索するな。お前らがどう足掻こうと、どうすることもできない。」
そう言い切った夜琴は、どこかその言葉を自分にも言い聞かせているようだった。自分達の敵のはずなのに、何故だか蓮見はこの男に痛々しさを感じ、憎みきれなかった。
「それでも、俺は、榊をどうやってでも守る。」
蓮見は夜琴の目を真っ直ぐ見つめていった。夜琴は「そうか。」とぽつりともらし、儚く微笑むと、その姿はサッと消えてしまった。
「あいつは…。」
蓮見は夜琴のいた場所をしばらく見つめていたが、踵を返し、命たちのいる場所へと戻っていった。
能力ノ覚醒
結局、海は満喫できず…。後に残ったのは、鬱々とした気持ちだけだった。どうして普通に生活することが許されないのだろう。ただ、普通に楽しみたかっただけなのに。命は、ベッドに顔をうずめた。実は、あの後、夜琴から言われたことを蓮見に話したのだ。
『…そうか。実は俺もあいつには会ったんだ。あの医者がそうだったんだろう。だけど、俺には悪いだけのやつには見えなかった。夜琴自身も苦しんでいるように見えた。』
『…でも、私を殺そうとしているんだよ?』
『そうなんだ。…それを許すことは出来ないし、止めなくてはいけない。だけど……ごめん、うまく言えないけど…。』
『―――っ、もういいっ!』
そう言って喧嘩別れみたいになってしまったのだ。蓮見には相談しに行ったはずなのに、更にモヤモヤは増すばかり。胸に何か詰まっている気がして、息苦しい。命には、蓮見の言っていることも考えていることも理解できなかった。何度かあの後、蓮見から電話がかかってきたけど、命は出ず、避け続けている。
このままではいけないとは思っているんだけど…。
思えば、命だって蓮見に隠していたことがたくさんあった。だから、蓮見が命に言えない事もあるのかもしれない。それは分かっている。命は子供だから大人の蓮見の考えを十分に理解できるわけもない。それも分かっている。それなのに、どうしてあんなにも怒ってしまったのだろうか。
「もう一度、会いに行った方がいいんだろうけど…。」
その勇気がなかった。夜琴の言葉よりも、なぜか心は蓮見のことばかりが占められていた。命より大切なものなんて、あるはずないのに…。
「命!」
大きな声がして、勢いよく部屋の扉が開けられた。驚いて必要以上に体がビクッとはねた。そこには、般若のような顔をした源造が立っていた。
「び…っくしりた。何なの、お父さん。いきなりノックもなしに娘の部屋を開けたりしないでよ。」
源造はズカズカと部屋に入ってきて、机に向かっていった。
「あ…。」
そうして命が止める間もなく、宿題の冊子を手にとってパラパラと見始めた。そして、更に眉間のしわを濃くさせると、ギロッとこちらを睨んできた。
「やっぱりな…。お前、海に行ってから何一つ宿題に手をつけていないな。」
ギクッとした。確かに、あの海のショックからこの3日間何も手につけていない。
「でも、それは…。」
「約束だったよな。」
源造は命に弁解する暇も与えない。命はため息をついた。
「…ごめんなさい。ちゃんとやるから。」
「いいや!信用ならない!」
源造はバシンと机を叩いた。その勢いが思ったより強かったらしく、手が痛いのかさすっている姿には全く威厳がないが。
「まあ、いい。そこで、信頼の置ける助っ人を呼んだ。」
「助っ人…?」
まさか、と嫌な予感がした。その時、玄関のチャイムが鳴る音がした。途端に源造は機嫌を良くし、嬉しそうに部屋を飛び出していった。その姿は、さながら好きな人のもとへ向かう乙女のようで、吐き気がした。
「絶対、あの人だ…。」
命は訪問者の正体に確信を持った。
「失礼します。」
多少苦笑いしながら源造に肩を抱かれてやってきた人物は、やはりあの人。藤家月音だった。
「…ごめん、藤家。」
「いや、別に。」
「それでは、後は若いもの同士で。」
ここはお見合いの場か、と突っ込みを入れたくなる。源造はガハガハと下品な笑い声を立てながら部屋を後にした。帰り際にニヤリと気色悪い微笑みを残して。
「全く、我が父ながら…。絶対あの人が藤家に会いたかっただけだし。」
藤家は笑いながら向かいに座った。
「でも、いい父親だよ。俺、榊の親父さん好きだな。」
そう言う藤家の言葉に笑ってしまった。途端に、眉をしかめられる。
「何がおかしいの。」
「だって、藤家が親父なんて言葉使うの似合わないんだもん。」
そう言うと、藤家の顔はほんのり赤くなった。
「あ、照れてる。」
「うるさい!勉強始めるぞ。俺、一応そのために呼ばれたんだから。」
何だかんだいって、藤家が来てくれて良かったかもしれない。藤家のスパルタ指導のおかげで、気も紛れ、宿題を一つ終わらせることが出来た。
「ふー、疲れた。」
「お疲れ様。」
「いえいえ、藤家もありがとうございます。」
命が藤家に頭を下げているとき、部屋をノックする音が聞こえた。
「はーい、どうぞ。」
「もうそろそろ終わった頃かしらと思ってね。これ、どうぞ。」
入ってきたのは蘭子で、市販のカキ氷を持ってきてくれた。ちょうど、頭もつかって疲れていた頃なので、すごく嬉しい。
「やった、ありがとう!」
「ありがとうございます。」
藤家も丁寧に頭を下げる。蘭子はクスクスと笑った。
「まあ、藤家君は礼儀正しいのね。いつも、命のお世話してくれてありがとうね。」
「いえ、僕のほうこそ命さんにも、お父さんにもよくして頂いて…。」
「こんなにしっかりした子が命の傍にいてくれて、嬉しいわ。私は、そこまで力がなかったからこの子の苦労を分かってあげれないけれど…。藤家君、これからもよろしくね。」
蘭子はカキ氷を机の上におくと、ごゆっくりと言って部屋を出て行った。
「…緊張した。」
「え!?本当に?そんな風には見えなかったけど。」
「そう、ならいいけど。でも、榊のお母さんも力があったの?」
命はカキ氷のふたを開けながら答えた。
「そうなの。お母さんが、榊家の直属でね。お父さんは婿養子に来たの。お母さんも、力が無いって言っても普通の人よりはあるよ。結界だって、前まではお母さんの仕事だったし。私が特別大きな力で生まれてしまっただけで。」
藤家はふーん、と納得しながらカキ氷を食べていた。
「そう言えば、藤家のお母さんはどんな人なの?」
その言葉に藤家の手が止まった。
「藤家?」
聞いてはいけないことを聞いてしまったのかもしれない。そういえば、前に蓮見から藤家の家庭が複雑だってことは聞いていたけど。藤家は命の目をじっと見つめた。
「榊になら…言ってもいいかな。俺さ、父親知らないんだ。」
藤家は少し寂しそうな表情で話し始めた。
「俺の家は結構うるさい家でね、中でもお祖母様は人一倍厳しかった。それに耐えかねた俺の母親は逃げ出して東京へ上京した。そこで、俺の父親となる人に会った。でも、母親は箱入り娘で大事に育てられていたから、世間知らずだったんだ。それで、男に騙されて捨てられた。もう、家庭のある男の人だったんだ。俺を身ごもって母親は家に帰った。厳しいお祖母様が母親を許すわけが無い。だけど、生まれてきた子供は、伝説上の影の狛だった。だから、お祖母様は俺を家に迎えることを許した。」
「それで、藤家のお母さんはどうしたの?」
藤家は首を振った。
「出て行ったよ、俺を置いてね。あの家にいるのが耐えられなかったんだ。だから、どこに行ったか知らない。生きてはいるのかな?」
藤家がそんな思いをしていたなんて知らなかった。
「俺の家の者は、俺のいる前では俺のことを褒め称えたけど、影では気味の悪い子だと良く噂をしていた。お祖母様は俺を特別に扱った。周りの反応は色々だったよ。俺を妬むもの、次期当主の俺に媚を売るもの。俺は、あの家が嫌いだよ。」
藤家の目には憎しみの色が深く映し出されていた。だからだろうか、藤家が女嫌い、いや、人間不信に陥っていたのは。藤家のそんな話を聞いて、私は何も声をかけることが出来なかった。どんな言葉も安っぽく聞こえそうだったから。
「だけど、俺、榊に会えて本当に良かったと思っている。」
「え?」
藤家の顔は晴れ晴れとしている。
「榊のお父さん、お母さんを見て、両親ってこんなのなんだな、と思ったし、色んな人と触れ合うことも出来た。少し前の俺なら、考えられなかった。」
「……そっか。」
命は微笑んだ。何の言葉もかけてあげれることは出来ないけれど、一緒にいることは出来ると思った。しかし、藤家はまた表情を暗くした。
「藤家?」
「榊さ、先生と何かあった?」
藤家のその言葉にギクリとした。
「な、何で?」
指先が冷たく感じた。藤家はため息をついた。
「榊、分かりやすいからね。避けてるでしょう。」
藤家に話せば少しは楽になるだろうか。命は、海で夜琴に会い、言われたことを話した。藤家の顔は怒りで染まった。
「何それ。榊を消すって?大丈夫、そんなことはさせないから。」
「うん。」
「榊のことは、ちゃんと守るから。」
そう、これが命の求めていた答えだ。だけど、どうしてだろう。蓮見の方が本当に命のことを思ってくれたように感じたのは。藤家は守るといってくれているのに…。
「でもさ、それでどうして先生と気まずくなるわけ?」
藤家がカキ氷を食べながら、首をかしげて聞いた。命は、蓮見に相談したら言われたことを話した。藤家の表情が見る見る険しくなっていく。
「ひどい…。」
「でしょう?」
「ひどいよ、榊が。」
「え!?私が…?」
藤家はじっと命の目を見た。その目には軽く狂気の色が浮かんでいて、とても恐ろしく感じた。
「どうして、蓮見先生のところには相談しにいいって、俺にはしたくれなかったの?」
「それは…。」
「榊はいつもそうだ。俺には隠し事をする。先生に話しても俺には話さない。いつも、先生じゃないか。」
藤家はテーブルの上にあった命の手を掴んだ。あまりの力で握るので、爪が食い込んで痛い。
「藤家、痛い。」
「榊も、やっぱり俺はいらないの?」
藤家は力とは裏腹に、頼りない泣きそうな表情をしている。
「そんなこと、ないよ。」
命は藤家の手に、もう一方の手を重ねた。少しずつ、手の緊張がとけていく。
「ねえ、榊。本当に…自分でもどうしたらいいか分からないんだ。」
すがるように藤家が命の手を引き寄せて、自分の額に当てる。
「大事なんだよ。もっと、頼ってほしい。俺も、榊を守ってあげたい。一緒にいたい。」
「藤家…?」
藤家は少し伏せていた顔を上げた。その顔は今まで見たことの無い表情だった。
「わ、私だって、藤家のこと大切だよ?」
そういうと、藤家は少し悲しげに笑った。
「でも、榊の大事と、俺の大事は違うんだよね。」
命はその言葉にひどく胸が痛んだ。藤家の目は、命をじっと見据えていた。奥の奥まで。命も、目が離せないでいた。
「榊、俺を好きになってよ。先生ではなく、俺を…。」
その言葉は目の前で言われているはずなのに、頭の中に響いてきた。その目と、その声で、頭がクラクラしてくる。
「ねえ、榊、俺は…。」
その言葉を最後まで聞く前に、命の意識はプツリと事切れてしまった。
この状況に一番驚いていたのは藤家だった。これから告白しようというときに、相手が急に倒れてしまったのだ。
「え…榊?榊!」
揺すってみるが、意識は戻らない。
『月音…月音…』
藤家は頭の中で自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。頭がズキッと痛み、思わず目をつぶる。再び目を開けたとき、目の前には光が立っていた。悲しそうな目で藤家を見下ろしている。
「光…?」
『まだ、覚醒したばかりだから自分の力を制御することが出来ないのか…。』
「覚醒…?」
光は命に近づき、その額に手を当てた。ぼおっと淡く光り、すぐに消えていった。
『月音。お前は本当に私に良く似ている。性格も、容姿も…。』
確かに、藤家と光はよく似ていた。雰囲気や、目元、表情など。
『それはそうか。あの子の子孫なのだからな。』
「何を言っている?」
『月音、私達が知り合った町の踊り子の娘がお前の先祖だということを話しただろう。これは、誰も知らないのだが、その娘は私の兄と結ばれたのだ。その子供がお前の祖先にあたる。』
藤家は目を見開いて光の顔を見た。そうすると、光は自分の先祖の兄弟に当たるわけで、血が繋がっていることになるのだから。
『そう、私とお前は血が繋がっている。だから、きっと私の狛としての力も受け継がれたのだろう。』
「力…?」
『洗脳の力だよ。人の心を惑わせたり、自分の思い通りに動かすことの出来る恐ろしい力だ。』
そう聞いた瞬間、藤家の顔はサッと青ざめた。
『何か、思い当たることがあるのか?』
藤家の指先が小刻みに震え始めた。
「あ…。む、昔から、家のものは俺に逆らったことが無かった。あれは、俺が…?」
『月音…。』
藤家は死人のように血の気の引いた顔で命を見つめた。
「それじゃあ、もしかして、俺は今、榊を…?」
『大丈夫だ。この子は力が強いから、そうそうのことでは変えられない。意識してやらない限り。だが、少し混乱していたから、少し頭を整理させてもらったよ。つい先ほどの記憶は抜けているだろう。』
その言葉に藤家は安堵のため息をもらした。光は藤家の目の前に腰を下ろし、その顔を両手で包んだ。
『月音、一刻も早くその力を制御できるようにしなさい。つい無意識に使ったことでも、大事になることがある。その力は、自分のエゴでは絶対に使ってはいけない。』
藤家は無言で頷いた。藤家の表情を見て、光は安心したのだろう、静かに微笑んだ。
『月音、私からしたら、お前は私の可愛い息子のような存在だ。』
「息子…?」
光はそっと藤家を抱きしめた。本当の父ではなかったし、生きているわけではない。それでも、藤家は確かに光に対して父のようなぬくもりを感じ、胸が熱くなった。
『お前には、私と同じ目にはあってほしくない。』
「え…?」
藤家が顔を上げると、光は最後に藤家の頭を撫で、消えてしまった。
最後の光の言葉の意味は何だったのだろう。
狛ノ役割
命は、古びた和室の部屋にいた。
「ここは…?」
周りを見渡しても、知っているものは何一つ無かった。金色の鳳凰が描かれた掛け軸があり、白磁色のきれいな坪が置かれていた。その坪には細かく、色とりどりの花が描かれていた。ふと、ふすまに気づき、命はそれを開けた。その向こうにはもう一つ部屋があり、道場の稽古場のような部屋だった。その真ん中に、一人の女の人が座っていた。長い黒髪を一つに束ねていて赤い紐で結んでいる。
命の姿に気づいたのだろう、女の人はスッと立ち上がった。チリン、と鈴の音が部屋に響いた。振り向いたその人の顔は、良く見知ったものであった。
「よく来てくれたわね、命。」
凛と澄んだ声でそう言うと、女の人はゆっくり命に近づいてきた。一歩踏み出すごとに、鈴の音が鳴る。足に鈴のついた紐が結ばれているのだ。
「ミコトの巫女…。」
命が呟くようにそう言うと、ミコトの巫女はニコリと微笑み、目の前で止まった。近くにいると、花の香りがした。
「ずっと、会いたかった。」
ミコトの巫女は命の手をとった。
「私は、夢の中であなたに会っていました。記憶の中のあなたと。」
「恥ずかしいところも見られたわね。私も、あなたのことをずっと見つめていた。あなたが生まれたときから。私の姿が見られて、小学生のとき、あなたはいじめられたことがあったわね。ごめんなさいね。」
ああ、あの子の見た女の人って、ミコトの巫女のことだったんだ。
「あなた達には、過去の私達のせいで辛い思いもさせているわね、ごめんなさい。」
「過去に…一体何があったんですか?」
ミコトの巫女は首を振った。
「分からないの、ごめんなさい。ここにいる私は完全じゃない、ただの魂の一部だから。あなたの持っている私の記憶と同じだけしか、私も自分の記憶を取り戻せていないから。何か、あなたの力になってあげられたら良かったんだけど…。」
「ミコトの巫女…。」
ミコトの巫女は神棚の上に置いてある二本の日本刀を取り出してきて、その一つを命に渡した。
「あの…?」
「命。あなたは自分の力をもっと使いこなせるようにならなくてはいけない。」
ミコトの巫女はスッと鞘を抜いて、剣先を命ののど元へ向けた。ミコトの巫女の真剣な眼差しに思わずゾクリと鳥肌が立った。
「命、剣を抜きなさい。」
「え…。」
命はそう言われても剣を抜けずにいた。するとミコトの巫女は躊躇わず剣を振った。あまりの速さに剣の動きを見ることは出来なかったが、肌は傷つけず洋服だけが切れていた。
「躊躇っている様では、瑠璃には勝てない。殺されるわよ。」
ミコトの巫女は剣を構えなおした。
「私みたいに…。」
そう言ってミコトの巫女は一歩踏み込んで挑んでくる。咄嗟に一歩下がり、避ける。それでも尚も切りかかってくるので、命も鞘を抜いてそれを必死に防ぐ。
「ミコトの巫女!どうしてこんな!?」
「後でちゃんと説明するから。ちゃんと本気でかかってきて。」
ミコトの巫女の剣が命の腕をかすめ、血が流れ出るのが分かった。それでもミコトの巫女が止まる様子は無いので、必死になって攻めていく。どれだけ続いただろうか。最後には命はひざをついて肩で息をしていた。それでもミコトの巫女は涼しい顔をしている。ミコトの巫女は剣を鞘に収めると、命に手を差し伸べてきた。
「ごめんなさいね、私も本気であなたに攻めていっちゃって…。」
「いえ、でもどうしてこんな事を?」
ミコトの巫女は微笑んだ。先ほどまで恐ろしい顔つきで切りかかってきた人と同一人物とは思えない。
「あなたに怪我をさせるためよ。」
「は?」
「命、あなたは私と同じぐらい、もしかしたらそれ以上の力を持っているにもかかわらず、それを十分に使ったことが無いでしょう?」
それはそうだ。現代に力を必要とすることは全くないし、使っても封印に使うときだけだ。
「だからね、あなたは全力で力を出せなくなっているの。あの子たちと向かい合うのでは、その状態では絶対に無理。その怪我、痛くないでしょう?」
命は自分の体を見た。傷だらけで洋服も血で染まっているにもかかわらず、全く痛みを感じないのだ。
「あの、現実でもこの怪我は…。」
「いいえ、大丈夫。現実の体には何も障害はないわ。体には…ね。」
「体には?」
ミコトの巫女は命の目の前に腰を下ろし、正座した。
「でも、精神、力には大きく影響しているの。傷が多ければ多いだけ、それを修復するために力が使われるから、多分目覚めたら相当だるいと思うし、精神力とか抵抗力とかすごく弱くなっているはず。」
「え…それってマズイんじゃないですか?」
ミコトの巫女はびっくりしたように命を見た。何なのだろう、その目は…。
「もしかして、命は知らないの?」
「何を?」
「狛の役目のことよ。」
「狛の役目って、一緒に戦ってくれたり支えてくれる仲間みたいなものではないんですか?」
みこtがそう聞くと、ミコトの巫女はため息をついた。
「まあ、しょうがないわね。あなたの時代には力を使う必要も無くなったわけだし、だからその狛の力も知らなくて当然か。それに、長い間狛も現れなかったしね…。」
ミコトの巫女は命の肩にポンと手を置いた。
「命、狛と巫女は同等の関係ではないの。言うなれば、狛は巫女の力の補給源のようなもの。」
「補給源!?」
思ってもいなかった答えに口あんぐりだ。
「でも…どうやって…。」
「信頼関係が必要よ。巫女は狛の愛情を糧とするの。愛と言っても色々な形があるから変な意味じゃないけどね。命、今まで狛たちと触れて暖かい気持ちになったり、元気になったり、気持ちが前向きになれたりしたことはなかった?」
そう言われてみれば、蓮見の手はいつも暖かく心地よかったし、藤家の傍も不思議と心が安らいだ。それは知らず知らずのうちに力をもらっていたということだろうか。
「良かった、心当たりがあるようね。私から見てもあなた達の絆はまだまだこれからだけど、着実に深まっていっているから大丈夫よ。」
ミコトの巫女はそう言って微笑み、命の頭をポンポンと撫でた。
「命、しばらく大変だと思うけど、来る日が来るまでこれは続けるからね。戦闘能力もつくし、力を使うことで容量を大きくすることも出来るし、狛との絆も更に深まる。悪い話じゃないでしょう?」
命は小さく頷いた。確かに、このままただ黙って時を待っているだけではダメなのだ。
「よろしくお願いします。」
命はミコトの巫女に頭を下げた。ミコトの巫女は命に手を差し出してきた。
「私こそ、こんな事くらいしかお手伝いできなくて申し訳ないけど、よろしくね。」
命もミコトの巫女の手を取った。
「ついでにもう一つ、命に助言してあげる。」
ミコトの巫女は手で軽くこまねいた。命が顔を寄せると、ミコトの巫女は耳元でささやいた。
「自分の気持ちには正直にならなきゃだめよ。」
その言葉に命は顔を真っ赤にして、遠ざかる。その様子を見て、ミコトの巫女はクスクスと笑っていた。
「その様子じゃ分かっているようね。もし、それが許されない気持ちであったとしても、自分の気持ちに背を向けるのがどんなに辛いことか、私は知っている。」
夜琴のことを言っているのだろうか。いくら一度死んでいる人物だとはいえ、自分の実の兄だったのだから。
「自分の気持ちに素直になれば、どんどん世界は開けていく。それともう一つ、感謝の気持ちを忘れてはだめ。当たり前のことほど粗末にしてしまいがちだし、失わないとその大切さにも気づくことが出来ない。相手のこころにも気づいてあげれなくてはだめ。」
そういうミコトの巫女の表情はひどく辛そうなものが見て取れた。
「あなたには、私の様にはなってほしくない。幸せになってほしい。」
その言葉は深く胸に染み入るものがあった。命は静かに頷いた。するとミコトの巫女はほっとしたような顔をして、命を抱きしめた。花の香りが鼻腔をくすぐる。
「さようなら、また会いましょう。私のいとしい子。」
ミコトの巫女は静かに命から離れた。そうしてふすまを指差す。
「さっき来たはじめの部屋へ戻って、白磁の壷に触れて目を閉じれば現実に帰れる。あなたのやるべきことをやってらっしゃい。」
ミコトの巫女は命をそちらの方向へ向かせると、トンと軽く背中を押した。命はそのままふすまの向こうへ歩いていく。
「私に会った事は誰にも言ってはダメよ。」
最後にそう言葉が聞こえ、命が驚いて振り向くと、そこにはもうミコトの巫女の姿はなかった。命ははじめの部屋へと再び足を踏み入れ、白磁の壷の前に座った。そうして目を閉じ、壷に触れた。ふわっと体が浮いた様に感じ、次に暖かく心地よい気を感じた。
目を開けると、良く見慣れた部屋の天井が目に入った。
「榊…。」
声が聞こえて、視線だけ動かすとベッドの横に蓮見が座っていた。驚いて慌てて身を起こすが、ミコトの巫女にも忠告されていた通り体がだるく、そのまままた倒れそうになった。咄嗟に蓮見が腕を伸ばして命の体を支えた。
「藤家から聞いた、お前倒れたんだろう?そう無茶に体を動かすな。」
そう言って蓮見は命の体をまたそっとベッドへ横たわらせた。
藤家…。
そうだ、先ほどまで一緒に勉強をしていたはずなのに、部屋の中に姿が見えない。命がきょろきょろしていると蓮見が言った。
「藤家なら、家の用事があるから帰ったよ。ちょうど俺と入れ違いになるように。」
「そう…。」
蓮見は私が倒れたって言っていたけど、命はその時の記憶が確かではない。藤家の生い立ちを聞いたことまでは覚えているんだけど。
「榊、すまなかった。」
「蓮見…。」
蓮見は眉毛を下げ、情けない顔をしていた。あの時のことを言っているんだろう。謝ることなど無いのに。
「ただでさえ不安だったお前に、あんなこと言うべきじゃなかった。藤家にも怒られたよ。」
「藤家に…?」
蓮見はああ、と小さく呟き、私の頭を撫でた。
「榊、俺はお前を傷つけたくは無い。」
その言葉に、命のこころは熱くなった。心臓が大きく、強く打つ。命は半ば無意識に蓮見の腕に手を伸ばしていた。
「榊…?」
この気持ちに名前をつけるのは怖いが、ああ、やっぱりそうだったのだ。
命は蓮見の胸へと抱きついた。
私は、この人が好きなのだ。
「蓮見…。」
でも、その言葉を今言うべきではない。それに、命の体も限界だった。最後の力を振り絞り、ぎゅっと蓮見の胸へ顔を寄せた。蓮見の心音が耳元で聞こえ、心が不思議と安らいでいく。
「榊…。」
蓮見は恐る恐るといったように命の背中へ腕を伸ばした。蓮見の大きな体に命はすっぽり収まる。と同時に、体の中へ温かい気が流れ込んでいくのを感じた。蓮見の力が命の中へと入っていっているのだ。
「蓮見、私こそごめんなさい。」
その温かさを感じつつ、命は素直に自分の言葉を口にした。
「本当は分かってた。蓮見が心配してくれていることも、私のことをちゃんと考えてくれていることも。子どもでごめんなさい。」
命がそう言うと、蓮見はポンポンと優しく私の背中を叩いた。
「お前はもっと甘えていいんだし、わがまま言ってもいいんだぞ?俺だって大人なんだからそれくらい受け止めてやれるから。」
その言葉に命は顔を上げた。すると、優しい目をした蓮見と目があった。悲しいわけでもないのに、何だか切なく泣きそうになった。
「おっ、何だ、感動したのか?」
いつもの調子で言ってくる蓮見に、命はプッと笑ってしまう。
「泣かしたのは蓮見なんだからね、責任とってよ。」
照れ隠しに命はそう言い、再び蓮見の胸に顔をうずめた。
「何だ責任って。俺に嫁にもらってほしいのか?」
「もらってよ。」
その言葉に蓮見が固まったのが伝わってきた。本当に、この人は自分で言っておきながら…。
「嘘、冗談だよ。」
まだ、今は冗談にしておくから安心してよ、蓮見。
ミコトの巫女、私はまだ本当の自分のこころは蓮見に言えそうにはありません。この心地よい関係が崩れるのが怖いから。拒絶されるのが怖いから。
もう少し…このまま…。
しばらくして、命はさすがに気恥ずかしくなって蓮見から離れた。
「ごめん、蓮見…。」
「いや…。でも、顔色随分良くなったみたいだな。」
そう言われれば、だいぶ蓮見から力をもらったおかげだろうか、すごく体が楽になっていて、頭もはっきりしている。蓮見は大丈夫だろうか、と顔色を伺ってみたが、どこも変わらずいつも通り元気そうでほっとした。狛はそういう役割だから、力を与えても大丈夫なのだろうか。
「じゃあ、俺は帰るから。」
「あ、うん。ごめんね、わざわざ。」
「いいえ。」
蓮見は命の頭にポンと手を置くと、腰を上げた。蓮見は部屋を出る間際に、ふいにまたこちらへ振り向いた。
「そうだ、榊。」
「え?」
「藤家にあとでちゃんと連絡入れとけよ。あいつ、本当にお前のこと心配してたから。」
そう言って蓮見はにこりと笑うと部屋を出て行った。命はそのドアをじっと見つめていた。何だか一気に部屋は物悲しくなった。
「藤家…。」
命はテーブルの上に置いてあった携帯に手を伸ばした。何故だろう、藤家に連絡するのが気まずく感じるのは。覚えていないだけで、何か藤家とあったのだろうか。でも、悩んでいてもしょうがないので、命は意を決して藤家に電話をかけた。
耳にむなしい音だけが聞こえてくる。いつも驚くほど早く電話に出てくるのに。留守だろうかと思い切ろうとしたその時、
『もしもし!』
ギリギリの所で藤家が出た。その珍しい慌て具合に少し口元が緩んでしまった。
「藤家。」
『榊、もう大丈夫?』
「うん、もう元気になったよ。ごめんね、心配かけて。」
『そっか。良かった。』
相変わらず抑揚の無い話し方だが、藤家が本当に心配してくれていたことが伝わってきた。
『蓮見先生とは、仲直りできたわけ?』
藤家が柔らかな声で言ってきた。
「うん。藤家のおかげだよ。ありがとう。」
命がそう言うと、しばらく藤家から返事が無かった。
「藤家…?」
『……』
「え?藤家、どうかしたの?」
『うーん…いや、自分でした事ながら若干後悔してるっていうか…。』
「え?何でよ。」
『複雑な男心ってやつですよ。』
「そうですか…。」
男心か。それなら分かりそうにない。深く突っ込むのはやめておいた。
「あっ、そういえば藤家もしかして今稽古中とかだった?」
『ああ、でもちょうど休憩入ったところだったから。』
「うそ、ごめん。」
『いいよ、別に。…榊、俺別に大変だとか思ってないからね。』
どうしてこの人は私の考えていることが分かるんだろうか。確かに今、唯でさえ藤家は家の稽古で大変なのに自分のせいで色々と巻き込んでしまって悪かったな、と思っていたのだ。
『ということで、俺は今までで一番毎日を楽しんでんだから変な気遣いすんなよ。』
「藤家…。よく私のこと本当に分かるね。」
『…まあね。』
「藤家エスパー?」
『ばーか。そんな訳ないだろう。』
命は思わずクスクス笑ってしまった。すると電話の向こうで藤家が不機嫌な声を出してきた。
『なに、笑ってんの。』
「ごめん。だって、藤家がばーか、とかって言うの初めて聞いたし。何か、本当に普通の高校生みたい。」
命がそう言うと、藤家は呆れた声で返してきた。
『何言ってるの。普通の高校生だろう?俺も、榊も。少し普通と違う部分を持ってても、それは個性だし。』
「…そうだね。」
藤家と話していて、何だかすごく元気が出た。最近、何だか自分の普通ではないところに劣等感のようなものを少し感じて気にしていた気がする。普通の高校生みたいになりたいとか…。でも、藤家の話を聞いていて、そんなことを気にしていた自分が馬鹿みたいに思えた。
「ありがとう、藤家。」
『ん?』
「元気でたから。」
『そう、良かった。俺は榊が元気で笑顔なのが一番嬉しいから。』
「…藤家キザだよ。」
『うるさい。じゃあ、休憩終わるから。またね。』
「うん、ばいばい。」
命は携帯を閉じた。今日の朝はあんなに憂鬱だったのに、今は蓮見と藤家のおかげでこころが和み、安らいだ。
でも、私ははまだ自分のこころのことしか考えていなかったのだ。もっと、他人のこころを察する力を持っていたらよかったのに。そして、素直に気持ちを伝える勇気がこの時あったなら、未来も少しは変わっていたかもしれない。
揺レル霞草
目の前に寝ている少女は幸せそうな表情で寝ていた。
「瑠璃…。」
ミコトは野原の真ん中で気持ちよさそうに寝ている少女の頭を優しく撫でた。温かい日差しに照らされ、気持ちが良いのか、尻尾がゆらゆらと揺れていた。初めて会ったときよりも力が強くなっているので、尻尾の数が二本に増えている。白くてきれいな尻尾。
「でも、あの事を知ったら私に二度とそんな顔を見せてくれなくなるかもしれないね。」
今日、父上から聞かされた。瑠璃の家族を殺したのは父上なのだ。
昔から、人間とこの山に住む妖狐の一族は敵対関係にあった。ほとんどの妖狐は害を与えない善狐だ。だが、自分と違う異質のものを嫌う人間たちは、妖狐に出会うたびにひどい仕打ちをした。それに耐え切れなかった若い狐は、感情のままに人間を襲った。力のある妖狐に弱い人間が勝てるわけが無い。これが古くから幾度と無く繰り返されていて、ずっと緊張状態にあったのだ。幼いミコトはそんなこと知らなかったけれど。それで、とうとう父上は村人からの頼みにより、空狐山を襲い絶滅させた。いや、したつもりでいた。瑠璃だけが生き残ったのだから…。
いつか瑠璃は気づくかもしれない。その前に、私の口から話さなければならないだろう。怖い…。ものすごく…。
ミコトは瑠璃の隣に寝転び、目を閉じた。風を感じる。少女の息遣いが聞こえる。
もう少し、このままで…。
目が覚めると、花の香りが漂ってきた。先ほどの夢。ああ、またかと思う。もう前と違って驚かなくなってきている。夢を見るたび、ミコトの巫女の記憶が入ってきて、ミコトの巫女の魂がどんどん甦っていく。そして、それは同時に命の存在のカウントダウンとなっているのかもしれない。
「今日の花は…。」
命は枕元に置いてある花を手に取った。可愛らしい白とピンクの花束。この花には命もある種の特別な思い入れがあるので、いつも以上に複雑な思いだ。
「霞草…。」
英名では『Baby's Breath―少女の息遣い』である。花言葉は「清い心」「切なる願い」。
命はベッドから起き上がると、その花を分厚い本に挟んだ。夜琴から毎日のように贈られる花を命は押し花に取っておくことにしているのだ。ミコトの巫女の記憶と、命がいたことの記録のように。
朝起きたばかりは考え方が後ろ向きになってしまうのが嫌だ。
大丈夫。蓮見も、藤家も、光さんも陽さんも、それにミコトの巫女だって私にはついているのだもの。一人ではない。
命は一人でうん、と頷いて着替えにかかった。今日は午前中にあの例の石の前で二人と待ち合わせしているのだ。これ以上、魔がやってこれないように、今日は結界をより強力なものにするのである。
命は引き出しから数珠のようなものを取り出した。相変わらずあれからミコトの巫女との訓練は続いている。だいぶ命も力をつけてきて、あまり怪我を負わされないようになってきた。そう毎回死にそうになって二人を呼ぶのも面目ないからだ。二人には、ミコトの巫女の記憶を取り戻すには力がいるからひどく消耗されるのだ、という事にしている。
昨日、はじめてミコトの巫女に反撃することが出来(まあ死んでいるとはいえ人に怪我をさせるのだから、あまり気持ちが良いものではないが)、お祝いとしてミコトの巫女にこの数珠をもらったのだ。藤家のつけているものと同じように、これをつけると瞳の色を隠せ、力も抑えることが出来るのだ。もともと目は良いのでいつもコンタクトが煩わしく思っていたから、すごく助かる。
命は数珠を腕につけ、家を出た。
待ち合わせの場所に着くと、もう二人は着いて待っていた。しかし、蓮見の服装を見てぎょっとした。
「蓮見、何その格好…。」
「おお、榊。」
蓮見は山の中で浮きに浮いていた。ピシッと着込んだスーツ姿なのだ。この暑い日に良くそんなの着ていられるな、と思った。
「親父とお袋にこの後呼ばれてて、何かちゃんとした服装で来いって言われててな。」
蓮見はさも嫌そうな顔をして言った。髪も上げていて、こう見ると本当に金持ちに見える。
「じゃあ、榊命お仕事始めます。」
命はピシッと挙手すると、岩へ手を当てた。意識を集中させる。最近、自分でも力が強まったのを感じるので、前よりもレベルの高いものを張る。
「ふう…終了。」
命は一息つくと、そのまま地べたに腰を下ろした。蓮見はその姿に軽く笑うと、命の頭にポンと手を置いた。
「お疲れ。」
「うん。」
蓮見の手から、暖かな力が流れ込んでくるののを感じる。命はこの感覚が好きだった。
「力、戻ったか?」
「うん、ありがとう。」
命が答えると蓮見の手はそっと離れた。
「それにしても不思議だね。触れただけで俺達の力が榊に入っていくなんて。どの文書にも載ってなかったし今まで知らなかったのに、どうして榊知ってるの?」
そう藤家に聞かれてギクリとした。ミコトの巫女に会って聞いたなんてこと言えるわけがない。
「しかもその数珠、俺が持ってるのと力同じでしょう。どうしたの?」
何でこう藤家は気がついてしまうのだろうか。蓮見なんて藤家に言われて知ったみたいに「そういえば…。」と一人でふんふん頷いている。
「これは…は、母親から?」
「ああ、榊のお母さんも巫女だもんね。」
「おっ、そうなのか!?」
「そうそう。」
何だか二人とも納得してくれたみたいだ。無理やり言えば嘘はついていない。ミコトの巫女も第二の母のような存在だし。まあ、見かけは二十代ぐらいだけどさ。
「あっ、時間だ。」
蓮見が時計を見て嫌そうな顔で呟いた。
「家のこと?」
「そうそう。本当面倒くせ。」
蓮見は頭をポリポリかきながら、盛大なため息をついた。
「まあ、いい。お前らの面白い顔を思い出して何とか乗り切ってくるよ。」
「面白い顔とは失礼な。」
「あはは、じゃあな。」
蓮見は命達に軽く手を振って、山を慣れたように下りていった。
「…何の用事なんだろう。」
命はひどくそれが気になった。
「うーん…。」
命はベッドに寝転がりながら唸っていた。やっぱり、どうしてか蓮見の家の用事が何なのか気になるのだ。あまりに気になったからか、全く関係ないのか、なぜか宿題をいつもより倍以上終わらせられた。うん、それはいいのだけれど…。
「電話しちゃ…まずいよね…。」
命は携帯とにらめっこした。すると突然携帯が鳴った。驚きすぎて、携帯を手から落としそうになる。ディスプレイを見ると、蓮見からだった。命は慌てて電話に出た。
「も、もしもし!」
自分でもびっくりするほど大きな声が出てしまった。電話の向こう側で蓮見が笑っている声がする。
『ぷっ。どんだけやる気のある電話だよ…。』
「うるさいなー。どうしたの、蓮見?」
恥ずかしくて顔を赤くさせながらも、平静を装って話す。
『榊、今日なにも用事ない?』
「え?うん。宿題も今日の分はちゃんとやったし…。」
『そうか。じゃあ、一つ頼まれて欲しいんだが…。』
そう言って蓮見は早口でまくし立ててきた。今から町に急いで出てきて欲しいこと。年齢より上に見える格好で着て欲しいということ。あんまり早口なので、待ち合わせ場所をメモするのが大変だった。
『榊、分かったか?』
「え…うん、ちゃんとメモ取ったけど。」
『じゃ、頼むな。早く来てくれ。』
「えっ!ちょ、ちょっと!蓮見!」
ブツリと一方的に電話を切られてしまった。
「もう…何なのよ。」
無視してやろうかと思いつつも、せっせと出かける準備をしてしまう。惚れた弱みとでも言うべきか…。しかも、この間買ったばかりの新品の洋服手にしてしまっているし…。命は少し浮かれてしまっている自分に苦笑しつつ、急ぎ足で家を出て待ち合わせ場所に向かった。
蓮見が言った場所は命の住む田舎とは違い、色々なブティックだとかが並んでいて、ちょっとセレブ感漂う場所だった。絶対一生私は行かないなと思っていた場所なので、自分の格好が変じゃないかと気にしてしまう。あとで蓮見に電車代を請求してやろう、とか思いつつ歩いていた。
しばらく歩いていると黒い車が見えてきて、うわー高そうだなと思いながら通り過ぎようとしたとき、車に寄りかかっていた男の人にいきなり肩を掴まれた。
「うわっ。」
「何行き過ぎようとしてんだよ、榊。」
「…えっ、蓮見。」
「何驚いてんだよ。この格好朝も見てただろう?」
いや、そうなんだけど。やっぱりスーツを着込んでまじめな顔をして高級車に寄りかかってたら、蓮見と思えないというか。
「…うん、その格好だったら二十ちょいに頑張れば見せられるか。」
蓮見は命の格好を頭からつま先まで見ながら言った。
「ねえ、私は一体何のために…。」
「それはまた後で、とにかく行くぞ。」
「ちょっとちょっと!」
蓮見は半強制的に私の背中を押して、高そうな店の中に連れて行った。
連れて行かれた先はいかにもセレブ御用達の美容院だった。どこもかしこもピカピカしていて、綺麗なお姉さんに笑顔で出迎えられ、イスに座らされた。
「本日はどうのようになさいますか?」
「え?え?」
「ああ、とりあえず大人っぽくさせて下さい。」
蓮見はそう店の人に言うと、自分はソファに座って足を組み、優雅に雑誌を読み出した。
「ちょっと!蓮見!」
「あ、顔動かさないで下さいねー。」
お姉さんに注意され、命は渋々鏡へと顔を戻す。お姉さんは色々と聞いてくるが、化粧なんてしたことないのでただただ頷くばかりであった。
「お連れの方、格好いいですね。」
お姉さんがこっそり耳打ちしてきた。確かに、正装している蓮見はいつもより倍は良く見える。
「恋人ですか?」
「え!?」
思わず大きな声を出してしまった。お姉さんはクスクス笑っている。段々と恥ずかしくなってきて顔がみるみるうちに赤くなる。
「可愛らしいですね。二人とも、良くお似合いですよ。」
「いえ…あの…。」
「はい、できましたよ。」
弁解する暇はなく、お姉さんはポンと肩を叩いた。鏡を見ると、そこには見たこともない自分がいた。髪の毛はゆるく巻かれていて、キレイに化粧したその顔は、どこかいいとこのお嬢さんのようで、二十代前半くらいに見えた。
「終わったのか。」
蓮見が後ろから声をかけてきたので、少し恥ずかしがりながら振り向いた。しかし、蓮見は恐ろしいくらいの真顔でじっと見た挙句、「行くぞ。」と一言だけ言って手を取って立ち上がらせた。
「え?ちょ、ちょっと!」
「会計はもう済ませてある。」
「いやいやいや。」
「ありがとうございました。」
お姉さんはにこやかにお辞儀をして、命たちを見送った。
いやいや、お姉さん、助けてください!
店の外に出ると、そのまま乱暴にあの高級車の助手席に座らされた。何だか拉致られている気分なのですが…。
「ベルト締めろよ。」
「は、はい。」
いつもと違う蓮見の様子にあせりながら、慌ててシートベルトをつける。つけたと同時に車は発進した。ちらりと恐る恐る蓮見の顔をうかがってみるが、やっぱり無表情だった。
「あの、蓮見?」
「何だ?」
「何か、怒ってますか?」
「怒ってる?俺が?」
蓮見は驚いたように命を見た。しかし、それはわき見運転である。
「は、蓮見、前を!前を向いてください!」
「あ、ああ…。」
蓮見は頷いて再び目線を前に戻した。
「別に、怒ってないよ。まあ、強いて言うならば緊張してんのかな?」
「緊張…?」
蓮見は少し苦笑いをした。
「ねえ、そもそも私は何だってこんな事に…。」
「ああ、そうだったな。実は今日俺に見合いの話があって…。」
「見合い!?」
大きな声を出してしまって、隣の車線を走っている車の人にジロリと睨まれてしまった。すかさず蓮見が頭を叩く。
「え…蓮見結婚しちゃうの?」
「いや。まだしたくねえよ。しかもそんな半強制的なもんで。それを今日話されて…あまりに嫌なもんだからつい真剣に付き合っている女がいるだなんて言っちゃったもんだから…。」
「え?いるの?」
「いねえよ、馬鹿。だけどやっぱりお袋は信じてねえしな、まあ、実際嘘なんだけど、それで見合いの席に相手を連れて来いって。」
そこであることが頭に浮かんだ。もしかして…。
「ねえ、私が呼ばれてのって、まさか、その恋人のフリ…とか?」
顔を引きつらせながら言うと、蓮見はにっこり笑って言った。
「そう、そのまさかだ。」
「いや…無理無理!絶対に無理だって!」
命は手を大きく振りながら連呼した。だって、そんな見合いの席に乗り込んでいくなんて、本当の恋人だとしても結構勇気のいることなのに…。
「そう言うなよ。お前しか頼れるやついないんだよ…。」
蓮見自身も参っているようで、すがるような声で言ってきた。そんな風に言われちゃあ…。
「う……はあ、分かった。成功するかはさておき…でも、宿題手伝ってよね。」
「本当か?ありがとう…。末代まで感謝するよ。」
「末代まで感謝できるもんならしてみろ。」
命は仕方ないなあと思いつつ、微笑んだ。蓮見もほっとしたような表情をしている。
「あ…でも、いくら化粧してごまかしていても、生徒だってばれない?
だって息子が担任を受け持つクラスの生徒だよ?」
命がそういうと、蓮見は苦笑した。
「大丈夫だ。俺の親は、特に母親、俺が教師していること良く思ってないし、生徒のことはおろか、学校のことさえ聞いてこないし、俺も言ってないから。だから、大丈夫だと思うけど…。」
蓮見はチラリと横目で命を見た。
「でも、ばれたらお前に迷惑かけるしな…。んー…偽名作っとくか。」
そんな軽い感じで偽名作ろうとか言わないでください。普通、そういうの駄目だからね?
「じゃあまず苗字は…榊だから木神(コガミ)で。」
「そんな、安易な感じでいいわけ?」
「いいよ。どうせ今日だけなんだから。名前は…お前、何がいい?」
「え?」
「お前、常々自分の『命』って名前嫌だって言ってただろう?せめて可愛い漢字で『美琴』とかだったら良かったのに~って。」
確かに言った。だって、『命』って生命の『命』だよ?堅いし、重いし…。まあ、今となっては別に気にしていないし、この名前も割と好きになったけど。
「あ…。」
命はそこでふと思い当たった。
「じゃあ…佳澄。」
「かすみ?」
「そう。霞草から佳澄。本当はね、私その名前になるはずだったの。」
今日の朝、あの花を見て思い出した。本当は命がなるはずだった名前の花なのだ。
「私、四月四日生まれだから誕生花霞草なの。ほら、うちの父親花好きだからね、誕生花の名前にしようと思ってたの。だけど、私、この瞳の色で生まれちゃったから…。」
自分で言っていて少し切なくなった。その名前で生まれていたら、本当に普通の高校生として毎日を過ごしてたんだろうな、と思ってしまったのだ。
「そうか。命もいい名前だとは思うけどな。」
命はそう言ってきた蓮見を思いっきり睨んでやった。
「何で睨むんだよ、褒めただろう?」
「笑ったやつがよく言うな、と思って。」
「またその話かよ。悪かったって。」
「ふーんだ。もういいよ。とにかく、じゃあ、今日は私の名前は木神佳澄ということで。」
「ああ、よろしく佳澄。」
そう呼んでくる蓮見に命はぎょっとした。いきなりの名前呼びである。
「何だ?付き合ってるんだから、普通だろう?」
「う…まあ、そうだけどさ。」
「だから、お前も俺のことちゃんと名前で呼べよ。」
「え…。」
命は言葉を詰まらせてしまった。その様子に今度は蓮見がジロリと睨んできた。
「お前、まさか俺の名前知らないとか言わないよな?」
ドスを利かせながら蓮見は言ってくる。命はその様子に慌てた。
「わ、分かってる!分かってるけど…。よ…」
「ん?」
蓮見はニヤニヤしながらこちらを見てくる。非常に腹が立つ。名前を呼ぶだけで、どうしてこんなに緊張しなくてはいけないのだろうか。
「よ、陽杜!これでいいてしょう!」
照れ隠しに半切れ気味で名前を呼ぶ命に蓮見は大爆笑した。
「はっ…腹が痛い…。」
「そんなに爆笑するところ?言っとくけどあんたの命運は私に握られているんだからね?」
「はいはい、佳澄さま。」
「ふんっ。」
ついに車は目的地の高級ホテルへと着いた。それにしても、これから仮にも担任のご両親を騙しに行くのだ。緊張で思わず震えてしまう。そんな様子の命に、蓮見はふっと笑ってそっと包むように手を握った。不思議と手の震えは止まってしまった。
「大丈夫だ。な?」
蓮見にそう言われると本当にそんな気さえしてきてしまうので不思議である。命は頷き、二人でホテルのエントランスへと入っていった。
部屋に入った瞬間、私は絶対にうまくいくはずがないと確信した。いや、うまくやれるはずがないのだ。だって、蓮見のお母様の迫力というか、圧力というか、とにかく目力がすごいのだ。
「で?あなたが陽杜とお付き合いをなさっているとかいうお方?」
「はっ、はい!さ…木神佳澄と申します。」
「そう…。」
こ、怖い…。まさに蛇ににらまれたカエル状態である。ひざの上で手がプルプル震えている。
「おい、あんまり佳澄を怖がらせるなよ。」
蓮見は慣れた調子で命の肩を抱く。少しそれで落ち着くが、その手馴れた様子に少しむっとしてしまう。
「別に怖がらせたりなんかしてませんよ。ただ、本当かしらと思ってね。」
「信用ねえな。」
「ええ。だって、私あなたに対して信用なんてもの一度だって持った記憶はございませんから?」
一々言葉がトゲトゲしている。蓮見のお母様は顔立ちが整って美人であるので余計に冷たい印象を受けてしまう。家族の仲が良くはないとは聞いていたが、それは蓮見とこのお母様との間なのだろう。見たところお父様は少し気の弱そうな印象を受ける。こうじっくり顔を見てみると、どうやら蓮見はお母様から随分と色々遺伝子をもらったみたいだ。
「佳澄さんは、いつ陽杜とお知り合いになられたのかしら?」
「あ…学校で。」
「学校?蓮見の勤めている高校でですか?」
ああ…。自ら墓穴を掘ってしまったようだ。
命が冷や汗タラタラで内心あせっていると、蓮見がフォローしてくれた。
「ああ、こいつの妹が俺の教え子だから、それでだよ。」
「そ、そうなんです。その前から、色々と妹から陽杜さんの話は聞いていたのですが。」
お母様はまだ少し疑っているようだったが、とりあえず納得してくれたようだった。
「そう、妹さんが。でも、こんなどうしようもない息子が人様のお子様を教える立場にあるなんて。未だに信じられませんけどね。」
お母様は蓮見のことを蛇のような目でジロリと睨んだ。この二人の間に何があったかは知らないし、多分蓮見の瞳の色があれで生まれてきたから色々とこの人も苦労をしてきたんだろうけど…。命はその言葉を黙って聞いている事が出来なかった。
「そんなことありません!」
「佳澄…?」
「は…陽杜さんは本当に良い教師です。生徒一人一人に親身になって答えてくれるし、色々と相談に乗ってくれます。少しふざけた部分もありますが、根は真面目でしっかりしていてとても頼れる存在です。いつも笑顔で、優しくて、本当に嫉妬してしまうくらいどんな人にも優しくて!私は、そんな陽杜さんが大好きなんです!」
命は息も切れ切れに興奮しながら言い放った。三人とも呆然と命を見ている。その瞬間、命はすごく恥ずかしくなり顔を真っ赤にしてしまった。思わず顔を両手で覆う。
「す…すみません…。」
命は手元にあった水に口をつけた。チラリと横目で蓮見を見上げる。するとそこには少し頬を赤くして、今までで一番の笑みを見せる蓮見がそこにはあった。
「ありがとう、佳澄。」
そんな私達二人の様子を、お母様は更に怖い顔で見ていた。
「そう。二人が本当にお付き合いされているということは分かりました。でも…。」
「陽杜。」
今まで口を閉じていたお父様が口を開いた。
「でも、お前は婚約者の方がいるじゃないか。それを分かっていて、どうしてそんな…。」
「え…?」
婚約者?そんなの初耳である。驚いて蓮見の顔を見るが、蓮見も初耳のようで目を見開いている。
「何だ、その顔は。知っているだろう?小さい頃から決まっていたじゃないか。」
「一体…何を…。」
「お前こそ何を言っているんだ。」
全く話が読めない。すると、静かにドアが開いた。そこから出てきた人物に命も、蓮見も驚いた。
「何で…。」
「お久しぶりです、おじ様、おば様。」
「綺麗になったね、菫華ちゃん。」
どうして、新藤先生がここにいるの?
新藤先生はにこやかに蓮見のお父様、お母様にあいさつをして、まだ一つ空いていた席に腰掛けた。
「陽杜?どうしたの?そんな顔して。陽杜は久しぶりじゃないわね、学校で会っているもの。」
名前の呼び方も違う。一体どいうことだろうか?
「新藤…先生?」
「やだー、学校じゃないんだから。小さい頃から菫華って言っていたじゃない。」
新藤先生と蓮見は幼馴染なのだろうか。いや、そんなはずはない。だって、美嘉は最近蓮見を狙っているんだと言ってたが、二人が本当に幼馴染で婚約者同士だったら、美嘉が知らないはずはない。それに、前に会ったときには、新藤先生にそんな印象は受けなかった。
でも、新藤先生も、お父様もお母様も当たり前のように話している。一体…?
「そ…そうだったね、菫華。」
「え…。」
蓮見はにこやかに新藤先生に笑いかけた。どういうこと?しかし、蓮見はそのまま席から立ち上がり、命の手を掴んだ。
「でも、俺たちこれからちょっと用事があるんで、失礼します。それでは、また。」
蓮見は軽く会釈をすると、逃げるように命の手をひっぱり部屋を出た。早歩きで歩く蓮見に命は小走りになりながらついて行った。ホテルを出て、車に乗り込んだ。命も助手席に座ったが、蓮見の顔色を見てぎょっとした。本当に真っ青で、この世の終わりでも見たような顔をしているのだ。
「蓮見…。新藤先生は、蓮見の幼馴染で婚約者だったの?」
「違う!」
蓮見は大声で怒鳴った。思わずビクリとなる。その様子に、蓮見は小さく謝った。
「新藤先生は俺の幼馴染でも、婚約者でもない。」
その言葉を聞いた瞬間、命は背筋がぞっとした。
何かが、起きている。それだけは分かった。
迫ル手
「すみませんね、菫華ちゃん。」
「いいえ…。」
新藤菫華はにこやかに笑った。だが、すぐに目線は今二人が出て行った扉へと移された。蓮見先生と一緒にいたあの子…この間学校で会った榊さんに似ている。
「あの、おば様?先ほどの女性は?」
「ああ、木神佳澄さんという方だそうで、陽杜がお付き合いされている方よ。全く…あの子は、菫華ちゃんという方がいながら…。」
「いいんです、おば様。陽杜は最後には私のところに戻ってきてくれると信じているので。」
「菫華ちゃん…。」
菫華は少し悲しそうに微笑んだが、内心ほくそ笑んでいた。こうも上手くいくとは思っていなかったし、信じていなかったのだ。
このまま行けば、私は蓮見先生を手に入れることが出来る。すぐに、あの人は私を愛するようになるだろう。
事の始まりは1週間前ほど遡る。菫華はブラブラ歩いている途中である女性に出会ったのだ。
その日はなぜか近所にある空狐山へと足を踏み入れていた。何もないそこに用事なんてもちろん無かったし、そもそも山みたいに汚れる場所や疲れる場所が嫌いな菫華だったが、どうしてか、自分でも分からなかったが足を踏み入れていたのだ。
「…薄気味悪い。」
夕暮れ時で日は傾き、あたりは薄暗く、人気も無かった。
「そもそも、私なんでこんな所にいるのよ。もう帰ろう…。」
菫華が引き返そうとしたとき、ガサガサと背後で音がした。ゾクリと体に寒気が走った。しかし、恐る恐る振り向くろそこには一人の美しい女性が立っていた。同性から見ても、その美しさは恐ろしいほどだった。
「こんにちは。」
それに、普通の人間には思えなかった。白い着物を着て、同じく白い髪。目を細めて笑う表情からは冷たさを感じた。
「だ、れ…?」
声が震える。すると、女はニタリと笑った。
「あなたの願い、叶えてあげましょうか?」
菫華と女の距離はけっこうあったはずなのに、いつの間にか女は近づいていて、菫華のすぐ目の前に来ていた。菫華は思わず後ずさったが、それと同時に女も近づくので距離は開かない。
「新藤菫華。あなた、想っている人がいるわよね。名前は、蓮見陽杜。」
菫華は驚きを通り越して、もはや恐ろしさを感じていた。だって、自分は女のことを全く知らないのに、向こうはこちらの名前も好きな人の名前まで言ってのけたのだ。
「ねえ、蓮見陽杜を手に入れたいでしょう?手に入れられるわよ?」
女はスッと生白い手を菫華の方へと伸ばしてきた。菫華はビクッと震え、逃げ出そうとするが、その手がそれを許さない。ガシリとものすごい力で菫華の腕を掴む。
「私に協力してくれれば、望みどおりにしてあげる。もちろん、代償なんて必要ないし、あなたが損することは一つもない。絶対に蓮見陽杜を手に入れることが出来る。」
その女の誘いは、さながら白雪姫のりんご売りに化けた継母のようで、恐ろしさを感じながらも、菫華はその誘いに惹かれてしまう。気づけば、首を縦に振っていた。女はニコリと笑う。
「そう…じゃあ、交渉成立ね。」
女は手を差し伸べてきた。菫華がその手を取ると、強い力で握られた。思わず顔をしかめてしまう。女が手を離すと、その手の甲には花の模様が浮かび上がっていた。菫華の名前と同じ菫の花である。
「それは契約の証。菫の花。綺麗だけど、毒があるのよね。」
女はそう言ってクスクス笑った。見ると、スーッとその模様は消えていく。
「私の名前は瑠璃。私があなたのもとに訪れるとき、その模様は出てくる。また反対にもしあなたが私に会いたいときは、その手の甲を額に当てて私の名前を呼びなさい。」
女、瑠璃はそう言うと菫華に背を向け歩き始め、そのまま草陰に入ると姿は見えなくなってしまった。菫華は呆然と、自分の手の甲を眺めていた。
そうして今日、見合いの日の3日前に再び瑠璃は菫華の前に現れた。例の如く手の甲にあの模様は浮かんできた。そうして告げたのだ。
「あなたは蓮見陽杜の幼馴染であり、婚約者となったわ。」
「え…。」
突然言われた言葉に、菫華はついていけなかった。
「いや、あの…私、蓮見先生とは昨年知り合ったばかりだし、それに同僚でしかないはずなんですけど。」
「それは昔の事実ね。現実は変わったの。」
「現実が変わる…?」
瑠璃はクスクス笑うと菫華の額に指を当てた。
「結構簡単よ?少し記憶をいじらせてもらえばいいだけ。」
そう言って目をを細め、楽しそうに笑う姿を見て菫華はゾッとした。少し後ずさるようにその手から逃げると、瑠璃は目をつり上がらせて菫華の頭をガシリと掴んだ。
「ひっ。」
「何逃げようとしてるの?もう後戻りは出来ないわよ。」
菫華の歯が恐怖のあまりガタガタ震えた。その菫華の様子に瑠璃は頬をゆるめた。
「大丈夫。あなたに酷いことなんてしないわよ。私、あなたの事気に入ってるのよ?昔の私とそっくりで…。」
瑠璃は手の力を抜くと、優しく菫華の頭を撫でた。段々菫華の緊張も解けていく。
「大丈夫。うまくいくから。」
その言葉に菫華は小さく頷いた。
その後、瑠璃のもとへ蓮見の両親から電話がかかってきた。改めてだけど見合いという形で会わないか、という誘いだった。その言葉を聞いたとき、菫華はついつい緩む自分の顔を保たせるのが大変だった。そうして、今日この場所に来たのだった。
本当に蓮見の両親の対応は、初めて会う新藤菫華に対したものではなく、昔から知っている新藤菫華へのものだった。しかし、蓮見はまだ暗示にかかっていないようだったし、蓮見の恋人だという人物の正体も菫華は不満だった。
菫華は蓮見自身のいない会食が終わると急いで家に帰り、自分から瑠璃を呼び出した。菫華が今日の出来事を言うと、瑠璃はクスクスと笑った。
「心配すること無いわよ。すぐに、すぐにあなたの思い通りになるから。あなたは安心して私の言うことを聞いていればいいのよ。」
その自信溢れる瑠璃の表情に菫華はほっと安心し、にやりと笑った。その表情はひどく瑠璃に似たものだった。
*
命たちは蓮見の家のはなれに来ていた。ここに来るのは少し久しぶりだったが、随分今までと違う気配を感じた。命が眉をひそめながらきょろきょろと辺りを見回していると、蓮見が後ろを振り向いた。
「榊、気づいたか?」
「う、うん。どうしたの、この気は。」
はなれ、いや、邸全体が不穏な空気で満たされていた。少し覚えのある気配だ。重苦しく、何だか頭が痛くなりそうだ。しかし、蓮見の部屋に入るとそれはピタリと止んだ。
「3日前からかな、こんな風になったのは。どうにかこの部屋だけは死守しているんだが。ちょうど3日前は俺は家を留守にしていたんだが、その日どうやら来客があったらしいんだ。」
「来客?」
「ああ、その客が来てから親父達の様子が少し変わったって使用人に聞いてな。まあ、とにかく座れ。」
蓮見はベッドの上へと腰を下ろし、私はその向かいのテーブルのある所に頬杖をつき座った。
「その来客って言うのが、着物を着た長い髪の女だったんだそうだが…みんなその女を見るのははじめてだったらしい。なのに、あの疑り深い両親がそいつを家に上げて、更に私室にまで入れたんだ。」
命はそこでピンと来た。もしかして…。
「蓮見、私多分その人が誰か分かった。」
「本当か?」
蓮見が身を乗り出してくる。命は小さく頷いた。
「多分、その女性の名前は瑠璃。さっきその人の気配をほんの少しだけど感じたの。ミコトの巫女の友人の妖狐。」
「ミコトの巫女の友達がどうしてこんなことを…?しかも相手は妖怪なのか?」
命はその人物があの日、海で出会った少女だということ。そして夢の中で見たミコトの巫女と瑠璃さんの記憶の事を話した。
「その瑠璃って妖狐はミコトの巫女の父親に家族、一族全員を滅ぼされて、その恨みでそんなことをしてるって事か?」
「うん…多分そうだとは思うんだけど…」
「けど?」
「分からないけど…でも、何だかそれだけじゃない気がするんだよね。」
何故だかは分からないけれど、もっと更に恨みが入り組んでいるように感じるのは、命の中にいるミコトの巫女の影響からなのだろうか。
「うーん…そうか…。陽なら何か知ってるかな?」
「そうだよね!陽さん、今呼び出せる?」
「どうかな…。前まではよく話しかけたりしてきたのに、何だか最近安定しないというか。」
蓮見は目を閉じて陽さんに呼びかけてみたが、どうやら反応は無かったらしく、静かに首を振った。
「そっか。じゃあ、しょうがないね。今度会ったときに聞かなきゃ。それより、まさか蓮見のご両親にまで…。多分、瑠璃さんは二人に洗脳をかけたんだと思う。」
「洗脳?」
「そういう力を持っているの。妖狐は本当に妖怪の中でも優れた力を持っていて、しかも彼女は九尾の狐。私が思うに、洗脳する力や好きなものに化けたりする力、それ以外にも色々な力をあの人は使い分けることが出来る。」
そこまで言って、命は俯いた。蓮見のご両親にまで迷惑をかけてしまうなんて。全く関係が無いのに…。そんな私の考えていることを察したのか、蓮見は少し眉を下げて笑った。大きな手が私の頭の上に置かれる。
「大丈夫だ。俺の両親の事だったら。」
「でも…。早くしなきゃ…。」
「何もお前一人で背負わなくてもいいんだ。俺も藤家も、陽も光さんだっているんだから。な?」
命が俯いていた顔をあげると、蓮見は太陽のような明るい笑顔で私の顔を見ていた。
両親が巻き込まれ始めて自分だって色々とあるはずなのに…。そんな蓮見を見て、私もちゃんとしなくちゃな、と思った。
「じゃあ、榊。ここで少し整理してみようか。ミコトの巫女が最後に命をかけて封印した妖怪がその瑠璃という妖狐だとしよう。で、そのミコトの巫女を見取ったのが夜琴。夜琴はミコトの巫女を甦らしたいために、結果的にはミコトの巫女を殺したってことになる瑠璃と手を組んでいるのか?」
命はうーん、と唸った。何だかごちゃごちゃしすぎてよく分からないのだ。それに、全て矛盾しているような気がする。
「ミコトの巫女と夜琴は愛し合ってたんだよね。瑠璃さんはミコトの巫女に恨みがあった。でも、それで簡単に事を進めることが出来たのかな?だって、陽さんも光さんも傍についてあるわけだし、ミコトの巫女をどうして守れなかったの?」
「どうやら…俺達にはまだまだ知らないことがたくさんありそうだな。」
二人は大きなため息をついた。何だかヒントが一つくらいしかないクロスワードでも解いているような気分だ。
「あー、ダメだ。全然分からない。」
「まあ、本人に聞いてみるのが一番だろうな。」
「本人?」
「新藤先生のバックについている人物。」
「それって…。」
その時、はなれのチャイムがなった。二人で玄関に行って、蓮見は外にいる人物を覗く。そして、蓮見はのどを鳴らして笑った。
「どうやら、ご本人自ら来てくれたようだぞ?」
「え…。」
「新藤先生のお出ましだ。」
「蓮見!どうするの?」
命は少しあせって蓮見の腕にしがみついた。蓮見はポンポンと命の手を叩いた。
「大丈夫だ。心配するな。俺がうまくやって瑠璃も出させるから。」
「でも…。」
「新藤先生と瑠璃の今の標的は俺だ。今榊もいるとややこしくなるし、危険だろ。お前は帰ってろ。」
その言葉に命は首を横に振った。そんな危険な状況に蓮見だけを置いていけない。それに、もし蓮見も操られてしまったらと考えると…。
「榊、俺を信じろ。」
蓮見は命の肩を掴んでまっすぐじっと見つめて言った。命は首を縦に振るしかなかった。
「良い子だ。向こうにもう一つ外に出られる扉があるから、お前はそこから出ろ。終わったらちゃんと電話するから。」
「蓮見…。」
「さあ、行け。」
蓮見は軽く命の背中を押す。命は最後に振り返って蓮見の顔をじっと見つめた。脳裏に焼き付けるように。
「蓮見…約束して。」
「何だ?」
「私を…忘れないで。」
命がそういうと、蓮見はバカ、と軽く笑い頭を叩いた。
「大丈夫だ、俺を信じろ。」
そう言って微笑んだ蓮見の顔を見てから、命は後ろ髪をひかれる思いで蓮見の家を後にした。だけど一度も振り返らなかった。いや、振り返れなかった。怖かったのだ。蓮見の微笑みが頭の中によぎる。
蓮見が信じろ、と言ったんだもの。きっと、大丈夫。大丈夫だよね?
家に帰ってから命はずっと携帯を見つめ、蓮見からの連絡を待っていた。
しかしとうとうその夜、蓮見からの連絡は無かった。
洗脳
あれから3日経ったが、蓮見からの連絡は無かった。命からも連絡するのが怖くて、何もしないまま時が過ぎていった。もしかしたら、蓮見も瑠璃さんの思い通りにコントロールされているかもしれない。しかも、そのもしかしての割合がかなり高い。
命はついにその重みに耐え切れなくなり、藤家に電話した。途中で泣き出してしまった命に藤家は驚き、すぐに家に飛んできてくれた。
「榊…。」
息を切らしながら藤家が部屋の扉を開けた。藤家はベッドの脇で小さくうずくまる私を見つけた。
「藤家…私、本当に…。」
藤家は何も言わず、ただ頷いていた。言わなくていいよ、とでも言うように。藤家は目の前に腰を下ろすと、命の手を握り、さすった。
「『洗脳』か…。それは恐ろしい力だね。」
藤家は眉をしかめながら呟いた。
「しかもその瑠璃っていう女は、榊を、ミコトの巫女を狙うために動いている。なりふり構わず。どういう風にその力を使っているか…。」
命は想像してゾッとした。蓮見を失うかもしれない。そう思うと、目の前が真っ暗になるようだった。そんな様子を察してか、藤家は少し明るい声で言った。
「大丈夫。何とかなるかもしれない。いや、何とかしよう。とりあえず、怖くても蓮見先生に会いに行かなきゃね。」
「…うん。」
「とりあえずその目冷やさなきゃ…。ひどい顔だから。」
「むっ!ひどいって女の子にそんな事言わないでよ。」
命が藤家を睨みつけ、グーで藤家を軽く殴ろうとした。藤家は軽々とその手を避け、そのくらい元気なら大丈夫だな、と笑いながら言った。
早く藤家に連絡すればよかったのだ。だけど…蓮見のことでは藤家に連絡しづらかったんだ。気がつかないフリをしているけれど、藤家の気持ちはちゃんと分かっている。そうして、私が蓮見をどう思っているかも藤家は気づいているはずだから。でも、その考えは藤家に失礼だったかもしれない。そう思った。
3日ぶりの蓮見の家は、何だかまだそれだけしか経っていない事が信じられないぐらい久しぶりな感じがして、何だかひどく緊張した。チャイムを押す手が震える。
「榊…。」
「大丈夫、大丈夫だから。」
命はひとつ深呼吸をして、チャイムを押した。気持ちとは裏腹に、チャイムの音は明るく響く。しばらくして蓮見が出てきた。見た感じ何も変わらない姿に少しほっとする。
「おっ?榊に藤家。」
「おっ、じゃないわよ!」
命は蓮見の腕をパシンと叩いた。蓮見は大げさに痛そうなそぶりをする。普通だ。
「何だよ急に、痛いじゃねえか。」
「何だよって、蓮見がいけないんじゃない!連絡待ってたのに、全然してくれないから!」
「は?」
蓮見はポカンとした顔で言った。
「連絡?何のことだ?」
「とぼけないでよ!3日前に蓮見が言ったんじゃない。」
「3日前?お前ボケたのか?夏休みに入ってから一度も会ってないのに。」
その言葉に命の顔は固まった。
「そもそも、そういえばお前らなんで俺の家知ってるんだ?企業秘密のはずなのに。職員室にでも忍び込んだのか?」
命は藤家と顔を見合わせる。藤家も暗い表情をしている。
「それに、その顔ぶれ。榊も藤家も隣のクラスだから面識はあるかもしれねえが、何で夏休みに一緒にいるんだ?」
「蓮見…。」
「あっ、もしかしてお前ら付き合ってるのか?」
その言葉に命の心は砕け散った。頭を鈍器で打たれたような衝撃が走る。蓮見の口から言われたあまりにも残酷な言葉。間違いなかった。もう蓮見は瑠璃の策略に落ちてしまっていたのだ。
くらりと眩暈がした。藤家は私を支えるように肩にそっと手を置いた。そこではっとする。
そうだ、ここで諦めてなどいられない。そんな事をしたらそれこそ瑠璃さんの思惑通りになってしまうのだ。
「誰か来たの?」
蓮見の後ろで女の人の声がした。その声は聞き覚えがあって…。
「おい、ちょっと来るな。」
「え?」
蓮見の止める声も聞かずに後ろから現れてきたのは新藤先生、その人であった。
「新藤…先生…。」
新藤先生は命の姿を見ると、鼻で笑ったような顔をした。
優越感を覚えているのだろう。多分、この人は私の気持ちに気づいているから。
「おい、何で出てくるんだろう。生徒にバレるだろう?」
蓮見がため息をつきながら頭をかいた。命は恐る恐る蓮見に聞いた。
「蓮見、新藤先生と蓮見って…。」
蓮見はあせったように口を開こうとしたが、新藤先生は蓮見の背中をポンと叩いてそれを止め、代わりにニッコリ笑って口を開いた。
「お付き合いしてるの、私と蓮見先生。」
そう平然と言ってのける新藤先生に命は恐ろしさを覚えた。ショックでないといえば嘘になるが、それが蓮見の本当の気持ちではないと知っているから。そうだと分かっていても、照れたように新藤先生に向けられる蓮見の表情は甘いもので、心がざわざわとして、気分が悪くなった。
「大丈夫よ、陽杜。榊さんも藤家君も話したりするような子ではないわ。そうでしょう?」
「ああ、そうだな…。この二人なら大丈夫か。」
ああ、新藤先生、蓮見のこと陽杜って名前で呼んでいるんだ。そうだよね、嘘だとは言え、恋人同士だもの。いや、現実には真実になってしまっているけれど…。
命は泣きそうになるぐらい怒りで震えた。多分、顔は今真っ赤だろう。ひどく醜いものだろう。
だって、3日前にはその隣には私がいた。名前を呼んでいるのは私だった。その微笑を向けられていたのも私だった。私だったのに!
「榊さん?顔が赤いようだけど、大丈夫?」
理由が分かっているはずなのにさぞ心配そうに顔を覗き込んでくる新藤先生に、更に顔がカッと赤くなるのを感じた。行き場の無い怒りで全身が震えていた。
「い、…いつから付き合っているんですか?」
新藤先生はクスリと笑って、蓮見のたくましい腕に細い腕を絡めた。
「本当に最近なのよ?ちょうど夏休みが始まったくらいかしら。」
3週間前…。私たちの周りが動き出したときだ。ちょうど、私や藤家、そして過去に関わった頃の記憶が書き換えられてしまっているのだ。それが分かった。
命は縋る様な目で蓮見を見つめた。いつも命が見つめると、見つめ返してくれる筈のあの優しい目は、命を見てはくれない。ただ、新藤先生だけを見つめている。居たたまれなくなった。もう立っていることもやっとなのだ。
「蓮見は…新藤先生のことが好きなん…ですね?」
震える声でやっとのことで言葉を紡ぐ。蓮見の顔をまっすぐ見つめると、蓮見はすっかり緩んだ顔で、ああ、と一言頷いた。
その瞬間、頭は真っ白になり、蓮見との思い出が一気に頭を駆け巡っていった。無意識のうちに目からは涙がこぼれた。
「おい…榊?」
蓮見の心配そうな顔が目に入って我に返る。そして乱暴に腕で目をこすった。
「す、すみません…私、帰ります。」
「榊!?」
命は踵を返して走り出した。蓮見は手を伸ばそうとしたが、新藤先生によって止められる。それよりも前に、藤家が走り出していたから。
「榊!」
藤家の手が命の手首を掴む。涙は止まることを知らず、勝手に流れ落ちる。そんな顔を見られたくなくて、顔を背ける。
「私、ダメ。耐えられない。」
「でも、ここで逃げたらそれこそもう戻れないよ。」
「でも、嫌なの!見たくないの。」
藤家の手を振り払おうと腕を振り上げるとパシンと乾いた音が響いた。ハッとして藤家の方を振り返ると、藤家の頬は赤くなっている。
「あ…私…。」
藤家を叩いてしまった手を握り締める。
「――っ、ごめん。ちょっと、頭冷やすから。」
そう言って、命はまた藤家に背を向けて走り出した。叩いた手が痛く、心も痛かった。
蓮見は半ば呆然と命が走っていったあとを見ていた。何故命が涙を流したのかは理解できなかったが、胸の奥がズキズキと痛んだ。可愛い教え子の涙を見るのなんて気持ちの良いものではない。しかも、蓮見自身命のことを特別気に入っていることは自分でも自覚していた。だけど、それでもやはり何だか心の中に違和感があった。
命と藤家の二人の仲の良さそうな姿を見たとき、蓮見は何ともいえない気持ちに襲われたのだ。
ぐっと胸が締め付けられるような。何故、たかが生徒にこんな気持ちを抱かなくてはいけないんだろうか。
「陽杜?」
菫華の声に蓮見はハッと我に立ち返る。
「眉間にしわ寄ってるわよ?大丈夫よ、心配しなくても。あの年頃の子は色々あるんだからね。」
「ああ、分かってる…。」
すると、向こうから藤家が戻ってくる姿が見えてきた。近くになるにつれてよく分かったが、その綺麗な顔の頬には赤いあとがついていた。
「あら、藤家君、その頬どうしたの?大丈夫?」
藤家は横目で菫華のほうをチラリと見やると、ええ、と小さく呟いた。
「藤家…榊は、大丈夫なのか?」
蓮見がそう聞くと藤家は少し寂しそうな表情をした。
「大丈夫です。それより先生、話があるんですけど、いいですか?」
「ああ、いいが。」
藤家は睨むようにしてジロリと菫華のほうを見た。その静かな威圧感に菫華は少し身じろぐ。
「新藤先生、俺、蓮見先生に二人だけでお話したいことがあるので、すみませんが席をはずしてもらってもいいですか。」
その言葉遣いは丁寧なのだが、有無を言わさぬ迫力があった。それは、いつも無気力に沈んでいるその瞳が、今は意志を持って強く輝いていることにあるのだろう。菫華は頷くしかなかった。
「じゃあ、陽杜。私、今日はもう帰るわね。」
「ああ、すまないな。」
「いいの。それじゃあ、藤家君もさようなら。」
菫華はにこやかに藤家に会釈をしたが、藤家はそれに返さなかった。ただただ、冷たい目で菫華の方を見ていた。すべて見通しているかのように。
藤家は蓮見の部屋に入って、そのあまりのいつも通りさに、かえって切なくなった。
「ほら、飲め。」
蓮見は藤家につめたい麦茶を出してきた。藤家は軽く頭を下げて口をつけた。その様子を蓮見はじっと見つめていた。あまりに観察するように見てくるので、さすがに藤家もやり切れなくなり、少し眉をひそめた。
「あの、何か?」
「ああ…何か、お前、変わったなと思って。」
「変わった?俺がですか?」
「まあ、俺は授業でしかお前を受け持ったことが無いから何とも言えないけどな。何か、開いたって言うか…うーん。とにかく何だか人間らしくなったって言うか。」
その言葉に藤家は少し表情を和らげた。
「だとしたら、先生。それは先生と榊のおかげですよ。」
その言葉に蓮見は首をかしげた。それはそうだ。藤家と関わったこの三週間ばかりのことを全く覚えていないのだから。
「まあ、深く考えないでください。とにかく、感謝しているんですよ、先生。」
そう言って藤家は目を細め、また麦茶を口にした。蓮見はただ、そうか、と呟くことしかできなかった。ただ、蓮見の心の中に何か引っかかったような思いがした。それは、藤家によるものであるのだが。
藤家は、自分の力を自覚してからというもの、命のように密かに光と訓練を重ねていたのだった。自分のエゴで使うのではなく、自分の大切な人を守るために。
そして今、自分の大切な人が苦しめられている。命のことはもちろん、蓮見も藤家にとって心の許せる大切な存在だった。そして、二人のことを良く見ている藤家だからこそ、二人が互いにどういう気持ちを抱いているかも分かっていた。この状況を利用して、命のことを手に入れることはもしかしたら可能かもしれない。だが、藤家はそうは考えられなかった。昔の藤家なら、綺麗ごとだと言って鼻で笑い飛ばしそうだが、ただ藤家は命の幸せを祈っていたのであった。
「先生は、本当に新藤先生を愛してるんですか?」
藤家は、声を媒介にこそしているが、それと同時に直接心にまで畳み掛けていた。蓮見の心には藤家の言葉がきちんと響いているだろうか。藤家は無理やり蓮見の記憶を取り戻させることは出来ないが、そのきっかけを作ろうとしていたのである。
「藤家?急にお前、何を言い出すんだ。」
蓮見は急に突飛な事を言い出した藤家にギョッとした。そういう色恋沙汰の質問をするタイプには思えない。しかし、その目は真剣で、とてもからかっているようには見えなかった。蓮見は一つため息をもらして答えた。
「ちゃんと好きだから付き合ってるんだよ。」
「そうですか。」
意外にもあっさりと藤家が引き下がったので、少し蓮見は拍子抜けしてしまった。
「いやね、俺は先生はもしかしたら榊のことが好きなんではないか、と思っていたもんだから。」
その言葉に、ちょうど麦茶を飲んでいた蓮見は噴出した。
「な、一体何を!?……はあ、大体榊は生徒だろう?」
「でも、目に見えて贔屓していましたんで。」
「いや、まあ確かに、榊のことは特別可愛がってるとは自分でも分かってるが。でもそれが恋愛と絡んでいるかといわれたら、それはまた別…。」
その時、蓮見は自分の心に何か突っかかっているようなものを感じた。一度気づくと、何だか少し気持ちが悪く、不快な思いだ。蓮見が顔をしかめて首をかしげながら胸のところを押さえているのを見て、藤家は立ち上がった。
「そういう思いが無いのならいいんです。」
「藤家?何だ、もう話は終わったのか?」
「ええ、正直先生にはガッカリです。」
藤家は真っ直ぐ蓮見の目を見ていた。あまりにも真っ直ぐ見るものだから、何だか心の奥底まで覗かれている気がして蓮見は少し恐怖を覚えた。
「ガッカリ…だと?」
「はい。」
藤家は悪びれもせずそう言ってのけた。
「蓮見先生になら、榊を譲ってもいいと思っていましたんで。」
その言葉に蓮見は眉間のしわを濃くした。
「…藤家は、榊のことが好きなのか。」
「はい。でも、先生には関係ないでしょう?榊は先生にとってただの生徒なんだから。」
その通りなのだが、蓮見は何ともいえない怒りを感じた。ほかでもない、嫉妬の気持ちだ。そんな感情を抱いている自分を、蓮見は理解できなかった。自分でも分かっているが、同時に二人もの人物を愛せるほど器用な男ではないからだ。
「でもまあ、榊の気持ちは別ですけど。」
「どういう事だ?」
「榊が先生に対して持っている気持ちは、もしかしたら先生が思っているものと違うかもしれませんよ、という事です。」
そう言って藤家はニヤリと笑った。
「…仮にそうだとして、お前は榊のことが好きなんだろう?どうしてそんな事をわざわざ俺に言うんだ。」
「別に、先生に対して言っているわけではないですよ。いや、先生に対してですけど、今目の前にいる先生に対してじゃありません。」
蓮見は本当に訳が分からなくなった。自分はからかわれているのだろうか。
眉間にしわを寄せて首をかしげる蓮見に藤家はついプッと噴出してしまった。
「まあ、俺の信じている先生だったら自力で理解してくれるでしょう?俺が見ている限りで、先生があの人を思っている気持ちは俺以上ですからね。それは認めますよ。それに、やっぱり俺は先生をまだ信じていたいんです。そんな事で負ける先生ではないと。」
藤家は優しい眼差しで蓮見の方を見ていた。その目は教師を見る目というよりも、同志を見るような目で…。信頼の色を映し出していた。
「それでは先生、お邪魔しました。俺これからちょっと榊と仲直りに行かなきゃならないんで。」
藤家は軽く頭を下げると、静かに部屋を出て行った。残された蓮見は非常に混乱していた。
その混乱の末に真実を見つけられるのだろうか。
『月音ちゃん。』
藤家の頭に優しい声が響いた。
「何だ、光。」
幸い他に人もいないので、藤家は小さな声で答えた。傍目からは藤家が独り言を言っているように見えてしまうため、藤家が光の呼びかけに答えるのは一人のときのみだった。
『あの力の使い方は正しいよ。人のためになる使いかただ。しかも、手助けするという形の。…優しいね。』
「でも、あれが本当に蓮見先生と榊のためになるんだろうか…。」
『この後は本人次第だからね。でも、月音はすごいな。昔の私もそういう優しい使い方が出来ればよかったのに。そうすれば、何かが変わったかもしれないのに…。』
「光…?」
そう呟く光の声は弱々しく、悲しそうな響きを持っていた。
『……いや、何でもないよ。これから命ちゃんに会いに行くんだろう?どうするの?』
「どうするって…。」
『傷心の命ちゃんに付け込んだりしちゃうの?』
軽い口調で言ってくる光に、藤家はフッと笑った。
「さあね、俺のやりたいようにやるよ。」
『何だ、月音。私に教えてくれないのか?』
「教えないよ。こればっかりは、俺一人の心の問題だからね。それに、俺自身もこれから何をしにいくのか良く分かっていないから。」
しかし、藤家の足は真っ直ぐ命の家へと向かっていた。
言霊ニ宿ル想イ
あれからどうやって家に帰ってきたか、よく覚えていない。命はベッドの上に寝転がり、枕に顔を押し当てていた。心が苦しかった。藤家を叩いてしまった手も痛かった。
自分でも、ここまで蓮見のことを想っていたとは思わなかった。今まで好きな人が出来たことがないわけではなかったが、こんなに苦しいものではなかった。一方的に相手を見てはしゃいだり、楽しい記憶しかない。結局告白したりなど、一歩踏み出すことをしなかったからだ。
いつからこんなに想っているのだろう。少なくとも、夏休み前までは担任という意識でしかなかったはずだ。でも、本当に、この夏休みの間で命の周りも、心も、目まぐるしく変わっていってしまったのだ。
どうして逃げてしまったのだろう。
それが一番悔しかった。好きなら、足掻けばいい。何もしないほど楽な事は無く、卑怯な事も無い。
その時、コンコンと部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「榊、入ってもいい?」
遠慮がちな藤家の声が聞こえてきた。
「…どうぞ。」
かすれた声で命は答えた。部屋に入ってきた藤家は、何かを決心したように真っ直ぐ命の目を見つめていた。
「随分泣いたね。」
開口一番のセリフにそこかよ、と突っ込みたくなって少し表情を緩めた。
「ひどい顔だよね。あーあ、こんなに泣いたの生まれて初めて。」
クスクス笑うが、自分でも顔が笑っていないことに気づいた。藤家は少し眉をひそめて命に近づき、ベッドの端に腰を下ろした。命も起き上がり、藤家と少しだけ間を空けて座る。藤家の頬は少し赤くなっていて、そこにそっと手を伸ばした。
「ごめんね、ここ。」
「ああ…。」
藤家は頬に触れている命の手の上に手を重ねた。珍しく熱い手に少し驚く。
「大丈夫だよ。ちゃんと榊のことは分かっているつもりだしね。」
そう言って藤家は目を細めた。その言葉に少しだけ心が軽くなる。
「藤家…蓮見と話した?」
「うん。」
「そう…。藤家はえらいね。私なんか逃げちゃって…そんなんじゃ駄目なのにね。」
藤家は何も言わなかった。
「私…蓮見のことが好きなの。」
こんな事を言うのは藤家にとっては残酷かもしれないが、自分の正直な気持ちを話したかった。真剣に想ってくれる藤家に対して、命も誠実でいたかった。
「うん。」
藤家は優しげな表情で頷いた。
「やっぱり…気づいてたよね。」
「…まあね、榊のことは良く見ているし。それに、結構分かりやすいからね。」
「そっか…やだな、何か恥ずかしい…。蓮見も気づいていたのかな?」
「…さあね。気づいていたかもしれないけど、気づかないフリをしていたかもしれない。」
その言葉に心がズキリと痛んだ。藤家は少し困ったように笑っている。
「全く、榊も先生も似た者同志だよね。」
「どういうこと?」
藤家はそれは内緒、と言って笑った。命はその横顔を見ていた。こう近くで改めて見ると、何だか藤家格好良くなった。いや、前から格好良かったのは良かったのだけれど、さらに磨きがかかったと言う感じだ。命の視線に気がつくと、藤家は目を細めてこちらを見つめ返してきた。そう、こんな表情しなかったもの…。
「榊…。」
「何?」
柔らかな表情を藤家は浮かべていたが、その目は真剣で、命の目を真っ直ぐ見つめていた。
「榊のこと、好きだったよ。」
好き『だった』
その『だった』と言う言葉に、藤家の優しさが溢れていた。藤家の気持ちが伝わってきて、もう乾いていたはずの涙が静かに流れていった。
「何だよ、何で泣くんだよ。」
「ごめ…。」
「ごめんとか言わないでよ。」
藤家は眉を下げ、そっと私の頬に流れる涙を指ですくった。命はその手をぎゅっと掴んだ。
「藤家…ありがとう。」
命は藤家に微笑んだ。藤家の気持ちは嬉しかった。この短い間だけでも、藤家からのその気持ちで実はどれだけ助けられていたか。
「そう、その言葉が聞きたかった。」
そう言って笑う藤家は、今までの中で一番綺麗だった。
「ねえ、知ってる?いつから俺が榊のことを好きかって?」
「え…。」
「榊と神社で会って花を渡した時からだよ。」
藤家はさらっと言ってのけたが大いにビックリした。あまりに驚いたので、涙もまた引っ込んでしまった。言葉も出ない。だって、それって、出会った日じゃん…。
「榊、俺が何の花をあげたか覚えてる?」
「も、もちろん覚えてるよ。桔梗の花でしょう?」
「そう…俺のもう一つの名前の花。うちの家系って代々源氏名が花の名前なんだ。誕生花だったりね。それで、異性に求婚するときは自分の名前の花を渡すんだ。」
「へえー……って、求婚!?それって…。」
プロポーズじゃん。そして私その花受け取ったじゃん。その日にあった人にそんな事しちゃうなんて、あなたって一体…。
「まあ、あの時はそこまで深く考えてなかったんだけど。いや、やっぱり心の中ではどこか思っていたのかな?」
「はあ…本当、藤家って変…。」
「どうも。あの時榊、桔梗の花言葉一つだけ思い出せなかったね。」
「んー、そうだっけ?」
「そう。今なら教えてあげる。桔梗のもう一つの花言葉。」
藤家は私の手を取って、両方の手で挟んだ。藤家の体温の低い手から、優しい気が流れ込んでくる。藤家は少し伏せていた目をゆっくりあげて命の目を真っ直ぐに見つめ、微笑みながら口を開いた。
「『変わらぬ愛』」
その瞬間顔が真っ赤になった。先ほど藤家が真面目に告白してきたときよりも動揺が激しい。
「藤家!それはキザ!キザすぎるよ!」
キザなのに似合ってしまうのがどうしようもない。笑ってごまかせない。
「大丈夫、分かってるよ、榊が蓮見先生のことを好きなのは。だけど、まだ俺が諦めなくちゃいけない理由にはならないでしょう?人が誰を好きになろうと、それはその人の自由なんだから。」
はい、その通りです。反論なんか出来やしない。ただ口だけがパクパクと情けなく開閉している。
「……でもね、別に俺は榊の邪魔をするともりはないよ。むしろ応援するくらいだ。きれいごとだと自分でも思うけど、本当に望んでいるのは榊の幸せなんだから。」
「藤家…。」
藤家はポン、と命の肩を叩いた。
「俺は言ったよ。自分の気持ちを素直に。だから、今度は榊の番なんじゃない?人の言葉は言霊となって人の心に届くんだから、もしかしたら蓮見先生を救えるかもしれない。それに、榊にとってもいい事だと思うよ。」
命はコクンと頷いた。
「それで振られたら俺のところに来ればいいよ。まだまだ俺は榊のストーカーだから。」
「藤家!」
命は軽くげんこつで藤家の頭をなぐった。
だけど、藤家のおかげで決心がついた。このままくすぶってはいられない。ちゃんと言おう。私は心に固く決心した。
それから数日間、毎日身ころはは携帯を前にして唸っていた。なかなか電話する勇気が出ないのだ。かけようとしては携帯を置き、また置いては携帯を手に取るという動作を一日中繰り返していた。自分でも驚くほどの根性の無さである。
しかし、ついに3日が過ぎた後、やっと電話をかける決心がついた。初めは直接蓮見の家に押しかけようと思ったけが、また新藤先生に会うのが怖かったのでやめた。取り敢えず電話で呼び出すことにしたのだが。
「うー…よしっ!」
命は意を決して蓮見に電話をかけた。呼び出し音が耳元で鳴り響き、心臓がバクバク言っている。
告白がうまくいくとは到底思えない。学校に戻れば私たちは教師と生徒である。更に今の蓮見はこのな夏の事を忘れているし、それに…新藤先生がいるし…。昨日見た二人の姿が頭に浮かんだ。ズキリと心が痛んだが、もう後戻りはしないと決めたのだ。
『…もしもし?』
蓮見がいつもより少し弱ったような声で電話に出た。でもその時の命はかなりテンパっていたので、そんなことには気がつかなかった。
「も!もしもし!」
変に力んで大きな声が出てしまった。いつもは笑ってからかってきていたのに、今はそれもない。
『榊…?あれ。俺、お前に番号教えたっけ。ああ、でも名前が出たから俺もお前のを登録してるんだよな…。覚えてないけど…。』
「蓮見…。」
蓮見の声にはいつもの覇気がなかった。
『俺…何だかおかしいんだ。最近の記憶が確かでないと言うか、違和感があると言うか…。現に今も生徒であるお前にこんなプライベートな事を相談したりして。』
彼のなかで何か抵抗のようなものが生まれはじめているのだろうか。蓮見はそれに苦しめられているが、命にとっては小さな希望だった。
「蓮見…聞いてほしいことがあるの。今、いい?」
『ああ、どうぞ。』
「じゃなくて!…直接会って話したいんだけど。」
『……分かった。どこに行けばいい?』
「じゃあ、いつもの岩の所で待ってるから。」
しまった。
蓮見は覚えていないんだから、そう言ったって伝わらないはずなのに。
『…分かった。』
「え?」
『お前の家の近くにある岩の事だろう?』
何で…何で知ってるの?
蓮見が命の実家のことを知ったのは蓮見が記憶をなくしているはずの夏休みの間の出来事だ。その時、蓮見は命の本当の瞳を見ている。そこから始まったのだ。
『おい…榊?』
「あっ…。」
『どうかしたのか?』
「…蓮見、私の家のこと話したことあったっけ?」
『何言っているんだ?あの夜会って…。』
そこで蓮見の声が途切れた。あの夜…紛れも無く蓮見はそういった。
『あの…夜…?』
「蓮見、大丈夫?」
「あ、ああ…まただ。また、こう…記憶があいまいでぼやけていると言うか…。』
「思い出せる?私がどんな格好をしていたか?あの夜、蓮見が何を見たか…。」
『あの…夜…俺は…』
蓮見が小さくうめく声が聞こえる。
「蓮見!?」
『っ…ああ、ごめん、大丈夫だ。じゃあ、岩のところでな。』
「う、うん…。」
そうして電話は切れた。本当に蓮見は大丈夫だろうか。命は携帯を胸に抱きしめた。
岩のところに背を預けて待っていると、しばらくして蓮見がやって来た。いつも健康的で快活な顔は、今少しやつれているように見えた。この間会ったときはそんなでもなかったのに…。
「悪い、少し遅くなった。」
「ううん、私こそいきなりごめん。それより、蓮見大丈夫?顔色悪いよ?」
命がそう言うと、蓮見はああ、と呟いて眉をひそめ頭を掻いた。
「生徒に気にされるほど分かるか。まあ、ちょっと最近色々あってな。あいつと喧嘩しちまって…。」
「あいつって…新藤先生?」
蓮見は苦笑いした。その表情には少しいらつきも見えている。そんなに喧嘩したのだろうか。
「何で?…この間ははあんなに…仲が良かったのに…。」
蓮見は一つため息を落とすと、岩へと寄りかかった。
「知らねえよ。お前たちが帰った後、また急に押しかけてきてわめき散らし始めたんだから。何を話してたんだって、私から離れるのかって、それはまあ、ヒステリックに……おっと、こういう事は生徒に言う話じゃないよな。全く、教師が生徒にこんなプライベトな話をするなんて…。我ながらどうしたんだろうな。」
蓮見は肩をすくめながら言った。その話も気になるが、命は先ほどからある言葉が胸につっかかっていた。何度も不自然に繰り返される言葉。
「蓮見…何度も私のことを生徒って言ってるね。」
「は?だってお前は俺の生徒だろう。」
「それはそうだけど、何だか無理に使っている感じがする。」
それまで少しヘラヘラ笑っていた蓮見だったが、命がそういった瞬間怖いくらい無表情になった。やっぱりそうか、と命は確信がついた。
「蓮見、私を引き離そうと思ってわざわざそう言っているでしょう。私の気持ちも、どうしてここに呼び出されたかも分かってるんでしょう。私だって馬鹿じゃない。だから、分かる。でも、蓮見は分かっててここに来たんでしょう。」
汚い大人だ。
そう思った。
だけどそんな面を見てもなお、気持ちは変わらないし、引くつもりは無い。どんなに蓮見がこれから命が言うことに少し恐怖を抱いていても、悪いけど言わせて貰うのだ。蓮見も気づいているのかもしれない。命がこの言葉を言ったら、自分の中で何かが変わってしまうだろうということを。そして命はそれを期待しているのだ。少しでも本当の蓮見の心に命の言葉が届くようにと。
「蓮見、私、蓮見のことが好きなの。」
命がそういった瞬間、蓮見の瞳はぐらついた。分かってはいたもののだいぶ動揺しているようだ。あんなに言うまでは緊張していたと言うのに、今は自分でもびっくりするぐらい心が穏やかだった。多分、答えが分かっているからだろう。少なくとも、今の蓮見の答えは…。
「気持ちは嬉しいが…。」
「生徒にしか見えないって?」
命が先回りして言うと、蓮見は罰が悪そうに少し目を伏せた。命はその様子を見てため息をもらしつつ苦笑した。
「生徒だからと言う理由だけ?そうしたら私が卒業すればいいの?」
「…俺には…。」
「新藤先生がいるって?本当にそうなの?蓮見が好きなのは本当に新藤先生なの?」
その言葉に蓮見は命の肩を掴みかかった。顔を赤くして命を睨みつけてくる。
「そうに決まってるだろ!何なんだ、昨日から、藤家も、菫華も、お前も!どうしてそういうことを…。」
「……そんなことがあるわけないなら、どうして蓮見はそんなに動揺しているの?」
掴まれている肩は痛く、熱いが、命の心は冷静だった。いつも以上に冷静だった。まるで観察でもしているかのように、命は蓮見のことを見ていた。蓮見の手の力がゆっくりと抜けていき、だらりと下がった。
「蓮見も、気づいているんじゃないの?」
力なく、蓮見は地面を見つめていた。
私の言葉はちゃんとこの人に届いているのだろうか?
「もし…もし、本当のことを思い出せたら…。」
「思い出す?」
蓮見は力なく命の言葉を反復した。そうだ、この人は記憶が奪われていると言う意識が無いのだった。
でも、いい。私は蓮見に話しているけれど、私が本当に好きな蓮見に向かって話しているのだから。
「そう。思い出せたら。もう一度、答えを教えて欲しい。私、待っているから。信じているから。」
命は蓮見の目をじっと見つめていった。あの奥には綺麗な空色の瞳があるのだ。雲ひとつ無い青空のように澄み切った瞳が。命はそうして蓮見に背を向けて家のほうへと歩き始めた。
「榊!」
蓮見が弱々しくも、大きな声を出した。命は静かに振り返る。
「その気持ちは、ただの憧れなんじゃないか?」
そう言ってくれ、と言わんばかりの表情だ。
「そうだったら、こんなに苦しくないのにね。」
自然と笑みがこぼれた。笑う場所ではないはずなのに。蓮見の瞳が驚きで大きく開かれた。命は軽く会釈すると、また蓮見に背を向けた。
振られてしまった…。
分かっていたことだからそれはいい。
ただ、蓮見に自分の言葉を届けることが出来たか、それだけが気がかりだった。
どうか…
そう願うことしか命にはもう出来なかった。
蓮見は命の後姿を呆然と見つめえていた。最後のあの微笑が、脳裏に焼きついて離れない。思い出すと胸が締め付けられるようだ。生徒にあんな顔をさせてしまったからだろうか。それとも、相手が榊命だったからだろうか?
「はあ…。」
蓮見はため息をつき、岩へともたれかかった。
そういえばこの場所…。
蓮見ははっと気がついた。
俺は、この場所に一度も着たことが無いはず。それなのに、どうして榊がいつもの場所でと言ったときにこの場所がはっきりと頭に浮かんだのだろうか。それに、いつもの場所って、俺は榊と学校以外であったことはないはずなのに。いや、でもあの時一瞬頭によぎった光景。夜に、あの場所で榊と会っていた。でも詳しい記憶はないし、夢みたいにおぼろげだ。
一つ気がつくと、次々と蓮見は自分の周りの矛盾に気がつき始めた。
それに菫華と、俺はどうして付き合うことになったのだろうか。学校では同じ数学の教師だからそりゃあ、色々と話したことも会ったし、向こうから色々と相談を受けたこともあった。だけど、そこまで親しかったわけではない。プライベートで一緒にどこかに行ったことも、誘われたことはあったが食事にだって一度も行ったことがない。菫華に告白された覚えもないし、自分からした覚えも無い。それなのに何故…。
蓮見はゾクリと身震いした。訳が分からなかった。自分の周りのものが全て嘘のように思えてきた。
「と、とりあえず帰ろう…。」
菫華が午後から来ることになっている。色々と話し合わなければならないことや、確認しなきゃならないこともあるし…。
蓮見は先ほど命が歩いていった道を下っていった。
家に着き、部屋の扉を開けると、机の上に花瓶に生けられた花が目に入った。こんなものあっただろうか。新藤が早めに来て活けたのだろうか?いや、そんなはずはない。それに新藤の姿は見当たらない。じゃあ、一体誰が…?
蓮見は花瓶を持ち上げて見た。色鮮やかな可愛らしい花々が活けられている。その中で、蓮見は一つの花に目を奪われた。
青い花…。自分の瞳の色と同じ…。
「花なんて柄じゃねえけど。ん?これは…。」
机の上にあるメモが目に入った。花瓶の下に置かれていたのだろう。蓮見は静かに花瓶を置き、メモを取り上げて見た。綺麗な字で筆のようなもので書かれている。何と古風な…。
メモにはこう書かれていた。
『私からの些細な贈り物です。あなたの本当に愛する人は誰ですか。本当にその人が真に思っている人ですか。もう一度自分に問いかけてごらんなさい。』
「……何なんだ、意味分かんねえな。」
それだけで終わりかと思いきや、裏にも言葉は続いていた。
『あなたの瞳と同じ花』
その文字を見た瞬間蓮見はドキリとした。自分の本当の瞳のことを知っているものは少ないはず。新藤にもそのことは伝えていないのだ。それなのに、誰だかわからないこの花の送り主は蓮見の秘密を知っているのだ。
『その花の名前は勿忘草。花言葉は…』
「花言葉?」
その言葉に蓮見は鼻で笑ってしまった。花言葉なんてそんな乙女チックなものを書いてきたこの送り主に少々引き気味なのだ。しかし、そんな考えも次の言葉で遮られた。
『真実の恋
真実の愛
私を忘れないでください』
「私を…忘れないで?」
その時、蓮見の頭の中で映像が流れた。目の前に命がいる。蓮見の家から出ようとしているところだ。背中を押して、送り出そうとしている。しかし、命は振り向いた。まるでこれが最後だと言わんばかりにじっと見つめ、泣きそうな、縋るような目で言ったのだ。
『蓮見…約束して。私を…忘れないで。』
次の瞬間、蓮見は急いで家を飛び出していた。
向かう場所はただひとつ。
向日葵ノ手
家に帰る石段を登っていくと、見えて来た人物に命は驚いた。
何でこの人がここに…?
「新藤…先生…。」
新藤先生は鳥居に寄りかかって俯いていたが、命に気がつくと顔をあげた。その表情は先ほどの蓮見よろしく三日前あった時には幸せそうな表情であったのに、目にくまはでき、顔は少し青ざめていた。どう見ても幸せいっぱいの顔には見えない。蓮見がヒステリックと形容していたが、確かに、その顔は何だか取り付かれたもののように狂気染みていた。いや、実際に取り付かれているようなものだが。
「あの、どうしてうちに…?」
命がそういうと、新藤先生はユラリと鳥居から身を起こし、近づいてくる。じっと命を見つめ、ゆっくりと歩んでくるその姿にぞっとし、思わず二、三歩後ずさる。新藤先生の手がニュッと伸ばされたかと思うと、命の腕をガシリと掴んだ。でも、力強くつかんだのは始めの一瞬だけで、その後は弱々しい、縋りつくようなものだった。地面をひたと見つめ、か細い声で言葉を紡ぐ。
「どうして…?どうして…陽杜は私のものにならないの?」
「え?」
「あなた達、一体何をしたの?あの女の言っていたのと違うじゃない。あの女は、自分の言うとおりにすれば手に入るって…。だから…私…。」
命は異常に震える新藤先生の肩へと手を置いた。この人に恨みが全く無いわけではないが、彼女も利用されているうちの一人だと言うことをしっているから。新藤先生は顔をゆっくりと上げ、ニタリと笑った。その表情には見覚えがある。命は咄嗟に身を離そうとしたが、それよりも早く新藤先生の手が肩をグッと掴む。
「な…何で。…瑠璃さん?」
先ほどの弱々しい新藤先生の声ではない笑い声が、その体を震わしながら地面を這うように伝わってきた。
「は、放して…。」
「痛い?」
命の肩に爪を立ててくる瑠璃さん。体は新藤先生なのだが、その目はつり上がっていて狐のようだ。
「この女はね、私と契約したのよ。なのに、いまさら逃げようとするなんて…あなたのせい?」
一層力がこめられ、思わず顔をしかめる。その表情を見て満足したのか、瑠璃さんは手を離した。それでもまだ肩にはあの爪の感触が残っていて、火傷のように痛む。
「ああ、本当に腹が立つほどそっくりね。顔も、性格も、行動も…。どうしてこの女に蓮見陽杜をとられたのに、無理やり奪い返しに来ないの?あなたの気持ちは所詮、その程度なんでしょう?」
命は力いっぱい瑠璃さんを睨みあげた。
「どうして、新藤先生の中にいるんです。」
「さっきも言ったでしょう?頭悪いわね。」
そう言って瑠璃さんは自分の手の甲を命に向けた。そこには刺青のような花の絵が浮かび上がっていた。
「単純なこの女は代償が無いだなんて言葉簡単に信じたけど、そんなわけないじゃないの、ねえ?この花のしるしを持ったものは、もう私から逃げられないんだから…。」
「な…っ。」
そう瑠璃さんが言った瞬間、その表情が醜く歪んだ。怒りと悲しみと絶望と…。これは、新藤先生だ。
「瑠璃!私を騙したのね!」
金切り声をあげて新藤先生が叫ぶ。
「騙されるほうが悪いのよ。」
サッとまた表情が変わり、見下したような笑みを浮かべる。傍目では新藤先生が一人で言い争っていて不気味に見えるが、確かにこの体には二人いる。ゾッとした。心底。
「あ……あなたのせいよ!」
急に新藤先生の怒りは命のほうへ向いた。命に飛び掛るようにして、鳥居に叩きつける。ガンッと鈍い音がする。ここは家で神社の中だが、ちょうど今日は両親共に出かけていて助けてくれる人はいない。新藤先生の手が首に触れる。震える手で、力をこめてくる。命はそれを必死で掴み、放そうとする。
「あなたのせいで!こんな筈じゃなかったのに!あんなに苦しい思いをしなくてもすんだ!陽杜は、結局私を見てくれない!」
新藤先生は涙を流しながら、焦点の定まらない瞳で命の顔をぼんやりと見つめた。もう正気ではない。
「あなた、あの時、陽杜の隣に座っていた女?そうでしょう?驚いた、ただあなたの片思いかと思ったら、陽杜の恋人だったのね?」
あの時とは、見合いの席でのことだろう。さらに一層新藤先生の手の力は強まり、酸素を求めて呼吸が荒くなる。
「先生…それは…。」
「どうして、あなたが…。」
生理的な涙により視界がかすみ、意識が遠のいていく。そんな中で先ほど振られたばかりだと言うのに未練がましく思い浮かぶのは、他でもない蓮見の笑顔だった。苦しいときも明るくなれるあの笑顔。また私に向けてくれる時はあるのだろうか。
「榊!」
意識が落ちる中、遠くで蓮見の声が聞こえたような気がした。
蓮見は命の家へと向かっていた。何度か行った事のある命の家。石段を登っていくと、何やら争っているような声が聞こえてきた。慌てて駆け上ると、新藤が命の首に手をかけているのが目に入った。
「榊!」
命の体はグラリと崩れ、その場に倒れた。新藤は呆然とした顔で蓮見の方を見た。すぐに顔が真っ青になり、震える足取りで蓮見の方へと近づいてきた。
「ち、違うの、陽杜。さ、榊さんが私を、脅して…それで…。」
「榊!」
蓮見は縋りつくように手を伸ばしてくる新藤を通り過ぎ、命の方へと駆け寄った。顔色が悪かったが、気を失っているだけのようでひとまず安心する。
「陽杜…?どうして、その子の、榊さんの方へと行くの?」
蓮見はゆっくりと新藤を振り返り驚いた。もはやいつも健康的で可愛らしい新藤菫華の姿はそこにはなく、やせ細り、狂気の目をした女がそこにいた。
「新藤先生…。」
蓮見がそう呟くと、新藤はハッと息を呑み、首を横に振りながら後ずさった。
「何で…。」
「思い出したんですよ、新藤先生。」
蓮見は立ち上がり、新藤を真っ直ぐ見つめた。かわいそうなぐらいに新藤の全身は震え、青ざめている。
「いや…。」
「新藤先生、一体どうしてこんな事を…。」
「いや…。」
「新藤先生。」
「いやああ!」
新藤は頭を抱えて叫ぶと、そのままフッと憑き物が落ちたようにその場に倒れた。いや、実際憑き物が落ちたのだ。新藤の体からスッと白いもやのようなものが現れ、それが人の形を作っていく。その現れた姿に蓮見の体はビクリと震えた。
「お前は…。」
「会うのは初めてだな、蓮見陽杜。」
ニヤリと笑う姿は妖艶で美しいが、同時に凍りつくような恐ろしさがあった。青い目以外はどこもかしこも真っ白で、九つの尾がそれぞれ好き勝手に揺れている。
「何だ、思い出してしまったのか。つまらない…。全てが終わってしまってから目覚めさせて、その反応を見るのを楽しみにしていたのに…。」
無邪気な子どものように、瑠璃は声をあげて笑った。
「何故、お前はこいつの命を狙うんだ?」
蓮見は怒りを押し殺し、震える声で瑠璃に聞いた。すると瑠璃は笑うのをピタリと止めた。風が吹き、瑠璃の長い髪を掬う。絹糸のように日差しにを浴びて輝く。
「知りたいか?坊や。」
蓮見は坊や呼ばわりされたことに腹が立ったか、今なら瑠璃から何か重要な事を聞き出すことができるかもしれないと思い、頷いた。
「じゃあ、少し教えてあげようか。私の術を破れたご褒美にね。榊命には悪いけど、私の目的はミコトの巫女の方。あいつと一緒。目的は違うけど。あいつはミコトとの恋を成就させたいから望んでいるけど、私はこの手にかけて殺したいの。分かる?前は私が先に封印されてそうすることが出来なかったから…。」
「お前…は夜琴を利用してるのか?」
「夜琴、ね。」
瑠璃は顎に手を当てて、フフフ、と笑った。
「可哀想。知らないものね。」
「知らないって、何をだ?」
瑠璃は足元に倒れている菫華のそばにしゃがみ、その手をとった。
「教えてあげる。この新藤菫華と同じ、花の契約を私と交わした人物がいる。」
瑠璃は菫華の手の甲に描かれた花の印を撫でた。喉奥を鳴らして笑い蓮見を見上げながら瑠璃は言った。
「お前の仲間の中にね。」
そう言うが早いか瑠璃と菫華の周りを風が囲み、二人の姿はスーッと消えていく。
「おいっ、待て!それはどういう事だ!」
蓮見は二人に向かって手を伸ばしたが、その手は風しかきらなかった。
「裏切り者は誰だろうねー?」
甲高い笑い声だけが、しばらくその場に残っていた。
目を覚ますと、命は部屋のベッドの中にいた。ゆっくりと体を動かそうとすると、頭がズキリと痛む。それはそうか。首絞められて気絶したんだから。死ななくて良かった、と本気で思う。
「榊?」
その声にビクリとする。ゆっくりと声の方向に視線だけを動かすと、眉毛を八の字に落とした蓮見の姿があった。
「……何で…。」
そういえば、意識がなくなる直前に蓮見の声を聞いたような気がした。未練がましい幻聴かと思ったが、現実にそこにいたのだ。それじゃあ、新藤先生は…。
「蓮見…どうして私の部屋にいるの?」
命がそう尋ねると、蓮見は更に眉を落とした。随分と男らしい顔が情けなくなっている。
「お前…倒れてただろう。」
「でも…ほら、私はもう大丈夫だから。」
命は寝たままの状態で腕をブンブン振り回した。早く蓮見にこの部屋から出て行って欲しかったのだ。誰が好き好んで、先ほど振られたばかりの相手と部屋で二人きりになりたいと思うだろうか。いや、あきらめてはいないけれど、少しは痛手を癒さなくてはならない。それに…先ほど瑠璃さんの話を聴いてしまったから。新藤先生の現状を…。
「私はいいから、蓮見、新藤先生のところへ行ってあげて?私は一人でも大丈夫だけど、新藤先生には蓮見が必要なんだから。特に、今は。」
蓮見は首を横に振った。
「榊、すまなかった。」
その口から出た謝罪の言葉に、命は一気に頭に血が上った。
「何で謝るの!?気持ちにこたえられなくてごめん、て事?何で二回も一日に振られなくちゃいけないの?…いいから、早く行って!」
命はそういうと、布団をひっぱりその中でうずくまった。今、一番蓮見から聞きたくないのはごめん、の言葉なのに。分かってる、分かってる。だからこそ、放っておいて欲しいのに…。
その時、ポンと布越しに蓮見の手のぬくもりを頭に感じた。
「触らないで!」
命は布団越しに頭に乗せられた蓮見の手を振り払った。たったこれだけの事で甘い喜びを感じてしまう自分が嫌だ。情けなくて涙が出そうになる。
「榊、俺が謝っているのはその事じゃない。」
ゆっくりと布団から顔を半分だけ覗かせて蓮見を見やると、スッと蓮見の腕が伸びてきて布団を勢いよく剥ぎ取った。
「何するの!?」
「お願いだから榊、俺の話を聞いてくれ!」
あまりに必死の形相で頼むので、もう逃げることなどできない。せめてもの抵抗で私は蓮見の目を見ず、目線をずっとベッドのシーツにへと落としていた。子どもじみた抵抗である。実際、自分でも思うがまだまだ幼稚な子どもなのだ。大人の蓮見につりあうはずも無い。
「……その事じゃないなら、蓮見は何に対して謝ってるの?何か私にそのこと以外で謝ることなんてあるの?」
本当はたくさんある。だけど、今の記憶の無い蓮見には身に覚えの無い話。聞いておきながら一向に聞く気が無い命に対してか、それともなかなかスムーズに話す事ができない自分に対してか、蓮見は軽く舌打ちすると、命の顔を両手ではさみ無理矢理顔を持ち上げた。
「何すん…!」
「俺が謝ってるのは……約束が守れなかったことに対してだ。」
「え……?」
約…束……?
思い出されるのは、あの時の会話。私のことを忘れないって言う約束…。
「信じろ、とか大きな口まで叩いたのに…すまなかった。」
蓮見は大きく頭を下げた。命はその頭を呆然と見つめる。
「蓮見…?」
どうして?ついさっきまで、朝の時は記憶が無かったのに。
「本当に、蓮見なの?」
この目の前にいる人は、本当に私が好きになった人なの?
「記憶が、戻ったの?」
声が震え、小刻みに揺れる両手で今度は命が蓮見の頬に手を当てる。命を真っ直ぐ見るその目は、私の大好きなあの温かな目で。
「ああ、ただいま、榊。」
「―――っ」
言葉を紡ぐことができず、命は蓮見の首に抱きついた。今までも散々泣いてさすがに枯れただろうと思っていたはずの涙が、決壊したダムのように次々と流れ落ちてくる。大きな陽だまりのような温かな手は、命の背中へと回された。
「ごめん、榊。」
命の背中をあやすようにポンポン、と優しく叩く蓮見に首を振って答えた。確かに忘れてしまった蓮見に傷ついたが、でもこうして戻ってくれて本当に良かった。それに、瑠璃さん相手に一人では無理なのだ。見ていて分かる。あの人は本当に人間ではないのだ。過去に何があったかはわからないが…。
「いい…、許してあげる。だけど、もう離れないで。忘れないで。」
命は顔を上げ、蓮見と目を合わせた。顔を見るだけで心が温かくなる。疲れた心も癒される。もう、自分の一部のように感じているのだ。巫女と狛の関係もあるのだろうけれど、それ以上に。
その瞬間、命は今朝のことを思い出して顔がボッと赤くなった。告白したことをスッカリ忘れていたのだ。今さら何だか恥ずかしくなり目線をそらした。いきなりそんな様子になった命に蓮見はビックリして、そらした視界の中にまた入ってきた。
「榊?」
「う……。」
緊張で手がワタワタとせわしなく動く。
「え…あの、さ。蓮見って、その、記憶が抜けてた間の記憶って持ってるの…?」
蓮見は最初不思議そうに首を傾げていたが、命の言わんとしていることに気がついたのか、ニヤリと笑った。ああ、この笑いから久しぶりに目にした気がする。
「バッチリ覚えてるぞ。今朝のこともな。」
顔から火が出そうというのはまさにこういう事だったのか。あの時、良くあんな状態の蓮見に告白したと自分でも感心する。とりあえず、今、ものすごく逃げたい。
命は俯き、シーツを握り締めた。手がものすごく汗をかいている。
「俺が思い出せたら、もう一度答えが欲しいって、言ってたよな。」
優しい声が頭上から降ってきた。恐る恐る目線だけあげると、今まで見たことも無いほど優しい顔をした蓮見がいた。破顔して、全くしまりが無い。その目は真っ直ぐ命に注がれていて、逃げ出したかったが、一度目線が合ってしまったら放すことなど到底出来ない。
「あ…う……。」
何か言おうとは思うのだが、口が不自由になってしまって言葉がうまく紡げない。そんな様子の命を蓮見はごめん、ごめん、と謝りながら大きな手を命の頭の上に乗せた。
「お前にだけ言わせておくばっかりじゃ大人気ないし、男らしくねーな。」
肩をすくめて蓮見は笑った。その瞬間、命は蓮見の言おうとしていること、考えていることが分かった。ああ、前から気づいてはいたのだ。期待して、裏切られるのが怖かったから、頭の中で何度も否定していたけれど。
ごほん、とわざとらしく咳払いをして蓮見は言った。
「俺も、榊のことが好きだよ。」
心はずっと前から通じていたのだ。
「おいおい、何で泣くんだよ。」
そう言われてあわてて頬の辺りを触ったら、涙が静かに流れていた。完全なる無意識だ。命は慌てて目をこすろうとするが、その手を蓮見に握られて封じられる。
「こすると腫れるぞ。まあ…随分と泣いたからもう随分と…。」
「うるさいな!涙腺おかしくなってるの!ほとんどは蓮見のせいなんだからね。」
睨みつけ、手を振り上げて殴ろうとするがあっさり負けてしまう。腕もろとも蓮見に抱きしめられてしまったからだ。
「あーあ、教師として失格だな。」
ああ、何だかんだ言って随分と気にしているんだ。それもそうか。年の差八つ。教師と生徒。まだまだ命は高校二年。あと一年半以上教師と生徒の関係は崩れることは無い。
「何言ってんの。女泣かしてる時点で男失格よ、失格。」
「そうか。」
「いいじゃん。一人じゃなくて二人なんだから。」
命がそう言ってのけると、蓮見は軽く笑い、腕の力を強めた。蓮見の匂いに包まれて、命もそこで落ち着いてしまう。
「お日様みたい…。」
「は?」
「蓮見の匂い。」
「…さいですか。」
いつも蓮見は太陽のようだ。温かで、優しくて、大きくて。その手はいつも明るい方向へと導いてくれる。向日葵の手だ。
「うん、大丈夫。年の差八つも愛の力で。」
「お前、愛の力とかいうなよ…。こっぱずかしい…。やっぱ若いな。」
そんな風に軽口を叩き合っている時間も、どこか甘く感じる。ああ、幸せだな。この先乗り越えなくちゃいけないことは山ほどあるけれど、今、この時間は永遠だ。
そう思って命も蓮見の背中に回す腕の力を強めた。
過去ノ過チ
この時間は永遠だと思いつつも、やっぱりそうはいかなかった。二人だけの時間は鳴り響く携帯によって終わりが来たのだ。携帯が鳴ったことでふと我に帰り、命は慌てて蓮見から離れると携帯を手に取った。舌打ちが聞こえたような気がするが、気のせいだろう。うん。
「もしもし?」
『もしもし、俺だけど。』
「あ、藤家?」
「は?藤家?」
命が名前を出した瞬間、蓮見は更に少し大きな声で耳元で叫んだ。当然電話の向こうにも伝わっているだろう。
『その声は…蓮見先生?今一緒にいるの?』
「あ、…う、うん。」
やっぱり藤家にちゃんと報告すべきだよね。でも、藤家のことを考えるとそんなのろけみたいな事を言っていいのだろうか。それに今蓮見本人が近くにいるからそんな事言えないし…。
『……そっか。良かったね。』
「え?」
『ちゃんと言えたんでしょう?その先生の様子だと記憶も戻ったみたいだし。…うまくいったみたいだし。』
「藤家…。」
言葉にしなくても、藤家はちゃんと電話越しに感じ取ってくれたみたいだ。
「藤家…良い男だね。」
『ふふ…でしょう?いいよ、いつでも乗り換えて。』
「いや、遠慮しときます。」
「おい榊、何話してるんだ?」
意外と短気なのか、嫉妬深いのか、大人気ないのか。蓮見が少し苛立った口調で割り込んできた。
蓮見よ…。お前より八つ下の藤家のほうが大人の余裕があるように思えてしまうのは私だけだろうか。少し苦笑いしてしまう。
「で、藤家、どうかしたの?」
早速喧嘩などしたくないので、命は藤家に単刀直入に聞いた。すると、藤家はああ…、と少しためらうように間を空けた。
『…実は光の様子が変なんだ。
「光さんの…?」
『うん。少し会って相談したいんだけど。あ、記憶が戻ったんだったら蓮見先生にも。』
藤家がこうして相談するなんてきっと余程のことだろう。
「あ、ちょうど蓮見もいるし。うちの家に来なよ。」
『榊の家…?え、蓮見先生も一緒に家にいるの?』
「うん。」
『……分かった。急いでいくから。』
そう言うが早いか、藤家はブツリと電話を切った。
「何、こっち来んの?」
「うん、多分今慌てて向かっているみたい。」
蓮見は何か思い当たることがあったのだろうか、蓮見はケラケラと笑い出した。
本当に驚くほど早く藤家は家にやって来た。それでも汗が出にくい性質なのだろうか。息は上がっているが、こちらから見ればたいそう涼しい顔をしているように見える。
部屋に入ってくる際、ニヤニヤ笑っている蓮見が癇に障ったのだろう。平然とわざとその足を踏みつけていった。
「で、光さんいつから見つからないの?」
「…毎日話したりしてるわけじゃないから正確には分からないけど、最後に話したのは…うん、榊と二人で先生の家に行ったときかな。あの修羅場で榊が先に帰った日。」
藤家はチラリと蓮見を横目に見ながら言った。わざとだろう。蓮見は苦い顔をしている。そういえば、あの後藤家は残ったのだろうか?まあ、今はそれはどうでも良いとして。
「いつもは呼びかけたら答えてくれるんだけど、何度やっても返事が無くて…。あのお守りをはずして鏡で見てみたら目の色も違うし…。」
確かにそう言われれば、今日は藤家あのいつも足につけているお守りをつけていない。
「何か分からないけど胸騒ぎもしているし…。」
ずっと一緒にいた藤家がそう感じているのだ。何かあったかに違いない。
「そういえば…。」
蓮見が口を開いた。首をかしげて唸っている。
「どうしたの、蓮見?何か思い当たることでもあるの?」
「いや…俺、あまり陽と話したことねえな、と思って…。」
「え?そうなの?」
藤家も少し驚いたように目を見開いている。
まさか、ずっと一緒にいるのにそんなに話さないなんて。まあ、蓮見は最近記憶を失っていたし、陽さんもあんまり話すタイプのように思えないんだけど。
「でも、気配とかは感じるでしょう?陽さんは大丈夫?いなくなってない?」
蓮見は苦笑いしつつ頭をかいた。あ、ダメだこれは。気配も分からないのか…。
「蓮見先生って鈍いもんね。」
「なっ!それとこれって関係あるのか?」
ちょっとは関係すると思う。命は心の中で頷いた。
「あ、じゃあ、呼びかけてみてよ。もしいなかったら光さんも陽さんが一緒にいるかもって事でそれはそれで安心だし。いたら光さんがどこにいるか分かるかもしれないし。」
「お、おお。」
蓮見は軽く咳払いをすると、目を閉じた。しばらくすると蓮見は目を開け、頷いて見せた。
「俺の中にいるみたい。だけど、今何だかすごく弱ってるみたいなんだけど。だから、出てこれないって。」
「そうなの?陽さんどうしたんだろう?」
確かに実体化するのってかなりの力を使うんだって前に言ってたけど、しばらく出てきてなかったし力なら溜まっているんじゃないかって思ってたんだけど…。
「蓮見先生の記憶を戻すように実は陽さんも力を貸してたんじゃないかな?」
藤家の言葉に命も納得した。
「うーん…じゃあ、とりあえず探しに行こうか。」
命は一人立ち上がった。だけど二人ともついて来てはくれない。どうしてだ?
「探すって言って、どうやって探すんだ?」
「う…。」
「俺が呼びかけても返事が無いんだよ?」
「う…。」
「しかも相手は実体が無いんだし。」
「うう…。」
蓮見と藤家の両方に冷静に突っ込まれて、命は再び腰を下ろした。どうすればいいんだろう…。そこで命ははっと思いついた。
「そうだ、寝ればいいんだ!」
「「は?」」
「私、寝たらミコトの巫女の記憶が戻るんだよね。そしたら、何か光さんに関係する大事な記憶が分かるかもしれないし。」
「……その記憶って欲しい記憶がちゃんと手に入るのか?」
そう言われるとそうだけど。でも、今出来ることをやるしかない。それに、ミコトの巫女本人がついていてくれている。確信は無いけれど、何だか大丈夫のような気がするのだ。
「とりあえず、やってみるから!1時間くらい経ったら起こして。」
「……分かった。」
命は早速ベッドに横になった。部屋に人がいる状態で寝るのって何だか絶対に可笑しいけれど、今はそんな事は考えないでおこう。
「光さんの記憶、光さんの記憶、光さんの…」
命はそう念じながら、すぐに眠りについていった。さっき気を失って寝ていたばかりだと言うのに、あっさりと落ちていった。
気がつくと、森の中にいた。少し離れたところにミコトの巫女の姿があり、腰を下ろして俯いていた。どうやらミコトの巫女の記憶の中にいるようだ。ここで第一関門は突破である。普通に夢なんか見たりしたら、それこそ笑えないから。
「ミコト!」
命のいる場所の後ろで声がした。ミコトの巫女はパッと嬉しそうに顔を上げる。振り返ると、一人の青年が走ってくる姿が見えた。上に一つに結んだ黒髪を揺らし、上等そうな着物を着ている。命が知っている光よりもやや若く見える。相変わらず綺麗で、どこか藤家に似ているように見えた。いや、けっこうそっくりかもしれない。
「四海!」
四海?ああ、そうだそうだ。光さんの本名か。
ミコトの巫女は立ち上がると光の胸に飛び込んだ。ミコトの巫女は自分に似ているので、どうもこの光景は命が藤家に抱きついているように見えて何だか変な気分である。
「ミ、ミコト?…ど、どうした?手紙であった怖いことって何があったんだ?」
突然ミコトの巫女に抱きつかれた光は目に見えてうろたえていて、そっと壊れ物を扱うかのようにミコトの巫女の体を自分から引き離した。
「あのね、四海。知らない男が私を訪ねてきたの。」
「知らない男?」
「ええ、私は知らないのに向こうは私の名前を知っていたの。私が誰?って聞いたら、すごい力で私の腕を掴んで。ほら、ここ。」
そう言うとミコトの巫女は自分の腕を晒した。そこにはくっきりと大きな手形の痣が残っていた。光は思い切り顔をしかめた。
「一体、誰がそんな事を…。どんな人物だったんだ?」
「若い男よ。髪が四海よりも長くて、私と同じ赤い瞳をしてた。」
「赤い、瞳…?」
そう聞いて、命は一人しか思いつかなかった。でも、まさか…。
「それって、夜琴のことだろう?お前、何言ってるんだ?」
ミコトの巫女はキョトンとした顔で首を振って言った。
「夜琴?誰それ。そんな人知らない。」
はじめ、ミコトの巫女がふざけて言っているのかと思った。しかしどうやらそうではないようだ。光が驚いて何も言わないのを不安そうに見つめていた。
「四海?」
「…ミコト、お前、夜琴を知らないっていったか?」
「知らないよ。四海は知ってるの?その人のこと。」
「知ってるって……お前の恋人じゃないか。」
光は苦い顔でそう言った。ミコトの巫女は眉をひそめて首をかしげたが、すぐに声を出して笑った。
「何言ってるの?私の恋人は四海じゃない。」
これは、どうなっているのだろうか。確かにミコトの巫女と夜琴は愛し合っていたはず。二人とも別れてしまったのだろうか。
いや、違う。
そもそもミコトの巫女には夜琴自身の存在が記憶から消されてしまっているのだ。それに光の様子が可笑しい。顔は見る見るうちに青ざめて、体は小刻みに震えている。
「私…が……?」
「四海?」
異変に気づいたミコトの巫女は光にへと手を伸ばすが、その手を避けるかのように光は後ずさった。何か恐ろしいものと対面しているかのように。
「私が、お前をそうしてしまったのか…?」
「四海…?」
「私がああ言ったから?私の、この恐ろしい力が…?」
光は膝から倒れると自らの頭を地面にへとつけた。
「四海!?何してるの?」
「すまない、ミコト。私が…!私がお前を…。」
そこで目の前の映像は徐々に霞んでいった。光の悲痛な叫びが最後まで残っていた。
目がハッと覚めた。ちょうど蓮見が起こそうとしてくれていたところだったのだろう、片手を命のほうに伸ばしてそのまま固まっていた。
「びっくりした…。ちょうどお前を起こそうとしていたところだったから。」
命はゆっくりと体を起こして藤家のほうを見た。
「榊、何か分かったんだね。」
「うん。多分光さん、あそこにいると思う。」
あの夢で見た場所に光はいるのだろう。もしあの夢を見たところの命の推測が正しければ、きっと蓮見の身に起こったことに、過去の出来事を重ね合わせてしまっているのかもしれない。
「どちらにしても、色々と聞きたいことはあるし。うん、行こう。」
命達は三人で家を出た。目指すは更に山の上の方。そこには何もないからあまり行った事がないけれど。当然人が通らないので道が整っていない山道である。近くの木に手をつきながら慎重に三人で上っていく。
「おい、どんどん上に行ってるけどこの山に光さんはいるのか?」
「うん…。」
段々開けた場所が遠くに見えてくる。そこまで到達すると、そこには野原が広がっていた。花が風に吹かれて揺れていて、こんな山の中にこんな綺麗な光景が広がっているのは何だか不思議な気がするけれど。
そこにポツンと一人、光がたたずんでいた。
「光!」
藤家が声をかけると、光はゆっくりと振り返った。いつもの調子のいい感じで。
『あーあ、見つかっちゃったね。良く私がここにいると分かったね。』
「はい…。夢で、ミコトの巫女の記憶、光さんの記憶でもあるけれど覗き見しちゃいました。」
命がそういうと、光は肩をすくめながら三人のほうに近づいてきた。
『そうか、じゃあ、気づいちゃったのかな。私が過去にやった過ちを…。』
光はふっと息を吐くと、ゆっくりと語り始めた。
『私の知っていることを、包み隠さず話すことにしよう。私が知っている限りのミコトの死までを…。私とミコトと陽、本名は秋継といい、私も四海という名なのだが、いわゆる幼馴染みというやつだった。ミコトの父上は…そうだな、村長ではなかったが村で一番力を持っていて、この村を守っていて下さっていた。狛である私たち二人は随分と世話になっていた。この村には、人間と敵対するものたちが住んでいた。妖狐というものたちだ。お互い忌み嫌っており、何百年も争いが続いていた。しかし、その戦いもついに終わりを告げた。ミコトの父上が妖狐一族を絶滅させたから。もちろん、その頃幼かった私達はその事実を知らなかったのだが。だけど一人だけ、生き残りがいた。私たち三人はそのものと出会ってしまった…。』
「それが…瑠璃さんですか?」
光は黙って頷いた。
『はじめは人間を警戒しており、憎しみを抱いていた瑠璃も、何度と無く私達が訪れるうちに次第に心を開き、仲良くなっていった。ミコトの父上の目を盗んでは、私と陽は脱走の手助けをして、瑠璃のもとへ遊びに行っていた。瑠璃が段々と力をつけ始めると、四人で変装して町にも下りて行ったりした。だがある日、瑠璃は知ってしまったのだ。自分の家族を、仲間達を殺したのがミコトの父上だと言うことを。私達も瑠璃に迫られて初めてその事実を知った。いや、うすうす感付いてはいたのかもしれない。瑠璃はひどく裏切られた気持ちでいっぱいだったのだろう。それから五年、私たちは会わずじまいになった。
五年後、ミコトの父上は病で倒れられた。この話は、陽がしていたな。ほとんどあの話の通りなのだが、陽は瑠璃のことも夜琴のこともひどく恨んでいるからな。私も、恨んでいないと言ったら嘘になるが、私は陽が知らない真実を知っている。ミコトの死に関しては、私は共犯者なのだから…。』
『共犯者』
その言葉を聞いて、命たちは身を固くした。だって、その言葉をそのまま取ってしまったら、つまりミコトの巫女の死に光さんが関わっているということになる。
そう心配している命たちを光さんはふっと笑った。
『いや、心配しなくていい。私の言葉の意味は別に直接手をかけたと言うことではなくて、そうだな…そのきっかけを与えてしまったということかな。』
「きっかけを…?」
光は静かに頷いた。
『お前たちに私の罪を話すかどうか、ずっと悩んでいた。過去の私たちの争いに巻き込まれてしまっているお前たちは、その過去を知る権利があるし、当事者でもある私は伝える義務があるだろう。しかし、私は怖がりで卑怯ものだった。罪を話して可愛いお前たちに軽蔑されてしまう事が怖かった。また、話すことで醜い私と対面することが恐ろしかったのだ。』
そこで光は一度言葉を切った。目を閉じて一息つくと、ゆっくりと目を開けた。
『数百年経っても、ミコトの姿は今でも鮮明に思い出すことができる。今の私の姿を見て、あいつがどう言うかも想像できる。きっと叱咤し、ぶん殴られることだろう。』
光はクスクスと笑った。きっとミコトの巫女を思い出しているのだろう。その表情は幸せそうだった。
『ここで一人で何日か考えていた。すると、段々と気持ちも穏やかになってきた。ここで私は再びミコトに会うことが出来た。』
「え…?ミコトの巫女に…?」
『ああ、ついさっきだよ。ミコトの姿が見えたんだ。幻かと思ったよ。まあ、今の私自体幻のようなものなんだけど。彼女は静かに笑って口を開いた。声は聞こえなかったが、その口で何を言わんとしているかは伝わった。
…もういいよ…
とその口は動いて、子どものように笑ったかと思うと、その姿はお前たちが来た方向へと消えていった。そこでやっと決心がついたんだ。このまま言わなかったらそれこそ格好悪いからね。』
光は肩をすくめると命の肩に手をおいた。
『きちんと話すよ。私の知る全ての私たちの話を…。ただ長くなるから、家へ戻ろうか。一緒に…ね?』
光は藤家へ微笑みかけると、その頭を撫でた。いつもは怒り出す藤家も、この時だけはそのまま。ただ黙って頷いていた。
裏切リ者
「それにしても、やっぱり狛は普通の人とは違うんですね。」
蓮見が神妙な顔つきで光に話しかけた。
『ああ。一応巫女の守り役だし、盾となる役目でもあるからね。』
「じゃあ、俺や藤家にもそういう力があるんですか?」
そういえばそういう事になるのだろう。狛の証でもある勾玉の痣は二人ともかなり力が強い方という場所についている。まさか、力が全く無いわけではないだろう。
『そうか、陽杜はまだ自分の力に気づいていないのか。』
「俺は…?ということは、藤家は自分の力がどんなものだか知っているのか?」
蓮見は驚いたように藤家を見た。藤家は突然自分のもとに飛んできた質問に対して、普通に頷いた。
「えー!?私も知らなかったんだけど。」
何だか話してくれなかったのが悔しいと思い、ジロリと睨むと、藤家は困ったように眉をハの字にさせて苦笑いした。それから光と目を合わせると、二人で肩をすくめあっていた。
さすが同じ影の狛、小さな頃から一緒だったもの同士の絆というか、血の繋がりというか。そんな気持ちが通っている二人の様子を見て、何だか少し羨ましく思ってしまった。
「そうは言っても、俺もはっきりと気づいたのは本当に最近だよ。そんな…大した力でもないし。蓮見先生だって、気づいていないだけで、もしかしたら今までに症状が出ていたかもしれないし…。先生、何か昔から人とは違ったことってありましたか?」
すると蓮見はうーん、と首を捻りながら考え始めた。命も一応考えてみるが、ダメだ、思いつかない。そもそも学校での蓮見の姿しかあんまり知らないし…。
「あっ!」
「何か思いついたの?」
「俺イケメン!」
その発言からしばらく気まずい沈黙が流れ、蓮見は「すみません、真剣に考えます。」といって、少し落ち込んでしまった。ごめんよ、突っ込むのも馬鹿らしかったというか、なまじっか完全に否定が出来ないのがむかついたというか…。
「別になあ…これといって。」
「数学の教師だし、実は人並みはずれてIQが高いとか?」
命がそう言って口を挟むと、蓮見は私をチラリと見て大きくため息をついた。
「お前なあ、自慢じゃないが、陽が書いたあの本が読めなかった残念な俺だぞ?勉強だって基本は嫌いだったし。数学だって、別に他のよりも出来るぐらいで、ものすごく天才的なレベルなわけでもないし…。あ、そういえば、昔から体育は得意だったな…。」
「体育?」
「そうだ!体力には自信があるな!」
うんうん、と嬉しそうに蓮見は一人で頷いた。
「そんなに体力自信あるの?」
「ああ。ずっと本気を出さないのに慣れていたから、自分がそうだったことを忘れてたが。最後に本気で運動したのは、確か小学校1年生。」
「小学校1年生!?」
そんなの、はじめてちゃんと運動を習った時じゃない。命は驚いて藤家と顔を見合わせた。
「確か50メートル走でだったかな。俺は幼稚園に行かずに家にいたからそんな距離を走るのが初めてだったんだ。そうしたら、タイムが6秒台で。計測した先生はストップウォッチが壊れたかとはじめは思ったらしいんだが、もう一度走らせてみたら、やっぱり目に見えて早い、と。プールのときもまずは潜ってみましょう、で俺が5分以上も水から出てこなくてパニックになったとか…。とにかく体育の時のたびに担任を驚かして、とうとう担任が寝込んじまって…。それからすぐに母親が遠くの小学校に転校させて、半分の力以上は出しちゃいけないって教え込まれたんだ。あんまり小さな頃からそうしていたんで、俺自身忘れてたな。」
そう言って口を開けて笑う蓮見を、命は呆然と呆れて見ていた。話だけでは全く真実味がない。話しているのが蓮見だからかいまいち信じられないが、じゃあ、蓮見の能力は並外れた身体能力なのだろう。そういえば、彼は驚異的な視力の持ち主だが、彼の五感が人よりも優れているのは、それも狛の力なのだろうか。それにしても…。
「蓮見先生、体育の先生になればよかったのに。」
「いや、むしろオリンピックの選手になれてたと思うけど…。」
本当に、どうして数学の教師の道に進んだのか、全く持って謎である。
「そういえば、陽さんの能力って何なんだろう。」
チラリと光を見れば、彼はニコリと笑った。
『本人が帰ってきたみたいだし、直接聞いてみたら?』
光は手元に持っていた扇子をすっと窓のほうへと向けた。そこにはいつの間にか陽が窓に寄りかかるようにして立っていた。会うのは久しぶりだが、よく見ると雰囲気がやはり少し蓮見に似ていて、命は少しドキリとしてしまった。
『久しぶりだな、光。』
『そうだな。全く、陽ちゃんがしっかりと陽杜君のことを見守ってなかったから、ややこしい事になっちゃって…。』
『すまんすまん。…陽杜も悪かったな。』
陽は近づいてくると、蓮見の頭にポン、と手を置いた。いつもする側の蓮見がされる側になっている光景は少し奇妙で、でもどこか自然な感じがした。光の狛という役目で繋がっているからだろうか。
「いや、まあ、そもそも想定できたはずの事に対処し切れなかった俺の責任だし…って、おい、いつまで撫でるんだ。」
微笑みながら頭を撫で続ける陽に、蓮見は少しすねたようにしてその手を払った。子ども扱いされた気分になったのだろう。でも、何百年も前に生まれた光と陽にとっては、蓮見も子ども同然なのかもしれない。多分見かけ的にも蓮見の方が若いし…。
『それで、私の力の話だったか?』
陽は命のほうを見た。優しげで男らしい目と視線がかち合う。命は大きく首を縦に振った。その様子に陽は口元を和らげると光の隣に腰掛けた。
『私の能力か…。光と違って人の役には立たないものだったよ。』
「そうなんですか?」
『ああ。私の能力は自己治癒能力だ。』
「自己治癒?」
『怪我をしてもすぐに治る。病気にもかからない。私も光もこうした容貌ではあるが、これは本に自分達の魂の一部を封印した時の姿だ。実際私が死んだのは100歳を超えていた。この時代でもそれは大変な長寿だから、私達の時代だと尚更でな。周りが好奇な目で私を見るもんだから、山にこもっていたよ。あの空狐山でな。そうしたらいつのまにか仙人扱いされてた。』
あまりに真剣な顔で陽さんが言うので、思わず笑ってしまった。
『人を癒す光と、自分を癒す私。本当に私達は対の狛だった。といっても、私は民の何の役にも立たなかったのだが…。』
『おい、そんな事はないぞ。』
光が陽の肩に手を置いて言った。
『その力を持って、お前は人が出来ないような命がけの仕事を率先して引き受けていたじゃないか。いくらすぐに治るとはいえ、痛みを感じるのは普通の人と同じなのに…。』
『光…、ありがとう。』
そういう二人の間には確かに太い絆を感じた。そのしっかりとした心の繋がりがひどく羨ましく見えたものだった。
「でも陽、お前も光と同じぐらい力が強かったんだろう?お前の能力は一つだけだったのか?」
蓮見がふと思いついたように言った。陽は少し驚いたような顔をしたが、すぐに首を振って答えた。
『…いいや、俺は一つだけだよ。』
『でもな、陽の凄い所は力に頼らないで、自分の力で努力して何とかする所なんだ。』
少し気まずそうに言った陽に重ねるようにして、光がフォローを入れるように口をはさんだ。あまりの力の入れように、陽はぎょっとして、少し目元を赤くした。
『おい、やめろよ光。』
『老若男女問わず人気があって頼りにされて。私なんかは何の努力もせずにその日暮らしでフラフラしてただけで。いや、もう、私にとって陽ちゃんは神にも等しく…』
『光、本当そのくらいにして。そこまで言われるとかえって信用味がなくなる…。いや、そもそも大分脚色されてるし…。それに、私はお前の方が凄いと思うし…。』
『何を!?』
命達三人を放っておいて、ついに二人で褒め殺し大会を開催してしまった。当人達も照れて顔を赤くしているが、聞いているこちらも相当恥ずかしい。
「あの、お二人とも…お二人とも素晴らしいことと仲がよろしい事は本当に良く分かったので、それくらいで…。」
ついに耐え切れなくなってそう遠慮深げに声をかけると、二人ともハッと我に帰って顔を更に顔を赤くした。何だかこの時ばかりは、伝説の狛には見えず、ただの親友バカに見えた。
命達は、陽と会わない間に起こった出来事を話した。陽は力が最近弱っており、蓮見の中から抜け出してどこかで休養を取っていたようである。だから、最近起こったことを全然知らず、申し訳なさそうな顔をしていた。
『陽杜、お前が大変な時に傍で守ってやれなくて悪かったな。一応私はお前の守護霊のようなものなのに。』
「いや、そんな事ねえよ。というか、陽は俺の守護霊だったのか。初めて知った。」
そう言うと陽はニカッと笑って蓮見の頭を乱暴に撫でた。蓮見、随分守護霊に愛されてるね。チラリと藤家の方を見てみると、嫌そうな顔で光の事を見ていた。そうか、ということは藤家の守護霊的な存在は光なのだ。そんな顔をしながらも、二人はちゃんと仲がいいってことは分かっているので、むしろ微笑ましかった。
『それにしても瑠璃がか…。』
「陽さんも瑠璃さんの事知ってますよね。」
『ああ、それはな。四人で幼い頃は一緒に遊んでいたし。とは言っても、私は瑠璃とは気が合わなかったがな。瑠璃は光の事を好いていたし…。』
「えっ、光さんの事を?」
『おい、陽ちゃん、そんな事…。』
『何だ、本当の事じゃないか。お前もその気持ちを知ってて散々弄んでいたよな。』
そう意地悪く陽さんが言うと、光はしゅん、とうなだれてしまった。
『あの当時の私は、本当にどうかしていたんだよ…。』
あれからすぐに二人ともまた消えていってしまった。それにしても、やっぱりミコトの巫女と瑠璃さんの恨みは親の仇の娘というだけでなく、恋愛も絡んでいたとは…。それに、これはあくまでも私の推測だが、もしかしたら瑠璃さんはミコトの巫女に対しての信頼を裏切られたと感じたこともあるのではないだろうか。それにしても、色々と事を様々な方面から知っていくうちに、全くの悪人というものが存在しないように思えてくる。
「あ。」
ふと大事な事を思い出した。
「どうした?榊。」
どうして今まで忘れていたのだろうか。命は蓮見の腕を掴んだ。
「な、何だ何だ?」
「は、蓮見、新藤先生はあれからどうした?」
しばらく蓮見も「・・・」という感じだったか、すぐに口をあんぐりあけてあせり始めた。
「そ、そうだ。俺、あれからお前を運んだから…。というより、最後は新藤先生は瑠璃に乗っ取られたままだった…。」
新藤先生…。
全く関係のない人を私たちは結果的に巻き込んでしまったのだ。一体彼女は今どうなっているんだろうか。
「今から訪ねに行ったら?」
藤家はそう言うと携帯を取り出してどこかに電話をかけ始めた。少しの間話すと藤家はすぐに電話を切った。
「新藤先生の住所、分かったよ。」
「えっ、早っ。」
藤家はニヤリと笑った。
「空狐山の近くだそうだよ。」
新藤の家は、本当にどこにでもあるような普通な家庭だった。ミコトの巫女と過去に前世で何らかのかかわりがあったようには見えないし、本当に全くの無関係にもかかわらず巻き込んでしまったということだ。先生のやったことは許しがたいが、でもどこかやっぱり憎みきれないのだ。共感する部分もきっとあるだろうから。
命は蓮見と藤家と顔をみあわせると、軽く深呼吸をして玄関のチャイムを押した。しかし反応がない。もう一度押そうとしたところでゆっくりと扉が開いた。そこには弱々しく扉にもたれかかるようにしてこちらを見る新藤先生の姿があった。
「……榊、さん…。」
新藤ははじめ命の顔を見てかすれた声で呟くと、蓮見の姿を見て体を強張らせた。瞬間顔は青ざめ、すぐさま扉を閉めようとするが、蓮見の力強い腕がその間に割り込んだ。
「あ……。」
「新藤先生、少しお伺いしたいことがあるんですが、いいですか?」
新藤は目線を地面に泳がせたが、観念したように首を縦に振った。
「今、ちょうど誰も居ないので、どうぞ。」
あんなにいつも自信に満ち溢れていた新藤菫華とはまるで別人のようで、先を歩くその後姿は何かに怯えるように小さかった。
「どうぞ。」
新藤の部屋に入ると、お茶を出してくれた。ふとその手の甲を見ると、そこにはやはりうっすらと花の模様が見えた。その視線に気づいたのか、新藤はサッと手をひっこめた。
「その花の紋様…。」
「…あの女が私に残していったの。」
新藤は恨めしそうに自分のその手の甲を撫でた。
「どうしてこんな事になったのか…。」
そう呟く新藤先生に心が少しだけ辛くなった。
「欲に負けた私が悪いのかしら。でも、あの女は本当に…。」
チラリと伺うようにして新藤は命の顔を見た。
「榊さん、あなた、あんな恐ろしい女と一体どんな関わりがあるの…。」
「それは…。」
どうしよう。これは正直に言うべきなのだろうか。不本意ながら巻き込まれてしまった新藤には真実を知る権利があるだろうが、だからと言って、信じてもらえる保障はないし、普通の人はそんな事信じたりしないだろう。命が考えあぐねていると、藤家が口をはさんだ。
「新藤先生、あの瑠璃という女はあなたに何か話していませんでしたか?自分の事とか、榊に対することとか。」
新藤は少し思い出すようにして視線を上へと移した。どうやらうまく藤家が口を挟んでくれたことで、新藤の気も少しそれてくれたようだ。
「あの女が何か言ってたか…?あまり何度も会ったわけでもないし、それに必要最低限しか…。あっ。」
「何か思い出しましたか!?」
「そういえば…。」
新藤は考え込むように自分の頬に手を当てた。
「あの子達は何も知らないって。あの子達ってあなた達のことだったの?」
「何も知らないって…いったい何を知らないって言うんですか?」
命は新藤の腕にしがりついたが、新藤はそれを煩わしそうに眉間にしわを寄せながら振り払った。
「知らないわよ!大体なんであんな恐ろしい女のことを聞きたいの?」
「新藤先生。」
蓮見が落ち着いた声でそう投げかけると、新藤は罰の悪そうな顔をして視線を床へと落とした。
「裏切りよ…。」
「え…?」
「あの子達は裏切りを知らないって言ってたの!他にも何か言ってたかもしれないけれど、そんなの覚えていないわ。あの女の言うことなんて、意味も分からないし。」
「裏切り…?」
一体どういう意味だろうか。その裏切りとは過去に自分が経験したものなのか、それとも…。
「あっ…。」
今度は蓮見が何か思い出したように声を漏らした。
さすがに新藤の家でこれ以上深いところを話すのは…ということで、散々お邪魔しておきながら私達は退散した。そんな命達を新藤は怪訝そうな目で見つめていたが、蓮見の姿を見るたびにその瞳は揺らいでいた。やっぱりまだ好きなのだろうな。少し胸が痛みつつ、命は軽く新藤に一礼した。
蓮見ははなれに着くと、それは大きく長いため息をついた。
「何でこんな重要なことを忘れていたんだ?俺。」
その内容はまだ分からないが、命も藤家も多分同じことを考えていた。
だって蓮見だから。
「で、先生、一体何を思い出したんですか?」
「ああ、瑠璃がこの間言っていたんだ。自分と花の契約を交わしたのは新藤先生だけじゃねえって。もう一人、俺たち仲間の中にいるって…。」
「どういうこと?瑠璃の協力者がいるってこと?私達の近くに?」
それに仲間といってもそんな大それた人数ではない。
私。
蓮見。
藤家。
光。
陽。
お父さん。
せいぜい詳しく知るのはこの6人ぐらいだ。
「俺達三人はありえないな。」
藤家もあごに手をあてて呟いた。
「榊のお父さんもないだろうし…光か陽さん?でも…」
三人とも黙り込んでしまった。
誰もそんな裏切りをするような人は見当もつかないのだ。
「瑠璃が私達を混乱させるためにそう言ったんじゃないの?」
「それも考えられなくないが…、いや、多分嘘はついていないと思う。」
私達は、仲間を疑わなくてはいけないのだろうか?
“命ーミコトー” 後編 【連載中】