英会話レッスン後のキス
コロナウイルスのために在宅勤務が続く。中井 政雄は三十の会社員。都心の会社への通勤から世田谷のアパートで籠りの勤務。コロナウイルスの直前の年明けに、サンフランシスコへの赴任の内示をもらったが、いつ赴任できるか解らない。今の勤めを続けつつ、赴任準備をしている。その一つが英会話、一回一時間、先生と英語で話し続ける。週二回で始めたが、週三回に増やした。いかに自分が話せないか実感したから、そして話せなくても、楽しいからだ。
先生の名前は酒井 麗子、中井より少し若い、帰国子女のバイリンガルの女性だった。青山の英会話学校で先生を勤めつつ翻訳の仕事をしていると聞いた。公共放送のビジネス英語の番組を素材に、酒井先生が質問し、中井が答え、会話を発展させていく。上手くいった試しがない。次回お目にかかりますね、と画面から酒井先生が消えて、中井は自己嫌悪に陥る。しかし中井は止めるなんて考えたことはなかった。
五月、レッスンの終わり、中井が言った。
『次回は最善を尽くします。』
酒井が、なぜ中井はそんなことをわざわざいうのか、という顔をして言った。
『どうかしましたか。』
『先生の表情がよくなかったので。』
酒井は中井の言ったことを心の内で繰り返したようだった。やがて、言った。
『すみません。中井さんのせいではありません。私のせいです。申し訳ありません。』
今度は中井が怪訝な顔をする番だった。
『先日、祖母が他界したんです。でも、コロナウイルスのために、最期にも立ち会えず、お葬式にも参列できなかったんです。私を大事にしてくれた祖母なのに。帰国子女として寂しい思いをしたときも、結婚の約束が取り消されたときも、祖母に優しくしてもらって、今に至っているのです。その祖母の最期に会えなかったんです。』
酒井は言葉が続かなかった。中井は待ったが、酒井の様子が変わらぬので、声をかけた。
『もう少しお話してはいけませんか。レッスン料をお支払いしても結構ですから。』
酒井は中井の言葉に驚いて顔を上げ、涙目のまま微笑んで同意した。
『レッスン料なんていただけません。親しくしていただいている方とお話をするのに。』
中井は、親しくしていただいている方、という言葉に嬉しく思い、日本語で話し出した。
酒井 麗子の両親は神戸出身、父が商社勤務であったので、麗子はロンドン、ニューヨーク、シンガポールに住み、その間に神戸で過ごし、高校の途中から神戸に戻り、東京の国際的な大学で英文学を学んだ。
小学校四年のとき、ニューヨークから帰国、神戸の小学校に転入して、麗子はいじめにあった。帰国子女として目立ったのだった。麗子は学校に行けず、母が祖母に預けた。六甲に住んでいた祖母は、麗子がやってくると、抱きしめて、額にキスをしてくれた。
「もう大丈夫。何も心配しなくていい。麗子がいたいだけここにいればいい。大丈夫。」
麗子はあのときの安心を忘れたことがない。
麗子は祖母の家から近くの小学校に通った。四年後、麗子は両親とともにシンガポールに赴き、三年後、麗子は祖母の家に戻り、地元の高校に転入、そして東京の大学に学んだ。
「神戸のそれなりにいいところのお嬢さんだった祖母は、ハイカラで芯の強い人でした。いじめについて母から相談を受けた祖母は、すぐに家にやってきて、父を叱りつけていました。商社の仕事は代わりの方がいるでしょう。麗子の父親に代わりはいません。娘を守れなくてどうしますかって。」
酒井が上を向いた。
一週間後、中井に酒井から紅茶が届いた。レッスン後、二人はお喋りをした。
「中井さんに話を聞いていただいて、落ち着きました。その紅茶、祖母の愛好していたもの。せっかくなので今お飲みいただいて。」
酒井が動画で見ている中、中井は紅茶を淹れた。酒井も同じように自室で紅茶を淹れ、二人は紅茶を飲みながら話をした。
翌週、中井は酒井の祖母が好きだったという神戸の菓子を送った。レッスン後、紅茶と菓子でお喋りが続いた。
その次の週から、レッスン後、それぞれ用意した夕食を食しながら話をした。そのうち酒井は中井に簡単なレシピを送り、二人で同じものを食すことにした。
十月、中井は結婚しましたという便りをもらった。二年前、結婚を約束し、しかし別れた女性からだった。レッスンの後、夕食がまずくなるかもしれないけれど、と中井は酒井に話した。酒井は辛そうな表情をした。
「すみません。お話しなければよかった。」
酒井はすぐに反応した。
「なぜ別れたんですか。」
中井は苦痛を想起した。
「あなたとキスをして、ときめいたことがなかった。」
酒井は中井を見たまま動かなかった。
「と、言われたんです。酒井さんに言うことではないけれど、夜を幾度も共にした間柄だったのに、突然言われたんです。それから二度と会うことはなかった。」
酒井はまだ凍ったままだった。
「衝撃でした。男と女の相性の問題なのに、自分を否定されたように思いました。」
中井は淡々と話している自分に驚いてもいた。
「勤めには通っていましたが、もぬけの殻のようで、このままではいけないと、信頼する方のところに行きました。一通り話したところ、その方はいきなり大きな声で笑われました。それから、よかったじゃないか、そんな女性と一緒にならなくて、と言われました。結婚して、ときめかなかったら、それこそ暗い人生だ。君には君が思ってもいないような将来がある、いい人に出会うと思う。そのためには私のように中途半端なことはしないことだ。思うとおり、感じたとおりにおやり。そう言ってくださった。それで吹っ切れてしまいました。」
酒井に笑みが戻ったので、中井は安心した。
次のレッスン後、食事を終えた頃、酒井が、自分のことを話してもいいですか、と言った。中井は前回の自分のことに何か感じたことがあったのだろうかと思いながら頷いた。
「私は去年、結婚の約束を取り消された彼から、結婚したとの葉書をもらいました。私の場合、どう説明していいか解らないけれども、合わないと思う、と言われました。中井さんと同じで夜を幾度も共にしていたのに。
私は勤めを辞めて祖母のところに行きました。祖母には、結婚を考えていた人と別れて、会社も辞めました、とだけ言ったのですが、祖母は、それ以上何も聞かず、あの子供のときと同じように、抱きしめて、額にキスをしてくれました。私はそれで、大丈夫、私は大丈夫、と思いました。」
酒井の目は潤んで、美しいほどだった。
一月の終わり、人事部から連絡があった。サンフラシスコへの赴任が来月にも可能となる見込みとのことだった。咄嗟に中井が考えたのは、東京にいても、サンフランシスコに行っても、酒井とは食事をしながらお喋りができるということだった。中井はレッスンが終わり、夕食のときに酒井に話すことにした。
レッスンが終わって、夕食の用意をしていたとき、中井にメールが届いた。動画から目を逸らして見ると、信頼できる知人、藤本からだった。
「中井 様 ご無沙汰しています。実は今、感染症に罹って入院しています。比較的軽症なので、大丈夫だとは思うが、この病は突然のことがあるので、安心はできない。それであえて、あらためて。私のように中途半端なことはしないことだ。思うとおり、感じたとおりにおやり。 藤本」
中井は自分が凍ったことを意識していた。
我に帰ったとき酒井の大きな声が聞こえた。
「どうしたの。」
中井は動画越しに酒井を見て言った。
「今から行く。会ってもらえますか。」
酒井は何かの異常を解して、頷いた。
タクシーが酒井のマンションの前に着くと、入り口で酒井が待っていてくれた。二人は無言で歩き始めた。
今から行く、と言ったときから、考えていることは一つだった。ずっと一緒にいてほしい。今までも心の内に思うことはあったが、いずれ、と思っていた。他界するかもしれないと思った藤本からのメール、思うとおり、感じたとおりにおやり、という言葉に、中井は心した。
すっと一緒にいてほしい、とは、結婚の申込だ。それでいい。自分が一番望むもの。しかし、と中井は思った。ずっと動画越しだったので、触れたことすらなかった。
公園の中、中井が立ち止まり、酒井も合わせて止まり、中井の方を向いた。中井は酒井を抱き寄せた。酒井も中井を抱きしめた。
中井は酒井にキスをした。長いキスだった。
それから中井と酒井は見つめあった。
「ずっと一緒にいてほしい。」
中井の言葉に酒井は頷いた。それから二人はキスをした。
英会話レッスン後のキス