大事なお願い
夕食の前に聞いてほしいことがあるので、いつもより早く来てもらえないか。
一雄は四十過ぎの会社員、一人暮らし、食事は隣の大久保の叔父、叔母のところで取る。叔父の言葉に、いつもより早く叔父、叔母のところへ出向いた。
一雄には肉親がおらず、九歳のときに小林の老夫婦に引き取られて、育てられた。一雄が高校に入って間も無く、小林夫婦は疫病で他界した。その後、大久保の叔父、叔母に面倒を見てもらってきた。小林の家に一人住み、食事は大久保の家で食した。大学を卒業し、会社に勤め、一雄は結婚したが、二年もしないうちに離婚して、再び一人住まいになった。大久保の家で食事を取る暮らしに戻った。
大久保の叔父と叔母は食卓に座って待っていた。叔母は一年前に膝の手術をして以来、リハビリを続けているが、歩行はぎこちない。しかし賑やかなほど明るいのは変わりない。叔父は半年前に早期癌の手術をして経過観察中、痩せたが、それ以外に問題はない。しかし退院以来、何処か考えているところがある。一雄は折に触れて何を考えているのか聞き出そうとしたが、叔父は首を横に振った。
一雄がいつものように叔父の向かいに座ると、叔父が頭を下げた。
「悪いね、いつもより早く、」
一雄は何でもないというように首を振った。叔母を見ると、叔母は、私も知らないの、というように一雄を見返した。
叔父は姿勢を正し、言った。
「大事なお願いがあります。」
一雄は忘れられないことを想起した。
高校に入学して一月、授業中に連絡があり、至急家に帰るようにとのことだった。それ以上の事情は伝えられず、不安な心持ちで一雄は家に戻った。
一雄は物心ついたときには施設にいた。秋深い頃、施設の前にコートに包まれて置かれていたのだと聞いた。今思い返しても、施設は良くしてくれたと思う。他の暮らしをしたことがなかったからでもあるが、辛いと思うようなことはなかった。
九歳のとき、施設の長の友人という小林の老夫婦に引き取られた。夫婦は六十を過ぎていた。お爺さんとお婆さんと呼んでくれればいいと小林は言った。その言葉に夫人が首を傾げ、お爺さんと伯母さんでもいい、と言い直し、結局、伯父さんと伯母さんになった。一年経った頃か、なぜ引き取ったのかと尋ねたことがあった。伯母さんが笑いながら、伯父さんが赤毛のアンを好きなの、知っているでしょう、と言った。実際、小説の中で孤児が老兄妹に大事にされたのと同様に、一雄は大事に育てられた。
施設で辛くはなかったが、温かい気持ちは小林の家で知ったと思う。自然と笑うようになったとも思う。伯父と伯母は、いつも笑顔で前向きだった。
伯父と伯母は都心に住んでいたそうだが、一雄を引き取るときに、今の家に移り住んだ。大久保の叔父と叔母とはそのときからの付き合いだが、すぐに親しくなり、一雄は二つの家を行き来した。
一雄が高校から家に戻ると、小林の伯父と伯母は庭にいた。一雄が窓を開けて話しかけようとすると、伯父が制して、言った。
「窓を開けては行けない。このままで話ができるから。今から大久保さんにお話しするところ。一雄も聞いていてほしい。」
一雄が大久保の家を見ると、閉めた窓の向こうに大久保の叔父と叔母がいた。
小林の伯父と伯母が深く頭を下げた。
「大事なお願いがあります。」
それから伯父と伯母は大久保の叔父と叔母を懇願するように見た。伯父が言った。
「先程、検査の結果について連絡があり、私共二人が陽性、幸いにして一雄は陰性です。これから私共は入院します。一雄が一人になるので、面倒を見ていただくようお願いします。」
伯父と伯母は再び頭を下げた。大久保の叔父と叔母はそんなことは当然だという表情でやはり頭を下げた。
伯父は頭を上げ、毅然とした表情になった。
「大事なお願いはこれからです。私共、何としても戻ってきます。命が惜しい、というより、まだ高校生の一雄を一人にはできませんから。しかし二人とも年寄り、疫病に勝てないかもしれません。そのときは、そのときは一雄のことをよろしくお願いします。幾らかの蓄えはあります。家はもちろん一雄のものです。しかし一雄を一人にすることになる。お願いですから、一雄のそばにいて、面倒を見ていただけませんか。」
伯父は必死な表情で大久保の叔父と叔母を見た。伯母も同じように見つめた。
大久保の叔父が窓を開けた。伯母が叫ぶように言った。
「開けてはいけません。私たちは陽性なんです。あなた方まで陽性になったら、誰が一雄の面倒を見てくださるんです。」
大久保の叔父はそれでも窓を閉めなかった。
「距離がこれほど離れています。ともかく、こんな大事なことを窓越しになんて話せません。」
叔母も言った。
「そうです。お約束するのに窓越しなんてできません。」
叔母は涙で一杯だった。叔父が精一杯の様子のまま言った。
「承知したしました。何があろうと、一雄君のそばで、面倒を見ます。決して、寂しい思い、辛い思いはさせません。でも、私たちはどんなにしても小林さんのようには参りません。戻ってきてください。」
小林の伯父は安心して目を閉じ、頷いた。
「この歳になると、死ぬことはさほど怖くないんです。しかし一雄を引き取るときに、大人になるまで一所懸命に育てることを夫婦で誓ったんです。戻ってきます。でも、相手は疫病です。そのときは、お願いします。」
伯父と伯母が振り返り、一雄を見た。一雄は窓を開けた。伯父も伯母も止めなかった。
「ありがとう。一雄と一緒に暮らして、本当に幸せだった。」
「元気でね。大久保の叔父さんと叔母さんがいらっしゃるから安心している。」
「何があろうと、私たちは一雄のことを思っている。」
一雄は伯父と伯母を見て、言葉を聞くので精一杯だった。やっと思いを伝えることができた。
「ありがとう。」
伯父と伯母が微笑んで、手を振り、病院へと赴いた。
しかし伯父と伯母は戻ってこなかった。見舞いも許されず、一雄は大久保の叔父と叔母と待つだけだった。そして他界の知らせが届いた。隣り合わせのベッドで同日のことだったという。
初めて知った温かさをもぎ取られて、それでもやってこれたのは大久保の叔父と叔母が必死だったからだった。一雄に寂しい思い、辛い思いをさせまいと、一雄を一人にすることはなかった。物思いに沈んでいると、いつも少し離れたところに、叔父か、叔母か、あるいは二人がいた。一雄は大丈夫と頷き、二人も頷いた。
「大事なお願いがあります。」
その言葉に大久保の叔母も一雄と同じように反応した。何なの、大事なことって何。叔父は叔母の反応も予め予期していたかのようにそのまま言った。
「二人とも病気はしたとは言え、元気です。しかしもう小林のお二人よりは歳を取りました。いつ何時、何があるかもしれない。どちらかが先に行き、どちらかが残る。そのときは面倒を見てもらえないだろうか。お二人は自らの命がかかっていたのに一雄の面倒を見てほしいと頼まれた。それなのに私は一雄に自分達の面倒を見てほしいと言っている。お二人に合わせる顔がない。しかし歳を取ったからには備えておきたい。今のうち、元気なうちにお願いしておきたい。私は命がかかってからお願いするなんてことはできそうもない。申し訳ないが、一雄にお願いです。」
叔父が頭を下げた。
一雄は内心ほっとした。そのとき、叔母が声を上げて、笑い出した。叔父が驚いて叔母を見た。それでも、叔母は構わず笑い続ける。そして一雄を見て、視線を交わして、さらに笑い続けた。
「こんなに大事なことを、必死にお願いしているというのに。」
叔父が叔母に言った。叔母は泣き笑いになっていた。落ち着いてから叔父を見て言った。
「そうです。大事なことです。でも、同じことを私がもう一雄にお願いしたんです。」
叔父は叔母の言ったことを解せなかったようで、叔母を見ていた。
「あなたが言ったことと同じことを、あなたが手術する日の朝、私は一雄にお願いしました。早期癌ゆえ大丈夫だと思うけれど、何があるか解らない。だからお願いしました。一雄はもちろん了解してくれました。」
叔母は笑いは止んで涙が残っていた。叔父はことの次第を解した。
「このところ何か考えていると思ったら、そんなことだったんですか。」
叔父は頷いた。
「私よりはるかに一雄はあなたのことを心配してきたんですよ。手術は成功したし、経過も良好のはずなのに、叔父さんはなぜ考えているんだろうって。一雄を心配させてどうするんです。私たちはお二人にお約束したんです。一雄の面倒を見るって。心配させるなんてお約束してません。」
叔父は叔母の言葉に一雄の言動を思い返していた。
「申し訳ない。」
一雄は微笑みながら返した。
「安心しました。お二人はお元気ですから。でも何かあればもちろん面倒を見させていただきます。小林の伯父さんと伯母さんにことがあって、お二人に面倒を見ていただきました。こういうことは順番ですから。」
叔父と叔母が笑い出した。小林の穏やかな朗らかさとは違った、大久保の賑やかなまでの明るさが戻った。
「それじゃあ、夕飯にしよう。お腹がすいた。」
叔父が言った。
そのとき一雄が姿勢を正して言った。
「大事なお願いがあります。」
叔父と叔母が一雄を正視した。
一雄が長い間考えてきたことを伝えようとしていた。
「家族を持つことにしました。」
叔父が興味深そうな顔をして大きな声で言った。
「再婚。」
一雄は予期せぬ言葉に一瞬止まり、笑い出した。そして首を横に振った。
「兄と妹の二人を引き取るんです。家庭内虐待で施設に預けられた子なんですが、私でいいと、私がいいと言ってくれたので。」
一雄は成人してから自らがいた施設に時折訪れ、運営の手伝いをしてきていた。大久保の叔父と叔母はそんな一雄を誇らしげに思ってきた。しかし一雄が二人の子を引き取るなんて。
「思っておられるとおり、この歳になってもこうやって食事やら何やら面倒を見ていただいている身が二人も子供を引き取るなんて、大それた事です。でも、一人でも二人でも少しでも温かい気持ちにできたら、私が小林のお二人に、そして大久保のお二人に育てていただいた恩返しができる。」
一雄があらためて姿勢を正した。
「大事なお願いです。私一人では容易ではありません。お二人に手伝って頂きたいんです。」
叔母は泣き出していた。叔父も涙一杯だった。
「よろしいでしょうか。」
叔母も叔父も当然といわんばかりに頷いた。
一雄が携帯電話を掛けた。
「大丈夫だ。叔父さんと叔母さんのご了解をいただいた。いらっしゃい。」
大久保の叔父と叔母は何が始まるのかと一雄を見た。
食卓の前に、小さな男の子とさらに小さな女の子とが並んだ。後ろに一雄が立って、それぞれの肩に手を掛けて言った。
「宏君と樹さんです。こちらが大久保の叔父さんと叔母さんです。これからよろしくお願いします。」
兄妹と一雄が頭を下げた。大久保の叔父と叔母は慌てて涙目の涙を拭き、笑顔で言った。
「こちらこそよろしくお願いします。お腹空いていない。一緒に食べよう。叔母さんの料理はなかなかなんだ。」
一雄は思い起こしていた。
「大事なお願いがあります。」
大事なお願い