手


(フンコロガシの手足が糞を転がすためにあるんなら、僕のこの手はなんのためにあるんだろう。)
 逆立ちをして後ろ向きになり、後肢に付いている爪を糞に刺してそこを中心にひょい、ひょいと回転させていく様は痛快と言ってもいいくらい。糞が転がるスピイドが上下するのと同じように、僕の心もぐんぐんとたゆみ、ほらいけもう少し、と声援を送った。「手に職よ」という母の口癖が、こいつを思うと分かるような気がする。
 (なら、僕の手はなんのためにあるんだろう。これはなにをする手なんだろうか。)
 隣からやってきたフンコロガシが、「手伝ってやろうか」と親切そうな姿勢で、やってきて、同じように逆立ちになり、つやつやの糞に後肢をのせて、横から押し始めると、糞はどんどん目的の穴とは違う方向へ行ってしまう。そうすると二匹は逆立ちのまま、はたき合いになり、これはどちらか落ちたほうが、この糞を手に入れるのだという格好になってきた。
 仮に最初の奴を「拓郎」、途中から意気揚々と割り込んできたのを「哲也」としよう。拓郎ははじめ哲也の横腹に左足でぴっぴっと蹴りを素早く二回入れると、哲也はそれを反動に体を反転させてジャンプし、太い前肢で拓郎の頭を叩いた。それが効いたのかどうか分からないが、拓郎は糞からずり落ちて、離れて行った。
 哲也はその糞を自分の穴に持っていき、その穴の中に糞をしまうと、自分もその中に入り土で入口を塞いだ。きっとこれからゆっくり食べるんだろう。ファアブル昆虫記でこんな場面を読んだ気がする。
 母は僕が本を読むのが好きと分かると、毎月、僕がほしい本を一冊買ってくれた。それからたくさん本を読み、四段の棚には隙間なく本が並べられていた。でも、その棚いっぱいの本を読んでも僕の手は本のペエジを素早くめくるくらいのことしかできるようにはならなかったし、この手を他のなにかに使おうという気にもなれなかった。
 結局、本のペエジをめくることしか能のない手に向かって、お前はなにになりたいんだ?と何百回問いかけてみても、手には意思がないのであって、その心は僕の所にあるのを僕は知っているのだけれども、自分自身にそれを聞くことはなかった。
 じゃあ、どうしたらいいですかと教師に訊いても、「きみの人生だ」と追い返され、友人にぼやいてみても「おれだって、自分のことすら分からない」と嘆き返され、もうこの悩みを打ち明けるあてもなく、さて、どうしたものかと僕は思った。
 仕方なく、今の自分を日記にでも書き綴ってみようと、ノオトを取り出してみたけれど、真新しい白い紙は、僕に、書けよ書けよと迫ってくるので、恐くなり、すぐに閉じてしまった。
 例えば、拓郎が糞を奪われた後に、どう自分を納得させて、次の糞ボオルを作りに行ったのかということが知りたかったわけで、なにも昆虫の習性を知りたかったわけじゃない。僕はそこに身勝手な解釈をつけて、物語を創作して楽しんでいたわけだ。習性と習性のあいだにぽっかり抜け落ちたみぞに僕はなんの気もなしに手を差し込んで、その感触を味わっていたわけだ。僕の手はそういう時にとても役に立つんで、神経が集中して通っているぶん、冷たさや生温かさ、固形、液体なんかの粒の粗さまで感じることができた。そんな特技を自分の中だけではとても有意義なものとしていたけれど、それを口に出して誰かに話してしまうと、もう取り返しがつかないことになるというのは、中等部くらいまでに学んだ。
 つまり、それは現実社会にはどうにも受け入れられることのない手であった。けれども、僕がはたちを超えて、皆さまが流行って追いかけるこいなどというものには効果があって、巧くこいを掻き立てて、優しく育てることができた。
 が、同時に、早くに育ったアサガオは早くに枯れていくもので。こいを知り始めてから、しばらくしてそれは呪いに変貌していた。なんとも、僕という人間は同級の人らよりも早くに厄介事を抱え込む習性があるようなのだ。
 さて、その習性と習性のあいだのみぞに、なにがあるのかと手をさしのべてみた。
 (でもなんでか、そこには、母の冷たい手があった。)

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-02-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted