銀嶺の獣
創作「銀嶺の獣」の掌編集です。一部挿絵あり。
気が向いた箇所から書いているため展開に抜けがありますが、およそ時系列順に並べています。
新しいものが書けたら随時追加していきます。
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出会い
ひどい吹雪だった。
雪はまるで波のように、絶えずごうごうと辺り一帯に打ち付ける。木の幹は雷のような音を立ててしなり、風は耳元で渦巻いた。吹雪は容赦なく、その冷たさを身体の芯まで染み渡らせようとしてくる。耳や指の先が痛み、感覚が鈍くなっていくのを感じていた。
銀の毛並みに白い雪が張りつき、周囲の景色に溶けてゆく。
一匹のオオカミは針葉樹の大木の根本に体を伏せたまま、その体の上に冷たい雪が積み重なるのをじっと動かずに耐えていた。いっそ穴でも掘って雪の中に身を隠した方が、この厳しい風を凌げるであろうことは分かっていた。しかし、もう自力で穴を掘るだけの体力も残っていなかったのだ。
やがて、雪と毛皮の見分けがつかなくなりそうになってきたその時、耳がわずかに動く。
(……遠くで雪崩が起きたか)
まぶたをほんの少し持ち上げてみる。目に入る景色は相変わらず、斜めに吹き荒れる雪で真っ白だった。
オオカミは再び目を閉じ、鼻の先を雪の中にうずめた。
(ここもいつ吞まれるか分からない。だけど、動いても動かなくても同じことだ。体は冷えたし、お腹も空いたし……さっきから眠くて仕方がない。もうオレは――)
その先の言葉を考えると、既に冷え切った背筋がさらに凍り付きそうに震えあがった。
(いや、まだだ。まだオレは死にたくない! こんな場所で、ひとりっきりで凍え死んでたまるものか!)
自分自身を鼓舞するように、彼は頭の中でそう繰り返した。しかし、それでも状況が好転するわけではない。雪は銀の毛皮の上に白い層を重ねていき、全身の温度を奪っていく。穴を掘るどころか、立ち上がる気力すら湧かなかった。
その時、周囲の唸るようなざわめきに混じって、木の枝の軽く擦れる音がした。
タイミングも大きさも、風が揺らすものとは全く違う。その音は確かに、何者かの気配を伴うものだった。
オオカミははっと意識を取り戻し、目を見開いた。毛深いまぶたから落ちた雪が、あっという間に風に飛ばされる。
彼の目の前には巨大な、それは巨大な縦長い影がひとつ、ぬっと立ちはだかっていた。
咄嗟に立ち上がり威嚇の姿勢になった――つもりだったが、痩せた細い脚は、どうにか自分の体を持ち上げることしかできなかった。身体はがくがくと震えるばかりで、何の警戒心も示せない。その謎の怪物を睨みつけ、唸り声をあげるのがせいぜいだった。
雪が視界を邪魔して、相手の顔は一切見えない。ぼんやりとしたシルエットが、薄暗い中に浮かぶばかりだ。
(熊か……? いや、角がある。でも、トナカイだとしても大きすぎるぞ)
焦るなか、思考は上手くまとまらなかった。目の前のその生き物は、これまでに見たことのある大型の生き物のどれとも違っていたのだ。しかし、自身の身に危険が迫っていることは明確だった。野生の本能が、自らにそう告げていたのだ。
牙をむき出して必死に唸っていると、その影は口を開いた。
風の音の合間にどっしりと低く響く、静かな声だった。
「オオカミか……まだ若いな。群れからはぐれたのか」
「!」
彼は息をのんだ。一匹のオオカミの身に、その言葉は鋭く突き刺さる。
(違う、はぐれたんじゃない、オレから離れたんだ!)
オオカミはそう叫ぶように、歯茎をむき出して、より激しく唸った。しかし、巨大な相手は怯むどころか、一切の動く様子すら見せなかった。
びゅう、と鋭い音を立てて風向きが変わる。一瞬の向かい風に巨大な怪物の匂いが乗って、オオカミの鼻まで届いた。つんとするほど冷たい空気に混じったわずかな匂いを、彼の鼻は正確に嗅ぎとった。
(なんだこれ、変な匂いだ。鹿でもあるし、熊でも、オオカミでもある……それから、焼けた木みたいな。他にも色々混ざってる。こんなの、どこでも嗅いだことない)
オオカミがそうして考える数秒の間に、怪物はゆっくりと踵を返していた。
「……ふん、可哀想にな」
そう吐き捨てて、それは億劫そうにのそのそと元来たほうへ歩き出す。強風の中を何でもないように進んで、その影は段々と吹雪の中にのまれゆく。白い地面に残された、トナカイに似た幅の広い蹄の足跡も、あっという間に風にかき消され始めた。
(あいつ、オレを食う気じゃないのか)
オオカミはどこか呆然としながら、遠ざかるその後ろ姿を見つめていた。
自分を襲うどころか、哀れむ言葉すらかけていった謎の生き物。あれが一体何者なのか、それはオオカミにはてんで分からなかったが、ただひとつ明らかなことがあった。
(……このままここにいても、凍え死ぬか飢え死ぬか、どちらかだ。もしあいつがオレを食うような奴じゃないなら、あいつについていけば、あるいは――)
オオカミは肺にひとつ冷たい空気を入れると、バウッとひと声あげた。
それでも怪物は立ち止まる様子がない。彼は全身のわずかな力を振り絞り、巨大な相手に飛びかかった。
ちょうど尻尾のように垂れ下がった部分に噛みついたその瞬間、オオカミは強い違和感を覚えた。中身がないのだ。そこには生き物としての温度も、骨や肉の質感もなかった。
「……変なオオカミだな。鼻が利かないのか? これはお前の仲間の毛皮だぞ」
巨大な怪物はそう言ってオオカミの首根っこを掴み、顔の前まで持ち上げた。
(たっ、高い!)
脚が宙に浮き、瞬間的に地面が遠ざかる。辺りの低木よりずっと高い位置まで一瞬で持ち上げられたのだ。その恐怖に、オオカミは反射的に脚をすくめて体を丸くした。
あまりの恐ろしさに、抵抗する勇気もなかった。それに、こんな高さから投げ落とされたりでもしたら、ただでは済まないだろう。怪物の意図は分からなかったが、無事に下ろしてもらうのが先決だ。
「キャン……キューン……」
下ろしてくださいと言わんばかりに、耳を伏せ、上目遣いでその顔を見る。
よく見れば、その毛むくじゃらの怪物の顔には毛がなく、上半分は黒っぽくて硬いものに覆われていた。目がどこかすらよく分からない。少なくとも、オオカミやトナカイのような長い顔ではなく、それどころか熊よりも平たい奇妙な顔であることは分かった。
それはまた数秒の間黙っていたが、やがて口をわずかに開いて、ゆっくり息を吐いた。
「……吹雪が止むまでだぞ」
オオカミの視界が明るかったのは、そこまでだった。一瞬のうちに、オオカミは狭くて暗い場所に押し込められた。怪物は彼を、自分の毛皮の中に入れたのだ。
すぐにわずかな縦揺れが始まり、怪物が歩き始めたのが分かった。
狭い隙間に乱雑に詰め込まれたオオカミは、何が起きたのか分からずに、手足をばたつかせて滅茶苦茶に声をあげた。暗闇の中、あの奇妙な匂いが鼻いっぱいにつく。
怪物は低くぴしゃりと言い放った。
「黙れ。捨て置いてもいいんだぞ」
その言葉に、オオカミはひとつ小さく鳴いて、暴れるのをやめた。
動くのをやめると、体はすぐに疲労を思い出したようだった。足先の冷えがじわじわとほどけ、波のような眠気が襲いかかってくる。狭い暗闇は暖かく、一定のリズムで揺れる。外の吹雪の音はにぶく聞こえ、もはや別世界のもののようだった。
こんなところで、寝てはいけない。
そう思う間もなく、彼はゆらゆらと意識を落としていった。
怪物の巣
薄暗い中、オオカミは目を覚ました。
目の前では小さな火が静かに燃えている。風はなく、暖かな空気がぼんやりと辺りに漂っていた。吹雪の音は遠くくぐもって聞こえ、さっきまであの厳しい風の中にいたのが嘘のようだった。
(オレは……あれから寝てしまっていたのか)
彼の琥珀色の目は、ぼんやりと火花の弾けるのを眺めていた。
次第に頭がはっきりしてくると、ようやく辺りの様子に気がつき始めた。
どうやらここは、巣の中のようだった。それも、固めた枝葉や穴ぐらのようなものではない。天井も壁も床も、明らかに何者かの手によって作られたもので、随分と立派な巣のようだ。
目の前の焚き火は、石を並べて丸く囲われた中で燃えていて、周囲の地面はむき出しだった。焚き火のすぐ近くで寝ていたオオカミもその地面の上にいたわけだが、彼の足元には丁寧に、草を編んだような敷物が敷かれていた。
部屋の奥のほうに目をやると、床が木の板になっている部分もあるようだったが、ほとんどは押し固めた干し草の上に敷物を広げたような作りだった。壁は様々な布や木でつぎはぎに覆われており、壁際には棚や机、かまどのようなものも見える。しかし焚き火の光があまり届かないので、詳しいことはよく分からなかった。
さっき押し込められた毛皮で嗅いだのと同じ匂いが、暖められた空気と一緒に、辺りに充満している。
オオカミは寝そべったままの偵察を終え、ひとつ鼻息を吐いた。
(そういえば、あの怪物はどこだ? オレをこんなところに置いて、どこかに行ったのか)
その時、部屋の奥の暗闇から、のそりと巨大な影が姿を表した。
大きさ、角と脚、頭の毛色、それから匂い――そういった要素から判断するに、この生き物は確かにさっきの怪物だった。しかしそれと同時に、オオカミの観察眼は確かな違和感を覚えていた。
(体の毛皮の色が……いや、顔もさっきと違うぞ)
吹雪の中での記憶を辿れば、確かにあの時は青い毛皮と、顔に張り付いた黒っぽい覆いが見えた。しかし今目の前にいるものの毛皮はもっとくすんでいるし、その顔は何にも覆われていなかった。鋭く青い瞳が、銀色の長い毛の隙間から見えた。
それはオオカミのほうを一瞬見やると、口を開いた。
「起きたか」
低く腹の底に響く、静かでゆっくりとした声だ。
オオカミは返事をする代わりに、鼻を軽く鳴らした。それを見た怪物はオオカミにゆっくりと近づくと、いくつかの黒っぽい欠片を目の前に置いて言った。
「干し肉だ。少し柔らかくしてあるから、いくらか食べやすいだろう」
オオカミはそれを聞いて、迷わず飛びついた。確かに表面が少し水っぽいのに内側が固くて、普通の肉より食べにくい。それでも久しぶりの食事は、何よりも嬉しかった。
オオカミが食事に夢中になっている間、怪物は辺りの敷物を整えたり、棒で焚き火をつついたりしていた。赤い火花が、ぱちぱち音を立てる。
それから怪物はゆっくりと腰を下ろした。細長い脚の先には平たい蹄があって、銀と白が混じった長い毛が覆いかぶさっている。それは姿勢を整えると、ふう、と深いため息を吐き出した。
怪物の間合いは、オオカミにとっても近すぎず遠すぎない、丁度いい距離だった。
明るい中で見ることでようやく、怪物の毛皮の色がさっきと違うわけが分かった。この怪物は、様々な色や長さの毛皮を幾重にも体に身に付けているのだ。
(そうか、毛皮を脱いでるからさっきと色が違うんだ。あの時言っていた通り、こいつは仕留めた動物の毛皮を剥いで纏っているんだ……おかしなことをするなあ)
オオカミはそう考えて、自分がそのうちの一枚になることを想像しそうになったところで、ぶんぶんと首を振った。
(こいつ、何を考えてるのか全然分からなくて不気味だ。……でも大丈夫だろう。もしこいつがオレを殺そうとしたら、その時に逃げればいいんだから)
楽観的なオオカミはそう考えて、口の周りをひと舐めしてから、ぐぐっと伸びをして、再び敷物の上に横になった。
焚き火の熱が全身をじんわり照らす。少し前まで外の吹雪で全身が凍りつきそうになっていたのが嘘みたいに、体はぽかぽかと温かかった。
「……体温は、だいぶ戻ったろう」
怪物は焚き火から目を離さずに、ぼそりとそう呟いた。
「バウッ」
と、小さく答える。怪物はほんの僅かに頷いた。
「吹雪が止んだら、森へ帰るんだな。オオカミはオオカミの群れで暮らすもんだ」
それを聞いて、オオカミはぴたりと止まった。その言葉には、さっきのようにすぐに答えることができなかったのだ。
静かな炎の音と、くぐもった風の音だけが、部屋の中に響く。
オオカミは、群れと離れるまでのことを思い出していた。
(……そんなこと言われても、オレには帰る群れもないんだ。新しい群れも、きっと作れない。だって……だって、オレはみんなと同じオオカミのはずなのに、オレは他のやつが言っていることがあんまりよく分からないし、他のやつもオレの言葉が分からないんだ)
他のオオカミの冷たい視線。伝わらない意図。自分だけ理解できない言葉。食事も少ししか分けてもらえず、腹を空かせる毎日。群れはいつの間にか、真っ白な銀世界に自分を置いて、どこかへ行ってしまった。
(オレはなんでかみんなと違うんだ。きっとこれからもひとりぼっちで――)
そこまで考えて、オオカミははっとした。頭の中で、ぱっと稲妻のようなものが走る。目をまん丸く見開き、反射的に立ち上がる。
(待てよ……嘘だろ! どうして気がつかなかったんだ!)
胸がどきどきして、息が浅くなる。
(オレ、こいつの言葉が分かるじゃないか!)
「バウッ! バウバウッ!!」
オオカミは我慢できずに声をあげた。鳴き声は壁に反響して、暗い空間にわんわんとうるさく響く。
怪物は不快そうに顔をしかめた。
「なんだ急に、うるさいな。外へ追い出すぞ」
その脅しも耳に入らないほど、オオカミは興奮していた。
(分かる――分かるぞ! こいつの言っていることが分かる!! こんなの初めてだ!)
どのオオカミとも違う言葉を、この怪物はずっと話していたのだ。自分が理解できるのと全く同じ言葉を。驚きと嬉しさでいっぱいになって、落ち着くことなどできなかった。何度も鳴き、しっぽを振り回しながら怪物の周りを早足で歩き回る。
「……せめて吠えるのをやめろ。耳にひびいてかなわん」
その言葉にオオカミはようやく鳴くのをやめて、怪物を見上げた。怪物は無表情のまま、静かに言った。
「うろつくのはいいが、火には気を付けろよ」
オオカミはひとつ小さく鳴くと、怪物のすぐ横で丸くなった。怪物の頭を覆う長い毛が、はさりと背中に被さった。その色が自分の毛色に似ていることに気が付く。オオカミは嬉しくなって、彼の青い瞳を見上げた。
(きっとオレはオオカミじゃなくて、こいつの仲間だったに違いない。いつか、オレがお前の言葉を理解してるってことを伝えてやるんだ。きっと、オレはお前と、出会うべくして出会ったんだ!)
怪物の視線は一瞬オオカミに向き、それから焚き火に戻った。
火が枝を燃やし、静かに音を奏でている。外でうなる吹雪の音は、まだ当分続きそうだった。
沢
「あ! 何かいたよ!」
少女が川のほうへぐいっと身を乗り出す。
ニーナが指差す先では、水が穏やかに流れていた。朝日を受けた水面は、静かに音をたてながらちらちらと輝いている。小さな沢は、ここ数日の雪解け水でいつもより僅かに水流が速い。
ゼルデデは、ニーナが持った枝の片側を軽く引っ張って警告した。ついさっき少女に「こっち側を持ってて」とせがまれて持たされたものだった。
「こら。あまり、川縁に近づくんじゃない。……雪が滑って、落ちるぞ」
「大丈夫だよ! ほら、ニーナは枝のこっち側持ってるでしょ。こうやって、手を離さなきゃいいんだよ」
無邪気な少女はそう言って、枝の片側をつかんだまま、ぶらぶらと体重をかけるように川を覗き込む。
ゼルデデは枝と一緒に紐を握る手を強めた。
その細い紐はニーナの腰元につながっていた。それは、まだ幼く落ち着きのない彼女を森で見失わないよう、結びつけたものだ。使い始めてから数週間というところだったが、幸か不幸か、この紐は既に何度かその役目を果たしていた。
ゼルデデは、また今日も面倒事が起こるのかと、うんざりした気持ちになった。
「川縁は危ないんだ。前にも一度川に入って、ひどい風邪をひいただろう。あれと同じようになる……」
「ゼルデデほら! あそこにも! あれってお魚? 捕まえられないかなあ」
心配をよそに、ニーナは水の中の気配に夢中になっていた。川のほうへ重心を移動させるたび、小さな靴はぎゅむ、と微かな音を立てて雪に沈み込む。雪の下の岩が滑る想像は容易についた。
ゼルデデは仮面の下で眉をしかめ、低いため息を吐く。それから、脇でそわそわとしているオオカミに声をかけた。
「おいアル。お前も見ていないで、こいつを止めろ。俺は、また病人の面倒をみるのは、こりごりなんだ」
オオカミはその不機嫌そうな顔を一瞬見上げてから、真意を察する。
『ニーナ、ゼルデデが心配してるぜ』
湿った鼻でぐいと胸元を押され、ニーナは唇を尖らせた。「はーい」と煮え切らない返事をして、ゼルデデの足元まで後ずさる。
「ね、ゼルデデはあの魚とれる?」
ニーナを連れて数歩下がりながら、ゼルデデは仮面越しの川に目をやった。銀に光る水面の下で、小さな影が揺れているのが見える。
「捕れるが、ここのは小さすぎて、食えるようなものではない。わざわざ捕ろうとは、思わん」
そう不愛想に言った数拍の後、ゼルデデはまた口を開いた。
「……興味があるなら、後で釣具か罠でも作ってやろうか」
「釣り! やりたい! ね、早くお散歩終わらせて帰ろうよう」
少女は見上げた瞳を輝かせて、ぐいぐいと枝を引っ張る。
わがままな振る舞いに呆れながら、ゼルデデは白い息を吐いた。
焚き火
山の天気が変わるのは、突然だった。
散歩の間に吹雪に吹かれたゼルデデは、連れていた一人と一匹を軽々とかつぎ上げた。
「わっ」
と驚く小さな声には気にも留めず、少し歩いた場所に突然現れた洞窟に潜り込む。雪の中にぽっかりと開いた入り口は随分と狭く見えたが、彼は一切の躊躇を見せることなく、その中へ入っていった。
薄暗い闇の中に下ろされた二人は、冷たい雪の張り付いた顔を見合わせた。
ゼルデデはただ一言
「そこにいろ」
と呟き、奥へと歩いていった。
目の前には、外の雪のわずかな光も届かない闇が広がっている。オオカミのアルには、この洞窟がどれほど広いのかも見当がつかなかった。音の響き方と、並の人間より背の高いゼルデデが難なく歩けるところを見るに、洞窟の天井は随分と高さがあるようだった。
外の吹雪はひどくなる一方だった。しかし、その冷気を含む風は外をごうごうと通り過ぎるだけで、洞窟の内側へ吹き込んでくる風は、ほんの少しだけだった。ひゅうひゅうと、耳をつんざくような高い音が響く。
アルはニーナが冷えないように、その分厚い毛皮をぎゅっと近寄せた。
洞窟の奥で、ゼルデデは何かがたがたと音を立てている。状況がまだあまり理解できていない様子の少女は、呑気に質問を投げ掛けた。
「ねー、何してるの」
その高い声は、洞窟の中にわあんとこだました。絶えず反響している外の風音と重なって、耳の奥が揺らされる。
ゼルデデはただ一言
「準備」
とだけ返事をした。暗い中で何をしているのか、ニーナの視界にはほとんど映らない。
やがて彼は入口付近に戻ってきた。それから、どうにか吹雪の風が当たらないくらいの場所に座ると、手に持ってきた枝をがさがさと置いた。服から火打石を取り出し、手慣れた様子で布の切れ端に火を点ける。その火口の火は枯れ枝に燃え移り、やがて小さな焚き火となった。
ニーナとアルはぴったりくっついたまま、そこへ近付いた。
「あったかいねぇ」
少女は手をかざして、にこにこと微笑む。
火は辺りをぼんやりと照らし、洞窟の高い壁に大きな影を作った。それはまだ小さかったが、雪に凍えた彼らにとっては何よりも頼もしい暖かさだった。
ゼルデデは黙って、火の様子を見ながら淡々と枝を投げ込んでいく。枝はぱちぱちと音を立て、段々と火の勢いも強まってきた。
洞窟の壁に、三つの大きな影がゆらゆらと映る。
『よく燃やせるような枝があったな』
それは二人にだけ聞こえるアルの声だ。
ゼルデデは火から一切目を離さずに、ぼそぼそとした低い声で答える。
「この辺りはよく通るから、こういう時のために、時々物資を補給しているんだ。……奥に小さな縦穴もあるから、換気も心配ない……良い場所だ」
そこでオオカミは改めて周囲を見回した。少し明るく照らされた辺りを見れば、火を焚いた跡や掃除をした形跡が見えた。
『へえ、避難所ってとこか。こういう場所は他にもあるのか?』
「……何か所か、ある」
会話はそれきりだった。
暖かな炎に照らされた空間には、ごうごうと強まる風の音が、くぐもって響いていた。
焚き火が安定してくると、ゼルデデは雪で濡れた上着を脱いだ。上着の表面が乾くように焚き火のそばに広げ、いつの間にか外していた仮面をその上に静かに置く。
ゼルデデが焚き火に向かってどっしりと腰を下ろすと、アルとニーナはいそいそと移動し、彼を挟むようにぴったりと座り込んだ。
「ねえゼルデデ、お話して」
ニーナはそう言ってゼルデデを見上げる。目が合うと、少女の金と青の大きな瞳はぱちぱちと瞬きをした。大男は僅かに眉をしかめる。
「話、だと?」
「うん!」
「……話すことなど、ない」
考える素振りもなく、ゼルデデは首を横に振った。
その態度に、少女は頬を膨らませる。
「作り話でも、昔話でも、何でもいいんだよ。このままじゃ眠くなっちゃう! ねえ、アルもそうでしょ?」
『オレは別に……』
オオカミはそう言いかけて、目の前にいる少女のしかめっ面の意味を汲み取った。ここで少女の機嫌をとらないと、後々面倒なことになりそうだ。
『ゼルデデ、オレもお前の話が聞きたいな。お前はこの中で一番長生きだから、色んな話を知っているだろ』
男は眉をさらに曲げ、一人と一匹の顔を見やった。左右から投げられる視線は、純粋で期待に満ちている。
彼は眉間の皺に手を当てて、低く長いため息をゆっくりと吐きだした。
それからさらに少し間をおいて、彼は観念したように口を開いた。金色の目に、焚き火の明かりがちらつく。
「……俺が子どもの頃に聞いた話だ。昔、とある村に男が住んでいたという。彼はたいへんな正直者で――」
普段とは違う朗々とした語り口に、ニーナとアルは一瞬目を合わせた。
その驚きは、話に聞き入っていくとすぐにどこかへ行ってしまった。それはどこにでもあるような昔話だった。けれど、彼の紡ぐ言葉には、まるでその話を本当に見てきたかのような様子があった。
低い声で紡がれる語りが、洞窟内にこだまする。
うなる風音が、枯れ枝がはじける音と重なり、歌のように響いていた。
銀嶺の獣