銀嶺の獣
創作「銀嶺の獣」の掌編集です。一部挿絵あり。
気が向いた箇所から書いているため展開に抜けがありますが、およそ時系列順に並べています。
新しいものが書けたら随時追加していきます。
各章への移動は、メニューの目次欄からどうぞ。
※一部、野生動物の狩猟、キャラクターの流血表現を含みます。
出会い
ひどい吹雪だった。
雪はまるで波のように、絶えずごうごうと辺り一帯に打ち付ける。木の幹は雷のような音を立ててしなり、風は耳元で渦巻いた。吹雪は容赦なく、その冷たさを身体の芯まで染み渡らせようとしてくる。耳や指の先が痛み、感覚が鈍くなっていくのを感じていた。
銀の毛並みに白い雪が張りつき、周囲の景色に溶けてゆく。
一匹のオオカミは針葉樹の大木の根本に体を伏せたまま、その体の上に冷たい雪が積み重なるのをじっと動かずに耐えていた。いっそ穴でも掘って雪の中に身を隠した方が、この厳しい風を凌げるであろうことは分かっていた。しかし、もう自力で穴を掘るだけの体力も残っていなかったのだ。
やがて、雪と毛皮の見分けがつかなくなりそうになってきたその時、耳がわずかに動く。
(……遠くで雪崩が起きたか)
まぶたをほんの少し持ち上げてみる。目に入る景色は相変わらず、斜めに吹き荒れる雪で真っ白だった。
オオカミは再び目を閉じ、鼻の先を雪の中にうずめた。
(ここもいつ吞まれるか分からない。だけど、動いても動かなくても同じことだ。体は冷えたし、お腹も空いたし……さっきから眠くて仕方がない。もうオレは――)
その先の言葉を考えると、既に冷え切った背筋がさらに凍り付きそうに震えあがった。
(いや、まだだ。まだオレは死にたくない! こんな場所で、ひとりっきりで凍え死んでたまるものか!)
自分自身を鼓舞するように、彼は頭の中でそう繰り返した。しかし、それでも状況が好転するわけではない。雪は銀の毛皮の上に白い層を重ねていき、全身の温度を奪っていく。穴を掘るどころか、立ち上がる気力すら湧かなかった。
その時、周囲の唸るようなざわめきに混じって、木の枝の軽く擦れる音がした。
タイミングも大きさも、風が揺らすものとは全く違う。その音は確かに、何者かの気配を伴うものだった。
オオカミははっと意識を取り戻し、目を見開いた。毛深いまぶたから落ちた雪が、あっという間に風に飛ばされる。
彼の目の前には巨大な、それは巨大な縦長い影がひとつ、ぬっと立ちはだかっていた。
咄嗟に立ち上がり威嚇の姿勢になった――つもりだったが、痩せた細い脚は、どうにか自分の体を持ち上げることしかできなかった。身体はがくがくと震えるばかりで、何の警戒心も示せない。その謎の怪物を睨みつけ、唸り声をあげるのがせいぜいだった。
雪が視界を邪魔して、相手の顔は一切見えない。ぼんやりとしたシルエットが、薄暗い中に浮かぶばかりだ。
(熊か……? いや、角がある。でも、トナカイだとしても大きすぎるぞ)
焦るなか、思考は上手くまとまらなかった。目の前のその生き物は、これまでに見たことのある大型の生き物のどれとも違っていたのだ。しかし、自身の身に危険が迫っていることは明確だった。野生の本能が、自らにそう告げていたのだ。
牙をむき出して必死に唸っていると、その影は口を開いた。
風の音の合間にどっしりと低く響く、静かな声だった。
「オオカミか……まだ若いな。群れからはぐれたのか」
「!」
彼は息をのんだ。一匹のオオカミの身に、その言葉は鋭く突き刺さる。
(違う、はぐれたんじゃない、オレから離れたんだ!)
オオカミはそう叫ぶように、歯茎をむき出して、より激しく唸った。しかし、巨大な相手は怯むどころか、一切の動く様子すら見せなかった。
びゅう、と鋭い音を立てて風向きが変わる。一瞬の向かい風に巨大な怪物の匂いが乗って、オオカミの鼻まで届いた。つんとするほど冷たい空気に混じったわずかな匂いを、彼の鼻は正確に嗅ぎとった。
(なんだこれ、変な匂いだ。鹿でもあるし、熊でも、オオカミでもある……それから、焼けた木みたいな。他にも色々混ざってる。こんなの、どこでも嗅いだことない)
オオカミがそうして考える数秒の間に、怪物はゆっくりと踵を返していた。
「……ふん、可哀想にな」
そう吐き捨てて、それは億劫そうにのそのそと元来たほうへ歩き出す。強風の中を何でもないように進んで、その影は段々と吹雪の中にのまれゆく。白い地面に残された、トナカイに似た幅の広い蹄の足跡も、あっという間に風にかき消され始めた。
(あいつ、オレを食う気じゃないのか)
オオカミはどこか呆然としながら、遠ざかるその後ろ姿を見つめていた。
自分を襲うどころか、哀れむ言葉すらかけていった謎の生き物。あれが一体何者なのか、それはオオカミにはてんで分からなかったが、ただひとつ明らかなことがあった。
(……このままここにいても、凍え死ぬか飢え死ぬか、どちらかだ。もしあいつがオレを食うような奴じゃないなら、あいつについていけば、あるいは――)
オオカミは肺にひとつ冷たい空気を入れると、バウッとひと声あげた。
それでも怪物は立ち止まる様子がない。彼は全身のわずかな力を振り絞り、巨大な相手に飛びかかった。
ちょうど尻尾のように垂れ下がった部分に噛みついたその瞬間、オオカミは強い違和感を覚えた。中身がないのだ。そこには生き物としての温度も、骨や肉の質感もなかった。
「……変なオオカミだな。鼻が利かないのか? これはお前の仲間の毛皮だぞ」
巨大な怪物はそう言ってオオカミの首根っこを掴み、顔の前まで持ち上げた。
(たっ、高い!)
脚が宙に浮き、瞬間的に地面が遠ざかる。辺りの低木よりずっと高い位置まで一瞬で持ち上げられたのだ。その恐怖に、オオカミは反射的に脚をすくめて体を丸くした。
あまりの恐ろしさに、抵抗する勇気もなかった。それに、こんな高さから投げ落とされたりでもしたら、ただでは済まないだろう。怪物の意図は分からなかったが、無事に下ろしてもらうのが先決だ。
「キャン……キューン……」
下ろしてくださいと言わんばかりに、耳を伏せ、上目遣いでその顔を見る。
よく見れば、その毛むくじゃらの怪物の顔には毛がなく、上半分は黒っぽくて硬いものに覆われていた。目がどこかすらよく分からない。少なくとも、オオカミやトナカイのような長い顔ではなく、それどころか熊よりも平たい奇妙な顔であることは分かった。
それはまた数秒の間黙っていたが、やがて口をわずかに開いて、ゆっくり息を吐いた。
「……吹雪が止むまでだぞ」
オオカミの視界が明るかったのは、そこまでだった。一瞬のうちに、オオカミは狭くて暗い場所に押し込められた。怪物は彼を、自分の毛皮の中に入れたのだ。
すぐにわずかな縦揺れが始まり、怪物が歩き始めたのが分かった。
狭い隙間に乱雑に詰め込まれたオオカミは、何が起きたのか分からずに、手足をばたつかせて滅茶苦茶に声をあげた。暗闇の中、あの奇妙な匂いが鼻いっぱいにつく。
怪物は低くぴしゃりと言い放った。
「黙れ。捨て置いてもいいんだぞ」
その言葉に、オオカミはひとつ小さく鳴いて、暴れるのをやめた。
動くのをやめると、体はすぐに疲労を思い出したようだった。足先の冷えがじわじわとほどけ、波のような眠気が襲いかかってくる。狭い暗闇は暖かく、一定のリズムで揺れる。外の吹雪の音はにぶく聞こえ、もはや別世界のもののようだった。
こんなところで、寝てはいけない。
そう思う間もなく、彼はゆらゆらと意識を落としていった。
怪物の巣
薄暗い中、オオカミは目を覚ました。
目の前では小さな火が静かに燃えている。風はなく、暖かな空気がぼんやりと辺りに漂っていた。吹雪の音は遠くくぐもって聞こえ、さっきまであの厳しい風の中にいたのが嘘のようだった。
(オレは……あれから寝てしまっていたのか)
彼の琥珀色の目は、ぼんやりと火花の弾けるのを眺めていた。
次第に頭がはっきりしてくると、ようやく辺りの様子に気がつき始めた。
どうやらここは、巣の中のようだった。それも、固めた枝葉や穴ぐらのようなものではない。天井も壁も床も、明らかに何者かの手によって作られたもので、随分と立派な巣のようだ。
目の前の焚き火は、石を並べて丸く囲われた中で燃えていて、周囲の地面はむき出しだった。焚き火のすぐ近くで寝ていたオオカミもその地面の上にいたわけだが、彼の足元には丁寧に、草を編んだような敷物が敷かれていた。
部屋の奥のほうに目をやると、床が木の板になっている部分もあるようだったが、ほとんどは押し固めた干し草の上に敷物を広げたような作りだった。壁は様々な布や木でつぎはぎに覆われており、壁際には棚や机、かまどのようなものも見える。しかし焚き火の光があまり届かないので、詳しいことはよく分からなかった。
さっき押し込められた毛皮で嗅いだのと同じ匂いが、暖められた空気と一緒に、辺りに充満している。
オオカミは寝そべったままの偵察を終え、ひとつ鼻息を吐いた。
(そういえば、あの怪物はどこだ? オレをこんなところに置いて、どこかに行ったのか)
その時、部屋の奥の暗闇から、のそりと巨大な影が姿を表した。
大きさ、角と脚、頭の毛色、それから匂い――そういった要素から判断するに、この生き物は確かにさっきの怪物だった。しかしそれと同時に、オオカミの観察眼は確かな違和感を覚えていた。
(体の毛皮の色が……いや、顔もさっきと違うぞ)
吹雪の中での記憶を辿れば、確かにあの時は青い毛皮と、顔に張り付いた黒っぽい覆いが見えた。しかし今目の前にいるものの毛皮はもっとくすんでいるし、その顔は何にも覆われていなかった。鋭く青い瞳が、銀色の長い毛の隙間から見えた。
それはオオカミのほうを一瞬見やると、口を開いた。
「起きたか」
低く腹の底に響く、静かでゆっくりとした声だ。
オオカミは返事をする代わりに、鼻を軽く鳴らした。それを見た怪物はオオカミにゆっくりと近づくと、いくつかの黒っぽい欠片を目の前に置いて言った。
「干し肉だ。少し柔らかくしてあるから、いくらか食べやすいだろう」
オオカミはそれを聞いて、迷わず飛びついた。確かに表面が少し水っぽいのに内側が固くて、普通の肉より食べにくい。それでも久しぶりの食事は、何よりも嬉しかった。
オオカミが食事に夢中になっている間、怪物は辺りの敷物を整えたり、棒で焚き火をつついたりしていた。赤い火花が、ぱちぱち音を立てる。
それから怪物はゆっくりと腰を下ろした。細長い脚の先には平たい蹄があって、銀と白が混じった長い毛が覆いかぶさっている。それは姿勢を整えると、ふう、と深いため息を吐き出した。
怪物の間合いは、オオカミにとっても近すぎず遠すぎない、丁度いい距離だった。
明るい中で見ることでようやく、怪物の毛皮の色がさっきと違うわけが分かった。この怪物は、様々な色や長さの毛皮を幾重にも体に身に付けているのだ。
(そうか、毛皮を脱いでるからさっきと色が違うんだ。あの時言っていた通り、こいつは仕留めた動物の毛皮を剥いで纏っているんだ……おかしなことをするなあ)
オオカミはそう考えて、自分がそのうちの一枚になることを想像しそうになったところで、ぶんぶんと首を振った。
(こいつ、何を考えてるのか全然分からなくて不気味だ。……でも大丈夫だろう。もしこいつがオレを殺そうとしたら、その時に逃げればいいんだから)
楽観的なオオカミはそう考えて、口の周りをひと舐めしてから、ぐぐっと伸びをして、再び敷物の上に横になった。
焚き火の熱が全身をじんわり照らす。少し前まで外の吹雪で全身が凍りつきそうになっていたのが嘘みたいに、体はぽかぽかと温かかった。
「……体温は、だいぶ戻ったろう」
怪物は焚き火から目を離さずに、ぼそりとそう呟いた。
「バウッ」
と、小さく答える。怪物はほんの僅かに頷いた。
「吹雪が止んだら、森へ帰るんだな。オオカミはオオカミの群れで暮らすもんだ」
それを聞いて、オオカミはぴたりと止まった。その言葉には、さっきのようにすぐに答えることができなかったのだ。
静かな炎の音と、くぐもった風の音だけが、部屋の中に響く。
オオカミは、群れと離れるまでのことを思い出していた。
(……そんなこと言われても、オレには帰る群れもないんだ。新しい群れも、きっと作れない。だって……だって、オレはみんなと同じオオカミのはずなのに、オレは他のやつが言っていることがあんまりよく分からないし、他のやつもオレの言葉が分からないんだ)
他のオオカミの冷たい視線。伝わらない意図。自分だけ理解できない言葉。食事も少ししか分けてもらえず、腹を空かせる毎日。群れはいつの間にか、真っ白な銀世界に自分を置いて、どこかへ行ってしまった。
(オレはなんでかみんなと違うんだ。きっとこれからもひとりぼっちで――)
そこまで考えて、オオカミははっとした。頭の中で、ぱっと稲妻のようなものが走る。目をまん丸く見開き、反射的に立ち上がる。
(待てよ……嘘だろ! どうして気がつかなかったんだ!)
胸がどきどきして、息が浅くなる。
(オレ、こいつの言葉が分かるじゃないか!)
「バウッ! バウバウッ!!」
オオカミは我慢できずに声をあげた。鳴き声は壁に反響して、暗い空間にわんわんとうるさく響く。
怪物は不快そうに顔をしかめた。
「なんだ急に、うるさいな。外へ追い出すぞ」
その脅しも耳に入らないほど、オオカミは興奮していた。
(分かる――分かるぞ! こいつの言っていることが分かる!! こんなの初めてだ!)
どのオオカミとも違う言葉を、この怪物はずっと話していたのだ。自分が理解できるのと全く同じ言葉を。驚きと嬉しさでいっぱいになって、落ち着くことなどできなかった。何度も鳴き、しっぽを振り回しながら怪物の周りを早足で歩き回る。
「……せめて吠えるのをやめろ。耳にひびいてかなわん」
その言葉にオオカミはようやく鳴くのをやめて、怪物を見上げた。怪物は無表情のまま、静かに言った。
「うろつくのはいいが、火には気を付けろよ」
オオカミはひとつ小さく鳴くと、怪物のすぐ横で丸くなった。怪物の頭を覆う長い毛が、はさりと背中に被さった。その色が自分の毛色に似ていることに気が付く。オオカミは嬉しくなって、彼の青い瞳を見上げた。
(きっとオレはオオカミじゃなくて、こいつの仲間だったに違いない。いつか、オレがお前の言葉を理解してるってことを伝えてやるんだ。きっと、オレはお前と、出会うべくして出会ったんだ!)
怪物の視線は一瞬オオカミに向き、それから焚き火に戻った。
火が枝を燃やし、静かに音を奏でている。外でうなる吹雪の音は、まだ当分続きそうだった。
伝承
オオカミが怪物と出会った、初めての冬が終わろうとしていた。
そのとき怪物は川まで水を汲みに外へ出て、オオカミもその後について歩いていた。
太陽は白く濁った雲に覆われて見えなかったが、おそらく空の天辺を少し過ぎた頃だろう。昨日の午後から雪は降ったり止んだりを繰り返していた。
辺りの景色はまだ分厚い雪に覆われていたが、麓のほうを見れば、以前より少し雪の白が減っているように見えた。怪物の家からは、その雪解けの境目が日に日に山腹を登ってくるのがよく見えた。
背の高い怪物は、その枝角がぶつからないように器用に木々の間を抜け、斜面をずんずん歩いていく。オオカミははぐれないようにその背中をせわしく追った。白い雪に、蹄と肉球の足跡が残される。
やがていつもの水汲み場に近いところまで来ると、怪物は口を開いた。
「おい」
その無愛想で短い呼び掛けに、オオカミはバウッと鳴いて応える。
「昨日かけた罠の様子を見てきてくれ」
オオカミはまた短く一度吠えて、言われた通りに、仕掛け罠があるほうへ駆けていった。
彼は未だ怪物と会話をすることは叶わなかったが、怪物の方はオオカミが自身の言葉を解しているようだということが、多少なりとも分かってきていたようだった。それでここ何日かかけて、オオカミはようやく簡単な意思を伝えることができるようになっていたのだ。イエスなら短い吠えを一度、ノーなら短くうなる、といった具合である。
オオカミはもっと自分の考えをはっきりと伝えたいと思っていたが、怪物のほうがいつも必要最低限のことしか喋らないので、これ以上の会話は不可能だったのだ。
(もっと色んなことを話したいのに。あいつの正体だって、名前だって、何にも知らないんだから!)
そう考えながら、彼は木々と雪の間をすり抜けて進んでいった。昨日の記憶と匂いの痕跡を頼りにしながら、いくつかの地点を確認して回る。
昨日怪物が仕掛けたくくり罠には、ほとんど何もかかっていなかった。そのうちの一つにはイノシシの足跡が残されていたが、罠に気づいていたのか、辺りを警戒して避けていった様子が見てとれた。
(ここもだめ……ここもか。残るはあと一つだ)
獲物がいないことが分かると、すぐにその場から離れる。オオカミは最後の罠を確認しに向かった。
目的の地点に近付くと、雪で縁取られた黒い木々の向こうに、何かが動いているのが見えた。それが動くたび、辺りの白い雪がぱっ、ぱっと飛び散る。
それを見て、オオカミは反射的に藪に身を隠した。瞳孔を開き、息をひそめる。
(ウサギだ)
白い塊が、後ろ足を地面の罠にとられて暴れていた。掴まってからあまり時間は経っていなさそうだ。
ひとつ、ふたつ、と呼吸を数えながら、意識を研ぎ澄ませる。
(――今だ!)
オオカミは木の影から勢いよく飛びかかった。
相手に向かったその大きな牙は、小動物の首元をまっすぐ捉えた。彼は暴れる体を前足でしっかりと押さえこみ、ウサギの細い首筋に牙をぐぐっと押し込んだ。
温かい血が白い毛皮を伝い、雪を赤く染める。
ウサギはしばらくの間激しくもがいていたが、やがてじっと動かなくなった。四肢の力が抜けて、だらりと雪の上へ垂れる。それを確認してようやく、オオカミは獲物から口を離した。
(やったぞ。あいつに教えなきゃ)
群れにいた頃はいつも白い目を向けられていた狩りの腕前だが、今のような生活なら役に立てられる。そのことはオオカミに自信を与えていた。
オオカミが遠吠えしようとしたその瞬間、ピィーッと高い音が空につんざいた。鳥の声にも似た音だが、今の季節のこの山に、あんな鳴き方をする鳥はいない。オオカミには、その音の正体がすぐに分かった。
(あいつの笛の音だ)
それは少し前、怪物がオオカミの目の前で吹いて見せたものである。確かあの時は
「これを鳴らしたら、おれのもとへ来い。……お前がどれほど理解してるのかは、分からんが」
と、そう言われたのだった。
勿論このオオカミはその時言われたことを理解し、そしてしっかりと覚えていたのだが、今ここを離れるわけにはいかなかった。彼の前足では獲物のウサギを罠から取り外すことができなかったし、かといって新鮮な肉を置いていくのも惜しかったのである。
そこでオオカミは何度か空に向かって吠えた。声は白い空にしんと響く。
少しもしないうちに、怪物は斜面をずんずん登ってやって来た。少し早い足どりは、一切の迷いなくオオカミのもとへたどり着いた様子を示していた。
怪物はオオカミと、その足元で息絶えたウサギを順番にちらりと見て
「捕れたか」
と呟いた。オオカミが軽く吠えて答える間もなく、慣れた手付きでウサギを罠から外す。獲物の脚をロープで手際よくまとめ、自分の腰紐にさっさと結びつけながら、怪物は言った。
「これだけか?」
オオカミはその通りだと言うように吠えて答えた。怪物は僅かに頷くとさっと立ち上がり、休む間もなく足早に歩き出した。
それは家とは逆の方向だった。よく見れば腰に下げられた水汲み樽も空である。怪物はオオカミが着いてくるのを横目でちらりと確認すると、またぼそりと言った。
「用事ができた。……少し急ぐ」
怪物は、それ以上は何も言わなかった。オオカミは黙って着いていきながら、こう考えた。
(普段より少し、落ち着きがないみたいだ)
それは、獲物を扱う時の怪物の視線の動きや手付き、それに今の歩き方なんかから、なんとなく感じられるのだった。普段と比べるとほんの僅かな違いだが、オオカミが知るこの数ヵ月間では初めての様子だった。
怪物はほとんど立ち止まることなく歩いていった。
この辺りは倒木や低木が雪に隠れて歩きづらいにも関わらず、一切の迷いのない進み方だった。まるで、どこを踏めばいいのか全て分かりきっているかのようだ。オオカミは怪物が作った雪道をなぞるように、足跡を重ねながら歩いていく。普段より悪い足場を構わず進んでいくところを見るに、本当に急いでいるようだった。
怪物の言う通り、その道のりは随分と長かった。
山脈の向きに沿うように、それでいて少しずつ標高が低い方へ進んでいく。普段の行動範囲を大きく外れていて、オオカミも初めて来るような場所だった。
怪物は時折立ち止まっては、トナカイのような耳を立ててじっと何かを聞きとり、また歩き出すのだった。
オオカミは、怪物のこの行動の不可解さはさておいて
(こいつの縄張りはずいぶん広いんだな)
と素直に感心するのだった。
日が傾き、木々の下に薄暗さが立ち込めはじめた時、怪物はふと歩みを遅めた。オオカミがちゃんと着いてきているのを見ると
「この辺りだ」
と小さく呟く。まるで独り言のような言葉だったが、それは状況が一切分かっていない自分のために言ってくれているのだろう、とオオカミは理解した。
怪物は辺りを見回し聞き耳を立てながら、上着の中からあの仮面を取り出した。黒っぽく硬い素材で出来ていて、目のところに細い隙間が開いている奇妙なものだ。
怪物はそれを顔に着けると、また辺りに注意を配りはじめる。
オオカミはこれまでの観察から、その仮面が何のためのものなのかを考えていた。
(あの顔のやつ、一体何なんだろうか。これまでは天気が良い日によく着けるから、眩しいのかと思ってたけど……今は夕方の曇りなのに、どうして着けるんだ?)
しかし、その推理と新たな疑問は、すぐに頭の隅に追いやられた。
目の前の怪物が、不自然にぴたりと立ち止まる。オオカミの視線はまず怪物に向かい、それからその視線の先にと移った。
そこにいたのは一匹の生物だった。
オオカミにとって初めて見るその生物は、なかなか奇妙なものだった。
二本足で立つ姿はすぐそこにいる怪物によく似ているが、より小さな背丈で、頭の角もない。脚もトナカイのようなものとは違って細くまっすぐ縦に伸びて、足先は分厚い布で覆われているようだった。腕には、先に布が巻かれた木の枝が握られている。
怪物と比べると、随分と小さく細く、弱々しく見える。
その姿を見たオオカミの脳裏に、ひとつの単語が浮かんだ。
(あれは、人間だ)
何気なくそう思ったことを飲み込みかけて、いや、と首を振る。自分自身に対するひとつの疑問が浮かんできたのだ。
(オレは人間を知っている……? 初めて見るのに、どうして……)
それが何故なのかという問いは、瞬間、耳につんざく叫び声で搔き消された。
「ひっ……こ、殺さないでくれ!」
人間はその叫びと同時に、手に持った棒を振り回しながら一歩後ずさった。懐を探るものの、ぶるぶると震える手では何を取り出すこともできない様子だった。目を見開き、歯をがちがちいわせている。
怪物はまったく対称的な落ち着き払った様子で、人間に語りかけた。
「殺す気はない。そこは足場が悪いから、こっちへ来い」
オオカミはその言葉で初めて、人間の背後からごうごうと滝のような音が響いているのに気がついた。おそらく崖の向こうが、急な川にでもなっているのだろう。人間が向こうへ逃げていこうとしないのも、それで合点がいった。
それでも人間は動こうとせず、怪物を追い払おうとするかのように、木の枝をむやみやたらに振り回した。
途端、人間の足が雪の下の岩でわずかに滑ったようだった。体勢がぐらつき、片方の足を踏ん張る。しかしそれが切っ掛けとなったのだろう。
人間の足元の岩が、がらがらと川の方へ崩れる音がした。
(大変だ、助けなきゃ!)
咄嗟にそう考え、オオカミの脚は駆け出した。一直線に向かえば間に合う――。
しかし、彼の牙は人間の服を掴むことができなかった。オオカミは川に落ちるすんでのところで踏みとどまり、頭上を見上げる。
さっきまで目の前にあったはずの人間の足が、今は頭上に見えたからだ。
オオカミが人間の服を咥えるよりずっと速く、怪物の手が、人間の首根っこを掴み上げていたのだ。
「……だから、足場が悪いと言ったのだ」
怪物はかすかな溜め息とともに、そう呟いた。
服の首元を掴まれ、細く頼りない足先はわずかに地面から浮いた。その人間が持っていた棒切れは、足下に広がる川に落ちていった。人間の口からは
「ひ……うっ……」
と、小さな音のような声が漏れるばかりだ。その視線は泳ぎ、手足は震えている。
怪物は人間が落ちないように――あるいは、崖下の川を覗き込もうとでもしたのだろうか――小さな身体を持ち上げたまま自身のほうへ引き寄せ、わずかに身を乗り出した。
その時、人間の上着の下に隠れた腰元から、銀色の鋭利な切っ先がちかっと光った。
――オオカミにとってさえも、一瞬の出来事だった。
それを払い落そうと飛び掛かる間もなく、ナイフは怪物の腹へ、真っ直ぐ突き立てられた。
怪物の体がわずかに震え、息が詰まる音が聞こえる。紺に染められた毛皮が、刃物の縁からじわりと黒く染まった。
しかし、それだけだった。怪物の仮面の下に覗く表情には、一切の動揺が見られない。人間を持ち上げたままの腕もびくともしなかった。息を止めた一瞬にちらりと自分の体を見ただけで、あとはただまっすぐ、人間を見据えていた。
やがてゆっくりと吐き出される息が、白く染まる。
人間はその様子に気が付くと、みるみる青ざめていった。
震えた小さな手が、刺さったままのナイフの柄からこぼれ落ちた。
腹に刺さった刃物をそのままに、怪物はゆっくりと二、三歩下がると、人間を地面に下ろした。腰が抜けた人間はそのままへたり込み、巨大な姿を見上げるばかりだ。
怪物はゆっくりと、言い聞かせるように言った。
「これは無駄なことだ。俺は、お前に危害を与えない。話を聞け」
それから小さく息を吸い、大きな手が細いナイフの柄を掴む。怪物がゆっくりと自らの腹から刃を引き抜くと、服に空いた穴から赤黒い液体がどくりと漏れだした。
静かに流れ出る血によって毛皮の染みはあっという間に広がり、服に施された模様をも次々と赤くしていた。
オオカミの鼻腔に、鉄っぽい匂いが充満してゆく。
(おい、かなり血が出てる! このままじゃ死んじまうぜ!)
彼はそれを伝えようと必死に何度も吠えたが、怪物はかすかに口元をしかめて
「うるさい。俺は人間は殺さんし、食いもせんぞ。お前にもやらん」
と言うばかりだった。
(ああ、もう! そんなことが言いたいんじゃないんだよ、オレはお前のほうを心配してるんだ!)
オオカミは歯がゆい思いでいっぱいだった。もし今怪物と同じ言葉を喋ることができたら、どんなにありがたいだろう! しかしそれは彼にとって、空から食事が降ってくるとか、急に狩りが上手くなるとか、そういった事と同じくらい望めないことだった。
彼はつい吠え続けながらも、焦る頭で考えた。今のオオカミには、ひとまず自分も人間の味方だということを示す必要があった。そこで、雪の上に尻餅をついたままの人間のもとへ歩み寄り、くうんと鳴いたり、そっと鼻先でつついたりするのだった。
怪物はそれを見て軽く鼻を鳴らし、人間に向き直って静かに言った。
「山道に迷ったのだろう。送ってやる」
人間は視線を泳がせたまま、何かよく分からないことをぶつぶつと繰り返している。ろれつも回っていないようで、オオカミにも何も聞き取れなかった。
怪物は少しの間それに耳を傾けていたが、やがて
「疲労で判断力が鈍っとる」
と呟いた。
彼は毛皮で雑に拭いたナイフを腰帯に留めると、人間を軽々と持ち上げて小脇に抱え込んだ。腕をしっかりと押さえ込むような姿勢にされ、呆然とした人間はされるがままだった。
怪物が立ち上がる瞬間、オオカミは自分の目と鼻を疑った。怪物の巨体が立ちくらみのようにほんのわずかにふらついた――にも関わらず、その腹の傷からは、もう古い血の匂いしかしなくなっていたからだ。服を伝う血液の流れも、もう止まっていた。
戸惑うオオカミに、怪物は低く声を掛ける。
「おい、寝る場所を探すぞ」
オオカミははっとして、ひとつ吠えた。
夜の闇はあっという間に迫ってくる。夜営するための場所を探し始めてすぐ、川の上流に窪んだ岩壁があったのは幸運だった。
冷たい空気をすべて防ぎきれるわけではないが、風が当たらない場所もある。怪物は一番奥に人間を下ろし、その手前で火を焚いた。辺りには岩も木の枝も沢山あったから、火床を作るのも簡単だった。
それから怪物は自分の上着を脱ぎ、人間に差し出した。
「さっきの血がついとるが、ないよりはましだろう」
断る気力もない人間は、黙って重たい上着を受け取る。手に取ってすぐにその匂いに顔をしかめたが、仕方ないと諦めた様子でのそのそと背中に被せた。
オオカミは上着に潜り込み、人間の背中に密着するように寝そべった。息を飲む音が背中越しに聞こえたが、怪物は作業の傍らでその様子を見やって言った。
「そのオオカミは大丈夫だ。……おおかた、そいつの親切心で体温を分けてやろうとでもしてるんだろう」
オオカミは顔を出し、機嫌良くひと鳴きした。
(その通りだよ! よく分かってるじゃないか)
怪物の言葉を信じきれない様子の人間は、まだオオカミのほうをちらちらと見ながら体をこわばらせていた。それでも焚き火で体が温まってくるにつれ、緊張はほどけていったようだった。体の震えもおさまっていた。
辺りが本格的に暗くなり、焚き火が投げる光だけが森の中に残り始めた。闇の中に雪がちらつき始める。聞こえるのは、少し遠くを流れる川のうなりと、枝が燃えるかすかな音、そして怪物の立てる物音だけだった。
怪物は昼間のウサギを雪の上で捌いてきたようだった。骨が付いたままの肉を弱火にかけ、その一方で雪を溶かして水を作る。火の隅の平らな石の上では内臓が焼かれている。その匂いにオオカミは涎が止まらなかった。
怪物の手際の良い行動のすべてを、人間はじっと黙って見つめていた。何を感じ、考えているのか、オオカミにはまるで分からなかった。
怪物は焚き火を挟んでどっしりと座り込むと、口を開いた。
「飯を食って寝れば、明日には回復してるだろう。……村へ送ってやる、どこの出だ」
「……ウザト」
人間の答えに、怪物は仮面の下で満足げに頷いた。
会話はそれきりで、再び静寂が訪れる。
やがてウサギに火が通ったのを見ると、怪物はぼそりと
「いいだろう」
と呟いた。懐から包みを取り出して、中の小さな硬いパンをいくつか人間に投げ渡し、こんがりと焼けたウサギの後ろ脚を一本差し出した。
「血抜きが足りんから臭いだろうが、死ぬようなもんじゃない。食え」
人間は受け取った肉と怪物を交互に見やると、ごくりと息をのんだ。おそるおそる口をつけた――と思うや否や、がつがつと夢中で食べ始めた。どれだけ飢えていたのかと驚くほどの食べっぷりに、横で同じものを食べているオオカミさえも目をみはる。
最初の肉もパンもあっという間になくなり、怪物は次の一切れを差し出した。人間はもう躊躇することなく、その恩恵に食らいついた。
一方で、怪物はほんの少しの肉と内臓に手を付けただけだった。いくらかをオオカミのために取り分けて冷まし、それ以外のほとんどを人間に食べさせた。
オオカミにとってはそれほど多い食事ではなかったが、内臓を半分分けてもらったことでとても満足していた。
(オレは生でもいけるんだけどな。でもまあ、焼いたのも案外悪くない)
オオカミが自分用の肉をぺろりと平らげて満足げに横たわるそばで、怪物は木彫りの小さなカップで沸いた湯を掬い、
「冷まして飲め」
とだけ言って人間に手渡した。
受け取る瞬間、人間はとても不思議そうな顔をして、怪物の顔をじっと見つめていた。堅牢な仮面の下は、瞳の色はおろか眉の動きすら読めない。それでも何かに気付いたらしい人間は、やがて一つの質問を投げかけた。
「……お前、ゼルデデか」
その言葉に、オオカミは耳をぴんと立てた。
怪物の表情は相変わらず読めないが、動揺する様子もなければ、否定の言葉も出なかった。普段と全く同じ様子で、静かに口を結んでいる。
(こいつ、ゼルデデって名前だったのか)
怪物は何も言おうとしなかったが、人間がいつまでも返事を待っているのを見て、やっと諦めたかのように言葉を漏らした。
「だったら、どうした」
いつも通りの低く擦れた声だ。だがオオカミには、その響きに疲労のような、少しの憂いが混じっているように感じられた。
人間は納得した様子で何度か静かに頷くと、また口を開いた。
「村のじいさんが、よく言っていたんだ。山奥にはゼルデデという巨人がいて、迷いこんだ人間を襲うんだと」
オオカミはちらりと怪物のほうに視線をやった。
(人間を襲うだって? 確かに見た目は怖いやつだが、そんなことないぜ)
そんな思考を知るよしもなく、人間は肩を軽くすくめて続けた。
「どうせ俺らを山奥に立ち入らせないためのお伽話かと思っていた。山の巨人だなんて、ありきたりな伝承だと。しかし、いざ山道を見失ってしまうと、本当に怖かったんだ。下山しようと歩き続けても村に戻れなくて、天気も悪くなりやがる。やっと見つけた川に沿っていくら進んだが、帰れる気配が一向に感じられないんだ」
先程までのことを思い出したのか、人間の声はか細くなり、その指先は震えていた。
「何度、もうだめだと思ったか知れない。でも、だ。まさかあのゼルデデが本当に居たなんて……しかも、こんなに親切にしてくれるなんて、思ってもみなかった」
ゼルデデはなおもじっと黙りこくり、人間が話したいようにさせていた。人間はにわかに仮面の顔を見据えて言った。
「皆、お前のことをほら話の怪物だと思っている! でも事実は違う。俺はこうしてお前の親切に命を助けられている。お前は本当は善人なんだろう? 俺は、村に帰ったら本当のことを話すよ。ゼルデデは本当に居るんだと、人間の味方なんだと、皆に伝えようと思うんだ」
長い髪の下で、怪物の耳がぴくりと動いた。
「お前の言い伝えは、他の村でも――」
人間が続けようとしたその言葉を遮って、ゼルデデは低く、しかしはっきりと言い放った。
「ありがたいとでも、言うと思ったか」
人間は戸惑い、言葉を失った。怪物の声色には、オオカミがまだ聞いたことがない怒りの様子が感じ取れた。
ゼルデデはまた黙ってしまった。少しの沈黙が流れ、焚き火の音が岩壁に響く。
やがて怪物は口から長いため息を吐き出したかと思うと、無愛想にこう言った。
「俺がいるからって、気軽に山へ入られるようになったら、手間が増えて迷惑な話だ。訂正する必要など、ない」
オオカミは黙って聞き耳を立てていたが、怪物の言い分には納得を覚えていた。
怪物が何故こんな場所に住んでいるのかは、未だ謎だった。それでも今日、こうしてわざわざ長い距離を歩いて、こいつは人間のもとへやって来たのだ。
このゼルデデという男は、きっと人間のことを嫌っているわけではないのだろう。むしろ自分の力をもってして助けたいとすら思っている。だからこそ、彼らがこの山に入ってみすみす危険を冒すようなことが、あってほしくはないのだ。
(どうして人間のこと好きなのに、人間と暮らさないのか……それは謎だけどさ)
でも、と人間は口を開いた。
「でも……でもお前は確かに俺の命の恩人だ。村に帰ったら礼をする……それに、さっき刺した詫びも、させてくれ」
たどたどしい言葉だが、その目はまっすぐに仮面の隙間を見つめていた。それでもゼルデデは首を横に振る。
「恩も礼もいらん。人間が俺の縄張りで死ぬのを、見たくないだけだ。腹の傷も、塞がった」
そう言いながら、脇腹のあたりを静かにさする。黒っぽく染まった毛皮は乾ききっていて、もうしばらく新しい血が出ていないことを教えていた。
ゼルデデは
「もう寝ろ。明日は早い」
としか言わず、人間も何も返さなかった。
やがて、完全な夜が訪れた。人間の小さな寝息が聞こえる中、オオカミはどうにも眠れずにいた。雪は暗闇の中をしんしんと降り続けている。
ゼルデデは今晩は寝るつもりがないようで、静かに火の面倒を見ていた。仮面を外した顔が、弱い火にぼんやりと照らされている。
その瞳は青かったが、光の加減のせいか、わずかに金色に光っているようにも見える。ここ最近の怪物の瞳は、よくそういう不思議な色をしていた。オオカミはその色合いから目が離せなかった。
その目がゆっくりと周囲を見渡し、やがてオオカミの目と合う。
怪物は人間を起こさないためか、囁くように言った。
「お前もとっとと寝ろ。明日は日の出前に出る」
うつ伏せに寝そべったオオカミは、小さくくぅんと鳴いた。怪物は特に何の反応も返さなかった。オオカミはじっと、闇を背後にした怪物の姿を見つめていた。
怪物は夕方のことを思い出しているらしかった。上着よりずっと血の染みが広がった脇腹をさすり、顔をしかめる。痛みというよりは、どこか思い悩むような表情に思えた。その口から、聞き取るのもやっとな、独り言のような言葉が漏れる。
「あいつが刺したのが俺で、よかった。もしあいつが、自分に刃を向けるなぞしていたら……」
ゼルデデの喉元はわずかに震え、それ以上先のことは言わなかった。その瞳を炎越しに見ながら、オオカミはうとうととし始めた。
(こいつはただの動物じゃない。オオカミでも人間でも、トナカイでもない。でも確かにオレの仲間だし、人間の味方だ。一体何なんだろうか)
その答えなどなく、小さな呟きだけが、夜闇にぽつりとこぼれる。
「帰ったら、また服を縫わなきゃならん……」
オオカミは眠りに落ちるまで、怪物の焚き火の音に耳を傾けていた。
翌日の早朝、彼らは夜営地を後にした。
日の出よりも前、まだ空の群青がようやく白に霞み始めたくらいの頃だ。空の雲は昨日までよりずっと減っている。仮面の怪物、人間、オオカミの順に縦に並び、彼らは歩き始めた。
ゼルデデは、春先の滑りやすい雪の中を躊躇なく進みながら、時折ちらりと振り返り、人間の歩きを気にしているようだった。それでも人間にとってはかなり速かったようで、追い付くために何度も止まってもらう必要があった。オオカミは、足場の悪いところで人間の背を頭で押してやったり、転びそうになるのを支えてやるのだった。
道のりは長かった。この人間はこの森で迷い果ててしまってから、相当な距離を彷徨ったのだろう。それでも怪物は辺りの地形を知り尽くしているのか、足場が厳しいところを避けてなお、後戻りや余計な迂回はほとんどしなかった。
障害を避けられない時――例えば、雪解け水で増水した小川を渡ろうとする時は、怪物が一人と一匹を抱えて越えていった。そんな時、凍りそうなほど冷たい水に脚が濡れることは、意にも介していないようだった。人間が礼を言っても、怪物は黙ったまま歩みを進めるのだった。
彼らは昼に休憩を挟んだ。
少し森が開けた岩場に立ち止まり、人間を休ませると、ゼルデデは
「弓矢を貸せ。何か獲る」
と声をかける。おずおずと差し出された弓を受け取って少し眺めると、オオカミを連れてその場を離れた。
オオカミにとって、怪物との狩りはもう慣れたものだった。自分は獲物の匂いを嗅ぎとって、それをうまく追い詰めればいい。シカなんかの群れを見つけると追い立てて、はぐれた個体をさらに追う。そうすれば怪物の弓が的確に獲物を仕留めるのだ。
この時は、産まれてから一歳に満たない若いシカを一頭狩ることができた。矢は見事に心臓に命中し、シカは少し走った先でばったりと倒れていた。
ゼルデデはさっと駆け寄り、脚を震わせるシカの頸動脈を切った。辺りの雪が真っ赤に染まる。それから腹を捌き内臓を取り出し、中の血汚れを新鮮な雪で拭き取った。
ゼルデデは手際よくそれらの処理をしながら、不満げに
「弓が小さすぎたな。いつものなら……」
と独り言をぶつぶつと呟いていた。
(確かに弓はいつもの半分以下の大きさだけどさ。獲れたんだからいいじゃないか)
オオカミは取り出された暖かな内臓に食らいつきながら、そう呑気に考えていた。
怪物はシカの前肢を片方切り取ると、残りを担ぎやすいようにロープで縛った。
ふたりが戻ると、人間は大層安心した様子を見せた。一人きりの間、よほど心細かったらしい。
切り取られたシカの脚は少し捌かれ、火にかけられて人間の昼食になった。仕留めたてで硬さがあるはずだが、人間はそんなことは気にならないとでも言うように旺盛に食べた。
食べきれなかった骨付きの肉を布に包みながら、人間は言った。
「昨日言われた通り、俺はお前の話をしないことにする。でもせめて、村に帰ったら礼はさせてくれないか! 村に入りたくないと言うのなら、俺が森まで運んでくるよ。食料でも道具でも、何でもやる!」
その言葉に、尚もゼルデデは
「いらん」
と冷たく返すばかりだった。人間は不満そうだったが、怪物の態度は岩のように揺るがなかった。
道中、怪物はふたりに何度か休憩と食事を挟ませたが、自身は少し遠くで立っているだけで、何も口にする様子がなかった。オオカミは
(お前は腹が空かないのか)
と訊ねようと鳴いてみせたが、怪物は
「帰りの道筋なら心配いらん。迷うことはない」
と返すのだった。オオカミはまた言葉が通じないもどかしさを覚えるばかりだった。
彼らは同じ調子で歩き続けた。やがて日が傾き、森に影が差しはじめる。
(そろそろ寝る場所を探さなきゃならないんじゃないか。夜になっちまうぜ)
オオカミはそう考えたが、怪物は歩みを止める様子がない。
その時だった。
「ここだ!」
突然人間が叫び、立ち止まった。かと思うと、彼はゼルデデを追い越すように駆け出した。
「ああ、この景色だ! この目印も村のものだ……! ここまで来れば思い出せる、俺はあっちから歩いてきたんだ!」
人間は足早に雑木林の中に歩み入り、感慨深い様子で辺りを見回した。
高ぶった様子の人間をよそに、ゼルデデは音もなく踵を返し、森へと歩き出す。礼を聞く前に立ち去ろうとするかのような、躊躇のない歩みだった。
(も、もう行くのか)
慌てて怪物の背を追おうとして、オオカミの脚は一瞬立ち止まる。その金色の瞳は人間のほうを向いていた。
(オレがあいつ……ゼルデデの元にいるのは、あの時、あいつの言葉が理解できたからだ)
オオカミは考えた。あの吹雪の日、怪物と出会った時のことを思い出す。
(でも、オレはこの人間の言葉も聞き取れた。それなら――オレは、人間と一緒に暮らすこともできるんじゃないか? オレは本当は、あいつと一緒にいる理由はないんじゃないか)
そこまで考えて、それは違うな、と思った。
(オレはあいつに、言葉以上のつながりがある気がするんだ。仲間みたいな、同じ群れの仲間みたいな……)
銀色の、孤独な獣。
未だ分からない怪物の正体だが、オオカミは彼にただならぬ親近感を覚えていた。この広大な山地で出会えたこともきっと偶然ではないのだろうと、彼の直感が告げていた。
オオカミは人間に背を向けて、怪物の姿を追って走り出した。音もなく、木々の間に気配を消してゆく。
オオカミも怪物も、振り返らなかった。
ゼルデデの名を呼ぶ人間の声が、夕暮れの雪山に何度も響いていた。
沢
「あ! 何かいたよ!」
少女が川のほうへぐいっと身を乗り出す。
ニーナが指差す先では、水が穏やかに流れていた。朝日を受けた水面は、静かに音をたてながらちらちらと輝いている。小さな沢は、ここ数日の雪解け水でいつもより僅かに水流が速い。
ゼルデデは、ニーナが持った枝の片側を軽く引っ張って警告した。ついさっき少女に「こっち側を持ってて」とせがまれて持たされたものだった。
「こら。あまり、川縁に近づくんじゃない。……雪が滑って、落ちるぞ」
「大丈夫だよ! ほら、ニーナは枝のこっち側持ってるでしょ。こうやって、手を離さなきゃいいんだよ」
無邪気な少女はそう言って、枝の片側をつかんだまま、ぶらぶらと体重をかけるように川を覗き込む。
ゼルデデは枝と一緒に紐を握る手を強めた。
その細い紐はニーナの腰元につながっていた。それは、まだ幼く落ち着きのない彼女を森で見失わないよう、結びつけたものだ。使い始めてから数週間というところだったが、幸か不幸か、この紐は既に何度かその役目を果たしていた。
ゼルデデは、また今日も面倒事が起こるのかと、うんざりした気持ちになった。
「川縁は危ないんだ。前にも一度川に入って、ひどい風邪をひいただろう。あれと同じようになる……」
「ゼルデデほら! あそこにも! あれってお魚? 捕まえられないかなあ」
心配をよそに、ニーナは水の中の気配に夢中になっていた。川のほうへ重心を移動させるたび、小さな靴はぎゅむ、と微かな音を立てて雪に沈み込む。雪の下の岩が滑る想像は容易についた。
ゼルデデは仮面の下で眉をしかめ、低いため息を吐く。それから、脇でそわそわとしているオオカミに声をかけた。
「おいアル。お前も見ていないで、こいつを止めろ。俺は、また病人の面倒をみるのは、こりごりなんだ」
オオカミはその不機嫌そうな顔を一瞬見上げてから、真意を察する。
『ニーナ、ゼルデデが心配してるぜ』
湿った鼻でぐいと胸元を押され、ニーナは唇を尖らせた。「はーい」と煮え切らない返事をして、ゼルデデの足元まで後ずさる。
「ね、ゼルデデはあの魚とれる?」
ニーナを連れて数歩下がりながら、ゼルデデは仮面越しの川に目をやった。銀に光る水面の下で、小さな影が揺れているのが見える。
「捕れるが、ここのは小さすぎて、食えるようなものではない。わざわざ捕ろうとは、思わん」
そう不愛想に言った数拍の後、ゼルデデはまた口を開いた。
「……興味があるなら、後で釣具か罠でも作ってやろうか」
「釣り! やりたい! ね、早くお散歩終わらせて帰ろうよう」
少女は見上げた瞳を輝かせて、ぐいぐいと枝を引っ張る。
わがままな振る舞いに呆れながら、ゼルデデは白い息を吐いた。
焚き火
山の天気が変わるのは、突然だった。
散歩の間に吹雪に吹かれたゼルデデは、連れていた一人と一匹を軽々とかつぎ上げた。
「わっ」
と驚く小さな声には気にも留めず、少し歩いた場所に突然現れた洞窟に潜り込む。雪の中にぽっかりと開いた入り口は随分と狭く見えたが、彼は一切の躊躇を見せることなく、その中へ入っていった。
薄暗い闇の中に下ろされた二人は、冷たい雪の張り付いた顔を見合わせた。
ゼルデデはただ一言
「そこにいろ」
と呟き、奥へと歩いていった。
目の前には、外の雪のわずかな光も届かない闇が広がっている。オオカミのアルには、この洞窟がどれほど広いのかも見当がつかなかった。音の響き方と、並の人間より背の高いゼルデデが難なく歩けるところを見るに、洞窟の天井は随分と高さがあるようだった。
外の吹雪はひどくなる一方だった。しかし、その冷気を含む風は外をごうごうと通り過ぎるだけで、洞窟の内側へ吹き込んでくる風は、ほんの少しだけだった。ひゅうひゅうと、耳をつんざくような高い音が響く。
アルはニーナが冷えないように、その分厚い毛皮をぎゅっと近寄せた。
洞窟の奥で、ゼルデデは何かがたがたと音を立てている。状況がまだあまり理解できていない様子の少女は、呑気に質問を投げ掛けた。
「ねー、何してるの」
その高い声は、洞窟の中にわあんとこだました。絶えず反響している外の風音と重なって、耳の奥が揺らされる。
ゼルデデはただ一言
「準備」
とだけ返事をした。暗い中で何をしているのか、ニーナの視界にはほとんど映らない。
やがて彼は入口付近に戻ってきた。それから、どうにか吹雪の風が当たらないくらいの場所に座ると、手に持ってきた枝をがさがさと置いた。服から火打石を取り出し、手慣れた様子で布の切れ端に火を点ける。その火口の火は枯れ枝に燃え移り、やがて小さな焚き火となった。
ニーナとアルはぴったりくっついたまま、そこへ近付いた。
「あったかいねぇ」
少女は手をかざして、にこにこと微笑む。
火は辺りをぼんやりと照らし、洞窟の高い壁に大きな影を作った。それはまだ小さかったが、雪に凍えた彼らにとっては何よりも頼もしい暖かさだった。
ゼルデデは黙って、火の様子を見ながら淡々と枝を投げ込んでいく。枝はぱちぱちと音を立て、段々と火の勢いも強まってきた。
洞窟の壁に、三つの大きな影がゆらゆらと映る。
『よく燃やせるような枝があったな』
それは二人にだけ聞こえるアルの声だ。
ゼルデデは火から一切目を離さずに、ぼそぼそとした低い声で答える。
「この辺りはよく通るから、こういう時のために、時々物資を補給しているんだ。……奥に小さな縦穴もあるから、換気も心配ない……良い場所だ」
そこでオオカミは改めて周囲を見回した。少し明るく照らされた辺りを見れば、火を焚いた跡や掃除をした形跡が見えた。
『へえ、避難所ってとこか。こういう場所は他にもあるのか?』
「……何か所か、ある」
会話はそれきりだった。
暖かな炎に照らされた空間には、ごうごうと強まる風の音が、くぐもって響いていた。
焚き火が安定してくると、ゼルデデは雪で濡れた上着を脱いだ。上着の表面が乾くように焚き火のそばに広げ、いつの間にか外していた仮面をその上に静かに置く。
ゼルデデが焚き火に向かってどっしりと腰を下ろすと、アルとニーナはいそいそと移動し、彼を挟むようにぴったりと座り込んだ。
「ねえゼルデデ、お話して」
ニーナはそう言ってゼルデデを見上げる。目が合うと、少女の金と青の大きな瞳はぱちぱちと瞬きをした。大男は僅かに眉をしかめる。
「話、だと?」
「うん!」
「……話すことなど、ない」
考える素振りもなく、ゼルデデは首を横に振った。
その態度に、少女は頬を膨らませる。
「作り話でも、昔話でも、何でもいいんだよ。このままじゃ眠くなっちゃう! ねえ、アルもそうでしょ?」
『オレは別に……』
オオカミはそう言いかけて、目の前にいる少女のしかめっ面の意味を汲み取った。ここで少女の機嫌をとらないと、後々面倒なことになりそうだ。
『ゼルデデ、オレもお前の話が聞きたいな。お前はこの中で一番長生きだから、色んな話を知っているだろ』
男は眉をさらに曲げ、一人と一匹の顔を見やった。左右から投げられる視線は、純粋で期待に満ちている。
彼は眉間の皺に手を当てて、低く長いため息をゆっくりと吐きだした。
それからさらに少し間をおいて、彼は観念したように口を開いた。金色の目に、焚き火の明かりがちらつく。
「……俺が子どもの頃に聞いた話だ。昔、とある村に男が住んでいたという。彼はたいへんな正直者で――」
普段とは違う朗々とした語り口に、ニーナとアルは一瞬目を合わせた。
その驚きは、話に聞き入っていくとすぐにどこかへ行ってしまった。それはどこにでもあるような昔話だった。けれど、彼の紡ぐ言葉には、まるでその話を本当に見てきたかのような様子があった。
低い声で紡がれる語りが、洞窟内にこだまする。
うなる風音が、枯れ枝がはじける音と重なり、歌のように響いていた。
銀嶺の獣