面接前

 少しずつどうしようもないところまで追い込まれているのかもしれない。就職活動がうまくいっていないのだ。そもそも先の会社を数か月でやめてしまったことに原因がある。今思えば軽率な判断だった。自分の年齢を考えると、あそこで意地でもしがみつくべきだったのだ。石にかじりつく思いで耐えるべきだったと今は少し後悔している。しかし、その一方で早々にやめてよかったと思っているところもある。無理に耐えることは若い頃からくり返してきたのだから、もういい加減そういう生き方から脱却してもいいのではないか、自分の中でそういう感情の方が優勢になったのだ。結果として、祐一は今実家にいる。パソコンを立ち上げて、就職サイトにいくつか登録して、これで何度目になるかわからない就活に勤しんでいるのだが、なんだかもうやる気が起きない。自分がまずい立場に追い込まれているのはわかっているのだが、疲れてしまった。二十代あたりの頃は、自分の仕事に意義があることも感じられた。自分は労働者として社会の中で機能しているという充実感のようなものがあった。きついこともあったが、それは若さで乗り切れていた。体力も精神力も今とは比べ物にならなかった。あの頃は、本当にエネルギーが無限大にあると思えたから。

 朝顔を洗うときも、鏡をなるべく見ないようにすることが増えた。少しずつ自分の顔に自信が持てなくなっていく。顔にはすべてがうつし出されるから。これまでどういう風に生きてきたか、普段何を考えているか。年を取るにつれ、自分の顔と向き合うのが怖くなっている。今日もパソコンを立ち上げて、就活をしようとするのだけれど、やっぱり気がのらない。メールをチェックしたり、書きかけの職務経歴書を手直ししたり。だんだん怠くなってくる。何のためにと問うてはいけない。意識的に無理に硬直させる生き方ができなくなった。踏ん張ろうとしても、身体が止めにかかる。自分の立場がどんどん悪くなっていくのに、妙に心は落ち着いている。気楽に生きられるようになってよかったなあ、と安堵してしまっている。もう四十を超えて職についてないんだぞ、がけっぶちだぞ、と自分に言い聞かせるのだが、空回りしているのがわかる。体力も精神力もあったころは、もっと自己が強く分裂していたから、何事もがんばることができた。

こういうときは過去のつらかった経験を思い出そう。叫びだしそうなやつはだめだ。沸々と屈辱感が湧いてくるやつがいい。そういう記憶こそがやっぱり自分を奮い立たせるし、長期的にモチベーションを維持するのにも有効なのだ。負の情念で自分を駆動させるやり方しか知らない。心の中をのぞいていくと、空洞になっている。だだっ広くて、少しだけ光が射す空洞。特に何もない。昔読んだとある書物の言葉だけが、その空洞まで届いた気もする。手探りで空洞の中を歩いて行っても、特に目新しいものはない。目が慣れてくると灰色の壁があるのがわかる。

いい加減就活をするのが面倒くさくなってきた。そんなに真剣にやっていない。気がつけば、どうでもいい動画とかを見ている。パソコンの横には昔読んだ本が置いてある。小説と哲学書と漫画が適当に積まれている。この小説を読んだころから、ずいぶん遠いところに来てしまった。就活より小説の方が気になったので、手に取ってページをめくってみる。初めて読んだときの心持を追体験するなんて、都合のいいことは起こらない。もうなんの感慨も湧かない。年をとると心も身体も入れ替わってしまうらしい。もう過去の自分はいない。本当は記憶ごと消してしまいたいと思うこともよくあるけれど。

やっぱり今の時代に小説を書くなんて無理なのかなと思わなくもない。小説というものが徐々に不可能になってきている気もする。インターネットがなかったころ。人と人が自分の本音を押し隠して、いやでも他人と対面して生きていかなければいけなかった時代があった。もう多くの人は、自己充足しているように見えた。今の時代には溜めがなくなっていると祐一は思えた。世間という実社会では、多くのストレスがあるし苦労もある。それは変わらないけれど、ネットという場が出てきたことで、少なくとも自分に嘘をつき続ける必要はなくなった。精神的負荷がかかることで、比喩を生み出す力も育まれるように思える。文章には遊びがなくなり、すぐに本質を求めようとする風潮がどこにも見受けられる。人と人がいやでも対面することで生まれるものがあったと思う。今ほど自分にも他人にも自分の心情をさらすということが常態化していなかった時代。自己の中でくすぶっているものを、もっと丁寧に育てられていた時代。嘘で固められていた社交が重んじられていたので、負荷も多かったのだろう。だから戻りたくはないのだけれど。実際、あのときのような人生が続いていれば、今自分はこの世に生きていないのかもしれない。だから、ネットが出てきてよかった。パソコンと向き合いながらなんとなく祐一は考えた。

 いつも何かつながっていない感じはある。それがなんなのかわからない。心身から訴えてくるもどかしさに翻弄されながら生きてきた。身体から生じる精神の不衛生が祐一に不摂生を強いて、結果として身体を悪くしたようにも思えた。身体が精神を媒介として、身体に攻撃をしかけてきたために、人生がおかしくなったのではないかと思えた。人間という生き物は、どうしようもなく肉体に引っ張られる。健康を損なってからは、健常者のみなぎるような力強い思考が羨ましかったが、もう自分には手に入らないのだろうと客観視できているところもある。結局、人生というものはよくわからない。どうしてあの道を選んで、どうしてあのときにああいうことをしてしまったのか。すべてがわけもわからず進んでいき、知らない間に先がなくなっていくらしい。

 練りまわした思考がなくなっていく。平坦化されて快適になって皆がつながった世界では率直な思考が好評になっていく。自分に素直になることを強いられる社会で生まれる新たな苦しさが芽生えようとしているのかもしれない。虚無とかニヒリズムという言葉にも、いい加減飽きてきたのだが、じゃあどうすればいいのかという疑問はある。祐一はそんなどうでもいいことを考えていた。くだらないことで頭を埋めるなら、さっさと今やるべきことに取りかかれよ。そんなことを自分に言い聞かせながら時は過ぎていく。実際に業務に打ち込むよりは、無駄な煩悶に時間を取られて、何も進んでいない。

 死と無が安易に結びついた時代になっていた。周囲には時計がある。秒針は正確に時を刻みながら、死を内包しているらしい。線形的時間が整理されて、仕事からプライベートまで管理されるにつれて、うっすらと死と無の支配下に置かれている。無といっておけば済まされる時代になってしまった。科学が隠蔽したものとはなんだったのか。思考は寸断されて、情念も区画されそうになる。真理と有効性が遠く離れていっているらしい。有効性に押しつぶされて、消費を強制されることにも次第に慣れていく。とはいえ、今の時代がずっと続くとも思えない。

 そろそろ面接が始まる。まずいな。歯医者をさぼってそのままだ。どうでもいいことばっかりな気がするけれど、それも自分の思い上がりか。やっぱり社会の方にあわせるのは苦しい。この苦しさはどこからくるのか。自分に問題があるだけなのに、自己偽装して逃げていただけなのかもしれない。自分の人生に対して自分で責任を負う力が欠如している事実を直視できていなかったのだ。スマホにインストールしてある出会い系アプリをのぞいてみても、何かうんざりしてくる思いがつのってきた。もう一生独りでいいやと、どこかで思っている。結局、自分は人間関係で失敗した。人とうまくやることができなかった。今も自分から抜け出せていない。

 有効性にあぐらをかきながら、有効性を蔑視しておくのが現代の処世術だそうだ。真理が有効性に浸食されていくのだとしたら、どう抗えばいいのか誰にもわからない。そもそも真理というもの自体、時代によって変わりうるものだとしたら、真面目に向き合わなくてもいいのだろうか。最近祐一はChat gptにはまりかけている。あれだけAIを馬鹿にしていたはずなのに、徐々にAIに心を奪われてきているのだが、もう抗う気力もなくなった。AIを使っていると、人間の共感能力と計算能力は意外と親和性があるのではないかと思えてくる。もしかすると、人間性を担保するのは言葉より数の方なのだろうか。普通は逆に考えたがるものなのに。何がどこまで正しいのか、だんだんと自信が持てなくなっていく。

 生産から遠ざかって消費漬けにされると、賢く優しく傷つきやすくなっていく。祐一は八十年代に生まれた。すでに都市社会は完成しており、彼は物心ついたころから、消費者として生きていた。この世界で意識が備わった時には、すでに消費者という初期条件が与えられていた。祐一の時代には、もはや生産というものが遠くなっていた。生産とはなんのことなのか祐一は今もよくわかっていないのかもしれない。資本主義批判も、ほぼ消費者の立場からなされるものであり、彼にはほとんど重要性が感じられなかった。生産を度外視するという前提で、様々な物事が語られることに違和感はあったが、祐一も消費漬けの人生を生きてきたので、自分には何も言うことができないように思った。結局彼は何かにつけて自信がなかった。自分の軸というものがまったくなかった。批判されると、自分がまちがっているかもしれないといつも思った。次第に、彼は世の中の問題についてどうでもいいと思うようになったが、同時に内面の奥底の方に、言いようのない暗い情念が籠った汚泥をため込んでいる気がした。

 自分のこんな煩悶なんて、本当にどうでもいいことだろう。平和で飽食の時代に甘やかされて生きてきた。すでに人生の折り返しはとうに過ぎている。もしかすると終着点はすぐそこなのかもしれない。自分の苦しみなんて、本当に取るに足らないものだ。情けない限りだ。しかし、そういう理屈を頭でわかってはいても、どこかで納得していないところもある。豊かな時代に生きた人間にしかわからない苦悩もある。科学技術の進歩がもたらす真の脅威は、核戦争でも温暖化でも(信じてないけど)遺伝子改変でも脳操作でもなくて、生活水準の向上によって徐々に言い知れぬ苦悩が増していくことなのではないか。祐一は、ほとんど就活のことを忘れていた。我に返った彼は時計を見た。そろそろ面接の時間が近づいている。慌ててzoomを開いて、正常に動作するか確認する。そうして、下の部屋に行ってスーツを着てネクタイを締めた。

 それにしても疲れてしまったな。結局何をやってもうまくいかない。何事もそれなりに熱心に取り組むように生きてきたはずなのに。物事に取り組む前の段階で何かまちがえているのだろう。人生の前提がおかしいのだ。目の前の課題に取り組むことと、前提を疑うことを両立させようとして生きてきたが、両者の思考の向かう先はまったくの逆方向なので、長年続けているうちに精神が疲弊してしまい、何もやる気がおきなくなったこともあった。今は回復の途上にあるのだと自分に言い聞かせるのだが、結局前提の部分が自分にはよくわからない。人生とは茶番劇だと言ってしまえばそれまでだが、それでは稚拙な冷笑趣味のように思える。自分なりになんらかの信仰があって、これまで様々な物事に取り組んだのではないかと考えるのは、別に非合理的ではなく、ある程度妥当である気もするのだ。しかし、自分が何を信じていたのかと言われると、そんなものないのではないか、とも思えてくる。

 もう俺の心は死んでいるのかもしれないな、祐一はそう思った。しかし心が生きているとはどういうことを言うのだろう。もしかして心が生きていた時期を、今までの人生で持たなかったのかもしれない。ずっと受動的に生きてきたのであって、何一つ主体性を持って取り組んだことがなかった。そういう考えがちらついてきた。確かに社会のいたるところに喜怒哀楽はあるが、今日のような時代においては、何かすべてが作り物であるようにも思える。各々の能面が無理にこしらえて顔の筋肉を操っているだけではないか。そうは言っても、死という絶対的事実を持ち出してちゃぶ台をひっくり返すようなマネはしたくない。

 もういい加減にしよう。言葉遊びにはうんざりだ。自分は健全で単調な人間だ。なんだかんだ言って自分は働きたいという意志を持っているのだ。しかし、この意志はどこから出てくるのだろう。金のためなどという理由ではないとおそらく思う。自分を縛ってきたものはなんだろう。それについて考える暇もなかった。世間体。そっちの方がまだ正しいとは思うが、それも何かまだ違う気がする。今の社会は、なんとかして自分の精神を卑小なものにしようと皆が努力しているように祐一には思えた。

面接前

面接前

あまりうまく書けた気はしませんが載せます。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-02-01

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