気品

 ──いいえ、結構です。
 はや老人の私は、妻とともにこの沈むタイタニック号に残ることにいたします、どうか身分にかかわらず、まだ未来のあるわかき良心を優先してボートにおのせください。私が貴族の階級で男だから優先されるなんてことを、私じしんは一切望んでおりません。ええ、そこの女性の方、私の代わりに、この席にどうぞ。私は病に倒れた妻の俟つ部屋に戻ります。この船はいまにも沈没しかかっておりますから、さあ、お早く。貴女にも愛している方々がいらっしゃる、そして貴女を愛している方々がいらっしゃるでしょう。さあボートにおのりなさい、貴女には愛している方々がいらっしゃる。
 貴女はこころ遣いをありがとうと私におっしゃってくださる、私こそ、私こそその心あるお言葉を感謝いたしましょう。私は妻の俟つ部屋へ還ることにいたします、さながらにうるわしい私たちの恋の追憶がこもれ陽と射すように、私たち夫婦は死にめざめ、手を握り、老いて刻まれ削がれた妻の美しい躰を抱いて、されば永遠の恋人の接吻に微睡むように瞼を降ろす、そして御天の荘厳な瞼をしゃんと銀に衣ずれする如く、私たちはともに死を迎えることでしょう、私たちは老いて衰えた力をいっぱいにふりしぼり、しなるようなうでで愛するひとを抱き締めることでしょう。
 ええ、お気になさらず、貴女には愛している方がいらっしゃる、私にも、幸運なことに私にも、愛している妻がいるのですよ。おなじこと。おなじことですよ。
 最期に、老人の言葉を貴女に残してもよろしいですか? ええ、私は何者でもありませんが、ただ貴族という血に生れついた男であるために優先して逃げることを望まれ、そして、ほんとうの気品というものを守護するために妻と此の船に残る、そんな、何でもない無名の老人の言葉を、最後に聴いてくださいますか。
 躰は使うためにあり、心は愛するためにあるのです。

  *

 ──フリージア。恐れないで。ぼくは此処にいる。ぼくは此処にいる。ぼくは傍にいて、君をちからいっぱい抱き締めている、生きて血のかよう腕で、君をせいいっぱいに抱いている。いろいろなことがあった、フリージア、いろいろなことがあったね。私はお前を愛しえていたのかいまでもかんがえつづけているが、しかしフリージア、或いは君を愛していたと断言することだってできるのだよ。
 躰がふるえているね、ぼくもだよ。君を抱くことで救われているのはぼくにほかならないのだ。幾つになっても、死ぬのは怖いものだ。君だけじゃない、そこは安心しておくれ。
 ぼくはわが貞節を守護するために君とともに海の深みで真珠さながらに睡ることをえらんだが、ほんのすこし、逃げてしまおうかというかんがえがぼくの脳裏にはしったのもまた事実なんだ。そのちいさなピンを撥ねかえしたのは君がぼくに与えてくれた愛であり、ぼく等が積みあげた信頼とそれへの信頼だ。その愛と信頼が死の暗みという永遠に溶け、そして深みへ沈み往く、そしてぼく等の生命が還るという、ただそれだけのことだよ。おそれないで、ぼくはいま君を抱き締めているのだから。
 シーツを被ろう、まっしろなシーツだね、灯のきえた部屋で、シーツの清らかな陰翳が月の光をまるで辷らせているようだ。このシーツを被る君はさながらに花嫁衣裳を着ているようにみえるよ、あの頃を想いだす、君の美しさはあれから磨かれた、生きてきた、生きて傷負いぼくらは歌った。そのシーツに包まれた君はけだし美しいよ、ああフリージア、 フリージア、フリージア 。…

  *

 水嵩がベッドを殆ど超えてしまいそうだ、しかし互いにふるえがおさまってきたね。ぼく等の心臓はまるで調和している、君は僕を愛してくれたね、なによりも、ぼくのことを信じてくれたね、君がぼくに戻ることを要求したわけではないけれど、ぼくは君とともに死ななければいけないと考えるぼくのぼくに対する信頼に、こたえなければいけなかった。
 愛は問題ではない。愛し抜くという貞節の守護だけが問題なんだ。
 さあ、シーツを深く被ろう、頭まで被ってしまおう、もう、互いの顔しかみえないだろう? もっと近くへおいで、君を、靭くきつく抱き締めるから。キスを享けてください。いいかい? 眼を閉じて。…
 もう一度、いま、結婚しよう。死をみすえぼくと旅立とうとする君の勇気は、けだし花嫁の優美だ。フリージア、ぼくの名前を呼んで。ぼくの名前を呼んで。最期にぼくを、君と愛し合った君にとっての、一特別な存在として引きあげておくれ。
 …フリージア。愛しているよ。

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掌編小説

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更新日
登録日
2026-01-31

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