【TL】ジャメヴへ道連れ
記憶喪失ヒロイン/実姉ガチ恋美男子/ヤンデレ美青年/四肢切断→義手義足/独自世界観/強姦/監禁/暴力
1
天之渦靉靆(てんのうずあいたい)家は権勢家(けんせいか)だ。たいへんな名家なのだ。しかしこの家の八重という娘は恥知らずだった。心中し、自ら命を絶ち、自殺者循環輪廻律令法、通称「自輪法」で以て蘇った落魄者(らくはくしゃ)なのだ。
心中のために自ら命を絶ったこの娘は、恥なのだ。自輪法で蘇った輪者は、恥なのだ。
◇
八重には弟がいる。だが他人だった。血は繋がっているけれども、彼女にとって、弟は他人だった。ひとつに、歳が離れているのもある。もうひとつに、彼女には弟を弟と認識するだけの記憶が欠けていた。自輪法のためだ。
今日は一族会議だ。天之渦靉靆家一同が会す。けれども八重は大広間の前を掃いていた。輪者は出られない。
下働きたちの話では、弟の婚約者がこの会議で纏まるのだという。
「八重さん!」
障子が両側から開け放たれる。背の高い痩せぎすの女が現れ、癇癪の気を帯びた声を響かせる。普段よりも一際厳(いかめ)しい。
「はい……」
八重は縁側の女を見上げた。神経質げな眉根の皺が濃くなる。
「もうすぐ会議がはじまります。そこはもういいわ」
「承知しました」
相輪者は世に放たれ、世のため人のため、滅私奉公する身である。ところがこの峻厳な出で立ちの女は輪者となった娘を天之渦靉靆家に呼び戻した。親子の情はおそらくある。けれども八重は、その情というものを覚えていなかった。
中庭に移り、箒を丿乀(へつほつ)やっていた。会議の支度を終えた下働きたちが廊下を行き来する様が見える。鉢の中を泳ぐ金魚のようで、八重はこの光景が好きだった。
「こんにちは」
顔を上げる。焦げ茶色の髪を巾で包んだ若い男が立っていた。脇には野草の入った笊(ざる)を抱えている。涙堂を膨らませ、莞爾(かんじ)として表情こそ爽やかだが、前掛けを草の汁と土で汚している。野草採りの千羽哉(ちはや)だ。野草採りだけでなく、外の仕事を主に任されている。
「こんにちは、千羽哉様」
彼は微苦笑を浮かべる。
八重は天之渦靉靆家の長女だ。相手は下働きだ。けれども彼女は輪者だ。輪者は、囹圄(れいぎょ)の方様がお与えになった泰平の世と、その下にある権利と自由の身を拒んだ傲岸無知の強欲の罪人だ。世のため人のために尽くし己の罪を清めなければならない生き物なのだ。輪者の天之渦靉靆家の長女と下働きとは、どちらが目上で目下なのか、彼女には自身の立ち位置が分からない。
「糸鶴花(しづか)様のお相手が決まりますね」
「そうですね……」
立ち位置が分からない八重は、他の下働きとの関わり方も分からない。彼等彼女等の心遣いをどのように受け止めるべきか。
彼女は俯いた。
「……美味しい葉が採れたんです。天麩羅にしてお届けしますね」
「は、はい……」
千羽哉は人懐こい気質のようだ。会うたびに声をかけられ、雑談を交わす。気の優しい人間に違いない。
「あの……」
「はい」
「以前、御守紐を編んでいると、お話したのですけれど……」
「ええ、憶えていますよ」
彼は上面だけで会話をしているわけではないようだ。気軽さもあれば聡明さもある。
「あ、あの……それで、出来上がったら、お渡しするってお話したのですけれど……」
「憶えています」
八重はおそるおそる、千羽哉の目を見上げた。
「出来上がったので差し上げます。その、要らなかったら、自分で使いますから……」
八重は懐から組紐を取り出す。淡い紫色と緋色の糸で編まれている。弟の糸鶴花の腕の太さを借りて長さを決めた。
「頂戴します」
眇められた目元が眩しい。八重は目を逸らした。
「どうぞ……」
「片手が塞がっているので、縛っていただけますか」
千羽哉の白い腕が目の前に伸びた。弟のことは、周りが弟だと言っている。弟も姉として接している。そのためか弟に対しては覚えない緊張が八重の指先を震わせる。
「ふふ……大丈夫ですか」
「き、緊張してしまって。ごめんなさい……」
編むときほど細かい作業ではないというのに、紐を結ぶほうが彼女には難しく感じられた。紐の端にもう片方の端を巻き、引っ張る。弟の腕に合わせた長さは千羽哉の腕にも合っていた。
「嬉しいです。ありがとうございます。この組紐を眺めて元気をもらいますね」
彼は笑った。眩しさに、八重は顔を背ける。
「そんな、大したものではありませんよ……」
優しい彼にむしろ元気付けられてさえいる。騒がしくするのは苦手だが、人と話すことが大嫌いなわけではなかった。しかし彼女は家族とも、下働きとも、どう接していいのか模索中なのだ。そして試行回数が圧倒的に少ない彼女には手応えが得られないままでいる。
「だって、八重お嬢様が作ってくださ――」
「姉さん!」
小鳥の囀りを遅れて耳が拾った。縁側を駆ける者の姿が竹林の奥に見えた。
千羽哉が先に捕捉した。彼の視線の先を辿る。浅朱色の羽織を身に纏った弟が立っている。まったく似合っていない。借り物を着せられているようだ。浮いて見えた。
「姉さん」
どれだけ弟が絶世の美男子と崇め奉られようとも、似合わないものはある。囹圄の方様から賜(たま)わった緞子(どんす)は弟の髪色にも血色にも合っていない。華霊鬢鳥(かりょうびんか)の尾羽根、鵺の被毛、麒麟の鬣(たてがみ)を使っているという話だが、似合わないこともあるようだ。
「姉さんも出席するべきです」
弟の糸鶴花は昏い瞳を一度、千羽哉に向けた。母譲りの神経質げながら凛々しさのある眉を寄せてから、八重を捉えた。
小鳥が囀る。しかし鶯張りの床板が軋んだのではない。生きた鳥が中庭に集まり、庭石にはトカゲが姿を現した。八重と千羽哉の間にアゲハチョウが舞う。
「わたしは参加できませんわ」
「貴方もこの家の人間です。出席する義務があります」
冷ややかな目に見下されている。弟のはずだが、脅威のようでもある。
「奥方様のお許しを得ておりませんし……」
「奥方様ではありません、母上です。姉さんは当主の決定よりも母上の意思を尊重なさるのですか」
八重は目を泳がせる。
「わたしは出られません。清浄な場所ですもの。奥方様の……"母上"を尊重してくださいな……」
糸鶴花は彼女の奥にいる千羽哉を睨んだ。
「俺の結婚は姉さんも無関係ではないのですよ」
関係上、確かに無関係ではない。義妹ができる。だが形式だ。
「そうですけれど……」
「俺の結婚相手の決定の場です。姉さんにも同席してほしいという弟の願いを叶えてはもらえないのですか」
弟は輪者の姉であろうとも姉弟としての関係を維持しようと努めているようだった。彼は屡々、出掛けるにも、茶を飲むにも八重を誘った。千羽哉に渡した御守紐の制作にも協力していた。
「分かりました。出席いたします」
八重は野草採りを振り返った。
「いってらっしゃいませ」
彼は頭を下げる。
弟の口添えによって参加が認められ、会議は恙(つつが)なくく終了した。
弟の婚約者と挙式の日取りが決まった。一方的な決定だったが天之渦靉靆家の申し入れを拒むことのできる家はない。
八重は真っ直ぐ自室に帰った。会議のあとの食事会は断ってしまった。
彼女は一人でいるのが好きだった。輪者になる前の自身がどのような暮らしをし、どのように母や弟と接していたのかも記憶になかった。言葉は憶えているようだが、忘れているものもあるのかもしれない。
組紐を編む。耳掻きのような小さな返(かえし)のある棒を繰った。
「姉さん」
襖が叩かれる。
「はい……」
襖が開き、弟が現れる。会議のときと同様の愛想のない不機嫌げな面構えに、暗い色味の着流しが似合っている。
「入っていいか」
「どうぞ。お茶を淹れてきます」
組紐と編み棒を置く。立ち上がりかけたところを弟が制した。
彼は傍に来ると、腰を下ろした。そして八重の置いた組紐を見る。
「作業を続けてくれ」
八重は当主を前に躊躇った。しかし腰を下ろしたきり、何も言わない。室内を見回すと八重を見詰めた。
彼女は編み途中の組紐を手に取るが集中できなかった。
軈(やが)て弟は寝転がった。暫くは自身の腕を枕にしていたが、そのうち畳を這い、頭を八重の膝に乗せた。
「ど、どうかなさったのですか」
弟もまた人は苦手なようだった。おそらくは輪者になる前も、八重は人との関わり合いをそう好みはしなかったのだろう。血の繋がった弟がそう示唆している。
そういう弟が自ら触れ合いを求めている。何かあったに違いない。
「何でもない」
組紐は編めなかった。目を閉じた弟の美貌を見下ろす。天之渦靉靆家奥方に似ている。顔立ちの線は細いが、眉や目元に逞しさがある。
「この前の編み物はどうした」
「千羽哉様にお渡ししました」
「貴方はこの家の長女で、あいつは下働きだ。関わり合うのは好きにすればいいが、"様"は要らない」
彼女の微苦笑を浮かべた。この若き当主は誉れ高き天之渦靉靆家に輪者が出たと認めたくないのだろう。
「姉さんは」
「はあ」
「俺が結婚することをどう思う?」
「おめでたいことだと思います」
「姉さん」
「はあ」
「俺も姉さんの組紐がほしい」
薄い目蓋が持ち上がり、折り重なる。黒い目が真っ直ぐに八重を貫く。
「承知しました。すぐに編みます」
手慰みに編んでいたものを畳の上に置くと、弟の手が伸びた。手が重なる。
若くして天之渦靉靆家の当主になった弟は、他に甘える相手がいないのだろう。頼もしくも、哀れな子供なのだ。
「それは?」
「編んでいないと落ち着かないものですから……」
「誰のものでもないのなら、それがほしい」
「これは作りが粗くて……」
「いい。姉さんのものがほしい」
結婚が決まり、神経質な気質がさらに研ぎ澄まされているのだろう。
弟の手が徐々に汗ばんでいる。
指と指の狭間に、彼の指が割り入った。いつにも増して人懐こい。余程会議で疲れたのだろう。
八重の指が強張った。
「姉さん」
「はい……」
「姉さんが忘れる前からこうしてた……驚いたか」
「いいえ……お疲れだったのですね」
弟の薄い唇が綻ぶ。彼は目蓋を下ろし、梅の実の曲線を携えた。
「姉さん」
「はい……」
「もし母さんや結婚相手に嫌なことをされたら俺に言え」
「ありがとうございます」
寝息が聞こえた。気を張っていたようだ。仲の良い姉弟だったのだろう。何故、このような弟がいて自死を選んだのか彼女には見当がつかない。
八重は膝を抜こうとした。膝掛けを取るのに手を伸ばすだけでは届かなかった。
「……悪い」
「座布団を持ってきます。首を痛めてしまいますから」
「姉さんがいい」
弟は寝返りをうって八重の膝を押さえつけた。
「風邪をひいてしまいます」
「姉さん……」
八重は弟を畳に添えて立とうとしたが、尚も弟は八重を押さえつけようとする。
「あ、」
爪先が畳に引っ掛かる。身体が均衡を崩す。真下にいる天之渦靉靆家の当主を潰すわけにはいかない。
しかし弟も俊敏に動いた。彼は起き上がると八重を抱き寄せる。そして片腕で着地した。
襖が爆ぜた。
「八重お嬢様!」
千羽哉だった。踏み込んだ足が止まる。
「姉さんは無事だ。問題ない」
真上から見た弟の眼差しは冷え切っていた。声も凍てついている。威厳を守るために必死なのだろう。当主は孤独なのだ。
「それより、お前は下働きだ。立場を弁(わきま)えろ」
空気が張り詰める。寒風のような粗さが肌を擦っていくようだった。
八重は千羽哉の持っていた皿を見た。緑色を透かした天麩羅が乗っていた。中庭での話を思い出す。
「わたしが呼んだのです」
弟の腕に縋りついた。
「八重お嬢様……」
「…………………そうか」
弟は徐ろに立ち上がる。そして千羽哉の脇を通っていった。
「そういうことならすまなかった」
後姿が消えていく。
千羽哉も主を見届けてから八重に戻ってきた。
「八重お嬢様……庇ってくださってありがとうございます」
「いいえ……けれど、千羽哉様……弟のこと、悪く思わないでくださいませね。意地が悪いというわけではないのです」
「よく承知しています」
焦げ茶色の目と目が合う。
「……天麩羅を試作したんです。八重お嬢様に召し上がってほしくて……」
「いただきます」
千羽哉の強張っていた頬が緩んだ。
弟が明日、結婚する。
八重は中庭を掃いていた。屋敷は騒々しく、下働きたちは慌ただしい。
「八重お嬢様、おはようございます」
脇に山盛りの草を抱えている。
「おはようございます」
襷(たすき)掛けされた袖から伸びる土汚れまみれの腕を組紐が彩っている。
「明日の婚礼料理です。楽しみにしていてください」
八重は頷いた。
+
自室の襖が横に飛んだ。そして柱にぶつかり、跳ね返った。足音も一言もなかったために、縫い物をしていた八重は息を呑む。
「姉さん!」
怒声によって4畳の部屋が揺れた。弟は自身の肺を破るのも厭わないような声量が、まだ室内に残っている。
「は、はい……」
驚きのあまり呼吸が乱れ、頭は真っ白になった。
「俺の挙式に出ないだと! どういうことだッ!」
弟の眉は吊り上がり、目は血走り、唇には血が滲んでいる。
「奥が……母上が、それでも構わないって……」
「そう言われたのか」
肩を力強く掴まれ彼女は狼狽えた。弟と目と目を合わせた途端、逃げられなくなった。
「ち、違いますけれど、でも、清浄な場に、わたしは……」
「何度も言わせないでくれ! 貴方はこの家の長女だ。卑屈になることは俺が許さない」
歯軋りが聞こえた。鋭い目が潤んでいる。
「ごめんなさい……」
「貴方は堂々としていていい。貴方は俺の姉だ。姉さん……そんな莫迦な真似をして、俺の顔に泥を塗るな」
弟の眉尻が落ちる。肩を掴んでいた力が抜けた。彼は膝を下ろし、背に腕を回す。
「俺の姉さん……」
八重の視界は翳った。弟の胸元に塞がれていた。
「ごめんなさい、糸鶴花さん」
「分かればいい。分からない連中がいるのなら俺が分からせる」
姉想いの優しい弟だ。天之渦靉靆家を担う重圧に、姉の存在がさらに重荷となって圧(の)しかかっている。
「母上には、俺から話をつけてくる」
弟はそう言って部屋を出ていったが、天之渦靉靆家奥方には自ら説明するのが不肖の娘なりの礼儀のように思われた。
下働きを捕まえ、天之渦靉靆家の奥方に取り次いでもらうと、奥方は反対もせず、喜びもしなかった。ただ報告を報告として受け取るだけだった。
ところがその夜に、下働きに呼び出され、行ってみると、分家の何人かが待っていた。当主の婚儀の出席を遠慮してほしいというのが彼等の用件だった。清浄な場であり、慶賀すべき式である。輪者の存在は水を差すことになり、不吉である。よって天之渦靉靆家の長女であろうとも、弟のために辞退してほしいというのが言い分であった。そしてそれは八重にとっても正しい意見であった。間違いのひとつも見当たらないのである。弟がどう思ったとしても、嫁はどう思うのか。
八重は弟の意向を話した上で、糸鶴花には当日まで言わないことで決着した。
+
千羽哉は首を傾げた。
「どうかなさったんですか」
麗らかな眼に覗き込まれ、八重は後退った。
「あ、いいえ……考えごとをしていて……ごめんなさい」
「糸鶴花様のご結婚ですからね。緊張もしますよ。私(わたくし)のほうこそ失礼でした」
淑(しと)やかな無邪気さが眩しい。
「わたし、式には出ないことになったんです」
「えっ」
「誤解しないでくださいませ。糸鶴花様は出るようおっしゃられたんです。奥方様もどちらでも良いとおっしゃられました。けれど、よくよく考えると、お相手のことを考えていないことに気付いて……だから千羽哉のお料理は楽しみではありますけれど、いただけないのです。せっかくのお料理を無駄にしてしまうのは気が咎めるので今、申し上げてしまいます」
八重は俯いた。
「糸鶴花様はそれをご存知なんですか」
「いいえ。式直前まで言わないよう口止めしてあります。弟もああ見えていっぱいいっぱいのようですから、余計なことに手間を取らせることもありませんし……」
「そうですか……そういうことなら八重お嬢様のお部屋までお持ちします。八重お嬢様に是非とも召し上がっていただきたく、腕を振るうつもりですから」
涙袋を膨らませ、細められた目元の奥の輝きが瑞々しい。
近くを通った下働きが八重を呼んだ。弟が探している。同時に廊下を駆ける気配があった。床下の鶯が囀っている。
「姉さん!」
はしたないことだ。弟の声が中庭に染み渡っていく。
「姉さん」
糸鶴花は八重の見える位置で屈んだ。当主を継ぐ前の荊小僧(ばらがき)のような挙措(きょそ)に品はない。一度千羽哉を睨んでから姉を捉える。
「衣装合わせは終わっているのか」
「はい。3日前に」
弟の不機嫌げな美貌が滲む。
「明日、本当に……出てくれるんだろう?」
弟の手が八重の手を掴んだ。
「ええ、もちろん。弟の婚礼ですもの」
弟の望む返答をしたというのに、彼はより不安を抱いたようだった。
「明日着る物を姉さんに選んでほしい」
カラスアゲハの翅のような目は八重から逸れた。彼女の後ろを見ていた。
「いいか」
「失礼します」
背後で千羽哉の去っていく気配があった。
「承知しました。箒を片付けてから伺います」
「すまない。姉さんがいないと、何もできない。俺は」
弟の冷たい手が八重の頬を撫でる。掌で撫で、指の背で撫で、手の甲で撫でる。
「姉さん」
箒を片付ける隙などない。弟の手は八重を放さなかった。耳をなぞり、頤(おとがい)を辿り、顎を掬う。
「俺がどういう女と結ばれたとしても、姉さんより好い女ではないのだろうな」
結婚すれば生活が変わる。血の繋がらない女が同じ屋根の下に加わる。気を揉んでいるのだ。弟は嫁に来る女とそう親しくないようだった。神経質なこの少年が姉を離れ、妻に甘えた姿を曝け出せるのはいつになるのだろう。
「何をおっしゃいます」
「明日……俺から一番近い席にいてほしい」
八重は息を呑んだ。
「承知しました。糸鶴花様の仰せのとおりに……」
「弟に"様"はよせ」
闇夜を閉じ込めた眸子(ぼうし)を見上げる。
八重の顎を撫でていた指が彼女の唇に触れた。紅を塗るように端から端へ這っていく。
「糸鶴花様……」
「こら」
「……糸鶴花さん」
伏せった睫毛に潜む光が揺蕩う。
「箒を片付けに行くのだろう」
「直ちに」
八重は箒を握り、裏庭の納屋に向かった。掃除用具入れはそのなかにある。
納屋の戸に指をかけると、視界の端に千羽哉が見えた。ふと彼のほうを向いた。爽やかな微笑はない。思い詰めた表情で下を向いている。
「八重お嬢様」
「どうかなさったのですか」
「口煩い小言だと思っていただいて構いませんが、」
弟を待たせていることも忘れ、悠長な態度でいる千羽哉を待った。
「八重お嬢様と糸鶴花様のやり取りは、少し……その………姉と弟の域を超えているような気がして……」
千羽哉は唇を噛んだ。
「まあ……」
八重は思わず口を覆った。
姉と弟の真っ当な関わり方を知らない。弟の求めるまま接するのが年長者の務めではないのか。
「差し出がましいことを申しました」
「以前のわたしも、そうでしたか」
千羽哉は口角を吊り上げる。
「いいえ」
「……お恥ずかしい話です。教えてくださってありがとうございます。今後、気を付けます」
八重は頭を下げた。
「八重お嬢様」
千羽哉の足は急いているようだった。
「悪く思わないでくださいまし。糸鶴花様の婚礼が終えてから申し上げるつもりでおりましたが、はしたなくも気持ちを抑えつけておくことができなくなってしまったのです」
彼は八重の前に立つと、箒を握る手を上から押さえた。冷たい掌は微かな水気を帯びていた。手を洗ったばかりのようだ。石鹸の匂いが立ちのぼる。
八重は戸惑う。
「糸鶴花様とのことなら、善処いたしますわ……」
「そのことではありません。身分の違いは重々承知のうえで、私(わたくし)は――」
「おやめなさい!」
金切り声が裏庭に谺(こだま)する。竹林を突つきに来ていた小鳥たちが一斉に飛び立った。
「千羽哉。何を考えているの」
顔色の悪い長身痩躯の女は天之渦靉靆家の奥方だ。
千羽哉は悪怯れる様子もなく、凛として奥方に身体を向けた。
「見張っていらしったのですか」
「糸鶴花に貴郎(あなた)も呼ぶよう言われたのですよ」
「わざわざ奥方様 直々(じきじき)に呼んでくださるとは恐縮です」
天之渦靉靆家奥方は千羽哉を睨む。
「八重さん」
「はあ」
「この際ですから、八重さんの輪者になる前の身の上についてお話しますわ。千羽哉、貴郎も来なさい」
弟にも呼ばれている。足が惑う。
「八重お嬢様はこの後、糸鶴花様と衣装合わせがございます」
「まあ。いつから貴郎は八重さんの付き人になったのです」
「命じてくだされば今からでも」
「あの子には自分で決めるよう申し付けておきます」
奥方は踵を返す。千羽哉に微笑を向けられ、八重は急いで箒を返すと後を追う。
芍薬のごとき後姿が振り向く。
「距離が近くてよ!」
裂帛の叱責が中庭を抜けていく。
「いいですか、千羽哉。いくら輪者といえども八重さんは天之渦靉靆家の長女なのですよ。輪者だからといって見縊られては困ります。身分が違うのです。勘違いしないで。それに八重さん。貴方は確かに輪者ですが、天之渦靉靆家に呼び戻された以上は、この家の長女なのです。貴方が卑屈になって、隙を見せるから下働きたちも混乱するのです。千羽哉の勘違いは彼だけの咎ではありませんよ」
「奥方様。僭越ではございますが、それは違います。八重お嬢様には何の落ち度もございません。私が勝手に思い上がり、勝手に勘違いをしたのでございます」
「千羽哉。貴郎は薬師(くすし)としても料理人としても、剣術師範としてもたいへん優秀です。それは認めないほうが愚かというものでしょう。けれど多少劣っていても、代わりはいるのよ」
表玄関へ向かう途中で奥方は下働きを呼び止め、糸鶴花へ伝言を託した。
【TL】ジャメヴへ道連れ