『京都・嵯峨野~殺意のダイヤ~』タイ・トラベル・ミステリー・シリーズ

『京都・嵯峨野~殺意のダイヤ~』タイ・トラベル・ミステリー・シリーズ

シリーズ第三作目にして、ついにタイ人刑事リサが日本へ!
紅葉に包まれた京都で起きた不可解な事件。
無実を叫び命を落としたタイ人青年と、刺殺された女性インフルエンサー。
真相に迫る坂本警部の前に現れるのは、バンコクで死線を越えた盟友、タイ警察のリサ警部補。
異国・日本を舞台に、リサの鋭い洞察と行動力が事件を切り裂く。
国境を越えたバディ捜査の行方に、期待が高まる――。

第一章 断絶のダウンヒル

第一章 断絶のダウンヒル

1.断絶のダウンヒル

 嵐山の秋は、静寂に沈み込むように更けていく。

 燃えるような紅葉が薄闇に溶け、保津川のせせらぎが夕闇の冷気を運んでくる。

 かつて貴族が舟遊びに興じたこの地は、夕暮れと共に、時の止まったような深い安らぎに包まれるはずだった。

 月明かりにほんのりと照らされた保津峡の闇を切り裂いたのは、断末魔のようなドリフト音だった。

 京都、嵯峨野。

 観光客が引き揚げ、静寂が戻りつつあった府道五十号線で、その「断絶」は唐突に訪れた。

 闇に沈む紅葉の隙間を、水色の光が矢のように貫いていく。
 
 ガードレールを突き破り、宙を舞ったポルシェは、重力を失った機体のように漆黒の谷底へ吸い込まれていった。

 数秒の沈黙。

 直後、岩肌に激突する凄まじい金属音が山々に反響し、眠りにつき始めた森を震わせる。

 重なり合う木々の合間から、突如として赤い火柱が噴き上がった。
 
 冷たい谷風に乗って、焦げたゴムとガソリンの臭いが静寂を塗り潰していく。

「おい! 大丈夫か! 応答しろ!」

 黒の覆面パトカーのドアを蹴破るようにして外へ出た坂本警部は、ひしゃげたガードレールの縁に駆け寄った。

 タイヤの焦げる白煙が視界を遮り、激しい動悸が胸を打つ。
 
 視界の下方、逆さまになったポルシェのリアエンジンから、不気味な黒い煙が噴き出している。

 京都市内の高級外車を扱うレンタカー会社のその車体は、今や見る影もない鉄の塊へと成り果てていた。

 ――遡ること、一時間前。

 本来、警視庁公安外事一課の坂本にとって、この任務は退屈な“プロトコール(外交儀礼)”の延長に過ぎなかった。

 日タイ首脳会談を明日に控えた厳戒態勢下、来日したタイの国民的人気インフルエンサー、メイの警護を担当することになったのだ。

 来賓のタイ人観光大臣が、京都観光局の局長との会談にメイを同席させ、日本国内へ向けた観光アピールに一役買わせようという目論見だ。
 
 坂本はその初顔合わせの場所となる嵐山・嵯峨野の老舗料理茶屋を下見するため、夕暮れの道を走っていたのだ。

 その途上で、あの水色のポルシェと遭遇した。

 すれ違いざま、猛烈な勢いでセンターラインを大きくはみ出し山を下りて来たポルシェは、坂本のセダンをかすめるようにして暴走する。

 運転席越しに焼き付いたのは、血の気が引き、ひきつった表情を浮かべた若い男の顔だった。
 
 坂本は即座に車を反転させ、サイレンを鳴らした。

 この厳戒態勢下、不審な暴走車両を見過ごすわけにはいかない。

 執拗な追跡(カーチェイス)が始まった。

 ポルシェはヘアピンカーブをノーブレーキに近い速度で突っ込み、対向車を右に左にかわしていく。

 坂本はアクセルを全開にしてポルシェのリアに食らいついた。

 異変が起きたのは、保津峡へと続く直線の入り口だった。

 逃走を続けていたポルシェが、タイヤから白煙を上げるほどの急ブレーキをかけ、唐突に停車したのだ。

 坂本もまた、アスファルトを削るような音を立ててその背後に車を停める。
 
 何をする気だ――坂本が警戒してドアに手をかけたその時、ポルシェの運転席の窓が開いた。

 運転席から身を乗り出すようにした若い男が、坂本に向かって何かを激しく絶叫した。

 その形相は怒りよりも、深い絶望と混乱に支配されていた。

 男は激しい勢いでまくしたてている。
 
 坂本はデジャブのような奇妙な感覚に包まれた。

 そのひきつった表情から溢れ出した言葉は、かつて何度も足を運び、現地での任務をこなしてきた坂本にとって、聞き慣れているはずの“タイ語”だった。

 だが、あまりのパニックのせいか、男が叫んでいる言葉の意味が理解できない。

 ただ、その叫びの最後の一言だけが、弾丸のように耳に残った。

「ไม่ใช่ผม!(マイチャイ、ポム!) 」――俺じゃない!

 悲鳴にも似たその一言を残し、男は再びアクセルを踏み込んだ。

 ポルシェは猛然と加速し、視界から消えていく。

 坂本が我に返って追跡を再開した直後、あの運命のカーブが訪れたのだ。

「……まさか?」

 坂本は炎上する谷底を凝視した。

 ―あの時、窓を開けて何かを訴えようとした男。

 その運転手が、まさかタイ人の青年だとは思いもしなかった。

 坂本は無線機を掴んだ。

「こちら嵯峨野第一。保津峡五十号線、追跡対象が崖から転落。至急、救急車とレスキューを」

 声が微かに震えていた。

 自分の追跡が、一人の若者を死に追いやったしまった。

 そして、あの時彼が叫んだ言葉が、冷たい汗となって背中を伝う。

 坂本は無線機を置くと、すぐさまアクセルを踏み込んだ。

 ポルシェが飛び出してきた方向、つまり「亀山地区」の展望台へ向かう山道だ。

 こんな時間に、タイ人の青年が高級スポーツカーで暴走していたこと自体が異常だ。

 刑事の直感が、坂本の背中を冷たく押し流していた。

 数分後、視界が開けた展望台の駐車場には、一台の車もなかった。

 坂本は車を止め、静まり返った広場へと足を踏み入れた。

 夕闇に沈む嵯峨野の空気はひんやりと冷たく、先ほどまでのカーチェイスの熱気が嘘のようだ。

「……?」

 誰もいない。
 
 坂本が踵を返そうとした瞬間、視界の端に何かが映った。

 展望台の縁、古びたベンチの横に、横たわる影がある。

 近づくにつれ、それが人の形をしていることがわかり、坂本の心臓が跳ねた。
 
 そこに倒れていたのは、鮮やかなタイ・シルクをあしらった衣装を纏う女性だった。

―メイだ。

 彼女の胸元には、紅葉の色よりもどす黒い赤が広がっていた。

 触れるまでもなく、彼女がすでに息絶えていることは明らかだった。

 坂本は膝をつき、周囲を見渡した ― 人影はない。

 ただ、彼女の傍らに、一台の血の付いたスマートフォンが転がっていた。

「こちら嵯峨野第一……。展望台にて、警護対象のメイ氏と思われる遺体を発見。直ちに現場保存と検視官を要請する。繰り返す……」

 坂本は警視庁本部と京都府警に緊急連絡を入れ、応援を求めた。

 谷底で命を落としたタイ人の男と、ここで冷たくなっているメイ。
 
 坂本は直感的に二人の死が、この嵐山の闇の中で繋がっているのではないかという、漠然とした予感に翻弄されていた。


2.疑惑の遺留品

 保津峡の谷底では、レスキュー隊による困難な引き揚げ作業が続いていた。

 坂本は京都府警の捜査員と共に、岩場に横たえられた青年の遺体と対面した。

 車両は激しく炎上したが、放り出されたのか、あるいは直撃を免れたのか、奇跡的に彼の身体は火に包まれることなく、無傷に近い状態で回収されていた。

 周囲が完全に闇に包まれる中、鑑識班が持ち込んだ強力なLED照明が、青白い光で現場を切り取っていた。

 その鋭い光が、岩場に横たわる遺体を冷たく浮かび上がらせる。

「外傷は転落時の打撃によるものだけです。刺し傷や争った跡はない。……坂本さん、この男と展望台で死んでいた女性、何か関係があるのですか?」
 
 検視官の問いに、坂本は答えられなかった。

 ただ、鑑識官が遺体の傍らに散らばる遺留品を一つずつ回収していく中、坂本の目は男の右手に釘付けになった。

 死後硬直が始まりつつある指先が、何かを強く握りしめている。

 それは、小さな淡い青緑色の箱だった。

「あの、すみません。ご遺体の手の中のその箱……ひょっとして宝石箱か何かでしょうか?」
 
 坂本の問いかけに、鑑識官が手袋を嵌め直して慎重に指を解き、箱を取り出した。

 照明の光に照らされながら、ゆっくりと蓋が開けられる。
 
 刹那、闇の中で一条の輝きが弾けた。

 中に入っていたのは、大粒のダイヤモンドを冠した指輪だった。

 京都の冷たい夜気を受け、無数のプリズムを放つその輝きは、あまりに純粋で、この惨劇の現場には不釣り合いなほど美しかった。

「婚約指輪……でしょうか。傷一つついていません」

 鑑識官の声が、夜の静寂に沈む。

 坂本は言いようのない戦慄を覚えた。

 仮定だとしても、メイを殺して逃走したとされる男が、その手に「未来への誓い」を握りしめていた。

 これが、愛する者を手にかけた直後の男の姿だというのか。

 坂本は重い足取りで車に戻り、京都府警本部へと向かった。

 車内の無線が慌ただしく音を立てる。

『こちら本部。保津峡の転落車両から発見されたパスポートにより、死亡した男性の身元が判明。氏名はジラワット・ラタナチャイ、二十五歳。タイ国籍。ニックネームで「ジェイ」と呼ばれていたようです。……また、展望台の遺体についても、所持品および身体的特徴から、警護対象のタイ人女性、メイ・チャンシリ、二三歳、芸名のメイ氏本人であると断定されました』

 無機質な通信の声が、最悪の結末を確定させる。

 坂本の脳裏に、あの「マイチャイ、ポム!」という絶叫が蘇った。

 もし彼が犯人でないのなら、彼は一体「何」から逃げようとし、誰が彼らの未来を打ち砕いたのか。

 一夜明け、嵯峨野の朝は、昨夜の惨劇を覆い隠すような冷たい霧に包まれていた。

 坂本は、本来ならば公式日程の初日となるはずだった料理茶屋へと向かった。

 昨夜、遺体発見直後に電話を入れた際、マネジャーの森下は「店で待っている」と答えたが、現場の混乱で坂本は向かうことができなかった。

 改めて、正式に事情を聴取する必要がある。 

 会場となる予定だった老舗の料理茶屋に到着すると、軒先には一人の男が所在なげに立っていた。

 ネイビーのスーツを着こなし、神経質そうに何度も腕時計を確認している。
 
「坂本さん……ですよね? 警視庁の…」

 男は「森下」と名乗った。

 メイが契約している日本の芸能プロダクションのマネジャーで、日本滞在中に行う、フォロワー向けのイベントについて打ち合わせる予定だったと言った。

 本来なら社長の久保寺も同席するはずだったが、急な出張で不在だという。

「昨日の打ち合わせにも現れなかったし、昨夜からメイと何度連絡を取ろうとしてもつながらなくて困っていたんです。SNSの更新も止まったままですし……。坂本さん、電話で仰っていたことは本当なんですか? メイさんが、まさか、本当に殺されたのでしょうか?」

 森下は神妙な、どこか怯えるような表情でそう言った。

 坂本は森下の顔をじっと見つめた。
 
 言葉の端々に違和感がある。

 昨夜の電話で、坂本は「展望台で女性の遺体を発見した。メイ氏である可能性が高い」と伝えていた。

 しかし、森下は今、あたかも「連絡が取れないから心配だ」という日常的な不安と、「本当に死んだのか」という衝撃的な事実の間を、不自然に行き来しているように見える。

「……昨夜、お伝えした通りです。遺体はメイさん本人と断定されました」
 
 坂本が静かに告げると、森下は「ああ……」と力なく声を漏らし、その場に崩れ落ちそうになった。

 そのあまりにも教科書通りの反応を、坂本のプロとしての視線は冷ややかに観察していた。

 背後の厨房からは、事情を知らない従業員たちが、打ち水や準備に勤しむ音が聞こえてくる。
 
 坂本は、死んだジェイが握りしめていたあのダイヤモンドの輝きを思い出した。

 メイを殺して逃げた男が、なぜあんなものを握っていたのか。

 そして、目の前でうなだれるこのマネジャーは、さらに重要な秘密を知っているのか。

「森下さん、中でお話を伺いましょう。メイさんの昨日の足取りなどお聞かせいただけますか?」

 坂本はあえて感情を押し殺し、座敷で彼の対面に腰を下ろした。

「森下さん、メイさんとの最後の連絡は、いつ、どのような形でしたか?」

 森下は震える指でスマートフォンを取り出した。

「昨日の午後六時ごろです。『展望台で少し動画を撮ってから向かうから』とメッセージが来ました。私は先にここへ来て、打ち合わせの準備をしていたのですが、一向に現れなくて……」

 森下の説明は理路整然としていた。

 だが、坂本は見逃さなかった。

 彼が語る間、その視線が一度も坂本の目と合わず、窓の外の庭園へと泳いでいたことを。

 この男は、何かが起きることを「知っていた」のではないか。

 坂本の脳裏に、現場に転がっていたメイの血の付いたスマートフォンが浮かぶ。

 そこには、彼女の最期の瞬間を捉えた「何か」が記録されているはずだ。

「森下さん、ジェイさんをご存知ですね?」

 坂本が問いかけると、森下は一瞬、呼吸を止めた。

「ええ、メイさんの恋人だと聞いています。タイ人の。ジェイ君が、何か?」

 坂本のペンを持つ手が一瞬止まった瞬間、森下は小さく舌打ちをした。

 坂本は気にしない振りをして淡々と続けた。

「その彼、本名のジラワットさんも昨日、保津峡の谷底で事故死しました」

 森下の顔から、急速に血の気が引いていく。

 それは恋人の死を悲しむ表情ではなく、予定外の事態に直面した者の困惑に見えた。

 料亭の廊下を歩く仲居の足音が、遠くで規則正しく響いている。
 
 坂本は静かに立ち上がり、森下に告げた。

「これから京都府警本部へ同行願います。メイさんのご遺体も確認していただきます」

 その瞬間、森下の口から漏れたのは悲鳴ではなく、深く、重い吐息だった。

 嵐山の冷涼な空気が、坂本の喉を冷たく突き刺す。

 京都府警では、既にこの惨劇を「異国で起きた愛執の果ての無理心中」という、分かりやすい悲劇の型に嵌め込もうとしていた。

 しかし、坂本の胸に消えずにある、ざらついた感触がそれを拒んでいた。

 保津峡の谷底に消えた、あのタイの青年、ジェイの叫び。

 血に染まりながら置かれたメイのスマートフォンと、死の間際まで男の手の中にあったダイヤモンド。

 「マイチャイ・ポム!(俺じゃない!)」

 男が必死に否定した事実に、「誰か」が確かに関わっている。

 坂本はふと、かつてタイでの合同任務を共にしたリサ警部補のことを思い出した。

 直感的で鋭い彼女なら、この現場の(いびつ)さをどう指摘するだろうか。

 彼女の冷徹なまでの観察力が、今の自分には必要だという予感があった。

 坂本の戦いは、この冷たい朝の霧の中から、静かに、しかし着実に動き始めていた。 

(第二章へ続く)

第二章 異国の虚像

第二章 異国の虚像

1.熱い宇治茶

 晩秋の京都の朝は、一段と底冷えが厳しい。  

 坂本は、宿泊先のホテルから京都府警本部へ向かう地下鉄の中で、手元のスマートフォンに映し出すニュース文字が、まだ疲れの残る脳裏に突き刺さる。

《タイの人気カリスマ的インフルエンサー、日本の京都で悲劇の最期》

《交際相手のタイ人青年と無理心中か!》

 携帯の小さな画面には、メイの華やかな生前の写真と、保津峡の谷底で大破したポルシェの無惨な姿が交互に映し出される。
 
 SNSのタイムラインは、メイの死を惜しむ声と、犯人と目されるジェイへの根拠のない怒り、そして無責任な憶測で濁流のように溢れかえっていた。
 
 メイが微笑む生前の動画は、死という結末がついた瞬間、視聴者に消費される「悲劇の舞台装置」へと成り下がっている。

「……無理心中、か」

 坂本は、画面を消した。

 暗転したディスプレイに、自分のひどく疲れた顔が映り込む。

 この「分かりやすい結論」が、世間の、そして組織の望む答えなのか…。

 日タイ首脳会談を控え、一刻も早くこの騒動を収束させたい日本政府や警察上層部にとって、この見出しは格好の幕引きに他ならない。

 心中という言葉では到底説明がつかない、喉の奥に張り付いたようなもやもやとした感覚。

 それは、昨夜の京都府警の一室で行われた、メイの日本の芸能プロダクションのマネジャー・森下への事情聴取から始まっていた。

 メイの活動実績やスケジュールといった、ありきたりな情報は饒舌に語った森下だったが、死亡した青年の話に及ぶと、急に慎重な面持ちになった。

 坂本が試すように、「恋人のジェイさんのことですが……」と切り出した時だ。  

 森下は一瞬の躊躇もなく、「ああ、ジェイ君がどうかしたんですか?」と即座に反応した。

 その反応こそが、坂本の喉元に刺さった小さな(とげ)となった。  

 タイ人の本名は長く複雑で、親しい間柄であれば、ニックネーム(ชื่อเล่น)で呼び合うのが普通だ。 

しかし、ビジネスの世界では、出会ってから相当な時間を経るか、本人から「こう呼んでくれ」と提示されない限り、本名(ชื่อจริง)で呼ぶのが礼儀である。

 ジェイの本名はジラワット・ラタナチャイ。

 それを即座にニックネームの「ジェイ君」と呼び、既知の存在として扱った森下の態度は、彼らが相当親密な関係にあったことを示唆していた。

「……森下さん。昨日のお話では、メイさんの恋人のジェイさんのことはあまりご存知ないようでしたね?」  

 坂本が静かに問うと、森下は「ええ、まあ、ジェイさん、いや、ジラワットさんの名前は、メイさんから時々聞いていた程度ですから」と、不自然に視線を逸らした。

 あの男は、ジェイ、すなわちジラワットの存在を、あるいは彼との深い関わりを、意図的に隠そうとしているのだろうか……。


* 


 京都府警の執務室に戻っても、坂本の脳裏に、昨晩の狼狽した瞳が焼き付いて離れなかった。

「どうも納得いかないんだよなぁ…」

 その重苦しい沈黙を破ったのは、一杯の熱い茶の湯気だった。

 本庁への報告書を書きながら独り言を吐いた坂本の机に、女性巡査の三原が淹れたての茶を置いた。

「坂本警部、朝からあんまり根を詰めへんほうがよろしいですよ、まぁ、あったかい宇治茶でもお飲みになったらどないですか?」

 はんなりとした京都弁(きょうことば)に、坂本は急に緊張を研ぎほぐされたような気になった。

「あ、ああ、どうも……えっと、おおきに、どす」

 後ろでネクタイを締め直していた白髪交じりの警部・大河原が、堪えきれずに吹き出した。

「坂本はん、無理せんといて。慣れん言葉使うと、返って(いけず)に聞こえますわ、ははは」

 坂本は耳を赤くして、熱すぎる宇治茶を一気に飲み干した。

「そや、坂本はん、大事なこと一つ忘れてましたわ、まぁ、警視庁の公安の刑事さんやから、お訊ねしますけど、これから例のタイ人の女性の現場検証へ行くんですわ、一緒に行きはりまっか?」

 “ったく、それを早く言えよな。宇治茶を飲ませてさっさと東京へ帰れ、という意味だったのかよ”  
 
 「ほな、ぼちぼち行きまひょか?」

  坂本は自嘲気味に不自然な京都弁を放つと、居心地の悪さを振り払うように、力任せに車のドアを閉めた。

 

2.トロッコ列車の汽笛

 右京署の芦田が運転するパトカーは、朝の光に包まれた京都市内を抜け、再び惨劇の舞台となった嵐山・嵯峨野へと向かった。

 坂本は、助手席に揺られながら、車窓の外に広がる景色を眺めていた。

 渡月橋の上は、昨夜の惨劇など嘘であったかのように、色とりどりの旗を掲げたガイドと自撮り棒を掲げる外国人観光客で埋め尽くされていた。 

 オーバーツーリズムの波は悲劇の余韻さえも冷酷に飲み込み、竹林の小径からは多言語の喧騒が風に乗って漏れ聞こえる。

 時折、保津川沿いの断崖から響く嵯峨野トロッコ列車の「プォォォォ」という乾いた汽笛が、坂本の耳には空虚に響いた。

「……坂本さん、顔色が優れませんね。昨夜から一睡もされてないんじゃ」

 芦田が気遣うように声をかけたが、坂本は曖昧に頷く。

 脳裏には、整理のつかない断片がパズルのピースのように散らばっている。

 昨夜、ジェイという愛称に過剰に反応した森下マネジャー。

 メイの遺体の傍らに置かれた血塗れのスマートフォン。

 そして、死の間際までジェイが掌の中で守り抜こうとした、あのダイヤモンドの冷たい輝き。

 それらは、警察が急いで作り上げようとしている「無理心中」という絵図を、根本から拒んでいた。

 車は亀山公園を抜け、勾配のきつい坂道を上り、現場の小倉山展望台へと到着した。

 展望台テラスの脇、黄色い規制線が寒風に吹かれてバタバタと音を立てている。

 坂本は展望台の縁に立ち、手すりを握った。

 眼下には、深い緑を湛えた保津川が蛇行しながら静かに横たわっていた。

「ここですか……」

 芦田が後ろで声を潜める。

 そうだ。昨夜、ジェイが水色のポルシェがガードレールを突き破り、奈落の底へと消えていったのは、まさにこの真下だった。
 
 坂本は資料に目を落とした。

 メイ・チャンシリ — フォロワー数六百万。

 彼女がSNSで発信する華やかな活動記録は、日タイ親善の清廉な象徴そのものだった。  

 アユタヤの遺跡を背に、絹の民族衣装を纏って微笑む彼女。

 その美しさもさることながら、たどたどしくも一生懸命な日本語で、日本の伝統文化や食文化を紹介する愛らしい姿は、日本のファンを瞬く間に虜にしていた。  

 坂本は、眩い映像の中の彼女と、目の前の冷たい土の上に横たわる無残な亡骸を交互に思い描き、激しい眩暈(めまい)に襲われた。
 
 ジェイ、ジラワットもまた、タイの有名資産家の息子でありながら、彼女を献身的に支える、理想的なパートナーとして知られていた。

 この完璧なまでの幸福が、なぜ一夜にして惨劇へと反転したのか……

 そんな、掴みどころのない、もやもやとした感覚が、坂本の心に圧し掛かっていた。

 そこへ、背後から緊張感のない声が掛かった。

「坂本さん、あんまり辛気臭い顔せんと、この辺で『おたべ』でもおたべやす、ってね!」
 
 大河原が、皮肉めいた笑みを浮かべて京都の名菓、生八ツ橋の小箱を差し出してきた。

 時計は午後三時を回っていた。

「大河原さん、冗談を言っている場合じゃありませんよ。現場に残されたスマートフォン、指輪……。無理心中で片付けるにはピースが合わない」

「坂本はん、あんまり、ややこしいこと言わんといて。本庁も府警も、もう『無理心中』でハンコ押す準備してはるんや。それにタイのえらいさんも来てはることやし、これ以上、ややこしい火種は困るんですわ。おたくら公安も、国際問題になるんは御免ですやろ?」

 大河原の言葉は、組織の論理という冷たい現実を突きつけるものだった。

 鑑識に回された証拠品が、組織の都合で都合よく「処理」されていく焦燥感が坂本を襲う。
   
 結局、現場検証でも明確な物証は得られぬまま、陽は傾き始めていた……。



3.薄氷のシナリオ

 夕陽がつるべ落としに沈み、古都の街並みが夜の相貌を見せ始める頃、芸能プロダクション社長・久保寺が京都府警本部へと現れた。 

 出張帰りだという久保寺は、上質なチャコールグレーのスーツを乱れもなく着こなし、完璧な紳士。

 坂本がお悔やみの言葉を丁寧に述べると、久保寺は応えた。

「いやあ、坂本警部さん。本当に悪夢ですよ。うちの稼ぎ頭があんなことになるなんて……」  

 久保寺の声は、滑らか過ぎて温かみがない。

 まるで舞台役者の台詞を聞いているようだと坂本は感じた。

「それと、事故死したジラワット氏についてですが、彼に暴力的な兆候があったという記録は、本国タイの調査でも一切ありません。彼はメイさんを深く愛していた。そんな彼が、なぜ、これほど無惨な凶行に及んだとお考えですか?」  

 坂本の問いかけに、久保寺は薄い唇を歪めた。

「坂本警部。あなたは『愛していたから殺さない』と仰りたいようですが、それはあまりにロマンチストな考えだ。……いいですか、愛が深いからこそ、その裏側には、底知れない邪悪な衝動が口を開けている。そうは考えられませんか?」  

 久保寺は背もたれに深く体を預け、怜悧(れいり)な瞳で坂本を射抜いた。

「メイは世界中の人間に愛されるために生きていた。だが、彼は彼女を自分一人の箱庭に閉じ込めておきたかった。その矛盾が限界に達した時、男が取る行動は二つに一つです。諦めて去るか、あるいは、自分の一部として永遠に葬るか。……彼、ジェイ君でしたか。彼にとって、あの崖からの転落は、誰にも邪魔されない二人だけの完全な結婚式だったのかもしれませんな」

「結婚式……ですか?」  

 坂本が口を挟む間もなく、久保寺の言葉は完成された物語を披露するように、一分の隙もなかった。

「実は、メイからは相談を受けていたんですよ。彼の束縛が少しずつ激しくなっている、と。外から見れば『裕福な資産家の息子』でも、その内面がどうであったかは本人にしか分からない。……坂本さん、人は誰しも、自分でも気づかないうちに心の闇に飲み込まれてしまうものなんですよ」

 相手を説得するプロの弁舌は、疑う余地を与えないほど論理的だ。

 坂本は「もっともらしい理屈」を聞かされながら、喉の奥に苦い砂を噛まされたような不快感を覚えていた。

 “この男が語っているのは真実なのか。それとも、あらかじめ用意された筋書きなのか”

 坂本がその真意を測りかねて向き直ると、久保寺はおもむろに腕時計に目をやった。

「おっと、少し話が長くなりましたな。実は昨日の午後は、別の仕事で大阪におりまして……」

「大、大阪に?」

「ええ。昨日の午後五時半ごろには、大阪駅前の量販店におりました。その後、大阪のクライアントとの会議で‥・。領収書も、防犯カメラの記録もありますが。もっと早く駆けつけてやりたかったんですが、あいにく交通規制に巻き込まれましてね……」

 自らアリバイを提示するその周到さが、坂本の胸に拭いきれない不信感を植え付けた。

 まるで、誰かに疑われることを最初から予期していたかのように―
 
 坂本は独り、府警の庁舎を出ると、夜の帳が降りた堀川通を南へ歩いた。

 街路を吹き抜ける北風は、嵯峨野の風よりもずっと冷たい。

 歩道を縁取る銀杏並木は、車の音と排気の匂いに晒され、それでもなお美しく黄金色を放っている。
 
 二人の死も、守られた幸せなどではなく、もっと欲望と利権に塗れたドロドロとした渦の中にあったのかもしれない。

 心中という結論を急ぐ警察組織。

 この歪(いびつ)なパズルを解き明かせる相手は、もはやこの国の警察組織の中にはいないのだろうか。
 
 坂本は、冷え切った身体を温めるように、ひっそりと佇む湯豆腐料理屋の暖簾をくぐった。

 運ばれてきた湯豆腐から立ち上る白い湯気が、冷たい頬をくすぐる。

 その熱気の中に、かつてバンコクでの合同捜査で背中を預け合った、あの相棒の面影を探した。

 “リサ……君なら、この不自然さをどう見る?”

 その時だった。店の玄関がガラガラと開いた。

「――《《サカモト》》さん! こんなところで、一人で何を難しそうな顔をしているんですか?」  

 振り返った視線の先に、鋭い眼差しといたずらっぽく微笑む女性が立っていた。

 タイ公安警察のリサ警部補。

 黒い革ジャンを羽織った彼女は、まるで南国の太陽のような輝きを放っていた。

「リサ!……なぜここに?」

「相棒が迷子になっていると聞いて、バンコクから飛んできたんですよ」

 彼女が笑うと、店内の澱んだ空気が一変した。  

 凍てつく古都の北風に代わり、彼女が運んできたタイの熱気が、坂本の冷え切った心を解かしていく。

「さて、どこから話しましょうか。日本警察がまだ知らない、ジェイの『本当の姿』について……」
 
(第三章へ続く)

第三章 タイからの風

第三章 タイからの風

1.激辛の再会

「坂本さん、せっかくの湯豆腐が冷めてしまいますよ!」

 京都の雰囲気を醸し出す、巷の有名な湯豆腐料理屋の座敷。
 
 白木の卓に湯気が立ちのぼり、昆布出汁の香りが静かに満ちていた。
 
 その静寂を破るように、リサは革ジャンのポケットから小さなガラス瓶を取り出した。
 
 赤黒い油に満たされたそれ――タイの家庭ではおなじみのナームプリックパオ(⋆)である。

「ちょっとだけです、うふふ」

 リサはいたずらに笑って、瓶の蓋を開け箸で器用に掬ったペーストを、ためらいなく椀へ落とした。

「それ、まさか…」

 坂本の嫌な予感は、たいてい外れない。

 甘辛く焦がした唐辛子と油の香りが、繊細な出汁の上で一気に花開く。

「待て、リサ。ここはそういう店じゃ……」

 坂本の制止も虚しく、黄金色だった湯豆腐の表情は、赤銅色へと変貌した。

 鼻腔を刺す刺激の奥に、どこか甘く、香ばしい旅先の屋台の香りが混じる。

 隣の席の観光客が、理由も分からずくしゃみをする。

 京の静謐は、リサが取り出した小瓶一つによって侵食され、座敷の空気は、いつの間にか東南アジアの夜市の熱を帯びていた。

 障子の向こうで、店主が一つ咳払いをした。

 坂本は箸を持ったまま、その光景を呆然と見つめるしかなかった。

 坂本は悟る――。  

 異文化の衝突とは、往々にして食卓から始まるものだ。

 今後、最も警戒すべきは、リサの革ジャンのポケットの中身だろう。

 あの中にあと何種類の「爆弾」が隠されているのか、坂本には知る由もなかった。 

(⋆)ナームプリックパオ:乾燥唐辛子を主材に、にんにくや香味野菜を油で炒めて作られるタイの調味用ペーストである。小瓶に詰めて市販され、辛味に加え甘味と酸味を併せ持つ点に特徴がある。
 
 坂本は気を取り直してリサに訊いた。

「……リサ。君がここに来た理由を教えてくれ。タイ公安警察(DSI)の人間が、なぜこのタイミングで、しかも俺の前に現れるんだ?」    

 坂本の問いに、リサは真っ赤に染まった豆腐を平然と口に運び、事もなげに言ってのけた。

「京都の料理は、水のように味が薄いと聞いていましたから。私は、唐辛子の刺激がないと頭が働かないんですよ」    

 彼女はいたずらっぽく目を細めた後、表情を少し引き締めた。

「私がここに来たのは、正式な『捜査協力要請』があったからなんです。それも、あなたの組織の、もっとも京都らしい方から……」

 坂本は熱い湯豆腐を頬ばって天を仰いだ。

「京都らしい方……? まさか」
   
 坂本の脳裏に、あの食えない白髪混じりの顔が浮かんだ。

「ええ、そう。大河原警部ですよ。彼は一昨日、大阪のタイ総領事を通じて内密に私に連絡をしてきました。『本庁の刑事は真面目すぎて、古都の裏側に潜むものが見えん。タイで坂本刑事とコンビを組んだリサさんを呼んでくれ』……とね」

 大河原は、表向きは組織の論理に従い「無理心中」で幕を引こうとしながら、裏では坂本も知らないルートで独自の布石を打っていたのだ。

「それで、一人で来たのか?」

「いいえ。大使館の参事官と私の部下が二人とね、今回の日タイ首脳会談に理由付けて、ふふふ。でも、坂本さんに会うのは私の独断ですけどね……」  
 
 リサは唐辛子の小瓶を握りしめ、坂本をまっすぐに見据え感情的に続けた。

「メイは、私たちタイ人の憧れだった。彼女の死を『無理心中』なんて安っぽい言葉で片付けないでほしいわ。私が来たからには激辛の真実をぶちまけてあげますよ!」  


 
 翌朝、坂本はリサを伴い、再び嵐山へと向かった。  
 
 大河原の指示は『リサさんに京都の案内でもして差し上げたってください。現場までの道すがら、ゆっくりとですよ……ゆっくりね』というもの。
 
 それはお役所幹部の監視の目を盗んで、二人に情報のすり合わせをさせるための大河原なりの演出だった。

 車はゆっくりと冬枯れの渡月橋を渡っていく。
  
 橋の上は自撮り棒を掲げる外国人観光客で埋め尽くされていた。
 
 車窓越しに嵐山の斜面を埋め尽くす紅葉が広がり、その山肌の一角には、十三詣りで知られる法輪寺の伽藍が静かに姿を見せていた。

 麓を流れる桂川の水面に映る色彩とともに、古都の時間がゆるやかに流れていた。

「綺麗な街ですね、京都は……。でも、坂本さん……」    
 
 リサは観光客のように景色を眺めながらも、その瞳は刑事のものに変わっていた。

「あなたがジェイについて抱いている違和感は、私も同じですよ」  

 二人はリサとジェイが亡くなった現場で、厳かに花を手向けた後、近くの愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)へ足を踏み入れた。

 奈良時代に創建された天台宗の寺は、賑やかな観光地の喧騒から切り離されたように静かに佇むんでいた。

 千二百体もの羅漢像が、それぞれ異なる表情で二人を迎える。
 
 笑み、憂い、怒り――人の一生そのものを凝縮したような石像の群れ。

 リサは本尊(千手観音)の前で跪いて熱心に祈りを捧げ、財布からタイの紙幣を数枚出して賽銭箱へ落とした。

 タイ式の彼女なりの「喜捨(タンブン)」だ。
 
 坂本も線香の煙が立ちのぼる前で深く頭を垂れ、小銭入れから五円玉を探し投げ入れた。

 横で手を合わせているリサがぽつりと言った。

「私には“五円(ご縁)”が無いの…」と独り言のような声を漏らした。
 
 リサの呟きが聞こえなかったのか、坂本は合掌した両手をそっと解くと、指先で自分の髪をなでつけるように頭に当てた。
 
 タイでの捜査の日々、リサの隣で繰り返したタイ式の礼拝の無意識の所作が出た。
 
 ふと顔を上げると、隣で立ち上がったリサが、いたずらっぽく、それでいて慈しむような笑みを浮かべて坂本を見ていた。

「な、なんだよ、なんか可笑しいか?」  

 坂本が少しきまり悪そうに尋ねると、リサは何も答えず、ただもう一度、優しく微笑み返した。

 遠くでトロッコ列車の汽笛が、保津川峡谷に低く響き渡った……


2.鉄壁と動揺

「坂本さん、これは一体どういうおつもりか?」  

 京都府警の一室。

 プロダクション社長の久保寺は、座るなり不快感を隠そうともせずに吐き捨てた。  

 久保寺は高級なスーツの皺一つ乱さず、冷ややかな視線でリサを見据えた。

「メイの遺体は既にタイ本国へ戻る準備が進んでるそうじゃないか。日本の警察も『無理心中』と断定したはずだ。今さら異国の刑事がしゃしゃり出てきて、何を疑う必要があるんだ?」

 リサは動じない。

 彼女は机の上に数枚の写真を並べた。

 生前のメイがタイでファンに囲まれて笑っている写真だ。

「久保寺さん。私たちは、メイという一人の人間を失っただけではない、タイの誇りも失ったんです。納得のいく説明がなければ、外交問題に発展しかねませんよ」

 リサの言葉には抜き身のナイフのような鋭利さがあった。  

 久保寺は鼻で笑った。

「外交問題? 結構なことだ。だが事実は変わらん。彼女はジェイに呼び出され心中を図った。私はその日、午前中にメイと打ち合わせをしたのち、京都を出て午後五時半には大阪にいましたよ。……これ以上、何を話せと?」

 リサは視線を、久保寺の背後で終始うつむいているマネジャーの森下へと移した。

「森下さん、あなたはどう思いますか? マネジャーとしてメイの一番近くにいたあなたなら、あの晩の彼女に『心中』の気配があったかどうか、肌で感じていたはずでしょう?」

 森下はビクンと肩を震わせた。

「私、は……。社長が仰る通りだと、思っています……」

 声はかすれ、視線は泳いでいる。

「そうですか。でも、不思議ですね……」  

 リサが椅子を立ち、窓から京都の街並みを眺めながらゆっくりと問いかけた。

「ジェイ……ジラワットは、あのダイヤの指輪を渡すために展望台へ向かった。けれど、メイさんはそれを受け取ることなく、冷たくなっていた。驚いたジェイは指輪を握りしめたまま逃走したのです。そして坂本さんの追跡の最中、こう叫んだんです。『俺じゃない!』とね」

 リサは冷徹な視線を森下に固定したまま、一歩、踏み込んだ。

「ジェイが展望台に着いた時、メイさんは既に亡くなっていた。では、ジェイが到着するより前に、彼女のそばには誰がいたのでしょう? 愛し合って心中するはずの二人の間に割り込んだ人間がいたのではないですか?」

 森下は眼鏡の奥の瞳を激しく泳がせた。

「森下さん、ずばり訊きます。あの日の午後、メイと一緒に展望台にいたのはあなたですか?」

 その時、久保寺が苛立ちを露わにしてテーブルを激しく叩いた。

「無茶苦茶な憶測だ! リサ警部補、根拠のない妄想で私の社員を侮辱するのはやめていただきたい。行くぞ、森下君。こんな話に付き合う必要はない」

 久保寺は森下を促し、逃げるように部屋を去った。

 だが、その背中には隠しきれない焦燥が滲んでいた。

 リサは、彼らが去った後のドアをじっと見つめ、確信に満ちた声で呟いた。
 
「坂本さん。森下さんのあの動揺は、とても気になりますね……」
 
 リサは立ち上がり、部屋の窓を開けて冷たい京都の空気を吸い込んだ……


3.ピンクの嘘とブルーの真実

 リサは不機嫌そうにパイプ椅子に腰を下ろしていた。

 坂本が声を掛けようとしたその時、廊下から大河原のわざとらしい咳払いが聞こえた。

「リサはん、そのへんにしときよし。あんまり突っ込んで、わしの首が飛んでしもたら難儀ですがな……」

 大河原がドアを開け、透明な証拠品袋を手に提げて入ってきた。

「坂本さん、リサはん。そらそうと、えらい面白いもんが、出てきましてな……」

 二人は大河原が差し出した透明な証拠品袋に注目した。

「鑑識から報告がありましたんや。犯人は、この派手なピンクの携帯が彼女のすべてやと思い込んで工作したんでしょう。……そやけど、メイさんは表に出さへん心の奥で、ジェイさんとしっかり繋がっとったわけですわ。……これ、このブルーの携帯ですわ」

 大河原が二つの端末を机に並べ、一通の鑑識資料を坂本に手渡した。

「“あなたともう疲れた” “二人で静かに行こう”……。犯人は、メイさんを”悲劇のヒロイン”に仕立てて、ジェイを呼び出して、二人で心中という筋書きを完成させたかったんやろうな」

 リサが袋越しにピンクの端末をスワイプし、原文のタイ語をなぞるように睨みつけた。

 やがて、彼女は弾かれたように顔を上げた。

「……おかしいわ。このメッセージ、メイが打ったものじゃないでしょう。タイ人なら絶対にあり得ない不自然な言い回しよ。まるで精度の悪い翻訳アプリに、日本語をそのまま突っ込んだような、変なフレーズだわ」

「ほう、なるほど。本物のタイ人がそう言わはるなら、間違いおへんな……」

 大河原は感心したように唸り、資料の束をトントンと机で揃えた。

「やとすると、犯人は『心中』のアリバイ作りに気が取られ、慌てて現場を離れた……ちゅうことですわな」

 坂本が、資料の角でポンと机を叩いた。

「だから、メイが死の間際にブーツの隙間へねじ込んだ、この本命の携帯には気づきもしなかった。……命懸けで守り抜いた、メイの本当の声だ」

 リサがもう一方の、ブルーの端末を手に取った。

 画面の中には、ジェイとの新婚旅行の計画や、愛の言葉が溢れている。

「それだけやおまへん。このブルーに、一つだけ動画が残ってましたんや」

 三人は身を寄せ合い、小さな画面を見つめた。  

 再生されたのは、夕暮れに染まる冬枯れの紅葉。

 レンズがゆっくりと動き、嵯峨野トロッコ列車の鉄橋を捉えたその瞬間。

 動画の右上には午後6時22分と表示されている。

 すると《プォオオオオ》という野太い咆哮が静寂を切り裂いた。

 ―トロッコ嵯峨野駅へ向かう回送列車の汽笛だ。
 
 映像の中、メイが確かな愛を込めて囁く。

「……美しい場所。ジェイ、早くあなたに会いたい……」

 しかし、その直後だった。  

 壁の向こうから、低く冷酷な日本語が紛れ込む。

 『森下……展望台へ戻れ』
 
 紛れもなく、その時刻には大阪にいたはずの久保寺の声だった。
 
 動画はそこで途切れている。

「……坂本さん、聞こえましたか?」  

 大河原の声から、先ほどまでの飄々とした響きが消えた。

 それは、静かな怒りをたたえた老練な刑事の眼差しだった。

「久保寺がこの場所にいた疑いが濃厚ですな。六時二十二分に嵐山の展望台にいて、どうやって同時刻の大阪に『存在』してみせたのか……愛宕の天狗にでも化かされん限り、あり得ん話ですわ」

 室内を刺すような静寂が支配した。

 坂本がゆっくりと腰を上げ、暗闇に沈む京都の街を見つめた。

「リサ、タイ語の工作に、このトロッコ列車の汽笛。……狐の尻尾を掴む糸口が見えたな」

 坂本は、メイの最期の視線が映し出した紅葉を、目に焼き付けるように見つめ返した。  

 久保寺が掲げた《鉄壁のアリバイ》……

 その緻密な歯車を粉砕するための戦いが、今、静かに幕を開けた……

(第四章へ続く)

第四章 虚構のダイヤ

第四章 虚構のダイヤ

1.時間の規律

 京都府警へと向かう地下鉄烏丸線の改札口。  

 リサは、坂本から渡された京都市の紋章と地下鉄の車両が描かれたICカード「ICOCA」を物珍しそうに眺めていた。

 名刺サイズの樹脂製プレートに、ICチップが埋め込まれている。

「これをかざすだけで、切符も買わずに電車に乗れるし、買い物もできちゃうなんて……。タイにも似たものはあるけど、日本のスピード感は異常ですね」

 リサは早速、自動販売機で買った温かい缶コーヒーで手を温めながら感心している。

 ホームの掲示板に並ぶ表示は、まるで目に見えない糸で操られているかのように、滑り込んでくる列車の動きとぴたりと重なった。

 一分の狂いもなく刻まれていく時間。

「バンコクなら、五分や十分の遅れは『マイペンライ(気にしない)』よ。でも日本は、時間を一秒ずつ丁寧に編み上げているみたい……」

 リサの横で、坂本は携帯端末を操作しながら言った。

「いま、京都府警から連絡が入った。久保寺と森下の当日の行動を確認中だ。同時に、大阪府警へも久保寺の足取りについて照会を依頼したそうだ」

 暗いトンネルを走る車内には、五条、四条、烏丸御池と、日本語と英語の正確なアナウンスが響き続ける。

 その規則正しい振動が、久保寺の完璧なアリバイに刻まれたわずかな亀裂を震わせ始めているかのようだった。

「久保寺のアリバイは、今のところ揺らいでいないんだ」  

 坂本は吊り革を掴んだまま、低い声でリサに告げた。

「あの日、彼は午後五時に大阪のテレビ局に入り、七時過ぎまで梅田の繁華街で複数の人間に目撃されている。嵐山での殺害推定時刻が午後六時三十分前後だとすれば、物理的な移動は不可能……普通なら、そう結論づける」

「でも坂本さん、あのブルーの携帯に残された、空気を引き裂くようなあの汽笛……。あれは一体何なの? ひょっとして久保寺は、日本の鉄道が持つこの『ダイヤの神話』を逆手に取ったのかしら?」

「さすがの日本通だな。その可能性は大アリだよ、リサ」  

 坂本はリサの耳元へ顔を寄せ、声を潜めた。

「大河原警部はすでに動いている。右京署を通じて、トロッコ保津峡駅の駅員に裏を取ったんだ。あの日、営業運転を終えて終点の亀岡から折り返してきた『回送列車』があった。ディーゼル機関車DE10が引くその空の列車は、午後六時二十二分、トロッコ保津峡駅を確かに発車している。駅員は、その瞬間に山々に響き渡った汽笛の咆哮をはっきりと覚えているそうだ」

 地下鉄が丸太町駅に停車すると同時に、圧縮空気の排気音を「プシュー」と鳴らしドアが開いた。

 リサは吐き出される乗客の波を見つめながら、一歩ホームへ踏み出した。

 二人は地上へ上がり、京都御所を右手に見ながら烏丸通を足早に歩き出す。

「……つまり、あの動画の汽笛がその回送列車のものだとしたら、メイはあの時刻、確実に展望台にいたことになるわね。そして、大阪にいるはずの久保寺の声が、そのすぐ隣で記録されていた……」

「ああ。久保寺が大阪に現れる直前の足取りに、不自然な『空白』があるんだ。森下のあの怯えたような目……彼の足取りを詳しく調べる必要がある。久保寺の『影武者』を務めたんじゃないか。久保寺が大阪にいたという記録が本物でも、その『データ上の足跡』を刻んだのは、なりすました別の人間だった可能性が高い」

「データ?」

「それさ……」  坂本は、リサが持っているICOCAを指さした。

「日本では、どこで改札を通り、どこで買い物をしたか、そのすべてが時刻と共に記録される。犯人はその仕組みを、自分が大阪にいたという証拠作りに利用したのだと思う。久保寺は、この一分も狂わないダイヤの連鎖を、鉄壁のアリバイにしたつもりだろう」

 坂本は府警の建物を見上げ、言葉を継いだ。

「だがな、リサ。どれだけシステムが完璧でも、使うのは人間だ。あのアリバイ、そのうち見苦しい音を立てて壊れるはずだぞ……」



2.京都府警察本部

 二人は、京都御苑の深い緑を背に、ガラス張りの京都府警本部のロビーへと足を踏み入れた。

 そこには警察特有の威圧感はなく、美術館のような静謐な空気が流れている。

 高い天井の吹き抜けから差し込む光が、空間に独特の静寂を醸し出していた。

「うわぁ、綺麗で静かですね。タイの警察署とは大違いですよ」  

 リサが感嘆の声を漏らすと、坂本は軽く襟を正した。

「リサ、場所が変わってもやることは同じだ。見とれてないで、行くぞ」

 坂本は足を止めず、エレベーターの「4」のボタンを押した。

 扉が滑らかに開く。

 そこには一階とは質の違う、張り詰めた空気が充満していた。

 無数のタイピング音、低く響く電話の応対、そして刑事たちの険しい顔つき……。

 壁に掲げられた「タイ人インフルエンサー殺人事件捜査本部」の幕板。

 刑事たちの眼差しは鋭く、リサという部外者を瞬時にスキャンしては切り捨てていく。

「驚くことはない。これがこの建物の“中身”だ」  

 坂本が素っ気なく言い、二人は大河原のデスクへと向かった。

「待っとりましたで。大阪での久保寺と森下の“足跡”、洗えば洗うほどおもろいことになってますわ」  

 大河原は、数枚の防犯カメラの静止画とICカードの履歴表を机に広げた。

「あの日、昼過ぎに久保寺は“別件がある”とメイさんに告げ、大阪へ向かったことになっとる。だがな……」

 大河原が突きつけたのは、百貨店の食品売り場の鮮明な画像だった。

「実際に、四条河原町の百貨店で生八つ橋を買い、阪急電車で大阪へ移動。梅田の家電量販店で久保寺のカードを使って決済ログを残したのは、身代わりの森下や。本物の久保寺は京都市内に残り、自由時間になったメイさんを展望台へと誘い出した」

「データ上のアリバイ……?。でも、顔までは隠せなかったということね」  

 リサが覗き込んだ静止画には、防犯カメラを意識する余裕もなく怯えた表情を晒している森下が映っていた。

「その通り。なりすましだけで精一杯の男ですわ。だが、さらに決定的なのは久保寺本人のヘマや」

 大河原は、時系列が書き込まれたホワイトボードを指し示した。

【久保寺・森下/当日の動き】
16:47 大阪梅田駅 発(森下)大阪での「久保寺の足跡」を刻み終え、嵐山へ戻る。
17:40 阪急嵐山駅 着(森下)そのまま駅で待機。
18:22 久保寺から「戻って来い」の電話音声。
18:23 メイ殺害(実行犯・久保寺)森下は久保寺の犯行を目撃。ジェイを待ち受ける役を担う。
18:30 小倉山展望台 発(久保寺)下山開始。
18:34 阪急嵐山駅(久保寺)自販機決済(予備カード使用)
18:36 阪急嵐山駅 発(久保寺)。
19:28 大阪梅田駅 着(久保寺)「大阪にいた久保寺」として、北新地で会食に合流。

「午後六時二十二分の汽笛の直後に殺害。そこからわずか七分後にはもう山を下り始めている。冷酷なまでの手際の良さだな……」  

 坂本がホワイトボードを凝視しながら呟いた。

「まさしく……。一方、大阪での工作を終えて嵐山へ戻っていた森下は、六時三十分過ぎ、入れ替わるように展望台へ現れ、遺体のそばでジェイさんと鉢合わせる役を演じた。本物の久保寺はその隙に、森下が作り上げた“大阪のログ”を引き継ぐため、駅へと急いだんですわ」

 一人の女性を殺めるために、秒単位の計画を完遂する男の狂気に、リサは背筋が寒くなるのを感じた。

「そやけど久保寺は、一つだけ致命的なヘマをやりよりました。府警のIT班と右京署の執念が、その“矛盾”を突き止めたんです。殺害直後の午後六時三十四分、阪急嵐山駅のホームや。喉が渇ききっていたんやろな。自販機で水を買う際、あいつは無意識に、財布に残っていた『予備のICカード』をかざしてしもたんや…」

「予備のカード……それも久保寺名義だったの?」

「そうや。森下が大阪で久保寺名義のメインのカードを使い、久保寺本人が嵐山駅で『予備のカード』で水を一本買った。デジタルな足跡と、防犯カメラに映った実像が、ここで鮮やかに食い違った。……まさに、“天狗の分身の術”が破れた瞬間ですわ」

「ハイテクなログ監視と、足で稼いだ地道な聞き込み。久保寺は、日本警察のしつこさを読み違えたな……」



3.暗転する勝利

「一分一秒を争う完璧なリレーを組んだつもりでも、喉の渇きという人間の本能までは計算に入れられんかった。……これで、化けの皮は完全に剥がれましたわ……」  

 大河原がホワイトボードを叩き、勝利を確信したように言い放った。

 ふっと一瞬の安堵感が訪れたのも束の間、ただ一人、リサだけが険しい表情で顔を上げた。

「大河原警部。久保寺のアリバイが崩れた今、もう一つ正さなければならない『誤解』があります。……ジェイがメイを殺し、自らも死を選ぼうとしたという、あの心中説の根拠です」

 リサの声は静かだが、鋭く芯を突いている。

「日本の警察は彼を『嫉妬に狂ったストーカー』と見ていますが、それは久保寺の策略でしょう。ジェイは名家の跡取りです。地位も将来もある彼が、凶行に走る動機はどこにもない。彼はプロポーズするためにあの場所へ行った……ただ、それだけなんです」

 リサは、押収品リストにある「ダイヤモンドの箱」を指差した。

「ジェイは現場でメイの遺体を見てパニックになり、そこに現れた森下に『殺人犯になりたくなければ逃げろ』と(そそのか)されて逃走した……。坂本さんに追跡され、不幸にも崖下に転落してしまった。彼の手の中に残されていたのは、メイに贈るはずだったダイヤモンドです。彼は最期まで、彼女との未来を信じていたんです」

 大河原が頷くと同時に、若い刑事が駆け寄ってきた。

「警部! 鑑識の結果が出ました。メイさんの頸部に残されていた微細な繊維片、特定できました。カシミア百パーセント、極細の藍色の糸片です」

「……あの男が首に巻いていた、藍色のマフラーだ」  

 坂本の脳裏に、初めて久保寺に会った時の光景が蘇った。

「間違いありまへんか、坂本さん」

「はい。高級ブランド特有の織り目とロゴをよく覚えています。奴は素手で触れずに、そのマフラーを凶器にしてメイを絞め殺したのでしょう」

「……よし。繊維の特定とあんたの証言。これで『点』が『線』に繋がりましたわ。あとは本人のマフラーを押さえて鑑定に回せば、逃げ道は完全に塞がりますな。すぐに久保寺の身柄を――」

 言い切るより早く、机の上の内線電話が鋭い悲鳴を上げた。  

 受話器を取った大河原の表情が、見る間に凍りついていく。

「……何やと? どこや。……ああ、すぐ行く。現場は保存しときや!」

 大河原は受話器を置き、長く深い溜息をついた。

「森下ですわ。今朝、桂川の下流で水死体で上がったようですわ……」

「死んだ……!? 事故ですか?」  

 坂本の問いに、大河原は苦々しく首を振った。

「詳しい状況はこれからです。やけど……嫌な予感がしますわ。久保寺の奴、裏切る可能性のある共犯者を消してしまおうと思ったんやないでしょうかね……」

「これで、うちが出せるはずやった逮捕状は足止めや。証言者が死んだ以上、物的証拠を積み直さなあかん。坂本さん、リサさん。ここからはもう、京都だけの問題やのうなりましたわ。自分は今から桂川へ直行します。……坂本さん、あんたはリサさんとすぐに東京へ戻り、何食わぬ顔で戻っとるはずの久保寺を抑えてください」

「マフラー、ですね」  

 坂本の言葉に、大河原が深く頷く。

「左様です。奴が今もあのマフラーを持っとるのか、あるいは処分したのか。……もし手元にあるなら、何とかして鑑定に回せるよう外堀を埋めてもらわなあきまへん。あの天狗、必ず引きずり出してください。よろしゅう頼みますわ」

 大河原は足早に部屋を飛び出し、階段を駆け降りていった。

 その背中を見送った坂本とリサも、あとを追うように京都府警の門を後にした。

 静かな東京行きの最終新幹線の車内―。  

 ふと隣を見ると、坂本は深く座席に身を沈め、既に小さな寝息を立てている。

 連日の強行軍が、タフな彼にも限界を強いたのだろう。

 リサは再び窓の向こうの闇へ視線を戻した。

 ライトアップされた古都の風景が、高速で遠ざかっていく。  

 ――タイの教えでは、生前の徳が魂の行く末を決めると信じられている。
 
 誰よりも誠実に生きたジェイが、人殺しの汚名を着せられたまま彷徨うなど、あってはならないことだった。

 「สาธุ(サートゥ)(功徳あれ)……」  リサは胸の前で静かに手を合わせた。

 メイ、そしてジェイ。

 二人の魂を、汚れなき真実の場所へ連れ戻す。

 それが、自分に課せられた血の通った弔いだ。

 新幹線が夜を切り裂き、一路、東京へと突き進む。
 
 加速とともに高まる静かな振動は、もはやリサを鼓舞する「戦いの序曲」のように響いていた。

(第五章へ続く)

第五章 沈黙の聖域

第五章 沈黙の聖域

1.京都発・上り最終列車

 京都を出た最終の「のぞみ」は、夜の帳が降りた沿線を東京へ向けて突き進んでいた。
 
 低い走行音が遠い街の灯火を視界の端へ散らしていく。

 車内には、缶ビールを片手に、パソコンを叩く出張帰りのビジネスマンや、疲れ果てて眠る観光客がそれぞれの目的地を目指して静かに座っていた。 
 
 リサは座席に深く沈み、窓の外を流れる街の光をぼんやりと眺めていた。
 
「……ふぁあ。疲れた」

 隣で、坂本が盛大にあくびをしながら上体を起こした。

「……坂本さん、寝てたんじゃないんですか」

「いや、腹が減って目が覚めた。……リサ、これ食うか」

 坂本は足元のバッグから、大河原が別れ際に押し付けてきた阿闍梨餅(あじゃりもち)(*)の包みを取り出した。

「何ですか、それ。……饅頭?」

「京都の有名な餅菓子だ。大河原さんが『車内で食いなはれ』ってな。ほら」

 坂本は包みを二つ取ると、一つをリサに差し出した。

 袋を破ると、しっとりとした質感の、こんがりとした飴色の餅が現れた。  

 リサは戸惑いながらも一口かじる。

 モチモチとした弾力と、中に詰まった粒あんの控えめな甘さが、張り詰めていた神経をほどくように口の中で溶けていった。

「今のうちに腹に入れとけ。品川に着いたら、もう一息つく暇もないからな……」

 坂本はそう言って喉を餅を飲み込むと、売店で買った「伊右衛門」のキャップをひねった。

 宇治茶の渋みで口の中をさっぱりさせると、彼は座席の背もたれから上体を起こした。

 メイに起きた真実を白日の下に晒し、ジェイの名誉を回復したい。

 そして、自分たちを出し抜こうとしている久保寺を追い詰める。  

 阿闍梨餅のまろやかな甘さは、張り詰めたリサの意識をわずかに現実へ繋ぎ止めてくれた。

「……美味しいですね。でも坂本さん、よくそんな勢いよく食べられますね。口の端に餡子がついてますよ」

 リサが自分の口角を指さして教えると、坂本は

「……ん? ああ、悪い」

 呆れたようにリサがバッグからハンカチを取り出そうとした、その時だった。

 サイドテーブルのスマートフォンが鋭く震えた。画面には「大河原」の名が表示されている。
 
 坂本は即座に端末を手に取った。

「……大河原さんだ。森下の件、詳細が上がってきた」

 その目つきから先ほどまでの弛緩した空気が完全に消え去る。

「リサ、ちょっと失礼……」 

 坂本は携帯電話を持ってデッキへと足早に向かった。



2. 深夜の桂川

「……坂本さん、大河原です。昨夜の零時、森下から久保寺にメッセージが入ったそうや。内容は『メイの金を横領していたのがバレて、カッとなって殺した。死んで詫びる』いう遺書らしい。……けどな、久保寺が警察に連絡してきたんは、今日の午後九時過ぎや。森下が死んで丸一日経ってから『今気づいた、信じたくなかった』やと。白々しいにも程があるわ……」

「……昨夜の零時、か。鑑識の結果はどうだったんです?」  

 坂本が低く問い返すと、大河原が苦い溜息を吐くのが聞こえた。

「死亡推定時刻も零時前後や。つまり、メッセージが送られた時には森下はもう殺されとったんや。川に沈められるのとほぼ同時にな」

「久保寺は東京で、遺体が上がるのをじっと待っていたわけだ。自分が『部下の凶行を今さら知らされた被害者』として名乗り出るタイミングを計るために……」

「そういうことや。丸一日の沈黙は、奴が完璧な『悲劇の経営者』を演じるための準備期間やったんやろう」

 坂本は冷たい戦慄を覚えた。

 久保寺は、森下の立場を逆手に取り、彼を「横領の果てに自壊した男」に書き換えたのだ。  

 通話を終えて席に戻った坂本に、リサが尋ねた。 「何か進展があったの?」

「大河原さんの話では、昨夜の午後十一時過ぎ、現場近くで森下と言い争っていた不審な男がいたそうだ」  

 リサが怪訝な顔をして「不審な、男……?」と訊いた。

「ああ、ホテル付近のコンビニ店員によれば、『アジア系の若い男』だったらしい。そいつはフードを深く被り、森下と日本語混じりの聞き慣れない言葉で喚き合っていたそうだ」

 リサは窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。

「……アジア系。タイ人とは、限りませんよね……?」

「うむ。仮にその男が久保寺に差し向けられた者だとすると……」

「久保寺の会社のスタッフ、ということかしら?」

「おそらくな……。彼のスタジオで働く従業員は多国籍だ。出入り業者を含めれば、アジア系の人間などいくらでもいる。だがな、リサ。久保寺が森下を消すための駒を選ぶなら、身元の確かな人間は使わないはずだ。しかし……」

 坂本は冷静に分析を口にする。

「森下が夜中に二人きりで会うのを拒まず、かつ久保寺が弱みを握って自在に操れる人物……。例えば、日本での在留資格が切れ、不法就労になった人間なら、久保寺にとってはこれ以上ない便利な道具になる」

 リサの指先が、かすかに震えた。

 タイの警察官として、彼女は多くの犯罪を見てきた。

 夢を抱いて日本へ渡った若者が、弱みに付け込まれ、犯罪に加担させられる構図。

 それはバンコクでも、日本の華やかなスタジオの裏側でも、本質的には同じだ。

「……あの男なら、やりかねないわ。そうやって他人の人生を使い捨てにするのね?」  

 リサの言葉に、坂本は無言で頷いた。

「……リサ。まだ推測の域を出ない。今は、大元を叩くことだけを考えよう」  

 坂本の静かな、だが重みのある言葉が、迷走し始めたリサの思考を繋ぎ止めた。

「はい。……そうですね。誰が手を下したにせよ、裏で糸を引いているのは久保寺でしょうから……」

 リサは唇を噛んだ。

 新幹線は減速を始め、窓の外の景色が光の矢からくっきりと街の灯りへと変わりつつあった。

 品川駅のホームへと滑り込む窓に、二人の険しい表情が映り込む。

「明日は、奴のスタジオに乗り込むぞ……。今夜はゆっくりと休んでおこう……」



3. 虚飾の報酬

 港区の一等地に建つビル。

 その最上階にある久保寺のスタジオは、機能性を突き詰めた無機質な空間だった。

 エレベーターを降りると、そこには彼が手掛けるアジアの人気インフルエンサーたちの巨大なポートレートが並んでいる。

 メイもその一人として、この場所で「商品」としての価値を管理されていた。

 案内された応接スペースは、スタジオの奥に位置していた。

 撮影用の機材や遮光カーテンが整然と並ぶ中、中心に置かれた白いレザーソファに久保寺は深く腰掛けていた。  

 特注のシルクシャツを纏い、指先には細い煙草。

 そして、彼の傍らのソファの背もたれには、あの日メイの命を奪った藍色のカシミヤのマフラーが、無造作に掛けられていた。

「いらっしゃい、坂本さん。それにタイからお越しの……リサ警部補でしたね。どうぞ、お掛けください」

 久保寺は薄く笑みを浮かべ、ソファへと二人を促した。

 その眼差しは冷徹で、相手を値踏みするような鋭さがある。

 リサは視線の先にあるマフラーに意識を奪われそうになりながらも、懸命に冷静を装った。

 久保寺はリサの視線に気づくと、満足げに目を細めた。

「ああ、このマフラーですか。私のお気に入りなんですよ。カシミヤの純度が高くて肌に触れる感覚が実にいい。大切な人からの贈り物でしてね」

 久保寺は指先でマフラーをなぞり、その滑らかな感触を楽しむように言った。

 その言葉の裏にある残酷さを、リサは奥歯を噛み締めて耐えた。

「森下の件なら、昨日警察にお話しした通りですよ」  

 久保寺は悠然と煙草の煙を吐き出した。

「実に遺憾だ。長年、私の右腕として経理まで任せていたマネージャーが、あろうことかメイさんに支払われるべき多額のギャラを着服していたとは。彼女に問い詰められ、発覚を恐れて……あんな悲惨な事件を起こした。彼はすべてを清算するために、自ら命を絶った。そうでしょう?」

 久保寺の言葉は、淀みなく流れた。

 森下に「横領」という汚名を着せ、全ての罪を死人に押し付ける。

 それが彼の描いた完璧なストーリーの結末だった。

「久保寺さん。あなたの言う通りなら、森下は随分と杜撰な男だったことになるな」  

 坂本が、低い声で応接テーブルを指先で叩いた。

「だが、着服の証拠とされる口座記録も、本人が死んでしまっては確認のしようがない。我々は、森下が死ぬ直前に何をしていたのか、もう少し詳しく調べる必要があると考えています」

「ほほぉ。この期に及んで、まだ何か調べたいのかね?」

 久保寺は煙草を灰皿に押し付けると、上体をゆっくりと前に乗り出した。

 高価な香水の香りが、スタジオの無機質な空気の中に不自然に立ち込める。

「死人に口なし、と言うでしょう? 彼は自白とも取れる遺書を残した。京都府警もそれで納得している。それとも……私のスタジオの管理体制に不備があったとでも言いたいのか?」  

 その声には、隠しきれない傲慢さと、暗にこれ以上の介入を拒む威圧感が籠もっていた。  

 リサは、彼の背後にある巨大なメイのポートレートに目をやった。 

 光を浴びて微笑む彼女の首筋を、あの藍色のマフラーで締め上げたのだろうか……。  

 その光景を幻視したリサの胸に去来したのは、深い悲しみと、それを踏みにじる男への激しい怒りだった……。

 


4.見えない鎖

「ちょっと、お手洗いを借りてもいいでしょうか?」

 リサが静かに切り出すと、久保寺は鷹揚に手を振り、スタジオの奥を指差した。

「ええ、もちろん。自由になさってください」

 リサは立ち上がり、機材搬入出口の重いカーテンを開けた。

 表の洗練とは無縁の、機材のコードがのたうつ埃っぽいバックヤード。

 数人のスタッフが黙々と照明セットを調整している。

 リサの視線が、一人の若い青年に釘付けになった。

 Tシャツの襟元から覗く「プラクルアン(小仏像の御守り)」を必死に握りしめ、念仏を唱える様な仕草をしている。

 窮地で御守りに縋るその所作に、リサは確信した。

(……タイ人だわ)

 周囲に人がいないことを確認し、迷いなく歩み寄る。

「……サワディーカー。少し、話をしてもいい?」

 母国語で語りかけた瞬間、青年の身体が凍りついた。

 名をアーティットというその青年は、血の気の引いた顔でリサと正対した。

「怖がらなくていいわ、アーティットさん。私はバンコクからタイ公安警察のリサよ。メイさんのことは、あなたも知っているわよね?」

 アーティットは一瞬縋るような目を向けたが、すぐに視線を落とした。

「……ダメだ。あの人には逆らえない。警察に話せば、僕は強制退去させられる。日本を追い出されたら、故郷の家族はどうなるのさ?」

 リサは一歩踏み込む。

「でも、このままでは食いつぶされるだけよ。森下さんがギャラを着服していたなんて、本当なの?」

 彼は母国語で、堰を切ったように話し始めた。

「違う! 森下さんはメイさんの味方だった。だから汚名を着せられたんだ」

「……じゃあ、京都で何があったの? あなたが森下さんの命を奪ったのね?」

 彼はその場に力なくしゃがみ込んだ。

「森下さんは、京都に残って警察に協力するよう命じられていました。でも……久保寺さんは僕に、彼を殺せと命じた。でも逆らえなかった。午後十一時ごろ、ホテルの前の路地で森下さんと話をしていたら、彼は逆上して……喧嘩になった。僕は無我夢中で、そばにあった石で彼の頭を……」

「……そのあと、どうしたの?」  リサが続きを促した。

 肩が激しく上下する。

「息をしなくなった彼を桂川に投げ捨て、東京へ戻って報告しました。あの人は平然と『ご苦労、君の在留資格と査証の件は問題ない、これからも頑張りたまえ』と言ったんです。一瞬ホッとしてしまった自分が恐ろしい。森下さんには、本当に悪いことをした……」

 リサは彼の震える手を取った。

「あなたが行ったことは罪だけど、久保寺に操られていたのも事実よ。お願い、証言台に立って。あの男を裁くために!」

「ダメだ! そんなことをしたら僕は刑務所だ。家族はどうなる? 久保寺さんは僕を消すかもしれない。証言なんて、絶対に嫌だ!」

 拒絶は切実だった。

 久保寺が植え付けた恐怖は、正義感だけで拭えるものではない……。

 リサが沈痛な面持ちで応接室へ戻ると、久保寺は依然として優雅に煙草を燻らせ、傍らにはあの藍色のマフラーが掛けられていた。

 リサの表情から、坂本は「証言」の確約が取れなかったことを察した。久保寺は二人の焦りを見透かしたように、マフラーにそっと手を触れ、満足げに微笑む。

 スタジオの空気は、嵐の前の凪のように重く冷たく、膠着したまま沈殿していった……。

(第六章に続く)

(*)阿闍梨餅(あじゃりもち):京都・満月が製造する名菓。比叡山の修行僧「阿闍梨」に由来し、もちもちの皮で丹波大納言小豆の粒あんを包む。香ばしく上品な甘さが特徴。

第六章 反撃の序曲

第六章 反撃の序曲

1.砂の供述

 京都府警の取調室。

 無機質なコンクリート壁に囲まれた空間に、重苦しい沈黙が沈殿している。

 坂本は、錆びついたような音を立てるパイプ椅子を鳴らし、机を挟んで座る久保寺をまっすぐに見据えた。

 対する久保寺は、そこが取調室であることを忘れたかのように、高級ホテルのラウンジで寛ぐかのような仕草で背もたれに身を預けている。

 仕立ての良い三揃いのスーツに身を包み、傍らに無表情で坂本を見返す専属弁護士を控えさせ、優雅に脚を組むその姿は、その場の空気から完全に浮き上がっていた。

「……残念ながら、アーティット君の供述は一貫しています。あくまで単独犯であり、突発的な犯行ということになります」

 坂本の言葉に、久保寺は芝居がかった深いため息をついてみせた。

「実に遺憾だ。彼がそれほどまでに激しい気性を隠し持っていたとは……。私の教育不足、管理不足を痛感しますよ。……それで、参考人としての私の義務はこれで果たせましたかな? 東京では分刻みのスケジュールでインフルエンサーたちの撮影が控えていましてね。そろそろ戻りたいのですが……」

「まあ、そう焦らずに。少しお話を聞かせていただきたいだけです。……ところで久保寺さん、今日は首元が随分と寂しいようですが」

 坂本はわざとらしく、久保寺のジャケットの襟元に目をやった。

 あの日、彼の首を誇らしげに支配していた“マフラー”は、そこにはない。

「おや、よく見ていらっしゃる。昨日お見せした、あのカシミヤのことですか?」

「ええ。一流品しか身につけないのがモットーのあなたが、あんな一級品を外して歩くのは珍しいと思いましてね。今日もさぞ、その感触を楽しまれているのかと」

「ふふ、買いかぶりすぎですよ、坂本さん。実は昨日、日帰りで東北のクライアント先へ向かう新幹線の中で、つい居眠りをしてしまいましてね。デッキで電話を終えて席に戻った際、棚に置いたまま下車してしまった。急いで那須塩原駅で紛失届は出しましたが……おそらく戻ってはこないでしょう。残念でなりません」

「ほう。新幹線に……。それは災難でしたな。あれほど執着されていたものを失くすとは、あなたらしくもない」

 坂本はあえて机へ身を乗り出し、久保寺に顔を近づけ、囁くように言った。

「だが、不思議ですね。あれほど一級品の肌触りを知ってしまうと、二度と手放したくなくなるのが人間の性だ。……それを、こうもあっさりと『紛失』したと仰る。よほど、なにかの記憶ごと置き去って来た……そんな風にも見えますがね」

 坂本の薄笑いの不遜な物言いに、久保寺の口角に昏(くら)い怒りが滲む。

「……詩的な解釈ですね。ですが、私は合理主義者でしてね。失くしたものは、また手に入れればいい。直せばいい。ただそれだけですよ」

「ああ、そうでしたね。代わりはいくらでも手に入る……。メイさんの時も、そう仰っていた」

 久保寺の表情から、わずかに余裕が剥がれ、その奥に冷徹な瞳が覗いた。

 坂本は低く、這うような声で単刀直入に尋ねた。

「久保寺さん。あなたはアーティットに命じて、森下を殺させた。違いますか?」

 久保寺が唇を歪め、反論の言葉を吐き出そうとした。

 それを予期していたかのように、弁護士が鋭い咳払いをひとつした。

「失礼。坂本刑事。久保寺氏の貴重な時間を、これ以上空想(ファンタジー)に割かせるつもりなら、しかるべき手続きを取らせていただきますよ。アーティット氏は、森下氏と口論の末に突発的に手を下したと自供している。動機は私的な金銭トラブルでしょう。久保寺氏が指示をした証拠も、あなたが固執しているそのマフラーも、この世には存在しない。……違いますか?」

 久保寺は満足げに頷き、ゆっくりと席を立った。

「坂本さん、証拠がないなら失礼するよ。……あなた方警察の組織というのは、意外と杜撰(ずさん)な管理体制のようですな……」

 背中を向けて去る久保寺の足音に、坂本は砂を噛むような焦りと怒りを噛みしめた。

 


2.泥の忠誠

 地下留置場の面会室。

 古都・京都の雅(みやび)を完全に遮断する特殊な空間だった。

 鉄扉の向こうから、規則正しい足音が近づく。

 先に姿を現したのは、紺色のスーツに身を包んだ大阪のタイ総領事館職員だった。

 タイの国旗をあしらった胸元の控えめな徽章が、その立場を静かに主張している。
 
 その一歩後ろに、リサが続いていた。

「本日は、タイ国籍、アーティット・チャイワット氏の状況確認のため、面会を願います」

 形式的なやり取りの後、職員はアクリル板越しの席に着き、必要最低限の確認を済ませると、静かに部屋の隅へと下がった。

 ――ここから先は、同じ母国語を持つ者同士の時間だった。

 アーティットは、没収されたプラクルアン(《タイの御守り》)があった胸元に、無意識に手をやった。

 今の自分を守ってくれるものは、この部屋には何もなかった。

 アクリル板越しに、リサと目が合った。

 彼女は、ほんのわずかに頷く。

「……妹さんは、重い病気なのね……」

 アーティットが答える前に、リサは静かに言葉を続けた。

「あなたの状況は、総領事を通じてタイ本国へ報告されるわ。でも……無理に話さなくていいのよ。私は、あなたの言葉を直接聞きたいだけ、それだけよ」

 それは職務としての言葉だった。

 本当は、その先を言いたかった。

 ――必ず、助けてあげる。

 だが、その約束を守れる保証が、自分にはない。

 リサは、その一言を飲み込んだ。

 アーティットの胸に、殺してしまった森下の記憶が悪夢のように蘇ってくる。

 雨の降る桂川の深夜の河原。

 森下は必死に語りかけてきた。

 久保寺から離れろ、不法な仕事に戻るな――それは叱責ではなく、日本人の優しい兄のような心配だった。

 揉み合いになり、足元の石を掴んだ。

 振り下ろした瞬間の、鈍い衝撃。

 短い喘ぎ声が増水した桂川の濁流に呑まれて消えた。

 坂本刑事の言う通りだ。

 久保寺が、指示をした。それは紛れもない事実だった。

 だが、その事実を語る自由は、アーティットにはなかった。


 一週間前、久保寺はドイツ製の高級車の後部座席で、一枚の書類を差し出した。
 
 タイの私立病院のロゴが入った、妹の診断書と見積書。

 妹は、生まれつき重い心臓疾患を抱えている。
 
 出稼ぎで送る金では、延命が精一杯だった。

「来月には手術ができる。費用は私が全額出そう。執刀医も、最高のチームを揃えてやれるが……」

 両手を胸の前で併せ、感謝の言葉を述べようとしたアーティットを、久保寺は指一本で制した。

「その代わりだ。これから言うことは、すべて君一人でやる。取引じゃない。ただの役割分担だ」

 条件は明確だった。

 森下を殺し、突発的な単独犯としてすべての罪を被ること。

 理由は何でもいい。

 ――久保寺の名を一言も出さず、刑務所へ行くこと。

 そうすれば、妹の命は救われる。

 家族には、匿名の口座を通じて一生困らないだけの金が振り込まれる。

「……もし、私が警察に捕まったらどうなりますか?」

 絞り出すように尋ねた時、久保寺は初めて彼を見た。

 その目には、期限切れの食材を見るような無関心さしかなかった。

「その時は手術は中止だ。支援も止める。君の家族がどうなろうと、私には関係ない」

 久保寺は、最後まで「殺せ」とは言わなかった。

 ただ、真実を語った場合の“当然の結果”を淡々と説明しただけだ。

 取調室で坂本刑事に詰め寄られた時、アーティットは何度も叫びたくなった。

 助けてくれ、真実を話したい、久保寺が怖い――と。

 だが、日本の警察が、バンコクの片隅で消えかけている妹の命を救ってくれるわけではない。

 自分が外国人犯罪者として法廷に立ち、長い刑期を務めること。

 それだけが、妹の心臓を動かし続ける唯一の代償だった。

 真実を語る選択肢は、最初からなかった。

 森下の、最後の困ったような笑みが、何度も脳裏に浮かぶ。
 
 ――本当に、すまない……。

 独房の天井を見つめるアーティットの瞳から、熱い涙が一筋、耳元へと流れた。

 彼は声を殺して泣いた。



3.不協和音

 京都府警の屋上。

 晩秋の乾いた風が、夕闇に沈みかけた古都の街を吹き抜けていた。

 低いビルの谷間に灯りが点り始め、遠くでクラクションの音がかすかに混じる。

 坂本はフェンスにもたれ、紙コップの冷めきったブラックコーヒーを一口すすった。

 苦味だけが、妙に舌に残る。

「……何をしているんですか、坂本さん。探してたんですよ……」

 振り返らずとも分かった。

 リサの声だ。

 そこには、抑えきれない憤りが滲んでいる。

「久保寺を帰したそうですね。指一本、触れさせずに!」

「任意同行だ。引き止める理由がない」

「理由……?」

 リサは坂本の前に回り込み、真正面から睨んだ。

「私は、面会室で彼の話を聞きました。アーティットは久保寺に脅されている。妹の命を人質に取られて、罪を被らされているんです。――それでも、日本の警察は何もできないんですか!」

 坂本は視線を外し、古都の碁盤の目のような街の灯りを見つめた。

 京都御所の森は、彼の目にぽっかりとした暗い空白として映っている。

 そこに感情を落とせば、何かが壊れる。

 守ってきたのは正義だけじゃない。

 組織の中で役割を果たす、自分の立ち位置だ。

 それを疑わずにいた時間が、今、リサの前で静かに崩れ始め、胸の奥に言葉にならない高まりを残していた。

「リサ、わかってくれ。日本の裁判で通用するのは、証拠だけだ。本人の供述も、書面も、すでに“単独犯”で処理されている。君が聞いた話は、法廷ではただの伝聞なんだ……」

「……それじゃあ、正直者が馬鹿を見るだけじゃないですか……」

 リサの声が、わずかに震えた。

「久保寺は今も自由で、アーティットは独房にいる。真実は分かっているのに、日本の警察制度がそれを拒んでいる。そんな捜査、意味があるんですか?」

 坂本は紙コップを右手で潰した。

 乾いた音が、風にさらわれる。

「意味がないと思ったら、とっくに辞めてるさ……」

 リサは唇を噛み、しばらく黙っていた。

「……じゃあ、どうするんですか」

 坂本は短く息を吐いた。

「正面からは行かない。もう一度、奴の周囲を崩してみよう……必ず綻びはあるはずだ」

 坂本は手にしていた紙コップを無造作にゴミ箱へ放り投げた。

 だが、コップは縁に当たって床に転がる。

 一瞬の間。

 リサが、思わずクスッと鼻を鳴らした。

 坂本は眉をひそめ、紙コップを拾い上げ、今度はきちんとゴミ箱に入れる。

 その何気ない動作を見つめながら、リサがぽつりと呟いた。

「……ゴミ箱」

 坂本の動きが、わずかに止まった。

「久保寺は、俺たちがマフラーを追っていることも承知していた。その上で『新幹線に置き忘れた』と届けを出した。だが、あれは置き忘れじゃない。……恐らく、自分のスタジオにある焼却用のゴミ箱に放り込んだんだ!」

 もし、坂本の読みが正しければ――

 だがマフラーは、すでに灰になっている可能性が高い。

 リサは、喉の奥で息を詰まらせた。

 胸の底に沈んでいく落胆。それでも、完全には沈みきらない何かが残る。

 坂本はポケットから携帯電話を取り出した。

 迷いはなかった。

「公安に繋いでください。至急お願いします」

 短く告げ、フェンスから身を起こす。

 風に揺れる街の灯りが、彼の横顔を一瞬だけ照らした。

「都内、久保寺のスタジオ。敷地内に焼却炉があるはずだ。まだ火を入れていなければ、痕跡が残っている可能性がある。今すぐ押さえてほしい」

 通話を終えた坂本は、しばし暗い空を仰いだ。

 希望を口にするには、あまりに分が悪い。

 それでも、手を止める理由はなかった。

 リサは、その背中を見つめていた。

 落胆は確かにある。

 だが、彼が電話を入れたその瞬間、胸の奥で小さな火が灯った。

 ――まだ、終わっていない。

「……間に合いますよね?」

 祈るような声だった。

 坂本は振り返らずに答えた。

「ああ。久保寺は、自分の手で終わらせるタイプだ。必ず隙がある……」

 その言葉に、リサは小さく頷いた。

 二人の間で鳴っていた不協和音は、形を変えつつあった。

 それは、絶望の音ではない。

 踏み出すための、静かな反撃の序曲だった。

(第七章に続く)

第七章 綻びの旋律

第七章 綻びの旋律

1.午後六時二十二分の記録

 ――ビーッ。

 二人の間に落ちていた沈黙が、その音ひとつで弾けた。

 坂本は反射的にポケットへ手を伸ばし、振動の余韻を残す携帯電話を引き抜いた。

 〈進展あり――復元可能な動画ファイル、一件〉

 画面に表示された短い文言を見た瞬間、胸の奥で何かがわずかに軋んだ。

 止まっていた歯車が、再び噛み合い始める感触。

 ――動いた。

 低く呟いた坂本の声に、リサは何も言わず、ただ小さく頷いた。

「鑑識課からだ。行くぞ」

 *

 京都府警・鑑識課。

 無機質な室内に、解析用サーバーの静かな稼働音だけが淡々と流れている。

 坂本は鑑識官の木村に軽く頭を下げ、モニターに視線を集中した。

 京都府警が現場から押収した、メイが最期にブーツに隠した、恋人ジェイとの連絡用のブルーのスマートフォン。

 その解析画面がモニター中央に映し出されている。

 木村が操作する解析バーが、徐々に右へと進む。

「……出ます。ここです」

 木村の短い声と同時に、再生が始まった。

 画面右上に、無機質な白文字が浮かぶ。

 ――18:22――

 あの時刻だ。

 夕暮れに染まる冬枯れの紅葉が、画面いっぱいに広がり、画面はゆっくりと保津峡の山肌をなぞる。

 そして、鉄橋の影が伸びる先――嵯峨野トロッコ列車の線路を捉えている。

 《プォオオオオ》

 野太いディーゼル機関車の汽笛が、音割れ混じりに響いた。

 トロッコ保津峡駅を発車する合図だ。

 映像の中で、メイの声が小さく囁いた。

“……美しい場所。ジェイ、早くあなたに会いたい……”

 汽笛の余韻を消すかのように、男の低い声が聞こえる。

「すいません、この後の声、拾えますか」

 坂本の息を弾ませた問いに、木村は音声レベルを上げる。

「はい、もちろん、ここからです」

 そのあとに続く、低く、押し殺したような男の声。 

 ――森下……展望台へ戻れ

 室内の空気が、わずかに張り詰める。

「その声は、久保寺の声で間違いないんやね?」

 大河原が木村の顔を覗き込むように尋ねる。

「はい、音声鑑定の結果、久保寺の声で間違いありません」

 鑑識官はマウスを動かす手に、わずかに力を込めたまま再生を続けた。

「それから……ここです。坂本さん、気づきましたか?」

 映像が一時停止され、フレームが拡大される。

 画面の上部から一瞬、レンズを撫でるように、藍色の布地が滑り込んだ。

 坂本は、瞬きもせずにそれを見据えた。

 ――間違いない。

 あの夜、久保寺の首元を覆っていた色。

「拡大します」

 木村が操作すると、拡大された布地の繊維が浮かび上がる。

「絞殺に使ったマフラーのようですね……」

 大河原はポンと手を叩いて、声を上げた。

「……ここまでは、揃いましたな、ほな・・・」

 そう言いかけた時、木村がまだモニターを見続けている。

「実は続きがあるんです‥‥」

 木村は途切れた動画を再生して数秒の動画を流した。

 スピーカーからメイの微かなうめき声が微かに聴こえる。

「……うぅ……」

 一瞬、誰の声か分からなかった。

 だが続いて、絞り出すような、か細い音が重なる。

「……お・と……さん……」

 たどたどしい、日本語。

 苦しみと、(すが)るような感情が滲んだ声。 

 メイの声が消え、映像はひっそりと幕を下ろしたかのように、足元に落ちる影だけだった。

 誰も、すぐには言葉を発しなかった。

 その声が意味するものを、全員が同時に理解してしまったからだ。

 室内の空気が、ぴんと張り詰めた。

「……メイの声だわ、 “おとうさん”?」

 リサが、震えを抑えるように言った。

 坂本が眉を寄せて額を抑えながら、

「“おとうさん”…ってまさか!?」

 大河原がその場の淀んだ空気を遮断するように言った。

「いやいや、ちょっと、まぁ、ここは一旦証拠が揃ったんやから、まず、久保寺の逮捕状を取りましょか」

 大河原は、頭を抱える坂本を他所に、部下の署員に向かって指示を出した。

「ほな、明日一番で久保寺を引っ張ってこい。それと、トロッコ保津峡駅の駅員への裏取りな。あとはあの“あのマフラー”だけや……」


2.ダイヤは嘘をつかない

 京都府警・鑑識課を出た直後だった。

 坂本の携帯が、ポケットの中で短く震えた。

 反射的に画面を確かめ、足を止める。

「……港署か」

 通話ボタンを押した瞬間、受話口の向こうから切迫した声が流れ込んできた。

『久保寺の都内スタジオです。敷地内の焼却設備から、例のマフラーを押収しました』

 坂本は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。

『昨夜、焼却予定だったものです。ただ、豪雨で作業が中断されまして……社員が処理を取りやめたそうです。炉の中に、そのまま残っていました』

 雨――。

 あの夜の天候が、脳裏をよぎる。

 坂本は歩き出しながら、低く問い返した。

「……マフラーの特徴は?」

『藍色です。カシミヤ生地のようで、かなり高級な品かと』

 隣を歩くリサが、わずかに息を呑む気配が伝わってきた。

 坂本は視線だけを向け頷く。

「重要証拠です、扱いは最優先で。鑑識でDNA鑑定を急いでください」

『了解しました!』

 通話が切れたあとも、坂本はしばらく携帯を手にしたまま立ち尽くしていた。

 雨上がりの烏丸通りに冷たく乾いた風が吹き抜けていく。

 坂本の胸の奥に溜まっていた澱みを一気に(さら)っていく。

 理屈の上では、それだけで十分だ。

 だが――。

 ぽつりと零れた声は、安堵とも確信ともつかない。

 リサは、すぐには言葉を返さなかった。

 代わりに、ゆっくりと息を吐く。

「肝心な証拠を消したつもりだったんですね……」 

 自分の手で始末したはずのものが、雨に阻まれて残っていた。

 完璧を演じる人間ほど、こういう落とし穴に気づかない。  

 すべては計画通りに処理された、という前提を信じ切り、その過信が盲点に変わることを知らない。

「完全犯罪を演じたつもりなのね……」

 坂本は答えず、濡れた舗道の先を見ていた。

「でも――雨までは、管理できなかった……これで逃げ道は、もうない」

     *

 嵯峨野トロッコ保津峡駅。

 運行終了後の構内は、人の気配が抜け落ち、線路に沿って冷えた空気だけが溜まっていた。

 駅員室の蛍光灯が、やや白く明るすぎる。

 待っていた若い駅員は、坂本の身分証を一瞥すると、わずかに背筋を正した。

「午後六時二十二分……ですか」

 駅員は一瞬、視線を宙に泳がせた。

「えーと、その時間帯は、営業列車は終わっています。ただ——」

 駅員は一瞬だけ言葉を切り、タブレットを操作した。

「回送列車が通過していますね」

「回送?」

「ええ。観光列車の最終便のあと、空車の車両を嵯峨駅へ戻すための列車です。乗客はいません」

 画面に表示されたダイヤグラム(列車運行表)には、線と数字だけが、無機質に並んでいる。

「回送列車は、例外なくこのダイヤに沿って運行します。この日はえっと……」

 駅員の指が、一本の線をなぞった。

「はい、その時刻です。汽笛を鳴らす地点は——ちょうどここ、保津峡駅構内です」

 坂本は、即座に問い返した。

「その汽笛、本当に鳴っていますか?」

 駅員は一瞬、意外そうな顔をしたが、すぐに首を横に振った。

「いえ……“鳴ったかどうか”という話ではありません」

「どういう意味ですか」

「回送列車がこの駅を通過する際、汽笛を鳴らすのは、運行規定上の義務なんです。例外はありません」

 駅員はそう言って、タブレットの画面を閉じた。

「つまり……」

 坂本が言葉を継ぐ。

「この時刻にこの駅を通過した時、汽笛が鳴った、間違いないですね」

「ええ。鳴らしています」

 駅員は断定するように言った。

「しかも、DE10(*)の警笛は甲高い音で、谷に反響します。あの時間帯なら、山肌に残るように響いたはずです」

 動画の記録とダイヤの数字が完全に一致した。

「なるほど……」

 坂本は、ゆっくりと息を吐く。

 駅員は淡々と頷いた。

「回送列車が通過した以上――この時刻に、汽笛が鳴ったことだけは確かです」

 坂本は、その言葉を胸の奥で噛みしめた。

 ――午後六時二十二分。

 そのとき、汽笛が鳴り、動画が回り、久保寺の声と、あのマフラーが、同じ時間の中に存在していた。

 *DE10ディーゼル機関車:旧国鉄のディーゼル機関車。独特の乾いた、高い汽笛音が特徴。現在は嵯峨野観光鉄道で活躍中。


3.逆走のダイヤグラム

 逮捕状の読み上げは、極めて事務的に行われた。

 被疑者、久保寺洋一。

 被疑事実、タイ国籍「メイ・チャンシリ」の殺人——。

 警視庁港署の取調室に響くその声は、感情を排した記録の積み上げに過ぎない。

 久保寺は正面から坂本を見据えることもせず、高級腕時計の文字盤に視線を落としていた。 

「弁護士を呼んでいます。彼が来るまで、無駄な問答に付き合うつもりはありません」

 短く告げると、久保寺は口を閉ざした。

 その沈黙は、追い詰められている実感すら想定内だと言わんばかりの、揺るぎない自信の表れだった。

     *

 取調室に久保寺の弁護士が入室したのと同時に、坂本が資料を滑らせた。

「久保寺さん。あなたのアリバイ、証拠隠滅、部下への指示……すべてが緻密なダイヤグラムのようですが、完璧な殺意の運行表に致命的な狂いが出ましたね」

 久保寺の眉が、わずかに動く。

「狂いだと? 坂本さん、空想で語るなら小説家にでも転身されたらどうだ」

 久保寺は鼻で笑ったが、その笑みこそが、坂本には滑稽に見えた。

「これを見てから判断してください」

 坂本は、鑑識が復元したブルーのスマートフォンの動画写真を並べた。

「森下に処分させたピンクの携帯。だがメイさんは、このブルーの端末をブーツの中に隠して使っていた。あなたが現場を去った時刻、午後六時二十二分、トロッコ列車の汽笛が証明している」

「ふん、何を言う……心中を図ったジェイという男の偽装工作だろう。嫉妬に狂ったストーカーの凶行。ピンクの端末に残されたメッセージが何よりの証拠だろう」

 久保寺は、メイに成りすまして打たせたタイ語のメッセージを盾にする。

 背後に控えていたリサが、冷ややかに一蹴した。

「あの不自然なタイ語、タイ人なら絶対に使いません。翻訳アプリの精度の低さを呪うことね」

 久保寺は大きく溜息をつき、椅子の背もたれに深く身を預け、隣の弁護士に目線を向けた。

「……刑事さん、久保寺さんにはメイさんを殺す動機など万に一つもありません。メイさんは、久保寺の重要なビジネスパートナーのウィチャイ氏の愛娘だ。彼との信頼関係を損なうような真似をするはずがありません。むしろ彼女の死は、久保寺にしても多大な損失なのです」

 久保寺は、友の娘を失った慈愛深きパトロンの顔を作り、静かに坂本を睨んだ。

 その内心で、かつての"一方的な屈辱”を募らせていることなど、微塵も見せずに。

「損失、ですか」

 リサが冷徹な足取りで久保寺の前に歩み寄った。

「でも、メイさんの最後の言葉を聞いても、同じことが言えますか?」

 リサはタブレットの再生ボタンを、躊躇なくタップした。

 スピーカーから、ざらついたノイズに混じって、か細い音が重なる。

『……お・と……さん……』 

 リサの声が、冷たく取調室を射抜いた。

「タイ人の彼女が、父であるウィチャイさんに助けを乞うなら、タイ語で《クン・ポー》と呼ぶはずだわ。でも、彼女が遺したのは《おとうさん》というたどたどしい日本語だった。…………彼女が誰を呼んだの? あなたならわかるはずよ」

 久保寺の喉が、わずかに震えた。

「……風のノイズか、日本語に似たタイ語の聞き間違いだろう。彼女は、父親であるウィチャイを呼んだのだ。……私に娘などいない」

「聞き間違い?……いいえ、彼女が《日本語》で言ったことに意味があるのよ」

 久保寺の唇が、何かを言いかけて閉ざされた。

 ——あの時、俺を裏切ったのは奴とあの女のはずだ……。 

「メイさんを殺したのは、あなたですね」

 坂本は、その仮面の裏に隠された動揺を見逃さず、改めて問うた。

 久保寺は大きく息を吐き、天井を仰いだ。

 その瞳には、もはや腕時計を見る余裕など残っていなかった。

「……私は、殺していませんよ」

 その声は、不協和音のように震えていた。

 完璧に設計されたはずのダイヤは、そこから静かに逆走を始めていた。

(第八章に続く)

『京都・嵯峨野~殺意のダイヤ~』タイ・トラベル・ミステリー・シリーズ

『京都・嵯峨野~殺意のダイヤ~』タイ・トラベル・ミステリー・シリーズ

紅葉に染まる日本の古都・京都を舞台に、日本とタイの思惑が激突する本格警察ミステリー。 警視庁公安外事一課の坂本警部は、来日したタイの女性カリスマ・インフルエンサー、メイの警護任務に就く。だが、初顔合わせの直前、保津峡の山道で水色のポルシェと遭遇。激しいカーチェイスの末、車は谷底へ転落する。運転していたタイ人青年・ジェイが死の間際に叫んだのは、「マイチャイ・ポム(俺じゃない)!」という、魂を振り絞るような無実の訴えだった。時を同じくして、嵐山の展望台ではメイが刺殺体で発見される。真相を追う坂本の前に現れたのは、かつてバンコクでの合同捜査で背中を預け合った相棒、タイ警察のリサ警部補だった。親日国タイからの旅行ブーム、日本の美しい風景、文化の合間に潜む犯罪の匂い。緻密な捜査の日本刑事とタイの刑事、リサ。お互いの社会観の違いをぶつけ合いながら事件の真相を暴く、異色の海外ミステリー。

  • 小説
  • 中編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-01-25

Copyrighted
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  1. 第一章 断絶のダウンヒル
  2. 第二章 異国の虚像
  3. 第三章 タイからの風
  4. 第四章 虚構のダイヤ
  5. 第五章 沈黙の聖域
  6. 第六章 反撃の序曲
  7. 第七章 綻びの旋律