『記憶は片道切符』
この作品は少年時代に祖父と過ごした夏休みの回顧録である
「しんどいよ、パパ」
自転車のサドルに座る娘の背中を、私はそっと押した。滲み出る汗が、海辺の風と混じり合って、ベタつく肌が気持ち悪いようだった。娘の声には、疲労と、そしてわずかな不満が滲んでいた。
――これは13年前、私が40歳、娘が11歳だった夏の記憶である。
お盆に一歳の孫を連れて帰省中の娘を見ながら、あの夏ことを思い出している。
事前に自宅から宇品港までの距離と時間、フェリーの運航スケジュールを調べ、綿密に計画を立てた。当日の朝8時15分発のフェリーに乗るため、7時に自宅を出発。
予定通り約3時間の船旅を終え、11時前には愛媛県の松山観光港に到着した。
11歳の娘には道後温泉に行くとだけ伝えていたが、実は行きたかった場所は他にあった。
その場所は、三津浜港という小さな港だ。
「もう少しだよ、この海辺を走れば、パパの懐かしい場所に辿り着くから、付き合ってね」私はそう言って娘の機嫌を取ろうとしたが、その言葉は自分自身に言い聞かせているようでもあった。
30年経っても忘れられない夏休みの時間を過ごした場所だった。
当時の私と同じくらいの歳になった娘を連れて行きたかった。
あの頃に見ていた風景を娘が見たら、どのように感じるのだろうと興味があった。
そして、もう一つ、私の中にある三津浜港の風景は本当に存在したのだろうか。その答え合わせでもあった。
目の前の海を見ながら記憶がよみがえる…
小学校三年生から六年生まで、夏休みになると二週間ほど、愛媛県松山市の西部に位置する三津浜を訪れた。
7月中旬になると、港の赤電話から『オイ、いさむはいつ来るんじゃ?』と母に電話をかけてくるのが、おじいちゃんの恒例行事になっていた。
11人もいる孫の中で、なぜか私だけが飛び抜けて可愛がられていた。その理由については、私自身も、そしておそらく他の孫たちも「そういうものなのだ」と認めるほかなかった。。
無口なおじいちゃんの愛情は、言葉ではなく、いつも硬貨の中にあった。
三津浜港に着くと、一円玉や五円玉、十円玉がじゃらじゃらと入っている缶詰の貯金箱を渡してくれる。それは、毎日少しずつ集めてくれていた、おじいちゃんの愛情そのものだった。
私はその重みを、言葉の代わりに両手でそっと受け取った。
おじいちゃんは、瀬戸内海の小さな島で生まれ育った漁師だった。ここの島の漁師は女性は船に乗せないという風習を合理性から退け、魚を捕るために遠くの海へと活路を見出し、夫婦で漁に出るようになったらしい。
アナゴ漁の漁場が愛媛県の近くだったため、三津浜港を拠点にしていた。
だだ、それは大人になって調べた知識に過ぎない。子供の頃は、なぜおじいちゃんは見慣れない港に船を置いているのか、その理由は知らなかった。ただ、なんとなく三津浜港を拠点として過ごしているという事実だけが、漠然と心の中にあった。
日常生活は海の上にあった。家船(えぶね)と呼ばれる漁船は、寝泊りできるように作られた特別な造りだ。船には小さな部屋があり、そこには神棚があった。船の後部には簡易的なキッチンと食事ができるスペースがあり、アナゴ漁で使用する延縄(はえなわ)が所狭しと並んでいた。無数の針針が連なるその縄は、出番を待つように所狭しととぐろを巻いていた。
陽が落ちて、空が群青色に染まる頃、家船(えぶね)は港を離れた。夜の海は、昼間とは全く違う顔を見せた。墨を流したように真っ黒で、遠くに漁火の光が点々と見える。おじいちゃんは、無言で船を進め、昼間仕掛けた延縄(はえなわ)を、ゆっくりとたぐり始めた。船のエンジン音は激しくなり、設置されている機械が「ガタガタ、ガタガタ……」とけたたましい音を立てて縄を巻き上げていく。その音は、静かな夜の海に響き渡り、やがて、生命力にあふれたアナゴが姿を現す。おじいちゃんとおばあちゃんの会話は機械音にかき消され、聞こえない。だが、二人は大きい声で言い争うかのようにやりとりしている。それは夫婦というより、長年の漁で研ぎ澄まされた戦友のような阿吽(あうん)の呼吸だった。私はその無駄のない「仕事」の連なりを、潮風の中でじっと見ていた。
船での生活は、風呂がなかった。漁が終わり市場に魚を卸すと、おじいちゃんは私を連れて、港から少し離れた商店街にある銭湯へ向かった。
入り口からすでに湯気に包まれ、ガラス戸を開けると、番台に座ったおばさんが「いらっしゃい」と声をかけてくれた。おじいちゃんは、湯船に浸かりながら、他の漁師たちと世間話をする。いつもは口数が少ないおじいちゃんが、ここでは少しだけ笑顔を見せ、楽しそうに話していた。銭湯の帰りには喫茶店に寄り、おじいちゃんはレイコー(アイスコーヒー)を、私はメロンクリームソーダを頼むのが定番であった。子供心に、この場所が漁師という生き方から解放されることを、なんとなく気づいていた。
昼間はおじいちゃんに、延縄(はえなわ)の仕掛けを教えてもらった。無数の針に餌をつける作業は、子供には途方もない時間と集中力を要する作業だった。作業を終えると、おじいちゃんは決まって私の手のひらにくしゃくしゃになった五百円札をそっと乗せてくれた。その紙幣を、両手で包み込むようにして受け取った。五百円札は、おじいちゃんの仕事の一部をそのまま分けてもらったような気がした。無口なおじいちゃんが一人前の相棒として認めてくれた証であった。それは単にお金を得る仕事というものではなく、自然を相手に生きる教科書よりも重く『リアル』を教えてくれた。
夜になれば、揺れる波の音、船の汽笛、船と船がぶつかり合う発泡スチロールのギシギシという音がハーモニーとなり子守歌のようだった。潮の匂いと魚の匂いが混ざり合い、それは私にとって普段の生活にない特別な音と匂いの空間だった。
私は自転車を降り、娘と一緒に三津浜港を見渡す。私の記憶の中の三津浜港は、多くの漁船が並び港の前には高いビルがあり、一階のスペースにはお土産屋の店舗があった。しかし、目の前に広がるのは、昔とは変わり果てた港の風景だった。建物は姿を消し、その代わりに真新しい防波堤が築かれ、漁船は見当たらなかった。私は、自分の記憶と目の前の景色が一致しないことに、戸惑いを感じた。それは、まるで、大切な思い出のアルバムをめくったら、写真が別のものに差し替わっていたかのような、奇妙な感覚だった。
「パパの、おじいちゃんはこの港に船を停めてたの?」と娘が言った。私は、心の中の記憶をたどりながら、かつて船が停まっていた場所を指さした。「ここだよ。ここに船をとめて、おじいちゃんはアナゴを獲っていたんだ」
娘は、私が指さす場所をじっと見つめて「へーそうなんだ」とさほど興味もなさそうに答えた。
娘のその一言は、三十年という時間の隔たりと、私の個人的な感傷が、娘には届いていないことがわかった。しかし、それで十分だと満足した 。
「そうだね、よし道後温泉にいって早くお風呂に入ろう」
私の笑顔を見た娘は「にこにこして、何が楽しいの?」と不思議そうに言った。
何も答えなかった。言葉では説明できない満足感があったからだ。
そして無言のまま自転車にまたがった。
子供の頃の記憶と三津浜港の風景は重ならなかった。しかし、遠くから聞こえるフェリーの汽笛、鼻腔をすり抜ける磯の匂いと波の音に、船の上で過ごした夏休みを思い出させてくれた。
そして、缶詰の貯金箱の重みも。
三津浜港の風景は、過去と現在が溶け合う美しい一枚の絵となっていた。たとえ風景が変わっても、確かに私の中に存在し続けていたのだ。それこそが、私の求めていた答えだった。
そして今日、この小さな旅を通して、娘と共有した時間こそが、未来へと繋がる新たな記憶になることを私は知った。
『記憶は片道切符』