僕の人生「自分史」
僕の人生「自分史」
僕の人生
生まれたのは東京の大田区の病院である。
その頃の記憶は全くない。すぐに家族は埼玉県草加市の松原団地の公団住宅に入居した。
B地区の4階である。ここで、みどり幼稚園に入った。幼稚園には通園バスで通った。
通園バスが団地のいつくかの地点で止まってくれたので、家から近い所のバス停で通園バスに乗って幼稚園に行き返りもバスに乗って帰った。本当はホンダCB750で通いたかったのだが、体が小さかったので乗れなかった。幼稚園は嫌いだった。病弱だったので友達も出来なかった。2、3人くらいは友達が出来たが。幼稚園にある、輪くぐり遊具の中を通るのが苦手で「無理ならやらなくてもいいですよ」と言われた。輪くぐり遊具は、ちょっと空中をウネウネ曲がっていて、こわかった。単純な形の輪くぐり遊具だったら出来ただろう。
友達と一緒に運動することは苦手だったが絵を描くのは好きだった。
小学生になり栄小学校に入った。小学校も嫌いだった。というか、こわかった。
校舎がカビくさいのも嫌だった。小児喘息やアレルギー性鼻炎も発症し、服の腕の裾で鼻水をふいていたので裾がテカテカになってしまった。
友達も出来ないし、家ではテレビを見ていた。しかしプラモデルを作るのは好きだった。
楽しい思い出はない。
小学校2年の二学期から喘息治療のため、神奈川県にある国立小児病院二ノ宮分院に入った。ここでは皆と友達になれた。トランプや将棋や野球を皆とやった。
ちなみにここの小児科の先生は「浅野先生」といって、大人なのに、無口でおとなしい性格だった。無口でおとなしい大人を見たのは生まれて初めてである。
特別、優しかったり好きだったわけではない。
僕のペンネーム「浅野浩二」の「浅野」はこの先生の苗字からとった。
日曜日には父親が面会に来てくれて、欲しいマンガのコミックを買って持ってきくれた。
一日の日課が決まっていて、乾布摩擦をやらされた。腕をゴシゴシ擦ったが、こんなことしても喘息が治るとも思えなかった。昼休みにはベッドで昼寝の時間があったが、眠れるわけでもなく、エッチな妄想にふけっていた。
それはこんな妄想である。
ある小屋がある。
そこで僕は好きな女の子に捕まってしまう。裸にされて縛られてしまう。そして彼女に虐められながら彼女と過ごす。しかし一瞬のスキをついて縄を解き、今度は僕が彼女を捕まえて彼女を奴隷にする。そしてしばし彼女と生活する。しかし彼女は一瞬のスキをついて抜け出し、また僕を捕まえてしまう。そして僕は彼女の奴隷として過ごす。その繰り返しである。
この妄想のストーリーでは永遠に終わることがない。
同級生に安居院ミユキという可愛い子がいたが、彼女は明るくリーダー的な子だった。
だが可愛いのに、結構、気が強く「金蹴り」などと言って男を威嚇していた。はしたないヤツだ。
夏には寮から近い海で泳がされたが、帰ってくると男の子も女の子も一緒に裸にされて体を洗うことになっていた。何を考えているというのだ?小学校2年生なら、もうエッチなことを考え始める年頃だというのに。
子供の中には、ホームシックで脱走する子もたまにいたが、僕は脱走したいとは思わなかった。ここは小学校3年の終わりまでだったので、3年が終わると、僕はまた松原団地の公団住宅にもどった。
4年になって、栄小学校にまたもどった。
しかし、僕を知っている子はいないので、僕は転校生かと思われていた。
しかし一人の女の子は僕のことを知っていた。大津サチ子と言って明るい子だった。嬉しかった。
担任の先生は女の先生だった。
芯がしっかりしていて、女にありがちなナルシストでもなく、それでいて、普通にきれいで、嬉しかった。二ノ宮分院にいた時、野球を少しやったので、野球に参加させてもらった。
その最初の時のこと。
僕は三塁を守っていたが、三塁ゴロが来て、とったのは良かったが、三塁ランナーがホームへもどろうとした。ランナーは僕とキャッチャーに挟まれた。ランナーがホームへ向かったので、キャッチャーへ投げれば、アウトに出来ただろうが、僕はランナーにタッチしようとして失敗した。下手さのため、それ以後、野球をすることはなくなった。
家ではテレビを見るか、プラモデルを作った。
プラモデルは作るまでが面白いので、作った後、出来た完成品を見ていても面白くない。
戦車とかではモーターで動かすのもあった。僕はモーターの原理を知りたくて、モーターを壊して中を見た。僕はモーターが動く原理を理解した。磁石と銅線と電池があれば、モーターは作れるのである。なのでモーターを作ってみた。馬力はないが、カラカラと回る。電磁石も作った。
その他、漫画の模写をしたり、地図を模写したりして一人で遊んでいた。
安藤広重の東海道五十三次の絵の小さなカードの入ったのが好きになり、どうしても欲しくなって、秋葉原の交通博物館へ行って買った。
週一回、水曜日に、一人で渋谷の国立小児病院に通っていたので、その日の午後は学校を休んだ。
友達は3、4人くらい出来た。
学校の成績は5点評価で全科目3で普通だった。
ただ図工だけは良かった。
他の元気な子は一緒にお喋りして遊ぶが、僕は友達がいなく、体力もないので、家でテレビを見たり、プラモデルを作ったりして一人で遊んでいた。
なので図工の成績がよくなったのだろう。
他の子は友達と一緒に遊んで、一人でコツコツ遊ぶということをしないので、絵が下手である。
4年が終わり5年になった。
僕は静岡県の金谷に母親と移り住むことになった。
父親と母親は共にクリスチャンなのだが、キリスト教に対する考えに違いがあって、母親は教会に行って積極的に活動していたが、父親は大阪商船三井船舶という会社に勤めていて、「会社の経営は厳しい。会社には多額の税金が課せられるが、教会のような宗教法人は無税で好き勝手なことをしている、本当の信仰とは路傍伝導であるべきだ」という考えで、いつも父親と母親は口論していた。というより母親が父親にいつも、やり込められていて、もう父親と母親は一緒に住むことが出来なくなってしまったのである。
なので、僕と母親は、母親の実家である、静岡県の金谷に移り住むことになったのである。
僕は金谷小学校に転入した。ここでも友達は出来なかった。
じいさんは頑固で厳しい性格だった。じいさんは僕の喘息が治らないのは、僕の甘えた性格のせいだと思っていて、僕が優しい人に接するのを禁じた。しかし僕は人に甘えることなどしない。僕には男のプライドがある。僕は優しい人からは、ことさら遠ざかろうとする。しかし僕は無口で人に何も話さないので、じいさんは僕を何を考えているのかわからない人間とみていた。というより何も考えていない人間と見ていた。
ある夜中、母親が発狂した。祖父が母親が舌を噛まないように必死に母親を押さえつけていた。しかし僕は母親を何とも思っていなかったので何とも思わなかった。母親はそのまま精神病院に入院することになった。5年の一学期だけ金谷小学校で過ごした。
一度、母親が入院した精神病院にじいさんと母親に面会に行ったが、精神病院は鉄格子で暗く、まるで監獄のようだった。面会に行った時には、母親の病状は落ち着いていた。
5年の二学期から、また喘息の施設である川奈臨海学園に入ることになった。
僕は小学校5年までは、むしろ勉強できない生徒だった。僕は埼玉県草加市の松原団地にある栄小学校に入学した。その時は僕はむしろ勉強が出来なかった。し、しなかった。成績は5点評価で全科目3程度だった。しかし僕は勉強ができないことに、そんなに劣等感を持っていなかった。僕は生まれつき病弱だった。喘息でアレルギー性鼻炎で体力がなく、発作止めの吸入器を持っていなければ生きていけなかった。体力がなく内気で無口で友達なんて一人も出来なかった。だから学校へ行くのが嫌だった。僕には学校がこわかった。
クラスの中には、学校が終わった後、塾へ行っているヤツがいた。当然、学校の成績もいい。
しかし僕はそういうガリ勉を見ても、みっともないと思っていた。決して優等生に対する嫉妬なんかではない。勉強が出来れば、いい中学校、いい高校、偏差値の高い大学に入れ、そして、一流企業に入れるのだろう。しかし、そんなのはレールに敷かれた電車に乗っているだけの人生のようなものだ。先が見えている。つまらない。
僕が勉強するようになったのは、小学校5年の時からだ。僕の小児喘息がなかなか治らないので、親が喘息の施設である川奈臨海学園へ僕を入れた。小学校5年の二学期からだ。
ここは、みんな喘息児ばかりで、体力の無い子供たちばかりだった。しかし、それが僕にはよかった。なぜなら、みんな僕と同じように、喘息もちで、体力がないので、みんなと友達になれることが出来たからだ。友達ができたことが、何より嬉しかった。僕はみんなとふざけ、そして遊ぶことができた。担任は稲葉先生といい、生徒のいじめを叱り悪い事を叱り良い事は褒めてくれる道徳心の強い人格的に尊敬できる先生だった。勉強が出来るとか出来ないことより、生徒(人間)の人格を重んじる先生だった。
「ああ。いい先生だな」
と僕は思った。
入って間もない、ある算数の時間である。先生はある問題を出した。何の問題だったかは、忘れた。僕はそれが解った。
「わかる人はいるか?」
と先生が言った。クラス一の秀才の山崎が手を上げた。彼は問題の回答を言ったが、それは間違っていた。彼は真理の象徴だったから、黙っていたら彼の考えが正解になってしまう。先生は、すぐに彼の間違いを言わず、やさしく笑いながら、
「他の意見の人はいるか?」
とクラスを見回した。僕は、手を上げて、解答を言った。正解をわかっているのは先生と僕だけである。そこで先生は、生徒達に、山崎と浅野のどっちが正しいと思うか、と生徒の判断を求めた。
「山崎が正しいと思う人は?」
と聞くと、ほとんどの生徒が手を上げた。
「浅野が正しいと思う人は?」
と聞くと誰も手を上げなかった。
「本当にそう思うか?」
と先生は何度も念を押した。山崎と僕の一騎打ちになった。授業がおわる直前まで先生は粘った。みなは、問題は、わかっていないのに、山崎が秀才という理由で、考えを変えようとしない。授業がおわる直前に先生は、
「正解は浅野の方だ」
と言って問題を説明した。先生は人格の優れた人で、僕をあからさまには誉めなかった。だが、僕はこの時ほど嬉しかった事はない。今まで、大人数のクラスで積極的に手を上げることなど引っ込み思案の僕には出来なかった。クラスが少数だったということも幸いしていた。僕が嬉しかったのは、クラスの秀才に勝てたこともあったが、僕にはもっと嬉しい事があった。それは発見だった。先生は差別やえこひいきを嫌う性格だったので、あからさまに誉めはしなかったが、心の中で僕を誉めてくれている事は十分、わかった。
僕は、その時、はじめて感動をともなった発見をした。
「勉強できると先生に誉められるんだ」
「勉強できると先生に愛されるんだ」
愛に飢えていた僕は、それがきっかけで勉強に打ち込むようになった。僕は愛されることを求めてひたすら勉強に打ち込んだ。成績は全科目、ぐんぐん伸びていった。勉強だけではなく、運動にも身を入れた。元々、僕は、持久力はないが、運動は好きだった。その他、作文や絵など学校のことには全て身を入れた。山崎が退院した。そのため、僕がクラスの首席になった。選挙によって僕はクラス委員長に選ばれた。だが僕はカタブツではなく、友達と大いにふざけもした。
さて川奈臨海学園は小学校6年までである。
卒業したら中学生になる。
僕は小学校2年の二学期から3年の終わりまでにも、小児喘息治療のため国立小児病院、二宮分院に入っていた。
それと両親の不仲などもあって、僕は小学校を5回も転校した。
さて、どこの中学校に入るかである。
その頃、ちょうど鎌倉の大船に家が建って、家族は松原団地の狭い公団住宅から大きな家に移り住んだ。
なので僕も家の近くの中学校に入ることになる。
しかし僕は、今までの経験から、エネルギーに満ちあふれた元気のある普通の子供たちの学校に入ると、一人ぼっちになってしまい、元気のないおとなしい生徒の学校なら友達も出来るという経験をしているので、中学校もそういう学校に入りたかった。
母親の母校である自由学園という学校は、受験勉強を否定し人間教育とやらを謳ってる学校なので、きっと生徒もおとなしい子ばかりだろうと思った。
それで僕は自由学園に入った。
自由学園は東京の東久留米市にあるので、家から通うことは出来ず、また寮もあったので、僕は寮に入った。
しかし予想とは違って、自由学園は、おとなしい生徒の集まりではなかった。
入るや予想と違い、ひどい学校だった。雑用は何から何まで全て一年の仕事だった。風呂掃除、食事の用意、掃除、食後の食器洗い、etc。寮には一年生から六年生までいて、上級生はやたら威張る。まず寮にいる上級生、全ての生徒の名前を覚えなくてはならない。一年は電話に出る役があるから上級生の名前を全部、覚えなくてはならないのである。覚えられない生徒は、「出来が悪い」生徒ということになり、いじめられる。朝食の後の掃除で、床を雑巾がけしていると、朝食に出ない高校生の朝寝坊の上級生達が部屋から出てきて、雑巾がけしている一年生を面白半分に蹴っ飛ばす。一体、何なんだ。この学校は。洗濯にせよ、一年は手洗いで、洗濯機を使ってはならないのだが、二年からは洗濯機を使っていいのである。万事、そんな調子である。学校の実態がわかるにつれ、僕は失望した。
学校の体育ではクロスカントリーという4.5kmのマラソンがあった。上級生が笑って、
「地獄のクロスカントリー」
と言った。聞いてビビッた。普通の健康な人でも、地獄なら、持久力の無い僕には一体どうなるのか?地獄の下は何なのだ?クロスカントリーが始まった。途中から運動誘発喘息発作が起こり出した。それでも、休むわけにはにかない。発作が起こっている時に、さらにハードなマラソンをするので、喘息はさらにひどくなっていった。呼吸が苦しく耐えられない上に、汗びっしょりで、チアノーゼとなり、足はガクガクで、頭は錯乱していた。それでも走らなくてはならない。拷問である。何とか学園にたどり着いた時は、まさに拷問が終わった時の気分だった。ちょっとこれは耐えられないと思って次回からクロスカントリーは休むことにした。
そしたら、クラスの剛のヤツがやって来て僕の襟首を掴んだ。
「それじゃあ、俺達のクラスは完全出席、出来ないじゃないか」
と言ってビンタする。完全出席というのは、月の初めに男子部と女子部が合同の礼拝で行なわれるもので、前月、クラス全員が無遅刻、無欠席だと、よくやったと学園長やら教師やら生徒らが拍手するのである。僕はとんでもない学校に入ったと思った。こんなのはナチスの全体主義いがいの何だというのだ。この学校じゃ、病気になっても休む事も許されないのか?それなら入学試験の時、体力の無い人間は不適格として落とすべきだ。そんな全体主義の教育方針なら入学式の時、徴兵検査して体力のないヤツは落とすべきだ。僕のような肺病は即日帰郷で落ちただろう。
授業もレベルが低くてまだるっこしい。
こんなことなら自由学園なんかに入らず、家の近くにある、家から通える鎌倉市の中学校に入ればよかったと後悔した。
しかしもう遅い。
学校は初等部から大学部の一貫校なので、成績がどんなに悪くても進級できる。
一年生が終わって二年生になった。
この学校では、面倒なことは全部、一年生にやらせるので、二年生になると、ぐっと生活が楽になった。
自由学園は小学校から大学部までの一貫校なので、どんなに成績が悪くても進級できる。
しかし、そういう風にしてしまうと、人間はサボってだらけるものである。
みな勉強などせず、学校をサボり、音楽を聞き、ファッションに凝り、下級生をオモチャやパシリにして遊び、他人の物を平気で盗む。下級生に暴力を振るうのはやめよう、なとどいうことを学校で真剣に議論しているほどなので、いかにアホばかりの集まりの学校かということがわかる。
とんでもない学校である。
僕は自分の将来に対して悩むようになった。
将来どんな仕事に就くかではない。何か自分の全身全霊を込めて打ち込めるモノが欲しかったのである。
ここは勉強が嫌いで出来ない生徒の集まりなので、みな、スポーツに打ち込んでいた。
僕もそれに影響されてスポーツをやってみた。しかし、僕はやたら頭で考え回してしまう性格だったので、なかなかスポーツは上手くなれなかった。また、スポーツ以外のことも色々とやってみた。しかし自分の全身全霊を込めて打ち込めるモノは見つけられなかった。
他の生徒はスポーツに打ち込んでいた、とは書いたものの、彼らにとっては、スポーツも「遊び」だった。彼らは、「遊ぶ」ことしか頭にない人間ばかりだった。
なので他の生徒はどんどん堕落していった。
彼らは、中学生から、麻雀をやり、花札をやり、タバコを吸い、酒を飲むようになった。
そして下級生をオモチャにして遊び、パシリにして、毎日、面白可笑しいことだけを求める日々を送っていた。寮ではタバコを吸いコップを灰皿にしていた。
寮の夕食はまずいから上手い物を食いに行こうと外出して外食する。学費は全部、親が出しているというのに。みんな外出して人がいなくなるから、僕は人一倍、食器洗いをやらされた。学費を出してくれている親に申し訳ないと思わないのか?
そんな彼らと友達づきあいをすることなど僕には到底できず、僕は一人ぼっちでクラスからは疎遠になっていった。
しかし僕は虐められることはなかった。
レベルが低い学校であったこともあったが、僕はたいして勉強などしなくても、学科の試験は、ちょこちょこ、っとやれば出来たので成績はオール5だったからだ。学科の試験は満点をとるのが当たり前という感覚だった。
勉強が出来て性格も悪くない生徒なので、そういう生徒はイジメの標的にされないのである。
中学2年生くらいから、彼らは、やたら「マス」とか「カルピス」とか言うようになった。
思わせ振りなニヤついた態度で。
それが、何となく性欲に関することだろうとは、思っていたが、一体、それが何なのか、一体どういう行為なのかは僕には友達がいないのでわからなかった。
僕は高等科に進学した。
僕はある夜中、ひどく悩ましい淫乱な夢を見た。
そして、おちんちんから、小便とは違う何かが出るのを感じた。
それでその白濁した粘ついた液体が出て、僕はガバッと起きた。
ティシュペーパーで濡れた、パシャマを拭いたが、これが、みんなの言っている、カルピスのことだとわかった。こうして僕は高校一年生で、生まれて初めて「夢精」という形で「射精」した。何と奥手なことか。
しかし僕は精液を自力で出せる「マスターベーション」の方法はわからなかった。
なので「カルピス」の意味はわかったが、「マス」とか「マスターベーション」とかは、どういうものなのかは、わからなかった。
高校生は性欲、真っ盛りの時期なので、話題も性欲に関することが多くなった。
「あー。セックスしてえ」
と言ったり、エロ本を買ったり、エロ映画を観るようになった。
僕はマスターベーションの仕方を知らないので、金玉に精液が溜まってしまって、しかし、それを出す方法を知らないので、性欲が激しく嵩じてしまった。
小学生から中学生になる頃、みなはセックスという行為を知るようになる。
僕も中学一年生の時、セックスという行為を知った。
しかし僕には、その行為には嫌悪しか感じられなかった。
ペッティングはしたいと思う。
女の体に触りたいとは思う。
しかし男性器を女性器の中に挿入する行為には嫌悪しか感じられなかった。
そんなことをして何が楽しいのか?
性行為は生殖行為と結びついている。
性行為というのは低級な刹那的快楽であるが、生殖行為とは人間を産むという神聖な行為である。それが結びついていることに僕に激しい拒絶反応が起こった。
それは、病弱で、顔もイケメンではなく、頭もたいして良くなく、何の取り柄もない僕のような人間の遺伝子を受け継ぐ人間を、この世に誕生させたくなかったからである。
僕のような人間、僕のような遺伝子をもつ人間は僕一代で絶つべきだ、と僕は思っていた。
高校2年にもなると、女と付き合うヤツが出てきた。
時田秀美(ひでみ・男)という同級生のヤツは、
「僕は勉強ができない。しかし僕は女の子にモテるんだぞ」
「女にモテないようなヤツは男として価値がない」
というようなことを平気で言っていた。
僕はおかしくて笑わずにはいられなかった。
単なるスレッからされたアバズレじゃねーか。と。
女にモテるということが、そんなに素晴らしい能力なのかと。
女の憧れの的となったり、女とイチャイチャすることに何の価値があるというのだ?
そんなの能力でも何でもない。
僕の価値感はその逆で、
「女にモテて、女とイチャイチャすることしか出来ないヤツなんて何の価値もねーじゃねーか。そんなヤツは吐いて捨てるほどいる」
女とは美しい男の憧れの対象だ。
武士道の心得を説いた「葉隠」にある、
「恋の至極は忍ぶ恋と見立て候、逢ひてからは恋のたけが低し、一生忍んで思ひ死する事こそ恋の本意なれ」
というストイックなダンディズムが僕の恋愛観だった。
男の価値とは、自分の全身全霊を込めて打ち込めるライフワークに寝る間も惜しんで邁進することじゃねーのか。
と僕は思っていた。
しかし、そうはいっても僕は、自分の全身全霊を込めて打ち込める、ライフワークを見つけることが、どうしても出来なかった。
高校も3年生になった。
ある時、天啓がくだった。
こんな低レベルな学校の付属の大学部にところてん式に進級するのはバカらしい。
「国立の医学部に入ってやろう。オレの実力なら必死に努力して勉強すれば入れるんじゃないか」
という天啓である。
それまでも医学部に入りたい、という気持ちはあった。しかし、こんなレベルの低い学校で成績が良くても、世間のレベルで通用するのか?
井の中の蛙大海を知らず、じゃねえか。
それに僕は医者になって、身を粉にしてバリバリ働きたいとは全く思っていなかった。
苦しめる患者を救いたいなどという高邁な思いなどなかった。
ただ自分が病弱で医者にかからずには生きていけない身であり、一生、医者にペコペコ頭を下げ続けるのが口惜しかったから、それなら自分が医者になってやろうと思ったのである。
家族親族に医者は一人もおらず、医者とはどういう仕事かということは、わかっていなかった。何となく医者は収入がいい、くらいのことは聞いて知っていたが、実際の所はどうなのかはわからなかった。しかし僕は収入がどうのこうの、ということには興味がなかった。
本心を言えば、
「ああ。オレも一介の医者になってしまうのか」
という虚無感しかなかった。
ともかくそういう理由で僕は受験勉強を開始した。
朝、起きてから夜、寝るまで勉強した。
そして駿台予備校の模擬試験を受けたら、国立の医学部に入れる偏差値が出たのである。
僕は第一志望を近くの横浜市立大学医学部にした。
そして受験した。
手ごたえはあったのだが、最終面接で落とされた。
しかし国公立医学部は二校、受験できたので、滑り止めで受けておいた奈良県立医科大学には入れた。
そして合格した。田舎の医学部である。
しかし駿台予備校の模擬試験の結果から奈良県立医科大学には入れて当然の評価が出ていたので、合格したことを知ってもたいして嬉しくはなかった。
浪人して勉強して翌年、横浜市立大学医学部を受験したからといって、入れる保証はない。むしろ手ごたえがあったのに入れなかったのだから、浪人して必死に受験勉強したからといっても、入れない可能性の方が高いだろう。
そして僕にはもう一つの悩みがあった。
それは受験勉強のストレスから過敏性腸症候群という胃腸の病気を発症してしまっていたのである。
とても医学部の膨大な詰め込み勉強など出来ないだろう。
生きているだけでも苦しいというのに。
僕は父親に、
「過敏性腸症候群が発症してしまって、とても学生生活は送れない。心療内科の名医にかかって治療を受けたい」
と言ったが、暴君の父親は、人を理解しようとする気持ちなどカケラもない人間なので、
「学費と生活費は出すから一意専心、医学部に入って勉強しなさい」
と言うだけだった。
過敏性腸症候群と聞いても、ちょっと胃の具合が悪いのだろう程度にしか父親は思っていなかった。
もう父親にいくら説明しても無駄だと思ったので、特攻精神で僕は、大学の近くのアパートに移り住み、医学部の授業を受けた。
いつか、体がぶっ壊れて休学することになるだろう、という確信をもって。
自由学園のレベルの低い勉強にうんざりしていて、もっともっと学びたいと思っていたので、大学の授業には全部でた。
しかし他の生徒は、「入ってしまったらもう安泰」という感じで、授業には出ず、車の免許を取り、部活や、合コンや、家庭教師のアルバイトに精を出していた。
大学でも、自由学園ほどではないが、やはり「遊ぶ」ことしか考えていない人間ばかりだった。
しかし僕は違う。
僕は学問に飢えていた。
なので、授業は全部でて、そして哲学書や思想書を読んだ。
ガリ勉とは安定した仕事に就くのが目的なので、大学に入ってしまったら、もう勉強などしない。要領よく単位を取って医師国家試験に通ることしか考えていない。
しかし情熱家とは学ぶこと、物事の理論を理解したいという強い思いが勉強する目的なので、大学に入った後でも勉強するのである。
医学生は大学に入ったら遊ぶだけで授業には出ない、と教授や講師は思っているので、熱心に授業に出ている僕を不思議な人間を見るような目でみていた。
ちなみに一人ぼっちの僕を可哀想に思って同情して接近してくる女子医学生もいた。
僕を見ると、一人ぼっちで可哀想、助けてあげたい、という彼女らの母性愛を刺激するのである。
しかし、僕は彼女らの好意は嬉しかったが、僕にだって男の誇りはある。
女の同情を有難く受けとるようになったら男はおしまいだと僕は思っていた。
それに女子医学生と友達となって二人きりになっても一体、何を話せばいいというのか?
僕には人間のお喋りというものの意味も仕方もわからなかった。
医学や学問の話なら歓迎だが、そんな話をしてはくれまい。
人間のお喋りとは、どーでもいいことを、クッダクッダ延々と続けることで、そんなことは時間の無駄としか僕には思われなかった。
女とイチャイチャして何が楽しいというのだ?
女子医学生も学問より、合コンで男と付き合うことの方が好きな人ばかりなのだ。
彼女らにとって勉強は嫌な使役であって本命は男あさりなのである。
3年(基礎医学)になった。
解剖学、生化学、生理学の授業と実習が始まった。
(ああ。オレも一介の医者として人生を過ごすことになるのか)
医者なんて所詮、医学という他人の作ってくれた学問を覚えて患者を治療する十年一日の繰り返しの日々である。慣れてしまえば何の進歩もない人生。
医学部を卒業する→医師国家試験に通る→何科かのを選びその医局に入る(研修医になる)→オーペン(指導医)に手取り足取り医学を教えて貰う→一人前の医者になり大学の関連病院を教授の意向でいくつか転々とする→開業するか、勤務医として働くか、医学部に残って教授を目指す。
オーベンに教えて貰ったことは出来るが、それ以上のことは出来ない。
もう先が見えている。そんな人生つまらない。
という虚無感が日増しに強くなっていった。
ある日のことである。
突如として天啓が僕にくだった。
「小説家になろう」
それは突拍子もないことだった。
僕は子供の頃から小説を読むのが嫌いだった。小説なんて、ほとんど読んだことがない。
好きな小説家というものもない。あるとすれば、高校の国語で読んだ夏目漱石の「それから」の一部分(大介が美千代に告白するシーン)と国語の過去問題で読んだ石川啄木の「二筋の血」という子供の恋愛小説くらいである。「二筋の血」はまず石川啄木の子供の頃にあった自伝だろうが、実に可愛らしい。あれを読んだ時、一読で、そして一作、読んだだけで終わらせず、世の中には自分の感性で面白い、素晴らしいと思える小説があるはずだから、もっと小説を読んでおけばよかったと後悔した。
しかし「小説家になろう」と思ったのは、あながち、必然性のない思いつきではないと僕は思っている。僕には子供の頃からクリエイティブな性格があった。そして独創性や創意工夫の能力もあった。もしそれがなかったら体力の無い僕では医学部に入ることは出来なかっただろう。膨大な量の知識をどうやったら覚えられるか、という方法を考えることがなかったら僕は医学部に入れなかっただろう。どうやったらスポーツが上達するかということを、本を読んで考えることがなかったら、スポーツも身につかなかっただろう。そして一度、何かをやろうと思い決めたら、決して、あきらめたり、投げ出したりしない根気の良さが僕にはあった。
一人でやれるクリエイティブな芸術といえば、作曲、漫画、小説、絵画、のどれかだろう。
作曲は僕には無理だと思っていた。作曲家は幼少の頃から音楽を聞くのも自分で弾くのも好きで好きで仕方がなく、そして絶対音感のある人でないと無理である。
漫画は子供の頃、読むのは好きで、漫画の模写もよくした。しかし自分の絵というものを身につけて描くまでには至らなかった。絵画は子供の頃、図工の時間に描いたことがあるが、そして写実的な上手い絵が描けたが、絵を描きたいという欲求はなかった。とすると、残るのは「小説」である。クリエイティブな芸術で僕に出来ることとなるとそれは「小説」しかない。しかし僕にどういう小説が書けるのか、僕にはさっぱりわからなかった。高校の時、SМ小説を読んで、ああ、僕もこういう小説を書きたいなあ、と思った。しかし僕には小説を書く能力なんてない、と思っていた。一体、自分にどんなジャンルの小説が書けるのか、また、書きたいのか、さっぱりわからなかった。それで僕は川端康成、三島由紀夫、芥川龍之介、菊池寛、横光利一、梶井基次郎、谷崎潤一郎、など、日本の近代文学者の小説を片っ端から読んでいった。谷崎潤一郎の小説を読んだ時には、ああ、これこそ僕の求めていた小説だ、と感動した。言うまでもなく谷崎潤一郎の作品は女性崇拝のマゾヒスティックでエロティックな小説である。しかし読んで感動することは出来ても自分で書くことは出来ない。
しかし僕も自分の作品を作ってみたいという気持ちは、どんどん募っていった。それでとうとう僕は書いてみた。僕の処女作は「忍とボッコ」である。これは川奈臨海学園の時、僕と同級生の忍という男の子が一年下のボッコという、あだ名の女の子を恋するが告白できず悩むのを見ていて、それをモデルにして事実に忠実に書いてみた。ただしラストは僕の創作である。
これは結構、上手く書けたなと思った。これが僕にも小説は書けるんだという自信にもつながった。しかし、あとが続かなかった。創作したいという思いは、増々募る一方だが、何を書いたらいいかわからない。それで仕方なく、読書して、何か小説から自分が書く小説のヒントは見つからないかと小説を読み漁った。すると結構、いい作品に出合えるものである。北杜夫は精神科医で作家であるが、何がいい作品なのかはわからない。ドクトルまんぼう、が世間では北杜夫の良い作品と言われているが、たまたま手にとった「奇病連盟」という小説が、凄く面白かった。エロチックさなどは全くないが、ともかくユーモラスでストーリーも面白い。
当然、僕もこういう小説を書いてみたいと思った。
たまたま僕の同級生に宮城徹朗という文学好きの学生がいた。彼は物凄い読書家で、また自分でも小説を書いていた。そして当然の如く奈良医大の文芸部主将となり、文集も作っていた。いつも単行本を持って読んでいて、「もうこの世の中から読む本なくなった」というほどの読書家だった。僕は彼に「忍とボッコ」他、数作、書いた小説を彼に読んでもらった。「忍とボッコ」はこれはいい小説だね、と誉めてくれて、その他の作品や、書いた短歌と一緒に文集に載せてくれた。そもそも奈良医大では文芸部は入部者が少なく廃部になりかねない危機状態だった。医学部の学生なんて、入学するまでに、勉強、勉強の毎日で、入学後も膨大な医学の詰め込み勉強で頭ばかり使っている。頭ばかり使っていると、もうこれ以上、頭を使うのは、まっぴらだ、体を動かしたい、と思うようになるのである。なので部活では運動部、や軽音楽部が栄えていた。文芸部は廃部寸前だった。
4年になった。
病理学第一。病理学第二。免疫学。腫瘍病理学。細菌学。薬理学。寄生虫学。衛生学。公衆衛生学。法医学の授業と、その全部の実習が加わった。
他の医学部でもそうかもしれないが、奈良医大では、奇数年、つまり1年、3年、5年は比較的余裕があるが、偶数年、つまり2年、4年、6年はしんどい、と言われていたが、その通りだった。
僕の心は小説創作に完全に移ってしまっていたが、僕は医学部に入った以上、けじめとして医師国家試験に通ることまではちゃんとやろう、と思っていた。
しかし、過敏性腸症候群による自律神経失調症、不眠、便秘、腹痛、抑うつ、などのため、実習では同じグループの人に迷惑をかけてしまい、毎日が地獄だった。
実習で人に迷惑をかけないように、実習前に渡されるプロトコルを読んで理解するのが精一杯で、授業には出る余裕はなかった。実習はやりっぱなしではダメで当然、レポートを書かなくてはならない。
他大学や他の学部でもそうかもしれないが、医学部なんて教授は同じ問題しか出さないから、過去問題とその答えのコピーを持っていないと単位が取れないのである。
逆に過去問題とその答えを持っていれば、はっきり言ってバカでも単位を取れるのである。
僕には友達がいないため、過去問題とその答えを手に入れることが出来ず、単位は取れなかった。医師国家試験に通るくらいの学力は僕にはあるだろうと思っていたが。
病気による苦痛、こんな病気をもちながら、はたして医者などという激務が勤まるのだろうか、ということに僕は悩まされた。医者とは人の命をあずかる責任の重い仕事である。病人では勤まらない。
はたして、この過敏性腸症候群は治ってくれるのか、ということに僕はノイローゼになっていった。
親に休学して過敏性腸症候群に詳しい専門医にかかって治療を受けたい、と何度も電話したが、親(父親も母親も)は他人の苦しみなど、せせら笑うだけで理解などしてくれない。
何度、休学して病気の治療を受けたいと言っても、
「勉強が嫌ならやめな」
「退学するかどうかは自分で判断しなさい」
と言うだけ。
こんなヤツら親じゃないと思った。
病気だから、いったん休んで専門医の治療を受けたい、という訴えは至極、真っ当なことだと思うのだが、親は人の意見を聞こうとする気などない人間なのである。
4年の冬、とうとう僕は、うつ病になってしまった。
うつ病をどう定義するかは精神科医によって異なるだろう。
ICD10による一応の定義はあるが。
しかし僕に言わせれば、「うつ病」とは、
「本気で死ぬことを考えている人間」
そして、
「将来に絶望して何も出来なくなってしまっている人間」
と定義している。
実習のレポート書きに精一杯で、友達がいないため過去問題とその答えも手に入らず、どう勉強したらいいのか、わからない。
僕は半分、本気で死ぬことを考えていた。
それまでは、つらい時は、悲しい音楽を聞いたり、悲しい映画を見たりして何とか頑張ってきたが、感情がやられ、何を見ても、何を聞いても何も感じられなくなり、廃人同様になってしまった。
4年の後期試験の初日を僕は無断欠席した。
一体、どうしたらいいか、わからなくなってしまったのである。
クラス委員長から電話がかかってきた。
「君が試験、無断欠席したから、腫瘍病理学の小西陽一先生、怒っているよ。来なよ」
僕はどん叱られることを覚悟の上で腫瘍病理学の小西陽一先生の教授室に入った。
大体、医学部の教授なんて、試験が合格の生徒を誉め、試験の成績が悪い生徒をクソミソに言うだけのヤツがほとんどなのだ。試験の成績が悪い=怠け者、という思考しか出来ない。
医学部の学生もそういう傾向にある生徒が多い、というのも事実で、だから教授がそういう単細胞思考になってしまうという面もあるが。
小西陽一先生は僕を見るなり、
「一体どういうつもりだ」
と指さして怒鳴りつけた。
「僕は過敏性腸症候群という病気で悩んでいます。勉学を続けるか、休学して治療を受けるかということで悩んでいます」
と正直に答えた。
すると先生は、態度が一変した。先生は、僕のことを色々と聞いてくれた。
そして。
「そんなに悩んでいるのなら、いっそのこと、一年くらいポーンと休んで治療を受け、しっかり体を治してから、また復学したらどうかね?」
と言ってくれた。嬉しかった。今まで僕は人の優しさというものを受けたことがなかったので。
「では、先生の仰るように休学して治療を受けようと思います」
と答えた。
僕はアパートに帰った。
僕は電話帳で池見酉(ゆう)次郎先生の電話番号を調べた。
そして池見酉(ゆう)次郎先生にも意見を求めた。
それまで僕は池見酉次郎先生の本を座右の書として頑張ってきた。
僕にとって池見酉次郎先生は神様にも近い存在だった。
池見酉次郎先生こそが僕にとっての世界一の名医だった。
なぜなら池見酉次郎先生は、僕と非常に似た境遇だったからだ。
先生は九州大学医学部の心療内科の教授として日本に心療内科を始めたパイオニアである。
先生は高校生の頃、過敏性腸症候群を発症してしまい、悩まれ、様々な治療法を受けてきた患者でもあるのである。しかも、過敏性腸症候群でも、便秘ガス型で僕と同じだった。
そして過敏性腸症候群のため高校を一年間、休学してもいる。
先生は自分が病気で苦しんだ経験を医師になって役立てようと思って医学部に入られた。
そして医師になった。自分が苦しみ悩んだ経験はきっと医師として役立つだろうと思って。
先生は統計調査から、
「過敏性腸症候群の人は健康な人よりも自分の人生、や、何事に対しても真剣に考えていて優秀な人が多い」
と書いていた。これに僕はどれだけ勇気づけられたか、わからない。
面識もない先生にアポイントも取らずにいきなり電話してしまったことは失礼だと思っていたが。そして僕は先生に話しかけるのが、こわくもあった。僕という人間を先生に否定されることを恐れたからだ。しかし先生は僕に色々とアドバイスしてくれた。
先生はもう医師としては働いていなかったが、北は北海道から南は九州まで各地で講演の依頼があり、多忙な日々を過ごしていて、そして原稿書きに忙しい身であると言った。
「過敏性腸症候群は治らない」
「大阪の豊中市に黒川順夫君という先生がいる。黒川君は僕の弟子。黒川君なら治してくれるよ」
「喘息は於血といって上半身の血流が悪くなることによって起こる」
など。色々とアドバイスしてくれた。
僕は基礎医学の教科書を持ってアパートを出て鎌倉の家に帰った。
しかし待っていたのは鬼のような父親だった。
「いつまで休む気だ?」
「死ぬ気で頑張れ」
と叱るだけ。
父親は僕が順調の時には親切にしてくれるのだが、旗色が悪くなって自分の思い通りにならなくなると怒り出すのである。
父親は威張ることが価値らしく、
「威張りたいなら自立してからにしろ」
などと、書くのも恥ずかしいほど低級な人格なのである。
自由学園の時の校医でもあった人格の素晴らしい佐藤あきら先生が病人の電話相談をしているとわかったので、僕は佐藤あきら先生にも電話で僕の症状を言った。
そうしたら先生は、こう答えてくれた。先生は即座に、
「あなたの体質、見なくてもわかりますよ。あなたの痩せた体形は変わらないけれど、過敏性腸症候群は治りますよ。10年くらいはかかるでしょうが」
と言ってくれた。そして家にまで電話してくれた。
そして父親に、
「今、浩二くんに何かさせては可哀想ですよ」
と進言してくれた。しかし父親は、
「何だかやたら威張って偉そうなことを言う医者だ」
と言って聞く耳を持たなかった。
とうとう父親は、
「汝とは親でもなれけば子でもない。汝は汝の道を行け」
とのメモを残して父親の母親のいる熱海の伊豆山の中銀ライフケアに行ってしまった。
僕は父親に愛を感じたことはないが、ここまで酷いワガママとは思っていなかった。
まあ、どうでもいいけど。
僕は神奈川県か東京で過敏性腸症候群の専門医にかかりたいと思って、書店で「心療内科の名医ガイド」というような本を買った。
心療内科の名医と言われている医者が200人以上、ズラズラズラーと並んでいた。
しかし今と違ってパソコン、インターネットが無かったから、本当に名医なのか、ヤブ医者なのかはわからない。しかし行動を起こさなくては始まらない。池見酉次郎先生がまだ医者として働いていれば、池見酉次郎先生にかかりたかったのだが、池見酉次郎先生はもう医者は引退して、講演と執筆活動で過ごしていたのでかかることは出来ない。
それで僕は聖路加国際大学病院の心療内科教授の篠田先生に会ってみた。
そいつがタメなヤツなら他の医者にかかればいい。
病気になった時、大体3人くらいの医者にかかれば、一人くらいは割といい先生に出会えるものである。
篠田先生ははっきり言ってたいした医者ではないが、顔が広く心療内科の現状については、よく知っていた。僕は同じ過敏性腸症候群で悩んでいる患者との集団療法を受けたいと思っていた。
なので、そのことを先生に言った。
そしたら吉祥寺の方に武蔵野中央病院という所が心療内科のいい病院で集団療法もやっているよ、と教えてくれた。外科なら腕のいい医者とそうでない医者がいるから名医と呼ばれる医者はいる。しかし内科疾患で優秀な医者というのは、はたして居るのだろうか、と疑問に思っていた。なのでたいして期待していなかったが、僕は藁にもすがる思いで武蔵野中央病院に行ってみた。どうせダメだろうと半ばあきらめていたが。
しかし僕の診察の時間になって診察室に入って先生と話すと僕の病気や将来に対する不安は一瞬で治った。先生は大谷純といい、ひどいドモリの先生だったからだ。はっきり言って身体障害者である。最初の一言が出て来るのに、ひどくドモって、そして、上手く喋れないことで、心臓がドキドキ、バクバクし顔が真っ赤になり、血圧が上昇していた。
間違いなく先生は自分が病気(不治の病)で苦しんでいることが武器になって、同じ心身症の患者を救えるのではないかと思って心療内科を選んだのだ。
病気を持ちながら医者という仕事が勤まるのかというのが僕の悩みだったので、それを見事に、そして苦しみ、もがきながら診療している先生がいる、ということに僕は力づけられた。
「病気をもっていてもカタワであっても頑張って医者を雄々しくやっている先生がいる」
なら僕だって頑張らねば、と僕は思った。
こんないい先生は日本中を探してもこの先生一人くらいだろうと思った。
つまり僕は日本一いい心療内科の先生に出会えることが出来たのである。
いい先生に出会えて、僕は一瞬で病気と闘ってでも医者になろうという勇気を先生から貰うことが出来た。二人であっても、これこそが最高の集団療法である。
医者と患者の会話は「精神療法」と呼ばれているが、「精神療法」で大切なことは、ダラダラと時間をかけることではないと僕は思っている。嫌々、患者の話を仕方なく聞いて、決まりきった、アドバイスをするだけなんて、ロクな治療効果はないと思う。それよりも優れた人格、優れた決断、優れた勇気をもって生きている先生との出会いの方が、ダラダラ診療なんかより一瞬で患者は救われるのである。
その日、先生の診察が終わった後、牧野先生という女の先生の指導のもとで入院患者5人くらいで集団療法をやるから参加することを先生は勧めてくれた。
僕は集団療法に出た。
二階の休憩室でやった。
5人くらいの入院中の女の子がパジャマ姿でやって来た。
心療内科では色々な病気があるのだが、圧倒的に若い女の子の摂食障害の患者が多いのだ。
ただ一人、涙をポロポロ流している女の人がいた。
うつ病の患者であることは明らかである。
男は僕一人である。しかも僕は初めてで外来患者である。
牧野先生は「今日は演劇療法をやろうと思います」と言った。
「演劇療法」とは、ある場面を想定し、各人が色々な役割りを演じ、相手の心を理解したり、みなで問題点、解決策を論じる、という治療法である。
たとえば、虐めている人と虐められている人、それを見ている人、などを設定し、虐めの場面を演じ、お互いの心を述べたり、問題点、解決策などを述べるのである。
男は僕一人なので、女の子たちは「やっぱり男の人にやって欲しい」と言って僕に演技をすることを要求した。最初は映画館の前で映画を見るために並んでいたが、「私の方が先よ」という争いの場面を演じることをやった。僕は争いが嫌いなので、つまらない揉め事はさけて帰ってしまう、という行動をした。それはあまり面白いとは思わなかった。
その後、2回くらい、ある場面(状況)を設定し演劇療法をやった。
最期に牧野先生が、
「それでは今度は、死にたいと思っている人と、それを止めようとしている人の演劇をしましょう」
と言った。
僕は思わず手を上げた。
「あっ。その死にたいと思っている人を止める役割りは僕にやらせてもらえませんか?」
と言った。もちろん先生は「ええ。いいですよ」と言った。
「では死にたいと思っている人は誰がやりますか?」
とみなに聞くと、みなは、
「丸田さんがいいじゃない。彼女は本当に死にたいと思っているんだから、地でやれるじゃない」
と言い、丸田さんも抵抗なく引き受けた。
丸田さんは僕の右隣りに座っていた。
僕も「死にたいと思っている人」の役は丸田さんにやって欲しいと思っていた。
僕は最初に「どうして死にたいんですか?」
と聞いた。
彼女は涙をポロポロ流して、会社でみなに虐められていることを述べた。
僕は精一杯、彼女のことを聞き、あたたかい言葉をかけた。
「死にたくなったら僕に電話して下さい。すぐに駆けつけますから」
「あたなの気持ちわかります。胸が痛くなるほどわかります」
「夜、眠れませんね?」
「はい」
「食事おいしくないですね?」
「はい」
その他、色々なことを言って、彼女を何とか「死」から引き止めようとした。
最期に彼女も僕も「有難うごさいます」と言って演劇療法は終わった。
牧野先生は、それを見ていた残りの人に「どうでしたか?」と感想を聞いた。
一人が泣き出して、泣きながら、
「生きていてよかった」
と言った。
なぜ彼女が「生きていてよかった」と言ったのか、僕にはわからない。
僕が死にたいと思っている人を止める役をやりたかったのは、僕にはたして、医者としての治療能力があるか、どうか知りたかったからである。
その後も毎週、武蔵野中央病院に行くと集団療法には出続けた。
牧野先生がカルテに僕の集団療法のことを書いておいて、翌週、行ったら、大谷純先生は、
「集団療法にものすごく良く適応しているらしいですね」
と驚いていた。
僕はいい病院、いい先生に出会えて救われた思いだった。
僕は復学するため、持ってきた基礎医学の教科書で、朝から晩まで勉強した。
休学した初めには、「砂浜の足跡」と「高校教師」というタイトルの小説を書いたが。
「砂浜の足跡」や3年の時に書いた「忍とボッコ」を丸田さんに、
「これ。僕が書いた小説なんです。よかったら読んで下さい」
と言って渡したら丸田さんは、翌週、最高の賛辞を書いてくれた。
僕の心は医学からは離れて、小説創作に移っていたが、僕は負けず嫌いである。
医学部のヤツらには、僕が理由は何かわからないけれど、単位を落としまくって、苦しんでいるのを見て、「あいつ。そのうち退学するぜ」とせせら笑っているヤツもいた。
医学生なんて、入ってしまったら、麻雀だのパチスロだので遊ぶことしか考えていない、十把一絡げのガラクタ人間も多いので、他人の不幸が鴨の味になるのである。
そんな下等なヤツらに笑われたままでたまるか、と僕は必死になって勉強した。
そして僕は復学した。
復学したクラスも下等なヤツらばかりだった。
・・・・・
休学した最初は僕は、「生」と「死」の堺をさまよっていた。
確かに過敏性腸症候群は苦しい。生きているだけでも。
ぶざまに生きるくらいなら死んでしまった方がいいのではないかと思っていた。
なので僕は、いつでも死ねるよう、「死」の用意を始めた。
ビルの屋上にも何回も登った。
・・・・・・・・
休学して初めの頃に生まれて初めて風俗店に行って、女の柔肌を触った。
その時、僕はもしかしたら「死ぬことになるかもしれない」と思っていたので、生まれてきた以上、せめて死ぬ前に一度くらいは女の柔肌を触りたいと思っていたのである。
僕は個室で1対1なら、いくらでも誰とでも話せるのである。
僕はそれまで写真の女にばかり恋していたので、女の体は大理石のように硬いという錯覚に陥っていたが実際の女の体は柔らかかった。
僕は本番という行為を嫌悪してたので、「本番をしたら罰金100万円支払ってもらいます」という注意書きは僕には無用だった。
・・・・・・・・・・・
僕は復学するため、持ってきた基礎医学の教科書で、朝から寝る前まで勉強した。
父親も僕が努力家であることはわかっていて、そして父親もうるさい事は言わなくなった。
そして僕は復学した。
復学した下のクラスは下等なヤツらばかりだった。
ある30代半ばで入学してきたSさんという生徒がいた。
彼は誰とも話さなかった。部活にも入らないし友達も一人もいなかった。し、作ろうともしなかった。大学では教授は毎年、同じ問題しか出さないから、過去問題とその答えをもっていないと、いくら頭が良くても勉強熱心でも単位は取れないのである。
僕も内気だったが、数人の友達は出来た。しかし友達が少ないため、過去問題とその答えを手に入れるのには苦労した。
Sさんが何を考えているのか、僕にはさっぱり、わからなかった。
友達を作って過去問題とその答えを手に入れなければ単位を取ることも卒業することも出来ないということが、わからないのだろうか?
僕は2年(教養課程)から3年(基礎医学)へは進級することは出来た。
少ないが、過去問題とその答えをもっていたからである。
しかしSさんは、2年から3年への進級が出来ず、留年していた。
あまりにも可哀想だったので、僕は教養課程の、過去問題とその答えをとっておいて、3年に進級した時にSさんに、過去問題とその答えのコピーを全部、あげた。
そのためSさんは3年に進級することが出来た。3年から4年へは単位が取れていなくても進級することが出来るので、復学した下のクラスにはSさんがいた。
Sさんは下のクラスでも誰とも友達を作ろうとせず、一人ぼっちだった。
もちろん3年4年の基礎医学の単位は全く取れていなかった。
そして、学校へも来なくなっていた。
下のクラスのヤツらはSさんがいないと、Sさんのことを皆で大声で嘲笑し、バカにしていた。
下等ないじめはどんな社会にもあるものである。
Sさんが(理由はわからないが)クラスの人達に心を開けないのなら、それはそれで仕方がない。そっとしておいてあげればいいじゃないか。
しかしクラスのヤツらは、友達のいない孤独な人をそっとしておく、ということが出来ないのである。ヤツらは、Sさんがいないと、Sさんをあざけ笑いクソミソにバカにしていた。
たまたまSさんが学校に来た日には、皆シーンとなった。
僕が入学した時のクラスでは、そこまで酷くなかった。
僕はわからないものは、わからないものとして、そっとしておく。
クラスにも性格のいい人はいるのだが「人をからかうようなことはやめましょうよ」という人は一人もいないのである。性格のいい人でも「義を見てせざるは勇無きなり」の人ばかりなのである。
・・・・・・・・・・・
ともかく他人にかまっている暇はない。
僕も基礎医学の単位は、ほとんど取れていなかったので、そして基礎医学の、過去問題とその答えもある程度はもっていたので、全部、追試験を受けて単位をとっていった。
実習は休学前にやっておいたので出なくてもよかった。
ただ細菌学の実習の準備、手伝いはして欲しいと言われたのでやった。
実習の手伝いをしたら細菌学の単位をやる、と細菌学の樫葉教授が言ったらしく、金沢元宣、金子徳寿、尾野亘、とかいう三人が、実習の手伝いで単位を取りたいと言ってきた。実習くらいちゃんとやれよ。まあ、教授が言うのなら、それでもいいけれど。
しかし、この三人は根性が腐っていて、自分から実習の手伝いをすると言い出したのに、実習の準備も手伝いもしない。怠けることしか頭にない。なので実習の準備、手伝いは僕一人がやることになった。
僕に対するクズ野郎のパターンは決まっている。
僕は無口でおとなしい→お人よしと見なさる→なめられる→クズどもはとことんつけあがる→いい加減頭にきてキレる→おとなしい人間が豹変するのでアイツは変人とか二重人格とか言われる。まあ、いいけどね。
僕も長く生きてきて人間を多く見てきているけど根性の腐ったヤツは死ぬまで腐った根性のままなのだ。ヤツらには、理想も信念も思想も罪悪感も男の誇りも何もない。ただ楽して要領よく生き、利用できる人間は自分のために利用し、平気でウソをつき、人を騙し、偽善を恥と思わず、怠け、徒党を組んで人を笑いものにし、頭はカラッポで、同類の腐った根性のヤツと他人の陰口を言って楽しむだけ。何にもこの世に残せないつまらない人生を送るだけなのだ。
こういうヤツらとは関わらないのが最良なのだ。
そして僕は無事、5年(臨床医学)に進級することが出来た。
5年の一学期は授業だけで楽だった。
そして夏休みになった。
5年の夏休みに、「高校教師」という小説を完成させた。
ある出版社(少女向けの雑誌)が小説の募集をしていたので、「高校教師」を投稿してみた。
そして夏休みが終わり、二学期になった。
二学期の初めに臨床医学の全科目の中間試験が行われた。
僕は、落ちた下のクラスには一人も友達がいなかったので、過去問題とその答えもなく、中間試験の結果は最低だった。
口腔外科の杉村正仁先生が成績の悪かった20人くらいの生徒を教授室に呼び出した。
もちろん僕もその中の一人である。
一人、呼び出しされたのにもかかわらず、出なかった生徒もいた。
先生は、「あまちゃんもいいとこだ」と怒った。
先生は「君たちの懺悔が聞きたい」と言って、色々と説教した。
先生は色々なことを言った。
僕は感動していた。
ああ。大学にもいい先生はいるんだな。大学は一応、最高学府である。
小学校ではない。成績が合格点の生徒には単位を与え、成績の悪い(学問を理解していな)生徒には単位を与えない、という決まりきったことを行うだけである。
しかし、こういう道徳的なことを説教してくれる先生こそが、人間的に温かみのある先生なのである。
先生は奈良県立医科大学を二流大学と言っていた。
僕もそう思っている。
東大、京大、阪大、などの旧帝国大学医学部と比べると奈良県立医科大学の偏差値はずっと低い。しかしまがりなりにも国公立の医学部である。偏差値60以上ないと入れない。なので三流大学ではない。
先生はこんなことを言った。
「おやじの小言を息子は五月蠅いと思うだろうけれど・・・今日は説教しようと思う」
「どうか偏差値の落とし子にはならないで欲しい」
「医者に一度目の失敗は許される」
など色々と説教してくれた。
ああ。いい先生だな、と僕は感動していた。
そしてこう言った。
「ある学会に先生が出た時のこと。その年は奈良県立医科大学の医師国家試験の合格率が低かった。それで旧帝大の医学部の教授がニヤッと笑って(君の学校じゃあ仕方がないね)と言ったんだぞ」
僕の心に・・・・怒りが・・・旧帝大に対する負けじ魂がムラムラと起こった。
同時に嫌いなはずの奈良医大に対する母校愛も。
僕は拳を握りしめ煮えたぎるような怒りに全身がブルブル震えていた。
僕は拳で机をぶっ叩きたくなった。
僕は心の中で叫んでいた。
「言ってくれるじゃねーか。やったろーじゃねえか。狂ったように勉強して、旧帝大、逆に見返してやろうじゃねえか」
しかし皆はポカンとしている。
そんなこと言われて口惜しくないのか?
先生は生徒たちにはっぱをかけているんだぞ。
先生の説教が終わって生徒たちは教室にもどった。
その中で女の一人がこう言った。
彼女は単位を取れていたのだが、単位を落とした別の友達A子の替え玉として、出ていたのである。
「あーあ。遊ぶ予定があったのに遊べなくなっちゃったよ」と。
僕はあきれた。
こいつら覇気のカケラもない低級人間だなとあきれた。
あんな素晴らしい説教に馬耳東風である。
・・・・・・・・・
5年の秋になって臨床実習(ポリクリ)が始まった。
臨床実習とは、一年かけて大学附属病院で全科目を回って実際の入院患者や外来患者を見て勉強する実習である。
あいうえお順に5人くらいが一組のグループとなって行動する。
やる内容は、教授の外来診療の見学、入院患者の教授回診の見学、手術見学、レクチャー、などである。そして入院患者の一人をあてがわれ、その患者の病状と考察を書いてレポートとして提出するのである。
見学やレクチャーは面白かったが、入院患者のレポート書きは面倒くさかった。
僕の班は、僕、杉の本くん、鈴の木さん、高の山くん、杉の山さん、の5人だった。
杉の山さんと一緒になれたことは嬉しかった。
僕が入学した時のクラスでも、僕の次の人はきれいな女の人だったが、あまりに明るくて活発でお喋りだったので、ネクラで人付き合いが苦手で無口な僕にはいささかついていけなかった。
しかし杉の山さんは可愛いけど、おとなしく、物静かそうに見えた。
ギャーギャー騒ぐこともない。
なので彼女と一緒の班になれたことは嬉しかった。
彼女は僕に好意を持ってくれた。
僕は人の好き嫌いが激しいが、逆に僕も他人から好き嫌いが大きくわかれていた。
人間は自分と違うタイプの人間に好意をもつ人と嫌う人にわかれる傾向があるのである。
臨床実習(ポリクリ)はショックだった。
3年4年の基礎医学では、医学の分厚い教科書をひたすら覚え、そして顕微鏡で病理組織を見てスケッチする勉強だが。
臨床実習は実際に苦しんでいる患者を診る勉強である。
最初は小児科で教授の吉岡章先生の外来診療の見学だったが、ショックだった。
小学生くらいの免疫性血小板減少性紫斑病の子が入ってきて、教授が診察した。
診察手順は決まっていて、眼瞼で、貧血、黄疸があるかを調べ、扁桃腺、頚部リンパ節の腫張の有無、それからねかせて、髄膜炎があるかどうか調べるため、項部硬直を調べ、ついで肝臓、脾臓の腫大の有無を調べる。
というものだった。
教授が神様に見えてきた。
「ああ。人間が神に挑戦している」
子供の体には全身にブツブツの紫斑ができていた。
「この子は学校でいじめられていないだろうか」
「何でこの子はつらい人生を送らねばならないのだ」
「この子に何の罪があるというのだ」
涙が出てきた。
僕はノートに教授の発言をすべてノートした。
僕はノートするのが遅いので、休学中に速記教室に3日出た。
その効果かどうかはわからないが、僕は速記が出来るようになっていた。
臨床医学の興味深さのためもあるだろう。
どんな早口で喋っても僕はノートすることが出来た。
その臨床医学のノートは今でも持っている。
入院患者のレポートはSLE(全身性エリテマトーデス)の小学生の女の子だった。
何年も入院している子だった。
カルテに入院前の顔写真があったが、可愛い。
カルテの記載方法はS・O・A・Pである。
SOAPとは、S(患者の訴え)・O(客観的な病状)・A(評価)・P(治療計画)である。
S(患者の訴え)には、
「お腹が痛い」
「薬やめたらお腹が痛いのなくなるかな」
「こんな顔で学校にもどったら絶対なにか言われる」
などと色々と書かれてあった。
看護記録には、「院内学級で真面目に勉強している」とか「ベッドの机で勉強している」とか書かれてあった。カルテを読んでいても涙が出てきた。
僕は手持ちの教科書だけではなく、付属の図書館でSLEに関する医学書を何冊も読んで、それを持って病棟に行った。
そしたら入院している子供たちが僕を見て、
「すごーい」
とか
「やさしそう」
とか言っていた。
僕は臆病なので患者の病気を理解しないで患者に問診しにいくのがこわかったのである。
もちろん僕が主治医になって診療するわけではないが、しっかりしたレポートを書くことがせめてもの患者に対する礼儀であり、医学生の役割りだと思っていた。
しかし病棟に行っても写真の子がいない。
どこをどう探してもいない。
おかしい。
しかしベッドに患者の名前のプレートが貼ってある。
間違いなく、その子の名前である。
しかし写真(治療前)と全く違う顔である。
ステロイドを大量に飲んでいるので、顔がムーンフェイスになってしまっていたのである。
こんなになるのならステロイドを減量した方がいいと単純に思った。
しかしステロイドを減量したり止めてしまったりすると、ループス腎炎になって生きていけないのである。可哀想でやりきれなかった。
臨床実習は朝9時から午後5時くらいまでなのだが、僕は夜中の12時まで誰もいない医局に残って、カルテと医学書を読んで勉強した。
川奈臨海学園でも全員が喘息ではなく、1割くらいの子は別の病気だった。
何の病気かはわからない。
彼らは食事が喘息児とは違っていた。
肉や魚などのおかずが少なく、そしてデザートに少しのフルーツポンチがついていた。
子供は食べ盛りなのに、可哀想だなと思っていた。
そしてステロイドを飲んでいるため、顔がステロイド顔貌になっていた。
たぶん、タンパク質を制限するための膠原病か1型糖尿病だろう。
臨床実習の患者は可哀想だが、医学生ではどうすることも出来ない。
しかしともかく臨床実習はやりがいがあった。
・・・・・・・・・・・・
ポリクリでは同じ班の鈴の木というヤツが、散々、僕に遠回りにイヤミを言ってきた。
僕を悪いことを考えている悪いヤツなんだろうと貶めたくて仕方がないのである。
クラスの全員も僕を嫌っている。
大体、転校生や留年生というのはイジメられる傾向がある。
それでもクラスに馴染めれば問題ないのだが、僕は過敏性腸症候群で生きていることさえ苦しく、体力がなく無口で内気で友達も一人もいない。こういう生徒はイジメられるのである。
しかし僕は、自由学園の高校1年の時に、壮絶なイジメを見ている。
それでイジメの対処法を知っていた。
イジメられたヤツは船久保浩次といって初等科(小学校)から普通科に入ったヤツである。
彼は腕力が強く気性もものすごく強かった。僕は中学2年の時に彼と親しくなった。
そんなに悪いヤツとは思えない。しかし僕の知らない所ではワガママな所もあったのだろう。
それで高校1年の時に、「船久保をイジメよう」ということに船久保の仲間が結束した。
それからは壮絶なイジメが始まった。それまで付き合っていた船久保の友達が徹底的に船久保に対して、口汚い悪口を大声で船久保に聞こえるように言うようになった。
机をどかしたり、後ろから物を投げたり、船久保の教科書に唾をかけたり、「船久保を自殺まで追いつめてやる」と言ったりしていた。船久保の仲間でないヤツらも図に乗って船久保をイジメ出した。気性の強い船久保が何も喋らない無口でおとなしい生徒に変わってしまった。
船久保としては、おとなしくなることで、仲間のほとぼりが冷めるのを期待したのだろう。
僕はいい加減、この凄惨なイジメを見ているのに耐えられず、船久保をいじめているヤツらに「お前ら。いい加減やめてやれよ」と言いたくて言いたくて仕方なかった。しかし言えなかった。そんなことを言ったら、僕がイジメの標的にされてしまうからだ。船久保はとうとう学校へ来なくなり高校を中退した。
しかし、この時、僕はイジメ対処法や、下等な人間の心理がわかったのである。
イジメられた時に、おとなしくしていると、イジメているヤツらは増々、図に乗ってイジメを面白がるようになるのである。
なので、ポリクリで鈴の木、や、高の山、がウジウジと遠回りに僕をイジメようとするので、僕は立ち上がって椅子を思い切り、蹴っ飛ばして、ポリクリのヤツら、およびクラス全員に宣戦布告した。すると、ウジウジと言っていたイヤミがピタリと止まった。
イジメられている時におとなしくしていると、イジメている下等なヤツラは増々、面白がって図に乗るのである。もちろんその一回でイジメがピタリとなくなったわけではないが、僕は頭が良いので、イジメに対する対処法を直感的にわかっていた。
ここら辺が僕の先天的な地頭の良さである。
そして一年経ち、6年の秋になり、ポリクリが終わった。
もうクラスのヤツらと関わることはないので、イジメられることはない。
あとは卒業試験と医師国家試験の勉強である。
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ちなみに復学してからは、池見酉次郎先生が勧めてくれた、池見酉次郎先生のお弟子さんの黒川順夫先生にかかってみた。黒川順夫先生は大阪の豊中市にクリニック開業していたので、一時間半くらいで行けた。いい心療内科の先生だった。僕は対人恐怖症にも悩まされていた。
臨床心理士が集団療法をやっていたので僕も出てみた。最初の集団療法で、瞑想をやらされた。あまり期待していなかったが、不思議な現象が起こった。それは幽体離脱で僕の意識が僕の頭から離れて、空中の一点から、僕を含めた、そこにいる集団療法をやっている人たちが見えたのである。対人恐怖症は視点が前に居る一人の人に集中してしまうことによって起こってしまうのだが、この体験はかなり対人恐怖症に有効だった。
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僕は友達がいないので、過去問題とその答えを持っていないので、卒業試験は追試に次ぐ追試だった。皆は過去問題とその答えを持っているので、はっきり言ってバカでも通る。
しかし僕も徹夜につぐ徹夜勉強で何とか単位を取ることが出来て卒業することが出来た。
そして医師国家試験を受けて、これも通った。
卒業式には当然出た。
スーツは持っていなかったので、貸しスーツ屋でスーツを借りた。
まあ買ってもたいした金額ではないので、買ってもよかったのだが、その後スーツを着る予定もない。
学長によって一人一人の名前と国籍が呼ばれ、皆にお辞儀して壇上に上がり、学長にお辞儀して卒業証書を受けとる。
僕は皆と友達にはなれなかったけれど、全員に心の底から、惜しみない拍手を送った。
しかし。
卒業式の時の態度が、みな、全然なってない。みな、卒業証書を受け取るまではいいが、その後、卒業証書の両端を片手でつまんで、ぶらさげて持っている。そしてトボトボ覇気のない猫背で降りてくる。
卒業証書は、受けとるまでだけではなく、受け取った後も大切なのである。卒業証書は受け取ったら、大切な物として、折り曲げず、板を持つように、立てて左脇に持ち、形を変えず、表を自分の体の方に向けて、左手で卒業証書の下をささえ、片手で卒業証書の上を押さえて運ばなくてはならない。そして背筋を伸ばして、顎を引き、行進のように堂々と歩くべきなのである。それが出来ている生徒はクラスの100人中たった一人しかいなかった。もちろん、その生徒とは僕である。
こういう本質的なことがわかることが才能のある人間なのである。
そして、クラスの生徒の名前が呼ばれると、卒業式に来ていた部活の在校生が、みっともない野次をとばしていた。こういう厳粛な時には、ふざけた野次は飛ばすべきではない。
卒業した後に送られてきた学報で、ある先生が、礼儀をわきまえない在校生の情けなさを嘆いた記事を書いていたが僕も同感である。
彼らは、していいことと、してはいけないこと、の区別がつかないのだ。
卒業式の後、大阪のホテルで謝恩会が開かれたが、僕だけは行かなかった。
謝恩会に出なかったのは僕一人である。
その後は現在まで、もう、あの忌まわしい奈良県立医科大学に行ったことは一度もない。
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そして僕はUターンして鎌倉の実家にもどった。
父親も母親も「おめでとう」の言葉はかけてくれなかった。
「もう大学を卒業したんだから親に甘えるなよ」
という態度なので、テレビを見て知らんぷりである。
僕だって親に甘えるつもりはないが、普通の親子だったら、息子が大学を卒業したら「おめでとう」の一言はいうんしゃないの?
ここらへんが父親の歪んだ性格なのである。
僕はお茶の水にある、佐藤あきら先生に会いに行った。
そして医師国家試験に合格したことを言った。
そしたら先生はいきなり僕の両手を握って「おめでとう」と言ってくれた。
嬉しかった。
幸い千葉県にある下総精神医療センター(研修指定病院)が僕を採用してくれた。
なので僕は千葉県の下総精神医療センターに近いアパートに引っ越した。
母校ではなく他の大学の医学部の医局を選ぶという手もあるのだが。
そして僕が卒業したクラスでは10人くらい他大学の医学部(大阪大学が多かった)の医局に入っていた。しかし僕は他大学の医学部の医局への入局には抵抗があった。
もちろん、どこの医学部でも自分の支配するテリトリーを増やしたいと思っているから(ヤクザ社会みたい)他大学出の人でも入局希望者は大歓迎なのである。しかし僕は病気持ちで医局の人達と打ち解けず、孤立して一人ぼっちになることをおそれて入ろうとは思えなかった。
精神科を選んだのは、過敏性腸症候群で体調が悪く、ハードな科は出来ないだろうから、精神科なら比較的、楽そうだから、病気を持ちながらでも出来そうだと思ったからである。
僕は早く一人前の精神科医になりたくて、勤務時間は朝9時から午後5時までだったが、夜中の12時過ぎまでカルテを読んで勉強した。
四月から年度が変わると、辞めていく人、新しく入った人の入れ替わりが大きかった。
歓迎会が開かれたが、僕の病棟のオーベンの織田辰郎先生が、
「久しぶりに教えがいのある研修医が入ってくれて嬉しい。浅野くん。頑張ってくれよ」
と言った。僕としては自然体なつもりなのだが、他人からはそう見えるのかと、よくわからないまま思った。
午後5時から準夜勤のナースに交代し、夜中の12時から深夜勤のナースに交代する。
精神科は他科と違って、アナムネのとり方、書き方が難しいのである。
他科ではアナムネは難しくない。
主訴を聞き、それはいつからでを聞き、そして既往歴を聞き、採血して血算、生化を調べ、レントゲン、や、エコー、CTなどの医療機器を使えばいい。
しかし精神科は、その人が生まれて来てから現在に至るまでの、その人の人生を簡潔に纏めなくてはならないので難しいのである。
夜遅くまで勉強していると、9時くらいに、当直の医師二人が見回りにやって来る。
夜遅くまでねばっている僕を見ると、
「まだやってるの」
と驚かれた。勉強熱心な性格もあるが、僕は要領が悪いので、アナムネをちゃんと書けるようにならなくては、人にも迷惑をかけてしまう、という思いからである。
さすがに夜12時を過ぎて深夜勤のナースがやって来ると、
「先生。死んでしまいますよ」
と言われた。
しかし過敏性腸症候群で苦しいのに、僕は結構、かなりタフだった。
このタフさは子供の頃からである。
研修医になりたての頃は何も出来ない。
静脈注射(ルート確保)も出来ない。
僕は積極的に静脈注射の練習をし、縫合の仕方、抜糸の仕方、マーゲンなど、医療手技を覚えていった。精神科といえども、病院に内科医が在住しているわけではないので、病院勤務の精神科医は、内科的な疾患の対応も対応できなくてはならないのである。
精神科の患者は精神の病気だけをもっているわけではなく、内科的な疾患ももっている患者もいるからである。そして向精神薬の副作用で便秘になったり、立ち眩みで転倒して頭を切ってしまう患者もいるので、傷口の縫合も出来なくてはならないのである。
高齢者では肺炎も起こす。
僕は最初、女子急性期病棟に配置されたが、女子はやりにくかった。
しかし三ヵ月もすると、だんだん慣れてきた。
そして三ヵ月してからアルバイトをするようになった。
僕は週一回、千葉県の東北にある小見川病院にアルバイトで行った。
幸い、小見川病院はすぐ隣りに内科病院もあったので助かった。
女子急性期病棟での研修は半年で、そして僕はこの半年で、大体のことは、出来るようになっていた。
次には男子慢性期病棟に行った。
ここはぐっと楽だった。
オーベンの川島道美先生は研修医を育てようという気持ちが無く、ほったらかし、だったからだ。そもそも大学の医局では、大学の関連病院での戦力を作ろう、そして大学の縄張りを守ろうという意図が強いから研修医を一人前に育てようとするのだが、大学の医局いがいの研修指定病院では、そういう意図がないから、研修医の教育はいい加減なのである。
担当患者も与えてくれない。
仕方なく僕は自発的に50人ほどいる全ての患者のカルテを読み、問診し、聴診や腱反射などの練習をした。
男子病棟の患者は面白かった。
患者からはアームレスリング(腕相撲)や将棋を挑まれた。
当然、僕は応じた。
手加減することはしなかった。
なので全戦全勝である。
看護師では、手加減して患者に花を持たせてやる、ということをしている人もいたけれど。
精神科の患者(統合失調症)は健康な人のように生活できなくて劣等感に苛まされている。
なので、何か自分に自信をもちたいと思っている。
だから本気で戦ってくる医者や看護師に自分の実力で勝って自分に自信をもちたいと思っているのである。
だから片八百長で花をもたせてあげる、というは、安っぽい同情だと思ったからである。
男子病棟では哲学のわかる患者もいた。
一般的には、統合失調症の患者は誤解されている。
統合失調症は知的障害者ではない。
患者には、東北大学の大学院を卒業し、学生時代には、フェンシングをして、そして教養があって、小説やら何かの文章を行李一杯分ほどの量、書いてもっている患者もいた。
話をしても歴史、文学、哲学、宗教などをよく知っている。
しかし、あきらかに、おかしい妄想を持っているので通常の生活は出来ないのである。
ちなみに精神科の患者の治療のゴールは患者の妄想を消すことではない。
統合失調症の患者の妄想はまずとれない。
とれてくれれば嬉しいのだが。
患者にとっての妄想は患者にとっては現実なのである。
精神科の患者の治療のゴールは、患者の妄想がとれる患者に合った向精神薬を見つけ、患者に説得して、患者がわからないままに、薬を飲む必要を納得させ、そして退院しても家族と争わないようになることなのである。
患者とよく話をする精神科医もいるし、ほとんど患者と話をしない精神科医もいる。
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ちなみに、川島道美先生は僕に担当患者をもたせてくれなかったけれど、病状の理解の難しい患者の考察をしてみて、と言った。
なので僕は理解の難しい患者の原理を考察して文章にして書いた。
カルテがほとんど論文みたいになった。
内向的な人間は考える能力が優れているので僕は病状の理解の難しい患者の原理を全て解明してしまった。本当は謙虚を装っている方が好かれ、自慢めいたことを書くと嫌われるのはわかっているが。
それを具体的にくどくどと書く気もしないので、興味のある物好きな人は、僕のブログの記事「妄想が変わる患者の原理。2008年4月28日」や「逆説反応。2008年5月12日」などを読んで頂ければわかる。
ちなみに男子病棟にいた時、東大医学部出のお偉い内科の先生が精神科に興味をもって見学に来たが、僕が難しい患者の原理を全て解明してしまったので来れなくなってしまった。
その人は、たくさんの学会に入っていて、学会の評議員までしていて我こそは医学なりと威張っていたが、社会人としての礼儀がまるで分っていない。
日本の精神医療の現実を「ぜんぜんなっていない」とか平気で批判していた。
内科医として、どんなにお偉いのか知らないが自分が見学者という立ち場であるということを全然、わかっていない。精神科医は責任をもって精神病患者の診療に当たっているのだから、そして自分は見学者という立ち場なのだから、批判、批難の類は慎むべきということが、まるでわかっていないのだ。
ある人が、ある企業の見学をしたいと思った場合、どういう態度をとるべきか。
そんなことわかっている。どんな企業にも他人に知られたくない内部事情や企業秘密というものがある。だから企業としては見学は迷惑であり断る方が多いのだ。それを、どうしても見学したいという希望を企業は聞いてくれたのだから、見学者は企業に感謝の気持ちをもって、お礼を言い、礼儀正しい態度で謙虚に見学させて頂くというのが当たり前である。批判、批難の類などもってのほかである。精神医療を批判するなら、てめえで責任をもってやってみろ、と言いたくなる。そういう当たり前のことがわかっていないバカが医者には結構いるのだ。
医者なんて、医学部を卒業し、社会人になった瞬間から「先生。先生」と奉られつづけるから、そういう社会人としての礼儀がわからないバカが出来てしまうのだ。
さて。
男子病棟の次は内科疾患をもった精神病患者の病棟に移ることになった。
オーベンは元外科医だった沖野秀麿先生である。
外科医だったが心筋梗塞を起こして体力的にキツい外科が出来なくなって、精神科医になった。沖野先生はおだやかな、いい先生だった。沖野先生は色々なことを教えてくれた。
「治療はアグレッシブにやれ」
と教えられ自分もそうしてきた、と言った。
これは結構、参考になった。
元外科医だったこともあるかもしれない。
つまり薬を出す時には、薬の過剰投与による副作用が起こるのを恐れて、チマチマした治療をするな、自信をもって必要量をドンと出せ、そうしないと患者は死ぬぞ、という教訓である。
先生は大学の医局はキタない所だと言った。
大学で出世するためには論文をたくさん書かなくてはならない。
それをフロッピーに保存しておくのだが、盗まれてしまうことがよくある、そして盗んだ人がその論文を自分の論文として発表してしまうことがよくある。なので自分が書いた論文の入ったフロッピーは肌身離さず持ち歩いていた、と言った。
僕はホントかな、そこまでキタないことをするヤツなんて本当にいるのかな、と全面的に信じることが出来なかった。
しかし清川遠寿病院のクズ理事長、増田直樹や、クズ医者、御園生篤志の悪事のことを書いた僕のブログ記事「聖マリアンナ医大病院・精神保健指定医20人資格取り消し。その2。2015年04月19日」を見てもらえばわかるが、医者にはかなりクズが多いのである。
なので今では沖野先生の言うことを信じられる気持ちになっている。
皆さんも医者を安易に信じないように。
そもそもクリニックにせよ病院にせよ、医者の収入は出来高払いである。
つまり八百屋と同じである。八百屋は客に野菜を売ってその代金で儲けている。
医者も八百屋と同じなのである。医者にとって患者はお客さんなのである。
医者は患者に検査をし、投薬することによって収入を得ているのである。
八百屋と違う点といえば、八百屋は全額、お客さんが代金を支払うが、医者の場合、3割が患者の自己負担で、残りの7割りが保険会社から支払われるという点であるが、似たようなものである。なので、八百屋と同様、お客さん(患者)は多ければ多いほど医者にとっては嬉しいのである。
質素だが栄養のある食事をし、運動をして足腰や心肺機能を鍛え、よく歩き日光に当たり、免疫力を上げ、メリハリのある生活をし、十分な睡眠をとる生活を送れば、病気になりにくいのである。医者にとっては収入は減るが。もちろん医者も、そういうことは言うが。最もこれは、だらけた生活をしている人の方にも責任があるが。
それと、医者は確かに自分の専門の医学知識はもっている。
しかし考えてもみたまえ。
病気をもっている人は24時間、自分の病気と付き合って生きているのである。
病気についても多かれ少なかれ自分で調べているだろう。
だから自分の病気を一番よく知っているのは、間違いなく自分であるはずだ。
それを、たった3分の問診で自分より医者の方がわかる、と思う方が、おかしな考え方だ。
健康とは自分で努力して獲得するもので、医療機器による検査や投薬は医者にしか出来ないものだから、医者とは病気になった時、利用するものだと僕は思っている。
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医者にはクズが多いというのは本当なのである。
ちなみに沖野秀麿先生の、内科疾患をもった精神病患者の病棟では、患者の死を何人も看た。
さらにちなみに、沖野秀麿先生のことは僕のホームページで「外科医オーベン」と題してエッセイを書いた。
2年の研修が終わって僕は地元の湘南敬愛病院(湘南北部病院)に就職した。
そこは1年8カ月やった。
しかし僕の心は小説創作にしかなくなっていた。
精神科医療に慣れてしまうと精神科医の仕事がつまらなくなっていった。
研修病院の時も、湘南敬愛病院の時も、時間のある時は小説を書いていた。
しかし、だんだん、精神科医療は思っていたよりストレスのかかる科だとわかった。
というのは、統合失調症の患者は妄想(被害妄想)を持っているのだが、統合失調症の患者にとっては妄想が現実なのである。だから精神科医に食ってかかるのである。
「退院させろ」
「お前は医者じゃない」
「お前はニセ医者だ」
「不当監禁だ。オレが訴えたらあんた負けますよ」
などなど。
まあそういう患者は割り合いとしては少ないが、そして慣れてしまえば何ともなくなるが、煩わしい。精神科医と患者は全く別の世界に生きているので、会話が全然、噛み合わないのである。しかし一度、精神科を選んでしまった以上、他の科は出来ない。
それに精神保健指定医の資格は取っておきたかった。
精神保健指定医とは精神科常勤(週32時間以上)の経験、5年以上と8症例のケースレポートを書いて、それを厚生省に提出して、それが認められなくてはならない。
8症例のレポートとは、統合失調症3症例(そのうち一つは措置入院)、躁鬱病、中毒(アルコールとか、覚醒剤)、小児精神病、認知症、器質性精神病(内科疾患で精神病を合併したもの、頭部外傷、SLEなど)の8症例である。これらは全部、保護入院でなくてはならい。
このうち、措置入院と小児精神病、器質性精神障病、の症例が手に入りにくい。
基本的に入院から、退院までの症例であるが、入院か退院のどちらかが含まれていて、三ヶ月以上していれば、それはレポートとして認められるのである。
大学の精神科の医局に所属していれば、大学では自分の関連病院のテリトリーを死守したいと思っているので、そして大学の医局は面倒見がいいので、それに医学部附属病院では難解な患者が送られてくるので、措置入院、小児精神病、器質性精神障病、などの症例も簡単に手に入るのである。基本的に大学の精神科の医局に所属していれば、誰でも(バカでも)精神保健指定医になれる。
しかし民間病院では院長が、そういう患者を自分の病院に引っ張ってきてくれないと症例は手に入れられない。むしろ精神保健指定医の資格を取った後、辞めてもっといい病院に就職してしまうことを恐れて、わざと精神保健指定医の資格の資格を取らせないという意地悪をするのである。
またケースレポートの意味もおかしい。
患者が退院できる(=病状が改善する)かどうかは医者の能力にかかっているのではない。
症状が重い患者はいつまで経っても治らないのであり、症状が改善する患者というのはそもそも症状が軽い患者なのであって、症状が改善するかどうかはもう入院前から決まっているのである。
しかし精神科では精神保健指定医の資格を持っていないと「人間以下」なので、そして精神保健指定医の資格を持っていないと精神病院に就職することが出来ないので、どうしても取っておきたかったのである。
ちなみに精神保健指定医のケースレポートの例を書いておこう。
・・・・・・・・・・・
患者=イエス・キリスト
<家族歴>同胞なし。両親と3人暮らし。精神病遺伝負因なし。
<生活歴>紀元元年12月25日、ベツレヘムの馬小屋で生まれる。父ヨセフは大工。母は、マリア。幼少の頃から天才的な哲学的発言をして両親を驚かせた。知能指数は相当高いと思われる。幼少の頃は父ヨセフの大工の手伝いをして過ごした。幼少の頃より律法学者を論破するほどの優れた頭脳の持ち主であった。
<既往歴>特記すべきことなし。
<現病歴>成人すると山に登り40日の修行をする。この時、悪魔と口論をして悪魔を論破したと本人は言う。その後「山上の垂訓」と称して多くの人々に様々な説教をする。その後12人の弟子が彼に従うようになる。その後エルサレムに向かう。「私は神の子である」「私は性交によらず処女懐妊によって生まれた」「汝の敵を愛せ」「あなたの罪は許された」「私は死後3日後に蘇る」など、おかしな言動をするようになる。ラザロという死者を蘇らせた、とか一匹の魚とパンを無数の魚とパンに変えるなどの奇跡を行なったなどと彼の弟子と称する取税人マタイは証言した。あまりの不遜な態度に民衆が怒り出し「十字架にかけろ」と騒ぎ出すようになった。彼の支離滅裂な言動から彼を心配した彼の弟子の一人であるイスカリオテのユダが救急通報し当院受診となった。
「入院時現症および状況」「私は神の子である」「私は性交によらず処女懐妊によって生まれた」「あなたの罪は許された」「私は死後3日後に蘇る」などと発言は支離滅裂であり誇大妄想も著しくみられた。症状および経過より精神分裂病と診断し本人に入院治療の必要性を十分に説明するも病識が欠如しており同意は得られなかった。精神保健指定医(以下「指定医」という)の診察の結果、精神分裂病による誇大妄想状態であり病識が著しく欠如していることにより入院治療が必要と診断された。紀元30年8月30日、精神保健および精神障害者福祉に関する法律(以下「法」という)第33条第2項に基づく医療保護入院となった。同時に外来にて本人に対し口頭及び書面にてその旨を告知し診療録に記載した。
「入院後の治療経過」入院当日よりリスペリドン4mg、クロルプロマジン50mgを開始した。しかし思考の滅裂は改善しなかった。「主よ。彼らを許してやって下さい。彼らは自分達が何をしているのか、わからないのです」とか「 わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」などの誇大的な独語も見られた。その後も誇大妄想が強いためリスペリドンを8mgまで増量したが誇大妄想は消失しなかった。しかし自傷他害のおそれもなく指定医の診察の結果、通院治療が可能と診断されたため紀元30年9月19日退院となった。以降定期的に外来通院中である。
「考察」支離滅裂で精神運動興奮は認めないものの誇大妄想が激しく医療保護入院による治療を余儀なくされたケースである。入院治療で精神症状の改善は認められなかったものの自傷他害のおそれはなく退院となった非常にまれなケースである。家族に対し病名告知を行うも十分な理解が得られなかった。患者が行ったと言っている奇跡は集団催眠か高度な手品のようなものであると考えられる。誇大妄想はあるものの思想、発言には他者を納得させる非常に高尚なものがあり一概に患者の妄想を否定するのは患者にとっても彼を信じる者にとっても必ずしも、いいとは考えられない面があると思われる。今後は疾患に対する理解が得られるよう対応するとともに治療継続の必要性など家族および本人への教育的アプローチも必要であると考えられた。
・・・・・・・・・・・
大学の医局は不正の温床である。
ありとあらゆる不正が平然と行われている。
僕も何とか精神保健指定医の資格は取りたくて医師斡旋業者の仲介で清川遠寿病院に就職した。しかし不正を平気でやりウソしか言わないクズ医院長、増田直樹は僕に担当患者を持たせてくれず、3年半、勤務したが、精神保健指定医の資格はとれないとあきらめて辞めた。
まあ、一生、クズ医者、不正医者の汚名を背負って雄々しく生きて下さい。
・・・・・・・・・・・・
精神保健指定医の資格を持っていないので、いくつか精神科医を募集している精神病院に応募して面接を受けたが、僕を採用してくれる病院は無かった。
病院の精神科医募集に応募してくる医者は僕一人ではない。何人かいる。すると病院としては、一番いい医者を採用するので、そうなると精神保健指定医の資格を持っている人が採用され、僕のように精神保健指定医の資格をもっていない(人間以下の)者は採用してもらえないのである。
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それでもう僕は精神科はあきらめた。
それで僕はコンタクト眼科医のアルバイトをして収入を得ることにした。
コンタクトレンズや、そのケア用品の小売店を全国的にしている会社がある。
アイシティーは知っている人もいるだろうが、アイシティーでのコンタクト眼科医の募集はなかった。(株)中央コンタクトがさかんに代診医の募集をしていたので、僕はそのアルバイトで食いつないだ。コンタクト眼科医とは、コンタクトレンズやケア用品を売っているコンタクトショップに隣接した眼科クリニックである。スリットランプで目と結膜を診て、問題がなければ「近視性乱視」と診断名を書く。あとコンタクトレンズを使っていると、角膜にキズが出来たり、アレルギー性結膜炎になったりする患者も出てくるので、その治療薬を出す。その程度である。コンタクトショップの人がクリニックにやって来て、検査と会計をしてくれる。検査は、患者(客)がどんなレンズを欲しいかを聞く、裸眼視力、テストレンズをはめての矯正視力、RGテスト、眼圧の測定、乱視の有無、ドライアイの有無、円錐角膜はないかを調べる、くらいである。医者の仕事といえば、スリットランプで目と結膜を見るくらいである。
眼底鏡で眼底を見ることもあるのだが、コンタクトレンズを求めている人は圧倒的に若い女性が多いので、眼底を見てもまず意味はない。眼底を見る必要のある人は、そもそも高齢者で、高齢者なら、緑内障、白内障、動脈硬化、糖尿病、加齢黄斑変性、などの疾患が出てくる人もいるので眼底を見る必要があるが。しかし、そもそも、それらの疾患をもった人なら目の異常、症状が出てくるので、まずは問診と検査で大体、予想がつく。
僕は真面目なので患者に迷惑をかけてはいけないと思っているのでコンタクトレンズの医学書を数冊、買って勉強しておいた。僕は何事でもそうだが、何かやり出すとハマってしまう性格である。僕はコンタクトレンズの処方や治療だけではなく、目の中に異物が入って取れない患者、や子供の目の学校健診の診断書、その他、何か目の症状で訴えてくる患者は門前払いせず、自分の実力を言い、診察した。そして自分のわかる範囲で説明した。
コンタクト眼科の仕事は楽だった。
なので患者が来ない時はパソコンで小説を書いた。
時々、中央コンタクトの社員がやって来て、新しく出来た、コンタクト眼科クリニックの院長をして欲しいと言ってきた。しかし最低、週4日は働いて欲しいという条件だったので、僕は断っていた。収入は増えるが僕にとっては金より小説を書くことの方が絶対的に大切だった。
しかし困ったことが起こった。
日本眼科学会のトップの人が眼科医でない人が眼科クリニックと称して、コンタクトだけの眼科診療をしていることが問題である、と言い出したのである。
何か政治家とのつながりがあるのか、医療界に疎い僕にはわからず、詳しいことは知らないが、コンタクト眼科診療が出来にくくなってしまったのである。
名義貸しといって、名前だけの院長で、コンタクト眼科クリニックが代診医によって行われていることも問題になった。名義貸しとは、法的に院長の届け出をしてくれれば、診療しなくてもいいからコンタクトショップが、ある程度のお金を払うというものである。
なのでコンタクト眼科のアルバイトがやりにくくなってしまった。
名義貸しは問題だと思うが、眼科医でない医者がコンタクト眼科の診療をすることは、僕はそんなに悪いこととは思わない。そもそも、コンタクト眼科の診療といえば、角膜にキズがあるかを調べ、アレルギー性結膜炎はないか、を調べる程度のものである。
そんな大それた眼科の知識や技術は必要ない。眼科医とは、眼科専門医のことで、日本眼科学会が認めているもので、眼科の常勤5年の経験と筆記試験、および白内障や緑内障の実技試験まで課している。
なので眼科疾患のことは、ほとんど知っているし手術も出来る。
しかし、例えるなら、「風邪の治療は呼吸器専門医でなければならない」、などと決めたら、これは明らかにおかしい。
「水虫の治療は皮膚科医に限る」などと決めたらこれは、これは明らかにおかしい。
そもそもコンタクトレンズをしていて失明することなどまずない。
コンタクトレンズは通信販売でも買えて、2週間で使い捨てのレンズを二カ月も使い続けている人もザラである。多くの人がコンタクトレンズを使っているが、コンタクトレンズの処方は眼科専門医に限定する、というのは、ちょっと行き過ぎだと思う。
コンタクトレンズやコンタクトレンズを装用することによって起こる問題やその対処法を全く知らないでやるのは、ちょっと問題だとも思うが。
コンタクト眼科診療くらいなら、コンタクトレンズに関する知識や近視に関する知識、コンタクトレンズを装用することによって起こる疾患のテストを作ってそれに通ったら眼科専門医でなくてもしていい、とするべきだと思う。
もしかするとコンタクト診療を眼科医だけの特権にして眼科医の儲けを増やそうという魂胆なのかとも疑ってしまう。
しかし医療界の流れには逆らえない。
ちょうど、その頃である。
(株)中央コンタクトの社員の人がコンタクト眼科クリニックにやって来た。
「今度、岩手県の盛岡に新しくコンタクトショップとその隣接眼科クリニックを開く予定なので院長になってもらえないか」という頼みだった。
条件は土曜と日曜の二日で、往復の交通費とホテルの宿泊代は出す、というものだった。
僕は院長になることを引き受けた。
コンタクト眼科診療のアルバイトが減ってしまう危機感と、週二回という条件を中央コンタクトが言ってきたからだ。週二回なら院長をやってもいいと僕は思っていた。その条件を相手の方から言ってきたのである。なので僕は盛岡で眼科クリニックの院長をすることになった。クリニックの名前は「盛岡駅前アイクリニック」とした。クリニックの院長になるのは初めてである。保健所にクリニック開設の届け出をして認められた。クリニックの場所は盛岡駅つづきのメトロポリタンホテルの三階だった。二階にコンタクトショップがあり、コンタクトレンズを買いに来た客は、三階の僕のクリニックで検査と診察を受け、患者の希望するコンタクトレンズの度数と大きさとベースカーブを決め、フィッティングがちゃんとしていることを調べて「近視性乱視」とカルテに書く。そしてその処方箋をもって二階のコンタクトショップにもどり、そのコンタクトレンズを受けとり、必要なケア用品も買っていく。
というものだった。クリニックは午前10時から午後7時までなので、土曜日の朝、5時30分に起き、始発の電車で東京に出て、東北新幹線で盛岡へ行く。そして午後7時まで診療し、その日は近くの東横インホテルに泊まった。そして翌日の日曜に、午前10時から午後7時まで診療し、診療が終わったら上りの東北新幹線で家に帰るという日々になった。
僕は東北へ行くのは初めてだが、盛岡がこんなに寒いとは知らなかった。
僕はこのクリニックの院長を5年やった。
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スタッフは中央コンタクトの人だが、ほとんど若い女の子だった。僕は女性と話が出来ないので、事務的なこと以外は話さなかった。スタッフは結構、入れ替わりが頻繁だったが、正社員なのかアルバイトなのか、わからなかった。可愛い子がスタッフとしてクリニックに来ると、ドキンとした。鈴木さんは可愛くておとなしそうだった。この子なら話しかけたら友達になれるんじゃないかと思った。しかし僕は医師で院長という立ち場で、彼女はアルバイトである。僕はそういう権威を利用して、おとなしい女性に話しかけるということが嫌いだった。それに僕は結構、歳をとっているが、彼女は20代と若い。彼女には彼女の人生があり、彼女には同い年くらいの好きな人がいるかもしれない。なので僕は、うわべは事務的な必要最小限のことしか話さなかったが、心の中では「ああ。鈴木さん。好きだ」と鳴かぬ蛍が身を焦がしていた。ちょっと考えすぎなのかもしれない。しかし、そういう、心の中の激情を小説という形で発散させるのである。僕は彼女をモデルに「コンタクト眼科医の恋」という小説を書いたが、小説では彼女に打ち明けているが、現実には、彼女の人生を尊重して彼女には気のない振りを演じた。千田祥子さんも綺麗で可愛かった。僕は彼女が好きだったが、彼女は僕には気がなかった。なので彼女をモデルにして「監禁物語」という小説を書いた。いいよ。別に好いてくれなくたって。むしろ好いてくれないからこそ「監禁物語」が書けるのである。
高校2年の時の同級生、時田秀美(ひでみ・男)は、女にモテることを自慢し、「女にモテないようなヤツは男として価値がない」と言っていた。が僕は逆だと思う。
小説家なんて「ないものねだり」だから小説が書けるのだ。燃え盛るような激しい片思いの激情があるから小説が書けるのだ。女にモテて、女とイチャイチャするようになったら、もう小説は書けない。そういうヤツは一体どういう恋愛小説を書けるというのか?
「彼女は僕を好きになった。毎日べったりくっついていた。幸せだった。めでたし。めでたし。はい。おしまい」の小説しか書けないじゃないか。そんな小説のどこが面白いというのだ?恋愛小説は結婚するまでの煩悶が面白いストーリーになるのだ。結婚してしまったら、つまり目的を達成してしまったら、あとはもう何のドラマも起こらない。毎日イチャイチャし、年を経るごとに、理想の女の嫌な面も見えてくる。女に対する遠慮もなくなり、夫婦ゲンカもするようになる。結婚してしまったら、もう恋愛小説は書けなくなるのである。書けるのは夫婦ゲンカ小説だけとなる。のである。
「結婚は愛の墓場(シャルル・ボードレール)」なのである。
(結婚すると恋愛につきもののドキドキ感や燃えるような情熱が薄れパートナーに対して安心感や慣れが生じるため恋愛関係としては終わってしまう)
夢はかなわないからこそ美しいのだ。かなってしまったら、もうそれは夢ではなくなるのだ。
野球選手に憧れているけれど、野球が出来ない人が面白い野球小説を書けるのだ。
自分がスター野球選手になってしまったら、もうその人は野球小説を書けない。
ともかく。
盛岡は一年でも寒い時期が多くて、それはつらかったが、可愛い女の子のスタッフが入ってくるのを見れるのは嬉しかった。
しかし院長も5年間でやめることになった。
というのは、僕が院長をやると中央コンタクトに言った時、中央コンタクトに契約書を書かされたからだ。それは「中央コンタクトの方からか僕の方からかクリニックの院長を辞めることになったら三ヵ月以内に辞めなくてはならない」という契約書を書かされたからだ。
僕は神奈川に住んでいて盛岡への往復の交通費も3万円以上、中央コンタクトが支払っていて、そして僕は眼科専門医の資格を持っていない。中央コンタクトの方でももっと東北に住んでいて、そして眼科専門医の資格を持っている医者を探していた。眼科専門医の資格を持っている人でクリニックの院長をやってくれる人が見つかったら僕は辞めさせられるだろうと思っていた。コンタクト眼科診療くらいなら眼科専門医の資格を持っていなくても出来るのだが、やはり眼科専門医の方が、クリニックに来る患者が増えるので、眼科専門医の資格を持っている人でクリニックの院長をやってくれる人が見つかったら僕は辞めさせられるだろう覚悟していた。
なので、眼科専門医でクリニックの院長をやってもいい、という人が見つかってしまったので僕は辞めさせられることになった。
ここでもやはり専門医である。
精神科も精神保健指定医の資格(これは国家資格)をもっていないので出来なくなったが、コンタクト眼科診療でも専門医の資格をもっていない僕は不利なのだ。
医学部を卒業したら、ほとんど全員が大学医学部の医局へ入るのだが、そして大学の医局に入っていればまず必要な資格は取れるのだが、僕は医局に属していない一匹狼なのである。なので僕はクリニックの院長を辞めることになった。
・・・・・・・・・・・
さて、次は何をやって収入を得ようかと思ったが、僕は人工透析をすることに決めた。
それは人工透析は楽とネットに書いてあったからだ。
人工透析がどういう仕事かはわからない。
何か、腎臓に関する色々な知識を持っていないと出来ないような難しい内科の仕事に思われた。
少し人工透析の医学書を5、6冊買って読んで勉強し、勇気をもって人工透析の代診医の募集に応募してみた。すると結構、人工透析の仕事は楽だった。
もちろん通院の血液透析の患者である。
人工透析は透析ナースと技師さんがやってくれて、医者は院長室で待機していればいい。
患者は40人くらいで、全員の診察をして、それをカルテ記載し、発熱している患者、や、痒みのある患者、不眠の患者、などに臨時処方を出す。そのくらいである。
「患者の診察」といっても患者に「具合はどうですか?」と聞くだけで、患者はほとんど全員「ええ。大丈夫です」と答える。なので楽だった。
こんなことなら最初から大学の腎臓内科の医局に所属して透析医になればよかったと後悔した。僕は早く人工透析の仕事に慣れようと思っていたので、ほとんど全員のカルテを読み、勉強した。腎不全になる患者は、Ⅱ型糖尿病が圧倒的に多く(40%)、次いで、腎硬化症、IgA腎症、糸球体腎炎、RPGN、SLEによるループス腎炎、Ⅰ型糖尿病、などだった。
透析患者に発症する病気は、副甲状腺機能亢進症、貧血、βアミロイド沈着、高K血症、高P血症、下肢のつり、透析中の低血圧、糖尿病による壊疽、などだった。
ほとんど教科書に書かれている副反応は全員、発症していた。
透析ナースの方が毎日、受け持ち患者を診ているので、患者の対応は医者よりよく知っているのだが、そして透析ナースは医者に「患者Aさんが××を訴えていますが、××の薬の処方をしていいですか」と聞いて医者は「いいですよ」と答え、サインするだけなのだが、僕は人工透析だけは医者の仕事として、しっかり身につけようと思っていたので、実践即勉強で、透析中に患者に異変が起こってナースから医者への治療の許可の電話が来ると、実際に患者を見に行った。あとの仕事といえば、シャント不全や病状が悪化した患者の紹介状書き、と、血管をつないだ患者の抜糸くらいだった。
何か問題が起こった時に透析医療の色々な事情がわかってくる。
そうして何度も人工透析の仕事をしているうちに、ほとんど人工透析のことがわかるようになった。僕はやっと医師の仕事で安住の場所を見つけることが出来た思いだった。
僕は医師としては残りの人生は人工透析をやっていこうと思った。
働いていた方が健康にいい。
幸い、人工透析をやっている、規模の大きい、ある医療法人があって、神奈川県に70カ所くらい、の透析クリニックを運営していた。
クリニックは僕のアパートから近い所にあり、交通の便が良かった。
透析患者は60代、70代、80代、そして80代後半までいた。さすがに90歳を超す患者は少なかった。全てのベッドにはテレビが設置されていたが、患者は皆ほとんど寝ていた。
他の人は医学部卒業→医師国家試験合格→自分のやりたい科を決め大学の医局に所属する→指導医に手取り足取り教えてもらい一人前になる→大学の関連病院を医局の意向で転々と回る→教授に医学博士の肩書きをもらう→2、3の学会に入り何とか専門医になる、という決まりきったレールに敷かれたプロセスをたどる。
しかし僕は体調が悪く、そして小説を書きたいので医局に拘束されたくなく、医学博士号も持っていないし、学会にも一つも所属していないので、ナントカ専門医の資格は何も持っていない。精神科→コンタクト眼科→人工透析、と楽な科をやってきた。
・・・・・・・・・・・・
さて。
この小説は山田詠美の小説「僕は勉強ができない」のアンチテーゼのパロディー小説として書きだしたのだが、僕の医学部の時や医者になってからのことを書くことになってしまった。
まあそれでもいいが。
ではもう一人の病人である僕という患者と僕の小説創作についても書いておこう。
僕は医学部を卒業しても過敏性腸症候群に悩まされてきた。
精神科医だった時のことである。
ある夏の日のことである。
僕は海が好きで片瀬西浜の海水浴場に行った。
ビキニ姿の女性を見るために。
海では本格的に泳げない。
なので海水浴場を見ていた。
過敏性腸症候群の腹痛に耐えながら。
しかし海で泳いでみたいという誘惑に負けて僕は海に入って泳ぎ出した。
すると過敏性腸症候群の腹痛がなくなっていたのである。
これは発見だった。
「泳いでいる時には過敏性腸症候群は起こらない」
という法則を発見したような気持ちだった。
なら、これを積極的に使って過敏性腸症候群の治療法としてみようと思ったのである。
それからは、僕は週に二回は市営プールで泳ぐようになったのである。
午後1時から閉館の午後8時まで、7時間、泳ぐことなどザラだった。
しかし水泳をすると、明らかに便意が起こって便が出てくれる。
そして7時間も泳いだ後は体が疲れていて、体を洗って布団に入ると、ぐっすりと眠ってしまうことが出来た。一回泳ぐと、2kgぐらい体重が落ちた。
・・・・・・・・・・
アパートから清川遠寿病院には車で通っていたが、途中にテニススクールがあった。
僕は人見知りしないので、そして、せっかちな性格なので、ある時、アポイントも取らずに、ある日の帰りに「あのー。プライベートレッスンして貰えないでしょうか。お金は払いますので」と言った。そしたら「いいよ」と言ってくれた。コーチの球出しでフォア、バックをやった。しかし運動していないので足腰が弱くなっていて、足がガクガクして息もハアハアとなって体力がボロボロに落ちていることに気づいた。これではいけないと思って、僕はテニススクールに入った。そして市民体育館のトレーニング室で、筋トレとランニングをするようになった。アパートでは股関節のストレッチをした。食べ物にも気をつけた。
僕は酒、タバコは全くのまない。水溶性食物繊維の多い食べ物を摂るようにしてみたが、あまり効果は感じられない。しかしマクドナルドのマックフライポテトやシェークや、ラーメン、焼き肉、なとは食べると、てき面、体調が悪くなる。
何を食べたら健康にいいかは分からないが、何を食べたると健康に悪いかはわかる。
なので、小食につとめ、体調の悪くなる物は食べなかった。
そうやって何とか健康維持につとめた。
体が弱くて運動するので整形外科的疾患は多く経験した。
腰痛、肩こり、筋肉痛、ジャンパー膝、四十肩、右膝内側側副靭帯部分断裂、左足首捻挫、TFCC(尺側手根伸筋腱炎)、ストレートネック、etc。何か病気や怪我をするとYou-Tubeの動画やネットで徹底的に調べた。病気や怪我は嫌なものだが、調べて理屈がわかると面白くもある。
不眠症には悩まされた。夜、睡眠薬を飲んでも眠れない。なので真夜中に24時間営業のマクドナルドへ行く。そして朝までねばる。体を疲れさせることによって家に帰ると疲れから眠れる。そんな生活を20年以上、続けてきた。
しかし最近では過敏性腸症候群の腹痛がおさまってきた。
これは若い時は新陳代謝や生命活動が活発だが病気の活動も活発なのだ。
しかし歳をとると生命活動が低下するが病気の活動も低下するからだと思う。
なので最近ようやく真夜中にマクドナルドに行かなくても眠れるようになった。
2020年に開発された睡眠薬デイビゴ(オレキシン受容体拮抗薬)(睡眠を増強するのではなく覚醒神経を抑制する)も試してみたら予想外に効果があった。
それまではずっとベンゾジアゼピン系睡眠薬(睡眠を増強する)を飲んでいたのだが、効果が頭打ちになって効かなくなっていたので、デイビゴを試したら、これが予想外に効果があった。デイビゴには依存性もない。
・・・・・・・・・
さて。次は僕のスポーツ歴もついでに少し書いておこう。
僕は中学生になって最初に「スポーツ」に自分の生きがいを求めた。
僕の運動神経は特別いいわけでもなく、特別わるいわけでもない。
普通である。僕は体力が無く、そして何事でも考え込んでしまう性格である。
なので集団スポーツは出来にくく、やったのは個人スポーツばかりである。
僕は運動が上達する理論を知りたかったので、そういう本を探して読んだ。
お勧めの本。
「まんがスポーツ上達の基礎理論」(自由現代社)・・・30分で読める。8割り方はわかっていることだったが二割り方は知らないことでためになった。マンガという形式だが内容は学問的な裏付けに基づいていているので役に立つ。
「武道の理論」(南郷継正)(三一書房)・・・「玄武会」という空手の組織のトップ。空手に限らずスポーツ一般に役立つ。いくつか間違っ点もあるが(そしてそれを見抜けなければ才能がないが)その誤りを差し引いても、それを上回る正論を述べている。
SAJスキー準指導員、正指導員教本・・・ちょっと読んだだけだが、正しいことが書いてある。
「ブルース・リー・メモリアル」(キネマ旬報社)・・・パンチやキックの出し方に関する本ではない。戦い方を述べた文ではなく人生のよりよい生き方について書かれている。
「スポーツ上達小説」(浅野浩二)・・・小説という形式で僕が書いた。
「武道・スポーツ上達法」(浅野浩二)・・・20年くらい前に書いた。当たり前のことを書いたつもりだが、これが分かっていない自称指導者が多すぎる。
僕がやったスポーツ。
僕はスポーツは楽しみや趣味ではやらない。(技術が上手くなると気持ちいいので、もちろん少しはそういう目的もあるが)基本的には僕はスポーツは健康のためにやっている。
転回運動・・・本格的にやったわけではない。高校の時の体育祭でやった。
空手・・・20歳くらいに始めた。これによって僕は運動の上達の理論がわかった。
水泳・・・過敏性腸症候群に効果があったので20年以上やってきた。
スキー・・・高校5年の時にスキーの課外授業があって、面白いと思ってその後もやった。
テニス・・・足腰を鍛え心肺機能を高めるために10年くらいテニススクールに入ってやった。
太極拳・・・空手の型は時間が短い。太極拳はゆっくり時間が長いので足腰も鍛えられる。
卓球・・・2025年に始めた。スポーツが上達する原理が分かっているので始めた。もう中級者である。
テニススクールのコーチはバカばっかりである。彼らは子供の頃からテニスだけをやって、気づいたら上手くなっていたというプロセスをたどるから、自分は出来ても、他人を上手く出来る指導者はいない。スポーツの上達理論を知らないから、テニスしか出来ない。他のレジャースポーツをやることがあっても遊び程度にしか上達しない。彼らが教えられるのは、ダブルスの試合での勝ち方のパターンだけである。
プロ野球選手も同様。あいつらから野球をとったら何か残るものはあるのか?
・・・・・・・・・・・・・
さて。
次は小説創作について書いておこう。
僕は大学3年から小説を書き出した。
もともと僕は医者になってバリバリ働こうとは思っていなかった。
医者なんて誰がやっても同じだし、医学という他人が作ってくれた物を覚えて、それを行うだけの十年一日の毎日の生活なんて僕にはとても耐えられなかった。
僕はもっと自分にしか出来ないものを自分の手で作り出したかった。
それで僕は小説を書き出したのである。
しかし僕は自分がどんな小説を書けるかわからなかった。
それで片っ端から読書した。
そして書き出した。
僕は何事でも、やると決めたら、絶対あきらめないでやり抜く性格である。
一作、完成させると最高の喜びである。
作家なんて小説を書くことしか考えていない。
なので、自分の感性、自分の経験、社会の出来事、魅力的な人との出会い、面白い人、読書、日常のささいな体験、などから、小説に出来るものには、何でも利用する。
小説家にとって書けなくなることは「死」なのである。
魅力的な人との出会い、や、面白い体験、があると、それをモデルに小説を書くことが出来るが、元々、僕は人と違った感性があるので、モデルが無くても小説は書ける。
僕は小学校を5回転校している。栄小学校→国立小児病院二ノ宮分院→栄小学校→金谷小学校→川奈臨海学園、である。
やはり子供の頃の体験は小説創作に役立った。
小説を書いて完成させているうちに、自分がどんな小説を書くのが向いているのかがわかってくるようになる。僕は恋愛小説、エロチックな小説、ユーモア小説、が多い。
大体、僕の小説は、告白できない男の恋愛小説が多い。
それは、僕の性格から来ている。僕は人生で一度も女に「つきあってと」と告白したことなどない。
僕はプロットなど考えて書かない。小説の大まかな輪郭が思いついたら書き出す。
AIアシスタントでの僕の小説の解説は一部、当たっているが、一部、全然はずれている。
なので「星空文庫」に出している僕の小説の簡単な紹介を自分で書いておく。
僕の作品は全て僕の感性に忠実なモノを書いている。
心にないような作品は書かない。し、そもそも書く気がしない。
だから作品は「僕」という人間の自己表現である。もちろん、作品はほとんどがフィクションである。登場人物をつくり出し、何かの出来事を起こし、ストーリーを作って作品を完成させる。
自分のことは、わかっているように誰でも思っているが、何もしないでいると、それは曖昧模糊とした感覚で終わってしまう。作品を書き上げると、自分というものが、はっきりとわかる。それが読者に受けるかどうかは、わからない。自分でこれはいい出来だと思っていても、他人がそれを評価してくれるとは限らない。その逆ももちろんある。月並みな作品だと思っていても、他人が高く評価してくれる作品もある。僕は小説は作者にとっても読者にとっても娯楽だと思っている。事実、小説は「娯楽」以外の何物だというのか?なので面白い作品を書こうと意識している。しかし、たとえば僕が書いた「桃太郎」などは娯楽というより、人間の「業」を真剣に書いたつもりだ。しかし読者には受けない。アルファポリスでは僕が書いた「完全なる飼育」という小説が僕の小説では1位になっているが、僕にとってはあの作品は軽い気持ちで書いた。しかし、だからといって、他人の評価が作品の価値の客観的評価でもないとも思っている。僕も他人の作品を読む時は、まずタイトルを見る。作品のタイトルが面白そうだと思えば、読んでみたいと思うし、タイトルがつまらなそうだと思うと、手にとらなくなることはある。そして僕はタイトルをつけるのが下手である。
それと熱心に宣伝するか、どうかも関わってくる。
プロ作家として認められるかどうかは、文学賞に応募して賞を取る、というのが普通の手段だ。しかし僕は、文学賞には応募しない。一次選考を通過して、最終候補作にまで上がっても、当選して雑誌に載らなくては意味がないと僕は思っている。その一作を書いただけで、「作家」という肩書きが出来る。しかし僕は肩書きなんていらない。もちろん文学賞を取れるものなら取りたい。その方が圧倒的に読んでくれる読者が増えるからだ。
本当の作家は何作、書いてきても、もう満足するということがない。なので作家は死ぬまで書き続ける。これは無理しての「義務感」からではなく、本当の作家は、「書いている時だけが生きている時」であり、書けなくなったら作家は「生ける屍」になってしまうからだ。
だから文学賞の募集があっても、そのコンセプトに合わせた、当選しそうな作品を書くより、そんなことに時間を費やすより、新たに思いついた、自分の書きたい小説を僕は書きたい。
人生は限られた時間で、その中で何をなしたか、が人間の全てだ。
僕は健康状態が悪いので、将来、いつまて生きられるかわからない不安にいつも、おびえている。なので僕は一年単位で生きている。年が明けると、「今年、精一杯生きよう。今年、精一杯、頑張って小説を書こう」としか思っていない。来年、生きられるという保障などないのだから。
「星空文庫」「note」「writening」に出している僕の小説の簡単な紹介を自分で書いておこう。
「星空文庫」はちょっと順番が違ってしまうのだが。
「1」
七夕の日の恋・・・幽霊との恋愛小説
ロリータ・・・中学生と医者の恋愛小説
桃太郎・・・「桃太郎」のパロディー小説。これは人間の業を書いた
少年とOL・・・大人の女性に対する憧れから書いた年の差ラブコメ
完全なる飼育・・・憧れの女教師を監禁する恋愛小説
ある歌手の一生・・・岡田有希子さんの一生を小説にした
コンビニ人間・古倉恵子・・・村田沙耶香さんの「コンビニ人間」のパロディー小説
一人よがりの少女・・・ユーモア小説
虫歯物語・・・ストーリーのあるラブコメ
歯科医のサディスト・・・ザッピー浅野さんをモデルにしたユーモア小説
「2」
男女入れ替わり物語・・・ユーモア小説
官能作家弟子入り奇譚・・・SМ小説
太陽の季節・・・男二人女二人の乱交小説
M嬢の物語・・・М女性とシャイな男の恋愛小説
理容店・・・女性に対する憧れの恋愛小説
佐助と春琴・・・谷崎潤一郎の「春琴抄」のパロディー恋愛小説
老人とテニスと二人の女・・・エロチック小説
下着売りの少女・・・ユーモア小説
不幸な妻の物語・・・NTR小説
小学校の同窓会・・・エロチック恋愛小説
「3」
ドイツ少女とユダヤ男・・・エロチック恋愛小説
秋田なまはげ物語・・・エロチック恋愛小説
監禁物語・・・千田祥子をモデルにした恋愛小説
ボクシング小説・・・スポーツ小説
カルヴァンの予定説・・・ユーモア小説
無名作家の一生・・・ユーモア小説
信心深い銀行強盗・・・ユーモア小説
孤独な女・・・エロチック恋愛小説
失楽園・・・アダムとイブの恋愛小説
沖縄バスガイド物語・・・アクション小説
「4」
マネーの虎・・・「マネーの虎」のパロディー小説
小人の靴屋・・・ユーモア小説
姉妹奴隷・・・エロチック小説
義母と義妹・・・父息子と母娘の恋愛小説
鬼ごっこ・・・エロチック恋愛小説
催眠術・・・エロチック恋愛小説
卍(まんじ)・・・エロチック恋愛小説
女教師・・・エロチック恋愛小説
医者と二人の女・・・エロチック恋愛小説
韓国セウォル号・・・死ぬ前の男女の恋愛小説
「5」
安謝・・・子供のエロチック恋愛小説
本音と建前・・・ユーモア小説
草食系男の恋愛・・・恋愛小説
棋士物語・・・恋愛小説
王女と道化師・・・恋愛小説
ボディーボードの女・・・年上の女性に恋する少年のラブコメ
忍とボッコ・・・子供の恋愛小説
スニーカー・・・プラトニック恋愛小説
パソコン物語・・・ユーモア小説
三人の夏・・・かわいいラブコメ
「6」
地獄変・・・ユーモア小説
女生徒・・・ユーモア小説
カチカチ山・・・「カチカチ山」のパロディー小説
少女と三人の男の子・・・子供たちのエロチック恋愛小説
シケンカントク・・・恋愛小説
砂浜の足跡・・・高校生の男女の恋愛小説
小児科医(短い)・・・女医と難病の男の子の恋愛小説
夏の思い出・・・小学5年生の女の子に恋するプラトニック恋愛小説
蜘蛛の巣にかかったアゲハ蝶・・・性愛と恋愛に葛藤するおとぎ話
青鬼の褌を洗う女・・・いじめられた子の現実逃避小説
「7」
岡本君とサチ子・・・結婚後の夫婦ゲンカ
高校教師・・・女子高生に恋してしまう教師のラブコメ
ある複雑な家族の話・・・バツイチの父息子とバツイチの母娘の恋愛小説
精神科クリニック・・・ユーモア小説
精神科医物語・・・女医とのラブコメ
イエス・キリスト物語・1話・・・イエスのパロディー小説
イエス・キリスト物語・2話・・・イエスのパロディー小説
イエス・キリスト物語・3話・・・イエスのパロディー小説
イエス・キリスト物語・4話・・・イエスのパロディー小説
イエス・キリスト物語・5話・・・イエスのパロディー小説
「8」
父となりて・・・バツイチの父息子とバツイチの母娘の恋愛小説
会社恋物語・・・エロチック恋愛小説
おでん・・・プラトニック恋愛小説
女と三人の少年・・・エロチック恋愛小説
マッサージ物語・・・エロチック恋愛小説
少林拳・・・格闘技観戦の小説
大磯ロングビーチ物語・・・医者と理容師の恋愛小説
杜子春・・・芥川龍之介の「杜子春」のパロディー小説
蜘蛛の糸・・・芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のパロディー小説
金色夜叉・・・「金色夜叉」のパロディー小説
「9」
嘆きの天使・・・障害者の少女に恋する少年のラブコメ
社長と秘書・・・NTR小説
小説家・東野圭吾・・・ユーモア小説
吾輩は猫である・・・安倍晋三の風刺小説
顔を変える薬・・・ホラー恋愛小説
ゴキブリ星人・・・どんでん返しのラブコメ
地獄の話・・・ユーモア小説
うらしま太郎・1・・・パロディー小説
うらしま太郎・2・・・パロディー小説
うらしま太郎・3・・・パロディー小説
「10」
うらしま太郎・4・・・パロディー小説
うらしま太郎・5・・・パロディー小説
うらしま太郎・6・・・パロディー小説
うらしま太郎・7・・・パロディー小説
うらしま太郎・8・・・パロディー小説
野田イクゼ・・・ユーモア小説
夏の一日・・・ユーモア小説
山椒太夫・・・「山椒太夫」のパロディー小説
蜜柑・・・少女に恋するプラトニック恋愛小説
本屋へ行く少年・・・悩む少年と優しい少女のラブコメ
「11」
銀河鉄道の夜・・・ロマンス小説
安保法案・・・政治風刺パロディー小説
山の中・・・エロチック恋愛小説
少年と二人の女・・・年上の女性とのラブコメ
たけくらべ・・・少年と少女のラブコメ
図書館・・・年上の女性とのラブコメ
ホテル・・・エロチック恋愛小説
信乃抄・・・かたき討ち恋愛小説
再婚・・・父息子と再婚した女のエロチック小説
愛子と鬼二・・・エロチック恋愛小説
「12」
花と蛇と哲也・・・エロチック恋愛小説
お鶴と亀吉・・・幽霊の女との恋愛小説
二人の悪童と京子・・・エロチック恋愛小説
妻を貸す話・・・NTR恋愛小説
孤独な少年・・・少女と告白できない少年のラブコメ
焼きリンゴ(医師国家試験小説)・・・告白できない恋愛小説
小児科医(長い)・・・女医と難病の少年のラブコメ
借金した女・・・エロチック小説
私の家に来る女・・・エロチック恋愛小説
エコノミストの女神・・・政治パロディー小説
「13」
指導医と研修医・・・女の指導医と男の研修医のラブコメ
愛子と純・・・子供の恋愛小説
ドコモショップ小説・・・年の差恋愛小説
武男と愛子・・・エロチック恋愛小説
少年と或る女・・・近親相姦の恋愛小説
秋子・・・エロチック小説
浜辺の物語・・・エロチック恋愛小説
孤独な男・・・恋愛小説
僕の女神さま・・・恋愛小説
小説・共謀罪・・・政治風刺パロディー小説
「14」
縄師・・・エロチック小説
白雪姫・・・ユーモア小説
シェルブールの雨傘・・・恋愛小説
星が落ちた話・・・ファンタジー小説
メンズエステ店物語・・・エロチック小説
川奈の保母さん・・・エロチック恋愛小説
告白小説・・・僕の本心を告白した恋愛小説
スポーツ上達小説・・・How to小説
日大フェアプレー物語・・・ユーモア小説
医者の心・・・医療小説
「15」
日蓮宗の女の子・・・宗教勧誘する女の話
浦島太郎・・・ユーモア小説
少女との競泳・・・ユーモア小説
真剣士H・・・ラブコメ
ネクラ・・・いじめ小説
転校生・・・ユーモア小説
祈りの日記・・・悩める少女の日記小説
織田信長・・・「織田信長」の語り小説
潮騒・・・孤独な女の一人旅の小説
テニス小説・・・ユーモア小説
「16」
中古車物語・・・医療小説
四面楚歌・・・ラブコメ
シェーン・・・ユーモア小説
真夏の死・・・老人と若い女の小説
初恋・・・ユーモア小説
老人の女神・・・ユーモア小説
2013日本シリーズ物語・・・野球小説
経済小説・・・経済小説
消費税10%増税物語・・・三島由紀夫のパロディー小説
ダルビッシュの肘・・・ユーモア小説
「17」
池の周り一周・・・年上の女性に恋する話
飯場の少女・・・可哀想な女性を救う話
夏をしのぶ少年・・・ロマンティック小説
心中・・・悲しい恋愛小説
小説家の憂鬱・・・ハワイ旅行紀
サルでもわかるパソコン・・・ユーモア小説
保母・・・エロチック小説
三島由紀夫・・・三島由紀夫のパロディー小説
女子中学生ロリコン・・・ロリコン小説
高校野球物語・・・野球小説
「18」
テレビの故障・・・ユーモア恋愛小説
新型コロナウイルス物語・・・ユーモア小説
皇位継承・・・ユーモア小説
ある名医・・・ユーモア小説
駅にて・・・ユーモア小説
ブレークニー弁護人・・・ユーモア風刺小説
複雑な彼・・・同情されるのを嫌う男の話
復讐の彼方に・・・ユーモア小説
羅生門・・・ユーモア小説
「19」
憲法改正・・・政治パロディー小説
うらしま太郎と桃太郎・・・ユーモア小説
イエスキリスト物語・第6話・・・イエスのパロディー小説
浅野浩二の性欲自分史・・・自分史
浅野浩二の自分史②・・・自分史
強迫神経症の男・・・ユーモア小説
駅での出会い・・・ユーモア小説
心境小説・・・感覚小説
倉橋敦司・・・ユーモア恋愛小説
タコ星人・・・ユーモア小説
ごはん島物語・・・ユーモア小説
給湯器・・・プラトニック恋愛小説
「20」
野球小説・・・野球小説
走れ上松・・・ラブコメ
ごはん島に来る女・・・年の差恋愛小説
からかい上手のエリート税理士の佐藤さん・・・エロチック恋愛小説
小説教室・ごはん学校・・・エロチック小説
協力出版物語・・・エロチック風刺小説
OLとおじさんの恋・・・年の差恋愛小説
コンタクト眼科医の恋・・・医師とスタッフのラブコメ
高校野球小説「頭脳的勝利」・・・野球小説
伯父の妻と甥の恋・・・エロチック恋愛小説
「21」
gooブログ殺人事件・・・ユーモア小説
光子と三人の少年・・・エロチック恋愛小説
住専問題「政治パロディー小説」・・・政治風刺小説
プラトニックセックス・飯島愛・・・飯島愛のエッセイ
女教師と硬派生徒・・・女教師と女に興味のない生徒のエロチック小説
東日本大震災・・・震災で悩む少女の小説
栄小学校の女の先生・・・母性愛に飢えている子供と教師の話
女税理士と男女二人の部下・・・エロチック小説
RIZIN・・・格闘技小説
妻を抱かない夫の物語・・・NTR小説
「22」
僕の人生・・・自分史
・・・・・・・・・・・
ブログにも、いくつか小説をアップしていて、それを加えれば、作品数はもっと多くなるが、あまり稚拙な作品はアップしない。
僕は体調が悪いので海外旅行は一週間パック旅行でハワイに行っただけ。
2010作以上も書いていて、多作と言われるのだろうけれど、僕はまだまだだとしか思えない。
小説を書かない人には多作と見えるのだろうが、僕は上しか見ない。
プロ作家では、もっと物凄い量、と作品数を書いている作家がたくさんいる。
僕は彼らと比較してしまうので、まだまだ自分なんか寡作だと思ってしまう。
しかし、量や作品数が多ければいいというものでもない。
大作家でも、全ての作品が傑作ではない。つまらない作品もある。
なので僕は僕のマイペースで死ぬまで書き続けるだけである。
いつ死んでも後悔しないように。
さてこの作品はこれで一応、完成とし健康を保ち、次の作品執筆、開始である。
小説家に休みなどない。
2026年1月22日(木)擱筆
僕の人生「自分史」