学園群星 #1「雨は止まずとも」
私、水瀬万友は雨が嫌いだ。
雨は人を棄てるのにうってつけだから。
「はぁ……最悪……」
ただでさえくせっ毛の髪がめちゃくちゃになるのも、服がなかなか乾かないのも理由の一つではある。
目下の理由としては、たった今妹たちのために借りてきた図書館の本を濡らしてしまいそうだから。
「天気予報だと降らないって言ったのに……」
忌々しい灰色の空を、睨み付けるように見上げた。
あの日も、あの日もあの日も、こんな嫌な雨だった。
『すぐ戻ってくるから』
母はそう言って二度と現れなかった。その日も雨だった。
『私を信じて』
そう言い残して、千尋は家を出ていった。その日も雨だった。
『私が守るからね』
そう約束したのに、百音は知らない人についていった。その日も雨だった。
止まない雨はないという言葉があるが、いつかは止むとしても、今が痛くて冷たくて、ぬかるんだ泥がいつまでも足にまとわり続ける。
晴れたと思っても、いずれまた雨が降る。
心の下の方に焼け付いた何かが、嫌なため息を引き出す。
「ねぇ、もしかして傘持ってないの?」
私は驚いて振り返った。
年齢も身長も同じぐらいで、でも私よりもすらっとしてて綺麗な女の子、優しそうな微笑みが印象的だった。
「良かったら、この傘あげる」
シンプルで可愛らしい傘だ。
「そ、そんな悪いですよ、ちょっと待てば止むと思います。それにあなたはどうするんですか」
「大丈夫、家近くだから一旦帰って傘とってくれば良いし」
「でも濡れちゃいますよ!」
「平気、私ちょっとだけ足速いから」
「ちょっと待っ……て……」
その人は私に傘を押し付けると、雨の中を駆け抜けていった。まさしく風のような人だった。
「……追いかけないと!」
相手の名前も知らない。このままだと傘を返すこともお礼をすることも出来なくなる。急いで傘を開いて走り出した。
「はぁっ……はぁっ……!」
ちょっとどころじゃない足の速さに振り切られて、立ち尽くした。
傘によって切り取られ、雨に覆い尽くされた世界では、前に進むべきか、戻るべきかも分からない。
とぼとぼ歩き出す。一旦図書館に戻ろう。あの人は図書館に来たばかりだったから、きっとまた図書館に戻ってくる。
たとえ今日会えなくても同じ図書館を使っているならきっとまた会えるはず。
あの人が今日借りるなら一週間通えば会う確率も高いだろう。
「はぁ……」
そんな情けない言い訳ばかり浮かぶことに腹が立つ。
知っている。私が見捨てられる理由の一つが、私が何もできないからだということを。
才能もないし、頭も悪い、要領も悪い、見捨てられて当然だ。
今日だって、そんなに雨が嫌いなら常に傘を持ち歩いていれば良かったのに。
「……だから、雨なんか嫌い」
少しだけ雨を許せる余地があるとしたら、泣いてもごまかせることだけ──。
「あっ! さっきの人!」
「えっ? わっ、さっきの人!」
「なーんだ、別に返さなくても良かったのに」
「そういうわけにはいかないじゃないですか」
その人は、新しい服に着替えて、家族のものだろう無骨な傘に変えていた。急いで拭いたみたいで、髪が少し乱れていた。
申し訳ないと同時に、ちょっとだけ可愛らしかった。
「改めて、晴れた日にちゃんと乾かして返しますから」
「分かった、それじゃ私はこれで……」
「まーだーでーすー」
「あはは、ごめんごめん、ちゃんと名乗らないとね、私は遊佐泉」
「私は万友、水瀬万友です」
図書館で泉さんが借りてくるのを待った後、二人で帰ることにした。
そうでもしないとすぐに逃げてしまいそうだったから。
泉さんは私と同い年で、朝霧高校の人だった。
私の通う桜木高校とは雲泥の差の進学校だ。思わず気後れする。
「万友ちゃんも、この辺の人?」
「はい、ちょっと歩いた先にある“みどりの家”っていう施設が、私のお家です」
泉さんは少し目を見開いて、そして伏せた。
「……ごめんなさい。私、無神経だったね」
「気にしないで下さい」
少し重い静寂が流れる。言わなければよかったのかもしれない。この暗い空気は私がなんとかしなければならない。
「……泉さんは、雨、好きですか?」
泉さんはゆっくりと口を開いた。
「どうだろう、あんまり好きではない、かな」
「……私は雨が嫌いです。決まって嫌なことばかり起きるから、いつも憂鬱になります」
「でも、今日は良いです、泉さんみたいな素敵な人に会えたから」
その顔を直視できなかったけれど、驚きと照れが混じってることはなんとなく感じ取れた。
「け、結構大胆なこと言うんだね」
「はい、そうでもしないと、泉さんはお礼も言わせてくれない人だと思ったので」
「もう十分お礼してもらった気分かも……」
「でも、どうして傘を貸してくれたんですか? そのまま見捨てたって誰も責めないですよね」
「理由が必要?」
「無いと言われるのもちょっと納得できないです」
泉さんはゆっくりと空を眺め、そこから言葉を選んでいるかのように考えていた。
「んー……強いていうなら、普通でありたいからかな」
「え?」
「だって、普通は困っている人がいれば助けるものでしょ」
「そして、助けられない人には何かしら理由がある。余裕がないとか、自信がないとか」
「私にとって普通じゃないっていうのはあまり良くない状態のことなの、だからそうならないようにしたいな、って感じかな」
「……なんというか、よくわからなかったです」
「あはは、私もよくわかってない」
その時の表情はどこか晴れやかで、どこか悲し気だった。
だから、こんな意地悪な質問をしてみたくなったのだと思う。
「泉さんにとって、私は普通ですか? それとも特別ですか?」
「特別な事情があるんだろうなってのは想像できるけど、少なくとも今話している万友ちゃんは、すごく普通の女の子だよ」
一切の逡巡もなく答えが返ってきたのは予想外で、今度は私の方が照れてしまった。
「えっと……なんというかその……ありがとうございます」
「どういたしまして」
「それじゃあ、私はこっちだから」
「後でまた連絡します、今度またお礼しますから!」
「もう、そこまでしなくて良いのに……」
連絡先の交換をしている間、泉さんはずっと照れていて、最初に会った時よりもずいぶんと可愛らしく見えた。
一人になって、傘から響く音で改めて雨が降っていたことを思い出した。
「万友おねーちゃんお帰りー!」
「みんなただいま、絵本借りてきたよ、後で読んであげるからちょっと待っててね」
「万友お姉ちゃん、雨、大丈夫でした?」
「うん。すっごく優しい人が傘を貸してくれたから」
「やさしい人ー? 飛鳥お姉ちゃんみたいな?」
「うん、それぐらい優しくて、普通の人」
妹たちの笑顔には、私の心を底から温めてくれる安心感がある。
かつてこの子達も雨の中にいて、今もまだその痛みは癒えていない。
だから私は、いつまでもこの子達に寄り添ってあげないといけない。
千尋や百音のように、見捨ててしまわないように。
止まない雨はないという言葉があるが、いつかは止むとしても、今が痛くて冷たくて、ぬかるんだ泥がいつまでも足にまとわり続ける。
それでも私は知っている。そんな時でも傘を差してくれる人がいることを。
学園群星 #1「雨は止まずとも」