シュレディンガーの僕
第22回坊っちゃん文学賞、落選作です
家なんか一歩たりとも出なくたって、生きていける世の中になった。パソコンでクリックさえすれば、食事だって、家電だって、なんだって、欲しいものは、直ぐに届く。風邪を引いても、症状をシステムに入力すれば、AIが必要な薬を調合してくれる。それでもダメな時は、部屋の奥の治療カプセルに入ってゆっくり休めばいい。そうすれば、病気も怪我も勝手に治っていく。
僕がこの家に籠ってから、何年経ったのだろう。家から出る必要性なんて、もう、ちっとも感じない。彩といえば棚に置かれたくまのぬいぐるみくらいしかない、そんな無機質な部屋だけど、パソコンさえ、イイやつがあれば、僕はそれでオーケーさ。
え、寂しくないかって。そりゃ、こんな所に本当にずっと一人きりでいたら、狂っちゃうだろうよ。でも、僕は一人じゃないから。パソコンの画面の向こうに僕を待ってくれている人が、ちゃんといるんだ。
僕の一日は、朝起きて、まずパソコンを立ち上げることから始まる。栄養食パンを片手に、ニュース配信で、昨日世界で起こったことなんかを調べる。世界は毎日平和だよ。手を丁寧に洗うアライグマが目撃されただとか、ネギそっくりの翡翠が見つかっただとか、そんな暢気なニュースばっかりだ。
それが終わったら、最近投稿した動画の再生数や、コメント、入金状況のチェックだね。あれ? 君は僕が働いていないとでも、思っていたのかい。心外だなあ。動画を作って、みんなに喜んでもらう。それが、僕の仕事だ。相手の顔は見えないけどさ、読みきれないくらいの沢山のコメントをもらうんだ。それから察するに、結構人気者なんだよ、僕。ずっと家の中にいたって、ちゃんと働いている。
午前中は、そうやって僕が僕の分析をしたり、前日に作っておいた動画を投稿したりするのに費やされる。昼ごはんをしっかり食べて、午後は動画の制作。勿論撮るだけじゃないよ。その動画の編集だって、結構面倒くさいんだ。晩ご飯を食べた後まで作業が続くことだって、珍しくない。あっという間に一日が終わっていく。
たまに早く動画が出来上がった日にはさ、生配信をするんだ。生配信はいいよ。リアルタイムでコメントが飛んで来るんだ。僕はそれで、ああ、僕は誰かに必要とされているんだって、実感するのさ。ほら。僕は一人じゃないだろ。
でもさ、昨日の配信でさ、嫌なことを言ってくるやつがいてさ。あ。アンチとか、そんなんじゃないよ。そもそも僕は、悪口を言われたって、そんなことは気にしない質だからね。
やつはね……、ハンドルネームは確か「視聴者A」だったと思うんだけど、視聴者Aは、こんな書き込みをしてきたんだ。
―君はさ、ずっと、外に出ていないんだろう。誰にも観測されていないのに、どうして自分が本当に生きているって、信じられるんだい?―
僕はそいつが何を言っているのか、初めはちっともわからなかった。変なコメントだなって、僕はその書き込みには触れず、そのまま配信を続けたよ。けれども、またしばらくして、もう一度やつのコメントが流れてきた。
―君はさ、この世界がフィクションで、本当の君は、ちょっとした夢を見ているだけだって、そうは思わないのかい?―
やっぱり僕は、何を言われているのかわからなかったよ。だけど、そのうちに僕のファンたちが騒ぎ始めた。
―視聴者Aは一体何を言っているの。私たちは、ずっと彼を応援しているのよ。彼は私たちに観測されているじゃない―
そんな書き込みでコメント欄が埋め尽くされた。さすがに僕もその件に触れないわけにはいかなくなって、こう言った。
「不思議なことを言う人もいるもんだね。僕はこんなにも沢山のファンに囲まれて暮らしているというのに、僕が既に死んでるっていうのかい? さ、この話はこれで終わりさ。もっと楽しい話を続けよう」
何か他の話題はないかって考えた。朝見たニュースのアライグマのこととか。可愛い生き物の話はみんな大好きだ。うん、それでいこう。そう決めた時、パソコンの画面の端に、また視聴者Aのコメントが映し出された。
―そのファンとやらが、実在しているって証拠はどこにあるんだい? 君は彼らと会ったこともないのだろう? 彼らが君の都合の良い妄想だって、考えたことはないのかい。真実は、君は誰にも観測されていないのさ。誰にも観測されていない君は、生きているとも死んでいるとも言えないはずだよ―
別に気にしなければ、それでいいような、どうでもいいコメントに違いない。僕はその日の配信をいつものように、自然な形でやり遂げた。
それなのに、どうしてだろう。配信を終えて暫くしてから、ゆっくりと回る毒のように、少しずつやつの言葉が引っかかるようになって、結局昨日はよく眠れなかった。
それから朝になって、急に僕は色んなことが気になりだした。よく考えてみたら、この家にはおかしなところがあるんだ。
2LDKのこの家には生きていくために必要なものが、全て揃っている。丁度いい大きさの部屋も、温かい湯を張れるバスルームも、ちょっとした調理ができるキッチンもある。
けれども、そういえば玄関がないんだ。今まで少しも必要のなかった場所だから、それがないなんて、考えたこともなかった。玄関がなければ、当然戸口もない。
僕は動物園のクマみたいに、家の中をぐるぐる歩き回って、玄関を探した。だけど、何もなかったよ。何周したって同じことだった。
でも、ネットで買った物は、きちんと必ずに届くんだ。注文した物は、いつも気がつくと、飾り物の暖炉の前に置いてある。丁度サンタさんがするみたいに。ということは、やっぱりここは外と繋がっているということだろう?
僕は思わず、暖炉の中に首を突っ込んで、煙突があるはずのところを覗き見た。闇が広がっているだけ。梯子もついていない。壁はツルツルとして、登ることを前提としていないのは、明らかだった。
僕はここに閉じ込められている?
いや。これは直感だけど、どうやら、この部屋は外にも世界があるということを想定しない部屋なんだと、そんな気がする。それならば、やっぱりこの世界は全て僕の妄想で、本当は僕は死んでいるんだろうか。
いいや、そんなことはない! 我思う故に我在り、だ。確かにここに僕は存在している、はずだ。はずなんだ。……急に、自信がなくなる。
と、その時、どうしてさっきまで気がつかなかったのか不思議なくらいに当たり前な、真実を知るための簡単な手段があったことを、僕は唐突に思い出す。
いつものパソコンの前に座る。慣れ親しんだ検索画面に、震える指で「世界 真実」と打ち込む。唾を飲み込む。
僕は勇気を出してエンターキーを押し込んだ。と、殆どそれと同時にページが立ち上がった。
そしてそこには、誠に残念なことに、僕も納得せざるを得ない、この世の悲しい事実が淡々と記されていた。
二XXX年、この星の地上は到底住むことのできない場所になったということ。人間は、概ね皆滅んだということ。間も無くその全てが滅ぶこと。止むなく、実験的に研究所の職員の息子一名を地下でコールドスリープさせ、二百年後に目覚めさせるようにしたこと。そして、その子の生活が困らぬよう、地下室の上に工場を立て、必要な物資を速やかに提供できるようにしたこと。必要に応じて、AIが彼とコミュニケーションをとること。これらの活動が滞りなく実施されるよう、全てのオペレーションをAIが担うこと……。
なるほど。死んでいたのは世界の方だった。僕は確かに生物学的には生きていた。寝て起きて食べて、働いて、それは嘘ではなかった。けれども、誰かと共に生きていると思っていた僕は、ただ虚空に向かって叫んでいるに過ぎなかった。そこにファン……僕を観測する者なんていない、無意味な活動だった。
そんな僕を本当に生きていると言ってもいいんだろうか。誰にも観測されない僕は、一体誰なんだ。
その時、ふと視線を感じて振り返る。棚の上のくまのぬいぐるみと目が合う。ついにこんな物の視線まで感じるなんて。ぬいぐるみにでもいいから、僕は誰かに見られたいってことかい? だけど、こいつはただのぬいぐるみなんだよ。
僕はむしゃくしゃしていた。それをしたのは殆ど八つ当たりに近かった。僕はぬいぐるみを手に取り、それを気持ちそのままに引き裂いた。
と、はらりと一枚、紙切れが、そのぬいぐるみの中から落ちてきた。僕はそれを拾い上げる。
―どうか、あなたの大変な人生が、最後まで幸せであることを―
僕は驚いた。詳しいことは何も思い出せない。けれども、僕は、この手紙の文字が母の字に違いないと確信していた。なぜそう思うのかと言われると、それは上手く言えないのだけれど、きっとこのぬいぐるみは、僕の幼き頃の思い出の品、そんな気がしてならない。
そうか。僕は少なくとも、かつては確かに観測されていたんだな。母に愛されていた。それが真実だった。遠い昔の話でも、僕はそこに生きていたんだ。
……そうか。それなら、これからも生きてやるしかないじゃないか。他に誰一人存在しないこの孤独な世界でも、どうやら僕は誰かに生かされているらしい。この手紙こそが僕という存在の証明さ。
僕は何も変わらず、これからも動画を作り続けることを心に決めた。誰も見てくれなくたっていいさ。僕が生きた証を、デジタルの海に流してやるんだ。
僕は回れ右して、いつものパソコンと向き合った。
あれ? ところでさ。一体僕は、誰に向かって語りかけていたんだろう。僕を観測する君は誰だい?
ああ。そうか。ここに誰もいないのならば、きっと君は、僕の中の僕なんだろう。それでもって、この世界のAIは全てを僕から学んでいる。そうであるなら、AIの思考もまた、僕と共にあるはずだ。つまり、僕に現実を突きつけた張本人、君こそが「視聴者A」っていうわけだ。
シュレディンガーの僕