春のなごり

 桜の雨が降りやまないでいる。
 寝ぼけ眼に飛び込んできた景色の中で、朝の光に照らされて薄桃色が輝いていた。
 きまぐれな春の嵐がいたずらにあの子を唆したのだろう。開花予想が例年よりも遅れて、せっかく実を結ぶような思いで綺麗に咲いたのに。心配でたまらなくなるのは、おそらく職業柄のせいだ。
 この季節になると店先に顔を覗かせる枝垂れ桜は、花びらを散らし続けていた。始めのほうはそれこそ見事なものだった。はらはらと表情を変え、一片また一片と音もなく落ちていくさまは、今年も本当に美しい。けれど眺めているうちに風が吹けば潰える瞬間を、たかが美しいの一言で容易に片付けてしまっていいのだろうか、とそう思った。違和感はじわじわと、胸の奥で虚しさになって広がっていく。それが桜に課された運命だと納得するのは簡単だ。でも。ならば。散り散りになった命は、最期に誰が看取ってやるというのか。
 考えるより先に、僕は小脇に抱えていた植え替え用の鉢を床に置いていた。早朝で頭がうまく回らずとも、次にやらなければならないことがある。店の突き当りに隠れている用具入れから、ほうきとちりとりを取り出す。それを手に店の外へ出てみると、シャッターを開けていたことでうっすら光が差し込んでいた店内よりも、世界は幾分も明るいことに気づかされる。麗らかな陽気が、まるで起き抜けまで見ていた夢の続きを描いているような、そんな浮足立った心地だった。
 既に桜の雨は止んでいた。風が止み、降り積もっていた薄桃色の花びらたちはいつの間にやらそのほとんどが舞い上がり、跡形もなく消えてしまっている。旅立った後は一体どこまで流れ着くのだろう。どうか春にさらわれてしまった命には、風に乗っていつか遠くで価値ある終わりを迎えてほしい。澄み渡る青空を仰ぎながら瞼をゆっくりと閉じ、心の中で小さく祈った。
 店に面して伸びる赤茶色のアスファルトの上には、行き場を失くした残滓がまだいくつか落ちていた。それらをほうきで掃いてかき集める。傷つけないように、壊さないように。時には中腰で屈みながら捻って体勢を変えつつ、傍にあったちりとりの中へと追い込んだ。
 まるで散らばった、パズルのピースを拾い集める感覚に似ている。ひとつひとつに意味があって、なくてはならないもの。欠けてしまうと、美しい絵が永遠に完成することはないのも分かっているからこそだった。もうこの絵を二度と同じように額縁には入れてやれないけど。残された欠片だけは、最期にしっかり飾ってやりたい。沸々と芽生えた思いは、嬉しいや楽しいなどとは正反対の深い慈悲で満ちていた。
 ひたすらに無心で手を動かし続ける。やがて頭の片隅で気にしていた時間さえ気にならなくなって、没入感が心身を包みこんでいく。
「桜は儚いな。儚すぎて、嫌になる」
 おかげで目の前の気配に気づかなかった。とりわけ普段から影が薄くもなければ、幽霊みたいに曖昧な存在でもない。むしろ日に日に当主としての貫禄も相まって、存在感は充分なはなずだが、少し迂闊だったか。
 驚きを隠せないまま、声の主の方へ顔を上げてみる。
 いつも凛々しい眉が今日はひどく歪んでいた。歯がゆさの滲む表情を見ると、この燻る心のざわつきに名前をつけてやれないのは、彼も同じなんだと思うので、やはり血は争えない。若葉色の着流しがよく似合っており、折れそうな細い腰には黒い帯が結んである。長い体躯にちょこんと添えられた拳ほどの輪郭。切れ長の目元にすっきりとした顔立ちが功を奏して、店の関係者のみならず常連客たちからも「若様」と持て囃される色男が、そこには静かに立っていた。
「若様。いたんですね」
「何だい、改めて。ものすごく気味が悪い。今日は雨かな」
「おあいにくさま。清々しいほどの春晴れです」
「知ってるさ。雲一つない、青空。春の夢も興ざめする目覚めのいい朝だ」
 肩をすくめながら冗談めいた一言が放たれ、ひらりと目の前を漂う。
 親しい間柄であろうと目上の人なので、仰々しく振る舞うことは割と常に意識していることだが、そういう時に限り彼はきまって、悪戯じみたにこやかさで毒を吐くのだった。
 あのね、敬意というものをだね、払っているわけですよ僕は。昔は真面目な話をしようと、二人で花札をやったこともある。結局は勝負に集中して、彼が議論を放棄したことで大した話にもならなかったのだけは、記憶の彼方にこびりついている。
 別に敬ってくれなくていいよ。
 どうしてお前相手に、距離を感じなきゃならないの。
 やめてくれよ、そういうの。
 余計、みじめになる。
 そちらがそうなら、こちらもそうはいかないからな。
 初めのうちは毒づくことは別に皮肉の延長線に過ぎず、聞き流せればそれでよかった。だが段々と、半狂乱でなりふりかまわず噛みつくことが多くなっていく様子を見ていると、その先々で待っている得体のしれない、畏怖や重圧に耐えうる自信がなかったのだろう、と今となっては妙に納得してしまう。
 祖父が死んでからというもの、一番近くで経営と実務の手伝いをしていた彼にとって、この家はいずれ自分のものになるというのは明確だった。だからこそ数年前は、自暴自棄もあったのか立ちはだかる壁から目を背け続け、まるで他人ごとのように自分の行く末を、心ここにあらずといった具合に俯瞰している彼がそこにはいたんだと思う。まあ。それも年月が折り重なればその分だけ、人の価値観や感覚を柔和に変えていったことで、何の足かせにもならなくなったとは思うけれど。
「ところで、さっきのあれって」
 饒舌な弁はさておき、あの言葉の真意を訊いてみたいと思い、僕は切り出した。
「……ああ、愛情の裏返しってやつかな。ほら、大切にしてるものや人ほど案外もろくてすぐに消えてしまったりするだろう? 私たち二人にとっての桜も、そういう特別な存在に思えてきてしまってね」
 そう言って桜の方に目配せをしつつ腕を組んで佇む姿に、なるほど、と自然に声が漏れていた。繊細な彼だからこそ言える細やかな物言いだ、とも思った。
 立場的なものもあって、普段から感情を押し殺して生きている人だった。一族の存続を任されて家のてっぺんに立つということは、それだけ難儀で気を使うことなのだと、ここ数年近くで見てきたからこそ理解している。だからこそ身内との、特に弟との気を使わなくていい場面というのは、さぞ彼にとって息がしやすく、言葉も流暢になりやすいのだろう。
 いつになく感情を吐露するこの人もまた、春の別れを予感して桜に会いに来たのだろうかと考える。だとすれば、僕たちは相変わらずよく似ている。花を生業とする家に生まれた者というのは、植物に対する勘がなかなか冴えているようだった。
「ロマンチストだね。じいちゃんとはえらい違いだ」
「確かに。お祖父様はもっとシニカルで、現実的な人だったから」
「そうそう。花とはきちんと一線を画すことを、ゆめゆめ忘れるなよっていつも言ってた」
 ほんの少し思い出話に花を咲かせていると、長時間屈んでいた代償で足がじんわり痺れてくる。落ちていたものを残らず回収したことを確認し、反動をつけて立ち上がってみる。すると思いがけず、目線の高さが合うことで気まずさを覚えた。歳の差はそこそこあるはずだが、身長はあまり大差がないらしい。
「まあ。毎年のことだからって折り合いをつける必要もないから、古宵(こよい)兄さんがそうやって思うこともたまにはいいんじゃない? 現に僕は寂しいし。だから一年に一度、こうやって弔うのが習慣になっただけで」
 慰め、と言えば聞こえがよかった。ゆるやかに投げやったその声を耳にすると、兄は急に押し黙る。見つめ合っていた目線も不意に逸らされてしまった。何か思うところが、あるのだろう。祖母に先立たれ、寂しさであっけなく逝ってしまった祖父のことを、桜の儚さに例えて考えたりしているのだろうか。それまでふたりの間で穏やかに、和やかに流れていた空気がわずかに冷たくなるのが分かった。
 桜に限らず、花は圧倒的に人間よりも儚い生涯を送っている。咲いて可憐に愛想を振りまいた後には、未練など微塵も感じさせず、足早にこの世を去っていく。呑気に構えていたら、呆けて見ていたら、あっという間にいなくなる。世の中の無常よりもさらに一瞬で、なのに蠱惑的に手招きする先に待っているのは、刹那の物悲しさと死しかないというのに。植物と向き合うことが増えてからは、相変わらずこういうささやかな瞬間の気持ちの整理が、互いにつけにくくなっていた。
万宵(まよい)は優しいな」
 絞り出すような声が相手から漏れる。伏せられたまつ毛の先は心なしかくたびれていた。青白い頬の骨がくっと上がっては、彼が穏やかな眼差しを向けて笑みをこぼす。優しすぎるのはどっちだか。僕は喉元まで出かかった一言を、大きく息を吸って一緒に飲み込んだ。その方が、彼が余計なことを考えなくていいと思ったから。
「これは多分、優しさなんかじゃないよ。祈りであり、救いではあるけどね」
 自分に言い聞かせるように丁寧に紡ぐ。その言葉に嘘はなかった。
 今を生きる数多の人が散り際を美しいと形容するならば、せめて自分たちみたいな仕事をしている人間だけは、その最期を寂しさや悲しさを込めて看取ってやればいいと思った。人の死と平等に、悼み葬る手段があってもいいんだと思う。形に残してやることで、生きた証をいつまでも大切に誰かが覚えていればいい。ただそれだけの話だ。
 心の中で踏ん切りがつき、先に戻る、と兄に一声かけて店の中へ帰った。さて、集めた花びらたちをどう彩ってやるべきか。携えた薄桃色のこんもり盛られた山を眺めながら、ぐるぐると思案する頭の中は慌てていた。とっさに右腕の時計に目をやる。かなりの時間が経っていることに気づき、途端に頭が痛くなる。またやってしまったのか、僕は。そんなことはどうでもよくて。一人反省会は今日の仕事が終わってからだ。鉢を植え替えてすべての花に水をやって、新種をディスプレイの先頭に置いて、店頭に飾るポップのデザインもできれば考えておきたい。思いつくだけでも途方もない業務の量に、開店まであと二時間を切っているという焦りが上乗せされてしまう。
 急げ急げと気忙しく店内を駆け回るこちらになど目もくれず、店先で立ち尽くす兄の姿を何度か見やって気にかけた。微動だにせず春の余韻を楽しんでいるのか、それとも深く物思いに耽っているのか。本当のところは広い背中だけ見ても分からなかったけれど、その視線は花の落ちきった桜の枝葉に向けられているようで、あの人なりに思うところが色々とあるのだろうと、言い知れぬ雰囲気をまとう後ろ姿を、ぼんやり見送ってそう思った。

春のなごり

春のなごり

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-01-20

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