恋の彼岸、愛の此岸

捕らえられているのか、囚われているのか…
恋に愛にあの老人に



ここのコーヒーショップは昼間でも少し薄暗い。温かな間接照明の中ひっそりと香ばしい溜め息をつく。
左手の小指に光る華奢な指環はオレンジ色にも似たピンクゴールドで、ティアラを模している。手をかざしてこの姿を愛で口元でゆっくりと拳を握り溜め息を吹きかけ、右手の中指の腹でそっとなぞる。すると、意識は指環をすり抜けてそれをくれた人物へと向かっていく。
あの人はどうやってこの贈り物を選んだのだろうか。私とそう歳の変わらないお孫さんに助言を求めたのか、あの人自身が何軒もショップを巡り選んだのか。私との付き合いを反対しているお孫さんが協力してくれたとは考え難いので、あの人自身の感性で選び抜いてくれたのだろう。店員は申し分ない笑顔で言うかもしれない。「お孫さんにですか」あの人はなんと答えるだろうか。そつのない微笑みで「はい」と答えるのかな。少し困ったような笑顔を浮かべて、けれどもしっかりと「いいえ、恋人に」と答えるのかな。どちらの答えも私の心を酷く重くさせる気がする。
ぎりりと苦々しい歯軋りを噛み潰して、絡まった心を解すべくまだ湯気がふわふわと立っているマグカップに手を伸ばす。残りのその香ばしくマイルドな液体を一息で飲み干すと目頭が熱くなった。
指環は元は拘束具だったと何かで読んだことがある。だとしたら、薬指で最もその意味を発揮するとすれば、小指を彩るピンキーリング。贈り物としたその選択はいかにもあの品の良い老人らしい気がして、再び私は盛大に歯軋りに耽る。涙腺を叱責する為に。


例えば「会いたい」と気ままにメールすればあの人は間違いなく、全ての予定に都合をつけて私に会う時間を作るだろう。そんな事が容易に想像出来るから、あの人の連絡手段の中にメールがない事に私は深く安堵する。
浮かんでは消えるような些細な、けれども狂暴で残酷な感情を気分に任せてあの人にぶつけずに済むから。不便だとは思わない。大抵次の約束をあの人は用意していたし、何より何処までも追いかけてくれる人だから、私は安心して逃げられる。
そんな事を考えながら、宇宙の星をイメージしたネイルで飾られた指で「今夜会える?」とメールを打ち送信する。もちろんあのひとに送ったのではない。あの人以外の男と会って、気軽な関係を楽しみたい。そうしなければ、心が潰されてしまいそう…一体何に?
左手の小指だけがずしりと重い。


私とあの老紳士という形容がしっくりくる男との出会いは別段ロマンティックでも運命的なものでもなかった。仕事場に程近いよく行くあのコーヒーショップのカウンター席。偶然、隣に座ったあの人の爪が綺麗に手入れされているのが職業柄目に付いて、立ち昇る湯気越しにぼーっと見ていたら視線がぶつかってしまった。
「爪、綺麗ですね」
言い訳みたいにならないように、薄く笑って言ったら
「あぁ、これかい?孫がやってくれたんだよ」
優しく笑って男は答えた。男もこれから仕事なのか、あるいは仕事の途中なのかスーツ姿だった。一目で仕立てが良いと解る明るい紺にピンストライプのスーツに白い光沢のあるワイシャツ、落ち着いた紫と茶色のレジメンタルのネクタイ。品の良いコーディネート。
「初めて爪なんか磨いたけど、気も引き締まっていいもんだ」
眉をくっと上げて続けた。
あぁ、表情豊かな人だなって思いながらちょっと挑発的な男が喜びそうな顔をして言う。はたして、この老人も喜ぶのかは解らないけど。
「じゃあ、今度お店に来て?私がしてあげる」
鞄から名刺を取り出し男に向け、すっとカウンターテーブルに差し出した。男は一瞬きょとんとして、それから名刺に視線を落とす。少し太い指で名刺を拾い上げ、女の名前を口にする。
「神無月 摩耶、さん?」
「ええ、少し変わった名字でしょ?それでカミナヅキって読むの」
「そうか、ネイリストさんか」
「お店、このすぐ近くなの、裏に地図もあるわ」
ゆっくり名刺を裏返し、じっと見た後で柔らかく笑って
「あぁ、ここなら解るよ。ありがとう」
目の高さで名刺をひらひらさせて、その仕立ての良いスーツの内ポケットから取り出した名刺入れにしまった。そして、そこから別の一枚を抜き出して女と同じようにカウンターテーブルに滑らせた。
「私の名刺も渡しておくよ」
男が差し出した名刺には聞き覚えのある企業名と会長という肩書き、そして男の名前があった。男がしたように摩耶も男の名前を読み上げようとした。
「渡邊…」
下の名前を読めずに詰まって、覗き込むように男の方を見ると気さくな様子で
「壬、ジンって読むんだ」
カップを口につけながら笑った。
「渡邊壬さん」
独り言のように反芻してもう一度その名刺を見るとローマ字でふり仮名がふってあって摩耶は恥ずかしくなったが男は気にしていないようだった。彼が気にしているのは時間のようで腕時計に視線を落として
「せっかく美人さんと知り合えて嬉しいんだけど、もう行かないと…今度お店に行くよ」
急いでいるらしいのに穏やかに言い残して、カップを持ってあっという間に店外へ行ってしまった。

笑うと目尻に刻まれる深い皺

適当な男を呼び出して食事をしお酒を呑み、言葉をどれだけ交わしても結局はこの重苦しい気分は晴れない。それどころか後悔と併さってより一層、女の胸を押し潰し首を絞め左手小指のその華奢な拘束具は重みを増してゆく。
それでも摩耶はその苦しみから逃れようと気軽な男に会い続けた。その度に苦しみは膨れ上がった。そこで壬と向き合う事がどうしても出来なかった。そして、自分自身と向き合う事が出来なかった。


まだそう短くない煙草をベッドサイドの灰皿にひねり潰す男の仕草を部屋のあちこちにある鏡越しに見るともなしに見ていた。男は何か言っているが、摩耶は深い思考の底にいたので聞いていなかったし男の方も摩耶が聞いている事を特に求めてはいなかった。ただ男がその白い指に輝く指環を誉めた瞬間、摩耶は一気に現実に引き戻され心臓を毟り取られる思いだった。
本当の事も適当な嘘も吐けずに慌てたようにベッドから出て床のそこここに散らばった下着や服を身につけた。男は訳が解らず裸のままベッドから出、摩耶の腕を引き「どうしたんだよ」と言った。
「放して、帰る」
冷たく言い捨て部屋を出ようとした摩耶を男は「待てよ、いきなりなんだよ」と引き戻し、摩耶の抵抗は一層強くなり揉み合う内に男の拳は摩耶の眼窩に激しくぶつかった。男の拳の骨とその指にはめていたごついシルバーの指環は女の顔に痣を作るには充分過ぎる程硬かった。
痛みよりも衝撃に驚き呆然とする摩耶に男は焦ったように
「ふざけるなよ、誘ったのはそっちだろ」
と吐き捨て、手早く服を着、足早にその場を去って行った。如何わしく安っぽいその部屋に女を独り残して。
摩耶は崩れるようにその場に座り込み黒く艶やかな髪を掻き上げ握り締めながら、自らを嘲笑った。その頬には涙が伝い声はか細く震えていた。



「本当に来てくれるとは思わなかった」
上品な椋材のテーブルのあちらとこちらで向かい合って甘皮の処理を施しながら、名刺を交わしたあの日と同じように穏やかな老紳士然とした壬に言う。あの日から数週間が経っていた。初対面の人に営業をかけたのは初めてだったが特に執着があった訳ではなく、なんとなく来ないだろうと思っていた。
「社交辞令は言わない質なんでね」
悪戯っぽく笑った壬の目尻に出来た皺を盗み見しつつ十本の指の爪の甘皮を丁寧に処理していく。
「仕事の出来る人の言葉って感じね」
「そうかい?そうだといきんだけどねぇ」
名刺にあった肩書きについてはなんとなく触れなかった。それを相手も望んでいる気がした。少しの沈黙の後に言った。
「爪、大きくて綺麗ね」
営業トークでもお世辞でもなかった。本当に、半ば見惚れながらそう思ったのだ。
「そうかい?」
なんでもないように壬は相槌を打つ。
「磨き甲斐があるわ」
爪だけに集中しているふうに見えるように、寧ろ本当に爪だけに集中するように。
「じゃあ、念入りに頼むよ。今日はこの後家族で食事なんだ」
「例の爪を磨いてくれたお孫さんも来るの?」
やっと息が出来た気がした。顔を上げるとあの優しい笑顔があった。
「ああ、せっかくだからお店でしてもらったって自慢してくるよ」
「ふふ、お店の宣伝頼むわ」
釣られて自分も笑顔になる。

目尻の皺。


約束の21時ちょうどにインターフォンが鳴った。今着いたところという顔で映っているけど、10分程前に着いていて時間になるまで待っていただろう事が摩耶には解る。恋人になってもどこまでも律儀な男なのだ。
盛大な溜め息を吐きながら重たい腕を上げてアパートのドアの鍵とチェーンを外す。
嗚呼、このままぐずぐずと蹲っていたい。

ドアを開けて摩耶の顔を見た途端、壬は目を剥いて驚き小さく息を飲んで哀しそうな表情をした。そして、何も言わずにすっと部屋に入り冷凍庫から取り出した保冷剤を自分のポケットから取り出したダンヒルのハンカチにくるんで、まだ玄関に取り残されたままの摩耶にそっと差し出してくれた。
「冷やした方がいいよ。痣になってる」
声が喉に張り付いて出てこなかった。無言で受け取って眼窩を冷やす。壬の薄いトワレの香りが鼻腔をくすぐる。
アリュールオムの香りが鼻腔を心を締めつけるのか、目の前の男の優しさが胸に刺さるのか…きっと両方だ。
眉をひそめてじっと見ている。時々、人差し指で鼻梁を辿りながらそれでも目線を摩耶から外さない。
叱られた子供のように摩耶は萎縮して居心地が悪くなる。
「今日は君はお酒を控えた方がいいよ、きっと痣が疼く。持って来たシャンパンは冷やしておくよ。今度、一緒に飲もう」
いつもの穏やかな口ぶりと流れるような手つきで、今日の為に買って来てくれたらしいヴーヴクリコロゼの上品且つ可愛らしいボトルを冷蔵庫に入れる。
「温かいお茶でも淹れようか」
半ば独り言のように返事など待たずにケトルに水を入れIHの電源を入れる。不自然なくらいこちらを見ない。
その空気が、その気遣いがどうしても耐えられなくなって口を開く。
「どうして何も訊かないの」
泣きたいような、それでいて優しさの毛布が毛羽立って感じ苛々するような。
「こんな痣が顔にあるのに、どうしてあなたは何も訊かないの」
語気が強く荒くなるのを止められない。
摩耶の顔には左目の下辺りに大きな痣が出来ている。まだ出来たてと一目で解るような、中心が赤く外に向かって紫に広がっている上に腫れて押し上げられ目が潰れている。痛みもある、鏡も見た。どうしてこんな有様なのに、目の前の底抜けに優しい男は、壬は、何も尋ねないんだろうと手前勝手な怒りが込み上げ抑えられない。
「大丈夫?痛み止めを飲むかい」
少しの沈黙の後、困った顔をして心配する壬に湧き上がった怒りをそのまま投げつける。一秒もその醜い感情を自分の心に留めておけなかった。冷静にはいられない。
「そういう事を言ってるんじゃない」
怒りと共にハンカチにくるまれた保冷剤を壬に向って投げつける。保冷剤と共に壬の優しさを壬に向って投げつける。呆れたように息を吐いて保冷剤を拾いあげ、その手で眼窩に当てがってやりながら真剣な瞳で摩耶を見つめた。
「とりあえず冷やして、お茶でも飲んで落ち着こう。それをらゆっくり話をしよう。もうお湯が沸くから」
すぐに振り向いてコンロへと行ってしまった。手際よくお茶を淹れる姿をぼんやり見ていた。こんな時でさえ、壬はカップに一度お湯を注ぎ温める事を怠らない。
男が気を鎮める為にそんな事をしているなど女が気付く筈もなかった。
レディーグレイの香りが湯気と共に立ち昇る。小さなダイニングテーブルに2つのカップを並べ、目だけで摩耶に座るように促す。抗う理由もなく大人しく椅子に座りカップに手を伸ばす。
湯気が固く絡まった心をほぐしていくのが解る。
「で、その痣はどうしたんだい」
顎の下で手を組み、恐ろしく優しい声で壬が訊く。でも、目は怖いくらい真摯に摩耶の瞳を射抜く。
解かれた心は防御すら解いてしまいありのままを壬に話してしまう。ある程度、事態を予測していた壬の表情が少しずつ確実に曇っていったがそんな事お構いなしに摩耶は語る。まるで何かから解放されたいかのように。



「あんた、馬鹿?」
猥雑な居酒屋で豪快に生ビール大ジョッキを飲み下した梗子が思いっきり眉をひそめて吐き捨てた。
梗子は摩耶が勤めるネイルサロンのオーナーで、元々顧客だった摩耶を従業員の中でも取り分け可愛がってくれている。今夜も閉店後の掃除中に「摩耶、この後空いてる」とジョッキを傾けるジェスチャーをした。棚に綺麗に並べられたマニキュアの瓶を3つまとめて持ち上げ、棚をクロスで拭きながら「オッケーでーす」と答えた。プロフェッショナルな梗子は掃除の手抜きを許さない。床のモップがけや上品な椋材のテーブル拭きは当然、店内のディスプレイの棚も毎日欠かさず拭く。美を提供する場所は常に美しくなければならないというのが彼女の信条だ。
仕事終わりでよく行く居酒屋でメニューも見ずに注文を早々と済まし、「で、男でもできたの」と突然切り出された。驚きのあまり絶句していると「最近苛々してるでしょ、摩耶ちゃん。仕事に支障はないしその辺はオーナーとしては心配してないけど、個人的に興味があるのよね」歯を見せて美しく笑う。
「なんで苛々してるイコール男ができたなんですか」
ちょうどそこへ店員がビールとタコわさを運んで来たので軽く会釈する。形だけグラスを合わせお互い呑み始める。しばしの無言。摩耶はビールではなく日本酒なので、正確にはジョッキとお猪口の乾杯。喉を鳴らしてビールをジョッキ半分くらい飲み干して一息つきようやく梗子は口を開き出した。
「んー、だって摩耶ちゃんの性格だと他人に生活侵されるとストレス感じちゃうでしょ」
「なるほど」
「で、どんな人よ」
タコわさをつまやながら会話を重ねる。
「品のいい老紳士って感じですね。一度お店に来たことありますよ」
手酌しつつ答える。お酒を注ぎ合うなんて美味しいお酒の楽しみ方じゃない。手酌に限ると常々摩耶は思っている。
「あー、新規で摩耶ちゃん指名してきた人?いいじゃん、色んな男にちやほやされるのもいいけど、一人の男に優しくはれるのもいいもんよ」
言葉に反応して動きが止まってしまった。それから言葉を探し出すようにゆっくりと自分の想いを言語化した。
「優し過ぎるんです…なんなに優しくされたら、どうしていいのか解らなくなる」
指輪が光る左手で前髪を握り、ぎりっと奥歯を鳴らす。梗子は何も言わない。じっとこちらを見て次の言葉を促している。
「実は…」
と摩耶は語り出す、あの日の醜悪を。

「あんた馬鹿」
豪快に生ビール大ジョッキを飲み下した梗子が思い切り眉をひそめ吐き捨てる。気付けばそれは2杯目らしく空のジョッキがテーブルの隅に鎮座している。どうやら摩耶が訥々と話している間にオーダーしたらしい。
「そんなの本当の事話してどうすんのよ。黙っとけばいいのよ、適当な嘘吐くとかさぁ」
「あの人に嘘とか、吐けない…」
盛大な溜め息を吐き出しいかにも呆れた顔をした梗子は諭すように話し始めた。
「そんなふうに思える相手なら大事にしな、他の男と遊んでなんかいないでさ。愛を受け取って戸惑うなら、相手と同じように優しくしてあげればいいじゃない。ま、でも、摩耶ちゃんの場合、思い切りその人に甘えるのがいい薬になるよ、お互いにさ」

思い切り甘える……。


梗子と呑んだ数日後、約束の時間の5分前に約束の場所に行ったら既に壬はそこに居た。摩耶の姿を捉えると瞳が嬉しそうに潤む。その光景だけで摩耶の心は千切れそうになる。切なさを噛み潰して笑顔を作り前髪を整える仕草をして「お待たせ」と言う。次の言葉は考えなくても解る。「いいや、私も今来たことろだよ」嘘つきね、少なくとも5分は待っていたくせに。その言葉が事実がまた摩耶の心を千切っていく。
壬が摩耶を連れて行くお店はいつも申し分ない。申し分なく上品で申し分なく美味しくて、申し分なくサービスが行き届いている。そんなところにも壬のそつのなさが窺えた。
食事の間中、上の空で摩耶は甘えるという事について考えていた。そして、そんな様子はもちろん壬はすぐに気が付いていたが、上の空の摩耶は壬が気付いている事にもちろん気付いていなかった。


甘えるという事について想いを馳せている内に壬との付き合いを思い出していった。

壬が摩耶の勤めるネイルサロンに訪れてから数日経ったある日、また偶然初めて会ったコーヒーショップで再会した。レジ前の列で壬が摩耶に気付き、後から来た摩耶の分も注文してご馳走してくれたのだった。その流れで一緒の席につき、世間話をした。すると、壬が「よかったら誰かと行っておいで」とアクアリウムのチケットを2枚くれた。少し考えた末、「1枚でいいわ」と差し出された2枚のチケットから1枚だけ抜き取った。何か言おうとした壬を遮って「1枚でいいから、一緒に行って」惑わせるみたいに微笑むと一瞬虚を衝かれた表情をしたけれどすぐに人懐っこく笑い「若いお嬢さんに警戒されないというのは年寄りの特権だね」と残された1枚のチケットを財布に仕舞った。
「そんなんじゃないのに」
その後白い壬の肌がほんのり赤く染まっていたが目の上で揃えた前髪に自らの目を隠すようにうつむいていた摩耶は当然、知らない。

そんなふうに2人は始まったが、食事や美術館、公園などいわゆるデートには誘ってくれたが、壬は手を出してこなかった。その事は摩耶を少なからず苛つかせた。
デートを重ね、摩耶の部屋に上がった何度目かの夜、堪え兼ね
「しようよ」
これ以上ない程シンプルに壬を誘った。壬はというと、哀しそうな表情で摩耶を見てそれからマグカップの中のコーヒーに視線を移した。
「ね、なんでしないの」
もはや沈黙すら堪えられなくなっていた。もう冷えきったマグカップを両手で握りしめ唇を噛んだ。愛し合わなくとも男女は寝るのに、何故壬は自分と寝たがらないのか摩耶には訳が解らなかった。
「私でいいのかい」
遠慮がちに言う壬が可愛らしかった。
「私、壬としたい」
真っ直ぐ壬を見つめて伝えると壬は益々、小さく萎縮していった。
「本当にいいのかい」
「いいんだってば」
「私じゃ君を満足させられないかもしれない」
その言葉でようやく壬が二の足を踏む理由のひとつが解った。そんな事を気にしていたのか、この人は。女はそんな事気にしちゃいないのに、重きを置いているのはそんな事じゃないのに。
「それでもいいの、壬に触りたいし触って欲しいの」
目を見て優しく言った。煮え切らない壬を無理矢理ロールカーテンで仕切られたベッドルームに連れて行った。
「本当にいいのかい」
笑って答えていたが、その質問が重ねられる度に苛々してきた。そしてそれ以上このうんざりするような質問を重ねさせぬように、その口を強引に塞いだ。
困り顔の老人に真っ赤なルージュの痕跡
その光景は摩耶にはひどくセクシーなものに思えて摩耶を興奮させた。男の額にまぶたに鼻梁にそのたるんだ頬に、顎に皮の薄い首筋に女が唇を這わせていくと、男は次第に遠慮がちに女の髪に頬に耳の裏に、引き締まった腰に指を這わせてきた。

バスタブの湯気に包まれたバスルームで壬は摩耶の頭のてっぺんから足の先まで丁寧に洗った。その慈しむような優しい手つき。摩耶は男にそんなふうに扱われたのは初めてだった。壬はそのふやけた皺々の手で泡で摩耶を優しく優しく包んでいく。子宮の辺りがじんわり温かくなるような不思議な気持ちになった。
バスルームから出ても壬は摩耶を大切に大切に扱った。今度はドライヤーで摩耶の腰まである長い黒髪を乾かした。
「ふ…孫が子供の頃にしてあげたのを思い出すよ」
幸せそうに微笑んだ壬を鏡越しに摩耶は見ていた。
「でも私は孫じゃないわ」
鏡の中で目が合う、視線が絡み合う、鏡が溶けてしまいそうな錯覚。
「あぁ、そうだね。その通りだ。ただ私がこうしていたいんだよ」
目を逸らせない。けれどもこれ以上見つめてもいられない。静かにまぶたを閉じまつげが影を落とす。
「熱いわ」
そう言うのがやっとだった。
「うん、下手くそでごめんね」
行為の後だというのにそれでも怖々と自分に触れる壬の太い指がたまらなく愛おしかった。でもそれを伝える術を摩耶は持っていなかった。

「今夜は疲れてるみたいだし、もう帰ろうか」
壬の言葉で想い出の波から引き揚げられた。
「え、大丈夫よ。家でこの間のシャンパン飲もうよ」
帰らせたくない摩耶は焦って返した。
「でも、今日君疲れてるみたいだし、無理しなくていいんだよ」
どこまでも優しく壬が言うと遣る瀬無くなる。
「ねぇ、泊まっていって?」
思い切って言った。甘える為に。
「ねぇ、またお風呂で全身洗って?」
「また髪の毛ドライヤーで乾かして?」
断られるのが怖くて質問を重ねた。恐る恐る壬の方を見ると笑っていた。いつもの穏やかな微笑みではなく、さも可笑しそうに。
食事の間中そんな事を真剣に思案していたのか、この娘はと愛しくなって壬は思わず笑が止まらなかった。


「私ね、黒ヒョウになりたかったんだ」
ドライヤーに遮られないように大きめの声で鏡越しの壬を見つめながら言ったら「黒ヒョウ?」と訊き返してきたので摩耶は説明した、小学校の教材のライオンの代わりに吠えた渋い黒ヒョウについて。
「でも君は確かにどこか黒ヒョウっぽいよ、スマートな感じとか。私は動物に喩えると何かな?」
無邪気に壬が尋ねるので真剣に考えた。
「…うーん、仏像」
「仏像⁉」
「うん、慈悲深い目をしていてどこか色っぽいから仏像。動物じゃないけど」
「色んな意味でありがたいな、仏像みたいだなんて」
ひっそりと笑う。
「仏像と言えばね、私昔から金剛力士像がなんか好きだったなぁ、教科書でしか見たことないんだけどさ」
少し恥ずかしそうに付け足した摩耶が壬には微笑ましかった。
「じゃあ、見に行くかい?今度、一緒に。旅行がてら」
「いいの?」
「あぁ、大丈夫だよ。ただ、日本中にあるけど何処の金剛力士像を見に行くかい」



空港へと向かうタクシーの中、会話を回しているのは最年少の6歳の都だった。
そもそもどうして、ふたりの旅行にひ孫である都がついて来たのか、話は数週間程遡る。


律儀な壬は家族に摩耶と今度旅行に行く旨を報告した。長男の家に集まった夜の事だった。付き合い自体反対している家族が、わざわざ旅行の報告をされて黙っている訳がなかった。そんな女は財産目当てだ今すぐ別れろだとか、年甲斐もなく恥ずかしいだとか、誰とでと寝る女だとか…他にも6歳の少女には聞かせたくない内容を壬の子供や孫たちは口にした。壬は悲しそうな顔をして黙って聞き入れていた
別室でソファに座り本を読んでいる都の横に、疲れたように深い溜め息と共に深く座り込んだ。
「黙って行けばいいのに」
都は疲れた顔の老人を労わった。6歳のひ孫である都だけが壬と摩耶の関係に賛成していた。
「そういう訳にもいかないよ。家族にも納得して欲しいんだよ。隠れて付き合うような真似は彼女にも失礼だろう」
「彼女のこと愛してる?」
息を飲む真剣さでじっと壬の目を都は見てる。
「ああ、愛してるよ」
都の痛い程の眼差しを優しい微笑みで包み込んで壬は答える。
「それで私たちの関係は変わる?」
くしゃくしゃと子供ならではの柔らかい髪を乱暴なようで実に優しく撫でながら壬は言う。
「いいや、何も変わらないよ。君達も大事な家族だよ」
都は年相応に破顔する。
「安心した。じゃあ、おじいちゃんの好きにすればいいと思う。でも、みんなを説得するの大変ね、おじいちゃん」
「君はずいぶんと物分りがいいね、一体誰に似たんだい」
「おじいちゃんよ」
先程とは一変した大人びた顔の都に驚きを隠せない。
「おまけに口も達者だ」
「そこはママ似なの」
更に大人の微笑みでさらりと言って視線を本に戻した。文字を追いながらなんて事ないように
「その旅行、私も行っちゃだめ?」
「え?」
「会ってみたいな、その人に」


「今度ネイルしてあげるよ」
「本当⁉ママのをこっそり塗ったことはあるけどプロにしてもらうよ初めて!」
都と摩耶が打ち解けている事に壬は深く安堵した。都は口は達者だし年よりも大人っぽい子なので心配していないが、問題は摩耶の方だった。子供が苦手と直接聞いた事はないが接する機会もあまりないだろうし、子供以前に人間が苦手に見えた。社交性がない訳ではないが不器用で傷付くのを怖れて水から棘を出しているように壬には見えた。しかし、壬の心配をよそに2人は女同士仲良く話している。その様子を眩しそうに見つめていた。

羽田から広島へそこからフェリーで宮島へ。あの、朱塗りの美しい鳥居が象徴の神社へ3人は向かった。今日は宮島のホテルに一泊し、明日尾道の西國寺へ行く予定だ。
道中すっかり打ち解けたらしい都と摩耶はしきりにお喋りに夢中になり、3人で居る事に何の不自然さもそれぞれ感じていなかった。
口コミで人気の宮島のホテルで部屋についている露天風呂には都と摩耶2人で入った。自分を子供扱いしない摩耶を都は快く思っていた。子供は大人が思っているより色んな事が解るし考えているのだ。大人は子供を見くびっている、常々都はそんなふうに思っていたが、摩耶にはそういったところがなく友達のような気軽さで自分と接してくれた。
色々な取り留めのない話を交わす内、勘の良い都は気付いてしまった。摩耶には自分のような幸福な子供時代がなかった事に。それで、腑に落ちた。本当に何かがすとんと自分の中に落ちるのが解った。
湯船の淵に肘を掛け上半身を乗り出している白い、所々骨の浮いた細い身体をした摩耶に静かに言った。言ってあげないと、と思った。誰の為に、おじいちゃんの為?彼女の為に?

「おじいちゃんはあなたに家族の温かさを教えてあげたいんだよ」



「おじいちゃんはあなたに家族の温かさを教えてあげたいんだよ」

煙る湯気の向こうの聡明な少女の言葉がやけに響いて耳に残る。

あの荘厳な朱塗りの鳥居やあんなに見たかった筈の金剛力士像よりも一緒に露天風呂に入った時に都に言われた言葉が摩耶の思考を心を占めてしまった。
思ってもみない言葉に衝撃を受け息が胸が詰まるようだった。何故、この老人はこんなにも嫌になる程底抜けに優しいのだろうと思うことはよくあった。けれどもその答えに行き着いた事も、何故一緒に居るのだろうと考えた事もなかった。考えていなかったのに突然答えを突き付けられて戸惑うばかりだった。
家族の温かさと言う物とは確かに摩耶は無縁だった。両親に愛される事もなかったが、愛されたいと願った事もなかった。寧ろ積極的に放棄して来たかもしれない。きっと最初は防衛手段。他者からの愛を受け取らないという選択をして、もうずっと受け取らずに逃げ出してきた。
そして今、そんな摩耶に家族の温かさを教えたいと言う男が現れた。一体どうすれば良いのだろう。


最後の乗り換えを済ませた帰りの新幹線の中、名古屋を出発して程なく都は寝息を立て始めた。堪らず摩耶は壬に訊いてしまう。
「あのね、昨日、都ちゃんが壬は私に家族の温かさを教えてあげたいんだって言ってたんだけど、本当なの?」
いっそ違うと答えてくれたらどんなに楽だろう。懇願するような痛切な面持ちで壬をじっと見ている。
張り詰めた空気を和ます持ち前の穏やかさで息を吐くように壬は笑う。
「ずっと考え込んでいると思ったらそんな事を考えていたのかい。確かにそういうふうに君を想ってるよ。でもそれを君が気にする必要はない。ただ、君が嫌になるまで私の傍に居ておくれ」
そう言って指と指を絡め、手を握り一度その指先に力を込めてから、ふっと力を緩めて壬は摩耶の手の甲に口付ける。
口付けられた手の甲も絡めた指先も脳みそも甘く痺れる。



「紅茶とコーヒーどっちがいい?」
あの旅行から一週間程経った金曜日の夕方、摩耶の部屋に都が遊びに来ていた。摩耶の公休日に都が学校が終わってからマニキュアを塗ってもらいに来たのだった。たまたま金曜日が摩耶の公休日であったが、金曜日に塗れば少なくとも土・日の2日間は落とさなくても済むと摩耶が提案したのだ。
「紅茶かな」
ラグの上に並べられたマニキュアの瓶を物色しながら答えた。こういう時に露骨にジュースだとか子供っぽい飲み物を勧めてない所がまた好印象だった。
「どう?決まった?どの色にする?」
キッチンから戻って来た摩耶は器用に簪ひとつで髪をまとめながら尋ねた。エッフェル塔のような色の編み上げられた棒の先にぶら下がるように飾りが付いているその簪に都は見惚れた。否、髪をまとめる仕草自体にかもしれない。
「この色はさり気なくて可愛いよ、爪の色が綺麗に見えるし。何本かの指にだけシールで飾りつけるのもいいと思う。あとは、こっちの色とこっちの色を交互にベースにしたら単色でもポップで可愛いよ。綺麗系と可愛い系どっちがいい?」
すらすらと2パターンの説明をして勧めてくれたので、ずらりと並んだ瓶からピックアップするよりずっとイメージが広がり選び易かった。やはりプロなのだなぁと都は感心する。
「じゃあ、これとネイルシールでお願い」
最初に提案してくれた瓶を差し出す。
「オッケー。あ、お湯沸いたから先にお茶淹れるね」
「うん、ありがとう」
摩耶が運んで来た紅茶は今まで飲んだ紅茶より数倍香りが良く美味しかったのでそう伝えると、摩耶はありがとうと子供みたいに笑った。そして、おじいちゃんが教えてくれた紅茶なのだと照れたように言う。
「そう言えば、お母さんに学校の帰りにここに寄ること言った?」
「ううん、言ってない。言うとまた摩耶さんの立場悪くなっちゃうでしょ。友達の家に行って友達のお姉さんにネイルしてもらったって適当な嘘吐くから大丈夫よ、心配しなくても」
「都ちゃんに嘘吐かせるような真似させてごめんね」
悲しそうに摩耶は笑う。
「ほら、出来たよ、あとは乾くの待つだけ」
あんな顔を見て都が何も言えずにいる間にネイルはみるみる仕上がって、小さな爪はほんのりと色付き薬指と親指はリボンやビジューのネイルシールで彩られていた。
「可愛い〜‼」
素直な感想が飛び出すと摩耶は嬉しそうに、誇らしそうに笑った。
「気に入ってもらえてよかった」
あぁ、この人の笑顔をおじいちゃんはこんなふうに見てるのかなと、ふと都は思う。上手く表現出来ないけれど、苦しくなる、胸が苦しくなる笑顔だった。
笑う度に胸が疼く。

「またおいでね、今度は違った雰囲気のネイルにしよう」
別れ際摩耶はそう言って笑って手を振った。同じように手を振って応えたけれど、黄昏時も合間って都の胸は一層疼いた。
けれども都は気付いてない。摩耶もまた、理由は違えど壬の笑顔を見て胸が疼いてる事に。



「林檎のキャラメルソテーになります」
寸分の隙もない給仕がにこやかに音もなくその白い皿を摩耶の前に置いた。
「無理に食べなくていいよ」
給仕がテーブルを去ると静かに壬は言った。
虚を衝かれ目を丸くした摩耶に壬は続ける。
「キャラメル、苦手だろう?」
「なんで知ってるの?」
「初めてのデートの時、ふたりでアクアリウムに行ったあの日、君が教えてくれたんだよ」
優しく微笑む壬をじっくり見つめながら摩耶は記憶を辿る。しかし、上手くいかない。そんな摩耶を見透かしたように壬はいつもの微笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。その唇で。


その日、映像の中を錦鯉が泳ぐ「水中四季絵巻」や、多面体にカットされた水槽の中に熱帯魚が泳ぐ「プリズリウム」、上部を覆わないひな段型の水槽に真っ赤な金魚が泳ぐ「華魚繚乱」、そして「花魁」と名付けられた2m四方の大きな金魚鉢を見に行く前に2人は食事をした。ナイトアクアリウムの方がより幻想的で美しいだろうと壬の提案だった。
壬が予め予約していたその申し分ないお店で2人は静かに会話を交わし食事をした。主に壬が摩耶に質問をしてそれに摩耶がそっけなく答えるといった感じで会話が回ってた。
「君は何が好きなのかい」
その日いくつ目かの質問だった。
暫く沈黙の後、摩耶は口を開く。
「牛乳の膜が嫌い。キャラメルが嫌い。肉の脂身が嫌い。ヒールのない靴が嫌い。うるさい人も馴れ馴れしい人も妙に気を遣ってくる人も嫌い。それから、鳥、飴、恋愛映画に人口風が顔に当たることも嫌い」
指折り数え次々に挙げていく摩耶に壬は気圧された。
「私は好きな物を訊いたんだよ」
目を丸くしてそれでも場を和まそうと壬は笑顔を作る。
「好きって気持ちはあやふやだから、好きな物について語るのって難しい。嫌いって気持ちは輪郭がはっきりしてる分、嫌いな物について語るのは簡単じゃない」
摩耶はもう手入れの行き届いたその指をみつめてはいなかった。ナイフとフォークを握り、白身魚の香草焼きを咀嚼していた。
その様子は出逢った時から壬が感じていた摩耶のアンバランスさを顕著に表している出来事だった。けれども胸に引っかかっていた物が、すっと取れる事はなく、却って引っかかりを増していくようだった。


想い出を語り終え口を潤す為に芳醇な赤ワインを口に含む壬の動作に見惚れていた摩耶は慌てて視線を反らした。
「そういえば、そんなことあったかも」
「君が忘れていても私には強烈な出来事だったんだよ。好きな物を訊いて嫌いな物をそれも沢山挙げられたのは初めてだったからね。君の嫌いな物は、牛乳の膜とキャラメルと肉の脂身、それからヒールのない靴。うるさい人と馴れ馴れしい人と妙に気を遣ってくる人、あとは鳥と飴と恋愛映画と人口風が顔に当たること、だ」
壬が得意げに話すので摩耶は自分がいたたまれなくなる。
「やめてよ、恥ずかしいわ」
「これも私の君に関する知識のひとつだからね、大切にしたいんだよ」
悪戯っぽくウィンクしてワイングラスでもかかげてくれればよかったのに、壬は実に慈愛に満ちた表情で摩耶を見つめていた。

この老人は実に簡単に摩耶の心を締め付ける。



慈愛に満ちた表情で摩耶を見つめながら壬はあの時の事を思い出していた。広島旅行からの帰りの新幹線での出来事、摩耶のあの瞳…。

「あのね、昨日、都ちゃんが壬は私に家族の温かさを教えてあげたいんだって言ってたけど、本当なの?」

摩耶はオブラートなど持っていない。いつだってストレートで痛々しい。そんなところすら壬には愛しい。
「ただ、君が嫌いになるまで私の傍にいておくれ」
その言葉に嘘はない。しかし、こんなタイミングで言うつもりなどなかった。ひねくれて意地っ張りで、この不器用な女性は壬のそんな気持ちを知ってしまったら、きっとまた、突っぱねたり手に負えなくなって摩耶自身の心と体を無闇に傷付けてしまうのが目に見えていたから。
しかし、子供特有の素直さと真っ直ぐさで都は摩耶に告げてしまった。話てしまったからには壬は自分の素直な気持ちを伝える他ない。素直な気持ちを伝え、指と指を絡め、手を握り一度その指先にも力を込めてから、ふっと力を緩めて摩耶の手の甲に口付けた。
そして、この言葉を何か形にしなくては、と心に誓う。


「遺産⁉そんなの私がいつ欲しいって言った⁉ねぇ‼いつ私がそんな物求めてるって言った⁉勘違いしないでよ!馬鹿にしないでよ!」
ホテルのデラックスルームに女のかん高い声が響き渡る。
…そんな物が欲しくて一緒に居る訳じゃない。その最後の一言はどうにか喉に引っかかり出てこなかった。

長い黒髪を振り乱してヒステリックに君は言う。
違うんだ、私だって君にそんな物を残してあげたい訳じゃない。ただ、私の家族を納得させる為に私の本気を見せたかっただけなんだ。私が君にあげたい物はそんな物じゃない。
「摩耶、ごめんね」
傷付いた老人を労わる余裕など摩耶にはない。歯軋りをしてジャンヌの香りを残して老人の元から去ってゆく。カツカツとヒールを高らかに鳴らして。
豪奢な部屋に取り残された壬は独り、手で目を覆い深く息をつく。

想いが伝わらないもどかしさ。

「そんなんじゃないのに」
「そうじゃないんだ」

別々の場所でお互いを想いふたりは呟く。
想うだけでは届かない。


摩耶はうさ晴らしのように、それでいて自分の体を心を切り売りするように、壬以外の男と寝続けた。そして壬からの連絡を無視し続けた。それでも毎日壬からは電話があったし、3日に1度は家のインターフォンが鳴った。それらは益々、摩耶を追い詰めたが壬も追い詰められていた。
ふたりの間の行き違いを自分の想いを摩耶には一刻も早く伝えたかった。
そんな風に2ヶ月近くの時間が流れていったある日、摩耶が帰ると部屋の前に壬が居た。ずいぶんと待っていた様子で疲れ果てた壬が縋るように摩耶を見た。
「頼む、話を聞いてくれ摩耶」
その目に縛られた摩耶は何も言えずに黙って部屋に壬を招き入れた。何も言えずにマノログラニクの靴を脱ぎ、何も言えないままミュウミュウのバッグを乱暴にリビングに下ろし、何も言わずにお湯を沸かしお茶を淹れた。
小さなダイニングテーブルにティーカップを並べ椅子に腰を下ろし壬にも勧めてる。困ったような顔をした壬はそれに習い、その洒落た椅子に腰を下ろしティーカップを口元に運ぶ。いつだか自分が勧めたお茶の香り。
一息ついて静かに壬は口火を切る。
「別に私は君にお金を残したい訳じゃないんだよ」
「じゃあどうして急に遺産だなんて言うの」
「それはね、少しでも長く君と一緒に居る為に私の家族を納得させたかったんだよ。もっとも、遺産を君にも分けると話したら家族には尚更反対されたけどね」
弱々しく壬は笑う。この2ヶ月、摩耶と家族の間で奔走していたのだ。
「じゃあ、どうしてそんなことしたのよ」
「私が本気だって家族に見せたかったんだよ。君と一緒に居ることを何か形にしたかったんだ」
「私はそんなこと望んでない」
思わずテーブルに拳を振り下ろすと大袈裟な音を立ててティーカップは倒れ、お茶の湖が広がった。
「うん、君の気持ちを考えずに話を進めたりして悪かった。これは私のわがままだよ」
諭すように壬は言ったが、ある物を目にして冷静ではいられなくなっていく。摩耶の胸元、手首の内側、足首…いたる所に赤い痕跡。
「君は…どうして自分を大切にしてくれないんだい?私への当て付けかい?」
声が震える。
「私の勝手でしょ!放っておいて」
壬が何かに気付いた事に気付いて摩耶は恥ずかしさで思わずかっとなり声を荒げる。
「そんな言い方はないだろう。私は君の恋人だし君を心配しているんだ」
珍しく壬が感情を露わにして語気を荒げた。
「私が心配していたこの2ヶ月の間、君は他の男と…君はいつもそんな事望んでないとか放っておいてとか言うけど、私は一体どうすればいいんだい。他の男と会うなとは言わないよ。ただ、どうして君がそんな事をするのか解らないんだ私にどんな不満があるんだい。直すよう努力するからはっきり言ってくれ」
そう言われても摩耶は何も答える事が出来なかった。男に特に不満はないのだ。あえて言うなら摩耶は壬のその真っ直ぐな愛情と正面から向き合う事がどうしても出来ないのだ。誰も彼女をそんな風に愛した人は今までいなかったのだ。今まで誰も…。
「頼むよ摩耶」
摩耶の足下に跪いて壬は懇願する。
「そんな事しないでよ!壊れ物みたいに扱わないでよ!」
足下に跪く壬を摩耶は蹴り倒す。
冷たいフローリングに倒れ込み壬は小さく口にする。
「私は君を大切にしたいだけなのに…」
熱い想いが涙となって壬の頬を伝う。
「君を大切にする事すら君を苛立たせるのかい?じゃあ、君を愛している私はどうすればいいんだい?」
涙が次から次へとこぼれ落ちフローリングを濡らしていく。
泣きながら自分への愛を訴え疲れ果てた老人を見て摩耶からは思わず笑みがこぼれる。
馬鹿ね、と笑う。
そこにはほんの少しの侮蔑とほんの少しの憐れみと、愛情と呼ぶにはあまりに拙い感情が含まれていた。

恋の彼岸、愛の此岸

恋の彼岸、愛の此岸

祖父と孫程歳の離れた男女の、愛と呼ぶにはあまりに拙い物語

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-02-03

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