『悪魔にとってありがたくない客』
『満足せる愚か者』からの手紙、の続編です。語り手はオーウェン。気楽に、割と気の向くままに書いてみました。追加するかもしれないし、しれないかも。
001.悪魔にとってありがたくない客
親愛なる妹、ソフィへ
そちらの調子はどうだい、きっといつも通り、冷静で心優しいいつもの君だね。君が住み込みの小間使いになると聞いた時には、耳を疑ったものだけど。君がお嬢さんと気が合って何よりだよ、あまり笑わせすぎてお体に負担をかけさせてはいけないよ、君の皮肉はほんとに、うまい。時々、思い出し笑いをしてしまうんだ。それで、ルイス氏に聞かれるんだ。倶楽部の誰のヘマを見たんだって。それで、君のお得意の皮肉をひとつ、ルイス氏に教える。ルイス氏はいたくお気に召す。君の妹さんを雇いたいもんだ、だってさ。彼は最近、自分が随分優しくなってしまったことを気に病んでいるんだ。僕を専属タイピストして雇って給仕を引退させた事なんかも含めてね。コットンテイル、君と一緒だ、皮肉が上手い人は賢くて優しい。
僕がルイス氏を尊敬するのは、その寛大さもなのだけど、やはり作家だ。話を作るのがとてもうまい。ルイス氏の口述の間の愚痴に混ざって話してくれた事を書くよ。ルイス氏に、これは妹に書き送っていいですかと聞いたら、タイプの練習になるなら好きにしていい、ただしこれはあくまでも作り話だと断っていたよ。
「お前さんを雇う少し前の話だ。あの、中年チェルビーノが持ってきた赤いキャビネットがあるだろう。あれな、悪魔がついているんだ。ガストン・ルルーだったか、ああいうキャビネットだかタンスだかの悪魔に魂を売って、賭けに負けられなくなった男の話を書いていた。ガストン・ルルーを知らんのか、いかんな、明日かしてやるから読むんだ。あれを知らんようでは作家はできん。亅
子供のいないルイス氏は、僕を弟子にするつもりようだ。僕には作家は到底無理なんだが、ルイス氏の伝記は書かないといけないとは思っているよ。ルイス氏は作家だけれど、僕は彼の語り口好きだな。皮肉で、投げるような話し方なのに、声か抑揚か、つい聞き入ってしまう。朗読してもらったら、きっと多くの人が彼の本を読みたくなると思うよ。
『俺はその時、宇宙スフィンクスの話の冒頭を書いていた。しかし、腕が痛くてタイプは進まないし、手書きは他人が読める文字じゃない。せめて他人が判読できる文字が書ける程度には肩や腱鞘炎を治したい、と思ってな。キャビネットの前に真夜中に行ってみた。ああ、寝る場所は黒騎士の部屋を貸してもらった。ところが、流石あいつの隠し部屋だ。気味の悪い品がたくさんあって、興味深いが、寝るには向かん。
それで、真夜中にキャビネットの前に行ってみたんだが。なんのことはない、俺が映ったんだ。チェルビーノが言ったような、ダ・ヴィンチのヨハネもビアズリーのサロメもいない、ただの俺だ。目のギョロついた、巻き毛のジジイだ。俺は若い頃はそれなりだったので、その面影と再びまみえるかと少し期待していたんだが、ただのジジイだ。それで俺がなあんだ、と呟いてみたんだ。すると、鏡の俺はこういったんだ。
『お前か、俺のなかに哀れなワニを突っ込んだのは。』
『知らんな、ドリアンじゃないか。』
『ドリアン…あいつはなんなんだ。俺を誘惑しやがった。普通逆だろう、悪魔を誘惑するなんてふざけている。』
『気にするな、ああいうやつなんだ。』
『黒騎士には死神がついているし、ロバートは悩みがあったら聞くよなんて言うし、お前が連れている若者に至っては俺を無視する。』
『すまんなあ、そういう倶楽部なんだ。』
『で、お前は何の用だ。』
『俺の腕は、治らんものかな。』
『五十肩だか六十肩だか、そんなものは人間同士で解決してくれ。俺は医者じゃない。』
『医者は酒と煙草を控えろというんだ。』
『関係ないんじゃないか。』
『俺もそう思うんだがね。まずは健康、だそうだ。やめるかね』
『悪魔が悪癖をやめさせたとなっちゃかなわんな…仕方ない。では、何を差し出せる。』
『寿命の半分。』
『それは若者向けの提案だ。』
『魂?』
『とっくに他の誰かが持ってる』
『他に何にないぞ。』
『お前作家だろう、才能は?』
『俺にあると思うか?』
『やはり酒と煙草をやめろ。』
『そこをなんとか。』
『無理だ。』
そこで、俺は宇宙スフィンクスの構想を一通り披露した。悪魔は気に入ったようだった。それで、俺は提案した。お前もこの話に登場させたらどうだろう、でも、書き留められないから、俺が死んだら発想のままで消えるなあ、だが心配するな、録音してやる、と。悪魔は呆れた顔をしてーー俺の顔で呆れた顔をするんだ、見ものだったとよ。とにかく、渋々提案を呑んだ。
『これは契約じゃない。助言だ。だから、俺のことは書くな、録音もするな。絶対に猫宇宙人に契約を持ちかける悪魔としては書くな。お前のところの給仕に、タイプができる若いのがいる。それを雇え。』
そんな事を言うものだから、俺はお前さんを雇ったんだ。悪魔は、可哀想に、この倶楽部じゃあなーー何しろ皆、満足した愚か者か、引き換えられるものを持たない、悪魔からしたらありがたくない連中だ。哀れなもんだね。』
ルイス氏は、そう言って楽しげに笑ったよ。僕は、ルイス氏の魂が誰が持ってるのか気になっているよ。奥さんかな。
おや、相当に書いてしまったね、もうすぐインクが切れてしまう。またね。
ーー君の兄、オーウェン・パーセルより
002.彼の書斎の塵になりたい
親愛なる妹、ソフィへ
そうなのだね、お嬢さんのお加減がいいのは大変素晴らしい事だよ。君が近くにいて気持ちを明るくしているからだね。これは断言するんだが、コットンテイル、君は場の空気を明るく保つ能力がある。倶楽部の人達が考えるような霊的な何かというわけじゃない、もちろん、神のご加護はあるんだろうが、それは万人に平等なものから、この場合あたらない。君が部屋にいるだけで、何かこう、全てはうまくいく、といった確信が生まれる何か、自信のようなものが全員に生じるんだ。だから父さんはまた歩けるようになったし、母さんのパイは評判になった。倶楽部の人々に一度君を会わせたいと時々思うのだけれど、そろって君に首ったけになっても恐ろしいからね。でも、今のところ、倶楽部の中でも目をかけてくれる『満足しているお馬鹿さんの会』だったかな、その会の人たちはだいたい、自己充足的な瞑想だか迷走の中にいて安全かもしれないね。ところで、自己充足的な満足の中にいる人を、倶楽部員ではない人の中でも見つけたよ。
僕は時々、ルイス氏が作品の推敲をしている時なんかは手が空くんだ。それで、給仕の仕事で手を出しても感じが悪くない事を手伝ったりしている。元々は自分がしていた仕事だから、とはいえ、途中でアルマンさんが辞めたり代筆係も兼業したりで、割と僕の給仕やその他の仕事は一人前ではないので、まあ、修行の続きかな。元同僚たちは心配しているよ、中置半端なままでルイス氏が死んだらどうするんだって。まあ、その時はその時だ、それに、彼は元気だしね。
そうそう、それで、先日、ルイス氏の『鏡の悪魔に作品登場を断られた話』(だったのだろう、あれは)を覚えているかな。あれは全くの創作だろうと思っていたら、どうやら違うらしいんだ。元、なのか現、なのか、とにかく同僚のジミーに聞いたんだが、あのキャビネットは従業員の間でも評判らしいんだ。幽霊が憑いてるだとか、異次元に繋がっているだとか。僕は、きちんと来歴を調べればマジックを考えた人々や、その前の時代のももだったら詐欺師のものだったんじゃないかと考えているんだが。なんにせよ、僕は、噂は信じないものの事物を擬人化する人間の性かな、この赤みがかったキャビネットに妙に恩義を感じてね。時々、艶に手形が付いていたりすると拭いたりしている。昨日もそうしていたんだが、ふと振り返ると、ジミーが肩を震わせながら近付いてくるんだ。
「どうした?」
僕は、具合でも悪いのかと思って尋ねる。彼は吹き出す。それから、小声でまくし立てる。
「お前、どうやってるか知らないけど、やめてくれ。」
「何を?」
「さっきから鏡から百面相したり、倶楽部の方々の物真似してるだろう。」
「何を言ってるんだ?」
そう笑って僕はジミーに向き直る。ジミーは奇妙な顔をする。
「おや…お前はこっちを向いたよな、でも…鏡の中でもこっちを向いてる。」
「へえ。」
僕は振り返って鏡を見る。何のことはない、いつもの僕だ。
「ジミー、大丈夫かい?」
「あ、ああ…なんか、光の加減かな。あるいは、仕掛けがあるのかも。」
「それはありそうだね。マジックみたいに。」
「なあ、これ、時々…サー・ルイス・アルジャーノン・リーが話しかけてるよな。」
「うん。でも、他の人もね。ところで、なんでいつも君はルイス氏だけはフルネームなんだい?」
僕はそう言って彼のほうを向いたが、その時は遠くの席の誰かが何かを探す様子に気付いたらしく、「ああ、そうかな?」とだけ言って、ジミーはそちらの方へ行ってしまった。残された僕はキャビネットに百面相をしてみた。異常なし。
特に奇妙な事はなかったので、扉を開いて中から鏡の裏を見てみたが、特に仕掛けはなさそうだった。ただ、古い塗料で円環に文字が書いてあった。僕は、ドアを閉める段になって、円環に、小さいワニの剥製の鼻が当たることに気がついた。それが当たる部分塗料が一部剥がれ、ワニの鼻の頭が汚れている。僕は、生きてもいないワニが可哀想になって、それを抱き上げて飾り棚の上に移動させたよ。なんだか、誰も愛着を持っている様子もないし、今度、ちゃんとした場所を作ってやってもいいか聞いてみるよ。仔ワニの剥製って、何故か帝国主義的だよね。勿論、科学的知見ってやつに役には立つけど。可哀想なのは同じだ。
それで、夜なのだけど、ルイス氏は早々に帰り、ジミーも担当の時間が終わって、パブに寄ったんだけど。彼は、以前と違って、何かこう、言いたげなんだ。あまり口をきいてくれない。
「ジミー、なんだい、僕が嫌いになったのかい」
「違うんだ。」
「君がだんまりだと、僕は君が僕に怒っているんじゃないかと思う。」
「なんで。」
「女の子がデートしてくれなくなる前にこうなる。」
「やめてくれよ、俺はアルマンさんじゃないぞ。」
アルマンさんは面倒見が良かった、片目の悪い先輩だったんだが、どうも僕の前に辞めた同性の人に横恋慕して、その二人ともがやめてしまった。アルマンさんの話をすると他の倶楽部員まで話が飛びそうなので、本題に戻すよ。
「俺はアルマンさんじゃないぞーーだだ、サー・ルイス・アルジャーノン・リーの書斎の塵になりたいくらい、彼が好きだ。」
「アルマンさんじゃないか。」
「そういうんじゃない。彼の作品と、その語り口と、奥さんと仲がいいところとか、君を弟子にしているところとか。でも、やっぱり作品が好きだ。」
「じゃあ、君は僕に嫉妬しているのかい?」
「難しいんだが、していない。僕は君の立場は欲しくない。そんなプレッシャーには耐えられない。今の立場で、ぶっきらぼうにコーヒーね、と言われるとその場で跳ね上がりたいくらい嬉しい。でも、君が最新作を一番最初に聞いていると思うと、妬ましくて殴りたくなる。でも、サー・ルイスが推敲していない文章を知るのは堕落する感じがする。」
「君って変わってるな。」
「そうかな。ずっと、子供の頃から好きなんだ。僕からしたら、今の仕事は夢のようだよ。」
「はは、満足せる…なんだっけ、愚か者だったかな。君も立派な倶楽部員だ。」
「誰にも言うなよ、誤解も嫌だし、サー・ルイスに気取られるも嫌だ。僕は彼の書斎の埃!」
「はは、そんな恋もあるんだね。」
「恋じゃない、断じて恋じゃない。強いて言うなら宗教だ。サー・ルイス・アルジャーノン・リーが描く世界教だね。」
そんな事を言い出す頃には彼は少し酔っていた。けれど、幸せそうではあったよ。
僕は、それほどまでに誰かの作品や世界に夢中になったことはないけれど、サー・ルイスの宇宙スフィンクスの話は確かに面白いよ。コットンテイル、君は読んだことがあるかい?僕は彼の存在すら、倶楽部に勤めだすまで知らなかったよ。僕が読めそうな、短いものがあったら教えておくれ。
ーー君の兄、オーウェン・パーセルより
003.中空に語りかける
親愛なる妹、ソフィ・コットンテイルへ
ルイス氏の小品を教えてくれてありがとう。弁解がましくてなんだけど、ジミーには聞けないよ。ちょっと聞いたらルイス氏の著作の目録を渡される気がする。ジミーにはオススメなんてないんだ。全てがオススメなんだから。
それで、なんだったかな、今日はインクテープの心配はないから、たくさん書くつもりだ。というのは、ルイス氏が、「とにかく俺が話すのと同じくらい速く打てるようになってくれ」と言って、練習用にインクテープを沢山くれたんだ。あとは、もう少し、文体を口語から文語に直せだってさ。だけど、僕はルイス氏の語るそのままを書いているつもりなんだけど。語りと文章を書く文体は違うものなのかな。では、タイプライターと手書きでは?朝と夜では?僕にはよくわからない。なるほど、ジミーが僕の立場にはなりたくないというのもわかるよ。お世話になっている人をがっかりさせるのもつらければ、崇拝している人を失望させるのもつらい。僕は作家にはなれないと思うんだ。スフィンクス型宇宙人の話は血湧き肉躍る。そして僕には絶対そんな物語は思いつかないし、書けない。でも、いつかルイス氏の伝記は書きたいよ。もし、ジミーが書かなければね。それとも、ジミーに口述してもらって、それを僕がタイプすればいいのかもしれない。あるいは、ジミーにタイプを教えるかな。彼が書いて、僕が彼の偏りを抑える。時々、やはり給仕の仕事も続けた方が良かったのかもしれないと思うんだ。しかし、こうやって迷うのも贅沢だよね。
こんな事を書き始めては、僕の毎日には書くような面白いことは何もないんだろうと君に思われるね。でも、倶楽部には面白い人がたくさんいるよ。それに、僕としては現実とは認めがたいことだけれど、幽霊やヴァンパイアみたいな人もいる。幽霊はレディ・レノアと呼ばれていて、皆の冗談なのか、『お人好しのロバート』ことロバート・アシュクロフト氏の妄想に皆、付き合っているかのどちらかだろうと思う。レディ・レノアの正式な『あだ名』は『三度目のレノア』。三度目に結婚した人に殺されたかなんだかだそうで、この倶楽部にしては思いやりのないあだ名だと思う。
このレディ・レノアは僕には見えないし、何を言っているかは聞こえない。ただ、彼女がいるとされる椅子には誰も座らないし、皆、彼女がそこにいるかのように話しかけたり、返事をしたりする。その真ん中に無線機でもおいてあったら納得するんだが。レディ・レノアはよく、『善人ロバート』と『若づくりドリアン』と、最近は例のチェストの前にいるよ。時々、タイポさんやレディ・ミネルヴァもそこに混ざる。先日は少し不気味だった。タイポさんはいなくて、僕はドリアン氏にキャビネットの前に呼ばれた。
「君は、この悪魔が見えないんだって?」
「見えませんね」
「レノアも?」
「見えません。」
「彼女が話したいんだって。」
「認識できない相手と、どう話すんですか。」
「彼女、最近、憑依を覚えたんだ。犠牲者はロバートだ。どうかな、ロバートに憑依したレノアと話すかい?」
ロバート氏はいつもうっすら微笑んでいる、もの静かで優しい人だ。優しいし、心配性だと書いたら、君はころころとした可愛らしい人を思い浮かべるだろう。その反対を想像してほしい。背は高め、眉間には縦皺が走り、髪は黒っぽく長めに残してある。ほほ笑んでいないときは、悪役が舞台袖で控えているような迫力がある。彼はシェイクスピア役者なので、そのせいかもしれない。
「それは、ロバートさんが舞台俳優ってことを差し引いて考えろって事ですか。」
「ふむ、困ったね、レディ・レノア、ロバート・アシュクロフト君。この若者は僕らを信用していないようだ。」
「それでも私は構わないよ。ねえ、レディ・レノア。あなたは、どうしたいかい?」
ロバート氏は空のソファへ、格調高い訛りで優しく問い掛ける。そして、中空に目を留めて沈黙し、笑顔で何度か頷く。ドリアン氏はおかしそうに笑う。僕は蚊帳の外のようで、給仕だった頃の感覚に戻る。レディ・レノアは僕がここに勤めだす前からいたし、そういえばアルマンさんは「あの人は苦手だ」と言っていた。その頃、僕は、きっと僕がまだ出会っていない倶楽部員の女性がいるんだろうと思っていたよ。アルマンさんには僕を担ぐ理由はない。だから、僕は判断は保留にして、視覚的に確認できない女性がいる前提でそこにたたずんでいた。
「レディ・レノアは、君に自分が、マクベスのようなおじさんだと思われたくないそうだ。珍しいね、レノア。」
最後の呼びかけは例によって中空に向かってなされる。
「あはは、オーウェン、君、いくつだい?」
「22です。」
「ああ、では、レノア嬢が亡くなった年に近いんだね。可哀想に。」
「でも、皆さん、200歳くらいって仰っていませんでした?」
「亡くなったのはーーええ、そんなに?19歳で、夫はいたけど恋はした事がないそうだ。可哀想に。ーーそんなことはないさ、僕だってーー」
例によって最後は中空に向かって楽しげに放たれる。僕は、なんとなく、僕と君の会話をほかの人が見ていたらこんな風かな、と思ったよ。いや、年齢不詳の美男子が見えない女性と話しているという、視覚的に異様な光景ではないよ。ただ、ドリアン氏の口調が、妹と話す兄のようだったって事だ。そして、尻込みする妹を勇気づける兄のように、優しくドリアンは囁きかける。
「大丈夫だよ、彼が気にすると思うかい?」
そこには、時々耳にする肺の底に香りでも仕込んだかと思わせる甘ったるさはない。ドリアン氏は意外と身内には誠実な様子だ。そして、突然、優しく見守っていたロバート氏が仰け反った。次いで、全身が痙攣しだしたので、僕は慌ててハンカチ取り出し咥えさせようと歩み寄る。だが、すぐにロバート氏は身を起こし頭を降って、唇をとがらせて、肩でため息をつく。そして、口元に手を当て、指で髭をなぞる。
「ーー髭までーーいやじゃのーー」
ロバート氏は、先ほどまでゆったりと広げていた腕を、胴にピタリとつけ、肩を小さくしている。そして、膝を閉じ、笑いを抑えて視線を上に投げたドリアン氏に眉をひそめてみせる。濃い額の皺の左右にも溝が生じ、僕はそのひと睨みはやはりマクベス、と感心する。僕が呆気にとられているのに気が付くと、ロバート氏は背をすっと伸ばし、膝を前で揃えて僕に向けて首を傾げる。僕をチラと見て、目を膝の上で揃えた手の上に落とし、それから上目遣いでこちらを見て言う。
「ーーパーセルどの、でいらしたかの?そなた、悪魔の呪符に何をなすったーー?」
「呪符?」
「ーーおぬしが触ってから、悪魔が別人になってしもうたのじゃーー」
「ええと、あの、そりゃ、指紋は拭きましたが。」
「ーーううん、違うのじゃ。そちが鰐なるものを取り出だすのをみたぞーーあれは生贄か?」
そう言って、また小首を傾ける。これがうら若い姫君であったらとても可愛らしかったろうなと思ったよ。そして、ロバート氏の演技力には舌を巻いた。だが、僕は何も知らない。
「あれは昔からあるものと聞いておりますが。誰かが冗談で無理やり突っ込んだものでしょうね、扉に当たってかわいそうだったのであちらの棚に移しました。」
言いながら、僕はキャビネットの裏の書き付けけの一部がワニについていたことを思い出した。
「呪符とは、扉の裏側にあった魔法陣みたいなものでしょうか?ワニの鼻に絵の具が擦れていましたね。」
「ーーおお、それじゃーーでは、鰐を戻せば途切れた呪文がもどるかのーー」
「鼻の絵の具は拭いてしまったので、無理だと思います。」
「ーーなんと!おおーー我が分身にはもう、会えぬというのかーー」
レディ・レノアが乗り移った演技を続けるロバート氏は、まるで目眩でも抑えるように額に手を当て目頭を抑えて、小さく泣き出した。
「ああ、すみません。」
僕は、よくわからないながらも仕方な謝罪した。ドリアン氏がロバート氏に歩み寄って、頭を撫でてやる。そのあとさりげなく僕がテーブルに置いたままにしていたハンカチで手を拭っていたけれど。ロバート氏の髪は整髪料が多めについている様子だったからね。
「ごめんよ、でも、残念だな。僕も僕に似た悪魔が恋しいよ。」
「ええと、まあ、鏡ですからね。いつでも、映りませんか?」
「中身が、違うんだ。」
「はあ。」
「チェルビーノが持ってきた時、あそこには、魂を映す悪魔がいたんだ。割と偉い奴。今いるのは、いたずら好きのゴブリンでね。」
この辺りで、僕はもう前提とされている設定を追いきれなくなってきたので、「はあ」とだけ答える。
「ーーなぜじゃーーなぜわらわが真摯にあろうとするといつもーーいつもーー」
「まあ、ええと、すみません。僕にできる事があればーー」
「ないわ。そなたのような自由な若い男なぞ、わらわのような追いやられた哀れな女のためにできる事など何一つないわ。自由も操も命も声も奪われ、世界の辺境でこうして哀れに時を過ごすわらわを、そなたは見ることも聞くこともかなわぬではないか。そして、わらわはおぬしのように時を過ごしてきたのじゃ、これでも安穏で無為なーー無意味な在り方で過ごしておるのじゃ。わらわは、初めて、わらわ如き悲劇など喜劇と知ったのにーーあの鏡の悪魔を戻してくれーー」
僕は、声の低いロバート氏の上ずった声の語気に驚く。
「レノア?」
ドリアンが驚いたように顔をこわばらせてロバート氏の顔を覗き込む。レディ・レノアが憑依したロバート氏は背筋を伸ばし、怒ったように僕を見つめる。唇が震え始め、その瞳から涙が溢れ始める。
「ええい、そなたにはーー見えぬのじゃ、わらわにも見えていなかったのじゃ、ここに映る悪魔が見せるまでーーこの世の中には寝床さえ与えられずに奴隷のように働いて床で眠る少女がいるのじゃ、薪を拾っていただけで戯れに撃ち殺された乙女もーーわらわは、生あるうちにはそんな者どもをみて見ぬふりをしてきたのじゃ。初めて、ほかの誰かことを考え始めたのにーー」
レノアの憑依したロバートは大きな手で顔を覆い泣き崩れる。驚いたようにドリアンが肩に手を置いたのをレノアは手で払う。しばらくは彼は泣き続け、キャビネットに目をやり、駆け寄り、膝をつく。
「いま一度、あのーーあの場所をみたいのじゃーー助けを呼んでやりたいのじゃーー戻ってこい、悪魔めがーー」
そう言ってレノアさんはさめざめと泣き、キャビネットの扉を開け、膝を付いたまま欠けた魔法陣を見上げる。それが、どちらかちいうとしっかりとした体格の中年男性であるのに、僕はぼんやりとマグダラのマリアの絵を思い出す。僕とドリアンは、どうしていいのかわからずに立ち尽くす。
「ああ!レノア!駄目だと言ったでしょう!」
そう声をあげたのは、ちょうど部屋に足を踏み入れたらしいミネルヴァだった。ミネルヴァの腕から大きな猫が飛び降り、彼女はこちらへ駆け寄る。
「この鏡は心の闇をうつすの、だめよ、あなたのように繊細な人が覗いてはーー」
「じゃが、わらわはーーなにかしてやりたいーー」
「言ったでしょう、それは過去か現在か、本当かも嘘かも分からない、届かない場所なの。あなたはあなたの時を精一杯生きたの!今はできる事などないの、世界を良くするしかないの。でも、それは私たちの仕事なのよ…」
ミネルヴァがレノア/ロバートを抱きしめ、抱きしめられたレノアは大粒の涙を流す。髭と長めに残してあった髪はそれに濡れて顔に貼り付いている。ミネルヴァの後に続いた「エコー」ことマーガレット・ワイル氏と、その秘書ミリーさんが、ハンカチやらティシューやらを差し出す。だが、途端に、ロバートはロバートに戻ったようだ。きょとんとしている。少しぼうっとした様子のロバート・アシュクロフト氏は、ソファに導かれ、ミリーさんと僕は、レノアさんが実在しているかいないかはわからない。もしかしたら、ロバート氏の別の人格なのかもしれない。『お人好しのロバート』さんなのだから、十分にあり得る話だと思う。一方で、ミネルヴァさん、マーガレットさん、それにドリアンさんはキャビネットの前でまた何もない空間を囲んで優しい言葉をかけていた。それを、僕は、なんとも言えない気分で見ていたよ。
いつの間にか、ジミーが僕の後ろにきて、片付けるふりをしながら声をかける。
「どうしたの?」
ささやき声に近いジミーの声は、先ほどのロバート氏の声とは随分違う。
「うん、さっきのは聞こえた?」
「聞こえたも何も。ずっと聞いてはいたんだけど、途中で呼ばれちゃって。君、レノアさんが見えないのか。不幸な奴。」
「君には見えるのか?」
「うん。最初は天使かと思ったよ。僕のベアトリーチェだ。」
「誰だい、それ?」
「説明が難しいよ…『新生』を読んでくれ…」
僕はジミーを隅に連れて行ってもう少し聞きたかったんだが、あちらでまた、ジミーを呼ぶ人がいたので、遠慮したよ。
向き直ると、キャビネットの前から女性たちは離れて、温室の方へ行くところだった。キャビネットの前では、鼻をかむロバート氏とドリアン氏が残った。僕が近付くと、ドリアン氏が笑ってソファを手で示した。ドリアン氏は少し、そしてロバート氏はとても疲れた様子だった。はじめに、ドリアン氏が口を開いた。
「レノアが、あんなに追い詰められていたなんて。てっきり、アルマンの恋愛沙汰をお喋りしているんだろうと思っていたのに。」
「ええと、何を、彼女は話したんですか。」
ロバート氏はティシューで鼻周りを拭き、僕が概要を話す間、心をいためた様子で聞いていた。
「そうでしたか…」
「でも、君は不気味なほど乙女だったよ。」
ドリアン氏がわざと明るく言い、それから、紙巻き煙草に火をつけた。一息深く吸い、吐き出し、こう言った。
「僕がちゃんと見ていてあげなかったせいだ。あれは悪魔だし、悪魔は悪魔なんだ。オーウェン君、ワニを拭いてくれてありがとう。チェルビーノがなんと言おうと、あれは安全なものじゃなかった。少なくとも、レノアにとっては。」
「僕には、なんにも見えません。レノアさんも、悪魔も。だから、一体なんのことやら…」
「彼女は、優しいんだ。だから、守ってあげないと。せっかく、戦争中も情報を伏せてたのに。僕が馬鹿だった。」
ドリアン氏が、少し反省したように言った。ロバート氏は、先ほどとは打って変わって手足を長く伸ばし座り直す。
「彼女は生前に十分大変だったそうですからね。しかし、何故、悪魔はそんなものをみせたのでしょうね。」
「さあ。意地が悪いんだろう。」
僕たちはそれから、しばらく大人しく座っていた。ドリアン氏が、床から拾ったティシューを鏡に投げはじめた頃、ジミーが箒を持ってやってきた。
「やあ、ジミー。君にはレノアは、見えるのかい?」
「はい。天使のように美しい方です。」
「だよね。でも、それを本人は言わない方がいい。」
「ええ、知ってます。」
済ました顔でジミーは言う。ドリアン氏は呆れた顔をして煙を吐き出す。
「君、ルイス氏を崇拝していて、レノアも崇拝して、なんというか…それでいいのか?」
ジミーは箒でロバート氏の鼻水が染み込んだティシューを掻き集めると、もう一枚ロバート氏が差し出したものも塵取りに掃き込んで背を伸ばす。
「ああ、それは…だって、僕には崇めることしかできない。代わりに差し出すものが、ないんです。でも、崇拝できるって、ありがたいと思いませんか?」
ドリアン氏はわかったようなわからないような顔をし、ロバート氏はにっこりとほほ笑んだ。
「私も、シェイクスピアの台詞を覚える時にはそう思います。」
「ひゃあ、そんなすごい事じゃないんです。」
少し照れた笑顔でジミーは言うと、また、あちらで呼ばれて行ってしまったよ。僕は、ジミーは偉いと思うよ。彼だって若くて健康で、けして見目が悪いというわけではない。なのに、とても謙虚だ。そして、どこか、楽しそうだ。やはり僕よりも作家に向いているのではないかな。君はどう思うかな。
さて、思ったよりもこれを打つのに時間がかかったよ。でも、今回のことは、君にも知らせたくって。レノアさんは、君やお嬢さんと近い年齢で亡くなったんだね。君から見て、もしもレノアさんが存在するとしたら、どう思うのだろう。
ーー君の兄、オーウェン・パーセルより
004.アルマンさんのご近所
親愛なる妹、ソフィ・コットンテイルへ
なるほど、君のレノアさんへの評価は納得だよ。結局、優しい世界に囲いこまれているうちは自由になれない、か。その囲い込みから外れた時に、あっという間に犠牲者になってしまった。そして、死して時が経ち、犠牲者である事からもようやく一歩出たところで、僕がワニを拭いた。不運というか、でも、悪魔に本来彼女が関わるはずのなかった悲劇についてばかりを尋ねるのは、そうだね、彼女には善いことではない。君の言うとおりだと、僕も思う。そして、どうしてわかったんだい、彼女がそこに辿り着いたのは、どうやらアルマンさんの情報を聞いたところからだったらしいんだ。そして、話はアルマンさんに戻る。だが、まずはレノアさんと、タイポさんだ。
僕はその日は、ルイス氏が旅行へ行ってしまったので暇だった。実物のスフィンクスを見て、「これじゃないな」と言いたいらしい。それで、手持ち無沙汰気味に給仕の仕事のさらに下のような事をしてみたり、例のキャビネット掃除をしたり、裏の魔法陣のようなものを描き写したりしていた。気が付くと、キャビネットの鏡に人影がうつっていた。僕は瞬間、噂に聞く例の悪魔かと期待したのだけれど、違った。
「やあ、調子はどう?」
短いゆるい巻き毛のタイポさんが笑顔で語りかける。それでも控えめな笑いなのは、まだ神経の共同運動が出るそうだからだそうだ。僕たちは見慣れているから、今更気にしないでくれてもいいのだけれどね。
「実は、こんなことがありましてね。」
そう言って、僕は先日のレノアさんの事を話したよ。僕としては、レノアさんは実在する/しないの間にいる、とまで話して、タイポさんがちらと空のソファ目をやるのを見て、ああ、いるのだな、と考える。
「でも、実在してくれたほうがいいんです。でなきゃ、ジミーまで含めて僕を担いでいることになる。この倶楽部の人たちはそこまで回りくどく意地悪な筈がない。」
「そうだね、そう思ってくれるとありがたいよ。ねえ、レディ・レノア。」
タイポさんはそう言って、普段はドリアンさんが座るソファに腰掛ける。僕はその隣に座ろうとして、止められて、反対側に移る。
「それで、レディ・レノア、どうしたんですか。」
タイポさんは僕が座らなかったソファに話しかけ、しばらく黙り、僕のほうをむいて、「アルマンを探して欲しいんだって。」と言う。それから、立って、キャビネットへ向かう。
「その前に、これを直してみよう。いや、僕も、まだ、前の悪魔に会いたいしーーそれに、なんだいこいつは、意地悪だね。」
何か不快な事でも僕には見えない下級悪魔がしていたのか、タイポさんは追い払う仕草をしてから、キャビネットの扉を開ける。そして、鏡の裏側の魔法陣のようなものを調べ、胸ポケットから小さなノートを取り出し、見比べながらページを繰る。ついでにいうと、タイポさんは倶楽部に来るときはきちんとした、上流階級らしい上着を着ているよ。君が見たことのある、あのひどい上着じゃない。
「ああ、これかな…」
「あったんですか」
「うん。似たのがあるってだけだけど。」
そう言ってタイポさんは、僕と、おそらくはレノアさんを手招きで呼ぶ。僕らは並んで立っていたか、おそらくはぶつかったかで、少し冷たい風が左の手の甲に当たった気がする。僕は、それに気付いた自分に驚いて腕組みをし、タイポさんが示すノートとキャビネットの裏を見比べる。左の頬がひんやりする。タイポさんが笑い出す。
「どうしたんですか」
「ふたり、おなじポーズで見ているものだから。なんだか、かわいいね。」
僕は、それをなんと奇妙な会話だろうと考える。あちらの方ではジミーが見ている。僕は、これ以上ジミーの崇拝する対象に近づいてはいけないと、一歩退く。レノアさんという人がいてもいなくても、ジミーを僕は尊重できる。
「それで、直せそうでしょうか?」
「たとえ図があってたとしても、インクが…何かの血みたいだし、ちょっとなあ…」
タイポさんが言うと、僕の中を冷たいものが通り抜け、生贄という単語が思い浮かぶ。肝を冷やした僕がタイポさんに顔を向けると、タイポさんは中空に向けてノートを差し出し、ここが読めないんだ、一番下だ、と言う。どうやら、達筆すぎる昔の書体を、レノアさんに解読してもらっているようだ。それから、何度か頷き、首を傾げ、宙を見上げ、僕に視線を投げる。
「レディ・レノアは、アルマンの近所にいる筈の不幸な子供を助けたいそうなんだ。どこにいるのかも、正確には、わからないそうなんだけど…行ってみようか。」
「ええ、でも、彼の行き先は知りませんよ。ジョルジュさんは最近見ないし。」
「僕が知ってるんだ。ああ、違うんだよ、レノア、僕は、彼にはそういう興味はないよ。」
「どういう興味ですか。」
「レノアさんが喜ぶタイプの興味。僕は、なんだろう、彼に何か指針を示して欲しかったのだと思う。生きる中での葛藤とか。」
「はあ。」
そんな会話のあと、僕らは人々が仕事を終える時間を見計らって街へ出た。タイポさんは、タイポさんは倶楽部向けの上着を、もう少し僕ら向きの上着に着替えて出てきたよ。最近、彼は、僕が16の頃に着てたやつ、あれと、もう一つ、それと同じサイズで僕が買ってきたやつと、普通に見える上着を二つ、倶楽部に置いているんだ。新しい上着は、それでも紳士風ではあるんだけど、嫌味はない、と、僕は思う。まあ、紳士服店の店員さんがそう言っていたのだけどね。ああ、これはね、別にタイポさんが頼んだ事ではなくて、ルイスさんが取材でやらせた事なんだ。スフィンクスの使者の為にこっそりと猫省職員が上着を買うシーン用らしくてね。でも、この話は別の時にするよ。
僕と、タイポさんと、おそらくはレノアさんは、地下鉄を少し危ない界隈で降り、暫く歩いた。どういうわけだか、そういう界隈の空気は少し電気が流れている感覚がある。そして、建物が空を妙に意識させる。あの感覚は不思議だ。そして、夕刻の空は晴れているのにもう灰色がかって夜のように感じる。タイポさんが行ったり立ち止まったりする中、次第に建物同士の間隔が狭くなり、街はますます暗くなっていったよ。そして、タイポさんが階段をおり、半地下の扉を叩く。しばらくして、小さく扉が開く。呆れたような声と、懐かしい外国語の悪態が続き、アルマンさんが小さく扉をあける。
「またあんたか!来るなと言ったろう。こんな時間に。危ないぞ!」
呆れながら叱るのはアルマンさんのお得意で、僕は嬉しくなって、つい、前に出たよ。
「アルマンさん!お久しぶりです!」
「オーウェン・パーセル!なんで君まで!」
驚いた様子のアルマンさんは、それから、僕の隣、ひんやりする側に顔を向ける、一瞬鼻白む。
「レディ・レノアまで…あなた、出歩けるんですね。」
それから、少し扉から身を乗り出し、左右と上を確認し、渋々といった様子で僕らを通す。
「ここにも、ご近所ってもんがあるんでね…」
部屋の中は片付いていて、ものが少ない。奥に不釣り合いな大きな一人掛けソファが見える以外には、これと言って目立つものはない。電灯は点いていても、薄暗い。
「パーセル、相変わらずでかいな。頭に気をつけて。」
言われて上を見ると、ドアの上に、青いきれいなビーズがぶら下げてある。タイポさんが、それを見上げてわずかに微笑んで目尻のシワに陰が刻まれる。最近、少し動きが回復してきたと言っていたから、それもあるのかな。いつもより、自然に見えたよ。
「身につけないんですか。」
「さすがにそれは少し抵抗がある。」
「なんだい、レノアーーああ、そうなの?」
「なんですか。」
「レノアさんは、貴方を探していたんです、それでーーこの目がいつも、それを阻んだそうで。」
「はは、あんたがくれた呪符なのに。邪悪な視線を避ける、だっけ?そりゃ結構な事だーーえ、どうしたんでーー子供?知らんが、誰の?ーー知らない?この辺の?巻き毛で腰くらいの背?目の色は?」
ここのアルマンさんの顔色や声のトーンの変化の具合を正確に書き留められるほど、僕は文章がうまくないんだ。だけど、アルマンさんの薄暗い部屋で、彼の軽蔑とも嫌悪ともしれぬ表情が同情にほどかれ、それから真剣に質問を並べるまでが、僕の正面で繰り広げられた。きっと僕の目の前に回り込んだレノアさんが、先日ロバート氏の身体を使って表現したような思い詰めた様子で、アルマンさんに訴えたのだろう、僕はアルマンさんが、おそらくは取り乱したレノアさんに対峙するのを、正面から見ることになった。アルマンさんの顔は強張り、前かがみで僕には見えない女性から情報を聞き出し、最後に、「それを見たのはいつ?」と聞く。タイポさんは、3人のなかで僕だけがレノアさんを見ることも聞くこともできないと気付き、僕に傍らに寄って小声で解説してくれる。
「レノアさんは、1週間前にこの近所で…狭い場所に…監禁されている子供を見たと言っている。痩せて、病気で、不潔で…可哀想に…」
それ以上の事をタイポさんは言わなかったが、少し青ざめているように感じた。おそらく、レノアさんはそれ以上の何か「ひどい」事を言っていて、タイポさんは繰り返す気になれなかったのだろう。
「それで、あんた、こんなところまで来たのか。ああ、どうりで…」
アルマンさんがそう言う辺りで、僕は部屋の中に目を走らせていた。テーブルの上には、端に寄せて置かれた灰皿と水が入ったグラス。自動車の機構についての本が数冊積んである。そして、隅に汚れた布が干してある。機械油のような黒っぽい油がついている。そういえば、アルマンさんは髪を綺麗に撫でつけてはいないし、ゆったりとした木綿シャツの下は濃紺のデニムだ。仕事を変えたのかもしれない。
「メラニーの所の子かもしれない。」
僕の推測とは無関係に、アルマンさんは手で大きめ一人掛けソファを手で示して、おそらくはレノアさんを座らせる。それから僕とタイポさんの両方を少し首を動かして見比べ、タイポさんにはテーブル横の椅子を手で示して、座らせる。
「あんたら二人はここで待っていてください。幽霊と紳士を連れ歩くのは面倒だ。パーセル、君は来てくれ。ただ、もう少し髪を崩して、そうだな、それでいい。」
そう言って、戸口へ向かう。僕はどこへ向かうのかよく分からなかったし、髪は朝に散歩する時のように風を少し通して、なんだか少し落ち着かない気分だったよ。それに、朝はいつも小鳥やたまにトカゲやヘビ出食わしてうれしいのだけれど、夕刻の街で可哀想な子供を訪ねるのはあまり気持ちがいいものではないね。僕らは夕刻が夜に変わるなかを、足早に歩いた。
「パーセル、きちんと教え終わらない内に、辞めてしまって、済まなかったな。」
沈黙に耐えかねたのか、アルマンさんが言い出す。
「ああ、大丈夫です。ジョーンズさんが教えてくれたし。それに、僕、今は代筆屋なんです。それより、自動車関係なんですか、お仕事は。きれい好きなのに意外です。」
「よくわかったな。」
「本があったんで。」
「そうか。とんだ探偵だな。なんだい、代筆屋って。」
それで僕は、一通り、タイポさんのことやルイスさんの事を話したよ。その間、アルマンさんは時々、相槌をうったり、質問を挟んだりする。そして、視界を補うように微妙に左右に顔を動かして歩く。
「ルイス氏はやはり奇妙な人だな。」
「みんな変じゃないですか、あの倶楽部は。」
「そうだったな。」
「戻らないんですか。」
「ああ。人間より機械の方がわかりやすい。」
そこまで話した時、先ほど出てきたのと似たような半地下の部屋続く階段行き着く。アルマンさんはゆっくり確認しながら数段降り、最後の段は抜かして地面に飛ぶ。
「メラニー。」
アルマンさんが扉に向かって呼びかけるが、返事はない。
「メラニー!」
もう一度、今度は大声で呼びかける。
「てめえか!」
中から、怒気に満ちた声がして四角い顔の男性が飛び出し、アルマンさんの胸ぐらを掴む。僕が身構えるが、アルマンが「ノーマン!」と呼ぶのと同じくらいのタイミングで、彼は動きを止める。
「あ、ああ、アルマンか…」
「一体どうしたんだ?」
「お前こそ何を?メラニーなら居ないぞ、男と逃げた!可哀想に、スーを地下室に放り込んだままで…」
「スー?それが子供の名前か?どんな子だ?生きているのか?」
「ああ、スーザンだ、可哀想に、なんも食わせてもらってなかったんだ!ちっぽけでよ…俺んとこの母ちゃんがさっき抱っこして、帰ってったさ。もう大丈夫だ、多分な。だけど、ぐったりしててな…」
「ノーマン、君の家はどこだ。いい医者を知ってる。それに、多分幾らか出してくれそうな人もいる。」
「本当か?痩せっぽち一人の食い扶持くらい稼げるけど、いい医者はな、高いからな。」
「大丈夫だ。」
僕は、幽霊のレノアさんや没落貴族のタイポさんがいくら出せるかはわからなかったけど、最悪ルイスさんも頼れるだろうと思う。
それから、ノーマンさんは僕を胡散臭そうな目で上から下まで見聞し、あいつはなんだと聞き、アルマンさんは新聞記者だと適当な事を言い、僕をタイポさんとレノアさんの元へ走らせた。
「後で家で医者を送る先を教えるから、待っているように。」
アルマンさんは、昔と同じ、仕事を教える口調で言う。僕は、「うちは男ばかりだから、母ちゃんが一目惚れしちまってな」というノーマンさんの声を背中で聞きながら、もと来た道を辿って戻った。辺りはすっかり暗くなり、僕はいつの間にか抜けた緊張感を取り戻す事なく、アルマンさんの部屋まで辿り着いたよ。
「レノアさん!タイポさん!」
そう言ってドアノブを捻った僕の顔は輝いていたに違いないよ。ところが、鍵がかかっている。それから、驚いたような顔でタイポさんが扉を開けてくれる。僕は笑顔で報告する。
「子供は無事でしたよ!保護されていました!」
「それはよかった…そして、君はレノアが見えるようになったの?」
「いえ?でも、心配していたんでしょう?」
それでタイポさんは笑う。いつもの、顔の右を手で押さえての笑いではあるが、ちらと中空にも目をやってホッとした様子だ。
「でも、お医者さんがいるようなんです。アルマンさんが、タイポさんに頼めって。」
「勿論だけど…では、どこかで電話を借りないとね。」
そう言って、タイポさんは少しためらう。アルマンさんの部屋に電話なんてあるわけはないし、タイポさんが外をうろつくのもどこか危なっかしい。僕が強盗だったら、真っ先に狙うと思う。勝てそうだからね。それで、仕方がないので、僕がまた赤い公衆電話を探して歩き、お医者様にひとまずはアルマンさんの家までご足労願った。それからは、ノーマンさんの家まで案内したりひとまず倶楽部に戻って休んだりと、あまり細々書いても面白くはないかな。スーザンという子供は危ないところで助けられ、徐々に回復している。ただ、慢性的に世話を放棄されていたみたいだね、ノーマンさんご一家の元で幸せになるといいんだが。
ああ、そうだ、子供は結局、では、レノアさんの骨折りは無駄骨だったのかと言うと、そうでもないんだ。彼女は、僕がワニを拭く前から、その子供を何度か見せられて探していたらしくてね。アルマンさんの家の辺りまで行ってみたりしていたそうだ。それで、その辺り幽霊の噂が立つ。ノーマンさんは、疾走したメラニーではないかと家まで行ってみる。メラニー死体でもあるのでは、と覗いた狭い地下に閉じ込められた子供を見つける。こういう流れだ。メラニーは、夫を戦争で亡くしてから少しおかしくなった女性だそうで、何故子供を閉じ込めて消えたのかはわからない。だけど、これは不愉快だからあまり書かないよ。まあ、レノアさんは、いるいかいないかは、わからないけれど、状況から考えると、実在しているのかもしれない。何故、僕には見えないのだろうね。ジミーに聞いたら、知らない画家描いたオフィーリアに似ているそうだ。それから、映画女優の、結核で死ぬ映画に出ている人だそうだ。もう少し、幸せそうなイメージはないものかな。
ーー君の兄、オーウェン・パーセル
005.洗練された粗暴
親愛なるソフィへ
驚いたよ、お嬢さん一緒にイタリア語を習っているのだってね。きっと、クリスマスを温かいイタリアで過ごしたら、お嬢さんのお体もすっかり良くなることと思うよ。しかし、あちらは政治が少し不安定だとも聞くよ、僕は少しそこは気になる。いずれにせよ、寒い季節にお嬢さんは南国、君は僕らと我が家でまた怪談の朗読かな。母さんが、懐かしい本を見つけたと言っていたよ。そうそう、それも舞台がイタリアだったと思うよ。決闘で亡くなった伯父の遺体を探しに行く話らしいんだ。1950年代の今ならちゃんと警察が保管しているんだろうけど、ヴィクトリア朝ではね。どんなおどろおどろしい話なんだろう。
ああ、そうなんだ、僕は僕が視認できないところにレノアさんを、一応、いるらしいとして行動しているよ。もしもいないのであってもそういう芝居を楽しむ倶楽部だし、万一、本当にいたら、いないように振る舞うのは失礼だから。とはいえ、見かけないものだから、そこにいても挨拶のしようはないし、たまたま同じ空間にいても気が付かないもので結果的に無視している事になってしまう。これは、考えものだね。
こんな事を考え始めたのは、勿論、先日彼女の嘆きがきっかけで子供がひとり救われたからというのもあるんだけど、それからもう一つ、悪魔に約束したからでもあるんだ。別に、君が心配するような取引はしていないよ。ただ、面白い経験をさせてもらったから、お礼がしたくって。1チャプター、彼について書くつもりでいるんだ。
そうだ、ルイス氏と黒騎士さんが旅から戻って、僕にお土産をくれた話はしていないよね。骨董品との触れ込みのついた、たぶん工芸品のレターオープナーをくれたよ。君といつも手紙のやりとりをしている事を知っているからね。彼らは僕に聡明な妹がいることを知っているんだ、君の方が早くタイプを覚えた事をタイポさんが黙っていたので、僕が申告しておいたよ。言わなくてもいいことを、とジミーやサムには言われるけど、なんだろうね、自分より優秀な妹がいるということは、僕の場合は、自分で自分の優秀さを証明しないといけないと焦らなくて済む分、楽で嬉しいよ。
ルイス氏にもらったレターオープナーは、黒っぽい石を薄く削ったもので、持ち手の方は二股に分かれて控えめにカールしている。中央にヒエログリフで何やら書いてあるけれど読みようはない。それは心持ちひんやりしていて、手にしているとだんだん体温が移って暖かくなる。僕は、ちょうど黒騎士さんと砂漠の薔薇について話していて、手許をみずにすっとそれを勢いよく動かしてしまった。そして、封筒の隅に据えた指先を切ってしまった。
「いてっ」
「おや。」
黒騎士さんは呆れたように笑ってハンカチを取り出してくれたんだが、僕はちょっと思いついて、それを断ってキャビネットの扉を開けた。先日、ポケットから、先日タイポさんのノートから描き写した魔法陣のページを左手で開いて、扉の裏の魔法陣で欠けたところを補うように、僕の指先の血を塗ってみた。
「よく思いつくな。」
黒騎士さんが笑い、僕は、何か変化はないかキャビネットの扉を閉めて、鏡を覗き込む。僕が映っている。
「なんだ、変わらないですね。」
そう言って振り返ると、倶楽部が、倶楽部ではなくなっていた。薄暗い、壁の赤い部屋に変わり、窓の向こうは夜だ。あちらでジャズのバンドが妖艶なメロディを奏で、広い室内はタバコや別のものの煙とアルコールの匂いで満ちている。怪しげな出で立ちの男女が絡み合うテーブルやカウンターの間を、しっぽの生えた給仕が行き来している。黒騎士さんが座っていた辺りは闇に沈んでいるが、どうやらVIP席のようで、赤黒い革張りのソファに白や黒の太腿とハイヒールそれに、スーツのズボンが見える。その奥でガタンと大きな音がして、赤いドレスの女性と灰色がかったスーツの男性が席を立ち、しっぽの生えた給仕達はさらに茶色のカーディガンの男性を引き摺りだし、二人一組で男性を抱えて何処かへ消える。
「おう、そこの若いの。オーウェンだろ?ここへきなよ。」
低いざらついた声が闇の中から親しげに僕の名を呼ぶ。その野太い声は奥にどこか艶があり、断れない魅力があった。僕が暗闇に目を凝らしながら赤黒い革張りのソファの隅に寄ると、驚いたことに、そこには巨大なゴリラがいた。ゴリラだよ、君もターザンの挿絵で見たろう、あの、類人猿だ。だが、彼は挿絵のように裸ではなくて、高そうな深い紫のスーツ着ていた。そして、黒い毛はつややかに光り、広い鼻の上には金縁の眼鏡をかけていた。
「お前だな、消したり書いたり。」
「はあ、いけませんでしたか。」
ゴリラ氏は、彼の手のサイズに合った大きなグラスで茶色い液体、おそらくはスコッチを飲むと、こちらを見下ろして尊大に笑った。
「いけなくはない。俺は暇だからな。」
「あなたは、タイポさんやレノアさんが言っていた悪魔ですか?そうは見えない。」
僕は、彼を見あげながら聞く。僕は、そういえば思春期以降、人を見上げた事がほとんどない事に思い至る。
「なぜだ?」
「あなたが、お洒落なゴリラだからです。そういう、洗練された粗暴は、彼等が話していた悪魔じゃない。」
僕がそういうと、ゴリラ氏は意外そうに眉に当たる部分を上げ、それから豪快に笑った。笑い終わると、まだ彼機嫌のいい調子で言う。
「俺が、お洒落か。」
「洗練され、垢抜けた粗暴ですね。ダンディです。でも僕は、格好のいいゴリラではなく、僕が魔法陣を消してしまった悪魔さんを探しているんです。」
「しかし、お前が書いたのは俺を呼ぶ魔法陣だ。それに、あいつは忙しい、偉いからな。俺も偉いが、俺は暇だ。お前は気に入った。どうだ、何かひとつ、望みをかなえてやろう。何か言え。」
「いや、渡せるものはないんです。」
「お前の気の利いたお世辞で十分だ。『垢抜けた粗暴』! 最高だ、気に入った。俺の二つ名にしてもいい。どうだ、願いを言え。ひとつ目は、タダだ。俺は気前がいいからな。次からは、お題を頂く。」
僕は、代金は僕がなんとなく口にし、彼が気に入った言葉ではないかと思った。だとしたら、タダというわけではない。だが、結局は悪魔だから、そういう話術なのだろう。
「では、世界平和。」
「そういうの自分たちでやれ、俺たちでは無理だよ。」
「悪魔なのに?」
「悪魔だからだ。」
「では、子供がいじめられない世界も、病気がない世界も、無理ですか?」
「俺は悪魔だ。そういう事は職務範囲外なんだ。お前だって、給仕なのに『母ちゃん思い出のスープ』なんて注文されても困るだろう?」
「なるほど。」
「俺の得意なことはな。」
そう言ってゴリラは綺麗に磨かれた黒い爪を光らせ、あちらのソファでスーツの男性のネクタイを外している、露出の多い若い女性を示す。若い女性はこちらをちらと振り返って、艷麗な笑みをよこす。ゴリラ氏はそれに手で挨拶を送ると、僕に解説する。
「俺の得意なことは、例えば、ああいう事だ。あの男は娘の友達に本気で狂って今や家庭も会社も失った。それをお代に、俺はそのお友達をくれてやったのさ、1日な。」
「それは、とんだことですね。」
「だろう?」
悪魔のゴリラ氏は、テーブルの上のナッツをひとつ、器用に口へ運ぶ。彼の目は、バーのあちらこちらで繰り広げられる小さなやりとりをくまなく見渡している。あちらでは何やら金品を取引する者がおり、向こうの隅では男性が刺されたようだ。白いシャツに赤い色が広がる。
「しかし、それはあなたがいなくても起こりうることではないですか。」
僕が言うと、ゴリラ氏は太い首をかしげて言う。
「まあ、そうかもな。なんにせよ、家族と会社を失えば次は酒と煙草と貧困で、その内に俺のところに魂が転がり込む。簡単だろ。最近は俺が仕事をしなくても勝手に転がりこんでくる奴が多いんだよ。だから暇だ。俺の名前は『強欲』だ。どうだ、お前もああいう女が欲しいか。欲しいだろ?」
そう言ってゴリラ氏はゴリラ氏の向こうに座っていたらしい、赤いドレスの女性をひょいと抱き上げてテーブルに乗せる。女性は僕に真っ赤な唇で笑いかける。白い歯が眩しい。彼女は引き締まった太腿をあらわにしながらまたゴリラ氏の膝に滑り降り、そこから、また向こうの闇に消える。
「どうだ、美しいだろう?彼女が欲しくはないか?」
なるほど、美しい女性ではあったが、親しみはわかなかった。
「僕はまだ家庭を持てるほど、しっかりしていないので。」
言いながら、僕は、ゴリラ氏のゴリラ氏のつややかな毛並みを見る。女性が滑り降りる時、さりげなくその毛並みをなでたのを見ていたので、触り心地が気になった。僕は本物のゴリラは見たことがない。だから、お金持ちの御婦人が着る毛皮のコートのような毛並みがゴリラ本来のものであるのか、彼が悪魔であるからそうなのか、わからない。
「では、金か。」
言うとゴリラは、マジシャンがカードでやるように何もないところから札束を広げ、手のひらから数枚の金貨を落とす。金は確かに欲しい。しかし、これを貰うと誇りに傷がつく気がする。
「まずは自分で稼いでみたいんで。」
ゴリラ氏は札束を投げ、呆れたように言う。
「他に何かないのか。」
僕には思いつかない。それで、ほかの人の願いはどんなだったろうかと考える。せっかくの機会なので、逃すのも勿体ない。
「じゃあ、タイポさんの顔を治すとか、ルイス氏の五十肩を治すとか…」
そういいながらも、好奇心のほうが先立ってゴリラ氏を見ていた。太い首にきちんとした白い襟、緑のネクタイ、ダイヤのタイピン。つい、こんな胸板や毛皮があったら格好いいだろうな、と思って、ゴリラになりたいと言ってみようかと思ったんだが、人間社会で生きていけなくなるのでやめたよ。あれは、悪魔ならではのお洒落だ。
「他人の願いを頼むのは駄目だ、そんな事をしたら天使に持ってかれちまう。お前に自分の欲望はないのか。」
「ないことはないんですが、現実離れしちゃう事は願えるけど、現実から離れたくないし。現実のことは、やっぱり、自分で獲得しないと意味ないんで。」
「は!呆れたもんだ。」
ゴリラ氏は笑って、まやもやスコッチ的な何かを飲み、あちらから歩み寄るオラウータン的な男に挨拶する。このオラウータンは赤毛ではなく黄ばんだ白髪で、ゴリラ氏に比べると高級感というか、威厳はなかった。
「なんだ、『強欲』、人間なんか相手にして。」
「こいつ、面白いんだ。」
「はん。面白いってのは、他人の土地を巡って喧嘩をさせることだ。見ろよ。」
黄ばんだオラウータンは、手にしていた太ったデディベアと、中年女性の操り人形をテーブルの上に投げた。二つの可愛くない人形はテーブル上の空き瓶や皿を手に取り、それでお互いを殴り始める。ナッツの殻や食べかけのチーズが飛び散り、僕はかつての給仕の本能がそれを片付けたいと欲するが、我慢する。ゴリラ氏は、呆れた様子で、「おいおい、勘弁してくれ」と言って席を立った。
「行くぞ。」
「どこへ?」
「お前はもう帰れ。送っていってやる。」
ゴリラ氏が子猫のようにひょいと僕をつまみ上げ、緞帳のようなカーテンで区切られたをいくつかの部屋をくぐり抜ける。その間に、ここには書けないような部屋もあったし、どこがどう欲望と関係するのかわからない部屋もあった。
「あっ」
僕が声をあげてもゴリラ氏は止まらなかったが、僕は、その中の一つの部屋でアルマンさんを見た。憂鬱そうに、ぼんやりと、ビリヤード台にもたれていた。そこには、他にも数人の男女がいて、赤い照明は彼らをドラマチックな影絵のように見せていた。だが、一見ドラマチックなようで、彼らはお互いに没交渉であるせいか、ドラマはなかった。
「知り合いがいたんですが。」
「ああ、あいつらか。別に俺たちが提供する欲望ではないんだがな。あっちから追い出されて
行き場がなさそうなんで、置いてやってる。認知されない欲望は、転がしやすいしな。」
僕にはゴリラ氏の言う意味があまり分からなかったけれど、どこか哀れむような響きがあったよ。なので、こう言ってみた。
「可哀想に思うんですね。」
「ああ。お前たちが、食用の牛を可哀想に思う程度にはな。俺は優しいんだ。」
いいながらゴリラ氏は、ひときわ豪華な装飾の緞帳の前で僕を降ろした。美しい刺繍の男女が叫びながらの支える幾何学模様と文字。よく見ると、魔法陣のようだった。
「ああ、正解の魔法陣を教えてください。」
「俺も知らないんだ。」
「同僚なのに?」
「お前は、ジミーの家の鍵を持ってるか?」
「なるほど。」
「ここからは一人で行きな。あばよ。」
「ここから?どこへ続くんです?」
「ここより危険で不快な場所、人間の世界だ。」
そして、急に目の前が明るくなり、心配そうなジミー、ルイス氏、ドリアンさんの顔が見えた。
僕が起き上がると、ルイス氏が心配そうに尋ねる。
「大丈夫か?」
「ええ。ゴリラの悪魔に会いました。そういう呪いかかったレターオープナーでしたか?」
「いや、あれは骨董品じゃないぞ。市場のおやじの手作りの民芸品だ…ただ、きれいだったから買ったんだが。さては、幻覚剤が付着していたかな。」
「幻覚剤?」
「ああ、土産物屋だからな。コッソリ売ってるし、オヤジも使っている。」
「買ったんですか。」
「それより、ゴリラか?蛇でもサソリでもなく?」
「ゴリラでしたね。」
そういうわけで、今、倶楽部キャビネットはゴリラの悪魔のいる、あれは地獄なのかな、そういう場所に繋がっているみたいだよ。僕は、願い事をしなくて損をしたのかな。でも、本物のゴリラは見てみたくなったよ。動物園にいるかな。また、書くよ。
ーー君の兄、オーウェン・パーセル
006.ささいな、小さな事が
親愛なる妹、ソフィ・コットンテイルへ
大丈夫だよ、心配ありがとう、その後は残念ながらゴリラの悪魔には会っていないよ。そうだね、小さい頃に観た映画の影響かもしれない。でも、あの映画ではゴリラはお洒落ではなかったよね。ゴリラ悪魔は、夢か幻覚なのだろうけれど、どちらにしても楽しい経験だった。それだけで充分だよ。
ところで、お嬢様の旅行へ同行なんて、素晴らしい名誉だね!グランド・ツアーなんて時代遅れ、なんて言う奴には言わせておけばいいよ。羨ましいだけなんだ。君は大陸を見るんだ、戦後だからって関係ない。あれもこれも、残っている。正直に言おう、僕だって妬ましいくらい羨ましくて、叫びたいほど君のために嬉しいよ。ただ、心配なのは、大陸のお偉い殿方を君たちが行く先々で射落として、大陸にも「嘆く独身者倶楽部」ができてしまうかもしれないってことかな。そうなったら、僕もそこで働けるかな。でも、言葉が難しそうだね。是非とも、様子を教えておくれ。
こちらは相変わらずだよ。ルイス氏の書くスフィンクス型宇宙人は、ついに地球人レオナルドを秘密の作戦に送り出した。剥製の仔ワニには棚の段を確保したよ。喫茶室のキャビネットも相変わらずだ。ドリアンさんは、時々楽しそうに鏡の悪魔と会話している。ドリアンさんは、「今回の悪魔は美人だけど好みじゃない、でも話していて楽しい」そうだ。多分、その悪魔はゴリラじゃない。ゴリラに対する一般的な褒め言葉は、「美人」ではないからだ。僕は、ゴリラはやはり僕個人の幻覚だったろうと考えているよ。
実は、あの鏡の裏の魔法陣をいっそ綺麗に拭き取ってしまったらどうだろうかと考えているんだ。悪魔がいるにしろ、いないにしろ、それが場の中心にいるのは、安全じゃないと思う。レノアさんが本当にいるとすれば、彼女に及ぼした影響も大きかった筈だ。ああいうのは、健全ではない。何かがそこにあることで誰かが追い詰められるのは、よくないよね。とはいえ、結果、一人の子供は救えたので、すべてがよくなかったわけではない。でも、健康的じゃない。勿論、勝手に消したりはしないよ。だって、もしも、万が一、悪魔がいたとしても、タイポさんや、もしかしたらドリアンさんも、突然消えたら、それはそれでショックをうけてしまうだろうから。
最近はタイポさんはあまり倶楽部には来ないんだ、時々、あまり向いていない仕事で忙しくなる時期があるそうで、最近もそうなのかな。でも、土曜の午後に、パブで会ったよ。僕がゴリラの悪魔の話をすると、興味津々で聞いてくれた。眼鏡のかたちはどんなか、ナッツはピスタチオか、美女はずっとゴリラの向こうにいたのか、等々。それから、ちょっと疲れたようにこう言ったよ。
「ゴリラかぁ。粗暴じゃあ困るなあ、もう、僕の顔を持っていった悪魔には会えないだろうか。」
「会いたいんですか?」
「僕もわからない。ゴリラ氏には会ってみたい気もする、もしも、怖くないなら。」
「怖くはありましたよ、大きいし。賢そうだったし。」
「ほめているように聞こえるよ。」
「確かに、少し格好いいと思いました。」
「そんな。」
タイポさんは、そう言って片手で顔を押さえて笑った。
「ソフィさんも手紙を貰って随分驚いただろうね。ゴリラは、」
それから、タイポさんは、ゴリラはそれで、と言ったまま、突然、止まってしまった。それから数秒、上の空になった。目が泳いで、ゴリラはそれで、まだ、と言って言葉を切った。よその誰かが言った関係のない言葉に、ああ、そうだね、と返した。僕の声がその関係のない誰かの声に似ていたかもしもしれない。あるいは、その視線の先に誰かいるのかもと思って振り返ったけれど、誰もいない。僕が周囲を見回したのに気付いたのか、気づかないのか、タイポさんは、ああ、ごめんと言って、暫く黙った。少し目が潤み、何かを言いかけ、黙り、煙が目に染みるって、本当だね、とわらった。誰かつけたラジオから、そういう歌詞の歌が流れていた。
「この曲のせいですか。」
「あ、いや。うん。いやだな、格好悪い。」
「はあ。」
「この1曲前の歌も懐かしくてね。突然来たよ。どうでもいい、ささいな、小さな事が、誰かを思い出させたりしてね。僕は今の自分も、子供や屋敷に残ってくれた人たちにも満足しているのにね。美化された過去がふと蘇ると、足元をすくわれる。」
そう言って、タイポさんは参った、といったように頭を軽く振る。
「すくわれるって、あの、悪魔にですか」
「いや…うん。もっと昔の、結婚していた頃とも違う、ずっと、若い頃の。あの頃とはすべてが、随分変わったからね。それが懐かしくて。いいんだ、それよりゴリラの話は、ルイス氏にはしたのかい?」
そういう頃には、タイポさんはいつもの感じに戻っていたよ。しかし、タイポさんは、中年なのに時々、老人のようだ。僕は、結婚していた頃のことでもない、というのが気になったよ。それに、アルマンさんも、彼が恋した僕の前任の人を思い出すからと、倶楽部を辞めた。歌や場所や、具体的な事物に、感情が固着するのだろうね。そういう現象を何と言うのだろう。
そんな話を、ルイス氏と黒騎士氏にしてみたよ。そうしたら、ルイス氏は、タイポさんが懐かしいと言った曲のレコードをかけてくれたよ。
A cigarette that bears a lipstick's traces,
An airline ticket to romantic places;
And still my heart has wings...
These foolish things remind me of you.
生憎、僕にはyouがまだいない。君や、母さんや、友人や、時にはカワセミもyouいえばyouだけどね。ああ、でも、僕も、小さなポケットナイフを見ると、学校で好きだったマーガレット先生を思い出すな。厳しいおばさんの先生だったけど、何故か授業は面白かった。難しい綴りは手に覚えさせろ、そのためにたくさん繰り返して書け、と言われてね。だからポケットナイフでたくさん鉛筆を削った。それに、同じナイフでパチンコを作ったりリンゴに顔を彫ったりしたっけ。その頃の、関係のない思い出まで付いてくる。当時好きだったお菓子とかね。面白いね。君もマーガレット先生に習った事があったかな、コットンテイル?
それで、僕はしばらく、音楽や事物と感情の関係について考えていたんだ。そして、ある大切な事に気がついたよ。僕らは癖として、感情をなぜかいつも劣位に置きたがる。たとえば、誰かを感情的だと言った場合、それは大抵、悪口になる。しかし、僕らが生きていくうえで、唯一価値を生み出すものも感情なんじゃないかな。
ああ、そういえばタイポさんの若い頃の写真をみたよ、確かに可愛らしかった。子供の頃から、可愛らしくて、美術館で見せられたアドニスに似た感じだけど、そのまま大人になり、おじさんになった感じだね。それがちょっと恥ずかしかったと言っていたけれど、もうおじさんだし、おじさんはみんなおじさんだから大丈夫だと言ったら笑って黙ってしまった。安心してくれたのかな。そして、まだ大笑いするときは顔を隠すね。普段の左右差もあり、術後はいいようだけど、完全にはよくならない。なので、彼がおじさんであることはある種の救いなのかもしれない。僕は、タイポさんのあの若干頼りない顔を盗んだ悪魔が、病気でも悪魔でも、ゴリラでも、大差ないように思える。自分の一部を持っていってしまうんだから。だけど、そう言ったら、黒騎士さんにベアトリーチェとシャイロックを一緒にするなと言われてしまったよ。シャイロックを僕は知らなかったものだから、後で調べたのだけど。シャイロックは何も手に入れてないから、確かに一緒じゃないね。でも、黒騎士さんがそれをもって何を言わんとしていたかはわからない。
それと、これとがどうつながるのかはわからないけれど、僕は、やはり「強欲」と名のついたゴリラに少し、憧れている気がする。僕は、ベアトリーチェとシャイロックと悪魔の違いを知りたいし、いつか、小さな事で誰かを思い出して悲しくなるなり、嬉しくなるなりしてみたい。色々と知りたいし、レノアさんも見てみたい。それに、ああいう毛皮は、格好いいと思う。そして、グランド・ツアーに行くという君に少し嫉妬しているし、嫉妬するという感覚も新しくていい。奇妙だね、面白い。また、書くよ。
ーーゴリラになってみたい君の兄、オーウェン・パーセルより
007.ルイス氏の創作
親愛なる妹、ソフィ・コットンテイルへ
やあ、そんなに僕の「嫉妬」を気にしないでおくれよ、文字にするとちょっと強いね。違うんだ、羨ましいとは思うし、君の肩に乗って同じものを見て回る仔猿になりたいなとは思うけど、だからって君に成り代わりたいわけじゃない。お嬢さんの体調を常に気にしているのも大変だろう。それに、ちょっと、気になるね。ハンサムな若い坊さんに一目惚れとは。そういうのは、ろくな結末にならないという君の意見に僕も同一する。他に、ハンサムな若い適当な貴族の青年とか、お金持ちのアメリカ人とかはいないのかい?アメリカ人は気さくだというし、叶わぬ恋よりよほどいい。お嬢さんを「嘆く独身者倶楽部」会員にしてはいけない。
こちらは、ゴリラの幻影はやはり僕個人の妄想、つまり薬物で誘発された幻想だという結論に達しつつあるよ。そして、エジプトから帰還したルイス氏は少し、行き詰まっている。彼の言葉をそのまま借りると、「壮大すぎるインスピレーション源とかねてから醸成されつつあった物語の間で、選択と無理やりの創造というつまらない作業が嫌になった」そうなのだけれど、僕にはよくわからないよ。「語りきれる事は一部でしかなく、語られなかった事は消えるが、語ってしまえばそれはすべて別のものになる」そうだ。要は、もう少し思い出に浸っていたいのかな。それでも、話については始終話していて、思い出やアイディアが一番いい形で物語に落ち着く方法を試しているみたいだ。そして、次は、トルコへ行きたいという。
「あの国は猫を大事にする。そういう国の人々の話を聞き、視点を得て、それから猫を回収しないという結論にスフィンクスを至らせる道筋を示したい。」
いつものキャビネット前で、ルイス氏は腕組みをし、中空を見上げながらいう。僕はキャビネットの向こうでジミーが必要もないのに使っていない灰皿を拭き始めたのを見て、少し声を張り上げた。
「猫を回収しない!それじゃ、猫回収省のミシェルや秘密工作員のレオナルドの頑張りは無駄じゃないですか」
ルイス氏の方は、先ほどから立ち上がってソファと卓の周りを歩き回っている。思考を整理したいときによくそうやっているようだが、だいたい黒騎士さんに捕まって会話に終わる。だが、会話が終わるとスッキリした表情で瞑想を始め、それから口述を始めるので、最近はそういうルーティンなのかもしれない。ルイス氏は、キャビネットの向こうにいるジミーが見えているのかいないのか、少し離れた場所に座ってタイプライターの前にいる僕に聞こえるように声を張る。
「いや、彼等がやってきたこと全てが、地球猫の優位性を証明する。オーウェン、地球猫がしてきたことはなんだ?」
地球猫については、このSFには様々な日常的エピソードが含まれるんだ。仔猫がいかにして飼い猫の地位を手に入れるかから、どのようにして人間に自分の椅子を奪うかまで。口述をタイプしながら、これはSFだったのか、あるいはただの猫についての小説だったか分からなくなる瞬間が何度かあったのだけれど、そのたびにひっくり返されるんだ。面白いよ。
「地球猫がしたことは、昼寝と、対話の拒否と、餌を食べて飼い主の遺体を食べて、花瓶を落すことです。」
「飼い主を食う、ああ、サイコ猫のバターか。あれは、可哀想だったな。」
「聞き取って打ちながら、びっくりしましたよ。
突然の銃声、眼下5メートルの穴にゆっくりと落ちるハリー。慌てて後を追うバターの優雅な着地、陥没穴の底の平和な花畑。目の前に広がる青い空、激烈な痛み、血の匂い。ハリーの様子に心配そうに高くなく声。助けを求め、どんなに鳴いても他の人間は来ず、穴の縁の緑は濃い。登ろうと爪をたてる穴の土の匂い、弱々しくバター名を呼ぶハリー、優しく擦り付ける額、そしてハリーの微笑んだ目から光が消える。その血まみれのシャツの、わずかに残った乾いた布の上に香箱を組むバター、そしてだんだんに背中が冷たくなっていく。思い出してもつらいですね。」
僕が回想しながら語る間に、キャビネットの向こうでは、灰皿を何度も回して拭いていたジミーの動きが止まる。
「なんだ、ジミー、泣いているのか」
どうやらとうにジミーに気づいていたルイス氏がジミーに声をかけると、ジミーは凍りついたよ。きっと、名前を認識されていたことに感動したのか、あるいは、ショックをうけたのだろうね。もし、ジミーがホコリ以上でいたくないのだとしたら。それはそれで可哀想なので、僕は助け舟をだす。
「あれは、可哀想でしたからね。」
「でも、バターはハリーを食うぞ。」
そのルイス氏の反論を聞く前に、ジミーは灰皿を
置き直して、おそらくは鼻をかみにどこかへ消える。
「ハリーは亡くなっていますからね。バターが飢え死ぬよりも、ちょっとかじって生き延びてくれたほうが、ハリーも喜びます。」
僕がそういうと、ルイス氏は少し驚いたように僕を見つめ、満足そうに、にやりとした。彼の笑い方は、そうなんだ、にやりとしている。
「それだ。人間は猫の下僕なんだ。人間は喜んでそうしている。そして、猫は猫なりに、下僕を愛している。だから、サイコ猫バターは、ハリー以降には人間を食うんだ。スフィンクス猫にそれをわからせなきゃいかん。」
「スフィンクス猫の下僕は愛がなさそうですもんね。」
「そうか?ロボットに愛はないのか?」
「ない方が今までのスフィンクス猫の地球猫への理解に納得がいきます。」
「ふむ。確かにそうだな。だが、そういう前提では考えていなかった。」
ルイス氏はついに立ち止まって腕組をはじめる。眼鏡を軽くおしあげ、僕にか自分にか、独白と言ってもいい調子で語る。
「そうだ、スフィンクス宇宙人は高度な文明の中にいる。しかし、地球猫は素朴な人間とともにある、つまり、地球猫はナチュラリストなんだろう。哲学か、あるいは宗教的対立の末に地球に降りた。いや、あるいは、棄民政策の犠牲者か?おやいや、スフィンクス猫はそういったことはしない。やはり、ロボットよりも原始的な生き物を飼いたいと地球に降りたんだな。」
僕は、その言葉が終わるのを待って、いつでもタイプできるように身構えた。おもむろにルイス氏はかたりはじめる。
「巨大な黄金のスフィンクスは、目の前の小さな裸猿たちを睨めつけて、喉の奥を震わせる。こいつらを跳ね除けて猫アークを発射しようと思えばできないことはない。既にパワーはオンだ。だがーー猫スフィンクスには疑念がよぎる。あの幼児化した地球猫を我が惑星へ連れ帰る事が、本当の意味での救済になるのだろうか。
『どうなさいました?』
白銀のオベリスクが青い光を振りまきながら尋ねる。
『うむ…我が友よ、この赤子たちをーー連れ帰る事に倫理的な逡巡を感じるのだ。』
だが、その深き対話を、裸の猿たちが素早く取り囲む。彼らは一様に、金属の球という火薬を動力とした射的体を発射する装置を前肢に抱えてこちらに向けている。黄金スフィンクスは、深い緑の中の闇の瞳孔をロボットに向けて語りかける。
『友よ、あの時、地球猫の発したにゃあという音が、自分には出せない。あの、すべての警戒を解き、怒りを無効化し、諦念と従順を呼び覚ます響き。そう、それは地球植民地化におけるもっとも有効な武器のひとつであった筈だろう。事態を平和的に解決するために、君にその再現を頼めないだろうか。』
それで、白銀のロボットは、体に『微笑』との文字を表示させ、そこに立体の仔猫の映像を写し出し、愛くるしい鳴き声で鳴かせる。だが、それはかえって裸猿を興奮させてしまったようだ。
『あんた達に猫は渡さない!彼らは、俺達の神なんだ!』
裸猿が叫ぶ。巨大な猫アークは、だが、発射に向けてその流線型の機体をわずかに震わせている。機体下部には鮮やかな緑の光が見える。裸猿達は絶望的な雄叫びあげてそちらへ走り出す。さあ、ここで場面切り替えかな。」
「もう少し引っ張りませんか。」
「戦うか、戦わないか。それが問題だ。」
「もう一度だ、我が友よ、もう一度ーー」
僕が知っている唯一のシェイクスピアをぶつけてみると、ルイス氏は笑いだし、それから、少しばかり反重力装置に人間が捕らえられる様子を描き出し、オベリスクに砂が入り込んで不調をきたし、スフィンクス型宇宙人が生涯で初めての動揺を経験するまでを語りきった。
「では、やはり猫は回収ですか?」
「これから、猫回収省の不正を暴いて、ハヤブサの頭の宇宙人を憤慨させ、最終会議を行う。だが、そこを人間が襲撃する。猫の人間への愛着を描かねばならんが、猫がそこまで執着するかどうか。」
「会議にゴリラ頭も混ぜられませんか。」
「猿は人間だけでいい。」
それから、ジミーを呼んでコーヒーを頼み、それからソファに腰掛けて目をつぶる。時々、人さし指で小さく中空を示す。きっと彼の脳内では戦闘が行われ、偉大なるスフィンクスが親友の白銀オベリスクと共に、今後の方針について対話を交わしている。
そう思いながら、僕は君への手紙を書いていたんだけど。突然、ルイス氏がまた口述を始めてね。
「ルイーズは真っ暗な砂漠をもう3時間もぶっ飛ばしていた。危険、立ち入り禁止の看板を数え切れないほど無視した。古い中古のシボレーは出だしこそガタツキはするが、あとはずっと安定して進んでくれる。遠くに、光の層が見える。
『あった。もうすぐだよ、エール。』
ルイーズは、車のなかで唯一新品に見えるペットキャリアーに優しいダミ声をかけてアクセルを踏み込む。もうすぐだ。
検問を青いボロシボレーが突破し、数度の威嚇射撃を無視して軍用基地の中を爆走する頃、スフィンクス宇宙人アイレンは深い思索のなかにいた。この情動の原因は、ロボットの不調によるものだ。ロボットは代替可能な筈だ。なのに何故この情動は生じた。
そこへ、何かが衝突し金属がひしゃげる音がする。青い、裸猿の乗り物が転がってくる。アイレンは目を開ける。年をとった裸猿の雌が、ひしゃげた青い乗り物から出てくる。
『あんたが』
年取った裸猿は箱型のものを乗り物から引き摺り出す。そして、箱を床に置き、丁寧に、中身を取り出す。一匹の老猫だ。灰色の毛に艶はなく、動きは緩慢で生気はない。
『あんたが、猫を天国に連れて行ってくれる猫神さまかい?あたしのエールを、頼みたいんだ。仔猫から育てた。猫回収省から隠したのは、あいつらを信用してなかったからでーーお願いだ、エールの腎臓もう長くないんだ。猫神様のところなら、猫の病気も簡単に治るんだろう?』
老女は泣きながら何度も老猫にキスをする。アイレンは哀れに感じて、病猫用のポッドを代用オベリスクに排出させる。病猫用ポッドは中が半液体で、地球猫でも不快感なくくつろげるように体温と同じ温度に調整されている。エールは、そこに足を踏み入れると、満足げに鳴いても身を丸める。だが、透明な蓋が閉まり、ルイーズが一歩退いてその顔が見えなくなると、途端にパニックに陥りめちゃくちゃに蓋を引っ掻き始める。
『おや、どうしたのでしょうね。』
いいながら、代用オベリスクはポッドに鎮静成分を噴出させ、エールは眠ってしまった。駆け寄って慰めていたルイーズは大粒の涙をポッドの上に落とす。
『いいんだよ、お眠り。長生きさせてもらうんだよ。』
だが、アイレンの思考は晴れない。エールは行きたくないのだ。
『羽蟲ロボに腎臓だけ手当させなさい。ルイーズと、その乗り物も改善しなさい。私は、少し、考える。』
いうと、アイレンはまた、深淵の対話を始める。内面化した親友オベリスクと。
どうだ、これで、猫を回収しない糸口にはなるんじゃないか?」
ルイス氏は、珍しく嬉しそうにいうと、またもやジミーの名前を呼んで、コーヒーを頼んだ。ジミーは、若干青ざめて、震える手でソーサーをささえながらテーブルに置く。
「はい、どうもね。」
ごきげんなルイス氏はジミーを見上げもせずにいうが、ジミーはパニックに陥ったのだろうね、スプーンを落として慌てて取り替えに行ったよ。
勿論、このままの文章がそのまま本になるわけじゃない。ルイス氏は、何度も書き直して、足して引いて、と、絵を描くみたいに話すを作るみたいだから。そりゃあ、肩にもくるよね。「全体にいいわけじゃない。時々、とても良くて、他は良くなかったりする」とご本人は話しているけれど。ジミーはどう思うのかな。君はどう思う?教えておくれ。
ーー君の兄、オーウェン・パーセルより
008.悪態について
親愛なる妹、ソフィアへ
やあ、コットンテイル。僕は今、少し反省しているんだ。いや、具体的に何か悪いことをしたわけじゃないんだが。いや、したかな。いつだったか、倶楽部に猫を夫変身した姿だと思っている、ミネルヴァさんというきれいな初老の夫人がいると書いたろう。あの人の秘書が、この間、倶楽部に鳥を2羽、連れてきたんだ。鮮やかな緑のやつと、頭飾りのある白いやつ。これが、口が悪いのなんの、ずっと罵りあっている。
「グァ、この、スカポンタン!」
「おだまり、このカルパッチョ!」
「キュルッ!ヘタクソ!」
聞くに耐えない。けれど、つい、笑ってしまう。つまり、僕は、彼らを楽しみすぎだという理由でミネルヴァさんに叱られたので、反省しているんだ。でも、倶楽部の温室に置かれた鳥籠から、その罵倒はひっきりなしに聞こえてくる。こんなのを飼っている秘書の人は、きっとさぞかし口が悪いのだろうと思ったのだけれど、そうでもないんだ。
「やあ、キング・ヨハン・クラウザー、お久しぶりです。」
ミネルヴァさんの連れの猫に、穏やかに声をかける細身の男性がいて、それがあの2羽の飼い主だ。
「どうもすみません、明日は家に姉が子供たちを連れてくるので…悪影響だと言われまして。少し置かせていただいています。」
「ああ、それは…面白いんですけどね。」
「彼らにとっては悪態は悪態ではなく、歌なので…とはいえ、皆さん、面白がって追加で色々と教えてしまうので、バリエーションは豊富です。ーーええ、そうですね、レノアさん。確かに、『このタケノコの皮が』と言われたときには、それがどうして悪口になるのか頭をひねりましたよ。」
この穏やかで満ち足りた雰囲気の男性は、意外なことにレノアさんが見えるらしい。そして、僕も当然、レノアさんが認知できると思っているようで、そのように振る舞う。
彼はしばし僕の隣のソファへ顔を向け眉を上げ、頷く。
「はあ、そんな言い回しもあるのですか、大変興味深いですね。」
「すみません、どんな言い回しでしょう?」
僕は、あまりレノアさんが見えないし聞こえないということを明かしたくないのだけれど、この時ばかりは気になって聞いてしまったよ。しかし、フランシスさん、とこの秘書の人は言うのだけれど、フランシスさんは驚いた表情で中空を見つめ、半ば口を開けて頷き、それから、少し考えてから、微笑む。
「申し訳ありません、レノアさんの時代に女性の間で流行った悪態だそうで。ただ、その、御婦人のデリケートな事に関わる悪態なので、私の口からは申し上げにくいのです。」
それで、僕は赤面してしまって。そうすると、少し気まずそうなフランシスさんも困ったような顔になる。それから、これは気のせいかもしれないし、遠くの誰かの声だったかもしれないし、インコたちの声だったかもしれないんだけど。いや、聞こえたわけでもないんだ。ただ、僕にはわかったと言ったらいいのかな。レノアさんが、大笑いしていた、ように感じたんだ。奇妙だろう。でも、僕が本当にそう感じなかったら、わざわざ妹に、どうやらデリケートだったらしいと知って赤面したことなんて書かないよ。それに、フランシスさんも、途中で申し訳なさそうに眉を寄せながらも笑いはじめた。それで、僕も仕方ないので笑ったよ。そこにいるかいないかもわからない存在と一緒に笑うって、なんだかいいものだなと思う。
そこへ、ふらりと黒騎士とロバートさんが現れる。シェイクスピアと悪態についての議論をしていて、議題は、「シェイクスピアが使った悪態は彼の発明か、それとも当時の巷の流行か」だったようだけど、どうやって証明するのだろうね。黒騎士さんは次々に違う人間に憑依する「死神」と恋仲の元スパイ、ロバートさんは似たようなもので、毎回ヒロイン役の劇中の人格に恋する厄介な人だ。二人とも、僕よりも年長ではあるけれどもシェイクスピアの時代の人ではない。そこで、彼らは「証言者のいる時代の悪態」に目を付けたようだ。だが、レノアさんは、聞くところによると若い女性らしいので、二人は最大限の配慮を払って尋ねる。しかし、レノアさんは何か彼らが予想外の事を言ったらしく、二人は「それは…すごい!」と言ったあとは絶句してしまった。僕は、どうしてもそれが聞きたかったけれどそういうわけにもいかないので、いっそ2羽のインコをこっそり連れてこようかとすら思ったよ。どうやら、ヨハンもレノアさんが見えるようだし、動物に見えて聞けるのなら、インコにも聞けるのではないかと思って。それで、僕は席を立ったわけなのだけれど。思い返せば、インコに2人が絶句するような悪態を覚えさせては、ますますフランシスさんが困ってしまうね。でも、それで良かったんだ。
温室に入ると、さらに大きな叫びが聞こえる。
「赦すまじ!赦すまじ!」
「このニンニクめ!」
「ルプス・イン・ファーブラ!ヘタクソ!」
「遅い!おいしいねえ!遅い!」
そんな風に叫びながらも、ちょくちょく、種の違うインコ同士でも仲がいいのか、羽繕いしあっている。鮮やかな緑の方はちょくちょく食べ物関連が入る。白い方はヘタクソが多いので、きっと何か芸を見せる人々の元にいたのかもしれない。近付いて見ると思いの外、鳥籠は大きい。持ち上げられないことはないが、こっそりと持ち込むには目立つ。それに、うるさい。少し離れて立っても、耳がカルパッチョになりそうなくらいだ。さすが、おそらくは、ジャングルで鳴き交わしているだけある。僕が近づいたせいか、2羽は興奮した様子で毛を逆立てる。緑のインコの目は分かりやすく瞳孔が縮み、まるで僕が嫌いみたいだ。
「カルパッチョ!カルパッチョ!」
「フィッシュ・アンド・チップス!」
僕はカルパッチョに対抗して、僕が好きなものを教える。
「グア!プシュ!」
「違うよ、チップス!」
「プス!プッツォーネ!」
それで僕は苦笑しながら目をあげる。そして、温室の外に、腕を組んだ人影がいる。金の髪が風に揺れ、顔は逆光でよく見えないが、ドリアンさんだ。それで、僕は温室から外に出る。彼は久しぶりだ。ここしばらく倶楽部に現れなかったので、てっきりルイス氏や黒騎士さんとエジプト旅行に行っているのかと思っていたのだが、帰国したルイス氏は違うという。
「ジジイ2人なら、服装を地味にすれば割と安全だ。だが、美男子はいけない。ドリアンといけば金を払わなくても良い酒を出してもらえる事は認めるが、危険にもなる。」
ルイス氏の軽口に、黒騎士氏は「おれはジジイかつ美男子なんだがね」と呟いていた。確かに、二人とも素敵な老紳士だ。そんなことを思い出しながら表に駆け出して、僕は声をかける。
「ドリアンさん!」
僕の声が思いの外大きく響きドリアンさんは驚いた顔でこちらを向く。
「やあ。君の声は彼等に負けず劣らずだね!」
「そうですか?」
僕が言うと、ドリアンさんはおかしそうに笑ったよ。
「自覚がないんだねえ。」
自覚はないよ、ねえ、コットンテイル、僕の声は大きいかい?僕が何か言うよりは先に、ドリアンさんが尋ねる。
「ねえ、愉快な彼らは、一体何?」
「フランシスさんの所の口の悪いインコ達です。」
「いいねえ、楽しくて。仲が良さそうだ。」
ドリアンさんは心持ち疲れた様子だったが、インコ達を笑顔で見つめていた。インコ達は、僕が離れてしばらくすると落ち着いたのか、今は「ガーリック」と小さく、とはいえ外までは聞こえる音量で言うだけだ。そして、白いインコが緑のインコを毛繕いしている。
「仲がいいんだね。」
少し羨ましそうドリアンさんは言う。
「僕ね。あんな感じの、異母兄弟がいたんだ。別に口は悪くなかったけど、悪態合戦はしたよね。一緒に悪ふざけしたり、喧嘩したり、おやつを盗んだり。」
ドリアンさんは、こちらをみるわけでもなく、ずっとガラス越しのインコか、もっと遠いものを見ている。そして、半ばは自分自身に語るように言う。
「彼も割と長生きしたんだけど、やっぱり、僕ほどじゃなかったなあ。ちゃんとおじいさんなったし。君くらい背があったのに、いつの間にか僕くらいに縮んだ。でも、ずっと、悪ふざけに付き合ってくれた。教会で賛美歌を歌う時、さりげなく下品に捻った歌詞を歌ったりね。」
「なんだか楽しそうですね。僕には妹しかいないので。」
「妹!妹も君みたいにでかいのかい?」
それで、ソフィ、君は普通サイズだと思うと言おうとしたんだけど、話題が変わってしまったよ。
「おや、お二人、お揃いで。」
ドリアンさんが言うので振り返ると、そこには先ほどレノアさんの悪態に絶句していた二人がいる。
「ドリアン!もう大丈夫なのか?」
「大丈夫も何も…なんでエジプト行き、誘ってくれないの。」
「あの事故の後じゃ行きたくないだろうかと思ったんだ。」
「事故?あいつら、事故って言ってたのかい?まったく。あれは、諜報活動の失敗だよ、ちなみに僕のせいじゃない。」
それで3人は何やら物騒で楽しそうな事を話し始める雰囲気だったのだけれど、突然、ルイス氏が「うわっ」と声を上げる。
「どうした?」
「なんかの糞だ!クソっ…」
そういうと、ルイス氏は片足で跳ねて手近な草むらへ行き、そこで靴底を擦り付ける。それから、さらに悪態を重ねつつこの惨劇を大袈裟に描写し、笑いを抑える黒騎士をも大袈裟に批難する。その様子が却って事態を喜劇化し、気まずさを抑える。僕ら全員が笑い、ルイス氏まで苦笑する。
「クソっ…」
「本物の、だね。」
ドリアンさんは楽しそうに言い、僕に手で合図しながら温室に向かう。
「ルイス、何か持ってきてあげるよ。」
ところが、温室から喫茶室に入っても、ドリアンさんはちり紙を探したり誰かを呼んだりする気配はない。まっすぐにフランシスさんの方へ向かう。
「ねえ、フランシス。あの鳥達、どこからもらってきたんだい?」
「ごきげんよう、ドリアン様。そうですね、白い方は近所の猫おばさんからいただきました。猫が咥えて持って来たとかで。」
「へえ、よく無事だったね!」
「本当にそうですよ。失神していたので暴れなかったせいかもしれません。緑の方は直接にお会いしたことはないのですが、どちらかのトラットリアの方が飼っていらしたとか。ミネルヴァ様から預かりました。」
「ええ?あの喋りぶりからすると、厨房で、とかかい?」
「さあ、私も詳しくはうかがっていないもので…」
「ねえ、あの鳥達、好き?」
「ええ。それなりに、大切ですよ。うるさくはありますが。」
「そうか。ちょっとうんざりしてたりしたら、僕に、くれない?」
突然のドリアン氏の申し入れに、フランシスさんは驚いたようにしばし言葉を止める。座ったまま、笑顔でソファにもたれているドリアンさんの顔を見上げ、真意を探るが、あまり答えは見つからなかったようだ。素直に尋ねる。
「彼らは独特で、それなりに世話も要りますが、本当に?」
「うん。大丈夫、僕のところ、金も人も余ってるから。それに、盗聴器があるらしいんで、それ向けにもいいんだ。」
「はあ。」
「きっと、聞いてる連中は僕の所にガラの悪い二人組が住み始めたと思うだろうし、彼ら、楽しいだろう?心底の罵倒じゃない、それがいい。だけど、うるさい。いなくなるとさみしいかな?」
一向にドリアンさんが靴を拭けるものを探す気配がないので、ドリアンさんの強引な様子が気になりながらも、僕は裏に回って雑巾や洗剤を調達する。途中、ジミー君に出会う。
「何してるんだ?」
「外でルイスさんが何かのフンを踏んでしまってさ。君、行きたくないだろ。」
「難しい事を聞くなよ。行きたいけどいきたくないけどいきたい気もする。」
「いいよ、僕が一式持っていくから。君、あとから替えのスリッパ持っていきなよ。」
「恩に着るよ。ああ、ウエスならその下に場所が変わったよ。ところで」
「なんだい?」
「サー・ルイス・アルジャーノン・リーは、フンを踏んだ時は、なんと悪態をついたんだい?」
「クソが、だよ」
「だって、クソじゃないの」
ジミー嬉しそうに笑って、スリッパよりも先に済ませなければならない仕事へ戻っていったよ。
ジミーとの会話を終えて戻ると、どうやら、ドリアン氏はインコ2羽を「借りる」話をフランシス氏とつけたらしく、嬉しそうに握手を交わしていた。
「マスカルツォーネ!マスカルポーネ!」
温室から叫びが聞こえ、ドリアンさんはそれに声を張って尋ねる。
「どっちだーい?」
先ほど、声が大きいと言われた僕は、室内なので遠慮して声を抑えて聞く。
「何が違うんですか。」
「何がって?」
僕が二つの語を繰り返せなかったので、フランシスさんが助け舟を出す。
「マスカルツォーネとマスカルポーネの差です。私も気になっていました。」
「悪口と、おいしいチーズの違いだよ。」
笑いながらドリアンさんは答える。その笑顔は気のせいかもしれないけれど、温室の外で見たときよりも、ちゃんと気持ちが入っていた気がするよ。そして、レノアさん彼を誘ったのだろう、軽く僕とフランシスさんに目で挨拶すると、誰かを伴うように彼は温室の方へ向かったよ。
「それはちょっとインコに教えるのははしたないのでは?」
ドリアンさんは、温室に向かいながらそう言う。僕は、まだ手に布や洗剤を持ったまま、フランシスさんに聞いてみたよ。
「かすんですか?」
「ええ。正直、少しさみしいような、ホッとしたような、不思議な感じですね。」
「元気ですもんねえ。」
「ええ。とても。私はいいんですが、最近来たフクロウがとても気にするようだったので。」
「フクロウ?」
「猫おばさんの猫が。大丈夫、傷は浅かったので、すぐに野生に返せると思います。」
フランシスさんは少し困ったように笑ったよ。
罵倒について長々と書いてしまったね。君も割と舌鋒は鋭いけど、さすがにカルパッチョとは言わないだろうね。君やお嬢さんは、最近はどういう罵倒をするんだろう。教えてくれたら、誰かに頼んでレノアさんにも教えてみたいな。
ーー君の兄、オーウェン・パーセル
『悪魔にとってありがたくない客』
もはや「嘆く独身者倶楽部」の面影はないんですが、オーウェン視点で書くのは楽しかったです。