東山界隈 ―路地犬アストロラーベ―

東山界隈 ―路地犬アストロラーベ―

ネフィリムネビリム

城は丘の上にある。
白い石で積まれ、乾いた光を返している。
人の手で組み上げられた秩序の色だ。
王は最上段にいる。
見張りと祈りのための、狭い広間。
壁に装飾はない。

祖の名、契約、戒め。
像はない。
顔を持つ神は、ここには置かれない。
王は膝をついている。
玉座の前ではない。
高い窓の前だ。
大きな王冠が床に置かれている。
投げ捨てられたのではない。
役目を終えた道具のように、
静かに、向きを整えられている。
王の頭には、
小さな王冠が残っている。
遠くで、三つの影が動いている。
最初は山だと思えた。
朝の光の角度が変わるたび、
尾根がずれるように見えただけだ。
だが、違った。
一体が腕を振り上げ、
谷が削られる。
もう一体がそれを受け止め、
岩盤ごと押し返す。
三体目は身を屈め、
倒れた同胞の肩に歯を立てる。
血が流れる。
赤黒い流れは川を変え、
畑を覆い、
都市の縁を壊す。
倒れた巨人は、
食われながら、
自分の手元の肉を口に運んでいる。
奪われても、
止まらない。

王は目を逸らさない。
まばたきはする。
だが祈らない。
強く張った頬骨。
深い目。
ちぢれた髭。
この顔は、
像に刻まれるためのものではない。
裁く顔でも、
征服する顔でもない。
聞き、覚え、
伝えるための顔だ。
王は思い出している。
天から降りた者たちのことを。
彼らが教えた技を。
金属の扱い、
刃の形、
言葉にならない知恵。
祝福だった。
実際に。
畑は実り、
城は高くなり、
民は守られた。
だが、
その守りは、
いつしか過剰になった。
この大きさは、
この力は、
戒めの外にある。
止めるべきだった。
予感はあった。
だが、止められなかった。
増えすぎた。
大きくなりすぎた。
食う量が、
作る量を超えた。
いま、
彼らは互いを食っている。
城の下では人々が叫び、
祈り、
逃げ惑っている。
王は動かない。
軍は届かない。
律法も風に散る。
祝福も、呪いも、
あの距離では意味を持たない。
王は膝をついたまま、
両手を床につく。
それは降伏ではない。
崇拝でもない。
理解してしまった者の姿勢だ。
空に天使はいない。
雲は重く、
光は差さない。
これは罰ではない。
裁きでもない。
起こるべくして起きた、
世界の状態。
王は小さく息を吐く。

神の王冠は棄てた。
だが、私は人の王として、
最後まで見届ける。
それは嘆きではない。
記録だ。
王は、
この瞬間を覚えておくために
生き残る者なのだから。

出戻りアクアリウム

職場は水槽に似ていると思う。
ガラスの向こうに世界があって、
その中で魚たちは、それぞれ勝手に泳いでいる。
流れを読む魚もいる。

石の陰でじっとしている魚もいる。
餌の時間だけ元気になる魚もいる。
誰かが水草を植え、
誰かが底砂を整え、
誰かが濾過装置の音を気にする。

誰もそれを「生態系」とは呼ばない。
ただ、なんとなく水は澄んでいて、
魚たちは互いにぶつからずに泳いでいる。
それだけだ。
 
ある日、一匹の魚がいなくなった。
強い魚だった。
海に挑んだ。

水流を作る魚だった。
水槽の中で一番速く泳ぎ、
一番多くの泡を立てる魚だった。

いなくなると、水は少し静かになった。
底の方にいた小さな魚が、
ゆっくり泳ぎ始めた。
水草の陰にいた魚が、
外に出てきた。

誰も命令しないのに、
水槽は静かに回り始めた。
濾過装置の音は同じなのに、
水の感じが少し違う。

透明度というのは、
きっとこういうものだと思う。
そして、ある日。
その魚が戻ってくるらしい、と聞いた。
誰かが言った。

「またあの感じに戻るんですね」

別の誰かが言った。
「そんな都合よくさせないよ」
私は水槽を見ていた。
魚は戻ってくる。
そういうこともある。
水流は変わるだろう。
水草は揺れるだろう。
でも、もうこの水槽は
あの頃の水槽ではない。
底砂は一度かき混ぜられ、
小さな魚たちは
自分で泳ぐことを覚えた。
水は、もう、
ただの水ではない。
ガラスの向こうで
魚が一匹、ゆっくり泳いでいる。
その背中を見ながら、
私はふと思う。
それでもこの水槽は、
まだ続いていくのだろう。

透明な水の中で、
私たちは今日も泳ぐ。

マイルダーザンヘブン

従食でランチ。

さて、
とりあえず、
お昼は一緒にいないとね、
という空気がある。

誰も命令はしない。
でも、命令より
よく効くものがある。
空気。
職場には
空気の形がある。
笑いの高さ、
相槌の速度、
誰が誰の隣に座るか。
間違えると、
少しだけ
温度が変わる。
それだけのこと。
それだけのことだけど、
一週間にすると
結構な量になる。
だから私は言う。

「日光浴びてきます」

事務所で寝ます、
とは言わない。
角が立つ。
でも、
日光なら誰も止めない。
ウェルビーイング的だし、
反対する理由がない。

ビルを出る。
光が少し強い。
歩道に出ると、
空気が軽い。

梅は咲いたか、桜はまだかいな?
 

ベンチに座る。
スマホも見ない。
ただ
少しだけ
空を見る。

天国、
というほど
大げさなものじゃない。
でも、
あの部屋よりは
少しだけ
やさしい。

私のスタンド名。
マイルダーザンヘブン。
なんちゃって。

そういう名前を
つけてもいい気がする。
昼休みは、
だいたい
四十五分ある。
そのうちの
三十分くらいで
私は人間に戻る。
残りの十五分で
また
人の顔を思い出す。
立ち上がると。
光が少し
弱くなっている。
それでいい。
天国なんて
行ったことはないけれど、
たぶん
これくらいが
ちょうどいいのかもね。

アテレース

七条河原町を少し下がったところに、小さな空き地がある。
空き地と言っても、昔は家だったらしい。
火事だったのか、取り壊しだったのか、誰もはっきり知らない。
いまはフェンスもなく、ただ砂利が敷いてある。
春になると、誰かが植えたわけでもないのに、
包丁草が伸びる。

その草を見ていると、京都だなと思う。
完成しない。
誰も完成させない。

ただ、途中のまま置かれる。
夕方、西日が東山の上に溜まるころ、
その空き地に女が立っていた。
きちんとしてる上下。
鈴蘭の日傘。

歩き方でわかる。
この街の人間だ。

ただ、何をしているのかはわからない。

誰かを待っている様子もない。
ただ立っている。
西日が顔に当たっているのに、
表情はよく見えない。

向かいの町家の窓から、老人がその様子を見ていた。

この街では、あまり理由を聞かない。
理由を聞くと、
話が終わってしまうからだ。

京都はだいたい途中で止める。
話も、建物も、関係も。

女は少し笑った。
カラスみたいだった。

何に笑ったのかはわからない。
猫が通ったわけでもない。
誰かが声をかけたわけでもない。
ただ笑った。
その顔を見て、私は思う。

ああ、これは完成していない顔だ。
喜びでもない。
悲しみでもない。
ただ、途中だ。
空き地の向こうで、笑い声がする。
知恩院の鐘が鳴る。

誰かが自転車で通り過ぎる。
全部が少しずつ重なっている。
どれも主役ではない。
女は空き地の端まで歩くと、
少しだけ首を傾けた。
そこに何かがあるように見える。
しかし、何もない。

私は思う。
ここには、たぶん何かがあった。
でも、それはもうない。
そして、次に何ができるかも決まっていない。
女は空き地を出て、路地に消えた。

西日はまだ東山の上にある。
草が風で少し揺れる。
誰もその草を刈らない。
刈る理由がない。
残す理由もない。
京都は、だいたいこういう形をしている。
完成する前のまま、
ずっと続く。

スーパー左目大戦

穴ぐら、
事務所。
出ると、もう夜だった。

いつか行きたい、天ぷら酒場のガラスに顔がぼんやり映る。

残業様の顔だな、と思う。
たいしたことはしていない。
ただ、終わらなかっただけ。
会議が一つ延びて、メールを返して、
「ここまでやって帰ろう」を三回くらい繰り返したら、こんな時間になった。

七条通り、少し空気が広い。
昼間より人が減るからだろうか。
歩くと、靴の音がやけに静かに聞こえる。
お腹が空いている。

ほか弁が食べたいな、と思う。
唐揚げでもいいし、のり弁でもいい。
白いご飯に、おかずが並んでいて、
蓋を開けると湯気が出る。
そういう、ちゃんとした晩ごはん。

でも、歩く元気がない。
遠いわけじゃない。

ほんの少し回ればある。
でもその「ほんの少し」が、今日はやけに遠い。
七条烏丸の交差点に差しかかる。
信号が青になって、人がゆっくり動き出す。
左目で、すき家の明かりをかすめる。
店の中は明るい。
カウンターに何人か座っている。
湯気と、牛丼の匂い。

一瞬、ああ、ここでもいいかな、と思う。
でも足は止まらない。
左目で通り過ぎる。
入ろうと思えば入れる。
でも入らない。
そんな小さな分岐を、
今日もいくつか通り過ぎている。
鴨川を越えると、コンビニがある。
2軒ともファミマ。
笑っちゃう。


明るい。
吸い込まれるみたいに入る。
パンの棚の前で、しばらく立つ。
食べたいものがあるわけじゃない。
ただ、ここにあるもので済ませる、という感じ。
丸いパンを一つ取る。
チーズがたっぷりに見せかけた乾いたやつ。

レジの横に、インスタント味噌汁。
それも手に取る。
結局、ここでパンを買う。
この先は無いから。

袋が、かさりと鳴る。
帰って、お湯を沸かす。
味噌汁をカップに入れて、
パンの袋を開ける。
テレビはつけない。
静かな部屋で、味噌の匂いだけが少し広がる。
なんとなく思う。
今日も、世界の影の中を歩いているみたいだ。

朝起きて、
風呂でくつろぎ、
仕事して、
帰り道で何かを通り過ぎて、
結局この袋小路でパンを買う。
味噌汁をすすりながら、
ふと、七条烏丸のすき家を思い出す。
左目で通り過ぎた、あの明るい店。
まぁでも牛丼はないなあ。

歓喜天

結局娘は名古屋に行った。

吉田山の濃い緑は、もう見に行っていない。
白川疎水の水音も、思い出さなければ聞こえない。
代わりに、自由な足は南へ下る。
三条を越えて、木屋町通り。

初春。
風はまだ冷たいのに、服だけが先に季節を変えている。

スプリングコート。
軽い。
こんなに軽かったのかと、歩きながら思う。

誰も手を引いていない。
引かれてもいない。
それだけのことなのに、
歩幅が少し変わる。


高島屋の化粧品売り場は、いつも通り明るい。
 
光が強くて、顔の輪郭が曖昧になる。
今朝リップを一本、捨てた。
古い色。
引き出しの奥にあったやつ。

――取り出したら負け、と思っていたもの。
カウンターの女の子が、
「こちら、今季の新色です」と言う。
指先で試す。
少しだけ、血の気が戻る色。
鏡を見る。
まぶたに指をあてる。
笑い方を、ほんの少しだけ変えてみる。
――誰に見せるわけでもないのに。
「お似合いです」
そう言われて、うなずく。
理由は聞かない。
理由なんて、どうでもいい。

それをそのまま、つけて出る。
木屋町通りの川沿いは、少し湿っている。
昼と夜のあいだ。
店はまだ半分しか開いていない。

暖簾をくぐる。
知らない店。
知らない席。

知らない私になったみたい。


小鉢が先にがひとつ、置かれる。
「初めて?」
「はい」
恐いけど、それだけでいい。

隣に座った男は、
物流センターの部長だと言った。
よく分からないけど、
ちゃんとしている人だった。
声が低くて、
ゆっくり話す。
こちらの話を、途中で遮らない。
それだけで、十分だった。
何を話したかは、あまり覚えていない。
天気とか、仕事とか、
どうでもいいことばかり。
でも、
どうでもいいことが、
ちゃんと通じる。
それだけで、十分だった。
グラスの水滴が、指につく。
冷たい。
ふと、思う。

――あの子は、今なにをしているのだろう。
思うだけで、
それ以上は続かない。
祈りにもならない。
言葉にもならない。
ただ、通り過ぎる。
男が言う。

「また来る?」
「どうやろ」
少し考えてから、
「来るかもしれへんな」
と答える。
外に出ると、風が変わっている。
少しだけ、暖かい。
スプリングコートの裾が揺れる。
軽い。
オシャレってこんなに軽かったのかと、
もう一度思う。
川面に、灯りが揺れている。
形は定まらない。
それでも、消えない。
どこかで、何かが祈られている気がした。
けれど、それが何なのかは、分からない。
分からないまま、
歩く。
木屋町通りは、まだ夜になりきらない。

ランデブーランブリング

京都には、ぬか漬けがない。
少なくとも、飯屋では出てこない。
……いや、正確には「見えない」だけなのかもしれない。

有名な漬物屋はいくらでもある。
千枚漬け、すぐき、しば漬け。
どれもきれいに整えられていて、料理の流れにすっと収まる。
でも、ぬか漬けだけがいない。

故郷では違う。
ぬか漬けは、宝物みたいに出てくる。
いい店ほど、さりげなく出してくる。
手入れされたぬか床の匂い。
きゅうりの歯切れ。

あの酸味と塩気。
「これがうちの味です」って、
そう言われている気がする。

強い。
でも、それがいい。
むしろ、その強さに意味がある。
濃口の文化では、味は重なっていく。
醤油、脂、旨味。
少しずつ積み上がって、
気づくと、舌が疲れている。
そこで、ぬか漬け。
一口で、全部がリセットされる。
フレンチのソルベみたいに、
「はい、ここまで」って区切ってくれる。
だから、ぬか漬けは必要だった。

京都は違う。
出汁は、最初から最後まで流れている。
静かに、でも確実に、少しずつ深くなる。
強くならない。
でも、確実に積み重なっていく。
まるで、ギアを一段ずつ上げていくみたいに。
そこに、ぬか漬けを挟むとどうなるか。
想像してみる。
透明な出汁の余韻の中に、
あの酸味と発酵の匂いが、すっと割り込んでくる。

悪くはない。
むしろ、おいしい。
でも——
流れが、切れる。
不味いわけじゃない。
ただ、文脈に合っていない。

能の幕間に、巧みな講談が挟まるような違和感。
どっちも好き。
むしろ、どっちも大好きだと思う。
でも、今じゃない。

ある日、漬物屋の前で立ち止まって、ふと思った。
ぬか漬けは、どこにあるんだろう。

たぶん、ある。
どこかの家の奥に、静かに生きている。
毎日かき混ぜられて、
手の匂いを覚えて、
その家の時間を吸い込んでいく。

店には出てこない。
出さないのかもしれない。
京都は、そういう街だ。
見せるものと、見せないもの。
出す味と、奥にしまう味。
その線引きが、やけにきれいで、少しだけ面白い。
帰り道、口の中に残る出汁の余韻を感じながら、
ふと、思い出した。
ぬか漬けの味。
あの強さ。
あの輪郭。
食べたい、とは思う。
でも同時に、少しだけわかる。
ここでは、違う。
もう少し、先。
——ギムレット的な物には、まだ早い。

ディストーション

普通だね
それだけ。

その言葉は、あとから効いてきた。
気づいたときには、もう体幹に染みていた。
私は、ここではうまくやれていた。
空気を読んで、
ちょうどいい位置に立って、
ちょうどいいことを言う。
それだけで、みんなが優しくしてくれた。


歪みを歌う女は、特別だったのかもしれない。
でも本当は、
ちやほやされていただけだと思う。

あの娘の声を、あとで聴いた。
同じ編成。
同じくらいの技術。
でも、まったく違った。
音が、前に出てくる。
迷いがない。
自分の中から、ジャッキー・チェンがそのまま出ている感じがした。

再生回数が表示される。
三百万。
その数字を見て、わかった。
ああ、これが外なんだ、と思った。
私にも、音はあった。
感情もあった。
でも、それは
外に出る形になっていなかった。
小さい場所の中で、
優しく守られていただけだった。
あの娘たちは違った。
自分の中のものを、
誰でも触れる形にしていた。
だから、広がっていく。

スタジオに戻った日、
誰も椅子を引かなかった。
それだけで、十分だった。
「あ、そこ違うかも」
誰かが言う。
前なら、言わなかった言葉。
私はうなずく。
「うん、直す」
普通だね。

その言葉が、頭の中で何度も響く。
でも、もう嫌じゃなかった。
だって、だってね。
ここでの私は、
ちょうどよく整えられていただけだった。
なら。
もう、整えなくていい。
私は、音を外す。
リズムをずらす。
声を崩す。
きれいじゃない。
でも、こっちの方が、本当だと思った。

あの娘たちみたいにはならない。
なれないし、なるつもりもない。
でも、戻ることもできない。
だから、もっと変になる。
伝わらなくてもいい。
回らなくてもいい。
私のままでいい。
私は、あの子たちより上手く歌える。
だから、歪ませる。

幻嗅

河原町佛光寺
ファミマは、夜になる前の気配を映し出す。
明るいはずの蛍光灯が、人を平らにする。
店の横の喫煙所は、風が抜けない。
煙が、そこに留まる。
マルボロの匂いはすぐにわかる。
乾いていて、少し軽薄。

あの日、その記憶に甘いコロンが混ざる。

部長。
姿を見る前に、そこにいるとわかる。

話しかけなくても、距離が揃う。

「吸うんだ」
最初に言ったのは、どっちだったか覚えていない。
火を借りたのか、貸したのか。
どちらでもよかった。
煙とコロンが混ざると、少しだけ温度が上がる。
乾いた営利行動を忘れられる。

それが心地よかった。
部長は、甘い匂いをつける人だった。
強すぎないのに、残る。
煙に混ざっても消えない。
「カミさんが好きでさ」
そう言っていた気がする
馬鹿みたい。

その日も、同じ場所に立っていた。
いつもと同じように、煙を吐いて、
同じ高さに白い層ができる。

「やめるんですか」

「いや、異動みたいな」

それも軽かった。
理由は聞かなかった。
聞く必要がなかった。

煙は、くの字に曲がり消えた。
風はなかったのに、形だけが崩れる。

コロンの匂いは残っていた。
2日後、部長はいなくなった。


昨日、喫煙所に立った。
目を細めマルボロに火をつける。
煙は同じように上がる。
でも、混ざらない。
甘い匂いは来ない。
白い煙だけが、均一に広がって、
そのまま薄くなる。
それで終わる。
店内の棚は変わっていない。
レジの音も同じだ。

誰も何も言わない。
あの人の机は、もう片付いているらしい。
見に行っていない。
煙はすぐに消える。
形も、温度も残さない。
でもコロンは違う。
少しだけ遅れて、そこに留まる。
あの人は、残るものを選んでいたのかもしれない。
それとも、残るようにしていただけか。
マルボロの匂いは、すぐにわかる。
でもそれだけだ。
混ざるものがないと、ただの煙になる。
愛って何だったのかね。

アストロクリケット

会議室のガラスに雨が貼りついている。
ムンバイのモンスーンは、降るというより“続く”。

外は灰色で、道路は川みたいに流れて、クラクションが水に沈んで聞こえる。
湿気がドアの隙間から入り込んで、エアコンの冷気とぶつかる。原稿が少しだけ波打つ。

反論が重い。
こういう日は、言葉が余計に絡む。
俺は決めている。
必要な要素を入れる。

「異能、入れましょう」

相対する編集長ラオは窓を見たまま言う。
「入れない」
外でタクシーが水を跳ねる音がして、会議室に一瞬だけ現実が侵入する。
「理由は?」。
「スポーツは、嘘をついた瞬間に終わる」とラオ。
雨粒が一つ、ガラスを滑り落ちる。
いい台詞だ。

だから否定する。
「逆です。現実だけじゃ、始まらない」資料を滑らせる。
湿気で指が少しだけ紙に吸いつく。

「読者は“来年の面白さ”じゃなくて、“今面白い”を選ぶ。」
ラオは首を振る。
「“すぐ”は、瞬く間に飽きられる」

雨音が強くなる。会議のリズムと、外のリズムがズレていく。
どっちも正しい。
だからどっちも間違ってる。


ペンシラーのカビールが言う。
「……僕は、どっちを書けばいいんですか。」その声は、雨に少し溶ける。

「君はクリケットを書きたいのか」とラオ。
「それとも“売れるもの”を書きたいのか。」と俺。
カビールは黙る。
沈黙の中で、天井のどこかがかすかに鳴る。


多分彼の世界では、どっちでもいい。
勝ちたいわけじゃない。“成立させたい”だけだ。
カビールはすぐにでも書きたい、どっちも書ける。

カビールが言う。
「……どっちを書けばいいんですか」
その瞬間、ぽつり、と机に水が落ちる。
全員の視線が一点に集まる。
天井のシミが広がっている。
誰も言わない。
こういう“余計な現実”が、議論を壊す。


会議が終わる。
ドアを開けた瞬間、湿気が一気に体にまとわりつく。

廊下の向こう、誰かがバケツを置いている。
現場の処置だ。
外に出ると、街は湿度の中にある。
歩道は消えて、店の前で人が雨宿りして、チャイの湯気が雨に混ざる。
全部が滲んで、でも輪郭だけは消えない。
俺は思う。
今の読者に、カーストなんか刺さらない。でも、それでいい。マンガフォーマットはもう飽和してる。ルールも、技も、全部出尽くしてる。
だからこそ、世界観は説明しなくていい。読者は“感じる準備”ができている。
ならやることは一つ。わかりやすい戦いの顔をして、わかりにくい現実を通す。
ポケモン対戦みたいに見せて、その奥に、選べなかった人生を置く。
雨は続く。
選択も続く。

ウルズ

昼より夜の方が正直だ。
ヒールが、わずかに滑る。
雨は止んでいるのに、湿気だけが残っている。
東山は、こういう夜に限って嘘をつかない。
「気をつけてね」
後ろから声がする。
振り返らなくても、どういう顔で言っているかはわかる。
優しい声。

「ありがとうございます」
ちゃんとした返事。
こういうのは、もう慣れている。

——高校のときは、誰も言わなかった。
同じ足だ。
同じ体重。
同じ歩き方。
違うのは、靴と、場所と、
それを見ている目だけ。



「……なんだコレ」
小さく笑う。
笑い方も、たぶん前より上手くなっている。
スマホが震える。

画面には、さっき断った人の名前。
“また今度ご飯でもどうですか?”
悪い人じゃない。
むしろちゃんとしている。
話も普通に面白い。

断る理由なんて、本当はない。
それでも、指は「また機会があればお願いします」と打って、送る。

既読はすぐについた。
返事は来ない。
それでいい、と思う。

思う、けど。
画面を閉じたあと、ほんの少しだけ、
何かを取りこぼしたみたいな感じがする。

南座の明かりが、水に滲んでいる。
昼間なら観光客で埋まる道も、今は静かだ。 

こういう時間の京都は、妙に均一で、
誰にでも同じ顔を見せているみたいに見える。

——私も、そうなったのかもしれない。
高校のとき、鏡を見るのは義務であり苦痛だった。

確認。

今日も同じ顔か、という確認。

評価は外からしか来なかった。
そして、その評価はずっと低かった。
だから、変わったのは世界の方だと思う。

服を変えた。
髪を整えた。
姿勢を意識した。
就職して、場所が変わった。

それだけだ。
それだけなのに。
「かわいいよね」とか、
「一緒にいると落ち着く」とか、
「また会いたい」とか。
どこから捻り出した言葉なのか、わからない。
気持ち悪いのに、悪くないね。

私は、ずっと同じなのに。
立ち止まって、足元を見下ろす。
水を含んだ石は、わずかに光を返している。  

均一じゃない。
ひとつひとつ、微妙に形が違う。
でも、遠くから見れば、ただの道だ。

「……同じだね」
誰にでも踏まれる。
誰にでも使われる。
でも、その中身は見られていない。
ポケットの中で、スマホを握る。
もし、全部受けていたらどうなっていたんだろう。

ご飯に行って、話して、笑って、
そのまま、なんとなく続いていく関係。
それが悪いとは思わない。
むしろ、正しい選択肢に見える。
でも。
今の私を妬んだ過去の私が叫ぶ。

「どこがいいのか、わからないまま進むのって、怖くない?」

頭の中でだけ、言葉になる。
もし誰かが、
「ここがいい」と指差してくれたら。
理由を説明されなくても、
納得できるような視線で見てくれたら。


強くて、揺れなくて、
表面じゃなくて、もっと奥の、
言葉にならない部分まで見てくるようなやつ。
そんなの、現実にいるわけない。
わかってる。
でも。
このまま、全部パスしていたら。
どうなるんだろうね。

いつか、そういう例外に当たる可能性だけは残る。
選ばないことで、
“正解を保留する”。
それが、いまの私のやり方だ。

正面橋の上に出る。
川は暗く、増水している。
流れだけが音になる。
スマホが、また震えた。

今度は別の名前。
一瞬だけ、画面を見る。
それから、電源を落とす。

風が抜ける。
少しだけ、冷たい。
「……まあ、そんな感じはいないか」

そう言って、歩き出す。
ヒールが石を踏む音が、一定のリズムで続く。
滑らないように、わずかに重心を調整する。
このくらいのズレなら、
自分でどうにかできる。
たぶん、全部そうだ。
そう思いながら、
もう一度だけ、さっきの感覚をなぞる。
——なんだコレ。
答えは出ないまま、
東山の夜だけが、やけに正確に続いていく。

ベルダンディ

諸君、誤解している者が多い。
先ほどのレディを“あざとい女”と呼ぶのは、あまりにも粗雑だ。

それは現象を見て、構造を見ていない。
彼女は媚びているのではない。
迎合しているのでもない。
最適化している。
まず前提として、人間の感情はランダムではない。
驚くほどパターン化されている。
安心するタイミング。
笑う間合い。
距離を詰めていい角度。

これらはすべて、観測可能であり、再現可能だ。
それを知っている。
いや、正確に言えば——
知ってしまった後の人間だ。
彼女は、相手が心地よくなる反応を外さない。
なぜなら、外す必要がないからだ。
試行錯誤は終わっている。
誤差は収束している。
残るのは、正解の反復のみ。
ここで諸君はこう思うだろう。

「それは技術だ」と。
違う。

それはすでに、環境だ。
周囲では、関係性は自然発生しない。
すべてが“ちょうどよく”配置される。
会話は途切れず、
沈黙は不快にならず、
好意は段階的に増幅される。
これはもはやコミュニケーションではない。
設計だ。

では問おう。
そこに“感情”は存在するのか?
答えは単純だ。
存在する。
だが、必須ではない。
感情を起点に関係を築かない。

関係を成立させたあとで、
そこに感情を流し込む。
順序が逆なのだ。
ここに、決定的な違和が生じる。
通常、人はこう信じている。

「好きだから、うまくいく」と。

だが世界では、
「うまくいくから、好きになる」
が成立する。

諸君、これは些細な違いではない。
因果の反転は、倫理の崩壊を意味する。
さらに厄介なのは、
この構造が極めて快適であるという点だ。
居心地がいい。
話が通じる。
理解されている気がする。
すべてが満たされる。

だが同時に——

何も残らない。
なぜか。
答えは明快だ。
そこにあるのは、
“関係の結果”であって、
“関係の過程”ではないからだ。
過程なき関係は、記憶に定着しない。
抵抗がないからだ。
摩擦がないからだ。
すべてが滑らかに進む関係は、
痕跡を残さない。
さて、ここで一人の男を想像してほしい。
彼は彼女と出会い、
会話し、
惹かれていく。
すべては自然だ。
すべては正しい。
だがある瞬間、彼は気づく。
「これは、俺である必要があるのか?」
この問いが生まれた時点で、
関係はすでに破綻している。
現在は、個人を必要としない。
必要としているのは、
“条件を満たす相手”だ。

したがって彼女の世界では、
誰が来ても成立する。
ここで初めて、
過去のの価値が浮かび上がる。
壊す。
ズレる。
外す。
失敗する。
だがそれゆえに、
再現できない関係を生む。
諸君。
ベルダンディは、現代における最も完成された存在の一つだ。
だが同時に、
最も“存在が希薄な存在”でもある。
最後に、覚えておきたまえ。
彼女と過ごした時間は、
確かに“良い時間”として記録される。
だがそれは、
誰とでも交換可能な幸福だ。
そしてそれに気づいた者から順に、
静かに、彼女の世界から脱落していく。

スクルド

バックキャストだって。

未来から考える、ってさ。
言うのは簡単なんだよね。
「こうなりたい」
「こうなっていたい」
で、そこから逆算して、
今やることを決める。
――はい、正論。
でもさ。

その「こうなりたい」ってやつ、
だいたい借り物じゃない?
誰かの成功例とか、
画面の向こうの生活とか、
なんか“それっぽい形”。
それで逆算しても、
途中で絶対、ズレる。

なんでかっていうと、
それ、自分の未来じゃないから。
たまにさ、いるじゃん。
もう分かってるみたいな顔の人。
先のこと、全部見えてるみたいな。
「ああ、それはそうなるよ」って顔。
あれ、なんなんだろうね。

別に占い師でもないし、
頭がいいって感じでもない。
でも、外さない。
たぶん、正解を知ってるわけじゃない。
ただ、
どの選択がどこに繋がるか、
なんとなく見えてるだけ。
未来は一個じゃない。

でもさ、
選ばなかったやつは、
全部消える。
これ、当たり前なんだけど、
考えるとちょっと怖い。

で、ここで一番ダサいこと言うね。
私さ、ずっと思ってたの。
ちゃんと好きになれる人とか、
ちゃんと意味のある選択とか、
そういうの、来るんだと思ってた。
選ばれるやつ。

でも違った。
来ない。
そんなもん、基本来ない。
だから結局、こうなる。
選べないから結局。

なんとなく。
ちょっとだけマシそうなやつ。
致命的に嫌じゃないやつ。
それを選び続ける。
あとから見るとさ。
不思議なことに、
ちゃんと一本の線になってる。
あんなに適当に選んでるのに、
「まあこうなるよね」みたいな顔してる。
さっきの、あの感じの人みたいに。
ムカつく。
でもたぶん、あれって
正解を知ってる顔じゃない。
「これで良かった」って言うための顔。
じゃあ今、何するかって話。
未来を一個決める。

理想でもなんでもいい。
雑でいい。
そこから逆にたどる。
何を捨てて、
何を選ぶか。
それを決める。

で、最後に一個だけ残る。
すごいシンプルなやつ。
臭く無い人なら誰でも良いのに
なのに、選んでる。
ちゃんと選んでる。
理由なんて、あとからつけるくせに。
たぶんそれが、今。

共喰い

節分に離婚した。

理由は説明できる。
何度も説明したし、たぶん正しい。
でも正しさって、生活の中ではあんまり役に立たない。

段ボール三つと、子どもひとり。
それで私は、実家の前に立っていた。

チャイムを押す前に、少しだけ息を整えた。
整えないと、何かがこぼれそうだった。
ドアの向こうで足音がして、止まる。
すぐには開かない。

「……ほんまに帰ってくるん?」
母の声は低かった。
怒る前の、あの声。

「うん。少しだけ。落ち着くまで」
沈黙。
ドア一枚で、世界が分かれている感じ。

「条件あるで」
鍵が回る前に言われる。

「ちゃんと反省してるって、形で見せや」
形。
意味じゃなくて、見えるやつ。

「……どうしたらいい?」


「土下座くらいできるやろ」
軽い声だった。
買い物を頼むみたいな言い方。

私は一度だけ、後ろを見る。

娘が立っている。
私の服の裾を握っている。
何もわかっていない顔で、ただ見ている。

逃げる選択肢はなかった。

膝をつく。

コンクリートが固い。
思っていたより、ずっと固い。

スカート越しに、じかに骨に当たる感じがする。
体重が乗ると、じわじわ痛みが広がる。

手をつく。
掌に、細かい砂のざらつきが刺さる。

そのまま、上半身を折る。

腰が引っかかる。
うまく曲がらない。
でも押し込む。

額を地面につける。

冷たい。
でも、少し湿っている。
乾ききらない冷たさ。

鼻が潰れる。
息がうまく吸えない。
コンクリートの匂いが近い。

「……お願いします」
声が、地面に吸われる。

一秒。
二秒。
もっと長いかもしれない。

娘が小さく言う。

「ママ、なにしてるの?」
その声で、少しだけ現実に戻る。

でも顔は上げない。

上げたら終わる気がした。

母はすぐには何も言わない。
見ている気配だけがある。

やっとドアが開く。

「入ってええよ」
それだけだった。

立ち上がると、膝が少し震えた。
スカートに、薄く汚れがついていた。

娘が私の手を握る。
いつもより少し強い。

家の中の音が、やけに大きい。

引き戸。
テレビ。
冷蔵庫。
母のため息。

全部、近い。



娘はすぐに慣れた。
畳に寝転んで、テレビを見て笑う。
耳塚公園の青いカバに乗るのがお気に入りだ。

母は優しい。
ちゃんと優しい。

ご飯も出るし、洗濯もしてくれるし、
「大変やったね」って何度も言う。

でもその優しさは、少し重い。

「ほんま、あんたは男見る目ないなあ」
軽く言う。
軽いから、逃げられない。

私は笑う。
笑って流す。
流すたびに、何かが削れる。



「今度さ、背割堤行かへん?」
母が言う。

「桜、ちょうどやって。レンタカー借りて」
行きたくない、と思う。

綺麗なものを、母と並んで見たくない。
綺麗だねって言う役をやりたくない。

でも断ると、母が可哀想だった。

「……いいよ」
言ってしまう。

母は嬉しそうに笑う。


当日、天気は良すぎた。

母は助手席で喋り続ける。
まだ何も見ていないのに「やっぱり桜の時期はええねえ」と言う。

私は前だけを見る。

ハンドル。
信号。
前の車。

それ以外を見ると、崩れる。

「晴れてくれてよかったわ」
息が少し詰まる。

「……うん」
それしか出ない。

「やっぱり家族ってええね」
静かに刺さる。

桜は綺麗だった。

ちゃんと綺麗で、逃げ場がなかった。

娘が走る。
母が笑う。

いい日みたいだった。

ベンチで、少しだけ静かになる。

娘は少し離れたところで遊んでいる。

「……これからどうするん」

母が言う。

「なんとかする」

「再婚とかは?」

「無理やと思う」

「なんで?」

少しだけ考える。

「愛し方、わからんし」

母は黙る。

それから言う。

「……ごめんね」
揺れる。

許したいのか、責めたいのか、わからない。

「別に、お母さんのせいちゃうし」
また庇う。

風が吹く。

花びらが落ちる。

母の肩に一枚つく。

取らない。

たぶん私たちは、ちゃんと愛している。

でもそのやり方が、少し違う。

相手を楽にするためじゃなくて、
自分が崩れないために使う愛。

食べて、食べられて、形を保つ。

「ねえ、お母さん」

「ん?」

「来年は、ひとりで来たら」

母が見る。

傷ついた顔。

沈黙。



背割りの桜は勝手に綺麗だった。

私たちとは関係なく。



私たちは、愛し方がわからないまま、

喰い合って、

消えてしまいたいんだ。

カニバル

胸騒ぎがしていた。

こういうのは当たる。
長く母親をやっていると、なんとなくわかる。

電話の回数が減る。
声が少し乾く。
大丈夫、と言う回数が増える。

だいたい、そのあとに壊れる。

玄関の前に立っているのを見たとき、ああ、と思った。
やっぱりな、と思ったし、少しだけほっとした。

帰ってきた。

それがまず、ひとつ。

それから、少し腹が立った。
やっぱり帰ってくるんや、と思った。

人は、行き場がなくなると戻ってくる。
そういうふうに育てたつもりやから、間違ってはいない。

でも、それでも、腹は立つ。

「……ほんまに帰ってくるん?」
閉じたドア越しに聞いた。

すぐには開けなかった。
開けたら、そのまま全部受け入れることになるから。

「うん。少しだけ。落ち着くまで」
少しだけ、は嘘やと思った。
でも、それを責めても意味がない。

孫娘ももいる。


あの子に罪はない。

でも、だからといって、何もなかったみたいに迎え入れるのは違うと思った。

私はちゃんとやってきた。
少なくとも、そう思っている。

働いて、食べさせて、学校に行かせて、
間違えないように、何度も言ってきた。

あの子が選んだことだ。
専門学校を勝手に辞めたのも、
あの人から紹介してもらった会社を辞めたのも、

あの男も、あの結婚も。

だから、ここで一度、形をつけさせないといけないと思った。

「条件あるで」
言ってから、少しだけ息を整える。

「ちゃんと反省してるって、形で見せて」

言葉にすると、少し冷たく聞こえる。
でも、必要なことやと思った。

あの子は、形がないとわからない。



「土下座くらいできるやろ」

軽く言ったつもりだった。
重くすると、壊れるから。

本当は、そこまでしたいわけじゃない。
でも、それくらいのことをしてでも戻りたいんや、って確認したかった。

それだけ。

あの子が後ろを振り返る。

孫がいる。

小さい手で、服を握っている。

一瞬だけ、迷った。

でも、目は逸らさなかった。

ここで甘くしたら、全部同じになる。

あの子が膝をつく。

思っていたより、ゆっくりだった。

ちゃんと覚えている。

膝のつき方。
手の置き方。
体の折り方。

ぎこちない。

ああ、この子はこういうことをしてこなかったんやな、と思った。

私はしてきた。
何度も、何度も、何度も。
この子のために。

そうやって生きてきた。


額を地面につけた。

長い。

思っていたより、長い。

孫の声がする。

「ママ、なにしてるの?」
その声で、一瞬だけ視線が揺れる。

でも、逸らさなかった。

ここで終わらせたら、あの子はまた同じことをする。

そう思った。

ドアを開ける。

「入ってええよ」
それだけ言った。

十分やと思った。

家に入ると、少しだけ空気が変わる。

人が増えると、音も増える。

テレビ。
冷蔵庫。
足音。

あの子は静かだった。
必要以上に。

それが少し気になった。

孫はすぐに慣れた。
子どもは強い。

畳で寝転んで、笑っている。
耳塚公園の青いカバの遊具が好きらしい。

明日も連れていこうと思った。

私はできることをする。

ご飯を作る。
洗濯をする。
「大変やったね」と言う。

それが愛情やと思っている。

間違っているとは思っていない。

「ほんま、あんたは男見る目ないなあ」
軽く言う。

責めているわけじゃない。
事実やと思う。

でも、あの子は笑うだけ。

何も言わない。

それが少し、腹立たしい。

言い返してきたらいいのに、と思う。

そうしたら、ちゃんと話ができるのに。

「今度さ、背割堤行かへん?」
ふと思いついて言った。

桜の時期やし、気分も変わるかもしれん。

昔は、よく出かけた。

あの子も、ちゃんと笑っていた。

「……いいよ」
あっさり言った。

少し拍子抜けする。

もっと嫌がるかと思った。

でも、来ると言うなら、それでいい。

当日、天気は良かった。

こういう日は、それだけで少し救われる。

助手席で、いろいろ話す。

沈黙が続くのは苦手やから。

「やっぱり桜の時期はええねえ」

まだ見えていなくても、言う。

そういうものやと思っている。

「晴れてくれてよかったわ」
あの子は、短く返すだけ。

昔からそうやった。
必要以上に喋らない。

「やっぱり家族ってええね」
ぽろっと出た。

本心やと思う。

桜は綺麗だった。

背割堤は広大で、景色の奪い合いが起きない。

孫が走る。
笑う。

それを見ると、少しだけ報われる。

ここまでやってきてよかったと思う。
少なくとも、間違いじゃなかったと思いたい。


ベンチで、少し落ち着く。

孫は離れて遊んでいる。

「……これからどうするん」

聞かずにはいられない。

心配やから。

「なんとかする」

それでは足りないと思う。

「再婚とかは?」

少しでも、ちゃんとした形に戻ってほしい。

「無理やと思う」

「なんで?」

「愛し方、わからんし」

その言葉に、少しだけ詰まる。

それは、私のせいかもしれないと思った。

「……ごめんね」
口に出る。

でも、それ以上は言えない。

どう謝ればいいのか、わからない。
何が間違っていたのかも、はっきりしない。

「別に、お母さんのせいちゃうし」
そう言われると、少しだけ安心する。
同時に、少しだけ寂しい。

本当は、責めてほしいのかもしれない。

風が吹く。

花びらが落ちる。

肩に一枚つく。

取ってもらえない。

気づかないふりをされている気がした。

たぶん私は、この子のために生きてきた。

そう思っている。

でもこの子は、この子で、私のために生きてきたと思っているのかもしれない。


どちらも正しい気がするし、
どちらも間違っている気もする。

「来年は、ひとりで来たら」

そう言われる。

胸が痛む。

でも、引き止める言葉が出てこない。

出してはいけない気もする。



この子を手放したら、私は空っぽになる気がする。

でも、このままでも、どこかが削れていく。

やり方は変えられない。
変え方もわからない。

だからたぶん、これからも同じことを繰り返す。

与えて、縛って、
守って、削って、
食べて、残して、

そうやってしか、愛せない。

私たちはきっと、

噛み合ったまま、離れられない。

おジャ魔女ウロボロス

魔法は、あると思っていた。
というか、ないと困ると思っていた。
小さい頃、家の中には理由のわからない空気があった。
静かすぎる日と、音が多すぎる日。
どちらも同じくらい居心地が悪い。
だから私は、本を読んだ。
おまじないの本。
図書館の、あまり人が触らない棚にあるやつ。
「関係がよくなるおまじない」
「ケンカがなくなる言葉」
「気持ちが通じる方法」
全部、やった。
紙に名前を書いて折るやつ。
夜中に水を飲むやつ。
同じ言葉を三回繰り返すやつ。
意味はわからなかったけど、
やらないよりはいいと思った。
実際、少しだけうまくいくこともあった。
母と祖母が、少しだけ静かに話す日。
怒鳴らない日。
誰も泣かない日。
それを、私は「効いた」と思った。

魔法はある。

少なくとも、あることにしないと困る。
成長すると、やり方が変わった。
おまじないは、やめた。

代わりに、勉強をした。
点数は裏切らない。
順位も裏切らない。
テストで一番を取ると、家が少しだけ静かになる。
通知表が良いと、誰も文句を言わない。

「この子はちゃんとしてる」
その一言で、家の空気が少しだけ整う。
私はそれを覚えた。
だから、続けた。
ちゃんとしている側にいる。

問題がない側にいる。
評価される側にいる。

そうすると、家は壊れない。
少なくとも、その日は。
気づいたときには、理屈で考えるようになっていた。
原因と結果。
入力と出力。
条件と反応。
人の機嫌も、構造として見えるようになった。

母は、こう言われると沈む。
祖母は、こういうときに強く出る。

間に入って調整すれば、衝突は減る。
完全にはなくならないけど、
最悪の形にはならない。
それで十分だった。
私は、うまくやっていると思っていた。

大学は理系に進んだ。
理由は単純で、嘘が少ないから。
式は裏切らない。
再現性がある。
間違っていれば、どこが間違っているかわかる。

人間は、そうじゃない。
同じことをしても、違う結果になる。
正しいことをしても、壊れる。
だから私は、そっちを選んだ。

ある日、本町を歩いていて、犬の葬式を見た。
小さな祭壇。
赤い布。
写真。

人が少し集まっていて、静かに泣いている。
不思議だと思った。
犬の死は、誰の責任でもないのに、
ちゃんと悲しめる。
誰も誰も責めていない。
ただ、いなくなったことを受け入れている。
それを見て、少しだけわからなくなった。
夜、夢を見た。
コンクリート。
湿った匂い。
低い位置から見上げる景色。
覚えている。
私は言った。

「ママ、なにしてるの?」
あのとき、母は顔を上げなかった。
あれが何だったのか、今はわかる。
謝罪。
交渉。
生存。
全部混ざった行為。

夢の中で、知らない人が隣に立っていた。
男でも女でもない感じの、曖昧な輪郭。
「それ、見たの?」
と聞かれる。
「見た」
「理解してる?」
少し考えてから答える。
「構造としては」

その人は、少しだけ笑う。
「それ、便利だよね」
「うん」
「でもさ」
少しだけ、間を置いて言う。
「それ、痛くないでしょ」
私は答えない。
答えられない。
その人は、名前を持っていた。
マルセル、と名乗った。
たぶん、私がつけた。

都合のいい人格。
都合のいい距離。
「君はさ」
マルセルが言う。
「全部、調整しようとするよね」
「その方が壊れないから」
「壊れてるけどね、もう」
少しだけ、腹が立つ。
「壊れてない」
「じゃあなんで、まだ続けてるの?」
言葉が詰まる。

家に帰ると、母と祖母がいた。
変わらない距離。
変わらない空気。
私は、またいつもの位置に入る。
間に入る。
言葉を選ぶ。
温度を調整する。
できる。

今でも、できる。
たぶん私は、あの頃から何も変わっていない。
おまじないの代わりに、
成績を使っているだけ。
魔法の形が、変わっただけ。

マルセルが言う。
「それでさ、修復できた?」
私は少し考える。
答えは知っている。
「……できてない」
「でも続けるんだ」

「うん」

「なんで?」
少しだけ、笑う。
「やめ方がわからないから」
関係は、閉じている。
途切れない。
終わらない。
誰かが誰かを支えて、
誰かが誰かに寄りかかって、
そのまま回る。
私は知っている。
これは修復じゃない。
循環だ。
おジャ魔女は、もういない。
でも、呪文だけが残っている。
繰り返す。

同じことを。
少しだけ形を変えて。
私たちはきっと、
噛み合ったまま、
回り続ける。

動物の謝肉祭

五条大橋から七条大橋に向かう流れは、きれいに見える。
水面は夕方の光を均等に反射して、濁りを隠す。
でも実際には、あそこには層がある。
流速の違いでできた浅瀬。
堆積した砂利。
一時的に露出した陸地。
人間はそれを「中州」と呼ぶけど、
生物学的には、あれはエッジだ。
境界。
水でも陸でもない場所。
だから、密度が上がる。
私はそこを、定点で観察している。
記録は単純でいい。
鳥類の飛来数
種の識別(できる範囲で)
捕食行動の発生頻度
日没前後の変化
あとは、昆虫。
特に双翅目。
羽虫の層。
日が傾くと、空気の粘度が変わる。
正確には、温度と湿度の変化で、
飛翔の効率が変わる。
羽虫はそれに合わせて、位置を上げる。
群れは薄く広がる。
あれは拡散じゃない。
最適化だ。

そのタイミングで、鳥が来る。
順番がある。
最初は、小型。
速度で取るタイプ。
次に中型。
軌道を読むやつ。
最後に、遅いが正確な個体。
誰も合図はしていない。
でも、時間はほぼ一致する。
これは競争じゃない。
少なくとも、単純な意味では。

羽虫の密度は、一定の閾値を超えると、
捕食効率が跳ね上がる。
逆に言えば、それ以下ではコストが合わない。
だから鳥は待つ。
そして閾値を超えた瞬間に、まとめて回収する。

美しい。

滑空。反転。急降下。
水面すれすれで軌道を変える。
無駄がない。
でも、あれは全部、
摂食行動の最適化だ。
羽虫は逃げているように見える。
でも群れの動きは遅い。
個体は速いが、集団は遅い。
情報伝達の遅延がある。

だから、一定の割合で捕食される。
それでも群れは消えない。
なぜか。
再生産の速度が、損失を上回るから。
単純な式になる。
捕食率 < 増殖率
それだけ。
私はそれを、ノートに書く。
数字で見ると、安心する。
誰も悪くない。
ただ、成立しているだけ。
日がさらに落ちる。
羽虫の層が崩れる。
鳥も引く。

残るのは、静かな水面と、
少しだけ濁った空気。
「きれいやね」
隣で誰かが言う。
振り向かない。
きれい、という言葉は便利だ。
多くのものを、同時に隠す。

これは殺戮ではない。

少なくとも、倫理的な意味では。
でも、別の言い方はできる。
動物の謝肉祭。
音楽があるとしたら、
それは旋律じゃない。
閾値を越えた瞬間の、
一斉の軌道変化。
同時に始まって、同時に終わる、
時間の揃い方。
あれが一番近い。
私は帰る。
記録は十分。
再現性もある。
明日も同じことが起きる。
少しだけ条件を変えて、
同じ構造が繰り返される。
だからこれは、
異常ではない。
ただの、
循環だ。

リバースターン・バックスペース

お世話になっております。
そこで、止まる。
カーソルが点滅している。

呼吸みたいに、一定の間隔で。
昔から、メールが苦手だった。
事実は書ける。順序も整えられる。
でも、その先にあるはずの何かが、どうしても書けなかった。

正しいのに、届かない。
その意味が、わからなかった。
「生成しますか」
画面の下に、小さく出る。
私は頷かない。
頷かなくても、文章は出てくる。

いつも大変お世話になっております。
この度はご連絡いただき、誠にありがとうございます。
ご指摘いただいた件につきまして、心よりお詫び申し上げます。
今後は再発防止に努めてまいりますので、何卒ご容赦賜りますようお願い申し上げます。

完璧だった。
隙がない。
温度もある。
過不足がない。
どこにも、引っかかりがない。

——ああ、これが感情なんだ。

自動生成は、私に感情をギフトした。
私の中に無かったもの。
うまく扱えなかったもの。
名前すら曖昧だったもの。
それが、整った形で、ここにある。

でも。

私は、バックスペースキーに指を置く。
——トン。
「心より」を消す。
——トン、トン。
「誠に」を消す。
——トン、トン、トン。
文章が、少し軽くなる。
少しだけ、空気が入る。
「その修正は推奨されません」
画面が言う。
「感情強度が低下しています」
わかってる。

でも。
私はそれを崩さずにはいられない。
整いすぎているから。
そのまま送れば、うまくいく。
実際、うまくいってきた。
上司は頷いたし、
取引先の反応も柔らかくなった。
「あなたのメール、すごく丁寧ですよね」
そう言われたとき、私は少し遅れて笑った。

でも、その正しさの中に、私はいなかった。
どこまで削るか。
どこまで残すか。
削りすぎると、また冷たくなる。
残しすぎると、自分が消える。
私は三拍子でキーを叩く。
トン。
トン。
トン。

整える。
崩す。
残す。
リバースターン。
前に進んでいるのに、同じ場所に戻ってくる。
ある日、ふと思う。
もし、このまま何も壊さなければ。
完璧な文章だけを書き続けたら。
私は、どこにいるんだろう。

やっと、わかった。
私は、感情が欲しかったんじゃない。
私の感情が、欲しかった。
「最適な返信を提案します」
画面が言う。
私はそれをそのままは使わない。
カーソルを戻す。

——トン。
一文字、消す。
ほんの少しだけ、引っかかる文章になる。
わずかに、呼吸が乱れる。
それでいい。

送信。

少し時間が空いて、返信が来る。
「ありがとうございます。助かりました。」
その文章は、少しだけ不揃いで、
少しだけ、温度があった。
私は画面を閉じる。
指先にはまだ、あのリズムが残っている。
自動生成は、私に感情をギフトした。
そして私は、それを壊すことでしか、
自分のものにできなかった。

バックスペース・スタッカート

彼女は仕事ができる。
感情の起伏が少ない。
怒らないし、浮かれもしない。
報告は簡潔で、判断は早い。
必要なことだけを、必要な順番で出してくる。

扱いやすい、という言い方は正確じゃないが、
少なくとも、予測しやすい人間ではあった。

ひとつだけ、苦手なことがあった。
メールだ。
内容は正しい。
だが、どこか硬い。
角が立つことがある。

「もう少し柔らかくできるといいね」

一度だけそう言ったことがある。
彼女は頷いたが、その意味が本当に伝わったかは、わからなかった。
それが、変わった。
ある日を境に。

「最近、いいですね」

思わずそう言った。
彼女のメールは、整っていた。
丁寧で、適切で、相手に余白を残す。
感情の強さも、ちょうどいい。
誰に見せても問題がない文章だった。
彼女は少しだけ間を置いてから、
「ありがとうございます」と言った。
その“間”が、少しだけ気になった。
それからだ。

音が、聞こえるようになったのは。
トン。
トン、トン。
トン、トン、トン。
最初は気のせいだと思った。
静かなフロアで、キーボードの音が混ざることは珍しくない。
だが、その音は、妙に揃っていた。
一定の間隔。
わずかに弾むようなリズム。
トン。
トン、トン。
トン。
彼女の席を見る。
画面を見つめたまま、
右手の人差し指だけが動いている。
バックスペースキー。

文章を、作っているのではない。
削っている。

その指の動きが、少しだけ速くなる。
トン、トン、トン、トン。
リズムが変わる。
短く、切るような音。
スタッカートだ、とふと思う。
なぜそんな言葉が浮かんだのかはわからない。
音楽に詳しいわけでもない。
ただ、その動きは、仕事の手つきには見えなかった。

楽しそうだった。
それが一番、引っかかった。
彼女はいつも通りの顔をしている。
表情は変わらない。
声も、いつも通りだ。
だが、指先だけが違う。
トン。
トン、トン。
リズムがある。
選んでいる。
迷っているのではなく、
刻んでいる。

ある瞬間、別の映像が重なった。
ぬか床から、きゅうりを取り出す手。
水気を切って、まな板に置く。
包丁が入る。
トン。
トン、トン。
均一ではない。
わずかにずれる。
だが、そのずれが、リズムになる。
生活の音だ。

彼女の指先は、それに似ていた。
「あの件、大目にみてくれるかね?」
声をかける。

彼女は一瞬だけ画面から目を外し、
「もう少しです」と言った。
トン。
一文字、消える。
「それで、いいの?」

なぜそんなことを聞いたのか、自分でもわからない。
彼女は少し考えてから、言った。
「はい」
そのあとで、ほんの少しだけ、言葉を足した。
「そのままだと、寄り添いすぎるので」
トン。
トン、トン。
彼女はまた、削り始める。
その音は、仕事の音ではない。
修正の音でもない。
何かを、調整している音だ。
あるいは。

楽しんでいる音だ。
トン。
トン、トン。
トン。
やがて彼女は手を止める。
「送ります」
BCC画面には、整った文章がある。
だが、どこかに引っかかりが残っている。
完璧ではない。
だが、不自然でもない。
数分後、返信が来る。
「ありがとうございます。助かりました。」
短い。
少しだけ崩れている。

でも、伝わっている。
彼女はそれを見て、何も言わない。
ただ、画面を閉じる。
指先は、まだ微かに動いている。
トン。
何もないキーを、叩くように。
私は自分のデスクに戻る。
評価表を開く。
優秀。
問題なし。
そう書く。
それで、間違っていない。
だが、何かが書けていない気がする。
あの音のことだ。

トン。
トン、トン。
あれは、何だったのか。
言葉にできない。
ただ、ひとつだけ、はっきりしている。
彼女は、何かを削っていた。
そしてその削り方は、
どこかサディスティックに見えた。

ブロークンロールモデル

あの子、ずるいと思う。
いや、ずるいって言い方も違うか。
うまい、でもないし、努力してないわけでもない。

ただ、成立してる。

それがいちばん腹立つ。
私はちゃんとやってる。
朝起きて、ちゃんと間に合う電車に乗って、
人に迷惑かけないようにして、
言われたことは一回で理解して、
変なこと言わないように、ちゃんと考えてから喋る。

それでも、なんか、うまくいかない。
あの子は違う。

遅刻するし、話は飛ぶし、
何考えてるかわからない顔してるのに、
なぜか周りが勝手に意味を与える。
「そういう子なんだよね」って。
それ、こっちもやってみたことある。

ちょっとだけ崩してみる。
返事を遅らせたり、
言葉を濁したり、
グチャグチャな顔をしてみる。

でもダメだった。
ただの「感じ悪い人」になるだけ。

同じことやってるはずなのに。
たぶん、量が違うんだと思う。
壊れてる量。

でも、それだけじゃない。
あの子は、壊れてるのに、
ちゃんと立ってる。
落ちそうで、落ちない。
その位置に、ずっといる。

私は、魂が丈夫だから壊れきれない。
でも、ちゃんともしきれない。
中途半端な場所で、
いつもどっちかに寄ろうとして、失敗する。

あの子は、寄らない。
そのままいる。
それができるのが、たぶん才能。
この前、駅前で見かけた。
夜だった。
コンビニの光の中で、チキンかじってた。

あの子だけ、少し輪郭が曖昧だった。
光に溶けてるみたいで、
でも消えない。

ずっとそこにいる。
あのとき、やっとわかった。
あの子は、自分を消してない。
壊れも、ちゃんとしてない部分も、
全部そのまま置いてる。

削ってない。

整えてない。

私は、削る。
はみ出したところを切って、
余計なこと言わないようにして、
できるだけ角が立たないようにする。
その結果、何も残らない。
あの子は、残る。

壊れと、正気と、
その正気が壊れを少しだけ隠す感じ。
全部がちょうどいいところで止まってる。
私は、正気が多すぎる。

だから、全部消える。
あの子は、未確定代数なんだと思う。

ちょうどいいところ。
崩れないけど、
整いすぎない場所。
ずるい。
本当に。

でも、ああいうのを見せられると、
ちょっとだけ思う。
ちゃんとしなくても、
成立する世界があるんだって。
それが許されるなら、
私は今まで、誰との約束を守っていたんだろう。

サラマンダー

サラマンダーオーブン
宴会洋食のキッチンに入って三日目、
私はまだ「熱」の距離感がわからなかった。
鉄板は触れなくても焼けるし、
オーブンは開けた瞬間に性格を変える。
静かな顔をしていたくせに、
いきなり暴力みたいな熱を吐き出してくる。
「近づきすぎ」
イケメンシェフに言われた。
低い声だったけど、怒ってはいなかった。
サラマンダーオーブンの前だった。
上から焼くタイプの、あの横長のやつ。
金属の格子の向こうで、
ヒーターが赤く、じっと燃えている。

名前の由来、知ってる?
火の中に棲む生き物。
燃えても死なないやつ。

――そんなの、嘘でしょ。
最初はそう思った。
夜の宴会は四百名。
皿は流れてくるみたいに出ていく。
白身魚のグリル、ローストビーフ、
最後の仕上げにサラマンダーで焼き色をつける。

「入れて、数えて、出す」

それだけなのに、
タイミングを間違えると、全部が台無しになる。
焼きすぎれば焦げる。
早ければ、生ぬるい。
ちょうどいい瞬間は、
音でも温度でもなくて、
どこか“気配”みたいなものでしかわからない。

その日、肉の列が一瞬だけ詰まった。

「次、回して!」
声が飛ぶ。
私はトレーを持ったまま、
ほんの一秒、躊躇した。
その一秒で、
オーブンの中の脂がじゅっと音を立てた。
「あ」
と思ったときには遅い。

表面の一部が、
きれいなメイラードじゃなくて、
“焦げ”に寄っていた。
「止めるな。出せ」
シェフの声。

「でも――」
「出せ」

私は肉を引き出した。
皿に乗せる。ソースをかける。
流れていく。
何もなかったみたいに。
休憩のとき、
バックヤードのドアを開けると、
外はもう夜だった。

空気が冷たくて、
さっきまでの熱が、皮膚の上でゆっくり冷えていく。
そのとき、匂いがした。
焦げた脂じゃなくて、
もう少し甘い、木が燃えるみたいな匂い。
――ああ、これ。
知っている。


あのとき、私はあまり食べなかった。
大きな皿に乗った鯉のあんかけ。
照りのあるソースと、
骨ごと切られた切り身。
兄は「うまい」と言って、
父と同じテンポで箸を動かしていた。
私は、少しだけ箸を入れて、
それ以上は進めなかった。
泥の匂いが、少しだけ苦手だった。
母も同じだった。
無理に笑って、
「おいしいね」と言いながら、
あまり減っていなかった。
でも、父は気にしていなかった。
ただ、
自分で釣って、
自分でさばいて、
母が作ったそれを、
「うまい」と言って食べていた。
その背中は、少しだけ遠かった。
まな板の音は、今でも覚えている。
ガリッ、ガリッ。
鱗が飛ぶ音。
ゴリッ、ゴリリッ。
骨に当たる音。

私は台所の入り口に立って、
その音を聞いていた。
近づかなかった。

でも、離れもしなかった。
サラマンダーの前に戻る。
ヒーターは相変わらず赤くて、
何も言わずに燃えている。
私はトレーを差し入れる。
今度は、数えない。
音を聞く。
脂が落ちる音。
表面が乾いていく気配。
ほんの少しだけ、
肉が“緩む”瞬間。
そこで引く。
ここだ。


「いいじゃん」
シェフが言った。
それだけ。
でも、
それで十分だった。
閉店後、
キッチンの火が順番に落ちていく。
最後にサラマンダーの電源を切ると、
赤かったヒーターがゆっくり暗くなる。
でも、完全には消えない。
しばらくの間、
低い熱を残している。
私は手をかざす。

触れない距離で、
でも確かにそこにある熱。
ああ、と、思う。
火って、消えないんだ。
形を変えるだけで。
帰り道、
コンビニでおにぎりを買った。
昔は、こういうほうが好きだった。
匂いも、骨も、ないもの。
でも今は、
少しだけ物足りない。
父のことを、最近はあまり思い出さない。
思い出そうともしない。
でも、
火の前に立つときだけ、
ほんの少し、背中が近づく。
あのとき、近づかなかった分だけ。
サラマンダー。
火の中に棲むもの。
燃えても、消えないもの。
私は明日も、
あのオーブンの前に立つ。
たぶん、まだうまくはできない。
でも、
たまに、うまくいく。
その瞬間だけ、
少しだけ、父に近づいた気がする。
それでいい、と思う。

ウンディーネ

七条大橋の少し下に、
水が溜まっている場所がある。
川とは別で、
流れているようで、流れていない。
あそこには亀がいる。
最初は一匹だったと思う。
気づいたら、増えていた。

誰かが捨てたんだと思う。
飼えなくなったやつ。
大きくなりすぎたやつ。
飽きたやつ。
理由はだいたい同じだ。

水は、それを全部受け取る。
拒まない。
怒らない。

ただ、そこに残す。
昼に見ると、少しだけ安心する。
光が水面に反射して、
藻がきらきらして、
亀は石の上でじっとしている。
甲羅の上に、さらに別の小さな影が乗っていることもある。
動いていないように見えて、
ときどき首だけがゆっくり伸びる。

その速度が、
人の時間と少しだけずれている。
夜に来ると、
同じ場所なのに、少し違う。
水は黒くなって、
底が見えなくなる。
何匹いるのかも、わからない。
ただ、
ときどき水面が“ずれる”。

波でもないし、風でもない。
内側から押されたみたいに、
ゆっくり形が変わる。
はじめて見たとき、
少しだけ気持ちが悪かった。
でも、
何度か通ううちに、慣れた。
慣れるというより、
考えるのをやめた。

水は、流すためにあると思っていた。
汚れを流して、
いらないものを運んで、
どこかで消える。
でもここは違う。
流れているはずなのに、
全部が残っている。
亀は長く生きる。
それは知っていた。
だから、
捨てる側はたぶん、安心している。

「まあ、あいつは大丈夫だろう」
その程度の理由で、
ここに来たんだと思う。
亀は、死なない。
正確には、
なかなか死なない。
だから、
ずっと残る。

水も、
それをそのまま残す。
ある日、
一匹がひっくり返っていた。
腹羅が空を向いて、
脚だけが動いていた。
ゆっくり、ゆっくり。

助けることはできたと思う。
手を伸ばせば、
簡単に戻せた。
でも、
少しだけ考えて、やめた。
ここでは、
誰も何も戻さない。
流さない。
直さない。
ただ、置いておく。
しばらくして見たら、
その亀は元に戻っていた。
自分で戻ったのか、
誰かが戻したのかはわからない。
でも、
どちらでも同じだと思った。

水は、優しい。
ときどきそう思う。
何も拒まないし、
何も責めない。
全部受け取って、
そのまま置いておく。
でも、
それは本当に優しさなのか、
少しだけわからなくなる。

誰も下を見ない。
見ても、すぐに目を離す。
見ないことは、
たぶん一番うまいやり方だ。
関わらないで済むし、
責任も発生しない。
それでも、
ときどき立ち止まる人がいる。
しばらく見て、
何もせずに帰る。
たぶん、
あの人たちも何かを考えて、
やめたんだと思う。

頭が痛い。
ここは、
流れていない場所だ。
でも、
完全に止まっているわけでもない。
少しだけ動いて、
少しだけ残る。
私は、ここに来ると、
少しだけ楽になる。
理由はよくわからない。

ただ、
何も解決しなくていい場所だからだと思う。
修復しなくていい。
終わらせなくていい。
ただ、
そのまま置いておける。
それは、
ずっとやってきたことに似ている。
流すつもりで、
流せていないもの。
終わらせたつもりで、
続いているもの。
水面が、少しだけ揺れる。
中に何匹がいるのか、
もう数える気にはならない。

アソゼネ マンハッタンクラムチャウダー

鍋は嘘をつかない。
ただ、何を入れたかまでは覚えていない。
伏見の夜は、思ったより静かだ。
龍谷から流れ落ちるこのあたりは人の流れが途切れる時間が早い。

コンビニの前に自転車が三台、同じ角度で倒れている。
遠くで京阪の音が一回だけ鳴って、あとは水の気配だけが残る。

店のシャッターは半分だけ開けてある。
子供はしゃがめば入れる高さだ。
大人は少し屈む必要がある。
その一手間で、来る人間の顔が変わる。

今日はマンハッタンだ。
クリームは使わない。
濁りは、疑いになる。
トマトを刻む。
玉ねぎは少し大きめに残す。
セロリは繊維に逆らって切る。
貝は開いたものだけ使う。
閉じたやつは、理由がある。
理由のあるものは、鍋に入れない。

透明に近い赤。底が見えるくらいがいい。
見えると、人は安心する。

「今日は赤いね」
カウンターの向こうから声がする。いつも一番に来る子だ。
ランドセルの角が少し擦り切れている。

「トマトの日だ」

「すっぱい?」
「少しな。でも、ちゃんと飲める味にしてある」

塩は最後に決める。
最初から正解を置くと、他が死ぬ。

店の奥、古い冷蔵庫の上にスマホを置く。
振動だけ伝わる位置だ。
音は切ってある。
音は、判断を急がせる。


昼間は別のものを作っている。
情報商材的な物。
名前はどうでもいいが、看板は「可視化された収益導線」としてある。
画面に並べるのは、手順と数字と、例。
例は三つ。少なすぎると怖がられる。
多すぎると嘘になる。

工程は全部見せる。
入口、接触、反応、継続、回収。
矢印でつなぐ。矢印は太くしすぎない。太い矢印は強制に見える。

「無料から始める」と書く。
無料は嘘じゃない。
最初は、誰でも無料だ。
隠すものはない。
だから、疑われない。
ただ一つ、入れていないものがある。
火加減だ。

水を足す。
トマトの角が崩れない程度に。
強く煮ると、味は出るが、形が消える。
形が消えると、何を食べているかわからなくなる。

「具、でかいね!」
「見える方がいい」
「なんで?」
「自分で選んだ気になるからだ」
子供は頷く。

理解しているわけじゃない。
ただ、拒否しない。
拒否しないということは、飲むということだ。
小さな手で器を持つ。熱さに一瞬だけ躊躇して、それでも口に運ぶ。
人は、熱いものを受け取るときにだけ、正直になる。
「おいしい!」

「よかったな」

よかった、は事実じゃなくて、合図だ。
ここにいていい、の合図。
スマホが震える。

――本当に稼げるんですよね?

同じ文面を、何度も見てきた。
ニュアンスが違うだけで、同じ質問だ。
返信はテンプレでいい。
「個人差はありますが、再現性の高い手順を公開しています」

嘘はない。
再現性は高い。手順も公開している。
ただ、誰がどの火でどれだけかけるかは書いていない。

書けない。
書く必要もない。
油が表面に浮く。
光を拾って、きれいに見える。
透明は、何もないことじゃない。
見せ方の問題だ。
味見をする。塩をひとつまみ。
ほんの少しで、輪郭が立つ。
立ちすぎると、すぐに飽きる。

「ねえ、これなんでおいしいの?」
「全部見えるだろ」
「うん」

「だからだよ」
子供はまた頷く。
理由はそれで足りる。
シャッターの外に、もう一人立っている。
大学の帰りか。
クタクタのレゾネを持っている。
少し迷ってから、屈んで入ってくる。

「いいですか」
「ああ、座れ」
器を置く。湯気が顔を隠す。
隠れている間に、だいたいのことは決まる。

彼女は一口飲んで、息を吐く。
長い息だ。
長い息は、余白を作る。
「……助かります」
「助かるって言葉は便利だな」
「え?」
「何にでも使える」
彼女は笑う。

笑いは、疑いを溶かす。
笑いを入れるタイミングは、塩と同じだ。遅すぎると効かない。

スマホがもう一度震える。
――助けてください
今度は短い。
短い文は、だいたい正直だ。
画面を見ないでも内容はわかる。
流れは決まっている。

入口で興味を持たせて、接触で安心させ、反応で小さく成功させ、継続で深く入り、回収で重く刈り取る。

どこで火を強くしたか。
それは本人にしかわからない。
俺は全部見せている。
工程も、流れも、結果も。
透明だ。
透明であることが、信頼になる。
器が空になる。
底が見える。何も残っていない。

「おかわり、いい?」
「いいぞ」
おかわりは、関係を固定する。
一杯目は偶然でも、二杯目は選択だ。

子供は器を差し出す。
手が少しだけ震えている。寒さか、別のものかは関係ない。
スープを注ぐ。
同じ鍋から、同じように。
同じものでも、同じ味になるとは限らない。
鍋は嘘をつかない。
ただ、火を持っているのが誰かまでは教えてくれない。

キアロスクーロ ブイヤベース

課題がうまくいった。
教授はご機嫌だった。

浮かれた夜は、北へ足が向く。
理由はない。理由がない方が、長く続く。

キャンパスを背にすると、街は少しだけほどける。
伏見稲荷の裾に広がるあたりは、何かを踏みつけたみたいに、平たく、甘く、広がっている。

間違ってお尻で踏みつけたパンみたいに。
形は崩れているのに、匂いだけ残っている。

抹茶屋を右目に遠ざる、焼き鳥屋と焼き鳥屋に挟まれた、半分だけ開いたシャッター。
ガレージみたいな奥行き。

明かりが漏れている。

なんだこれ、と思う。

看板には「子供食堂」。
匂いがある。

懐かしい匂い。
魚のぶつ切りを煮た、少しだけ乱暴な匂い。

――ブイヤベースだ。

母が美容院で読んだ記事を切り抜いて、家で再現していた。あのときの台所の匂いと同じだ。
うまくいったり、いかなかったりした、あの匂い。

足が止まる。

中を覗くと、人影が一つ見える。


少し迷って、屈んで入る。

「いいですか」

中の男が顔を上げる。
白でも黒でもない顔だと思う。どっちにも寄らない。

「ああ、座れ」

カウンターの端に座る。
スマホを置く。
通知が二つ、光っている。
見ない。

湯気が上がる。
顔が隠れる。

隠れている間に、だいたいのことは決まる気がする。

器を受け取るとき、少しだけ迷う。

マスターが言った。



つまるところ、ここは子供食堂だ。
そして、遠目に私が中学生に見えた。

大学生はバイトして、牛丼でも食べればいい。
そういう場所じゃない。
今日は特別だ。

わかっている。

でも――

食べたかったのだ。
この、変なシチュエーションごと。

焼き鳥屋に挟まれた半開きのシャッターも、
名前のない店も、
知らない男が出すスープも。

全部込みで、口に入れてみたかった。


「匂いが、家にちょっと似てて」

「記憶は雑だからな。だいたいではまる」

器が置かれる。
赤い。
透明に近い。

中身が見える。

一口飲む。

すっぱい。
でも、すぐに丸くなる。

どこがどう効いてるのかは、わからない。
でも、飲める。

「おいしいです」

「そうか」

「最近、バロックばっか見てるんです」

自分でも、唐突だと思う。

「絵か」

「はい。歴史遺産のゼミで扱ってて。修復記録とか読むんですけど、元の構図の話になると、やっぱり面白くて」

スープの表面に、薄く油が浮いている。
光を拾って、揺れる。

「ジェンティレスキ、好きで」

少しだけ、間がある。

「暴力的なんですけど、きれいで」

器を持つ手が、少し温まっている。

「ちゃんと“やるべきことをやってる”感じがするというか」

「やるべきこと、か」

「はい。迷いがないんです。だから納得しちゃう」

マスターは何も言わない。
鍋に視線を戻す。

かき混ぜない。
ただ、見ている。

「これも、似てます」

「何がだ」

「見えてるところより、見えてないところで決まってる感じ」

言ってから、少しだけ恥ずかしい。

でも、間違ってはいない気もする。

「なんで透明なんですか」

「濁ると疑われる」

「でも、全部見えてるわけじゃないですよね」

「全部見せる必要はない」

少しだけ、間がある。

「見えてる分で、人は納得する」

スマホが震える。
画面が光る。

同じ文面が並んでいる。
少しずつ違う言い方で、同じことを聞いている。

閉じる。
伏せる。

「皿洗いとか、やります」

口が勝手に動く。

「宣伝もします。SNSとかで。ほら、わたし、これでも今どきだし」

軽いと思う。
言葉が浮いている。

嘘だ。

皿洗いはいつも適当だし、宣伝もしたことがない。
“やれる感じ”の言い方を、真似しただけだ。

男は、少しだけ眉を上げる。
マスカロンみたい。
変な顔。

笑っているわけでも、困っているわけでもない。
計っているみたいな顔。

「なるほど」

それだけ言う。

何が“なるほど”なのかは、わからない。

でも、間違ってはいない気がする。

「マスターさんって、料理人なんですか」

「そう見えるならな」

「……マスターさん、って長いから。マッサンって呼んでもいいですか」

「好きにしろ」

「おかわり、いいですか」

「ああ」

器を差し出す。
さっきよりも、ためらいがない。

同じ鍋から、同じように注がれる。

同じもののはずなのに、少し違う味がする。

ここ、いいな、と思う。

理由はうまく言えない。
でも、納得はできる。

納得できることは、だいたい正しい。

光が当たっているところだけが、正しいみたいに見える絵。
ゼミで見たスライドを思い出す。

影の部分は、後から意味をつけられる。

スープは、ちょうどいい温度だった。

「ルイユ、入れるか?」

ソーシャルゲーム幼年期の終わり

四月の朝は、軽い。
烏丸を一本西に入ると、空気の重さが少しだけ変わる。

六角堂の桜は、もう満開を過ぎていた。
花びらは落ちる途中で一度だけ迷う。
風に拾われるか、石に触れるか、池に浮かぶか。
その迷い方が、少しだけ人間に似ている。

スーツの若い人たちが、地図を見ながら立ち止まっている。
新しい生活は、だいたい同じ角度で始まる。

ポケットの中で、通知が震えた。
会議の開始時刻。

画面を閉じる。
もう一度、桜を見る。

——流れているものは、勝手に流れる。

会議室は静かだった。
プロジェクターの光が、机の上のペットボトルを白く濁らせている。



「では、共有します」

データ担当が立ち上がる。
声は平坦で、どこにも引っかからない。

スライドが切り替わる。

数字は、落ちていた。
きれいに、段差をつけて。

「第一四半期、前年比で三十から四十パーセント減です」

誰も驚かない。
知っている数字だからだ。

「ユーザー数は、そこまで落ちていません」

一拍、間を置く。

「ただし——」

レーザーポインターが、別の線をなぞる。

「プレイ率が、過去最低です」

ログインはしている。
だが、遊んでいない。

それだけのことが、言葉にされると、少しだけ重くなる。

プロデューサーが椅子にもたれたまま口を開く。

「原因は?」

短い問い。
責める温度はないが、逃げ場もない。

「複合的です」

データ担当は視線を落とさない。

「大型施策の満足度低下。
コラボの課金率減少。
日常プレイの動機不足」

スライドがまた変わる。

「現在、ログインユーザーのうち——」

一瞬だけ、言葉を選ぶ。

「クエスト未プレイの割合が、過去最高です」

誰かがペンを置く音がした。
やけに響く。

ディレクターが引き取る。

「やる理由がない、ということです」

机の一点を見たまま言う。

「キャラクターは揃っている。
難易度も選べる。
だから——触らない」

マーケ担当が、わずかに肩をすくめる。

「四月の新規流入はあります。
例年通りです。ただ——」

言い切らない。

「定着が弱いです」

新生活の人たちが、来て、触って、いなくなる。
その速度だけが、去年より少し速い。

プロデューサーが目を閉じる。
一秒か、二秒。

「人はいるが、金を使わないし、遊ばない?」

誰もすぐには答えない。

データ担当が、ほんの少しだけ首を振る。

「正確には——」

その言葉は、部屋の温度を一段下げた。

「ログインユーザーの価値が、落ちています」

空気が固定される。

運営担当が資料をめくる。

「対策として、日次のクリア報酬を追加しています。
一日一回のクエストで報酬を付与する形です。
プレイ率は、数パーセント回復しています」

「“数パーセント”か」

プロデューサーは目を開けないまま言う。

ディレクターが小さく息を吐く。

「根本ではないです。
報酬で動かしているだけなので」

マーケ担当が頷く。

「無料施策も同様です。
復帰は取れますが、課金には繋がっていません」

沈黙が落ちる。

プロジェクターのファンの音だけが回り続ける。

「で」

プロデューサーが目を開ける。

「どうする?」

提案が置かれる。

大型施策の前倒し。
配布の強化。
新モードの検討。

どれも間違っていない。
どれも決め手ではない。

議論は進むが、前に進まない。

やがて、言葉が細くなる。

プロデューサーが、少しだけ声を落とす。

「……“楽しいから遊ぶ”状態に戻せるのか?」

誰も答えない。

答えられないのではなく、
答えが一つしかないからだ。

データ担当が、静かに口を開く。

視線は、グラフではなく、空白に向いている。

「現状は」

言葉は軽い。だが、逃げない。

「“もらえるから触る”状態です」

誰かが、ペットボトルを握り直す。
ラベルの音が、小さく鳴る。

会議は続く。
続いているように見える。

だが、もう結論は出ていた。


外に出ると、光が少しだけ強い。


花びらが一枚、肩に落ちる。
払おうとして、やめる。

流れているものは、勝手に流れる。
止まっているものは、理由を配られる。

ポケットの中の画面を、一度だけ開く。
報酬の通知が並んでいる。

指は、動かない。

コンプリート・ノンモデル

あの人、また昇進したらしい。

ちゃんとは見てないけど、
名前、上にあった。

あの人は、削る人だと思ってた。

あんまり喋らないで、
変なこと言わないで、
ちゃんと収まる人。

そういう人って、
上には行かないと思ってた。

途中でいなくなるか、
そのまま誰にも触られないまま、
どこかに置かれる感じ。

でも、残ってた。

削ってたのに、残ってた。

ちょっと、意味わかんない。

七条堀川で止まる。

信号の音、ちゃんと同じ間隔で鳴ってる。

ガラス越しに、興正寺の桜。

花はほとんどなくて、
葉だけ。

誰も見てないのに、
まだそこにある。

あの人、ああいうほうかも。

咲いたほうじゃなくて、
残るほう。

私は、たぶん違う。

途中でやめるし、
最後までやらないし、
ちゃんとしたことも言ってない。

でも、なんか成立する。

される。
されてしまう、のほうが近い。

拾われて、
整えられて、
いい感じにされる。

あれ、どこまで私なのか、よくわかんない。

最初だけかもしれないし、
全部かもしれないし、
どっちでもないかもしれない。

まあ、どっちでもいいけど。

評価は来る。

でも、持って帰る場所がない。


あの桜、ここからでも見えるのに、
私とは関係ない。



ファミリーマートでチキン買う。

別にお腹すいてない。

ただ、ちょっと悪そうなやつ、
食べたかった。

ちゃんと噛んで、
ちゃんと飲み込むやつ。

紙袋、ちょっとあったかい。

油のにおい、ちゃんとしてる。

チキン齧る。

なんか、ちょっと安心する。

脂ついた指、なめる。

ネイルのエナメルみたいな匂いする。

スパイスっぽい。

匂い、ちゃんとする。

明日、胃もたれする。

たぶん。

サイレントライン

カーディガン着て来なくて良かった。
四条木屋町の喫煙所、風がちょうどいい。
桜が終わって、街が急に素っ気なくなる。
代わりみたいに咲いてる桃の花、
毎年見てるはずなのに、いつも「誰だっけ」って顔してる。
見慣れないのに、ちゃんと季節の席に座ってる感じ。
ああいうの、ちょっと苦手。
春ってさ、優しい顔して油断させてくるから嫌い。
昼はあんなにあったかいのに、
夜になると急に距離取ってくる。
人みたいだなって思う。
思いたくないけど。
煙がまっすぐ上に行かない。
少し横に流れて、途中でほどけて、
どこにも行き先決めてないみたいに消える。

隣の人、火つけるの少し下手で、
二回カチカチやって、三回目でやっとついてる。

指先がちょっと震えてるのも見える。
寒いのか、急いでるのか、緊張してるのか。
理由はわからないけど、
わからないままでいい距離って、ある。

ナンパは嫌いだ。
得体が知れないから。
たぶん、知らないこと自体が嫌なんじゃなくて、
知らないまま踏み込んでくる感じが苦手なんだと思う。
こっちの呼吸を見ないで距離を詰めてくるやつ。

会話じゃなくて、確認作業みたいなやつ。
「どこ行くの?」とか「一杯どう?」とか、
そういうの全部、正解が先に決まってるみたいで、
答える気がなくなる。

別に、話すのが嫌いなわけじゃない。
むしろ、ちゃんと話したい。
コーヒー片手に、どうでもいい話をして、
どっちがちょっと言葉選ぶの上手いか、みたいな、
そういう時間のほうが好きだ。

でも、それを説明するほどでもないし、
説明した時点で少し嘘になる気もする。
だから、ここにいる。
煙を吐くタイミングが、たまたま揃うくらいの距離で、
誰とも約束しないで、
でも完全に一人でもない場所。

このくらいでいい。
桜が終わって、桃がいて、
名前のわからない花も混じって、
全部ちょっとだけ余ってる季節。
私も、たぶんそっち側。

何言ってるん。

でも、カーディガン着て来なくて良かったのは本当。

ソワレコンピラ

木屋町の青は、冷却装置だと最初に気づいたのは、春の終わりだった。
扉を押すと、昼なのに夜の色がした。
ガラス越しの光が、すべての輪郭を一段だけ鈍らせる。
同じ席に座る。
注文は決まっている。
ゼリーポンチ。
グラスの縁に唇を当てる。
冷たさが歯に触れて、わずかに軋む。
ゼリーは舌の上で形を崩さない。
フルフルと逃げて行くみたいな。

押せば逃げ、噛めば遅れて弾ける。
甘い。けど、奥に硬い芯が残る。
喉に落ちるとき、少しだけ引っかかる。
身体が先に反応する。
思考は、あとから来る。
——安井金比羅コンパイル。
頭のどこかで、その言葉が浮かぶ。

未整理の感情が入力される。
焦り、苛立ち、言えなかった言葉。
青の中でそれらが減衰し、ノイズが落ちる。
死ね。

意味だけが、薄く残る。
処理は静かだ。
エラーも警告も出ない。
ただ、終わったあとに「終わった」とだけ分かる。
グラスの底が見えた頃、
ひとつだけ輪郭が残った。
切るべきだ。
名前も顔もある。
だが言葉にすると曖昧に戻る気がした。
店を出る。
昼の光が、青を剥がしていく。
足は南へ向く。
ああ
迷信に呑まれる。

脳味噌に書く。
短く。
「◯◯を切る」
屈んで、穴をくぐる。
身体が一瞬だけ引っかかる。
その感触だけが、やけに現実的だった。
抜ける。
振り返らない。
外の風は軽い。
軽すぎて、少し不安になる。
何かを失ったのではなく、
何かが消えた感じ。
その夜、また木屋町に戻る。
青が降りてくる。
同じ席。
同じグラス。
一口。
何も起きない。
二口。
少しだけざらつく。
三口。
——エラー。
切ったはずのものが、完全には消えていない。
断絶は成功した。
だが、参照が残っている。
キャッシュ。
私はグラスを置く。
そのときだった。
「私のお嫁さんにならない?」
唐突に、言葉が落ちた。
音は軽い。冗談みたいに丸い。
でも空気は、一瞬だけ固まる。
すぐに答えなかった。
ストローを指で回す。
氷がグラスに触れて、小さく鳴る。
迷った。
嬉しいわけでも、嫌なわけでもない。
ただ、身体のどこかが
“まだ処理が終わっていない”と判断した。
さっき切ったはずのもの。
遠いはずの名前と顔が、
指先にわずかに残っている。
完全に解放された人間は、迷わない。
完全に縛られている人間も、迷わない。
迷いは、中間状態にしか発生しない。
「……考えさせて」
そう言って、私は笑う。
自分の声が、少しだけ他人みたいに聞こえた。
理解する。
ここでは、まだ終わっていなかった。
あれはコンパイルの途中だった。
出力された“断絶”は、
まだ実行されきっていない。
だから迷った。
ガラスの冷たさも、
ゼリーの抵抗も、
全部それを教えていた。
外に出る。
夜の木屋町は、人工的で、
それでも妙に優しい。
私は歩き出す。
次に切るべきものを、まだ決めないまま。
ただひとつ分かっている。
——この街そのものが、インターフェースだということ。
そして私は、
その上で実行されている、
ひとつのプロセスに過ぎない。

ヘルメス・プラネテス

葉桜は正直だ。
花のときには見えなかった枝の骨格が、急に露わになる。
きれいだったものの“構造”が見える。

鴨川 の水は、いつも通りの顔をしている。
春が終わりかけているのに、特別なことは何も起きていないみたいに。

佛光寺公園の端に、老いたゴイサギがいた。


首を縮めて、じっとしている。
時間の外に置かれたみたいに、動かない。
立ち止まる。
昔なら、こんな時間はなかった。
いや、あったのかもしれないが。

目の前の笑い声。
日曜日は俺を不審者から遠ざける。

父親が、前に座りすぎている。
笑えるくらい、前だ。
シーソーの端じゃなくて、ほとんど中心に近い。

膝を軽く曲げて、バネみたいに使っている。
子どもが上下するたびに、衝撃を吸って、リズムを整えている。

娘は笑っている。
予測できる上下運動に、安心しきった顔で。

母親は少し離れて、スマホを構えている。
笑いながら、何枚も撮っている。

ああいう瞬間は、バランスがある。
調整がある。
役割が分かれている。

——完成している。

葉桜は、正直だ。
花が終わったあとに、骨格を見せる。
きれいだったものの、構造を。

私は、家をかえりみなかった。

顧みなかった、じゃない。
選ばなかった。

帰れる日も、帰らなかった。
仕事を理由にして、ちゃんと逃げていた。

そのほうが、楽だったからだ。

やることが一つしかない状態は、わかりやすい。
迷わなくていい。
逃げ場もないが、言い訳もいらない。

あの父親は、調整している。

自分の重さを膝で分散して、
子どもの上下を安定させている。

ああいうのは、技術だ。
何度もやって、ちょうどいい位置を見つけたのだろう。

私は、調整しなかった。
全部を一つに寄せた。
仕事に。

だから、楽だった。


失われた時代は、神棚に上がる。

戦後の復興期は、貧しくても前を向いていた時代として語られる。
高度経済成長は、みんなで豊かさを掴みにいった物語になる。
バブルのころは、過剰ささえ勢いとして美化される。

そしてその裏側で、
下町の人情や、不器用な父親や、古い商店街の空気が、
やけにあたたかいものとして持ち上げられる。

どれも、もう戻れないからだ。

戻れないものは、物語になる。
物語は、痛みを削る。
形だけを残す。

そして、その形が——
美徳と呼ばれる。

私は思っていた。

自分の生きた時代も、
いつか同じように神棚に上がるのだと。

だが、上がらない。

今は、何でもできる。

スマートフォン一つで、
仕事も、連絡も、買い物も、暇つぶしも。

だが、何も残らない。

選んだ感じがしない。
どれも途中で乗り換えられるからだ。

失われたものは、形になる。
残っているものは、揺れ続ける。

今は、まだ失われていない。

だから、形にならない。

鴨川を歩く。
水は、何も考えていない顔をしている。

佛光寺公園の端に、ゴイサギがいる。
動かない。
時間の外に置かれたように。

あのシーソーの光景を思い出す。

あれも、やがて編集される。

写真として残り、
何度も見返され、
きれいな瞬間だけが抽出される。

いつか誰かが言うだろう。

「いい時代だった」と。



さまよう時代。
迷わせる者。

言葉は届く。
だが、必ず少しズレている。

そのズレを、人は埋める。

意味を足し、
物語を作り、
世界を成立させる。

真実が世界を作るのではない。
誤解が、世界を作る。

家庭を顧みなかった男が、
責任を果たした男に変わる。

あの写真も、
いつか別の意味を持つだろう。

ポケットのスマートフォンに触れる。

何でもできる。
だが、何も起きない。

可能性だけがある。

軽い。

ゴイサギは、まだ動かない。

あれは、迷っていない。

私は迷っている。

だがそれは——
自由なのかもしれない。

神棚は、空ではない。

ただ、神が座り続けないだけだ。

価値は、水銀のように転がる。
触れた瞬間だけ、形を持つ。

葉桜の下を歩く。

風が少し冷たい。

昔は、美しい。
今は、美しくない。

まだ終わっていないからだ。

あの父親は、うまくやっている。
私は、やらなかった。

それでも思う。

いつか——
この揺れているだけの時間にも、
名前がつく日が来るのだろうか。

すべては、まだ途中にある。

サンタナ

風の前日のお話しだ。
京都の四月は、嘘がよく似合う。
昼間に撮った写真を、夜に見返すと、
それはもう別のものになっている。
光は記録されているのに、時間だけが抜け落ちている。
しだれ桜の上に、白い鷺が一羽立っている。
枝は骨みたいに乾いて、花はそこに引っかかっているだけだ。
風は吹いていない。
吹いていないのに、何かが通り過ぎた気配だけが残っている。
「きれい」
隣で、妻が言った。
その声は、たぶん本当にきれいなものに向けられたものだった。
けれど私は、少し違うものを見ていた。
あの鷺は、待っている。
何を、とは言えない。
ただ、何かが来る前にしか現れない種類の静けさを、
あの白さは知っている。
「偽物みたいだ」
私は言った。
それは写真のことでも、桜のことでもなく、
この夜のことだった。
四月の空気は、どこか裏返っている。
善悪の区別がまだ固まっていない、
乾ききる前のインクみたいに。

アンラマンユ。
そんな言葉が頭をよぎる。
邪悪の名なのに、どこか中立で、
ただ“反転”そのものを指しているような響き。
美しいものは、簡単に裏返る。
優しさも、静けさも、光も。
たとえばこの写真も、
誰かにとっては春の記念で、
誰かにとっては、終わりの兆しになる。
「風、来そうだね」
妻が言った。
窓は閉まっている。
カーテンも揺れていない。
それでも、その言葉は正しかった。
風はまだ来ていない。
けれど、来ることだけはもう決まっている。
写真の中で、鷺は動かない。
ただ、あの高さで、
何かを見下ろしながら、
こちらの時間が追いつくのを待っている。
私はスマートフォンを伏せた。
画面の中の空は消えて、部屋の天井が戻ってくる。
それでも、どこかでまだ、
枝のきしむ音がしている気がした。
風の前日。
すべては、まだ起きていない。

プロフェッサー

相転移だ。
最初から、わかっていた。
あの二人は、会話に値する。
同じ現象を、同じ精度で見ていたわけではない。

だが、互いに異なる座標から、同じ構造へ到達できる稀な組だった。
非線形系において重要なのは、値ではない。

勾配でもない。
相互作用の取り方だ。
彼らは、まだ結合していなかった。
だから自由度があった。
だから面白かった。

講義室で、彼は数式を“読んで”はいなかった。
あれは、聴いていた。
非線形項の中に潜む振る舞いを、音として捉えていた。
彼女は、それを見ていた。

理解しているかどうかは重要ではない。
同じ場所に予測を向けられるかどうかだけが問題だった。

二つの視点が独立しているとき、
系は最も豊かな振る舞いを見せる。
私はそれを観測していた。

やがて、結合が起きた。
特別な兆候はない。
ノイズは常に存在する。
ゆらぎは臨界点の周辺で増幅される。

愛はノイズだ、と私は教えてきた。
その認識は今も変わらない。
ただし、補足がある。
ノイズのない系は、転移しない。
彼らは閉じた。

閉じた、というのは誤解を招く言い方かもしれない。
より正確には、相が変わった。
独立していた二つの視点は、
ひとつの安定した状態へと収束した。
それは悪いことではない。
むしろ自然な振る舞いだ。
結合は安定をもたらす。

同時に、自由度を奪う。
観測対象としては、興味が減少する。
論文はよくできていた。
非線形流体の自己安定性に関する記述は正確で、
モデル化も適切だった。
無駄がなく、整っている。
だが、そこにはなかった。
あの夜、まだ名前を持たなかった渦。
数式の外側で、かすかに震えていた揺らぎ。
私はそれを知っている。
彼らも、知っていたはずだ。

中心が静かであるという事実。
回転の極において、すべてが停止するという逆説。
理解したはずだ。
だからこそ、もうここにはいない。
惜しい、とは思わない。
優秀な学生は毎年現れる。
代替は可能だ。
ただ一つだけ。
まだ観測していない振る舞いが残っていた。
それだけだ。
相は変わる。
不可逆だ。
元には戻らない。
それを嘆くのは、非科学的だ。
だが、教えることはできたはずだ。
相転移の条件だけでなく、
その扱い方を。

祖父は言っていた。
ナイジェル。
バヴァロアは、温度を誤ると固まらない。
ゼラチンは、熱いうちに溶かし、
冷ます速度を見誤ってはならない。
紅茶は、沸騰直後の水を使え。
低すぎれば開かない。
高すぎれば香りを壊す。

どちらも、臨界を外せば成立しない系だ。
私はそれを教えていない。
あの二人は、もうここにはいない。
それでいい。
相が変わっただけだ。
そう結論づけて、私は次の講義の準備に戻る。

好きすぎて、比叡

チケット当選が嬉しいから、今日は滋賀側から登る。

理由としては、それで十分だと思う。

緑の圧がある。
やわらかいはずの色が、押してくる。

標高が上がる。
数字じゃなくて、呼吸でわかる。
息が少し短くなるたびに、いらないことが一つずつ落ちていく。

祠が見える頃、空気が変わる。
街の表面張力を、内側から針で突いたみたいに、
静かに、破れる。

音は減らないのに、輪郭だけが消える。
誰の声でもない声が、少しだけ遠くなる。

スマホの中にチケットがある。

まだ紙じゃないから、現実の重さがない。
でも、ある。
ちゃんと、ある。
会えるから登っているわけじゃない。
会えなくても、たぶん登る。

ただ、健やかに。
——そう思うとき、私は少し軽くなる。
軽くなるけど、足は重いままだ。
重いものは、背負って登るしかない。
下ろす場所は、山の上にはないから。

汗が出る。

いいと思う。
体がやってくれることは、信用できる。
好きって、もう少し軽いものだった気がする。
でも、軽いままだと、ここまで来られない。

あの人が今日も元気なら、それでいい。
そう言いながら、標高を稼いでいる。

矛盾は、息と一緒に吐いて、また吸う。
続けられる形にしておく。
祠の手前で、少しだけ立ち止まる。
手は合わせない。

願いごとは、言葉にしないほうが、長持ちする。
ポケットの中で、指が少し震える。
下界は見ない。
今はまだ、触れないほうがいい。
風が抜ける。

汗を吸った襟元が、少しだけ冷たくなる。

ここまで来ると、体が勝手に静かになる。
山の上に、答えはない。
ただ、呼吸が整うだけだ。
それで、だいたい足りる。
下りのことを考える。
同じ道を戻るだけなのに、少し違って見えるはずだ。

街に戻ると、またいろんな音が戻ってくる。
たぶん私は、そこでまた少し揺れる。

それでもいい。
続けられる形にしておく。

会えたら、それはそれでいい。
会えなくても、ここまで来たことは消えない。

ただ健やかに。
それだけでいい、と言える場所まで、来ている。

心臓の音が、少しうるさい。

法則の未定義動作

四月の終わり。
曇り。
この時期は、晴れているよりも曇っている方がいい。
行きも帰りも、上着が機能するから。

二条駅で降りる。
改札から地上まで一分三十秒前後。今日は一分三十四秒。
許容範囲。

コメダ珈琲店に入る。

ドアの開閉で空気が一度だけ揺れる。
音と温度の変化を、同じ順番で受け取る。
窓際の二人席。
曇りの日は光が拡散する。
ノートの罫線が歪まない位置。

ブレンドを頼む。
ここのコーヒーは味のばらつきが小さい。温度も味も、毎回ほぼ同じ範囲に収まる。

カップが置かれる。
湯気の立ち方を一秒だけ見る。
問題ない。
ノートを開く。
日付、天候、気温。
それから昨日のログ。
——起床、六時十分。
——通勤、二十一分。
——会話、三件。要約済み。
ペン先を紙に置く。
インクの出方を確認して、短い線を引く。
「……よし」
ここまでは、毎日同じ手順。
ページをめくる。
指が、わずかに止まる。
他の記録は三行で終わっている。
要点だけ。
再現できる程度に。
でも、その人のところだけ違う。
ページが分かれている。
時刻が細かい。

会話の断片まで残っている。
「……情報量が多い」
小さくつぶやく。
仮説を立てる。
「接触時間が長かったから——いや、違う」
「重要度が高いから、記録密度が上がっている……?」
ペン先が紙に触れたまま、止まる。
「重要……?」
その言葉だけ、少し浮く。
もう一度、ページを見返す。

彼が笑ったタイミング。
紅茶をこぼしたこと。
本来は削除しているはずの細部。

「……不要なデータが多い」
削除、という単語が頭をよぎる。
でも、指が動かない。
「……これは、ノイズ?」
違う、とすぐに分かる。

ノイズなら、とっくに消している。
ノートを一度閉じる。
開く。
同じページ。

視線が、そこに戻る。
「……例外?」
口に出した瞬間、それが例外ではない気がした。

もっと単純な、別の名前がある。
けれど、その感情をまだ知らない。
「……まさか、私」
声にすると、輪郭がわずかに現れる。

胸の奥で、何かがずれる。
曇りの朝は変わらないはずなのに、
ページだけが安定しない。

ページの端に、小さく書き足す。
——未定義
ペンを置く。
その単語だけが、やけに残る。

注目のこっち見てや

深緑。
花は一度、終わってるはずやのに、
街はまだ、どこかで咲いてる。

百花繚乱、って言葉が浮かぶ。

でもそれ、今の季節にはちょっと早い。
まだ、見つかってへん。
木屋町の通り。
ガラスに映る自分を、歩きながら直す。
光はやわらかい。
影は深い。

このぐらいがちょうど。
派手すぎんと、でも埋もれへんし。
「……悪くないやん」
口には出さん。

でも分かる。今のうち、ちゃんと見える位置におる。
カウンターの奥。
イェーガーマイスターが一本、やたらええ顔してる。

ライト、よう当たってる。
「売りたいんやな」
目、合うた気がする。
「しゃあないやん」
肩すくめる。
「飲むしかないやん」
グラスが来る。

濁り色が、ちゃんと光を吸う。
ええね。
一口。

強い。
喉の奥で、熱が広がる。
「……ええな、これ」
少しだけ表情を作る。
誰かが見てる前提で。
視線を流す。
一瞬、目が合う。すぐ外れる。
それでええなぁ。
それぐらいが、いちばん。
「……つかみはオッケーやな」
小さくつぶやく。

スマホを見る。
通知は、ない。
分かってる。
それでも、閉じへん。
「……今やなくてもかね」
もう一口。
アルコールで、輪郭が少しぼやける。
見られる自分と、ほんまの自分の境目が、ゆるむ。

それも、悪くない。
カウンターに肘つく。
少しだけ前に出る。
光を拾う位置。
この位置、昔から分かる。
どこに立てば、ちゃんと見えるか。
どの角度が、いちばん“選ばれそうに見えるか”。
誰も教えてくれてへんのに、
いつの間にか覚えてた。
「……まあ、ええか」
小さく息を吐く。
ほんまは、一人でええのよ。

一人でええのに、
その一人が決まらへんから、
こうやって、ばらまく。
視線も、仕草も、全部。
百花繚乱。
でも——
「まだ、見つかってへんだけや」
自分のことやと、分かってる。
グラスを置く。
「……なあ」
小さく、口の中でだけ言う。

「こっち見てや」
心の地獄から絞り出した言葉遊び。

誰にも届かん声。
せやけど、ちょうど。
見られてる間は、消えへんから。
もう一度だけ、ガラスを見る。
少しだけ角度を直す。
誰も見てへんのに。

「……しゃあないやん」
笑う。
その笑いは、ちゃんとしている。
いややなあ。

司令のゼピュロスコンクエスト

五月の連休前、
鴨川は、下流に向かうほど深くなる。
竹田橋のあたり、流れは遅く、色も少し濃い。

表面は穏やかなのに、底だけが重い。

橋の欄干に触れると、昼の熱がまだ残っている。
指先に、遅れてくる温度。
未練がましくて、少し萎える。

最初は、ただ少し高い場所にいる人だった。
言葉の選び方も、判断の速さも、
どこか一段、上にある気がしていた。

見上げる距離が、ちょうどよかった。
手を伸ばせば届きそうで、でも触れない。
その未完成さが、心地よかった。

ある日、ほんの小さな場面で、
世界の向きが変わった。
あなたが迷ったところで、私は迷わなかった。
あなたが言葉を探している間に、
私はもう答えを持っていた。

それだけのこと。
でも、その“それだけ”で、
見上げていた角度が消えた。

それからは、ひとつずつだった。
あなたの癖を覚え、
思考の順番をなぞり、
判断の角度を自分の中に移していく。
盗んでいるわけじゃない。

いいものは全部、血に変わるだけ。
小さな優位が、点になって増えていく。
やがて線になり、面になり、
気づけば形を持つ。

今、私は見上げていない。
隣に立って、同じ流れを見ている。
同じ景色のはずなのに、
なぜか、少しだけ鮮明に見える。
その差が、怖い。


風が、止んだ。
水は動いているのに、運ばれている感じがしない。
表面だけが均されて、底の流れが見えなくなる。

凪だ。

好き、だと思う。
でもそれは、寄りかかるためのものじゃない。

流れを測るための、好き。
あなたの言葉が落ちる位置、
視線が滑る角度、
沈黙が続く秒数。
ひとつずつ拾って、
水面に印をつけていく。
このままいけば、
私はあなたを越える。
越えてしまえば、
この好きは、形を保てなくなる。

だから今は、越えない。
凪の中で、立ち止まる。
次の風を読むために。

ときどき、水面がわずかに揺れる。
誰かの声。
遠くの自転車。
橋を渡る足音。
どれも風にはならない。
でも全部が、兆しに見える。

風が弱くなったんじゃない。
この風から、もう受け取れるものが減っただけ。

それでも、あなたはまだ愛おしい。
だから私は、ここに立っている。
終わりを選ばず、
次を始めず、
ただ、測り続ける。
ふいに、背中側の空気が変わる。
振り向かない。

まだ名前のない、わずかな変化。
それでも、わかる。
風は来る。
まだここには届いていないだけで、
もうどこかで立ち上がっている。

私は、あなたの隣に立ったまま、
その方向だけを、静かに読んでいる。
恋の形をしたまま。

理想のディスタンシング

五月二日、連休前の夜。
街はどこか少し浮いていた。
河原町御池の交差点は人であふれていて、みんな少しだけ楽しそうに見える。

さっきまで会議室で残業、PLの資料を二人で片づけた。
外に出ると、五月の夜気はまだ軽く、息が少し浅くなる。

隣を歩く彼は、ネクタイを少しゆるめている。
どこかボーダーコリーの仔犬みたいだ、とふと思う。

かわいい、と思う。
顔ではなく、こちらに向けられる温度のことだ。

「終わりましたね」
彼の声は、少し弾んでいる。

「終わったね」
私は短く返す。それで十分だった。

風が交差点を斜めに抜けていく。こういう夜は、何かが変わりやすい。
彼は無意識に半歩だけ近づく。
距離が、ほんの少し縮まる。

触れられる距離。
でも、触れない距離。

その差を、私は保つ。

「姐さん、今日飲みません?」
軽い言い方だったが、中身は軽くない。

この子は、好意を隠さない。
隠す必要がないと思っている。
それはいいことだ。
だからこそ、危うい。

「今日はいいや」
一拍おいて答える。
理由は言わない。

ここで応じれば、簡単に何かが動く。
連休前の夜は、街全体が背中を押してくる。
誰も止めない。

けれど、それをすれば関係の形が変わる。
今の角度が崩れてしまう。

彼がこちらを見上げるあの視線は、嫌いではない。
むしろ好きだ。
だからこそ、壊さない。

信号が変わり、私は歩き出す。
一歩だけ前に出て、いつもの位置に戻す。

選んで戻す。

「残念っす」
彼は笑っている。
その笑顔はまだ崩れていない。

大丈夫だと思う。

「また今度ね」
軽く言葉を置く。
未来は示すが、確定はさせない。

それでいい。

交差点を渡りきると、街の光が少し増える。
夜はどこか甘く、人を雑にする種類の空気を持っている。

それに乗らないと決める。

「姐さん、ブレないっすよね」
彼が横で言う。

「そう?」
私は前を向いたまま答える。

実際には、一瞬だけ揺れている。
でも戻せる。
それで十分だ。

かわいい、という気持ちは消さない。
ただ、それを使わない。

距離だけを、使う。

「帰るよ」
そう言うと、彼は頷き、後ろで足音を揃える。

その音を、私はちゃんと聞いている。

連休前の夜はやさしい。
何でも許してしまいそうになる。
だからこそ、選ぶ。

触らない。

この関係のままでいいと思うから。

信号の音が背後で切り替わる。
私は振り向かない。

それでいい。

ヴァネラルブルシフト

東京は焼け尽くした。
京都には食ぶちがあると思った。
そういう話を聞いた。

来てみると、
京都は思っていたより京都だった。

四条河原町は、
すえたにおいがしていた。
人が多い。

人型歩いている。
店は開いている。
灯りもある。
困っている顔は、見えない。
探せばあるのかもしれないが、
見えない。

それだけだった。
少しだけ、立ち止まる。
ここには、絶望がない。
ないのか、
見えないだけなのか、
わからない。

歩き出す。
腹は減っている。
夜は、急に来る。
灯りが少ないせいか、
気づくと、もう暗い。
道はまだ温かい。

昼の熱が、地面に残っている。
歩いている人はいるのに、
音がしない。

足音だけが、少し浮く。
帰る場所はある。
昨日契約したワンルーム。
ただ、そこが自分のものかは、よくわからない。

部屋に入る。
狭い。
机の上に、手鏡がある。
最初からここにあった気がする。
手に取る。
少し冷たい。
顔を映す。
——あれ。

私の、顔だった。
知らない顔ではない。
目も、口も、動く。
ただ、
少しだけ、
合っていない。
角度を変える。

光が弱くて、輪郭が曖昧になる。
それでも、違う。
近づける。
肌の荒れは見える。

そういうことではない。
もう一度、笑う。
ちゃんと動く。
なのに、
どこか、遅れている。
自分が先で、
顔があとから来る。

手を止める。
こんなものだろう、と思う。

疲れているだけだ。
そういうことにして、
鏡を置く。

風がある。
さっきより、少し冷たい。
遠くで、誰かが話している。
言葉は聞こえない。

さっきのことは、もういい気がする。
でも、
少しだけ、残っている。
名前をつけるほどでもない。
ただ、
少しだけ、
自分がずれている気がする。

ディオパトス

昼は、白い。
影が短い。
四条を歩くと、顔がよく見える。
どの顔も、前を向いている。
自分も、そうして歩く。
目を合わせない。
合わせなくても、
見られている気がする。

——何故だろう。
理由はないはずだ。
それでも、そう思う。
橋のたもとに、写真屋がいる。
箱を三脚に載せて、
黒い布をかぶっている。

「一枚、どうです」
通り過ぎる。
少し歩いて、止まる。
——何故、止まったのか。
わからない。
戻る。

椅子に座る。
顎を引かれる。
香った。
白檀、サンダルウッド。
なかなか洒落た爺さんだこと。

肩を直される。
「動かないで」
言われる。
動かない。
レンズがこちらを向く。
黒い穴みたいに見える。
見られている、と思う。
——何に、見られているのか。
人なのか、
機械なのか、
それとも別の何かなのか。
わからない。

そのとき、少しずれる。
体はここにある。
私も、ここにある。
でも、
それを見ている自分が、
少し後ろにいる。

——何故、二重身。

「いいですよ」
声がして、息を吐く。
体が戻る。
戻った気がする。

紙を受け取る。
像が出てくる。
自分の顔だと思う。
整っている。
ここにいる自分より、
少しだけ、きちんとしている。
——何故、こっちの方が正しい気がするのか。
紙を裏返す。
左右が入れ替わる。
少しだけ、
馴染む。

こっちの方が、
見慣れている気がする。
——何故、見慣れているのか。
自分の顔なのに。
反転すれば、
うまくいく気がする。
そうすれば、
私は可愛いかも。
そう思う。

——何故、そう思うのか。
思ったまま、
指を止める。
どちらが本当かは、
わからない。
——そもそも、本当はあるのか。
紙を折る。
ポケットに入れる。
軽い。
歩き出す。
人の流れに混ざる。
顔を上げる。

目が合う。
逸らされる。
また合う。
逸らされる。
——何故、誰も見ないのか。
見ているのに。
「別に、いいじゃん」
小さく言う。
少しだけ、速い。
言葉の形が、少し違う。
関東弁だ。

——何故、今これが出たのか。
ポケットに触れる。
中の顔は、
きちんとしている。
ここにいる自分より、
少しだけ、正しい気がする。
——何故、正しい必要があるのか。
歩く。
足音が、二つある気がする。

東山界隈 ―路地犬アストロラーベ―

東山界隈

東山界隈 ―路地犬アストロラーベ―

東山界隈

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-01-15

CC BY-ND
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