君と綴るこの何気ない日常
17才。どんな毎日でしたか?
“気位が高い”という表現はだいたいが誉め言葉では使われない。つんとしていて扱いにくい人のことを少し遠まわしに使う印象がある。類語としては“自尊心が高い”、“プライドが高い”、“誇り高い”などがあるがどれも合うようで合わない。宇野樹凪はそんな“気位の高い”少年だとみんな思っていた。
作り物のように美しいが、口調は極めて伝法でぶっきらぼうなところは、猫カフェ「ねこやしき」にいる猫たちを思い出させる。全身グレーの手触りの良さそうな猫、フサフサのミルクティーのような茶色の猫、眠ったままいっこうに起きない黒猫、どれも気ままで人間が、近づくことにお伺いを立てたくなるような高貴さだった。樹凪はそんな猫に似ている。
吉野幸玖(さく)の前で、読書に没頭している早川秋都は、樹凪が心を許す唯一の友人だった。樹凪からは、“ときっつあん”と時代劇に出てくる人物のような呼び方をされている。
幸玖は樹凪を前にするといつも緊張してしまう。何か話さなくてはと思うのに、何も出てこない。自分の心の中だけに住んでいる勝ち気で積極的な自分が内側からどんどんと叩いている。
所属する文芸部には、同学年は秋都と幸玖しかいない。ほぼ、活動実績はないが、歴史だけはこの学校で一番長い文芸部、二人以外は、ほぼ幽霊部員で会ったことがない。顧問は他の部活との掛け持ち、こんな不思議な部活がよく存続していると思う。
秋都の父親は、有名な作家だが、秋都は父親を「作家さん」、義母である父の妻を「奥様」とよんでいる。
秋都の実の母は離婚して別のところに住んでいる。秋都は父親を軽蔑し嫌っているが、父親は元の妻に泣いて土下座までして、秋都の監護権を勝ち取った。
週末や長期の休みの時は母親のもとで過ごすものの秋都は、嫌いな実の父、なさぬ仲の義母、父親と義母の間に生まれた子どもと一緒に暮らしている。この子の初めて発した言葉は「にーちゃ」で秋都のことをさしている。
この子を妊娠したから秋都の両親は離婚したのだが、秋都にとってはなにものにも優先される存在であり、その子にとっては、面倒を見てくれる優しい兄であり、ともすればどこか不安定な母親よりも頼れる存在となっていた。
秋都は、作品だけでなくその風貌も読者の人気の高い父親に似ているが、本人はそれを隠すように、寝癖か寝癖風か分からないようなもっさりした髪形に一分の隙もなく制服を着ている。
うっそうとした前髪からのぞく黒縁のメガネで、レンズの反射により目のありかがわからなくなり、深海に住む魚のようで、それを女子に気味悪がられている。
幸玖も冴えない女子の一人で、いないもののように扱われている。クラスの“主要メンバー”たちに取り入る努力を惜しんだおかげで、幸玖は移動教室や体育の着替えのあとはいつも置いてけぼりにされて、だいたい一人になってしまう。
仲間に入れてくれる女子もいるにはいたが、その子たちにも事情があり、いつもというわけにはいかなかった。皆はぐれないように必死なのだ。お昼を一緒に食べて、二人一組の指示が出たときすぐに手をつなげるような、そんな友人ができないまま学校生活の毎日は過ぎて行った。
クラスでの話し合いが放課後までずれ込み、何かの間違いか、主要メンバーが集まっているところに紛れ込んでしまい、いけにえを作り出して和を保とうとする雰囲気の中、たいくつしのぎのからかいが始まる。
「なんだか二人似ているよね。付き合ったら?」と指さされたのが一人、話し合いにも加わらず、自席で本を呼んでいる秋都だった。男子たちは「指名入ったぞ。よかったな。」と全く親しくない秋都の肩を叩いている。秋都は無関心を貫いている。
自分や秋都がどう思っているかなど彼らには関心がない。ちょっとはやしたてて話題はすぐ移り変わっていく。
「余り者同士くっつけば?」と性質の悪い王様ゲームに名指しされた秋都もいい迷惑だろうし、幸玖は自分の立ち位置を思い知らされる。早く終わってくれないだろうか、この不毛で残酷な時間が。さっと立ち上がって教室を出て行けばいいのに。言葉にできないならせめて行動で示さないと一生このままだ。幸玖は冷えた指先を握って目を閉じた。
女子が色めき立った気配に顔を上げると、いつ来たのか樹凪がその様子を見ていた。
陸上部で練習の合間なのか、髪は風で乱れ、額にはりついている。柔らかな線で作られた目鼻立ちは完璧に配置され、鼻と口周りはすっきりとしてだぶついたところがない。大人びていて背も高く、周りは構いたがるが、樹凪は周りを求めない。
“主要メンバー”どころかどこにも属さず、親友の隣にいて、二人にしか分からないくらいの声で話し、時折笑顔を見せる。
「いっちゃん、部活おわった?」
秋都が声をかける。みんなが驚いて秋都を見る。“いっちゃん”なんて樹凪を呼べるのは秋都しかいない。付き合う友達によって、その本人まで評価されるのはどうしてだろうか。
樹凪は、目が大きくて強い意志の光を宿している。その目で、前だけを見て、長い足をどんどん前に運んで疲れも知らずひたすらに走る。先輩のおさがりであろう違う学年の色のジャージを練習着に着ているが、それすらもかっこよく見える。
「ときっつあん、珍しいな。みんなと和気あいあいか?」
「まあそんなところ。たまにみんなと話さないと僕も生きている人間だって、みんなに忘れられてしまうみたいだし?」
秋都の皮肉に教室の空気が一気に冷える。いつも本を読んでいる印象が暗い男子生徒の話す声など初めて聞くかのように皆冷たい目を向けている。
「ああ、そうだな。みんな自分だけが生きています、みたいな顔しているもんな」
樹凪の返答に、みんなの反感と少しの怯えが広がる。樹凪の口調は冗談めかしているが、その端正な顔には表情も相手への遠慮もなく、少しも笑っていない。樹凪は何も見ていないのに、この集まりの力関係とたった今まで秋都と幸玖がからかわれていた名残を感じ取っていた。そして、彼らの反発に対しても、その眼力ではねかえしている。
「さて、帰りますか。吉野さんも一緒に帰る?」
さっきまで、こちらを見ようともしなかった秋都から声をかけられて、飛び上がりそうになる。自分に言われていると認識するまでに少し時間がかかった。おそるおそる秋都を見ると、さも、前から約束していたかのように、秋都が帰り支度をしてこちらを見ていた。
「どうする?まだここに残る?こんな不毛な話し合い僕はもうじゅうぶんだと思うけど。あとはみんなで話してよ。大した内容でもないし、もう明日でいいんじゃない?言っておくけど、欠席裁判はなしだよ」
自分が一緒でもいいのか?次いで樹凪に目をやると、やはり笑ってはいないが、なんと手招きをしてくれた。二人が自分を受け入れてくれている。幸玖は、はじかれたように立ち上がった。
「帰る。いっしょに帰る。ちょっと待ってて」
「うん。ゆっくりでいいよ」
秋都は幸玖を先に外へ出してくれた。立ち去った教室からは、待てよ、とか、なにあいつら、と聞こえてきた。明日どうなっているだろうとかすかに不安が頭をよぎったが、前を歩く樹凪の背中を見たら、それらはどうでもよくなった。明日考えればいいことにした。
いつもは人越しで、直接その背中を見ることさえないのだけれど、今日はその広い背中が目の前にある。秋都も意外に背が高いことも、今になって知った。秋都のことは同じクラスなのに何も知らなかった。
樹凪を初めて見たのは、入学式の日だった。肩を叩かれて振り向く。
「すみません」
自分に向けられているとは思わず、見つめあっていると、少し苛立ったようにもう一度「ちょっといい?」と彼は言った。
「はい?」
こんな見目麗しい少年が自分に話しかけることが信じられず不審げな声が出たことに後悔した。あくまでも自然に「なあに?」と可愛く返せないものだろうか。少年は気にもせずに封筒を差し出す。
「悪いけど、これ、前の奴に渡してくれない?すぐ前のメガネの奴」
機械仕掛けのような手つきで受け取り、前を向くと、果たして、メガネの少年がいた。隣の生徒と話していて、差し出した封筒に気づかない。視界に入るように鼻づらに突きつけると、やっとこちらを見て、封筒と幸玖を交互に見る。
その目は「何者ですか?」と言っている。メガネ少年からは封筒を渡すことを頼んだ少年は見えないらしい。見知らぬ女子から封筒を差し出されて、何か思い違いをしているのかもしれない。
「ときっつあん、新入生代表挨拶、忘れてたぞ」
ようやく助け舟が来た。封筒を頼んだ少年が呼びかける。それでメガネ少年も自分の勘違いに気づいたのか、少し顔を赤らめて封筒を受け取る。
「ありがとう。いっちゃん」
このきれいな少年は“いっちゃん”と呼ばれているようだ。しかし、メガネ少年は幸玖には一言もなかった。この二人の間にたまたまいる自分はただの渡す機械で、人格もない、形もないもののようで、晴れの日だというのに暗い気持ちになる。自分はいつも同じような立ち位置なのだろうか。居心地悪いままでいると王子様がまた肩をたたいた。
「ありがとう。急に声かけて悪かったな」
彼からは心から手間をかけさせたことへの申し訳なさと感謝が伝わってきた。自分から渡したいが、椅子に座った後では身動きがとれなかったのだろう。
彼はもう一度、ありがとう、と言ってくれた。正式な名前も知らない、同じクラスでもない“いっちゃん”は、間違いなく新入生の男子生徒の中でも群を抜いていた。
入学早々陸上部に入部して、ひたすら運動場や学校の外周を走っていた。走っているときは、それだけをインプットされたロボットのようだ。どんなに長く走っても表情が変わらない。
そして、とにかく上級生や先生の言うことを聞かない。逆らわないが従わない。何か言われる「スイマセン」と中身のない謝罪をしてそれ以上は言葉を発しない。そのうち退部させられないかと心配になるほど協調性がない。
入学式の日、秋都は新入生を代表して挨拶をした。挨拶自体は型通りではあったが、秋都自身はなかなかに個性的だった。だから樹凪と友達なのだろう。
新入生代表あいさつとするということは、入試の時の成績上位者から選ばれるが、その通り秋都は明晰な頭脳を持ちながら、文弱な彼は大人しく声も小さかった。
しかし、面倒な役を押し付けられることや、ノートを見せろとか課題をうつさせてとかいう図々しい要求は短い言葉ではねつけた。媚びるようにお願いされても、逆に机を叩かれても蹴られても頑としてノートを差し出さないし、意に沿わないことには応じない。相手があきらめるまで沈黙を貫く。
本当に困っている同級生には手を貸すこともあり、いいやつなのか冷たいやつなのかつかみどころがない生徒として見られていた。
女子はとかくグループを作り、一人になることを恐れる。男子も女子ほどではないがやはり一人になるのは怖い。すでにできあがっているグループに入る勇気もなく、席が近くなった何人かとは会話したが、“友人”というまでの関係にはいまだなれない。幸玖は不安で仕方なかった。
秋都も同じ状況で、時々“いっちゃん”がお昼を誘いに来たり、忘れ物を借りに来たりするとき以外は一人で本を読んでいるが、それを邪魔されることの方が嫌なようで、とてもうんざりした顔で、その相手を見上げる。
そして、幸玖もクラスでも自分の立ち位置や、存在感の濃淡が決まる頃には、中学の頃と全く変われなかったのだと思い知った。寄せ書き帳が何ページも余るようなあの頃と。
秋都ほどには泰然とできない。秋都はどこか余裕が垣間見える。それに秋都には“いっちゃん”がいる。“いっちゃん”の名前はウノイツナというのだと、他の女子の会話を盗み聞いて知った。いつも誰かの話の端々から彼の情報を知るのは情けなかったが、あんなかっこいい少年のことを直接知ることなどこの先ないだろうと思っていた。彼に何かを呼びかけることは万にひとつもないだろう。
そして彼が自分を見てくれることも。自分をわきまえなければ、傷つく。挑む前から気持ちで負けていると言われても、傷つくのは怖い。白い目で、お前なんか知らないと言われたくない。
それでも、樹凪を目で追うことは許してほしい。樹凪は、みんなが自分たちのグループに属してもらいたがる。場が華やぐからだ。流行のことに興味がないのか、何も気にしていないのに、その姿かたちは見栄えがして目立つ存在だった。しかし、愛想はなく、可愛げはまったくない。
生まれたときからその顔だと、自分がいかに恵まれた容姿であるかということに思いがいたらないようだ。多くの人が見た目を保つのに汲々としているのに、かくも不公平で理不尽である。
自分より高い位置にある背中を見ながら歩く。樹凪からは幸玖の頭頂部しか見えないかもしれない。秋都と樹凪は二人だけで話している。
いっしょに帰ろうと言ってくれたものの、こちらに話しかけてくる様子はない。このまま幸玖が横道にそれても気づかないまま二人は歩き続けるだろう。
連休が終わり、夏が近づいている。すでに汗ばむほどの陽気で、上着の内側にこもる熱は暑さのせいなのか憧れの男子生徒と形だけでも一緒に帰っているからだろうか。
「吉野さん、文芸部に入らない?」
秋都の声で我にかえる。秋都は歩みを緩めて、幸玖のとなりで歩調をあわせる。樹凪は前を歩いているが、こちらに注意を向けているのが分かる。
秋都が部活に入っているとは初めて知った。自分は、今日初めて話すくらいの相手から、勧誘を受けている。
「文芸部?」
「そう、文芸部。ほとんどの部員は幽霊で、自分の世界に埋没して好きなことしかしていない。これでも学校創建の頃からある由緒ある部なのです。ちゃんと活動する部員がいないと歴史ある部が、ひとつつぶれるか、他の部に吸収されちゃうんだよね。吉野さん、暇そうだし入らない?」
決めつけられてさすがに頭にくる。それが勧誘する態度だろうか。
「決めつけないで。ひまじゃありません」
「じゃ、お忙しいですか?」
実際、学校と家との往復である。平日は、寄り道せず家に帰り、週一回塾に行く。灰色の青春である。幸玖は言葉につまる。
「多忙なら無理にとはいかないかあ。入ってくれたらうれしいけどな。吉野さんともっと話してみたいし」
もっと話してみたい、そんなこと女子からも男子からも言われたことない。
いつも緊張してしまって、自意識過剰だと自分に言い聞かせても、いつしか身についた考え方のクセが幸玖をしばりつけていて、自然体で生きている子がとてもうらやましかった。
「私なんか話しても面白くないよ。さっきみんなが言っていたことなら気にしないで」
「さっきのはなし?あーあ、あれ?くっだらない。僕も吉野さんにも選ぶ権利がありますよ。ほんと心無い人間のはきだめだな、あのクラスは。僕はぜんぜん気にしていないし、なんなら忘れてた。文芸部に入ったら僕らつき合っていることになるって気にしているの?ないない。あほらしい。同じ部だからってどうしてそうなるのさ。単純すぎる。あの人たち、十秒前のことも覚えていられない。言われた人がどう思っているかなんて気にもしない。それに面白いか面白くないか、そんな重要なこと?仮に面白くなかったとしてもそれがその人のすべてじゃない。」
こんなによく話すのか。表情もこんなに豊かなのか。
「吉野さん、入部してやってくれないか?」
西日を背に受けて、樹凪が振り向いた。
「部員がいなくてさびしいんだって。一応学校に認められている部活で、部のあれこれをぜんぶときっつあんが一人でやっている。大変みたいだ、一年なのに。」
樹凪の援護を受けて秋都がさらに饒舌になる。
「そう、僕たいへんなの。もうやめてしまおうかな。吉野さん、文芸部をお助けください」
芝居がかった言い方をして、秋都は幸玖を拝んで見せた。ぜんぜん大変そうでもない。クラスでも浮いていて、まわりを窺うこともせず、ふらっとどこかへ立って行って、またいつの間にか席に戻っている。
体育の時間などに一人あぶれてしまうと「見学します」と言って隅っこに座って授業は中断され、先生を困らせている。
「ときっつあん。もっとちゃんと勧誘しろ。貴重な人材だぞ」
「そうだね。では、吉野幸玖さん」
秋都はしゃんと背を伸ばして、幸玖と向きあう。まるで告白されているかのように、急な真顔になった秋都に、胸の中で鼓動が響き始める。
「文芸部に入ってください。お願いします」
幸玖の本音は、この状況を違う言葉で樹凪に言ってほしかった、だが、誰かに必要とされるこの感じはほのかにうれしかった。
秋都が、快活さやノリの良さを求めているのではないことも心を軽くした。無理をしなくてもいい、秋都は重ねてそう言った。
翌日には、入部届を顧問に提出し、正式に文芸部員となった。
文芸部は聞きしに勝る廃部寸前の部だった。部活と言うより同好会。部費の必要もなく、部員は誇張でもなく幽霊部員。顧問でさえも自分が顧問であったことを忘れていたようなありさまだった。なぜこの部が今も存在しているのか不思議だ。
秋都がなぜ、幸玖を文芸部に引き入れようとしたかの理由の一端をすぐに知ることになる。
幸玖の日常は少々忙しくなった。廃部寸前といっても一応生徒会の下部組織の一つになる。
秋都は今まで自分がしぶしぶしていたことをすべて幸玖に引き継いだ、というか押し付けた。生徒会の会議に部の代表として出席し、顧問の先生に活動の予定表を提出する、部室を共有している書道部との調整と連絡、ほぼ返信はないが、活動の有無を他の部員に連絡するなどの雑務すべてを担うことになった。
幸玖はとりたてて本が好きと言うことはない。それでも、高校生が俳句や短歌で競い合っているのをテレビで観たことがある。自分の感性で勝負をして、それを誰かに順位をつけられる。泣いたり喜んだり、一つの作品を作るのに苦悩したり、幸玖が経験したことのない姿がそこにあった。
彼らは大半が「文芸部」に所属していて日々、そのための活動をしているが、この文芸部はそれもしていない。秋都が気まぐれに俳句や短歌を作っているが、意味のない言葉の羅列の時もある。
それ以外は本を読んでいるか宿題をしているか寝ているか。こんなのは部活動と呼べるのだろうか。
「何?恨めしい顔して」
秋都は、やっと本から顔を離して、幸玖の非難がましい顔に気づく。高校生になってはじめてできた友達。数週間前の自分には信じられない。
「何もしない時間、ここに集まる意味ある?」
「呼吸をして、本を半分読んだ。実に意味がある」
「早川部長にはありますが、私にはないのです」
「吉野も本読んだらいいじゃない。それか何か一句ひねったら?」
「だから、そういうのをちゃんと目的をもって、大会を目指すとかを活動としてするのが部活動では?」
「じゃ、何かの大会に出る?人数集めからだけど。吉野が集めてくれる?」
話にならない。初めての部活動に期待もあったが、これでは、ただの生徒会の歯車の一つとして忙しくなっただけで、何か活動をしている実感はない。
しかし、秋都は個人的にいろいろ活動をしている、一つ知ったことは、秋都が非常に文才に恵まれ、思った以上に話好きであることだった。クラスでは陰気で文弱な男子生徒だが、ひとたびクラスを離れると、別人のように社交的な部分が顔を出す。
生徒数の多いこの高校ではほとんどの者が、お互いをクラスで見る一面しか知らない。
秋都は、新聞部のコラムを書き、演劇部の脚本を書き、他校の友人のバンドのオリジナル曲の歌詞を書くなど、多彩だった。部活動を通してクラスでは作れないつながりを作っていた。
存在さえ知らなかったが、演劇部の看板女優の先輩に本気でその世界を目指しているといっても言い過ぎではないくらいの美少女がいる。そんな美少女と親しげに話している姿は、クラスにいる時とは別人のようだ。
秋都の方がその先輩を手なづけている感じさえする。思い違いかもしれないが、先輩はおそらく秋都に気がある。年上であると言う思いが邪魔をして、素直になれない。そんな雰囲気を、幸玖でさえも感じ取るくらい彼女の表情はわかりやすい。喜怒哀楽がとても豊かな可愛い人だった。
秋都はその提供した作品に関して自分の名を出すなと言っている。一銭にもならない手伝いをして、見返りはなし。みんなが知れば見る目も変わるとも思うが、秋都はそれを望んでいない。
「これじゃ部活の意味がない。せっかく入ったから、何かしたい。大会とかじゃなくていいから」
秋都は、本を置いて、校庭を眺めている。運動部の元気のいい掛け声がぬるい風にのって流れてくる。季節はもう梅雨で、まだ残る肌寒さと本格的になりつつある蒸し暑さと、雨が降りそうな気配が、すぐ次に控えた夏を思わせる。秋都はなおも窓の外を見ながら、そうだなーとつぶやいている。
「なら、交換日記でもする?」
“交換日記”という言葉を知らない幸玖はスマホで検索する。秋都は「なげかわしい」という顔をしている。
「書簡のやりとりで構成された小説もあるから、交換日記も立派な文学だ。ただの日記じゃおもしろくない。一ページだけのみじかいお話を書くとか。その日あった一番印象的だったことをお話にする。そういえば、僕がこの間見たので印象的だったのが、物理の先生が休憩中に一本の羊羹を一人で切らずにかぶりついて食べていたことかな。短い休み時間だったのに半分くらい一気に食べていた。あれたぶん夕方には全部なくなるなと思った。半額のシールが貼られてた。あの先生がどんな顔して羊羹買っていたかと思うと泣けてきた。先生も人間だよね。あとさ、さっき“つむじ売ります”って謎の書き込みを見つけたんだ。もう謎すぎて興味しかわかない。“つむじの売買”ってお話おもしろそうじゃない?」
秋都の話はどんどん広がっていく。
「しめきりは次の活動の日。誰かにあてたラブレターでもいいな。届かない恋文。しめっぽくて文芸部っぽくていいね」
「ラブレター?いまどき?」
「吉野は野暮だな。みんながみんなスマホもちだと思うなよ。持っていない相手に思いを伝えるときはどうする?そいつのクラスに行って、呼び出す?みんなの前で、断られるかもよ。まずはラブレターからの方がいいと思うけどなー。現にいっちゃんは携帯もっていない」
「なんで、宇野君が出てくるの?」
慌てる幸玖を見て、秋都が得たりとばかりに微笑んだ。
「分かりやすいなあ、吉野は」
何か活動ができると浮き立ったところに、秋都に心の中を覗き見されて、幸玖は言葉が出てこなかった。頬がじりじりと熱くなる。
「別にいっちゃんあてのラブレター書けとか言ってないよ。書いてもいいけど。アイドルでも俳優でも、先輩でも先生でもいいよ。この人に書くとしたらどうしたら伝わるかって思って書く。ロマンチストにはきれいな言葉を、鈍感そうな奴には直球で。どういう相手か考えながら書く。そう思うと恋文って一つの文学だね」
幸玖が無表情になっていくのを覗き込んで、秋都はさらにたたみかける。
「だって、何か活動したいって吉野が言ったんだよ。そんな顔するなら吉野が何か考えてよ。僕、別にいまのままでも全然いいけど。別にラブレターをほんとに渡すわけじゃないし、日記の内容も百年先の後輩に見られても差し支えないような内容でいいよ。リアルな内容の日記なんて見られたら恥ずかしくて死ねる。あくまでも文芸部の活動なんだから」
幸玖は何も思いつかない。言い出した手前ひくこともできない。
秋都は幸玖が黙っているのを了承と受け取ったのかすでにノートを取り出している。最初から用意していたのかもしれない。ノートというより一見ハードカバーの美しい装丁の本だが、中身は真っ白だ。
「じゃ、さっそく今日から始めよう。まずは言い出した僕から。では、今日の活動を終わります」
秋都は日直のように締めの挨拶をした。つられて幸玖も頭を下げた。
「はい。あの・・おかしくない?」
「今の流れで何かおかしいことがあった?」
「私なんかが宇野君にあこがれていることが」
秋都は本当に理解していないようだった。言わなければ忘れている会話の一端なのに、秋都にはその程度でも幸玖にはとても気になることだった。
「吉野がいっちゃんに憧れることはおかしいこと?笑うところ?」
「身の程知らずとか思わない?図々しいとか・・」
「他の人のことは知らないけど、少なくとも僕はそんなこと全く思わない。ちょっと吉野の思考回路が理解できない。図々しいとか身の程知らずとか、そう思っていいのは当のいっちゃんだけだ。オレサマに懸想するとは分不相応な奴がって?いっちゃんはそんなこと言うと思う?いっちゃんの何を知っているの?すごく失礼だな。」
けそう、の意味が分からなかったが秋都の言い方が厳しいので黙っていた。
秋都の黒目勝ちの目が強い光を持ち刺すように幸玖を見ている。いつものからかうような口調ではなく、心底あきれて、怒っている。
「自分を卑下しながら周りやいっちゃんを見下している。すごく傲慢だ」
「ごめんなさい。見下しているわけでは・・。でもさっき私が分かりやすいって早川部長がわらったから」
「は?僕のせいか?」
「違う、また、ごめんなさい。だから私、ほんとうに、いつもこんなになっちゃう・・」
恥ずかしくて、自分がすごく小さなものに思えて泣きたくなる。声が小さくなっていく。
秋都は椅子に深く腰掛けて足を組み、厳しい表情を崩さない。
「謝るのは僕に対してじゃない。もし、僕が身の程知らずって言ったら、吉野はいっちゃんに憧れるのをやめる?そんなことできる?自分にうそをついて、心に蓋をして、そんなの楽しい?自分を痛めつけるのが好き?」
今までの話し方がどれだけ優しかったか分かる。秋都は徹底的に残酷になることもできる。言葉で叩かれているみたいだ。
幸玖はついにこらえきれず、涙があふれた。あつくて苦い涙が止まらなくて手のひらの上に次々と落ちてくる。秋都は黙ってその様子を見つめていた。
「ごめん、言い過ぎた。笑ったのは図々しいとか思ったんじゃなくて、微笑ましかったからだ。いっちゃんを見る時の吉野の顔が絵にかいたような恋する女の子の顔だから。吉野、人を好きになるのに誰の許しもいらないよ」
秋都は、そう言ってティッシュの箱を差し出してくる。それでも幸玖がとうとうしゃくりあげると、秋都は降参、というように両手を挙げた。
「泣き虫だな。頼むから、もう泣かないで。どうしたらいいか分からなくなる。僕はいつも言い方がきついって言われる。ごめん」
幸玖がまだ鼻をすすっていると、秋都は誰もいないのにあたりをうかがうように目をきょろきょろさせて声をひそめた。
「分かった。いっちゃんのとっておきの個人情報を一つ教えてやる。誰も知らないはずだ。耳を貸せ。そして泣き止んでくれ」
秋都が顔を近づけて来るので、涙が引っ込んで今度は幸玖があわてる番だった。
「いやいや、けっこうです。だめでしょ。宇野君の許可もなしに・・」
「そう言わずに。吉野が泣き止んでくれるなら僕は友を売る」
「泣き止むからもう言わないでー。怖いよ」
「遠慮しないで。今だけだよ。」
二人はいつの間にか笑い出していた。幸玖が笑ったのを見て、秋都も安心したように笑う。その顔はいつもより幼くて素直だった。
「吉野はどうしてそんな私なんか・・って言うの」
秋都は幸玖と話すときも本から目を離さないが、その時は目を見据えて幸玖の返答を待っている。
幸玖がずっと心の中に抱えている苦い思い出。勇気を出して話しかけたのに、相手からの答えは「お前なんかが俺と会話できると思うな、話しかけるな」という氷のような言葉。
勇気を踏みにじられて相手の本当の姿が分かった。勇気をもって話しかけたから相手からも相応の回答をもらって当然というのは感情の押し付けかもしれない。
しかし、もう少し言いようがあると思う。多分この時のことは大人になっても忘れない。
思い通りにふるまっていい人と我慢しなくてはいけない人がいる。ふさわしい、分相応、身の程・・人間関係にはそれを必須条件にする人がいる。
自分にとって価値のある人間かどうかを自分の尺度ではかるような人たちが。手の届かない人に手を伸ばそうとしたことへの罰、幸玖は自分が罰せられたと思った。気づいていなかった自分の在り様、立ち位置、相手にどう見られているかを思い知らされた。
たまらなく恥ずかしく自信が砕け散った。それから他の人と自分を比べるようになった。冷たい言葉を投げつけた相手が友達と話しながら何かの拍子にこちらを見ると、自分のことを言われているようでぎゅうと心臓がひきつりそうだった。
誰にも関心をもたないよう誰かに関心を持たないようにしよう。でも本当はみんなと楽しく輪になって話したい。幸玖はそんな矛盾した感情をずっと抱えてきた。誰かにそれを言ったことはない。この子はずっとこんな殻にこもったような子なんだとみんな思っている。
秋都に言われなければ、それは生まれたときからの考え方のクセで、何か原因があるとは思わないというように自分に思いこませていた。もうあんな思いはしたくなかったから。
「きっと誰かに言われたんだよね。生まれた時からそんなネガティブじゃなかったはずだ」
秋都はあっさりと言い当てた。幸玖のわずかな表情の動きでそれは当たっていると確信した。
「そういった奴が今の吉野を見たら、きっと驚くだろうな。今の吉野は表情が豊かで見ていて飽きない。僕に文句を言うときやいっちゃんと話している時とか。」
秋都は時々すごく優しい。幸玖の小さな傷に手を当ててくれるような言葉を言ってくれる。
大人になって思い出すのは、いつも、結局最後には折れてくれる秋都だった。
「忘れろよ、そんな奴の言葉。最初から言われていないと思え。いや、でも、もしかしたら必要だったのかもしれない。嫌な思いをしたからこそ、今の吉野があるのだと思う。吉野は思ったより強いし、思いやりがある。行き過ぎているけど謙虚なところとか全部いいところだ。そんなことも見抜けない空っぽの奴、僕が闇に葬ってやる。自分の発言が人の考え方をねじまげてしまう重大さをまったくわかっていない。」
「どうして部長がそんな怒るの?考えてみたら私が負のループに勝手に落ちたんだよ。みんなに優しい人だったの。私にも優しくしてくれるんじゃないかって。私なんかが思い上がって話しかけたりしなければ・・」
「ストップ。今度“私なんか”と言ったら一回につき1,000円貰い受ける。そいつのどこが優しい人だ。最低だぞ。そんな奴。吉野の人を見る目がなさすぎて、甚だ心配です」
「1,000円は高い・・」
「高く設定しないとまた言うだろう?吉野、自分を好きになれとは言わない、でも自分のことを嫌うな。吉野をこれから好きになってくれる人が気の毒だ。好きになるのに理由なんかいらない。でも嫌いになって別れるときは理由がいくつも必要だ。吉野のその思い込みが嫌われる原因になるかもしれない。そんなことでもったいない。」
(泣かせてしまった。泣かせたくなかったのに)
幸玖が帰ってしまった部室に残った秋都は、ひとりごちた。幸玖がいないと部室は急に冷え冷えとする。
秋都は珍しくとても後悔していた。涙が乾いた幸玖はいつものようにぎこちなく手を振って部室を出て行った。幸玖は見かけによらず強いと勝手に思っていた。あまりに自分を卑下するので苛立ったのだが、泣いているのにさらに追い詰めてしまったことは言い訳のしようがない。
いつもみたいに言い返してくるかと思っていた。分からないふりをして、小首をかしげて上目遣いをする女と違って、打てば響くように言葉を返してくる幸玖。それが当たり前と思っていた。
入学式の日、自分の浅はかな勘違いが恥ずかしく、何か間違えているだろうかと不安そうな顔をさせたことが申し訳なくて「ありがとう」の一言が言えなかった。これまでまわりにいた女子は自分を無視するか、隠された素顔を見てやろうという物好きに二分される。幸玖はそのどちらでもない。
それからは、頼まれたことを素直に全うしようとする幸玖が気になってしまっていた。可愛い女子はたくさんいるが、気になる女子とは違う。
樹凪のことを目で追っているのは知っていた。だからもうやめようかと思っていた文芸部に誘ってみた。
そうしたら自分の予想を時々いい意味で裏切る幸玖の聡明さに驚いた。大人しいが意固地で秋都と小説の結末の解釈をめぐって一歩もひかない。
徐々に心を開いてくれている幸玖の変化がつまらない時間を新鮮なものにしてくれた。
幸玖という名前もいい。“幸くあれ”と願ってつけた名前だろうと思う。きっと自分の親のようでなく素直にまっすぐに子どもを愛せる親から掛け値なしの愛情をもって育ててもらったはずだ。
もっと自信をもっていい。いつもそう思っていた。だから挑発して煙にまいて怒らせてみたりしてきたが、まさか泣くと思わなかった。めそめそ泣くやつはうっとおしい。
でも、相手によってはそれが可愛く見えるのだと身勝手にも思った。幸玖は人間関係で生じた小さな傷を治しきれずにいる。それを暴いて泣かせてしまった。秋都のことが分からないと他の誰かに泣かれても怒られてもなんとも思わないのに幸玖の涙は海底に沈むおもりのようだった。
明日から、幸玖が笑ってくれるような楽しい活動をしよう。秋都は久しぶりに明日が楽しみだと思った。友だちに会える。そんな楽しみな明日なんてひさしぶりだ。
こうして、ほぼ二人だけの文芸部の活動、交換日記が始まった。日記と言っても日々の記録だけではない。テーマを設定してそれについて詩や短い物語を作る。
ある日は、「鼻毛についての考察」をしてみた。大真面目に鼻毛の重要性を語る秋都が面白くて幸玖は笑いすぎて、翌日も秋都の顔を正面から見られなかった。
秋都は架空の恋人にあてた恋文を書くこともあった。皮肉屋の秋都が書いたとは思えないほど恥ずかしくなるほど甘く情熱的なラブレターは、本当に架空の相手かと思うほどの生々しさを感じる。それをこっそりもちこんだお菓子をむしゃむしゃ食べながら書いている。
今日のテーマは「美女と野獣」だった。
「野獣があのままだったらその後美女とうまくいっていたか?」
「最後に魔法が解けたから王子の姿に戻ったのであって、彼女は野獣の心を愛したのだからあのままだったとしても幸せに暮らしたはず」
「確かに。野獣と分かっていても家族のために彼のもとに出向くのだから美女はそれだけ肝が据わっている。ところでその逆、現実でも物語でも美男と野獣の話が少ないのはどうしてだろう」
「女性を野獣というのは・・・」
「男だって野獣とか言われたくない。彼女と歩いていて“美女と野獣”と言われたら傷つく。自分も彼女も悪く言われた気がする。」
「それはうがちすぎ。というか言われたことあるような口ぶりじゃないですか。どんな美女といたんだか」
「浮気な亭主を問い詰める奥さんみたいな言い方だな。僕が野獣決定なのか?たとえばって言っている。吉野こそドロドロしたドラマの見過ぎだ」
二人の話は続く。しまいには部室を共同利用している書道部員たちも加わり秋都は女子たちに詰め寄られて、あわてて話を終わらせてしまった。
書道部員たちはみな真面目で優しい子たちばかりで、違うクラスだったが幸玖には一気に友達が増えた。
そして、文芸部に入部してもっともうれしかったのは、憧れの樹凪と近づけたことである。絶対話すことなどできないと思っていた樹凪は、時々秋都に会いに部室に来る。
初めのうちは秋都がいないと帰って行ったが、そのうち秋都がいなくても部室に入ってくるようになった。
樹凪も打ち解ければ、実は優しく気さくだった。緊張している幸玖がどうにか話を振ると面倒くさそうでもなく馬鹿にもせず、きちんと言葉を選んで答えてくれる。部室を共同利用している書道部員たちに対しても同じで、おずおずと話しかけて、おやつをくれる書道部員たちに、樹凪は優しく笑いかける。
きっちりと線を引いているから冷たいように見えるが、誰のことも区別しないし誰のことも特別視しない。
人間関係に損得を持ち込まない樹凪だった。幸玖は、そんな樹凪がますます眩しくそして憧れを募らせるのだった。
その日は雨で、陸上部は休みで、樹凪は部室に来ていた。ベランダにもたれてしとしと降る雨を眺める樹凪の立ち姿は端正だった。長い手を伸ばして、雨にぬれさせている。
秋都の携帯電話に着信が入る。秋都は着信相手を確認するとぱっと立ち上がり、部室を出て行った」
「ユイ?どうしたの?」
(ユイ、誰だろう)
「気になる?」
樹凪がベランダに背中を預けて、幸玖に話しかけた。もう話しかけられても緊張はしなくなっていた。
「ユイってときっつあんのきょうだい。まだ4歳くらいだからさびしいと母親のケイタイを使ってたまにかけくる。ときっつあんは、ああ見えて甘々な兄貴なんだ。ユイも兄貴が大好きでさ」
「弟さん?妹さん?」
樹凪は大きな目を見開いた。何かまずいことを聞いたかと幸玖は目を泳がせたが、樹凪の声はいつものように優しかった。
「やっぱり吉野はいい感性しているな」
どう答えたものかと考えをめぐらせていると、樹凪が落書きだらけの秋都の文庫本に長い指を這わせた。
「これ、たぶんユイが落書きしたんだ。兄ちゃんの注意をひきたくて、よく落書きとかいたずらをする。でも秋都は怒らない。ユイは男の子。ユイが男か女かって聞いたのは吉野が初めてだよ。漢字では由維って書くんだけど、ユイって名前だからだいたい女の子に思われて、仕方ないとは思うけどユイも難儀だよな」
初めて秋都の家族のことを聞いた。秋都の時々見せる優しいまなざしは弟に向けられるものだったと思えば合点がいく。
「名前だけで判断しない。多分吉野はそうやって先入観なしで見ることができる人だと思う。吉野に文芸部に入ってもらって正解だった。ときっつあんには分かっていたのかな。俺も吉野を見る目が変わったよ」
幸玖の名前も男女の区別がつきにくい。いやな思いをしたことはないが、名前は大切だと思う。名前ひとつで人生が変わってしまうことだってあるのだ。
「幸玖って名前もいい名前だな。お父さんもお母さんもきっと吉野が生まれた時うれしかったってことが伝わる」
樹凪の前では、自分は透明人間だと思っていた。顔のない集団の一人。
樹凪のそばにいるとうれしい反面落ちつかない。勝手に自分の考えがそっちに行く。秋都にたしなめられても考えのクセはなかなか抜けない。
しかし、この時、樹凪が認めてくれて、評価してくれて初めて自分が形と心をもった人間になれたと感じた。
謙遜ではなく彼と付き合えるなんて思ってもいない。同じ学校にいる少しだけ親しい同級生に過ぎないかもしれない。隣に立てるなんて身の置き所がない。樹凪のとなりに平凡以下の自分が立つなんて想像もできない。
樹凪は眩しすぎる。しかし、樹凪を盗み見ることしかできない通行人ではなく少なくともあこがれの人に存在を認識してもらえた。今までの自分からしたら大した進歩ではないだろうか。
とても、幸せでうれしくて目の奥が熱くなる。樹凪の方はそんなたいそうなことを言ったとも思っていないようで、立ち上がって伸びをして、そろそろ行くか、なんてひとりごとを言っている。
「俺、そろそろ帰る。ときっつあんに言っておいて。・・って何?じっと見て」
怪訝そうな樹凪に、幸玖ははっとする。かっこいい。すごくきれい。
こんなにかっこよくて性格もさっぱりしていて、優しくて。そういうところも見せられて好きにならないわけがない。
「宇野君みたいになってみたいなって・・。宇野君の目線で世の中を見てみたい」
言ってしまってから、調子づいてなんてことを言ってしまったのだろうと幸玖は自分のお腹を覗き込むくらいうつむいてしまった。
どんな言葉が降ってくるかいやな汗がにじみ出てくる。つい気安くなりすぎて思っていることが口から出てしまった。樹凪のようなきれいな顔でいるとはどんな気持ちだろう。単純な好奇心だが、樹凪は顔のことを言われるのを嫌がっていたら好奇心の名を借りた失礼な発言だ。せっかく近づけたのに嫌われてしまう。
「吉野?よしのさーん?」
樹凪がつむじをつついてきた。しばらく頭を垂れているとまたつついてきた。
ごめんなさい。こんな私を認めてくれた宇野君のことがますます好きになっていく。好きって言ったら迷惑かな。顔しか見ていないって思われたよね。
「ごめんなさい。変なこと言って。気持ち悪いこと言って。こんな私と話をしてくれたのに。もう台無し」
「いいから、こっち見ろって。怒ってないから。ちょっとひいたのは確かだけどな。顔上げないと頭に穴開けるぞ」
いっそ頭に穴を開けてほしい。のろのろと頭を上げると、樹凪の細めた目と目が合う。その笑顔が呆れているのか、面白がっているのか判断がつかないほど恥ずかしくて頭が鈍っている。
「吉野っておもしろい。俺になりたいって言われたのは初めてだ。」
最初は、そのきれいな顔とどこか洗練された立ち姿に心を奪われた。左右対称が美しい顔の条件の一つと言われるが、樹凪の目鼻立ちは、まさに左右対称に配置されていた。骨格がしっかりしていてきっと骨さえも美しいのではないか。
髪を短くしているので、はっきりと顔が見える。樹凪がお面を外すようなしぐさで手を幸玖の前にかざす。
「今、吉野は俺になっています。何か見える?」
大きな手、指先が前髪に触れる。首を横に振るのが精いっぱいの意思表示だ。
「何もみえないだろう?吉野だからこそ見えるものがある。吉野が俺になったら吉野がいなくなるわけだろう?吉野がいなくなるのはいやだな。」
たった15年しか生きていないが、おそらくこの日のことを一生忘れない。体がふわふわ浮きあがるみたい。王子様と過ごす時間、言葉を交わして、自分を一人の人間として評価してもらって、幸せすぎて大げさすぎるが、生きていて良かったと思うのだった。
幸玖の高校生活は文芸部に入部して、彩に満ちたものになった。クラスは違うが、書道部員の友達もできた。廊下でおしゃべりをして、彼女たちの作品展を一緒に見に行った。
秋都との交換日記も途切れることなく続いている。携帯のメールと違って、あとあと残ると思うと、よく考えて書くようになった。
秋都は時々、詩でも物語でも随筆でもいいから一つのことについて書くように、とテーマをくれる。
いよいよ何もないと絵日記を書いて渡すと秋都は「夏休みの小学生みたい」と言いながらも、次回の活動は絵手紙を書こうと、色鉛筆と葉書を用意してくれていた。
「吉野は絵も上手いな。」
樹凪が手元を覗き込んで誉めてくれる。細いのに筋肉を感じさせる男らしい腕からの体温を感じて頬が熱い。
これを書いてほしいと図鑑を差し出された。ダリアという花で、樹凪の好きな色で書き上げて、“風と競う”とメッセージを添える。もうすぐ陸上部員として大会に出る樹凪が顔をほころばせて微笑んだ。
秋都は相変わらず、学年一位の成績を維持している。全国模試でも十位に入る。
家から通えて、樹凪と同じがいいと言う理由で選んだ決して偏差値が高いとは言えない平均点のこの高校において秋都は学校の名を上げる存在だった。
全国模試でほぼ満点だったときは、担当者がどんな生徒か会ってみたいと連絡してくるほどだった。
テスト前になると幸玖と秋都と樹凪の三人で部室で勉強会をする。飛びぬけて明晰な秋都が中くらいの成績の幸玖と成績については少し危うい樹凪それぞれに合わせて教えてくれる。分かりやすくて先生よりも教え方がうまいのではないかと思う。
「分からない相手に理解してもらうように教えられたら自分の理解も深まる。分からないところがあれば分かるところまでさがってみたらいいかもしれない」
秋都はそう言いながら、中学生や小学生の教科書まで持ってきて、ここが基本になっていると示しながら教えてくれた。
そうやって三人で勉強して、身についたかついていないか分からないが勉強したと言う充実感で、寄り道して、みんなで買い食いしながら帰る。
まるできょうだいみたいで、おかしくて楽しくてうれしくて。幸玖は去年の自分なら、好きな人に告白しようなど露ほども思わなかった。
また、冷たい反応に傷つくことを恐れて考えることさえしなかったはずだ。しかし、今なら、たとえ断られても自分の思いを伝えたいと思うまでになった。手が届かなくても人を好きになることに自分で制限を設けることはない。自由に、まるで言葉が次から次へとあふれてくるように誰かに恋心をうちあけていい。
でも、恋心は今はしまっておきたい。なぜなら、この時間があまりにも幸せだから、このままの時間がいつまでも続けばいいのに。好きだと伝えたらこの時間が終わってしまうかもしれない。
幸玖の高校生活は次第に彩が添えられていったが、それに伴っての副作用、学校生活の負の部分に直面することにもなった。
時間割が変わったことを知らされず、幸玖は次の授業に遅刻した。椅子が廊下に出されていた。机の中に整理したはずの教科書が机の上に散らかっていた。
もともとクラスで話せる友人はいなかったが、嫌がらせをされることはなかった。今は無視に加え、見えない手でたたかれるような感じがする。
こんなことなら今までのようにしておけばよかった。友だちもいなくて、学校と家を往復するような毎日。
一日が終わるたびに胸をなでおろしながら、今日も家族以外と話をしなかったとため息をつくような毎日。そんな毎日がお前には似合っていると、無言の悪意に壁際に追い詰められていく。
すれ違うと舌打ちをされた。主要メンバーの中でも気の強い女子たちのグループだった。
「そういえば、どっちかに決められない女っているよね。誰とは言わないけど」
「いるいる、どっちにしょうかなって、二人の間で揺れていることに酔っている女」
「そういうことを考えている女ってほんとだらしない顔してる。ブスが涎垂らして男たちを品定めして」
「すぐ泣くし。泣いたって可愛くないのに。」
そんな会話を聞きながら、幸玖は廊下にある自分のロッカーを開けた。甘い匂いがした。仕切り台に横置きにされたキャップのないペットボトルからジュースがたらたらとこぼれていた。中においている体操服も机に入りきれない教科書も濡れて甘い匂いを放っている。
体は羞恥と恐怖で熱くなっているのに、指先は動かせないほど冷え切って思考も働かない。
泣いてはいけない。泣いたって可愛くない。泣いたってみんなは許してくれない。自分なんかが楽しそうにしているからみんな呆れている。場違いな甘い匂いがしている。ペットボトルは空で、ロッカーの中はジュースびたしだ。
「ロッカーも涎垂らしてる」
誰かが言うと、追随のくすくす笑う声がした。今までいないもののように扱われることがあっても直接的に何かされることはなかった。直接的に何かされるとはこんなにも怖いことなのか。衝撃で体が動かない。自分がどちらを向いているかも分からなくなる。
冷たい指先、感覚がない。片付けないといけないのに手が動かない。
「だいじょうぶ?」
となりのクラスの書道部の友達がそっと横に立つ。先ほどの仕打ちも信じられないが、今の自分に声をかけてくれる人がいることが信じられなかった。
その子は物静かな子だったが、まだ笑っている子たちを底冷えするような目で見やる。その目でひるむような子たちではない。友だちを上から下まで見て、自分達より見た目が“劣る”と判断すると、またくすくすと笑った。
「おこぼれを狙っているの?」
友達の顔色が変わる。しかし、言い返す勇気はないようで、真っ赤になって黙っていると、秋都がモップとぞうきんを持って大股で歩いてくる。
秋都は、手際よくモップでジュースを掻き出し雑巾でふきとっていく。そして、使い終わった雑巾を彼女たちの足元に投げつけた。水分を多く含んだ雑巾がべちゃりという音を立てる。水滴が飛んで、彼女たちは、汚物を見るようにニ、三歩あとずさりした。
「洗ってこい」
秋都の命令口調を“主要メンバー”の彼女たちは馬鹿にして嘲笑う。
勉強しか取り柄がなく、クラスにもなじまない変わり者、中の下の見た目。運動が苦手で体育の時間はいつも壁によりかかっているひ弱な男子、そんなのいないも同然で、その言葉など地面に落ちて濡れて泥のようになった葉っぱほどの価値もない。気遣うべき人間ではない。
「洗ってこい。」
秋都はもう一度言う。周りの空気がぴりぴり震えるのが彼女たちは気づかないのだろうか。
「誰か何か言った?」
「聞こえなーい。虫じゃない?」
立ち去ろうとする彼女たちに、秋都が声をかけた。
「困っている同級生に手を貸すこともできないのだね」
「なんでわたしたちがしないといけないの?自分でやったんでしょ?」
「そうだよ。同情ひこうとしてさ。」
「そうやって自分のしたことから逃げるのか?夏休み中、君たちは指一本触れさせずに男たちに貢がせていたらしいな。もらうだけもらって逃げる。買ってもらったものを自慢してただろう?だけど本当にそれですんでいたのかな?それ相応に君らと交換したんじゃないか?決して対等な取引とはいえないな。もちろん君らの価値の方が低いということだ」
挑発的で下品な言い方に彼女たちが立ち止まる。唇やこめかみあたりがそれぞれ引きつっているが、集団でいることで気が強くなっているのだろう。全員で秋都をねめつけている。
秋都は、目をそらさない。メガネをはずしたその目は澄んでいて深く、饒舌だった。心から君たちを軽蔑している、と語っている。彼女たちは何も言わなくなり、じっと見つめているだけの秋都に嫌悪を感じ始めた。
モップの柄を撫でながら、その視線が一人ずつ上から下まで顔から胸、腰、下腹部、脚、つま先まで這っていくのを感じていた。服に隠された部分をさらけ出されているかのような好色な視線は、秋都が決して無害な存在ではなく、欲望を隠さない異性だと思い知らされる。
いつものように高笑いしてじゃれあいながらその場を立ち去ればいいのに催眠術にかかったように動けない。不快を感じるのは、何人かの大人の男性たちに、値踏みされるような目を向けられた経験があるからだ。
好きでもない男性からの視線は恐怖以外のなにものでもない。それなのに、次に秋都が何を言うか、どんな行動をするかに不穏な興味も湧いてくる。
「気持ち悪い。何か言いたいことがあったらいいなよ」
空気が一分の隙もないほど張り詰める。一人がたまりかねて大きな声で言うが、それでも秋都は視線をはずさない。
夏休み中に彼女たちが何をして遊んでいたかを知っていると言うように、短いスカートから伸びる脚をじろじろ見ている。彼女たちも女性をモノとして見るような男がその目をした後にどんな行動をするか身を以て知っている。
「その雑巾を拾って洗ってこいと言った。ほら、お嬢ちゃんたち、みんなで行ってこい。一人では何もできないくせに」
その言葉を言い終わらないうちに、秋都は男子生徒に取り囲まれた。主要メンバーの女子たちのまわりに侍っている男子たち、中には付き合っている間柄の者もいる。
秋都はそのままどこかへ連れて行かれそうになっている。「自分のグループの女の子たち」に暴言を吐き、いやらしい目で見たことでこれから鉄拳制裁を受けることは明白だった。
幸玖は咄嗟に秋都の手をつかむ。秋都が冷たい指先を暖めるように握り返す。嘲笑の口笛が飛ぶ。
恥ずかしいなど言っていられない。幸玖はさらに男子生徒をおしのけて秋都の腕にしがみついた。
しかし、秋都はするりとそれをほどいて、良く知っているいつもの穏やかな目でまばたきをしてまた幸玖の指先をぎゅっと握った。
(宇野君、助けて。お願い。早く来て)
「いってはだめ。連れて行かないで」
そういうのが精一杯だった。秋都の口がゆっくり動いた。
(だいじょうぶ)
「口出すな、ブス」
男子生徒が薄笑いを浮かべて、幸玖の胸のあたりを押した。秋都はよろけた幸玖をしっかり支えてから、柄から外したジュースを含んで重くなったモップをその男子生徒の目のあたりに投げつけた。男子生徒は目をおさえてうずくまる。ひとつ間違えば大けがをする行為だった。
それを秋都は見下ろして薄く笑う。モップで汚れた手を拭くようにその男子生徒の髪をわしづかみにした。
「そんなだからもてないんだよ。あそこにいる尻軽たちにも相手にされてないんだろう?」
秋都が女子の方にあごをしゃくる。男子生徒は、怒りに目を赤くして、秋都の首に手をまわして連れて行ってしまった。秋都は一言も発しないので、傍目には友人同士のじゃれあいにも見える。
呆然としている幸玖と友人に、樹凪が気づいて、どこに連れて行かれたか探し当てた時には、無抵抗の秋都は数えきれないほどの傷を負った後だった。しかし、秋都は怒り狂う樹凪の足にしがみついて止めた。
「追うな。いっちゃんがそんなことしなくていい。」
秋都はその日、早退した。しばらく休んで、秋都は治りきれない傷をさらしたまま登校してきた。利き手を踏みつけられて、字が書けず、授業は前を向き、黒板の字を追うだけだったが、保健室に行くことも早退することもなかった。
先生が、事情を聴きたいと話しかけた時、秋都は笑みさえ浮かべて言い放った。
「事情聴取なら、ここで、みんなの前でしてください。何人いて、誰が何をしたかすべて正確にお話します。僕はすべて覚えています。みんなも聞いていてほしい。ここで話せないなら、僕はあなたには何も話さない。こういうことになったのには、その原因があります。まずはそれを調べてください。今この教室で起こっていることに、あなた方が見て見ぬふりをしているのも知っています。今回の事は起こるべくして起こったことです」
その小賢しい物言いに、秋都の心を開くために努力するような先生はおらず、話さないなら仕方ないとなった。被害者の秋都も加害者も傍観者たちも沈黙した。
幸玖と樹凪は職員室に日参して、ロッカーでのことを訴えたが、結局うやむやの内に調べるふりをされたまま、季節だけが過ぎた。
「他の生徒とは何の関係もない。今回のことはあくまでも自分と相手たちとの間のことだと言って。そのロッカーのことは本当のことなのかい?」
幸玖は先生たちの逃げ腰に絶望した。ジュースの染みがついた教科書や体操服を見ていないのだろうか。大勢が見ていたのに。
に今回の事を終了させようとしているのが見え透いている。幸玖と秋都は職員室を追い出されてしまった。
怒りにまかせて樹凪は職員室の前の先生たちの座席表が貼られた掲示板を叩き落として、足で何度も踏みつけた。
先生たちの誰かが出て来て咎めるかと思ったが、関わりたくないと言うように職員室の引き戸は沈黙のままだった。
(これが先生たち、大人の、本当の姿)
樹凪は泣いていた。やはりかという諦めとやるせなさ。傷だらけの秋都の射抜くような目を向けられながら、あんたたちはなぜ淡々と授業ができるのか。
秋都は幸玖とも挨拶さえもしなくなった。幸玖も秋都の無表情が怖くて、話しかけられなかったが思い切って昇降口で秋都を待ち伏せた。
「けがはだいじょうぶ?」
秋都は不機嫌さを隠さない。靴を地面に叩きつけていらただしげに足を突っ込みながら顔をこちらに向けない。
「関係ない。」
「関係あるよ。私のせいで・・」
「だから?恩返し?だったら痛むところをさすってほしいな。体のどこらへんを言ってるか吉野に分かる?なんなら今からうちにきてもいいよ。でも、吉野ってそんな軽い女だったかなあ」
熱いものに触った瞬間、冷たく感じる。秋都の言葉はそういう感じだった。一瞬冷たくて次は火傷するように熱い。ひりひりと肌が焼かれるようだった。
うちにいく、が何を意味するか、さげすむような目をした秋都に気づいたとき、幸玖は誰のか分からない上履きをつかみ出して秋都に投げつけてその場から走り出した。
秋都は追いかけては来なかった。何がどうしてこんな風に自分は走っていて汗だくで、なぜあんな冷たい秋都なのか分からない。体にこもった熱が逃げ場所がなく気分が悪い。頭痛とめまいがする。
こんな思いをするなら、何か月か前の自分でよかった。一人で鬱屈としていたけどもう少し気楽だった気がする。様々な人の感情に触れて、その感情たちは甘いと思ったら苦くて、自分の気持ちがかき乱される。
幸玖の成長途中の幼い心に秋都の隠し持つ毒は強烈過ぎた。同じ年なのに秋都は幸玖の知らない人の面を知っている。親しげに冗談を言ったと思ったら、柔らかな心をえぐる言葉を平気でぶつけることができる。
秋都の真意がどこにあるかも分からず、幸玖は真正面からそれを受け止めてしまった。
成績は怪我が治るまでの間は首位を他のクラスの同級生に譲ったが、その後はまた学年トップに返り咲き、授業中の態度については申し分がなかった。
秋都が声を発するのは英語の教科書を音読するときと、必要な回答だけで、会話は樹凪としかしない。周りに人がいるのに、机で本を読んでいる秋都のまわりは切り取られたものがどこかからはりつけられたように、別の空間だった。
あの日以来、みんな無関心のかげで秋都をうかがっていた。怜悧で鋭い光を宿した目が誰にも向けられることはない。本と黒板だけをみている。文芸部にも来なくなった。授業だけ受けて一人で帰っていく。まるで機械のように感情がないが、樹凪と話す時だけ、機械でなくなる。
樹凪は、決して変わらなかった。もとより秋都以外信用していないところがあったが、誰にどう見られても秋都の友人であり続けた。そして走ることをやめなかった。誰にも負けないくらい早く、時間が巻き戻せるなら、秋都があんな怪我をする前にかけつけてあげたかったと幸玖の前でだけ呟いた。
幸玖は自分が責められているようで、苦しかった。
「吉野を責めてはいない。俺は二人の友達のどちらも助けられなかった自分が許せない。」
文芸部の部室に現れた樹凪は、あの日のようにベランダにもたれて申し訳なさそうに語りだした。
「口止めされているけどな。自分といると吉野が辛い目をするかもしれないって。吉野が責任を感じてまた前のようになるのを見たくないって。それにあの時、吉野に関わろうとした友達がいるのが分かったって。吉野は一人じゃない。いつの間にか友達ができていた。吉野が自力で作った友達だ。また同じことがあっても吉野はだいじょうぶだ。自分はしばらく一人で考えたいって。」
「自分勝手だけど、ときっつあんのことを誤解しないでほしい。俺、あいつがあんなに楽しそうに笑っているのがうれしかった。俺以外にもあんなふうに笑うのかって。俺も吉野とときっつあんと過ごした毎日楽しかったよ。学校が楽しみだって久しぶりに思った。だけど俺たちといて吉野がにらまれて辛い目にあったことを知って悔しかった。これからは俺が吉野のことちゃんと見ているから。きっとまたいつか三人で遊べるときがくるよ。吉野、恐れるな。逃げるな。俺がついている」
そう言った通り、幸玖は樹凪がこちらを見てくれることを感じていた。嘲笑にはあの美しく強い目力で黙らせた。幸玖には、いつも大切なものを守るように安心させるように微笑みかけてくれる。
幸玖はその笑顔があれば何も怖くなかった。あの時、秋都が受けた痛みに比べたら何てことない。決然とした幸玖の態度にいつしか嘲笑とささやきは止んだ。
幸玖は、そんな中、交換日記も書き続けた。秋都のために一ページだけ開けて、毎日一文でも書く。
そしてそれを部室に置いていく。いつか秋都が見てもいいように分かりやすい場所に。その日見たこと、感じたことを綴った。
かわりばえのしない毎日にもささやかな発見がある。自分の中のありったけの友愛と感謝をこめて書き続けた。秋都が皮肉屋なのは同じくらい照れ屋だから。
万事だいじょうぶと言ってくれた優しい秋都、自分が見てきた秋都を信じていることを伝えたい。
高校に合格したあとの春休み、勉強を教えてくれていた大学生が、頼んでもいないのに高校合格のお祝いと称して、付き合ってあげると言われた。
拒否しなかったのは秋都にもその気があったからで、お互いに貪欲だった。彼女は、何も持たない15才の秋都が好きだと言ってくれたが、秋都は、幾人もの取り巻きがいる彼女に大した贈り物もできない子どもだった。
贈り物はいらないから目をそらさずにすべて見てほしいと言われた。彼女は、常夜灯の下ではことのほかきれいに見えた。彼女と初めて抱き合って、その先の時間を過ごした時、いいことかどうか考えるいとまもなく終わったと記憶している。とりあえず欲望と好奇心は満たされた。
ぼんやりと天井を見つめる秋都がその時何を考えていたかを知ったら彼女は、おそらく激怒するだろう。
(どうせなら、好きな人とが良かった)
お互い合意の上だから。傷ついたわけではない。心地よかったし悪くなかった。相手のことは嫌いではない。
おそらく美人だったがそれはひとつの特徴に過ぎない。年上のお姉さんにとって自分は玩具に過ぎない。
彼女の友人たちもとても優しかったし、何でもしてくれた。秋都の学習能力の高さは、女性を機嫌よくさせることにも生かされた。いくつかの応用を知っていれば、相手を喜ばせることなどたやすい。
しかし、何もかも過去のことで誰の顔も記憶の彼方に流れ去った。そのことに関しては、後ろめたく思ってもいない。申し訳なく思うのは、心から好きな初恋の相手とその人に告白をした時の幼い自分に対してだった。
初恋の人は秋都のものには決してならない。十歳以上年上で、この上なく美しい清らかな人。儚げで純粋でそれでいて強さを秘めた宝石のような人。秋都のいちばんきれいな思い出。
この人にふさわしい大人になりたいと思った。今でも会うと相変わらず胸が高鳴る。もはや崇拝に近くずっと思い続けてきた。
しかし、彼女は決して秋都の恋人にはならない。もちろんいくら待っていても、初めての相手になってくれたりはしない。彼女にとって秋都はどこまでいっても弟のような存在でしかない。彼女には愛する人がいて、その人を超えることはできない。彼女を忘れられれば良かったのにかえって彼女への思いが募る。
秋都は心の中で、初恋に別れを告げた。もう自分は彼女にふさわしいとはいえない。結局は欲望に負けてしまう自分は父親や他の男と同じでしかないのだから。
それからも何度か彼女やその友人たちの誘いにのってしまっていたが、気持ちが昂ることはなく逆にふさいでいった。家族にも友人にも相談できず、初恋の彼女にも会いに行けなかった。彼女への思いを断ち切らなければこの無意味な行為を受け入れることはできない。
誰も彼女の代わりにはなれないことは分かっていた。体は誰とでも関係をもつことができ、心は一人だけを求める。こんな体と心がばらばらな自分は誰かを幸せにすることも恋をする資格もない。
幸玖の涙を見たとき気づいた。あまりにも幸玖との時間が楽しくて自分も誰かを好きになることがまたできたりするのだろうかと思い違いした。
幸玖はまっさらで純粋で心がきれいだ。自分は辛くても相手を思いやる。我慢強くて苛立つほど謙虚で。
はじめは、妹のように思っていたのに、いつの間にか幸玖を一人の女性として意識して、幸玖の心の中にいる樹凪に初めて嫉妬さえも覚えた。
心無い連中に幸玖が侮辱されるのは我慢ならなかった。誰かが充実していると、それをねたむ。下に見ていた相手ならなおさら残酷になれる。人間の救いがたい負の性質に幸玖を触れさせたくなかった。
幸玖が下心のある手に、雑に押されたのを見たとき、初めて頭が真っ白になるほどの怒りを覚えた。幸玖に嫌がらせをした彼女たちに暴言をぶつけ、卑猥な視線で辱めながら、幸玖には自分はどう見えているだろうかと思っていた。
殴られ蹴られ手を踏みつけられたとき、ああ、もう幸玖と交換日記はできないなと思った。怪我が治ってもただ楽しくて無邪気に交換日記を交わすことはできない。幸玖は自分にとって特別で心の多くを占めていく。
幸玖が樹凪のことが好きで、自分には友情だけを感じているとことも分かっている。樹凪のことを見ている幸玖の目、言葉を交わして桜色に染まった頬、淡い恋をしている幸玖は可愛い。それでいい。そのままでいい。
友情という箍を外さないようにしないといけない。今にも外れそうになっている。この気持ちを伝えたら何もかもが変わってしまう。
まじめで優しい幸玖はきっと悩むだろう。心地よい友達という関係から、愛し合い、求め合う。
それは時に共食いに近い。時に嫉妬し合って憎みあう恋愛という関係になったらきっとお互い無傷ではいられない。それを幸玖に求めることはできるだろうか。あの子を傷だらけにする資格があるだろうか。傷のない恋愛はないが、ひどい傷はつけたくない。
そう思いながら、自分はぜんぜん好きでない相手に、喜ばせるために、好きだよ、きれいだねとささやくことができる。その“好き”“愛している”は中身がない。誰にでも言える。紙より薄い。
その気になれば、幸玖にだって言える。絶対言わないが。心のない“好き”を幸玖にだけは言いたくない。
自分を否定するな、と幸玖には言いながら、実は秋都自身が「自分なんかふさわしくない」と幸玖に背を向けてしまっている。
どうして、こんなにも臆病なのか。それは大切だから。傷つけたくない。幸玖、樹凪、由維、そして初恋の人、自分には思っている以上に大切な人が多いことにいまさら驚く。
幸玖が誰かにいじめられたりせずに、少なくてもいいから友達がいて、平穏で充実した毎日を過ごせたら、たとえ今まで通りに過ごせなくても、かまわない。幸玖が笑ってくれているなら。
秋都は手のけがが治っても、しばらく文章を書かなかった。ただ授業のノートをとるために字を書いた。自分の気持ちをどこかに吐き出すこともせず、波風のたたない毎日を送る。秋都の家庭はまるで緩やかな牢獄だ。
自分を溺愛しているがいまだに夢見る少年のような父親、そのことに対して常に心が不安定な父の妻、そんな両親の気質を受け継いだ繊細な弟は秋都だけを頼りにしている。
幸玖や樹凪と過ごす毎日はそれを忘れさせてくれた。しかしあれは夢だったと思うことにする。
友だちと会うことができなくなっても、この縛りのないしかし振り切ることができない家庭と言う牢獄からいつか逃げ出す。父親と弟が泣こうと自分はここから違う世界に行き、好きなように生きたい。秋都は目の前の問題集に集中した。
書道部員たちが静かに墨をすっている。幸玖は宿題を片付けて、部の活動として、目下取組中の海外の絵本の翻訳にとりかかる。秋都との交換日記を通していろいろ試した結果、自分は絵本など子ども向けの創作をすることが好きだと気づいた。自分で一から作るのは難しい。そこで見つけたのが海外の絵本を翻訳するコンクールだった。優れたものは実際に日本語版の絵本となり出版される。
「原作の良さを生かして自分の思いも込められる。吉野に向いている」
秋都がそう言ってすすめてくれた。何冊でも応募できるので、幸玖は三冊を同時進行している。外国語を直訳しても味のあるものにはならない。人の心をつかむためには何度も読み込んでその絵本への作者の思いを汲みとることから始まる。なかなか納得のいくものができない。
書道部の友人にも読んでもらったが、“よくできている”と誉めてくれる一方で、メッセージを受けとり感動するまでいかない、とはっきりと評された。そっちの方がいい。
彼女たちは自分の書に向き合うのと同じように、幸玖の書いたものに向き合ってくれる。平易な表現ほど難しい。正確に訳されていれば点数をくれる試験ではないからこそ難しい。幸玖は自分の表現力のなさを思い知る。
絵本の世界に沈み込んでいると、部室の扉が開く音に気が付かないが、今日はけっこう乱暴に開ける音がして、幸玖はその方向を見た。
演劇部の看板女優が扉に肩を預けて立っている、ただ立っているだけなのに様になる。容姿端麗な彼女は美玲(みれい)という名の三年生で、秋都と話すためによく部室を訪れていた。
大体は次の演目の相談だが、話は次々に違う方向に飛んでいき、秋都も苦笑しながらも最低限の礼儀をもって、美玲のおしゃべりに付き合っていた。美玲が持てる全ての手練手管を用いて、秋都をその気にさせようとしているのは傍からも明らかだった。
蓮っ葉で舌足らずな口調、ふっくらした艶のある唇を秋都の耳に寄せて内緒話をする。すべて計算づくと頭で理解していても、大概の男子は逆らえないだろう。小首をかしげた上目遣いを受け流して秋都は自分のペースを崩さない。
美鈴が秋都の制服のネクタイの結び目あたりに指をかけたり、髪の毛をくしゃくしゃとかき乱して彼女好みの無造作な髪型にしたりして遊んでいても、素知らぬふりで何かに集中している。
美玲の機嫌が悪くなり、唇をつんととがらせて帰るそぶりを見せても、引き留めるでもなく美玲が半泣きになると秋都は美玲の行く手をふさいでみせて、そしてとても甘い声で語りかける。
「美玲さん、もう帰るの?」
「だって、私を無視してる」
「ごめんなさい。ちょっと集中していたから。」
はじめこそ年上の意地を見せていても、すぐに余裕をなくし終いにはあっさりと年齢差が逆転している不思議な関係性に、幸玖達はどきどきした。まだ幼さの残る秋都が、がらりと変貌する瞬間はその場に居合わせた者しか知らない。秋都が美玲の耳元で何か囁く。
「私といるときはよそ見しないで」
「はい。でも、ほんとうはさっきからずっと美玲さんのことを考えていたのにな。ほら、美玲さんの見せ場ばかり考えていた。美鈴さんがいるのによそ見なんかする暇ないよ」
すると、美玲はまた、秋都にべったりになって、うざいだのむかつくだの、秋都に甘えた憎まれ口をききはじめる。こんな美人が一年生の秋都に執心している理由が分からなかった。同じ三年生にも美玲にふさわしい大人っぽい素敵な男子がたくさんいるのに、驚くことに美玲は同じ学年の中では、高嶺の花であり、あんな風に振る舞うのは、秋都の前だけだという。
美玲は今日も美しかった。制服を着崩して栗色の髪が波打っている。美術の教科書で見た女神に似ている。
ブラウスは大胆な位置までボタンが外され、腕まくりをして白い肘から先をむき出しにしている。ブラウスをきゅうくつにみせているのは豊かな胸だが、そのほかの部分は細いのに肉感的で、腰つきも脚線も美しい曲線でとても十代とは思えない。こんな女子と近い距離にいて、秋都はよく誘惑されないなと思う。
同じ女子高生なのにだいぶ違う。幸玖はまだ成熟にはほど遠い。思わせぶりなしぐさは癖だろうか、演劇の延長だろうか。彼女の芳香が近づいてくる。
「秋都は来ていないの?」
幸玖はびくりと身がすくむ。美玲こそが、気高い猫であり、自ら撫でてくれと寄っていくのが、秋都だった。
「最近は来ていません。」
「どうして?」
「分かりません。すみません」
短く切り捨てるようなきつい口調に刺されている気持ちになる。
「あんた、秋都のお気に入りでしょ。なんで知らないの?」
「問い詰めないで。怖がってる」
書道部の三年生の先輩が見かねて間に入って、凛として幸玖をかばってくれる。
「鈍感そうだから強く言わないと分からないと思って。知らないならいい。お邪魔しました~」
言うだけ言って、美玲はそのまま出て行こうとする。幸玖自身が誰かと思うほど大きな声が出た。
「早川は学校にはちゃんと来ています。いつも一人でいます。まだ教室にいるかもしれない、行ってみたらどうでしょうか」
ばちんと音がした。遅れて痛みがやってくる。美玲から頬を叩かれた。書道部の友人たちが息をのむ。すかさず書道部の先輩が幸玖を抱き寄せる。先輩も本気で怒っている。
「いきなり何するの」
「健気ぶって気持ち悪い。秋都は私をさけている。ほんと最低なやつ。教室?行ってみたわ。あんたそれ知って言っているならそうとう性格悪い。」
文芸部に入って秋都と話すようになってから、今まで知らなかった感情が生まれてきた。
それは美玲も同じで、高い嶺から降りて来てなりふり構わなくなるくらいになって、その姿は凄絶にきれいで、嵐のように吹き荒れて曖昧な心模様など吹き飛んでしまう。
頬が痛くて泣いているのではない。先輩が怖いのでもない。感情をうまく整理できない。気持ちがぐしゃぐしゃになる。
「わ、私だって避けられています。私なんかじゃだめです。でも先輩ならきっと・・」
「私なんかって言わないで!秋都があんたといる時はすごく楽しそうで、その時、私がどんな気持ちだったか分かる?私にはあんな顔してくれない。秋都からあんな顔むけてもらっているくせに私なんかって言うな!」
美玲はまた手を振り上げた。書道部員たちが総がかりで止めに入る。美玲の目にも涙が浮かんでいる。
今の自分はすごくかっこ悪い。好きになってもらうのがどうしてこんなに難しいの。
男の子から避けられたことなどない。秋都は思い通りにならない、生意気で可愛い。好きって言うのは簡単。
自分が言えばどんな相手だって思いのままだった。だけど、今回は言ってほしい。本気の相手からは言ってほしい。いつでも言っていいサインは出していたのに、あの見透かすような目を細めて笑うだけ。
「どうしたの?美玲さんらしくないね。」
らしさ、って何?そんなの一番嫌いって言っていたのに。本当の私を理解してくれていたんじゃなかったの?
相手を夢中にさせるのはたやすいはずだったのに、自分の方がこんなに追いかけまわしている。秋都の本心を聞いたら傷つくかもしれない。でも、はっきりさせたくて仕方ない。
目の前で震えているこのさえない一年生が、秋都が心を開く唯一の女子、こんな子どもと男を取り合うなんて信じたくない。どうやってこの場を、この気持ちをおさめたらいい。秋都ならどうする?この場から私を連れ去ってほしい。
「出て行って。これ以上騒ぐなら私も容赦しない」
同級生でもある書道部長のきつい言葉に救われたように美玲は、ふいっと出て行った。ため息が全員の口からもれた。幸玖もまだ体が震えていた。人と口論したのは初めてだ。
あんな美少女と男の子のことで罵られて、自分も言い返した。秋都はずるい。美玲は難しい相手を好きになったと思う。
「すごかったね。あんな美玲初めて見た。いつも女王様なのに。幸玖ちゃん、ライバル認定されちゃったね」
気づけば書道部の友人たちもうなずいている
「そんな、私なんて・・」
「“私なんて”は禁止。幸玖ちゃんは分かっていない。」
また言われてしまった。演劇部の看板女優、学校のアイドルの思わぬ情熱的な一面を見て、みんなもう部活どころではなくなる。幸玖も震えは止まったが落ちつかない。
早川の馬鹿、あんなきれいな人を泣かせて。文才なんて見せかけだけで意気地のない小僧のくせにかっこつけて。
ある日、三階の部室の廊下から窓越しに見下ろすと、とうとう秋都が美玲につかまっていた。人通りの少ない渡り廊下、一学年三百人、全校生徒が千人近くいる中で、会わないことは珍しくない。
避け続けることも可能だが、秋都は自ら美玲の前に現れた。秋都の胸あたりを叩きながらなじっているお定まりのドラマのような情景から目が離せなかった。俗なことをしているのに、なんて情熱的で美しい。
秋都の表情は窺い知れなかったが、されるがままで、何か言い聞かせるように美玲に話しかけている。しばらくすると、美玲は秋都の腕に巻きついて、二人はその場から見えなくなった。どこかほっとしている自分がいた。友情は、どちらかが友情以上の気持ちを抱いたときや相手の恋愛事情に心が揺れたりするとその時、形が変わる。
何が怖いかというと、皮肉屋だが本当は優しい秋都の違う一面を見ることが怖い。物知りでおしゃべり好きで、最期には自分を肯定してくれる。からかってくるけど幸玖の気にしていることを言ったりはしない気配りも持ち合わせていた。
きっと兄がいたらこんな感じだろうと思わせる。そして、ずるいのは秋都だけなのか。幸玖も秋都の優しさに甘えて安楽な関係を壊すまいとしている。兄でもなく友達でもないことを、認めるのが怖い。
秋都と美玲が一緒にいるのを見て、心が揺れなかったと言えば嘘になるから、嘘をつくことにする。
心が痛いというのは、切ないというのは、きっと今だ。恋心に気づいたときこんなにも心が締め付けられて、痛い。心と理性をつないでいる糸が焼き切れそうだ。でも近くにいすぎて友達過ぎて、この気持ちをどうしたらよいか分からない。
秋都は、さらさらと書いているようだが、実はすごく真剣に悩んでいる時もある。言葉があふれるように出てくるときもあれば、まったく出てこないときもある。
「癪だし、大嫌いだけど、やっぱりあの人はすごい」
秋都はそうつぶやいた。小さいころは父親と同じ世界にいたくなくて、本も読まなかった。
しかし、書くこと、読むこと、何かを創作することがやはり好きで、もう嫌いだと偽れない。この心の内を何かに刻み付けなければ心が破裂してしまう。
周りの大人はほとんどがわがままで言い訳がましかった。彼らの戯言に付き合って、いろんなことを大したことないよと流しているうちに秋都は自分の心にさえ無頓着になっていた。
樹凪や幸玖といるときは流されていく自分の気持ちがそこでせき止められて少し素直に心の内を言葉にすることができる。それが、どれだけ大切な時間だったか。
美玲は額を秋都の胸に押し付けてこちらを見ようとしない。細い顎を持ち上げて覗き込むと、泣き笑いの顔が現れる。涙だけが出て鼻水がでていない。本当に感極まって泣きわめくときは涙も鼻水も時には涎もでるはずだが、美玲は泣く演技が上手いのか泣き顔も美しい。激しくてもろくて美しい人。
でも秋都が守りたいと心動かされるのは整った泣き顔じゃない。秋都が本当に好きだった人はそんな風に泣かない。そんな表情もしない。お金もなく何の得もない自分のどこにそんなにひかれているのか分からないが、泣かれるのが面倒臭くなり、秋都は彼女を抱きしめて、彼女の望む言葉を口にする。
無責任な“好きだよ”を、心からのように言ってみせた。ごめんね、本当は好きだった。やっと気づいたよ、と。美玲と連れ立って行くとき、幸玖が窓辺にいるのが見えた。
ああ、なんて絶妙なんだ。こんなにもおあつらえむきに見られているなんて。いつも僕はこうだ。相手のむきだしの感情に付き合うのが面倒で、流されやすい。
美しい美玲、君は僕が好きだからじゃない、おもちゃが手に入らないから泣いているだけ。本来は移り気な君が、飽きるまでつきあってあげるよ。それに君も本当は分かっているはず。
でも、今、君を抱いていれば、かなわない思いに苦しむ現実に目を向けなくてもいいから。
もう、どうだっていい。
幸玖は高校三年生になった。流行の風邪をひいて、久しぶりに病院に行った。
親子三代で通う人もいる町のお医者さん、幸玖も小さなころから診てもらっている。
人もまばらになった待合室、貼られたポスターは都度都度新しくなっているが、全体的な雰囲気は子どもの頃から全く変わらない。
あまりきつくない照明、かすかに消毒液のにおい、待っているための子どもたちのスペースのおもちゃや絵本は幸玖も遊んだことがある年代物で、人の少なさもあいまって時が止まったようだ。
生まれた時から成長を見守ってもらい、親がつきそってくれる年頃を過ぎても一人で来るかつての子どもたちも多い。
診察室の引き戸が開いて、ぐずぐず泣いている男の子を連れて出てきたのは秋都だった。同じ学校にいるのに久しぶりに間近で見る秋都、制服でない秋都はさらに大人びて落ちつきある雰囲気があった。
小さな男の子を連れているので、若い父親のようにも見える。お互い一瞬気まずそうに目をそらしかけたが、辛そうな男の子が咳を立て続けにしてまた泣きそうになっているのであきらめたようにはす向かいに座った。
幸玖も知らないふりもできず、思いきって挨拶をすると、秋都も軽く頭を下げた。膝の上に抱いた男の子は、顔が青白い。線が細く、鼻と口のあたりが秋都に似ている。秋都は何度か抱きなおしている。男の子もきゅうくつそうだが、抱かれている方が安心するのだろう、秋都の膝から降りようとしない。
「大きくなったな」
秋都はぽつりと言って、片手で男の子の髪を梳いている。
「吉野、元気だった?病院にいるから元気じゃないか」
「うん。でもだいじょうぶ。この病院かかりつけ?ユイくん?辛そうだね」
「よく熱を出す。かかりつけではなかなか治らないからちょっと前からここで診てもらっている。先生怖いけど、見立ては確かだ。薬もよく効くみたいだ。小さい時から通っている病院があるって吉野が教えてくれたの覚えてる?来てみてよかったよ」
そういえばずいぶん前にそんな話をしたことを思い出した。文芸部の部室だった。
看病疲れかマスクからのぞく目の下には隈があり、髪も乱れている。男の子を抱きかかえる様子は慣れていて日ごろから弟の世話をしていることがうかがえる。
会計から「早川由維くん」と呼ばれる。由維がしがみついているので、秋都は思うように動けない。
5才か6才くらいなので、抱きかかえていくのは大変だと思い、放っておけなくなる。
疲れた顔、いつも余裕があって泰然としている秋都はそこにいない。
「私、行ってくる。ここにいて。お母さんが迎えに来てくれるから一緒に乗せてもらえるか頼んでみる。送るから待ってて」
どうやってここまで来たか聞いていないが、このあと、荷物と由維を抱えて隣の薬局に行き、家まで帰るのだろう。
由維はまだ呼吸が浅く、歩いて帰れないようにみえる。秋都はためらうように目を泳がせていたが、幸玖が断固として会計に向かっていくのを見ると素直に待っていてくれた。
会計で処方箋をもらう。子どもは医療費が全額補助されて窓口での支払いがないことを知った。後で親が支払いに来ているくらいに思っていた。そういえば秋都は財布を出さなかった。秋都はきっと何度も弟を病院に連れてきているのだ。
幸玖はそのまま薬局にも行き、病院の方へ戻ると、秋都がジュースを差し出した。由維も目を覚ましてジュースを一心に飲んでいる。
「ありがとう、助かった」
幸玖は自分の体調が悪いのも忘れて、文芸部での毎日に思いが飛んでいく。
早川、私、なんとかやっているよ。結構楽しくできている。がんばっているよ。友だちも少ないけどいるし、早川のおかげで勉強もできている。外国語が一番得意かな。早川が薦めてくれた本も何冊か読んだよ。
それにね、“私なんか”って言わないように気をつけているよ。こんな毎日信じられなかった。早川がいてくれたから。早川がこの毎日をくれた。ちっぽけな私が勇気を持てたのも早川のおかげ。ずっとあの時間が続いてほしいって思っていた。
ごめんね。自分のことばっかり。わがままだけど、がんばったねって言ってほしかった。早川のことも聞かせて。つらくない?あの時は助けてくれてありがとう。上履き投げつけてごめんね。何もできなくてごめんなさい。話したいことがたくさんあるの。交換日記も渡したい。私毎日書いたよ。早川の分のページ、ちゃんととってある。
帰りの車中では、幸玖の母が一方的に話しかけていた。秋都は落ち着いた感じで一つ一つにゆっくり答える。いくつかの質問はあいまいに笑ってぼかしていた。家に着くと秋都は丁寧にお礼を言って車を降りて行った。「またね」という言葉を残して、もう振り向くことなく由維を抱きかかえて家の中に入って行った。
すてきな子ね、と誉めている母親がうとましかった。そんな資格はないのにイライラしてしまう。
休日の秋都は洗練されていた。疲れていたけれどそれさえも憂いを帯びて風情がある。学校では決して見せない素顔があった。
学校でしか会ったことがなかったと思い返した。孤高の存在で、誰にも懐柔されない強い秋都だが放っておけないと思わせる。
そういえばあの美玲とはどうなったのだろう。最近、美玲を雑誌で見ることが増えた。卒業して進学したはずだが、モデルとしても活躍している。何人かで写っていても際立っている。
SNSでは美玲の写真に添えられたコメントが評判にもなっている。その時の空気のにおいまで伝わってくるような詩的な一文が美玲の美貌を引き立てる。表現にも長けた美玲の人気に火がつく日も近いだろう。
美玲にアドバイスをする秋都を想像してしまう。秋都の隣にいる人がだれであっても関係ないはずなのに、文芸部の部室でともに過ごした日々を何度も思い出す。
もうすぐ卒業をして、それぞれの進路に踏み出す。またね、という時はもう来ないのではないだろうか。
今日、秋都に会えたことで、一気に共に過ごした頃に思いが引き戻されたが、現実の関係はあのころには戻らない。秋都はいつも通り、前よりもっと優しげだったが、見えない線をひいている。
「吉野さんも帰ろう?」
あの冷たい教室から連れ出してくれて、樹凪との間に迎え入れてくれた。その時からの暖かいまなざしと時々いじわるで機知にとんだ言葉を幸玖に向けてくれた。
(私はきっと早川のことが好きになっていた。いつの間にか。)
もう会えないと、線を引かれて気づく。本当は気づいていたけど、自分の心に嘘をつき続けた。どうして。好きになることに誰の許しもいらないはずなのに。
樹凪が部室に来ると、秋都は何かと用事を作って席を外した。樹凪に頼まれてダリアを描いている時、それを樹凪が覗き込んでいる時、何度も書き直している時、冷やかすこともなくただうれしそうに頬杖をついて見守っていた。
二人で大会に出る樹凪を応援に行った。樹凪が先頭でゴールした時、幸玖は興奮して秋都の腕をつかんで揺さぶった。秋都は大仰にゆさゆさ揺れながら応えてくれた。
「うれしい?」
「うん。すごく。」
「いっちゃん、かっこいいね?」
「うん。かっこいい!」
「好き?」
「うん。・・・あっ?ええ?」
「素直が一番だよ、吉野。僕しか聞いてないからだいじょうぶ」
真っ赤になった幸玖にばしばし叩かれながら、してやったりと秋都は笑った。
記憶の中の秋都は、教室での無表情とはまったく違う豊かな表情を見せる。ずっとこのままでいられると思っていた。涙でまつげが重たくなった。目を閉じるとまつげにとどまっていた涙がこぼれおちる。
秋都はいつも何かを背負っていた。それなのに、自分は何も知らずに自分のことで精いっぱいだった。どこに時間を巻き戻せば、あの空間、あの関係に戻れるのだろう。3人で笑いあえた時に、何層にも色が重なった夕焼け空を見た時に、戻れるのだろう。
部屋の隅のポールにかかっている制服が目に入る。もう二度と一緒に時を過ごすことはないのかもしれない。幸玖はそう考えると涙があとからあとからあふれて自分では止められなかった。
久しぶりに泣いて心が水浸しになる。泣き続けたら秋都が来てくれるような気がした。困ったように、降参だと両手を挙げて。
卒業を間近に控え、樹凪は連日、告白のために呼び出されている。どの子も涙目で終わる。多分ふられる。それもとびきり優しく、でもきっぱりとした物言いで。それでも伝えたい。みんなそういう気持ちで勇気を振り絞る。
樹凪はそれを知っているのか一人一人に同じように断りを述べる。一年生の時のとがった近寄りがたい雰囲気はやわらかくなった。するとその冷徹な美貌も血が通ったものになる。
それは、幸玖という子のおかげだと、少なくとも同級生の間で知らない者はいなかった。二人が一度は付き合っていたが、いつしか別れてそれでもいい友達関係を続けていることは、有名な話だった。
秋都は、三年間、ほぼ学年一位の成績を維持し、難関大学に合格した後、ほとんど学校にも来ていなかった。
秋都の合格は高校始まって初めての快挙であり、学校側はかつてのことを忘れたかのようにもてはやしていた。
幸玖も外国語大学に進学が決まり、樹凪も陸上で有名な大学への推薦入学を果たし、それぞれの新生活が間近に迫っていた。
「これを逃したら、あらためて会うことができない気がする。」
樹凪はそういって、卒業式のあと、樹凪の姉が営むレストランに二人を誘った。そこで昼食を食べた。久しぶりに三人で集まった。
特別な出来事は何もない。ともに過ごした思い出はそのままに、無邪気な時間は終わり、関係性は少し変わった。それでも思い出すのはきっと幸せなことばかりだと幸玖は思った。
食事会のあと、書き続けた交換日記を幸玖は秋都に渡した。秋都が最初に用意したきれいな装丁のハードカバーの日記帳、開いてみると三年間分をかけるようになっていた。
秋都は、ぱらぱらとめくって、ところどころで手をとめて見入っている。連れてきていた弟の由維が見せてとせがむが、秋都は優しく断る。
「これはにーちゃの大事なものだよ。にーちゃしか読んではいけない。たとえユイでもだめだ」
「いつなにーちゃんでもダメ?」
由維は不満そうに、しかし聞き分けがよい。秋都がうなずくと、それ以上駄々をこねることなく、樹凪にとびついていった。
「ありがとう。僕の書くべきところ残してくれて。必ず毎日書くね」
「全部書いたらまた、読ませて」
幸玖が涙をこらえて言うと、秋都は、指を幸玖の目元にさしのべようとしてすんでのところで止める。
涙をこらえたつもりが涙は勝手に流れていたようだ。泣き虫吉野は変わらないな、と秋都は皮肉を言いながらも微笑んだ。
幸玖が、自分で涙を拭いているのを見守りながら日記帳に目を落とす。そうでもしないときれいになった幸玖を見つめ続けてしまうし、間がもたない。気持ちを伝えるならきっと今だ、と思うのに、言わなければ後悔するかもと思うのに、簡単な言葉も出てこない。
「吉野に一番先に読んでもらうし、吉野にしか読ませない。約束するからもう泣き止んで。今日は笑って終わろう」
そう言うのが精いっぱいだった。
秋都は、社会人になってから二度、幸玖を見かけた。一度目は、外国人観光客に道案内をしていた。二度目は、たった今、外国人とおぼしき青年と笑顔で言葉をかわしながら、少し先を歩いていた。
幸玖は彼の国の言葉を流ちょうに話している。何かを見つけたのだろう。自信をつけたのかさらにきれいになった幸玖に、秋都はまぶしいものを見たように目を細めた。
名前と同じ、いつも君に幸くあれとこれからも願っている。伝える機会はないかもしれない。この日記帳を二人で見る日は来ないかもしれない。
でも、そうであるなら、空白をすべて書いた交換日記の最後のページはこの言葉で締めよう。短いけれど優しい思い出をありがとう。
秋都は、今はあらためて人間を知ろうと考えている。複雑なようで、人間の思うことは時代が変わってもそんなに簡単に変わらない。それは、価値観ともいう。
思いが通じる時もあれば、思いが交差して、すれちがうときもある。これから先、何人とそういう思いを交流させるだろう。
出会って別れる人、生涯の友人、パートナーとなる人、すれ違うだけの人、どうにも合わない人、人は人によって傷つけられもするが、それを救い凍った心を温めて溶かしてくれるのもまた、人にしかできない。
そんな人がみんなにいれば、世の中にあまたある悲しい事々は起こらないのでないだろうか。今日は久しぶりに樹凪と会う。会社員であり、中距離走の選手でもある樹凪と会う時間はめったにとれない。
樹凪が向こうから歩いてくる。前からくるものが強い日差しだろうと、たたきつけるような雨だろうと、足をとられるような風だろうと、樹凪は前だけを見て走る。樹凪が振り返るときは、大切な人がそこにいるときだけ。
幸玖を見かけたと言ったら、いつも変わることない、嘘やごまかしが言えない親友は、どんな顔をするだろう。きっと、平気か?と気をつかってくれる。樹凪は恋愛には残酷なまでに真摯で、潔癖で少しでも迷いがあるならその相手とは付き合わない。それでも、秋都の恋愛には一切口を出さないでいてくれた。
「だいじょうぶ、まだなにも終わっていない。ときっつあん、ジンセーを悟るには早すぎる。何もかもあきらめてしまったふりをするな。そんな楽しようたってゆるさないぞ」
子どものころ、親の離婚で、引っ越しをしなければならないと落ち込む秋都に樹凪はそう言って肩を組んでくれた。
樹凪が、手を振っている。樹凪の背後から人影が覗いた。久しぶりだが、でもいつも思い出していたから、いつも近くにいた錯覚さえある。
今、自分は自然な表情ができているだろうか。きっと、情けない顔をしている。懐かしさと恋しさで胸が一杯になる。この再会をその日限りのことにしない素直な自分でいられるだろうか。
今度こそ、わがままを言って相手を困らせてでもその手を離さないでいられるだろうか。
短い秋の夕方、かすかに冬が近づくにおいがした。
君と綴るこの何気ない日常