人魚姫

悲しみの始まり

深い深い海の底、人魚が住んでいた。
人魚の長には沢山の娘達がいたが、末の娘はとりわけ美しく海の中に知らぬ者がおらぬ程有名だった。流れる細く長い髪、しなやかな曲線を描く身体、白蝶貝を散りばめたような鱗、澄んだ愛らしい声。珊瑚の唇や桜貝のような爪、そして何より心優しい娘だった。
子供から大人に変わりゆく年齢になると、人魚は海底から水面に上がることを許される。初めて水面から顔を出したその夜、末娘は恋をした。あろうことか、人間の男に恋をした。
船が沈没してしまい溺れる人間の男を助け砂浜まで必死に運んだが足を持たない末娘はその後どうすることも出来なかった。命が無事なことだけを確認し、すぐに海へ引き返した。理由はひとつ。海底に住む魔女に会いに行く為に。足を手に入れ、人間になりあの男のもとへ行きたい、その一心だった。
醜く年老いた魔女は言う。
「その美しい髪と引き換えに醜い足か、その愛らしい声と引き換えに美しい足を与えてやろう。ただし、どちらもその尾びれを引き裂いて作った足だ、歩く度に身を切るような痛みがお前を襲うだろう。覚悟はあるかい」
醜い魔女はその薄い唇を歪め卑しく笑った。覗く歯は細く長い。そして巻き貝のような色をしていた。
末娘は怯むことなく頷いた。そして少し迷って
「この声と引き換えに美しい足を下さい」
と言った。一刻も早く、美しい姿であの男に会いに行きたかった。
魔女に渡されたいかにも怪しい異臭を放つどろどろとしたかろうじて液体を一息で飲み干して、想像を絶する痛みに耐え足を手に入れふらつきながらあの男を探した。あの砂浜にはもういなかった。きっともう丘にいるのだろう。そもそも、海底と陸では時間の流れが違うのだ。すぐに戻って来たつもりだったが数日経ってしまっているのかもしれない。陸に上がってしまっては探すあてがない。水面に出たのですらあの時が初めてなのだ。町をひたすら痛みをこらえて歩き回わり続けた。
やっとの思いで見つけた男は別の女と一緒にいた。ふたりはもうじき婚姻の契りをすると町中が賑やかになっていた。どうやら男はその横で品のいい微笑みを浮かべている女が溺れていた自分を助けたと勘違いしているようだった。
「違うわ!私が溺れていたあなたを岸まで連れて泳ぎ助けたのよ!私が助けたのよ!その女じゃないわ!」
叫んだが末娘は声を失っていたので、その言葉は空気を震わすことはなかった。つまり男には伝わらなかった。
溺れる男を助け、その男に会いたいが為に声を失い痛みと共に足を手に入れ陸にやってきたが相手にされない可哀想な末娘は途方に暮れた。行くあてもなく、自然と足は海の方へと向かっていた。
ただ海を眺めていた。夜の暗い海は黒く不気味に蠢く闇そのものだった。どの位いそうしていただろう。気付くと海岸にいた末娘のもとに沢山のお姉様たちがやって来た。髪を失い醜い足を手に入れたお姉様たちはかつての美しささえ失っていた。そして言うのだ。
「全てを見ていたわ。あの男を殺してその血を浴びればお前は再び人魚に戻れるわ。可哀想な妹よ、あの男を殺してしまいなさい」
不気味な風貌に涼やかで美しい声が却ってその存在を不気味なものとしていた。
いいえ、いいえ、お姉様方。私はあのお方を殺すことなど出来ないわ。それならいっそ、海の泡となり消えてしまいたい。

悲しみに暮れる末娘は自ら海に入って行き、そして泡となり消えました。

悲しい、悲しい、人魚の話。



1,愛を貫いた傘

不意に思い出した。そうだ,私はずうっと昔もこの男が好きだったのだ。けれども、その想いを伝えることすら出来なくて恋に敗れ、私は自ら死を選んだのだ。
あの時、愛した男が今また私の目の前にいる。なんにも知らないという顔で微笑んでいる。その微笑み。隣にあの時の女を連れて微笑んでいる。その微笑み。
どうして許せただろうか?
持っていた傘はちょうど、先が尖っていた。あの女と彼を刺すにはちょうどよかった。

制服やスーツを着た人達に何度も何度も同じ説明をしたけれど、皆首を傾げ憐みの目で私を見た。そのうち私は気が狂いそうに真っ白な部屋に閉じ込められた。
そこに居る人はみんな白い服を着ている。大抵の人が周りに関心のない人で時々大声を出して暴れ出し、その度に見せかけの優しさを纏った人達がわざとらしくばたばたと足音を響かせて駆け付ける。
私はそっと蛇口を捻り、水を貯め顔を沈める。長い髪がゆらゆら揺れる。気泡が綺麗でまるであの時の泡のよう。


水の底には叶わなかった恋が見える…。



2,赤い靴紐

キョウスケがつっけんどんに「ミヤコって可愛いよな」と言った。
私とキョウスケは幼稚園の頃からの仲なので、彼がそんなふうに言い出すよりずっと前からキョウスケがミヤコに惹かれていることくらい解ってた。でも知らないフリをしてた。それが、この一言で無視出来ないものになってしまった。
「お人形さんみたいだもんね、ミヤコ。羨ましいなぁ」
自嘲気味に言ったのにキョウスケはそんなことに気付きもしない。その天性の鈍感さで私の心を打ち砕く。
「いや、そうじゃなくてよ、なんつーの?顔ももちろん可愛いけど、それよりいつもにこにこしてるじゃん?あいつ。そういつところがなんか、可愛いっつーかさ…」
鼻の頭を掻きながら言うキョウスケ。紛れもなくミヤコに恋をしているキョウスケ。ずっと、ずっと私が恋してるキョウスケ。
「なに?好きなの?」
ざわつく心とは裏腹に務めて明るく訊いた。本当は今にも泣き出したいのに!
「…まぁ、そんな感じかな。…お前勝手にミヤコに言うなよな」
「言う訳ないじゃん」
言う訳がない。そんなことして、2人が付き合い出したら益々、私の心は腐っていってしまう。それでなくとも、2人が会話するのを見る度に張り裂けそうに胸が痛むというのに。
「つーことで協力してくれよな」
なんて無邪気な笑顔で私を殺すのだろう、この男は。
私が何も言えないで曖昧な顔をしている間に、じゃあ、部活行くわと私を1人教室に残して行ってしまった。薄暗いオレンジ色の教室に私、ひとり。
まさか、恋愛が早い者勝ちだとは私も思っていない。それでも、私の方が長く一緒にいるのに…私の方がずっと好きだったのに…と思わずにはいられなかった。幼馴染って関係を気まずいものにしたくなくて、私はずっと気持ちを言えずにいたのに。高校に入ってから知り合ったミヤコにキョウスケをとられるなんて。
夏の残骸みたいに耳にこびりつく蝉時雨に誘われるように教室を後にして、プールへ向かう。こういう時、水は悲しみを迎えてくれる気がするのだ、なんとなく。
ドーム型の透明な屋根、水音だけが響くまるで別世界。制服のまま、なんの躊躇いもなくプールへ入る。靴紐だけ、外しておく。独特のカルキの匂いが少しだけ思い出を遠ざける。
さっき外しておいた赤い内履きの靴紐でプールの中の梯子と自分の足首を縛る。
水が体に馴染むのがよく解る。水は私を迎え入れてくれている気も、絶望で包んでいる気さえする。水面越しに見える天井はゆらゆら、ゆらゆら揺れてやがて遠い記憶が映し出される。
遠い昔の私とキョウスケ。そしてミヤコ。私はやっぱりキョウスケに恋をしていた。そして、やっぱりキョウスケは私なんか相手にせずミヤコを好きになったのだ、あの時も。切り裂かれるような足の痛みにも耐えたというのに。


こぽこぽ気泡が水面へ昇ってゆく。そんなふうに昇華出来たらよかったのに、泡になってもこの想いは消えない。消えなかったのだ。



3,ベビードールとワイン

私のこと好き?奥さんよりも?たっぷり広いベッドでべったりくっついて、肌触りのいい寝具にくるまりながら悪戯っぽく訊くと、当たり前じゃないか、と少しも困った様子を見せずにこの人は答える。いつも通りのやりとり。何度も繰り返されたやりとり。私もこの人がそう答えるのを知っていて、それでも訊くのだ。何の為に?
当たり前のように奥さんよりも私のことが好きなら2年もだらだらとこんな関係でいる筈がない。だから、その答えが嘘なことも私はちゃんと知っている。正確に言えば、この人は奥さんを愛しているというよりは家庭を愛してるのだ。この人が私のような小娘の為に家庭を捨てる訳がない。そして、私はその事に少しも不満はない。
はっきり言ってこの人の話すワインの薀蓄なんてひとっつも解らない。だけどデートの度にワインの美味しい店に行きその薀蓄を聴くのは、私がワインを好きだからではない。ワインの薀蓄を話すこの人が好きだからだ。メタルフレームの奥の瞳がきらきらしてる、と私は思う。あー、本当にこの人はワインが好きなんだなぁって。そして、ワイン程にはこの人に好かれたいと思うのは切ない。奥さんより愛されたいと思うより何倍も切ない。
この私には分相応なマンションはこの人が用意してくれた物。クイーンサイズの品の良い籐編みとピーチ材を組み合わせたベッドも、それを彩る帝国繊維のシャンドゥランシリーズの寝具たちも、マホガニーで揃えたテーブルやチェストだって一緒に選びに行って買って貰った物だし、彼の為に使うより自分の為に使う方がはるかに多い、あのル・クルーゼのやたらと重いチェリーレッドのお花型のココット・フルールだってそう。
お金を使うことが愛情のバロメーターになると信じているのだろうか。そんなことよりも、一回でも多く会える方が嬉しいのに。そんなこともこの人は解らないのかと思うと、可愛く感じる。
男と女の間で年齢なんて記号でしかない瞬間は沢山ある、と私は思う。この人が48歳で私が23歳。ついでにこの人の奥さんが42歳。それは、○×△に置き換えてもなんら問題がない、そう思える瞬間は最高に素晴らしい。
いつものように、ベッドで裸で抱き合ってなんでもない会話を交わすいつも通りの夜。その日いつもと違ったのは顔面蒼白の、怒りで顔をひきつらせたこの人の奥さんが突然部屋に入って来たこと。
その人はヒステリックに喚き散らしたりはしなかった。ただ、静かに上品そうな薄い唇を震わせて言った。もう限界、と。
慌てたこの人が何かを身に纏うことも忘れて奥さんに必死に弁解しているのを私はぼんやり見てた。そのうち、奥さんの目に涙が溜まってぼろぼろと溢れ出した。けれど、憔悴するとちうよりは寧ろ凄みを増していって私ははっきりと殺意を感じた。慌ててベビードールを着てベッドから這い出した時にはもう奥さんの白い手はステンレス製の包丁を握っていた。指輪がぶつかりカチリと音を立てる。あれも、この人が私に買ってくれたドイツ製の包丁。キッチンバサミのお揃いでお気に入りなのに。切りかかる奥さんを止めに入って、揉み合っている間に私は思い出す。ずっと昔、この人を殺すか泡になるか選んだことを。
激しく揉み合った所為で何故かバスルームに辿り着いた。さっきふたりで入ったバスタブから甘い匂いが漂ってくる。渾身の力で奥さんがこの人にステンレスの無機質な包丁を振りかざした時、私はなんの迷いもなく間に入った。
胸に、包丁が、刺さる。
そのままよろけてバスタブに突っ伏すと、力なくずぶずぶとバスタブに吸い込まれていった。
霞む視界と途絶える意識の中、この人が胸に包丁が刺さってバスタブに沈む女ではなく、女を刺し泣き崩れる女をなだめるのが見てた。ほらね、この人は奥さんを見捨てられやしないの。


赤く染まるお湯にオレンジ色のベビードールが揺蕩う。ああ、ワインになりたい、そう思った。



4,青い車が終わらせる

先生の指の第一関節だけ反った綺麗な手が好き。優しそうに笑った時のその目尻の皺が好き。ちらりと覗くその控えめな八重歯が好き。
生徒と教師の恋なんてうまくいきっこないって普通は思うだろうけど、うまくいくかどうかで人を好きになれる器用さなんて私はいらない。
先生の授業を聴きながら私は古い記憶に想いを馳せる。あの時私は海で溺れていた先生を助けた。だから先生は今でも水が怖くてかなずちなのだ。…あの時からずっと好きなのに、想いは全然届かない。
チャイムの音で現実に引き戻される。私が授業中、上の空なことにさえ先生は気付いていなかったけど、謝りたくて慌てて廊下に飛び出したら先生はそこにいた。誰に向けるよりも優しい表情で隣のクラスの女子生徒と話していた。絶望的な気持ちと怒りが同時に私の体を支配した。また、あなたなの?と。
この女子生徒は私が溺れた先生を助けた時も自分が助けたことにして、先生と恋仲になったのだ。溺れる先生を助けたのは私なのに!命を救ったのは私なのに!
そして、また、先生はこの女子生徒に恋をしている。私の想いにも視線にも気付きもせずに。誰を呼ぶより優しい声でその女子生徒の名を呼ぶ、私には耐えられない仕打ちだった。声もかけられず、教室に引き返す。
その日は午後から降り出した雨は帰る頃には土砂降りになっていた。私は雨が嫌いじゃない。傘は持っていたけどささずに帰ることにした。忘れられたメロディーを口ずさむ。所々にできた水たまりを避けずにわざとじゃぶじゃぶ歩きながら、遠い昔の優しい残酷なお姉様たちを思い出す。
その時、車が、曲がり角を曲がって来た。青い車、先生の車、先生、助手席にあの女子生徒。
考えるよりも早く私は車の前に飛び出した。突然飛び出した私にはブレーキは間に合う訳もなく、車は私を撥ね少し行った所で止まった。私はバンパー、ボンネット、フロントガラスと順番にぶつかり路上に投げ出され、ばしゃりと大きな水たまりの中に着地しながらその様子を見ていた。
車は少ししてまた何事もなかったように走り出した。先生の青い車が遠ざかる。私はもう動けずにただ、見てる。見えなくなるまでずっと見てる。

先生…呟いたけど、水たまりの中でぶくぶく泡になって言葉にならなかった。王子様って呟いたけど、やっぱり同じだった。


先生でも王子様でも変わらず泡になってしまった。



海の泡に

生まれ変わったらもう私は人魚じゃなかった。好きな人もできた。王子様とは似てないけど、、でもやっぱりその人は王子様でやっぱり別の女性を想っていた。私は思い余って2人を殺してしまった。その後静かに私も自殺した。


気付いたらまた別の女のコに生まれ変わっていた。恋をした幼馴染の男のコはやっぱり王子様で、王子様はやっぱりあの女を好きだった。その想いを打ち明けられたすぐ後に、私はプールに自ら恋と体を沈めた。


しばらくしたらまた生まれ変われて、やっぱり私は女だった。そして、王子様を好きになった。今度はようやく想いが通じたけれども、王子様には妻がいた。妻はやっぱりあの女だった。逆上したあの女から王子様を庇って胸を刺されてバスタブに沈んだ。


また、生まれ変われる日が来てやっぱり私は女でやっぱり王子様に恋をした。王子様は今度は学校の先生だった。あの女は隣のクラスの女子生徒だった。やっぱり王子様はあの女に恋をしていた。ふたりが乗った車を見かけて、一も二も三もなく飛び出して撥ねられ水たまりの中で王子様と呟きながら私は死んだ。


何度も何度も、何度生まれ変わっても私は必ずあなたに恋をする。そして、叶わず私は何度も死ぬ。何度も何度も何度も死ぬ。何度死んでも、何度生まれ変わってもあなたと結ばれることはない。悲しい恋を繰り返す。


いっそこの想いも魂もあの時、泡になって海に溶けてしまえばよかったのに。


ねぇ、人魚姫の涙と泡が儚いだなんて一体誰が言ったの?

人魚姫

生まれ変わった人魚姫を書こうと思って書き始めましたが、出来上がってみると人魚姫とはかけ離れた女の強い(こわい)情の物語になってしまいました。

人魚姫

生まれ変わった人魚姫の物語

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-02-02

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