『アンチ・アクション 彼女たち、それぞれの応答と挑戦』展レビュー

一 
 まず初めに本展の背景について拙いながら筆者が理解したところを記す。


 戦前から戦後にかけて大きな変化を迎えた日本社会にあって《女性の社会進出》は新たな時代の到来を象徴するトピックとなり、その才覚を遺憾なく発揮する彼女たちは文芸などの分野で才女と評され、ブームとなった。しかしながらその根底には男性たちの「(女性にしては)やるじゃないか」という昔ながらのジェンダー観がしっかりと根を張っており、作品批評などには「女性ならでは」という定型句が頻出。性差の意識を介さない評価が行われるのは稀であった。
 この流れを変えるきっかけとなったのがパリを中心に巻き起こった抽象表現運動、「アンフォルメル」である。
 熱い抽象とも評されたアンフォルメルは①絵の具をより《もの》らしく用いたり、あるいは絵の具以外の《もの》を積極的に活用し、②叩く、引っ掻く、張るといった描く以外の行為をも選択して己の内に渦巻く感情、生まれくる原風景、言葉以前の潜在意識を表現しようとする。その痕跡として残るマチエールはただ美しいと評するだけじゃ収まらない確かな情報密度を有しており、そこで何が起きているのか?という視点で作品本位の鑑賞へと人々を誘うものであった。
 またアンフォルメルはその文脈において社会的動物として刻印された矛盾を個人の問題として取り出すことも可能であったため、芸術家たちは女性として抱える問題群も十分に表現することができた。その一例として挙げる田部光子(敬称略)の《作品》はキスマークを付けた無数のピンポン玉を円形に敷き詰め、その周りにアイロンの焦げ跡を配置してひまわりの花を思わせる形象を画面いっぱいに描いたもので、見た目の可愛さに反し、ぽんぽんと子供を産んで家事に勤める「べき」という当時の女性の苦しみを皮肉たっぷりに表現する。大画面で味わうそのあり様は旧来のジェンダー観を揺さぶるのに十分な力を持っていた。
 このように業界の風通しをよくするものとしか思えなかったアンフォルメルは、けれど次第に一種のブームとして片付けられ、アクション・ペイティングに抽象表現の座を明け渡すことになる。
 アンフォルメルの提唱者との対話を通じて運動の根底にあった西洋中心主義の考えが露呈し、辺境のお客様扱いされた日本国内で批評の流れが急速に逆転。その後、雄々しいパフォーマンスで制作過程を作品化する《アクション・ペイティング》が前景化した主体性の問題に応える形でフューチャーされ始めると「アンフォルメルは一時期の旋風に過ぎなかった」という評価が決定的になり、以降はアンフォルメルの作家として脚光を浴びていた者のほとんどが批評の主軸から外される。その作品についても、草間彌生や田中敦子といった一部の例外を除いて多くが美術館などに収蔵されることなく、歴史の影に埋もれていった。


 これらの背景を踏まえて、アンフォルメルの活動に改めてスポットを当てるのが本展の狙いであり、企画の元になった中嶋泉(敬称略)の著作『アンチ・アクション』のタイトルに込められた意味を会場内で配布する小冊子でレクチャーし、そこで得られた理解を手がかりにして実験的な作品との対話を促していく。
 その過程において鑑賞者は①作品と批評の密接な関係性や②社会の変化と評価軸の変遷、③作品保存における個人コレクターの重要性といった美術界のあれこれを学ぶことができる。ただの来館者として歩き回る以上の濃密な時間が約束されている点で、『アンチ・アクション』展は非常に優れた展示会であった。




 タイトルにある『アクション』が上記したアクション・ペイティングを意味することは言を俟たない。そこに付される『アンチ』は、けれど端的にアンフォルメルの活動を指示するのではなく、その表現の核心といえる作家の《関心》と《選択》として会場内に大きく展開していた。




 本展で紹介される芸術家の《関心》は驚くほど多岐にわたる。


 厚塗りした絵の具を引っ掻いたり、削ったりしてもなお絵画は絵画であり続けるのか。  
 擦ったり、捺したりすることで画面に起きる出来事は果たしてフォルムと色彩の区別を排し、息づく空間を生み出してくれるだろうか。
 くしゃくしゃにした和紙で画面を彩ることもできるのではないか。
 部分が全体を語り、全体が部分を生むなら。見る者の美をこそ刺激すべきか。
 幾何学的に正しい描写で、奇妙な神話を豊かに生み出す試みは?
 絵画の常識からすれば異物にしか思えない《もの》を絵画的に美しく仕上げれば、その平面において解消されるのは物質か、それとも平面という次元なのか。
 光や空気、あるいは空間といった環境的な要素を作品化することはどの程度行える?
 執拗な反復を行い、その緊密な情報で皮肉や恐怖を一緒くたに味合わせたなら。そのトラウマで人は生まれ直せるか。


 前述したとおり、アンフォルメルにおいては絵の具以外のものが材料として《選択》され、描く以外の行為も積極的に《選択》され、実験的な抽象表現が試みられる。その分かりにくさは1950年代当時にも「アンフォルメルは絵画的な限界に終息している」と評され、「旋風」扱いされる遠因にもなったが、上記したような作家の《関心》で照らし出すとその顔つきはまるで変わる。
 一般的に認識されている絵画と違い、描かれているものは何か?という部分から鑑賞を始めなければならない抽象表現にあって、物性を活かそうとするアンフォルメルは作家の《関心》の元で「作品が何をしようとしているのか?」という視点をもって鑑賞に臨める。作品を形作る質感=マチエールが情報として五感に訴えかけてくるものを自分なりに咀嚼し、その結果を再び作品に投影すれば解像度は増し、あるいは劇的な変化を遂げて今一度、作品と向き合うべき機会は訪れる。その繰り返しの中で追いつく理解と活性化するばかりの感性で想像する作家の《選択》は一つの分岐点となって、鑑賞者の地平を広げていく。


 同じ《関心》を持つけど、私ならどうするだろうか。
 この《関心》には共感できない私の《関心》は何だろう。
 このテーマに私が《関心》を持つとは思いもしなかった。
 この《関心》を押し広げたい。そのために何を、どう《選択》すれば面白いだろうか。


 個人的な《関心》事が呼び覚ます関心は、人間存在を賭けて挑んだ『アンチ・アクション』の芸術家たちを通して伝播する。その細部に刻まれる時代性、社会性はいつしか地続きとなって過去と未来を往還し、「今」という現在地を定めていく。理路整然と片付けられない問題を前にして抱く感情、理性的判断のいちいちが《わたし》の顔を深掘りし、誰にも似ない者となってその胸に鼓動を打つ。それを形にする《選択》。挑戦。実験。その全部を楽しめる人生が見過ごされることなく、東京国立近代美術館に集まったのだ。




 難しいことは何一つ要らない。
 観て、読んで、観て、感じること。それだけで本展を余す所なく堪能できる。
 『アンチ・アクション 彼女たち、それぞれの応答と挑戦』の会期は来月の2月8日まで。見逃し厳禁の超おすすめの展示会です。興味がある方は是非、東京国立近代美術館に足を運んで頂ければと思う。

『アンチ・アクション 彼女たち、それぞれの応答と挑戦』展レビュー

『アンチ・アクション 彼女たち、それぞれの応答と挑戦』展レビュー

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-01-09

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