一緒のテリトリー
この物語には、はっきりとした悪役も、わかりやすい救いも出てきません。
作品の登場人物も少なく、ネームドも2人しかいません。
どちらも間違っていて、どちらも正しかった、
その間に落ちていた時間の話です。
ここに描かれている関係は、友情と呼ぶには歪で、
依存と呼ぶには静かで、愛情と呼ぶにはあまりに言葉が足りません。
それでも確かに、
触れないことで守ろうとしたものがあり、
踏み込まなかったことで壊れなかった何かがありました。
これは、歩み寄る準備に辿り着くまでの記録です。
息を吸って、吐くように。
終わらない夢の中を歩くように。
必要なところで、ページを閉じても構いません。
【一緒のテリトリー】
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その人をよく知るためには、自分との境界線をあえて崩して関わる勇気が必要だ。
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◆もくじ
・1.ヒグマと人
・2.肉体的介入と精神的介入
・3.タイムカプセル
・4.スコップ
・5.君のハンカチーフ/僕のハンカチーフ
・6.白昼夢と
・7.有象無象の中心
・8.本の返却
・9.墓穴を掘る
・10.綴じられた箱
・11.一緒に
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1.ヒグマと人
私は昔から、執着心が人より強かった。
母親から与えられた布団を、ヨレヨレになるまで常に持ち歩いて、ただのボロ布になって母親に無理やり奪われるまで、離そうとしなかった。
私はその布団が現れるのすら気に食わず、いつしかその布団は私のよだれと汗で異臭を放っていたのに、母親に優しく言われるうちはまだ渡さなかった。
だから母親は私の手から布団を無理やり引き剥がして、水と洗剤でぐしゃぐしゃに洗って、外に晒すように干した。
今となれば杞憂に過ぎないのだが、当時の私は、あんなに素晴らしい布団が外に無防備に干されていたら、誰かに奪われてしまう!と本気で思っていたのだ。
返却されるまで、私は強く母親を憎むほどには、その布団に執着していた。
とりわけ、私は自分のテリトリーやそのものに触られたり奪われたりするのがとにかく嫌だった。
自分の部屋に入られるのも、自分のお気に入りのコップを使われるのも、自分の物が他人に触られると強い癇癪を起こして暴れ回り、両親を唸らせた。
そんな私が、人間に執着してしまったらどうなるのか、と、両親は常に不安そうに相談していた。
そんな不安とは裏腹に、幼稚園では特に大きな問題も起こさず、模範生として卒園し、一時は両親を安心させたものの、私の執着気質は小学校で本領を発揮する事になる。
かくして私は健康に育ち、気づけば小学校に入学する年頃の立派な奇人少年へと変わっていた。
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2.身体的介入と精神的不介入
小学校に入って最初に覚えた違和感は、世界が急に騒がしくなったことだった。
教室には人が多すぎて、声も音も匂いも、すべてが近く、私はそれだけで疲れてしまったのだが、周囲の子供たちはそれを当然のように受け入れて、笑ったり走ったり、平気な顔で他人の領域に踏み込んでいく。
誰かの机に勝手に触り、引き出しを開け、筆箱を覗き込み、断りもなく肩を叩く。
その一つひとつが、私には小さな侵入のように感じられて、授業よりも休み時間のほうがずっと苦痛だった。
だから私は、できるだけ端にいた。
教室の隅、廊下側の席、校庭でも人の少ない場所。
そこに、彼が来たのは偶然だったと思う。
名前を呼ばれて振り向くと、少し離れたところに立っていて、こちらに近づこうとはせず、ただ困ったように立ち尽くしている少年がいた。
「これ……落としたよ」
そう言って差し出されたのは、私の消しゴムだった。
机の脚のそばに転がっていたのを、たまたま見つけただけなのだろう。
彼は、それ以上近づかなかった。
腕を伸ばし、私が受け取れる距離をきちんと測った位置で止まっている。
私は一瞬、言葉を探した。
ありがとう、という言葉を口にする前に、妙な安心が先に来たからだ。
「……ありがとう」
そう言うと、彼は少しだけ微笑んで、すぐに視線を落とした。
満足そうでも、誇らしそうでもなく、ただ役目を終えたという顔だった。
それだけの出来事だった。
次に気づいたとき、彼は同じ班になっていた。
給食当番のときも、掃除の時間も、彼はいつも一歩引いた場所にいて、誰かにぶつかられるとすぐに身を引き、文句も言わずに笑って済ませていた。
「ルイっていうんだって」
誰かがそう教えてくれたが、本人は自分から名乗ることはなかった。
ある日、私が机の中を荒らされて癇癪を起こしたとき、教室が一瞬静まり返ったことがあった。
泣き叫ぶ私と、困惑する周囲の視線。
その中で、ルイだけが、私を見ていなかった。
床に散らばった私の物を、黙って拾い集めて、元の位置に戻している。
勝手に並べ替えることも、判断を挟むこともなく、ただ「あった場所」に戻す。
「……ここで、いい?」
そう言って、最後に私の方を見る。
まるで、私の許可がなければ完結しない作業であるかのように。
私は、はじめてそのとき、彼の顔をじっと見た。
穏やかで、感情が読み取りやすくて、でもどこか掴めない、
近づけば踏み込めそうなのに、線を越えてこない、不思議な人間。
「……うん」
そう答えると、ルイはそれ以上何も言わず、席に戻っていった。
その背中を見送りながら、私は考えていた。
この人は、私の中に入ってこない。
それなのに、ちゃんとこちらを見ている。
それが、なぜか、とても大切なことのように思えた。
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3.タイムカプセル
小学校に入って、最初の春が過ぎた頃、
クラスでタイムカプセルを埋めることになった。
校庭の端、普段は立ち入り禁止になっている場所に穴を掘って、
数年後にまた掘り返すのだと先生は言った。
「未来の自分に向けた宝物を入れましょう」
宝物、という言葉に、皆が一斉にざわついた。
消しゴムだとか、手紙だとか、絵だとか、
楽しそうに話す声が教室に広がる。
私はその輪の中にいながら、
どこにも立っていない気がしていた。
未来、という言葉が、ひどく遠い。
自分がそこに存在している前提で話されているのが、
どうにも信用ならなかった。
机の上に配られた白い紙を前にして、
私は鉛筆を持ったまま、動けずにいた。
書きたいことがないわけじゃない。
ただ、残したいものがなかった。
正確には、
誰かに見られてもいい形にできるものがなかった。
隣の席のルイは、
最初から迷いなくペンを走らせていた。
背中を丸めて、
一文字一文字、確かめるみたいに書いている。
「もう決めたの?」
私がそう聞くと、
ルイは少しだけ考えてから頷いた。
「うん。たぶん」
たぶん、という言葉が気になった。
でも、深くは聞かなかった。
私にはそこに踏み込む権利はない、自分がやられたら嫌だとわかっているから、触れなかった。
しばらく沈黙が続いたあと、
今度はルイの方から声をかけてきた。
「きみは?」
私は首を横に振った。
「……まだ」
それ以上、何も言えなかった。
言葉にしようとすると、
全部、他人のものみたいに思えてしまう。
「そっか」
ルイは、それだけ言った。
覗き込んだり、理由を聞いたりはしない。
私は、その距離感に少しだけ救われた。
ポケットに手を入れると、
指先にいつもの感触があった。
気づくと、私はそれを取り出して、
机の上に置いていた。
本当は、誰にも見せたくなかった。
埋めるなんて、論外だった。
でも、
埋めない理由も、
説明する言葉も、
見つからなかった。
紙に包んでいると、
ルイがこちらを見ずに言った。
「それ、入れるんだ」
質問じゃなかった。
確認でもなかった。
私は一瞬、手を止めてから、
小さく頷いた。
「……うん」
胸の奥が、
少しだけ軋んだ。
「いいと思うよ」
ルイは、いつもと同じ声で言った。
中身に触れない。
価値を測らない。
ただ、否定しなかった。
私はその言葉を、
許可だと思った。
外に出て、
順番に土を入れていく。
皆が笑って、
誰かが転んで、
先生が怒鳴る。
その騒がしさの中で、
私は穴の底をじっと見つめていた。
見えなくなっていく。
私のものが。
でも、ルイが隣に立っていた。
それだけで、なぜか異様に安心してしまった。
まるで今掘り返したいと私が言えば、頷いて協力してくれるような幻想が再生されて、完全に私の手から離れたとはおもわなかったから。
これでよかったのだと、思ってしまった。
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4.スコップ
学校の裏に、使われていない花壇があった。
雑草ばかりで、誰も近づかない場所。
そこを整備することになって、
何人かずつ当番で草を抜いたり、土を掘り返したりする。
その日も、私とルイは同じ班だった。
倉庫から道具を運ぶ係になって、
私は棚の一番下に立てかけられていたスコップを見つけた。
柄は少し欠けていて、
持ち手の木も黒ずんでいる。
新品より、ずっと安心する形をしていた。
「それ、重くない?」
後ろからルイが声をかけてくる。
私は首を振った。
実際、重さは気にならなかった。
それよりも、
手に馴染む感じがして、スコップの柄を何度も握りしめながら、ルイの後を着いていく。
花壇に行って、皆が適当に土を掘り始める。
大抵の場合は途中で飽きが来て、適当に花壇を均したら皆自由なことをして遊び始めていた。
その光景を見なかったわけじゃない、
それでも私は無言で、同じ場所を掘り続けた。
掘って、
均して、
また掘る。
土の下から小石が出てきて、
それを端に寄せる。
その繰り返し。
「そこ、もういいんじゃない?」
誰かが言った気もするけれど、
私にはそれは止める理由にはならなかった。
スコップを入れるたびに、
土が形を変える。
それが、
正しいことのように思えた。
「きみ、掘るの好きだね」
ルイが、少し困ったように笑って言う。
私は答えなかった。
好き、という言葉が、
何を指しているのかわからなかったから。
代わりに、
手を止めずに言った。
「埋める方が好き」
私がそう言うと、ルイは一瞬、何か言いかけてから、やめた。
そして、私の横にしゃがみ込んで、
同じように土を触り始めた。
「そうかもね」
否定しない。
やっぱり、しない。
それが、
嬉しいのか、
怖いのか、
私はまだ判断できなかった。
「僕も」
そうとだけ言うと、ルイは黙って手に持ったシャベルを地面に突き刺した、ほぐれた土に深く突き刺さった。
私がただ深く掘って、埋めて、硬くなった土を解すだけの、意味の感じられない行動。
でもそれを誰も咎めず、誰も気にしなかった。
しばらくすれば、休憩時間になって、
皆が各々好きなところに四散する。
周りの人が離れていくのを横目に、私は広げた穴に土を戻していく、自分で開けた穴を、自分で埋め立てていく。
やっと周囲の地面と均等になったと思えば、
私はスコップを地面に突き立てて、
それをじっと見ていた。
立っている。
倒れない。
私がほぐした土に、
私が埋めた地面に、
私が使ったスコップがある。
ただそれだけの事実、でもすごく安心した。
「置いていこう」
横からルイが言う。
私のこの意味のない行動を、否定するでも、協力するでもなく、彼は横でそれを見ていた。
私はその言葉に頷いて、
でも、少しだけ名残惜しくて、
柄に触れた。
「また使うよ」
ルイはそう言って、
軽く微笑んだ。
また。
その言葉が、
胸の奥に残った。
この道具は、
ここにある。
きっといつか触ることになる、私以外の誰かが、これに、そうして私が作った均等も、掘り返してぐちゃぐちゃにされる。
そのまた、の時には、このスコップはまだ私が使ったスコップなのだろうか。
また、は、実際のところ同じものの再映ではない。
そうわかってしまったからこそ、ルイの言葉を反芻して、行き場のないこの苦しみに近い言葉を飲み込んだ。
そういうことじゃない。
でも、言わないほうがずっと楽だと思った。
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5.君のハンカチーフ
ルイは、いつの間にか、私の家によく来るようになっていた。
最初は宿題を一緒にやるためだったはずで、次は忘れ物を届けに来ただけで、その次からは特に理由らしい理由もなく、放課後になると当たり前のように玄関に立っているようになったのだが、それを不自然だと思う前に、私はもうその光景に慣れてしまっていた。
両親はルイのことを気に入っていた。
礼儀正しく、よく手伝いをして、何を頼んでも嫌な顔ひとつせず、声を荒げることもなければ文句を言うこともない、そういう「いい子」だったからだ。
「ほんとにいい子ね」
そう言われるたびに、私は曖昧に頷きながら、胸の奥に薄く引っかかるものを感じていたが、それが何なのかを考えるほどの余裕はなかった。
ルイは、私の部屋に入るとき、必ず一度立ち止まる。
ノックをして、扉を開ける前に少しだけ間を置いてから、「入っていい?」と確認するその仕草は、最初から最後まで変わることがなく、私はただ頷くだけで、彼はその合図を待ってから一歩踏み込む。
勝手に触らないし、勝手に座らない。
私が許した場所にだけ、私がいいと言った分だけ、正確に存在する。
それが、とても心地よかった。
机の上が散らかっていると、何も言わずに端へ寄せ、床に物が落ちていれば拾って私の手に戻すが、決して元の位置を変えたり、勝手に判断したりはしない。
「そこに置いといて」
私がそう言えば、必ずその通りにする。
違う場所に置かれることは、一度もなかった。
「ありがとう」
そう口にすると、ルイは少しだけ嬉しそうに笑うのだが、その笑顔が、なぜか私には不思議に見えた。
私は何も与えていない。
感謝されるようなことを、何一つしていない。
私はただ自分のテリトリーを乱されたくなくて、彼に許可という名の誓約で縛り付けているだけだ。
なのになんで、そんなに嬉しそうにするのだろう。
ある日、私のコップを倒してしまったことがあった。
中身がこぼれて床に広がるのを見た瞬間、反射的に胸が詰まり、言葉が出るよりも早く、いつもの嫌な感覚が喉元までせり上がってきたのだが、声を荒げるより先に、ルイが動いた。
「ごめん」
そう言って、自分のハンカチで床を拭き始める。
私の物なのに。
私の部屋なのに。
本当なら、私がやるべきなのに。
「いいよ」
そう言うと、ルイはぴたりと手を止めて、まるで正解を確認するみたいに「……いい?」と聞いてきた。
私はもう一度承諾するように頷いた。
それで、終わりだった。
何も壊れなかったし、何も奪われなかった。
怒鳴る必要も、暴れる必要も、どこにもなかった。
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0.僕のハンカチーフ
コップが倒れた瞬間、
彼の顔色が変わったのがわかった。
あ、まずい、と思った。
怒鳴られるとか、責められるとかじゃない。
何にも例えられない、そう言う曖昧な。
彼が、内側に引っ込んでしまう、あの感じ。
だから、考える前に体が動いた。
「ごめん」
理由なんて、どうでもよかった。
とにかく、先に謝る、彼のテリトリーの輪郭を乱さないように、言葉でそれを整える。
自分のハンカチを取り出して、床に膝をついて、
液体を吸い込ませるように拭きながら、
呼吸を合わせる。
大丈夫。まだ、間に合う。
彼が何も言わないのが、
一番怖かった。
「いいよ」
そう言われたとき、
胸の奥が、ほっと緩んだ。
でも、
本当にいいのかは、わからなかった。
だから、聞いた。
「……いい?」
彼は頷いた。
それ以上、何も言わなかった。
成功だ、と思った。
今回も、うまくやれた。
壊さなかった。
怒らせなかった。
拒絶されなかった。
でも、
心のどこかで、
引っかかっていた。
彼は、何も言わない。
何も要求しない。
それが、
安心なのか、
諦めなのか、
僕にはわからない。
踏み込まなかった。
それが正解だと、自分に言い聞かせた。
でももし、あのときに、
「拭くのは一緒にやろう」と言っていたら。
彼は、どんな顔をしただろう。
考えるのをやめて、ハンカチを畳む。
次も、きっと、同じようにする。
それがきっと、彼にとって1番
怖くない行為であると思うから。
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6.白昼夢と
彼は、私を肯定する、どこまでも、どこまでも。
私は彼と山中を訪れた、壊してしまった全てを、そこから消し去ってしまうために、埋めてしまうために。
山道をおぼつかない足取りで歩み、ふら、ふら、と、息が上がって、どうにかなってしまいそうな私の手を、ルイの細くて柔らかな手が繋ぎ止める。
暖かい、そう思う、そう思うと強く安心する。
私には彼がいる、こんな状況になっても、ずっと。
彼は私を責めない、何をしても、絶対に。
それが、どこまでも優しいような気がして、どこまでも、深くて、暗い。
私には君が何を考えてるかわからない、なにも、わからない。
暗い山道に歩みを進めて数十分、少し開けた場所に出ると足場もかなり安定してきた、ここら辺ならちょうどいいかもしれないと、私が立ち止まる。
「ここでいいの?」
ルイが振り向いて私にそう言う、重たいスコップが私の後ろ髪を引くように少しずつ重量を増す気がして、実のところもうこれ以上歩く気力がなかった。
ルイだって重いはずなのに、なんでいつもみたいに優しい笑顔を浮かべるのだろう。
自分の中で考える、考えてしまう、いつも変わらないその肯定と笑顔の先に、君は一体私をどう思っているか、わからない。
彼は何があっても私を肯定した、そして協力した、まるで私がやることは全てが正しいと言われているようや優越感が私を満たす、満たして、満たして、逃げ場がない肯定が私の心を壊していく
そうだ、そうなんだ。
私は彼がたまらなく好きなのと同時に、堪らなく怖いんだ、優しさだけで人を破壊してしまうようなその人柄が。
わかってしまった、わかってしまった。
息が上がる、頭が熱くて、冷たい。
私を肯定してくれる存在が、いなくなるような感覚がして、指先が震える。
酷く優しい笑顔が網膜にこびりついて取れない
鳴り止まない警鐘と、苛つきの行き場を失って、口から嗚咽にもならない単語がぽつぽつと溢れ出る。
「だめだ、落ち着かない、落ち着かせないと、落ち着かせないと……」
ただ、そう思って。
私はスコップを振りかぶると、徐に自分の頭に打ちつけた。
「大丈夫?」
気づけば、こわばって立ちすくむ私の顔色を伺うように、ルイが私を覗き込んでいるのが見える。
息が上がる、冷や汗が止まらない、頭が痛い。
私はどうやら白昼夢に当てられていたらしい。
彼の言葉に返事をする余裕がなく、ただ荒い呼吸を繰り返して、立ち尽くしていると、また声がかかる。
「嫌なものでも見たの?」
質問が来た。
私に対して、彼から。
肯定でも否定でもない、私を聞くための言葉。
夢は、その人の潜在意識の投影だと言われる、私は私が思うよりも疲れていたみたいで、彼とどんな秘密でも、どんな苦しみでも共有して、どこまでも堕ちていく事を心のどこかで望んでいる。
先程の悪夢のようなものを整理すると、きっとそう。
そう感じてしまうことが怖かった、だから、言えなかった。
胸の奥がジリジリと痛い、自分の中にある、自分の感情という物を、言葉にして仕舞えば、奪われてしまうような、なくなってしまうような気がして、言えなかった。
黙り込む私の背中に、彼は手を添えて、やさしく摩る、やさしく、宥めるように、握られた拳に爪が食い込んで、血が出そうなほど動揺している私に。
「無理しなくていいよ」
いつもみたいに彼はそう言う、そう言った。
質問は、私に投げかけられた好奇心の縄は、知らぬ間に引かれていた。
いつもなら安心するその言葉に、今だけ、
確かにその言葉より先に言えば良かったという後悔と、冷え切った体に伝わる温かい手の温度が残響する。
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7.有象無象の中心
私達が小学校に入学して、3回四季が巡った。
今年から四年生になる春、私とルイはクラスが別になった。
それは、特別な出来事ではなかった。
名簿の順番が変わり、教室の位置が変わり、机に貼られた名前が違うだけの、よくある年度替わりの一つだった。
廊下ですれ違えば手を振る距離で、校庭に出れば同じ空の下にいて、帰り道だって完全に分かれてしまうわけじゃない。
だから私は、その変化を「問題」として認識しなかった。
ルイも、特に何も言わなかった。
「いつも一緒だったのに、同じクラスじゃなくなったね」と誰かに言われれば、少し困ったように笑って、「そうだね」と答えるだけで、それ以上でも以下でもない反応をする。
それが、いつも通りだった。
ただ、少しずつ、視界に入る光景が変わった。
休み時間、廊下の向こう側で立ち止まって話しているルイの隣に、私の知らない誰かがいる。
背丈はルイと同じくらいで、声はよく通り、身振りが大きくて、ルイの言葉に過剰なほど頷いている。
最初は、気に留めなかった。
クラスが違えば、友達が増えるのは当たり前だ。
けれど、その「当たり前」が、私の中でいつまでも定着しなかった。
その人物は、ルイの話を聞くとき、ほんの少しだけ体を傾ける。
相槌は早く、褒め言葉を惜しまない。
「すごいね」「やさしいね」「ルイがいてくれて助かったよ」
その言葉の一つひとつが、私にはひどく聞き慣れた音に思えた。
ああ、同じだ。
同じだけど、違う。
それの名前は、最後まで聞こえなかった。
というより、聞こうとしなかった。
私にとって、その人は人物ではなく、役割だったからだ。
尽くされることを、受け取ることを、肯定されることを、疑問に思わない人。
ルイの「踏み込まなさ」を、優しさとして受け取り、それを当然のように享受して、同じぐらいの優しさを返してやれる人。
ルイは、変わらない。
距離を測り、相手の顔色を読み、線を越えない場所で立ち止まり、必要な言葉だけを差し出す。
それを受け取る相手が、私でなくなっただけだ。
そう理解した瞬間、胸の奥で何かが、静かに歪んだ。
放課後、校庭の端で一人座っていると、遠くでルイが誰かに呼ばれる声が聞こえる。
振り向いた彼が、私に気づかず、そのまま走っていく。
呼び止めなかった、呼び止められなかった。
理由は単純で、呼ぶ資格があるのかどうか、わからなかったからだ。
私とルイは、何も約束していない。
独占していいと言われた覚えも、離れないと言われた覚えもない。
それなのに、私は、確かに思ってしまっていた。
それは、私の場所だった。
彼が立つ位置も、向ける視線も、差し出す言葉も。
全部、ずっと、私のテリトリーの縁にあったものだと。
誰にも触らせたくなかった。
でも、私は一度も、それを言葉にしていない。
その日の帰り道、靴箱の前で、ルイとその人物が並んで話しているのを見た。
ルイは笑っていて、相手も楽しそうで、そこに不自然なところは一つもなかった。
ただ一つ、違ったのは。
ルイが、その人の前では、ほんの少しだけ、踏み込みを許しているように見えたことだ。
距離が、近い。
視線が、長い。
声のトーンが、柔らかい。
私の中で、何かが確かに崩れた。
私は、自分が思っていた以上に、ルイの「変わらなさ」に依存していたのだと、そのとき初めて自覚した。
彼が誰に対しても同じであること。
誰も特別扱いしないこと。
それが、私にとっての安全装置だった。
でも、同時に私もその装置の一部であるという事実に、強く打ちひしがれる感覚を覚えていたのだと思う。
なのに今、彼は、私以外の誰かの中心に立っている。
有象無象の中心に、彼はなるべくしてなる人なのだ。
彼はそういう、誰にでも手を差し伸べる人で。
先ほどまで、私がそうであっただけで。
それは、彼が選んだわけでも、私を捨てたわけでもない。
ただ、人が集まり、求められ、応じただけの結果だった。
わかっている。
わかっているのに、胸の奥がざらついて、息の仕方を忘れそうになる。
私は、その場から目を逸らして、ゆっくりと上履きの端を踵で踏みつける。
私の癖で潰れてしまった私の靴の形を、何度も確かめるように。
奪われたわけじゃない。
壊されたわけでもない。
それでも、確かに、私の中で何かが欠け始めていた。
埋めなければ。
そう思った理由は、自分でもよくわからなかった。
ただ、空いた場所を、そのままにしておくのが、当時の語彙では表せない感情でぐちゃぐちゃになっていた。
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8.本の返却
ルイと別のクラスになってから、しばらく経って、外に立つだけでじんわりと汗が滲む季節になってきた。
当時私は本を読むのに時間を費やしていた。
学校の図書室というのは案外落ち着く物で、さまざまな本があって飽きなかった、クラスにいても話が合う人がいない私にとって、図書館は救いだった。
中でも私は主人公の1人視点で描かれるような話が好きだった、その中に没頭して、私もその主人公のようにたくさんの人に囲まれて生きている気持ちに浸れるから、好きだった。
私の執着気質は、その頃には息を潜めていて、本を借りて、返す、その行為に対して全く苛立たない程には落ち着いていた。
図書室にいると、廊下をさまざまな学年の子が通りかかったり、かくれんぼや遊びのステージとして利用してくることがある、だからいろんな人と出会う。
私はそれに声をかけたり、遊びに混ざることこそなかったけれど、このただ1人の虚しいテリトリーの中に別の人が時折エキストラのように介入することに対しては少し楽しいと思っていた。
当然、その中にルイが来たこともあっただろう。
でも、私はそれを気には止めなかった。
私は次第にルイから目を逸らすように、目を合わせないように、出会わないように、気にしないようにした。
決して彼が嫌いになったわけじゃない。
ただ、邪魔をしたくなかった。
ルイが私に必要以上に介入しなかったように、私も彼に必要以上に交わるべきではないと思ったから。
意趣返しなどではない、と、思う。
断言はできない、あの日から私は彼に対する感情や想いや思考を全て置いてきてしまったから、よくわからない。
授業を受けて、昼を食べて、図書室へ行き、本を借りて、読み終えたら返す。
それだけの生活は、拍子抜けするほど整っていて、心を掻き乱すものがほとんどなかった。
友達はいなかった。
けれど、それを欠落だと思うこともなかった。
話し相手がいないことに慣れたというより、最初から、そこに席を用意していなかった。
ルイの為にあった場所は、そのまま空いていて、誰かを座らせようとも思わなかった。
作ろうと思えば、作れたのかもしれない。
クラスにいれば、話しかけてくる人もいたし、同じ本を読んでいる子もいた。
でも、そのどれもが、ひどく遠回りに感じられた。
ルイ以上でも、同等でもない関係を、時間をかけて育てる意味が、私には見つからなかった。
だから私は、本を読んだ。
一人称の文章の中で、主人公が誰かに必要とされ、理解され、求められている世界に身を沈める。
それは空想だったけれど、現実よりも静かで、余計な摩擦がなかった。
ページをめくる音だけが、私のテリトリーを侵さずに存在してくれた。
返却期限が近づくと、私は本を閉じ、カウンターへ向かう。
司書の先生に名前を告げ、カードを差し出し、無言で受け取る。
その途中、誰かが私の名前を呼んだ気がしたことが、何度かあった。
振り向かなかった。
聞き間違いだと思った。
あるいは、気のせいだと処理した。
名前は、呼ばれたからといって、必ずしも応じなければならないものではない。
図書室の入り口で、誰かとすれ違った記憶も、曖昧に残っている。
柔らかい声、立ち止まりかけた気配、こちらを気にする視線。
けれど、それらはすべて、本を閉じたあとには霧散していた。
私は意識的に忘れていたわけじゃない。
ただ、記憶として留める必要を感じなかった。
必要なものは、手の中にある本だけだった。
ある日、返却棚に本を戻そうとして、背後から近づく足音を感じた。
一定の距離で止まり、踏み込まず、声をかけるには少しだけ近すぎる位置。
懐かしい距離感だった。
でも、私は振り向かなかった。
棚に本を差し込み、背表紙がきちんと揃っているかを確認する。
それだけで、十分だった。
「……それ、面白かった?」
そう聞かれたような気がした。
質問だったのか、独り言だったのかも、判別がつかなかった。
私は少し考えてから、肩をすくめた。
「普通」
声に出したのかどうかも、覚えていない。
返却手続きを終え、図書室を出ると、廊下の空気は少し湿っていた。
夏が近づいている証拠だった。
私は歩きながら思う。
ルイは、きっと今も変わらない。
誰かの話を聞き、誰かに尽くし、誰かのテリトリーを壊さない。
そして、もし彼が、私に何かを差し出していたとしても。
声をかけ、視線を向け、距離を測っていたとしても。
私はそれを、拾い上げない。
気づかなかったことにする。
覚えていないことにする。
それが、私なりの均衡だった。
私は彼から離れたわけじゃない。
ただ、手を伸ばさなかっただけだ。
心のどこかで、今でも思っている。
いつかまた、私のためだけに…なんて。
でも、その思考は、言葉になる前に沈める。
浮上させない。名前を与えない。
本を借りて、返すように。
感情も、手に取らず、棚に戻す。
そうやって私は、今日も一人で、静かな通路を歩いている。
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9.墓穴を掘る
四年生の冬、一年生の頃から担任だった先生が事情があって転勤するということで、あの時埋めたタイムカプセルを忘れる前に掘り返すことになった。
意外と早いな、と思って、私も当然それには参加するつもりだった。
だって私のものなのだから、他の人に渡すわけにはいかない、執着心は薄れたとは思うが、それだけは譲れなかった。
掘り返すと言われた日の朝
空気は澄んでいて、すごく寒かった。
指先、足先、いや、体全身の震えが止まらない。
寒い、凄く、寒い。
これは異常だとすぐにわかった、風邪とか、そういうものじゃなく、多分、自分からルイがいるかもしれないところに立ち会うのが、今になって怖くなった。
他にも色々あったとは思うが、真っ先に脳裏を掠めたのはそれだった。
胸の奥が、嫌にざわついていた。
理由を一つずつ数え上げれば、きっと些細なことばかりだったはずなのに、それらが重なり合って、布団の中から起き上がれないほどの重さになっていた。
学校を休む、という選択肢は、私にとって珍しいものだった。
行くべき場所には行くし、やるべきことはやる。
それが私の、世界と折り合いをつける方法だったからだ。
それでも、その日は駄目だった。
もし、そこにルイがいたら。
もし、何事もなかったように話しかけられたら。
もし、私が気づかないふりを続けてきた三年分の空白を、当然のように埋められてしまったら。
そう考えた瞬間、呼吸が浅くなった。
私は布団を被り直し、天井を見ないように目を閉じた。
行かなければ、起こらない。
会わなければ、乱されない。
そうやって、私は逃げた。
翌日、何事もなかったように学校へ行った。
タイムカプセルのことは、すでに終わった出来事として処理されたらしく、教室はいつも通りの騒がしさだった。
私は、朝の会が終わるのを待って、担任の先生のところへ向かった。
「先生、タイムカプセルの……僕の分を受け取りに来ました」
自分の声が、少しだけ硬いのがわかった。
先生は名簿を確認してから、首を傾げた。
「あなたの分は、なかったのよ」
一瞬、意味が理解できなかった。
「……ない、って?」
「昨日、掘り返したときにね、あなたのものだけ見当たらなかったの。
入れ忘れたんじゃないかって話になって」
教室の音が、遠くなる。
入れ忘れるはずがない。
埋めた。
確かに。
あの時、私は。
「そんなはず、ないです」
声が、思ったよりも大きくなった。
「絶対に、入れました」
先生は少し困った顔をして、なだめるように言った。
「落ち着いて。後で、もう一度確認するから」
でも、その言葉は、私には届かなかった。
私の中で、ずっと眠っていたものが、急激に目を覚ましたのがわかった。
誰かが、私のものに触った。
誰かが、私のものを奪った。
誰かが、私の知らないところで、私の大切なものを持っている。
それだけで、視界が歪んだ。
「返してください」
気づけば、私は叫んでいた。
「僕のだから! 僕のものなんです!」
教室が静まり返り、誰かが私の名前を呼び、誰かが止めようと近づいてくる。
でも、それすらも、侵入にしか感じられなかった。
触らないで。
近づかないで。
奪わないで。
とにかく近づいてくる周囲の手を、声を、全て叩き落として、手を振るって、声を荒げた。
みっともない私の掠れた咆哮が、周囲を乱していく。
腕を掴まれた瞬間、反射的に振り払おうとした。
その手は、私を引き止めなかった。
むしろ、迷いなく引いた。
「こっち」
低い声。
短い言葉。
私は抵抗する暇もなく、廊下へ引きずられるように連れ出された。
先生の声も、周囲のざわめきも、遠ざかっていく。
花壇の前で、足が止まった。
あの場所。
使われなくなった、あの土。
息が荒くて、何も考えられなかった。
ただ、腕を掴んでいるその人の存在だけが、異様に現実感を持っていた。
「離して」
そう言ったつもりだったが、声になっていたかはわからない。
その人は、私の前に回り込み、ポケットから何かを取り出した。
「これ」
差し出されたものを見た瞬間、胸が詰まった。
見覚えがありすぎた。
古びた布の塊、端がほつれて、色も褪せて、それでも間違えようのない感触。
私の、私の最初の、大事な物。
「……なんで」
そこで、ようやく顔を見る。
穏やかで、少し困ったような、変わらない表情。
「…ルイ」
名前を呼んだ途端、その言葉がすごく口に馴染んだ。
久しぶりに発した、久しぶりに見た。
そのはずなのになんだか、すごく安心して。
「預かってた」
彼はそう言った。
「昨日、掘り返したときに。
君、来なかったから」
責める声じゃなかった。
説明する声だった。
「勝手に触ったのは、悪かったと思ってる。
でも、先生に渡すのは違う気がして」
私は、何も言えなかった。
怒るべきだったのかもしれない。
勝手に触るなと、奪うなと、判断するなと、叫ぶべきだったのかもしれない。
でも、それを受け取った瞬間、指先に馴染む感触がすべてを押し流した。
「…返ってきた」
それだけが、現実だった。
「また埋める?」
ルイが、静かに聞く。
私は、首を振った。
「……持ってる」
短く、そう答えた。
彼は、それ以上何も言わなかった。
いつも通り、踏み込まなかった。
それが、少しだけ、前よりも苦しかった。
私は、自分で掘った墓穴から、ようやく顔を出したのだと、後になってから思った。
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10.綴じられた箱
布切れが返ってきてから、私はそれを特別な場所には置かなかった。
机の引き出しの奥でも、箱の底でもなく、読みかけの本の間に挟んで、そのままにしていた。
大切にしすぎると、また同じことを繰り返す気がしたからだ。
ルイと会っていなかった四年生の一年間、私はひどく荒れていたわけではない。
癇癪も減り、感情は角を落として、ただ無関心に近い形へと変質していった。
友達がいないことにも、特に理由をつけなくなった。
作れないのではなく、作らない、という選択をしているつもりでいた。
それでも、心の奥では、今でもふと思う。
もしも、また私のためだけに尽くしてくれるなら。
もしも、私を最優先にしてくれるなら。
その思考は、言葉になる前に自分で押し潰した。
欲しいと自覚してしまえば、取り返しがつかなくなるとわかっていたから。
一方で、ルイは違った。
彼は、誰かに必要とされることを、拒まなかった。
私と距離を置いていた一年間も、彼は誰かの隣に立って、誰かの話を聞き、誰かのために時間を使っていた。
それが悪いことだとは思えない。
でも、それを見てしまった私の中で、整理できない感情が静かに積もっていった。
ルイは、私に踏み込まなかった。
私は、ルイから目を逸らした。
互いに正しい距離を選んだ結果、何も起こらなかった一年間だった。
だから今も、気持ちは箱に入ったままだ。
蓋は閉じているが、鍵はかかっていない。
整理されたわけでも、捨てられたわけでもない。
ただ、そこにある。
だから、いつでも開けれる。
今でも、開けれる。
私は、その時、開けるべきだと思った。
「君が、僕以外の人とすごく親しくしているのを見て、悲しかった」
そう、紙に書いて。
そっと彼の机に差し込んだ。
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11.一緒に
僕が彼にタイムカプセルの中身を手渡した日。
その日から彼は学校に来なくなって、姿も見せなくなった。
でも、その代わりというように、僕の机に短文が書かれた紙が入ってて、それを読んで、彼の気持ちを知った、だから、言わなきゃいけないことがあると思った。
家に行けば会えたのだろうけど、なんだか違う気がして、僕は彼が車でずっと、休み時間はあの花壇で待っていた。
ずっと来ない、待っても来ない。
段々それがわかりつつあった、でも、この関係値のまままた離れてしまうのは良くないと思った。
違う、多分、僕が嫌だった。
さく、さく、と霜のついた地面を踏みながら、ゆっくりと歩み寄る音がする。
顔を上げれば、久しぶりに見た彼がそこにいた。
そうして花壇に訪れた彼は前よりも静かだった。
怒っているようでも、責めているようでもなくて、ただ、必要以上に何も言わない。
それが、余計に怖かった。
だから、僕は話し始めた。
ゆっくりで、途切れ途切れで、上手じゃなかったと思う。
「……話したい事があってさ」
それを聞くと、彼は何も言わず、視線だけをこちらに向けた。
それだけで、続きを話していいと許された気がした。
「僕ね?」
息を飲む、続きは考えてある、でも、やっぱり話すのが怖かった、黙り込んだまま僕を見つめるその視線が、いつもよりずっと深く刺してくるようで、寒くなる。
視線を暫く彷徨わせた後、ぽつり、ぽつりと口にする。
「君といると、安心してた。
求めすぎない、言葉にしない、みたいなのが、暖かくて、居てもいいんだって思って」
言葉を探しながら、ひとつずつ並べる。
「でも、それを言ったら、君が重く感じるんじゃないかって思ってた。
だから、僕は君に合わせる方を選んだ」
彼の指先が、ほんの少しだけ動いた。
「尽くしてるつもりだったけど、実際は、考えるのをやめてただけだったのかもしれない」
それでも、彼は黙ったままだった。
逃げなかった。
「君が悲しかったって、言葉じゃなくても、伝えてくれて、それを聞けて、正直、少し安心した」
自分でも意外だったけど、本当だった。
彼から歩み寄る行動を起こしてくれたことが、たまらなく嬉しかった。
「僕が誰にでも同じだって思われてたなら、
それは、ちゃんと違うって言わなきゃいけなかった」
ここで初めて、僕は彼の方を見た。
「君といる方が、僕は楽だった。
安心できた。だから、必要以上に関わって、全部壊したくなかったんだ。」
長い沈黙が落ちる。
言い切った、でも、結論は出てない、これはただの前座、今まで空いた距離を縮めるための。
「この先、どう関わるのが正解とか、正直わからない」
それは逃げじゃなくて、事実だった。
だから、僕は手を伸ばした。
引っ張るんじゃなくて、選んでもらう距離で。
「じゃあさ」
声は、思っていたよりも落ち着いていた。
互いに1人でやるんじゃなくて、それよりももっといい方法があるんだ。
わかってる、押し殺した言葉を、引き出して、並べて、口を開く。
「一緒に考えよう、カナタ。」
彼の手は、すぐには動かなかった。
でも、拒まれもしなかった。
そんな彼の表情が、わずかに微笑んでいたから。
それで十分だった。
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一緒のテリトリー
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
この物語は、
「わかり合えたから救われた話」でも、
「すれ違ったから壊れた話」でもありません。
わかり合えなかった部分を、
それでも一緒に抱え直すことを選んだ、
その一瞬を書きたかった。そんな作品です。
ルイは、完全に自由に、自主的になったわけではありません。
カナタもまた、全てに触られることを許したわけではありません。
それでも二人は、これまでよりほんの少しだけ、同じ場所に立っています。
一緒にやろうか、とあの時言えなかった言葉は、
過去を取り消す魔法ではなく、これからを考えるための、ただの提案です。
この物語が、
誰かにとって、あの時歩み寄った自分を思い出す、人のために自分を崩しても歩み寄れる心のきっかけになれたら幸いです。